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十九世紀における   インドの鉄道について

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(1)

十九世紀における

   インドの鉄道について

       一−その建設と発展過程i⁝︐

一︑序二︑鉄道建設への背景

三︑鉄道建設とその発展過程

四︑鉄道建設の影響

五︑結  語一以  上一

一 序

 交通の発達は︑社会文明並びに産業の発達を条件づけるものであると言われる︒確かに︑新しい交通機関の出現が

経済社会の構造に根本的な変化をもたらした事は︑見逃し得ない事実である︒十九世紀に起った交通革命は︑世界を

一つの市場に変え︑又旧い経済単位が新しいそれにとって代られる様な事態をもたらした︒その事はインドにおいて

   十九世紀におけるインドの鉄道について ︑      八一

(2)

   研究 年報             ︑    八二

も例外ではない︒

 十九世紀の五十年代以降︑特に鉄道の出現による交通組織の大発展は︑一定地域以外の活動を好まず︑自給自足経

済を標榜する孤立的村落共同体を中心とせるインドの旧い経済社会の構造に激しい衝撃を与え︑新しい経済社会への

脱皮を急速に実現せしむる事となった︒

 農業を中心とし︑極めて非産業的であったインド経済社会に︑農業の商業化をもたらし︑国内通商を活淡ならし

め︑又インドの原料市場と原料供給をより海外に接近せしめ︑産業及通商に大きな変化をもたらし︑かつ工業社会の

組織を惹起せしめた最も重要な要素は︑交通の発達であったと言っても決して過言ではない︒斯る意味から︑インド

経済社会の変遷発展を︑鉄道の発展過程を中心として見る事は極めて興味深いものがある︒

 インドにおける鉄道の発展過程は︑近世インド発展の歴史が英国のインド支配に特徴づけられる事から︑所謂︑典

型的な植民地鉄道発展の歴史を示すものであるが︑此の意味から十九世紀におけるインド鉄道の発展は︑その特徴を

最も良く物語るものと言い得るであらう︒

 本論文は︑直接的には軍事上商業上の目的と飢餓救済という目的から︑間接的には産業革命のもたらした英国産業

構造の変革の影響により出現したインド鉄道の建設及経営の発展過程を中心に︑鉄道発達史の一考察として十九世紀

における鉄道の特徴を究明せんとするものである︒インド鉄道発達史を研究する場合︑もとより十九世紀における発

展過程のみを取扱う事は充分ではないが︑現在のインド鉄道が︑二〇世紀初頭において一応完成の域に達したとみち

れている事から︑十九世紀の発展過程を中心論題とした︒

(3)

 十九世紀におけるインド鉄道の歴史は︑決して順調な道をたどったわけではなく︑インド経済の貧困と植民地とい

う特殊事情及び地理的悪条件は︑インド鉄道を容易に発展せしめず︑むしろ障害となる要素を多分に持っていたが︑

之等の障害を克服するためにとられた様々な政策は︑鉄道発展のためにとられた特徴ある政策としてよヶ興味みるも

のであり︑従って約半世紀に及ぶインド鉄道の発展過程を︑嬉嬉特徴ある政策に基礎を置き三つの時期に分けて考察

した︒       二鉄道建覧設への背景

 1 鉄道建設以前の交通事情

      ヂ 十九世紀の中頃において︑初めて鉄道の開通を見るまでのインドにおける交通事情が︑極めて未発達な状態にあっ

た事は︑当時のインドの社会事情からすれば想像に難くない︒

 〃当時のインドは︑極めて知的でかつ裕福な人々の住み得る国では決してなく︑道路は少く旅行は極めて困難であ

った︒商品の大部分は︑莫大な費用で︑人間か牛や馬︑せいぜい牛車によってわずかに国内を運び得たにすぎず︑画

集の動物達は︑屡々荷物の重圧に押潰され︑彼等の白骨化した残骸は︑旅行者の道標として運搬路に置かれ︑動物達

の災害は芒かった・尋言三量器られる如文当時の東之殆んど原始的方法である動物義牛里小型の

川舟及沿岸用帆船に依り行われていた︒陸上輸送の根幹たる道路の事情は著しく悪く︑道路の建設は勿論の事︑既設

の道路の修理維.持も殆んど行われず︑むしろ悲惨の状態に近いものであった︒従って僅かに残された重要な通商のた

   十九世紀におけるインドの鉄道について       八三

(4)

   研 究 年報      八四       註2めの交通路は︑河川航行であったが︑しかも之等の輸送は極めて遅くかつ危険であり︑その上︑乾期においては比較       り的容易に行われる輸送も︑雨期に入ると河川は氾濫し︑道路は泥庫と化すため︑大部分は停止の状態に陥るのが普通     註3であった︒

 長年に渉って所謂ターンパイク道路︵定流も碍Φ目8Q︶の建設及び組織化を促進し︑既に近代的道路の先駆たるマ

カダム・テルフォード道路︵竃塑O岱戸戸一昌 讐鐙傷 ハ﹃①一︵O円q 目O国α︶の出現を見つ\あった英国や欧州諸国に比して︑斯るイ

ンドの交通事情は︑余りにも未開発であったと言い得るであらう︒統一的国家組織を持たず︑言語・宗教及文化の程

度を異にした様々の人種及種族からなる一群の国家に依る地理的な領域にすぎず︑又内向的な古い慣習や因習に支配

せられ︑一定限度の地域を越えて活動し様とする事を欲しなかった諸事情は︑交通組織を斯る未開発のま︑放置した

のは当然であろうが︑しかしモグール帝国︵蜜︒σqげ三︶の崩壊後︑新しい経済体制の出現により交通組織の発展を望

みつ\も︑多くの藩王国による独自の政治と抗争は之を阻み︑又先進諸国によるインドにおける植民地争奪のための

抗争は︑交通組織の強化発展をより困難ならしめたものと言い得るであらう︒二︑三の藩王国においては︑通信や通

商のために道路が建設せられていたが︑それとても少数の例外を除いて当時における近代的な意味の道路ではなかっ

たし︑他の多くの施政者達は︑公衆の利益や通商の発展のために意を用いる事は殆んどなく︑建設せられた道路すら

未利用による放置と戦乱による破壊のために︑交通路としては程遠いものであった︒此の様な交通組織の未開発は︑

当時インドにおいて繋る地方ではあり余る農産物を有しながら︑他の地方では悲惨な大飢饅に見舞われ︑輸送方法が

無い為に之等の飢饒を救済し得ない事が普通であった事からしても知る事が出来得よう︒以上の如き諸事情を考慮す

(5)

る時㌔当事のインドに蒔いては交通組織の建設改善のための経済暴動は不可能に近く︑道路の建設維持や新しい近代

交通機関の導入が行われなかったのも当然と言い得る︒

 十七世紀における植民地抗争の末︑次第にインドにおける支配権を確立しつ\あった東インド会社をはじめとする

英国の支配者達は︑政治的権力の伸長やその支配領域の拡大に伴い︑改良せられた通信手段及び道路の必要性を認

め︑早くには一七八五年︑ワーレン・ハスチングス︵ξ︒︒霞雪笛器江轟ω︶によりカルカッタ︵O舘︒旨富︶から北西部

地域に通ずる大幹線道路︵Ω曇邑門霊亀麺︒・︒α︶の建設がはじめられ︑それ等の一部は藩王国の支配者によっても建

設せられたが成果をみるに至らず︑又一方︑軍事用道路も建設せられたが︑之等の多くは軍事上の利便のためにのみ

用いられ︑緊急の目的を達した後は︑そのま㌧放置せられていた︒

 十九世紀の初葉に至り︑︑インドにおける英国の支配権が漸く安定するに及び︑施政者は政治上の必要性と大聖鯉の

救済のために︑交通組織の建設改善と分厚のための運河の建設に力を注ぎはじめた︒

 英国政府の統治下における公共道路建設に関する改革的な計画は︑一八二八年ベンチインク卿︵門霞α≦一=富B

葡①州琴芝渥︶によりはじめられ︑印譜〇年の間に三五〇万ポンドの費用により︑英領柔ンド内に約三万哩の種々な道路      註4を建設する計画が進められたが︑一部分の完成を見たに止まり︑一八四八年ダルハウジー卿︵﹈﹁O円へ﹇ ﹈︶90一げO口ω一Φ︶に       註5より引継がれるに至りはじめて幹線道路の本格的建設が進められ︑又一般道路も大いに改善延長せられ︑郵便制度の

改善︑電信技術の導入等によりその交通組織は著しく発展せられるに至った︒一八三一年〜三二年︑マドラス︵ζΩ︒傷鑓ω︶

州において鉄道の先駆ともいえる鉄道馬車︵量一冒︒&︶の計画が︑カウ穴リー河︵○響く①昌閑嘗葭︶沿いにカウペリー

   十九世紀における船ンドの鉄道について      八五

(6)

   研 究 年報       八六

パタム︵6軽くΦ﹃上将3ヨ︶からヵルーア︵09︒目︒自︶へ向う一五〇哩の長さに渉って行われ︑インドにおける交通組

織の近代化は漸くその兆しを見せはじめた︒

 2 鉄道建設計画の繭芽

 一八二五年︑ストックトン︵ω叶06閃けO昌︶とダーリングトン︵∪黛9二言σq8昌︶の間に世界最初の鉄道開通をみた英国

は︑やがて急激な発展を生む鉄道投機熱の時代に入り︑書案の影響は当然インドへも波及したが︑それと共に︑産業

革命による英国産業構造の変革は生産に必要な大量の原料資源を要求し︑又製品の販売市場を求めるに至り︑無限の

天然資源と富を蔵する彪大な植民地であるインドは︑当然英国の企業家達の注目を集めた︒インドを原料資源及び綿

製品のための市場とみた綿業者達は︑自己の営業の拡張と原綿を速かに港へ輸送するために鉄道建設を希望し︑又当

時英国において急激に生長しつ\あった鉄鋼業は︑その販路拡張をインドの鉄道建設に期待し︑又貿易時代に蓄積せ

られた巨額の資本は︑政府の保証による鉄道建設のような安全で恒久的な投資を希望していたのである︒此の様な英

国の事情と共に︑インド国内においても︑軍隊の大量迅速な輸送という軍事目的と海外貿易促進という商業上の目的

に加えて︑打続く飢謹の救済のためには鉄道による外ない等の事情から鉄道建設への意欲が漸く強くなり︑インドに

おける鉄道建設の機運は次第に高まってきた︒

 一八三六年︑マドラスの技術者であったキヤ︒フテン・コットン︵O寺中冒︾●℃●Oo簿○昌︶は︑運河を含めた交通

及通信機関にまさる鉄道の優秀さを力説し︑一八三一年の鉄道馬車の計画を本格的な鉄道建設とする事を提唱し︑之

を拡張してボンベイ︵C甲︒ヨび薯︶とマドラスを結ぶ八六二理に及ぶ路線を設ける事を主張した︒ ︵此の路線は最後に

(7)

は実現せられたが︑長い論議を経て結局一八五六年にはじめてその最初の路線が建設せられた︒︶

 鉄道建設に関する本格的な計画は︑一八四〇年代にはじまった︒即ち一八四で年︑ステフアンスン︵冨碧島自9︒匡

ω8喜窪ωo⇔︶により︑後に東インド鉄道︵漆器Pぎ野蚕菊舜9二薯9︒団︶に発展したカルカッタから北西部地域への路線

が計画せられ︑一八四三年︑ステフアンスンの計画は︑具体的にはカルカッタからミルザポール︵冨畔蚕oo話︶に至

る四五〇哩と定められた︒一八四四年︑ボンベイにおいては︑他のグルー︒フによりボンベイ・グレートイースタン

鉄道︵じ口︒ヨ9畷9①北国9︒ω8ヨ幻pコ≦二︒団︶が計画され︑後に之は︑東インド鉄道と共にインドの大幹線となった大

インド半島鉄道︵嘩Φ9︒梓ぎ&き℃①甘食ω耐雪鴻自︒自芝亀︶として政府に認可せられた︒しかし之等の諸計画は︑直ちに

実現に移されたわけではない︒山岳地域を含む地理的困難性と︑洪水︑暴風︑高温︑道路の悪事情等種々の悪条件に

よる工事の困難さ及び之毒心工事に対する適切かつ熟練した技術者の不足は︑建設計画の実現を阻み︑かつ最も大き

な障害は︑その建設資金の調達にあった︒鉄道建設に必要とせられる莫大な資金の調達は︑確立した経済基盤を持た

ない当時のインドにおいては全く不可能なことであった︒従ってその調達は殆んど英国に依存する露なく︑此の妙な

英国からの投資は︑必然的にその投資の安全性を保証する事を必要としたのであり︑インドにおいて建設せられた初

期の鉄道は︑すべて投資に対し一定期間一定利子を政府が保証する保証会社制度︵O轟旨ヨΦΦOoヨ冨塁ω器冨日︶

に依る事となった︒ ︵計画の実現を遅らせた一つとして此の保証条件に関する争いが上げられる︒︶其の後︑内外にお

ける鉄道建設促進の要望は更に強化せられ︑又種々な悪条件を克服するため英国より技術者の救援を求め技術の前上

を測り︑更にインド鉄道建設の父と言われるダルハウジー卿の総督就任と共に建設計画は漸く軌道に乗り︑ 一八四九

   十九世紀におけるインドの鉄道について      八七

(8)

    研究年報      ︑       入平

年︑政府と東インド鉄道と大インド半島鉄道との間に最後の建設契約が行われ︑一八五三年︑ボンベイとタナ︵月冨・

墨︶の間において大インド半島鉄道の最初の二〇哩が完成され︑インドにおける最初の鉄道が開通したのである︒

註−註2

註3 ωp口嘱巴Z巴貯鋤屏ωげ2U①<①一〇bヨΦ口什bhぎa9︒昌幻巴一芝⇔団ρおωρ勺・N・インダス河とガンジス河とはその支流と共に︑やし大規模に舟航しうる唯一の河川であった︒Ω巴αQFU●幻●一円げΦ冒9ω什ユ巴口く︒言忌︒旨ohぎユす一口幻ΦoΦ9目日Φωご︒︒ω・ 鈴木正四訳昭和一八年︑七頁

一八五二年マドラス公共事業委員会報告書は次の如く述べている︒ 近世インド産業発達史

 ﹁人工道路はほとんど全部︑あたかも荷車用であるかのように造られているにすぎない︒晴天の日には荷馬車に軽い荷物を積

 んで︑極めて遅い速度で︑かつ甚だ短い区聞を動き廻り得るのみである︒だが之等の道路の大部分は架橋されておらず︑雨期

 になれば河川の横切るところでは何処ででも交通を遮断してしまう︒そして雨期の数ヶ月は︑家畜叉は徒歩の行人以外︑用を

 なさず道路は車輪の力に耐え得なくなる︒﹂

 ガドギル・鈴木正四訳︑前掲書︑七頁

註4 ωき冨㌍Z・旧ε・o津ご頃●ω●

註5 カルカッタからデリーに通ずる大幹線道路は一八五三年竣工をみた︒ガドギル・鈴木正四訳︑前掲書︑二九頁

(9)

       三 鉄道建設とその発展過程       

 1 鉄道発展遅程の区分

 英国におけるインド鉄道建設への意欲とインド国内における商業及軍事上の鉄道建設への要請は︑ 一八五三年︑ア

ジア最初の鉄道を出現せしめた︒それ以来︑一応インドにおける鉄道の建設が完成せられたとみられる二〇世紀初頭

でまの約半世紀の間︑インド鉄道は決して順調な発展過程をたどったわけではない︒サニヤル︵2巴一ω曽瞬ω冨ωき矯巴︶

に依れば︑保証会社の形で最初に建設に着手した一八五〇年から︑一応の発展過程を終えたと言われる一九〇二年ま

での約五二年間を︑その発展過程の建設及経営上の特色から区分すると大要次の三つの期間に分けられる︒

 第一期 保証会社による建設及経営の時代︵一八五〇年〜一八六八年︶

 第二期 政府による建設及経営の時代︵一八六九年目一八八二年︶       −

 第三期 私的会社による建設及経営の時代︵一八八二年〜一九〇二年︶

 第一期は︑ 一八四九年︑保証会社の形で建設契約を結んだ東インド鉄道及大インド半島鉄道の二会社が︑建設を開

始した一八五〇年から︑政府に依る保証増加に伴う財政的負担の増大と契約に依る保証会社の政府移管により︑政府

が直接その建設及経営を行うようになった一八六八年までの聞︑第二期は︑政府自身が建設及経営を行う政策が始め

られた一八六九年から︑政府の財政的窮乏と飢謹による鉄道建設の促進のために再び私的会社による鉄道建設奨励に

転換した一八八二年まで︑第三期は一八八二年から︑現在のインドの鉄道組織の大部分が完成されたとみられる一九

〇二年までの約二〇年三である︒以下半世紀に盛る鉄道の建設と発展の過程を此の区分に従って述べる事とする︒

   十九世紀におけるインドの鉄道について      ︐  爪九

(10)

   研究年報       九〇

 2 保証会社に依る建設及経営の時代︵一八五〇年〜一八六八年︶

 ω 保証会社に依る建設政策

 インドにおける鉄道建設の具体的な計画は︑ 一八四一年︑ステフアンスンによりはじめられた︒此の建設計画は︑       /p最初一八四四年忌ベンガル川政府に提出せられ︑次いで一八四五年︑之を基として東インド鉄道会社 ︵慰馨ぎa欝

幻二・二≦彊ρ団Oo旨笹舟Yが設立され︑又一方︑ボンベイにおいては︑一八四五年︑沿岸海運により南部海岸を迂回して

行われている輸送を短縮するため南部を横断する鉄道建設を計画して大インド半島鉄道会社が︵Oお9︒枠固巳冨ロ℃①昆昌

ω三g︒底設寒躇︶設立され︑ボンベイを起点とする鉄道建設に対し政府の援助を要請した︒かくしてインドの鉄道建設

は次第に具体化せられて行ったが︑之等め建設に当って先づ問題となったのはその資金調達であった︒鉄道建設の如

き大事業に必要とせられる莫大な資本は︑当時のインドにおいては到底調達し得るものでなく︑従って先づ鉄道建設

の計画者達は︑政府に対し利益が一〇%を越える時はそれを路線拡張のために再投資するという条件で︑鉄道開通の      註−日から全投下資本の四%を最低の利子として政府が保証する事を要求した︒当時実質的なインドの支配者であった東

インド会社︵審︒・酔ぎ&2︒ロOoヨ冨塁︶は︑鉄道が政治的にも経済的にも著しい利益をもたらすものである事を認

め︑又当時のフランス政府が斯る保証制度の方進をとった事から一応鉄道建設に斯る方法をとる事を認めた︒英国に

おける投資家達は︑インドの鉄道建設の計画黒黒が主張している程その投資の投機性を高く買っていたわけでなく︑

英国の投資家の援助を仰ぐためには︑斯る保証会社の制度は必要であったと考えられる︒

 斯る保証制度は直ちに実施せられたわけではない︒政府は︑当初三%の利子保証と期間一五年という条件で進める

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事を希望したが︑当時の英国における財政的危機のために金融市場は著しく引締められ︑東インド鉄道会社はその資

金調達に苦慮するに至り︑ 一八四七年逆に政府に対し条件の改善を要求した︒ 一方︑マンチェスターやグラスゴーの

商工会議所においては︑アメリカ綿との競争に打克つためにインドにおける綿花の輸出を促進する方策として鉄道導

入の実現を一層強く要望するに至り︑政府は保証率四%から五%へ︑保証期間一五年から二五年への改正を不本意乍

ら承認する事となり︑二つの路線に之を認め︑他の会社も之にならう事となった︒政府の斯る態度は保証に対する政

府の責任をより増加せしむる結果を招来し︑結局政府の大きな財政負担となったのである︒ 一八四八年︑ダルハウジ

i卿が総督に就任し鉄道建設に力を注ぐに至り︑鉄道建設計画はより強化せられ︑最終的な建設契約が︑一八四九年

八月置インド政府と東インド鉄道会社並に大インド半島鉄道会社との間に結ばれた︒此の最終契約は︑鉄道会社にと

って先の契約条件より有利なものであり︑その大要は次の如くである︒

 ω 契約期間は九九年とする︒払込まれた全資金に対する利子の保証は︑払込まれた時から全期間に対し与えられ    註2   る︒

 勿

ω

政府は二五年又は五〇年後にその時のロンドン株式市場価格で鉄道を買濡する権限を保有する︒

必要なる土地及びそれに附随するすべての業務は政府により無料で提供する︒

経路︒軌幅︒建設︒勾配等のすべては政府の認可を受けねばならない︒

政府は業・務に関するすべての検査︑統制の権限を持ち︑又運賃については之を認可制とし︑利益が一〇%を越

える時は之を減ずる権限を有する︒

十九世紀におけるインドの鉄道について      九一

(12)

Gり

 之等の諸条件は︑

りに政府は統制の正当なる権利と最後には之を買主する権利を要求したものと言いうる︒

を鉄道開通の日からでなく︑

る権限を殆んど持ち得なかった事︑

なった︒ 保証会社制度の原則は︑公衆の利益に大いに貢献する企業のために資本を誘致する方策として決して不健全なもの

ではなく︑当時のフランスや英国の他の植民地において一応成果を得ていたが︑しかしインドにおける此の保証制度

はその条件があまりにも負担能力の限度を越え︑期間においても正当な範囲を越えた言わば経済性を無視したもので

あり︑政府の負担及責任をいたずらに増加せしめる結果を招き決して成功であったとは言い難い︒

 以上の如き契約に基き両社の鉄道建設の法案が設定され︑直ちに建設に着手し︑一八五三年に大インド半島鉄道︑

一八五四年東インド鉄道の最初の部分が夫々完成し沈︒ 研究年報       九二政府は鉄道会社の重役会に加わり︑すべての事に対する拒否権を持つ︒郵便物の輸送は無料で行い︑軍隊及それに必要な物財は割引運賃により運ぶ事︒保証利子の利率は︑各契約の行われる時の金融市場の状態により四・五%から五%の問とする︒又すべて・の金融上の取引は一ルピーに対し一シリング一〇デナリと計算する︒保証利子を越える余剰は政府と会社の両者で分割せられるものとする︒      言わば︑政府がすべての株主の危険を負担し︑保証利子を上廻る利潤への期待を持たせ︑その代       しかし政府は︑保証の開始      資金を提供した時からとした事︒貨幣換算率を一定とした事ハ会社の資本支出を統制す       将来の買牧に著しく有利な条件を与えた糸綴極めて不利な条件を承認することと

(13)

 @ 建 設 過 程

 既述の如く一八四〇年代において具体化せられた鉄道建設計画の実現は︑技術的にも容易なものではなかった︒イ

ンドにおける地理的条件及気候風土はむしろ鉄道建設に大きな障害となり︑又技術者の不足と技術の未熟なることは

建設を一層困難としていた︒一八四五年︑東インド会社の重役会は︑之等鉄道建設の障害について次の六つを指摘し   註3.ている︒

 1︑雨期と洪水  2︑打続く暴風と激しい直射日光の影響  3︑虫害  4︑破壊的成長力をもつ植物による害

 5︑鉄道通過地方の道路の悪条件 6︑適切にして経験豊かな信用し得る技術者獲得の困難と高費用

 此の様な諸事情に加えて︑鉄道建設の如き大事業を行うためにはインドの経済力はあまりにも微力であり︑︑又民衆

は極めて貧しくかつ広大な地域に散在し人口密度が希薄である事等建設に対する不安の要素を多分に持っていた︒東

インド会社は高等の悪条件を克服するために︑英国より鉄道建設に豊かな経験をもつ技術者を招き徹底的に調査にあ

たらせ︑一方インドより英国へ技術者を派遣して技術の修得にあたらせた︒鉄道行政に豊かな経験をもつダルハウジ       k1卿は一八四八年︑前記の諸事情を考慮し︑夫々の会社は︑試験的に一定距離の試設路線を建設する政策をとり︑一

八五三年大インド半島鉄道が︑ボンベイとタナの間際二〇哩にわたり建設せられ︑次いで一八五四年カルカッタ

とラニィガンジ︵麺きΦΦoqロ且Φ︶に最初の東インド鉄道が︑一八五六年にはマドラスとアーコナム︵﹀島︒昌Ω︒ヨ︶の間

にマドラス鉄道︵寓9Dα旨ω菊魯一≦鋤℃︶の最初の路線が開通した︒

 一八四八年インド総督に就任以来︑ダルハウジー卿は鉄道建設に意を注いできたが︑一八五三年︑有名な鉄道に

   十九世紀たおけるインドの鉄道について      .  九三

(14)

   研究年報       九四

関する覚書 ︵竃言9Φo昌幻畳堵Ω︒団︶を発表し︑インドにおける鉄道の建設が商業上蓋に軍事上極めて大なる意義を

持つ事を述べると共に︑鉄道に関する経営及び財務についての見解並びにインド全土における鉄道組織の充実につい

て大幹線路の建設促進の政策を説いた︒一八五五年︑グゼラート︵O自2舞︶並にアメダバッド︵﹀日①99傷︶からボ

ンベイへ綿花を輸送する目的で︑ボンベイからバローダ︵u口回︒幽£Ω︶を経てアメダバッドに達する路線の建設が︑政府

とボンベイ・バローダ・アンド・セントラルインデイア鉄道会社︵し口︒日び昌bu︒︒8αΩ︒皇︒昌匹OΦ昌寓2︒一回a冨閑蝕一≦ロ矯O︐

○ヨ冨塁︶との間に契約せられ︑又同年︑一漁村であったカラチ︵国霞鋤︒ぼ︶を港として発展せしめ︑此処からイン

ダス河の水運︵同嵩幽口ω ω枠Φ黛obP 司一〇け一一一鋤︶を経てデリー︵UΦ一日︶に達する路線建設が︑シンデイ・パンジャブ・アン

ド︒デリー鉄道会社︵ω息巳①勺§冒びΩ︒巳UΦぎ一幻9・一号Ω︒矯Oo旨雀口邑 との間に契約せられた︒一八五七年から五

八年にかけて︑有名なセポイ︵ω①bo器︶による大暴動が起り︑鉄道建設は一時中止せられたが︑斯る大規模な反乱に

依る軍隊輸送の必要を痛感した政府は︑一八五三年のダルハウジー政策を採用し之を強力に推進せしめる事に力を注

ぎはじめ︑議会においても発展促進のための委員会を設置し︑試設路線建設の政策を改めて大幹線鉄道建設を目的と

するに至った︒斯る政策の下に政府は一八五八〜五九年において︑前記三大会社に加えて次の五つの会社と契約を行       註4いその建設促進を測った︒

一 ボンベイ︒バローダ・アンド・セントラルインデイア鉄道会社︵一八五五年の契約を一八五九年に修正︶

2 シンデイ・パンジャブ・アンド・デリー鉄道会社︵同様に一八五九年に修正︶

3 イースタンベンガル鉄道会社︵国9︒ω8塾しσΦ昌σq巴国薗富≦9︒団Oo日超越︶カルカッタ〜ダッカ︵U9︒08︶〜アキヤブ

(15)

   ︵b吋恩び︶に至る路線︑ 一八五八年に契約

4 グレートサザーン・オブ・インディア鉄道会社︵Ω目Φ辞ωoロ夢①ヨoh謬象鋤菊£︒一一妻餌団Oo白O⑳昌団︶ネガパタム

   ︵り自①αqΩ自b潜けO昌口︶〜トウリチノポリー︵目江︒圧昌︒娼︒首︶の路線︑ 一八五八年に契約

.5 カルカッタ︒アンド・サウスイースタン鉄道会社︵090暮露夏春ωo暮ゴ国器けΦ心心五一ミ9︒矯Oo心惑塁︶カルカッ

  タからサンダーバンズ︵ωコ戦規Φ同び口昌q◎o︶を経てチッタゴン︵Oぼ#2︒σqoご︶に至る路線︑ 一八五九年契約

 斯くして八つの会社による約五︑○○○哩の建設が許可せられたが︑之等の建設の促進と共に地方鉄道の建設も行

われ︑インド地方鉄道会社︵ぎα冨昌b二半昌9切生鵠零黛︒団Oo白彙︒姥︶が︑一八六三年政府の援助を受けないはじめての

非保証路線として︑ナルハチ︵2巴冨鉱︶とアチムガンジ︵♪N陣語αqロ且ゆ︶の問に四ブイートの恰幅をもつ路線を建設

し︑更に東インド鉄道に連絡する五ブイート六インチの路線をカウンポール︵O塾︒口唇︒目Φ︶からラックノウ︵ドロ︒屏⇔o≦︶

の間に建設したが︑財政難に陥り政府の援助を仰ぎ︑一八六七年︑オウド︵O&げ︶とロヒルクフンド︵幻︒霞貯冨口α︶

の間の路線建設計画と共に︑オウド・アンド︒ロヒルクフンド鉄道会社︵O鼠げ︒︒滋切︒霞涛ご§傷泥目︒一一≦勝差Ooヨ9塁︶

と名称を改めた︒一八六五年︑もう一つの非保証路線がインド軌道会社︵ぎ象き浮二︒臼≦臼・矯Ooヨ忘昌︶によりアー

コナムからコンジユヴエラム︵Oo且8くΦ旨ヨ︶に建設せられたが︑同様に財政難に陥り︑三%の保証路線に改めら

れ︑一八六九年︑カルナテック鉄道会社︵O醇葛鉱︒涛邑謹躇Oo導娼鯉濃︶と名を改めた︒       註5  註6 一八五三年から一八六八年に至る一五年間の建設過程は︑第一表及第一図の如くである︒

 約一五年の間忙は︑四︑○○○哩を越える路線が開通を見︑一八六八年に約二︑○○○哩が建設中であった︒その

    十九世紀におけるインドの鉄道について       九五

(16)

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  へ十九世紀におけるインドの鉄道について九七

(18)

   研究年報       九八

閥の最高建設年次は一八六二年の約七七〇哩︑最低は︑一八五七年の一五・五心であり︑一八六〇年までは平均年一

二〇哩の増加︑その後は年間約四〇〇哩であり︑全期間中の年平均は二七六・八哩であった︒

 鉄道建設における財政の困窮は︑その建設に大なる影響を及ぼしたが︑その一つは湘南の決定に存する︒ダルハウ

ジー卿は︑インドの地理的条件や安全性を考え︑英国の四ブイート八インチ半に比してより広い五ブイート六インチ

の採用を主張し︑大幹線路は主として之を用いたが︑地方鉄道は財政上の理由でこれより狭い軌幅を用い︑政府も又

必ずしも五ブイト六インチを強制しなかった為︑結局は様々な口幅︵ニフイートから五ブイト六インチ︶がとられ︑

此の様な軌幅の不統一は輸送の機能を著しく阻害し︑インド鉄道の大きな悲劇となった︒

 的 経営状況及政府の監督規制      ︑

 鉄道建設の初期において︑その建設費用は︑複線の場合は一命当り﹂五︑○○○ポンド︑単線の場合は九︑○OQ

ポンドと一応定められていたがハしかし実際に建設せられた幹線約三〇〇〇哩の平均は哩当り二〇︑○○○ポンドを         註7上廻る費用を要した︒此の様な建設費用の増加は︑保証制度に依り当然政府又は州の財政的負担を著しく増加せしめ

た︒一方鉄道経営における純平入は︑僅かに一八五四年には総支出の○︒二二%︑ 一八五九年一・三%︑ 一八六四

年一︒九八%︑一八六九年三%を示したにすぎない︒従って保証利子のための政府支出は非常な増加を示し︑一八五

四年より一五年間における政府の鉄道関係純取得一︑二〇〇万ポンドに比して利子のための支払いは深潭︑五〇〇万

ポンドに達した︒政府の支出はそれのみに止まらず既設鉄道の醇正︑土地の獲得︑調査及び管理等に多額の支出を必

要とし︑又貨幣の換算比率の固定は政府に必ずしも有利ではなく︑却って大きな損失となった︒

(19)

 経済的な基盤の弱さと民衆の貧困から予想せられた鉄道建設後の進歩の︑度合は︑必ずしも顕著ではなかったが︑予

想に反して一応確実な伸長を示したと言い得る︒開通後最初の五年間に︑旅客は五三五︑○○○人から二七〇万人と五

倍の増加を示し︑此の比率は後に至るまで保持せられ︑一八六四年から一八六九年には︑一︑=一五万人から一六︑

○○○万人に増加した︒ 一方貨物輸送においても︑ 一八五三年から五四年には僅か二三トンであったのが︑ 一八五九

年には約二〇万トトン︑一八六九年には一︑二〇〇万下ンに達し︑週哩当り純注入は︑ 一五年間に六三ルピーから二

七七ルピーに増している︒総懸入に対する貨物牧入の割合は一八五三年から五四年にば僅か四%であったが︑一八六       註8九年には殆んど六六%という比率を示した︒建設に関する投資及びその後の経営状況は第二表の如くであり︑又一八      註9六八年から六九年の一年間の列車哩当り支出と受取分は第三表の如くである︒

 鉄道建設の当初は︑旅客輸送に関しては殆んど期待しておらず︑むしろ輸送の中心は︑穀物・綿花等輸出のため

港地方へ向けて運ばれる貨物におかれていた︒従って最初の貨物運賃は︑港へ原材料生産物を輸送する目的で定めら

れ︑貨物等級表は極めて簡単なものであり︑三〜六の等級と一つの特別等級︵東インド鉄道のみ石炭の輸送に設ける      −      註−o︒︶に分たれ︑旅客は三つの等級に分けられた︒之を表示すると第四表の如くである︒

 開通以来︑政府は旅客運賃や貨物運賃に対する統制権限を保持していたが︑資料及経験の不足から殆んど干渉を行

わず︑僅かに開通当初︑一年間実験的に運賃を据置く事を勧告したに止る︒当初一般に旅客及貨物の運賃は高いめに

設定せられ︑鉄道会社は出来るだけ早く転瞬を得んとしたが︑政府はその監督権により民衆の利益を保護するために︑

旅客運賃及び穀物等の特殊の貨物の運賃に最低等級を設ける事を切望し︑一八六八年︑既存の鉄道は現在の旅客及貨

   十九世紀におけるインドの鉄道について       九九

(20)

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十九世紀におけるインドの鉄道について一〇一

(22)

  研究年報      一〇二

物運賃を最高運賃とし︑更に旅客及穀物︒石炭について最低等級を設ける事︑将来建設せられるすべての路線は︑最      註!!      註12低旅客運賃は入哩当りニパイ︵℃冨︶を越えない事及び穀物・石炭はマウンド︵寓霊民一Q◎2びoh国旨oq冨鼠︶哩当り

○・二五パイを越えない事を勧告した︒政府の斯る政策は︑結局将来において好結果をもたらしたのである︒

 インドにおける特殊事情から鉄道開通後数年の間一つの障害が生じた︒鉄道の通過する諸州並に諸地域において種

々なる通過税︵轡目gの嵩ω一叶 α嘗轡一①ω︶が存在し︑鉄道の通過に対しても之が課せられたため︑負担が増加せられると共に︑

一方その適用貨物の調査のため屡々列車は停止せられていた︒ 一八六六年から六七年にかけて︑之等の悪慣習を出来

るだけ軽減する政策がとられ︑同時に標準重量基準をマウンドと定め︑全インドに適用された︒

 ダルハウジー卿は︑鉄道建設の如き事業は︑国家の利益と公共利益の保護のために政府の厳重な統制が必要である

という見解を持ち︑インド鉄道の建設は︑当初より厳重な政府の統制の下に行われた︒既に述べた様に建設の契約に

基き︑政府はすべての鉄道会社の重役会に監督者を参加せしめ︑又財政政策を含むすべての権限は︑一八五六年以来

州長官に附与せられている︒

 一八五四年以前の鉄道建設は︑すべて軍の技術部により行われたが︑ダルハウジー卿は之を廃止し︑一八五四年︑

中央公共事業局︵︵︶ρ﹈Pけ目2ρ一 勺Oぴ一一〇 ≦Oh屏ω ωΦO同①酔90H一国け︶をカルカッタに設置し︑以後建設に関する一切の監督は之に

依って行われた︒

 鉄道の経営に関する法令は︑英国鉄道の法令を模倣して︑所謂一八五四年法︵.bO酔 Oh 困Q◎㎝ら︶として制定せられ英

領インドを中心として適用せられた︒此の法令は︑鉄道会社の規制と共に会社をして鉄道事業を充分に行わしめる事

(23)

を目的としたものであり︑料金の制定︑不正行為︑不法侵入︑貨物の取扱及鉄道の運送上の義務及び責任を規定し

た︒しかし此の法令は必ずしも適切なものでなく︑安全に関する項目及び不当差別に対する公衆の保護等を含んでい

ない等多くの欠点を有していた︒政府自身も之等の不備を認め︑以後必要に応じて之等の学窓修正を行い︑一八六七

年改正法を制定し安全項目を加え︑同時にその適用範囲を英領インド以外の地域にも広げ︑又地方鉄道を含むすべて

の鉄道を規制対象とし︑一八九〇年には鉄道法を制定して不当差別の禁止を行うに至っている︒

3

政府による建設及経営の時代︵一八六九年〜一八八二年︶

 ω 政府による建設並に経営への転換

 困難な資本調達を出来るだけ容易にするためにとられた保証制度は︑ダルハウジー卿が厳重な政府の統制の必要を

指摘していたにも拘らず︑実施後間もなくその欠陥が現れた︒保証会社の制度は︑会社自身がその目的を充分認識し︑

慎重な経営を行い︑一方政府が適切な統制を行うならば︑資金の確保と事業を一定期間内に迅速に成就させるために

決して悪い制度ではない︒

 インドにおいては︑鉄道建設に必要な資金は︑此の制度に依り獲得せられたが︑鉄道建設の地理的条件が極めて困

難なものであり︑建設及び経営が未経験で︑かつインド国内において建設に必要な資材を調達し得なかったために

殆んど英国かち輸入した事︑その上熟練せる労働者︒技術者を得る事が出来なかった等の事情から建設費が非常に嵩

み︑結局は政府の財政上の負担を大きくする事となったのである︒その上政府も保証の諸条件に対して厳重な注意を

   十九世紀におけるインドの鉄道について      一〇三

(24)

   研究年報      一〇四

怠り︑会社の適切な支出に対してのみ保証利子を支払う事を要求しうる条項があり乍ら︑一方で会社により調達せら

れたすべての資金の五%の利子を保証するという補量的条項が設けられ︑事実において政府は会社の資本の濫費を阻

止する事が出来得なかった︒又政府の顧問技術者は鉄道建設に必ずしも熟練しておらず︑その建設は屡々遅延し会社

の経営意欲を著しくにぶらせた︒等等の事は︑結局保証会社の制度を失敗に導く大きな原因となった︒保証制度によ

る鉄道会社においては︑株主の配当は会社の利益に依っては殆んど得る事が出来ずすべて保証により行われ︑又会社

は資本調達のみを目的とする機関の如き性格を持つに至り︑政府にとって極めて不利益かつ高価な企業であり︑又投

資に対する危険性も増加していた︒一八五八年︑キヤニング卿︵いoaOき口冒σq︶は之等の点について警告を発し︑

政府の統制の強化を要望し︑同時に保証制度に対する反対の声も次第に高くなっていた︒もともと政府は開発事業を

行う企業を助長する一時的な措置として此の制度を考えていたし︑基本的には廃止の考えに賛成であったが︑資本調

達は此の制度以外に行う方法がなく︑その為に之を取除くことが出来なかった︒

 一八五七年の大暴動は︑政府の英国に対する負債を増加せしめたが︑保証制度に依る負担も年と土ハに増加し︑政府

は漸次︑保証会社制度を改め︑鉄道会社自体に保証無しに資本を調達せしめるか︑又之に代る何等かの方法をとる事

を積極的に意図するに至った︒︑斯る意図の下に政府は一八六二年から六四年においてインド地方鉄道会社とインド軌

道会社の新路線建設に対しては保証なしの政策を実施し︑以後保証しない方進へと転換せんとした︒しかし前記二会

社も財政的困難に陥り︑最後には政府の保証を受ける事となった︒

 以上の如く保証会社の制度は失敗に終り︑鉄道建設の必要性は甚だしく希望せられながら必ずしも充分な進展を遂

(25)

げなかったのである︒

 保証制度に代る方法について︑一八六七年以来︑インド政府において種々な論争がなされたが︑鉄道の建設及び経

営については︑単︑に財政的見地からのみでなくより広い見地に立って之を行い︑かつ商業的見地からみる場合︑保証

制度は決して悪いものではないが︑政治的見地からすれば斯る方策は好ましくないとの見解をとり︑以後の建設は中

央政府及び州政府が之を行い︑最終的にはインドの全鉄道を獲得する政策を意図し︑一八六九年ローレンス卿︵いoa

ピ9︒≦おp8︶が︑州に依る直接の建設及経営がより安全なる結果を生み︑かつ政府と私的会社という二つの管理組⁝織

をもつよりも政府による単一の管理の方が︑多くの面において好結果をもたらすであろうという主張を行うに至り︑

新路線建設に必要な資金調達は州政府が之を行い︑建設及び経営も直接州政府がたつさわる事となったのである︒

 斯様にして政府に依る鉄道の建設及び経営という新しい政策が行われる様になったが︑政府に依る鉄道は︑その政

治的基盤の相異から次の三つに分けられた︒

 1 英領インド直轄州鉄道︵H日bΦユ巴ω雷8寄出毒9︒図︶

 2 半独立州鉄道︵℃Hoく一昌︒冨一ω冨8園9︒一一≦ロ楓︶

 3 非英領独立州鉄道︵2ロ寓く①ω苗けΦ霊出芝翅︶

 之に依り従来の保証会社に依る所有経営に加えて之等三つの政府に依り所有経営せられる鉄道が加えられ︑更に政

府に買春せられた鉄道においても︑所有は政府であるが経営は依然として保証会社が行う等様々な形態を生じた︒

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   十九世紀におけるインドの鉄道について       一〇五

(26)

   研究年報       一〇六

 インドにおける政府の直接所有による鉄道は︑ 一八六八年︑カルカッタ︒サウスイースタン鉄道が買質せられた事

にはじまる︒其の後︑一六七〇年と七一年に夫々小区間の路線が買牧せられたが︑政府に依る建設及び経営という新

しい政策における最初の建設は︑インダスバレー︵回⇔qロωぐ■鋤一一Φ団︶ーパンジヤブ︒ノザーン︵℃藍絵Ω︒σ20甚①旨︶︑

ラジ︒フタナ︒マルワ︵菊自︒むロ欝づ9︒︐寓巴窯皇︒︶等の主要路線計画からはじめられた︒

 一八六九年から一八八一年にかけて鉄道開通理数は︑四︑二六五哩から九︑ 八七五哩に増加したが︑その増加の

度合は年間平均約四六八哩で第一期のそれに比して著しい伸びを示した︒ ︵年間における最大増加はデ八七八年から

七九年の句々〇〇哩である︒︶一八八一年における所有経営体織豊数は︑東インド鉄道を含む会社によるもの六︑ 一三

二哩︑インド独立州による所有が四四六哩︑残り三︑二九七哩が英領インド及半独立州に属している︒軌幅別にみる

と︑約七︑○○○哩が五ブイート六インチであり︑残り約三︑○○○哩が一メートル狭軌︵三ブイート三インチ︶で       註13あり︑此の中にニフイート六インチ約六〇哩︑ニフイート約五〇哩︑四ブイート約二八哩を含んでいる︒       註14   註15 以上の如き建設過程を表示すれば︑第五表及第豊中の如くである︒

 第二期における鉄道建設の特徴の一つとして上げられるのは︑三ブイート三インチ即ち一メートル路線の増加であ

る︒堂幅は当初ダルハウジー卿の政策に従って五ブイート六インチで進められてきたが︑政府は財政上の理由と当時

度々起った飢鰹救済のために緊急建設が必要とされたために基本政策を捨て︑一メートル路線を多数建設したのであ

る︒一八六八年︑政府は鉄道建設促進と灌概設備の設置のため︑ロンドンにおいてインドの墨入を担保として五%以下

の利エJで公債を募集したが︑斯る方法に依る資金の調達は必ずしも順調に進展せず︑ 一方一八七〇年代に度々大面謹

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