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晩年の会沢正志.斎

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(1)

∵  

藤田東湖と並んで︑後期水戸学の代表的思想家であり︑有名な﹁新論﹂をはじめとした熱烈な尊王挟夷論の鼓吹 ︵ 

1︶  

により︑幕末思想界に強い影響を与えた会沢正志斎につ.いては︑ネの思想・行動とも今日.一応きわめつくされた感  

がある︒しかるに彼乾ついての論述なり評価なりほ︑学者として思想家としての彼の立脚点や︑主張のみを対象に  

し︑しかも特紅安政以前匠重なる論点がおかれており︑安政以後死に至る十年間︑特に文久以後の専横運動との関  

係についてははとんど考慮が払われていないようである︒たとえば川崎新三郎氏による平凡社刊・世界歴史事典・  

会沢安の項には﹁安政の大獄がおこり︑′斉昭が蟄居を命ぜられると︑藩論が分れたので︑彼は藩論の統言つとめ ︵ 

2︶   空としかしるされていない︒これは正志斎が︑安政元年紅ほすでに七十四才の老人であり︑また東湖のどとく時  

流の表面軋あ叫って現実的にこれを指導する︑とい貰ほなはなしさがなく︑その生涯の本すぢはいわば学者として      ︵3︶  

′  

− 書斎での著作や藩校での教授軋あったという事情や︑更にその論策が大部分は嘉永年間までにものされた︑などの  

︑ 諸条件がそうせしめていると思われるが1しかしながら彼は東湖の死後︑とにかく七・八年の余命を俸ち︑弘道館︑  

︵四七︶ 四七   

晩年の会沢正志斎  

晩年の会沢正志.斎  

1幕末政治思想史研究の一節 −  

口   

宗  之  

山  

(2)

︵四八四八  竺十九巻讐号  ㌻ ひいては水戸藩紅おける老儒礁学としての地位ほ︑なお相当の重さを持っ︑ていたのであり︑しかも安政から文久に  およぶ期間は幾多の重要事件を内合した討幕的尊撰運動の激発の連続であってみれば︑死に近い彼が︑この時勢を  いかに感じ︑どのような主張と対策とを示したかを具体的にあとずけていくことは︑今日までみのがされていただ  けに︑ゆ・るがせに出来ない大切な問題であると考えられる︒以→︑安政以後の正志斎が︑どのような生き方をたど  

ったかをみつめてみたい︒   

︵1︶徳川慶藩公伝蒜﹁斯く矯激なる新論は︑甚しく当時の人心を鼓動し︑各藩の至争琶之を読み︑重刻姦刻︑板を蜜   ぬること蓬なるを知らず︑仮名交具に訳したるさへ出づる覧阜は︑流伝の勢驚くに堪へたり︒されば諸藩の有志釆   

\ りて教を詣ふ者ダからず云々﹂とある︵一言頁︶︒彼の門に来って教を乞う窄もの豊国覧た芸晋︑うら知名人と   

しては真木和泉・吉田松陰・赤川淡水・大久保要等があり︑新論喧感激し告いうことがあずかって力ある︵水戸学大系ニ   

・会沢正志莞・解題︑高須芳次郎氏・会沢正嘉八丁八二頁︑西村久則氏・会沢伯民二二八・二三九・ニ七表︶︒  

︵2︶正嘉の伝記とし去れわれは西村文則氏・会沢伯属︑高須芳次郎氏・会沢正志斎︑瀬谷義彦氏・会沢正志斎︑等をあげ   ることが出来るが︑これらはいずれも﹁水戸学芙怠家として︑又大警家とし基因諸藩に呼びかけて︑望実論を   

鼓吹した伯属の学統精神が︑遂鱒粛然として経ったが為︑明治維新回天の事業が︑忽地成﹂っ雷する見地に立ち︵会沢伯   

戌表︶︑﹁先生窟び︑先生の教育者的信念覧基いと願ふ﹂奉賛的蕩から巻かれており︵瀬谷∴会沢正嘉二頁︶︑   それだけに彼がのちに絢国論へ転化した事情についても︑﹁実地の形勢纂到って︑時宜により︑開国せねばならぬ己﹂︑  

﹁それは︑豹変でもなく︑変説でもなく︑時め勢を察して︑かく進展し﹂﹁適当覧処し﹂たとのべられるのみで︵高須・   

会沢正志斎二孟〜≡ハ頁︶︑納得出来る説明とほいい難い︒これらに対しく︑和辻哲郎博士は実の辞粁政治と矛盾す  

ることのない彼の尊重珊の封建的膿界を指摘されたものの︑主たる論点ほ﹁新論﹂の内容的説明賢かれており︵是倫理  

思想史下萱ハ三三貢以下︶︑是丸山英男氏は︑正志斎む尊王論が﹁いか纂建的階統制茅居せず︑むしろそれを基礎づ   

(3)

︵4︶ 安政四年五月弘道館匿おける洋学教授の建議紅対して斉昭ほ︑自分ほ申すまでもなく︑会沢にたずねても決していいとほ  

申すまい︑としてこれを斥けているン﹂とに︵水戸藩史料上編乾九二八頁︶︑その嘉をうかがうぺきであろう︒ 

則氏Å式沢伯民︒二四・晩年の伯民望早によると水戸藩ほ︑正志斎を城代家老に次ぐ位に待遇し・た ︵三六五頁︶︑とある︒  

こ   

右にのべたように︑正志斎の経歴の大略については︑今日すでに明らかになっているが︑便宜上もう二度︑ぺリ  

ー渡来までの彼の足跡をたどってみよう︒彼は天明二年︵仙七八二︶湖陵久慈郡諸沢村に生れた︒幼時藤田幽谷  

に学び︑寛政年中彰考飴に出仕して写字年となり︑文化元年︵山八〇四︶徒士となり︑藩主の子の侍読を勤め焉  

文政七年︵山八二四︶イギリス船が水戸領内大津浜に漂着したとき︑これとの応接に当った︒翌文政八年﹁新論﹂■  

︵1︶  

を著し﹀たが︑これはこの際の実際経験と︑外国船打払令が発せられた情勢を披きにしては考えられない︒翌九年幽  

谷の死後︑彰考館総裁の代理をした︒蒲主斉修の継嗣問題が起ると︑藤田東湖・戸田蓬軒らとともに︑斉修の弟斉  

昭を推して︑江戸に赴き奔走︑同十二年斉昭がh涌主となると︑東湖らとともに斉昭をたすけて市政改革につとめ  

た︒夷保九年︵一八三八︶郡奉行に抜擢され︑翌年通辞となり︑調役をつとめ︑蚕んぜられたが︑詭紅よってやめ  

晩年の会沢正志斎  ︵四九︶ 四九    けでゐるか﹂を指摘され︑.水戸学的尊王撰異論が尊撰論一般を代表しえたのほ安政・万延までで︑以後﹁教派﹂尊廣諭と対   立するに至った︑とのすぐれた見解を示されたが︵日本政治思想史研究三〇三・三五二〜三五四頁︶︑たとえば正志斎が政   派の専横運動と︑いかなる立場からどのよう匿対立しているか︑といったような行動を通じた彼の具体的追求はなされない  ままである︒  

︵3︶ 満水正健氏︒水戸文箱考・会沢正志斎の項︒これによると著作年の判明している三十二篇中︑二十五蕾までは嘉永年間ま  

での作であり︑著名なものほはとんどこれに含まれている︒  

(4)

かくして斉昭の学問・思想︑特覧の撰夷論は正志斎匿負うところ大なるものがあるといわれる所以であり かくして斉昭C学問.属準哨にそ任務葬霜は正志雰に套うとこそメねそ竜αカ友そとし衷かそ謬見て直り′卦剰倒  

㌃等差正憲が周知のような著作去きほぺ︵もっと茂れほ文政打警の発布をうながし晶勢︑  

さら匿発布によってなお促進された挟夷的風潮の中においてではあったが︶︑現実にあっても︑たとえば弘化三年頃  

戸田蓬軒に与えた書翰の中で′﹁夷虜軽侮之儀︑御同意切歯之至りに御座候︒廟堂にて愉快の御処置渇望仕候へ址︵︑  

如何可相成や︑定めて議論まちまちの車と洞察申候︒天祖以来百万年の金台存亡此時との御憤慨︑実に拒腕仕候儀  

第二十九巻 第ご写  ︵五〇︶ 五〇  

させられ︑彰考飴総裁となった︒弘化元年︵山八四四︶斉昭が幕認をこうむって謹慎を命ぜられると︑薄論が動揺  

したので︑彼ほ百方奔走し︑藩内の対立を抑え︑斉昭の赦免につとめたが︑翌二年磯をやめさせられ︑まもなく禁  

固された︒禁固中﹁下学過言﹂その他の著作をあらわし︑革氷二年︵一八四九︶斉昭が許されるとともに︑再び 

道館教授となって︑ぺリーの来航を迎えた︒   

以上の来歴について︑先学の阻には別に意見の相違もみられない︒ただ注意すべき点は︑彼が文化元年藩主の子  

極言しているように  

のは︑正志斎がこの期問までは︑水戸の朋党間にあって︑つねに斉昭とその存在隆替を同性くしていることからう  

かがえるように︑あきらかに進歩派に属しており︑いわゆる天狗党のこ貝であり︑ネの指導者であった︑というこ  

とである︒すなわち徳川慶喜公伝によると︑天保二年斉昭の藩政改革にあたってほ︑﹁内なる会沢・鈴木は︑外な  

る川瀬・藤田等と相呼応して︑益庶政を改革せり︒されば革新派ほ︑蹟年の志漸く伸びんとする嬉しさ軋意気軒昂  

し︑守旧因循の徒を憎むこと甚しく云々﹂︑との︑ベ︵訂⊥︶︑また同年東藩文献志め編素に閲し七の紛擾匿および︑    に都塵候﹂とのべ︵   ︵難訓   の侍読となった時︑斉昭は五才であって正志斎の教えを受け︑歪斎も心をつくして教導し芸で告︵凋  

西村  伯民  \  ︵認諾伝︶︑憾爽政策の鼓吹老で告推進者であった︑ことで碧′︒霊芝忘れてならない   詣旭訃報︶︑ま莞リー来航後論策を斉昭父子に寄せ︑羽倉用★→川路聖誤に和議の誓   王烈士伝  五八頁  

壁 、  

(5)

十月斉昭が事業の中止を命じ︑正志斎の通事御用調役を免ずると︑東湖以下武田彦九郎︵所要層︶・山国啓八郎・  

金子孫二郎らは連署してその復職を乞うたが︑これに対して﹁烈公ほ時々親書を以て慰諭せられたれども︑藩府滋   ﹀ 

於誓保守派の勢九牢くして︑会沢等の地位は容易に挽回い難か﹂っ允のでわ︵謂五︶︑弘化三年斉昭の赦免  

運動の際︑松平中之助というものが正月元日軋紀州邸に赴いて内訴したが︑藩庁はこれを正志斎らの教唆と思いこ  

み︑正志斎ら九人を捕えて水戸に幽察したが︵このとき高橋多一郎︒金子孫二郎らとともに運動しているようであ  

る︶︑これについて﹁此人々ほ戸田銀次郎・藤田虎之助に次ぎ一て進歩派の領袖たれば︑所謂天狗征伐の意に出でし  

ゃ明なり﹂とあり︵閉苔七︒︶︑更簑竺年貢保守派は進叢の進咄芸㌃る食め︑正志斎ちの帰宅姦した  

が︑なお親族に命じて監視せしめた︿閉書甥︶︑等の忘の事実はあきらか覧れを物語ってい.る︒な雷た正志  

斎が︑斉昭立嗣の際︑また受箪の折にほ︑高橋・金子・武田らと同じ天狗党の二見として︑禁をおかしてのかなり  

積極的な赦免運動に従事して︑そのために幽せられるはどであった︑ということは︑後の彼と対比するために記憶  

すべぎ必要がある︒   

このように少くとも嘉永年問までほ進歩派天狗党に属し︑のちの教派の指導者となった武田耕裏斎・高橋多一郎  

・金子孫二郎らと姑托して︑ヰ同じ目的の下に動いて来た正志斎が︑それでほ安政以後の複雑な政争の中でほ︑どの  

ような動き方をしているのであろうか︒この時期匿は︑幕藩体制が外圧の強化によって徐々粧その褒頚を藤里しは  

じめ︑封建権力再編成を忘ず山橋派転よ▲り統二国家への構想がもくろまれるに至ったのであり︑他方京都朝廷の政   /   治的発言権が増大して︑幕府の独断専行が許されなくなり︑在野草苓の問には︑京都を中心とする撰実の実行さえ  

考えられるに至った︑いわば幕藩政治の激動期なのである︒尊王撰夷論も︑もはや単に名分を正すものとして机上  

で喋々するのみでほ許されず︑米俵の来航・通商の要求といった当面の難題を直ちに処理し︑その打開策をたてね  

︵五一︶ 五山   

晩年の会沢正志斎  

(6)

第二十九巻 常山号  

・−   

︵要一︶ 五二  

ばならなくなって来たのである︒ところで正志斎ほ︑前にも云ったごとく安政元年七十四才を迎えたのであるが︑       ︵ 3︶  老公斉暇との関係はなお密接であり︑また彼の発言ほ東湖ないあと︑港内においてかえって重さを加えていくので  ︵ 4︶  ある︒  

︵1︶ 徳川慶喜公伝は︑新論について﹁本苔の成れるは蓋し文政の季年︑幕府の異船打払令出でたる後なれぼにや︑口を極めて  

其機宜せ得たるを称賛し云々﹂と辞している︵㌻二二ハ宰︒なお新論本文中にも﹁今︑天下ほ︑既に幕府の英断を知り︑  

感憤激励す︒訊か敢て淵伏して命を奉ぜざらん﹂とあり︵水戸学大系二・五山〜茸二頁︶︑#府の方針を強く支持している  

のが見える︒   

︵2︶ なおこの正志斎の失脚についてほ︑西村文則氏も﹁要するに東清文献志の編輯所に︑天狗共が寄りく密謀を繁らすと云  

ふを口実に︑立原派及之と結ぶ︑斉昭の新政を蕃ほぬ門閥世家︑守旧家の輩が︑極力藤田派を排斥せんとした為︑適々伯民等  

の此人事問題ほ厳ったものだ﹂とのべていられる︵会沢伯民八六頁︶︒   

︵3︶ 例えば四年五月﹁此雲丹踵凪到来故二箱追申候山ツハ会沢へ伝へ可申候﹂といった斉昭の云葉にもうかがえる ︵水戸藩史  

料上編乾九二九頁︶︒   

︵4︶ 叫ノ ︵4︶参照q  

三  

︵1︶   

まずペリー渡来時の閉鎖の論議にあたって︑和議の非を極言したことについてほすでにのべた︒しかし史料に乏  

しく︑奥体的にほその論を知るべくもない︒しかるに笠安政元年三月日米和親条約が締結され︑つづいて軍∵蘭︒  

虞∵仏ともそれぞれ和親が結ばれたのであったが︑これについて︑同年十月二十九日寺門政次郎へ宛てた書翰をみ  

ると﹁貿易辞布山見国体も烏有と成候︑御同感云々﹂と争乙︑同じく十一月三日付書翰にほ﹁魯船此度ハ先ツ官僚  

芸﹇付物示感謝︶ へ共︑此後如何成事を願候も難討候︑瑞穂資農之国へ資商之国と成︑蘭家種々之事を仕出候半︑勢州来手労観︑可   

(7)

想嗜﹂とある蘇既約諸相靭韻駅路相即㌔大史︶︒これ賢ると彼が和親条約の骨品の恥讐な箪  療史の無能を歎じているのが知られるのであるが︑貿易を許すことによって︑﹁爵農之国﹂が﹁資商之国﹂にかわ  り︑ひいてほ﹁国体も烏有と成﹂る方向へ向うのを恐れたことに︑その大きな原因が求められていることを窒息す  べきである︒すなわち﹁天下の富ほ梢々分散し︑山転して武人に移り︑又︑転じて市人に帰す︒而して天下︑其の弊  

を受くる所以の者は枚挙に勝へず﹂といい︵畑讐⁚幾等﹁今︑天下は蒜の権を挙げ七︑言之を賢監に委  

ね︑壬公大人ほ僻伏して命を聴き︑問ふ所あるを得ず︒天下の民命は専ら市人の手に係る︒︵中略︶何ぞそれ惑へ  るや﹂曇るとき︵相鞄︒∵彼ほ商人の富強化が⁝は封牒の危機を倉らす︑といぺとを︑為誓の  側から敏感に感じていたのでほあるまいか︒  

ニ年三月丁老衰の歎息追々相聞候へ共︑右ハ中納言も我等も委細承知之上申付候儀︑元より恒蔵を這之武役に用  候積紅ほ無之︑学校本開之上︑文武実用教授申付候事故︑青山申含押張可相勤候也﹂という斉昭の恩命を蒙って小  

/  

︵ 毀鐘鋳砲の太政官符が発せら  いる 

ており︵柑翰一︑当時センセーレヨンをまき苦し︑斉昭の届への献策賢るといわれたこの令に︑彼が肯定的で  

ありたらしいことがうかがえるが︑詳細は不明である︒   

しかる聖一年七月から九月にかけて英艦渡来の風説が伝えられ︑程々密議が試みられたが︑斉昭ほ武備仇増強と  

京都警衛の急を建議し︑万言変に備えるため︑水戸藩の兵をもって京都を守備せんとほかり︑これを諸学士に諮  

問し警とがあっエ雛讃認︶︒Lれに対して正志斎および豊針は︑十月二十四日蓋して﹁御上京に諦二  

晩年の会沢正志斎  ︵要一︶ 五三    姓頭教授頭取に復せられた︵加押頂掴此詣︶︒また  

この年八月将軍家定が諸藩の老儒を謁見した際︑彼はその山人   2︶   ︒これより蔓㌘三.︑   毀鐘鋳砲の太政官符が発せら  

(8)

第二†九巷 第一号  

︵五四︶ 五四  

たまりも無之敗軍︑天下の笑を来し候様に而ハ︑御忠憤之詮も無之︑残念無此上﹂いゆえ︑﹁京地を御守衛之儀被  

へ3︶   仰立候ハ︑ 

︵娼畿腎妄和親条約の鴻きめによって︑ハリスが下田軋駐在し∵しきりに将軍莞を願ったが﹂蔓四年  

八月十四日遂に幕府は︑その江戸叢謁見を許可すべき旨芸布した謂ほ︒この公布は︑異常なくらい国内人心 

を刺激して︑ただ紅在野草苓の側ばかりでなく︑むしろ幕府側町立つ人々の間にあってすら︑城下の盟をなすもの 

︵4︶   との非難がまき起ったのであったが︑これに対する正志訝の態度をみると︑八月十九日書翰にほ﹁廉祉掃地︑天下  

笈々東藩笈々︑握汗致候︑桜も不引込︑越州始め建白も無之由︑手の何様も無世界也﹂とあり︑二十四日︵カ︶付書翰  

に﹁尾公御建議水泡︑其他越肥等黙々之曙不可余何事二候﹂といい︑更紅﹁罫云々来畜こて見候へハ︑将軍家と  

抗礼之様也︑遊歩ハ所々遍歴2事議牒能々見すかされ候事晶見候﹂㌃ぺているのを見ると︵ほ翰︶︑幕府  

の外交方針に対して少からぬ不満を示しているのが知られるが︑細目ほはっきりしない︒またこの頃からいわゆる  

一橋派の慶晋推挙運動が活漆となり︑彼等ほハリス登城を契機として公然建白を行い︑四年末から五年上半期にか  

けて︑その頂点に達し元のである︒もちろんこの運動の主流は越前薄にあり︑薩撃・尾張両港︑その他多くの識者  

が譲躍したのであったが︑水戸藩ほ表面蔓っていない︿欝臓霜上︶︒ただ安馬路刀・原田八兵衛らが橋本左内  

たちと︑かなり密浮な連絡をとっていたようである︒かって正志斎ほ︑慶畜の文学教授をしていたこともあったが︑  

継嗣運動と正志斎との関係ほはどんどつまびらか︑でない︒.ただ五年六月二十三日書翰に﹁条約も調印︑西城も御  

発昇季之世知此﹂としるし︑二十九日付書翰に﹁西城御移之由御附等之事御中越︑とかく水土苛権二而ハよき車ハ  

撃と相最﹂▼去り︵瑠ア﹂れらは儲決定後で雪が︑それが﹁季竜﹂のことであり︑﹁喜事ハ警﹂  

きかぎり︑彼もまた慶雷推挙に賛成であったことはまちがいない︒ただ︑とれ紅ついての実際運動にほ全くたずさ   

(9)

わらなかったと思われる ︵このことについては後にふれる︶︒なおこの﹁孝之世﹂ 笹は︑六月十九日の通商条約無  

断調印に対する彼の感想も含まれていたのであろぅ︒七月五日︑斉昭︒慶筒が#謹を蒙るという水戸藩の大事が起  

ったが︑これについての反応の仕方をみると︑十六日付書翰正﹁御同意驚愕不勝痛憤﹂とのべ︑八月九日付苔翰に  

﹁情義豊休も兵略之次第﹂とレ歪めているへ同︶︒しかる覧月八白︑井伊排斥・斉昭らの赦免姦悪挙を暗に  

におぁせた︑′いわゆる水戸への密勅をみるに至り︑情勢ほ騒然として来た︒尊撰派も︑一橋派も︑この勅にそれぞ  

れの望みをかけ︑その速やかなる伝達を願ったのであるが︑この勅詫間題を契機として︑水戸の洒論は二つに分れ  

た︒すなあち革新派である天狗党に︑鋲︒激二派を生じ︑しかも鎮派ほ︑かっての蘭立派であった諸生党=守旧派  

と合流して非伝達を主張し︑甘牒多義ら伝達を至当とする教派と大い虹対立した︵射箪東讐︒このとき鉄  銅折柄⁝描銅縄律 伝ぬ 

くも勅謹を批判して﹁京都三而是等乏処︑︵中略︶ 

い相当不仕候哉﹂と建議し︵鮮讃置︑また十篭付書翰担﹁東繭勃々ハ為天下可畏︑紳諸公意見を温候而  

も︑何レも浮躁浅薄l叫て︑虜と戦も容易−r勝候様なる見込深謀遠慮なき事︑可推知︑左様之人こて妄動候ハ︑︑故  

事必然こて︑徒二天下の禍と成可申候﹂とのべ︑九月二十四日付曹翰にも﹁京師云々本港違勅之貴恐入候へ共︑実  

は京都之御霊と存候﹂というのを軋ると︵躇翰︶㌻べのような勅を出す京都を粁難するのみならず︑その政治的進  

出を阻止せんとする意図すノらにおわせてお︑り︑しかも外国と戦を開くことの不可能を明言しているのほ︑か  

って専横論の泰斗であった彼と︑ほなほだしく相達しているといおねばならない︒しかも斉昭らの赦免運動紅つい  

︵7︶  

ても︑非常に慎重な態度をみせ︑﹁御至誠御貫徹︑初二一旦御押抜被成候所︑幕之模様申′1毎事左様ニハ参り申′  

︵五五︶ 五五   

晩年の会沢正志斎  

(10)

遽候﹂といいノ︵童藍箪その就中上根針︑君な奉欺候也﹂ときめつけ︵禦竿﹁伝達ハ窓二似て其  

実ハ監の所行也﹂と断定するのである︵旭⁝虻︶︒そのゆえは﹁勅之事は︑押而伝達慣へハ︑公武合紘由内治平の  

聖意二春宵候蜃を不知︑憲皇㌃︑国家をもみつぶして﹂はならず︵旭⁚恥一︑﹁幕へ問へ候而も︑忠精ハ歪︑  

結党と成可申﹂き姦慮し︵誓恥︶︑﹁幕への聞へ寒心也﹂とおそれたからであった︵旭⁚驚これより少しま  え︑三月下旬︑薩藩士高崎猪太郎が水戸に来り︑水・薩の提携により除紆をはかろうとして︑水戸有志と会談し︑  

︵=且崎︶一 正志斎にも痘痕したが︑﹁会沢等は︑余が議論の急激なる放吟や山向取合は﹂ず︵欝硝詣撃三家の;して  の水戸藩の警の特殊牒蓋暴挙を戒あるのである︵鐸璧蛮㌫節蒋︶︒たしか賢打  とろの正志斎は︑六月十五日慶庵が彼に与えた書軋﹁此節追々国元より諸生共出府いたし候処︑其地に残り候者も一  

︵﹃末簸︶  

有之候処︑果菜恒蔵骨折鎮撫致候儀と感入候︒然る処︑此節五ケ国儀約被仰出候に付てほ︑又々諸生共助揺之義も  難計候︒国元二而ほ︑幾重にも鎮撫致候義︑此節の奉公と存候︒右之意味教職等申合せ︑夫々鎮撫致事﹂とあるよ  う・エ桐鮒認諾酎琴﹁警に針璧﹂すこと軋︑彼の﹁此節の奉公と㌻れていたのだった︒だが雷の   搾候様との惇逆之論行ハれ候様承り及﹂讃達派︵   ︵五六︶五六  ㍍一両十九∴u欝ごつ  

臥数︑ 

周 

同︶︑ただ掌儀容して激発姦めようと苦牒る彼の姿が︑如実に知られる⁚   

この間において安政の大獄ほ着々すすみ︑仰椅派ほ次々に弾圧を蒙り︑さらに梅田雲浜︒吉田松陰ら在野派が逮  

捕せられ︑京都にあっては問部詮防が朝狂を威嚇しっつある︒翌安政六年︑▲いぜん伝達㌻非伝達の争いは続 

︵8︶  

1   あるが︑正志斎は︑山賀して非伝達  

日   の   を   と  り  

水戸藩史料上編  四七八〜由七九   ﹁御家中之内エハ︑勅書偏伝達之上︑諸侯二令して♯府へ対  

餅︶に蝕して﹁宗社傾撃云︑其乱雲要路の一人   

(11)

弾庄はますますきびしく︑八月二十八日斉昭ほじめ︑凌島帯刀・・茅根伊予之介・鵜飼雷左衛門・同率書が質罰・処  

︵9︶  

刑されるという大事が起り︑涛論ふたたび激したが︑重心斎は︑たとえば八月十九日﹁縦令居負ケ佐相成候とも︑●  

敬上之義こて祉辱にハ鯉之︵中略︶無根之虚説巌され︑叛名に陥り候而ハ残念至極﹂といい︵群甜誼竿  

十月四日﹁大公御吹感恋︑衰杯こて悪く取られ候而ハ︑如何二候間︑なるたけ広り不中條様致度候﹂′というのにう  

かがえるどとく︵帽凋︶︑いぜんとして若に竃の意姦し︑六ゾたすら凱をおさえている︒この間︑勅詫間題は  

なお紛糾をつづけ︑幕府の圧迫干渉いよ心よ激化し︑山転して返納・非返納砂論議しきりに行われたが︑ここにお  

いても彼ほ︑藩庁要路にあって︑鋲派の領袖と目されており︑勅読返納の使者として家老を上京せしめ︵京都へ直  

拝送納をいう︶︑見届役として︑しかるべき幕史を同道せしめる︑との強硬な各返納論を主張した︵班認諾︶︒   

︵1︶ ペリー渡来の際において東湖ほどう云っているかをみると嘉永六年八月十八日関白宛書案に︑米鮭が浦賀内海へ束入れ︑  

種々の不礼を働い写﹂とほ実に国辱というべきであり︑武備さえ整っておれば﹁旧法之通厳重取扱中皮﹂いが現在の段階で  

は到底不可能なので︑﹁此方よりほ兵端をば開き不申幾重にも穏便平和に申諭し﹂︑局面空応回避することを献策してい  

る︵東湖全集一〇三〇頁︶︒つまりこれほていのよい避戦論であり︑幕閣の方針と合致したものといえよう︒   

︵2︶ 西村文則氏・会沢伯民三六六〜三六九頁︑水戸学大系二・解題︑参照︒   

︵3︶ 事実靂府は︑九月十九日の斉昭の建議に対して深く猫疑をほさんだといわれる︵水戸藩史料上編乾七六四塁︒   

︵4︶ 桜田門変の新鮮趣意書に﹁恐多くも征夷将軍之㈲居城へ爽秋共登城被仰付利へ狙撃応尊敬を被尽候有様春秋城下之盟を耽  

る比較に阿らず神州古来末国有之御失体こて実二冠履倒置之御処置と可申驚嘆之至り二俣﹂と見え︵水戸藩史料上編坤八一  

九貢︶︑また松平慶永はこの布薯に接しで﹁軍已に妥転及ひぬ天下の形勢今より山変すへしと深く変ひ欺かせ拾ひ先釈とハ  

串なから寛永以後止められ▼檻る御掟なるを異邦の例をもて許されんも容易からぬ事にこそあれ﹂と歎じており︑同じくⅦ楕  

︵五七︶ 五七   

晩年の会沢正志斎  

(12)

派大名の蜂須賀斉裕・ぬ平相模守らは﹁ゆゆしせ天下の㈲大事ともなるへき筋なるを御茸二御家門の歴々として黙止するへ   

き事かハ﹂との意見をのぺている︵咋夢紀事第二・ニュ八貞︶や  

︵5︶ このことは当時め人々により意外とされき﹂とで︑このために正志斎の声望ほ地におち︑彼の門に学んだものも去って大   

橋調布のもとに集まったといわれる︵水戸#末風雲録二四九貰︶︒  

︵6﹀︑安政六年八月十九日水戸藩よりの勅誌伝達の不可を摘諭する彼ほ﹁政令ハ其筋より哀に出候事聖賢之遷にて諸侯への号   

令等ハ#府より完工出不申而ハ政令多門に成候両天→ハ拾り不申︵中略︶朝廷より乱の端を御開披遊候様相成候間云々﹂   

と上番して︵水戸藩史料上編坤五三二頁︶︑幕府が政治の中心であることを強調している︒同様なことは万延元年一斉九日   

上書の﹁御伝達細催促之義も#粁ヲ勧催促大道正路に候処御家ぺ御催促ハ横道故実ハ御無理之訳にて行れ不中等に御座候﹂   

といった京都に対する批判的言辞鱒もうかがえる︵同書九三三書︒  

︵フ︶斉昭赦免運動の嘉発︑たとえば出府哀訴を極力警戒したことについてほ西村文則氏・会沢伯民三三七〜三三八東参照︒  

︵8︶ 彼の非伝達論にほ︑﹁身こかかり不申脇合より高みの見物致屈﹂る奉勅伝達論紅したがって︑むりに伝達したとしても諸   

侯の協力は得られず︑外圧は強大であって結局国内騒乱におち入るは免かれず︑かくては国内治平・公武合体の勅旨にそむ   

くこととなり︑また伝達は幕府への敵対を意味し︑名分の上からも許されない︑といい︵安政六Å・完・上菅水戸藩兼   

料上編坤五二八〜要一四頁︶︑また﹁勅書初伝達候ハゞ諸侯服灘と申義諜主之見込に候処元弘建武の比さへ武家ハ多勢にて官   

軍ハ何程も無之候況や夫より数百年武家之天下之様紅て覿延ハ有が如く醸きが如く東照宮朝廷を細萱ボ被遊様候得共二三百   

年天下皆兎照宮之御恵沢紅浴し西諸侯数国之外にハ朝廷を不知候上其家々之家老共ハ猫吏之事﹂というごとく︵万延元・三   

.九︒上智・同書九三二頁︶︑鵬応の時勢洞察と名分論の主張との上に立っていた︒  

︵9﹀斉昭の重ねての受諾に廃して正志斎は・﹁威義二公以来天朝#府を御尊敬被遊候御家警衛坐候故御遺志を被為継此度御憤   

被仲村候ても諸侯之模範と相成候様との尊慮蒜別而深く御憤被遊候程之御義﹂を主張している︵水戸藩史料上編坤五三三    第二十九巻 第一号  

、  

︵五八︶ 五八  

(13)

頁︶︒  

四   しかし返納を不可とする教派のはげしい反対運動が行われる︒すで豊年八月より︑幕府の抑制にょって︑勅託  伝達の夷があがらないのを不満与る二派ほ︑遂に徒党的結束を雪に至り︑小金駅鱒屯集して勅わ奉行を強い  

韻︑計琴鷺の慰諭筈︑ようや﹂退散し芳志乏の蔓票︵諸謂認諾︶︑署十 二月盗って︑幕府の返納の督促いよい宣急を薯げるや︑高橋多義・金子孫二郎・関鉄之介ら有志覧きいられ 

る激派の抵抗計び激化し︑江水往来の要地計軋結臥して︑返納を阻止せんとした∵﹂れ㌢同勢と㌍︵摘  

韻詣等薄庁は長岡勢を鋲定しない限り︑勅読返納の目的を達する︒とが出来ないため︑再三解散を命じた  が︑容易覧功葺︑翌万延元年二月十五日謹慎中の雷の諭書を示し︑これ施しない時は︑薄兵をして鎮圧せ  

しめようとした︵埴蒜ほ空瞞糾一︒このとき正奈は︑﹁徒に御遮納細道延二相成藤而己にて︑天朝公辺へ御対  

御敬上の御主君失﹂ってほならないため︑﹁兇逆2気﹂あり﹁犯乱之者共﹂たる長岡勢の討伐を強く主帳しており  

︵娼簑︶︑また﹁長岡之徒之如き狂妄ハ︑水ノ外ハ天下蒜なるぺし﹂とのべ︵話語紆Y計を以君諸  

し奉﹂▲るところの︵鮮欄墓︵絹逆明白﹂篭﹁逆徒﹂と糾弾空欄諾竿武田桝雲斎ちの非返納払Ⅷと  

するどく対立しているのである︒   

こえて万延元年去月に生り︑水戸浪士ほ亀田門外に大老井伊直弼を襲い︑これな乾した︒このことほ満天下の尊 へ4︶  撰派に快哉を叫ほしめ︑水戸においても︑教派にょりその行為を質讃されること妄ならないものがあったが︑こ  

れに対しても悪斎は︑﹁国家に対し白刃を揮候者共覧︑狂惇之所為と﹂評し︿謂軌︶︑是三月九日付蕃翰に ﹁三日之針︑天下の為ニハ宜候へ共︑水の彗ハ御心配孟儀﹂と七ため′︵咽翰︶︑隠田の徒を﹁桜田囚狂人とハ  

晩年の会沢正志斎   ︵五九︶ 五九   

(14)

桜田門変後︑幕府の水戸に対する返納督促もやわらぎヾ八月斉昭の死と共軋返納猶予が公許され︑政派の屯集も  二心退散した︒しかしなお残徒もあり︑彼らの中にほ薩藩へ身を托して撰夷の先鋒たらんと欲したり︑或いほ脱藩  

㌧て自由な行動をとる者も出て来た︒︒れらの壷に対して正志斎は︑﹁狂徒﹂︵詔一㌔軌狛︶﹁余賊﹂と呼んで ︵肇馳﹀ 

一  

︑亭レて否定の態度㌢﹁閣老へ御内談︑狂輩党克多く牒引牧候而も騒々敷事杯出薫ハ︑  

彗恐入候問︑彗て御処雪中様ニハ成中間敦候哉﹂というど︑とく︵嗣請書︶︑その処慧幕府へ左することを  主張する叫である︒しかるに開港後︑物価の騰壇∵外人の横暴などにより刺激せちれて︑安政六年七月以来︑外人   へのテロ行為が︑横浜を主に頻発し︑万延元年十二月薩藩士によるヒエスケン暗殺︑文久元年五月水戸浪士による  東禅寺襲撃をひき起すに至った︒これらの事件ほ︑責任者としての幕府を甚しい苦境に追い込んだが︑これに対し  

て正志斎ほ︑﹁東禅賊少しも獲候へハ︑先ツ幕へ御申訳も有之︵中略︶大騒故︑諸村へも響合賊巣も散候而︑所々   弁した︒更覧還に発ったとの噂ある﹁乱源﹂たる金子撃一郎が︑勅旨伝達の目的達成のため︑公家にとり入って  ﹁勅畜を以諸侯を手に付︑蒋府を却し︑操夷術を遂候封策﹂をめぐらすのでほないか︑幕府に報じて警戒すべきで  

ぁる︑と上旦謂軌︶︑なお﹁大老を害し候事︑雷敵兵衛も︑和郎誹髭離町議︑両人牒主蛋明白牒︒  

此方より頼姦忌も︑幕二両石揃候筈なるべし﹂といい︵檎憫細棚僻讐㌘難関則︶︑その速やかなる逮捕をさ  ぇ願うのである︒彼がこう主張するのは︑﹁少壮之動揺を問腰間付幕府へ御叛逆に相成︑御代々棟数上之恩召に御  背︑御本家へ御楯つき被遊候てハ︑温朝之為義を害し候顆の不義に相成︑天下後世へ御社辱に相成候も難計﹂いた  

めであった︵群鳩詣等  

第二十九巻 讐号  ︵六〇︶ 六〇  

頑民と可可申欺︑当人ハ天誅杯申候へ瑛︑天吏之管と見へ候へ共︑其職に触之蝿名チ不免﹂と攻撃し語群閥︶︑  

︑r 

この企て  

︵5︶  

が﹁出奔人共之所為覧毛頚御拘り鰻之﹂く︵  

︵6︶   

水戸藩史料上  編坤九三〇頁  ︶︑斉昭の意覧たものでないことを極力陳  

(15)

ま凍﹁横浜焼打等︑如諭濾勢の叛㍍恨もの言篭︶御同慨テ御座候﹂との感慨をもらし︵暇㌍臥断㌔澗  

宗︶︑表して否定の態度冤せている︒むしろこの頃の彼ほ︑幕府の勧告にょり執政笹任じられ竃守派興津良 ∵  顕の代弁者として︑激派浪士の弾庄逮捕を正当ずけていた観がある︒その彼が︑翌二年正月坂下門における安藤信  

正襲撃の憂㌣ト音賊﹂と称し誉とほ︵諾宗幣︶︑もはや不思議ではなかろう︒すなわちその指導恵で  

あり︑正月十二日筆削に逮捕せられた大橋納奄に対し︑﹁大橋迂潤如諭なるへし︑如何なる乱階も不可測候所︑発  

︵8︶  

覚候ハ天下の事故︑大塩之類  

としているのである︒今や彼ほ︑文久期の専横運動と全く無線のものであるそとを︑一自ら言明したのだったむ  

︵⊥︶ 万延元年正月二十五日水戸藩家老返書に﹁長岡勢ハ先手にて泉町伊勢屋堅ハ方にも旧冬より五十人余り滞留罷在随而伽家  

中ハ勿論郷士百姓共屋敷く等へ潜屈致居惣人数何百人程二可相成哉末た待と探索行届兼候次第﹂とあるように︵水戸藩史料  

上編坤六七三〜六七四員︶・︑このとき水戸の町人・百姓・郷士層が長岡勢を潜屈させていることは注意すべきである︒   

︵2︶ このような彼の髄度については︑当然のどとく激派から痛烈な非難が寄せられる︒たとえば野村鼎笑ほ彼の返納論をコ  

貢君︵大場一員斎︶例之通忠男今日も出可け申候処要路之微力ごたごた多分会翁︵正志斎しク論二落入可申模様慨嘆有余事  

二衡坐候﹂と批判しており︵安政六・一二・二〇ト関鉄之介宛書翰・水戸藩史料上編坤六五六東︶︑また床井潮徳が﹁当今  

政府監府都て粁臣充満し無体二誠士を退候様相成侯次第恐入候御義三春存候既二長岡へ髄出居候誠忠之士民矢玉な以打取恨  

杯可意次第二御坐候﹂ノというのほ︵秘笈維録四・水戸藩関係文畜蜃二・三二六〜三二七頁︶︑正志斎への憤懲をもこめたもの  

と解していいだろう︒また万延元年八月六日の項をみると︑激派に属する原任蔵が︑重心斎の孫娘を妻直する約寓のところ  

′  

︵六こ 六一   晩年の会沢正志斎   蒜就措候様こも成候事と存候︑此節ハ舎匿之者も減候撃と見臥喝潜又追々捕踵可有之候﹂浅/べ花頒㌔︶       ︵7︶  ﹁賊﹂とよび︑﹁久敷見遺し候者も追々手に入﹂れ︑﹁捕方中たるみに相成﹂らぬよう希望しており  

と云へし﹂と批判し︵誠一.璧︶︑ノ翌姦乱者ときめつけ︑発覚逮捕を﹁天下の辛﹂   ︵撃頒轡︶︑  

(16)

︵六二︶ 六二   第二十九毯男∴号  

孫娘の不品行のため破約とし︑藩当局も聞届けていたが︑これほ偽りであって︑﹁会沢総数之孫なれハ合せて会沢に迄恥を   

与んとの企なりといひふらし此軍を会沢背山豊田を初とし百方周旋して原な折んとす学校にてハ鈴木助教只者人正議を持原   

を救ふよし﹂との記述があり︵同書六〇頁︶︑正志斎が政派から殊の外恵まれていたこどが知られる︒  

︵3︶ しかし現実ではこのよう紅対立する激派と正志斎との間に︑本質的にどれほどの違いがあるか︑ということを考えばねな   

らない︒たしか牲激派ほ︑勅読伝達・非返納を唱えて幕府当局とほげしく抗争したのであるが︑それほ決して将軍・幕府へ   

の敵対を意味するものでなく︑むしろ﹁公辺御輔罫之為﹂とされ⊥水戸藩史料上編坤四七二頁︶︑﹁柳営の威を伐り私を営   

候心より暴横之取計﹂をなす大老・老中をこそ礼弾するものであることを︵同書三〇一員︶︑彼ら白身いたるところで表明   

している◇しかも政派ほ撰夷の名分をかかげた反幕勢力の感頭を非常に警戒し︑薩藩士高崎拷太郎が水戸との提携を求めて   

来たとき︑正志斎と全く同じく︑外様薄とは興るものとしての三家水戸藩の立場の重さを説いて︑尊接運動の躍起を蹄托す   

るのである︵同書四二五頁︶︒すなわち銭・激両派ほ︑その根強い御三家的敬辞意識に同じ程度の古さを持っているのが知  

られ︑したがってその対立は︑長い覚争に由来する蘭闊的対立にすぎず︑イデオロギーの相違にもとずく基本的なものであ   

るとは到底考えられない︒ただ激派が︑ともかくも薩長と通じての等親運動への山応の志向を持っている限り︑そこに正志   

斎ら践派のいたずらなる守旧性から山歩すすんだ斬らしさがあることは認めらるぺきであろう︒なおこの点に関してほ小論  

﹁反#思想の考察﹂ ︵日本歴史第八十八号︶を参照されたい︒  

︵4︶ 三月十八日久坂玄瑞宛入江杉蔵書翰に﹁聞︑近日江戸報償実に投撃而起舞す︑天下皆震動すとほ比率なるへし︑為朝廷神   

州の正気の末鎖を賀すへし︑神国の終に不亡る革も是にて可卜知也﹂とある︵久坂玄瑞遺文集上一九四頁︶︒なお維新史第   

二巻七二二〜七二lニ頁参照︒また﹁桜田之義士﹂主賞扮する水戸藩政派ほ︵水戸藩関係文書態二・八二頁︶︑﹁日本二千年   

来之御高恩を不忘却神州巽狭之放と相成候儀を憂ひ奉悩叡慮候儀を不被忍この為紅仙命な投出し幕府を扶助し夷狭を払ひ叡   

慮を安し奉んと其実意を被尽候儀誰可為そや全く公辺之衡為公辺之御為ハ神州之和為二俣得ハ天下之忠臣則是也﹂と論ずる   

(17)

五   

山.方︑京都においてほ文久元年五月以来︑長井雅楽の指導する長州薄によって︑開国和親論の上にたつ公武合体  

を実現しょうとする試みがなされたが︑当時朝廷では鎖国撰夷が支配的であり︑これを背景とした在京尊撰派の反  

対にょって︑翌年四月にほ︑この道動はうち切られた︒これに代って島津久光が︑山千の薄兵を率いて入京し︑朝  

廷の支持を受けて幕府の改造をほかり︑公武合体にょって政局を収拾せんとし︑五月勅使大原重徳訂泉下をみるに  

至った︒   本ノヤ・   のであるが︵同書三二三〜三二四頁︶︑﹁義士﹂ ﹁忠宙﹂たる所以が↓徳川家之御武衰を車扶助僻事﹂笹求められてい右のは  ︵同書三三一員︶︑前註の問題にからんで注意すべきである︒  

︵5︶ もっとも桜田門変と斉昭との無関係を強調するのは激派においても同様である︒  

︵6︶ しかし桜田門変後三月末に至り︑薄家老らほもっぱら勅書返納猶予の命を得んとしたのに対し︑学士ら︵当然正志斎も含   

まれる︶は︑いまさらこの事変のために辟持すべき理由ほない︑としてなお返納を主張した︵水戸藩史料上編坤九五三頁︶︒  

︵フ︶ 東禅寺事件後幕府の水戸政派浪士逮捕の令急となり︑薄庁も止むなく続々捕縛転つとめたが︑一方にほ逮捕助行を唱える ︑   

ものがあり︑その中終始もっとも強硬の説をとったのが正志斎であった︒その理由は﹁激派有志を目して惇徳違法国家を害  

︵8︶ 正志斎は大塊平八郎について﹁大坂の賊︑大塩平八郎の如きは︑湯武を以て自ら任ず︒凍乱して註に伏するも亦︑伏して   

陽明説を誤会し︑専ら己の心を師とす︒自信の大に過ぐるのみ︒−心を生し串を害するの甚しき者なり﹂と批判している︵下   

学適言巻之二・水戸学大系二・二八七頁︶︒すなわら彼にとって大塩は﹁賊﹂であり﹁凝乱﹂を企て﹁誅に伏﹂した︑と評   

価されるのである︒  

晩年の会沢正志斎   する者と為し厳に彼等を処分して以て典刑を正すぺしと云ふ檻在﹂ った︵水戸藩史料下編一〇八頁︶︒  

︵六三︶ 六三   

(18)

論を支持した︒そして当然のこ主ながらこのような彼の論ほ︑﹁将軍家御英断奉感服候︑東照宮余沢未尽︑天未弄  

徳川氏若何卒長く御待望致度候﹂といえるどを ︵警恥︶︑苫の命道の長きを願う意識によって支え  

られている︒注意すべきはこの頃に至って正志斎が︑閏八月十九日原田明善宛書翰に﹁鎖国之論人一応尤之様二候  

へ共︑陣勢を不知候而ハ不相成︑既二乗照宮の布時ハ︑鎖国厳二相成候へ共︑共時ハ外国之勢当今之様ニハ額之︑  

今ハ万国皆通好之世界二成候ニ︑神州而己孤立候而ハ︑斉桓哲文之時︑同盟二列不申可如く︑世界を敵ニ致候訳こ  

て︑小敵2牒敵之虜也と申勢政︑諾芸親を牒候も不㌢警被存牒﹂とのべて︵撃諾下︶︑貰和親  

通商締結を止むを得ぬこととしたどとく︑﹁文久二年︵中略︶時務策を著ほして仙橋刑部卿に献じ︑彼我の大勢を  

審か賢︑富針の実効嘉すの意墨;いるごとく︵認諾伝一︑豊岡年夏秋の交︑開国論と題亮妄を門  

下に示し︑外国の火器はきわめて優秀強力であるの笹対して︑我が兵は実用にうとく︑必勝の成算もなく︑戦を開  

けは民を苦しめるもととなり︑更にほ国家安全のために ﹁今時外国ノ通交ハ不得巳勢ナルべ﹂ きを説いているの  

半長と同意之  

︵1︶  

︵六四︶ 六四   第二十九巻+慣二号  

このような情勢下にあって正志斎は︑文久二年三月十八日付書翰に﹁長州云々何共不容易事二候︑天正論−仰ハ候  

へ共︑朝庭ヲ激公武二分シ被成候ハ\︑外虜付込候而︑畔森の術を施候ハ必然也︑啓二兵力のみならず︑自由三邪  

以人心を酎讐眼前也︑諸侯芸大姦小西の如きもの出来内応針ハ∵天下の大患牒とし蓋︵帽翰首帝  

の対立は﹁外虜付込﹂むところとなり︑ひいては徳川幕府による支配体制をおびやかす諸侯の出現をよぶ︑とすこ  

ぶる憂慮するのである︒すなわちL欄年五月頃から︑公武合体につ\キ薩落が撰翼を主軋責都へ接近して歓心を得︑  

大諸侯をして臣称せしめる芸るであろう︑ときわめて警戒︒憂慮し︵痛㌃Ⅶ㌔︶︑地方では1﹁サツの説︑摺紳二  

入り雷勢︑油断不相成︵中略︶長州之説言︑公武御合体の望月き候様至願也﹂とのべ.︵娼⁚配三︶︑﹁西諸候臭   

由可賀︵中略︶防州以天下自任之由︑可空と語り︵旭⁚撃むしろ長州藩賢る開国和親的公武合体   

(19)

覧られるよう蓋ほ謂琴︶︑乱国論を公然と打出したぺとで蟹しかし甥政三年斉昭が軍制訂し︑  

神発流砲術を銃陣組織とすると︑その法が洋式であるため嫌う老多く︑﹁会沢安の如きは上害して之を痛論し︑蛮陣  を模擬する増本警央㌢り主語撃望月弘道館の閑雲が行われた際︑昌牒︒桑原信毅  

の蘭学教授のことについての建議転封して︑斉昭ほ﹁於同所横文字教授之儀は︑我等申迄も触之︑会沢青山とても  

よろしくとは存串間敷︵中略︶鹿又会沢とも申談にて︑弘道館中にてほ横文字教授之儀は止に相成候様致度﹂と云っ  

て許可しなかったが︵謂弘一︑正喜自身も﹁於弘道舘横文字教授之儀︵中略︶パ御明察2通︑本より不雪は存候  

処︑指揮候ても所詮用不市議は指見候へ共︑文武教場とも逮ひ︑御長屋は段々の住所紅て別辞に候間︑先つ不得巳  

と存居候処︑此上万一教場転て教授仕候様にも相成候ては︑以の列神聖之道之大害と奉存候﹂との意見をのぺぺぉヶ  

︵謂弘一︑︵先賢るといぜんとして通商と邪教と洋学の三者が︑侵略者雷外国笠つの面とLて︑結び  

つけられてしか促えられておらず︑そればか㌢か︑洋学を﹁神聖之道之大害と﹂友ていたのであり︑文久二年に至  

りても︑なお﹁蘭靡﹂﹁蛮語﹂﹁蘭風﹂﹁蘭誓い重量がしきり造語ていて︵再開⁚㌦軒㍑︑︶︑封建社会  

の補強としての︑戎いほ海防に備えるための︑洋学の技術面における利用性にさえ︑充分に目覚めていないこと︑  

また片方で開国をいいながらも︑﹁通好スルトキハ邪教の毒久レク人心に漸演シテ︑天下二滋蔓レタラバ︑轟ヲ禁  

ジ難レ︑今ハ邪教ノ邪ナル﹁ハ︑天下ノ人不言ソテ是ヲ知ル︑寛永二比スレバ禁ジャスキ勢ナキエソモ非ズ﹂とし  

て︵警凋肇︶︑キリスト教の流入軋強い慧韓ていること︑︑などをあわ睾⁝︑海外情勢への彼の洞察  

の深化がそうさせたとは︑到底考えることが出来な\い︒   

しかるに︑先にのべたような京都の情勢に対応して︑幕閣の政策にも変化が生じ︑四月一橋慶喜・松平慶永らを  

赦免︑七月それぞれ後見職・政事総裁磯に任じ︑八月元老中安藤信正・久世広周を致任・謹慎に処し︑閏八月大名  晩年の会沢正志斎  ︵六五︶ 六五   

(20)

︵六山小︶︑六六  第±十九巻 第山号  隼富強の描を講ぜしめ︑武備強化につとめしめるべく参親の期をゆるめる︑などの令が発せられた︒これらについ  

ぺ閏八月ニ→九日付讃翰・に︑正嘉ほ﹁著大変革痛快也︑此上二利二而︑管を善く候様祈中條﹂とのべる︵帽翰︶︒  

公武合体のための改革は︑過とより級︑の望むところであった︒しか︒るにまたこの頃から京都ほ長州蒋の手に帰し︑  接夷論はますます盛んであり︑かかる中で九月七日将軍上洛は明年二月となる旨︑幕府から布告され︑また問八月  には故斉昭への贈官の事があり︑十血月には三条実美が接巽督促の勒使として東下して来る︒このような情勢下に  

あって彼は︑﹁破約之事︑曲在我候様蒜︑ハ不宜候へ共﹂と知りつっ且か㌔︶︑﹁頂擁空事蒜︑逮二不奉命候  

ハ\貿へ和親征との事也と云︑左傾ヘハ官軍へ弓を引候事不相成候問︑警決候より外無之候﹂とのべ︵指針ニ︑  

名分論的立場から︑成否を夫に任せて鎖擁を決意する外ない︑と云ってはいるが︑しかしこの頃彼管すでに擁夷  実行が現実の問題として不可能なことを知っていたのであり︑さればこそ﹁京師より和を破り候と申事二成候間︑  外国より京師を敵と致候間︑京師にて敵を徹受二可相成候所︑堂上方も夫声ハ不心付︑軽々敷擁夷々々と申事と相  

最﹂と論じ︵欄㌢甑粘釦謂詣翰︶︑慧を令する朝廷に対して︑京都自らが敵を引受けたがよい︑との慧  

をもら八景﹁京嘗無紀綱︑是又同断﹂とか︵読取一︑﹁京師ハ長州始め︑部面深謀遠慮なく︑大事を容易二  

十分l脚出来候様二心得屠︑師次之日工点り狼狽すへし︑天使杯へものみ込せ度候へ共︑中々のみ込兼可中條﹂とい  

蔓﹂とき︵誓煎一︶︑雷としでのするどい批判を針署雷︑惹この京都の背後盗って﹁深掛遠慮警論﹂  

を竜﹁込﹂せた長州薄竃鴨翰︶︑接げしく追及する㌢ある◇忘﹂襲針つづい嘉  

渚による援夷督促の行動に︑非常な靖疑の眼を注ぐ時︑彼は︑はじめ彼の唱えた尊王敬幕の名分論としての擁英が  討幕のための援夷正すりかえられつつあっねのを︑いみじくも感じとったからではないだろうか︒彼が﹁長土参内︑  

薩献米︑長土献針候由︑騒々敷事也﹂と冷笑し︵指針二︶︑是﹁薩の汝謀可慈之所︑擁雪中事こて得衆心と見   

(21)

申候﹂︵旭⁚恥︶﹁実之事︑公武合体云〝ハ宜候へ共︑︵中牒︶牒が主蒜候而ハ︑恐くサツの術中一品落可被成  

哉︑黒田杯帰国︑公武合体を心得候七なれハ︑宜候へ共︑段夷を主二致候ハ\︑サツの掌中に愚弄せ打るへし﹂と  

くり返し﹁実を誉致﹂すこと針危険さを説いているのほ︵肥⁚恥︶︑これを書きしてあ嘗ある︒すで軋のぺ  

たところに明らかなごとく︑討幕は︑正志斎に七って︑政治論からいっても︑道徳意識からみても︑絶対に相容れ  

ぬものであった︒   

十一月二十二日︑水落要路の交番が行われ︑従来枢放紅あって勅綻非伝達・返納を唱えた仙派はしりぞけられ︑  

新たに大場︵一真斎︶・武田ら教派有司がこれ軋代り︑また蒋府も井伊以下の#更を追罰し︑更に安政大獄・桜田門  

変の志士を赦免した︒ついで十二月十五日︑かの安政五年八月八日水戸に下った勅誌が︑はじめて布告されるはこ  

ぴとなった︒この間の正志斎の反応の仕方打ついては︑つまびらかでない︒しかし京都の情勢については︑﹁京ニハ  

可議事多し︑可嘆︑是も賢輔無之故可︑︵中略︶京師七て不戒見成之気味こて︑苫心政二近し︑ケ様二天下の事情御存  

無ぺ天→之政ハ如何と存臥﹂うどとく︵㌍慰︑いぜんとして批判的態度を持ちつづ誓ぃる︒こゝ蓬久  

三年二月︑将軍上絡︒当時京都では島津久光の公武合体論客れられずして︑尊撰浪士の運動が激化︑長州藩士久坂  

玄瑞らは︑二月十一日関偏に上書して︑撰夷期日決定を強要し︑二十日毛利定広は撰夷祈願を建白する︒しかる紅  

前年八月の生麦事件について︑英国の抗議いよいよ急となり︑この対策をたてるため︑三月二十五日慶篤ほ東下し  

た︒一二月四日付蕃翰に︑正志斎牲﹁償金も半遣候由一−も承候如何︑償−−て外夷謝絶と申啓二候ハ︑京こても御輿論  

無2可︑細谷休も牒うなものと存候︑実は何可処牒も有之牒とノい毒償金問牒をて葺トただ公武  

の合体をねがうのである︒しかし時勢はいよいよ急迫し︑四月二十日将軍家茂は︑来月十日をもって痍夷決行する  

旨奏するに至った︒しかるに五月九日︑江戸においては小笠原長布が︑独断で英国へ償金を渡し︑つづいて上洛し  

︵六七︶ 六七   

晩年の会沢正志斎  

(22)

︵六八︶ 六八  第二十九巻 男山号  

て将軍妃上表せんした︒これに対して朝廷ほ激怒し︑幕府をして長行を責めしめたが︑決着をみるに至らサして︑  

六月十三日︑家蔵は海路帰京する 

府も遂︑に鎖棋の事を決定︑実行にうつさんと決意するに至った︒この風雲急なる中︑八月十八日の政変を待たずし  

て文久三年七月十四日八十二才の正志斎ほ︑その生涯の蓉を静か軋閉じるのである︒   

T︶ しかしこゐ辺における情勢の理解の仕方︑たとえば﹁京都ハ嶋津之論一般一一成浪士暴論二普上方圧倒致シ候由﹂といい︑  

薩薄を撃璧苦みなしているどときにはヾ幾分ズレがある守うである︵水戸藩史料下編三二貝︶︒   

︵2︶ 彼の開国論の主張は︑ただに水戸藩にぶいてのみでなく︑天下の視聴を驚かしたといわれる︵水戸幕末風雲録二八二頁︶︒  

中立派あ一人豊田靖はこれについて﹁会沢新著之琴︵中略︶右之論以前新論の見とは相異畢寛老宅放なりなど往々被議候得  

共愚見にてほ流石老竃にも有之間数と奉存候尤尽くほ服し不申候得共誇り候乳息輩之所及には無之候様相見候云々﹂との意  

見をのべており︵水戸藩史料下編ニー五頁︶︑この時彼が﹁乳息撃﹂・すなわち激派から﹁老篭﹂の結果と評されたことが知  

られる︒   

︵3︶ 沼田次郎氏・#未洋学史二五七〜∵五入頁参照︒   

︵4︶ 沼田次郎氏・幕末洋学史四八〜四九頁︒沼田氏ほ洋学白身の進歩性・反封建性な認めつつも﹁元来洋学の発展は常に封建  

制補強の具としてであり︑さればこそ鎖国撰夷の具として︑まそたのための殖産興業富国強兵の技術としてまた学術として  

実践された﹂.といわれる︵同書二六九頁︶︒   

︵5︶ 洋学受容について水戸薄における識者の意見を眺めてみると︑東湖ほ安政元年七月すでに﹁英数防禦之急務彼な知我を知   

候儀肝要候処彼を知候ほ蘭学之外額之︵中略︶是非蘭学生両三人も勧召抱被遊度﹂いと望んでおり︵佐久間致敬宛苔翰・水  

戸藩史料上編乾九一九頁︶︑それ故に﹁実に当今之急務西学より急なるほ無之あはれ著眼の土山両班西学心得居候はゞ墨魯  

応接等にも許多の大益可有之処悟哉脚人も無之﹂と歎じた︵二・五・山九・豊田亮宛酋翰・同書九二〇頁︶︒また武田緋雲   

(23)

斎も四年六月﹁人才を選んで英語を学習せしめ以て外交の用に任せんことを﹂欲している︵同書九二九〜九三〇頁︶1すな  

わち彼等ほ海防の具としての洋学の技術面に仙応の理解をもっていた︑といえよう︒だが他面東浦は﹁蘭に僻し候へば其害  

も不少扱叉癖無之位之人ほ学問も手薄く扱々こまり申候﹂との言葉をのべており︵同書九山九頁︶︑耕雲斎も﹁併西洋学計  

流行仕候様相成候義も難計何人と定被仰伺候はば夫等之変も無御坐候様﹂′と気を配らねばならず︵同書九言○貢︶︑更に激  

︑    派としてほ﹁披が技儒器械広めミ心酔してために我国の精神を奪ハれ﹂んことを警戒し︵万延元・三・森蕃筆記・同坤九二  三貢︶︑﹁無識之従蘭学致し候へば前々中上候通之弊風を生じ大害を引出し候問安路は勿論姑息之小人蘭癖撃は速に微増斥  被遊他日之愛を検め﹂んことを願っており︵文久二・二・初・同下編二三九頁︶︑正志斎と全く同じ盲さを持っていたこ  とが知られる︒  

六  

以上のべ来ったように︑安政以後における会沢正志斎の思想と行動とにほ︑かって文政年間撰夷の風潮急なる  

ときあらわした︑あの﹁新論﹂にもられた烈しい尊扶の志気は︑もほや全く姿を消し︑緊急複雑なる政争に対処す  

るぺき具体策ほはとんどみられず︑ただ封建制下のわが蒲︑更にその宗家である徳川将軍の安泰と︑この幕府によ  

り支配されるべき天下を新勢力の脅威から擁護すること瞥﹂そ︑その情熱のすべてが注がれていた︒かって斉昭擁  

立の際にほ︑薄法を犯しての上府運動さえ辞さなかった行動精神も全く失せて︑主君の赦免欺願にさえ非常に消極的  

であって︑も・っばら幕府への顧慮にのみ終始し︑他面積極的な尊横道動へ投身していく教派・天狗党に対して︑老  

いた彼は〝名分をやぶり主家と天下を危うくするもめ〃として︑はげしい憎愚をぶちまけているのである︒すな  

▼わち彼は︑今や明らかに︑守旧かつ反動の一派に身を投じたのであった︒いや︑いいかえると︑彼が彼の信念を固  

︵l︶ 持しているとき︑時代ほ彼をのりこえて進み︑もほや彼の立場そのものが時代からとりめこされてしまった︑とい  

晩年の会沢正志斎  ︵六九︶ 六九   

(24)

︵七〇︶ 七〇  第二十九巻竺号  うのが当っているかも知れない︒さればこそ﹁余深く水府の学に服す︒謂へらく︑神州の道斯に在りと﹂といえる  

どとく︵撃紅酢鮎酎諾鹸璃慧︑望め水戸的なものに非常なあ嘉れを持っていた尊慧士富も︑  この頃にはむしろ水戸の因循さを非難しており︑今や水戸が︑時代を指導する力を何も持っていないことが暴露さ  れて来たのも︑当然であろう︒更覧の数多くの著作払おいて︑儒教の理念と論理とにより︑論旨整然とのべられ  ていた彼の国体論乃至は尊王論も︑結局は革新性に遠く︑﹁臣民たらん者︑各々︑其の邦君の命に従うは︑即ち幕  

府の政令提ふの理賢︑天朝を仰ぎ︑計に報い奉る畠﹂で奇︵韻媚‰鳩諾虻㌔︶︑﹁天祖︒天孫の深仁  

厚沢に浴し︑雷︑邦署の政令︑刑禁墓じ︑景として楽し﹂むこと諸道とされているよう蓋語一重い  ゎば書物の上で︑現実′の秩序と矛盾しないように説かれた封建的教学の主張転外ならなかったのであり︑幕府と朝  

廷との現実的な対立に遭遇するとき︑彼は︑封建制下軋あり︑将軍・藩主蔽lって支配せられ︑それに臣従してい  る自らの武士としての立場を認識せざるを得ず︑つまりは反京都的態度をとらざるを得なかったのも︑また無理から  ぬところであった︒彼ほ︑現実におい︑てほもう︑熱心な尊王思想家でもなくなっていたのである︒それではこのよ  うな彼の反動性ほ︑蒜どのようなところに由来しているのであろうか︒﹁水戸蒋の長老としての彼の行動は︑常  に弘道飴督学といふ︑水戸藩最高の教育者の立場にあって︑慎重を極めたものだったのである︒たとへ結果として  

消極莞点があったとしても︑直紀これ藁難する如き牲許きれない﹂というごとき︵棚琵露班鮎︶︑い寄らな  る弁護はもはや許されない︒私は以下のどとく賛意︒結局正志斎においてほ︑外圧の深化に対して︑天下社釈の  平安をの姦ったことにもよるが︑儒教的教養写らうちされたいわゆる封建警が︑芸思想の中核を形成して︒  

おり︑﹁天朝と御本家と御行違多く︑天→2変難計︑万宗慮之儀有之節・ハ︑縦令朝命荒も︑御本家と反目之勢  に成候而ハ︑義朝之為義を害し候顆に近く︑名教装いても衆照宮義公之思召二於候而も︑如何と奉存候﹂という   

参照

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