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「日常と偶然」へのアプローチ

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「日常と偶然」へのアプローチ

片山 洋之介

はじめに

日常と偶然とを結びつけて論ずることがどれほどの意味を持つのか,十分な成算があるわ けではない。主として実存思想を手がかりに考えてきたことを自分なりに方向づければどう なるかと考えると,この二つの言葉がキーワードとしてあがってきたということである。両 者とも,普通には問題にする価値がないとされる事柄なので,これらを主題にすることの弁 明がむつかしい。日常とは「すでにわかっている」有様だし,「偶然にすぎない」ことを問題 にしても役に立たぬ。学問の営みにおいても人聞の生き方においても,「日常に埋没するこ と」あるいは「偶然に身をまかせること」は,探求の努力を放棄することであり,称賛され るべきものではない。それらは,真理を求める学問の営みや真実な生き方の紺極にあると考 えられよう。まず大前提として,「真理は,それ自体で価値がある」こと,そして「日常と偶

よ モ

然は,稟理の余所にある」ことを認めねばならぬ。

日常および偶然の意義を主張するとしても,あくまで真理を探求するという前提において である。このことは繰り返し確認しなければならない。その上で,ひとたび日常や偶然の意 義が重視されるならば,真理はみずからの外部におびやかされることになるだろう。「自身」

と「よそ」,「自体」と「外部」の境界が怪しくなり,虚偽とか欺隔の意義が主題に上がって くるだろう。つまり,新たな真理概念が要求されるということである。

後述するが,現代はそうした思想状況にあると思う。しかし余所を余所として,明確に主 題化することはむつかしい。私も日常・偶然それぞれについて,幾人かの思想家を手がかり に数編書いたが,いずれも問題を残したままだし,日常と偶然を関係づけて論ずる試みはま だ手探り状態にある。何らかまとまりをつける前に,どうしても取り上げたい思想家が残っ ているし,すでに言及した思想家についても論じ面したく思う。「意味」「他者」「身体」「時 聞1といった概念を,「日常と偶然」という様相を通じて問えばどういうことになるか。問題 は広がってなかなか収束しそうになく,ジグザグに歩みを進めるしかない。本稿も途上の試 みである。あらかじめ全体の構成を示しておこう。

(一)二人の同僚への追悼も含め,序論として死の問題を取り上げた。生の限界としての

「存在論的な偶然性」をはじめに展望しておこうという意図からである。しかしそれはあくま で展望であって,前提するべきものではない。(二)出発点として,真理への疑念が生じてい る現代の情況をふまえ,「真理の余所」としての日常と偶然を主題化することを試みた。後半 は「現実的真理」への志向に即して,イデオロギー論を取り上げた。真理はイデオロギーと なることを免れない。そのことを積極的に認めるならば,日常性と偶然性は,真理の条件と

『人文学科論集」37,pp.51−74.       @2002茨城大学人文学部(人文学部紀要)

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みなすことができるだろう。(三)では「日常と真理」という見地から和辻倫理学を取り上げ た。臼常の事実に即してそのただ中に倫理を見出そうとする和辻倫理学の方法には共感する のだが,それは困難な試みである。その困難に定位すれば,「日常」はそれ自体の内に亀裂を 含むと考えざるをえなくなる。そこで和辻の「間柄」論や「倫理の普遍性」が問われること にもなるだろう。(四)以上の展開をふまえ,メルローポンティが真理と偶然性について触れ ている一節を取り上げ,それを手がかりに暫定的なまとめと展望を試みた。

「日常と偶然」を真理との関係で論ずるというのが本稿のテーマである。テーマは異なる が,すでに旧稿で論じたり触れたりしだ部分もある。その箇所については註で示した。

(一)死の必然一偶然

世紀の変わり目に二人の同僚の死に立ち会った。私もガンの手術をして死が身近なものと なった。三人の研究室が隣接していたこともあり,自分たちの病いを話の種にしたこともあ る。一「死ぬことを考えても仕方ないよな」一一一「生きている毎日が有難いと思えるよ うになったのだから良しとしようJ−「その1時が来たら,アバヨと笑えればいいね」など

と。

死は誰にでもやってくる。種としての生物にとって,個体の死は必然(必要)だと雷えよ

さ西r

う。しかしこの必然に対し,解答のない「なぜ」を問わざるをえないのも人間の性である。

偶然について,さしあたり「理由がない」ないし「理由を知ることができない」と規定する ならば,「死の必然」は理由なき事実であり,「偶然」でもある。

日常において死は,自分の生を脅かす事実として主題化されることはない。事故のニュー スを見聞して多くの人の死に心を痛めるとしても,他のさまざまな窮件と同じく,情報とし て日常の話題に組み込まれてしまう。しかし親しい者の死に出会い,自分自身の日常が揺る がされるとき,1}その偶然一必然が,生への脅威として迫ってくるだろう。彼の死について,

医者や警察は理由(病因とか斑故の様子など)をあげて説明してくれる。しかしそれは「いか にして彼の身体機能が停止したか」の理由であって,「なぜ彼の死が生起したか」の理由では ない。彼の死を悼む考にとって,出来瑛は理由なき運命としか受けとめようがないのである。

科学的説明を超えた「偶然の死』に出会うとき,「人間は誰でも死ぬ」という必然が重ね合わ される。

九鬼周造が言うように,運命は『必然一偶然」の構造を持っ。2)偶然とみえた出会いが自分 の人生に深い関わりをもつに至るとき,その出会いは「必然的な運命」と言われよう。「彼と 私は生まれる前から赤い糸で結ばれていた」と言われたりもする。そうだとしても運命はあ

くまで理由なき必然であり,偶然性が解消されるわけではない。この,決して解消されるこ

とのない,必然と表裏な偶然性を「存在論的偶然性」と1呼んでおこう。それは論証を超える

(3)

「日轍と偶然」へのアプローチ      53

ものであり,生の限界において出会うものである。

我々にふりかかる不可避の事実が,不条理の感情とともに受けとめられるとき,その事爽が

「存在する」こと自体の偶然性が浮かび上がってくる。そこから見れば日常はどう捉え痕され るか。存在論的偶然性は,日常の生活においては主題化されず,影にとどまっている。「影を 落とす」と言うべきか「影にとどまる」と言うべきか,微妙なところだが,偶然性のもたら す影を積極的に解釈することによって,日常性を豊かで謎に満ちたものと見直すことができ ないだろうか。

「死に向かう存在」を本来性への通路としたハイデガーは,日常性をそこからの逃避として,

頽落として描いた。だが彼の存在論における日常性の概念は微妙であり,積極的な解釈を許 す余地を残している。「可能性」を強調するハイデガーに対して「偶然性」に定位するなら ば,日常性も違った風にみえてくるのではないか。

先の,二人の同僚との会話は,死を逃避するおしゃべりであり,非本来的と見なされるか も知れない。しかしその会話は「かけがえのない日常」を感じさせるものであった。彼らと の会話は今では過去となり,彼らの不在が我々の日常となっている。だが完全な忘却に至ら ぬあいだは,彼らは不在として現在している。

「不在としての現在」ということで偶然性と可能性の運関を示すつもりだが,後の問題とし よう。「日常の内に落とす偶然の影」という表現もあまりに曖昧で,こうした言説の意味を明 確にする必要がある。存在論的な次元は(「語り得ないもの」とは思わないのだが)前提すべ きものではなく,生の現実からの要請を通じて主題とするべきであろう。死の問題からのア プロr一チは中断して現実に立ち戻り,日常の生との関わりで真理の問題を考えることにしよ

う。

よ モ

(二)真理の余所

はじめに「日常と偶然は,真理の余所にある」と述べた。この,真理にとっては無視すべ き「余所」を主題とし,それを通じて真理を見直すのが本節の意図である、

まず真理および真実の規定をしておかねばならない。真理の意味を変えていくのが一つの 目的だし,場面展開の中で意味をずらしていくつもりだが,さしあたり常識的で欲張った規 定をしておきたい。一真理とは,①学問的・理性的な洞察によって見出される②普遍 的・必然的な理法・法則であり,③実際の現実に適合する言説である。真実という雷葉は真 理と同義に使われることが多く,本稿でもまとめて「真理探究」と書く。とくに区別されて

「真実」という言葉が用いられるのは,人間の生き方,倫理に関わる場合にである。真実とは

「道理からはずれない」生き方であり,「心に思うことに一致する」「二心がない」雷説だとい

うことができよう。

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以上の規定に則して,真理探究の発生と成果を問題にし,日常と偶然の意義を正面に押し 出じたい。.フッサール,ニーチェ,マンハイムなどの助けを借りることにする。

①真理の探求は,何らかの方法をもって,「学問的・理性的」に行われる必要がある。

「学聞的」「理性的」ということの意味は様々だが,基本としてまず「曖昧な了解の上に立っ 日常性から脱出する」という点では共通していよう。どのように脱出するかについては,さ まざまな筋道が考えられる。「科学的に」とか「哲学的に」とか,あるいは「良心的に」とか 1呼ばれる場合,日常性からの脱出の仕方に,異なったニュアンスがある。その点に注目して 哲学の流派を説明することもできるだろう。哲学史の記述も,〜主義と称される以前の「問 題関心の場面」に立ち戻らなければ,単なる学説史になってしまう。晩年のフッサールにお ける現象学的還元は,哲学や科学による色づけが行われる以前の,rそれらを発生させる地盤

としての日常世界をあらわにする試みでもあった。「客観的学問が問いを立てるのも,〈常に 薗もって,前学問的な生活に由来して存在する世界〉という地盤においてのみである。」3)

其理を探究するには日常世界から脱出しなければならぬ。ひとたび脱出して真理探究の営 みが続けられると,其理の光こそが導きとなり,世界はその光によって色づけされるように なるだろう。だが,その色づけが疑問視されるような事態が生ずるとき,真理探究そのもの への反省が起こってくる。「世界をどのように色づけしたのか」が問われ,そのために「日常 世界からどのように脱出したのか」「何を切り捨てたのか」が改めて問題にされることにな る。フッサール現象学における「還元」は,日常世界から「脱出する」ことを要請するが,

それが学問の危機意識と結びつくとき,日常世界を学問の豊穣な地盤として「捉え直す」作 業ともなった.

ここに日常世界,ないし自然的態度と1乎ばれるものの両義性が生ずる。「車実そのものに帰 れ」という一あまりに自明な一現象学の標語や,「世界を括弧に入れる」とされる現象学 的還元の捉え難さの一つは,ここにある。むしろ,自明にみえた日常世界の内に,しかと捉 えがたい両毅性を見出すことが,真理を見直す一つの契機ともなろう。のちに和辻倫理学を 論ずる中で問題にしたい。

②曖昧な了解に満足せず方法的に原因をつきとめ,原因から出来婁を説明する態度は理 性を備えた人間にふさわしい。理性的認識の努力を積み蚤ねることによって,より普遍的・

必然的な法期を認識することができ,出来事の偶然性は徐々に克服されていくだろう。未来 はより予測可能となり,人間生活の不安は減少するだろう。真理の探究は入間の幸福を目指 しているのである。一

以上のまっとうな主張において,真理の探究としては科学的認識が想定されているだろう。

だが「偶然性を克服して,人間生活の不安を減少させる」点だけを考えれば,以上の発言は

宗教の教説においても,あえて言えば迷信においてもあてはまる。凡人は性急に原因を探し,

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「日常と偶然」へのアプローチ       55

偶然性の克服を手っ取り早い確信に求めてしまうのだ。政治的・経済的な不安が生ずるとき,

仮想の原因(「外国人の策動」とか)を作り出して攻撃することがしばしばある。「金色の観音 様を拝めば病気が治る」といった教説に囚われたりもする。それゆえ原因探求を科学的認識

にふさわしいものとするには以上の表現では不十分であり,原因の中身,およびそれを探求 する方法を限定しなければならない。近代的な合理性の確立にとって,科学と科学以前(な いし科学以上)の区別,知と信の区別は重要な契機となる.

この区別は重要である。科学者が観音様を拝むとしても,科学する者としてではない。科 学の真実さの一つは,原因が不明ないし不明確な場合にはそのことをはっきりと認め,安易 な臆断を戒めるところにある。そうした真実さのもとで,科学は偶然性に委ねられる領域を 徐々に狭めていく。宗教の真実さは,それとは遡のところにあるだろう。原因不明の病に苦 しむ者にとっては,何らかの原因(「神の与えた試練」など)を想定した方が苦しみに耐えや すいかも知れない。語られる箏柄よりも語る人によって,あるいは語りの響きによって癒さ れるということもあるだろう。心の問題は,科学的合理性で割り切るわけにはいかない。

科学と宗教のこうした区別を認めた上で,「必然性の希求」という点では両港が共通すると いうことにも注意する必要があると思う。科学者とて人間であり,「科学以前の合理性」から 自由なわけではない。もしも「克服されぬ偶然性」が存在し,それが世界を支配していると いう認識が広がればどうであろうか。科学にとっても宗教にとっても脅かしとなるだろう。

克服できぬ外部としての偶然性を,あくまで排除することを求めるか,あるいはみずからの 前提として受け容れるか。それによって理性の意味も真理の意味も異なってくるだろう。

百年以上前,ニーチェは「神は死んだ」とニヒリズム到来を叫んだ。それは「克服されぬ 偶然性の直観」と解釈することもできる。当然のことながら,神の死を語ることは,宗教へ の無関心を意味しない。世界全体の必然的な根拠(神)を求め,その不在を直観した上で現爽

      ㍉      、

フ生に立ち戻るのである。ニーチェはその境地から「真理の価値」に間いかけ,「真理への意 志」の危険を指摘する。4)

彼のいうニヒリズム情況は,現代では当たり前のようになってしまった。真理,普遍性,

必然性,理性といった「価値あるもの」の実在が疑問視され,これらを探求することがよい ことかどうかもわからなくなっている。これらは,依然として求められつつも同時に胡散臭 いものとみなされ,抑圧的にさえ感じられるようになった。20世紀の初頭以来「理性の危機」

あるいは「人間性の危機」として語り継がれた情況は,21世紀になっても変わってはいない。

一風土もちがい,経済格差が広がる中でのグローバリズムは時代の避けられぬ趨勢である

反面,さまざまな問題を産み出している。「普遍化」の広がりは,特殊な地域に生じた特殊な

基準に優位を認めることであり,見えざる抑圧を造り出す結果にならないか。一理性的動

物と言われる人間は,本当に優れた動物であろうか、他の種や次の世代のことも考えずに欲

望を拡大し消費し続けることは,経済の成長や国の発展にとって(短期的には)「よい」こと

にちがいない。普遍的な真理や合理性の探求が,こんなにも胡散臭い「普遍性」や「よさ」

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に奉仕すべきだとしたら,その価値をどう考えればいいのだろうか。

もちろん,こうした疑念が否定的なものにとどまって理性の破壊に終始するならば,それ は頽廃しかもたらさない。「非合理主義」(そんな主義があるとして)による破壊の情熱は一時 的であり,廃機に残るのは「日常への埋没」「偶然まかせ」といった無気力状態でしかない。

それゆえ,「日常と偶然の復権」が真理や理性への疑念や否定の感情から生じたとしても,同 時にこれらを豊かにする志向を潜在させていないのであれば,是認される復権とはならない だろう。「危機」は新たなものを産出する機会でもある。

③普遍的・必然的な法則や真理を求めるには,何らかの形で現実を抽象化(イデア化)

する作業が不可欠であり,その結果に獲得された法則や真理は「抽象観念」と言わざるを得 ない。これは学問ないし科学の本質に属することである。徹底した理性主義は,おのれが見 出した抽象観念がいかなる現実にも対応する普遍的・必然的な真理だと主張する。ヘーゲル は「理性的なものは現実的であり,現実的なものは理性的である」と言った。5}その尊大な発 想を哲学の外だと切り捨てるか,この発想を制限ないし解体しっっ生かそうするか,いずれ にせよ「真理と現実」の関係は問題であり続ける。かつては真理とみなされ,現実に対応す るとみなされた観念への疑念が生まれ,それを産出した土台を揺るがそうとする運動が起 こってきた。その運動はマルクス主義の専売特許ではない。現象学,実存哲学,分析哲学,

構造主義等々,さまざまに呼ばれる哲学の諸潮流も,それぞれの仕方で「現実的な真理」を 求めていると言えよう。だがそこで「現実的」とはどういうことか,真理の射程をどこまで 広げる(あるいは狭める)かといった問題になれば見解が分かれてくる。

以上の情況を踏まえ,一つの作業仮説として,「現実的」という形容詞を,「日常的」「偶然 的」と假き換えてみたい。日常と偶然を復権させることによって,どのような現実的理性が

もたらされるか。「真理の余所」にとどまりつつ,いかにして真理を活性化することができる か。まずマンハイムのイデオロギー論を手がかりに真理を社会学的な見地から考え,その概 念を緩めておきたい。イデオロギーという言葉は多義なので,私なりに整理することから始

める。6}

・イデォロギーとはまず,(A)個人に特有の思想ではなく,社会を広く支配していると見なさ れた観念である。支配的な観念の圏内にある人々は,その観念の真理性を疑わない。むしろ,

真理であるかどうかも問題にならぬ自明の観念というべきだろう。

(B)この支配的観念の自明性が崩れ,現実に適合していないと感じられるとき,その観念が

イデオロギー(虚偽意識)と呼ばれる。ここでの「虚偽」とは,意識的な嘘とか論理的な矛

盾ではなく,「現実に合わぬものを現実的と思いこむ」ことを意味する。(A)との関連で言え

(7)

「日常と偶然」へのアプローチ       57

ば,社会に広く行き渡った観念(A)が虚偽意識(B)とみなされるためには「その粕神的内爽 の呪縛圏の外に身をおくようなカ」(マンハイムア,が必要である。歴史の一段階においてこう

した力が生じてくるとき,それまでは自明であった観念が虚偽(現実不適合)と評価される。

階級対立,民族対立,世代対立など色んな場面が考えられるが,社会の内に思想上の亀裂が 生じ,敵と味方,外と内との区別が際立ってくるときに,イデオロギーという書葉が前面に 出てくるのである。

(C)「存在が意識を規定する」(マルクス)とか「あらゆる生きた思想は存在に拘束されてい る」(マンハイム)とか言われるように,観念がそれ自体としてではなく,何らかの存在の関 数として把握されるときに,その観念がイデオロギーと呼ばれる。「存在」という言葉は曖昧 でのちに間題にしたいが,『ドイチェ・イデオロギー』では「現実的な生活過程」だとさ れ,解経済学批判』序言では「社会の経済的構造」が現実の土台とされている。9)

三木清は(C)をイデオロギーの一般概念,(B)をイデオロギーの特殊概念として区別し た。!o)たしかにこの二っは,事柄としては区別されよう。観念が存在に規定されること自体は 何ら虚偽ではない。しかし観念を把握する方法として考えると,(C)は(B)を前提にするので

あって,「存在に規定されている」という見方は「虚偽意識」という批判の徹底化だと言えよ う.っまり,観念が虚偽(現実不適合)とみなされるときにはじめて,その観念を産出した存 在(土台)が主題化されるのだ。

まとめて書えば,(A)支配的な観念に統合された穏やかな社会では,その観念は自明なもの として身についており,それを産み出した土台が問われることはない。(B)社会内部に思想上 の亀裂が生ずるときに,(C)虚偽とみなされた支配的観念を産出した土台(存在)が,批判的 に問題とされるのである6

以上のイデオ1コギー概念を踏まえ,二つの提言をしてみたい。一つは,思想が「虚偽意識」

(イデオロギー〉とみなされることは,思想の価値が既められるのではないと考えるべきこ と。っまり,真理は虚偽(現実不適合)となる可能性を避けられぬという事態を,積極的に承 認すること。そうであってはじめて真理は,動的な現実に対応した真理となりうる。

もう一つの提言は,(C)における「存在」を「日常」と称し,(B)における「虚偽」を「偶 然」の問題として考えること。さきほど触れた(B)と(C)の関係を「偶然と日常」の関係と することは,単に用語の問題とみえるかも知れないが,問題をより身近なところに引き寄せ ることになると思う。

まず虚偽を偶然の聞題として考えることについて。第一の提雷とも関連しているので,こ

こから始めることにしよう。繰り返すが,イデオロギー(虚偽意識)とは他者によって否定的

に名づけられた観念であって,それこそ真理と信じている当事者にとっては,その観念は非

現実でもイデオロギーでもない。おそらく彼は,自分の観念を否定する粗手の発想こそが虚

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偽であり,イデオロギーだと主張するであろう。こうして,お互いが自分の思想をイデオロ ギーとは認めない「イデオロギーの争い」が続けられることになる。「善」とか「正義3とか r真理」といった言葉が声高にとなえらμるのも,こうした争いの中においてである。こうし た言葉は「肯定的な価値」を示すとみえるが,ニーチェが言うように,怨みにもとつく「反 動」であることが多い。11)

そこで重要になってくるのは,マンハイムのいう「みずからの立場をもイデオロギーとみ なす勇気」吻である。その勇気とは,「私自身はこの観念を真理であり,現実に即していると 信じている。しかしそれが現実に適合しないという批判を受け容れる」ことである。換言す れば,「これしかない」「他様ではありえない」必然的真理をかっこに入れ,「他様でもありえ

た」偶然性に身を置いてみるということである。κ

みずからの儒ずる真理(現実との一致)が虚偽(現実との不一致)につきまとわれているこ とを認めるならば,他者の批判に耳を傾けざるをえない。偶然性に依拠するとは「他へと開 く」ことであり,真理と虚偽,自己と他者のはざまに身を置くことである。現実的な真理は,

これらのはざまに見出されると雷うべきではないか。この場合の「現実」とは,自己と他者 とがせめぎ合い,常に流動してやまぬ現実である。現実が動的なものであり,その現実に対 して真実であろうとするならば,真理も動的なものとされねばならない。真理の基準とされ た必然性・普遍性は静的な同一性を求めるが,こうした同一性は偶然性によって揺るがされ

ねばなるまい。13}

雷葉が滑っているかも知れない。イデオロギーの対立のさなかで,偶然性に身を置くこと が果たして現実的なのかどうか。一たしかに,指導的な政治家がそんな態度を見せれば,

国がまとまらなくなってしまう。しかし優れた政治家は「相手を知る」ことを通じて戦略を 考える。ましてや政治の外にあって文化交流に従事するような場合には,自身を相対化して 相手を知る必要がある。一それは納得できよう。だがそのことをわざわざ「偶然性に身を 催く」と表現する必要がどこにあるのか。一一十分な説明になるかどうかわからぬが,具体 的な行為の選択に即して,可能性,偶然性,必然性の様相を考えてみよう。

「可能性」の場面は,未来の行動に関わっている。二つ以上の選択肢を前に,いずれとも決 断しないモラトリアム状態にある。それに対し「偶然性」は,すそに選択を行った現在に関 わっている。「どちらにも立たず中間の道を探ろう」と考えていたとしても,いずれにせよ何

らかの道を選ばねばならなかった。かつては可能的であった選択肢の内から,何かを選択し てこれを「現実化」したのである。その選択が「必然性」と感じられるのであれば,他の可 能性は消滅し,現在と未来が連続する一筋の道がみえてくるだろう。しかし自分の選択が

「他様でもありえた」と感じる場合には偶然性に身を置くこととなり,他の可能性は背景にと どまる。他の可能性は「不在のものとして現在する」のであって,偶然性の様相で捉えられ た現在は,不在の影にっきまとわれている。しかしそれらはあくまで自分の選択した現在=

現実の中でのみ意味を持つ。この現実をぬきにしては,「不在」の可能性はもはや不在ではな

(9)

「日常と偶然」へのアプローチ       59

く,霧散してしまうのである、

処世訓としてどの態度を勧めるべきかは,何とも言えない。いっまでも可能性にとどまっ て自分を選択しないモラトリアム状態は,成熟した人間にはふさわしくない。必然性に即し て「迷いなく信念を持って生きよ」と勧めるのが,おそらくは親切なのだろう。偶然性に身 を置くことは「他へと開く」柔軟さを示すのだが,常に迷いがつきまとう。偶然性に依拠す るとは,現実に積極的に参与しながら,同時にそこからの距離を生きることである。それは 自己同一性を獲得できぬ不幸な生き方のように思われる。恥だが,緬値が相対化した1時代にお ける真実な生き方は,同一性の安らぎにとどまることではあるまい。

意識を規定するとされる「存在」を「日常」と称する提言に移る。そう言い換えてみたと て曖昧さがなくなるわけではないのだが,問題を具体的な生活の場面に引き寄せる意義はあ るだろう。性急なイデオロギー批判は存在なるものを安易に確定して,そこから思想を説明 するものとなりがちだ。気持はすっきりするし攻撃の武器ともなるが,こうした批判の仕方 こそが,無反省なイデオロギーとして非難されねばならない。思想が何らかの存在に規定さ れていることはたしかだが,その存在を把握することは容易ではないはずである。

まず,意識を規定するとされる(存在〉とはどういうものかと間う必要がある。マルクス 主義は経済構造を重視するが,それに対しては経済一元論だという批判が投げかけられる。

唯物論の立場をとるとしても,「意識を規定し観念を産出する」ような「経済」とか「物質」

は,「人間的」なものでなければならないし,奥行が深いものとなろう。アルチュセールから 批判を受けるのを承知で言えば,『ド・イチェ・イデオロギー』で言われる「現爽的な生活過 程」の方が,より曖昧なだけに〈存在〉にふさわしく思われる。それはフッサールのいう

「日常的な生活世界」に通ずる。これが学問の発生的地盤とされることについては先に触れ た。もちろん,唯物論と現象学とでは基本的な発想が異なるので安易にくっつけるわけには いかないが,問題とする事柄に即して而者の発想を借用することは許されるだろう。フッ サールから学ぶことは,生活世界という概念に繰り返し問いかけ,方法上の困難と格闘する 姿勢である。マルクスから学ぶことは,思想の董盤への問いを現実社会への徹底的な批判に 結びつけたことである。マンハイムのイデオロギー論は,その発想を学間的に整序した仕事

とみることもできよう。

イデオロギー概念をまとめたところで,「支配的観念に統合された穏やかな社会では,その 観念を産んだ土台が問われることはない。社会内部に思想上の亀裂が生ずるときにはじめて,

支配的観念を産出した土台〈存在〉が批判的に問題とされる」と言った。そうだとすれば,

ここでの〈存在〉とは,そもそも「亀裂を含んだもの」として解釈されないだろうか。一

支配的な観念によって統合された社会では,その亀裂がみえずく存在〉が間われることもな

かった。社会に生きる人々の日常は穏やかであった。人々がとくに意識しない中で,支配的

な観念が人々を仲間として結びつけ,また逆に仲間意識が日常生活で確認されることを通じ

(10)

て,支配的な観念が活性化される。しかし何らかの理由で社会の内に砲裂が生じるとき,社 会の現状に満足できない人々は,漢然とであれ,支配的な観念とはどんなものなのかを感じ はじめる。明晰な知識人は,その観念を産出した〈存在〉を問い,これを語ろうとする。

一事態が以上のようだとすれば,支配的観念の土台としての〈存在〉とは,かつては人々 が仲間とともにそこで安住した場所でありながら,今や亀裂が生じて安住が困難となった場 所と考えられないだろうか。それを「日常」,と名づけることで,問題を我々の身近に引き寄 せることになろう。我々の日常こそがイデオロギーの土台である。日常においては常識(コ モンセンス=共通感覚}が支配し,お互いが仲間として了解し合っているのであるが,その 了解は常に亀裂の可能性を宿しているのである。

ここまでくれば「日常の了解」を主題としなければならなくなる。次節で取り上げよう。

イデオロギー諭から日常論に移行することは,階級対立・イデオロギー対立の深刻な歴史と 現状から目をそらすことだと言われるかも知れない。だが必ずしも問題を倭小化することで はなく,我々の身近に引き寄せることにもなりうる。たとえば,三千年以上前からの,パレ スチナにおける領地をめぐる争いをどう考えるべきか。宗教上の問題に加え,とくに20世紀 以降は大国の利害が絡み合い,容易に解決がっくことではない。根本的には,長い伝統に根 ざした他者(敵〉との対立を超えて宥和に向かう条件を,いかにして作り出すかである。その 場合,「かつて仲間であったし,仲聞となりうる人々のあいだの争い」という,三千年を超え た視点が求められるだろう。そうであるだけに事態はより深刻かもしれない。その雛形は,

我々の日常において潜んでいることなのだ。

(三)日常性の彩り一一和辻倫理学における方法の問題一

本節では和辻倫理学の方法を手がかりに,日常と真理の関係を問題にする。現代から見れ ば,和辻倫理学も一つのイデオロギー(虚偽意識)だと言えよう。私自身,和辻には共感と同 時に違和感を持つので,その上に立って論じていきたい。「和辻倫理学を産出した歴史的情 況」の考察には立ち入らず,一般化して「倫理を産出する土台」としての日常について論ず ることとする。数年前の拙稿15}と重複するが,より明確に,一歩踏み込んだ形で問題を提起 したい。おもに『倫理学』と『人間の学としての倫理学』を引用しながら論を進める。

「倫理学を〈人間〉の学として規定しようとする試みの第一の意義は,倫理を単に個人 意識の問題とする近世の誤謬から脱却することである。...個人主義は人間存在の一つの 契機に過ぎない個人を取って人間全体に代わらせようとした。この抽象性があらゆる誤

謬のもととなるのである。」16}

(11)

「目常と偶然」へのアプローチ       61

和辻倫理学は「間柄の倫理学」と言われるが,そこには近代的な個人の抽敦性への批判が あり,現実に即した倫理学への志向がある。「倫理を個人意識の問題とすること」は抽象的で あり誤謬であると和辻は言う。同意するとしよう。だが「倫理を間柄として捉えること」が 現実的であり真理であるかどうか。

間柄の問題はとりあえず括弧に入れ,まずは現実と真理との関係を問題にしよう。和辻の 言葉に即して言えば,「日常の事実」と,「真理」ないし「倫理」との関係である。少々長く なるが,『倫理学』から二つの箇所を参照して考えてみる。

「我々が日常生活と呼んでいるもの,それがことごとく<表現〉として人間存在への通

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路を提供するのである。だから我々は最も素朴な,最も常識的な意味におけるく事実〉

から出発することができる。...我々の倫理学は密接に褻実に即する。ここには方法的懐

●   ●   ●   ■   ●   o

疑などを容れる余地はない。我々が偽りを真と間違えていようと,あるいはまっしぐら に真理を追いかけていようと,とにかく我々が道を歩き電車に乗ってしかじかのところ へ行き,しかじかの仕事をしているという日常の事実は,何人も疑うことができぬ。そ

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一の事実の真相が何であるかは探求の後にわかることである。学聞的に確爽なことを最初 に描定して出発しようとするのは嘉実に即するゆえんではない。」17}(傍点和辻。以下同

様)

「倫理は我々の日常の存在を貫ぬいている理法であって,何人もその脚下から見いだす ことのできるものである。この生きた倫理をよそにしてただ倫理学書の内にのみ倫理の 概念を求めるのは,自ら倫理を把捉するゆえんではない。我々は我々の存在自身からそ

の理法を捉え,それを自ら概念にもたらさねばならぬ。だからここにもく窮実そのもの

に帰れ>zur Sache selbstという標語は必要なのである。」18,

和辻は繰り返し,日常の凄実に帰るべきことを主張する。日常の事実が真理であるか偽り であるかはさしあたり問題ではない。方法的懐疑を通じて学問的確実性を見いだし,そこか ら出発したデカルトの方法によっては,日常の生きた事実との接点が見えなくなってしまう。

出発点は真理を確定することではなく,日常の事実に密着しつつ,これを〈表現〉として解 釈することである。事実の真相がわかるのは「探求の後に」なってからだと和辻は言う。こ こで「事実の真相」とは,引用にある「真理』ないし「倫理」と考えていいだろう。それは

「我々の日常の存在を貫ぬいている理法」であって,まっしぐらにこれを追いかけていよう と,そこからはずれていようと,「何人もその脚下から見いだすことのできる」ものである。

和辻のいう「解釈学的方法」は日常の事突に出発し,これを表現として解釈し,そこに貫

いている人間存在の理法を見出す作業である。一一と要約すれば簡単だ。しかしその作業は

容易なことではない。日常経験から倫理へと至る作業は,白然法則を求めての,合理論と経

験論の対立に示される困難以上に微妙な聞題を含んでいる。和辻自身,「最も日常的な人間存

(12)

在の表現から出発するというごときことが,最も根本的な出発を要求する哲学にとって,多 くの蹟きを提供することもまた否み難い」19,と言う。そこで和辻は解釈学,現象学など当時の 最新の哲学を駆使して方法論を展開するのだが,率直な感想を言えば,方法上の困難に沈潜

した論述だとは思えない。歩みを進めるためにともかくも地ならしをしておき,まずは具体 的な現実の解釈に向かおうとするのが和辻の方針と思える。そうでなくてはあの豊穣な倫理 学を産み出せなかっただろう。とはいえ,少し立ち止まって考えれば,方法的懐疑が出発点 ではないにしても,「方法に対する懐疑」がっきまとう。袋小路に陥る危険はあるが和辻の いう「蹟き」に積極的に定位する道もありうるだろう。日常から倫理を導くことの困難は,

「日常の豊かさと謎」を顕わにする機会と考えられないであろうか。

まず素朴な疑聞を提起してみよう。第一に,日常性の内に理法が存在するとしても,その 理法を誰がどのようにして見いだすのだろうか。「道を歩き電車に乗ってしかじかのところへ 行き,しかじかの仕蔀をする」日常生活にあって,そこに内在する理法は関心の外にある。

そんなことを考えていたのでは日々の仕事を片付けることなどできはしない。日常生活を

〈表現〉とみなすためには,日常を生きることを一時停止しなければなるまい。先に触れた

「現象学的還元」にも関わるのだが,この一時停止は無関心な観察にとどまるのであろうか。

〈表現〉とみなされるときにすでに,日常生活は何らかの彩りを与えられざるをえないのでは ないか。日常性なるものは,それを把握する方法との関連で聞われねばならぬ事柄のように

思われる。

第二の素朴な疑問。我々の日常の存在を貫いているとされる倫理は,「事実」なのか,それ とも「当為」なのか。あくまで日常性に密着して考えれば,倫理とは「日常において当為と されている郭実」ということになるだろう。それは理法と言えるほどのものではないし,普 遡性を持たないように思われる。倫理学がそうした事実の確認にとどまるのだとすれば,社 会学,心理学,思想史などの実証的な学問に解消され,独自の領域を持たぬということにな ろう。そうではなく,倫理学は「普遍的な当為の理法」を探求すべきだと主張するなら,ど

うしても日常性を超えた視点が必要になるだろう。

これら二つの疑問は表裏の関係にある。いずれにせよ,「日常の事実」と「理法・倫理・真 理・当為」とのあいだの距離が聞題であり,それに関係して,日常の自然的態度とそれを把 握する学問的態度との距離が問題となる。「熟知されたbekanntもの」と「解明されたerkannt

もの」との関係と言ってもいい。何らかの距離を媒介にして「我々の日常の存在を貫ぬいて いる理法」が把握される以上,この距離自体を主題化する必要がある。和辻の見解を紹介し た上で,私なりの意見を述べたい。

第一の疑聞は「我々の存在自身からその理法を捉え,それを自ら概念にもたらす」解釈学 的方法の困難に関わっている。「倫理学が主体的なる人間存在をあくまで主体的に把捉しよう

とするのでなかったならば,俵現と了解という)通路の必要はない。」三〇,自然科学とは異な

り,倫理学においては,解釈するものと解釈されるものとが「同じ人間」「同じ主体」なので

(13)

「日常と偶然」へのアプローチ       63

ある.日常生活を表現として解釈する場合の距離は〈同じ人間における姫離〉だということに なろう。この場合,日常を生きることを一時停止する解釈者は,もはや日常を坐きてはいな いのかどうか。微妙なところである。和辻は,解釈学的な構成は論理的な構成とは興なるこ とを指摘して,「離脱の立場において実践的な表現了解の連関を自ら生きてみるのである」と 言う。珊また,『人間の学としての倫理学』では次のように言われる。

「(現象学の立場では)現象は日常性の離脱によって初めて見え出す。_しかし我々は 直接の所与を現象とする。それは表現であるがゆえにすでに日常的に了解せられている。

ただそれは実践的行為的連関の契機として,理論的に無自覚である。解釈学的方法はこ の過程を自覚的に繰り返さねばならない。この自覚的な繰り返しの行動は,哲学的行動 として,直接の実践的関心から離脱しなくてはならぬ。しかもこの離脱の立場において 自由にその繰り返すぺき実践的連関を自ら生き得ねばならない」鋤

解釈者(倫理学者)は日常の実践的関心から離脱し,しかも自覚的に自由に,日常の実践的 連関を生きるのだとされる。こうしてく日常から距離をとりつつ生きる〉ことによって,iヨ 常生活はどのような彩りを与えられるであろうか。倫理学者における日常との距離とはどう いうものだろうか。

『人間の学としての倫理学』で語られる解釈学的方法においては,日常からの「離脱」の面 が強く出ているように思われる。和辻はハイデガーの『存在と時間』に依拠し,日常生活に おいては隠されている「存在(有)」に還るべきことを述べる。そのためには「指導」が必要 であって,有は「日常的な堕在から自己を解放することによって,すなわち自由な宿業離脱 によって初めて見え出すものである」ユ助と言う。日常から距離をとることによって与えられる 日常生活の彩りは,これもハイデガーに引かれての表現であろうが,「堕在」「宿業」だとい うことになる。一

少々納得がいかぬところである。ハイデガーの存在論もたしかに「指導」のニュアンスが あるが,その場合,導かれるもの(日常的な存在了解)と導くもの(存在の意味の解明)との あいだの「循環」という方法上の困難が問題にされた。24,上からの導きだけではなく,「自己 自身にめざめる」下からの契機が重視されるのである。和辻はこうした困難を主題化しない ので,日醤性のもつ陰影がみえにくいし,どういう高みから「日常的な堕在」とか「宿業」

と言われるのかもみえにくい。仏教的視点とハイデガーの存在論を混交した視点から「日常

性は存在(有)を隠す」と言われる。そこで先の引用17),18)での「人間存在」とか「日常の      ■   ■

存在」といった表現には特別の意味があったのかと思ってしまうが,そうでもなさそうであ

●   ■

る。『倫理学』本論「人間存在の根本構造」においては,存在そのものが問われるわけではな

い。

和辻において存在論にあたるのは「空」の論理であろう。そこで当面の関心から,「日常を

(14)

窒ずる」ことによって日常がどうみえてくるかを問題にしたい。旧稿で論じたので結論だけ を述べると,出発点としての日常的裏実は事柄としては何も変わらない。ただ,この同じ事 実が,個人と全体(社会)のダイナミズム(和辻の言葉で言えば「矛盾的統一」)において捉 え直されるのである。

「我々が日常存在において個人と考えているものを真に個別的なるものとして把捉しよ うとすればそれが空無に帰してしまう。」盛)また一方,

「全体的なるものはそれ自身においては無いと雷われねばならぬ。」:6}

我々の日常の見方では,個人一人一人がそれ自体においてあると考え,それとは別に全体

(社会)があると考えてしまうのだが,和辻によれば,それぞれをつきつめると空無に帰して しまう。「空」の目から見れば,両者が相互に否定し合う関係こそが現実だと言わねばなら ぬ。このダイナミックな関係が「聞柄」であり,それは日常においてすでに存在している聖 実なのである。素朴に日常を生きている者は,蜜実としてダイナミックな関係を生きていな がら,そのことを自覚していない。そしてまた,近代の個人主義的倫理学もこの事実を自覚 せず,個人を爽体化してしまった。近代の倫理学は,実体化へと堕した日常の意識に立脚し て形成されたのである。解釈学的方法は,こうした迷妄を打破する作業でもある。

そうだとすれば,日常性は,無自覚の内に個人と社会のダイナミズムを生きている豊かな ものであり,かつ,その事実を自覚しないがゆえに固定した意識に堕するものだということ になる。これが「空」という距離を通じて与えられる日常生活の彩りであって,私としては この捉え方に賛意を表したい。一ただ,和辻自身が明確にこうした見方に立っているかど うかにっいては,話は別である(後述).

第二の凝間に移ろう。まず,倫理は班実なのか当為なのか。これまでに述べたところでな かば答が出ているのだが,もう少しつっこんで和辻倫理学の問題点に迫ろう。

和辻は「日常的な道徳的意識から出発して道徳原理へと向かったカント」を高く評価して いる。27)カントは『道徳形而上学の基礎づけ』において,まず健全な常識を手がかりにした。

学者先生が道徳の原理をうんぬんする以前に,健全な常識はすでに原理を身に備えているの だ。そこで問題になるのは「常識がすでに事実として倫理を知っているなら,どうして倫理 学が必要なのか」である。これに対して和辻は,カントに依拠しつつ次のように答えている。

「それは常識がその知れるところを自覚しておらないということによって答えられる。

人は理性的なものであるとともにまた多くの傾向性によって触発される。_だから一面

において常識がすでに道徳法則を直覚しているにもかかわらず,その同じ常識ははなは

だ法則からはずれやすい。最高の規範を自覚的に把持していないがために,しばしば道

徳を頽廃させる。それゆえに純粋道徳哲学がこの自覚の仕事を引き受けねばならぬので

(15)

「日常と偶然」へのアプローチ       65

ある。」凋

常識は『事実」としてすでに倫理を知っているのだが,「その知れるところを自覚しておら ない」ゆえに道をはずれるのも人の宿業なのだ。それゆえに,自分がすでに知っている事実 である倫理が「当為」として課せられるのである。一このことは,先に述べたことから

も,悔いに満ちた我々の現実を反省してみても,一応は納得できることだろう。だがこの場 合,常識がすでに知っている倫理とは何かが問題である。さきほどは,和辻の「空」論に依 拠して「個人と社会のダイナミズム」と雷った。しかし和辻の論理は,それとは別の所へと 導いていくのである。

「倫理はすでに実現されているのであって当為としての意味を持たないのであろうか。

そうでもあり,そうでもない。...前に一定の仕方によって行為せられたということは,

後にこの仕方をはずれることを不可能にするものではない。従って共同存在はあらゆる 瞬間にその破滅の危険を蔵している。しかも人間存在は,人間存在であるがゆえに,無

.限に共同存在への実現に向かっている。そこからしてすでに実現せられた行為的連関の

まさ  な

仕方が,それにもかかわらずなお当に為さるべき仕方としても働くのである。」ユ9,

この記述を文字通りにとれば,事実としてすでに知られている倫理とは「前に行為せられ た行為的連関の一定の仕方」であり,それは「すでに実現せられた」ものでありつつも「当 に為さるべき仕方」としての『共同存在」である。人間は「そこからはずれる」可能性があ るとともに,「無限にその実現へと向かう」のだとされる。

先に「堕在」「宿業」と誉われたことの中身は,ここでは「共同存在からの離反」である。

その方が,「個人と社会の栢互否定関係というダイナミズムを自覚していない」というよりも わかり易い。しかしそうなると,倫理は共同存在としてのみ語られることになり,個人の契 機が消滅してしまう。実際,和辻の「間柄」という言葉は,「個人と全体とのダイナミックな 関係」として示されながら,論を展開する過程で「全体性」そのものへと転化してしまうの である。鋤さらにまた,全体性という概念も,特殊で有限な共同体を意味するものでありなが ら,「絶対的全体性」としても語られ,さらには「絶対空」へと昇華されていく。鱒ここに,

和辻倫理学の重要な問題性を感じないわけにはいかない。

そのことに関連しそ,倫理の普遍性の問題に触れておこう。和辻は人間存在の風土性と歴 史性を強調し,「一般的な人間存在というごときものは現実に存しない」と言う。しかし彼が 特殊性を強調するのは「人間存在はその特殊的存在を通じてのみ普遍的人問存在たりうる」3:,

ことを示すためであって,倫理の普遍性を否定しようとするものではない。そのことは国民

道徳論の間題につなげられている。特殊的普遍と国民道徳論を結びつける発想は1920年初版

(16)

の「日本古代文化』においてすでにみられ,33}和辻の思想を考える上での大きなテーマであろ

う。

価侮が相対化した現代,(私を含め)普遍的な倫理への疑念が生じているが,和辻によると その疑念は,十九世紀末の自然主義的思想の勃興に伴う一時酌幻惑にすぎぬ。姦淫,楡盗,

妄語,殺生など,旧約の十戒で禁じられている行為が,民族によっては必ずしも守られてい ない現実をみて,倫理は時代や地域によって異なるのだという思いを抱かされるに至った。

しかしこうした議論は,「倫理思想の特異性と,それにもかかわらずそれを倫理思想たらしめ ている普遍的な倫理との区溺を認識していないのである」。罰殺生を例にとれば,戦いの中で 仲間以外を殺すことは認められるが,同じ族の仲間を殺すことは許されない。その点は原始 的な社会でも現代でも変わらない。「同一の仲間を殺してはならない,という根本の倫理は,

両者を通じて同一なのである」。35}

姦淫,鍮盗,妄語に関しても,和辻は同じような発想で説明している。問題は「信頼関係 と敵対関係ノ動であり,仲間の信頼を裏切ったり,秩序を乱すような行為を許さないという定 めは,どこにあっても普遍的だとされる。そうだとすると,倫理の普遍性を保証するものは,

ここでも「共同存在」としての「間柄」だということになろう。

爽際,和辻の雷うとおりかも知れぬ。社会と個人の関係を考えるとき,信頼(を裏切らぬ 真爽さ)が倫理の基礎であり,そのこと自体は普遍性を持っていると思う。しかしながら和 辻が描いているように,この信頼関係は「仲間」の内でしか成立しないのであって,その意 味では普週性を持たない。どうしても閉じた聞柄を想定せざるをえず,間柄の「外部」に関 しては無関心ないし敵対関係となる。仲間の結束を固めるためには,しばしば「外部の敵」

を必要としさえするのである。むしろその点にこそ,人間の堕在・宿業を見るぺきではない か。和辻のいう倫理の普遍性とは「敵対関係を孕んだ信頼関係」だと言わざるをえない。現 実にそうでしかありえないとすれば,その現実に即して,自己と他者,個人と社会,社会と 社会のダイナミックな関係に着目してもいいのではないか。和辻も触れているように,共同 存在はそれ自体の内に亀裂を含んでいる。それを積極的に認め,そこから「開いた間柄」を 展塾することはできないか。それはまた,人聞存在の歴更性への展望を開くはずである。

間題が広がり過ぎたかもしれない。当初の問題は,日常の事実に即しつつ倫理を把捉する

ことの方法上の困難についてであった。方法上の困難は,個人と社会のダイナミズムへと導

かれる。それが,和辻の真理探究を解釈する中で見出される日常性の彩りであった。それは

また,〈同じ人問の中での距離〉を示している。和辻に従って言えば,ここでの「人聞」と

は,個人であると同時に社会(間)であり,両者相互の否定関係である。そのような有様は日

常においてすでに事実として了解されながら,同時に日常において隠されてしまうのである。

(17)

「日常と偶然」へのアプローチ       67

では,自分が隠しているものを自覚する契機としてどういうことが考えられるか。和辻の言 う「空」に関わると思うのだが,「いかにして日常を空ずるか」という問題を,和辻の閥柄論 は回避しているように感ずる。ハイデガーの「存在への問い」において,そのことは中核の 問題であった。彼の言う真理とは「隠れていたものを顕わにすること」(アレテイア)であ

る。

だがハイデガーについて論ずるのは別の機会とし,ここではメルローポンティを手がかり に「存在論的偶然性」に帰って考えたい。ハイデガーの境地に引き込まれないためにも,偶 然性に定位することを明確にしておきたいのである。

(四)暫定的なまとめと展望一一メルローポンティ『知覚の現象学』の一節を手がかりに一一

自分の目論見としては,日常と偶然というテーマに即して,和辻からハイデガー,サルト ル,九鬼周造へと渡り歩き,スピノザとライプニッツへと向かってメルローポンティに戻る ことを考えている。カント,へ一ゲル,ニーチェも避けて通るわけにいかず、収束がつかず にいる。暫定的なまとめと展望をつけるため,メルローポンティが『知覚の現象学』におい て,真理と偶然の関係に触れている一節を取り上げたい。

「本当は,誤謬も懐疑も,決して我々を真理から切り離しはしないのだ。なぜなら 誤 謬も懐疑も世界の地平によって取り巻かれていて,その地平において意識の目的論が 我々にそれらの解答を探すようにと誘っているのだから。結局,世界の偶然性は,より 少ない存在,必然的存在の織物の中の空隙,合理性にとっての脅威などと考えられては    ならないし,より深い何らかの必然性を発見することによって,できる限り早急に解消

しなければならぬ問題だと考えられてはならない。世界内部の存在的偶然性に関しては       、

そのように考えられようが,世界そのものの偶然性である存在論的偶然性は根本的なも のであって,逆に,真理についての我々の観念を最終的に基礎づけているものなのだ。

世界は現実的なものであって,必然的なものも可能的なものも,その地域に属するもの

でしかない。」37}

難解だし,テキストの前後を読んでも明確な説明がされていない一節である。旧稿でこの 部分を取り上げ,メルローポンティの思想に即して解釈を試みた。3助本稿ではメルローポン ティ自身の思想に触れることは最小限にとどめ,これまでに論じた事柄を整理しつっ発展さ せることを主眼としたい。箇条書き風に聞題を四つに分けて考えてみよう。おたがいに関係

し合っているのだが。

(18)

(1)存在論的偶然性について。その中身と射程。

(2)世界の現実性と偶然性にっいて。可能性および必然性との関係。

(3)真理と偶然性にっいて。および目的論との関係。

(4)存在的偶然性について。存在論的なものと存在的なものとの相即一一日常性の形而上学。

(1)本稿の(一)では「死の必然一偶然」を存在論的偶然性として述べ,「生の限界におい て出会うもの」とした.今の引用では存在論的偶然性として,根本的で解消されぬ「世界そ のものの偶然性」に言及されている。アプローチは違うが,結局のところ違ったことを言っ ているわけではない。世界であれ生であれ,その限界(地平線)において出会う偶然性を主題 化しているのである。我々の日常は世界内部に生き,その限界を意識することはない。だが 世界全体の意味が滑り落ちるような寮態に遭遇して,世界を限界づけている何かを意識せざ るをえないときがある。39,限界の「向こう」に何があるかはわからない。その彼方が「黄泉」

とか「神」とか「空」とか名づけられるとしても,それ自体については何も語ることはでき ない。神話であの世の有様が語られるとしても,あくまで「こちら」との関わりで,世界や 生を意味づけ,ないし隈界づけるものとして聞題にされるべきだろう。

Ei常と偶然というテーマに即すると,以下のような問題が立てられる。第一に,世界の限 界で出会うものが「偶然性」とされる場合,世界はどのように問われているのであろうか。

第二に,こうした隈界を要請するようなものが,日常の内に潜んでいるのであろうか。

(2)本稿の(二)イデオロギーを論じたところで,偶然性,可能性,必然性の様相を具体的 な行為に即して述べた。時間と他者の間題にも少しは触れたつもりだが,それを念頭におい て今の引用を考えよう.「世界とは現実的なものであって,必然的なものも可能的なものも,

その地域に属するものでしかない」とある。この文章は「世界そのものの偶然性である存在 論的偶然性は根本的」だという直前の一節を受けているのだから,世界が「現実的なもの」

1er6e1と雷われることの内には「偶然的」であることが含まれているだろう。そうだとすれ ば,「必然性と可能性よりも偶然性が根源的である」ことが示唆されていると読める。「可能 一不可能,現実存在一非存在,必然一偶然jという様相のカテゴリーを,偶然性を軸に考え 直すことが求められているのである。こうなればもはや形式論理学の場面を超えている。

ここで「世界そのものの偶然性」ということで,メルローポンティがどんなことを考えてい るのかに触れておかねばならない。引用の少し前のところで,「世界を必然とするスピノザに おいては,くなぜ別の世界ではなくて,この世界が存在するのか〉と問うことは不可能になっ てしまう」401と言われている。メルローポンティは世界の限界に位置して存在論的・形而上学 的な問いを立て,そこから必然性,可能性,偶然性の様相を論じていくのである。

ライプニッツの場合は「神は最も完全な世界を選んだ」4nという形で解決してしまってい

る.我々にとっては知ることができぬ選択理由が想定され,「神の選択は(たとえ他様であり

(19)

「日常と偶然」へのアプローチ       69

えたとしても,結果としては)必然であった」とされるのだから,結局のところスピノザと 同様だということになろう。とにかく,くこの世界は必然〉だとすると,この世界が存在した 理由が世界の外部に求められ,その理由から他の世界はあり得なかったということになる。

独断論だと言わざるをえない。

では〈この世界は可能〉だとする場合はどうだろうか。その場合,現実に存在する世界も 他の世界も同等の資格で可能であった状態一この世界の形成以箭一を想定することにな る。「外部からこの世界を見ている」という点では,世界を必然とする場合と変わりがない。

これに対してメルローポンティは,「私の世界がそうであるのと同じ意味で可能な他の世界 は存在しない」42}と言う。つまり,〈なぜ別の世界ではなくて,この世界が存在するのか〉と いう問いに答えることを断念するのである。「この世界」の存在理由を外部に求めず,そこで 私がすでに生きているという偶然的事実から出発しようというのである。その場合,他の世 界が存在しうるとしても,あくまで「この現実世界」の周縁においてだということになるだ ろう。こうした他の世界の在り方を,本稿では「不在としての現在」と衷現した。それは偶 然性から見られた可能性の有様を示す。現に存在する私め世界の周縁に,「可能な他の世界」

が不在として現在し,私の世界に影を落とすのである。

「必然性と可能性よりも,偶然性が根源的である」ということの形而上学的な説明は以上で ある。あえて現実世界の存在根拠を問い,その解答がないことを見田すゆえに,現実世界の 偶然性とかけがえのなさとが際立たされるのである。この説明を我々が生きる現実的な場面

に引き戻し,「私と他者」および「時間」の問題に適用することもできるだろう。

「私の世界がそうであるのと同じ意味で可能な他の世界は存在しない」と言われるとき,

「私め世界」とは,私がその片隅に生きる森羅万象を含んだ大宇宙を意味するのか,私にとっ ての世界という,私が居なくなれば消滅する小宇宙のことなのか。「他の世界」との関係は,

前者の場合には形而上学的・神学的な問題となるし,後者の場合には,日常に我々が体験す る「他者と私」の問題となる。大違いではあるが,私にとってみれば,二つの宇宙は結局の ところ同じものである。メルローポンティは前者の場面で問いを立てながら,後者の場面へ と問いを滑らせているようにも思える。形而上学を日常の場面に引き下ろそうとする志向を,

そこに読みとることもできよう。→(4)。

メルローポンティは,我々が生きる現実世界の存在理由を問うという存在論的次元へ連れ ていった上で,その理由を与えてくれるような外部(神)を拒否し,「理由はない」「世界は 偶然」と断雷して現実世界へと立ち戻る。存在論的偶然性の主張は不条理な「無神論」であ

る。ここにはニーチェ,そして多分に盟友サルトルの影響が認められ,43一種の絶望を含んだ

世界参加が表明されている。世界の限界が意識されるとき,生も世界も金体として閉じられ

てしまう。だがその限界が偶然性の様相で捉えられるとき,より根源的なところから「他の

世界への開き」が展望されるであろう。偶然性が現実性と結びつけられるとき,どこにも立

たぬ地点にではなく,「私の世界」に,そして「現在」に定位すべきことが求められる。そこ

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