『人文コミュニケーション学科論集』
21, pp. 85-104. © 2016
茨城大学人文学部(人文学部紀要)-オーラル・ヒストリーによる関係者の「証言」による-
村上 信夫
江連 里恵 岡野 明日香 川口 香澄 中村 美里 友部 咲季奈 小林 和男
(要旨)
筆者及び筆者のゼミの学生たちは、2015年度から関係者への聞き取りを中心に、テレビ 史の掘り起こしを行っている。
これまでメディア史の研究はおもに文書、資料によって記述・記録されてきた。しかし、
テレビ番組制作は多くの職種の人々が携わっており、多様な立場の個人個人がどのように関 わってきたのかは関係者自身の「証言」(オーラル・ヒストリー)によってしか知ることが できない。また、初期のテレビは生放送だったこともあり、映像資料、文書資料も多いとは いえない。残念ながら、多くの関係者が鬼籍に入っている現在、「証言」を収集し、それら を既存の文書資料、映像・音声資料などと突き合わせる作業を行なわなければ、先人たちの 努力、工夫の積み重ねの跡は残らないことになる。NHKでは関係者証言の放送史への反映 とアーカイブ化を進めている(廣谷, 松山, 2012)が、民放においてそれは十分といえない。
調査の手法としてオーラル・ヒストリーには信頼性など検討の余地も多いが、特にテレ ビ史において有効な手段である。本稿は、日本における初のワイドショーとして知られる NET(現テレビ朝日)『木島則夫モーニングショー』誕生に関する、オーラル・ヒストリー を活用した新しいテレビ史研究の成果である。
1.はじめに
テレビ放送が始まり、62年。ドラマ・バラエティー・スポーツ・ニュース・ワイドショー など、様々なジャンルに細分化され、進化を遂げた。
その中でも「ワイドショー」は、アメリカの朝のニュースショー『TODAY』をモデルに 始まったものである(テレビ朝日社史, 1984)。
一般的に「朝のワイドショー」と呼ばれる番組は、平日の午前8時から放送が始まり、キー 局の主として情報局(部署名)で制作、放送されている。情報局はテレビ局により異なるが、
報道、ニュースを担う報道局、ドラマやバラエティー、音楽番組を担う制作局に対し、ドキュ
メンタリーから旅番組、グルメネタなど幅広い。
ただし、現在、番組ジャンルの垣根が低くなったこと、番組演出の進化により、時事問 題とバラエティーが合体したようなハイブリットの番組が生まれ、また報道局制作の夕方 ニュース枠で生活情報、芸能ニュースを扱うなど、どの部署で制作した番組か区別がつきに くくなっている。
その中で「朝のワイドショー」はおよそ次のような特徴を持つ。生放送番組で、芸能プロ ダクションなどテレビ局以外に所属するアナウンサーとタレント及び局の社員アナウンサー が番組の司会進行を努め、何らかの話題について映像で紹介し、伝えた内容について、スタ ジオでの追加解説を加え、タレントや有識者のコメンテーターと呼ばれるゲストを交えたス タジオトークを行なうという番組構成である。
番組あたりの放送時間は各局とも2時間前後と長い。事件、事故などニュースやニュース の特集などの時事性の強い話題、社会問題、流行、社会全体のトレンド、生活情報、グルメ、
紀行企画まで多岐に渡る。「情報ワイド番組」と呼ばれることもある。視聴対象は、その時 間帯に視聴可能な主婦及び高齢者とされ、対象向けのテーマや切り口が多い。
1970年代、「午後のワイドショー」が誕生し、男女の愛憎や事件、性の問題、芸能ニュー スを売り物にするようになっていった。1990 年代以降、その番組内容は「“芸能中心” から ニュースや社会問題を積極的に取り上げ、報道番組とは一味ちがった切り口で見せようとい う “情報主体” へと転換」してきた(日本民間放送連盟編, 1997 : 277)。
視聴率は各番組で異なるが8%~10%と高く、主婦を中心とした女性層の視聴が多いため、
世論喚起のきっかけとなり、2005年の小泉郵政選挙では、「ワードショー政治」「テレビ政治」
と揶揄されるほどの影響力を持つまでになっている。
しかし、報道番組の研究に比べ、ワイドショーを対象とした研究はいまだそう多くない。
理由は生放送であるため歴史的研究がし辛いこと。例えば、全429pあるテレビ朝日の社史『テ レビ朝日25年社史』ですら8pしかない。
また70年代の芸能中心のイメージやワイドショー独特の演出手法でニュースを紹介する ことなどから、報道と比べ「低俗」とされ、客観的な研究分析より論評として語られてきた ことにある。だが、ieten&Pantt(2006)、Scannel(1996)、Hack(1999)らによる、日本の朝 のワイドショーに相当する “breakfast television” の研究や、ワイドショーにおける「主婦」
像の提示を分析した田中(2002)、ワイドショー全体の構造を分析した石山ら(2005)など、
日常生活と密着したメディア経験としてワイドショーを捉える研究も徐々に行われている。
ワイドショーの始まりは、1964年の4月1日に放送を開始し1993年の4月2日に終了した NET(現テレビ朝日)の『木島則夫モ—ニングショー』である。平日朝8:30~9:30に放送 された。
『モーニングショー』のキーコンセプトはスタジオからの生中継で、簡単な進行表に沿っ
て司会者がアドリブで番組を進めていくものであった。これは当時アメリカで評判だっ たNBCのニュースショー『TODAY』 から着想を得たものである。日本でもここから始 まった「生」で「ワイド」な「柔構造」の番組フォーマットは、その後多くの番組にコ ピーされて現在の主流をなすに至っている。(日本放送協会放送文化研究所, P20, 2003)
テレビのニュース番組としてほぼ初めてターゲットを主婦層におき、番組作りが行われた。
それまで纏まることがなかった主婦層の世論形成を担ったとされる。
筆者はテレビ関係者への聞き取りを中心に、テレビ史の掘り起こしを行っている。初期の テレビの多くが生放送であり、映像資料、文書資料も少なく、草創期の関係者が多く鬼籍に 入っている状況から、制作者の証言(オーラルヒストリー)による記録の必要性が、緊急に 迫っているからである。
2015年度からは、テレビ朝日でワイドショー、報道番組などを手掛けてきた小林和男プ ロデューサーの協力を得て、筆者のゼミの学生(江連里恵 岡野明日香 川口香澄 中村美 里 友部咲季奈)と共に、ワイドショーを対象に当時のスタッフに対する聞き取り調査を始 めた。前述理由により、報道に比べ先行研究に乏しく、かつアーカイブも皆無だからである。
3年計画で、ワイドショー史の完成を目指している。
本稿はその研究の一環である。「ワイドショーの誕生」に焦点を絞って、『木島則夫モーニ ングショー』が放送開始までの準備、どんな試行錯誤を重ねて新しい番組ジャンルを作り上 げていったのか。当時の関係者の証言から、ワイドショーの成り立ちを探ることとする。
2.『モーニングショー』の概要
2−1 概要
『モーニングショー』はNET(現テレビ朝日)で1964年から1993年まで放映された日本で 初めてのワイドショー番組である。午前8時30分から午前9時30分の1時間、月曜日から金曜 日まで、毎週、放送された。
最初の司会はNHKのアナウンサーであった木島則夫。アシスタントに栗原玲児、井上加 壽子を迎え、1964年4月1日午前8時半から初回の放送が開始された。
当初は視聴率もあまり高くなかったが、徐々に視聴率を集めるようになり、他の民放局も 朝時間帯にワイドショーを放送するようになる。1968(昭和43)年まで木島則夫が司会を 務め、「泣きの木島」と呼ばれ、視聴者から親しまれた。木島が司会を辞めた後も、長谷川 肇、奈良和、竹中陽一、溝口泰男、江森陽弘、美里美寿々、武見敬三、内田忠男、渡辺宜嗣 と1993年の放送終了まで司会が変わりながらも『モーニングショー』は続いた。
また、2015年からテレビ朝日で、日本テレビを独立したアナウンサーの羽鳥慎一とサブ
キャスターに局アナの宇賀神なつみを起用、午前8時から午前9時55分まで、同名の番組が 復活している。
1960年代初期のテレビ放送の状況
1953(昭和28)年、テレビ放送が始まってから約10年間は、テレビそのものが普及する ための時期だった。NHK東京テレビは短時間のニュース・報道番組を挟みながら、芝居や 寄席などの中継を行っていた。一日の放送時間量は、昼の12時から午後1時30分まで、そこ から5時間の放送休止時間帯をはさみ午後6時半から午後9時まで、合計4時間半の放送だった。
NHKと同じく1953年に開局したNTV(日本テレビ)は街頭テレビを設置し、プロレスの中 継を行うことで人気を得た。
この時期に、NHKも民放もそろって強調したのは「テレビは映像メディア」であること だった。ラジオと決定的に違うのは「見える」こと、イベントやスポーツ中継など「見せる」
ということにこだわった。
テレビ史上のターニングポイントなったのは、ʼ59(昭和34)年4月10日の皇太子さまと美 智子さまのご成婚だ。NHKと民放はテレビカメラ100台、放送要員1000人を動員し、結婚パ レードの中継を行った。NHK受信契約数100万を突破したのは ʼ58(昭和33)年5月。それ が1年もたたない59年4月3日(ご成婚の1週間前)、2倍の200万件を突破する。こうして、テ レビは街頭からお茶の間へと進出していった。
昭和35年、この1年は、戦後の日本歴史にとって長く記録せられるべき時期であった ろう。安保改定を巡って明け暮れた政治、目覚しい日本経済の前進、更に、エネルギー 革命の嵐の中で起きた三井三池の争議など数々の出来事があった。(1960(昭和35)年
12月30日放送NHK『ニュースハイライト冒頭コメント』)
60年代に入るとテレビは速報メディアとしての特性を発揮し始める。ニュース映画から 始まったテレビニュースは、新たな境地を拓いていた。ʼ60年4月始まったNHK『きょうの ニュース』(22時~22時20分)は写真や図表を使い、当事者を呼ぶなど演出に工夫を凝らし、
フィルム映像がなければニュースにならないというそれまでの概念を払拭した。一日の主な ニュースを総合的に伝える初めての大型報道番組だった。
当時のニュースの番組演出
テレビ本放送の開始(1953年)と同時に、NHKとNTV(日本テレビ放送網)はニュース番 組を編成している。「電気紙芝居」とも揶揄されたこの時代のテレビニュースは、スタジオ セットも極めて素朴で簡素なものであった。(廣谷, 米倉, p57, 2009)
当時は、文字や写真、地図などの静止画をベースにアナウンサーが原稿を読み上げる「パ
ターンニュース」が中心であった。フィルム取材の「ニュース」もあったが、NHKもNTV(日 本テレビ)も自前のフィルム現像設備を持たず外部に委託していたため、数日から一週間遅 れの映像が放送されることも珍しくなかった(テレビ報道研究会編, 1980)。当時のテレビ ニュースは、速報性とは程遠い状況であった。
1960年代に入るとテレビは急速に普及し、NHKのみならず民放各局の取材・制作ネット ワークの整備、放送時間枠の拡大などを背景に、テレビのニュースは質・量ともに拡充され た。その流れの中で内外のニュースを幅広く伝える「総合編集型」「ワイド型」の大型報道 番組が登場する(萩原滋・川端美樹, 2001)。
『NHK きょうのニュース』(NHK,1960~1972)や、民放初のワイドニュース『JNN ニュー スコープ』(TBS,1962~1990)などはその代表的な番組である。
テレビ美術もクロマキー(背景のスクリーン)やパターン(説明用のボード、フリップと も言う)の活用、複数台のカメラの使用など、徐々に多様で立体的なものになっていった。
(廣谷, 米津, p56, 2009)
朝の時間帯のテレビ
朝の放送は、NTV(日本テレビ)が放送開始3年後の1956(昭和31)年、NHKが翌57年に 始まった。当時、映像を伴うテレビは、ラジオと違い「ながら視聴」に馴染まず、忙しい朝 の時間帯のメディアではないと考えられていた。(日本放送協会放送文化研究所, P19, 2003)
ʼ61(昭和36)年から ’62(昭和37)年にかけて、テレビ各局は午前6時ごろから深夜0時ご ろまで一日中切れ目なく放送する全日放送体制になった。
しかし、相変わらず朝の時間帯は、多くの視聴者を引き付けることは出来ないと考えられ ていたため、ニュース、子供向けの漫画映画、テレビ体操などが雑然と配置されていた。
朝の時間帯におけるテレビ視聴者が拡大したきっかけは、NHKの連続テレビ小説だった。
テレビドラマでありながら音声だけを聞いても分かるように丁寧なナレーションをつけるこ とで、「ながら視聴」を可能にし、朝の視聴習慣を変えたのだ。
朝時間帯の視聴率はNHKのニュース~朝の連続テレビ小説(8時15分~8時30分)が独走 し、民放にとっては「不毛の時間帯」と呼ばれていた。
『モーニングショー』前夜
朝の時間帯、NETでは『株式市況』が放送されていた。が、1962(昭和42)年に当時 の日本ヴィックス社(大阪)からの要請で生のワイドショーを作ることとなった。日本で 初めてのワイドショーを作る際に、アメリカのワイドショーの『TODAY』を参考とした。
『TODAY』は、1952年から毎週月曜日から金曜日の午前7時から午前9時まで放送していた。
内容は最新のニュースやスポーツ情報、天気予報の他にも、歌のコーナーなどもあった。
『TODAY』と同じようなスタイルをとり、日本初のワイドショーの『モーニングショー』が
企画された。
当時の様子を『テレビ朝日25年社史』では、次のように記している。
同社(*筆者 日本ヴィックス社)のパーク・C・ピーターソン代表取締役は、番組 についての希望をこのとき次のように語った。
「あなたがたは、アメリカのNBCで1952年1月14日から今日まで12年間も続いている
“TODAY” という人気番組を見たことがありますか。私どもが新たに考えているワイド ショーの、雛形として共通した点はありますが、それをそっくり日本でやろうとして も駄目です。日本には、日本のワイドショーのつくり方があるはずです。希望する番 組を日本語では巧く言いあらわせませんが、イメージ的に表現すれば “Good Morning
Show” と、親しみをこめて呼ばれるような内容の番組としたいいのです。(全国朝日放 送株式会社総務局社史編纂部, p99, 1984)
開局5年目のNETとしては、「民放不毛の時間帯」に月~金帯、かつ日本で初めての生ワ イド番組は大きな冒険だったに違いない。営業面では博報堂が協力し、この番組編成、ネッ トが可能であるならば「スポンサーのつかない2月~3月の学校放送番組を一括して提供」(テ レビ朝日,p98, 1984)というような、後発の教育テレビ局として苦労していた同社にとって、
営業面での調整が強力に進められた。
それに呼応するように社内では、報道、制作から横断的にスタッフが集められ、短期間で プランニングが行われ、週5日の放送枠や内容が固められた。
当時の様子を、次の方に聞き取り(オーラル・ヒストリー)調査を行った。(取材順)
・ 外崎宏司さん 当時、NET社員ディレクター。1964年春にスタートしたテレビ史上 初の朝の生ワイド『木島則夫モーニングショー』に準備段階から番組Dとして参加、
以後、5年間にわたって携わった。『モーニングショー』が始まる以前は、並行してド ラマの演出も担当。現在は各地で講演会を行うなど活躍している。
・ 栗原玲児さん モーニングショーでサブ司会を担当。NHKラジオのアナウンサーと して各地の局でキャスターを担当。その後、博報堂に入社し、CMナレーター。そこ からFM東海でディスクジョッキーを一年務める。その放送を聞いた外崎さんから出 演オファーをうけ、『モーニングショー』でサブ司会を担当することになった。
2.研究方法 オーラル・ヒストリーについて
オーラル・ヒストリーとは「人々の語った過去の経験を基に歴史学を組み立てていく方法」
(酒井順子, p5, 2008)である。1970年代以降、新しい歴史の研究手法として民衆や女性、エ スニック・マイノリティの歴史などにおいて意識的に採用されるようになってきた。
オーラル・ヒストリーは口頭インタビューという形で得られた「証言」から個人的な史実 を集め、歴史的資料として記録を残すものだ。オーラル・ヒストリーは「証言」でしか知り 得ない事実を残すことに意味があり、既存の事実、文書資料から一歩踏み込んだ内容を引き 出す。今回は取材対象の了解を得てインタビューを録音、インタビュー後、文字に起こし分 析を行った。
3 オーラル・ヒストリー調査による語られる「ワイドショー誕生」
3−1 1960年代初期のNETの状況
番組の準備から携わっていた外崎さんに、「モーニングショー」の開始前のNET(日本教育 テレビ)の状況に関してこう語る。
外崎 )テレビ朝日っていうのははじまりが日本教育テレビなんですね。で、略称が NETです。日本エデュケーショナルテレビ。今、ようやっと追いついた段階です けども、日本教育テレビは他の局に比べて、後発。
例えばですね、日本テレビが民放では一番早い。その年の2月にNHKが始まって、
8月の28日に日本テレビが始まって、それから2年くらいしてTBSが始まって、そ れから2年くらいして、フジテレビとテレ朝が始まるんです。しかも、日本教育テ レビっていう学校教育。学校教育っていうのは世の中に必要なことではあるんだけ ど、それで日本テレビやフジテレビの娯楽路線と戦うのは難しくて。勝てないわけ ですよね。いろんな形で、なにがプラスできるか試行錯誤だった。私が入った直後 なんか、確かに試行錯誤をしていましたね。
私個人で言うと、私、中途採用なんです。それまで何していたかというと、一つ は新聞研究所の職員、それと並行して新劇の劇団員をやっていた。役者じゃないで すよ。演出部です。それは、3・4年やりました。で、中途採用でテレビ朝日に入 るわけですね。途中から入ってきた人、これはフジテレビもそうなんですけど、途 中入社がすごく多かったですね、途中から入って、でも入って半年もしないうちに ディレクターをやらされました。もっとも、お芝居をやったり、新劇にいってたり、
テレビを予期していけばこういうことをやらなければいけないわけだから、という そういう準備でもあったわけなんですけどね。すぐ間に合う人だったわけ。入って 一年もしないうちに一本立ちのディレクターをするわけです。
そのディレクターでお笑い番組などをやって、最後に仕掛けたのが昭和38年の
「ご機嫌バラエティー」っていう。つまんない名前なんですけどね。真の柱になる人 は、談志、まだ小ゑんだったかな? 談志を引っ張ってきて、お笑いの指示をしてっ ていうのを始めて一ヶ月もしないうちにこっちのモーニングショーにまわされた。
その番組はどうもそういうのが好きじゃなかった人がいたとみえて、変わっちゃい ましたけどね。
当時、NET(日本教育テレビ)は民放唯一の教育番組を中心に放送するテレビ局として放 送事業に関する免許を取得していた。『テレビ朝日社史』(1984)によると、免許取得の際 に記した放送事項には、放送時間帯のうち教育が53%以上、教養が30%以上、報道、広告 などその他を若干放送するとある。大衆娯楽としてのテレビが確立し始めた時代に、娯楽路 線で強い日本テレビやフジテレビと競争するのは困難であったようだ。
3−2 「TODAY」の影響
モーニングショーの企画において重要な役割を果たしたのは、日本ヴィックス社の社長で ある。通史などでは、アメリカNBCの『TODAY』の影響が大きかったように記録されるが、
演出を担当した外崎さんは、「一度も見たことがない」と語った。当時、VTRもなく番組を 見る機会はなかったというのだ。では、どのようにしてヒントを得ていたのか、初回の放送 でディレクターだった外崎さんは日本ヴィックス社のパーク・C・ピーターソン代表取締役 社長の存在を挙げる。
外崎 )木島則夫さんのモーニングショーというのは、さっき言いましたが、39年の4月 1日ですけども、この前の年の年末に命令を受けましてそのスタッフに入る。私は それまで何やってたかというと、お笑いのバラエティーものとか、それから、年齢 も三十前でしたから、ドラマのADをやってたんですね。誰が推薦したのか知らな いけど、この番組をお前やってくれとそういう話になって、私にとってそれが始ま りになったわけです。
スポンサーとか浅田さん(*筆者注 プロデュサー・チーフディレクター)に とってはもっとずっと前から始まってたようです。どういう形で始まってたかとい うと、ヴィックスですね。あのヴィックスが日本に進出するんで。まあ、宣伝をし ましょうと。で、ヴィックスは博報堂と組んで、こんな番組やりたい。でその番組 とはどんな番組なのか、と、つまりワイドショーですね。それからヴィックスの東 京支社長(*ママ)さんですが、頭の中にあったのは、アメリカにはあるけど、日 本にはない、なかったそれがワイドショーだったんです。で、そのプロデューサー の浅田さんを呼んで、これは割に有名な話なんでチラチラとここらに書いてあった
りするんですけど、いまここでワイドショーが始まった、ここに台本があります、
台本で、やるとしてやるとしたらどんな風にやっていきますか? そして、その台本 が突然消えてしまったらあなたどうします?
で、プロデューサーは言葉に詰まったわけです。どうしたら。そしたらそのピー ターソンさんが「窓の外を撮したらいいじゃないですか」と。
今、これです。今は。このワイドショーの始まりにあたってはですね、スポンサー としてのヴィックスの日本駐在の社長さんの営業力というのがかなりあるんだと思 います。で、そのようなことが前提にあって、途中で代理店さんの博報堂さんが絡 んで、ヴィックスだけでは全国ネットでやるのは大変なんで、これが四月頃になっ てまだだいぶ赤字だったらしいんですね。ヴィックスが四分の一で、日本石油が四 分の一でっていうふうに。スポンサーを集めてきて、それをまとめたのが博報堂の はずです。はじめはまだ、長いこと赤字だったらしいんですけど、後で聞いたんで、
その形で番組が始まった。
一方、木島則夫と共にサブキャスターを務めた栗原玲児さんは、出演者が決まったのは放 送の3か月前だったと記憶している。
栗原 )(準備していたことは)全くなかったですけれど、これも外崎さんからお聞きなっ たかと思いますが、モーニングショーの仕掛け人は確かピーターソンさんっていう 日本ヴィックスの社長。この人がアメリカのワイドショーの話をして、これを日本 でもやらないかと持ちかけて始まったこと。そのピーターソンさんが色々アメリカ のワイドショーではこうだよと話をしてくれた。つまり「キャスターは自由に喋る んだ、自分のパーソナリティーで自由に喋るんだよ、原稿に縛られない、自分の言 葉で喋る。それがウケてるんだ」ということを、確か教えてくれた気がします。そ うだったと思います。
だからこっちの心構えとしても、勝手に喋って良いんだと。また当時の外崎さん はじめチーフディレクターは浅田さんという人ですが、テレビ朝日(当時NET)の スタッフも我々出演者に向けて、自由に喋ってくれと。自分の言葉で喋ってくれと。
感じたことをそのまま言葉にすれば良いんだから、こっちからは原稿はお渡しませ んと。言われていたから最初から自由で、気持ちも自由だった。緊張は当然しただ ろうが、圧迫感のような緊張はなかった。寧ろ楽しみだった。
3人が3人とも徹底的に理解して、自由に喋って良いんだ。木島さんがお父さん 一家の主で僕がちょっとやんちゃな息子で、井上さんがお姉さんというのか奥さん というのかという役割で。井上さんが女性の立場から、木島さんが良識を代表する 一家の主で、僕はやんちゃに喋れと。それぞれの役割分担を理解して始まった。
当初は何も決まっていない状態からのスタートだった。番組準備が進む段階で、日本ヴィッ クス社のピーターソン社長の助言などあり、だんだんと「モーニングショー」が形となって いったことが窺える。
主婦層をメインターゲットとする番組作りは、当時、それ自体が異例であった。多くはファ ミリー層ターゲットだったのだ。それに対し、主婦層をどう意識したのだろうか。
筆者)ターゲットは主婦なんですよね。
外崎)そうです、30代以上の主婦がターゲットです。
筆者 )番組開始当時は都会の主婦と田舎の主婦はものすごく差があったと思うのです が・・・
外崎 )その差というのはそんなに意識はしてませんでしたね。でもどちらかというと、
地方の人たちの人を意識して、そこまでさらえないとだめだ、ということにはなっ てましたね。あちこち地方から纏まって見学団が来てたりもしましたしね。
飛車)準備のどの段階で主婦をターゲットにしようと?
外崎 )はじめからです。朝のその時間でこういう帯をやるからには、目標は30代以降の 主婦であると。
筆者 )僕らの仮説では、ワイドショーができて初めて主婦層という塊だったり世論がで きたという感じなのですが、番組をされていた方からするとどうでしょうかね。
外崎 )うーんどうでしょうね。今、想像する以上に、農村の主婦と都会の主婦というの が明らかに違っていて、その辺が変わる、変わった、変わる時期だったんだと思い ます。今になって完全に変わりましたけどね。そういう風な気がします。
筆者)そのタイミングに合ったってことですかね。
打合せ風景 (外崎さん 撮影)
外崎 )それはそうですね。・・・主婦を狙ってやるとして、それがその通り当たるかど うかっていうのは、私たちも半信半疑だったんですよね。
筆者)その当時は、他の番組で主婦を狙った番組というのはあったんでしょうか。
外崎)あったんでしょうけどピンときませんでしたね。
外崎さんの実感では、地方の主婦により多く反響があったという。主婦層をどう意識した かという質問に対し、外崎さんの記憶にあまりない。が、プロデューサー・チーフディレク ターだった浅田孝彦が、「浅田さん自身が、つまり平凡社というのが婦人向けのをやってま したからね、それは一つはあります」という。
3−3 番組の構成
放送当初の『モーニングショー』は、話題の人を招き、話してもらうのが基本の番組スタ イルであった。話題の人は著名人から一般の人までバラエティーに富んでいた。実際、初回 の放送では行方不明となった少年の母親をスタジオに招いた。
ニュースで大きく取り上げられるような人物だけでなく、一般の視聴者をスタジオに呼ぶ こともあった。その他、生バンドの演奏やプレゼントのコーナーなどがあり、スポンサーで あった日本ヴィックス社のCMで番組が構成された。
代表的なコーナーには、今村昌平監督の映画『人間蒸発』(1967年)の基になった「人間 蒸発」などの企画がある。「人間蒸発」は、1960-70年代、高度経済成長の影として急増し ていた成人の失踪をテーマに、視聴者の依頼を受け、失踪中の人間を探すものだった。また、
視聴者プレゼントコーナーやバンドによる生演奏のコーナーもあり、電話での中継など、生 放送ならではの放送内容となっていった。
また、前述の証言のように、司会を家族構成のようにしようと考えられており、メインの 司会者である木島則夫が家長、女性司会者の井上加壽子が主婦、栗原玲児が木島則夫と世代 の違う若者というキャラクター設定がされていた。
当時、番組にはしっかりした台本はなく、進行表1枚で番組の撮影が進められていた。16 人という少ないスタッフの数だったため、取材も様々なことを兼任していた。
台本は進行表一枚
台本に関し、外崎さんは全体の進行は「進行表一枚」、個々のコーナーはディレクターが 書いた台本があったという。このフォーマットになったのは、試行錯誤を繰り返し、放送開 始から半年程度経ってからだった。
外崎 )テレビというのは、何によって作っているか。何で作っているかというと普通は
台本です。台本というのはつまり、例えばこれ、ドキュメンタリードラマの台本。
私がプロデュースした作品なんですけど。中に、どうゆう内容があるか。見たこと はあるでしょうけども、どこの何番目のどのシーンでどういうセリフを言って、ど ういう内容があって、どういうものが写っている、そういうものをやるこれが、台 本の普通の形です。で、それに対してですね、モーニングショーが始めたのが何か と言うと、どういうものであるかというと、こんなもんです。これが台本です。
筆者)進行表が決定稿なんだ。
外崎 )そうです。台本であったものが進行表に変わっちゃったのが、それがワイドショー です。
筆者)挨拶のセリフとかもなし?
外崎 )例えば、毎日使ってますから、挨拶なんかは決まり文句としてある。それからで すね、それぞれのコーナーコーナーは、作る場合には、中継が入ってるのはそっち か。それは例えば、10分間この中継をやる。この中継の中では、こういうとこから 入って、こういうところは落とさないでやろうねということくらいは決めるんです。
で、ですからそのひとつの一時間の番組の中で、いくつかの塊があって、それをそ れぞれの担当者がやる。つまり、きちんと、放送の形にはするんですけど。で、そ れの集合したものがその日の担当の放送のディレクターがそれを全部まとめてやる ということです。
進行表一枚に落ち着くまで、スタッフ間でも議論があったようで、外崎さんは、次のよう にも語っている。
外崎 )三人でテーマを選んで、お喋りをきちんとやるということ。つまり、意見の対立 があったほうが、面白い。といって、わざとやるのではなく、モノの考え方の違い というものを、浮き彫りに出させたらいいんではないかというのが、この番組のや り方のコンセプトになったわけです。そこにいたるまで、かなり年がら年中ですね、
短い期間でしたけれども、討論をやり、そこでこっちへ持っていったら反感をかう から、つまり反論のやり方はこういうやり方でやると、でただし、それがそれで固 まって、台本の形ではなくしよう。
進行表に関しては、栗原さんも放送初日から台本がなく進行表一枚であったため、放送時 に話すこともアドリブであったと記憶している。
栗原 )確かに初期のモーニングショーも作り物ではあるんですが、アドリブで、それこ そお茶の間にすんなり入り込めたのはアドリブだったからだと思います。
筆者 )まさに今起きていることを語りながらですもんね。
栗原 )(例えば)今日は来る前に皇居前を通ったのですが、何故かトラックが事故を起 こして豚がいっぱい皇居前を走っていました…え、皇居前を豚が!?ってみんなで 笑い転げていました。失敗もありましたけど。明治天皇の靴職人という人が出て来 て、これが明治天皇の靴です、と。え、これが! 馬鹿でかいんですねって言ってか なり問題になりました。怒られましたね。
このモーニングショーのアドリブの魅力は、当時の進行表が一枚であった偶然で出来たも のではなく、番組が意図して行なっていたものであった。浅田(1964)もナマの魅力・ハ プニングの魅力と書き出し、次のように述べている。
予定され、準備されたものにとらわれてはいけない。予定はあくまでも目安である。
放送中、話が面白く発展したら、時間は延びてもかまわない。その代わり、つまらな かったら、早く切り上げて次に移ろう。それがありのままの魅力であり、この番組だ けがやれる特色なのだ。(『ニュースショーに賭ける』)
なおこれらの台本は、記者、ディレクターが書いた。これに関し、外崎さんはこう感想を 述べている。
筆者)スタッフに作家はいたんですか。
外崎 )いません。作家はバラエティーだとかにいましたけどね。少なくともテレ朝の場
進行表表紙 進行表
合はこの手の番組については作家はいません。すべて報道記者が、というか、取材 記者がやるんです。それで他の局の連中と付き合うと放送作家がいるので、ああ、
やり方が違うんだと思いましたね。
3−4 『木島則夫モーニングショー』放送開始
前述のような準備が重ねられ、1964年4月1日に『木島則夫モーニングショー』の放送が 始まる。司会の3人が声を揃え「8時半です。皆様、おはようございます」と第一声をあげた。
ワイドショー誕生の、歴史的な日である。
初回の番組内容は以下の通りである。
・村瀬吉展ちゃんの誘拐から1年。スタジオに母親の村瀬豊子さんが登場。
(後に『吉展ちゃん誘拐殺人事件』に発展)
・三井美葉とレギュラーバンドの紹介
・コーナー「お献立のヒント」(田村魚菜先生『もはらだき』)
・昨日の交通事故・火災の件数 ・赤ちゃんに登場してもらう
・団地の奥さんたちから集めてきた愚痴をテープで流す ・交通事故を体験した一般人の話
・コーナー「今週の歌」あさのうた(作詞:薩摩忠、作曲:服部克久)
・コーナー「新婚さん」新婚旅行から帰って来た三瓶さん夫婦をスタジオで紹介。
バンド演奏で祝福し、プレゼントを贈った。
・ゲストは、襲名したばかりの歌舞伎役者六代目市村竹之丞
・歌のゲストにヴィックスのCMソングを歌っていた歌手の楠トシエ
以上の内容に加え、CMをはさみ、テレビ史上初のワイドショーは放送された。
外崎宏司さんは初回のディレクターを担当している。CMについて次のように語った。
筆者 )CMの時間は決まった時間に流していたのですか? それとも自由に?
外崎 )自由です。中身が何分あるかとかそれは決まりありますけど。この番組はね。他 の番組はわからないですけど。
筆者)じゃあ、自由ではないものあると?
外崎 )これまで、それがCMの時間というのは決まってるのは、つまり先どりをして VTRにいれたものはそれは時間が決まってくるわけですね。つまり先どりしてい ると時間がわかるから。時間が分かれば、10分50秒からCMに行くというふうに決
まりになるんですね。ところが、我々のは、生ですから、CMが決まってないとい うことです。それも生番組ならではの形ということですね。
番組の内容からCMにいたるまで生放送を生かす番組作りがされたことが窺える。また内 容が盛りだくさんだった一時間について外崎宏司さんと『ニュースショーに賭ける』(1967)
の著者でチーフディレクター浅田孝彦(故人)共に「初回である心配もあり内容を詰めた」
「内容が欲張り過ぎていたのではないかという反省」と、述べている。
またサブ司会の栗原怜児さんは初回放送日について、次のような印象を語っている。
栗原 )あんまり覚えてないけど、ずっとニコニコニコニコしてて、3人の掛け合いが上 手くいって、終わったらスタッフがみんなでオーッと声をあげて拍手をして、みん なホッとしてとってもハッピーだったのは覚えている。
筆者)歴史的瞬間ですもんね。
栗原 )今思えばね。それが本当に上手くいったんですよ。放送ってこんなに楽しいんだ なって思った。掛け合いも良い塩梅で。何を話したかは全然覚えていないんですけ ど。
初回の放送を無事終え、『木島則夫モーニングショー』は滑り出していった。「生放送は新 鮮な話題が命」と、その日に起きたその日の出来事を探すために、スタッフは飛び回った。
プロデューサー、チーフディレクターの浅田はその著書(1964)で、初期の頃の番組作り の様子について、次のように記した。
最初の数日間、スタッフは一日何時間寝られただろうか。忙しい開局の時でも、これ ほどではなかった。家に帰り着くのが一時、二時。そして迎えの車に叩き起こされるの が五時半か六時なのだ。(中略)やっと制作の流れが軌道に乗り、何とか縮小せずにやっ て行けるという見通しがたったのは、十日目頃だったように思う。(『ニュースショーに 賭ける』)
準備段階からスタッフたちは少人数で忙しく作業を行なっていたが放送が開始し、毎日翌 日の放送に追われる生活になり、スタッフは準備段階より更に、忙しい生活になった。
さらに番組のネタ集めと同様に大変だったのは、視聴者から送られてきたプレゼント応募 ハガキの選別であった。番組で紹介されたプレゼントへの応募ハガキは「1万、2万、3万と 日を追って増えていった」と外崎さんは記憶している。
今までにない番組が、視聴者に受け入れられていく様子が、このエピソードだけでも伝わっ てくる。
ワイドショーの誕生
生放送に拘る番組のスタイルが力を発したのは、1964年6月16日に起こった新潟大地震で ある。新潟粟島沖40キロを震源に、新潟市で震度5、死者:26名、家屋全壊:1,960棟、家屋 半壊:6,640棟、家屋浸水:15,298棟の被害を、日本海側9県に及ぼした大地震だった。
外崎 )新潟の大きな地震。その地震で取材の方法、放送の方法としての生での番組化も 決まって、取材の方法もここで決まったわけです。どういうふうに決まったかとい うと、新潟で地震があって、その経験者つまり、地震にあった人ですね。地震にぶ つかった人を捕まえてきて、番組に放り込む。このやり方は、他所の番組はやって ない方法だったんですね。現地から戻ってくる人たちを捕まえて、翌日のスタジオ に放り込み、語らせる。というそういう方法ですね。この方法がどういうことで評 価されたかというと、人間の感情を込めたニュース、怖かったっていうのもあるし、
こんな風に見えたでもいいし、最後かと思ったとかいう、ようなこともあるし、そ ういうニュースというモーニングショーそのもの、ひとつのタイプを作ったんです ね。新潟の地震を通して。
経験者を呼び、生々しい声を語らせる。単に、5w1hの事実を伝えるだけではなく、人々 の喜怒哀楽、「感情」を伝えるという、ニュースショーとは違う、ワイドショーのスタイル はここから始まる。
ワイドショーの誕生である。
司会が3人、楽しくお喋りしたり真剣に討論したりしながら、番組を進行していく。スタ ジオで生演奏をするバンドが演奏以外でもスタジオにいて、司会の話に反応する。当時では 考えられなかった。
また朝の生放送番組で歌手が歌を歌う。あるいはそれまでは放送事故とされた、テレビカ メラなどの放送機材が映り込むこと、スタッフが映ることがある。テレビ放送開始から10年。
それまでの積み上げられてきたテレビ番組の文法、演出には全くなかった、新しさが大きな 反響と共感を呼んだ。
一方で、現在のワイドショーに共通したサロン形式と言われる多数のコメンテーターの存 在などは、この時期、見られない。あくまでもスタジオにゲストを呼び、司会3人と話すのだ。
その後、サブ司会の栗原さんが現場へ行き、電話中継を行うなど、現在に通じる演出が見ら れる。
栗原さんは放送開始から3年間、番組のサブ司会を担当するが、当時の周囲の反応を次の ように語っている。
栗原 )街へ出るとやたら声をかけられましたね。良い意味で。見てますよ、頑張ってく ださいとか。人づてにも。覚えているのは、谷崎潤一郎さんがご覧になられて「栗 原ってのはとても面白いね」って言ってくださって、人づてに聞き、嬉しかったこ とは覚えています。あと悪いことでは、放送期間中に婚約をして、エンゲージリン グをしてテレビに出た途端にクレームの投書と電話が殺到して。男のくせに指輪を するなと。だから日本で初めて指輪をしてテレビに出た男だと思います。
筆者 )そうなんですね。当時は指輪をする文化がなかった。
栗原 :全くなかった。そういう時代。だから新鮮に受け止められたのでしょうけど。だ からそれだけ批判や抵抗があったのも事実です。
このようにモーニングショーは「生放送」という価値・意味を新しい演出に変え、アドリ ブの面白さや、今、実際に起きているということの共感を持って、お茶の間に入り込んだ。
他局もこのモーニングショーのスタイルを意識し、それまで視聴率不毛の地と言われてき た朝の時間帯に新しい番組を立ち上げていく。
外崎 )1965年には同種の番組が続々スタートします。つまり、考え方が新しいだけで、
別に作るのが難しいわけじゃないですから。で、どういうのかというと、4月、65 年の4月にNHKで『スタジオ102』、それからテレ朝の中で12時から『桂小金治アフ タヌーンショー』、まあ「怒りの小金治」と言われてましたけどね。それから5月1 日に『小川博ショー』。これは強敵でした。小川さんのところっていうのはつまり、
芸能ものを主体に、柱に作って、フジテレビはその辺が強いですよね。
こうして各局が競いあい、独特の特色を持った「ワイドショーの文化」が形成されていっ たのである。
当時の主婦にとって「モーニングショーを見ている」ということが付き合いをする上で欠 かせない条件であったという。(浅田,1987)。生放送の特色を生かしながら、社会問題、生 活情報、教養を紹介、さらに視聴者とのつながりを意識したワイドショーは当時の20代~
40代の主婦層にとって「自分たちのメディア」になっていったのである。
3−5 視聴率の推移
前節において、モーニングショーが放送開始した当初について述べた。文中で視聴者の知 名度があがり、視聴者からの反応も大きかったと述べたが、果たして視聴率としてはどのよ うに推移していったのか、放送開始当初の視聴率は次のようになっていた。
放送開始直後のモーニングショーの視聴率(1964年4月1日〜10日)
4/1 4/2 4/3 4/6 4/7 4/8 4/9 4/10
3.0 1.9 1.9 3.0 2.4 3.7 2.0 2.4
視聴率をみると当初の視聴率は決して高いとは言えなかった。4月の平均視聴率はビデオ リサーチ調べで2.7%、ニールセン調べで2.2%だった。同じ時間帯にNHKで放送されて いた連続テレビ小説『あさつき』(4月6日からは『うず潮』)は、常に20%超えの状況であっ た。
しかし、新聞で取り上げられるなどして徐々に認知度が高まり、半年後の10月の平均視聴 率はビデオリサーチ調べで8.5%、ニールセン調べで7.8%まで上昇した。
その後、『モーニングショー』は、平均視聴率15%を目標に、さらに「今日でなければな らないネタ」を求め走ることになった。
放送開始から8か月後、1964年12月から翌年4月までの月平均の視聴率が15%台に達し、
第一期黄金時代とよばれる時期を築いていった。
4.まとめ・考察
今回の聞き取り(オーラル・ヒストリー)を通して、ワイドショー誕生について、具体的 な経緯や放送開始当初の様子を知ることができた。
アメリカのニュースショーを参考に企画された『モーニングショー』は、準備段階からス タッフの手によって今までにない自由な番組形態となって放送が開始した。
また、放送開始当初のモーニングショーと現在のワイドショーを比べ特徴的なのは、台 本・進行表の量である。放送開始当初のモーニングショーはA4サイズの進行表一枚によっ て番組が進行していた。その後、時代を経るごとに、台本が作られ、予め喋る台詞も作ら れていった。栗原さんは、当時のことを振り返り、「アドリブが効き、自由な番組であった」
と語っている。
『娘と私』(ʻ61年)に始まるNHK朝の連続テレビ小説は、朝の視聴習慣を確立した先兵で ある。そして、連続テレビ小説の後の時間帯の視聴者を獲得したのは、『木島則夫モーニン グショー』だった。それまで “不毛な時間帯” と呼ばれ、開拓されていなかった朝の時間帯。
これにワイドショーという新しい番組ジャンルを作った『木島則夫モーニングショー』の功 績は大きい。連続テレビ小説は「ながら視聴」、『モーニングショー』は「つまみ食い視聴」
という視聴形態をもたらしたといわれる。
最後にこの番組が始まった1964(昭和39)年、どんな時代だったのか、外崎さんの言葉
で紹介する。
外崎 )この昭和39年というのがどういう時期、どういう年だったかというのを、メモを 書きました。戦中戦後の日本が扱い残してきたものがかなりあるんではないか。例 えば、これはあの、番組の中で色々とあるんですけど、戦争犯罪人、戦犯を含む、
大陸・・・中国ですね、に残された人、残留孤児を含め、そういう人たちが沢山い た時期がこの時期なんではないですか。
それから産業構造の変化。日本は完全な重化学工業化を目指して高度経済成長を 始めた。エネルギー構造は劇的に変化して、炭鉱は各地で見放され、だから事故が 沢山起こったんですよと。整備不良と。事故は続発して、そのたびに何百人という 犠牲者が亡くなりました。九州でも、北海道でも。
それからですね、集団就職。この時期は春になると汽車に乗って北海道方面、あ るいは西の方から中学を卒業したばっかりの少年少女が山のように東京にやってき た。産業構造の変化ですね、で、産業が変わったのは良いんだけど、一方では公害 病が多発しました。水俣病然り、何々然りと。恐るべき公害病が多発した。空港の 整備が進んで、新幹線も登場して、交通についてはすっかり変わったわけです。高 速道路が伸ばされ、都心にも高速道路が登場し、自動車が劇的に増えました。しか し、同時に交通事故もまた増えた。「むち打ち症。が流行語にもなったりした。
それから、社会生活の変化。64年の丁度4月1日から自由化された海外旅行は、
早くも自由化当時のあっという間に4倍になって、世界的な文化の変化は日本にも、
カタカナ文化の奔流となってやってきたと。ビートルズが66年に来日し、武道館は 満員となる。世界的な流行は、即、日本でも流行するようになる。
そして、この年、1940年、昭和15年に予定されていた東京オリンピックがずっ と遅れて実現しました。
今回の調査を通して、放送開始当初の『モーニングショー』と現在のワイドショー番組と は放送内容や番組スタイル、演出など、大きな差異が見られた。これはどのような状況から 生まれたものか。またワイドショーの影響として語られる「女性層」の創出に関しても、今 後の研究の課題としていきたい。
外崎さんは、現在のワイドショーに関し、浅田の言葉を引用し、こう述べている。「『木島 則夫モーニングショー』は徹底した共同制作であったと。これもその浅田さんの指摘によれ ば、現在のワイドショーにはその共同意識は無くなってしまったなあということを書いてい ますね」。
参考文献
・浅田孝彦『ニュースショーに賭ける』(光文社
1967
)・浅田孝彦『ワイド・ショーの原点』(新泉社
, 1987
)・池田正之「放送ジャーナリズムの発展と問題点」島崎哲彦ほか編『放送論』(学文社
, 2009
)・伊豫田康弘・上滝徹也・田村穣生・野田慶人・煤孫勇夫、『テレビ史ハンドブック』(自由国民社、
1996
)・
NHK
編『20
世紀放送史』(NHK
出版、2001
)・酒井順子「
2010 JOHA
連続ワークショップが意図したこと」『日本オーラル・ヒストリー研究 第7
号』(日本オーラル・ヒストリー学会、2011
)・桜井厚(
2002
)『インタビューの社会学-ライフストーリーの聞き方』(せりか書房、2002
)・全国朝日放送『テレビ朝日社史
:
ファミリー視聴の25
年』(全国朝日放送株式会社総務局社史編纂部・テレビ朝日
1984
)・テレビ報道研究会編『テレビニュース研究』(
NHK
出版, 1980
)・日本放送協会放送文化研究所編『テレビ視聴の
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放送文化研究所2003
)・廣谷鏡子、松山秀明「オーラル・ヒストリーを用いた
.
新しい放送史研究の可能性」『放送と調査JANUARY 2012
』(NHK
放送文化研究所2012
)・廣谷鏡子、米倉律「テレビ美術から見る「キャスターショー」の誕生と発展~『ニュースセンター
9
時』と『ニュースステーション』のスタジオセット分析を中心に~」『放送と調査NOVEMBER
2009
』(NHK
放送文化研究所2009
)・横山滋「ニュースメディアとしてのテレビの特性」萩原滋編著『変容するメディアとニュース報道』
(丸善株式会社、