E・シュプランガーにおける文化と教育の問題
田 代 尚 弘*
(1990年9月14日受理)
Probleme der Erziehung und Kultur in E. Sprangers Denken
Takahiro TAsH1Ro
(Received September 14,1990)
1.問題の所在
E.シュプランガーにおいて文化問題と教育は,彼自身の著作の表題でもあったように1),きわ めて大きなテーマであった。しかし,このテーマの内在的論理関連をシュプラ≧ガーは,必ずしも 明確にかつ体系的に論じてはいない。本論の目的は,シュプランガーの思想に内在するこの大きな 問題連関を取り上げ,その内在的意味関係を明確にすることにある。
ところで,シュプランガーは,教育の定義を種々の形で行っている。たとえば,その主なものを 挙げてみれば次のようである。(1)「教育は発達しつつある主体の人格的本質形成を目標とする文化 活動である」2)。(2)「教育は,より正確にいえば所与の客観的文化との価値的に行われた接触によ
り,発達しつつある個人の中に主観的文化を育成しようとつとめる文化活動である」3)。(3)「教育
・陶冶活動は自己発達する精神の独自な倫理的本質形成へと向けられた意識的文化活動の形式であ る」4)。こうした教育の定式化は周知のものであるが,シュプランガーはその他にも種々の表現で 教育の定義を行っている。「教育とは青少年の中に形成されつつある精神的な諸々の調整器への,
意識的・調整的働きかけである」5)という定式化もよく知られている。だが,こうしたシュプラン ガーの教育についての言明を簡略化してみると,そこから「教育は・…文化活動である」という命 題が得られる。この命題は,シュプランガーにおける明解な一つの教育の本質規定であり,そうし てこの「文化活動としての教育」は, 「主体の中にある自律的・規範的精神(倫理的・理想的な文 化意志)を生みだすこと」6),あるいは「自己発達する精神の独自な倫理的本質形成」, 「発達し つつある主体の人格的本質形成」を目標とするのである。このようにシュプランガーの教育をめぐ る定式の中には教育活動の本質的概念と目標規定が含まれていることがわかる。
問題はシュプランガーにおいて,(1)「教育が文化活動である」という定式化は,いかなる関連で,
何を意味するのか,(2)「発達する精神の独自な倫理的本質形成」,「主体の人格的本質形成」とい う教育の目標は,教育の文化的な定式的概念との関連でいかに理解されるべきかということである。
*茨城大学教育学部教育学研究室.
こうした問題は,もはや解決ずみの自明なことのごとくにおもわれるかもしれない。
周知のごとく,シュプランガーの教育思想は「文化教育学」と特徴づけられている。「文化教育 学」は,文化の担い手としての人間を歴史的・文化的関係にもとついてとらえるとともに,教育活 動を人間精神の客観的表現としての文化活動の一側面と考えている。そうして「文化の伝達と創造」
がシュプランガーの教育思想の中核であると評価されている。このように,シュプランガーを「文 化教育学」というカテゴリーで理解することは決して誤りではないが,そうした理解が,必ずしも 彼のいう「文化活動」と「教育活動」との内在的関係を,文化現実的・社会的文脈の中で解明しつ くしているとはいいがたい。むしろ逆に,従来の「文化教育学」というカテゴライズは,シュプラ ンガーのいう「文化と教育」の現実的・社会的意味を抽象化してしまっているのではないだろうか。
本論の課題は,シュプランガーの「文化問題と教育」の内在的関連の解明をとおして,つまり彼の 文化観と教育観の交錯点を再検討することによって,彼の思考に内在する教育学的意味を文化の現 実的意味の文脈の中で考察することである。まず第一に,シュプランガーにおいて「文化」とは何 であったかが問題とされねばならない。
H.文化問題と人間の疎外
シュプランガーにおいて「文化問題」とは何であったのか。そもそもシュプランガーは「文化」
をどのように規定しているのか。シュプランガーによれば,「文化とは超個人的な意味連関であり,
生命連関であって,その影響下で,われわれは呼吸し,悩み,しかも成長するのである」7)という。
また文化とは常に一つの超個人的な意味のつながりであり,作用のつながりである」8>。シュプラ ンガーにおいて文化とは,個人を超えつつ,しかし個人がそれを担うことで,個人を成長させるも のであり,文化の一般的特性からみれば,「一部は物質的で,一部は純粋に精神的な性格をもった 歴史的に生成した諸価値形成物の総体を意味する」9)のである。このように彼にとって「文化」と は,人間諸個人によって形成された精神的・物質的なもののすべてであり,それは個人を超えた歴 史的意味と価値の総体を意味している。
だが問題は,この「文化」が,人間によって形成・維持される,つまり人間によって「理解され,
評価され,また理想に即して形成しつづけられる」1°)ものでありながら,文化がその形成者である 人間を逆に拘束し,人間を抑圧し,その結果,文化が人間から離反していくという特性をもってい ることである。こうした傾向は,近代社会の発展にともなって大きな社会的問題となってきたが,
シュプランガーは,とくにこうした文化の問題性に危機感をいだいたのである。このシュプランガ 一の危機意識は,彼の次の言葉から十分に看取できよう。「われわれがみな自分達の文化,したが って西欧文化の未来について非常に心配しているということには,正当な理由がある。われわれは 文化の未来を健全な道へと導きたいと思っている。われわれは,それに対して責任があると感じて いる。しかし,われわれは,方向舵がもはやわれわれの手からすべり落ちてしまったということに 気づいて衝撃をうけている」11)。シュプランガーによれば,気づいた時には,もはや文化はわれわ れの制御を越えてしまっていたのである。文化が人間から遊離してしまったのであり,こうした文 化の遊離は,近代以降の人間の運命になってしまったのである。シュプランガーはこのことを次の
ように特徴的に述べている。 「今日の人間は自分自身で,また自分のために動かし始めた文化過程 を,もはや彼自身の救済へ向けることができないという驚くべき運命にさらされている。彼は助け になる呪文をおそらく忘れてしまったのである」12)と。
では,文化が人間から離反していく過程をシュプランガーは,どのようにとらえているのであろ うか。周知のごとく,シュプランガーは,文化を領域的に六つに区分しているが,各文化領域は,
それぞれが自己の領域の拡大と増殖,さらには自己目的化する傾向をもっている。こうした文化の 自己目的的細分化は,人間の精神活動自体の一面化的(自己目的化的)作用に起因するものである。
精神の「一面化的作用」とは,簡略にいえば人間の精神がそれ自体の目的・価値意識や行為を合理 化し,その結果,自ら狭隙化し,一定の価値意識と行為に拘束されてしまうことに他ならない。シ ユプランガーはこのことを次のように述べている。「ある一つの文化の部分が客観的力として文化 諸部分の中で働きはじめるとき,各文化領域の中には次のような傾向が,つまり一面的な様式での 自己の最高の活動が達成されるまでに自己を独立させようとする傾向が増大する。かくて各自の一 面的な価値しか知らない活動領域の中で文化の細分化が生じる」13)と。具体的にいえば,「科学」
の文化領域では,客観的真理の法則以外の何ものによっても規定されるのを欲せず,「芸術」は純 粋芸術のための芸術を志向し,人間の他の生の側面に対する自己責任を問うことをしなくなる。「経 済」の領域では,経済的合理の追求を至上とし,生産と収益の効率化に専念する。.また「国家権力」
は,その排他的支配を強化しようとする。「宗教」の領域ですら,一定の条件の下でそれ独自の教 義に束縛され,ドグマ的になっていく。このように文化の各領域は,一度それが組織化されはじめ たならば,ひたすら自己肥大化し,自己目的化し,自己の領域の独自的発展を主張しはじめるので
ある。
本来,ある種の文化活動の中には無数の精神的活動の統合的意味が含有されているはずであるが,
一つの文化が加速度的な発展を開始し,その発展の内的論理を主張しはじめるときには,「文化の 領域の細分化は,無限にまで進むと考えられよう。そうなれば,各文化領域を担う人間集団も最後 には完全に分離されるかもしれず,また各々の人間集団においてその文化領域の支配的価値に対応 するところの全く一面的な生の形式が主張される」14)のである。つまり,文化の細分化が進めば進 む程,文化相互間の意味連関が見えずらくなり,個別的な文化倫理と全体的文化状況の倫理との関 連も喪失し,各人もまた自己の属する文化活動の中に埋没しがちになる。こうした文化の自己目的 化,自己組織化現象は,近代社会における人間の諸活動の合理化と分業化および組織化という社会 学的視点から理解することもできよう。
M・ウェーバーによれば,文化的・社会的活動は人間の役割の合理化によって発展するが,役割 の専門化によって文化的主体である人間は,自分の所属する文化的・社会的組織の全体を眺望でき なくなり,人間は効率や専門性という規範によって合理化されていく。当然ながら,組織のための 組織化という現象が生じ,そのさい合理化と寡頭支配の現象が随伴する。こうした文化活動の自己 目的化,自己合理化が,やがて人間の「生」と社会構造との間に耐えがたい緊張と軋櫟を生みだし ていく。それは近代の文化的・社会的発展の必然的帰結であるが,シュプランガーは「文化の細分 化」という表現でこうした分析視点を提示したのである。
文化の内的自己目的化と硬直化は,社会的組織や制度の硬直化を引き起こし,結局,人間の組織 的・制度的「管理化」を促進し,さらには人間の自律的・自主的精神活動や行為規範の自由を奪っ
ていくことになる。この結果,人間は「マス」 (大衆)として囲いこまれ,文化の全体的意味連関 を見失っていく。このような人間をシュプランガーは,「大衆的人間」と呼ぶのである。シュプラ ρ
塔Kーによれば,「大衆的人間」とは,いわば「文化」によって疎外された人間のことである。シュ プランガーはその特性を次のように述べている。「われわれは,広範な文化的無感動と人間から彼の 本質の最も価値の多いものがなくなってしまった大衆化を病気とみなす。つまり,世界の中に入り込 む勇気ある意欲,自由の高揚およびこの意欲を倫理的な尺度に即して秩序づけることがなくなったの である」15)と。また「自由の良心から解放されうることを,自分の生の好都合な解放と感じる無数 の人間がいる。それは快適でもあれば同時に安全でもある。そこに大衆的人間性の本質がある」16)。
こうした見解は,G・ジンメルの「文化論」においても共通のものであり,ジンメルは,すでに
「文化の本質について」(1908年)という論文の中で次のように述べている。「近代生活のもつも うもろの不協和音…・は,大部分つぎのことに由来する。すなわち,諸事物はたしかにますます開 化されるが,しかし人間は,諸客観の完成から主観的な生の完成をかちとることがますますわずか しかできないということ,これである」17)。つまり人間は,本来,自分が自分のために創造・形成 してきた「文化」からもはや自己の全体的な意味をみいだすことが困難になったが,しかしそのこ とに逆に快適さを感じるということである。それは,文化に対する自己責任の放棄による「解放感」
の享受であるが,逆にいえば,それは人間が「文化」によって疎外されていることに他ならない。
こうした文化による人間の自己疎外の現象をシュプランガーは次のように的確に述べている。「人間 は,現在の文化の歴史的に獲得された価値内容をもはや欲しないという別の現象が現われるかもし れない。このような意欲喪失は無能力の感情の単なる心理学的帰結であるかもしれない・…そして
『私はできない,だからまた私は欲しない』というこの徴候よりも確実な没落の徴候はない」18)と。
シュプランガーによれば,文化による人間の疎外はやがて人間における文化の全体的展望と責任 を喪失し,「文化崩壊」の現象を引き起こす。まさしく「文化においては,いかなる側面もそれ自 体では生命能力がない」し,また「全体としての文化が問題なのである」19)が,全体の意味的・価 値的連関を欠き,自己目的化した文化は崩壊せざるをえないのである。「もはや価値内容が信じら れていない文化は,それをなお一段と形成しつづける決定的力が欠けているがゆえに,没落してい く・…つまり文化は生き生きとした究極的な価値確信の源泉から継承的に創造を行うのでなければ ならない。さもなくば,文化は崩壊する」2°)というシュプランガーの洞察は,きわめて的確である。
そもそも文化においては,いかなる特別な領域も完全に拒否されてはならないし,またいかなる領 域も他の諸領域が一つの領域と,有意義に共働できないほどに肥大化してはならないのである21)。
ところで文化は,それを支える個々人の意識をとおしてのみ,生きつづける。しかしこの個人は,
すべからく一面性を持ちつつ,その反面,全面的であることを欲するが,本来,彼の精神活動はい かなる側面においても相互に作用しあっているはずである。諸個人の一面的能力の発達は,その人 間の中で,あるいはその人間の周囲に,補充的なかつ今まで欠けていた他の能力を呼び醒まし,そ の能力を活性化させようとする傾向をもっている。この意味でシュプランガーは,「一面的な生の 形式」だけで生きる人間は,ほとんど希であるという。また外的な強制によって一面性へと引き寄 せられる平均的人間においてさえ,生の均衡への願望が生じてくる。その願望が一面的な個別的文 化によって脅かされている社会の場合,この願望は一層強力になる。それゆえに,シュプランガー によれば「歴史的所与の客観的文化が,現実に生きている個々人に,また生きている人間の社会全
体に働き返えすかぎり,そこには個々の規範の上にわれわれによって倫理的と特徴づけられる全体 的規範が生じ,これが細分化した諸方向を新たに総合することを要求する」劉という。したがって シュプランガーは,人間の「生」の調和的・均衡的な文化創造こそ重要であるとみなすのであり,
化内容を新たな連関の中で理解し,倫理的な文化理想にもとついて文化の全体的意味連関を形成す る力をもっているのである。この意味でシュプランガーは次のように述べた。「文化の生存は,や はり次世代という決定的な階層が・…すでに形成された真の文化内容とその文化内容の完結した全 体性を,彼らの理解によって把握し,彼らの価値判断によって肯定し,また真の,つまり倫理的な 義務ある文化理想の意味で彼らの活動的な力によって形成しつづけることにかかっている」23)と。
したがって,ここで,文化崩壊の阻止と文化による人間疎外の克服は,文化倫理の覚醒という問題 に通底し,それはシュプランガーにおいて「教育」という一つの文化活動と密接な関係をもつこと
になる。
皿.文化倫理の覚醒と教育活動
カ化崩壊と文化による人間疎外の克服の途は,「文化の倫理的意味」を各人が自覚すること以外 にはない。換言すれば,文化の調和的統合,つまり文化の全体に対する調和的責任の覚醒が重要な のである。この点についてもシュプランガーは次のようにいう。「すべての文化的力を創造的な全 体意志にまで倫理的かつ宗教的に統合することの中にこそ,われわれは前途になお一歩進めるとい う保証がある」鋤と。しかし現実には,この文化の調和的統合は成功せず,むしろ調和のとれない
「生」の倫理的矛盾の悲劇が生じる。
シュプランガーによれば,一般的に「禁欲」が失われる時,文化は終焉する。生活の享楽や個人 の主観的で美的刺激の体験の礼讃は,精神的な諸々の努力や自己規律の妨害となる。必要なのは,
精神的努力や自己規律であり,それが倫理的な文化活動を可能とする。シュプランガーにおいて,
それは,「義務思想が死滅するならば,文化も死滅する」25)と表現される。したがって,シュプラ ンガーにとって,重要な課題は「規範的な,つまり価値を規定する全体の形態を実現すること,要 するに歴史的に変化しながら,しかも常に規範的な価値体系に即して形成される文化理想を現実化 すること」26)となる。そのさい出発点として前提とされるべきことは,人間の「精神生活のどの断 片にも,たとえ強弱の差はあっても,すべての精神的根本方向が含まれている」27)という事実であ る。前述のごとく,人間は本来,一面的に自我(精神作用)による一面的な文化形式や文化形成や 価値形成に拘束された形でのみ生活するのではない。シュプランガーによれば,人間の精神生活に は文化の調和的発展と文化倫理の自覚のための精神的根本作用が存在し,それを陶冶することが重 要となる。この点において「教育」という文化の活動が必要とされ,それは文化を担う「人間の精 神的生成」,「道徳的陶冶」28)を目標とする。「文化は本来,何をもとにして生きているのか,ま た文化は内的にどのように構成されたものであるかを,若い人々に徹底的に意識させることが今日 では必要である」29)と。そのさい「新しい生活条件は新しい教育をこそ要求するという観点で,わ れわれの文化の問題性を抜本的に考え貫くこと」3°)が重要となるのである。
文化活動としての教育活動の前提は,全ての文化領域が歴史的現実の中で解きがたく相互に入り 組んでいること,「また全ての人のそれぞれの有意味な関係の中ではじめて文化の意味が人格的体 験となること」31)を認識することである。それゆえに,シュプランガーによれば,この文化の中で 生活する青少年の人格形成にとって重要な活動は,「人格的に肯定できる価値設定の中心にまで入 り込むこと,そしていわば,権威ある当然とされたものが,自我のより深い諸層から承認され,人 格的理想にまで高められる当為になる内面の地点を発掘すること」32)なのである。そうして,この
ような文脈で,シュプランガーは「すでに獲得されたものを生長しつつある精神の中に生き生きと 保持することを土台とする文化の増殖」33)を「教育」と定義したのである。
ところで「文化の増殖」とはいかなる意味内実でとらえられているのか。シュプランガーの次の 言葉が重要な手がかりとなる。 「教育の課題が歴史的所与の客観的文化財を年長の世代から年少の 世代へ伝えるだけにすぎないと理解されてはならない。たしかに教育は客観的な歴史的所与の文化 を理解するように陶冶されなければならないが,しかし必ずしもその所与の文化の承認にまで陶冶 する必要はない」謝。シュプランガーによれば,既存の客観的文化財の伝達とその理解は青少年に とってきわめて重要であるが,しかしそこにとどまることが教育活動なのではない。文化の伝達を とおして,青少年世代が新しい文化を形成すること,すなわちこれが文化増殖なのである。こうし たシュプランガーの「文化教育学的」思考においては,青少年の文化的・歴史的未来に対する信頼 が前提となっているとともに,青少年における自立的な文化的価値形成が重視されている。それゆ え「教育は,他者の心に対する贈与的な愛に支えられた意志,つまりその他者の心の全体的価値受 容性と価値形成能力とを内部から発展させようとする意志」35)と理解されるのである。
文化伝達や文化創造は,何のために,誰のためになされるべきかとの視点は,現在の文化的・歴 史的状況の視野から固定されるべきではない。現在の文化を担っている支配的世代は,やがて新し い世代の新しい活動にその役割を譲歩しなければならない。新しい世代は,現在の文化を吸収しつ つ,新しい時代の未決性に対する自己責任をもつ自由があるのである。シュプランガーの次の言葉 は,こうした文脈の中で理解されなければならないであろう。「教育においては,所与の文化を通 過することは,真正な文化意志一般をめざめさせるための一手段にすぎない」36)。「教育において は所与の文化の理解に導くことだけが重要なのではない。さもなくば,教育はまさに欠陥と限られ た長所をもつ現状を永続させる手段にすぎないだろう」働。シュプランガーのこの言表には,「文 化教育学」の革新的正確が表現されている。シュプランガーによれば,現在の真理は必ずしも絶対 的ではないし,したがって真理への「意志」自体を強化する「形式陶冶」が必要なのである。また 現在の諸技術が訓練されるだけではなく,技術能力と探究心の陶冶が必要なのである。また政治的 には,現在の国家への忠誠心が目標とされるのではなく,前進的な国家倫理,真の正しい国家形成 への意志形成こそが重要なのである。結局,シュプランガーにおいて,生活と文化の既成の内実を 伝達することだけが重要なのではなく,むしろ最高の意味あるものへの純粋で拘束されない探究心 を発達させることが重要なのである。こうしたシュプランガーの「文化教育学的思考」には,形式 陶冶的教育観と青少年の教育的発達の自由を確保するという考え方とが潜在しているといえよう。
ところでシュプランガーは,こうした意味での教育活動のために,教育目標として次のような人 間像を措定する。すなわち,「われわれは,ヨーロッパにおいて一定の人間のタイプ,つまり自分 のささやかな地位にあって文化運動の全体に対して共同責任のあることを自覚しているような人間
のタイプを一般に必要としている」38)。それは結局,「広大な文化責任」を担う「良心的人間」の 形成を意味する。「良心的人間」は,決して既存の文化的・歴史的形成物に拘束されず,文化的・
歴史的な未決性において自ら倫理的に葛藤し,文化価値や文化倫理を自問し,文化倫理を自覚でき る人間として描がかれる。文化責任の大きな連帯性の共同的な担い手である成員として文化体系の 中に組み込まれていないような人間は決して存在しない39)ことを考えれば,「良心的人間」とは既 成の文化の中に組み入れられつつ,文化責任を自覚できる人間を意味する。シュプランガーにおい て教育活動の本質とは,「自分の良心の前で文化責任を引き受ける人間」姻の形成を目ざす文化の 複合的機能の一つなのであり,それは決して現在の支配的な文化の存続だけを目ざす保守的な人間 の形成を意味するのではない。このようにシュプランガーの文化活動としての教育活動は,文化責 任と文化倫理を世代的な連続の中で自覚し,そしてそれを未決の課題として創造する活動なのであ る。したがって,こうした意味での教育活動は,文化の連続性を担うものとしての「世代」と「教 育の自律性」との問題に通底することになる。
1V.世代論と教育の自律性の問題
世代論はディルタイに端を発する「文化教育学」思想の重要なパラダイムの一要素である。ディ ルタイによれば「世代とは個人相互間の同時性という関連を示す概念」41)である。すなわち,世代 とは,時間的空間であり,人生のある時間的空間を精神的に測定した概念である。具体的には,同 じ経済,政治,社会の諸状態の中に生活しつつ,同じような世界観や人生観をもつ同年代の人々を 指している42)。たしかに世代は一つの同時代的全体と考えられるが,そこにはディルタイ自身も認 めているように,精神的方向および生活様式の多様性や文化理解の深度の差異も当然存在する。ま た古い世代と青少年世代とは保守と進歩という時代的対立,安定と変動との対立としてとらえられ,
それらの葛藤の中で歴史的な時代の進歩が生じると考えられる43)。このように時代には二つの世代 的対立傾向が常に連続的に存在するのである。一方は,現在の支配的な文化傾向を維持しようとい う保守的傾向をもち,他方はそれに反抗して新しい時代を創造しようとする一般的傾向をもつ。こ の後者の傾向は,とくに青少年世代のもつエネルギーの特徴とみなされ,それは現在の支配的文化 現象と伝統の欠陥の変革を試みる。こうした価値的対立の中で新しい歴史が形成されるのである。
そもそも人間の諸活動は生活形式,情意,価値形式,目的理念等の錯綜し合った全体によって制 約され,その制約の中から歴史の新しいパースペクティヴが形成される。そのさい各時代は,前の 時代で発展させられた支配的価値を含みつつ,その時代の中にすでに次世代による価値形式の契機 を含んでいる44)。こうした意味でシュプランガーもまた次のように述べている。「ヘーゲルは,歴 史が論理的対立において動くものだと信じることができた。しかし歴史においては概念が相剋しあ うのではなく,価値設定と一面的な生の形成が相剋しあうのである。歴史は弁証法的三要素におい て進歩するのではなく,むしろ価値対立において動いていく」45)と。そのさい重要なことは, 「あ る世代がその将来に対して提起する健全な問いは『何が起こるべきか』という問題提起」㊨である。
価値的・当為的問いかけこそが,歴史の前進にとって必要なのである。この点でシュプランガーは,
歴史と新しい世代形成が「倫理のあり方」にかかわっていると考えているのである。シュプランガ
一は歴史の発展法則について次のようにいう。「歴史における発展法則は,したがって決して単純 な出来事の法則ではなく,当為の法則であるが,しかしその法則は必ずしも満足されるとは限らな
い」4ηと。
ちなみにシュプランガーによれば,歴史の繁栄期とは,所与の文化の細分化の中で要求されるべ き統合が統一的な文化意味や生の意味をもちうる時代であり,衰退期とは,この統合が成功せずに,
過度の細分化に陥り,この細分化が個人を無力にするような時代である。そのさい「歴史的進歩」
という言葉の内容は曖昧であることに留意しておかねばならない。多くの人々は,技術的問題の解 決とか,経済的豊さとか,芸術の表現手段の洗練等の進歩だけを考えがちであるが,しかしそれは 部分的な能率性の進歩にすぎず,細分化された文化の時代の進歩感情にすぎない。シュプランガー にとっては,このような社会的・文化的な意味での全体に連結しないような特殊能率こそ,一般に 歴史の衰退の根源なのである。なぜなら,すべての特殊能率は,他の文化活動や生のあり方全体へ の連関をかえりみずに,無限に進むからである48)。
シュプランガーがディルタイの世代論を踏襲していることはたしかであるが,シュプランガーに おいては,青少年世代が真に文化価値の創造と歴史の前進の原動力になりうるか,またいかにして そうなりうるのかという教育的観点が最大の重要事となっている。つまりシュプランガーは「世代 関係を教育関係として捉え」49)ているのである。シュプランガーは成熟した世代の現実的エネルギ 一に対してよりも,この青少年世代の可能的・潜在的エネルギーに期待を寄せるが,しかしそれが 無条件に現実化されるとは考えていない。そこには,前述のごとき古い世代の文化的・社会的拘束 力とともに,青少年世代の文化的生産力の脆弱さも存在する。したがってシュプランガーにとって は,世代間の緊張関係は当然のことであるが,しかしそれは新旧世代の精神的・倫理的闘いをとお して初めて生産的になりうるのである。古い世代は青少年世代に「教育的」に働きかけを行うが,
古い世代の教育作用は青少年世代に必ずしも全面的に受容される妥当性をもつわけではない。古い 世代の「教育的」活動は,自らの世代の支配的文化傾向の定着を願いつつ,他方で青少年世代が古 い世代を超克していくことを期待するという矛盾的生産活動でもある。だが教育活動は青少年世代 のもつ可能性を未来において現実化させるために,青少年の文化的・倫理的価値形成能力の解放を 本来的に志向する。こうした文脈でシュプランガーは次のように青少年世代の倫理的価値的前進を 述べている。「古いものの確実性が一度は新しいものの内容のために犠牲にされること以外に,倫 理観の前進は考えられない」5°)と。シュプランガーの「教育は発達しつつある主体の人格的本質形 成を目標とする文化活動である」というテーゼ,あるいは「教育の意味は,人間がその現存在に,
自分の到達可能な最高の価値内容と意味を与えうる諸力を開示するということ」51)というテーゼは,
古い世代の文化的・倫理的価値を青少年世代がよりよく克服し,その世代の倫理的・価値的進歩が 獲得されるべきであるという文脈の中で理解されなければならない。
他方,シュプランガーにおいて教育活動は, 「他者の心の全体的価値受容性と価値形成能力とを 内部から発達させようとする意志である」と規定されているが,そのさい「教育の力は諸可能性を 提示し,引き出すだけであり,任意に形成したり,植えつけたりはできない」謝のである。この言 表にはシュプランガーにおける教育の自然主義的理解を看取できる。この点についてはここでの 問題ではない。その言表は本論の文脈では,古い世代による教育活動への関与の不要性を意味する のではなく,むしろ「教育」の名による青少年の可能性の抑圧・統制を警戒するとともに,青少年
世代への既成の文化内実の押しつけに反対の立場を表現していると解釈できよう。シュプランガー は,その論文「世代と教育における古典的なるものの意義」(1924年)の中で次のように教育内容
(文化内容)について述べている。「教育の内容はよりよく認証されていなければならない・…教 育共同体の表現形式と諸形式は変化してもさしつかえない。教育内容は古くさくてはいけないし,
また明日には古くさくなるかもしれない」53}と。また同論文の中で「訓練」と「調教」が「陶冶」
と対立する概念であること,真の陶冶は内面的に自由なものであることが指摘されている。シュプ ランガーによれば,真の陶冶は人間の能力の総体に向けられていなければならず,また日常の要求 を理想的に超えていく「余剰物」を生みださねばならず,そのことによって自由で倫理的な生活を 形成するものである54>。シュプランガーのこのような教育に対する視点は,次に青少年世代に対す る「教育の自律性」をいかに確立すべきかという問題に通底していくことになる。
ではシュプランガーにおいて「教育の自律性」とは,いかなる意味内実で考えられているのか。
シュプランガーはその論文「学校規則論及び学校政策の学問的基礎」 (1928年)において, 「陶冶 生活の自律性」,つまり「教育の自律性」について論究している。シュプランガーによれば,一般 的な教育領域では各々の生活領域と専門領域が干渉し合っている。それゆえに一般的な教育領域で の完全な自律1生は存在しない。たとえば教育は,知識,芸術,技術,宗教等々の複合的な内容の干
渉あるいは相互的作用によって支配される。この意味で「教育」という一般概念の第一次的自律性
は考えられない。そこには,知識の教育,技術の教育,宗教教育という個別的教育の領域があるに すぎない。だがシュプランガーによれば,教育活動はそうした個別領域に分解してしまうのではな く,そこには教育の第二次的自律性が考えられるのである55)。教育の第二次的自律性とは,教育に 関与するすべての価値方向を受け入れ,それが統一的な人格的本質形成の理念,つまり陶冶理念と なることによって成立する。こうした自律性こそが,「教育の自律性」であり,したがって「教育」
という一般概念の自律性は,人間の倫理的価値態度と関係することで成立すると考えられよう。こ のことをシュプランガーは,次のように述べている。「倫理的なるものにおいて(善の理念におい て)志向された教育の自律性は,したがって倫理的・教育的領域の独自的叙述があらゆる原初的価 値内容から離れて,思惟的構成の中で決して達成されないという点で,第二次的自律性である」56)
と。もともと倫理的なるものの自律性とは,人間の良心を肯定するさいに生じる信念を意味してい たのであり,その意味では「教育の自律性」とは,倫理的精神に即して基礎づけられるのである 7)。
シュプランガーにおいて,こうした心性の自立性が重要なのであり,教育はその独自性において倫 理的に自立した個人の発達を目標とすることになるのである。
したがってシュプランガーによれば,「教育の自立性」は外部からの押しつけや諸々の注入,陶 冶に対立する調教や「飼育」,心性の押しつけによる志操の純粋性の抑圧によって失なわれてしま
う危険を常にはらんでいる。シュプランガーの前述の教育に関するテーゼ,つまり「教育は他者の 心に対する贈与的な愛に支えられた意志,つまりその他者の心の全体的価値受容性と価値形成能力 とを内部から発達させようとする意志である」というテーゼは,こうした文脈の中で理解されなけ ればならないだろう。そうして,そのような教育的意志の働きかけは,青少年世代の内的発達を尊 重し,注意深く援助するという教育者の開かれた態度を必要とする。それゆえにシュプランガーは,
「教育の自律性の古典的代弁者であるルソー」を引き合いに出し,「教育者も生徒もある種の倫理 的に動機づけられない圧力の下に置くことのないような心性の自由性」58)を要求するのである。さ
らにシュプランガーは,ルソーを念頭において,次のように述べている。「たとえ教育が社会制度 という形をとって行われようとも,教育の理念,つまり陶冶理念自体は,こうした諸制度が信念の 自由を奴隷化しないことを要求する。さもなくば,何か『教育』に似たようなことは生じるが,し かし教育の本来的で永遠の意味は実現されない」59)と。
たしかに「教育の自律性」といえども,それは文化のすべての価値領域の作用を受容することに よってしか成立しない。だが,その価値領域は,成熟したあるいは人格的な倫理的態度で受けとめ られてこそ,教育的に有効になるのである。したがってシュプランガーにとって,「教育の意味が,
自ら発達する心の中で,自由で倫理的な立場決定がなされるということにあるならば」6°),「指導 や陶冶のかわりに内からの発達」が教育の重要な前提であり,「心性が心性に働きかけるというこ とが教育の核心」61〕なのである。しかしこの場合,成熟した世代は自らの倫理的・価値的心性を,
未成熟な世代に押しつけることにはならないのだろうか。たしかにシュプランガーは,そこに「教 育のアンチノミー」をみている。だがシュプランガーによれば,この「教育のアンチノミー」は成 熟した世代,つまり親や教師が自分の心性を放棄することによっては解決されず,むしろ彼らが青 少年の心性に「畏敬の念」をもって接することで解決される。「畏敬の念」とは,青少年の心性に 何ものをも強制せず,むしろその心性をあるがままに受けとめ,その心性を内発的に完成させよう とする気持と考えられる。そこには,古い世代が青少年世代の文化的決定権を彼ら自身に託すると いう信頼関係が前提とされる。このことについてシュプランガーは,次のように述べている。「真 の心性は,何らかにまた真の心性に働きかける・…つまり偽のみせかけだけの心性は決して真の心 性に影響力を及ぼさない」62)と。シュプランガーのこの考え方は,後述のごとくより現実的な問題 にさいして先鋭化されてくるが,このシュプランガーの教育学的観念は,次世代に対する真の文化 内容の伝達のための「教育の中立性」についての基本的構図と,青少年の心性の「発達保証」とい う教育学の近代的遺産を精神科学的に継承しているものと理解されよう。
ところで,人間は一般的に文化的拘束の中で生活している。ここで文化が前述のごとく人間の物 理的・精神的成果の全てを意味するならば,現実的に人間は,政治的・社会的・法的現実,そして それらの総体としての国家的制度によって外的に拘束されている。この意味でシュプランガーは,
「文化,とりわけ経済と国家とは歯車としてはめこまれなければならない一つの機械組織」63)とし て,現実的な重要性をもっと考えている。シュプランガーにとって文化問題とは,「決して内輪の 哲学的問題ではなく,一つの著じるしく政治的な問題である。この問題は,民主主義的な国家形式 が有効に諸民族の運命を方向づけていくのにまさしく適しているものなのかどうかという点でも先 鋭化されなければならない」64)テーマとなるのである。次の,文化的現実としての政治的・国家制 度的問題としての民主主義形成と教育との問題について述べなければならない。
V.文化現実としての民主主義形成と教育活動
シュプランガーにおいて国家(政治)と教育の関係は,文化の現実問題としての最も重要な課題 の一つであった。国家はその政治形態に応じて,支配的イデオロギーの教育を行い,そのかぎりで
「教育の中立性」は必ずしも正しい意味で保証されているとはいえない。国家権力は教育の内容,方
法,制度等を通じて青少年世代に自らのイデオロギーを注入しようとする。シュプランガーはこの ことを次のように表現する。「国家にとって本来的な教育が決して重要ではなく,むしろ国家権力 意志と統一意志の外的貫徹だけが重要であるという事態が今日なお生じうるというのも事実である
・…ュなくとも国家は自由や真理や個人的心性への尊重を犠牲にして単純に自己の存立にかかわる 危機的限界にまで時として達する。おそらくそのさい,こうした権力意志は常にまた教育意志とし て偽装される」65)と。シュプランガーは,このような国家権力が教育の中立性を阻害することを看 取した。だがシュプランガーによれば,国家が真の教育的中立性を保証せず,教育を権力的に歪曲 するならば,そうした教育の偽装は結果的に国家を衰退させ,国家自体の存立を危険にさらすこと になるのである66)。それゆえにシュプランガーは,「文化創造」において「精神的世界における新 鮮な樹液の循環が保持される」67)と述べたのである。文化現実としての国家は文化創造的な世代に 支えられてこそ前進し,発展する可能性をもつ。しかし,国家権力は自己の現在的支配力を保持す る為に,外見的には「教育の自律性」, 「教育の中立性」を保証しつつ,実質的には偽装的な教育 意志を貫徹する。だが,そうした政治的行為が,将来において国家の存立基盤を脆弱にするならば,
そこにはやはり「国家権力」における「教育のアンチノミー」が存在する。シュプランガーはこの 点を指摘したのである。当然ながら,現実の国家の要求と教育の理念が単純に一致するべきと考え ることは,素朴にすぎるし,真の教育理念の実現のために教育活動を国家から遠ざけることも現実 的ではない。むしろ重要なことは,「教育の自律性」, 「教育の中立性」の要求が,国家(政治)
的倫理の純化を促進する契機を青少年世代に提供することであろう鮒。
ちなみに,いかなる国家においても,教育者のすべてが国家意志を体現しているわけではない。
彼らはやはり,国家に制約されつつ,超個人的で超国家的な倫理的価値への意志をもっている。こ の点についてシュプランガーは次のように指摘している。「国家の名において教育を行う人々は,
そのさい明らかに国家の志操によって満されているにちがいない。・…だが国家の委託を受けた人 々が国家と関連した志操だけを体験するということ,あるいは彼らが倫理的志操と世界観において 自らの中に担っているものすべてが,彼らの国家の志操の中へと取り入れられねばならないという ことは,考えられないことである。なぜなら,国家はたしかに特別に力強い文化要因ではあるが,
決して唯一の,あるいは最も深い倫理的精神力ではない」69)と。国家が教育意志を偽装しようとも,
それでもってすべての国民を支配できるものではなく,逆に自らの偽りによる反対給付を受けるこ とになる。なぜなら,教育者にとって国家権力は唯一の倫理的精神力ではなく,教育者が自らの倫 理的精神の自覚に到った時,教育者は偽装的な教育意志に抵抗を試みる。ここに国家の精神的諸要 求と国民の倫理的自覚との問に葛藤が生じることになる。シュプランガーは,こうした国家と教育 のアンチノミーを指摘しつつ,国家の当為的理念について次のようにいう。国家は「その意志形成 が市民の倫理的なすべての心性をできるかぎり制御しないように,自らの意志形成を行わねばなら ない」7°)と。しかし,ここにこそシュプランガーは現代の法治国家の意志形成の最大の問題を看取
してもいる。このことは,シュプランガーの民主主義国家についての具体的な言表の中に明瞭である。
自由主義的な民主主義の本質について,シュプランガーは次のように述べている。「民主主義的 国家形成の本質は,すべての成人が彼らの倫理的に方向づけられた意志を問われるところにあると 素朴にいうことができよう。しかし民主主義は,まさに倫理的理想と世界観との多元論に活動の余 地を残している。ただ民主主義は,むきだしの利害の多元論に対しても同じように勝手な活動の余
地を提供していることは別にしておこう。民主主義は,その本質にしたがえば闘争である。そして 誰れもが平和な総合の成功がいかに困難かを知っている」71)と。シュプランガーのこの言表は,民 主主義国家の幻想を打ち砕き,根本的な問題を指摘している。シュプランガーが, 「民主主義は闘 争である」というとき,それは,直接的な種々の政治的・社会的イデオロギーの闘争とともに,そ の背後にある倫理的・文化的闘争をも意味している。したがって,種々の闘争の調停をめざして,
民主主義的精神は忍耐力と寛容の精神,そしてなによりもドグマに拘束されることのない自由で開 かれた倫理的精神の形成を必要とするのであるが,シュプランガーは民主主義が可能な国家諸形式 の中で,一番操縦困難な国家形式であるとみなしている。たしかに民主主義的法治国家の複雑な組 織が調和的な政治的指導性をきわめて困難にしていることは事実である。だが問題は,この民主主 義の複雑さや調和の困難さに起因して「気づかないうちに政党の多元主義から一党独裁組織へ移 る」72)危険な傾向性を否定できないことである。こうしたシュプランガーの見解は,ナチズム政権 がワイマールの「大衆民主主義」の文化的・政治的基盤から生じたことを考えるとき,きわめて説 得力をもったものと受けとめられよう。
シュプランガーが民主主義の問題をくりかえし指摘し,「現実には民主主義はきわめてまれにし か成功しない」73)と述べるとき,その意味は,民主主義的大衆社会がその内容において空洞化され る危険な傾向をもつということであった。また,シュプランガーによれば,純粋な国家論や民主主 義論は現実的に影響力をもちえず,「むしろ種々のイデオロギーが支配的なのである。今日われわ れは,相対立するイデオロギーが自分達の旗のもとに文化過程を強制したがっている」741のを知っ ている。シュプランガーは,こうした政治的・社会的現実をふまえて,人々の政治的無関心を警戒
し,逆に文化現実としての政治形態を積極的に倫理化すべきことを主張する。シュプランガーは次 のようにいう。「諸政党やその他の集団形成物を破棄することが問題になるのではなく,これらの
ものを純化することが重要である。これらのものは,民衆の良心のその特性的根本をはっきり現わ すさいの具体化として自らを感じとるべきであり,利益領域の単なる代弁者とか,自分達の財閥の 番人などと感じるべきではない。このことがまさに『諸政党の民主化』という表現で考えられてい ることである」75)と。たしかにシュプランガーは,民主主義の政治システスが有能な官吏なしには 成立しないことを認めつつ,しかし有能な官吏だけが決して重要なのではなく,むしろ「民主主義 はそれがひそかに前提としているあの人間の類型が存在しないところでは,あまねく挫折せざるを えない」76)と警告する。この人間の類型とは,前述の「良心的人間」のことである。正確いうなら,
「倫理的品性を開示している」77)人間を意味する。この人間こそが,民主主義を理念と制度におい て支え,発展させる重要な役割を担っている。とりわけシュプランガーは,未来を担う青少年世代 における自由で倫理的な良心的行為に期待を寄せ,その行為の実践化を教育の一つの課題とみなし たが,しかし他方で,シュプランガーは,青少年世代の脆弱さにも鋭い批判を行った。「三十年来,
ドイッの青少年は,現在の政党が自分達の気に入らないといっている。・…だが青少年は,彼らが 一体,現在の政党のかわりに何を欲しているのか,他のどのような政党を欲しているのか,また一 般にいかなる政党も欲していないとすれば,それなら政党のかわりに何を欲しているのかを述べて はいない」78)と。このことでシュプランガーは,当時の青少年世代が政党的無関心に陥いり,そし てある種のドグマに取り込まれやすいという危険性を指摘したのである。
シュプランガーにとって,前述のごとく,文化とりわけ国家的・政治的制度は人間の意識のあり
方を規定するものであり,したがって彼は制度やそれに規定される意識を倫理化することが文化伝 達と文化創造としての教育の役割の一つと考えたのである。教育は現実の民主主義的制度のもとで の自律的・中立的なかつ真正の文化創造的意義を保持しなければならず,この意味での「教育の中 立性・自律性」を獲得することで,青少年世代は,民主主義的制度における種々の闘争を自律的か つ倫理的に調停する能力を獲得しなければならないのである。したがって,シュプランガーにおい て教育活動は,決して狭義の一般的概念で理解されるのではなく,広義の文化的・社会的現実の活 動に関連している。とくに注目すべきことは,シュプランガーが外部からの,とりわけ国家権力か らの志操の押しつけを排除しようとしている点である。こうした意味でシュプランガーにおける文 化問題と教育活動の関連は,「教育の中立性・自律性」という近代的な教育学の遺産を内包し,そ してこの遺産は彼において精神科学的な観点から基礎づけられているとみなすこともできよう。
注
シュプランガーの次の引用文献は略語で示し,それが「シュプランガー選集」に収められている場合には
(GS)として,(GS)の巻名を(Bd)で表わし,頁数を記すことにする。
:Lebensformen.8Aufl,1950=L
:Die Kulturzyklent』eor董e und das Problem des Kuiturverfal監s.1925(GS, Bd V)=KP
:Ist der moderne Kulturprozeβnoch lenkbar?1953(GS, Bd皿)=MI(
:Die wissenschaftlichen Grundlagen der Schulverfassungslebre und Schulpolitik.1928(GS,Bd I)
=WS
1)Spranger, Kultur und Erziehung.1919.
2)L−S.382.
3)Spranger, Das deutsche Bildungsideal der Gegenwart in gesc箆ichtsphilosophischer Beleuchtung.1926.
ln:GS, Bd. V, S.32.
4)WS−S.139.
5)Spranger, Vom Wissenschaftscharakter der Padagoglk.1957.1n:GS, Bd.皿.S.375.
6)L−S.382.
7)MK−S.346 8)KP−S.23.
9)KP−S.21.
10)KP−S.21.
11)MK−S.331.
12)MK−S.330.
13)L−S.396.
14)レS.397.
15)MK−S.342.
16)MK−S.344.
17)G・ジンメル,阿閉吉男編訳『文化論』 (文化書房博文社,1987),p.17.
18)KP−S.26.
19)KP−S.19.
20)KP−S.25.
21)KP−S.20.
22)L−S.397,
23)KP−S.23−24.
24)レS.399.
25)KP−S,25.
26)KP−S.20.
27)L−S.33−34.
28)L−S.346.
29)MK−S.346.
30)MK−S.338.
31)L−S.385.
32)L−S.347.』
33)L−S.380.
34)レS.381.
35)L−S.381.
36)L−S.381.
37)L−S.381.
38)MK−S.343−344.
39)MK−S.340.
40)MK−S.346.
41)W.Dilthey, Gesammelte Schriften. Bd. V. S.37.
42)西村晧『ディルタイ』 (牧書店,1966),p.231.
43)同上,p.231.
44)同上,pp.249−250.
45)レS.447.
46)L−S.409.
47)L−S.398.
48)L−S.398−399.
49)長井和雄『シュプランガー研究』 (以文社,1973),p.227.
50)レS.332,
51)Spranger, Das deutsche Bildungsideal der Gegenwart in geschichtspbilosophiscber Beleuchtung.1926.
監n:GS, Bd. V. S.73.
52)L−S.343.
53)Spranger, Die Generationen und die Bedeutung des Klassischen in der Erziehung.1924. h:GS, Bd.
1.S.75.
54)Spranger, a. a.0.,S.84.
55)WS−S.136.
56)WS−S,137.
57)WS−S.137.
58)WS−S.139.
59)WS二S.140.
60)WS−S.141.
61)WS−S.142.
62)WS−S.142.
63)MK−S.343.
64)MK−S.331.
65)WS−S.141.
66)WS−S.143.
67)レS.380.
68)WS−S,139.
69)WS−S,143.
70)WS−S.143.
71)MK−S.345.
72)MK−S.335.
73)MK−S.335.
74)MK−S.337.
75)Spranger, Deutschland und Europa.1951. ln:GS, Bd. V皿. S.349.
76)MK−S.345.
77)MK−S.345.
78)Spranger, Deutschland und Europa.1951. S.356.