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環境国家論の現代的意義 : 環境基本法をてがかり として

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(1)

環境国家論の現代的意義 : 環境基本法をてがかり として

その他のタイトル Eine gegenwartige Bedeutung der

Umweltstaatslehre und das japanische fundamentale Gesetz fur Umweltschutz

著者 竹下 賢

雑誌名 關西大學法學論集

巻 44

号 4‑5

ページ 687‑706

発行年 1995‑01‑20

URL http://hdl.handle.net/10112/00024631

(2)

環境国家論の現代的意義

ー環境基本法をてがかりとして

1

竹 下

(3)

一環境基本法の基本姿勢

1二系列の環境保全

m

生活環境の保全

2両系列の法理綸的関係

3生活環境保全の進展とその限界

ニホフマン﹁環境国家﹂論と環境の保全

1文化国家から法治国家へ

2環税保全と国家の任務

①法治国家的自由権の拡大と生存権

②産業国家から環境国家へ

(4)

ミットの会議が示したように︑発展途上国との関係でも︑

一九九二年六月にプラジルのリオデジャネイロで開催された︑﹁環境と開発に関する国連会議﹂︑

なお開発を重視するなかで進めて行かねばならないとされ︑環境保護は開発にリンクされている︒ いわゆる﹁地球サ

ミット﹂は︑環境保護がいまや世界的に論じられるべき︑最重要の問題であることを鮮明にした︒ここでは当初より︑

環境保護よりも国土開発を優先する傾向にある︑発展途上国の微妙な立場が注目された︒しかし︑プラジル・地球サ

やはり環境保護が推進されるべきであって︑ただ︑それは

こうした方向性は︑﹁持続可能な開発

su st ai na bl ed ev el op me nt

﹂という周知の標語によって集約的に表現されるの

だが︑本稿で取り上げるテーマに関係するのは︑この標語に含意されたいわば上位の規範的要請である︒そのもとで

のみ国土開発に対して︑環境保護を許容し︑調和的な関係に立つことを求めることが可能になるといえよう︒

その種の要請は︑同会議で採択された﹁環境と開発に関するリオ宣言﹂から読み取ることができる︒まず︑各国の

目指すところは︑﹁われわれの棲み家である地球の統合的かつ相互依存的な性質﹂を認識して︑﹁地球的規模の環境と

開発のシステムの統合性﹂を保全することである︵前文︶︒そのことは︑人間が﹁持続可能な開発﹂を計ることを意

味し︑また︑﹁自然と調和した健康で生産的な生活をおくる権利﹂を持つことを意味する

(l ) 

も保全すべき環境とは︑﹁地球の生態系の健全性と統合性﹂なのである︵原則

7)

このように︑リオ宣言は地球を物理化学的に物体としてではなく︑自然の生態系として把握し︑その生態系の自己

保全過程と調和したという意味で︑持続可能な開発を各国の責務としている︒この意味については︑

` 

いまだ不明瞭さ ︒そして︑何より1)

(5)

はまるものである︒

第四四巻第四・五合併号

一九九三年︱一月に﹁環境基本法﹂

一三

︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑人間と自然の調和的な共生とでもいえそうな理念が︑ここには含まれているのである︒

さて︑リオ宣言は原則2その他で︑環境保全に対する各国の責任を強調しているが︑わが国では︑これを受けて︑

0月に﹁環境基本法制のあり方について﹂の審議会答申が出され︑

(2 ) 

が制定されるに至っている︒本稿は︑この環境基本法の基本姿勢を見ていくのだが︑それは︑そこに上述のリオ宣言

の理念が生かされているかどうかを問題にしていくことを意味している︒そして︑その理念実現への方向が不十分で

あることを確認した上で︑最近︑ドイツで展開されている環境国家論を見ていくことにしたい︒

環境国家論は︑環境保護が環境破壊をもたらした諸産業による開発についての評価と不可分であることを︑基礎的

な観点から指摘するものであって︑産業国家から環境国家への国家理念の転換を求めている︒この意味では︑環境保

護と国土開発の関係についての問題状況は︑発展途上国はもとより︑程度の差はあっても︑本質的に先進国にもあて

環境基本法を概観し︑全般的な意見を述べるとすれば︑それは︑最近のわが国において環境改善への具体的な施策

が進展するなかで︑その施策のグレード・アップをはかる方途として︑この立法の意義を評価することができよう︒

環境庁の資料﹁環境基本法案について﹂によれば︑同法案の必要性が次のように表明されている︒

﹁今日の環境政策の対象領域の広がりに対処し︑特に都市・生活型公害や地球環境問題等に対し適切な対策を講

じていくためには︑規制的手法を中心とする公害対策基本法︑自然環境保全法の枠組みでは不十分︒国・地方公

環境基本法の基本姿勢

0 )

(6)

まず︑注目すべきは︑この目的規定の前段であるが︑

最低限度の生活を営む権利を有する﹂という憲法第二五条第一項の︑

五条第二項は︑具体的に︑社会福祉︑社会保障︑公衆衛生の﹁向上及び増進﹂の努力を国に求めているが︑これらが

国民に生存権を保障するための例示的な領域だとするなら︑本法案によって︑﹁環境保全﹂もまたそのための領域と

( 5)  

して設定されたことになる︒

(1) 

される最終的な目的が︑次のように規定されている︒

共団体はもとより︑事業者・国民の自主的取り組を踏まえ︑多様な手法を適切に活用することにより︑経済社会

(3 ) 

システムのあり方や行動様式を見直していくことが必要﹂︒

このように︑環境基本法は︑環境政策の広がりに応じて︑新たな取り組みを可能にするために必要とされるのだが︑

ここで問題にしたいのは︑同法の基本姿勢であり︑それを同法条文から分析的にみていくことにする︒

二系列の環境保全

環境基本法の基本姿勢には︑大きくみて︑二つの流れがあるといえよう︒条文でまず前提になるのは︑﹁第一章総

則︑第一条目的﹂であるが︑そこでは︑当該法律の目的は︑環境保全の基本理念を定め︑国や国民その他の責務を明

らかにするとともに︑環境保全の施策を総合的︑計画的に推進することとされている︒そして︑それらを通じて達成

( 4)  

﹁現在及び将来の国民の健康で文化的な生活の確保に寄与するとともに人類の福祉に貢献することを目的とする﹂︒

生活環境の保全

いうまでもなく︑これは︑﹁すべて国民は︑健康で文化的な

いわゆる生存権規定に対応している︒この第二

(7)

(2) 

規定と呼ぶことにしたい︒

第四四巻第四・五合併号

この﹁環境保全﹂は︑直接には︑同法第二条第三項の公害の定義につながる︒つまり︑公害とは︑﹁人の健康又は

生活環境に係る被害が生ずること﹂であり︑この公害を除去ないし防止して︑環境を保全することが︑環境基本法の

目指すところとなる︒このように︑ここでは環境の保全が﹁生活環境﹂の保全に限定され︑国民の﹁生活環境﹂の保

このような環境基本法は︑公害対策基本法を発展的に解消したものといえ︑部分的にそれを受け継いでいる︒上記

第一条前段の﹁国民の健康で文化的な生活の確保﹂という環境基本法の基本理念は︑同法の施行によって廃止された

﹁公害対策基本法﹂にすでに登場している︒公害対策基本法の第一条﹁目的﹂は︑同法が﹁公害対策の総合的推進を

図り︑もつて国民の健康を保護するとともに︑生活環境を保全することを目的とする﹂と規定している︒さらに環境

基本法は︑公害に対する生活環境の保全の具体的規定についても︑公害基本法を引き継ぐもので︑後者と同様︑環境

( 6)  

基準︑公害防止計画︑排出規制の事項を規定している︒

以上︑その他の事項も含め実質的にみて︑環境基本法では︑公害を中心とした生活環境の保全が条文のほぽ半数を

占めるのである︒これらは︑生存権的な生活環境保全の規定と特徴づけることができ︑ここでは︑これらをA系列の

地球環境の保全

私見によれば︑同法には︑上記とは別系列の環境保全の規定があり︑これをB系列の規定とするなら︑ここには︑

二系列の規定が並存している︒このB系列は︑前掲第一条の目的規定の前段﹁健康で文化的な生活の確保﹂に由来す

るともいえるが︑むしろ︑後段での﹁人類の福祉﹂を﹁地球環境の保全﹂として具体化しているとみなすことができ 全が基本姿勢となっている︒

一三

(8)

2両系列の法理論的関係 人と自然との豊かな触れ合い

第二号生態系の多様性の確保と自然環境の体系的な保全 第一号 る︒同法は︑第一条に続く第二条︵定義︶

で︑規制の中心的な概念を規定しているが︑第一項﹁環境への負荷﹂は別 として︑第二項﹁地球環境保全﹂と第三項﹁公害﹂では︑同法の目指す﹁人類の福祉﹂を達成する主要二対象を明ら この第二項では︑地球環境の保全に関する︑次のような定義がみられる︒﹁地球の全体又はその広範な部分の環境

に影響を及ぼす事態に係る環境の保全﹂︒そして︑これの具体的な展開が︑﹁第二章︑環境の保全に関する基本的施 策﹂のうちの︑﹁第一三条︑施策の指針﹂にみられるが︑それは次のように要約できよう︒

第三号

生活環境の保全と自然環境の適正な保全 ここでは︑﹁生活環境﹂から区別された﹁自然環境﹂ないし﹁地球環境﹂の保全が施策の指針とされ︑さらに﹁多

様な生態系﹂が自然環境にとって大きな意味合いをもつことが確認され︑そして︑そうした自然に人間が触れ合って いくという方向性が示されている︒ただし︑第三号は︑﹁人と自然との豊かな触れ合いが保たれること﹂をもって全

文とする︑きわめて簡潔な規定である︒

それでは︑このような両系列の規定は︑当該法律の内部でどのように関係づけられているのか︒そのための主たる 規定は第三条︵環境の恵沢の享受と継承等︶にみられる︒そこではまず︑﹁生活環境﹂が第一条目的規定の﹁国民﹂

かにするものであろう︒

(9)

一三 八 第四四巻第四・五合併号

︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑から﹁人間﹂に拡大され︑﹁人間の健康で文化的な生活に欠くことのできないものである﹂とされ︑さらにそれは︑︑︑︑︑︑︑︑︑﹁人類の存続の基盤である環境﹂に転換される︒そしてこの環境保全は︑第一条目的規定のように﹁現在及び将来の

国民﹂ではなく︑﹁現在及び将来の世代の人間﹂のために行われる

しかし︑同法の全体を見渡して︑﹁国民の生活環境の保全﹂に重点がおかれることはやむをえないとしても︑他方

で︑生態系の保護や︑他国の︑また国家間の環境の保全に対する施策が希簿であることは否定できない︒生活環境の

保全は︑とうてい﹁人類の存続の基盤である環境﹂の保全にまで展開されてはいない︒全体的な印象をいえば︑

A

列が全面に出て︑

B

系列がそれに接ぎ木されたような形になっているのである︒

法理論的にみても︑両系列を関係づけるもっとも重要な規定とみられる第三条が︑十分な説得力をもっていないが

ために︑同様の評価が可能なのである︒﹁健康で文化的な生活を営む権利﹂としての国民の生存権から︑さしあたり

﹁生活環境の保全﹂に対する義務を導き出すことはできよう︒だが︑その生活環境が国民から人間一般︑人類へと拡

大される場合には︑人類の生活環境ないし﹁人類の存続の基盤である環境﹂の保全に係わる義務履行は︑もはや︑国

民の生活環境の保全におけるような限定性や明確性を欠くことになり︑それに同様の実効的機能を期待することはで

きない︒こうしたより広範囲の義務を︑具体的な射程を伴った生存権のもとに位置づけることは︑適当ではない︒

さらに︑環境保全を生態系の保護として理解する場合︑保護されるべき環境は︑もはや人間の生活環境でなくなる

場合さえありうる︒それは︑人間がその一部に組み込まれているにすぎない生態系としての自然環境なのであって︑

そうした自然環境の保護は︑生活環境を侵害することもありうるのである︒このように︑

A

系列と

B

系列とを整合的

に結びつけることは難しく︑基本法はやはり

A

系列に傾斜しているとみざるをえないのであって︑それは︑論理構成 関法

六九

四︶

(10)

それはともに理論上の不備に由来するといえる︒ ていることは︑同時に認めねばならない︒すでに最初に引用した環境庁資料は︑﹁今日の環境政策﹂においては︑﹁規制的手法を中心とする公害対策基本法︑自然環境保全法の枠組みでは不十分﹂であり︑﹁自主的取組を踏まえ︑多様な手法を適切に活用することにより︑経済社会システムのあり方や行動様式を見直していくことが必要﹂であることにもとづいて︑環境基本法の必要性を指摘している︒実際︑同法は︑環境影響評価︵第二

0条︶︑経済的措置︵第二

( 7)  

二条︶︑環境教育︵第二五条︶など︑規制的措置︵第ニ︱条︶以外の﹁多様な手法﹂を活用しようとしている︒

も重視する新しい方向へと向かう︒しかし大きくみて︑この新たな指針の提示には︑二つ面で施策上の限界があり︑

する立場から︑同法に対する批判がありうる︒それは︑今日の環境保全は環境創造を抜きにして考えることができな いにもかかわらず︑同法には︑創造に関する規定が不十分であるというものである︒この点については︑ここでは立 本稿で問題にするのは︑もう︱つの限界であり︑それは︑上述に関連するのだが︑地球環境の保全に対しての限界

である︒そしてこのことは︑基本法が︑生活環境を超えた地球環境の保全の立場を︑明確に打ち出していないことに

の頂点である目的規定に生存権的規定をおいた同法の必然的帰結であるともいえる︒

生活環境保全の進展とその限界

とはいえ︑基本法が従来の環境法︑とりわけ公害基本法の枠を越え出て︑環境政策に新たな地平を切り開こうとし このように︑同法は︑規制的手法に拘泥する施策から脱却して︑保全への主体的努力の養成と保全のシステム化を

︱つは︑生活環境の保全が課題の中心だとしても︑環境創造を重視

一 = ︱ ‑

(11)

1文化国家から法治国家へ とくにホフマンのそれは︑検討に値するのである︒ 環境基本法に対して︑施策の限界や理論的な不備が︑同法の基本姿勢に矛盾があることから生じると指摘する場合︑それなら︑生活環境と地球環境とは整合的にどのように関係するのかと逆に問われることになろう︒いまや︑この内容が問題となるが︑本稿の段階では︑この見解についてなお考察中であるといわざるをえない︒ただ︑その考察に

りわけ︑環境保全の義務と基本権との関係︑そして﹁環境国家﹂の特徴という二つの論点をめぐって︑この議論の概

要をみていくことにし︑それぞれに論評を加えることにしたい︒

ところで︑環境保全の対象である生活環境と地球環境とが︑環境保護の理論においてどのように位置づけられるか

は︑いずれにしても︑わが国の環境基本法との関わりに限定されることのない︑重要な問いかけである︒これに対す

る回答は︑今後の環境問題を規定するものとなろう︒その意味で︑最近のドイツで唱えられている﹁環境国家﹂論︑

関法

ホフマン

第四四巻第四・五合併号

由来している︒環境保全の対象として地球環境と生活環境という二つの領域があるとすれば︑同法では︑やはり国民

の生活環境の保全が立法の中心的対象になっていて︑そのことは︑生態系の保護意識が希薄なことに表われているの

﹁環境国家﹂論と環境の保全

ハッソー・ホフマンの﹁環境国家﹂論は︑きわめて示唆に富むものであって︑以下では上述との関係で︑と

一四

(12)

大現象において︑まず問題になるのは︑自由権の拡大と法治国家の変容︑それと環境権の関係である︒

(1) 

ホフマンの﹁環境国家﹂論は︑﹃環境国家﹄所収の論文﹁現代国家の任務と環境保護

I法治国家と文化国家から

(8 ) 

社会国家をへて産業国家と環境国家へ

J において展開されている︒この論文においてホフマンが検討しているの は︑環境保護が国家の任務としてどのような国制論的位置を占めるのかということであり︑その課題は︑国家の任務 を国制史的に跡づけ︑それを背景にして︑現代ドイツの憲法学における国家任務規定に関する論議との関連で究明さ ホフマンによれば︑ドイツの歴史においては一八世紀の後半まで︑国家は幸福

Gl ii ck se lig ke it

を目的とするという

思想が支配していて︑これを文化国家と呼びうる︒この場合の幸福は︑外面的な福祉のみならず︑内面的な完成をも 意味していた︒これに対して︑カントとともに始まった近代的国家論では︑国家の究極目標は問われることなく︑充 足されるべき具体的な国家任務と国家権力の限界のみが問われることになった︒

( 9)  

こうして成立した自由主義的︑立憲主義的法治国家は︑﹁安全性の思想に規定された大綱秩序﹂であった︒このよ うな国家目的の相対化は︑逆説的に︑国家の安全性あるいは権力の側面に結びつき︑それを国家の自己目的としなが

( 10 )  

ら︑同時に︑国家任務の無制限な拡大をもたらした︒

環境保全と国家の任務

このような国家任務の無制限な拡大という現象は︑現在のドイツ基本法の国家任務規定にまで至っている︒この拡

法治国家的自由権の拡大と生存権

(13)

第四四巻第四・五合併号

ホフマンは︑上述のような国制史の流れの中で︑ドイツ基本法の国家任務規定を検討する︒ここで注目に値するの

は︑基本権の自由権との関係で︑その自由権が従来とは異なって︑客観的で国制的な意義をもっていると指摘されて

いることである︒これまで︑自由権が意味していたのは︑私的自治の一定領域を国家権力から守る防御権であった︒

つまり︑その侵害を避けるだけでなく︑﹁保護する﹂ことをも行う

これによって︑国家は︑自由権を行使するための条件を国民のために創造し︑確保し︑促進することが義務づけら

れる︒こうした国家の保護義務︑促進義務は︑連邦憲法裁判所によって︑生命や身体の安全︑また私立学校制度や教

育産業︑さらに国家的な手続法に対しても認められるに至っている︒そして︑環境権がドイツで議論になっているの

( 1 1 )  

も︑この脈絡においてであって︑基本権的自由権の拡大という射程の中で︑その権利性が主張されている︒だが︑問

題はこの拡大の意味であり︑法治国家性と社会国家性の関連である︒

この問題は︑わが国の生存権規定の位置づけと関連していて典味深く︑ホフマンの論旨にしたがえば︑生存権は︑

法治国家的自由権の拡大として把握することができるようにも思える︒すでに述べたように︑環境基本法は︑

の規定である生活環境の保全を生存権的な目的規定から︑

A

系列

つまり︑﹁生活環境の保全﹂に対する義務を︑﹁健康で文化

的な生活を営む権利﹂としての国民の生存権から導き出している︒この前提となる生存権は︑個人の自由の展開のた

めに介入しないことを︑国家に要求する消極的権利ではなく︑個人の自由な展開のための条件づくりを︑国家に要求

( 1 2 )  

しかし︑別稿で明らかにしたように︑ここには︑伝統的な自由権の保障の観念からの移行がみられる︒また︑ する︑社会国家的な積極的権利であるといえる︒ しかし︑基本法︱︱二条は自由権を﹁尊重する﹂︑

一四

(14)

要な任務となっている︒

②産業国家から環境国家へ ことにした一︱つの国家原理の結合によって︑国家体制を説明するのが適当であろう︒ として理解しているとみることができる︒このようにさしあたり︑ドイツにしても日本にしても︑中心的意味合いを るのであって︑むしろ︑ホフマンもまた︑基本法︱︱二条の自由権の﹁尊重﹂を︑基本法より以前の立場からの移行 マンの論述についても︑論文のタイトルおよび後述のように︑﹁法治国家から環境国家へ﹂という捉え方がされてい

六九九 ドイツにおいて︑この種の権利拡大から国家の多様な任務が導かれるのと同様に︑わが国でも︑生存権のもとに環

境保全に対する義務が︑設定されたとみることができる︒ただし︑この場合の環境は︑脈絡からいって﹁生活環境﹂

である︒また︑後述からも明らかなように︑ホフマンの議論の重点は︑環境保護との関係でも国家の任務にあるのに

対して︑憲法上の相違から︑わが国の議論の重点は環境権の理論構成にある︒この点については︑後に取り上げるこ

こうして﹁法治国家﹂は︑自由権の拡大による国家任務の受容と並んで︑他の国家原理から国家任務を取り入れる

ことによって︑自己同一性を失っていく︒第一に︑それは﹁産業国家﹂の原理であり︑すでに︑経済の促進や経済成

長への配慮は︑ドイツ基本法のもとで国家任務とされている︒技術的進歩に対する国家の責任さえ︑主張されている

( 13 )  

のである︒こうした指摘は︑景気対策が行政責任の範囲内でのみ︑問題にされてきたように思えるわが国とって︑傾

聴に値する︒たしかに︑わが国も含め︑現代の先進国はすべて産業国家であり︑そのかぎりで︑景気対策は国家の重

第二に︑﹁社会国家﹂の原理が入り込む︒その原理は︑﹁法治国家﹂がもたらす自由主義経済体制の矛盾に対抗し︑

(15)

第四四巻第四•五合併号

︵ 七

00

)

具体的な内容としては︑生存保障︑労働保護︑社会保険︑社会扶助︑さらに社会的な住宅建設︑財産形成の促進へと

( 1 4 )  

展開される︒資本主義社会において︑この社会国家性は産業国家性に結合させられるが︑現実の社会主義国において

( 15 )  

も︑産業国家性は否定されず︑全体的な経済システムに対する配慮が︑国家の任務とされてきた︒

このように︑﹁法治国家﹂は︑それに固有の原理に基づいて国家任務を拡大しつつ︑それに﹁産業国家﹂と﹁社会

国家﹂の原理に立脚する国家任務を付け加えて︑その任務を増大させる︒しかし︑﹁環境国家﹂の登場にとって重要

なのは︑むしろ︑資本主義か社会主義を問わず︑現代国家は﹁産業国家﹂だということである︒これに対立するのが︑

﹁環境国家﹂なのである︒﹁法治国家が自由な秩序の一定の帰結のために︑社会国家的な是正を必要としたのと同様

( 16 )  

に︑産業国家において強行された環境への負荷や環境破壊は︑最終的に環境国家によって阻止されねばならない﹂︒

環境国家が法治国家と異なり︑また︑社会国家や産業国家と決定的に異なる点は︑前者が﹁予防国家﹂ないし﹁準

備国家﹂だということである︒この国家は︑環境に対する明白な危険の除去よりも︑あらかじめ考えられる環境リス

( 1 7 )  

クの低減を目指す︒それは︑﹁具体的な危険の閾値以下である環境負荷に対する前もっての配慮﹂である︒そして︑

このことが憲法問題︑基本権問題を生み︑法治国家との対立をもたらす︒とはいえ︑環境国家と法治国家との対立は︑

国家が擁護しようとする利益が︑前者は公的で後者は私的であることにおいて︑すでに始まっている︒

このように︑法治国家︑さらに社会国家︑そしてとりわけ産業国家から︑原理的に区別される環境国家を提唱する

ホフマンの議論は︑﹁生活環境﹂を越えて﹁地球環境﹂の保全に向かおうとするものにとって︑大きな理論的示唆を

与えてくれる︒ 関法

一四

(16)

一四

ホフマンの議論において︑最後に注目しておきたいのは︑別の論文﹁憲法という鏡の中の自然と自然保護﹂で展開

( 1 8 )  

されている﹁自然ニヒリズム﹂の西欧思想である︒当該論文の主張するところは︑立憲国家が憲法によって保護しよ

うとしたのはもっぱら人間の自然︵本性︶にあり︑それとは裏腹の関係で︑本来の自然に対するニヒリズムがあった

ということである︒このことが︑環境国家論にどのように関係づけられるのかは︑諸論文において直接明らかにされ

てはいない︒しかし︑歴史的意味の憲法が環境国家論にいう法治国家の所産であるとすれば︑その関係は自ずから明

人間の自然である人格の自由と平等を保護する︑近代の法治国家は︑上述のように産業国家と社会国家へと展開し︑

環境破壊をもたらした︒上記の論文が跡づけるように︑近代以降︑そうした破壊に対抗する様々な取り組みがあった

が︑それらを支持する思想が批判の対象としてきたのは︑総括的にいって﹁自然ニヒリズム﹂である︒つまり︑人間

の自然の保護を目指す︑法治国家の傾向の基盤をなしている﹁自然ニヒリズム﹂が︑その後の展開における環境破壊

の思想的源泉である︒これは︑法治国家の自由主義的民主主義のみならず︑自由な市場経済︑それに近代科学の基盤

( 1 9 )  

でもある︒西欧の諸国は︑この三者を﹁生産的に組み合わせることにより﹂大きな成功をとげてきた︒

では︑環境破壊の源泉となった﹁自然ニヒリズム﹂とは何か︒もともとプラトンやアリストテレスにおいて︑﹁世

界機械

ma

ch

in

am

un

di ﹂というメタファーは︑精神のない操縦可能な自動機械を意味したのではなく︑創造されたも

のであっても︑同時に自己活動的な作品を意味していた︒ところがその後︑意味転換が起こる︒﹁この作品の王座に

マクロコスモスと同様のミクロコスモスとして︑それ自身が建築家かつ創造主︑第二の神として︑その

科学により世界機械を追構成することによって︑道具や機械やモデルの組み合わせからなる理論であるメカニックか

︵ 七

01

)

(17)

以上のように︑

ホフマンの﹁環境国家﹂論は︑環境保全について将来の方向を考える上で︑貴重な理論的出発点を

与えてくれる︒実際︑環境国家の構想は︑

ある︒しかし︑従来の国家原理とは異なった原理を提供する︑環境国家論の理念的意義は大きいといえよう︒こうし た議論は︑根本的には︑近代の権利保障を中心にした法制度に再検討を迫るものであり︑法制度の新たな構築に向け て︑綿密な考察をさらに要するものであろう︒ここでは︑環境権に関する見解との関連で︑これに言及することに留

お わ り に

リズム﹂の克服を意味しているのである︒

第四四巻第四・五合併号

︵ 七

0

二 ︶ ら︑自然科学の一部を作り出す︒自然科学的ー神学的な直観と指向の暗号から︑人間の文化に役立つように科学的に

( 2 0 )  

自然を支配するというパラダイムが生じる﹂︒

このようにして︑人間は︑﹁自然なき自然科学﹂という自分自身の世界に出会うしかない︒自然科学の数学的'概念

( 2 1 )  

的恨界という︑﹁自分が作り出したものしか︑人間は精確に理解しなくなる﹂︒最後にホフマンは︑フィヒテの観念論 的学問論に対する︑﹁反省のニヒリズム﹂というヤコービの批判を引き合いに出して︑次のように述べる︒﹁まさに︑

人間の比類なき格上げが内面性への転回に結びついており︑それは神のパートナーとなり︑このように価値を減じら れた世界にとって︑創造主に似た主人となる︒そして︑そのことは︑最終的に自我がたんなる非'我として世界を

( 2 2 )  

an ni hi li er

t﹄ことに至る﹂︒ホフマンにとって︑環境国家への道は︑根底的には︑こうした﹁自然ニヒ

関法

ホフマン自身が認めるように︑ドイツにおいても︑憲法上の将来の課題で

一四

(18)

前述のように︑基本権としての自由権の拡大現象がみられるが︑その延長上に︑環境権を認めるべきであるという 見解が︑ドイツと同様︑わが国にもみられる︒環境権の定立の是非について︑私見を述べるということになれば︑環 境権の定立それ自体は︑生活環境の充実に対して︑かなりのプログラム的効果を発揮しうるものであり︑その意義は

( 23 )  

是認されよう︒しかし︑重要なのは︑環境保全に対する環境権の限界を認識し︑より実効的な道を同時に探らねばな 一般的にいって︑基本権保障ないし権利保障の制度は︑環境保護にとって︑必ずしも十分に機能するものではない︒

その制度の実効化は︑さしあたり︑現実の権利侵害を規準にした司法的救済に依存しているが︑公害による﹁生活環 境﹂の侵害のような場合ならまだしも︑より広く﹁自然環境﹂や﹁地球環境﹂の保護ということになれば︑むしろ︑

それは司法的制度になじむものではないように思える︒そこでは︑たとえば︑誰の権利が侵害されているか︑また︑

侵害の因果関係は立証しうるのか︑といった厄介な問題が提起されることになる︒さらに本質的な問題点として︑環 境保護は政策的な問題であって︑司法的な装置では十分に対処できず︑また︑憲法上の三権分立の原則からも司法に これに対して︑法制度の現実からすれば︑環境権の主張は︑公害規制を求める訴訟において︑現行の制度の枠内で

効果的な方向を求める︑実務上の要請として出てきたものであって︑その意義を否定することはできない︒しかし︑

そうした主張が理論的にも整理され︑実質的な環境保護へと展開していくためには︑まず︑環境権に対応する国家の 保護義務ないし促進義務を︑法律によって具体化していき︑さらに︑﹁地球環境﹂を保全の対象として明確に打ち出

( 2 4 )  

すことが必要であろう︒そうであれば︑むしろ環境保護を国家任務として規定とすることが︑環境保全の出発点とな

委ねるべきでない︑ということを指摘することもできる︒ らないということである︒

︵ 七

0

三 ︶

(19)

第四四巻第四・五合併号

︵ 七

0

四 ︶

最後に︑環境基本法との関連で︑わが国の環境法制の基本枠組みについて︑もう一度︑本稿の結論だけを述べてお くなら︑上述のように︑生存権規定は生活環境の保全規程につながるのであって︑自然環境や︑さらに地球環境をそ の下位規程におくことには無理があるということである︒いまだ熟していない私見をいえば︑地球環境の保全に生活 環境の保全が並立し︑その両者を結ぶものとして自然環境が設定されるべきであるように思える︒人間の生活環境が 自然環境に重なるとき︑人間の環境保全の努力が地球環境の保全につながっていくはずである︒

(1

) 

Cf . E ar th u  S mm it   Do cu me nt s,

n     i

I nt e r na t i on a l  L eg al   Ma t e ri a l s,   Vol.XXXI•

N o. 4

,  1992, p . 

87 6f . 

:

:6

,W

球環境法研究会編﹃地球環境条約集﹂︵中央法規︑一九九三年︶六三頁以下参照︒

(2

)

さしあたり︑直後の文献として座談会﹁地球サミットを終えて﹂︑ジュリスト︑第一〇一五号︵有斐閣︑一九九三年︶ニ

(3

)

これについては︑﹁水資源・環境学会ニューズレター﹂第六号︑八頁参照︒

(4

)

環境基本法案は︑一九九三年五月二

0

日衆議院本会議で可決されたが︑参議院で可決されるまでに国会が解散となり︑一

旦廃案になった︒同法は︑その後の新たな国会で︑一︱月︱二日に成立し︑一︱月一九日に公布︑施行された︒

(5

)

憲法の生存権規定と環境保護ないし環境権との関係については︑竹下賢﹁環境保護と法治主義﹂加茂直樹・谷本光男編

﹃環境思想を学ぶ人のために﹂︵世界思想社︑一九九四年︶︑二三四頁以下参照︒なお生存権に含められる権利として︑一般

に︑教育を受ける権利︑勤労の権利︑勤労者の団結権︑団体行動権が挙げられる︒

(6

)

これについては︑前掲﹁ニューズレター﹂第六号︑一

0

頁参照︒また︑環境基本法と公害対策基本法との︑条文上の対応

関係については︑山村恒年﹁環境行政法の理論と現代的課題.

5 1

環境基本法制定を契機としてー﹂︑法律時報第六

五巻第八号︵有斐閣︑一九九三年︶︑五六頁参照︒

(7

)

その他の新たな手法としては︑環境基本計画︵第一五条︶︑環境負荷低減製品の利用促進︵第二四条︶︑民間の自発的活動

の支援︵第二六条︶︑情報の提供︵第二七条︶︑国際協力の推進︵第三二条ー第三五条︶などがある︒

る ︒

(20)

(oo)  Hasso  Hofmann,  Die  Aufgaben  des  modernen  Staates  und  der  Umweltschutz  ‑ Vom  Rechts‑ und  Kulturstaat  iiber  den  Sozialstaat  zum  lndustrie‑ und 

Umweltstaat—,

in:  Michael  Kloepfer  (hrsg.v.),  Umweltstaat,  Springer‑Verlag,  1989,  S.  lff.  1J  S

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'IJ菜はさ料心ぺ心

0,.::;, 

Vgl.  Michael  Kloepfer,  Vom  Umweltrecht  zum  Umweltstaat?  in:  Ulrich  Steger  (hrsg.  v.),  Handbuch  des  Umweltmanage‑

ments,  C.H.  Beck  1991,  S  45. 

(m)  A.a.O.  S.  8. 

(;:;)  Vgl.  A.a.O.  S.  4ff. 

(;::::)  Vgl.  A.a.O.  S.  15ff. 

ぼ)

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客「底婆幸持~,-\)迅把柑怒」『痣送日牡要む砥斗玲

-<G;'..!袋は』総淫゜

ぼ) Vgl.  A.a.O.  S.  18 

(;:!;)  Vgl.  A.a.O.  S.  17. 

(臼)

Vgl.  A.a.O.  S.  20. 

(~)

A.a.O.  S.  36f. 

(~)

A.a.O.  S.  33. 

(;:';)  Hasso  Hofmann,  Natur  und  Naturschutz  im  Spiegel  des  Verfassungsrechts,  Juristen  Zeitung,  43.  Jahrgang,  Tiibingen,  1988, 

S.  265ff. 

ぼ)

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(約

Hofmann, Natur  und  Naturshutz.,  S.  267. 

(~)

A.a.O.  S.  267. 

(斜)

A.a.O.  S.  269. 

熙撚囲{硲恩

C窓起孟憮澤1回

‑F

(ギ〇ば)

(21)

( 2 3 )

内薗嘉男﹁憲法に環境権の規定を﹂朝日新聞︵大阪︶一九九三年四月二九日︒

( 2 4 )

ホフマンは︑国家任務に環境保護を規定しても︑環境政策の司法への授権が起こりうるので︑それを避けるような規定を

見いだすべきだとしている︒

Vg l.

A . a .

O .  

S.

 32. 同様の姿勢が︑内薗嘉男﹁環境権論の展開と帰結﹂﹁現代財産権論の課題j

︵小林三衛教授記念論集︑一九八八年︶一八

0

頁以下にみられる︒

︹後記︺本稿は︑既発表の論説﹁環境国家論からみた環境基本法﹂︵﹃水資源・環境研究第六号﹄水資源・環境学会︑一九九三

年︶にかなりの加筆をし︑さらに修正を加えたいわば第二版である︒この論説は︑一九九三年五月に早稲田大学で開催され

た上記学会での研究報告﹁環境国家の思想﹂を活字にしたものである︒その後の研究の進展に基づくそこでの議論の不十分

さを︑村井正教授の還暦を記念する本稿で補うことにさせていただいた︒行政法上の基本問題を扱うものでもあり︑教授の

ご寛恕を乞う次第である︒ 関法第四四巻第四•五合併号

一 五

0

(

参照

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