日本製鋼所・英国側株式の売却問題
推移と帰結(1920〜41年)
奈 倉 文 二
1 はじめに 通銑鉄製造の輪西製鉄所(輪西工場)の二本柱の 本稿の課題は、第1次大戦直後から繰り返し発 会社へと変化し、後者は、以後の日本製鋼所にと 生した日本製鋼所の英国側株式売却問題の経過を って経営負担になっていく㈲。
検討し、そこに伏在していた諸問題を明らかにす 第2の重要な変化は、ワシントン会議(21〜22 ることにある(1)。そのことにより、他の諸拙稿ω 年)の諸結果に伴うものであった。すなわち、四 と相侯って、日英合弁兵器鉄鋼会社であった同社 力国条約に伴う日英同盟の廃棄決定は、日本製鋼 の複雑な性格の解明に寄与することを企図してい 所の創立事情からも明かなごとく、日英資本の協
る(3)。 力関係のよりどころが揺らぐことを意味し、また、
日本製鋼所は、日英同盟を背景として、海軍の 海軍軍縮条約の締結は、大戦期以来膨張を続けて バックアップのもとに北海道炭磧汽船(北炭)と きた日本製鋼所の海軍受注を激減させ、同社の「兵 英国兵器会社ヴィッカーズ及びアームストロング 器工場」としての存立をも脅かした。
両社(以下V社・A社と略)の共同出資により設 英国側株主は、V社・A社とも、元々日本海軍 立された兵器鉄鋼メーカーであった(1907年設立、 の積極的勧奨により「兵器工場」としての日本製 資本金1000万円、09年1500万円に増資、出資比率 鋼所に投資して兵器製造の技術援助を行うという は2:1:1)(4 (第1表参照)。 立場であったし、また、大戦後の不況下には経営
しかし、第1次大戦を経過して、いくつかの重 不振に陥りつつあったから(6)、こうした変化のも 要な変化が生じ、英日資本間には様々な軋礫が生 とで、日本からの撤退の途を探り始めるのである。
じ、英国側株式の売却問題も登場するに至る。 こうして、英国側株式の売却問題が繰り返し発 まず、第1の重要な変化は、日本製鋼所による 生することになるが、その経過を予あ時期区分し 北海道製鉄(輪西製鉄所)の合併(1919年)であ て示しておくと以下の通りである。
る(以下「輪西合併」と略)。合併の結果、資本金 第1期:1920年(英国側両社による株式売却の は3000万円となりく出資額は北炭1500万円、三井 日本政府への打診)。
合名・三井鉱山・V社・A社各375万円)、英国側 第2期二1923〜26年(株式売却要請行動が軍縮 の勢力は後退し(出資比率は両社併せて4分の1、 補償問題と関連して展開)。
第1表)、三井財閥の支配力が決定的となる(北炭 その後しばらくの中断期間を経て、
は既に13年以来三井傘下)。しかし、合併の強行 第3期:1934〜36年(三井に対する売却交渉)。
は、英国側の三井に対する不信感を醸成し、以後 第4期:1937・40年(増資新株の売却)(7)。
の日英株主間の軋礫の根源となった。しかも、表
面上の合併目的とされた銑鋼一貫経営は、英国側 (1)日本製鋼所の英国側株式の売却をめぐる諸問題
の懸念した通り実現せず、日本製鋼所は、大砲等 については、管見の限り、日本の研究は皆無であ
の兵器及び原料高級鋼材を製造する室蘭工場と普 る。同社の基本的史料である『日本製鋼所社史資料
(上・下)』(同社、1968年)でも、37年以降の株式売却 をめぐって コ(茨城大学人文学部『紀要(社会
の結果(後述)が記されているだけである。 科学)』第25号、1992年3月、以下第1論文と略)。
英国側の下記文献には、それぞれ簡単な記述が 拙稿「『ワシントン軍縮』下の日本製鋼所とイギリ ある。 ス資本 軍縮補償問題と英国側株主の要求 」 J.D.Scott,四C㎜S」且H短oη,(London,1962) (『茨城大学政経学会雑誌』第60号、1992年8月、以
pp.147,191. R. P. T. Davenport−Hines, The 下第2論文と略)。拙稿「『ワシントン軍縮』下の日British Armament Industry during Disarmament, 本製鋼所の経営再建策と役員人事 トップ・マ
1918−36 (Ph.1>thesis, University of Cambridge, ネジメントをめぐる三井・海軍省・英国側株主一コ 1979),pp.304−307。 do., Vickers as a multi− (『茨城大学政経学会雑誌』第61号、1993年6月、以下 national before 1945 , in GJones(ed.),.8磁駒 第3論文と略)。拙稿「日本製鋼所・英国側株式の〃%1 伽 加αZ∫ 0万g初s,〃αηα擢窺6% αη4 売却交渉(1934〜36年)」(茨城大学人文学部『紀要
P6吻7勉朋66,(Cambridge,1986),pp.53−54. (社会科学)』第27号、1994年3月刊行予定、以下別 Clive Trebilcock, British Multinationals in 稿と略)。
Japan,1900−41:Vickers, Armstrong, Novel, (3)本稿で使用する英国側の一次資料は、主として and the Defence Sector , in T.Yuzawa and M. ケンブリッジ大学図書館所蔵(元Vickers PLC所 Udagawa(ed.),Fo%6忽η B%∫勿6∬ 鋭勿侃 有)の Vickers Archives ([VA−]と略記)であ
∂⑳γ6防 4陥7∬,(Tokyo,1990),pp.102一 り、一部はTyne and Wear Archives Service 104. (Newcastle upon Tyne)所蔵の Armstrong
(2)拙稿「両大戦間期における日本製鋼所の経営戦 Papers ([TWAS−]と略記)である。
略とイギリス資本 輪西製鉄所の合併と分離 (4)本稿では、年号は西暦を用いる。また、日本製
第1表 日本製鋼所・英国側株主の所有株数及び割合の変遷 「
日 本製鋼所 V杜所有 A社所有
年 ・ 月 資 本 金 総 株 数 株数・比率 株数・比率 備 考
(千円) (千株) (株) (%) (株) (%)
1907・11
10,00020
5,000(25.0) 5,000(25。0)日鋼創立
09・3
15,00030
7,500(25.0) 7,500(25.0)半額増資
19・12
30,00060
7,500(12.5) 7,500(12.5)輪西合併
V−A社所有株数・比率(%)
28・1
30,00060
15,000(25.0) V−A社継承31・12
15,00030
7,500(25.0)輪西分離ω
37・6
15,000300
75,000(25.0)株式分割ω
11 30,000
600
150,000(2凧0)倍額増資
12 〃 〃 75,000(12.5)
新株売却
40・6
60,000 1,200 150,000(12.5)倍額増資
9 〃 〃 104,500(8.7)
新株売却
41・10
〃 〃 85,210(7.1)旧株売却
10
〃 〃 70,490(5。9)旧株売却
12 「敵産管理」
(注)V社;Vickers Limited.
A社;Sir WGArmstrong, Whitworth&Co,, Limited.
V−A社;Vickers−Armstrongs Limited.
(1)V−A社、輪西製鉄(34年以降輪西鉱山)株式7,500株(額面500円)所有。
(2)額面500円を50円に引下げ。
(出典)『日本製鋼所社史資料(下)』(同社、1968年)132頁、及び[VA−1239]pp.8,11,25.
鋼所に関する記述は、断わりなき限り、前掲『日 張計画を実行中であった。そのような時に、V社 本製鋼所社史資料(上・下)』に依拠している。 やA社のような大会社が株式を売却するのは、英
(5)拙著『日本鉄鋼業史の研究』(近藤出版社、1984 日関係からも好ましくない、との海軍大臣の意見 年)345〜346,417〜421頁、及び第1論文。 を英国側は受け入れて、両社は、比較的早期に(5
(6)J.D.Scott, op.cit, pp.組chap.14&15.また、 月頃)株式売却要請を取り下げた(2)・
このような英国側両社の事情は、[VA−][TWAS−]
各種資料から明かになるが、詳しい分析は他日を (1)SIR AR〃STRONG ㎜1丁砺OR7H & Co.,L4.,
期したい。 F㎜NCE CO〃M∬㎜No.21918−1卿[TWAS
(7)日本製鋼所の株式は第3期までは上場されてお 一130/1288],1920年1月28日及び2月25日分。
らず、また、創立時の取り決めにより、日英両株 (2)1920年5月16日付、Douglas Vickersより 主双方の合意なくしては株式を売却できないと定 Major Winder宛書状[VA−L16]で売却断念の意 められていた(前掲『日本製鋼所社史資料(上)』 志表明。なお、当時の経緯の詳細は定かではない 72頁)。そのような事情が、本問題の解決を長期間 が、上記のような内容は、株式売却問題第3期に にした要因であったことに予め注意しておきたい。 おける油谷堅蔵(後述)による各種書状で明らか
にされている([VA−1239]pp.60,69,91,94)。
2 株式売却要請と中断
(D株式売却の打診(1920年) (2)株式売却要請と軍縮補償問題(1923〜26年)
まず、第1期の1920年について、極く簡単に見 続いて、第2期の1923〜26年について。
ておこう。 この時期は、日本政府が、ワシントン軍縮によ 当時は、第1次大戦終了後問もない時期で、輪 り大打撃を蒙った八八艦隊案関係受注予定各社に 西合併直後のことであるが、日本製鋼所英国側株 対する補償措置(以下単に軍縮補償という)を考 主は、V社・A社とも、早くも日本製鋼所株式の 慮していた時期に当り、日本製鋼所英国側株主の 売却の意向を持ち、その可能性を探っている。 株式売却要請行動は、この軍縮補償問題と関:連し
すなわち、20年初頭、A社は、同株式の購入者 て展開することとなった。その内容は既に明らか があれば処分(売却)したいとの意向を持ち、John にしたので(第2論文)、ここでは、それをふまえ、
H.B.Noble(A社取締役副会長で日本製鋼所取締 英国側株主の株式売却要請という視点から必要な 役)がV社と相談の上、日本に出向いて、その可 限りで再整理しておく。
能性を探るべきということになり、Douglas 英国側株主は、1923年には、 V社A社ともに日 Vickers(V社会長で日本製鋼所取締役)と相談 本への投資を引き上げたいと考えるに至っており、
したところ、V社の側が株式処分の可能性を調査 丁度その頃軍縮補償の情報を得たため、日本政府 することとなった(1)。 に対して軍縮補償金による両社所有の日本製鋼所
そこで、V社は、 Maj or(B.H.)Winder(V社 株式の購入を要請した。
アジア統括責任者)を日本に派遣し、野村(吉三 すなわち、まずA社は、遅くとも23年初頭には、
郎)海軍大佐を通じて、海軍大臣(加藤友三郎大 日本政府に当該株式を買い取ってもらいたいとの 将)に日本政府による英国側株式買取りの意志い 要望を持って、F.B.T.Trevelyan(A社極東代表・
かんを打診した。英国側としては、日本で兵器製 日本製鋼所取締役)にその旨の文書を日本に持参 造の技術援助を行うという所期の目的を既に達し させていた(海軍大臣に提出する時期などを日本
たので当該株式を売却したいとの意向であった。 製鋼所日本側幹部に一任)ω。V社もそのことを
しかし、当時は、まだ日英同盟が継続中で、日 知って、B.H.Winderを日本に派遣し、極力A社
本側はいわゆる入入艦隊案に集約される海軍大拡 と連絡・協議しつつ、株式売却の要請行動をとる
こととした。当時、英国側両社が株式売却の具体 を提起していた。
的行動を起こしたのは、ワシントン軍縮により、 しかし、日本政府による日本製鋼所英国側株式 今後の日本製鋼所の海軍関係受注の減少・業績悪 の購入は困難なことは23年夏以来繰り返し英国側 化は免れないので、株式売却の機会は遅くならな 株主に対して伝えられており、また、軍縮補償金 い方が良いとの判断に基づくものであった②。 の交付方式(入入艦隊案関連各社に対して公債の
そして、23年7月、A社代表は、海軍省に対し 形で交付)も一貫していた(とくに25年3月の閣 て正式に日本製鋼所の英国側株式売却(日本政府 議決定)。したがって、その意味では、英国側株主 による買取り)要請を行った(3)。当時は、海軍省 が当該株式売却の要請を軍縮補償要求と関連させ による軍縮補償に関する調査・審議が進められた て展開する行動そのものにやや無理があり、とく 時点に当る。本文書自体は、軍縮補償そのものを に前記①の補償金による当該株式の購入(軍縮補 要求したものではないが、受注激減等の軍縮に伴 償公債と英国側株式の交換)という方策は現実1生
う損害に対する日本政府の道義的責任に言及しつ をもたなかったと言える。事実、英国側株主の要 つ、当該株式の買取りを要請していることが注目 請は、海軍省側の受け入れるところとはならなか される。 った。
A社は、この株式売却要請の過程で日本政府よ また、上記26年3月の要請状に記されていた代 り軍縮補償考慮中との情報を得て、V社とも連絡・ 案(日本製鋼所に対する軍縮補償公債の一定部分 協議しつつ、株式売却要請と軍縮補償要求との結 を英国側株式の償却に充当する案)は、本来日本 合をはかっていく。 製鋼所株主相互で解決すべきものであったため
当時の英国側株主の要請内容は様々であったが、 (海軍省もその旨回答)、要請状を仲介した油谷堅 基本的には、次の二通りに区分される。 蔵(海軍少将、V社日本代表で25年6月以来日本
①日本政府は補償金により日本製鋼所英国側株式 製鋼所取締役)は、海軍省回答後、英日株主相互 を購入すること(軍縮補償公債と英国側株式の交 間での解決に努力するも効を奏さずに終わる。
換). 上記代案は、前記②の一種と理解される。した
②補償金は日本製鋼所株主に分配されるべきこと がって、英国側株主にとって、この代案を実現す
(とくに輪西合併前のオリジナルな株主の間での べく日本側株主に働きかける途は抽象的可能i生と 分配)。 してはあり得た。しかし、実際の英国側の要請は
この二つの考え方には相当異なるものがあり、 殆ど全て日本政府(海軍省)に向けられた。その また、A社・V社相互間の調整も十分ではなかっ 理由は、英国側株主の認識として、日本製鋼所設 た。とくにV社の場合、従来からの株式売却案を 立に参加したのは専ら日本政府(海軍)の勧誘に 軍縮補償実施時には有利に実現しうると考えてい よるものであり、株式売却先としても日本政府が た感があり、25年3月の在英日本大使館付海軍武 適当と考えていたこと、軍縮補償という問題の性 官宛書状でも(4)、日本政府による当該株式の購入 格にも由来していたことがあるが、さらに、英国 が英国側のみならず日本政府(海軍)にとっても 側株主は、輪西合併以来、日本側多数者(三井財 有益なことを強調するにとどまっていた。 閥関係者)に対して不信感を抱いており、前者が そして、V社は、26年3月(軍縮補償法案の議 後者に対して具体的要請を行う手だても当時は現 会提出時点)には、英国側株主を代表して軍縮補 実的には閉ざされていた⑥。
償に関する正式な要請状を海軍大臣に提出した なお、日本製鋼所に対する軍縮補償金(980万
が臥そこにおいても、英国側株主に対する直接 円余)は、受領13社中最多額(総額2千万円の49
的な補償措置として、英国側株式の全部または大 %)を占めたが、そのうち777万円余は特別な補
部分と補償公債との額面価額での交換という方法 償方式(大口径砲関係設備に対する「原価補償」
と同設備の海軍への「無償譲渡」)によるものであ 明し、海軍省の方から日本側株主(三井)に要請 った。このような特別な補償方式が考慮されたの するように依頼したのもこうした関係を裏づけて は、当時大口径砲製造設備を有するのは呉海軍工 いる。なお、油谷によれば、海軍省はこの点につ 廠と日本製鋼所のみであって、海軍としては一つ いて了解し、三井に対して口頭だけでなく、公文 も欠くことの出来ない重要設備であり、しかも、 書をも出す約束をしたというが([VA−1239]pp.60,
他に転換利用のみちがなく、民間に放置しておく 61)、確証は得られない.
と廃棄されるおそれがあったためという。大口径 (7)日本製鋼所に対する特別な補償方式として、1924 砲関係設備は日本製鋼所室蘭工場の主力設備であ 年時点で油谷が入手した海軍艦政本部情報はやや
って、実際には海軍への「譲渡」後も室蘭に存置 異なっており(大口径砲設備に対する約1千万円 され、海軍省の許可のもとに日本製鋼所側で使用 の補償と同設備の「購入」・「無償貸与」)、この補 することが可能となった。したがって、結果的に 償方式が専ら室蘭工場の軍用設備に対して補償を この特別な補償方式を含む軍縮補償金が日本製鋼 講じるものでもあったことから、輪西合併前のオ 所側に有利であったことは言うまでもない。しか リジナルな株主に対する補償と受け取られた向き し、この補償方式は複雑であり、軍縮補償法案の もあった。少なくとも、油谷は海軍省側とのコン 議会上程時まで公表さなかったこともあって、英 タクトを通じてそのように理解しており、以後の 国側株主側の折衝を一層困難にするものであっ 株式売却問題の推移の過程でもそうした考え方が たω。 しばしば表明される。
日本製鋼所に対して交付された軍縮補償公債の
実際の使途は、殆どが上記「無償譲渡」物件の代 (3)株式売却要請の中断
担保(「無償譲渡」物件が社債担保中に含まれてい 英国側株主は、その後も日本製鋼所株式売却の たためその抵当権を解除して公債を改めて担保と 意向は持っていたと思われる。V社の場合、1925 して差し出す)と借入金返済等に充当された結果、 年の会社再建策以来、投資は貿易の観点から直接 軍縮補償金は英国側株主に対しては直接には何等 的な利益をあげ得る事業に制限し、どのような余 均揺することなく終わった。 剰資金も有益な一流証券に置き換えるのが重役会
の方針であったというから(1)、日本からの投資引
(1)1923年3月5日付、AKabayama(日本製鋼所 き上げの機会も引続き窺っていたと考えられる。
常務)よりJ.HB.Noble宛書状[VA−R284]。 しかし、いくつかの諸事情が重なって・34年まで
(2)1923年5月1日付、DV(Douglas Vickers)よ は、当該株式の売却要請を表だって行うことはな りH.Harrison(A社役員で日本製鋼所英国側セク かった。その間の諸事1青のうち、当該問題に関連 レタリー)宛書状[VA−R284]。 もしくは影響する重要事項について述べておく。
(3)1923年7月6日付、F.B.T,Trevelyanより まず、 V社の場合、20年代半ば以降、日本製鋼 Admiral Takarabe(海軍大臣)宛要請([VA−R 所との関係改善を試みていた。すなわち、既に別 284]、本資料は、国立公文書館所蔵『公文別録』2 の機会に見たごとく、V社は、軍縮補償問題を通 A−1別240にもあり)。 じて明らかになった日本製鋼所のトップ・マネジ
(4)1925年3月4日付、Asiatic Supervision, B.HW. メントからの疎外状況の改善を試み、代理人油谷 よりCapt. T.Toyoda,1.J.N.(lmperial Japanese 堅蔵を通じて、海軍省とも連携しつつ・役貝人事 Navy)宛[VA−L16&L55]。 や経営再建策に自己の意向を反映させる途を模索
(5)1926年3月23日付、V.C.Vickers(V社取締役) していた(油谷の取締役就任、水谷叔彦海軍少将 より海軍大臣宛書状[VA−L55&R313]。 の常務復帰、水谷主導の経営再建策等、詳しくは
(6)油谷が、この代案を海軍省に対して具体的に説 第3論文参照)。
A社の場合は、既に20年代半ばには経営困難に は持株会社的性格へ変化しつつ存続)、V社及びA 陥っており、26年の当該株式売却失敗の後は、日 社の日本製鋼所に対する投資(持株)はV−A社 本との関係修復どころではなく、27年末にはイン に継承された。その際次のような会計処理のも グランド銀行の仲介によりV社に合併されるに至 とに日本製鋼所株式が継承されていたことに注意 る〔2)。 しておきたい。
そして、28年1月にヴィッカーズ・アームスト V社所有の日本製鋼所株式(一株500円)乳500 ロング社(以下V−A社と略)が設立され(V社 株(投資額375万円)の当初コストは38a 306ボン ドであった。A社も同様と考えて、両社所有株式 第2表日本製鋼所・英国側株主の配当収益(1914−37年) 150°°株(投資額75°万円)・コスト7鰯12ポンド を要した日本製鋼所株式の簿価を15万ポンド(一
年 暢率iポ。ド鞘讐ペンス 株1・ポンド)として継承する.つまり、76⑤612ポ
v社(出資額375万円) ンドと15q OOOポンドとの差額61⑤612ポンドの損
1914 LO} 380&生 4 失を計上・償却して継承した(3)。他方、 V社・A
i…1:1:窮灘1欝欝la5 i 5L 78a生a 強)であった(第2表参照)。したがって、英国側
20 脚i 砿48a&こ 株主は、20年間で日本製鋼所に対する投資額の%3
舅一 …ll 罐撒諜翫畿講τoi 2L65&凪1q 続きにより、簿価を15万ポンドとして継承したこ
25 a5 i 乳27乳la a とになる。
二i 二 日本製鋼喉国側株主のv−A社設立後の躰
小 計
A社(出資額375万円) 361,53a 1氏1.* 製鉄所分離提案であった。
v社 A社・両社計 72306乳na この輪西分離提案は、V−A社が代理人油谷の V−A社
@1928
@29
30 a5 i 鳳6姐aα にとって起死回生策となるはずであった。 V−A
31 一 i 一 社は、経営負担となっていた輪西製鉄所を別会社
34 乳5i 1528乳生住 旧来の日本製鋼所のみへの関与に復帰することを
35 &oi 1紹4Llq凱 追求した。しかし、英国案は三井側の抵抗にあっ
36
R7(上)
ャ 計
総 計 1 8凪30aIOlq 出資比率(それに日本製鋼所自体の出資を加える 注)*印;v社と同様とみなす. 形)で新会社にも関わることを余儀なくされた。
出典)〔VA−1239〕p近 結局、輪西分離後の英国側持株は、日本製鋼所に
対して乳500株(額面一株500円)、輪西製鉄に対し
て7,500株(額面一株500円)と分割されたことに もとで外国為替管理は強化されつつあった。第3 なる(前掲第1表)。また、V−A社は、輪西分離 期の株式売却問題の帰趨は、日本製鋼所固有の問 に際しては役員人事の面でもむしろ後退を余儀な 題に加えて、こうした客観情勢の変化が大きな影
くされた。その意味では、英国側株主の日本製鋼 響を及ぼすことになる。
所のトップ・マネジメントへの関与は、20年代後 詳細な経過については別稿に譲り、ここでは、
半に幾分回復したとはいえ、大きな限界をもって 経過を簡潔に述べつつ、売却交渉に表れた特徴的 いた(詳しくは第1及び第3論文参照)。 な内容を整理しておく。
輪西分離後、英国側株主は、日本からの撤退の V−A社が、油谷宛の書状で、自社所有の日本 途を本格的に模索し始める。しかし、輪西分離直 製鋼所株式及び輪西鉱山株式の売却の意向を伝え、
後は、深刻な昭和恐慌の展開のもとで株価も崩落 売却交渉の斡旋方を依頼したのは、1934年2月の 状態であり、また、「官民製鉄合同問題」の展開 ことである(2}。
という日本鉄鋼業界大再編の動きの中では(日本 その書状で、V−A社は、対日投資は既に当初 での輪西分離の動きは元々製鉄合同問題とも関 目的(兵器鉄鋼製造の技術援助)を果たし、配当 連)、英国側株主が当該株式売却の具体的行動を起 収入の他には何等の利益もなくなっていること、
こすのは不適切であったものと思われる。 会社としては1925年以降株式投資を厳しく制限し、
製鉄合同問題は、紆余曲折を経て日本製鉄(株) 当該株式も売却機会を窺ってきたが、ここ数年間 設立に帰結し(34年1月)、輪西製鉄は日本製鉄に は時期が適当でなかったことなどを述べた上で、
参加したが、鉱山部門が合同対象から外されたこ あらためて重役会としての当該株式の売却希望を ともあって、輪西製鉄は輪西鉱山(株)と名称を 伝えている。
変更して存続し、輪西鉱山が日本製鉄株式を所有 油谷は、これを受けて、まず、折衝先を三井財 するという関係となる。したがって、V−A社は、 閥関係者とした。当該株式の売却先としては、日 直接的には日本製鉄と.関わりを持たないが、輪西 本政府(海軍省)か三井財閥のいずれかだが(当 鉱山の株式所有を通じて間接的に関わる形となる。 該株式は未上場であり、売却には日英相互の株主 の了解が必要だったことが前提)、過去の経緯から
(1) [VA−1239]p.13、及び1934年2月20日付、 政府による購入は不可能と考えたからである。
M,Webster JenkinsonよりK.Yutani宛書状 ただ、油谷は、直ちに三井に売却交渉を持ち出
[VA−1239&L16]。 すのは時期尚早と考え(さしあたり三井側の購入
(2)J.D.Scott, op.cit., chap.15(pp.156−168), 意志がなさそうなこと、日鉄設立直後の輪西鉱山
Kenneth Warren,、4槻s γoηgs(ゾEZs卿 6々」 株式の動向、円安の為替相場などから)、まず、三 G70ω漉勿Eπg勿θθγ勿g侃4 A槻α耀π孟s如漉6 井財閥関係者への接触・打診を行うことから始め
〃θ㎎6γz〃励y嬬6zs,(Londor』1989). た。しかも、油谷は、この株式売却交渉は、日本
(3) [VA−1239]p.8.ただし、単純な数値の誤り 製鋼所特有の問題があるので通常のビジネスとは は補正した。 異なるものと考え、三井側に購入の動機づけを与
えることが何よりも必要であり、交渉は慎重に運 3 株式売却の交渉・妥結・頓座(1934〜36年) ぶ必要があると判断し、V−A社に対してもその
さて次に、株式売却問題が本格的に展開した第 旨書き送っていた(3)。
3期(1934〜36年)について(1)。 このような方針に基づき、油谷は、当初、交渉
当該期間は、満州事変後の景気回復期に当たり、 相手先を三井合名のトップに限定して、主として
株式相:場も昭和恐慌期に比して飛躍的に上昇する 当該問題に対する理解を求め、三井側が英国側株
が、他方、世界経済のいわゆるブロック化傾向の 式を購入する必要性を訴えていた。その主な内容
を、有賀長文(三井合名常務理事、日本製鋼所監 会社)に投資すべきこと、などである。
査役)宛書状(34年5月)及び池田成彬(三井合 そして、油谷は、輪西合併が英国側株主にもた 名理事長)宛覚書(35年6月及び7月)から整理 らした損失の大きさを強調し、当該株式の購入に
しておくと以下の通りである(41。 より幾分でも英国側株主の損失を補償すべきこと まず、当該株式の売却に関するV−A社の基本 を主張する。
的考え方を次のように三井側に伝える。V−A社 以上のごとく、油谷は、三井側に当該株式購入 は既に当初目的(兵器鉄鋼製造に関する技術援 の必要1生を認めさせるべく努力していたのだが、
助)を果たしており、日本の現状からも共同事業 35年9月頃までは、相次ぐ三井合名トップの交替、
を継続する必要性を感じていないこと、兵器会社 病気、業務多忙などもあって、具体的交渉として の株式は自国民による所有が世界的趨勢であるこ は殆ど進展しなかった。
と、株式売却によるキャピタル・ロスを蒙ったと この間、V−A社は、油谷に対し、当該株式の しても全般的なビジネス増加により回復し得るの 早期売却の意向を伝えるとともに、売却価格の試 で日英株主双方の利益になること、など。 算を要請し、油谷が示した概括的評価額を参考に 次いで、当該株式売却問題の経緯を次のごとく した価格(日本製鋼所株式650円、輪西鉱山株式 述べ、今回は三井側が英国側の要請に応えるべき 250円)を最低販売価格として、三井側への株式 ことを主張する。1920年時点では、日本の海軍省 売却の申し出を遅滞なく行うように要請してい に日本製鋼所株式の購入を要請したが、海軍側の る6)。V−A社が、この時点で、株式売却に際し 説得に応じて要請を取り下げ、英国側(V社とA てV−A社側に多少のキャピタル・ロスが生じた 社)が犠牲を払ったこと。26年の軍縮補償金問題 としても、売却を遅らせる方がリスクを伴うので、
に関連した海軍省への当該株式購入要請に関して 早期売却の方が好ましいと判断していたことは注 は、海軍省による株式購入は不可能であったもの 目される。
の、海軍省は、日本製鋼所が受領する軍縮補償金 ただ、V−A社としては、前述のごとく、既に による英国側株式の償却等、軍縮補償の英国側へ 28年時点で当該株式(当時は全て日本製鋼所株 の均露を要請したにも関わらず(油谷はこのよう 式)を多額の償却をして継承しており(簿価15万 な主張を繰り返すが、海軍省は日英株主の間で円 ポンド)、その後34年までの7年間に日本製鋼所か 満に解決すべきことという以上に踏み込んだ要請 ら受領した配当額は(輪西製鉄・輪西鉱山は無
を日本製鋼所側に行ったという確証は得られな 配)85,690ポンド(第2表)に上っていたこと(回 い)、日本製鋼所はそれに応えていないこと、など。 収率57%)に注意する必要がある。つまり、この 油谷は、さらに、三井側に対し、当該株式の購 点を考慮すれば、V−A社にとっては、上記販売 入は国家的利益にかなう重要な投資であることを 価格であっても(日本製鋼所・輪西鉱山の両社株 主張する。すなわち、外国資本との合弁会社に対 式の平均売却価格は450円で額面500円を割るが)
する兵器注文は差し控えられる傾向があるので、 キャピタル・ロスを生じることはなかったと言え 英国側株式の購入は顧客(日本海軍)の信用を増 る。
すこと、ナショナリズムが唱道されている今日、 油谷は、V−A社の要請を受けて、有賀や池田
兵器会社は自国民によって統括されるのが当然で に対して、それぞれ売却希望価格を提示した(35
あること、最近私利よりも国家的利益への奉仕を 年2月及び9月)㈲。とくに、池田への提示に先
追求しつつある三井(いわゆる「財閥の転向」に 立ち、V−A社に対して、日本製鋼所・輪西鉱山
よる変化を指す)が当該株式を購入することは陸 各株式の評価計算方法を詳細に示している。詳細
海軍の要望にも沿うものであること、三菱とのバ は別稿に譲るが、日本製鋼所株式の場合は、親会
ランスの上からも三井はより多く国防産業(兵器 社の北炭の株価との比較のみならず、同様の重工
業、機械・鉄鋼メーカーである神戸製鋼所、三菱 慮するので、輪西合併の違法1生には直接言及する 重工の株価との比較なども試みられた上で算出さ ことなしに具体的な交渉に入るように促したとい
れている。その結果求められた売却予定価格は上 う( °)。記と同様であり、V−A社も上記金額であれば重 そこで、油谷は、次の(A)(B)いずれかの方 役会の了解可能との判断であったのでの、油谷は、 法をとることにした。
三井合名に対しては、日本製鋼所株式650〜670円、 (A)まず、英国側所有の輪西鉱山株式を三井所 輪西鉱山株式250〜270円を希望価格として示した。 有の日本製鋼所株式と交換する(輪西合併前の状
つまり、35年8・9月時点までは、V−A社は、 態に戻す)。その後、三井が英国側所有の日本製鋼 早期売却を要請しつつも、油谷の示した当該株式 所株式全部を購入する。
の売却価格を合理的で了解可能なものと判断して (B)三井が英国側への補償の意味も含めて、英 いた。しかも、油谷の三井側(とくに有賀・池田) 国側所有の日本製鋼所株式を一株700〜800円、輪 への説明の中で、輪西合併による英国側の不利益 西鉱山株式一株300〜400円で購入する。
を償うべきことを主張したことについても、その 油谷は、価格交渉を有利に進める上では売り急 主張は元々英国側が指摘してきたことでもあった ぐ必要はないと判断し、まず、上記(A)の方法 から、株式売却交渉に際してあらためて提示した をV−A社側に勧めた(11)。
ことを積極的に評価していた〔8 。 しかし、V−A社は交渉の早期妥結を要望し、
しかしながら、その後も三井に対する交渉は 油谷の交渉方式に否定的考えを表明した(36年5 捗々しくなかった。油谷は、池田との会談が再三 一7月)(12)。つまり、輪西合併の法的有効性に 延期されたため、磯村豊太郎(北炭会長・日本製 疑義を呈するような交渉方式は望ましくないこと、
鋼所会長)、牧田環(三井合名理事、三井鉱山会長、 そうした交渉方式は価格面で改善をもたらすとし 輪西鉱山会長)とも話合いを進め、三井側の株式 ても、売却の実行を遅らせて良い結果をもたらさ 購入の意志を確認しつつも、価格及び購入者(三 ないであろうこと、などを述べ、全体として早期 井合名単独か、合名・鉱山・北炭3社か、後者の 売却の方が犠牲が少ないと判断したのである。
場合の購入割合)については未決定のまま経過し 油谷は、水谷等との相談の結果、方針を変更し た。 て、上記(B)の方法で交渉に臨むことにした。
その間、油谷は、輪西合併に関する詳細な調査 同年7月初頭、油谷は、南条金雄(三井合名理事 を行った(35年9月から36年4月頃まで)(9)。輪 長)に対して、前年に三井に示した価格より100 西合併が英国側株主に甚大な損失を与えたという 円ずつ高い価格(日本製鋼所株式750〜800円、輪 従来からの主張に加えて、合併そのものの法的有 西鉱山株式350〜400円)を提示した。油谷によれ 効性に疑問を提起することとし、そのことにより、 ば、その際、輪西合併問題には直接言及しなかっ 当該株式の売却交渉を有利に進めることを企図し たものの、昨年とは相当事盾が異なるとの表現を たのである。 もって価格提示したことにより、南条はその申し
油谷は、36年4・5月、三井側に対し(合名の池 出を十分理解したという(13)。
田は5月1日退任)、詳細な調査結果に基づいて、 そこで、油谷は、V−A社との連絡後、あらた 輪西合併の違法性とその根拠を示した(とくに合 めて三井合名に対して正式に株式売却価格(日本 併を承認した19年7月の日本製鋼所臨時株主総会 製鋼所株式780円、輪西鉱山株式350円)を提示し の決議が英国側株主の委任状なしに行われたこ た。その価格有効期限は同年8月末であったが、
と)。そうしたところ、三井側は、急遽、仲介者と クリアすべき障害があり、9月末に延期されて交渉 して水谷叔彦(日本製鋼所前会長)・樺山愛輔(同 が継続された(14)。
元会長)を油谷へ差し向け、価格面である程度考 障害の一つは、三井側3社のうち、とくに北炭
が難色を示したことにあった。三井側は、三井生 調査結果の三井側への提示も価格アップには大き 命保険会社が北炭購入予定分を引き受けるなどの く寄与したのだが、同時に他方では、V−A社が 代替案をも考慮したが効を奏さず、結局三井合名 危倶していた交渉遅延に伴うリスクが急速に現実
1社で当該株式全部を購入するしか方法がないと 化してきたと言えよう。
判断した。しかし、合名1社で引き受けるには購 こうして、第3期の英国側株式の売却交渉は、3 入総額が多額なため、南条は、あらためて購入単 4年2月以来2年半に及ぶ交渉の後、36年9月末 価改訂案(日本製鋼所株式700円、輪西鉱山株式 にV−A社と三井合名との間で一旦は合意に達し 300円)を油谷に申し出た。油谷は、V−A社の たものの、国際金融情勢の緊迫、外国為替管理法 指示を仰ぎつつ、新価格(日本製鋼所株式750円、 の運用強化の情勢のもと、当該株式の対価として 輪西鉱山株式300円)を提起したところ、三井合 の外貨(ポンド・スターリング)の現送が不可能 名ももはや価格面では異論を敢えて出さなかっ (大蔵省の認可困難)との見通しであったため、
た(15)。 結局は、売却は実行されずに終わったのである。
残る重要問題は、36年8月頃から急浮上してき
た大量の外貨現送の困難1生であった。すなわち、 (1)第3期にっいては、正確には日本製鋼所及び輪 V−A社は、当該株式の対価(上記単価の場合は 西鉱山の英国側株式売却問題である。
手数料を含めて総額825万円)を何らかの形で早 (2)1934年2月20日付、M. Webster Jenkinsonより 期確実に金またはポンド・スターリングで得るこ K.Yutani宛書状[VA−1239&L15]。
との保証を日本側に求めていたが、日本政府は当 (3)1934年5月17日イ虫6月17日付\9月18日付、11月6 時外国為替管理法の運用強化を企図しつつあった 目付、K.YutaniよりMark Webster Jenkinson ため、三井側は当該株式の売買についての政府の 宛書状[VA−1239&L15]。
許可が得られるか否かを問題としたのである(16)。 (4)1934年5月11日付、K。Yutaniより(〜£Ariga 36年9月末、V−A社とロンドン三井(Mitsui 宛書状(英訳文)、 Memorandum of K.Yutani
&Co., London)との間で、日本製鋼所株式一株 presented to Mr. Ikeda of Mitsui Gomei 750円、輪西鉱山株式一株300円での売買が以下の Kaisha on the 3 rd June 1935 , TRへNSLATION 条件付きで合意された(17)。 OF A MEMORANDUM BY MR K YUTANI TO MmKEDA OF
①日本政府の売却許可を得るのに必要な期間の確 MITSUI GOMEI KAISHA ,22/7/1935(いずれも 認。 [VA−1239&L15])。
②当該株式のロンドン三井への引渡し。 (5)1935年2月5日、M. W. JenkinsonよりK. Yutani
③売却許可から3ケ月以内における代金のポンド・ 宛電信[VA−L15]、2月6日付、 M. W. Jenkinson スターリングへの転換についての日本政府の保証。 (推定)よりK.Yutani宛書状[VA−1239&L15]。
④その間の交換レートの固定。 (6)1935年2月13日付、K.YutaniよりMark Webster しかし、①③④は三井含名の権i限を越える問題 Jenkinson宛書状[VA−1239&L15]。
であった。油谷は、大蔵省の了解を得ることに努 (7)1935年8月30日付、9月6日付\M.WJenkinson めたが(海軍省に大蔵省への説得をも依頼)、大蔵 (推定)よりK.Yutani宛書状[VA−1239&L 省の見解は、短期間の大量の外貨現送は到底無理 15]。1935年9月9日付、K.YutaniよりMark とのことであった。そして、三井合名は、10月中 Webster Jenkinson宛書状[VA−1239&L15]。
旬、ポンド・スターリングでの現送困難を理由に (8)1935年8月27日付、M.W.Jenkinson(推定)より 交渉の中断を決定した旨表明した〔18)。 K.Yutani宛書状[VA−1239&L15]。
つまり、油谷を通ずる長期間の当該株式売却交 (9)1935年9月15日付、10月5日付、K.Yutaniより
渉は、36年5月頃から急進展し、輪西合併問題の Mark Webster Jenkinson宛書状[VA−L15]、及
び、 SALE OF JAPANESE SHARES:COR盟SPONDENCE RE 割当分についての対応を迫られることになる。
AMALGAMATION OF HOKKAIDO SEITETSU(WANISHI)AND
SEIKOSHO IN 1919 (3/6/36)[VA−L16]. (Dl937年の増資と増資引受分の株式売却
(lo)1936年5月14日付、 K.YutaniよりJ.Reid 37年1月、 V−A社は・油谷からの書状で・日 Young宛書状[VA−1239&L16]。 本製鋼所が近く倍額増資(1500万円→3000万円)
(ll)1936年5月27日付、28日付、 K.YutaniよりJ. の見込みなので、増資に応じる(割当分を引き受 Reid Young宛書状[VA−1239&L16]。 ける)意志があるか否か知らせてもらいたいとの
⑰1936年6月16日付、25日付、7月4日付、V−A社 照会を受けた(1)。その際油谷は、 V−A社とし よりK.Yutani宛電信[VA−L16]。7月6日付、 J. ては応じ難いであろうが(株式処分の意向を持っ Reid YoungよりK.Yutani宛書状 mVA−1239 て売却交渉を進めてきた経緯から)、多額のプレミ
&L16]。 アム取得が可能なので(第1回払込分は額面500
(13)1936年7月10日付、K. YutaniよりJ. Reid 円の4分の1の125円だが時価は300〜350円に上 Young宛書状[VA−1239&L16] ると予測)、引き受けた後に売却する方が有利と勧
(14)1936年7月16日付及び8月25日付、K.Yutaniよ めた。
りJ.Reid Young宛書状、及び、8月18日付、 J,Reid V−A社は、前年の交渉が売却益の現送困難iか
YoungよりKYutani宛書状[VA−1239&L ら挫折した経験に鑑み、油谷に不安な点を問い合 16]。 わせ、油谷がこれに回答する形で、以下の諸点が
㈲1936年9月19日付、K.YutaniよりJ.Reid 詰められて行った/2)。
Young宛書状、及び、同書状添付の同日付電信確 ①外貨(ポンド・スターリング)での現送制限に 認文[VA−1239&L16]。9月21日付、 V−A社 ついて:プレミアム分が約百万円なのでおそらく
よりYutani宛電報(2通)[VA−L16]。 可能と判断。
㈹1936年8月25日付、9月22日付、26日付、K.Yutani ②割当分の現金払込をせずに、新株を売却する権 よりJ.Reid Young宛書状、及び、9月25日付、 K. 利は得られるか二現金払込は原則として必要(た YutaniよりV−A社宛電報[VA−1239&L16]。 だし、仲介の日本人に払い込んでもらうことも可)。
(17)1936年9月28日付、K.YutaniよりJ.Reid ③増資分の引受をしない場合どうなるか:V−A Young宛書状[VA−1239&L16]、及び[VA 社の引受権は自動的に第三者へ行ってしまう。
一1239]p.11。 CKERS訳忽∬RONGS HM1㎜, ④日本製鋼所の他の株主にV−A社の割当分だけ 躍1Nσ7E BOOκOFβ0齪P M朋刀NGS No.4乙1 6 買いとってもらうことはどうか:V−A社による 一3別[VA−1225],1936年10月13日分. 最初の払込なしにはそのような斡旋を行うのは不
⑯1936年10月9日付、13日付、15日付、K.Yutaniよ 可能。
りJ.Reid Young宛書状[VA−1239&L16]。 上記をふまえ、油谷は、英国側株主としての選 択肢は、次の3方法のいずれかとする。
4 日本製鋼所の増資と新株売却(1937・40年) (A)最初の払込に応じ、後に2回に分けて売却 V−A社が日本製鋼所株式及び輪西鉱山株式の (プレミアムが百万円を越える場合でも可能なよ 全てを売却して日本から全面的に撤退する途は、1 うに)。
936年秋の当該株式売却の実行頓座により、ひと (B)払込が困難であれば、代理の日本人に購入 まず閉ざされた。 してもらう。
しかし、37年以降、新たな問題が浮上してきた。 (C)割当分の引受を断念する(最も不利だが)(3)。
軍需関連産業の活況に伴い、日本製鋼所は相次ぎ その後、様々なやり取りを経て、上記(B)の
増資していくが(37年・40年)、V−A社は、増資 方向で事が進められ、日本の商法上の諸規定も十
分調査の上映同年5月には、最初の払込はV一 却価格を少しでも高めに設定するため、三井(磯 A社の委任により油谷が行うこと、払込資金は山 村、南条ら)や川島屋商店(日興証券の前身)と 一証券からの借入金により行うこと、増資登記後 の話合いを並行して行った(1°)。
山一に売却すること、売却価格は1株312.50円、 後者の内容をより少し詳しく言えば、山一証券 などがほぼまとまってきた(5)。 との話合いがまとまりつつある頃、三井側が油谷
このような方法が考慮された理由は、商法上の に接触を求めてきた。その頃は、1株30円前後(額 規定から新株売却以前に第1回払込分が実際に払 面50円の4分の1=12.5円払込)であったが、そ い込まれ、資本の増加が登記されねばならなかっ の後の株価急落に伴い、山一も三井も30円前後の たこと、しかし、V−A社としては、売却益(円) 価格に難色を示し、4〜5円のダウンを覚1吾せざる のポンド・スターリングへの転換・現送に不安が を得ない状況であった。三井は24〜26円を主張し、
残るので、払込資金(ポンド・スターリング)の 山一は25円を提示した(英国側株主のための一時 現送の必要性をなくしたかったこと、などによ 立替の便宜供与をも考慮されたいとのことで)。こ る(6)。 のような時に、川島屋(山一と財務状況など殆ど
同年6月には、上記方法実施のための覚書が油 同様)が、山一と全く同じ条件で26.5円を提示し 谷と山一証券との間で取り交わされる手はずにな たため、川島屋に売却することとした。
っていた。もっとも、売却益の現送についての大 そこで、同年10月25日付で、油谷と川島屋との 蔵省の事前の許可は得られそうになく、さしあた 間で、日本製鋼所英国側株主V−A社が所有すべ
り売却益を預金した上で現送の正式要請を行い、 き増資新株75,000株を川島屋に売り渡すために、
許可が得られた分だけ何回かに分けて英国へ送金 以下の内容の契約書が取り交わされた(ID。
することが考慮されていた(7)。 [第1条]川島屋は、11月1日、油谷がV−A社 6月29日、日本製鋼所臨時株主総会により、11 名義で払込むのに要する金額937,500円を無利子 月1日をもって倍額増資を行うことが正式決定さ にて油谷に貸し付ける。
れた。同日、株式額面の改正が行われたため(額 [第2条]油谷は、前記借受金の証拠として、増 面500円を50円とし、全額払込済みの株式10株と 資新株75,000株の払込金領収書を川島屋に交付す する)、増資新株も1株50円・30万株発行とされ る。
た(8)。これにより、英国側株主も旧株7,500株が [第3条]日本製鋼所の増資登記完了及び新株券 75,000株、新株引受分も75,000株となり、引受に 発行後、本売買契約を履行する。
応ずる場合、第1回払込分937,500円(額面50円 [第4条]本売買における株式価格は一株(12.50 の4分の1=12.5円の75,000株分)を期限(11月 円払込済)26.50円とする。
1日)までに用意することが必要になる。 (第5条、第6条、略)
油谷と山一証券との大筋の了解の後、売却先及 [第7条]第3〜5条は日本製鋼所の増資登記完 ぴ価格が変更となった。その間の経過概要は以下 了後に効力を生ずる。
の通り。 上記の結果、V−A社の取得する日本製鋼所増 7月頃までは、前記のような方向で話が進めら 資新株75,000株の売却益は1,050,000円(売却価 れてきた。しかし、日中戦争勃発のもとで、為替 格26.50円×75,000一払込額12.50円×75,000)と 管理強化(1月より既に輸入為替許可制実施、8・ なり、仲介人及び油谷の手数料(79,500円)(12)
9月為替管理法改正)、外貨現送の困難性増大、株 差引後の手取り額は970,500円となる。V−A社
式市場の一一時的混乱と株価下落が生じ、油谷は、 は、この手取り金額をさしあたり(スターリング
一方では、外貨現送に関する政府保証の取り付け への転換許可が出るまで)日本で預金することと
に努力するとともにω、他方では、増資新株の売 した(13)。
結局、英国側引受増資新株75,000株は、代理人 コミッションを含む)。
油谷による第1回払込完了後、12月1日に川島屋 (8)前掲『日本製鋼所社史資料(下)』9頁。
商店に譲渡され、さらに、同店から一般に売り出 (9)1937年7月13日付、K.YutaniよりJ.R.Young された(14)。 宛書状[VA−1239&L16]、等。油谷は、外貨現
送に関する政府折衝を有利に進めるため、日本製
(1)1937年1月26日付、K.YutaniよりJ.R.Young 鋼所創立時に英国側株主と日本側(政府または出 宛書状[VA−1239&L15]。 資者)との問で英国側が所期の目的を達成した場
(2)1937年2月23日付、V−A社(J. R. Young)より 合は株式を日本側に引き渡すような取り決めがな Yutani宛電信[VA−L15]。同26日付、 K.Yutani されていたかどうかの調査(英国側への照会を含
よりJR.Young宛電報[VA−L15]及び書状[VA む)をも行った(結果的には文書として残された 一1239&L15]。 ものは確認されず)。[1937年8月6日付、 K.Yutani
(3)前掲1937年2月26日付、K.YutaniよりJ。R. よりJ. RYoung宛書状、同月26日付、 JRYoung Young 宛書状。同書状では、旧株を売却する方 よりDouglas Vickers宛書状、同月28日付、
法(約千株ずつに分けて何ヵ月間に)も追記で提 Douglas VickersよりJRYoung宛書状、同月 起されていた。英国側もこれに注目し、その場合、 30日イ虫JRYoungよりKYutani宛書状、いず 購入者による一定期間内の全株購入の保証が必要 れも[VA−L16]所収。]
と主張し(同年3月22日付、J.R.YoungよりK. (lo)1937年6月24日付、 K.YutaniよりJ.RYoung Yutani宛書状[VA−1239])、油谷と英国側株主 宛書状[VA−1239&L16]、10月8日付、9日付、16
との間では合意されたようだが([VA−1239]p.13)、 日付、19日付、23日付、 K.YutaniよりJ.R.Young一定期間内に売却益を現送することの保証の困難 宛書状(いずれも[VA−L16])。
などから(同年4月23日付、K.YutaniよりJ.R. (11)1937年10月25日付(V−A社の委任を受けた日本 Young宛書状[VA−1239&L15])、結局は実行 製鋼所取締役油谷堅蔵と川島屋商店社長遠山元一 されなかった。 間の)「契約書」(要約に当たっては、英文の鞠G㎜T
(4)1937年5月10日付、及び、11日付、K。Yutaniよ をも参照。ともに[VA−L16])。
1)J.R. Young宛書状[VA−1239&L15]。 ⑫仲介人の手数料は売却価格の2.75%=54,656.25
(5)1937年5月17日付、K.YutaniよりJ.R.Young 円、油谷の手数料は1.25%=24,843.75円(1937年 宛電報[VA−L15]及び、書状[VA−1239&L l2月9日付領収書[VA−L16]参照)。
15]。V−A社重役会にも以上の経過が報告され、1株 ⑬ V−A社、前掲重役会議事録、1937年11月17日分。
312.50円の売却の場合、その利益(油谷及び仲介 (14)この増資新株は、37年11月に東京株式取引所にお 者のコミッションを含む)は1,406,250円(約82,000 ける短期清算取引株として、日本製鋼所株式の最
ポンド)と見込まれていた〔V−A社、前掲重役会 初の実物取引となる。なお、4分の1(12.5円)払込 議事録(前節注16)、1937年5月26日分〕。 時の株価は、最高35.0円(同年11月29日)、最低30.
(6) [VA−1239]p.14. 5円(38年4月12日)であり(前掲『日本製鋼所社
(7)1937年6月18日付、K.YutaniよりJ.R.Young 史資料(下)』133・134頁)、川島屋商店も十分差益 宛書状[VA−1239&L16])。なお、当時、仲介者 を得る。
へのコミッションは売却額の2.75%が予定された
ので、V−A社の利益は次のように見込まれた([VA (2)1940年の増資と株式一部売却
一1239]p.14)。売却額%4a 750円(3L25円×75000) 次に、1940年の日本製鋼所倍額増資と関連する 一油谷借入金937,500円(12.50円×75,000)一仲 英国側株式の売却について、簡単に述べておく。
介者コミッション64,453円=1,341,797円(油谷の 日本製鋼所は、37年増資後も、軍関係等の受注
が激増し、室蘭・広島・横浜各製作所拡充、武蔵 合併予定の会社から)との話が油谷を通じて伝え 製作所創設によって応ずるが、それらの資金調達 られたが、販売収益は日本で凍結される見込みな の必要に迫られたため、39年11月、定時株主総会 ので、売却しないことに決定したと記されている。
において、再び倍額増資(3千万円→6千万円) また、10月16日の議事録では、29,500株分の第2回 を議決した。増資新株3千万円の引受要領は、以 払込金額(368,750円)は、V−A社の日本のファ 下の通りであった。 ンドから支払われる予定と記されていることから
一株額面50円の新株60万株発行。新株は40年2 も、当時、V−A社は、英本国へ現送できない資金 月29日現在の株主に一株につき一株の割当。引受 を相当量日本国内にプールせざるを得ない状況で 申込期限同年4月10日。第1回払込金額一株につ あったと思われる。
き12.5円(払込期限5月9日)。その他略q)。 (4)前掲『日本製鋼所社史資料(下)』10頁。
V−A社は、所有株式と同数の75,000株を引き
受ける権利があったが、引受分のうち29,500株を 5 おわりに
所有し、残り45,500株を売却する方針を採用した。 以上、4期にわたる日本製鋼所・英国側株式の売 その売却益によりV−A社の横浜正金銀行におけ 却問題の推移を検討してきた。そこには、日英合 る円バランスを相殺することを意図した方策であ 弁兵器鉄鋼会社としての日本製鋼所の複雑な性格 った②。前回と異なり、増資新株全部の売却方針 と英国側株主の同社に対する特有な関係を見るこ を採らなかったのは、もはやポンド・スターリン とができる。
グでの現送は全く望めない情勢となったことによ 第1期の1920年時点において、英国側株主(V るものと推察される(3}。 社及びA社)が早くも株式売却の意向を持って日 引受・売却の具体的方法は定かではないが、37 本政府(海軍省)に買取りを打診したのは、英国 年と同様な措置が採用されたものと思われる。売 側としては既に歴史的役割(兵器鉄鋼製造の技術 却予定で引き受けた45,500株分は、実際に川島屋 援助)を終えたという認識に基づくものであった 商店を通じて処分され、前回の処分と相まって日 が(輪西合併による変化も一因)、未だ日英同盟継 本製鋼所株式は比較的広範囲に分散することとな 続・海軍大拡張中であって、英国側も日本政府の った(4、。 説得を受け入れて買取り要請を短時日に取り下げ
以上のごとく、1937・40年の日本製鋼所の倍額 ている。
増資に際しては、英国側株主は、名目上は割当分 第2期の1923〜26年は、ワシントン軍縮会議後 の引受に応じ(失権株を生じさせることなく)、直 のことであり、英国側両社は再び日本政府に対し ちにその多くの部分を売却するという方法により、 て株式の買取りを要請したが、その要請活動は、
多額のプレミアムを取得することができた。しか 軍縮補償問題と関連して展開することとなった。
しながら、戦時経済の為替管理下においては、 しかし、軍縮補償金による英国側株式の買取りと その売却益の殆どは本国へ送金することが不可能 いう英国側の要請した方法は日本政府の受け入れ な状態に置かれていたものと思われる。 る余地のないものであり、また、日本製鋼所に交 付した軍縮補償金による英国側株式の償却という
(1)前掲『日本製鋼所社史資料(下)』87頁。 代案も、当時の英国側株主が抱いていた日本側株
(2)四CKERS−A朋∬RONGS乙1M1㎜,〃刀〉σ7E BOOκOF 主(三井)への不信感も預かって両国株主による BO駅0肥E7脚GS No,5α膨一1卿〔VA−1226〕,1940 具体的折衝は殆どなされることなく実現を見なか 年2月14日分。 った。日本製鋼所に対する軍縮補償金の大部分が
(3)前注記載の同じ議事録では、V−A社所有の輪西 特別な補償方式によるもの/た口径砲関係設備に
鉱山株式のほぼ額面での購入申出がある(同社と 対する「原価補償」と同設備の海軍への「無償譲
渡」)であったことも、英国側の折衝を困難にする 1941年に入ると、英日関係及び当該株式売却を 要因であった。 めぐる環境は一層悪化した。同年7月、外国為替 第3期の1934〜36年においては、英国側株主(V 管理法の委任立法として「外国人関係取引取締規 一A社)による株式(日本製鋼所及び輪西鉱山株 則」(通称資産凍結令)が施行され、外国人関係の 式)売却要請は、代理人油谷を通じて、三井財閥 資産は凍結された(米国の対日資産凍結に対 関係者に対して行われ、2年半余りにわたって本格 抗)(1>。
的交渉が行われた。しかし、その交渉は、具体的 ただ、このような情勢のもとでも、同年10月に な価格交渉に入る前に長期間を要した。油谷は、 V−A社所有の日本製鋼所旧株が一部売却されて 本交渉は、日本製鋼所特有の問題があるので、通 いる(前掲第1表)。詳細は定かでないが、売却益 常のビジネスとは異なり、何よりもまず三井側に は、殆ど全て売却先の三井銀行と三井物産からの 購入の動機づけを与えることが必要と考えた。す 有価証券購入に充てられて相殺されており(2)、む なわち、三井合名のトップに対して、英国側の意 しろ風雲急な情勢に対応した在日資産の処理と考 向のみならず、問題の経緯、当該株式購入の国家 えられる。
的利益、輪西合併に伴う英国側株主の損失補償の そして、遂に同年12月、太平洋戦争開始に伴い、
必要1生等を訴え、さらには、具体的交渉が進展し 日本政府は「敵産管理法」を発令し、敵国(敵国 ない中で、輪西合併問題の詳細な調査結果に基づ 人)財産を管理人を選任して管理させ、当該財産
き、輪西合併の法的有効性に対しても疑義を呈し の処分等が出来ることとした(3)。
た。その結果、交渉は36年5月頃から急進展し、 V−A社所有の日本製鋼所及び輪西鉱山株式も、
売却予定価格もアップして同年9月末には条件付 同法に基づき、敵産管理人に選任された三井信託 きの合意にこぎつけた。しかし、この間、株式売 (株)の管理に委ねられ、同社により処分される〔4)。
却問題を取り巻く環境は急速に悪化した。外国為 こうして、日英同盟を背景として1907年に開始 替管理法の運用強化の情勢のもとで、条件とされ され、34年間にわたって続いてきた英国兵器会社 た当該株式の対価のポンド・スターリングへの転 による対日投資関係は、第2次大戦の最中に強制 換・現送が保証されず、結局、売却は実行されな 的に幕がおろされ、ひとまず途絶えたのである監
かった。