宇佐美寛『「道徳」授業批判』に反論する : 資料二篇の解釈を中心に
16
0
0
全文
(2) . 宇佐美寛 『 「道徳」 授業批判』 に反論する --資料二篇の解釈を中心に--. 新. は. じ. め. 井. 保. 幸. に. 宇佐美寛 『「道徳」 授業批判』(1 97 4 , 明治図書) は, 分析哲学の立場から書か れた道徳教育論で ある. それは, 現在おこなわれている支配的な道徳教育を, 授業のレヴェ ルにおいて具体的に, ま たイ デオロ ギー的にではなく理論的に批判したという点で, 画期的な意味を持つ. 本書の構成を見ると, ボディ ーをなす一章から四章では, 章毎に比較的ポピュラーな指導資料の 全文が示される. そして著者は資料を丹念に分析・検討・批判 し, 併せてそれらの資料を用いた授 業への批判を述べる. 『「道徳」 授業批判』 はまた 「道徳」 資料批判 でもあるのである. それらの議 論を踏まえて第五章 「資料と授業における徳目主義・言語主義」 は, 資料に即した個別的な具体的 批判を総括し, 整理・要約し, 最後に 「結論」 が積極的提言をやや一般的な形で述べる. 本書はほ ぼこう した構成をとっ ているの である, 本書から私が学んだこと, またそこに述べられた意見で私も賛成する点は実に多い. しかし, 無 論それだけではない. 私が必ずしも賛成しない論述, あるいは絶対に承認できない意見もある, 私 が納得できない論述の多くは, 資料の解釈に係るそれである. 私はここ で 『批判』 の, 賛成できな い点についてのみ論ずる. 拙稿は 鰯ヒ判』 を読んだ私の感想文 であり, おこがましいことをいえば 『批判』 の批判 である, 分不相応なことを私があえて企てるのは, 先行研究に何らかの応答をする ことが同じ領域を研究する者の義務だからであり, また著者は自説への 反論が寄せられることを もっ て何より多とする人であるからである, 以下で私は,「おおかみとくま」 ,「こおりついた風力計」 という二篇の資料に係る著者の解釈への 反論を述べる. 資料を二篇に 限定したのは主として紙幅の都合に依る.「おおかみとくま」 を選んだ 理由は, そこ での著者の資料批判 が全四篇中最もふでき であると私が考え ・るため である.「こおりつ いた風力計」 を選んだ理由は, その解釈・批判に係っ て著者が最も包括的な議論を展開しているか らである. 著者の主張のほとんどすべては, この資料を論じた第一章で既に述べられているのであ る, そうした著者の議論への私の反論は, 明確な方法的一貫性を持たない. 私は著者とは別の明確 な 立場 を 取 り, そ こ か ら 著 者 に 反 論 す る, と いう の では な い の で あ る. そ の こ と と, こ こ で私 が と. り上げる論点が小さな問題から大きな問題まで多岐にわたり, しかも各論点の間に内容上密接な関 連が必ずしもないということは, 関係する. ともかく私は, 著者の議論の論理的誤ちを, あるいは 著者の論法であるいは他の方法で, 指摘することに努める. 私が最低限守ろうとする .のは, 著者に 反論するのに私個人の信念をもっ てではなく,客観的事実と論理とをもっ てするということである. なお私はここ で作文の様式として書簡体を採用する. それは 『批判』 が著者から読者への語りかけ となっ ていることに呼応しようとする為である, 39.
(3) . 新 井 保 幸 1. 「お お か み と く ま」 の 解 釈 を め ぐっ て 「理 解」 の 意 味. 1 ,. .. 先生はまず, 本資料を使った授業の指導案の文章 「くまに教えられてうなづくおおかみの気持ち を理解させるとと もに, 誰に対しても親切にすることの大切さをわからせながら, そうしようとす る気持ちを育てていきたい.」(強調 点は著者) に疑問を投げかけておられます. 「理解させる」 とか 「わからせる」 というのは, いうま でもなく, それまでは理解していず, わ かっていない状態 であっ たものを変えて, そう ではない状態にするということです. この資料を 使っ た授業でそのよう な変化をおこすことが可能 なの でしょうか. もし可能だとしたら, 細かく いっ て, 子どもに何が与え られ, 子どもがそれを受けとっ てどう感じたからなの でしょ うか.鎖批 7頁, 本書からの引用は以下頁数のみを記す) 判』4 私はこの論述に納 得がゆきません,「理解させる」 とか 「わからせる」 ということが 「それまでは 理解していず, わかっ ていない状 態であったものを変えて, そう ではない状態にする」 ことだとい うのは, 本当に 「いうまでもない」 ことでしょ うか. 先生はこういっ ておられるよう です,「理解す る」 とは未知の事 柄を新たに知ることである, と. 先 生は こう も 書い てお ら れますから,「あなた じしんは, この資料 を読んで, 今まで自分がわからなかっ たことがわかるよに なる変化をとげたと 7頁, 強調点は引用者)勿論「わからなかっ 感じる でしょ うか. そうは感じられないと思います.」(4 とは問題ないでし ょ う. しかしその逆は成り立た たことがわかるように なる変化」 を理解と呼ぶこ ないと思います, 日常用語としての 「理解」 の意味は, 「わからなかっ たことがわかるようになる変 化」 よりも広いの です.おおかみの気持ちを 「理解する」という 表現は,「察する」「悟る」「共感する」 等の語でいい換えるこ とができます, 例えばおおかみの気特ちを 「悟る」 というのは, おおかみの 気持ちが自分の既知の気持ちのどれかにあたる, と判 断することです. この場合の 「悟る」 は, 既 知の事柄を改めて確認する という意味のものです. そしてそれを「理解する」といい換えても, ちっ ともおかしくありません. そういうわけで私は, 先生が 「理解」 の意味を不当に 狭く限っている, と考えます. 2 .. 「おおかみの感情」 と 「私の感情」. 2 . 話題に応じた議論の厳密さ .1 「私はおおかみの感情など絶対に感ずることは できません.」(48頁) , 「おおかみに共 感するとい うことは, 常識的にいえば, おおかみの感情を感ずるということなの」 だろうが, それは実は 「比 嫌的な論理による飛躍」(49頁) である, と先生は述べておられます. 私も全くその通りだと思いま す. 学問的な議論は, このような論理的厳密性をもっ ておこなわれるべき です. しかし 「比職的な論理による飛躍」 について認識した上 でなければ, 議論は一歩も先へ進められ な い の でし ょ う か. 「私 が 感 ず る の は 私 の 感 情 であ っ て, お お か み の 感 情 では な い.」 な る ほ ど, そ. れはそう でしょう. しかしここ で問題なのは, 「私の感情」 なのか 「おおかみの感情」 なのかという ことではなく, 結局のところ 「私の感情」 でしかないとしても, それがどういう内容のものである かということ です, 荒っ ぽいいい方をすれば, 「私の感情」 なのか 「おおかみの感情」 なのかという ことは, どう でもよいのです, 誰の感情かという問題は, 二義的な事柄 でしかないのです, ですか 40.
(4) . 「道徳」 授業批判』に反論する 宇佐美寛 『. ら「私はおおかみの感情など絶対に感ずることは できません.」と力みかえる必要は少しもありませ ん. どうしてもそのことに固執する人には, 私はこういいたいと思います,「おおかみのではなくあ なたの感情でけっこう ですから, それについて話してください.」 加藤周一氏がどこかで, 議論の (また, それに使う言葉の) 厳密さは話題に応じて求められるべ きである, と述 べていました. なるほど, うまいことをいうものだなと感心しました. 確かに, 雑 談をするのにも学問的議論をするときのような厳密さ が要求されたら, シン ドイことになります. 道徳の授業は認識論や論理学の授業ではありません, ですから 「比轍的な論理による飛躍」 も無視 してかま ,わない, と私は思います. どうしても無視することはできないという理由は, 述べられて いません. 例えば「私にはその時の彼の気持ちが痛いほどよくわかった,」 という表現は, 論理的に 厳 密 では な い. しか し, そ の 論 理 的 に 厳 密 で な い 表 現 に よ っ て, 日 常 の コ ミ ュ ニ ケ ー シ ョ ン は 充 分 に 成 り 立 っ て い る の です.. 2 . 共有される感情または感情の普遍性 ,2 おおかみの感情などわかるはずがない, という先生の議論を, 別の観点から検討してみましょう. 読者がわかるべきなのは, 読者から全く独立した存在としてのおおかみの感情なのでしょ うか. お おかみそれ自体の感情であっ て, それ以外の誰のでもない感情, が求められているのでしょうか. そう ではないと私は思いますし, もしそうだとしたら, ご指摘の通り, おおかみの形象がまる で成 立しないわけ ですから, 答えようがありません, ですから, 読者に求められ得るもの, 求められて よいものは, おおかみの立場に身を置いた時感じるであろう読者自身の感情, でなければなりませ ん, もし, おおかみと読者とは別人格 おおかみは擬人化された存在です--として扱うべきだ と いう な ら ば, 同 じこ と は 次 の よ う に い い 直さ れ ま す, す な わ ち, こ こ で求 め ら れ て い る の は, お. おかみと読者とに共有される感情, あるいは両者の感情の共通部分である, と. 一般化していえば, ここで読者が理解すべきなのは, ある特定の状況の下 で, ある特定の個人が抱く特定の感情ではあ りません. そう ではなく,与えられた一般的な,したがって特殊具体的であるというわけにはいかな い条件の下で, 人間が普遍的に抱く (と期待される) 感情です. そう私は考えるので, 殊更に 「お おかみの感情」を知りたい 気にはなりません, さて, 以上の論述は次の論点と密接に係っ てきます. 3 ,. 資料解釈における想像の問題. 3 ,1 . 科学的叙述と文学的表現 資料についてはわからないことだらけだ, と先生はいわれます, どんなまるきばし,「どんな大き さの, どんな形, 色のうさ ぎ」 , 「おおかみは, どんな表情, 身ぶりをしたのでしょうか,」 等々 (56 先ほ どの表現を使 -7頁) っ ていえば, 特定の状況下での特定の個人の感情を知ることがねらいだ . とすれば, 先生の批判は妥当します. しかし, それだけがこの資料を読むねらいだということは, むつかしいでしょう.資料を読めば誰の目にも明らかなことですが,作者の意図は 「だれにも親切に し, 弱い人や不幸な人をいたわる」という徳目を, 卑近な例 で示すことにあります, この徳目をもっ と高尚な形 で述べたものとして 「己の欲せ ざる所を他人に施す勿かれ.」 や, 「あなたがしてもらい たいように, あなたの隣人にもしてあげなさい,」等の歳言を 挙げてもよいでしょ う. 話の具体性と いう点では, 「おおかみとくま」 も 『論語』 も 『聖書』 も, たいしてちがいありません. 後者につい ても 「わからないことだらけ」 であることに変わりはありません. 確かに, 先生の提出なさるさま ざまの疑問に, この資料は全く答えられません. しかし答える必要も全くないの です. うさ ぎやお 41.
(5) . 新. 井. 保. 幸. おかみの大きさや色や形がどんなであるうと, そんなことは話の本筋とは何の関係もない墳末な事 柄に過 ぎません. もし, たっ てのお望みとあらば, 当今流行の 「マン ガ」 や 「アニメーショ ン」 が 先生の希望をかなえてくれること でしょ う. 一般に科学的な叙述の理想は 一義性にありますが, その理想は, 文学的あるいは芸術的表現には 必ずしも妥当しません.(こういっ たからといって私は, 一義的な明断な表現は文学的ではない, な どと主張しているのでは決してありません.)ただ芸術にとって, したがっ てまたその 一分野である 文学にとっ て, 想像力の飛捌は重要な意味を持っ ている, といいたいだけなのです. 読者がこの簡 単な 「すじ書き」 をいろいろ脚色するのは, 一向にかまわないではありませんか, その結果, どう しようもない混乱 が起こり,意思疎通 が成り立たなく なるだろうと信ず べき理由を私は持ちません. 「すじ書き」 の枠内の想像と枠を破る想像 3 .2 . しかし, このよう な私の考えを, 先生はお認めにならないだろうと思います. 先生は次のように 述べておられるから です. この資料はたとえば, 目的地ま での経路を必要最小 限の目印 で示した 「概念図」 のようなもので ある. この話はある徳目の図示に過ぎない.「概念図」 をいくら見つめても 道筋以外のことはわから な い よ う に, こ の 話 に つ い て 考 え よ と い っ て も, 考 え る た め の 材 料 が な い. お お か み ・ く ま ・ う さ. ぎ等の言動が 「だれにも親切にし, 弱い人や不幸な人をいたわる」 という徳目を図示している, と いうこと以上は考えよう がない.「それ以上に 考えようとするならば, そのためには子どもは, 資料 にはない事実を想像して作り出すしかありません.さきに述べたようにたとえば『うさ ぎ・きつね・ たぬきな どの弱い被害者は, 団結しておおかみに あたるべきだ.』 というように考えるの です. この ように考え進んでゆくことを認めるならば, 資料の内容の乏しさは, ますます目立ってこ ざるをえ ・. ・・.・ ..・ .,. ・・.・. ません. なぜならば, そのように想像してもよいのか どうか, そのように想像することが事実にか なっ たことなのか, それとも事実に照らしてみてありえないこ となのかが, 資料からではまったく 答えが出てこないからです. 想像しほうだいということになります. いいかえれば, 資料は想像す るための材料としてはまったく役立っ ていないの で」 す. (71頁, 強調点は引用者) 資料に述べられた事実の枠内にと どまっ ていたの では, 考えよう がない. しかし, 資料にない事 実を想像してもよいとなると, 想像は際限なく広がっ てしまう, 要するに先生はこういわれるので す. それに対して私は次のように考えます, 私は確かに想像力の飛潮の大切 なことを強調しましたが, それはさしあたり,「すじ書き」 を脚色 するという前提の下 での議論です. おおかみの大きさや 色や形がどう であっ たかという想像と, う さ ぎやきつねやたぬき等の 被害者は団結 できなかっ ただろうかという想像とでは, 同じ想像 でも異 質のもの です. つまり, 前者は与えられた 「す じ書き」 の枠内 での想像 であり, 後者は 「すじ書き」 を離れた, あるいはこの枠を破っ てゆくような想像 です.(もっ とも私は, 前者だけが妥当な想像 で ある, などというつもりは毛頭ありません. むしろこれだけの 「すじ書き」 から後者のような想像 が でき た ら, た い し た も の だ と 思 い ま す,) と に か く 「想 像」 に つ い て 論 ず る 場 合, こ の 二 つ の も の. を区別しなければ, 議論は混乱します. 先生は想像の問題を論じられながら, その内容を (恐らく 1」 で問題にされているのは 前 無意識的に) すり換えてしまっ ているの です. 本書 「第二章」 の 「1 想像 です. 「 m で問題にされているのは後者の 者の想像 であり, それに対して・ 」 「事実」 と 「事態」 3 . .3 さて, 問題は, 資料の枠を越える後者のような 想像 です, そう した想像 が妥当なのか どうかを 42.
(6) . 「道徳」 授業批判』に反論する 宇佐美寛 『 チ ェ ッ クす る こ と は, お っ し ゃ る 通 り でき な い わ け です, だ か ら, 想 像 し ほう だ い と い う こ と に な. るでしょう. そこ で先生は こういわれます. 「要するに, この資料に書かれている事実は『だれにも親切にし, 弱い人や不幸や人をいたわる.』 ということば(つまり 『徳目』) の例示にす ぎないの です. 徳目の手段にす ぎないのです. ……この ような 『事実』 は, 正 しくは, 事実の名にあたいしません.」(69頁, 強調点は著者) i i t c on) で しかし, それは当然のことに過 ぎません. 資料に書かれているのは もともと作り話(f す. だから, この話が 「事実の名にあたいしない」 というのは, 無い物ねだりというものです. 私 i f i t c on) とします. 資料はある事態を は 「事実」 と 「事態」 を区別し, 前者を現実の出来事 (n ‐ on 述べているが, しかし事実を述べているのではありません. 事実などというものははじめから存在 しないのですから, 事実はどうだっ たのかと問うこと自体が, およそ無意味です.「そのように想像 することが事実にかなっ たことなのか, それとも事実にてらしてみてありえないことなのか」 は, もとになる事実が存在しないのですから, 答えようがありません. 先生が提出なさる問いはすべて, 事実関係を確定することに向けられています, しかし, 確定さるべき事実は存在しないのです, 多分ここで先生は反論なさりたく なるでしょう,「事実」 か 「事態」 かなどというのは言葉の問題 でしかない. 私は 「事実」 の語をおまえよりも広く, 作り話も含めて, おまえのいう 「事態」 の意 味で使っているのだ. だから, もしおまえが望むなら, 「事実」 の語を 「事態」 と書き改めても, 私 i i t on) では な い と し て も, あ り c の主張に変わりはない, と. つまり,たとえ文字通りの事実 (non‐f 得べき事態というものが考えられるの であり, それを明らかにするという問題がある. 弱い被害者. たちが一致団結するというのは, あり得べき事態にあたるのかどうか. 3 .4 . 資料の枠を越える想像の二方向 事態と経験 したがっ て, 「事実」 と 「事態」 を区別しても, 問題は依然として残されるわけです. そこ で, 多 分先生はこういわれる でしょ う, あり得べき事態について, どのような想像も成り立つことになっ てしまう. いい換えればこの資料は, 事態を明らかにするという方向で, 子どもたちが考えるため の材料とはならない. よっ てこの資料は無価値である, と. そしてその限り で, 先生の論は正しい のです. しかし, だからといっ て私が先生の議論に賛成するかというと, そう ではないのです. ・ある) というのが この資料を先生 考えよう がない, 想像のしよう がない (またはしほうだいて , が否定される論拠です. しかしその場合, 考え, 想像するのは, あくまでも事態を明らかにすると いう方向づけの下でのことにす ぎません. 先生のいわれる想像は, 事態へ方向づけられた想像なの です. しかし, 想像が向かう対象は他にもあります. すなわち, 自分自身の過去およ び現在の, 直 接または間接の経験, がそれです. 恐らく子どもたちは, この作り話を読むと, これに関連した, もしくは類似した経験を想起するでしょう. 誰もが, いじわるをしたり, されたりした経験を持っ ているはずです. このように資料の話は, それがきっ かけとなっ て, 読者である子どもたちが類似 の経験を想起する, というはたらきをします. 描かれた事態について堀り下げるのではなく, 読者 自身の経験への連想を刺激するという点に, この資料の特質がある, と私は考えます. それは結局 のところ, この資料が, 普遍性を備えた主題を象徴的な形 で表現した性質のもの である, というこ とに依るのでしょう. この資料を使っ て指導する場合には, こういう特質を考慮することが必要 で す, 資料について考える方向を, そこに描かれる事態を明らかにするということに限っ ておいて, 事態が一向に明らかにならない,という 結論を取り出したのでは, 資料を活用したとはいえません. このような処理のし方は, いわば赤子の手をひねるようなものではないでしょ うか. 要するに, まず道徳的事実を明らかにするという, 先生が提唱なさる方法は, このタイ プの資料 43.
(7) . 新 井 保 幸. にはなじまない, というのが私の結論 です. ただし, 私が示唆した使い方にも問題がないわけでは ありません. 子 どもが類似の経験をあれこれ想い浮かべ るとして, それらを散漫な印象にと どめず に, 深く考えさせるには どう した らよいか, す ぐさまこういう問題が考えられます. 恐らくそこで こそ, 先生の事実主義が意味を持ってくるのだと思います--子ども の経験は紛れもない事実です から--が, まだそれ以上のことは考えておりません.「おおかみとくま」 の解釈をめぐる議論は, この辺 で打ち切らせていただきます.. 1 工. 「こ お り つ い た 風 力 計」 の 解 釈 を め ぐっ て. ここ では本書 「第一章」 で述べ られていることについて, 私の感想を述べたいと思います. まず 個別的な小さな問題をいくつか取り出し, 疑問や反論を述べます. 1. 神ならぬ身の知る由もなし 先生は批判を次のように始めておられます. 教師は, 野中到の立場にいたならば, はたして野中と同じことを 「心にきめ」 , 「やりぬく」 つ もりなの でしょうか. 私には, どう読んでも野中のようなことをする気持 がおこっ てこないの です. なぜ, そのような気持になれないの でしょうか. 自分や妻の生命の危険をおかし, 死を待 つばかりの状態になり, 幼い娘と離れてまで, 独力 でやっ た気象観測なのに, 「富士山の頂上に, 中央気象台の観測所をつくることになっ たのは,このときから,40年ほどたっ た昭和6年のこと」 9頁) なのです. なんと40年ほども, 観測所は作られないままになっ ていたの です, (1 これを読むと, 先生が野中と同じことをやる気持ちになれないのは, 彼の苦闘がその後40年間も 報われなか ったからだ, ということになります, そしてそう である以上, この資料を使って授業を する教師も, 野中と同じことをやるつもりなどあるはずがない, と先生は推測されているわけ です. しかし同じ状況にありながら, 異なる行動をとるということが, 複数の人間の間 ではあります. だから, 教師は野中と同じことをやりぬくつもりだろうか, という問いに, 一義的に答えることは でき ま せ ん,. 40年という期間の評価についても同様です.彼の行為は40年もの長い間報われなかっ た, と見る か,それとも彼の行為が観測所設立ま での期間を40年に縮めた, と見るかは,さ しあたり, 人によっ て意見が分かれるでしょ う. 確実なのは, 彼の苦闘はその後40年は実を結ばなかっ た, という事実 だけ です. もっとも, 野中自身も, 40年を経なければ観測所ができないということを予知 していたならば, あえてあのような苦闘はしなかっ たのかもしれません, しかし, 彼はそのことを知る由もなかった のです. 逆にいえば, 今そのことを知 っている私たちが, 彼と同じことをやる気持ちにならないと しても, それは当然きわまりないことです. したがって, 40年間も報いられなかったのだから, 野中と同じことをやる気持ちにはなれない, という ご説明は, 全く 説得的でありません,. 44.
(8) . 宇佐美寛 『 「道徳」 授業批判』に反論する. 2, 目的・手段の連鎖系列 先生は野中の行動を, 目的または目標と手段または方法との即応性という観点から整理し,「富士 山頂に気象観測所を作らせる」 という目的を実現するために, 彼がとっ た 「身をもっ て冬期の山頂 で観測を行 なう」 という方法は, あまり有効 ではなかっ た, と指摘されています, こう した ご指摘 は, これま での授業で見落とされてきた問題点を, 見事に衝いていると思います, 一読 した時には 私も, 先生のおっ しゃ る通りだと思っ ていました. しかし再読三読するうちに, 野中の行動上の問 題点についての認識が, 先生と私とではややずれている, ということに気づきました, そのずれが どのようなもの であるのか, まず述べたいと思います, 「身をもっ て冬期の山頂 で観測を行なう」 のは, 「富士山頂に気象観測所を作らせる」 ためのでは なく, 直接的には 「まずせけんの人たちに高山の頂上で冬をこせることを知らせる」 ための方法で ある. これが私の解釈 であり, 資料を丹念に読めば, このことはは っきりすると思います, 「気象観 測所を作らせる」 ことと 「冬をこせることを知らせる」 こととの関係は次のようにいえます. 前者 がより大きな目的ないし上位の目的であるのに対し, 後者はより小さな目的ないし下位の目的 であ る. あるいはこういっ てもよいでしょう. 「身をもって観測を行なう」 のは, 「冬をこせることを知 らせる」 ための方法であり, 同時に,「冬をこせることを知らせる」 のは, 「気象観測所を作らせる」 ための方法でもある, これは, いわゆる目的・手段の連鎖系列という考え ,方 です, さて 「身をも って観測を行なう」 方法は, 「せけんの人たち」 を納得させるためには, きわめて有 効であるとさえいえるのかもしれません. 問題は, そのきわめて有効な方法が実現可能 であるかど うか, 無理がないか どうかということなのです, そして野中の行動は, それがまさに超人的な苦闘 であったが故に, 「せけんの人たち」 をあ ざむく 結果になる, と私は思います, 先生は冬期の山頂観 測を, 気象観測所建設という目的を実現するための方法, という観点からしか見ておられないの で, 方法の有効性論議に終始しておられます. 私の観点からは, 問題は方法の現実性として提出されま す.「いま, ここ でおりたら, せけんの人たちは, やはり冬の高山には, くらすことができないと考 えるでしょう.」 下山を説得にきた関係者に, 瀕死の野中 はこういいます. しかし, 山頂における夫 妻の生活は, とてもくらしなどといえるもの ではありませんでした.「冬の高山には, く らすことが できない」 という 「せけんの人たち」 の判断は健全なのです. かろう じて生きながらえていること をもって 「く らすことができ」 ると強弁する野中こそ異常なのです, 上記の引用に続けて野中はこういいます.「そうなったら, 日本には, いつになっ ても, 高層気象 の観測所はできません,」 しかし, そういうことにはなりません, 観測所ができるかどうかは, 直接 的には 「せけんの人たち」 の考え方に依らず, 科学・技術の水準に依るから です, 世論の後押しは 全く不要だというわけ ではありません, しかしその世論も, 時の科学・技術の水準によっ て規定さ れているのです. しかるに科学・技術の水準は, 日進月歩するものです. 「せけんの人たち」 が 「冬 の高山にくらすことができ」 ると考えるためには,「くらすことができ」 るような施設や設備がある ことを, 少く とも作ることができることを, 彼らに示す必要があります. 気象観測所がく らすに堪 えることを保障するのは, 科学・技術の進歩だけなのです. そういう保障がなければ, 野中一個 人 がいくら奮闘したところで,「せけんの人たち」は彼の奮闘に驚嘆することはあっ ても, 納得するこ とはないでしょう. したがってまた, 観測所建設の気運も起こっ てこないでしょう, 世論は, 個人 の超人的努力によっ て変わるもの ではないのです,(念のため付言すれば, 科学・技術の保障さえあ れば, 観測所はただちに建設されるだろうとか, 建設の気運が生ずるだろうとか, と私はいっ てお りません. そういうふうになるためには絶対不可欠の一つの条件について, 私は論じたのです.). 45.
(9) . 新 井 保 幸. 3, 野中像の二重性. 事実に取材した資料の特質. 3, 1. 実在人物と作中人物 ここま で書いてきて, 私は次のことに思い至りました, それは, 実在した人物としての野中とこ の資料に描かれている, いい換えれば, 資料作者が見た野中とは区別されなければならない, とい うことです. 私はここ で便宜的に, 前者を実在人物としての野中, 後者を作中人物としての野中, と呼ぶことにします. 両者は, あるいは, 大幅にちがっ ているのかもしれません, 少くとも, 二つの野中像が全く重なっ ているという保障は, ないのです. だとしたら, 読者は, 一体どちらの野中に ついて議論すべきな のでしょ うか. 先生はこの区別を, 必ずしも自覚しておられないよう です. もっ とも先生が問題に しようとされるのは, 終始一貫して実在人物としての野中 (以下野中 (実) と略記) です. ただ先 生は, 資料が野中 (実) を伝えているということを, 暗黙の前提とされているのです, ですから先 生の資料批判は, 資料の伝える情報の量の少さを問題にする性質のものと なります. 例えば次のよ う に,. 「……子 どもたちは, 〔野中の行為をめ ぐる 一 引用者〕 欠けている事実を, 自分たちでしらべる なり, 教師に教えられるなりして, 知るべきなの です, そんな面倒なことは技術的に できないと, あなたはいわれるかもしれません, しかし, もし, それができないのなら, 野中を授業で扱うこと はやめるべきなのです. その理由は……野中の行為をめぐる道徳的事実 が明らかにならないのなら ば, 子 どもは何らの判 断・評価もすることができず, 子どもの思考は 一歩も前へは進まないからで す,」(41頁, 強調 点は引用者) ここ で先生が論じておられるのは, 明らかに野中 (実) の方 です. 野中 (実) について, その行 動を調べ上げ, 評価しようというの です. 野中 (実) を問題にしなければ意味がない, というのが 先生の主張です. 資料は, 教師や子どもたちが野中 (実) に迫っ てゆくためのきっ かけ, あるいは 一応の手がかり, 調査の結果によっ ては訂正されるかもしれない手がかり, だということになる で しょう. つまり, はじめは, 資料の記述の不足を埋める目的で事実を調べてゆくのですが, そこか ら結果的に資料の記 述内容そのものへの批判に至る, ということもあり得るわけです. 確かに, 実在人物を扱っ た資料の場合には, 実在人物と作中人物とは 一致していることが望まし いでしょう. 少くとも, 事実を調べることによっ て, 両者の対応関係を確めることができるし, ま たそうしてこそ, 資料も有効に使われたのだといえるのでしょ う. しかし, 読者が問題にすべきなのは あくま でも実在人物なのであっ て, 作中人物ではない, とい う結論は, 以上のことから必然的に導き出される もの ではありません. これは, すべてに先立つ根 本的態度決定,.世界観に属する事柄 である, と私は思います. 読者が問題にすべきなのは実在人物 でなければならず, 実在人物から区別される作中人物であっ てはよろしく ない, ということを論証 することは できないだろう と思います. 問題にすべきなのは, 作中人物から区別される実在人物で ある必要はなく, 純粋の (?) 作中人物であってもよい, ということも できるだろうと思います, 何故なら, 最終目的は子どもたちが道徳についてよく考えるようになるということなのであり, そ の目的さえ実現されるならば, 考える題材は何 であっ てもよいからです. 追求の対象をあくまでも 実在人物に限るという場合には, このように間接的・ 二次的な 「資料」 にこだわること自体が, 無 意味となります. 実在人物との関連は 一切無視し, 資料の記述だけを前提として, 作中人物だけに限定して議論を 行なう, というのは, それなりの一貫性をもっ た一つの方法です. これは一種の思考実験です. そ 46.
(10) . 「道徳」 授業批判』 に反論する 宇佐美寛 『. の場合, 実在人物と作中人物との対応を検討することが, 無意味だというわけではありません. し かしそれは,例えば伝記作者の仕事 であり, 子どもたちが直接その仕事に携わる必要はないのです. 3, 2, 作中人物としての野中 この方法の特質は, 判断材料を資料の記述以外には求めないことにあります, というよりも, 他 に求めることができないのです, 何故なら, 判断対象としての作中人物は, 作品としての資料の中 に存在するだけだからです.読者に求められるのは, 資料から読み取れる限りのことを読み取って, 作中人物について判断・評価することです. その際, 妥当と思われる推測をまじえることはさ しつ かえありません, むしろ, 推測の妥当性について考えることが, 重要な仕事となるのです, また, 資料からはどうしてもわからない問題については, そのままにしておいてよいのです. 以上のよう な方法でこの資料を読むとき, 浮かび上がっ てくる野中像について, 先生の提出なさる疑問に答え る形で, 考えてみます. 例えば, 先生は本資料と小説 『富士山頂』 とを比較して, 「なぜ野中は, この観測所員のように, 『人間並の生活や環境』 を要求しなかっ たの でしょうか,」(25頁) といわれます. しかし私には野 中が 「人間並の生活や環境」 を要求しなかっ たのが, そんなに不思議なことだとは思われません. まず野中は,「滅私奉公」 倫理の体現者として描かれています, それに加えて, 権利意識の弱さは, 一人野中に限っ たことではなく, 当時の人間の一般的傾向です,「人間並の生活や環境」 を要求する 権利意識を身につけた人間は, 当時としては, むしろ例外でした, 「時は, 明治29年, 日清戦争の あくる年のこと」です. その時代に生きた野中の意識を,7 0年後の昭和3 9年における観測所員のそ れと同列に論 じようとすること自体に, 無理があるの です, 時代のちがい - 一方が臣民であり, 他 方が主権を有する国民であるという点に端的に現れる 一 は, 当然, それぞれの時代に育っ た人間の 考え方を, 強く規定するのです. また, 気象観測所を作るためには 「かなり生 ぐさい政治的な戦い」 も必要である,「自然の試練に 耐えることだけが重要なのでは」 ない. ところが, こうした 「政治的・社会的条件」 は, 資料では 全然触れられていない. 一体野中は 「山頂観測」 をどう位置づけていたのか, と先生は問いを提出 しておられます. 確かに, 国家を動かすことについて, 野中がどんな見通しを持っ ていたのか, はっ きりはわかりません. ただ彼の性格を考えると, 彼自身は観測所建設という目的を実現するための 一つの役割を果たすことで甘んじていたの ではないか, とか, とにかく山頂観測を実現することが 先で, 後のことはそれから考えるつもりだっ たのではないか, といっ た推測も成り立ちます, は っ きりしているのは彼が 「冬をこせること」 を実証 しよう とした, という点だけです, 観測所建設が 最終目的であれば, 確かに, 「自然の試練に耐えることだけが重要なの では」 ない. しかし, そこま で彼が責任を負うつもりだっ たのかどうか, もわからない. 彼にとっ ての目的が実証だったのなら, 自然の試練に耐えることだけが重要になる.・あるいは彼は, 自然の試練に耐え抜いてからでなけれ ば次へ移れない完竪主義者だったのかもしれない. このように想像・推測してくると, 資料が 「政 治的・社会的条件」 にほとんど触れていないのも, わからないではありません. 野中は, 具体的に 国家を動かすところま では, どうも考えていなかったように見受けられます. しかしそれはあくま でも野中 (作) であっ て, 野中 (実) ではありません. いい換えれば, 作者はそういう観点からし か野中を捉えていなかっ た, ということ であり, 作者自身に 「政治的・社会的条件」 への感覚が欠 落 し て い た, と いう こ と です.. 資料を読みながら私は, 野中 (作) について上のよう な推測を試みました. それはあくま でも推 測の域にとどまり, 確かな決め手はありません. しかし私は, 全く窓意的に推測をしたというの で 47.
(11) . 新. 井. 保. 幸. もありません. 資料を手がかりに野中の人となりについて全体的・綜合的・直観的判断を行なっ た 結果が, 上述の推測なのです. 換言すれば, 野中(作)については, それが実像 であれ虚像 であれ, 先生のいわれる形象が, ある程度成立しているの です. したがっ て読者は野中について, 例えば, 合理的精神や繊密な 思考力の乏しさ, 一方における人並み以上の公共心と他方における家族に対す る犠牲要求との 構造的連関, といった判断・評価を行なうことは充分にできます. 4. 意志の強さについて 4. 1. 意 志 は 強 け れ ばよ い と い う も の では な い. 次に問題にしたいのは先生の以下の論述 です. ……この 〔野中の - 引用者〕 行動は, どうも, しなくてもよかっ た行動か, 少なくとも, それ以 外のやり方もありえた行動のよ うに読者に感じられるのが自然なのだと思います. … (中略) … むしろ, 問題は, 教師が自分では野中のような行動をする気がないのに, 子どもたちには, 野中 が意志の強い, 困難に屈 しない, りっ ぱな人物 であるように教えるということなの です. それは, 自分でも信じていないことを子 どもには信じさせようとする無責任なことであり, 偽善であると いわれてもしかたがないでしょ う. (26頁, 強調点は引用者) 議論の大要は説得的だと思いますし, 特に, 野中の行動の評価については全く賛成です. 後半の 「問題」 については, 先生の主張を承認しながらも, 私は別の問題を指摘したいと思います. 「意志の強い」 こと, または 「困難に屈しない」 ことと, 「りっ ぱな人物である」 こととは同値 で しょうか. そう ではないと思います. 何故ならば, 前二者は人格の 一部分に対する肯定的評価 であ るのに対し, 後者は人格の 全体に対する肯定的評価 である, と考えられるからです. 野中は, 冬の富士山で人がくらせることを証明しようとして, 体力の限界に挑みました. だから, 少くともその限りにおいて, 彼が忍耐強 い性格の持 ち主であることは, 認めてよいでしょ う. 私は, 野中の意志が強かったことを認め, そのことに驚嘆します. しかし, そのことに 感動はしません. 野中の意志が強かったということと, はたしてそういう意志がそもそも必要だっ たのかどうかとい うこととは, 全く別々の事柄 です. 野中の意志の強さから, 私たちが感動を受けるかどうかは, 先 生が指摘された数々のチェッ ク・ポイントが明らかになっ てから後に決まることです.(ということ は, 資料からだけ では永久に決まらないということ ですが.) 人が感動を受けるのは, 意志の形式的 な強さによ っ て ではなく, その内容によ っ てだからです. ですから私は, 教師が, 野中と同じこと をやるつもりがないことを, 別段恥じる必要もなければ, 野中を 「りっ ぱな人物」 に祭り上 げる必 要もない, と思うのです, こういう考え方を私は, 加藤周一氏の 膳聾心燭語』(昭47 , 新潮社) によっ て知りました. 示唆を 受けた箇所を引用しておきます. … … 私 は, 私 一 人 に 一 体 何 が 出 来 る の か, と い う こ と で思 い わ ず ろ う こ と は な い, 私 は は じめ か. ら私自身に 多くを期待しないから, 世の中が私の念願とは逆の方向に動いても, 格別の「挫折感」 は覚えない. 念願の方向に動くよう, 何万分の一かの貢献を続けるだけである. また貢献のし方 は, 人によ っ てちがうのがあたりまえだ, という立場をとろから, 勇気漠々として 陣頭に立つ人 々に感心はするが, みずからそう でないことに, ほとん ど全く 後ろめたさを感じない. 私は私に 48.
(12) . 「道徳」 授業批判』に反論する 宇佐美『. できることをしてみずから足れりとするの である. (23 8一9頁, 強調点は 引用者) 4. 2, 何事によらず強い意志というものは存在しない 何かを意志するということは, 何かを認識するということである, または何かを認識したことの 結果である, 意志と認識とは別々のものではなく, 一つのことの異なる側面にすぎない. 野中の意 志の内容は, 事態に対する彼の認識を問うことによっ て, はじめて明らかになるのである, しかる に資料には, 結論としての決意だけが述べられ, その前提, あるいはそれに至る過程としての事態 認識は述べられていない, したがっ て, 意志の内容がどういうものだっ たのか, 何故そういう意志 を持ったのか, ということはよく わからない, したがっ てまた, 野中の意志をどう評価すべき か, ということもよく わからない,「意志と認識」という標題 で先生が論じられたことを, 私は以上のよ うに要約してみました. その際, 先生は一つの反論を想定し, それにこう答えておられます. 「どんな目的 で,どんな条件下で行な われた行動であっ ても,またその行動がどんな効果に終わっ たとしても, そこに働いた強い意志や忍耐心は, 良いものであり, 学ぶべき ではないか.」 しかし, そう ではないの です, … (中略) …ひとが 「意志」 的に行動するのは, ある内容の認 識をしたがゆえなのですから, 野中がどのような内容の認識をしていたのかがわからなく ては, 彼の 「意志」 の持ち方もわからないの です, … (中略) …いいかえれば, 意志を持つ方法がわか らないのです, 方法が不明なことを 「やれ」 ということはできません,(30頁, 強調点は引用者) この 応答は不適切 です, 何故なら 「反論」 は, 「強い意志や忍耐心は良いもの」 ではないか, 「学 ぶべき ではないか」 と尋ねているの です. 答えは 「学ぶべきである」 とか 「学ぶべき でない」 とか でなければなりません. それなのに先生は, いわば「学びよう がない」 という 答え方をしています, これでは 「反論」 の主旨そのものは承認している, つまり 「学ぶべき である」 のだが 「学びよう が ない」 ということなのだな, とも受け取れます. 先生は, 何故もっ と簡単に, 内容から切り離され た意志の強さそれ自体は評価の対象とはならない, とおっ しゃ らなかっ たの でしょうか, 意志が強 いことは何時でもいいことだ, という 命題は成り立たないのです. 一度山頂観測を決意したら倒れ るま で続ける, という意志の強さは, 手段の絶対化につながりました. 無内容な意志の強さは, 無意味なだけ ではありません, その前に, そういうものは存在しない, というべきでしょう. 存在するのは, 特定の何かをする, ことについての強い意志だけです. 例えば, 恋人に手紙を書き続ける強い意志, おいしいパン ・を焼こうとする強い意志, 契約を守ろうとする強 い意志等々. 野中は, 冬期山頂観測を敢行する限りにおいて, 意志が強かっ たの です. その前提条 件と切り離しては, 彼の意志の強さは考えられないのです, 意志は常に, 何かをする意志として存 在するの です, ですから, 特定の内容と結びつかない形式的な意志の強さ, 何事によらず強い意志 というものは, 観念として描くことは できても, 実在しないのであり, したがっ てそういうものを 育てることもできません.. m. 反徳目主義の道徳教育論. 資料二篇の解釈をめ ぐる個別的具体的論議は, ひとまず打ち切り, ここではまとめの意味で, 道 徳教育に関する先生の原則的お立場について, 考えてみたいと思います.ここ では先生のお立場を, 49.
(13) . 新 井 保 幸. おお ざっ ぱに反徳目主義とします, 先生ご自身が徳目主義を 「気持ち主義」 とか 「ウワバミ主義」 とかと性格づけておられるの で, 私はそれらに対応させて先生のお立場を, 仮に 「事実主義」と 「過 程主義」 と呼ぶことにします. 1, 気持ち主義 対 事実主義 先生は, いかなる意味での道徳教育にも反対なさるわけ ではありません. 先生は, 徳目主義に対 して反対しておられるのです. それは, 徳目主義が必然的に 「気持ち主義」 になるから です. そし て 「気持ち主義」 とはまた, 「ウワバミ主義」(途中経過を無視した結果主義) でもあります. 徳目 主義と気持ち主義と結果主義は, 同一物の異なる側面に対する, それぞれの名称 であるに過ぎませ ん.. 先生は, 徳目主義に対しては, 言葉と事物, 言葉と経験とを区別することの必要性を主張なさい ました. 気持ち主義の窓意性には, 「動かすことの できない事実の重み」 を対置されました. (この ように, 事実究明を重視する立場を, 事実主義と仮に呼びます.) そして結果主義には, 結論ではな く, 結論に至る思考過程だけを問題にする過程主義を, 対置さ れました. 先生の考えておられる, 徳目主義にならない道徳教育のあり方は, およそこのよう なもの です. すなわち, 徳値判断の前提 となる事実判断の強調, 可能な限り合理的な価値判断を尊重する立場が, 本書の全体にわたって見 事に一貫しています.「保守的 プラ グマティ スト」 と自称される先生は, また急進的合理主義者でも あります. さて, 気持ち主義ではなく事実主義というお立場は, 次の文章にはっ きりと述べられています. 「教育がやっ てよいのは, 事実をなるべく広く正確に偏りなく認識させることなの であって, そ のような事実について どんな感情を持とうとも, 子 ども個人の勝手ではないでしょ うか. 感情を目 標とするのは, 逆転した方法論であっ て子ども自身の思考を促し助けることを無視していること で す.」(34頁) 先生の教育観の根幹に係るこの ご意見について, 何度も考えた結果, 私は全面的には賛成できな いという 結論に到達いたしました. 感情を目標としてはならないという主張は, さしあたり, 次の意味において正しい, と私は思い ます. 第一に, おっ しゃ られる通り, 「教師が感動したからといっ て, 子どもも感動す べきだと いう のは, 押しつけがましい越権であり, 子どもにとっては迷惑なこと で」(34頁, 強調点は著者)ある, という意味において. これは倫理に係る事柄 です. 第二に, 感情を目標とする方法は, 気持ち主義 である, という意味において. これは論理に係る事柄 です. 第二点について, もう少し述べましょ つ.. 『気持ち』 をより どころとして人間の社会的行動を見ようとする見方」(3 気持ち主義とは,「 9頁) でした. それが何故いけないのか. 人間が何らかの感情や意志 - 両者を一括して 「気持ち」 と呼ぶ ことにします - を抱くのは, 何 らかの事 実 を知ることによっ てである. すなわち気持ちとは, 何 らかの事実認識の過程を経た後に到達する結論 である, しかもそれは, 認識した事実に評価を加え た結論, つまり価値判断である. 気持ち主義は, 例えば, 「そのとき, 野中は どういう気持ちを持ち ましたか.」 という発問をして授業を進める. これは 「結果的に, 野中は どういう価値判断をしたの か.」 と問うこと である. 野中がしかじかの気持ちを持っ たということは, 疑っ てかかることの許さ れない, 議論の大前提とされてしまうのである. これに加えて, 気持ちが生じてくる経過は, 結果 としての気持ちそれ自体を問題にすることからはわからない, かくして気持ち主義とは, 結論とし ての価値判断を先取し絶対化したものであり, 途中経過を無視した結果主義なの である. 故に, 気 50.
(14) . 「道徳」 授業批判』に反論する 宇佐美寛 『. 持ち主義は否定されなければならない, このように先生はいっ ておられるわけ です. それにも拘らず, 感情を目標としてはならないという主張は, 全面的には正しくないの です, ま ず先生ご自身が, 別の著書では 「たしかに, 教師は, 子どもに, ある感情, 態度を持たせることを め ざしている であろう,」 と述べておられます.(『思考指導の論理』188頁, 本書33頁から引用) こ こでは先生は, 感情を目標とすることを承認しておられるのです, この論述は, 先の主張と明 らか に矛盾しています, しかし, 二つの意見の論理的矛盾を指摘しただけでは, 感情を目標としてはならないという主張 自体が誤っ ている, ということにはなりません, そこ で, 更に次のよう に考えてみることが必要で す. この主張の論拠は, 特定の感情を持たせることを目標とすると, どう しても都合の悪い事実は 与えないことになる, ということにあります. しかし果たしてそう でしょ うか. 都合の悪い事 実は 与えないというのは, 感情を目標とすることの, 必然的帰結なのでしょ うか そういう傾向性は一 , 般にあります. しかし, 前者が後者から論理必然的に導き出される, などということは絶対に でき ま せ ん.. M, ヴェーバーは, 科学者というものは, 自説にとっ て都合の悪い事実をこそ重視しなけ ればな らない, と説きました, 事情は教師の場合も全く同様です, 教師も, 彼が子どもに持たせた いと思 う感情を冷やすような, 都合の悪い事実をこそ, 直視しなければなりません そして, 都合の悪い . 事実を直視し与えるということと, 子どもに一何らかの感情を持たせようとすることとは, 矛盾しな いのです, あるいは, こういったらよいでしょうか. 方向性として感情を目標とすることがいけな いの ではない, それを絶対化すること, 何が何でもめ ざす感情を持たせようとすることがいけない のだ, と. 感情を目標とすることと, 感情を強制することとは, 全く別の事柄 です. 感情を強制し てはならない, これはいうま でもないことです. 感情を目標とすると, 授業者の意図はともかく, 結果的に感情を強制することになり がちである, というのも事実 です. だから, 感情を目標にして はならない, というのは, あまりにも荒っ ぽい議論といわなければなりません. 先生のお言葉を額面通りに受け取ると, 例えば, 平和を愛する感情を目標とするのもいけない, ということになります. およそ平和教育というものは, 戦争を憎み平和を愛する感情を目標とする - 結果と して 子 ども がその 感情 を持つ こ とになろうとなるまいと - ことなしには, 成り立たな いでしょ う. いや, 一般に, およそいかなる感情をもめ ざさずに, 全く無前提的に, 教師は道徳の 授業を行なうことができるでしょ うか. 現に先生ご自身も, 本書を著すことを通じて, 教師が資料 を読んで安易に感動 しないようになることを, そういう醒めた感情を持つようになることを, め ざ してこられたの ではないでしょ うか, 以上のような理由で私は, 感情を目標と してはならないとい う主張に, 全面的には賛成できないの です, 2. 結果主義 対 過程主義 先生の議論の出発点にあるのは, 特定の価値観ないし価値体系を持っ た特定の個人です. 個人が どのような価値観を持つべきであるか, は誰にもいえない. したがっ て, 個人が所有する価値観そ のものの妥当性は問わない, しかしそれは現に存在するし, またそう でなければ, 価値判断は成り 立たないわけ です, そこ で, 個人が既に持っ ている価値観を承認することを前提として, 議論は始 まります. 先生が問題にされるのは, 個人が行なう個々の具体的な価値判断の妥当性です. そして, その妥当性を問うことは, 次の 二通りのし方で可能 です. ( 1 ) 価値判断を下すために必要な (理想的には, 必要にして充分な) 条件である事実的知識を得 たか, あるいは得ようと努めたか. 平たくいえば, 早合点をしなかっ たか どうか, ということ. 51.
(15) . 新 井 保 幸. ( 2 ) 次にそうしてなされた価値判断が, 既有の価値体系と矛盾せず, 論理的一貫性を保持してい る か.. この 二つの条件さえ満たされていれば, 例えば, ユ ダヤ人は抹殺される べきだという結論が出さ れてもよい. 逆に, そう でなければ, どんなに立派な結論が出されても, 価値判断の手続きとして は誤っ ている. すべての個人は, 上述の手続きに従って, 価値判断をす べき である. 道徳教育の目 標は, 子 どもにこのような価値判断の 正しい手続きを習得させること, の他にはない, すなわち, どのような価値観を持つか, 価値判断を行なうかでは なく, どのように価値観を持ち, 価値判断を 行なうか, が大事なのである. 内容ではなく手続き, 結論ではなく過程が大事なの である. 先生の お考えは, およそこのようなものだと思います. 道徳教育に関しては, その内容, 形式の如何に拘らず, 原理的に否定する立場と肯定する 立場と 2 ) 」 にある 「目先の を考えてみることができます(理想型として) .中学校指導要領の「内容項目6-( 欲求やその場か ぎり の快楽だけにとらわれず, 心から満足できる生きがいを求める生活態度を確立 すること」 を例に, 両者の主張を考えてみましょう. 肯定派によれば, これは, 人間として身につ けるべき知恵や規範の一つであり, 道徳教育はそれらを伝達する役割を果たしている, ということ になります,これに対して否定派はこういう でしょう.「他人に迷惑をかけさえしなければ, 私が『目 先の欲求やその場か ぎり の快楽に』 とらわれようととらわれまいと, 私の勝手である. 私は, 私の 生き方を他人から指図される覚えは ないし, また他人に指図するつもりもない, 道徳教育 などとい うものは全く無用 である.」 こうした両極的な立場の間に, 先生のお立場を位置づけてみると, どうなる でしょうか. 内容上 からは道徳教育 を否定し, 形式上からは肯定する, それが先 生の立場 だといえましょう. その意味 は こ う です.. どういう内容の価値観を持とうと, どういう内容の価値判断を行なおうと, それは当人の勝手 で ある, とする限りにおいて, 先生は否定派に与するわけ です, しかし, 「その場か ぎり の快楽」 に溺 れようと 「心から満足できる生きがい」 を持とうとどちらでもよい, とは先生は考えない. むしろ 「その場か ぎりの快楽」 にとらわれてはいけない,「満足できる生きがいを求める 生活態度を確立」 しなければならない, とはっ きりいっておられるのであり, その限り では道徳教育を肯定なさるわ けです. 確固たる生きがいや価値観は持っ ていなければならない, あるいは持たせるようにしなけ ればならない. しかし, その内容は何 であっ てもよい, それが先生の 道徳教育信条 です. この信条に私は賛成ですが, ただ, 先生が論じられなかっ た問題を一つだけ, 最後に指摘してお きたいと思います, それは, 個人の価値観の形成過程における他者からの影響の意義について, 先 生が全く言及されなかっ た, ということ です. 先生にとっ て, 個人の価値観は, 不可侵の聖域なの です, ある個人の既有の価値観を変えようとするこ とは, 絶対にしてはならないの です. 無論, 個 人の価値観に影響を及ぼそうとすることが, たやすく認められるならば, ひいては, 権力者による 思想統制という事態をも招きかねません, ですから, 先生が一種の倫理的禁欲を強調なさるのも, わからぬこと ではありません. それに価値観などというものは, 他人があれこれいったところ で, 結局, 当人の自発的意志によるの でなければ, 変わるものではありません. しかし, そうだからと いって, どういう価値観を持つべきかという問題を, すべてたな上げすることには, 私は反対です. 何故なら, どういう価値観が望ましいのかという問題が, 共通の場に持ち出されないと, 個々人は その周囲の狭く 限られた, 内容的にも貧しい精神的世界の中 で, 価値観を形成していく他ないから です. 特定の価値観を強制することは, いかなる場合にも許されるこ と ではありません. しかし, 諸個人がその価値観を批判 し合いながら発展させてゆくことは, それとはちがいます, 教師と子ど 52.
(16) . 宇佐美寛 『 「道徳」 授業批判』 に反論する. もが, あるいは子ども同士が, 各自の価値観を他者のそれと比較し (時には闘わせ) 相対化してゆ く, という契機が, 先生の議論には欠落していると思います.. お. わ・ り. に. 拙稿は, 一般読者に はかなり読みづらいであろうと思われる. 理由の一つは, これが 『批判』 の 著者宇佐美氏に宛てて書かれた手紙であり,『批判』についての予備知識を前提とした議論だから で ある, しかしそれだけ ではない. 主要な理由は, 各論点についての議論が 「つまみ食い」 の感を免 れず, しかも各論点は一貫した方針に 基いて選 び出されているわけではないからである. したがっ て拙稿に対しては, 個々の議論はともかく, 全体として何をいいたいのかわからない, という批判 がなされるだろうと思われる. 私はその批判を認め ざるを得ない. 宇佐美理論を総体として批判す るための私自身の立場を, 拙稿は提出できなかっ た. 三度加藤周 一を引け ば, 次の言葉はまさに拙 稿にあたるの である. すなわち日く, 「もちろん体系の構造を理解しなくても, 特定の結論に反対す ることはできる. しかしそれは議論の反駁ではない.」(前掲書, 89頁). (本学助手・函館分校). 53.
(17)
関連したドキュメント
では,フランクファートを支持する論者は,以上の反論に対してどのように応答するこ
しい昨今ではある。オコゼの美味には 心ひかれるところであるが,その猛毒には要 注意である。仄聞 そくぶん
点から見たときに、 債務者に、 複数債権者の有する債権額を考慮することなく弁済することを可能にしているものとしては、
下記の 〈資料 10〉 は段階 2 における話し合いの意見の一部であり、 〈資料 9〉 中、 (1)(2). に関わるものである。ここでは〈資料
︵13︶ れとも道徳の強制的維持にあるのか︑をめぐる論争の形をとってきた︒その背景には︑問題とされる犯罪カテゴリi
人は何者なので︑これをみ心にとめられるのですか︒
この事業は、障害者や高齢者、一人暮らしの市民にとって、救急時におけ る迅速な搬送を期待するもので、市民の安全・安心を守る事業であること