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世界大学史と愛知大学

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(1)

酒井吉栄

〈愛知大学名誉教授〉

はしがき

愛知大学は、その創設にあたってどのように考 えていたかを知るために、愛知大学の設立趣意書 の一部を、以下に掲げておく。

愛知大事設立趣意書

我日本ハ長期ニ亘ル今次戦争ニ依テ物質的精神 的ニ荒蟻セシメラレ、殊ニ其結果ハ惨惜タル敗戦 ヲ招キ、正ニ壊滅ノ危機ニ立ツト云フモ過言デノ、

ナイ。

今斯ル壊滅ヲ免レントスルナラパ、事ヲシテ蕊 ニ到ラシメタル哲キ日本ノ誤レル指導ト積弊トヲ 一掃シ、新シキ日本トシテ更生スル道ヲ捧ブ外ナ

イノデアル。

宴ニ新日本ノ進ムベキ方向ハ富来ノ軍国主義 的、侵略主義的等ノ諸傾向ヲ一概シ、社曾的存在 ノ全範域ニ亘ツテ民主主義ヲ賞現シ自ラヲ文化、

道義、平和ノ新岡家トシテ再建スルコトニ依リ世 界ノ一員トシテ、世界文化ト平和ニ貢献シ得ル如 キモノタラントスルコトデナケレパナラナイ。

斯ノ如;キ我日本ノ新シキ出護ニ際シテ、首面解 決ヲ要スル諸種ノ問題山積スルト雄モ、就中、事 問、思想、文化ヲ旺ニ興シ、教養アル有馬ノ人材 ヲ養成スルコトノ\其ノ急務ニシテ最モ基礎的ナ ルモノ、ート言フベキデアラウ。我等相謀ツテ蕊 ニ愛知大皐ヲ設立セントスル所以ハ、質ニ斯ル客 観的要請ニ呼牒スルモノニシテ、一言ヲ以テ之ヲ 謂へパ世界平和ニ寄輿スベキ日本人文ノ興隆ト有 馬ナル人材ノ養成ト云フ梨i ニ壷キルノデアル。

第 I 章世界大学史の潮流

わたしの考えている愛知大学史の大きな特色 は、世界大学史の流れの中で考察するということ である。

大学の父たち一一フンボルト・フィヒテ・シ ュライエルマッへルと林毅陸・本間喜一・小 岩井浄

その最初の視点は、ベルリン大学の創設と対比 しながら、愛知大学をとらえるということである。

両者の創設の客観的実証的事実から、両者の創立 に大きく貢献した主要な人物を、わたしはアメリ カ憲法成立史において使用されている用語「憲法 の父たち( father

o f  t h e  

constitution)」にちなんで、

「大学の父たち(

f a t h e r  o f  t h e  

university)」と呼ぶ ことにしている。具体的には、フンボルト( Wilhelm

von Humboldt 

(1767-1835 ))、フィヒテ(Johann

G o t t l i e b   F i c h t e  

(1762-1814))およびシュライエル マツへル( Friedrich

E r n s t   D a n i e l   S c h l e i e r m a c h e r  

(1768-1834))がベルリン大学の父たちであった のに対し、愛知大学では、林毅陸(ハヤシ・キロ ク)、本間喜一(ホンマ・キイチ)および小岩井 博(コイワイ・ジョウ)がその人たちであった。

2. 二つの大学のおかれている客観的事実の 近似性

まず、ベルリン大学の場合をみてみよう。 1806 年、プロイセン国王フリードリヒ三世は、フラン

(2)

スのナポレオンに対して室戦布告をしたが、結局 戦争に敗北し、 1807 年屈辱的なテイルジット 条約(Tilsiter Friedensvertrag)を結ばざるをえな かった。その結果、テイルジット条約によりエル ベ河以西の領土を失った。その t、

億 4 千万フ

ランケンにも上る賠償金をフ。ロイセンはフランス に支払わなければならなかった。しかし、ウイル ヘルム三世は、メーメル(Memel )で、「わが国は、

その物質的な力において失ったものを、精神的な 力でもって補わなければならない」と力説した。

これを受けて、ウィルヘルム・フォン・フンボル トが 1809 年 2 月宗教公教育局長官の地位につき、

新大学ベルリン大学は、 1810 年の勅令によって、

その年の 9 月 29 日開学した。ドイツ国民の再建 の意欲は、きわめて旺盛であった。そしてその先 頭に立ったのが、「ベルリン大学の父たち」であ った。やがて、シュライエルマツヘルの提出した 提案が、 1816 年のベルリン大学学則となった。

もっとも、ベルリン大学の創立を通じて可能な限 り高等教育機関の改革を図ろうとする努力は、二 転三転している。

愛知大学の場合も、太平洋戦争の敗北に起因し ている。周知のように、 1945 (昭和 20 )年 7 月 26 日にポツダム宣言が連合国側から提示され、

8 月 14 日にポツダム宣言を受託し、 1945 年 9 月 2 日に降伏文書に調印し、サンフランシスコ講和 条約は、 1952 (昭和 27 )年 4 月 28 日に発効した。

この間の日本の実定法秩序は、占領下という特殊 性があらわになった。公法学、政治学的には、元 東大教授宮沢俊義のいわゆる「八月革命説J が一 般には承認されている。もちろん、学問的には、

戦争に閲する社会的大変動を、集中的に、統一的 に、法律的に規制するのは、国際法、その中でも 戦時国際法であるが、日本の場合は以下のような 経緯をたどった。この占領期間における日本の統 治体制は、いわゆる間接統治(

i n d i r e c t   g o v e r n ュ

m巴nt)であった。それは、連合国最高司令官も、

1907 年 10 月 18 日署名、 1910 年 1 月初日発効の「陸 軍ノ法規慣例ニ関スル条約(へーグ規約)」(日本

は 1911 年 11 月 13 日公布)の基本法の根本原則に 拘束されていた。その第三款「敵国ノ領土ニ於ケ ル軍ノ権力」は、 43 条「占領地の法律の尊重」

において「国ノ権力カ事実上占領者ノ手ニ移リタ ル上ノ\占領者ハ、絶対的支障ノナキ限、占領地 ノ現行法律ヲ尊重シテ成ルへク公共ノ秩序及生活 ヲ回復確保スル為施シ得ヘキ一切ノ手段ヲ尽スへ シ j と規定する。連合国最高司令官にはダグラス・

マッカーサ元帥が選任されたが、その権限は、対 外的には(当初は)極東諮問委員会( Far

E a s t e r n   A d v i s o r y  

Commission )という諮問機関にコントロ ールされるのみで日本に対しでも契約関係ではな く、無条件降伏を根拠にして、その権限の行使に ついては、日本側の異議を受容する必要がないと いう文字通りの最高のものであった。(「連合国最 高司令宮の権限に関する通達」)。その場合、降伏 は日本の統治権そのものを連合国の権力の下にお いたのであるから、連合国はみずからの手で直接 に日本を統治するか(直接統治)

( d i r e c t   g o v e r n ュ

ment)、あるいは日本の統治機構(政府)を通じ てこれを支配するかは選択的であったが、連合国 は間接統治を原則とし、特別の必要がある場合に おいてのみ例外的に直接統治を行うことにした。

したがって、連合国は指令(directive) (狭義)、

覚書(memorandum )などといういろいろな名称 をもっ指令(広義)を日本政府に発し、日本憲法

(旧憲法)の定める統治機構を通じてこれを実施 させるというやり方をとった。

このように、日本の政府を通じての間接統治が 原則とされたが、しかし直接統治の権限も留保さ れ、占領軍の指令は、ポツダム勅令とよばれた「特 別の法形式」によって旧憲法を超えた国内法的効 果を与えられた。司令官の命令は、迅速に履行す る必要があり、政府は、明治憲法 8 条により、

1945 年勅令 54 号「ポツダム宣言ノ受託ニ伴ヒ発 スル命令ニ関スル件」という緊急勅令(いわゆる ポツダム勅令)を制定し、「ポツダム宣言ノ受託 ニ伴ヒ連合国最高司令官ノ為ス要求ニ係ル事項ヲ 実施スル為特ニ必要アル場合ニ於テハ命令ヲ以テ

(3)

所要ノ定ヲ為シ及必要ナル罰則ヲ設クルコトヲ 得」とした。命令には、勅令、閣令、省令の形式 が認められた。しかし、実際には、この形式を用 いず、占領軍当局の指示に従って通常の立法手続 で改革が行われることも多かった。

マッカーサの改革が予想外に円滑に進行し、彼 の日本国民の闘での威信が高まるにつれて、「彼 の独走」も生じた。これに対するアメリカ本国や 連合国の批判も生じ、 1945 年 12 月 27 日のモスク ワ協定で、マッカーサをコントロールしうる極東 委員会(Far

E a s t e r n  

Commission)が設置された。

それはワシントンに設けられ、 1946 年 2 月 26 日 に発足したが、これによって日本の憲法構造や占 領体制の基本的変更に関して極東委員会の同意が 必要となった。占領前半期は、きわめて理想主義 的な状況の中で改革が行われ、日本の統治構造を 全面的に変革しようとする思想が占領軍の内部で も強かった。公職追放、財閥解体、農地改革、労 働立法の制定などもその表われであった。しかし、

米ソ聞での冷戦の深刻化とともに、占領政策も「現 実主義」に転じ、従来の日本の支配層をアメリカ の陣営に引き入れようとした。日本国憲法の制定 は、占領初期の理想主義的状況の最大の産物であ

り、その集大成といえる。

愛知大学の創立もまたこの時期と完全に一致し ていた。すなわち、 1946 年 8 月 1 日に愛知大学 設立認可趣意書の提出、 1946 年 II 月 3 日の日本 国憲法の制定、そして 1946 年 l l 月 15 日に愛知大 学設立の認可が続いたのである(詳細は、酒井吉 栄「愛知大学の構造、特質および歴史について 一一一マクロの世界とミクロの観点から J 、『愛知大 学史紀要』、第 4 号、トIO 頁、 2001 年)。

3. 太平洋戦争終結後(占領統治下)の 大学管理体制

通常の場合、日本における私立大学の新設は、

監督行政庁である「文部大臣の認可J が要求され る。認可には、 (I }大学そのものの認可、(2}大学設 置主体の許可(旧法一大学令(大正 8 年)では、

民法の財団法人)、(3)学校法人の認可(現行法)

があって、所定の必要な手続をふまなければなら ない。しかし、敗戦国が占領されている場合、

その上に圏内法に優先して連合国最高司令部の法 的強制が加わる。覚書(memorandum)・指令

(directive)が優位するのである。

CI & E (  C i v i l  I n f o r m a t i o n  a n d  E d u c a t i o n  S e c t i o n )  

および GHQ

(General  H e a d q u a r t e r s ,   Supreme  Commander f o r  t h e  A l l i e d  

Powers)が、連合国最高 司令部と一体となって戦後日本の教育の指導管理 にあたった。より具体的にいえば、民間情報局の 教育課が 1945 年 11 月 26 日以降、日本の文部省と 連絡をとりつつ、また時には独自に当該問題に関 する情報を収集し、実情を調査し、政策を立案し て GHQ/SCAP に対して助言した。その課長であ るマーク T. オア(Mark

T .  

0汀)は指導者として 活躍し、その活動方針として「日本の教育制度の 全領域からの軍事訓練を含む理論上および実践上 の軍国主義および超国家主義の除去J あるいは「教 育機関の再開、容認できない教員の交替および教 育課程」がふくまれていた。

愛知大学の場合、具体的には、どのような規制 管理が現実に実施されていたのであろうか。前述 したように、ここにおいても間接統治と直接統治 との交錯が見られる。すなわち、 (I }民間情報局と 文部省、(2)民間情報局と愛知軍政チーム(Aichi

M i l .  G o v .  

Team)、という二重のルート構造となっ ている。

愛知大学設立認可申請書は、 1946 (昭和 2I) 年 8 月 l 日付で、愛知県知事桑原幹根を経由して 文部大臣田中耕太郎に提出されていた。申請手続 の書類審査過程でまず問題となったことは、 r大 学設立委員」が教育職員として適格であるかどう かについての「適格審査委員会」の審査判定であ った。その経過をみると、まず、 (l )教育職員の資 格判定は、全国各地にある適格審査委員会があた る。愛知大学の場合は、東海地区学校集団適格審 査委員会が適否を判定する。つぎに、(2)学校を経 営する法人の役員は、文部省内にある中央適格審

(4)

査委員会が判定する。後者につき、愛知大学設立 委員林毅陸・本間喜ー・横田忍三名は適格の判定 があった。しかし、 GHQ は、三名がいわゆるポ ツダム宣言第 6 項( G 項)該当者(好ましくない 人物の公職よりの除去に関する覚書( Memo­

randum c o n c e r n i n g  Removal and E x c l u s i o n  of Unュ d e s i r a b l e  P e r s o n n e l  from P u b l i c  O f f i c e ,  J a n .  4 ,   1 9 4 6 ) )  

により疑あり、として中央適格審査委員会に再審 査を命じた。この件について、文部大臣田中耕太 郎(東大教授)、我妻栄らは GHQ に出頭して説 明し、その結果、適格の判定を受けた。

占領終結後、アメリカから日本へ返却された「国 立国会図書館資料」 1265-7750、 17 の主題「愛知 大学の関学」(The

Opening of t h e  A i c h i  U n i v e r s i t y )  

は、次のように記録している。

(1)  東盟同文書院大学(Tung

Wan U n i v e r s i t y )  

は、中国研究においてその優秀さのために有 名であった。この観点を継続するために、愛 知大学は計画された。

(2)  引揚教授および学生に関する文部省の問題 は悶難な問題であり、この大学の設置によっ て、当時もっとも現実的な方法で、事態を解 決している(

which t h e   e s t a b l i s h m c n t  of t h i s   u n i v e r s i t y  s o l v e s  i n   t h e  o n l y  p h y s i c a l  way of t h e  

time)。

(3)愛知軍政部( Aichi

M i l i t a r y   Government 

Team)のパーカーは、その学校は継続され

てもよく、結局、評判のよい大学となること カfできる。

以上の結論として、大学の開学は認められるべ きだとされた。しかし、地方担当将校は、特に、

本間と同校との関連についてさらに調査を継続 すべきである(横浜のマクカロム大佐事務所

( M r .   McCulloms 

office)のハースウェイ( Miss Hartheway)の供述による。)

4. 東E同文書院大学と愛知大学との関係 一一「デ・ユーレ」(de jure )と

「デ・ファクトオ』(de

f a c t o )  

総司令部民間情報部(局)の調査の最も重要な 結論は、「愛知大学は、いくらかの人によっては、

誤解されていると思われるが、しかし、愛知大学 は以前の京城帝国大学の再建でもなければ、以前 の東亜同文書院大学の復活でもない」(The

A i c h i   U n i v e r s i t y   seems t o   be misunderstood by some  p e o p l e ,   b u t  i t   i s  n e i g h e r  a  r e c o n s t r u c t i o n  of t h e  f o r m e r   K e i j o  I m p e r i a l  U n i v e r s i t y  n o r  t h e  r e v i v a l  of t h e  f o r m e r   Toa Dobun S h o i n  

College. )ということであった。

さらに、愛知大学は、学問の範曙の最も進歩的な 価値のある大学の一つである。愛知大学の関係し ているものは、上海校と結合させられているが、

しかしながら、その軍国主義の復活に関心がある という証拠は何もないということであった。

さて、制定法的に見れば、 1901 (明治 34 )年 関学の東亜同文書院も愛知大学も、時期は異なる けれども、旧制大学として「大学令」(勅令)

( 1 9 1 8  

(大正 7 )年)によって創立せられたものであって、

別個の大学であり、設立の建学の精神も必ずしも 同一ではない。東亜同文書院は「大学の道」に学 び「日中輯協(友好協力)の基礎を固めるために 必要な人材を養成することにある」(根津ー)の であり、その「デ・ユーレ」としての次元では異 なる。が、しかし、実体的にして事実的にみれば

(特に直後の名古屋大学法経梼学部の設立後、と くに京城帝国大学教授の構成員の転出後は)、同 文書院の共同体的実体が存在し、その主流をしめ る日中研究の課題は、愛知大学にひきつがれ、中 国法政コース、中国経済コースとして継承され、

さらに 1994 年の大学院中国研究科中国研究専攻、

1 9 9 7  

(平成 9 )年の現代中国学部の開設をみると、

デ・ファクトォの次元では同一性を否めないであ ろう。このような「デ・ファクトォ説」と「デ・

ユーレ説」の見解を示したのは誰もいず、わたく しのみである。

(5)

第 II 章ベルリン大学の父たち

.フンボルトの大学観

フンボルト( Wilhelm

von Humboldt  (  1767‑

1835 ))は、 1767 年 6 月 22 日ポツダムで生まれ、

1835 年 IO 月 8 日テーゲルで死亡した。かれの大 学観および教育思想、は、かれがおかれている諸条 件とその内在的思想の相互的関連において弁証法 的に発展している。フンボルトの教育に関する基 本的理念は、「自由な個人」すなわち、「人間とし ての自己の尊厳性」を自覚し、「自己の可能性」

をできるだけ展開させようと志す人聞を教育する ことであった。つまり、役に立つ農民、有能な職 人、忠誠で勇敢な兵士の育成を目指すことよりも、

一個の人間としての完成をはかること、すなわち、

職業や身分とは関わりなく、一個人としての自己 を完成させようとする意識を各人の内より引き出 すことを教育の主眼であると考えていた。「子供 を教育するに当っては、ただ、読み、書き、計算 ができるようになりさえすればよいと考えるので はなく、児童の肉体と精神の能力がすべて、可能 な限りよく調和して発展することを目指さなくて はならない。そして、子供が聞き、語り、行なう ことのすべてを、あらゆる瞬間になぜそうすべき であって、それ以外のことをしてはならないのか、

十分に意識するよう指導しなくてはならない」、

と。フンボルトは、当時の覚え書にこのように記 している。

また、 1809 年 12 月 l 日付のプロイセン国王宛 のフンボルトの報告書には、「国民の一人一人が、

その職業に関係なく、それ自身一個の誠実でよき 人間であり、市民であるときにのみ、各人はよき 職人であり、商人であり、兵士であり、政治家で

ありうるのであります」と書きしるしている。

フンボルトの考えたような学校制度の改革は、

旧来の身分制度に応じた教育体系を否定し、理念 的には、教育を万人のために解放するという階級 打破の方向を強く打ち出すことに狙いがあった。

このことと関連して、学校教育は「有用な知識」

を生徒に授け、国家、社会に直接「有益な人材」

を養成すべきであるとする従来の「功利哲学」に 対しても、フンボルトの立場は、真向から挑戦し たことにならさ守るをえない。

シュタイン・ハルデンベルクの改革の頃は、進 歩と反動のごつの潮流が激しく渦巻き、互いに隙 を狙っていた時代であった。教育問題を担当する 国家教育審議会の委員長に、当初、ヴオルフを予 定したが、拒否された。ヴォルフの辞退の理由は、

大学における講義と自己の研究以外には、時間も 精力もさけないということであった。結局のとこ ろ、シュライエルマツへルがこの委員長に就任す ることを受託することになった。プロイセンとい う国家を改革しようとする意欲にもえているシュ ライエルマッヘルは、他の進歩的な意見の持主と も提携して、フンボルトの意を体し、あらゆる方 向からの反対意見と戦い、フンボルトの教育哲学 の実現に努めた。

フンボルトの大学構想に関しては、 1819 年の

「ベルリン高等学問施設の内的および外的組織に ついて」のなかに、その根本思想の特徴があらわ れている。まず、第ーの特徴は、その学問観、す なわち「学習」についての彼の新しい理解である。

フンボルトは学聞をもって、「未だ完全には見出 されてはいないもの」、「決して完全には見出され えないもの」として認め、かかるものとして絶え ず追求すべきものであると捉えた。

そしてつぎに、フンボルトは、「教授と学生」

との相互関係をソクラテスの対話における同等の 権利をもっ人びとの対崎に見出している。フンボ ルトは、新人文主義的立場から実利主義に抗議し ている。彼は、大学を教育機関としてよりもむし ろ研究機関としてみなす立場であるが、それはむ しろ、フィヒテの理念に近いであろう。しかし、

フンボルトは、フィヒテと必ずしも同じではなく、

高等学問機関の国家からの独立を主張した。フン ボルトによって形づくられ、表現された文化国家 とは、文イじの支配、国家の形をとった文化の自己 表現であり、国家は、文化を積極的に庇謹するば

(6)

あいにのみ、文化国家となる。国家は、国民が自 由にかつ多彩に真の学問をすることができるよう に義務を有するが、純粋に精神的なものとして、

国家をはるかにしのぐ学問に対しては、干渉する ことは許されないのである。この点、シュライエ ルマツヘルと同じ思想をもっていると思われる。

2 .  

ドイツ理想主義、新人文主義

1800 年頃の大学論者たちは、当時の指導的知 識形態であるドイツ理想主義、新人文主義を土台 として自分たちの基本原則を立案したのである。

シェリング、フィヒテの大学論では、市民社会が 大学の敵対者として現われるが、フンボルトとフ

イヒテは、支配権力としての国家一一官官、として の国家一一ーには抵抗しない。むしろ、国家は協力 者と考えている。フンボルトは、 1802 年から教 育大臣(Minister

o f  

Education)であり、 1810 年、

またフンボルトはプロイセン改革行政の教育大臣 であり、彼の最も重大なる達成は、ベルリン大学

( U n i v e r s i t y  o f  

Berlin)の創設であった。フンボル トの自由主義の顕著な特徴は、その人文主義にあ る。彼は市場経済( market economy)を認めたけ れども、 laissez

f a i r e  

(自由放任)の弁護者ではな かった。フンボルトはミル(John

S t u a r t  

Mill )の“On Libe向r”を鼓舞したし、また、ヨハン・ペスタロ

ッチ(Johann Pestalozzi )の教育原理に影響された。

後に、彼の思想、は、根本的にはヨーロッパおよび アメリカの初等教育に影響を与えた。とくに、南 北戦争後のアメリカ留学生によってもち帰られ た。政治理論においては、近代自由主義の創始者

( f o u n d e r s  of modem 

liberalism )であり、また言語 学( philosophy

o f  

language)の創始者でもあった。

かれは、ペスタロッチの研究のためスイスを訪問 した。 ( The

McGraw‑Hill E n c y c l o p e d i a  of World 

Biography、 1973.

W i l h e l m  v o n  H u m b o l d t ,  by R i c h a r d   C .   C l a r k ,   4 1 4 ,   Routledge  of Encyclopedia  of  P h i l o s o p h y ,  G e n e r a l  E d i t o r :  Edward C r a i g )  

ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ( Johann

G o t t l i e b   F i c h t e  

(1762-1814))は、ドイツの倫理的理想主

義の哲学者である。 1662 年 5 月 19 日借地農(小 向作農)の子として、 Rommenan に生れた。ウィ ッテンベルクとライプチッヒで学んだ。自我と世 界(self

a n d  

world)の根拠としての絶対我 (infinite ego)の精神的活動を仮定した。フィヒテは、人 間の生命は、哲学の実践的格言によって導かれね ばならないことを信じた。フィヒテは、 1810 年 エルランゲンとケーニッヒスペルク大学で二期に わたって教えたのち、哲学部の学部長に任命され、

後にはベルリン大学の学長に任命された。彼の哲 学は、急速にシェリングとへーゲルの哲学によっ てとって代られた。へーゲルは、シェリングと同 じように、カントの道徳哲学についての彼の体系 を基礎づけている、カントの哲学のための継承者 (h巴ir)であった。フィヒテの著作に関する重要 な研究は、 H. C. エンゲルプレヒト( Engellbrechte) である。エーレン・ブリヒ・タルポット『フィヒ テ哲学の基本的原理(原則)』( 1906)があり、そ してフレデリック・コープルストーン『哲学史』

二巻、 7 巻、( 1946 )がある。理想主義の歴史的 背景の再評価は、ヨサイア・ロイス(Josia Royce)の近代哲学( 1892、 1967 再版)やヨハ ン・ヘルマン、テンダールの哲学の道( career)

2 巻( 1965 )がある(文献は、 The

M c G r a w ‑ H i l l   E n c y c l o p e d i a  o f  W o r l d  B i o g r a p h y  

4-5 と亀山健吉『フ

ンボルト』 525 頁、中公新書、 1978 年によった)。

フィヒテの大学論は、カント以来展開されてき たドイツ的大学論の潮流に属する。フィヒテは、

ペスタロッチ(Pestalozzi) の教育法を大字に適 用した「哲学的大学の理念」の黄金時代の労作で ある。ベルリンに創設する予定の高等教育施設の 演揮的計画とフィヒテの演説「ドイツ国民に告ぐ」

( F i c h t e ,  Reden a n  d i e  D e u t s c h e  N a t i o n ,   1 8 0 7 ‑ 1 8 0 8 )  

は、かれの根本的思想を明確に表現している。「既 存の知識の習得ーではなく、未来の生活のためにそ の知識を応用する技法であり」、いいかえれば↑吾 性使用の技法(技術)を形成することが必要であ

る。

フィヒテの大学講想の背後には、市民社会から

(7)

隔離された学生こそ、後の公的生活につく場合、

いっそう大きな価値を発揮する学問の士官学校、

学聞の修道院一一現実を超えたところから現実を みる一ーのような倫理的厳粛主義があった。

フィヒテの国家観は、一生のあいだに、変転を とげている。後年になると「文化関係への方向転 換」が行われている。かれは、「 19 世紀プロテス タンテイズムの最も影響力のある思想家であっ た。」(

t h e  most i n f l u e n t i a l   T h i n k e r  o f  1 9 t h  

Cen加ry

P r o t e s t a n t i s m )  R o u t l e d g e ,  E n c y c l o p e d i a  of  P h i l o s o p h y ,   G e n e r a l  E d i t o r :  Edward C r a i g )  

最後のフリードリヒ・エルンスト・ダニエル・

シュライエルマッへル( Friedrich

E r n s t  D a n i e l  

Schlei巴rmacher

(  1 7 6 8 ‑ 1 8 3 4 )  

)は、 ドイツ神学者 であり、また哲学者であった( 1768-1834 )。かれ は、自分の内部に神の存在が生じている人間の意 識(mans consciousness)を主張した。すなわち、

すべての道徳性( morality )は自分の心で、人間 の肉体的性質(mans

p h y s i c a l  

nature)を統一する 企てがあることを信じている。かれは、 1768 年

1 月 21 日に生まれ、 Moravian

c h u r c h  

school で教 育された。そして、 Doubting 地方のパスターにな る運命にあった。最初カント主義(学派)の哲学 とその後:プラト一、パスカル、スピノサ、またヨ ハン・ゴットリープ・フィヒテの思想を吸収する ことになった。かれは、初期ベルリンのロマン主 義者(romantics )の一人となった。かっ、とくに、

フリードリヒ・フォン・シュレーゲル( Fri巴drich

von 

Schlegel) と交探した。 1799 年に、かれは、

有名な Reden

i i b e r   d i e  

Religion を出版した。その 中で、宗教は道徳と知識から離れ、分離出発する べきことを主張した。かれの“Grundlinien

e i n e r   K r i t i k  d e r  b u i s h e r i g e n  Sittenlchre ”(

1803 )は、哲学 的著作であった。そして、それから 1809 年まで Halle の教授となった。その後、彼が Berlin に移 った。そして 1834 年 2 月 12 日にかれの死亡まで、

そこに滞在した。

シュライエルマッへルは、 19 世紀のプロテス タンテイズムの最も感化力のある思想家であっ

た。しかしながら、哲学においては、彼は、 G.

W. 

F. へーゲル( Hegel )の影響を受けた。シュラ イエルマツヘルは、これまでの充実した基礎の上 に自分の宗教的信念を確定するために努力したの であった。このように、かれは、啓蒙の信奉者(a

c h i l d  o f  t h e  

enlightment)であったし、また最終的 には、自我(the ego)もしくは個人を想定してい たと考えられている。彼は、またロマンティック な考えの持ち主であった。この考えは、プロテス タント的説得を核心とした。個々の意識は、何が 信念に対して正しかったか、何が道徳において善 であるかについての究極の基準であった。

シュライへルマツヘルの主張した宗教は、彼が 絶対的に従属(依存)していた感情の人間(the

f e e l i n g  

man)から生じている。かれは、この基本 的観念から彼の神学の構造(Structure

o f  h i s  

theology)を築こうとしている。かれは、キリス

ト教( christianity)を人聞における最も高い段階 のー神論の主張( the

mono t h e i s t i c  

urge)であると 考えた。キリストのために、シュライエルマツへ ルは、調停者の役割( role

o f  

mediator)を考えた。

それによって、ジーサスの神性 (indivinity

o f  

jesus)とがもっ彼の主体性に関する最も大きな難 問から逃れている。かれは、罪についての伝統的 なキリスト教徒の原理(

t r a d i t i o n a l   C h r i s t i a n   d o c t r i n e  o f  

sin)を解釈し直した。正統イじされたキ

リスト教の考えによって、天と地(hell

a n d  

heaven)の最後の審判(

l a s t  

judgment)は下された。

シュライエルマツへルは、 19 世紀と初期 20 世 紀の後期宗教思想の前兆( foreshadowed)となっ た。自然的かつ超自然的宗教の興起(おこり)に かんする(rise

o f  n a t u r a l  a n d  s u p e r n a t u r a l  r e l i g i o n )  

かれの原理は、後期の進化理論( later

e v o l u t i o n a r y  

theories)の予兆(

foretaste)である。

かれの合理主義と超自然主義(rationalism

and  s u p e r  

naturalism )を橋渡しするための企てによっ

て、 20 世紀の倫理的文化運動は、活気づいたの である。

シュライエルマッへルは、宗教の研究のリスト

(8)

に載っている。彼のパイプルの歴史(historicity

o f  t h e  

Bible)に関する多くの研究は、ルドルフ・

パルティマン( Rudolf Bultmann)の思想に先行 (anticipated)した。エヌ・テー・テレンス(N.

T i c e  

Terence)の出版目録(Bibliography)

1966)は、

シュライエルマッヘルの文献を指導書として高く 推薦している。彼の生涯を、リチヤード・ B. プ

ラント(Richard

B .  

Brandt)は検討している。シ ュライエルマツヘルの哲学( 1941 )とドウスン-

R ジェリ( Dawson

F .  

Jeロy)、シュライエルマッヘ ルをナショナリストの進化(The

E v o l u t i o n  o f   N a t i o n a l i s t )   ( 

1966 )として討議している。

シュライエルマツへルのベルリン大学創立に関 する主要、かっ有名な文献は、 1808 年にまとめ 上げられた「ドイツ的意味における大学について の随想」である。「ドイツ的意味J というのは、

わたしの解する限り、 1800 年の初期の時代、戦 勝国フランス(ナポレオン)は、かれがフランス で行い、また、プロイセンにおしつけようとした たんなる職業人養成を目的とする〔専門学校〕的 発想ないし政策の非ドイツ的=ナポレオン的、フ ランス的の否定と考えられる。シュライエルマツ へルは、フィヒテの同僚であり、かつ大敵であっ た。シュライエルマツヘルは、原理的にはドイツ 観念論哲学の学問観に賛成したが、しかし、大学 政策上の現実的事項については、最初から〔既存 のもの〕に対しては妥協していた。かれは歴史的 に生成したものに対する「ローマン主義者」

(Romantiere)への畏敬の念でもあった。かれの 就任については、すでにのベた。そこで、かれは、

基本的な考え方についても、新人文主義、理想主 義的ドイツ観念論の人びととも原則的な点で違っ ている。かれによれば、「大学は、何もかも学ぶ ところではなく、『学習の学習』(

d a s  Lemen d e s  

Lemens)を学ぶところ」である。かれは、「研究

と教授の統一」という原理を否定する。当初から、

大学に対しては、学識を必要とする職業分野で活 躍する有能な官吏を養成すべき高等専門学校とし ていくことも目指している。国家は、大学が同時

に、高等専門学校の役目も同時にもつように組織 されるべきである。優秀な学生も、そうでない学 生もいっしょにして、教育すべきである。今日の 時代は、科学についての貴族階級の教えを減すべ き時代ではない。シュライエルマツヘルは、古い 制度に『新しい精神を吹きこもうとする意図』、

すなわち、大学改革の道を選んだ。もちろん、大 学は哲学の授業がすべての授業の根本である。そ こでは、「学問のために学聞をする」のである。

この論争をもとに、哲学部が成立する。科学者の 団体としての本来の大学は、まさしく哲学部であ る。これに対して他の三学部(神学部、法学部、

医学部)は、いわば高等専門学校である。既存の 大学制度改革の最終的決定までには、二転三転し たが、シェルスキをはじめ、ベルリン大学創立の 研究者は、ベルリン大学の父たちの主張の中で、

ベルリン大学は最もシュライエルマッヘルの構想 に近いと結論している。ともあれ、ベルリン大学 の実現は、けっきょく、シュライエルマツヘルの 構想に帰せられている。制度的には、 1816 年の ベルリン大学学則となった(酒井吉栄『学問の自 由・大学自治研究』 1 10-111 頁)。

第回章近代ドイツ大学のアメリカ大学へ 及ぼした影響

.アメリカ大学へ及ぼした影響

アメリカの産業革命は、南北戦争の( 186 ト 1865 )の前後の頃、東部では、 1840 年代、西部 では 1860 年代であった。 19 世紀の閥、人口の増 加は 6 倍であるが、高等教育機関は 20 倍、学生 数は 47 倍であった。事実、 19 世紀の 70 年代から、

アメリカは、ドイツ大学を模範としながら、高等 の学問研究をみたそうとした。アメリカからドイ

ツへ留学する者は、 60 年代においては、 300 人、

70 年代においては 1,000 人、 90 年代においては 2,000 人に達している。アメリカの若者はドイツ の大学にひきつけられたのであった。ドイツの大 学では、一般には、〔真理〕として通用していても、

(9)

必ずしも究極的な真理とは限らず、絶えざる探究 によって修正される可能性があるから、より根源 的創造的な研究を強調した。このような学風は、

1876 年の Johns

H o p k i n s  

University の創立となっ た。人はこの大学を「パルティモアーのゲッテイ ンゲン」とよんでいる。これは、 ドイツ型研究大 学の類型である。しかし、アメリカ独自の大学理 念とされる実用主義的社会奉仕的大学範型も現わ れた。

2. アメリカ大学の二元的類型と一元的類型 アメリカの大学は、植民地時代の末期頃までに、

イギリスの大学、いいかえればオックス・ブリッ ジ型の伝統から次第に離れ アメリカ独自の制度 を形成してきた。そしてそれらの特徴の中、素人

(部外者)管理( lay government)制度の原型をっ くり上げている。

現代アメリカの殆どすべての大学は、絶対的権 限を有する一元的理事会によって管理されている といわれている。アメリカ独立革命後、大学制度 もまた東部から西部および南部へ広がったが、そ の場合、モデルとなったのは、イエールとプリン ストンである。イエールの教授団は、プリンスト ンにおいて理事会と正式に名称が変更された。こ こにおいては法律的には、理事会がカリッジであ り、実際教育にあたる者は、たんなる従業員であ る。

大学理事会の構成に実業家の比重がかかるよう にもなる。理事会は取締会であり、これが総支配 人(学長)を選ぶ。この総支配人がひとりひとり の従業員(教授)を雇う。法人企業の従業員であ る。大学理事会は、学外者であり、すなわち、研 究と教育においてはまったくの「素人」で構成さ れるようになる。

日本の大学法案は、日本の大学をアメリカの独 立法人の管理方式に変更するように求めたもので ある。一元的管理方式(カリフォーニヤ州憲法 9 条 9 項)は、公法人であるカリフォーニヤ大学理 事会( Regent

o f  t h e  U n i v e r s i t y  o f  

California)に委

ねられている。統治にかんする 8 人の構成員は、

理事会の憲法に明記するように、その信託(

t r u s t )  

の能率的な管理運営に必要なすべての権限をもっ ている(独立法人型)(寺崎昌男『日本における 大学自治制度の成立』評論社、 2006 年)。

第IV章林毅陸の史学における 戦争と平和の軌跡

国際社会における 20 世紀の最も主要なる平和 秩序のための機構は、周知のように、国際連盟

( L e a g u e  o f  N a t i o n s )   (  1 9 1 9 .  6 .  

28)と国際連合

( U n i t e d  N a t i o n s  O r g a n i z a t i o n )   (  1 9 4 5 .  6 .  

26)である。

これについては、林博士は、きわめて明確な分析 と統合をしておられる(林毅陸『欧洲最近外交史』

664-674 頁、慶応出版社、 1947 年)。けだし、「恐慌J は、その必然的結果として世界市場の争奪戦に駆 りたてた(宮本又次『日本経済史』 349 頁)が、

既に世界市場には「政治的縄張り」がある国は、

これはどうしても、背後から、軍備をもって裏う ちせねばならないと考えられた。これに軍閥が乗

じてきた。最も悲しむべき侵略主義と軍国主義が、

急に頭をもたげてきた。 1930 年の世界恐慌は、

資本主義制度の世界的不均衡を示した。

けだし、 19 世紀の始めのドイツにおいては、

資本主義の後進性の故に強力なブルジワジーの体 制は現われず、君権=官僚勢力と知識=教養階級 の妥協によって支配された。超国家主義のウイル ヘルム一世は、 1863 年、現在の大問題を解決す るには、弁論と投票のょくするところではなく、

鉄と血(blood

und 

iron)のみとするビスマーク

( B i s m a r k  O t t o )   ( 

1815-1893 )を、 1871 年、フ。ロイ センの首相として普填戦争、独仏戦争に勝利して ドイツ統ーを達成した。ここで、軍事を主な政策 とする国家、すなわち軍国主義が確立した。それ は国の政治、経済、法律、教育などの政策、組織 を戦争のために準備し、軍備力による対外発展を 重視し、戦争で国威を高める立場である。ピスマ ークは、帝国宰相となり、ヨーロッパ外交の主導

(10)

権を握り、三国同盟成立などで 90 年ウィルヘル ム二世と衝突し辞職した。

へルムート・モルトケ( Helmuth

Graf von  M o r t k e l )   (  1 8 0 0 ‑ 1 8 9  

l )は、参謀総長として普填 戦争、独仏戦争に大勝し、ドイツ帝国の統ーに成 功した。クラウゼウイツツ(Karl

von C l a u s e w i t z )  

( 1 7 8 0 ‑ 1 8 3 1  

)は、士官学校長(

d i e   a l l g e m e i n e  

Kriegsschule)としてまた参謀総長として軍事学 を(Kriegswissenschaft)を大成させた。彼の戦争 論は、「戦争は、他の手段をもってする政治の継 続である」といい、戦争は、敵を屈伏せしめて自 己の意思を実現せんがために用いられる暴力行為 (Gewalt)であり、すでにモルトケは、内戦にお ける作戦よりも断乎として多面攻撃を重視した。

ドイツだけでなく、日本においても高く評価され、

広く読まれてきた。 1871 年 4 月 16 日のドイツ帝 国憲法は成立の特殊な歴史的事情に基づき、政治 的軍事的必要に基づき、統帥権は、陸軍に対する も海軍に対するも問わず、平時戦時を問わず、普 遍的統一的にこれを帝国の国権に保留し、而して 皇帝をしてその最高直接の機関たらしめた。連邦 憲法 53 条および 63 条は、この点を明らかにする ものであった(中野登美雄『統帥権の独立』 23 ト 232 頁、 1973 年)。モルトケの多年の信望と勢力 の結果であった。大元帥主義は、 1814 年の王政 復古とともに復活し、君主主義の欽定憲法と相侯 って確定的基礎となった。兵権の独立は、戦争の 超法的性質に求められ、統帥は国法の外にあった。

ウイルヘルム二世即位後 1831 年クールへッセ ン憲法 107 条および 108 条は軍の最高首長として の国家元首を、大元帥として純軍務事項を陸軍大 臣の輔弼の外においた(中野・前掲書 129 頁)。

けだし、日本の場合、明治政府は初め、陸軍の 主脳として兵制の基礎を建てたのは兵部大輔大村 益次郎であった。その後、前原一誠をへて、山鯨 有朋が兵部大輔となった。山懸は、戦勝国である ドイツの兵制を視察し、その長所を理解し採用し ようとしたが、当時ドイツ語に通ずるものがきわ めて少なく、たとえ教官を求めても通訳がえがた

JO 

い状況にあった。そのため、依然として山鯨も仏 図式であった(坂本箕山『元帥山勝有朋』 359 頁)。

1 8 7 5  

(明治 8 )年以後における参謀本部の改革は、

プロイセンの組織を模範としたのであった。それ によって参謀総長が規則的雌曜上奏権を与えられ るに至ったのは、 1883 年からであった(中野・

前掲書 384 頁)。

.平和主義の回顧

平和主義についての重要な文献(提言)は、カ ントの永久平和論であろう。それによれば、①国 際法は、自由な諸国家よりなる 1 つの連合に基礎 をおくべきである。②世界市民としての人びとの 権利は、普遍的な歓待に制限されるべきである。

日本訳をした石井建吉は、ここで「カントの永久 平和論」の骨子は、ア.共和制の確立、イ.国際 法を遵守する諸国家による連合の設立、ウ.世界 市民法の確立、といっている。

カントの永久平和論は、第一次世界大戦後の(ベ ルサイユ条約の中での)国際連盟の生みの親、ア メリカ大統領ウイルスンに大きな影響を与え、第 三次世界大戦後の国際連合創設に引きつがれてい る。日本国憲法 9 条も、このカントの永久平和論 の理想、を掲げている。

2. 国際連盟と国際連合

ベルサイユ条約によって、第一次世界大戦は、

1919 年 6 月 28 日終結した。ウィルスンの提唱に よって作られた国際連盟の新組織は、規約の男頭 に「締約国は、戦争に訴えざるの義務を受託し」

といい、「戦争廃絶の意思を示し」国際間の紛争 はすべて「国際協力」によって平和的に処理する 方針を定めている。当時、世界の人びとに、新し い時代が到来したという感を抱かしめた(林『欧 洲近世外交史』 1-2 頁)。しかし、現実はそのよ

うにはゆかなかった。わずか 20 年にして第二次 世界大戦が始まった。その平和への願望の動機(原 因)となったのは、ベルサイユ平和条約であった。

条約は、アメリカ、イギリス、フランス、イタリ

(11)

ヤ四ヵ国のほか日本も加わり、五強国会議となっ た。 1919 年 l 月 25 日、第 2 回総会において、国 隈連盟の組織が取り上げられた。なお、条約は、「ド イツ皇帝処分問題J が上程された。前ドイツ皇帝 ウィルヘルム二世は、国際道徳および条約違反の 重大な犯罪を犯したるの故をもって、五大国選任 の裁判官からなる特別裁判所の裁判に付すること とし、このため、オランダに向い、皇帝の引渡し を要求することとした。しかし、オランダは、そ の要求には応じなかった。結局、この規定は無意 味に終った(林『欧洲近世外交史』下巻 348 頁)。

賠償問題については、ウィルスンは、賠償除外に おいて勝利をえた代りに、総額決定において譲歩 した( 1921 年に償金 1,320 億マルクと決定。 1930 年 6 月、賠償総額 358 億マルクに低下)。日本は 中国の山東において、経済上の権利を収めんとす るのみで、なんら政治的、軍事的野心のないこと を強調した(林・前掲書 351-352 頁)。 1919 年 6 月 28 日、ベルサイユ宮殿鏡の闘で、平和条約と

して調印せられた。

しかし、わずか 20 年にして第二次世界大戦が 勃発した。そしてその破綻の原因となったのは、

ベルサイユ条約にあったのである。無論ドイツは、

戦争の末、降伏したのではなく、軍部の巨頭ルー デンドルフ自身、勝利の望みを失い、みずから進 んで講和の承諾を促したのであったけれども、当 時、敵軍は、一兵たりとも、ドイツ領内に侵入し たのではなかった。一般国民は敗戦の現実を十分 感知せず、大国としての自負と意気は、なお盛ん なるものがあったのである。しかし、ベルサイユ 平和条約は、武力上徹底的に敗られて城下の盟い をなすに到ったような境遇にドイツをおき、自尊 心を牒闘し、これに桂桔を科し、窮屈な間の中に 塾屈を命じたのであった。フランスの大不満の中 心は、「平和条約の安全保障(security)の方策に 不満」であった。それはウィルスンの理想主義と クレマンソー(フランス)およびロイド・ジョー ジ(イギリス)の現実主義の妥協であった。苛酷 にしてしかも姑息、不徹底かつ高圧的であった講

和交渉、無益な侮辱、戦争責任の焼印を押した。

それは永統性のある真実の保障を欠く体制であっ た。国際連盟は、超国家(主義)ではなく、加入 各国の主権を尊重して成り立っていた。そしてそ の義務は、ウイルスンがいっているように、「道 徳的なもの」であった。制裁の決議をすることは できるが、しかし制裁の実行に参加すると否とは 各国自身の決定によった。武力強制の場合、連盟 は参加を強制しえない。林博士はその背後に駈引 があったことを注意されている(林『歌洲最近外 交史』 15 頁)。アメリカ自身、提唱しながら裏切 って離脱し放棄し去ったことは恥ずべきである

(林・前掲書 16 頁)。

不戦条約(Kellogg

B r i a n d  

Pact)は、 1928 年 8 月 27 日に調印された。ケロッグ自身も「不戦条 約アメリカ草案の中にはなんら自衛の権利を制限 しもしくは皇室損するものはない」といい、不戦条 約が自衛を除外するとの了解の下に戦争を否認 し、その放棄を宣言したことは、理想の告白にと どまり、なんらの制裁規定も含んでいない。しか し、国際的空気を緩和することには貢献した、と 林博士は認めておられる。

3. 国際連合機構(United

Nations  O r g a n i z a t i o n )  

これは、平和維持のための保障力、活動力が、

大いに強化されている。 1944 年 8 月 21 日より 9 月 27 日まで、ワシントン郊外のダンパートン・

オークスで聞かれた米英ソ三国会議において、 10 月 9 日、米英ソ華四国の名において発表された。

1945 年 6 月 26 日に正式の調印がされた。 1946 年 1 月 10 日から 15 日まで、第 1 回総会をロンドン で聞き、連合の中枢機関である安全保障理事会

( s e c u r i t y  

council) も同時に開催され、本式の活動 を始めた。理事会は 11 ヵ国よりなり、米、英、ソ、

仏および中華民国の五ヵ国が常任理事国であり、

任期 2 年である。非常任理事固としては、ポーラ ンド、オランダ、エジプト、メキシコおよびオー ストラリヤの 6 ヵ国が当選した。非常任理事国は

(12)

再選せられる資格はない(林『欧洲最近外交史』

664-665 頁)。

国際連合の目的および原則(第一章)

国際平和および安全を維持することである。そ してこのために、平和に対する脅威の防止除去、

ならびに侵略行為または平和破壊行為の抑圧のた めの有効なる集団的措置を執ることである。なら びに、平和的手段によりかっ正義および国際公法 の原則に従って、平和破壊の虞ある国際紛争また は事態の調整または解決を遂げることである。国 際連合の主要なる機関のうち、安全保障理事会は、

最も重要なる中枢機関であり、絶大なる機能を与 えられている。

理事会が武力行動の決議をする場合(42 条)、

加盟国は、武装兵力その他通行権を含む援助、な らびに便宜を提供する義務がある。理事会は、か くして、一種の参謀本部となり、国際軍(国連軍)

を動員させることになる。軍事参謀委員会は、常 任理事国の参謀総長またはその代表をもって構成 する(41 条)(林・前掲書 668-669 頁)。不戦条約 には、アメリカが認めた自衛権の留保があった。

その中に「すべての国は、いつでも、また条約の 規定にかかわらず、攻撃や侵入から自国の領域を 守ることは自由である」という文書があった。 51 条はそれをそのまま表現したものである。自衛の 措置は、必要な限度に限られるが、しかし、実行 にはその限度を越えて乱用される危検性がすくな くない。自衛権の発動は、安全保障理事会が国擦 の平和および安全の維持に必要なる措置をとるま での問、認められる。安全保障理事会が、そのよ うな措置をとった場合には、自衛権にもとづく措 置は当然停止しなければならない。したがって、

安全保障理事会が武力攻撃を加えた国に対して、

強制措置の発動を決定し、それが実施される場合 には、当然、自衛権にもとづく行動は停止されな ければならない(田畑茂二郎『国際法講義』下巻

(改訂版) 186-187 頁)。ここにおいて自衛権も歯 止めがかけられている。

12 

第 V 章 日本軍国主義・超国家主義の消滅 l. 太平洋戦争前概観

明治維新の特殊性について一一明治維新(

1 8 6 7 )  

(慶応 3 年)は、徳川幕府と天皇親政を建前とす る「薩長藩閥」の政権交代をした政治的クーデタ であるが、それ以上に経済的・社会的「封建制 J から「資本主義」への移行をした革命であった。

その特殊性は、日本資本主義の後進性と急進性に ある。実際の運動の表面に立ち、維新後も、資本 主義社会の中堅となったのは、「下級武士群」で あったために、イギリス、アメリカ、フランスの 革命とは同一視することができない。明治維新後、

急速に外国資本主義の高い水準と歩調を合わせな ければならなかった日本資本主義は、最初から官 営または保護助成策をとらねばならなかった。大 久保利通内務卿は、フランスのコルベール的な重 商主義政策をとった。明治維新は、封建的支配階 級の最下級と下級公卿と結んで変革の主体とな り、しかも封建的支配階級との妥協によって遂行 した。実際には、運動の表面にいた町人の財政的 控助もあったであろう。

明治 19 年以来、日本資本主義は前進しつつあ った。注目すべき事件は、日ロ戦争である。ポー ツマス条約の斡旋者であるイギリス=アメリカ は、満洲における日ロの均衡と満州の解放を要求 し、日本もまたこれに従った。日ロ戦争は、結局、

イギリス・アメリカは、日本への戦費 17 億円中、

8 億円を引受け、その代りに「対ロ戦争」実践を 日本に押しつけた(宮本文次「日本経済史』 327- 341 頁)。日本は産業資本主義の確立期に達した。

2. 明治維新と国際政治における外圧

ロシヤの南進、欧米列強の東進に伴う極東の国 際的緊張は、阿片戦争( 1840 )、太平天国の乱(洪 秀全)

1851 )などの中国の変乱で、国家意識を 高めるナショナリズムと国際的パワー・ポリティ ックスの論を撞頭させた(筒井・長尾「日本憲法 史」 8 頁、『明治維新史と西洋国際社会』所収 (1999)

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