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〈黒船〉言説の誕生

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(1)

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尺 ‘ リ ー ; り ー 1 p ] こ [ ︱ 八 八

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︶ 打 廿 一 、 ス ペ ` テ 、 仁 9 i ー ゞ が南 仕:、-・, し ,_,_ ,-、、 [J_ —い (一 八トの C a l b r a i t h い う 。 で は 、 遡 二 礼ていだいだろうか。明治二二 I ) 二匹 一︶にかけ ③ 9 つ f ' - ‘ 4よ"/'ぃ~ ✓---~ 11 ,I はじめに ,/'-.

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言説

t 、 -) ニ 八 五 = ︱ ︶ い て 開 国 を せ , i ¥ o -; ー ゾ る ア メ 1 1 ! 力 を > う の し て 用 い る と ぎ の 称 。

(2)

以下の いたことから、当時の南蛮船を︿黒船﹀と呼んだ。それは 西洋の船が浸水と腐食を防ぐために黒色のピッチを塗って に由来していることが記される。キリシタン時代における 蛮など諸外国の船の呼称で、その船体が黒塗りであること ﹃日葡辞書﹄の記述でも裏付けられる。 ` J C u r o n m e . b r e a d a c o m o a N a o qu e v e m d a I n , d i a ( C u r o f u n e . クロフネ︹黒船︺インドから来る N a o 型の帆船︺のようなピッチ塗りの船︶ ここで間題なのは、﹃言海﹄を援く限り、明治二二年の時 点において、︿黒船﹀は中世末期の南蛮船のみを指す言葉 であり、そこにはペリー来航船を指す意味は含まれていな いことである。つまり、ペリー率いるアメリカの艦船磨い つから︿黒船﹀と呼んだのか、また、現在なぜペリーの船 のみが〈黒船〉と呼ばれ、〗開国」の象徴として眼介され るのか疑間が生じよう。そこで本論文では、︿累船﹀を巡 るイメージの変遷に着目しながら、その胚史的経緯と背景 を叫らかにしだい。 る

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︿ 黒 船 ﹀ ( 1 ) ︿黒船﹀の初出 目下、︿黒船﹀という言葉の最も早い時期の用例として、 豊臣秀吉が天正一五年(-五八七︶に発布した﹁伴天連追 放令﹂が挙げら汎る。その内容は、キリシタン宣教師に国 外追放を命じたもので、ただし、沢ルトガル船の来航は 高九いことであるから許容し、仏怯の妨げとならない限 り } J ・キリ/,タン国からの往来は自由であると規定したとい 4 ナ よ ろ つ 。 ヴ て ッ 日奉ハ神国たる処きりしたん国より邪法を授候儀 太以不可然候事 其国都之者を近付門徒になし袢社仏閤を打破之 由 前 代 未 聞 侯 国 郡 在 所 知 行 等 給 人 に 被 下 侯 儀 者 当 座 之 事 候 天 下 よ り の 御 法 度 を 相 守 諸 事 可得其意処下々として狼義曲事事 伴天連其知恵之法を以心さし次第二檀那を持候 と 被 思 召 侯 ヘ ハ 如 右 日 域 之 仏 法 を 相 破 事 曲 事 候条伴天連儀日本之肌ー一ハおかせられ間敷候間 今日より廿日之間二用意什可犀 下々伴天連に不謂族申懸もの在之ハ

(3)

のというところから.' 沿 と い 、 黒 い 船 倅 を も っ 音示しビと、いう。このようこ 廿 . , ’ 7 / \ ー ・ 二とをヽ J し においても r ' 船 依 ぅヽ 9 - ‘ , 3 , ! ! 四条目に出てくる あ る ﹁ 天 正 十 六 年 閏 五 月 十 五 十 六 年 辛 亥 季 秋 口 付 家 康 栄 ︹ 7 ﹂ と い っ た 易 に 係 る 規 則 を 定 め た ﹁ 天 正 十 六 年 五 月 十 八 ﹂ と い っ た に も み と め ら れ る こ と か ら 、 で ぎ る 。

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~i: 一 ち ょ 、 し 9 . b ﹂ や ﹁ 慶 長 き事 ヶ島の沖に来 汗進す、依て阿蘭 -、 二 艘 の 開 閏 南

虹 鉛 特 う

大し言二れ

ち 二 が ゜ こ * て 莱 - て \ / 、 し 艘 紐 , 寵 こ を は (;t,'ハ,'し,ミ ‘四 う そ を だ 永 で 占 ー は ー し , る 見 の 正 れ ぞ り 呉 と こ 裏 ー 保 た 六 の る 国 ん 、つ 四デ年ポ」:船ど-~'の ぞ 年 )! / ヘ ル う 口 用 - ト ー ト に キ し 、 J,、、9 翌 ー カ な の 仁 '0) パ ノ 、 7 グ ぢ ル 三 ル る つ れ 7、J , し —~- 八り 10 し,, ヘ 且 心 /'.fl

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ぐ ‘ Tc ' VJ 7 ァぷ" '↓、 妥2 だ ー r 自今以後仏法の 不 及 申 い つ れ に て も いつれにてもきりしたん 候 条 可 成 其 意 事 已 上 天正十万年六月十九日 5 /¥ について見ておこ 外 政 策 に よ っ て 関 そ の 丁 を 目 的 と し て 貿 易 } 1 2 。 と こ ろ が 、 幕 府 は の内六一人を処刑し 頸 林 虚 が 募 附 の 命 一 覧 ﹂ ( -八 五 三 序 ︶ 正 保 四 年 ︿黒船﹀という の船を指す表現と などとい

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ポルトガル︵やスペイン︶と貿易を行っていた時代におい て、︿黒船﹀という語は通航関係にある南蛮船を指してい た 1 6 。しかし、このポルトガル船来航事件以降、︿黒船﹀ の語義は元のまま南蛮船を意味するとともに、前時代とは 変わって﹁通航が禁じられた異国船﹂に対する不審の眼差 しまで含んだ言業に変化した可能性がある。林子平﹃海国 兵談﹄︵一七八六︶において異国のロシア船を﹁黒船﹂と 称しているのはその表れであ ( 2 ) ペリー艦隊の来航時の呼称 サスケハナ号をはじめとするペリー艦隊には浸水・腐食 防止のためのチャンが塗られ、黒色の船体であったことが 人口に謄炎しているため、来航当初から︿黒船﹀と呼は汎 ていたように受け取られがちである。しかし、ペリー来 航船の呼称を、同時代である嘉永六\七年(-八五三\ 五四︶の資料に捜索してみたところ、まず、幕領である汀 戸、大坂、京都の町触には︿黒船﹀ではなく、﹁夷船﹂や﹁異 国船﹂とあった 1 8 。次に、地方に目をやると、例えば熊本 では、パリー艦髯に関する様々な情報を纏めた藩の . 1 9 にペリー来航船の記述が見ら札 六月十七日 一、去ル八日江戸差立候上之早釘之御飛脚、今昼着、 異国船内海江乗入候も難計候付、本牧辺より御人 数被差出候段申来候事、但し委細者自筆状奥キ書 之 事 、 これには\ペリーの船が﹁異国船﹂と書かれている。この ように、中央政府である江戸幕府から藩が作成した公的な 文内に︿黒船﹀という語が使用されていないことが分かる。 ごい、私的な記述においてはどうであろうか。嘉永六年 ニ八五こ六月ニ︱一日に、浦賀奉行戸田伊豆守氏栄 2 0 か ら在附 J、行り︶外太郎︵石見守弘道︶へ送られた書簡には、

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のように﹁軍艦﹂とある。 一朝議紛冗一定仕間敷と奉存候、扱書翰一条一同御 示之事二て愚論甲上恐縮、たたし再案仕候二、何 卒御返翰受取御申上候、当年中再渡可致、数艘之 軍~二て渡来之事候は、衆人の肝を洗ひ候事故、 御触有之候而銘々覚悟為致度ものニハ熊之哉如 何 ‘ [ 中 略 ] 六月廿二日 井戸石見守様 2 1 戸田伊豆守 印

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このように、ベリー や﹁巽国船﹂とい さ て 、 の し 応 。 坑 図 ﹂ 江戸 t いたことから、未国艦隊にまつ 日 記 に 反 映 さ れ て い る 。 以 その記述である。 、4 一 、 ふ , 3 ︶ 乃 , ー の 、 ︷ i 了 ︸ ' : ¢ ふ * ; し ﹄ 1 1 ・ ヽ 戸 、 ヽ 0 J ] 、 ' d L E. 、,~

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7 ‘ l ー.巧ノ巴い︷,ノ , ' “ 9 r , ' し ` ぎ / , ‘ 、 0 r j ぬ , ; r ぞ う ‘ ) , ' ' ] + ︷ り ニ 八 五 四 ︶ " 99, : │ り よ 入 , , こ 、 ' c l ヽ ぃ ' J t ‘ , と虔 その他﹁パリ と記さ九ている。 、 T ︶ こ し ご の限 九月廿三日 g 1 の ら \ よ り ぷ ヽ ‘ h ケ -j 一喜永六年九月二十三日 平直足あて マ

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︿ 黒 船 ﹀ という言葉は 報源であった瓦版に目を向けても、 確認できない。 また、﹃異国舶渡来記神洲泰平鑑﹄ 3 2 は幕末に表題が付さ れたものであるが、題名に︿黒船﹀でな<[異国舶﹂とい う言葉を含んでいる。この言業と同義である﹁異国船﹂を もってペリー艦隊を眼差しているものには﹁異国船帰帆之 マ マ 図井魚之図﹂ 3 3 があり r その他﹁火輪船﹂、﹁上気船﹂とい う呼称も見られる誓以上のようなペリーの渡来を報じた 瓦版は、何種類も同時期に発行されたという戸。几曲が肛 民の情報源であったことを勘案すると、パリー財肌昌いい [ t 瓦版を日にした庶民は︿黒船﹀ではなく、﹁蒸気船﹂やロジ 国船﹂といった呼称を使用していたと考えられる。夜た 江戸の町触書が瓦版にされたもので、ペリー艦隊が江戸内 海に入ってぎたときの合図や、その際に町火消が控える場 所などが書かれた﹁︹異国船渡来に付江戸町火消駆付場所 逹 書 ︺ ﹂ 3 6 には、﹁異匡船﹂とある。よって、これより、公 にも庶民にもペリー来航船は﹁異国船﹂と称され f ︿ 黒 船 ﹀ とは呼ばれていないことが確認できる。 以上;ペリー来航当時の資料を調査した限りにおいては、 公の段開でも庶民の段階でも︿黒船﹀という︱-`占内\ i / らなかった 1 7 。ペリー来航以前に︿鼠船﹀とい i ' い い 臼 出かあり、その船体が累色であったにも剛わ、いず、` 図 l 『改正泰平鑑』(大島明秀氏蔵)、全7丁。折本仕立て。丸印部分に蒸気船 という表記が見える。(丸印は筆者による)。

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+ 6 , 9 , リー _ _ _ l ているが、これはペリー 、 加/j'、6平 (1853)。実物と とペリー〈左下)を描いている。

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おいては﹁異国船﹂や﹁蒸気船﹂等の言い方がなされ、︿黒 船﹀とは称されなかったのである 3 8 0 なお、﹃海国兵談﹄︵一七八六︶において、︿黒船﹀は望 ましくないロシアの異国船という意を含む語として使用さ れていることは既に述べたが、さらに明治に入ってからも ﹃明六雑誌﹂の西周による論文 3 9 や 、 明 治 ︱ 二 年 ( -八 七 九 ︶ 七月四日付﹃朝日新聞﹄などに、国交や通商関係を持たな ぃ﹁異国船﹂を指す用例がみとめられる。これより、︿黒船﹀ という言葉はそれ自体が消滅した訳ではなく、語として水 面下で浸透していたものと見ることができる。ただし、異 国からの船や不審船を指す語としては圧倒的に﹁南蛮船﹂ や﹁異国船﹂の方が多く、﹁黒船﹂が使用されるのは例外 的であったことには留意すべきである。そのことから、﹃言 海﹄(-八八九\九一︶に﹁南蛮船﹂の意のみ示され、﹁異 国船﹂の語義が無いものと目される。 正保四年のポルトガル船来航事件以降、﹃言海﹄の出版 までの間における﹁黒船﹂の使用例は僅かであったが、一 方、﹃言海﹄への掲載を得たことは或る程度認識を見た言 葉であったと考えてよく、また、その場合の語義は、キリ シタン時代の﹁南蛮船﹂であり、通航関係の無い国から来 航した不審な﹁異国船﹂を指すものではなかったと言うこ と が で き る 。 二、ペリー来航船と︿黒船﹀ ( l ) 近代における︿黒船﹀の描かれ方の系譜 ア脅威としての︿黒船﹀ 少なくとも幕末•明治初期には一般的に使われなくなっ た︿黒船﹀という言葉が、特別な意味を含んだ用語として 歴史叙述として現れるのは、明治二二年(-八八九︶刊行 の﹃日本帝国史﹄が最初と目される 4 0 。本書は、神武天皇 即位以前の神代から、大日本帝国憲法発布までの歴史を記 したものである。著者松井広吉は、明治一六年に新潟県長 岡市に所在する越佐毎日新聞社の記者となり 4 1 、 そ の 後 、 中央新聞、万朝報、やまと新聞の記者を歴任した 4 2 。 ま た 、 これを校閲したのは帝国大学兼陸軍教授を務めた歴史学者 内藤趾斐であった 4 3 。該書において、︿黒船﹀という言葉 は、前述した﹃日本国語大辞典﹄②の、ペリー来航船のみ を指す名称ではなかったようである。というのは、第四編 第ニ︱章﹁罵船来航﹂という章で、以下のように説明され ているためである。 第四編第ニ︱章﹁黙腑来航﹂ 使節べなり軍艦四艘を率井テ浦賀二入リ、通商互市ヲ 請フ、①幕府諭ジ i

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ド ズ ン ド 毛 聴 ガ ズ 、 ' _ 兵 ' 乞 輝 乞 乙 脅 嚇 ズ ' [ 中 略 ] 八 月 露 西 亜 ノ 水 師 提 督

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翌 村 ん 軍 艦 二 搭 シ テ 長 崎 二 来 リ 、 ② 逓 商 ` 丁 求 が > : ' 且 ヅ , 樺太'/境界ヲ確定七ゾ事ヲ,請[中略]五年正月

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再ビ丸艦ヲ率井テ来リ、本牧ノ答書ヲ求ム、其ノ副将 あ だ む ず ③ 進 ジ , f ア 神 奈 則 二 油 匂 , ' 直 ヂ

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-, 江 戸 二 応 ヂ 事 ' ヲ 沢 セ ジ , ド 巧 , ' 幕 府 之 引 出 ぶ 、 9 9 あだむ来聴がズ、覚二 タメニ仮館ヲ横浜二設ケ、幕府開港ノ止ム可ラザルヲ 知リテ之ヲ許サント欲ス[中略]七月彩艦ノ使節

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礼来リ、将軍二謁シテ貿易ノ事ヲ議セント請フ、幕 府 大 二 憂 フ 、 ④ばぶりず益ぷ迎杞,'幕府拒必事能パズ、四年十月は るりす覚二江戸城二入リ、将軍家定二謁シ、又老中二 面シテ 4 4 傍線は渡来した外国使節の名、波線は軍艦を表す言葉、破 線は威圧的に描かれている部分に引いた。傍線部の順から 分かるように、ペリー艦隊の来航、プチャーチン ( E

m i i V a s i l i e v i c h P u t y a t i n ) の軍艦の来航、再来したペリーと副将 アダムズ ( H e n r y A d a m s ) の渡来、ハリス ( T o w n s e n d H a r , r i s ) の来航という時系列の順に、日本に通商を迫ったアメ リカおよびロシアの使節が記されている。 最初の破線部①からは、ペリーが﹁兵ヲ擁シテ脅嚇﹂し たというように、威圧的に描かれていることが分かる。次 に、破線部②は、ロシアの使節であるプチャーチンが通商 の要請と樺太の境界を定めるために来日したことが記され ている。さらに、ペリー艦隊の再来における破線部③の記 述には、ペリーのみならず、副将アダムズが強引な態度で 幕府と交渉することを求めたことが窺える。最後の破線部 ④である日米修好通商条約締結時の使節ハリスについては ﹁はるりす益々迫ル、幕府拒ム事能ハズ﹂というように、 強硬な態度で通商を迫り、幕府に圧力をかけた人物として 記されている。以上より、全ての外国使節が幕府に圧力を かけたものと描かれていることが確認できる。 また、波線で示したように、全ての渡来船に兵艦を指す ﹁艦﹂という字が使用されていることから、どの船も軍艦 であることが分かる。ここで章題に︿黒船﹀という言葉が あることを勘案すると、松井の言う︿黒船﹀とはペリー艦 隊のみを指すものではなく、四か国条約を締結したイギリ スとオランダなどには言及がないものの、幕末期に渡来し、 幕府に通商を迫った外国の軍艦の総称を述べたものと言え ょう。このように、現在でこそ︿黒船﹀はペリー艦隊のみ を指す言葉として定着しているが、﹃日本帝国史﹄ではよ り広い意味が付されていたことがみとめられた。 なお、この用い方は、いわゆる﹁開国﹂前においてアメ リカおよびロシアは通航の無い﹁異国﹂という認識から、

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の用例が残存していたこと これを意味する近世の︿黒船﹀ に起因するものと考えられる。 他に、ペリー艦隊を含めた一連の外国船を︿黒船﹀と称 している記述がある文献としては、衆議院議員である福田 久松﹃大日本文明略史﹄(-八九一︶がある。これは、神 代から明治の国会開設までの歴史や、文明論を第一編から 第一三編までに纏めており、近世における史実を比較的 淡々と記した﹃日本帝国史﹄と異なり、社会進化扉を川い て徳川暮府の政治を否定する構成となっている。この第 ―一編「近世ノ部徳川時代」の第七章「謂~来航」に、ペリー が通商を求めて来航したこと、プチャーチンか臀人い葛弄 決定を要求するため来航したこと、ペリーの再庫 5 扉に忍 明がなされている 4 5 。先の﹃日本帝国史﹄と異なり、威 □ 的に交易開始を迫ったペリーの説明に特化し、プチャーチ ンにまつわる描写がほとんどなく、ハリスに関する記述は 皆無であるものの、︿黒船﹀という語が現代のようにペリー 艦隊のみを指しておらず、より広い意味で使用されている 点において﹃日本帝国史﹄と共通する。 同様に広義の︿黒船﹀にまつわる記述がされているが、 の 4 の嵩橋健自 4 6 等が編纂した﹃中 ぐある。その第四︱一章﹁累糾 が説明されている c ) 本帝国史﹄からの引用と同様に、傍線を渡来した外国使節 の名、破線を威圧的に描かれている部分に引いた。 ペ ル リ 亜米利加合衆国ノ海軍提督閾唱、軍艦四艘ヲ率井テ、 相州浦賀二来リ、国書ヲ江戸二奉呈シテ、通商貿易ヲ 乞ハント告グ、浦賀奉行戸田氏栄、我邦ノ旧例ヲ語リ、 ①長崎二於戸応扱ゼン,ぃ諭セド毛聴カズ,、恣二湾内ヲ 測凰‘ハ:一/‘[罰争ノ凰齊〗'克為すぃ響言セ巾'、幕府大二恐 ピ仙テ争フコトヲモナサズ[中略]魯酉亜ノ水師提 督呵固国モ、②軍艦二乗ジ一乙認崎二翠丁、樺太/境界 ヂ定メ、物貨ヲ交易センコトヲ乞ピタリ、幕府之二答 フルニ、樺太ノ境界ハ、詳細二検査シテ議定セン、互 印ノコトハ、国法アリテ俄二改ムルハズ、天朝二奏上 シ、請構二謀ラバ、三五年ヲ要スルナラントノ旨ヲ以 テセリ︹中略]同年正月、虞唱再ビ軍艦六艘ヲ率井テ 袖賀二来リ、昨年ノ答書ヲ求メタレドモ、幕府ノ容易 二決スル事能ハザルヲ見テ、③直二江戸湾二乗リ入レ、 陪答ヲ霞ア、和戦ヲ沢セント迫リ,ヌ[中略]安政三年 ハ ル リ ス 七月、米人巴爾理斯卜云ヘルモノ下田二来リ[中略] ①巴爾理斯ノ他偲愈々急激ニシデ、芯ン囚循決セザル ノ J バ、幕府九二其尻置二'因シミ久リロ

(11)

ペリー艦隊の ヽ , 0 ' て い ︶ ’ 9 のである の て ごとき忍のあり﹂と ,3 ‘ , h

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﹁ 、 V ’ 図 の ご や﹁その他門は凛,心とし である一方、﹁そ

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年当時のニリート層に晋及していたことが確 fr 9 } 1 0 i る。しかし、 有 賀 長 雄 八 口 ' 、 7 J t i ﹀ ) , J 、V し て は 、 ときものあり。 に閂する で 、 t ]

, ぎ る 。 多くの人にその像 以下、ペリーの︿黒船﹀ は 、 殆 ど 我 国 民 の 脳 中 に は 一 の 意 味 に r l ) 。いわんや白千丈り靡のことき四艘の黒糾 8 っ \ 謬 J るワシントンの めに来りしものたるは、 々として 我国 そ その胞門は凛々として入を成すがご その月穀は餃々として闘日に輝くも 0 >

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の剣戟は咬々として朝日に輝くものあり﹂のように、夜明 けを連想させる表現がなされていることから、︿黒船﹀が いわゆる﹁鎖国﹂をしていた日本に渡来した﹁開国﹂の象 徴として描かれたのは明らかである。この文章は、読み仮 名が付されるなど多少形を変えつつも、第七版まで継続し て掲載されていることから、多くの人に読まれ、その︿黒 船﹀像が受容されたと言えよう。 こうして﹃新日本史﹄をきっかけとして︿黒船﹀という 言葉に、脅威であると同時に﹁開国﹂の象徴として賛美さ れるべきペリー来航船という新たな意味が付与された。ベ ストセラーとなった該書の影響を受けてか、明治二十年代 中期から四十年代(-八八七\一九︱二︶にかけて、この ︿黒船﹀像を引き継いだ書物が次々に登場するのである。 イ脅威と賛美が同居する︿黒船﹀ 賛美する内容は日清戦争(-八九四!九五︶あたりから 増える傾向がある。脅威と賛美の意味合いを含む︿黒船﹀ という言葉にまつわる記述は、その初出である﹃新日本史﹄ 刊行から五年後の明治二九年(-八九六︶、三井銀行代表 取締役を務めた米山梅吉が著した﹃提督彼理﹄により本格 的に普及した。初版﹃提督彼理﹄に続き、六年後に﹃提督 ぺ る り ﹄ ( -九

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二 ︶ を 、 そ の 後 ﹃ 提 督 ペ ル リ ﹄ ( -九 三 二 ︶ を刊行したというように版を重ねたことから、多くの人に 読まれた本であることが窺える。該書は上編と下編から成 り、上編は王にペリーが日本に渡来した経緯を記しており、 ペリーやハリスのおかげで日本は﹁開国﹂することができ たという、米国使節を称える内容である。下編は主にペリー の経歴や功労が書かれている。うち、上編の第二章﹁日本 開国の序幕﹂、第七章﹁浦賀湾内の罵船]には︿黒船﹀に ついての記述が見られる。以下、初版﹃提督彼理﹄を用い、 その二つの章を見ていきたい。 ︹ 前 編 第 二 章 ﹁

8

本 開 国 の 序 幕 ﹂ ︺ 嘉永六年六月三日 1 1 西暦千八百五十三年七月八日 1 1 -染の怪雲暁に東海を掠めて相模の灘頭に下る、曙光已 に通し旭日恰も昇て再び昨日太平の乾坤を書出さんと するの時。剌紺の黒船其数四紬櫨相望て至る、帆を張 れども風の有無は関する所に非ず、姻を吐き濤を蹴り 泰然として八九﹁ノット﹂の速力を以て進む、天銅'晴 朗 , ﹁ 望 ⑪ 風 末 だ 此 咤 よ り 街 な み ば な ぐ , 、 9 , 山色求光巽に 禅 州 秀 麗 ⑪ 氣 を , 映 射 見 , ' 千 秋 ⑪ 雪 を 戴 ぶ 富 岳 ぱ 高 ぐ 雲 外に畔院ず、夷使謄進て陸に近つき 5 2 ペリー艦隊渡来時の様相が、破線部のように美しい情景描

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写とともに描かれている。しかし、ここで括目すべきは傍 線部の﹁夷秋﹂という言葉である。これは中国を世界の中 心と考え、その文化・思想が最も価値があるものであると する中華思想において、東方の未開国を﹁夷﹂、北方のそ れを﹁秋﹂といったことから、外国人を野蛮人と卑しめて いう語である。このように、中華思想由来の言葉を残しつ つも、米国使節の渡来を美しい情景描写をもって表現して いることは興味深い。それらを踏まえた上で章題を改めて 眺めると、﹁日本開国の序幕﹂とあることから、本章全体 の趣旨としては、︿黒船﹀を卑しめながらも、日本の﹁開国﹂ の発端となったと捉えるものであると言えよう。 ︹ 前 編 第 七 章 ﹁ 浦 賀 湾 内 の 煎 船 ﹂ ︺ 闊闘既に浦賀に入る、而して当時の光景如何は読者と 共に本書の初に於て之を見たり、即ち海上の艘瞳噴火 山の如く立ち、其砲門を開て万一に備れとも、之を指 揮して平和に其使命を成就せんことを祈るの提督と、 陸上の半鐘矩火騒然として眠らさるの士民とを掩ふて 夜は来れり、其第二日太陽の東天に上ると共に、煙霧 漸く晴れて再ひ水陸の風光を拭出す 5 3 傍線部における﹁提督﹂とはペリーのことで、ここで留意 すべきは、﹁海上の朦瞳噴火山の如く立﹂って威圧的であ る一方で、﹁平和に其使命を成就せんことを祈る﹂とペリー が温和な人物として描かれている点である。これより、︿黒 船﹀が脅威である一方で、同時に、ペリーが日本に﹁開国﹂ を齋した偉人であるという屈折した描かれ方がなされてい ることが分かる。以上から、この二つの章を通して︿黒船﹀ やペリーは、脅威を与える存在である一方で、同時に、日 本を﹁開国﹂に導いた英雄として描かれていると言えよう。 本書がこのようなペリー像を提示している背景には、日 清戦争で勝利したことがあるようだ。というのも、外務省 の官僚であった藤田四郎による序に、以下のような記述が あるからである。 米諸国と修交して彼の制度文物を輸入し以て皇政維新 の大業を完成し爾来兵制教育運輸交通より農工技術に 至るまて彼の長を取り我の短を補ひ孜々僻らす以て今 日の運郵を致せり彼の去歳征清の役に方り戦勝の名誉 を宇内に発揚せるもの余其の決して偶然にあらさるを 知る ﹁去歳征清の役﹂とは、本書刊行の前年に起っていた日 清戦争のことである。つまり藤田は、欧米諸国と通商を開

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︿黒船﹀の出現は﹁幕末人士ノ心肝ヲ寒カラシメ﹂たとあ るが、一方で傍線部のように、日本と欧米の親交が間始し たと述べている。実際に欧米各国と日本が親密な関係を築 けたのかどうかはさておき、ここから、日本を﹁間口 L ` 乃 せ て く れ た そ の 国 々 と の 穀 交 を 深 め た い と い い る,さらに、その恩人としてペー' t‘, > 了 ~f ヽ \ 始したおかげで日清戦争に勝利できたと謳っているのであ る。この思想が該書におけるペリー来航や、その表象であ る︿黒船﹀を称賛する内容に結びついているのであろう。 これらの他、﹁ペルリ上陸物語﹂との内題を記し、その 渡来を伝説と見なしている平戸大編﹃北米合衆国水師提督 ペルリ久里浜上陸誌﹄(-九

0

-︶ は 、 謂船ノ出現ハ幕末人士ノ心肝ヲ寒カラシメテ北辺西鷹 日二警報、ノ急ナルヲキクニイタレリ日本ノ門戸ヲ開 クノ功ヲ己ノ手二収メントスル事ハ当時欧半各

I T I )

/ 希 望ナリ而シテ此貴重ナル任務ハ西半球ナルニ詞八ノ戸 二委不ラレテ遂二平和ノ間二其功ヲ成ス事ヲ胄グい別 永六年六月九日ハ此大業ガナサレタリシ日ニンテ叫~ 君子国ノ青年ガ西方君子国ノ紳士卜共二手ヲ携ヘテ競 厚ナル交ヲ始メタル時ナリ 5 4 鳳 九 .^ し・ 、.. ることが波線部に表れている。以上を勘案すると、﹁開国﹂ の象徴としての︿黒船﹀の渡来に対しては脅威の意味合い よりも、賛美する性格の方が強いようである。 上記の描かれ方がなされている︿黒船﹀という言葉は明 治四十年代以降もみとめられる。﹃中学世界﹄は明治から 昭和初期にかけての総合的ジャーナリストである三宅雪嶺 が編集に携わった雑品であるが、以下に引用した桑原雷 よ油賀の黒船﹂︵﹃中学世界]第一五巻第一号、 においても、︿黒船﹀は威圧的に描かれると同 ているのである。 三 友 遠 方 よ り 来 る ヵ は じ め べ い こ く す ゐ し て い と ︵ き か ん 初の米国水師提督ペルリは旗艦サスケハンナ以下ミ と う せ き か ん た い ンシッピー、プリマウス、サラトガ等の六隻の艦隊を ひ き ぐ わ っ か す な は わ が 図 え い ね ん ぐ わ っ か 率ひ、︹中略]七月八日叩ち我嘉永六年の六月三日 こ こ と う ぎ や う わ ん の ぞ う ら が て い は ︵ 午後哀京湾を覗いて浦賀に碇泊した。 ナ 、 ま う し き え ど レ ト じ わ わ か げ め 冒 の 影 が 目 に と ま る や 、 警 報 は 連 り に 江 戸 に 飛 9 ヽ う ぶ は い か り お ろ て い と く んだ。いよ/\国訊門か錨を下すと □ F 略]提督ペル リは璽目のコレナー大討と弦門に応接させて叫はし べ い こ く か ん た い ら い か う も ︵ て き し ん す い f) も う よ あ お た め た。米国艦隊来航の目的は薪水の御給与を仰ぐ為では ︸ う り や う た い せ つ 統伯ピルモオール、ミルランドからの大切な た め ぶ ぎ や う ち よ く せ つ め ん く わ い さ の為であるから、奉行直接に面会するか、左

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も っ の よ 、 つ に パ リ r 1 , 一 ご 喜 ぱ し い 、 歓 ﹀ るのである。このように﹁友﹂で' びながらら脅威として袖いている点に、 かけたが、そのおかげで日本旦

又 ∼ ペ、 リ I 二 郎 ﹃ 新 日 本 史 ﹄ ら四十年代にかけて普及しとと

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一 サ:} d の中で、ペリー ようになり、それに 、 / ︶ -f q

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り ﹀ ご 、 1 ‘ 1 i j ー し ﹁ ' / べき事 ニに日<袢功皇后の 一 、 \ . , ‘ ノ - \ を て ] r l 碍叫リの玉来航は音国を して分日あるに至らしめこる慰端なればない炉 のみ

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ペリーの渡来を歴史上重要な出来事として捉えており、そ のおかげで現在の日本があるという内容である。明治四一 年当時の日本は日清・日露戦争後で、産業革命が進みつつ あった時代であるが、その影響があってか、ペリー来航が ﹁開国﹂の象徴として描かれていた。この凡言を始め、該 書は全体として日本の近代化を齋したアメリカを賞賛する 内容であったが、その中でも、ペリーの渡来は特に賛美す べきものとして眼差された。 また、同様に脅威の意味を排除している例が、ペリーが 著述した﹃日本遠征記﹄の鈴木周作訳﹃ペルリ提督日本遠 征記﹄(-九︱二︶の序文に確認できる。 顧れば弘化嘉永の交、外船頻に北辺南陸に出没し、開 国の気運は漸く塾せしと雖も、真に和親通商を眼目と し、平和と新厚とを以て我に臨みし北米合衆国のごと きもの他に其の国ありしか。或は恐る、常時若し敵意 ぁる他国の来つて、初めて我鎖国の鍵に手を触れなば、 急転打撃、兵火遊り、遂に及ぶ可からざるの条件を以 て国を開くの巳むを得ざるに至りしを。然るに事絃に 至らずして、浦賀の砲声は日本開国の第一祝砲となり、 神奈川条約亦其の先恥となり、是より濠西の文物陸続 として入り来り、遂に今日の国運隆々の素因をなしし もの、此の点に於て吾人日本国民が合~国に負ふ所亦 勘少ならずと謂ふべし 傍線部より、ペリーを派遣し、日本を﹁開国﹂させてくれ たアメリカのおかげで、近代化を進めることができたとい う思いが読み取れる。特に﹁浦賀の砲声は日本開国の第一 祝砲となり﹂との表現がなされ、ペリー艦隊の渡来が祝う べき文明の夜明けと捉えられていることは注目に値する。 以上のように、﹃日本遠征記﹄序文や﹃日米交渉五十年史﹄ を契機とし、ペリー艦隊への眼差しが称賛を帯びたものと なり、それに伴って︿黒船﹀も同様の意識で描かれるよう に な る の で あ る 。 完全に脅威の意味を排除し、ペリー艦隊を︿黒船﹀とい う言葉を用いて賛美しているものの初出は、日本陸軍の軍 属であった櫻井省三の演説を記録した﹃黒船艦隊渡来の真 相﹄(-九一三︶と見られる。櫻井は次のように述べている。 終に目的地なる浦賀沖に到着せり、此日は海上霧深く して應尺を弁ぜざりしが、艦隊投錨の頃に到り、

恰も霧馨れて湾内晴朗、俄然四隻の闊~の湾内に並列

するを見る 5 8

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﹁海上霧深くして﹂と、いわゆる﹁鎖国﹂をして先行き が見えなかった日本を、ペリー艦隊が文明の光に導くこと で﹁霧馨れて湾内晴朗﹂にしたことから、︿黒船﹀が﹁開国﹂ の象徴として描かれていることが確認できる。また、それ は以下の文章にも表れている。 浦賀の砲声は日科開国の第一祝砲となり、是れより泰 西の文化は恰も水の卑きに就くが如く、淫々として輸 入さられ、遂に今日に於ける国運隆昌の素因をなし、 もの、これ米国の賜と云はんも、強ち不当にあらざら ん、此の点に於て吾人日本国民が合衆国に負ふ所亦勘 少ならずと謂ふべし、爾来米国人は常に我に同情を寄 せ、吾人も亦米国に対して夙夜感謝の意を表するは、 即ち之が為めなり 5 9 先に紹介した﹃ペルリ提督日本遠征記﹄序と同様の﹁浦賀 の砲声は日本開国の第一祝砲となり﹂という表現があるこ とから、本書でもペリー来航船の渡来が喜ばしいものとさ れていることは明らかである。しかし、ここでは﹁米国の 賜と云はんも、強ち不当にあらざらん﹂という文に留意す べきである。日本の﹁開国﹂やそれに伴う発展は、日本自 身によるものではないという認識が垣間見えるのである。 同様に称賛されているが、より重要なのが、川副佳一郎 ﹃国民の新智識アメリカ講話﹄(-九一九︶である。本書は、 アメリカの建国以降の歴史を中心に、地理、物語等を編集 した書物であるが、その﹁はしがき﹂に次のような記述が み と め ら れ る 。 由来アメリカは自由の国、工芸の国、発明の国であり ます。日本の国民が、アメリカの歴史によって、乃至 アメリカの国民に依つて教えらる、ことは、決して少 くはないと思ひます。現に、日本今日の文明が、嘉永 年間に於けるペルリの浦賀訪問に負ふ所の大なる一事 は、何人も認めて疑はない事実であります 6 0 ペリーを派遣し、日本を近代化へ導いてくれたアメリカを 賛美する内容であるが、特に傍線部から﹁開国﹂の発端を 齋した人物としてペリーを称賛していることが分かる。ま た、次の第二三章「ペルリの胴~」には以下のように〈黒 船﹀に関する記述がある。 が つ し う こ く て い と ︵ ' ‘ , h ? す ・ 9 そ う ひ アメリカ合衆国の提督ペルリが、黒船数艘を引きつれ

て、即,`距ぺ餌りました→事が、記訳をしてが記〗な

, " ) じ と ま 、 と ぐ じ じ らしむる糸口となった事実は、皆さん御存知の通りで

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傍線部の記述から、ペリーのおかげで日本は文明国となっ たという認識が人口に謄災していたことが窺える。このよ うに、大正期にはペリーの威圧的な面が排除され、日本を 近代化へ導いてくれた英雄であるとみなすと共に、︿黒船﹀ という言棄は賛美すべき﹁開国﹂の象徴として晋及したと 言えよう。しかし、ここで留意しなければならないのは、 に つ ぽ ん こ ん に ち 米国使節であるペリーが﹁日本をして今日ならしむる﹂と 捉えており、日本自身で﹁開国﹂した訳ではないという認 識がある点である。賛美しながらも劣等感を抱くといつこ の屈折した感情が、︿黒船﹀という言葉の背後にあると見 ることができよう。 ただし、大正期に入ってから賛美する記述一色に榮まっ た訳ではなく、矢野道雄﹃日本全史﹄は、再び︿累船﹀ A 脅威として捉え、ペリー艦隊以外にも日本に﹁開国﹂を姐っ た外国船の総称として揺いている 6 2 。このような例外はあ るが、大正期には脅威としての描かれ方は陰を潜めており、 該書を除いて見受けられなかった。さらに、脅威と賛美の 靡味を含む︿黒船﹀の記述も見当たらなかっと︸’ピかい, 当時は脅威の意味を排除し、 たと考えられる。 あります 6 1 , Iり これより、しての︿黒船﹀﹂、﹁脅威と賛美が同居 する︿黒船﹀﹂、﹁賛美きれる︿黒船﹀﹂の順に新たな揺き方 が硯れるが、それらが変遷するのではなく、主流を変えつ つ併存していたと見ることができる。

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2

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学術用語としての ところで︿黒船﹀と呼称されず、一見、何の意味も付さ れていないように見えるペリー釆航船の記述もある。帝国 大学兼陸軍敦授を務め入屈史亨者内藤趾畏を始めとする 国史学者が校口に撓わった小林鐵之輔﹃大日本帝国全史﹄ 一八九二︶には、︿黒船﹀と書かれていない 6 3 。第二高等 y 1校謹いで、.屈史学者である齋藤阿具が著した﹃西力東侵 内﹂︹︱八九八︶にも、︿黒船﹀でな<‘[軍艦﹂と表記さ 仇叉しる 0 1 0 平 6 た、日本歴史地理学会編﹃日本海上史論﹄ 二九︱-︶は、文科大学教授の辻善之助や京都帝国大学 文科大学教授の内田銀蔵といった当時一流の国史学者の諸 諭考から成るが、該書においても︿黒船﹀の記述はない。 以下のように、﹁蒸気船﹂や﹁汽船﹂というようにペリー 来航船が表現されているのである。 止八四四年のことであるから、汽船大洋航行の時 つてから、間もないことである、日本の

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識者の一分に於ては、それよりして世界はまた昔の世 界でないことを朧気ながら感ずるやうになった。所へ ﹁ペルリ﹂が来た。威風堂々として来た、さうして網 知船の如何なるものなるかを実物によって示した。幕 末当路の政治家が開国を敢てすることに決意したの は、色々の因由あってのことでありませうが、此の潤 脳航行の実現によって、世界交通の有様が変り、最早 ドウとしても永く旧慣を墨守する訳には参らぬと自覚 したことも、与つて頗る力あることと認められます 6 5 時代が下って、東京帝国大学国史学科教授の中村孝也が 著した﹃江戸幕府鎖国史論﹄(-九一四︶は、﹁米使の渡来 せ る 6 6 ﹂とのみ書かれており、これにも︿黒船﹀は登場し ない。以上のように、国史学者が著した歴史書には︿黒船﹀ という表記がなく、ペリー艦隊についても特に意味が付さ れている訳ではなかった。このように、国史学者の著した 国史学に︿黒船﹀という言葉の例がないと共に、ペリー艦 隊が意味付けされることなく、淡々と記述されていること から、語としての︿黒船﹀は国史学における学術用語では なかったと言えよう。 その背景には、近代の国史学が史料批判を重視するヨー ロッパ近代歴史学の手法を取り入れたことがある。この手 法は、明治二

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年(-八八七︶二月にドイツ帝国より帝国 大学に招聘されたリースが伝えた実証主義を用いる方法で ある。以前から日本には史料批判を基に歴史を叙述しよう とする動きがあったものの 6 7 、リースが帝国大学文科大学 に創設された史学科の中心者となったことにより、本格的 に一次史料を基に叙述する歴史科学が移入された。その二 年後の六月には同大学に国史学科が創設され、続いてその 五か月後に史学会がリースの指導により設置されたこと で 6 8 、文献実証主義を取り入れることが歴史学における最 新の研究法として認知され始めた。つまり、ペリー来航に まつわる一次史料に︿黒船﹀という語が認められない以上、 国史学者がこの言葉を学術用語として使用することはな かったのである。︿黒船﹀という語を歴史の描写に持ち出し、 さらに意味付けまで行ったのは、アカデミズムに携わる人 を除いた近代︿日本人﹀であったのである。 おわりに 明治二二年から二四年(-八八九\九一︶に上梓された ﹃言海﹄に︿黒船﹀という言葉を播いたところ、そこには 南蛮船など江戸時代以前の諸外国の大型船を意味する説明 のみが認められ、ペリー来航船を指す現在のような記述は 確認できなかった。そこで、本論文では、︿黒船﹀という

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語がペリー艦隊を指すようになる時期とその理由を明らか にすることを目的とし、それを解決する手段としてこの言 葉を巡るイメージの変遷に着目しつつ分析を行った。 ︿黒船﹀という言葉の最も早い時期の用例としては、豊 臣秀吉が発布した﹁伴天連追放令﹂(-五八七︶が挙げられ、 浸水や腐食を防ぐためのピソチが塗られた、船体が黒い南 蛮船を指した。しかし、正保四乍のぷルトガル船来航航事 件を境に、語としての︿黒船﹀の使用は減少したが、使用 例からは、南蛮船という従来の語義と並行して、通航の無 い﹁異国船﹂を含む言葉に変化した可能性がみとめられた。 上記の語の使用状況はペリー艦隊が来航した時代も変わ らず、公文書や、書簡、日記、そして庶民に享受された瓦 版にも、ペリー来航船を指す言葉としての︿黒船﹀は召揚 しない。つまり、前時代から︿黒船﹀という言葉が存在し、 また、ペリー艦隊の船体にはいずれも浸水・腐食防止附の チャンが塗られ黒色であったにも関わらず、幕末の時点で は公にも庶民にもペリー来航船が︿黒船﹀と称されていな かったのである。 幕 末 や 明 治 初 期 に お い て 大 々 的 に 用 い ら れ る こ と の な か っ た ︿ 鸞 鉛 , し い } ‘ ー ‘ g ^ , 笠 , I J ずるのは、明治ニ︱一年 □ 八 八 几 川 I J ぃ札

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仏 L! ﹃日本帝国史﹄であるが、こ こ T 日

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→ 1 J I カかかけて﹁闘国﹂を宴求した口州の外 国の軍艦を総じて言うものであり、ペリー艦隊を直接指す ものではなかった。また、義務教育ではないものの、明治 三

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年(-八九七︶刊行の中学校用の教科書にも同義の︿黒 船﹀という言葉が記載されたことから、これが明治︱︱

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年 当時のエリート層に普及した︿黒船﹀という言葉における 共通の認識であったと見られる。ただし、これ以降に刊行 された敦科書には、?ての言葉が一切みとめられない。後に 文献実証主義の手法を取り入九た屈史学の成果が教科書に 反映されたことか、その理由だと考えられる。 ペリー猛隊のみを指して︿黒船﹀と称する文献の初出は、 明治二四年(-八九一︶刊行の竹魃与三郎﹃新日本史﹄で ある。本書における︿里"船﹀という言葉は、脅威の意味を 砂しつ?も、ペリ]来航船を開国の象徴として賛美するも いでもった。また、短期間に版を七回も重ねるほど人気を けしたことから、多くの人々がこの︿黒船﹀像を受容した と言える。こういった称賛の眼差しは日清戦争二八九四 \九五︶あたりから増加する傾向があり、米山梅吉﹃提督 彼理﹄(-八九六︶により本格的に普及し、︿黒船﹀の惜か れ方の主流を占めていく。 以上のようにペリー来航を揺/よっ

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か ―つは、明治維新から一 i+ .年且 J か討過ー~ 距誰がとれるようになったことに止り、汀 0) マ― t [ 、 こ j , 9

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時代として論じることができるようになったことが考えら れる。そして今︱つは、日本が日清・日露戦争に勝利し、 西洋を範として帝国主義を推進する中で、﹁劣った﹂近世 に終止符を打った祝福すべき近代化の表象として︿黒船﹀ という言葉を用いることで、ペリー来航に﹁開国﹂の象徴 としての意味をもたせたのである。 明治四十年代になると、大日本文明協会編﹃日米交 渉五十年史﹄(-九

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九︶や鈴木周作訳﹃日本遠征記﹄ ︵一九︱二︶の序文で、脅威の意味を排除し、賛美されて いるペリー艦隊にまつわる記述が出現したことを契機に、 同様の描かれ方がなされている︿黒船﹀が登場し、大正期 に普及した。これらは一見、︿黒船﹀来航を近代化の発端 として単に称えているだけのものに見えるが、実は同時に 日本自身で﹁開国﹂できなかったことに対する劣等意識を 内包するものであった。このような描き方が主流であるが、 一部例外も確認できたことから、﹁脅威としての︿黒船﹀﹂、 ﹁脅威と賛美が同居する︿黒船﹀﹂、﹁賛美される︿黒船﹀﹂ が順に現れ、新たな描かれ方を加えつつ、併存していたと 見ることができる。 ところが、興味深いことに、︿黒船﹀という言葉は国史 学者による学術用語として扱われなかった。その背景には 歴史学が近代的学問に脱却したことがあり、すなわち、歴 注 1 司 馬 遼 太 郎 ﹃ 竜 馬 が ゆ く ﹄ ︵ ﹃ 司 馬 遼 太 郎 全 集 ﹄ 第 三 巻 、 文 芸 春 秋 、 一 九 九 六 年 第 七 刷 [ 初 版

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九 七 二 年 ] ︶ ‘ 六 O ー 六 二 貝 o 2 島崎藤村﹃夜明け前﹄第一部︵上︶新潮社、二 0 0 八 年 第 八 八 刷 ︵ 初 版 一 九 五 四 年 ︶ 、 二 四 頁 。 3 手 塚 治 虫 ﹃ 陽 だ ま り の 樹 ﹄ 、 第 二 巻 、 小 学 館 、 一 三 刷 ︵ 初 版 一 九 八 九 年 ︶ 、 一 八 九 ー 一 九 三 頁 。 4 国 史 大 辞 典 編 集 委 員 会 編 ﹃ 国 史 大 辞 典 ﹄ 第 一 ﹁ 伴 天 連 追 放 令 ﹂ 項 、 六 三 一 頁 。 巻 、 加 藤 栄 史学者リースが実証主義の手法を取り入れた科学としての 歴史学を伝え、国史学者もその手法を基に歴史叙述をする ようになったことで、一次史料に現れない︿黒船﹀という 言葉はアカデミズムには定着しえなかったのである。ここ において︿黒船﹀は、いわば学問に携わる者以外の人々が 創造した物語と言え、近代日本の移り行く社会や対外関係 を背景に、近代における人々のメンタリティーが投影され た言説だと言える。西洋を範として脱亜入欧を叫び、明治 新時代を称賛する中で、近世を﹁鎖国﹂したために遅れた 時代と見なし、そこから脱却しようとする近代︿日本人﹀ の精神性が 6 9 、︿黒船﹀という言葉にその鎖を打ち砕いた﹁開 国 ﹂ 7 0 の象徴という意味を与えたのである。 一 九 九 三 年 第

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松浦家文書、松浦史料博物館蔵︵安野慎幸﹃バテレン追放令﹄、 日本エデイタースクール出版部、一九八九年︶、一︱一四頁。以下、 全ての読点、句点、傍線は筆者が付け加えた。また、引用文中 における旧字体は、新字体に改めた。 6 清水絋一、木崎弘美、柳田光弘︹他]編﹃近世長崎法訓史料 集﹄一、天正八年 1 享保元年、岩田書院、二 0 一 四 年 、 五 四 頁 。 7 龍掲﹃近世長崎法制史料集﹄一、九四頁。 8 前掲﹃近世長防法肋史朴集﹄一、五四頁。 9 ﹃犬子集﹄巻第五、秋下︵森川昭[他]編﹃初期俳翠閃竺新 日本古典文学大系六九、岩沢書店一九九一年︶、九八ー九九頁。 1 0 正保四年のポルトガル船来航事件を記録したものには、﹁通 航一覧﹂の他、長崎聖堂書記役の曰邊八右衛門茂吉が編集し、 明和元年に長崎奉行へ献上した﹁長崎実録大成﹂がある。﹁長 崎実録大成﹂は同年六月二四日に長崎へ南蛮船二艘が入褐した ことを記録していることから、明らかに同事件のことであると 見られる。ただし、﹁通航一覧﹂と異なり、ポルトガル船が︿門船﹀ でなく、﹁南蛮船﹂と表記されている。︵田邊八右衛門茂吉編﹁長 崎実録大成」、第七巻〔丹羽漢吉、森永種夫校訂『長崎実録大成〗 正編、長崎文献叢書第一集•第二巻、一八六ー一八七貞〕)。 11長崎県史編集員会編﹃長崎県史﹄対外交渉編、吉川弘文舘、 一九八六年、二三三頁。 1 2 前掲﹃長崎県史]対外交渉編、二三七頁。 1 3 山本博文バ信父としての,鎮国クーなぜ二百年以上の平川 が可能だったのかー氏、 N 日 K 出版、二 0 一 三 年 、 一 ↑ -} I i 日林謹﹁圃航一覧﹂、一八五三年︵早川純一二郎編鼎尻い亨呼訓 5 第五、図書刊行社、一九一三年︶、緒言。 15前掲林麟﹁通航一覧﹂巻之百八十六、六 0 頁 。 16河村瑛子「古俳諧の異国観一南蛮·黒船・いぎりす•おらん だ 考 ﹂ ︵ ﹃ 国 諸 国 文 ﹄ 節 八 ︱ ︱ -\ 一 号 、 四 〇 \ 四 四 頁 ︶ 。 河 村 に よ る と 、 南蛮貿易を行っていた時代に、南蛮船としての︿黒船﹀は鉄砲 を有していたことから脅威と認識されたとあるが、必ずしもそ うとは言えない。というのは、酌蛮貿易において戦国大名は積 極的に鉄砲を輸入し、用いていたからである。また、島原・天 草一揆︵一六三七\三八︶においては、熊府側が原城攻略のた めにオラ/ダから臼似を借用しており、また、豊臣秀吉による いわゆる﹁刀狩令﹂発布以降も、近世の農民は害獣の駆除のた めに鉄翫を所持していた形跡かある。 1 7 林 子 乎 原 署 、 杓 岡 訓 嗣 校 訂 ﹃ 湘 国 兵 談 ﹄ 、 岩 波 書 店 、 ︱ -0 0 九年第四副︵初版一九三九年︶、一九頁。

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州 贔 町 触 仙 究 会 ﹃ 京 都 町 触 集 成 ﹄ 第 ︱ 二 巻 、 岩 波 書 店 、 一九九五介第二刷︵初版一九八六年︶。近世史料研究会編﹃江 戸町触集成﹄第一六巻︿自嘉永三年至安政二年﹀、塙書房、 ! i O O 一年。石井艮助、服籐弘司編﹃癖末御触書集成﹄第一\ 五巻、岩波書店、一九九四年。黒羽兵治郎編﹃大坂町奉行所御 触書総目録﹄、清文堂出版、一九七四年参照。 1 9 一八五三\一八五五年︵嘉永六\安政二︶永青文庫所蕨、熊 本大学付属図書館寄託︵熊本県立美術棺編﹃横井湘南と小河一 印ー仇化げ間を誠み解<│﹄、土佐の龍馬、肥後の小楠展実行 い 合 、 ︱ -0 一 七 年 ︶ 、 三 一 頁 。 戸田氏柔は弘化四年(-八四七︶に浦賀奉行となった後、嘉 叩

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永六年(-八五三︶ペリー浦賀来航の際、首席全権となる。大 垣藩から小原鉄心の斡旋で兵︱︱︱ 1 0 人を率いて国書の交換をし た。︵横山住雄﹁戸田氏秀﹂項、安岡昭男編﹃幕末維新大人名事典﹄ 下巻、新人物往来社、二

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年、一五六ー一五七頁︶。 2 1 井戸鉄太郎宛書簡集﹁南浦書信﹂乾坤、一八五三年四月 1 ︱二月、東京大学史料編纂所蔵︵浦賀近世史研究会監修﹃南浦 書信﹄、未来社、二

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二 年 ︶ 、 六 一 ︱ -\ 六 四 頁 。 ﹁南浦書信﹂は、ペリーの浦賀来航直前の窟永六年四月晦日か ら︱二月︱二日にわたる︵途中脱けている日あり︶同地奉行戸 田伊豆守氏栄の在府奉行井戸鉄太郎︵石見守弘道︶への私信集 である。この書簡は両奉行の公文書ではなく、戸田から井戸へ の私的な手紙であるという。南浦書信の原本所在は不明だが、 該書で紹介する乾坤二巻は、大正三年に鉄太郎の孫に当る達 夫宅にあったものを、東大史料編纂所々員が箪写したもので、 一九九九年に発見され、解読された。乾は四月から七月、坤は ︱一月から︱二月の書簡が収められている。︵前掲﹃南浦書信﹄、 一 六 三 頁 ︶ 。 22野島家文書︵宮地佐一郎﹃龍馬の手紙﹄坂本龍馬全書簡集・ 関係文書・詠草、 PHP 研究所、一九九五年︶。 2 3 上 田 万 年 監 修 ﹃ 国 学 者 伝 記 集 成 ﹄ 第 二 巻 、 名 著 刊 行 会 、 一九七八年、﹁色川三中﹂項‘︱二九六 i 一 三 0 0 頁 。 2 4 古川貞次、大曾根章介[他]編﹃国書人名辞典﹄第二弯岩 波書店、一九九三年、﹁橘守部﹂項、一九七頁。 2 5 色川三中﹁片葉雑記﹂︵中井信彦校注、色川三中著﹃片葉雑記﹄ 色川三中黒船風聞記、慶友社、一九八六年︶、一五頁。 中央公論新社、 二 0 一 六 年 、 26﹁米艦渡来紀念図﹂一巻、横浜開港資料館所蔵︵熊本県立美 術館編﹃横井湘南と小河一敏ー新出書簡を読み解くー﹄、土佐 の龍馬、肥後の小楠展実行委員会、二 0 一 七 年 ︶ 、 ニ ニ 頁 。 27﹁海陸御固場所附﹂神奈川県立博物館蔵、︵神奈川県立歴史博 物館編﹃黒船﹄、神奈川県立歴史博物館、二 0 0 三 年 ︶ 、 二 四 頁 。 2 8 ﹁浦賀紀行図﹂二巻、真田宝物館蔵︵前掲、﹃黒船﹄︶、二六頁。 2 9 ﹁ペリー浦賀来航図﹂一巻二図、井伊家彦根藩文書、彦根博 物館蔵︵前掲﹃黒船﹄︶、二四頁。 3 0 ﹁外戎記聞﹂高田藩榊原家史料蔵︵田中葉子、齋藤純編﹃浦 賀大変ーかわら版にみる黒船来航﹄、浦賀研究所、二 0 一 四 年 ︶ 、 五 頁 。 3 1 ﹁蒸気船の図﹂横浜市中央図書館蔵︵前掲﹃浦賀大変ーかわ ら版にみる黒船来航﹄︶、一︱頁。 3 2 ﹁異国船渡来記神洲泰平鑑﹂印刷博物館蔵︵印刷博物館編﹃西 洋が伝えた日本/日本が描いた異国﹄、凸版印刷印刷博物館、 二 0 0 四 年 ︶ 、 一 〇 八 頁 。 33﹁異国船帰帆之図井魚之図﹂東京大学史料編纂所蔵︵前掲﹃浦 賀大変!かわら版にみる黒船来航﹄︶、四五頁。 l J u J u J u 3 4 ﹁[ペリー来航関係瓦版綴りご二丁表に﹁火輪船﹂、﹁蒸気船 之図﹂︵横浜市中央図書館蔵︶に﹁上気船﹂とある。また、そ の他にペリー来航船を描いた瓦版には、﹁アメリカ蒸気船之図﹂ ︵品川歴史博物館蔵︶や﹁亜米利加シャウキ船海岸御固図﹂︵品 川歴史博物館蔵︶があるが、いずれにも﹁黒船﹂という表記は 見られなかった。 35西川武臣﹃ペリー来航﹄、

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一 四 0 頁 。 3 6 ﹁︹異国船渡来に付江戸町火消駆付場所達書︺﹂東京大学史料 編纂所蔵︵﹃浦賀大変ーかわら版にみる黒船来航﹄、三七頁︶。 3 7 有名な狂歌﹁泰平のねむりをさます正喜撰たった四はいで夜 もねられず﹂は、三谷博﹃明治維新とナショナリズム﹄(-九九七 年︶における第三章の注一にて、三谷が﹁泰平の⋮⋮﹂と時代 全体を外から見ていることが指摘し、明治以降の作ではないか という説を提唱して以降、それが有力な説と見なされている。 よって、それを踏まえて本稿では上記の狂歌は扱わないことと す る 。 3 8 日本古典籍総合目録データベースや国会図書館の目録など で、﹁黒船﹂を題名に含んだ幕末の資料名が検索できるが、こ れらの表題は後世に付されたものであり、ペリーが渡来した同 時代に付されたものではない。 3 9 西 周 ﹁ 人 世 三 宝 説 三 ﹂ ︵ ﹃ 明 六 雑 誌 ﹄ 第 四 0 号 所 収 、 一 八 七 五 年 八 月 刊 行 ︶ 。 4 0 明治一八年校訂の写本﹁黒舶婚沈記﹂は﹃日本帝国史﹄以前 の文献であり、﹁黒舶﹂をクロフネと読む可能性があるが、確 定は出来ない。なお、内容は慶長一四年(-六 0 九︶に有馬晴 信が長崎港内にポルトガルの商船を沈めたことが描かれてお り、﹁黒舶﹂は明らかに南蛮船を指している。ただし、原著の 成立年代が不明であるため、本稿では考察の対象としない。 4 1 松井広吉﹁四十五年記者生活﹄、博文館、一九二九年、二頁。 42前掲松井広吉﹁四十五年記者生活﹄、七八\二六三頁。 43松井広吉﹃日本帝国史﹂、︵博文館、一八八九年︶の校閲者は、 後に実証王義の方法を用いて歴史学を研究する内藤趾斐ではあ るが、この書が刊行された明治二二年は帝国大学に国史学科が 創設された年に該当するので、内藤がこの時最新の文献実証学 を修得し、その眼をもって校閲したとは考え難い。よって、こ こでは一次史料にない︿黒船﹀という言葉が登場するのであろ ヽ つ ' 4 4 前 掲 松 井 広 吉 ﹃ 日 本 帝 国 史 ﹄ 、 三 三 ︱ ! -︱ 一 三 四 頁 。 4 5 福田久松﹃大日本文明略史﹄、福田久松、一八九一年、 二六六ーニ六九頁。 46高橋健自(-八七一ー一九二九年︶は明治から昭和時代前期 にかけて活躍した考古学者。銅鉾・銅剣の研究によって京都帝 国大学より文学博士の学位を得た。﹃銅鉾銅剣の研究﹄(-九二五 年︶などの著作は、日本考古学の基本的業績として有名である。 ︵国史大辞典編集委員会編﹃国史大辞典﹄第九巻、一九八八年、 坂詰秀一﹁高橋健自﹂項、五八頁︶。 4 7 高橋健自、武谷等編﹃中等国史教科書﹄、東京図書出版、 一八九七年、二三六 1 三 二 七 頁 。 4 8 ︿黒船﹀という言葉が登場しない教科書としては、他に、伊 勢椿時中編﹃小学国史紀事本末﹄巻下、龍雲堂(-八八一年︶ や、大槻文彦﹃校正日本小史﹄下、柳原喜兵衛[他]二八八二 年︶、山縣悌三郎﹃小学校用日本歴史﹄、山縣悌三郎(-八八八 年︶、普及舎編集所編﹃小学国史﹄巻三、普及舎編集所(-九 0 0 年︶、原秀四郎﹃中等国史教科書﹂、博文館(-九 0 七年︶の第 一学年用と第二学年用、高等女学校用の市川源三[他]﹃国史 教科書﹄下巻、国光社(-九 0 七年︶などがある。また、文部

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省 二 、 文 部 省 二 九 0 四 平 ︶ や ‘ ' ﹃ 墨 責 ゲ 学 日本歴史﹄二(-九一 0 王︶、支部省﹃尋雷国咆以科曽﹄下在、 文部省(-九ニ︱年︶なとといっこ国定一焚支賛戸宕に八︿国,翫 という語は硝認できなかった。 6 9 前褐﹃

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碁国史敦科警﹄(-八九七年︶い屈の敦料言に︿里ぶ 5 ﹀ が消えだ糎由は、﹃中等匡只校訃拿 l ﹄︵一八九凸年︶化版土初は、 一瓜中員を基に叙述する宍証主義の方怯が敦訃書に反撃されて いなかったが、以砕はその手怯ガ戟科書し仄唸されたか亡だと 考えちれる。第二章二的参照。 50竹越与三郎﹃祈日オ史﹄し登、第四版、/氏友石、一八九 i

襄哀紙裏。なお冨 2 版から第三尻げ呵存状況ガ不明てあるため 籾版と同年に刊行苔礼た第四版を使目する。 5 1 薗褐竹鯰与三郎﹃新 □ i本史﹄上巻、一七頁。 認素山梼吉﹃提督役理﹄,曹文喧、:八九︷ノ年、前渭七頁, 53前謁翠山椋吉﹃狐蒙彼涅﹄・←三四︵!三五頁 c 詞平戸大醤『出朱合〗一パ旦水師提督ぺぃリ入旦沢上陰誌』、原田 l i J 、 . L I -﹂ 平 ’ 9 . 一 ︵ ' 二 頁 。 日 屈 一 1 で 一 , ︱ 訪 桑 見 雷 晏 ﹁ 間 ヨ 始 末 洞 賀 の 累 伯 ﹂ ︵ 三 乞 雪 髯 、 賢 図 伸 顕 [他]暑﹃中学世界﹄第一デ巻第一号、博文土、一九︱二印︶、 ―二 0 了~―ニニ頁。' 56孔予厨誓、紐谷冶訳注﹃論語﹄、冒波書店、一,几九八︱土'急 五九刷(初庄一九」ハ三年〗,一七頁。 57大日本文明協全責﹃日米交巴耳十平史﹄、大日士ナ J 明 協 公 ` i , J L o □ ) 丸 年 、 一 戸 。 58帳井首三講話﹃黒沿鍔尻謹乎の真唱﹄、 ︹ ド 反

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叩 P ] 、 L L J h i l , ふ-I ' . : 1 一 九 一 三 年 匹 ﹃ . 一 、 天 言 。 氾可褐似芥吝三﹃焦船般情渡来の真臼﹄、ニニ頁。 60 □ f 四誌一孔冒喜〗訂智齊ア'',りヵ甕語』、東一[ 一九一九芝、旦しかき。 6 1 " i 肛 褐 J l l 副庄一郎﹃国只の新習織アメーカ警話﹄\八四\八七 頁 。 62 忙〈野心樅『日・ s 全屯』鬼‘.〗翠―-―-墨一,.新叉」第一章「黒船 の 出 汐 と 戸 翌 畑 の が 腐 ﹂ 、 帝 国 史 會 所 完 会 、 一 九 一 六 年 、 四 一 三 一 貞 。 口 小 林 絨 之 輔 ﹃ 大 □ 本帝国全史﹄上之脊.,心亨七百丸、 一八九二炉、ニ︱二頁。内底肛畏、ヰ玉右次邦、飼條文祉山 口喜立励、有賀長雄が狡訂に携わった。 臼脅胴阿︳呉﹃一国力文畳見﹄皐港堂喜茫、一八九八年、﹁八九頁。 65内日裏訊﹁世界仏勢の批移と団目﹂︵日本歴史池理学芸編﹃日 ぷ癒上史論﹄冷三省堂、一九︱一年︶、二-四 r ) 一 ニ ︱ 五 頁 。 65中村孝巳﹃江戸砧尉汲国立品﹄、奉公会、一九四九年'、七頁。 可修史局副長の重阿王拿ド(-八二七︵ I -九 1 0 年︶は、餃し ぃ兄糾批月と﹄・ム摩的史実の髯殺を行う合坦的実肝主羨の立場 で ふ い っ キ . j o ︵永灼正二﹃ g o 愉記日本の一歴史学﹄、吉川弘文鯰、 二 O C H ︱ , 、 9 -四 夏 ︶ 。 応 [ 5 酋︱︱平(-八八八年︶、リースは渡辺洪基総長の諮閂を 受け、国史学科新訊に覧す︱ . a 恙屁書を提庄︵古文脊学・歴史地 四学等の匂助学晏工尺/妻ヨーロソパ風の実詞王羨匠史学応輯 賃 詞 奇 宰 設 邑 の 炭 ハ ー グ □ 誉麟所婦の祖蘭出島胄館日誌や 往復,文書の詞祖0竺等を勧告︶、し国史学料の栢戻に貢献し . 尺 一 孟 凸 二 、 一 九 七 六 年 、 四 四 四 \

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四 四 五 頁 ︶ 。 6 9 大島明秀﹃﹁鎮国﹂という言説ーケンペル著・志筑忠雄訳﹃鎖 国論﹄の受容史ー﹄、ミネルヴァ書房、二 0 0 九年、ニ︱八頁。 7 0 ﹁開国﹂もまた明治二 0 年代以降に浸透した言説で、﹁国の開 鎖﹂を指すのみならず、この言葉には︿文明の度合い﹀に関す る眼差しも含まれている。大島明秀﹁﹁開国﹂概念の検討ー言 説論の視座からー﹂︵﹃国文研究﹄第五五号、二 0 1 0 年 所 収 ︶ 、 二九\三 0 頁。荒野泰典﹁近世の国際関係と﹁鎖国・開国﹂言 説ー 1 9 世紀のアジアと日本、何がどう変わったのかー﹂︵﹃比較 日本学教育研究センター研究年恨﹄第一一号、二 0 1 7 1 : ' 庄 収 ︶ な ど 。

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