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1近代日本における立憲思想の形成とオランダ法学1

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(1)

西周の初期体制構想

1近代日本における立憲思想の形成とオランダ法学1

大久保 健 晴

   目次       .      r

    はじめに     

    第一章フィッセリング法学の世界

     第一節 フィッセリング自然法学講義と一九世紀オランダ法学

     第二節 オランダ立憲君主制と﹃泰西国法論﹄

    第二章 西周の初期体制構想

・    第一節  ﹃百一新論﹄における儒学の再構成

     第二節  ﹁議題草案﹂再考

    おわりに

    註        ︐

      西周の初期体制構想   . ︑      ︵都法四十四ー一︶ 一〇三

(2)

一〇四

はじめに  本稿は︑徳川末期に政府留学生としてオランダへ派遣され︑帰国後は徳川慶喜の政務顧問的存在として西洋政治制

度論を日本の国家政治に先駆的に導入した西周︵一八二九ー一八九七︶の初期体制構想を検討し︑日本が近代国家と

して歩み出す立憲政体形成黎明期に彼の営為が有した政治思想史的意義に光を当てることを目的とする︒

 ﹁抑も近代国家に於て憲法制定を必要としたのは︑封建国家に於ける統治者自身の自己規定を以て足れりとせず︑

議会を設くることの要求に基づいたのであり︑この意味に於ての立憲思想が我邦に移入せられた事実は無視すること     ︵1︶ が出来ない﹂と説く尾佐竹猛の古典的研究以来︑従来の近代日本憲政史ならびに立憲思想形成史研究では︑主に︑西

洋議会制の導入及び内側からの議会主義の発展を中軸にした立憲政化の過程に光が当てられてきた︒そこでは明治新

政府による﹃五箇条の御誓文﹄第一条﹁広く会議を興し万機公論に決す可し﹂が維新期における立憲思想形成の一つ

のメルクマールと見なされ︑その﹁前史﹂にあたる幕末期については︑﹁黒船来航﹂以来の﹁公議輿論﹂主義の興隆

を起点に︑公議政体論︑諸侯会議構想を経て﹃御誓文﹄に至る過程に関心が払われてきた︒そしてこの視座を背景に︑

従来の政治思想史研究において徳川末期を代表する思想家としてとりわけ注目されてきたのが︑思想的伝統である儒

学を背景に西洋議会制度論を先駆的に受容するなかで﹃御誓文﹄第一条の理論的基盤を提示した︑横井小楠である︒

特にそこでは︑朱子学との格闘を通じて﹁尭舜孔子之道﹂へと遡及することで︑儒学の理想である尭舜三代のうちに

君臣関係を越えた普遍的な﹁天﹂の観念と平等主義的な﹁仁﹂の理念に基づく﹁公共之政﹂の構想を見出し︑その政

治思想に照らすことで︑アメリカ共和政治やイギリス議会政治を優れた統治様式として積極的に評価するに至ったと

(3)

Z

      コ          ころに︑小楠の思想の画期性が認められてきた︒      .       ︐

    むろん開国という対外政策の未曾有の難局に直面し︑公議政体の名の下に諸藩英知の結集が希求されるとともに︑        ︾    他方で政治決定の中枢にいなかった勢力が公議輿論を掲げて政治参加を求めるなかで︑西洋議会制に高い関心が払わ

   れたことは否定すべくもないっしかし他面で︑向時代の西洋﹁立憲政体﹂論が決して議会制論に解消されるものでな ︑   い以上︑当時の知識人達による西洋法学・政治学との対話もまた︑それにとどまらない多様な展開を見せている︒こ    ︑

   こで興味深いのが︑ペリー来航を契機に安政三︵一八五六︶年に設立された徳川政権の洋学教育ならびに西洋事情の

   調査機関・蕃書調所において積極的に西洋政治制度論に取り組んだ︑加藤弘之︑神田孝平︑杉亨二︑西周︑津田真道

   ら︑いわゆる﹁幕末洋学者﹂達の活動である︒加藤弘之は後年︑維新期に記した﹃立憲政体略﹄を回顧して﹁立憲の        ︑︵3︶    熟字は余が始めて作りしものに相違なしと信ずるなり﹂と論じているが︑まさしく西洋学術を修得した彼ら洋学者達

   乏は︑﹁西洋の衝撃﹂を契機に対外的問題の克服と流動化する国内政治体制の再秩序化に向けて洒洋立憲政体への関心

   が高まるなかで登場した︑新たなる﹁知﹂の担い手であった︒近代日本の立憲思想形成過程においてとりわけ幕末洋

   学者達の活動が目を引くのは︑第一に︑蕃書調所における彼らの学問的展開を通じて︑旧来の近世蘭学における医学

    や天文学等の自然科学技術の限定的摂取から︑広く人文社会科学の受容へと︑洋学をめぐる学問領域の拡大がはから

    れたことである︒彼らは蕃所調所において︑それまでの蘭書地理書を背景とした和蘭書や︑﹃魏源海国図志﹄などア

   .ヘン戦争前後に中国大陸で出版された漢籍万国地理書とともに︑蘭書を中心に西洋で出版された統計書や歴史書︑さ            らには法律書や経済学書などに直接接触するなかで︑西洋政治制度や人文社会科学に関する知識を深めていく︒その   ︐

    ため︑例えば西周が﹁小生頃来西洋之性理之学︑ 又経済学杯之一端を窺候慮︑ 実に可驚公平正大之論に而︑従来

    所学漢説とは頗端を異にし候庭も有之哉二相覚申候\︵中略︶経済之大本を建たるは︑所謂王政にも勝り︑合衆国英    ・

       西周の初期体制構想        °      ︵都法四十四ー一︶ 一〇五

(4)

      一〇六         吉利等之制度文物は︑彼尭舜官天下之意と︑周召制典型は心にも越へたりと相覚申候﹂︵N一︑八︶という書簡を既

にオランダ留学以前に記していることにも見て取れるように︑豊饒な西洋法学・政治学の知識を背景とした洋学者達

は︑徳川期の二大思想潮流とも言える蘭学と儒学とが交差する幕末期において︑儒者であった横井小楠とは異なった

形での儒学思想との格闘を行い︑多様な思想的可能性を有した体制構想論を提示している︒第二に興味深いのは︑彼

らの多くが陪臣や浪人という身分から︑旧来の人材登庸システムを越えて蕃書調所へと集められることで︑一躍政治

の舞台へと登場するに至ったことである︒このことは︑徳川末期において彼らの果たした役割が︑単に儒学から洋学

へという外面的な知の再編だけではなく︑政治と学問の関係性自体の大きな転換を内包したものであったことを意味

している︒そして第三に︑幕末洋学者達は維新以降︑明治政府に登庸されて新体制の法整備に参画するとともに︑福

沢諭吉を含め︑新たなる人間観や社会観の形成に向けて広く学問運動を展開した学術的結社・明六社の中心的構成員

として活躍する︒まさしく彼ら洋学者達の徳川末期の思想的営為を解明することは︑幕末・明治期を架橋する︑新た

な視座からの立憲思想の形成と展開の描写を可能にしよう︒以上の問題関心を背景に︑本稿では幕末洋学者達のなか

でもその中核を担った政治思想家︑西周を取り上げ︑検討を加える︒

 文政一二︵一八二九︶年︑石見国津和野に生まれた西周は︑藩校養老館にて儒学を学んだ後︑儒者として養老館句

読教官を務めるが︑嘉永六三八五三︶年︑ペリー来航を機に江戸に出て初めて蘭学に触れ︑翌年さらなる洋学修得

を目指して脱藩︒°手塚律蔵の塾で蘭学研鑛に励み︑安政四︵一八五七︶年︑蕃書調所教授手伝並に任用される︒そし

て文久二︵一八六二︶年︑同僚の津田真道とともに︑徳川政権初の欧州留学生として︑オランダに留学︒ライデン大

学教授シモン︒フィッセリング︵°︒旨o口≦°︒°︒胃ぎσq︑一八一八ー一八八八︶のもとでヨーロッパ法学を学び︑帰国後

は幕命によりオランダより携えた講義ノートの翻訳に着手する︒西︑津田が洋学者達の間で指導的役割を果たしたこ

(5)

    とは︑先の加藤弘之﹃立憲政体略﹄が︑彼らの留学の成果である﹃泰西国法論﹄を下敷きにした作品であることから        ︵6︶    も窺える︒さらに西周は徳川慶喜の政務顧問的役割を担い︑﹁議題草案﹂を執筆︒日本における近代的憲法の最先駆

    とも評されるこの草案は︑大政奉還以降の徳川政権における体制構想の重要な理論的基盤の一つとなった︒

     明治維新後は明六社に加わり︑哲学的探求を通じて福沢諭吉とともに明治初期思想界をリードしたことでも知られ

    る西周だが︑これまでの西周研究は徳川末期についての検討が不十分なため︑彼の徳川末期と明治期以降の活動とを

 ︑  連関させる統一的視座を提示できないでいる︒こうした西研究の立ち後れは︑主にオランダ留学を通じたヨーロッパ

    法学への取り組みについての検討の欠落に由来する︒従来の研究では︑フィッセリングについて﹁近代日本法学の父﹂

    どいう言葉だけが先行し︑その法学に関しては︑具体的検討が欠落したまま︑自然法学講義を行ったという点を以っ        ︵7︶←       ︑     て﹁古典的なグロティウス的自然法論﹂という規定がなされてきた︒しかし︑たとえオランダ法学の伝統を考慮する

    にしても︑フィッセリング自身の著作を検討せずにべ二百年以上も前のグロティウス法学と無媒介に結びつけること        ︵8︶     は︑フィッセリング法学に対する大きな誤解を生む危険性を孕んでいる︒さらにこのオランダ期の学問活動に関する

    研究が不十分なため︑帰国後に西が慶喜の側近︑平山敬忠に提出しだ﹁議題草案﹂についても︑専ら徳川政権側の公       ︵9︶     議政体論と理解されるか︑反対に慶喜の政治的意図に引きつけて﹁徳川絶対主義的な権力構想﹂と捉える解釈が流布

    し︑西本人の思想に即した解明はなされてきていない︒以上の研究状況を鑑み︑本稿は一九世紀オランダ法学の文脈

    を視野に入れながら︑国法論を中心にブイッセリング法学の特質を解明し︑西周が自らの思想的伝統である儒学思想

    の再検討を通じていかなる体制構想を形成したのか明らかにすることでべ幕末維新期を通底する彼の政治思想的営為

    の展開を発掘することを主題とする︒こうして西周を中心に徳川末期政治思想の展開に光を当てることによって︑立

    憲政体の確立という近代日本固有の政治課題が根源的に抱えた思想的問題の諸相を照射することが︑本稿の最終目的

       西周の初期体制構想       ︵都法四十四ー一︶ 一〇七︑

(6)

一〇八

である︒  西は留学に際してフィッセリングに宛てた書簡のなかで︑自らの留学目的について﹁ヨーロッパ諸国との関係上︑

また国内の多くの政務︑各機関等の改善上からも︑より有用な学問として︑統計学︑法律学︑経済学︑政治学︑外交         などの分野を究めなければならない︒しかし︑これらの分野は日本では全くの未知の領域である﹂と記している︒こ

こからは︑蕃書調所において西洋政治制度ならびに西洋社会科学についての知識を幅広く身につけるなかで︑逆に書

物を通じた知識だけでは不十分であることを彼が強く認識していたことが窺える︒そして同時に西の留学目的が︑洋

学教育の拡充とともに西洋事情の調査を任務とする︑蕃書調所所属の政府官僚という自己認識のもと︑旗本子弟の海

外視察や航海術修業に終始した従来の海外派遣とも︑また純学問的動機に基づく西洋見聞とも異なる︑政治的諸改革

に役立つ学問の修得という実践的関心に根ざしたものであったことが見て取れよう︒徳川期以来の近世蘭学の最終到

達点であると同時に︑維新以降の本格的な西洋人文社会科学受容の出発点ともいえるこの幕末期オランダ留学を通じ

て︑西周はいかなる法学・政治学を学び︑どのような思想的格闘を行ったのか︑以下本論で検討していこう︒

第一章 フィッセリング法学の世界

第一節フィッセリング自然法学講義と一九世紀オランダ法学

文久二︵一八六二︶年︑津田真道とともにオランダに留学した西周は︑ライデン大学教授シモン︒フィッセリング

より壮大な﹁政治学体系﹂のもど︑自然法学・国際法学・国法学・経済学・統計学からなる五科講義を受ける︒約二

(7)

     年間続けられた講義が一八六五年十月に終了すると︑講義ノートを携えてオランダより帰国︒彼らが五科講義ノート

     を分担・訳述した書物こそ︑ヨーロッパ法政治学導入の先駆的試みである﹃泰西国法論﹄﹃万国公法﹄﹃表紀提稿﹄       ︵11︶       t    ︑﹃性法説約﹄である︒国法学講義の概略は︑徳川政権の命のもと慶応四︵一八六八︶年に出版された︑津田真道訳述  −

     の﹃泰西国法論﹄に窺える︒そこでは︑﹁国法論の釈義﹂として﹁国法論は国家国民双方の権と義とを彙集して論ず﹂

     ︵T上︑=八︶と規定される︒その上で︑国民に対して﹁自身自主の権﹂﹁律法の上には万人同一なる権﹂︑結社・

\   信教・出版の自由︑請願権︑選挙権などの諸権利と︑﹁法律を敬守﹂する﹁通義﹂を定あ︵T上︑=二五ー一五〇︶︑

     以上の権利義務を維持する理想的制度として立憲君主制論が教示されている︒しかし︑二年間にわたる体系的講義を

     受けた西・津田に対して︑その断片しか与えられていない我々がフィッセリング法学の特質を解明するためには︑彼

    .自身の諸著作に直接あたり︑政治社会的コンテクストを視野に入れながら検討を加える必要があるだろう︒なおフィッ

     セリング法学を検討する上での一つの方法論的困難は︑彼は法学部教授だが︑経済学と統計学を専門とするため︑純

     粋な法学書を一冊も残していないことである︒しかし彼は法学論や法学的知識に依拠した多くの政治論説を発表して

     おり︑これらの論説と西・津田に残した講義ノートとを往還的に検討し︑同時代の他の思想家の著作との比較を通じ

     て読み解くとき︑その法学的特質が明らかになる︒      ︑.

・     そこで出発点として︑西・津田ぺの自然法学講義の検討から始めよう︒この講義には蘭文筆記した西周の手書きノー       ︵12︶      トと︑西が訳した﹃性法説約﹄が残されている︒そこではまず﹁人の大地に在るや他の人々と共に相生養す﹂﹁性法

︑    は人の性に本つく故に是を性法と名くる也﹂︵︒OΦ日Φ房合↑°・ぴ8言日口o日目9pa2Φ日Φ房合巴obp①巳①9

     ・§Φ昌三①<Φ︼︒国①け§ξ員二①①市ご︺§σq§合えΦ§巨ス碧書日§・庁﹄88日庁Φ①ぱ冨§巨目巴︑︶

     として︑社会的存在としての人間の﹁性﹂︵︒昌P古らF已﹃.︶に基づく法が自然法であると指摘される︒続いてフィッセリ

       .西周の初期体制構想      ︑         ︵都法四十四ー一︶ 一〇九  −︑

(8)

      =○

ングは︑﹁人皆善と悪とを別ち正と不正とを辮するの心あり是其性便ち然り﹂︵︑国完日Φ霧9古ΦΦ津く芦昌餌言﹃ΦΦ巴

亘Φ隅甘く彗け90昆胃゜︒合Φ巳吟巨゜︒9窪σqo包Φ5犀乞pρ江菖゜︒°︒9Φ昌冨σq寸窪o胃①σq古.︶として︑﹁人の性﹂を自らの行

動の﹁善悪﹂︵︑σqoΦ⊆Φ昌犀≦p巴︑︶を弁別する精神の働きと︑他者の社会的行動に関する﹁正不正﹂︵.器σq古窪︒旨①σqけ.︶

を弁別する精神の働きに分類し︑そこから道徳と自然法との区分を行う︒すなわち﹁﹁謹羅爾︵モラル︶﹂即ち名教﹂

︵ゴ巴巨ぼΦσq>︶は﹁人の性﹂に備わる対他的な社会関係における﹁正不正﹂の判断から導き出される︒そして﹁性法       ︵13︶ (、 mΦ9﹂Φ隅︵日o日巴︶︒︶が﹁人の性﹂に備わる自己の行動の﹁善悪﹂を判断する精神の働きに関わるの対し︑﹁性法﹂

至高の首規﹂として︑人々は他者の行動の自由を妨げない範囲で自由に行動できるという原則が提示され︑そこに        ︵14︶ ﹁権﹂︵ばσqけ︑︶と﹁義﹂︵︑旦品古.︶が生じると論じられている︒

 果たしてそれでは︑こうしたフィッセリングの自然法学は︑一九世紀オランダ法学のいかなる文脈のなかで形成さ

れたのか︒ここで一つの手がかりとなるのが︑フィッセリングの在学中より︑ライデン大学の自然法学講義を担当し

たヘンドリック・コック︵口巴貸完Oo︒ぎ一七九四ー一八六六︶の自然法学である︒コックがフィッセリング入学

直前の一八三七年に記した﹃自然法︑国法︑国際法﹄は︑道徳が内面の﹁善と悪を定める﹂のに対し︑自然法は外面

的な行為を含めた﹁正と不正を定める﹂︑という道徳と自然法の定義区分から始まる︒その上で自然法の﹁最高次の

原理﹂として︑﹁汝の外面的自由が︑他の全ての人々の外面的自由とともに存在しうるように行動せよ﹂という規範       ︵15︶ 原理を提示し︑権利義務観念を導き出している︒

 このように比較すると︑西・津田がフィッセリングから教授された自然法学は︑その出発点において︑まさにフィッ

セリング自身が大学時代に学んだコックの自然法学と内容的に近似している︒興味深いのは︑コックが自然法の規範       ︵16︶ 原理について︑﹁この最高法原理はカントによって最初に定められた﹂と注記していることである︒ダウンスティー

(9)

    法学の復権がなされたと指摘している︒一見すると︑フィッセリングによる西・津田へめ法学講義はコックら一九世       ︵17︶     自然法学理論との不思議な融合﹂と表し︑カント自然法論を受容するなかで︑逆にグロティスやヴォルフら古き自然     はオランダ法学史研究のなかで︑コックを含めた一九世紀前期オランダ法学の一特徴を︑﹁カント哲学とそれ以前の

〆   紀前期オランダ法学の影響下にあるかのように見えよう︒       ︐   ・

     しかし続けて︑国法論へと至るコックの議論を辿るとき︑フィッセリング法学講義とは異なる様相が現れる︒コッ        ︵18︶ ︑    クは以上の自然法論を背景に︑自然状態論から﹁自然的な国法﹂︵2p言巨詩︒︒けきけ︒︒冨σqげ︑︶を導き出す︒そして﹁国

    家の起源﹂﹁臣民の義務がいかなる基盤に基づぐのか﹂という課題に対し︑王権神授説を退けながらコックが提示す

    るのが︑一種の社会契約論である︒彼はそこで︑﹁自然的な国法﹂論はプーフェンドルフ流の﹁理性的で穏健﹂な契

    約説に依拠すると指摘し︑自由な道徳的主体として自然権を持つ人間が︑自発的に自らの権利を譲渡し契約するとこ

    ろに国家と主権が成立すると論じている︒だが他方︑フィッセリングによる西・津田への法学講義に目を転じれば︑

    第一に︑﹁性法﹂を﹁凡百法律の基礎﹂︵N二︑一四二︶としながらも︑コックのような自然状態論及び自然権から演

    繹的に国法論を導くような理論枠組みは取られていない︒また国法学講義では︑﹁古今各国の史伝を歴覧すれば成国

    の縁由多般なり﹂という視座から︑﹁世に或は成国の淵源を直に上古天神の日勅に託し或は一時国人会議し一種の和  

    約章程を定め始て国を立し等の説あれ共皆妄なり﹂︵T上︑一一九︶と論じ︑国家の歴史的起源に社会契約を見いだ

    す見解を︑王権神授説とともに妄説として退けている︒さらに﹁主権の由来﹂と国民の政治的義務の淵源をめぐる議

    論においても︑社会契約論及び統治契約論は王権神授説と並ぶ﹁先哲の議論﹂と位置づけられるにとどまる︒むしろ

    ﹁主権の原由﹂は﹁其国人文開閲の度民智明発の級に従ひ又風俗議論の同じからず衣食必需の異なるに因て一様なら

    ず﹂として︑その国の文明化状態︑国民の開化状況︑風俗︑政体によって異なると主張される︵T上︑一二一ー一二

       西周の初期体制構想       ︑      ︵都法四十四ー一︶ 一一一       

(10)

      =ニ

      モ ンテ スキウ ニ︶︒そしてフィッセリングはこの歴史的視座から︑﹁大陸の諸国に於ては法朗西学士孟得斯答ルウサウ其説を唱へた

るに職として是由り千七百八十九年仏国変乱の為に煽動せられ其説諸州に蜂起し定律の国法頓に成長したり﹂︵T上︑

一六三︶として︑先のように一方で社会契約論を排しながらも︑ヨーロッパ大陸において各国憲法は︑フランス革命

以降に﹁成長﹂したと論じている︒このコックとフィッセリングとの法学論の相違は何を意味するのか︒ここにフィッ

セリング法学の特質を解明する重要な鍵がある︒

 ここで一旦フィッセリング自身の著作へと目を転じてみよう︒彼がオランダの憲法について検討した最初期の作品       ね  として︑一八四六年の﹃政府と国民 オランダ国家統治の原理﹄がある︒彼はその論稿でまず︑宗教改革からフラン

ス革命に至るヨーロッパ史を︑﹁立憲政体の自由主義﹂に基礎付けられた﹁自由・平等・博愛﹂を実現してきた戦い

の歴史と捉える︒・その上でフリードらの学説に依拠しながら︑ヨーロッパ立憲主義的自由主義の一般的原理の発展は

﹁国民の歴史﹂における各国固有の﹁歴史的生成﹂﹁発展﹂のなかで姿を見せてきたと指摘し︑オランダ史を︑国王と

国民との協調を理念に﹁進歩への意志﹂が顕現してきた過程として描き直している︒とりわけ彼によれば︑フランス

から独立した一八一四年制定の現憲法の根本原理は︑ホーヘンドルプの﹃素描﹄に基づいて︑国王の君主権と﹁政府

に対する国民の影響﹂という二つの要素の調和を目指したものであり︑時代にあった修正を通じて﹁自由主義的憲法

の実現﹂に向けた﹁漸進的な発展﹂を約束するものであった︒しかし実際には︑国王による﹁中央集権的統治﹂が拡

大し︑立憲政体の改善を妨害する温床と化している︒ここからフィッセリングが導き出す結論が︑憲法改正の実施で

ある︒彼は﹁オランダでは現在︑一つの政治的革命が起こっている﹂と唱え︑一八四四年に提出された﹁九人組﹂に

よる憲法改革案を積極的に評価し︑即刻憲法改正を行わなければ民衆は暴徒と化すであろうと警告して︑稿を閉じて

いる︒

(11)

 この論文は当時の自由主義運動を背景とする作品だが︑その政治的文脈に触れる前に︑法学的観点から興味深いの

は︑ここに先の西・津田への国法学講義と通底する︑各国の習俗や文明化状況を重視し︑フランス革命を経て立憲政

体が発展してきたと説く主張が見出せることである︒こうして国法の﹁歴史的生成﹂﹁発展﹂を説くフイッセリング

の言説は︑コックら一九世紀前半の自然法学者の国法論とは異質な性格を有する︒ここで浮上するのが︑フィッセリ

ングが支持する﹁九人組﹂の中心人物であり︑こ︑の論稿でもその学説が引用されている︑自由主義運動の指導者︑ヨ

ハン.ルドルフ・トルベッケ︵qo古g國巳o一菩弓古○巳Φ穿Φ︑一七九八ー一八七二︶の存在である︒そしてトルベッケ

は何よりも︑ライデン大学法学部教授であり︑フィッセリングの大学時代の指導教官であると同時に︑彼の教授職の

前任者でもあった︒

 一九世紀前半の法学界をリードしたコックら自然法学者に対し︑トルベッケ法学の特質は︑法は言語と同様に習俗

と民族的確信によって有機体的に成立・発展すると説いて啓蒙合理的な自然法論を排した︑ドイッ歴史法学を先駆的

に受容することで︑独自の法学論を展開したところにある︒トルベッケとドイッ歴史法学との関係は近年の研究で注        ︵20︶ 目を集めているが︑それらが明らかたするように︑︑彼は一八二〇年から二二年まで下イッに留学し︑ドイッ歴史法学   ︑

の確立者・サヴィニ﹈の影響を受けており︑この留学経験が後の法学論︑政治論の基礎となる︒興味深いのが︑一八

二五年出版﹃法と国家に関する反論﹄の自然法論及び社会契約論をめぐる批判的考察である︒彼はそこで︑自然法は        ︵21︶ ﹁国民の気質や歴史︑時代や環境との一致のなかで生じる﹂と主張し︑自然法をア・プリオリに定立される非歴史的

規範と捉える同時代自然法学を退ける︒そして︑自然権の観念を背景に法・国家を成員間の契約による人為的産物と

して捉える社会契約論に対し︑法は国民の習俗や環境のなかで成立・発展した歴史的産物であるという歴史法学に立     ︐

脚しながら︑﹁法体系における二次的な部分に過ぎない﹂﹁契約の観念﹂を﹁最高の法観念﹂と捉える契約論は﹁誤り

   西周の初期体制構想      −       ︵都法四十四ー一︶ 一=二

(12)

      一一四          ︵22︶ である﹂と批判している︒

 こうしてドイッ歴史法学に依拠しながら︑国民の習俗・環境に基づく法体系の歴史的生成・発展を説くトルベッケ        ︵23︶ だが︑他面で民族を中心とした有機体的な国法論︑歴史観に与しない点でドイッ歴史法学とも一線を画している︒彼

は普遍的な自然法の存在自体は否定せず︑むしろ﹁慣習に基づく︑あるいは法典に記されている実定法は︑一つの限

られた時代のなかで︑自然法の永続的真理に形を与えながら︑作り出されるものである︒自然法の形態に基づいて︑        ︵24︶ 歴史の一部分として︑生活の全ての部分︑要因は活動し︑変化する﹂と指摘する︒ポーティンガが﹁歴史化された自

 ︵25︶ 然法﹂と定式化するように︑トルベッケは一方で自然法を非歴史的に提示して国法の自然状態を演繹するコック流の

法学を退けながら︑自然法を歴史の発展に内在した︑国民の歴史的発展のなかで変容しながら姿を開示する実定法の

理念として再提示する︒そして︑自然法の理念が個々の国家において国民の気質や文明化状況︑環境︑歴史過程のな

かで変容しながら顕現し︑多様に発展した所産として︑歴史の内側から各国国法体系を捉えるのである︒ここにトル

ベッケ独自の法学論が成立する︒

 西・津田への国法学講義との関連で興味深いのは︑トルベッケ法学におけるフランス革命評価である︒法学論の視

座から社会契約論を退けるトルベッケは︑政治論でも﹁我々の時代にとって必要なことは︑不道徳極まりない社会契       ︵26︶ 約論の権威を︑学問の世界からも世論からも奪い取ることである﹂と説き︑国家及び法の人為的急進的定立を試みる

非歴史的な革命の政治理論としての社会契約論・人民主権論に対して敵意を示す︒しかし同時に︑例えばフィッセリ

ングも出席したと推定される一八四二年の法学講義や四四年の演説﹁今日における市民権について﹂などに見て取れ

るように︑フランス革命自体については﹁現在の議会制度に達成を見る︑諸個人︑諸市民の権利﹂の確立という自然       ︵27︶ 法の理念が姿を現す︑﹁ヨーロッパにおける変革﹂の﹁長い歴史的発展の結果﹂として積極的な評価を与えている︒

(13)

    西や津田へのフィッセリング国法学講義に見られる︑社会契約論及び人民主権論を批判しながら︑フランス革命を経

   た立憲政体論の歴史発展を積極的に評価する特徴的な議論の背景には︑こうしたフランス革命観に象徴されるトルベッ

    ケ法学の﹁法と歴史﹂をめぐる洞察が横たわっている︒

     そして何よりもトルベッケ法学の画期性は︑演繹的な非歴史的考察に終始した一九世紀初期自然法学の議論を退け︑

    自然法を歴史に内在させることで︑法学論の中心的関心を自然法の理念を背景にした実定法としての国法の分析へと   ︐

︑ ︐︑収敏させたことにある︒彼は﹁憲法を我国の立憲政体発展の一部分であり結果として︑またフランス革命以来のヨー        ︵28︶     ロッパ全体における立憲主義の発展の一部分であり結果として考察﹂した一連の憲法論講義をもとに︑ 一八三九年

    ﹃憲法釈義﹄を出版︒トル︐ベッケはこの﹁抽象的思索﹂を排した﹁実践的な﹂憲法解釈書を通じて︑﹁特定の国民性と

    状況に従った制度﹂と﹁世界的趨勢にょる一般的原理との調和﹂を理念に︑﹁新しい一般的憲法によって︑古い憲法       ・         ︵29︶     的秩序を廃止し﹂﹁新しい社会の実現を求める﹂﹁憲法改正﹂を主張する︒オランダ憲法の理念に遡って自由主義的な

    立憲政体の在り方を模索したこの書の出版によって︑トルベッケは一躍オランダ自由主義運動の旗手となり︑選挙権

    の拡大︑専制君主制の改変︑責任内閣制の実現を目指した改憲運動を推進︒政治の世界へと足を踏み入れ︑四四年に

    他の下院議員とともに﹁九人組﹂として憲法改正案を提出する︒先の四六年に書かれたフィッセリングの﹃政府と国︑

    民﹄が︑トルベッケ法学に強く依拠し︑自由主義運動を積極的に支持するものであったことは︑もはや明らかであろ

    う︒

     一八四八年三月︑パリニ月革命の飛び火を恐れたウィレムニ世は︑保守専制的な態度を一変させて憲法改正を唱え︑

   トルベッケを議長とする憲法改正を目的とした委員会を設立し︑憲法改正案の作成を命じる︒﹁九人組﹂案の流れを

    汲む委員会案に基づいて︑責任内閣制の導入︑立憲君主制の徹底と国王権力の制限︑集会・結社・信仰の自由︑一定

       西周の初期体制構想        . ︑ ︑      ︵都法四十四−一︶ =五       ﹂

(14)

       一一六

    限度以上の納税者による下院議員・州議会議員・自治体議員の直接選挙など盛り込んだ改正憲法が︑一一月に公布さ

   ﹇     れた︒さらに翌四九年にトルベッケは内相に任命され︑内閣を組閣︒ここにオランダ自由主義体制が成立する︒民衆

    の暴発による革命的事態を避けるとともに︑国王権力の廃絶ではなく制限を︑国王と民衆の協調を旗印に一四年憲法

    以来の立憲君主制の完遂を目指して︑あくまで憲法改正という手段を通じて責任内閣制と参政権の拡大を手に入れた

    オランダ自由主義の特質は︑まさに改革の指導者トルベッケの法学に負うところが大きい︒トルベッケ法学こそ︑オ       の      ランダ自由主義改革の真髄であったと言っても過言ではない︒

     そして五〇年に︑内相に就いたことでライデン大学を退いたトルベッケの後継者として法学部教授に就任したのが︑

    フィッセリングである︒後年彼は当時の状況を﹁素晴らしき時代﹂と回顧し︑次のように述べている︒

       私たちは学生であったが︑当時出版されたばかりの﹃憲法釈義﹄を︑お互いに一所懸命熟読した︒︵中略︶四

      四年の九人組はなんて素晴らしかったことか! 我々の活気が反抗的精神とみなされ︑我々全員の名前を列挙し

      たブラック・ペーパーが登場したのを覚えていますか︒︵中略︶そして遂に︑実り多き憲法改正が思いがけず実       ぶ        現したとき︑我々はなんと歓喜し︑大喝采を送り︑自画自賛したことか!         s    フィッセリングは後に﹁トルベッケ政治のプロパガンディスト﹂とも評されるが︑西周・津田真道がオランダで学

    んだ彼の法学は︑トルベッケ法学に強く依拠した︑まさに一九世紀オランダ自由主義の精神を体現したものであった

    と言えるだろう︒

(15)

第二節オランダ立憲君主制と﹃泰西国法論﹄   :︐・   ﹁       ︺      ︑

    西や津田が講義を受けたフィッセリング法学の特質は︑コック等一九世紀初期自然法学の成果を引き継ぎながらも︑

   トルベッケ法学を導き手に︑従来の自然法学の哲学的推論を切り捨て︑自然法の理念の発現をヨーロッパ史と自国の        ︵33︶          歴史の内に見出すことで︑歴史内在的な視座から自国の具体的な法制度の変革へと眼を向けたところにある︒果たし

   てそれではブイ︑ッセリングが﹁自由主義的な立憲主義﹂が歴史的に発展してきたと説くとき︑彼は西や津田に対して

   いかなる立憲政体論を提示したのであろうか︒以下︑西や津田が留学中の六三年に四八年憲法の解釈を行ったフィッ

   セリングによる論稿﹃オランダ国家統治の基本的特徴﹄︵以下﹃基本的特徴﹄︶と︑西・津田への国法学講義﹃泰西国︑

   法論﹄を中心に検討していこう︒

    フィッセリングは﹃基本的特徴﹄のなかで︑文明社会における国家の基礎を国民の権利の保護と義務の確定に求め︑

   それを統括する憲法に基づく﹁立憲主義﹂を︑﹁新しいヨーロッパの国法の原理﹂と呼ぶ︒彼によれば︑自由主義運

   動の末に成立した︑トルベッケを中心とする四八年憲法改正による立憲君主政体は︑まさに立憲主義の理念の実現で     ︵34︶    あった鴫西達への国法学講義でも同様の視座から︑理想的政体としての立憲君主制論を展開している︒そこでは︑専

   制及び絶対君主制と︑人民主権に基づく民主制論との対抗軸の中で︑立憲君主政体の優位性が説かれる︒すなわち︑

      デ ス ポ チ      まず﹁君威無量の国﹂が︑コ切臣民は其僕奴にして絶て其権を有せず﹂︑君主が﹁天下の為に非ずして一人の私に供       アゥトカラチ     する﹂政体と捉えられ︑﹁無限君主の国﹂とともに退けられる︒また﹁平民政治﹂については︑﹁其説尤多き方に従て

      デ モ ゴ   ゼ ン    事を決す︑故に議論其党与寡き者は其意を柾て多き者に従ざるを得ず﹂と指摘され︑多数者の専制と︑﹁民を誘ふ者﹂

︑     西周の初期体制構想       ︵都法四十四ーご  一一七

(16)

      一一八         オクロカラチベ の登場によって﹁大衆愚民の暴政﹂へと転化し︑遂には﹁無限君主の国端を開く﹂危険性が示唆されている︒その上

で︑﹁有限君主の国体平民政治の所長を取て大に国民自立自主の心を長し其気力を壮にし豪族政治の佳所謀慮遠く才

智深きと又一頭政治固有の国力強き所を兼ぬ︑国力の強きは国事一君主に総摂して国力統一するに由るなり﹂として

導かれるのが︑﹁国法﹂の﹁限制﹂に基づく﹁有限君主﹂の政体である︵T上︑一五二ー一五八︶︒

 こうしたフィッセリングの政治理論は︑まさに旧来の専政君主制を批判するとともに︑ルソー流の人民主権論の隆

盛に危惧を抱き︑穏健な憲法改正による立憲君主制の確立を選択した︑自由主義改革の成果を背景としている︒実際

トルベッケは︑その政体論のなかで﹁人民主権の理論は︑その対極にある専制の理論とともに︑立憲君主制と対立す

る﹂と論じ︑﹁立憲君主制はこれまで知られている政体の中で︑最もすぐれた形で組織化されている︒それは自由を

最大限に認める︒一定普遍の進歩として︑社会の様々に多様な発展と政治的精神及び組織の多様な発展を可能にする︒        ︵35︶ それは公的利益と私的利益との調和を見出す最も適切な制度である﹂と主張している︒注目すべきは︑立憲君主制の

設立目的を公益と私益との調和に基づく社会の多様な発展の維持促進に求める︑このトルベッケの言説にこそ︑彼ら

の唱える﹁自由主義﹂の内容が示されていることである︒トルベッケは続けて︑﹁自由な国家︑自由な統治の特徴は︑        ︵36︶ 州︑地方︑結社︑個人における独立した勢力を促進することである﹂とも主張している︒フィッセリングも同様に︑

五〇年にライデン大学教授に着任した際の就任演説﹃自由についての演説﹄のなかで︑人類の歴史を﹁抑圧に対して

自由が継続的に勝利を手にした﹂歴史どして捉え︑アダム・スミス経済学に触れながら︑一八世紀後半の自由の戦い

を通じて︑﹁自然の内に配置された法に従い﹂︑﹁自己愛﹂と﹁相互の助け合い﹂の原理に基づく﹁相互の権利の境界﹂

﹁義務の境界﹂が確立され︑市民的な﹁社会生活﹂が形成されてきたと指摘する︒フィッセリングによれば︑こうし

て﹁自らの利益を促進させることで全体の利益を促進させ﹂︑﹁輝かしき調和﹂を生み出すことこそ︑﹁自由﹂の状態

(17)

 ︵37︶ である︒西・津田への自然法学講義で教示される︑人間の本性に基づく権利と義務の観念は︑まさにフィッセリング  ー

にとって一八世紀後半の市民社会の発展に伴って獲得された歴史的産物であった︒そしてこの自由観念・社会観を背

景とするからこそ︑フィッセリング法学における国法の目的は︑歴史的に発展してきた自然法の理念に基づく国民相

互の権利義務を実定法として定めて保護し︑私益と公益の調和に根ざした社会のさらなる多様な発展を促進すること

に求められる︒このことは︑﹁立国の本意﹂を﹁国民の権利平安を護り国中の礼序を正し衆力を統合し相済相養の道

を長じて以て国益を増殖す﹂︵T上︑一四一︶と定める︑西・津田への国法学講義に反映されている︒ここにコック

ら自然法学者の国法論とは異なる︑フィッセリング講義固有の自然法学と国法学の連関性が見えてくる︒

 そして以上の視座から︑西達への国法学講義及び﹃基本的特徴﹄において︑﹁見今定律国法の要旨は国内に威権の

平均を調べて威権を操る者の威福を張るを防ぎ人々自主の業及其諸権を保全し井に国家の公益を保護するに在り﹂

︵T上︑一六五ー一六六︶として︑君主の専制と﹁大衆愚民の暴政﹂を防ぎ︑国民の権利を保全する立憲君主制を確

立するための制度的保証として重視されるのが︑権力の分立である︒そこでは︑﹁三作用互に均勢の状を為し彼此相

控制しで其偏重を防ぐ︑此は是国の平安を護り且予以て暴君の虐政を防ぐ至良法なり﹂とじて︑﹁行法︵政令理財︶        ︵38︶ の権﹂﹁制法の権﹂﹁司法の権﹂からなる﹁定律国内均勢の制﹂︵T上︑一二ニー一二三︶︑が提示され︑﹁制法政令の二

体は恒に互に和熟して其力を致すべし﹂﹁司法は右の二体と屹然として別れ自立して他顧せず只管律例に準拠して裁

断を為す可し﹂︵T上︑一二三﹀という形で︑司法権の二権からの独立と︑行政権.立法権の協調均衡関係が説かれ

ている︒       ぐモンテスキウ  こうしたフィッセリングの権力分立論がモンテスキューの政治理論に依拠することは︑国法学講義で﹁孟得斯答律

例精義十一巻六篇﹂︵T上︑一二二︶と︑﹃法の精神﹄のイギリス国制論が典拠として指示されることからも明らかで

   西周の初期体制構想       ︵都法四十四ー一︶ 一一九

(18)

       一二〇

ある︒ここには一面で︑司法権を法律の機械的適用を行なう独立の存在と捉え︑﹁立法府は二つの部分から構成され︑

相互的な阻止権能によって一方が他方を抑制するであろう︒両者はともに行政権力によって拘束され︑行政権力自体       ︵39︶ も立法権力に拘束されるであろう﹂と説くモンテスキューの権力分立論の反映が見て取れよう︒しかしより興味深い

のは︑フィッセリング法学では︑そうした理論的視座からよりも︑むしろ四八年憲法を念頭にしたオランダ政治史の

文脈から︑とりわけ行政権と立法権︑二権の協調均衡の確立が最重要視されることである︒フィッセリングは﹃基本

的特徴﹄で︑四八年憲法に基づいて︑﹁行政︑立法︑司法は国家元首である国王から流れ出る﹂とした上で︑行政権

については憲法七三条に依拠して﹁国王は各省庁を置き︑官員を任命し︑また意のままに解雇できる﹂こと︑一〇四

条に依拠して立法権は﹁国王と議会がともに行使すること﹂︑さらに議会は﹁それぞれの国の特徴的な状況やその必

要性及びその時代の考え方によって多様な形で定められる﹂ことを指摘する︒これらの四八年憲法をめぐる規定は︑

西・津田への国法学講義おける﹁本来三権惟一君主より出づ﹂︵T上︑一二二︶﹁各種官員の俸禄職掌を定め之を進退

黙捗するは総国主長の自任する所なり﹂︵T上︑一二六︶﹁国民或は代民議事の人君主と国家制法の権を小大分ち領す

る﹂︵T上︑一四六︶﹁代民議事選挙限制の法各国国法論開明の度に従て互に異同あり﹂︵T上︑一四六︶という教理

に正確な形で反映している︒その上でフィッセリングは︑国王の専制を廃し︑行政権と議会の均衡抑制を確保する制

度として︑まず立法権の権力濫用を阻止する︑二院制の設置及び国王による議会解散権を挙げ︑国法学講義でも﹁代

民総会を別て二局とする事﹂﹁代民議会を解散せしむる権政府に在る事﹂︵T上︑一六六︶と教示する︒そして彼が何

よりも﹁憲法の重要な原理﹂と重視するのが︑﹁国王は不可侵である︒大臣にその責任がある﹂という︑国王権力の

不可侵性を認めながら行政権の権力濫用を防ぎ︑立法権の側から行政権を抑制する︑大臣責任制である︒西・津田へ

の国法学講義でも︑﹁定律君国の定論に従ば専ら国事の責に任ずる者は宰相にして君主は人之を詰問す可らず又凌辱

(19)

す可らず﹂とした上で︑﹁代民総会をして終始政府の政令を監視せしむる制度﹂として︑法的責任と政治的責任から

.なる﹁宰相の任責﹂の重要性を強調している︵T上︑一六八ー一七一︶︒・

 こうして国王と議会という二つの勢力を担い手とする︑行政権と立法権をめぐる均衡抑制関係論は︑自由主義改革

を経た四八年憲法固有の特質を背景とする︒.トルベッケは立憲君主制を﹁議会制とともにある自由な君主制﹂と捉え︑

大臣責任制を︑﹁統一を保証する﹂国王・政府と﹁自由を保証する﹂議会との均衡協調を作り出す最重要原理とみな︑     れ  している︒四八年憲法改正によって責任内閣制を導入した彼ら自由主義知識人達にとって︑大臣責任制の制度的確立

は立憲君主制の試金石であり︑行政権と立法権の抑制均衡を通じた統治と自由︑政府と議会との﹁調和﹂こそ︑オラ

ンダ政治史における﹁国王と国民勢力の協調﹂という理念の実現であった︒﹁定律の国法に従ば国内に二箇自立の権

威ありて匹敵対抗す政府及び代民総会是なり︑是此二体心を協せ力を裁せて国家の大益を増長せんが為なり﹂︵T上︑

一六六︶と指摘され︑それを﹁保証﹂する制度として﹁定律国内均勢の制﹂が教授される︑西.津田が受けたフィッ

セリング国法学講義には︑オランダ四八年憲法の特徴的性格が深く刻み込まれているのである︒

 以上の検討からも明らかなように︑西と津田が学んだフィッセリング法学は︑﹁古典的なグロティウス的自然法論﹂

でもなければ︑純粋理論的な混合政体論でもなかった︒そこで講義されたのは︑独自の歴史法思想を展開したトルベッ

ケ法学を媒介に\自然法学と国法学が密接な連関性を有する︑オランダ自由主義の特質を色濃く反映した法学論であっ

た︒そして五科講義が終了したとき︑西と津田が感じたブイッセリングの説く立憲政体論を日本に受容することの困   .

難さは︑まさにスイッセリング法学が有するこの歴史法学的性格に由来する︒津田は後年︑フィッセリングが二人に

残した言葉を︑次のように記レている︒﹁立憲政体等各種の法論は︑我欧洲諸国今日の形勢上より論じて是とする所

なり︑然れども直に之を貴国に適用せんと欲するは則非なり︑貴国は正に貴国に相当する所の法律制度あるべし﹂

  .西周の初期体制構想      ︵都法四十四ー一︶ 二二

(20)

      一二二

︵T下︑四一〇ー四=︶︒当時﹁立憲政体の善美尽せることを信﹂じていた津田は︑この言葉を聞いた時の心情を

﹁頗る惑ふ所あり﹂と述懐している︒すなわちフィッセリングにとって︑国法学講義を通じて西達に教授した理想的

政体としての立憲政体論は︑まさにフランス革命を経た自由の戦いの歴史を通じて自然法の理念が顕現し︑人々の権

利義務観念に基づく市民社会が発展してきた︑現今ヨーロッパの形勢にこそふさわしいものであった︒西達は︑個々

の国家社会の風俗︑歴史︑文明化段階に即して法制度は形成されると説くフィッセリング法学を支える根幹となる法

思想を︑講義を通じて理解すればする程︑直訳的な西洋政治制度受容の困難さと︑ヨーロッパ社会と自らの社会との

間の文明化段階や法観念︑歴史的伝統の相違を深く痛感せざるを得なくなる︒果たしてそれでは︑こうした困難さを

抱えながら︑彼らは帰国後フィッセリング法学に対してどの様に思想的に取り組み︑その作業を通じてオランダ留学

の成果をいかなる形で実践に移したのか︒章を改め西周に即して検討していこう︒

第二章西周の初期体制構想

第一節  ﹃百一新論﹄における儒学の再構成

 以上の性格を持つフィッセリング法学との西周︑津田真道による思想的格闘の跡は︑帰国後の慶応二︵一八六六︶

年︑津田が執筆した︑その後のフィッセリング国法学講義筆記訳述﹃泰西国法論﹄の凡例にあたる﹁泰西法学要領﹂︑        れ  及び同時期に記されたと推定される西の﹃百一新論﹄に見て取ることが出来る︒

 津田は﹁泰西法学要領﹂において︑まず﹁法学人道︵モラール︶と異なり人道は専仁義礼教を説き法学は唯事の曲

(21)

 直理の当否を論ず﹂︵T上︑一〇七︶として︑フィッセリング自然法学講義の冒頭で提示された法学と道徳学の区分

 を提示する︒その上で﹁法論は唯人間上に就て之を論ず︵中略︶後世文教大閨人々皆平行の権を有して毫も差等ある

 事なし﹂と︑文明化に伴って法が対等な人間間の﹁権﹂﹁義﹂°に基礎付けられるに至ったことを論じ︑﹁然るに我邦士

ハ       ァ ナ カシ コ  人無礼を称して人を殺す権あり︑至強の権か非理の権か︑鳴呼可畏﹂と︑いまだ切り捨て自由の習俗の残る日本め法

 文化を批判している︵T上︑一〇七︶︒また西も同様に﹃百一新論﹄において︑﹁法は元人の性にもとつくもの﹂とし

 て﹁人の性﹂から﹁教﹂と﹁法﹂の区分を行い︑﹁先づ法の考を名状して申さば︑正といふ字を主とし︑教の考へで

 は善といふ字を主とするでござる﹂として︑﹁教﹂が︑﹁善﹂に基づくのに対し︑﹁法﹂は﹁正﹂﹁公平﹂に基づくと指

 摘する︵N一︑二六三︶︒西によれば﹁正﹂﹁公平﹂の判断に関わる﹁人の性上に備はる﹂ものこそ﹁自愛自立の心﹂

 ︵N一︑二七三︶であり︑この﹁自愛自立の心﹂から.﹁自主自立の権﹂及び﹁所有の権﹂が生じ︑さらに﹁為群の性﹂

 ﹁相生養の道﹂に基づいて﹁権﹂﹁義﹂が定まる︵N一︑二八二ー二八四︶︒そして﹁此権義と云ふもの人の性上に備  ・  ︐

 はる自愛自立の心と相和﹂すものであり︑﹁自愛自立の心﹂と﹁為群の性﹂に基づく対等な人間間の﹁権義﹂こそが︑

 ﹁人文が開け人智が増して︑其上に治める領分が廣くなる﹂なかで﹁文明の治﹂を形成する﹁法の根元﹂となる︵N

  一︑二七三ー二七四︑二八三︶︒西はこうしてオランダ留学の成果を背景に︑文明社会における統治が﹁人の性﹂に ︑

 依拠した﹁権義﹂を根元とする﹁法﹂に基づいて成立することを指摘した上で︑自らの思想的伝統︑特に法家におけ

 る法観念に対し﹁君を尊び臣を賎んずる極粋の法で︑法の立方は誠に悪むべき法﹂と批判を加え︑日本を含め﹁漢﹂

 の法文化を﹁昔から人の奴隷たることを好む国で︑人として人たる権を失つても何とも思はぬ国柄﹂︵N一︑二六〇ー

      ︵42︶      ・       ︐  二六一︶と対象化している︒

  以上の議論からは︑その立憲政体論を根底で支えるフィッセリング自然法学︑すなわち道徳に対する法の領域を

    西周の初期体制構想       ・      ︐      ︵都法四十四ー一︶ 一二三

(22)

       一二四

﹁正不正﹂の原理に定め︑法の根源を﹁人の性﹂のうちに備わる自己愛と社会性に由来する権利義務観念に求めて個々

人を等しく権利主体と見なす法学論を︑西達が正確に理解し︑権利意識の欠落した自らの思想的伝統における法観念・

法文化を批判するに至ったことが窺える︒しかし他面で西周において︑立憲政体における法に基づく統治の在り方を

教授するフィッセリング法学との取り組みが︑伝統的法観念・政治観念への単なる外在的批判ではなく︑むしろ内在

的な思想的格闘のもとに成立したこともまた看過できない︒

 西は﹃百一新論﹄冒頭で︑﹁法﹂﹁政﹂と﹁教﹂はともに﹁斯民をして生を養ひ死を喪して︑一生涯安楽に暮させて

死後にも憾みのない様﹂にするという﹃孟子﹄に見られるような儒学の理想的統治・王政を志向する点で一致するが︑

同時に両者は﹁仕法の違ふ﹂﹁二途な物﹂であると指摘︵N一︑;二七︶し︑漢代より朱子学に至る﹁腐れ後儒﹂へ

の批判を展開する︒西はそこで︑朱子学の政治観及び学問論に対して︑﹁誠意正心が出来ると天下は平かになると心

得て﹂為政者の道徳的完成が被治者を自然と教化することになると道徳と政治を連続的に捉えることで︑専ら個人の

道徳的修養に傾倒して統治の学問を軽視している︑と批判している︵N一︑二三六ー二三八︶︒注目すべきは︑こう

して教と政を混同する後儒・朱子学の学問・政治観は︑本来の孔子の学問ではないという西の議論である︒西によれ

ば︑孔子は何よりも﹁天下国家を治る綱紀になる所謂制度典章﹂︑﹁後世でいはゴ国法とか法律﹂にあたる﹁礼﹂に

﹁深く博く達し﹂︑﹁人の相談にも乗﹂り﹁門人を教へ﹂た﹁政事学者﹂であった︒孔子の﹁表の商売﹂はあくまで

﹁政事学者﹂であり︑﹃論語﹄に見られる﹁性を論じ心を論ずる﹂﹁道徳仁義の説﹂は﹁内職﹂にすぎない︒だが時代

は降り︑子思・孟子に至って﹁論語などに尋常説話の心得書の様な言を孔子の学と取違へ﹂られていく︵N一︑二三

八−二四六︶︒以上のように論じた上で西は︑﹁故に今の世で真に孔子を学ばうと思ふ人は︑本邦は勿論漢土二十二代

の文献を考究し︑借韓近は西洋各国の制度方法をも講明して現業に施し︑何れが一番に便利なる︑何れが得何れが失

(23)

なるを察して︑目前の間に逢ふ様にするのでござらう﹂︵N一︑二四二︶と唱えている︒

 こうした西の孔子論︑︑朱子学批判及び儒学史解釈が狙裸学に依拠することは︑自説を補強する形で﹁狙裸が先王の

道は礼楽耳とか道は先王の道だとか申したも麦の意味でござる﹂︵N一︑二四二︶と﹃弁道﹄等に見られる荻生祖裸

の言説を引用していることからも明らかである︒津和野時代に藩校の儒者であった西が狙裸学に接触していたことは︑

二〇歳の時に記された︑いわゆる﹁狙裸学に対する志向を述べた文﹂に窺える︒そこには︑山崎闇斎に淵源する朱子   ︑       ︵43︶ 学を﹁正統﹂とする津和野藩に育ち︑伊藤仁斎による仁斎学及び狙裸学を﹁異端﹂視するよう学んできた彼が︑一八

歳の時︑たまたま病床で荻生狙裸の﹃論語徴﹄を手にし︑一気に狙裸学の魅力に引き込まれたエピソードが綴られて

いる︵N一︑三−六︶︒西はそこで︑﹃祖裸集﹄を読了したときの心境を︑二七年の大夢一旦にして醒覚す﹂︵N一︑

五︶とも記している︒﹃百一新論﹄の引用にも見られるように︑狙裸学の一特質は︑朱子学に対して︑為政者の道徳

的完成と政治とを連続させることで道徳的修養の学に専心していると批判を加え︑﹁道なる者は統名なり︒礼楽刑政       ︵44︶ 凡そ先王の建つる所の者を挙げて︑合せてこれに命くるなり﹂と︑先王の制作した礼楽刑政の探究を儒学の中心的課

題としたどころにある︒むろん西が儒者としてどこまで狙裸学の探究を深めたのか窺う資料は︑ほとんど残されてい

ない︒しかしこの﹃百一新論﹄に見て取れるように︑少なくとも西はオランダ留学を経て︑改めて狙裸学を媒介に︑

孔子の学問の内にヨーロッパ法学に通じる政治制度探究の法学的精神を見出すことで︑ヨーロッパ政治制度を学び日        / 本への適用を試みる自らの活動を﹁今の世で真に孔子を学﹂ぶ者の実践として再提示するに至るのである︒ここに︑

儒学と蘭学という徳川思想史を支えた二大潮流の交差する最終局面において︑.両者の架橋を試みる西周の思想的営為          が現前しょうo

ただし︑祖裸が先王の礼楽を六経の形で後世に伝えた点で孔子を聖人とみなし︑あくまで先王の礼楽に関心を注い

   西周の初期体制構想.      ︵都法四十四ー一︶ ︒一二五

(24)

       一二六

だのに対し︑西において孔子の学は︑先王の礼楽という限定を越え︑西洋政治制度を含めた実定法を具体的に究明す

る法学的態度へと二般化される︒そして狙裸が﹁けだし先王は言語の以て人を教ふるに足らざるを知るや︑故に礼楽        ︵45︶ を作りて以てこれを教ふ︒政刑の以て民を安んずるに足らざるを知るや︑故に礼楽を作りて以てこれを化す﹂と︑政

刑より礼楽を上位に置き︑礼楽によって民を化する﹁先王の道﹂への揺るぎない信念を保持したのに対し︑孔子の学

を一般化させた西は︑逆にその旦ハ体的内容︑とりわけ孔子が理想的統治として﹁法﹂に基づく﹁政刑﹂よりも﹁徳化

礼楽﹂を重視したこと︵﹃論語﹄為政篇︶について︑﹁古に泥む﹂﹁心得違つたオルトドキの條言﹂に過ぎないと批判

を加えている︵N一︑二四九ー二五二︶︒﹁此蔽習大いに後世まで毒を流し﹂後儒の心得違いを生む︒

 西によれば︑孔子や後儒が理想の統治形態とする﹁徳化礼楽﹂は︑﹁寛裕敦厚な風俗﹂に基づく﹁僅かに彼三代な

どいふ人文の未だ十分に開けぬ時ならでは出来ぬこと﹂であり︑﹁文化が進んで﹂﹁文化が四海に溢れ﹂﹁且つ知識は

古人よりも優つて﹂くれば︑﹁政刑の治が治術の正道でござる故に︑人が開化致せば致すほど正道が顕れ﹂るのが

﹁天道の自然﹂である︵N一︑二五ニー二五六︶︒こうして西は︑儒学の理想的太平である三代の世を﹁未開﹂と捉え︑

フィッセリング流の歴史法学論を背景に︑歴史の進展︑文明化に伴って法は礼楽から分離し︑法による政刑でなくて        ︵46︶ は統治できなくなると唱える︒その上で︑﹃論語﹄の言説﹁民は由らしむべし知らしむべからず﹂を︑趙鞍が刑書を

鼎に鋳たことに対して民が鼎をあてにし法を司る高貴な人の地位を危うくすると批判した孔子の議論︵﹃春秋左氏伝﹄

昭公二九年︶と重ね合わせて捉えることで︑儒学の政治理念のうちに︑人民には政務の内奥や法刑を知らせず︑政務

や法に与らせないことこそが理想的統治につながると考える法・政治観を見出し︑﹁黙首を愚にするの元祖﹂として

退けている︒そして西は︑この孔子の﹁徳化礼楽﹂論に胚胎する儒学的な法・政治観念との対比のなかで︑﹁高貴の

人が刑律を秘して己が権を檀ま︑にし︑民は之れに與から令めぬ方が宜いとは︑楮今の西洋などの民と共に法を立て︑

(25)

人君が檀まsにすることを得せしめぬとは︾まあ何れが公平︑何れが私曲でござらう﹂︵N一︑二五七︶として︑フィッ       ロ ︑セリングより学んだ︑君と民がともに法に与る︑権力分立に基づく立憲君主政体の在り方を理想的統治として提示す

る︒ここに﹃百一新論﹄白目頭に引かれた儒学的理想統治としての王政は︑立憲君主制へと換骨奪胎されるのである︒

 以上の西の議論を本稿冒頭で触れた横井小楠の政治思想的営為と比較するならば︑西洋の衝撃を単に国家の危機と

してだけでなく︑儒学に対する一つの思想的挑戦と受け止め︑近世蘭学導入以来の西洋文明は形而下の文明に過ぎな

いという西洋観を旋回させながら︑儒学の再解釈によって西洋近代の政治制度及び法政思想を評価・導入する道を切

り開いた点で︑両者は共通性を見せる︒しかし他方︑小楠が朱子学における﹁公﹂の理念を刷新し︑学政一致の理念       ︵47︶ のもと︑君主や官吏のみならず︑﹁国天下を挙て人々家々に講学﹂﹁討論﹂し︑人間社会のあらゆる場所での人々の討

議の積み重ねによる幅広い参加制度のあり方を尭舜三代の﹁公共之政﹂に見出すことで︑西洋議会政治論の先駆的導          ︵48︶ 入をはかったのに対し︑政治参加の問題だけでなく︑むしろ西洋の﹁民と共に法を立て\人君が檀ま\にすることを

得せしめぬ﹂法律制定をめぐる権力制限の論理とメカニズムのうちに﹁公平﹂さを見出した西においては︑もはや尭

舜三代の世を理想的統治とするトータルな形での儒学的世界観は崩壊している︒自然法の理念に根ざした立憲政体論

がヨーロッパの自由を求める文明化の歴史の中で成立したことを学んだ西は︑祖裸学を媒介に孔子の学問を﹁天下国

家を治る綱紀になる所謂制度典章﹂を探究し広める学として一般化させ︑ゴーロツパ法学と儒学及び法家の学問的蓄

積とを統治の学をめぐる同一の議論の姐上に定置することで︑︑逆に﹁漢﹂の為政者の﹁私曲﹂を防ぐ法観念の欠落し

た儒家流の政治観及び︑﹁公平﹂性を確保する権利意識の欠落した﹁君を尊び臣を賎んずる極粋の法﹂を立てる法家

流の法観念を鋭く対象化するに至る︒﹃百一新論﹄で展開された西の思想的格闘は︑その批判的考察を行うことで︑       一 フィッセリングより学んだ立憲君主政体論を支える精神︑すなわち﹁人の性﹂に由来する権利・義務観念を基盤に︑

   西周の初期体制構想       ︐       ︵都法四十四ー一︑︶ =一七

参照

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