行為︵邑只ゞ画&◎ご︶はボールの巡勤や猿の行動などとは区別された︑とくに人間の行勁︵冒日自冨冨急目︶とし
て︑古来から哲学で問題にされ︑その対象のおもなものの一つであった︒何となれば哲学でとくに論ぜられる人間生
活とは︑このような行為の染まりとみられるからである︒それは漠然と突我︵胃醸鼻言⑫︶あるいは活助︵齢具冒逗︶
と呼ばれ︑また両特を合わせた沼︑実践活助などともいわれる︒
われわれはこの行為をも科学的な考察の対象としたいのであるが︑それは物班学を代炎とする間然科学では扱いき
れない特徴をもつようにみえる︒自然科学の法則は因果法則として現われる︒それは因果関係l脱因と結果の関係
lを支配する法則である︒もちろん行為も人間という生物体の行効I連動として因果法則によって支配される︒人
間をたんに生物体として扱うのではない社会科学・人文科学においても︑そこを支配するのはやはり因果法則といえ
るであろう︒しかし人間の行為がこのような科学的考察によってとらえきれるかどうかには問題がある︒人間は主体
的存在といわれ︑恵志は自山であるとか︑行為は避択されるといわれる︒人間の行為がこのような側剛をもっている
1とすれば︑そのようなものはどのように魂明したらよいであろうか︒そしてその挽明の仕方は因果的挑明とどのよう
意図と動機
l行為の分析序章I
中
村秀吉
極のありかを問題にして︑武任の所在を明らかにしようとするものであろうが︑﹁行為﹂なる語の普通の川法とは一
致しない︒またかならずしもこのやり方で蛍任の間迦が解けるわけではない︒
しかしわれわれは行為の雅礎が当那者の肉体迎勤にあることを否定することはできないので︑つぎに行為とたんな
る肉体巡勁との差別の問題に移ろう︒この問題を︑きわめて印象的な比岫を使って明確に提出したのはウィットゲン
︵4︶シュタインである︒彼は﹁私が腕を挙げる︒﹂というのと﹁私の腕が挙がる︒﹂というのとではどのように違うかを問題
にした︒前者は行為であり︑後者はそうでないとしたいのであるが壱ここですぐ気付くことは前者の主語が個体とし
ての人間であるのに︑後考ではその祁分ないし器官だということである︒﹁手を挙げる﹂のと﹁手が挙がる﹂のとで
は手の迎勤としては一応侭別がないから︑扣逃はその主播にあるとしかいえない︒すると問題は︑いかなる場合に巡
勤の主体を個人としての人間に求めるのか︑ということになる︒
ところで︑﹁私が手を挙げる︒﹂とはいえないならば︑他人が私の手を挙げたり︑手を挙げるのに道具の助けを借り
るのであろうが︑他の助けを借りても﹁私が手を挙げたのだ︒﹂と主張できる場合がある︒教師が生徒に何か質問する
とき︑俎上の教師には﹁ああ︑手が挙がったな︒﹂としかみえなくても︑生徒にいわせると﹁おれが手を挙げたのだ︒﹂
ということになる︒してみると︑両肴の杣述つまり主揺の棚巡は︑外的なもの︑物体的なものに根拠があるのではな
く︑何か心的なもの︑怠志︵急三︶とか意欲︵ぐ◎胃ざ巳とかいうものに韮づくようにもみえる︒つまり意志あるい
は恵欲の介在が私をして私の手の巡勤の主体たらしめるようにもみえる︒
いまこれを認めたとして︑意志あるいは意欲の性縮およびこれとこれに伴う行為との関係はどのようなものであろ
うか︒まずいえることは︑意志・恵欲を意志の働き︵3三眉︶︑一つの心的作川として考えるとき︑これを一つの独
︵こ︾︶立した心的行為とみなすことはできないということである︒たとえばわれわれは考えようとすることはできるから︑
3
このことを︑労えることを蔵志することと解して︑どの心的作川についてもこれを通志することができると考えてみ『
4
しかしこのことは︑窓志作用はたんに愈志される行為︵厳横には肉体迎勤︶から切り離して細じられないというこ
とであろうか︒なぜなら︑私は手を挙げることを意志してもそれだけでは手は準がらないと考えることもできる︒あ
たかも私が自分の耳をいくら動かそうと愈志しても耳は動かないように︑腕の巡勤神経を切断してしまえば︑いくら
︵6︶腕を動かそうとしても動くものではない︒ウィットゲンシュタィンはいう︑﹁世界は私の意志から独立している︒﹂
﹁われわれの騒うことがすべて生起したとしても︑これは運命のたまものにすぎない︒なぜなら意志とこれを保証す
る世界との間には何の論理的関係もなく︑想定される現実的関係についていえばわれわれはこれを意志することがで
︵7︶きないから︒﹂これはデカルトの後に現れた機械因描︵◎︒8里︒p堅厨目︶と規を一にする思想であろう︒
この間組を解くには︑怠志・意欲と欲求・願望︵亀画昌冒寧烏望月︶との関係を考える必嬰がある︒なぜなら行為 の意志﹂の﹁・・⁝・﹂を埋めるべき竺川でないことを示すものであろう︒ る︒すると︑﹁⁝⁝を意志することを窓志する﹂ことも有窓味となり︑これをいかほど煙く統けたものも有意味になる︒しかしこのような言表を理解することはわれわれにはできないのである︒しかしこの理凪は︑﹁試みる﹂︵胃己︑﹁意図する﹂︵言扁且︶︑﹁選ぶ﹂︵号8の︶︑﹁欲求する﹂︵署画目︑烏叩司の︶等についても同様にいえる︒
意志ないし意欲を始め︑これらの心的作用が独立した心的行為とみなされない第二の理由は︑その意志・意欲を一
つ一つ特定することが困難だということである︒われわれは︑あることをなさんとする意志が明確であるとかないと
か︑愈志が強いとか弱いとかとはいう︒しかしあることをするとき︑そのことがいかほど脳難であっても︑ことに取
り掛からなかったり一時中止したりすることがないかぎり︑愈志が明砿かどうかは間脳にならない︒通志が強いとか
弱いとかいうのも困難に直面して現れるものにすぎない︒しかしかりにこういう規定を認めることにしよう︒愈志の
これ以上細かい規定はできるであろうか︒それを行なうたためには︑その意志を伴うといわれる行為︑つまり﹁・・⁝.
の意志﹂の﹁・・⁝・﹂を埋めるべき行為に言及せざるをえないのではなかろうか︒しかしこれは意志が独立した心的作
、
を伴わない欲求はいくらでもあるからである︒一杯のコーヒーが飲みたくても飲めるところにコーヒーがなくては︑
あるいは︒Iヒーが眼前にあっても支払うべき代金がなくては︑それを飲むことができない︒われわれの疑問は︑行
為への意志といっても︑あるときには欲求と同じものではないかということである︒﹁ノーベル食を狸りたい︒﹂とい
うのと︑﹁ノーベル貧を狸ることを意志する︒﹂というのとではどのように連うのであろうか︒
われわれは日常的に菰々の欲求をもっていることを知っている︒しかもそれらはしばしば矛暦する︵一方を実現す
れば他方は実現しないという意味で︶︒たとえばある学生は試験をパスしたいと同時にマージャンに誘惑を感ずる︒
彼が明日の試験の率術を始めようというときにマージャンの誘いの砥諦があったとする︒このときこの誘いを断って
勉強を始めたとすれば︑拭験をパスする欲求の方がマージャンへの欲求よりも強かったのであろうか︒あるいは古本
屋で希剛本を見付けたとする︒彼はその本を喉から手が出るほどほしかったが金がない︒しかも店貝は遠くにいて万
引をしても発見される心配はない︒それにもかかわらず彼は道徳律を守って空しく帰った︒これは道徳律への欲求の
方が希淑本への欲求よりも強いのであろうか︒かならずしもそうはいえない︒このときわれわれは意志の力でマージ
ャンや窃盗の誘惑に勝ったのだといわれる︒しかしマージャンに加わったり︑万引したりすれば︑意志が弱くて感並
的欲求に敗けたのだといわれる︒他方︑かりに相反する欲求がなく︑通徳祁も川題にならない場合︑欲求のままに動
いてもわれわれは意志の強弱︑いなその存否を︑問題にされないのである︒
この例からわかることは意志と欲求とが別物だということである︒なぜなら意志も欲求の一菰だとすれば︑それは
相反する諸欲求のうちで弱い一つに加担することによってその一つを実現させる欲求だということになる︒しかし一
方に加担することによってその方の欲求を強めるのならば︑どうしてわれわれの日常的欲求に反して人生の目的を追
求したり道徳神を守ったりする場合に閲難を感ずるのであろうか︒強い方の欲求に身をまかせるのならば附難はない
5
はずである︒迩志の存在は︑われわれの行為をはばむものと棚側的に側党される︒その行為の停止を含めて他の行為』
6
こうして行為とたんなる肉体巡動との差を意志なるものの介在の有無でとらえようとする試みがうまく行かないこ
とをみた︒これと遮った角度から行為を特徴付けようとしたものに︑やはりウィットゲンシュタィンの著名なことば
がある︒﹃君は倒分が手を挙げたのをどのように知るのか︒﹄l﹃それを感ずるのだ︒﹄すると君が認識するのは感覚な
のか︒またそれを正しく認識するのか︒君は手を挙げたことを確かだと思う︒これがその認識の判定規準・尺度では
︵︒︾︶ないのか︒﹄アンスコムはこのウィットゲンシュタィンの思想から出発して︑人間の行為は︑本来的には︑それをなす
当人に待別の観察なくして知られているのに︑物体的巡動は観察を経なくてはそれと分からない︑という郡実に韮づ
︽︶いて行為の特色を明らかにしようとする︒もっとも︑意図的になす行為といえどもかならずしも愈図通りには巡ばな
い︒フリーハンドで円を描こうとするとき︑それが実際に門に近い図形になっているかどうかは眼で砿かめなければ
わかるまい︒そこで﹁円を描く﹂という行為は観察なしに知られるものではない︒しかしウィットゲンシュタィンの
いうように︑有窓的巡助の特徴は驚きの欠如である︒つまりその連動の前に生起すべきことをあらかじめのべること ︵角輌︶への誘惑がないときに意志の鋤きを感ずるものではない︒われわれは机上のペンを取りたいと思い︑手を延ばして取る︒ただそれだけである︒別にそこには何ら特別な作用はない︒しかし手は延ばさなくてもよい︑ほかにやることはあると思い︑かつ手を延ばすときには凹分の意志でそうしたと思うのである︒
こうしてみると︑意志は行為に伴ってのみ存在することができ︑自分の行為についてみても︑あるときは自覚され
あるときは自覚されないようなものである︒行為なしに﹁月而に上陸することを意志する﹂ことはできない︒たんに
月面に上陸することを欲するだけである︒それは行為の要素的なもの︑邦分というものではない︒そこには︑肉体巡
助としての物的邪象とそれへの愈志・迩欲という心的T象との二靴があるのではないのである︒
2
I炉
、
7
たとえば他人の強制のもとに行なった行為は自発的・任意的ではない︒親分の命令で行なった殺人は強制されたも
ので本人の意志に反する︒しかし命令や強迫には絶対に反抗できないわけではあるまい︒少くとも命令に服するか服
さないかの行為の選択の余地はある︒しかし手をつかまえられてナイフをもたされ︑その手で相手を刺すところまで
やられたら選択の余地はあるまい︒しかしこれはたんなる肉体運動であって︑ほとんど行為とはいえないであろう︒
このような外的強制力は人間からくるものとはかぎらないので︑アンスコムのいわゆる心的原因︵ョ曾旦&扁巴の
︵嘘︶一部もそうである︒たとえば側助車が眼の前を疾走したので思わず後ずさりをしたり︑大きな音に耳をふさいだりす
る場合がこれである︒このような外的強制力によって自発的でなくなる行為以外に︑納神疾患や酩酊のような内的強
制力ともいえるものによって有意性・自発性を失う場合もある︒しかしこの場合にも有な性の喪失は穂度の間脳であ
る︒疾患についていえば限学の進歩によってその状態がより糀密に記述できるようになった︒布通性・自発性に漉庇
を考えることが可能なことは︑肺酊に程庇があることからみても明らかである︒
アンスコムは有愈的行為の中でとくに行為と呼ばれるのにふさわしいものを撰りすぐろうというのであるが︑彼女
の関心はたんにこのような行為の性質を記述しようとするところにあるのではなく︑行為に特徴的な説明の仕方を明 階のあることがわかる︒ ︵皿︶ができる︑ということは否定できないから︑一応この訴実を行為の基本的特徴にとっておく︒
しかし目党される肉体連動で︑はっきり行為の枠からはみでるものがある︒たとえば膝蓋反射がこれである︒膝蓋
反射のような不随意︵旨く◎旨口冨昌︶運動は︑当那者にはそれとわかるが思うようにならない︒しかしくしゃみや笑
いはどうであろうか︒これはある程庇不随意であるが︑ある程度思うようになる︒われわれは笑いをこらえたり作り
笑いしたりすることができる︒くしゃみもある腿度こらえることができる︒こうして不随激ないし不木恵の巡助・行
為から随意的・亦意的・自発的・任恵的︵いずれもぐ︒冒弓冨昌が当る︶などといわれる水来の行為まで︑中間的段
8
bb
bbらかにしようとするところにある︒一般にあることがらの説明とは︑それがなぜそのようにあるか︑なぜにそのようもbに起こるかに器えようとするものである︒自然的那象のなぜはその堺娩の原囚によって群えるのが杵通である︒しか
︑bし行為についてのなぜはその意図︵言蔚昌さ︒︶ないし動機︵ョ具冒⑦︶によって審えられると彼女は考える︒この川
は行為の脈因というよりは理由を尋ねることである︒行為の純明のタイプは因果描的純明というよりは側的術的繩明
ということができる︒しかしこの説明の仕方が典休的にどのようにかかわり合うかが間皿である︒
行為の意図は行為の目的︵旨﹃冒淵.︒g①︑二房ゞ里ョ21ざぐ篇電︶というのとほとんど迎いはない︒しかし將
通は目的は実現されるべき那態そのものをいうのに反し︑意図はその行為群がいだくもの︑あるいはその行為に叩し
︑9
8もも︑8もて考えられる何かである︒目的を実現されるべき那態とするならば恵図はむしろその那態を実現することである︒しかしその実現行為そのものを意図であると割り切ることはできない︒デヴィッドソンはその存在論的貸絡を汎カテゴ
︵︑﹀リー的︵晩冒o昌侭︒﹃㈹目昌旨︶であるという︒それは特定のカテゴリーに分顛されるべきものではなく︑謡の脈絡によ
って別のカテゴリーの下で解釈されるということである︒
われわれは行為を自党されるものにかぎったが︑脚党されても有意的でないものは意図的なものの中には入らない︒
しかしいま論じたように有意的・自発的なものの掩囲はかなり漠然としている︒ここでは一応できるだけせまくとる
ことにする︒すると他人からの強制によってなされた行為は自発的ではない︒このように自発的な行為の中で意図的
なものとそうでないものとを分かっことができる︒たとえば室内を歩き廻る癖のあるものが習仙的に室内を歩き廻る
ことは自発的だが意図的とはいえないであろう︒とくに何をするということもなくぶらぶらしているのも︑多くの場
合意図的ではない︒本来の行為・行為らしい行為がこの意図的行為︵ご蔚昌ざ昌一胃惑︒︒︶にあることは明らかであ
るから︑われわれはこの意図的行為の特色を究明せねばならない︒
基本的に亜要なことは︑ある行為が意図的かどうかはその綴かれた脈絡に依存するということである︒いま︑とく
9
に何をすることもなく︑ぶらぶらしていることは多くの場合意図的でないといったが︑烈しい労働の疲れを休めよう
としてぶらぶらするのならそれは明らかに意図的である︒歩いている友人に﹁どこへ行くのだ︒﹂と尋ね︑﹁学校へ行
くところだ︒﹂という答を得たとすると︑この答はこの友人の意図を表わすと取るのが普通であろうが︑たんに本来の
予言︵胃金島gざ旨︶をしているにすぎないのかもしれない︒﹁アメリカのヴェトナム戦争はかならず失敗する︒﹂と床
屋政談で客がいえば︑これはたんなる予言と取られるが︑同じことを北ヴェトナムの指導者がいえば︑これはこの指
導者の意図を表わすものと考えられる︒このようにしてある行為が意図的かどうかはその脈絡によるとすれば︑意図
的行為I意図十行為としてその意図をあるカテゴリーに入るものとみられないことがわかるであろう︒意図的汎カテ
ゴリー的だというのはこのような点からわかる︒
つぎに︑意図的行為は予言と同じくかならず未来に関するものであろうか︒まずいえることは︑意図的行為の言明
は予蘭ではないということである︒というのは︑その喬明が︑いわれたときよりも後で行なわれるべきことを語った
としても︑それはそのときの当那者のつもりを硲ったにすぎないので︑ことば通りことが巡ばなくてもその人は嘘を
︵M︶ついたことにはならないのである︒さらに︑意図的行為はかならずしも将来にあることを実現せんとするものではな
い︒たとえばデモによって政府の政策に抗離しようとするときには︑デモそのものが政府への抗鍍になるので将来の
ことに戒接関係するのではない︒もっとも大部分の激図が将来の目標であることは碗かなことで︑その実現のための
行為は将来にわたることになる︒
ある特定の行為について︑その意図はどのようにあたえられるであろうか︒一稀而単な仕方はなさんとする行為そ
のものを記述することである︒散歩に行こうとしているものの意図は散歩にある︒しかし後で詳述するように︑一つ
の行為は複数個の仕方で記述され︑その中の当乖者の自覚しているものについてのみな図が問題になる︒﹁スイッチ
をひねる﹂ことと﹁電燈を消す﹂こととが同じ行為でも︑前者は後者という意図を実現する手段であることはいえる
10
が︑その逆はいえない︒勉燈を消すためにはブレーカーを下ろしてもよいし︑送危線を切断してもよい︒部股の髄燈
が消えても︑これらのどれが実現するかは決まらないからである︒ある人が笑い︑相手がこれを瑚笑と解釈したとき
本人がこれを瑚笑とは目党していない場合︑﹁なぜ潮笑するのか︒﹂という間の意味はわからないであろう︒
意図は行為の特定の記述についての問題になるのみならず︑意図そのものもほとんど自覚されている︒元来意図は
本人以外には直接知れるはずもなくや他人は彼の意図をその行為の慨かれた怖況や実現された蛎態から推察するにす
ぎない︒︵もちろん当事者のことばで判断でき︑そのことばが信頼できればそれでよいわけであるが︒︶しかしその実
現された事態は意図そのものであるとはかぎらない︒こうしてある行為の意図を判定するのは当事者以外には容易で
なく︑この判定も当菰者の保証︵嘘をつかないという条件のもとで︶をまって始めてその真理を主張できる︒しかも
ごくまれには当事者が自己の行為の意図を自覚しなかったり誤認したりする場合もあるのである︒
︑bアンスコムは意図的行為とそうでない行為とを分ける規準として︑前者については当邪者になぜが有意味に尋ねら
︵坊︶れるのに︑後者ではそうでないことを準げる︒しかし彼女の場合︑心的原因はその客とはならない︒心的陳因とは︑行
為の脱因が外的那象よりも︑その外的聯象が当人に生起せしめた心的W采︵思想・感怖・知覚・記憶等︶である場合
もbにいわれる︒また彼女の場合︑なぜに対する打恵味な稗というのはかなり広く︑﹁とくに理由はない︒﹂とか︑﹁ただや
りたかっただけだ︒﹂というのでもよい︒つまり︑そのときの恵図はその行為そのものであって他にはないというので
もよいのである︒
意図とはいかなるものであるかをさらに深く問題にするときは︑似かよった概念として動機︵目昌く①︶が問魎にな
る︒動機は意図よりもいっそう洩然としており︑その性絡をつきつめるのはむづかしい︒意図との関係もかならずし
3
11
も容易にはわからない︒たとえば﹁彼は何であんな変な格好をするのだ﹂というとき︑﹁自己顕示欲のためだ﹂
と答えたとすれば︑これはこの異常な行為の動機をのべたものととるのが普通であるが︑﹁彼は自分を顕示する
bb︑
ために変な枯好をする﹂というとき︑この言明の前件は後件の恵図を示すような榊造をもっている︒もちろんこの意図は彼自身のいだくものと一致しないが︒それゆえわれわれは意図と肋機とをたがいにあいまって解明する必要があ
それはつぎのように脱明できる︒そもそも行為とは当蛎者にとって好ましくない状態・不足の状態から好ましい状
態・満足の状態に移ることだとシェーマティックにいうことができる︒その状態は主体そのものの状態lたとえば
腹が空いている状態から満腹の状態Iの場合も︑主体のおかれた蝋境の状態lたとえば道路のない状態から通路
の作られた状態lの墹合も︑両蒋のからみ合いの状態lたとえば職場で側いている状態から家で休恩している状
態lもありうる︒行為の説明とはそのような状態の変化をなぜくわだてるかということである︒それは好ましくな
い状態・不足の状態からの脱出によるか︑好ましい状態・満足した状態への移行によるか︑あるいは両者のからみ合 動機の火例をみると︑﹁虚栄﹂︑﹁復僻﹂︑﹁野心﹂︑﹁友怖﹂︑﹁後悔﹂︑﹁感州﹂癖︑心怖︵のgg旨己を表わすものが多い︒もちろん﹁復騨﹂はそのまま感慨を表すものではないが︑﹁なぜあの男は彼の父を殺したか﹂といわれて︑﹁復辨のためだ︒彼はあの男の父親を殺したのだ︒﹂と涛えるとき︑﹁復郷﹂は﹁復響心﹂とおき代えても大差はない︒それは﹁嫉妬に駆られてその男を殺した﹂というのと同じようなものである︒しかし﹁感謝の気持を表わすために︑彼女は彼を招待した﹂というときのこの言明の前件は︑彼女の行為の動機を表しているのだろうか︑意図を表わしているのだろうか︒一般に意図はこれから行なうべき︵ときにはすでに始めた︶行為やその結果もたらさるべき覗態をのべるものとして︑動機よりも具体的である場合が多いが︑これは絶対的な区別ではない︒しからばその差はどこにある
る
⑨
であろうか︒
12
いによって説明される︒しかしこの説明は脱出すべき状態を何がゆえに好ましくないか︑不足であるかをくわしくの
べる必要のないことが多い︒そのような叙述は多く困難であるし︑また可能でも煩顔になることが多いし︑本人も自
覚していない場合が多い︒また脱出すべき状態はすでに実現されている状態であるから︑それについてくわしく知る
必要がないことが多い︒問題はそこから脱出することだからである︒しかるに実現すべき状態は行為のめざす目標で
あるから︑ある程度限定しないとそこに到迷すべき意図的行為の形が決まらない︒こうして前者は︑野心であるとか
友惰であるとかいう行為へ駆り立てる動機として示唆されるにとどまる場合が多いのに︑後者は︑意図としてかなり
の限定を受けたものとしてあたえられるのが普通となるのである︒したがって動機は行為の回顧的理由︵冨異弩卸a︲
︵肥︶﹈8蚕晶﹃の画︒︒︶︑意図は展望的理由︵さ﹃三国氏︲−8蚕眉﹃①画8口︶ということができる︒
以上の説明は動鰻と意図とを区別するきわめて図式的な原理だけで︑現実には両者を峻別できないし︑また原理か
らいっても︑好ましくない状態からの脱出と好ましい状態への移行は同一の行為の二つの側而なのであるから︑その
行為の班由付けとして両者をともに示唆する場合は十分ありうる︒﹁空腹に駆られて食物を盗んだ﹂というのは﹁お
腹が空いたので食物を盗んだ﹂︑﹁食欲を満たすために食物を嫌んだ﹂と︑強湖点の迎いはあるが同じことである︒し
かし意図は当那者の意図として主観的なものであるのに︑動機はその愈図を形成させる要因としてより客観的なもの
である︒それは当那者そのもののおかれた霧観的状態と当那者に州閥すべき性向や一塒的条件によって決まる当祁者
の客観的条件の受取り方であるといえる︒したがって動機の表現は激図に較べてより容観的なことばでなされるのが
普通である︒﹁彼は自己顕示欲を満足させるために変な格好をする﹂というとき︑いかに前件の終りに﹁のために﹂が
あっても前件は動機と解されて意図とは解されない︒なぜなら自己顕示欲を満足させることは︑彼自身の考えている
意図とは考えられないからである︒﹁野心に駆られてヒットラーはポーランドを攻撃した︒﹂にしても︑ヒットラーに
﹁なぜポーランドを攻めたか﹂と聞くときに︑彼が﹁俺の野心を満足させるためだった﹂と答えるとは考えにくい︒
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もっともヒットラーも後で反省してみればこういう結総に落ち蒲いたかもしれない︒それは彼が冷紗になってその当
時いだいた意図をのべなかったということであろう︒
︵︶こうして動機には行為の方向付けをあたえる︵昌蔚︑こぐ①︶性格がある︒ラィルは動機を性向︵冒昌冒画二目︶と考
︽肥︶えたが︑あらゆる性向が動機になるわけではない︒たとえば﹁野心﹂や﹁貧欲﹂は動機になりうるが︑﹁忍耐力﹂︑
︵鱒︶﹁几張面﹂は動機としてはおかしい︒﹁彼は忍耐力によってその仕邪を成就した﹂︑﹁彼は几張而だから約束の時間に
現われた﹂は︑それぞれの行為の勤機をあたえたと解することはできない︒つまり勤機は人をして一定の行為へふり
側ける︑駆り立てるところをもたなければならない︒忍耐力や几狼而はこのような方向付けをあたえるものではない
と考えられる︒しかし助機は行為を方向付けるにしても心的服因と考えることはできない︒何となれば心的原因は一
秘の原因として︑結果である行為を必然的にもたらすものとして考えられているからである︒これに反し動機の導く
行為は必然的なものでなく︑なおほかに選択の余地があるものとして考えられている︒
このように動機のもたらす行為が必然的なものとして考えられていないことは︑動機による行為の説明が︑意図に
よるものと同じく因果的なものを超えていることを示している︒実際︑多くの動機語は道徳的価値評価を含んでいる︒
たとえば﹁虚栄﹂︑﹁親切﹂︑﹁食欲﹂︑﹁野心﹂︑﹁善意﹂等はこれである︒もっとも﹁好奇心﹂︑﹁恐れ﹂︑﹁不安﹂などと
いうように︑直接には道徳的価値に関係のないものも少くない︒しかしこのような語がいかにして動機語として勘ら
くかは︑これらの語の表わす心情が外界を受けとめる受けとめ方であるゆえんのものを吟味すればわかる︒ヒューム
︽鋤︶がいうように︑﹁理性だけでは︑いかなる行為を生み出すことも︑愈欲を起こすこともできない︒﹂そこには怖念ない
し心价の協力が必要である︒人間のおかれた怖況は掛合によって典なり︑多少とも襖雑であり︑こまかく把述すれば
きりがない︒しかもそのくわしい記述によってかならずしもそれが好ましくない︑あるいは不足の状態であることは
わからない︒しかしわれわれは心傭や性向と行為との関係を知っている︒それは識り返して現われるからであり︑ま
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た身に党えがあるからである︒かくして動機による行為の説明がその行為をわれわれにわかりやすくするのである︒
われわれは︑ある勅機あるいはいくつかの動機を行為に州屈せしめるとき︑当躯老の環境に対する反応の仕方を愉明
に記述しているのである︒その行為をわれわれに眼馴れた枠組に入れてみているのである︒しかし幼児の誘拐邪件に
よくあるように︑これはうまくゆくとはかぎらない︒
またつぎのような問題もある︑われわれは空腹から脱しようとして食物を食べるときは︑﹁空膜﹂または﹁飢餓﹂
を動機語にとることができるが︑寒さを避けようとして暖をとるときには︑このような動機語がないではないか︑と
︽湖︾いうのがこれである︒しかし事態は同様であって︑﹁飢餓﹂と同じく︑寒さに悩む心情を表すことばがあってもよい
のであり︑ないのは偶然的なことなのである︒
しかし復醤を勤槻として殺人を犯すとき︑当人はいかなる好ましからざる状態を脱し︑いかなる好ましい︑あるい
は満足の状態に述したといえるのか︒他人の生と死とは彼がなんら愛僧の対象でないとき当人にとってどうでもよい
ことであるに違いない︒つまり当人の満足・不満足に無関係である︒しかし彼が関心の対魏となるに従ってその存在
が問題になってくる︒だが復弊のために殺人を犯す場合︑彼の存在していること目体が彼に不幸をもらたし︑彼の非
存在そのものが彼の幸補を回復するのであろうか︒それならば彼の存在が否定されればどのような仕方であっても塀
しくこの殺人将に満足をあたえることになる︒それは彼の燗死であってもよい︒しかし復騨将にとって︑自分が手を
下さない︑病死が十分満足をあたえるものではなかろう︒つまり彼自身が手を下さなければ十分ではないのである︒
つまりここでは蒋観的な対蚊のあり方だけでなく︑自分が手をこまねいていることも含めて不満の状態なのである︒
そうしてこの不満の解消は手をつかれていること自身の解消︑つまり行為そのものによって担われる︒同様なことが
︵鋸︶復等のほとんど反対である友情についてもいえる︒
意図も行為の理山という点で動機と同じである︒しかしそれは展望的理山という点で回噸的理由である動機から区
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行為はたんにある意図をもった肉体的遮勤ではなく︑社会的恵味をもった社会的行動なのである︒この怖況は十分
吟味する必要がある︒スクーターの迎娠者が十字路で左折しようとして右手を瀧げたとすれば︑彼の行為は﹁右手を
︵識︶雅げた﹂こととしても︑﹁左折の合図をした﹂こととしても紀述できる︒どちらの一淵明も同じ行為を術示しているとい
りBも
える︒しかしこの場合︑彼は﹁右手を挙げることによって左併の合図をした﹂とはいえるが︑左折の合図をすることによって右手を挙げた﹂とはいえない︒つまり挙手は左折の合図の手段となりうるが︑その逆はいえない︒挙手はた
んなる肉体巡動であるが︑この肉体運助が左折の合図の意味を持ちうるのは社会的約束によってである︒これは交通
法規のようなものに記戦された公然たる約束・規則であるが︑そうでないたんなる社会的習仙の場合もある︒われわ
れは︑蹄し掛けた机手が舌を出せば侮辱を受けたと感じ︑また棚手も侮辱するつもりで舌を出すが︑舌を出すことが
悔呼の恵味をもつのは一定の怖況と一定の社会的判仙とを必要とする︒しかしこれは約束として記戦されたものでは 別されるといった︒もっとも両者はからみ合っていたり︑また一つの理由がどちらの面からもみられるという点で現実には区別のつきにくいことがしばしばある︒だが動機は行為の心怖・性向に即して語られ︑脱却すべき事態そのものの記述としては現われないのが普通である︒しかもそれは多く簡明なパターンに合っている︒勁機命題は大部分そのパターンにされた行為者の心燗・性向と行為との︑多少とも規則的・客観的な関係を表現している︒これに反し意図は行為者の意図として主観的なものであると同時に︑実現すべき事態あるいは遂行すべき行為の記述として︑かならずしも簡単なパターンに包摂されたものとしては現れない︒むしろ肋機において幾場する︒ハターンが︑細かく袖われ︑腱朋されたものとして現われるのが杵皿である︒
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しかし逆の場合もある︒ある行為が当那者の思わざる意図を実現する場合である︒識演者があたえられた時間に沢
山のことをしゃべろうとして早口でしゃべり︑聴衆に話をわからせなくするとすれば︑これは拙批者の思わざる邪態
を惹起したことであろう︒しかし聴衆は︑﹁あの剃波者は自分の頭のよさを印象づけるためにわざと早口に盛沢山の
ことをしゃべるのだ︒﹂と解釈するかもしれない︒そしてこのような解釈はあらかじめ了解された洲波の程度︑したが
って聴衆者の期待︑聴衆者の水準といった社会的な脈絡に依存する︒
このような轆態は同一行為が腹数個の記述をもつことに由来する︒そしてその記述群は系列化している︒﹁スイッ
チをひねる︒﹂︑﹁唯燈を点ける︒﹂︑﹁部駅を明るくする︒﹂︑﹁眠っていた子供を起こす︒﹂という四つの言明は同じ行為
を綴っていると考えられるが︑この中︑より始めのものがより韮本的である︒つまり︑﹁:⁝・によってIする﹂と
いえるのは︑﹁⁝⁝﹂が﹁l﹂より前の簡明で埋められるときにかぎる︒われわれは︑スイッチをひねることによ
って電熾を点けるが︑唯燈を点けることによってスイッチをひねるとはいえない︒迩妊が点いてもスイッチはそのま
まで十分ありうる︒同様に︑部屋を明るくすることによって眠っていた子供を起こすのであって︑この逆ではない︒
他の場合についても同様なことがいえる︒このような場合︑これらのどの命題︵行為︶も意図になりうるが︑その意
図はより基本的な行為を手段にして実現される︒それは目的に対する手段である︒
このとき両者の巡閲はどうであろうか︒いま目的も手段も同じ行為であるといわれた︒︵もちろん目的を行為でな
く︑行為によって実現されるべき聯態であると考えることはできるし︑この方が醤通かもしれない︒この場合にはい
まいう行為はその目的を実現することになる︒︶いま例にとった点熾の場合は︑先の命題が後の命題のそれぞれ原因に を実現できない︒ ないのである︒こうして︑ある行為によってある意図を実現するためには︑その行為の充たすべき条件が要る︒そしてその条件の一部は社会的なものである︒われわれはその条件を知らないとき︑ある行為によってしばしばその意図
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なっている︒したがって手段I目的の連鎖は因果連鎖である︒しかし﹁右手を挙げる﹂と﹁右併の合図をする﹂との
関係は因果関係ではないことに注愈しなければならない︒右手を準げることが原因となって左折の合図をしたのでは
なく︑右手を挙げることがある条件下では左折の合図を意味するのである︒ところが点燈の場合はスイッチをひねる
ことが脈因となって砥燈が点いたのであり︑電燈が点いたから部屋が明るくなったのであり︑部屋が明るくなったか
ら眠っていた子供が眼を覚ましたのである︒しかし因果関係は論理的必然の関係ではない︒また行為が因果関係なし
にも種々の角度から記述できるというのも︑繰り返して主張したように適当な自然的・社会的条件の下においてであ
る︒このことによってある行為によってもくろんだ愈図がかならずしも実現されないゆえんが明確になる︒
また︑行為の意図が当邪者にも完全に自覚されない場合のあることも了解できる︒砺の疋体を明らかにすべく努力
する学者は︑自分の立てた仮没を検推すべく実験を重ねることによって︑寵の正体を明らかにすること︑学会賞等の
名禅を得ること︑財産を獲得すること︑を同時に意図することができる︒しかし実はひそかに友達の塊をあかしてや
ることをもめざすかもしれないし︑恋人の歓心を買うことも心の底にひそんでいるかもしれない︒しかしこれを自覚
しないことは大いにありうる︒
意図はそれを実現するための行為をたんに別の角度から眺めたにはとどまらない場合も大いにありうる︒これは手
段と目的との関係が多く因果関係に基いて成立することを考えれば明らかである︒なぜならあることの原因は複数個
あるのが普通だからである︒たとえば︑ある実験が癌の正体を明らかにするためになされたとしても︑﹁この実験に
成功する︒﹂と﹁癌の正体を明らかにする︒﹂とは︑同一行為の別の角度からの記述ということはできない︒この実験に
成功するばかりではなく︑他の多くの実験にも成功し︑これらをもとにして癌現象が説明できて始めて癌の正体が明
らかになるのである︒つまり﹁この実験に成功する︒﹂以外の多くの言明とこの言明との連言によって始めて﹁癌の正
体を明らかにする︒﹂ことと同じ行為の記述はあたえられるのである︒目的・意図は多くの場合︑多くの異なった行為
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を緒合して始めて述成されるのである︒
さきにのべたように︑行為は妓初とらえられたときと別の記述をあたえることは︑この行為を社会的な角度からと
らえなおすこと︑社会的な枠組に当てはめて見直すことが多い︒逆にいえば︑多くの行為は社会的述側の枠組に当て
はめてのみ始めてその愈味・その機能を理解しうる︒小切手に数字と自分の名前を書き入れて手渡すことが︑ある条
件下で代金を支払うことになり︑ある会場である選ばれた人達がある条件下で手を単げることが︑一つの法案の成立
したことを恵味する︒ある場合にある人が別の人に現金を渡すと︑それは古い借金を返すことになるが︑別の条件下
では剛賄と収賄とに解釈される︒こうして行為は社会的施側係の捜雑な綱目の中で︑自然的術関係の巾でと同じく︑
種々の新たな意味をもつようになる︒したがって行為は自然的・社会的連関をより広くとることによって再解釈され︑
また他の行為や瓶物と結びつけられて︑一価その意味を明らかにするのである︒
ここにおいて行為の説明について再考したい︒われわれは説明を﹁なぜ﹂という問に答えるものとして考え︑ある
行為のなぜ︑つまり理由をその意図ないし目的であると考えてきた︒それはまた動機であってもよい︒われわれの見
解によれば︑惹図と動機とは本質的な差異をもたないからである︒しかし意図ないし動機による説明は原因による説
明と無関係なものであろうか︒実際︑メルデン等は因果的説明は肉体連動にのみ関するもので人間の行為には関係し
︿塑︶ないと考えた︒両者の説明の仕方はタイプ︑論理的性格を異にするからである︒
しかしながら理由︵行為の場合︑われわれはこれを意図と動機とに分けた︒︶による説明は実際問題として原因によ
る説明と深く関連している︒事実︑理由の基本的なものはある種の原因を別の角度から眺めたものであることも主張
︵器︶できる︒いま︑なぜこのように考えねばならぬかを考察してみよう︒たとえば﹁なぜ彼に金を渡すのだ︒﹂という問に
対し︑﹁借金を返すためだ︒﹂と答えたとする︒﹁それならなぜ借金を返すのだ︒﹂と追求されたら︑﹁借りたものは返
さなければならない︒﹂という風に︑道徳律に訴えることになろう︒あるいは﹁返さなければ非難される︒非姪は不愉
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快だ︒﹂と答えるかもしれない︒あるいは﹁非難されれば名誉を傷つける︒私は名誉を維持したい︒﹂と答えるかもしれ
ない︒このような答の系列が理由をさかのぼったものであり︑理由をのべることによって行為は魏明され︑また正当
化されるであろう︒この正当化機能こそ理由による説明の特徴である︒しかしその理由をさかのぼってもあるところ
以上は進めず︑そこに究極的原理が出てくる︒もちろんそれは少数のものでなければならないとか︑体系づけられて
いなくてはならないとかいうことはない︒それは道徳律であったり︑習慣であったり︑たんなる好みであったり偏見もBbbbnであったりする︒ある意味ではたがいに鐘着しているようなこともあろう︒しかしそれがもはやこれ以上さかのぼれ
ないものである以上︑それを正当化する別の根拠をもたないわけである︒それはもはや正当化できない︑あるいは正
︵齢︶当化する必要のない︑行為者の行動陳理・態度ということができる︒それは行為者に帰鵬する屈性的なもの︑性向︑
態度︑心怖などと考えることができる︒彼はこのような態度・心情に沿った行為を行なうのである︒この行為はその
態度・心情を原因とする結果だと考えることはできないであろうか︒これを厳密にのべると︑行為者にある菰の行為
をなさんとする態度があり︑一つの行為が︵因果的にか論理的にか︶その種の行為をなすことに結果するという信
︵幻︶念がある場合に︑その行為はこの両者を原因としての結果だということである︒デヴィッドソンは︑行為について考
︵蕊︶えられるこの態度と信念とを合わせてその行為の第一理由︵胃目色q輔の画叩︒旨︶といっている︒
おそらく︑このように理由と行為との関係を因果関係に銃み変えるためには︑いままで哲学者の固定観念であった
ヒューム流の因果概念を克服・拡張しなければならないであろう︒第一に︑この考えでは腺因と結果とは独立に特定
されなくてはならない︒ヒュームの理論によれば︑陳因は結果を必然的に生むというのは︑原因たるべき事象が結果
たるべき鞭象をいつも伴なっているというにすぎないから︑原因︵結果︶を特定するために結果︵原因︶に言及する
ことは必要ないはずである︒すると︑﹁スイッチをひねる︒﹂の原因として﹁部屋を明るくしたい︒﹂はよいにしても︑
﹁部屋を明るくする︒﹂という行為の原因としてそのことの欲求︑つまり﹁部屋を明るくしたい︒﹂をもってきたら困る
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ことになる︒ところが一般に︑一つの欲求なるものを特定しようとすれば︑﹁⁝⁝の欲求﹂という脚にその対象を限
定しなければ行なえないのではないかという疑問がある︒
しかしよく考えてみると︑この批判は厳密には妥当しない︒というのは﹁⁝⁝の欲求﹂というとき﹁⁝⁝﹂を埋め
る行為は︑ある顧顛に風する行為なら何でもよいのであって︑特定された行為ではない︒たとえば﹁進学の欲求﹂と
か﹁第五シンフォニーを聴く欲求﹂とかいうようなものである︒しかし各人の行なう行為といだく欲求とはともに特
定できるはずのものである︒したがって特定の﹁部屋を明るくする︒﹂という行為と︑﹁部屋を明るくしたい︒﹂という
欲求には言表上の関係はあっても論理的関係はない︒したがってその間に因果関係を考えても差支えない︒
ヒューム的因果論からする第二の批判は︑普通の因果関係では脈因を知る段階で結果がわかる必要はないのに︑あ
る人がある意図︵これは原因でもなくてはならない︒︶をもって行為するときには︑その意図と同時に結果たるべき行
為も知っているという︑ウィットゲンシュタィン以来のものである︒しかしすでにのべたように︑意図はかならずし
も当事者に知れきってはいないし︑因果関係の知り方が外的覗象の場合と異なってもかならずしも因果側係そのもの
の存在を否定することはできない︒実際︑当事者でないものが当事者の愈図や性向︑価値体系と行為との関係を追求
するのは︑普通の外的事象と同様に観察に基づいてやるであろう︒
そもそも問題の出発点は︑目的I手段の連鎖と原因I結果の連鎖とが無関係かどうかということであった︒両者が
事態の税明原理として別物であることは繰り返してのべてきたところであるが︑両者の間に密接な関係のあることも
荊識と科学との認めるところである.とくに科学は目的Ⅱ手段の連鎖を原因Ⅱ結果のそれに読み変えようと努力して
きた︒われわれもこの素朴な立場を合理化できるように思うのである︒一方︑常識の立場︑ないしこれと結びつく行
為の立場では︑逆に原因Ⅱ結果の連鎖を理由︵動機︶I婦結の関係として読み変えることがしばしばある︒たとえば食
糊の窃盗の原因として空腹が考えられるとき︑﹁彼は空腹に耐えかねて盗みを働いた︒﹂といってこの窃盗行為を合理
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︽罰︶化することができる︒因果関係は主体の側での行為の正当化諭拠をあたえうるのである︒こうして︑原因l納果と皿
由I帰結ないし目的︲手段の相互移換こそわれわれの注目すべきものなのである︒
渓F︑届き.参Ⅷ.
︵9︶P・二三雰函⑱ご毘里ヨ.勺ござ8℃言い︑毒のご罠の制匡︑営巨ごぬ⑩号○蔦︒﹃g乞趨︒z罰①脇︒
︵︑︶の︒同.富.声︒mn.ヨゥp旨怠昌さ昌唖コロ両曾等届句拶己?扇I罰.
︵︑︶F・二三茸函の夛鴛⑲盲︒︒?⑥算.z罰①唖鈩つぃp
︵吃︶︒︑固冨.ショ8ョ肩.8.⑥笄.勺亨勗1岳.アンスコムは心的原因によって行なわれる行為を自発的なものと考えてい
る︒しかしこれには自発的でないものもあるようである︒
︵昭︶︒.ロ画急ユ8号妾鼻さ言酔斡⑱閉︒画塑凹ごQ8巨⑩$ロ弓室⑯呑巨﹃己堅昌勺言ざ8口昏夢F×.zo・鴎︒岳圏.
︵M︶の.同.言︒シコ胃oヨヶPop︑毒.?P
︵略︶弓己.P霞︻.
︵略︶諺.屍呂ョ寮委只さP国冒垂呂自口乏筐.F8号目.后9.℃ロ筐I縄.︒.同.富.諺忌8g胃.ご己.己?91里. ︵4︶︵5︶︵6︶︵7︶︵8︶
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﹄ぬ①﹄・
の︒塁P弓言や︒︽
P・皇署一舜函の己呉凰冒
号昼.z夢の︒狸.
この点については 個人は複数であっても親織休であってもよいが︑ここではこのように拡張して論ずることは避ける︒日本語では﹁行なう﹂が現われているが︑この術琢油法は油理的には避けられる︒
詞御国冨侭禽里gぐ◎盲目厨昌画ヨユごく◎冒口9塁:豚.旨叩○浜ざ己同哩協︺切言旨凰呂2号︒8︒&.ご電諺.︒.○屋の異↓
F︐三富寓函の.駕里早勺冨旨︑︒己冨晩︑ゴのごヨ毎﹃晩匡の野巨ヨ函のPの.塁P弓言や︒︒邑吊鴬具冨旨昌届ち.○コ騨官員. F︑君涛貫の己呉凰冒旬日⑤冨言⑩Fo風80甸言さ9℃三︑屋呼
后さ.参照︒ ○.少.︑自国石口の二・司言の己畠n画◎さぬ里具負号算具謂﹁旨.で3用呂旨閤喚具与⑱シユ里目色訂毎mR篇唇︒ FロヨQcP思隠・Z学伊雪蝉 oxさa・岳麗.z園①里.
錘
︵泌︶弓己.
︵調︶少.罰
へ へ へ へ へ へ へ へ へ へ へ
2 6 2 5 2 4 麹 狸 2 1 2 0 1 9 1 8 1 7
ー ー … ー … − ー − − − ー
︒.ロ抄ご苞mcPC?︑芹.
デヴィドソンはこれを胃?罠匡冨号と呼ぶ︒
僧念とは・房豈禺・の日本語として使ったものであるがもとの意味より少し強すぎる︒これは︑真であることを保征されて
いないが︑本人は真だと思っていることに一般に使われる︒これ命題に表現できなくてもよい︒たとえば飼犬はある秋の青と
ある秘の条件下に川くと﹁主人が来た﹂と思う︒これは立派な@房二禺々である︒