『人文コミュニケーション学科論集』11, pp. 113-124. © 2011茨城大学人文学部(人文学部紀要)
糟谷 政和
1. はじめに
常陸那珂湊(現茨城県ひたちなか市那珂湊)の船主・祐吉の宝来丸は、船頭・周蔵と水主6 人の計7人が乗り組み、天保10(1839)年11月2日に平潟港(現茨城県北茨城市平潟)に入港し、
同月25日に出航して江戸へ向かったが、途中で大風に遭い漂流してしまった。そして不幸に も漂流中に5名の水主が死亡した。しかしついに天保11(1840)年4月3日に琉球王国の勝連浜 村(現沖縄県うるま市勝連)に漂着した。この時、漂着者は船頭の周蔵と水主の卯(宇)太郎で あった。そしてその後、この周蔵と卯(宇)太郎は琉球王朝の漂流民接遇規定の下、この那珂 湊の宝来丸の琉球漂着と滞在そして帰還の経緯をたどることによって、当時の琉球王府が漂 着日本船にどのように対処しかつ帰還させたのか明らかにしたい。
江戸時代において琉球へ漂着した日本船は薩摩経由で帰還することになっていたが、『通航 一覧』に次のようにまとめられている注(1)。
・「本邦の船、琉球に漂着の時は薩摩に送り(以下略)」巻24 琉球国部。
・「本邦の船、琉球国に漂流すれば、薩摩国に送りて、それより帰朝し、彼国の船、本邦に 漂着の時は、長崎に送り、同所より薩摩国に渡せる御規定なり、」付録巻15海防異国船扱 方部15。
2. 「風聞記」分析
(1)「風聞記」の構成
茨城県北茨城市平潟町の富商菊池半兵衛がその経営上収集した情報からなる「風聞記」に、
那珂湊の祐吉所有船宝来丸が天保11年に琉球に漂着して帰還した事に関連した史料が、「天 保11年琉球漂着」として、『那珂湊市史料』第8集に収録紹介されている注(2)。その内容は8つの 史料からなる。以下の考察の便宜上、史料①〜史料⑧を付して区分すると以下のようである。
番号 文書名 日付 文書作成場所(推定含む)
① 覚 (天保11年) 4月 8日 勝連
② 覚 天保11年 4月 8日 勝連
③ 覚 子(天保11年) 8月 山川港出航後に到着したいずれかの場所 ④ 覚 子(天保11年) 8月 山川港出航後に到着したいずれかの場所
⑤ 口上覚 子(天保11年) 8月 山川港出航後に到着したいずれかの場所 ⑥ 口上覚 子(天保11年) 4月19日 那覇
⑦ 口上覚 子(天保11年) 4月19日 那覇 ⑧ 仕切目録 天保11年子 5月 那覇
この8つの史料を日付順に並び替えると、①、②、⑥、⑦、⑧、③、④、⑤となる。つまり、
①と②は漂着地である琉球の勝連での史料であり、⑥と⑦と⑧は琉球の那覇での史料であり、
③と④と⑤は薩摩山川港出航後に到着したいずれかの場所での史料であると推測できる。
(2)「風聞記」からみる宝来丸の琉球漂着と送還経緯
宝永丸の漂流経緯については、特に天保10(1839)年11月2日の平潟港出航から天保11
(1840)年4月3日の琉球勝連村漂着さらに那覇久米村へ移動してしばらく滞在したことは史 料①からわかるので、長くなるが引用しておきたい。
史料① 覚
拾五反帆宝来丸船壱艘
常州水戸那珂湊船主 祐吉 船頭右同所之者
一 歳五拾歳 周蔵
但真言宗
奥州仙台古淵浦
一 同三拾四歳 宇太郎
但真言宗
南部様御領百姓
一 同拾八歳 五助
但真言宗当二月朔日相果申候
右御領之百姓
一 同五拾歳 源助
但真言宗水餲ニ而当二月二日相果申候
奥州仙台田代浜百姓
一 同三拾歳 吉蔵
但真言宗右同断ニ而当二月二日相果申候 右御領気仙之百姓
一 同四拾七歳 仲蔵
但真言宗右同断当二月五日相果申候 南部様御領百姓 一 同三拾壱歳 亀松
但真言宗右同断ニ而同月四日相果申候 人数七人
内五人死人
右者水戸御領船主右之祐吉船ニ而此節那珂湊より同御領平潟港江廻船仕商売物積入江戸 江差越申賦ニ而去亥十一月廿五日出帆仕候所同夜九ツ時より酉戌之風大風ニ罷成鹿島浦 より被吹流次第ニ浪高ニ相成楫を痛無寄近所相流同廿八日又候大風仕夫成相流申候同 十二月四日又々風雨強罷成船難保帆檣切捨積荷過半相捨酉戌之風ニ而相流日下近ク参リ 別而暖気強有之難凌同十二月晦日より水餲ニ相成朝夕賄茂塩ふかしニ而相用甚難渋仕候 雨潤立願仕正月四日少々雨降雨水取得乍漸助命仕居候処同月廿七日迄都而払底仕東之方 江遠く相流居暖気難凌其上水餲ニ而本行五人之者共追々相果申候間別而不便ニ存表かん はん下江格護仕置候二月五日六日雨降少々雨水取得助命仕二月十六日十七日迄寅卯之風 大風仕酉戌之方江漸々□(相□流□三)月廿八日昼頃より地方山見懸四月二日之夜当地方近く流 寄翌三日朝漁船見懸相招キ申候所四艘参り案内ニ而当村江引入被呉追々御役之衆御乗付 御叮嚀被 仰付誠ニ 御国様御蔭を以助命仕別而難有仕合存奉候
子四月八日 常州水戸領那珂湊船頭 周蔵
奥州仙台領古淵 宇太郎 琉球
御役人衆
(『那珂湊市史料』第8集、46-47頁)
この史料①によれば、当初の乗組員7人のうち、漂流中に5名死亡し、琉球勝連浜村に漂着 した時に生存していたのは、船頭の周蔵と水主の宇太郎の2名であったことがわかる。史料
①を参考に、この7人の乗組員についてまとめてみると以下のようになる。
職分 名前 年齢 宗門 出身 生死
船頭 周蔵 50歳 真言宗 常州水戸領那珂湊 琉球へ漂着し無事に帰還 水主 宇太郎 34歳 真言宗 奥州仙台古淵浦 琉球へ漂着し無事に帰還 水主 五助 18歳 真言宗 南部様御領百姓 天保11年2月1日漂流中死亡 水主 源助 50歳 真言宗 南部様御領百姓 天保11年2月2日漂流中死亡 水主 吉蔵 30歳 真言宗 奥州仙台田代浜百姓 天保11年2月2日漂流中死亡 水主 仲蔵 47歳 真言宗 奥州気仙百姓 天保11年2月5日漂流中死亡 水主 亀松 31歳 真言宗 南部様御領百姓 天保11年2月注*14日漂流中死亡
注*1:史料③では2月5日となっている。
さらに宝永丸の漂流から漂着までの経緯と4月3日の勝連浜村漂着から同年8月8日に那覇 を出航して、8月13日に薩摩の山川港に到着したことは史料③からわかるので、これも長く なるが引用しておきたい。
史料③
覚
拾五反帆宝来丸船壱艘船頭水主七人衆
右者水戸御領船主祐吉船ニ而那珂湊より同御領平潟湊江廻船仕商売物積入江戸江差越申 賦ニ而去ル亥十一月廿五日出帆仕候処同夜九ツ時頃より酉戌之風ニ罷成鹿島浦より被吹 流次第 〳 〵ニ浪高相成楫を揚無寄近所相流同廿八日又候大風ニ而夫成相流申候同十二月 四日又々風雨強罷成船難保帆檣切捨積荷過半相捨酉戌之風ニ而相流日下迄参リ別而暖気 有之難凌同晦日より水餲相成朝夕賄茂汐ふかしニ而相用ひ甚難儀仕雨潤之立願仕候処子 正月四日少々雨降雨水取得乍漸助命仕候処同廿七日迄都而払底仕東之方江遠相流候暖気 難凌相考表かんぱん下江格護仕置候二月五日六日雨降少々雨水取得助命仕同十五日より 十七日迄寅卯之風ニ而酉戌之方江漸々相流三月廿八日昼頃より次第ニ山見懸四月二日之 夜地方近く流寄り翌三日朝漁船見懸相招申候処四艘参り案内ニ而其村江引入呉夫より 追々御役々様御乗付御手厚被 仰付助命別而難有仕合ニ被存候尤右村琉球之内カツレン 浜村と申所之由右所より御案内被召付同十二日発足仕翌十三日那覇久米村江着仕候処懸 御役々様方より別而御手厚被 仰付誠ニ難有□□仕候処去八日宝円丸ニ被召乗那覇出帆 同十三日山川江着船仕御番所御改を請昨十五日昼時分山川出帆昨夜五つ御糺ニ付是迄之 旅行此段申上候以上
但相果候五人之者共カツレン浜村之内江葬方被成下是また難有奉存候 亥十一月廿五日より子四月三日迄之間嶋見懸不申尤汐掛相仕候儀毛頭無御座候
常州水戸領那珂湊 船頭 周 蔵 奥州仙台領古淵浦 水主 卯太郎 子八月
(『那珂湊市史料』第8集、48頁)
そこで前掲の史料①と史料③の内容と、さらに史料①〜⑧までの解説部分である「天保 11年琉球漂着」(『那珂湊市史料』第8集、16-17頁)を参考にして、宝来丸の漂流から琉球漂 着そして帰還までを改めて整理してまとめるとつぎのようになる。
【宝来丸の漂流・琉球漂着・帰還までの経緯】
天保10年11月 2日 平潟港入港。
11月25日 平潟港を出港して江戸へ向かう。
同日夜大風で鹿島灘へ吹き流される。
11月28日 大風で吹き流される。
12月 1日 喉の渇きに悩まされる。
天保11年 2月 1日 水主1名死亡。
2月 2日 水主2名死亡。
2月 4日 水主1名死亡。
2月 5日 水主1名死亡。
4月 3日 琉球勝連浜村(現沖縄県うるま市勝連)に漂着。
漂流中に死亡した5名は、12日までの勝連浜村滞在中に埋葬した。
4月12日 勝連浜村を出航。
4月13日 那覇久米村(現那覇市久米町)に到着。
8月8日までの滞在中に宝来丸船体、船道具、積荷残品等を入札処分。
帰国に際して琉球国王より種々の土産物を贈られた。
8月 8日 那覇出航。
8月13日 薩摩の山川港(現鹿児島県楫宿郡山川村)に到着。
同所で取り調べを受けたと思われる。
その後、山川を出発して、陸路で小倉へ出て、さらに海路で大坂に到着 し同所を経て帰宅したようである。
(3)漂流中に死亡した5名の水主について
漂流中に死亡した5名の水主については、生き残った周蔵・宇太郎の連名で琉球の役人に 提出した埋葬願いに、引導した琉球の長寿寺住持の道順西堂署名付の史料②に詳しいので引 用したい。(なお史料②では亀松の死亡日が2月5日になっているが、すでに見たように史料
①では2月4日になっている。しかし現在、原史料にあたって確認できていない。)
史料②
覚
一 年 拾八歳 南部様御領百姓 五助 但真言宗水餲ニ而二月朔日相果申候
一 同 五拾歳 右御領百姓 源助 但同宗同断二月二日相果申候
一 同 三拾歳 奥州仙台田代浜百姓 吉蔵 但同宗同断二月二日相果申候
一 同 四拾七歳 右御領気仙百姓 仲蔵 但右同宗同断二月五日相果申候
一 同 三拾壱歳 南部様御領百姓 亀松 但右同宗同断同月五日相果申候
右不便ニ存候付着物等を以包船下江当分 置申候何とそ其許ニおひて葬方被 仰付被 下度奉願候別而御苦労ニ可被遊御座候得共葬方本証文被下度奉願上候
子四月 水主奥州仙台古淵浦 宇太郎
船頭常州水戸那珂湊 周 蔵 琉球
御役人中様
右引導仕候儀相相違無御座候以上 天保十一年子四月八日
琉球長寿寺住持 道順西堂印
(『那珂湊市史料』第8集、47頁)
なお漂流中に死亡した5名は水葬にせずに、宝永丸の甲板下に安置したまま漂流を続け、
天保11(1840)年4月3日に勝連村の海岸に漂着した後に、埋葬願いを現地役人に提出し、同 年4月8日に葬儀を済ませたことがわかる。
(4)那覇での宝永丸船体・積荷等の売却について
史料⑥の天保11年4月19日付「口上覚」からは、宝永丸の積荷(米・大豆・小豆・鰹節等)の 入札売却願いが出されていることがわかる。さらに史料⑦の天保11年4月19日付「口上覚」か らは、15反帆の宝永丸一艘と諸道具の入札売却願いが薩摩藩役所宛に出されていることがわ かる。
史料⑦
口上覚
拾五反帆宝来丸 壱艘 但諸道具残品ニ付
右者先達而別紙灘書を以奉申上候配行ニ御坐候処本船之儀ト勝連間切浜村より御当所江 廻船仕難有滞船被 仰付万事御手厚御仁情之御計被仰付誠ニ以難有仕合奉存候 依之奉願 上候者本船痛損者勿論帆檣并楫其外諸道具等段々払底ニ罷成何様仕候而茂帰帆難仕次第 御座候間重畳御西国筋不奉願 候得共何卒御当所商人方江入札払ニ而茂被 仰付被下候 ハヽ別而難有仕合ニと存候間御憐愍を以何分ニ茂可然様被 仰付被下度奉願上候乍憚此
之段成合被仰上 被下儀奉願候已上
常州中湊船頭 周 蔵 子四月十九日
奥州仙台古淵 宇太郎 薩摩
御役中様
(『那珂湊市史料』第8集、49頁)
そして史料⑧の天保11年5月付け「仕切目録」によって、小豆・大豆・玄米・白米・刻煙草・
鰹節そして船体および諸道具の落札価格が銭1,027貫307文であったことがわかる。この証文 は、薩州鹿児島証拠人・奈良尚左衛門、請人・門原六次郎、同・奈良次郎左衛門の署名で、
宝来丸船頭の常州中湊周蔵宛てとなっている。なお、落札者について船体および諸道具のみ 宮城衆となっている。
(5)奉行及び琉球王府からの贈呈品について
史料④の天保11年8月付 「覚」 によると、奉行からは干鮪、干鱈、車海老、焼酎、芭蕉布 を拝領したことがわかる。さらに国主(王府)からは泡盛、八重上布、米を拝領したことがわ かるので、引用しておきたい。
史料④ 覚
一干鮪 七十 九万引 五数 一干鱈 七 寒漬大根三拾五 一車海老 百 小梅漬 壱桶 焼酎一陶五拾盃 酒壱樽 芭蕉布 弐反
右御奉行様より拝領 泡盛 壱本
八重上布 弐反 米 弐俵
右国主様より拝領
右之通於琉球難有拝領被 仰付頂戴仕候間此段御礼奉申上候已上
子八月 右同断 周 蔵
右同断 卯太郎
(『那珂湊市史料』第8集、48-49頁)
(6)那覇出航、山川港到着、山川港出航後について
前述したように史料③によって、那覇出航後、薩摩の山川港に到着したことがわかる(「去 八日宝円丸ニ被召乗那覇出帆同十三日山川江着船仕」)。さらに史料⑤の天保11年8月付「口 上覚」によって、山川港以降の帰国に際して、海路と陸路のどちらを希望するか問われたの に対して、小倉までは陸路で、小倉から大坂までは海路で行きたい旨答えていることがわか るので、引用しておきたい。
史料⑤
口上覚
私共儀此節帰国於被 仰付者海陸望有之候ハヽ可奉申上旨難有御沙汰之趣奉承知候偏ニ 乍恐奉申上候其所小倉迄陸地ニ而同所より大坂迄海上罷帰リ度奉存候間此段被 仰上可 被下儀奉願上候以上
子八月 常州那珂湊 周 蔵
奥州仙台古淵浦 卯太郎
(『那珂湊市史料』第8集、49頁)
(7)「風聞記」収録史料の性格について
これまで見てきたように、「風聞記」は生き残った船頭周蔵と水主宇太郎が、自らの漂流 顚末と同僚乗員の死亡について明確にすることで自己の責任を明確にする必要があった(前 掲、史料①と史料③:『那珂湊市史料』第8集、46-47頁、48頁)。また帰国に際して所持して いる品物の由来(琉球王府からの贈答品)も薩摩藩から始まる取り調べに際して明確にする必 要があった(同、史料④: 同書、48-49頁)。また漂流中の転覆防止のための船荷海上投棄(撥 ね荷)の不可行為性を明確にする必要があった(同、史料①と史料③)。また琉球漂着時の宝 来丸と積荷の状態や残量を明確にしておく必要があった(同、史料⑥:同書、49頁)。また 宝永丸及び諸道具の売却価格や残存船荷の売却価格は船主と荷主への説明に絶対的に必要で あった(同、史料⑧:同書、49-50頁)。以上のような、船頭としての責任から帰国に際して 持ち帰る必要があった文書類であるが、実際に周蔵自身が所持してきたのかどうかは不明で あるが、宝来丸所有者「祐吉」と関係の深い平潟の富商菊池半兵衛の「風聞記」に収録され ていたのである。(なお祐吉と菊池半兵衛との関係については、前掲『那珂湊市史料』第8集、
16頁に詳しい。)
3. 「漂着常陸國人滞在日記」分析
江戸時代における琉球漂着日本船の琉球滞在中の諸対応の記録としては、「琉球評定所記 録」(旧琉球藩評定所書類)の中に「天草人漂着日記」(咸豊2[1852]年10月〜同3[1853]年4月)
と「奥州人七人宮古島江漂着破船那覇江送来候付界抱日記」(咸豊9[1859]年3月)がある注(3)。 一方、上記の「評定所記録」との関係は明確ではないが、九州大学の九州文化研究所所蔵 史料に、漂着日本船関連史料として「道光三年奥州人漂着之時日記」(道光3年[1823]に奥州 気仙沼の船が琉球宮古島に漂着して帰還するまでの諸対応記録)と「漂着常陸國人滞在日記」
(道光20年[1840]4月〜同年8月)がある注(4)。
この「漂着常陸國人滞在日記」の詳細な内容分析は今後の課題とするが、そのための準備 作業として、今回はその内容を概観したい。さらにすでに見てきた「風聞記」と比較した際 の特徴について若干紹介しておきたい。
(1)「漂着常陸國人滞在日記」内容概観
この「漂着常陸國人滞在日記」に基づいて琉球滞在中の経緯について見てみたい。「漂着 常陸國人滞在日記」は道光20年[1840](日本:天保11年)年4月4日から同年8月14日までの記 録であるが、その日付にそって、日記の内容を特に漂着人に直接関連する部分を中心に、漂 着者の視点から簡略に要約して紹介すると以下のようになる。
【日付】【内 容】
4.12 勝連浜村を出立した。大和船(宝来丸)は曳航し、船荷は琉球の馬艦船で運んだ。
宜野湾宿所に到着した。
4.13 船を那覇川へ廻着した。
4.14 漂着者2人は、いま不自由なものがないかどうか尋ねられた。
4.15 船荷は久米村の當間筑登之の家に保管。水戸人(漂着人)用達を勤めるのは屋嘉筑登
之である。不自由品が明示される。
4.16 煎じ薬と不自由品の買い入れ許可。
4.17 不自由品が届けられたが、まだ届いていないものがある。
4.18 所望品2点を追加。
4.19 所望品1点を追加。前日の所望品2点の蝋燭や飯鉢は手配中。
4.20 米、茶、炭が入用である。
4.22 東禅寺で漂流中に死んだ仲間の水主5人の供養をしたいと申し出て、実現した。
4.23 漂着した船・諸道具の売却の話が持ち上がった。
4.24 諸道具目録完成(但し、たばこは含まず)。4月28日に入札予定。
4.29 焼酎1つが漂着人に渡された。夏用衣服1枚ずつが渡された。
5. 3 漂着人に対して、警護付きで歩行が許された(若狭町から久茂地道へ)。奉行所より 8品が渡された。
5.11 船・諸道具の入札を行った。落札先は「宮城筑登之親雲上」に決定した。
5.15 5品贈られた。
5.16 やかん(今焼屋貫)を1つ贈られた。
5.17 風呂に入りたいので、薪木の準備を願い出た。
5.21 船・船具の引き渡し完了の文書ができあがった。
6. 1 漂着人の帰還に際して必要な海上飯料30日分・野菜の準備が始まる。
6. 5 所望品のかや(蚊帳)の準備が要請された。
6.11 宇太郎が医師の喜屋武之親雲上による治療を受けた。風邪とのこと。
薬煎じ用の茶器が割れたので、所望した。
6.16 宇太郎、全快。(6月15日は薬を服用しなかった)
6.19 周蔵、腹痛のために医師我謝之親雲上の治療を受けた。
6.23 漂着人が警護付で歩行した(仲嶋前道から富盛辻まで)。
6.26 周蔵、腹痛全快。
6.28 蝋燭を所望した。
漂着人の荷物保管役の久米村當間筑登之が30日分(4.16〜5.15)の賃米を先例通り請 求した。
6.29 所望の蝋燭を準備し渡すことを関係者に命じた。
前日の久米村當間筑登之の請求賃米を了解した。
7. 6 漂着人所望の薪木(風呂用?)を渡用することを再度関係者に検討を依頼した。
7. 7 漂着人所望の薪木渡用を了解した。
7.10 漂着人の帰国船は、船頭・柏原之喜兵衛の船となった。
7.11 漂着人の宿所である宮里若秀才の家内に死病者が出たために、宿所替えの願いがあ
った。
7.12 漂着人の新しい宿所は、具志秀才の家となった。
7.14 漂着人の東禅寺参詣について、先例の通り警護付での参詣許可を関係者から在番所
に対して要請した。
8. 6 漂着人の東禅寺参詣の許可が出た。東禅寺住持より茶菓の馳走があるだろう。
8. 8 漂着人が帰国のための船に乗船し、那覇を出航した。その乗船に同道として通常は
「くり舟」を付けるのだが、今回は付けていない。
8.10 漂着人の帰国の乗船が8月8日に出航したことを、その職務の責任者が首里王府に登 城して伝達した。
8.13 漂着人の宿所であった宮里・具志の家に対して、先例の通り、賃米を下されるよう
関係者より申し出ている。
8.14 漂流人の宿所であった宮里・具志の家に対する賃米支給実施が促された。
(2)「漂着常陸國人滞在日記」の特徴
「漂着常陸國人滞在日記」は、琉球王府の漂着日本船滞在中の諸対応記録文書である点に特 徴がある。すでに見たように『通航一覧』にあるように、当時の琉球王府は漂着日本船を薩摩 経由で帰還させていた。そのため滞在中の衣食住の提供や治療行為に関する記録が見られる。
一方で、漂着人に対して当時の琉球王府がとった監視と隔離に関する記録も見られる注(5)。 この点について「漂着常陸國人滞在日記」の4月10日の記事につぎのような部分があり、
漂流人(水戸人)に対する堅固な取締が確認されていることがわかる。
水戸人滞在中諸事差引各江被仰付候間締方堅固可被申渡事
さらに那覇へ移送後は、帰還まで久米村で隔離したことについては、4月13日の記事につ ぎのような部分がある。
漂着水戸人荷物之儀先例之通警固相付 今日久米村當間筑登之宅江格護仰付候付 昼夜勤番人等相付置申候此段致御問合候以上 四月十五日 我那覇筑登之 翁長親雲上 御鎖之側御方
漂着人の監視という点では、死亡した5名の供養のために東禅寺参詣を2回申し出るが、
それは警護付で許可された。4月22日の記事につぎのような部分がある。
水戸人とも死人進善之為東禅寺参詣付 足軽村山樅ニ足問役長嶺筑登之用達勤者 人弐人致警固候事
今後、「漂着常陸國人滞在日記」の内容分析を課題としたい。
注
(1)『通航一覧』国書刊行会編集発行、1913年初版。清文堂出版1967年複刻。
(2)『那珂湊市史料』第8集、那珂湊市教育委員会(当時、現ひたちなか市)、1984年。
(3)『沖縄県史料』前近代5 漂着関係記録、沖縄県立図書館史料編集室編集・沖縄県教育委員会発行、
1987年。
(4)「道光三年奥州人漂着之時日記」と「漂着常陸國人滞在日記」の複写物が法政大学沖縄文化研究所 に所蔵されており、利用させていただいた。快く利用を許可していただいたことに感謝したい。
(5)渡辺美季「近世琉球における対「異国船漂着」体制」『琉球王国評定所文書』補遺別巻、巻頭論考、
浦添市教育委員会、2002年。