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「教育のための評価」をめぐって

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(1)

「      教 育 評 価概念 の 検 討

「教育のための評価」をめぐって

本 田 敏 明

(1981年10月31日受理)

1.は じ め に

教育評価をめぐって今日特に強調されるのは,一言でいえば,「発達のための評価」ということで あろう。一般的にみて教育の営みが人間人格の形成・発達をめざすものである以上,義育1と鳶みる 評価がそのようにとらえられるべきことは当然のことといってよい。しかし,教育評価という概念 自体決して新しいものではなく,つねに教育のあり方と関わって古くから問題とされてきたにもか かわらず,なぜ自明のこととも思われる「発達のための評価」ということが,今日あらためて強調

そこで本論稿では,教育評価の現在の問題点は何か,そのなかから問われる今日的課題とは何か を整理してとり上げ,「発達のための評価」が問われる今日的意味を探ってみることとする。その 際,教育評価のあり方が集中的に問題とされるのは授業においてであるという認識のもとに,授業 における評価の問題にもふれてみたい。

8      a 教育活動と教育評価 1     (1)教育評価概念の現状と問題点

教育評価は・教育活動における中心的部分のひとつであるにもかかわらず,その解釈のあり方は 1    非常に多様である。その対象とする領域や方法が多種多様でありうることは言うにおよばず,評価

、    (evaluation)ということば自体が,語源的に価値(value)という概念を内包していることから もわかるように,つねに評価には,その論者や行為者の価値観,教育観が一体不離の関係として存 在しているということも,教育評価の解釈を複雑にしているのである。そして問題は,そのような 多様性という性格こそが,今日の教育評価をめぐるさまざまな問題の解決を困難にしているという 点にある。

では,いわゆる学問や理論上の問題はさておいて,現実の日常的レベルにおいて評価というもの は,どのようなものとして考えられ,あつかわれているのであろうか。梶田叡一氏による「ホンネ としての各種評価観」という視点での分類を手がかりに特徴的なものを列記してみよう。1)

その第一は,評価を教育活動において非本質的なものととらえる考え方である。教師にとっての 本分は教えるということであり,通信簿なり指導要録に記入するということは,しかたなくする「雑 用」にすぎない仕事だというとらえ方である。

第二にあげられるのは,「評価無用」論というとらえ方である。これは第一であげた考え方をさ

(2)

らに一歩否定的な方向でとらえたものといえる。今日の教育荒廃の元凶こそは,○×式のテスト体 制であり,評価などをするから子どものなかに無用の競争をもちこむのであり,評価こそが「諸悪 の根源」になっているのだ,という議論である。

第三に,これとも関連していわれるのが,「評価不可能」論である。そもそも人間が人間を評価 することなどはできないのであり,まして,人格のほんの一部分をテストなどによって点数化する

ことは人間性への冒とくであるという考え方である。

第四は,多くの教師や父母に考えられている,「勉強をさせるための道具」というとらえ方であ る。「勉強をしないと成績が下がるぞ!」といういい方に代表されるように,この立場からは,子 どもに勉強をさせるこれほど便利な道具はあるまい。さらにこの場合,評価は教師にとって児童・

生徒を管理する強力な武器になる。いわく「言うとおりにしないと内申書を……」云々は,いわば 伝家の宝刀である。

第五に教育評価は,子どもの能力差,個人差,学力差を判定するものだという理解がある。子ど もを点数によって序列化したり,五段階相対評価によって子どもの間の差異を明らかにするという ことは,この場合,他人より何ができるかできないかを見きわめる手段だととらえるのである。

第六に,教育評価といえばそれは学力の評価のことだと考えるものも多い。この場合には学習意 欲とか態度など,ほかの人格的側面の評価に関しては無視されるか,評価ができないもの,難しい ものとして,副次的なあつかいをうけることになる。学習成績の良否のみが評価の最犬の重要課題 だととらえられるのである。

第七は,第六の考え方とも関連して,さまざまな学力検査や適性検査などのテストこそが唯一科 学的客観的な評価のあり方だと考えるものである。子どもの理解も適性の発見も標準検査の原理に よってなされるテストによってこそ妥当性をもちうるのであり,それが評価の根源であるという理 解のし方である。

第八は,評価は将来の選択をさし示す手段であるというものである。現実にテストの成績によっ て,進学校が選ばれ,進路指導がなされるという意味で,このような考え方はその良否は別にして 教師にも父母にも一般的に行きわたっているもっとも現実的な「評価観」であろう。

       腎

ネ上,ざっと列挙しただけでも,実にさまざまなニュアンスをもって教育評価がとりあつかわれ ていることがわかる。このような多様な解釈が,教育現場にいろいろなくい違いや困乱,問題をも たらしていることの一因であることは疑いえないであろう。これらの各種評価観の問題点を洗い出 し,その一面性を打破し,それらの全面的な克服を図ることは急務の課題だといえるのである。

では,これら各種評価観が含みもつ問題点を整理してみると,どういう点が課題としてうきぼり にされてくるであろうか。

その第一は,教育における評価そのものに消極的ないし否定的な立場をとることの問題点である。

たとえば先にあげた「雑用としての評価観」や「諸悪の根源」論,「評価不可能」論などがこれに あたるであろう。「評価不可能」論については,別の視点からの検討が必要であると思われるので 後にふれることにしたいが,概して評価に対して消極的,否定的な立場をとるということは,ある 意味では評価のあり方に対して非常に建設的な問題提起をしているものととらえることができるし,

またそのようにとらえることが必要であろう。すなわち,たとえばたしかに現実には「雑用」,あ

るいは「諸悪の根源」になってしまっている,あるいはならざるをえない状態の問題点は何か,ど

うすればそれを教育活動において意味あるものとして位置づけなおすことができるのか,というま

(3)

さに教育評価のあり方に対する根源的な問いかけをこの立場は提起しているのである。文字どおり

「教育における評価」とは何かを問うことなしには,問題の克服はありえないであろう。

その第二は,教育的指導と教育評価との不統一という問題である。これはさらにいえば,教育評 価が「教育における教育の論理による評価」ではなくて,「教育における他の要素による評価」に なってしまっているという問題である。たとえば,学業成績のみを評価の対象としたり,進学適性 判断の手段として評価をとらえたりすることは,社会的,経済的関係のなかでの能力主義的な「選 抜」の手段として評価を利用することに他ならず,そこでは全ての子どもの全ての側面の発達をめ

●   ●

ざすという教育的指導の論理が欠落しているのである。どうすれば評価を「教育のための評価」と して位置づけなおすことができるか,これが第二の課題である。

さらに第三の問題点は,すでに指摘もしたように,教育評価がある場合には広く,ある場合には 狭義に,さまざまな解釈のされ方をしているということである。たとえば学力テストによって子ど もの学力を点数化するということは,教育評価の一手段であるには違いないが全てではない。した がって教育評価を,その目的,対象,方法などの違いによって整理しなおし,一般的なかたちで分 類することが必要であろう。教育評価の全体像を把握したうえで,そのなかのどの部分が特に問題 なのかを論議することが生産的な方法であろう。

以上検討した課題をまとめていえば,教育評価とは何か,それをあらためて教育的指導の論理の なかでとらえなおし明らかにすること,そしてその概念を整理するなかから改善の方向をさぐり出 すということである。

(2)教育的指導と教育評価

上述の課題を受けて,ここで教育的指導と教育評価との関連について検討してみたい。

従来から教育における指導については,次のような誤った観念が根強く存在している。

その一つは,子どもはあくまでも教育される客体であり,教師は子どもをとりしまってでも知識 を伝達し,指示をするという管理主義的な指導観である。この場合には子どもの活動はあくまで教 師の指導に従属するものとしてしかとらえられない。

またこれとは対象的に,活動の主体はあくまで子どもであり,教師による指導は少ないほどよい とする指導観も存在する。この場合には,特に子どもの自発性や興味が重視され,教師の指導は子 どもの活動をただ援助し助言することだとされ,もっぱら教師の指導は子どもの活動に従属するこ とになるのである。

これら指導観のもとでは,評価はどのような機能をもつことになるのであろうか。

管理主義的な指導のもとでは,評価は当然のことながら教師が子どもをそれによってとりしまる 管理的手段,道具のひとつになるということである。また,援助としての指導のもとでは,評価は せいぜい子どもの成長の測定のひとつとしてあつかわれるか,極端な場合には,不必要なものとさ れるかのいずれかであろう。

このように教育的指導のあり方との関連で教育評価の問題を検討してみると,教育評価はそれ自 体の問題というよりもむしろ,教育的指導のあり方と深くむすびついているものだということが明

らかになる。換言すれば,教育が教師の指導と子どもの活動との相互作用の過程で成立するもので ある以上,「教育における」評価はその過程と決して無縁ではないということ,さらに評価が教育

●   ●

のためのものとなるには,その相互作用の過程に評価が正しく位置づけられなければならないとい

(4)

うことである。

・  ・  ●  ●  ●  ●  ●  ●     ●  ●  ●  ●  o  ●  ●  ●  ●  ●

この点について,オコンは次のように述べている。「教授結果の点検と,それと結びついた評価

…        ●  ●  o  ●  ●  ■  ●  ●  ●  ●  ●  ■  ■  ●     ●  ●  ●  ●  ●  ●  ●  ●     ●  ●  ●  ●  ●  ●  ●  ●  ●  ●  ●  ●  o     ●  ●  ・

とが最も大きな価値を獲得する場合は,教師も生徒集団も,ともにかれらの作業のなかで,教科課

・  ●   ●  ●  ■  ●  ●  ●  ■   ●  ●   ●  ●   o  ●   ●  ■  ●   o   ●  ●      ●  ●  ●   ●  ●   ●  ●   ●  ●  o   ●  ■   ●

程によって定められた課題を実現しようとして,意識的に努力する場合である。このような場合に は,点検も評価も,教授過程の或る恒常的で必然的な構成要素として,すなわち,教師と生徒にそ の共同の作業の効果を知らせるモメントとして,教授過程のうちに含みこまれることになる。そこ では,点検と評価は,実際には非常にしばしばそうなっているのが常であるような必要悪ではなく なるのである。」2)(傍点原文)

ここでオコンが指摘しているように,「教師も生徒集団も,ともに」「教科課程によって定めら れた課題を実現しようとして,意識的に努力する」ことが評価を意義あるものとして位置づけるこ とになるのである。では,教師か生徒かのどちらかに一方が従属してしまう管理主義や援助ではな く,「教師も生徒もともに」「意識的に努力する」ような教育的指導とは何か。この点で,吉本均 氏による次のような論点は示唆深い。

●   ●   ●   ●      ●   ■   ●   ●

「教授主体の指導と学習主体の自己活動とが真に統一(同化ではなくて)される論理は,媒介の

●   ●   ●

それ以外にはないのである。 (中略)子どもたちは,ある種の指導なしには,決して,知的自己活

■   ●   ●   ●   ●   ●

動の主体として能動化しないのである。ある意味では,強烈な指導こそがなされつづけることによ ってのみ,子どもたちははじめて知的・認識的活動をつづけることができるのである。子どもたち

●   ●   ●   ●

の思考や認識をたえず,ゆさぶりつづけていく外からの働きかけが必要なのである。子どもにおけ る認識の発達は,決して単にr内的成熟』の自動的過程ではないからである。

●   ●   ●   ■       ■   ●   ●   ●

外からの指導が,いかにして内からの自己活動に転化・発展していくか。また,いかなる指導に よってこそ,それが,内からの自己活動を活発にひきおこすことになるのか。その問いに答えよう とするのが,媒介の指導性にほかならない。媒介的指導性によってこそ子どもたちを知的自己活動 の主体に育てあげることができるのである。」3)(傍点原文)

このように教授主体と学習主体との共同活動の過程として教育的指導の論理を把握し,その脈絡 にのせて教育評価の位置づけを行なうことで,教育評価のあり方はかなりの部分で問いなおされて くるのではあるまいか。

これは,決して筆者のひとりよがりの独断ではなく,事実,現在の教育評価研究・実践が,たと えば「指導のための評価」,「子どもの発達のたあの評価」という表現にもみられるように,指導 と評価の一体化という方向で改善の動きをとっている4)ことと軌を一にしていることである。続い て,その点での問題をさらにくわしく検討してみよう。

(3)教育評価の分類と今日の課題

教師と子どもとの相互作用の過程のなかに教育評価を位置づけようとする場合,まず問題となる

のは,どのような性格の評価がどのようなかたちでその過程のなかに位置づけられるかということ

である。この点で,梶田叡一氏が「教授・学習活動との関連の仕方から見た教育評価類型」を七つ

に分類して整理している♂) (表1)梶田氏は教育活動との関連で教育評価をとらえた場合,次の

四種のものにわけられるとする。「すなわち,第1は,その活動の開始以前に,その活動の企画を

最も適切なものとするために必要な評価を行なうというものであり,第2は,その活動の途上にお

いて,その活動を最も効果的なものとするよう軌道修正するために必要な評価を行なうというもの

(5)

表 1. 教授・学習活動との関連の仕方から見た教育評価類型

評価項目(観 適 用 領 域 教育評価の型  具 体 例 目   的 評価されるもの 目的類型 基本的性格 評価対象 点)選択・構

成の要件 知 識 思 考 情 意 技 能

      ・入学試験O,受け入      ・クラス分け試 れ・配置       験

・一Aの教育計 謔ヨの受け入 黶C配置

・学習者の能力,

チ性,既習事 管理・運営 測定・査定 個   人

・適格性の構造 反映したも

O (○)

・各種標準テス ・学習者の特性 ・性格,興味, ・必要な特性次

1,教授活動  ト(知能,性 の把握 関心,能力, 元の測定,診

展開の参  格,……) 学習型等 指導・教授 測   定 個人・集団 断に役立つも O o

考    ・教師による観

@    察

の      一

・プログラム学 。そのステップ ・個々の反応 ・カリキュラム

習CAI等の を再学習する の論理に従っ

2, 2A 教授=評価項 か次のステッ 指導・教授 評   価 個   人 た最適学習系 (()) X X

教評 プへ進むかを 列を代表する

決定 もの

活価 ・教師による観 ・教授活動の展 ・個々の反応 ・教授・学習活

動内機 察(目の輝き, 開が学習活動 動展開上の重

表情……) とかみ合って 要なポイント

的能

2B

いるかを把握 指導・教授 評   価 集団・個人 となるもの

O

・学習者の主体 的参加度の把

・授業中の挙手 ・次のステップ ・数分〜数十分 。教授・学習活

・反応分析装置 へ進むかどう の区切りでの 動展開上の重

3, の利用 かを決定 教授・学習成 要なポイント

教フ 3A ・次のステップ 指導・教授 評   価 集団・個人 となるもの O (○) X

O

授イ に関するレデ ・次のステップ

活1

@ド

ョバ

イネスを把握 に関するレデ Bネス

ヘ ツ ・形成的テスト ・学習進行過程 ・区切り ・カリキュラム

P

のク の構造的把握 (1〜数時限) 構造を代表す

3B

・教授・学習の ごとの教授・ 指導・教授 評   価 個人。集団 る教授。学習

O

X

ストラテジー 学習成果 目標群

決定

・期末試験 ・一闃匇ヤにお ・学期,学年等 ・主要な教授・

4,成果把  成  績

@握・評価

ける教授・学 K成果の総括

の期間におけ 驪ウ授

指導・教授

ヌ理・運営 評価・測定 個   人 学習目標群を

纒¥するもの Q

0 ◎

(○)

的評価 ・学習成果

・単位認定 ・一閧フ知識や ・その資格の要 ・資格の要件を

・課程修了認定 技能を持って 件を構成する 総合的に満た

5,認  定 いることを公 能力,特性 管理。運営 査   定 個   人 していること

O

O

的社会的に認 を判断できる

める もの

・全国学力テス ・教育効果の実 ・期待される学 ・期待される学

態を把握し, 力等を構成す 力等の構造を

      ・学力の国際比6,実態把握       較

教授指導法や Jリキュラム

る能力,・特性 調査・研究 ヌ理・運営

測   定 ク   定 集   団

代表するもの

の改善を図

(ただし,Oは適用されていること,(Q)は適用可能であるが現実にはなされていないこと, xは適用不可能であることを示す)

である。第3は,その活動が一段落した時点で,その活動の成果を把握するために必要な評価を行 なうというものであり,第4は,その活動の外側に立って,その活動のあり方になんらかの改善を 加えるために必要な評価を行なうというものである。」6)

要するに教育活動の事前,途中,事後での評価と教育活動に外在する評価の四点ということであ る。表の「教育評価の型」0〜6のうち,事前の評価にあたるのが0,1であり,途中の評価は2,

3,事後にあたるのが4,5,外在的評価として6ということになる。この分類は,評価の目的や

対象,適用領域などに従って教育評価の全体像をなによりも教育活動との関連のなかで要領よくま

とめてあり,十分検討されてよいものと思われる♂)しかし,教育評価の分類をとおしてもっとも

(6)

基本的におさえておかなければならないことは,次の点である。

「現状ではどれか1つのタイプの評価によって教育活動の全体をコントロールできるなどと考え るのは全くの幻想である。現在必要とされているのは,むしろ,多様な評価のあり方についてそれ それの特性を明確化し,教育活動の全体を改善し促進するという目的を達成するために幾つかのタ イブの評価を組み合わせて用いるようなシステムを探求することであると言えよう。」8)

さらにこの指摘につけ加えていうならば,ありとあらゆる評価のタイプを洗い出して,それを分 類表の枠に張りつけるということが必要なのではないということである。今日,教育評価研究・実 践は新たな転換期をむかえているということが指摘されているし,それは既に述べたような教育評 価のさまざまな今日的問題をふまえたうえでの改善の動きであることは明白である。したがって,

教育活動をより生産的なものにする方向で評価の改廃,再創造という視点も欠落させてはならない といえるのである。

では,今日の教育評価改善の重点的課題とは何であろうか。若干の論点をまとめて列記してみよ

う。

水越敏行氏は,教育評価の昨今の変化の方向として次の五点を指摘している )

(1)到達結果を測る評価から,到達の過程で,教授・学習活動へのフィードバック機能をもつも のとしての評価の重視へ。

(2)ヨコの比較  集団標準にもとつく(norm−referenced)測定・評価一から,タテの比 較  達成基準にもとつく(criterion−referenced)測定・評価一へ。

(3)せまい範囲に限定した特定の能力の診断・測定から,認知的側面,運動・技能的側面および 情意的側面など,多様な角度から光をあて,人間の能力の総合的診断・測定へ。

(4)教師のみによる評価から,学習者の自己評価へ。また授業研究では,第三者の目だけでなく,

授業者や学習者の自己評価も含めた多角的な分析へ。

(5)短期間の点的な評価から,あるていど長期にわたっての変容過程の追跡,線的ないし面的な 評価へ。

また,村越邦男氏は次の六点をあげている♂o)

(1)選抜から発達のための評価へ

(2)絶対的基準尺度としての教育目標の明確化

(3)すべての子どもの基準への到達をめざすこと

(4)測定と評価の新たな位置づけ

(5)学力のみの評価から人格全体の発達のための評価へ

(6)指導要録を戦後誕生時の論議に立ち返って検討すること

さらに梶田叡一氏は最近の特徴的傾向として次の三点をあげている♂1)

(1) 「集団標準に基づく(norm−referenced)測定・評価から「達成基準に基づく(criterion一 referenced)測定・評価」への転換

(2)教授・学習活動の軌道修正に役立つ情報を得るような評価の重視

(3)教育評価を教育システム改善の基礎として考えること

またブルームは,教授と学習を改善するためのあり方として次の五点をあげている♂2)

1,生徒の学習と教授を改善するのに必要な情報を得,処理する方法としての評価。

2.通常行なわれているペーパーテスト以上に多様な情報を含むものとしての評価。

D

(7)

3.教育における有意義な目標を明らかにする手助けとしての,また生徒がどの程度までその方 向に発達しているかを把握するプロセスとしての評価。

4.教授,学習プロセスの各段階において,そのプロセスが効果的であるかどうかを把握し,も しも効果的でないならば手遅れにならないうちにどのような手を打つ必要があるか,を決定す る品質管理のシステムとしての評価。

5.最後に,教育実践において,一連の教育目標の達成にとって別の方法も同等に有効なのかど うかを確認する手段としての評価。

さらに論点をとりあげるべきであろうが,紙幅の関係で割愛せざるをえない。しかし,少なくと も,ここでとりあげたものに限れば,いくらかニュアンスの相違はあるにせよ,いくつかの共通の 指向性を見ることができる点に注意したい。それはまず第一に基本的な課題として,子どもたちの 落差づけ,選抜から全ての子どもの発達をめざすためのものであるべきこと,第二にそのために評 価にフィードバック機能をもたせること,ヨコの比較から達成度というタテの比較に変えること,

全人格的側面の評価を行なうべきことなどがあげられる。

本論稿では,続いて特に授業における評価に限定して,これら今日的課題が実際にどのように具 体的なかたちをとって試みられるべきかについて検討することとする。

3.授業過程と評価

(1)授業における評価の今日的課題

今日の教育評価をめぐる問題のなかで,授業と関係しないものはなにひとつないといってよいほ ど,授業と教育評価のあり方は密接に関連している。たとえば,テストや通信簿の是否をめぐる問 題も,日々の授業で教え,学ばれることと無関係ではありえない。その意味で,今日の評価改善の 試みが授業そのもののあり方を問うことと関連して行なわれるようになってきたことは,十分注目

されてよい。

では,それは具体的にどのような試みとしてあらわれてきているのだろうか。

その第一は,従来の相対評価の欠陥を克服しようとする到達度評価の試みである。通信簿におけ る五段階相対評価に典型的な従来の相対評価は,学級における集団でのヨコの位置関係や順位が示 されるだけで,子どもがどれだけ伸びたか,どれだけ正確な知識を獲得したか,どこでつまずいた かを客観的,具体的にとらえることはできなかった。またさらに相対評価によってランクづけ,選 別するということは,すべての子どものもっている可能性をひき出すという本来の教育の論理でな

いことも明らかである。

このような欠陥を克服するものとして到達度評価の試みがでてきたのである。ところでここで注 意したいのは,到達度評価という概念は,従来の相対評価に単純に「絶対評価」を対置したもので

はないということである。到達度評価は授業における到達目標を具体的に措定し,この目標を基準 として子どもがどの程度達成したかを評価することなのである。基準のないところでのたんなる絶 対評価は,ある個人の「タテの相対評価」と基本的に変らないものといえる。だから到達度評価で は目標と評価を一体化してとらえることが重要になってくるし,到達目標を具体的にどのように設 定するかということも新たな問題となってくる。

到達目標設定にあたっては,基本的に次のような原則をふまえることが重要であろう♂3)

(8)

①到達目標は,教科の系統にそった基礎的な知識・技能であること。②子どもの精神発達に即し て,その学年のすべての子どもが到達できるものであること。③抽象的でなく,その到達度が具体 的にわかるものであること。④学習のなかで子ども自身にわかり,自覚されるものであること。⑤ 各教科に即し,教材にそくして,教師集団で検討を積み重ねながら目標が明確にされていくもので

あること。

到達度評価の研究と実践は,今後の教育評価のあり方を問ううえでとりわけ重要な意味をもつも のといえるが,それが「わかる授業」との関連で問題にされないと結局,「元のもくあみ」になっ てしまうといえるだろう。この点については,さらに後で検討してみたい。

 具体的な試みの第二は,教授一学習過程の途上でのフィードバック機能をもった評価を重視する       ●      o      ●

ニいうことである。従来の評価が授業後,単元末,学期末といった「結果」としての評価であった ということ,しかもそれが,教育活動のために生かされることなく,むしろ子どもを序列づけ,差 別するものであったということへの批判から,教授一学習過程の途上において,その過程の調整に 役立つように行なわれる評価という考え方が出されてきたのである。ただ,教育活動の反省のため に評価を利用するという考え方が従来全く皆無であったわけではない。しかし,たとえばブルーム の「形成的評価」の考え方に見られるように,14)今日の試みは,調整の基準としての到達目標のあ り方と一体の問題とされていること,活動の終末ではなくその途上で活動自体を修正する機能をも った評価のあり方を問題にしている点で特徴的だといえる。もっともこの場合,評価活動に費やさ れる指導上の物理的時間の問題や,基準そのものの妥当性など,問題がないわけではない。しかし,

このようなとらえ方は,教育評価と教育実践の分離を克服して,まさに「指導のための評価」を確 立していくうえで,今後とも十分検討されていくべきであろう。

具体的な試みの三つめとしてあげられるのは,評価の対象を子どものある限られた能力に限定し ないで,認知,技能,情意など全人格的な側面の評価をめざすということである。従来の評価では,

認知的な側面,しかも思考力,推理力等を捨象した,結果としての知識の良否だけが評価の対象と されてきたきらいがあった。選別的な相対評価や指導過程とは分離された結果としての評価といっ たシステムをもととしている以上,それは当然の帰結である。しかし,子どものもつあらゆる可能 性をひき出すという教育の本道からみれば,そのような評価は明らかに片手落ちだといわねばなる まい。そこで,人格のあらゆる側面の評価ということが今日特に問題とされてきているのである。

しかしこの場合,特に関心や態度,意欲などいわゆる情意的な側面の評価という点では今でも議 論の多いところとなっている。つまり,情意的な側面を評価対象として積極的に位置づけるとして,

それを従来のいわゆる「方向目標」のあつかいのまま残すか,あるいは積極的に「到達目標」とし て位置づけなおすかという問題だといってよい。

たとえば坂元忠芳氏は次のように述べている。

「到達目標を具体的にしめすことのできる知識や技能などの到達度の評価はある程度まで数量的 に明らかにできるが,学習態度・努力・学習傾向など,努力を支える内面的な力を数量的に評価す ることは不可能に近いが,学力の内面をささえる意欲や態度,努力などがr学力の重要な要素』で あり,r学力は内面的なものを含んでいる』。したがって,教育評価にあたっては,数量的に評価 できない部分が重要である。」15)

これは前者の立場とみてよいだろう。これと対称的に中内敏夫氏は次のようにいう。

「わたくしは,この創造性とか態度といわれている人間の能力なり持続的心性なりを,到達目標

(9)

論的発想でとらえなおし,すこしもってまわったいい方になるが,方向目標論的に考えられてきた 教育的価値の到達目標論的形態を発明することが必要だと考えている。」16)

また,村越邦男氏は先の坂元忠芳氏の論を批判して次のように述べている。

「氏の場合には,先にみたように到達目標と方向目標を並列的にならべ,むしろ,方向目標の部 分を教育評価においては重視している。が,私は,このような並列論には反対である。たしかに氏 の指摘するように,教科教育においても,人格的なファクターは,その重要な構成部分である。そ して,それは学力をささえる一つの重要な条件であり,学力形成と人格形成の区別と連関は,それ 自体として,もっともっと実践的にも理論的にも研究がされていかなければならない。しかし,そ うであるからこそ,方向目標と到達目標は並列的に並べられてはならない。むしろ,人格的な要素 を重視すればこそ,方向目標と到達目標のダイナミズムが問題とされなければならないのであり,

たとえr数量化』しにくい部分であっても,それをどのようにrわかち伝え』が可能なものに転換 していくかが問われなければならないのである。」17)

このような論議は,「学力」そのものをどうとらえるかという問題とも関連して,さらに検討す るには稿を改めるしかない。しかし,情意的な側面をそれだけ切り離して安易に到達目標として設 定するようなことは,授業そのものの道徳主義化につながるという点で,厳にいましめられなけれ ばならないといえる。

以上,筆者なりに授業における評価改善の今日的動向をまとめてみた。しかし,以上の観点は主 に「教育評価」の視点からの課題ということであり,これで全てが言いつくされたとはいえない。

再三述べるように,「教育的指導の論理」からのとらえなおしがないと,教育評価論・実践はまた 混迷のなかに落ちこむといえるのである。以下,先にふれたように,特に到達目標・評価を中心に 授業論からのとらえなおしという視点で論をすすめたい。

(2)到達目標の設定と授業づくり

すでに述べたように,相対評価が選別と序列づけの判定にすぎずその幣を改める意味で,到達目 標を明確にした到達度評価を確定することが授業における評価の中心的課題となっている。到達目 標を明確に設定するということは,つまり各教科において子どもたちが習得しなければならない基 本的内容をひとつひとつ系統的に確定するということであり,そのことによって子どもたち一人ひ とりの学習のつまずきや学習の内容を具体的に把握することができるという意義をもっているので ある。さらに,教師は目標を明確にすることによって何を教えるべきかをも把握することができ,

そのことによって授業指導をより的確に行なうこともできるのである。

しかし,その場合に次のような問題があることに注意しなければならない。それはつまり,到達 目標を明確にして内容を整理するだけでただちに「よい授業」が成立するかという問題である。目 標を羅列し,評価テストをくり返すだけのいわゆるつめ込みの「目標つぶし」の授業とはならない であろうか。到達目標や評価のあり方だけに目が向いているとまさに「評価あって指導なし」の授 業づくりに結びつかない実践に陥る危険性は十二分にあるといってよいのである。したがって,そ うならないために必要なことは,現代の授業論が求めている課題に到達目標・評価論を関連づけ両 者の統一の具体的なあり方をさぐることだと思われる。

授業論的課題のうち特にこの点にかかわって重要だと思われるのは,まず第一に教授と学習の統

一という視点である。これは本稿2の(2)教育的指導と教育評価で指摘したことと基本的に同一のこ

(10)

とである。子どもが学習主体として立ちあらわれない限り,目標の明確化という美名のもとで「伝 達・注入」の授業に転落することの危険性は十分にある。第二の視点は陶冶と訓育の統一という点 である。とりわけ「方向目標」的なもののとりあつかいに関して,授業が道徳主義化されない配慮 が求められるのである。最後に第三として知識習得と能力発達の統一という視点が重要である。目 標に定められた実質的な内容を子どもが習得することとそれによって子ども自らの能力を発達させ ていくことが統一的に展望されなければならないのである。

授業づくりの課題とともに評価のあり方が問題とされるときに,授業における評価が「授業のた めの評価」として確立され機能することになるといえるのである。

4.おわりに

教育評価という概念は,実に多様な意味内容を含みこんだ概念であり,しかも同時に今日の教育 問題の矛盾が集中的にあらわれている領域でもある。だから教育評価の問題を論ずる場合には,数 限りない視点の設定が可能であろう。しかしその場合強調されてもされすぎることのない点は,評 価が子ども一人ひとりの可能性を高めるという教育本来の課題からみてどうあるべきかという点で

あろう。「子どものための評価」という視点を抜きにしたところで,教育評価の類別や技法のあれ       ●

これを述べたててもそれは全くの空論といってよいだろう。同様にたとえ教師と子どもという関係 であっても人間を「値ぶみ」することはできないという「良心的」観念論もその視点から払拭され なければならない。その意味で,教育評価論はひとつしかないともいえるのである。

      注

P)梶田叡一『教育における評価の理論』 (金子書房,昭和55年),pp.7〜8。なお,村越邦男氏による同 様の検討もある。 (村越邦男「教育評価の課題と方法」『講座日本の教育』第五巻(新日本出版社,1976年),

pp.208〜212参照)ここでは,両者の論を手がかりに筆者なりに整理してみた。

2)W.オコン著(細谷俊夫,大橋精夫訳)『教授過程』 (明治図書,1960年),p.298 3)吉本均『発問と集団思考の理論』 (明治図書,1979年),pp.77〜78。

4)この点については,本論稿2の(3)で紹介した各氏の今日的動向のとらえ方を参照して頂きたい。

5)梶田,前掲書,pp.42〜43。

6)同書,P.40。

7)水越敏行氏はこの表について次のように述べている。検討されてよい意見だと思われる。「なお梶田氏 の類型に一つだけ希望をいわせてもらえば,カリキュラム評価があげられていないけれど,これを一つの

類型にとり出してみてはどうだろうか。3Bの形成評価に含あるにしては,けたが大きすぎるし, teaching一 1earning.instructionへのフィードバックとcrurriculumやprojectの評価とは,質的にもちがった 要素を含むと思うので,別に類型をとり出した方が,正確な一覧表になるであろう。またそのことによっ て,わが国ではあまり取り上げられてないカリキュラム評価や,カリキュラム開発の方法論の研究を,位 置づける役割も果たせると思う。」   (水越敏行r授業評価の研究』 (明治図書,1980年),p.16。)

8)梶田,前掲書,p.47。

9)水越,前掲書,pp.18〜19。

(11)

10)村越邦男『子どものたあの教育評価』 (青木書店,1980年),pp.119〜125参照。

11)梶田,前掲書,pp.14〜16。

12)B.S.ブルーム他著(梶田叡一他訳)『教育評価法ハンドブック』 (第一法規,昭和56年),p.7。

13)吉本均(編) 『教授学重要用語300の基礎知識』 (明治図書 1981年),p.265参照。

14)ブルーム,前掲書,pp.162〜190参照。

15)国民教育研究所編『通信簿と教育評価』 (草土文化,1975年),p.27。

16)中内敏夫『増補学力と評価の理論』 (国土社,1977年),pp.204〜205。

17)村越,前掲書,pp.207〜208。

参照

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