ルトの贈り物』の研究
著者 坂野 明子
雑誌名 静岡大学教育学部研究報告. 人文・社会科学篇
巻 33
ページ 121‑139
発行年 1983‑03‑22
出版者 静岡大学教育学部
URL http://doi.org/10.14945/00008406
く知〉11の奈All性 を超えて:
′■‐ルtべ7二「フンボル トの増り物』│の研究
Beyondi,he SupeFttuityず `助
telle,t":
A Study Of SavI Belllwls l助%らo開,ヽ G静
1 1
坂 野 明 子1
‐■
:中 ■ i l 'sAKANO' ・
1 .‐ ALiko l
● (昭 和57年10月12日受理) ・ │ . :
ソァル・べ甲■の主人公の一人
,サムラー吠
.│ま彼の登場する作品
│『サムラー氏の番星』の冒 讚で
,米讐読みなからそあ内容に嫌暮を見え
,「知的な人
1間lま説明する動物になりさがった
JΦと考え
iる。父
│ま子供に
,妻は大に
,講演者は聴き手に
,今や人間
1達は狂らたょうに
:く,説1明`し ようとする
:だが人の心
.即ち く 魂〉
1‐よく 説明〉によって安定を得られるわ
│ナではない。
,べ遺
Tはそのょうな状況を次のように表現する。
F魂I,ま説明
││あ上部構造の上に翼をやすめ
│,どち― ら ヽ飛び立ってし
‑1いかわからないでいる小鳥のようなものだ」② これはベロ∵自身の く 知〉に対 す
│る不信
,,く知‐ 性〉と く 魂〉の分離に対する鋭ぃ認識を表現したものだと言
.えるだろう。
│もともと`●―あ
1作1晶には く 知ゝを く 魂〉あ
│二項対立は初期の
'頃カ ー
│ら存在した。処女作『宙 ぶらりんの岬』に
1於いても
,主人公は知識人つあり
,,1彼は日記に自らの哲学的
,形而上学鰤考 察をこと細かに書き込んでいく。だが同時に
;彼はそうし ヽう自身の 、知ンに元
̀足することがで
きず
,絶えず他者の存在に惑わされ
:怯え
,自分の工彗性を疑わざるを得ない。軍
1隊への徴集 ‐ を待つ
1間の仮りそめの自由とその
1結果としての
1不安に
,哲学的 く 説明〉を力
iえ,〈鶏〉
1的理論 構築を試みる主人公
│ま,その分だ
1ナ妻や兄弟
b友人達から遠ざかってしまい
:そして梱乗作潮
と ―
してます誅す知
1的暉口を強めるこ
│とになる
.。つは
│り己
:れの
iX̲いを く 知〉的に分析すればする ほど不安が増大する
1過程がはつき
'り読みとれるので
,ある。しかしここに見られる悪循環
1ま或る 意味で不可避のことであった。というのも
│:こ│の場合
:主人公のく 知〉や自意識は
,〈魂〉
,1枷》
,平たく言え
│よ (生‐ きている実感〉と確がな接点を持ちていなし ヽ あであり,結 果的にく 知〉もそ 魂 もと
│もに揺ちいでしまうの
│である。処女作ながらベロニは見事に
│この事態を描き出し
│ている
.。'そしてそれから
30年近い歳月を経た『サムラニ民の惑‐ 星』に於ぃて
,やはり同じような く 知〉
と く 魂〉の分離が問題にされているとすれば
,このテーマは作家ベロニにとって非常に根深ヴ 問題であり続
lサたと言わドる
│を得なぃだろ
│う│。│ } │ ・ ` '
:だが:1当然のことながら,作家もまた■1人の本間である.以上,変貌もゎ4げ成熟も│ゅる♀(事 ぃ│キ退化が│あると1附Iす押えて
0い
いだろうヽ従う,て1同じテ「
マが同じように扱われてい.く とは 限ら,ないよ六ローの く知
'の
モチニフについても:年代順に彼の1作1品を見ていくとき,微妙に 変イヒしていらたように思われる。
falぇ 1ざ先lこあげた『置ぶらりんの男』ittS‐ 主人公ジョ̲ゼ ラは次のようた考察する。
And goodness is achieved nOt in a other men,attended by love. L ip distrustful,find in my purpose not hopeless iailo ③ (下 線 筆 者)
vacuum,
but in the
company ofthis room, separate,
alienated,an open world, but a
closed,ここでは彼の く知〉の開塞状況がa c10sed,hopeless iailと いう言葉によって明確にされ,そ れ と対照的なもの として,愛を伴 う他者 との関わ りが称揚されている。そして様々な知的考察,
心理‐的紆余曲折の後,主人公は,「愛を伴 う」かどうかは定かでなvヽが
,少
くともcompanyの
側に立つこと,即ち自らすすんで入隊することを決意するのだ。それがあの有名な最後の科 白,̀̀Hurray for regular hOurs! And fOr the supervision of the spirit! Long live Fegi̲
mentation!"(p.159)と
な って表 わ され るわけだが,この意味 でベ ロー の選択 は,皮肉 とい う味つ け をされてはいて も,結果 的 には道徳 的 な ものであった と言 わ ざるを得 ない1と
い うの も く知 〉 的 自我 を捨 て,他者 の ために 戦争 に行 くこ とを択 んだ主 人公 の脳裡 には,この とき明らか に く知 〉=エゴっ く他 者 の ため に行動す るこ と〉=愛とい うは っ き りした構 図が描か れて いた筈である。ベロー という作家は,アメリカ人であるためか,■ダヤ系であるためか,恐ら
くその両方の故であろうが,非常に形而上的傾向をもつ と同時に,一方で
,
ヨーロッパの「純 正」な知識人のょうに,論理の世界に没頭 しきれない側面を合わせ もっている。それを道徳 といってもよいし,倫理`といってもよいが
,
ともあれベ ローは自我 を知的に分析 しつつ,心情で 世界に向きあおうとする作家だと言えるだろう。従って彼は く知〉的に把握 した自我 を善悪の 基準で評価するという,必ず しも調和 していない自らの精神の運動に絶えず1題まされることに なる。この点については多くの批評家が認めるところで,Claytonが
言 うように,「goodness についての明白な関心がベ ローの作品を貫いている」④ のである。Claytonは また,ベローの作品の中に自我の否定を見,それをサル トルの『嘔吐』 とlL較検討 し,サル トルの自我の否定 が形而上的であるのに対 し,ベローの場合は道徳的であると指摘 している。⑤ これも上の論議 から考えて,正しいように思われる。
確かに我々が『犠牲者』,『この 日をつかめ』,或いは『雨の王ヘ ングソン』等の作品を考え る時,ベローの道徳性は疑いようがない。どの作品に於いても,最初は自我に固執 していた主 人公が,他者 との関係性の中に自身のidentityを求めるところで物語は終わっている。人を愛 することの申にしか生命の真の営みはないのだ と作者は主張 したげである。そしてそれを主張 として聞 く限 り,道徳的な響 きばか りが強 く耳に残 り,中には作者の道学者ぶ りに嫌悪 を覚 え る読者 もいるか も知れない。だがベ ロー 自身,エッセーの中で,「私は芸術から道徳的な機能 を切 り離すことはできないと信 じる」⑥ と明言している以上,どんな形をとるにしろ,彼の作 品から道徳性が消え去ることは恐らくないであろう。ただし,それを認めたうえで我々は間わ な くてはならない。ではベ ローのもう一つの側面, く知〉は く道徳〉 とどのように関わってい るのだろうかっ と。
上の問いに答えるために
,我々は一つの事実に注目する必要があるだろう。即ち
,先にあげ
た二つの作品に於いては主人公は必ずしじ く知識人〉ではないという事実である。そして更に
付言するなら
,『宙ぶらりんの男』の主人公は
,三作品と違って知識人であった故に
,あのよ
うにドラスティックな,自 暴自棄的な叫びで自らの選択を「祝福」しなければならなかったと
考えられるのである。簡単に言ってしまえば,『雨の王ヘンダソン』に到るまでのベ ロこの作 品では, く知〉 と く道徳)は本当の意味で交錯 してはいない。確かに結論に到るまで主人公は〈知〉の余剰性 を超えて:ソール・ベ ロー『フンボル トの贈 り物』の研究
思考能力の全てを賭 して激 しく抵抗す る。だが結局, く知〉は く道徳〉によってあっさ り否定 されて しまう。つ ま り観念4性
=く
知〉の内側に 自己を閉 じこめ ることよ り,人の中に出ていき,人 を愛す る方が大切 だ とい う 〈倫理〉が明 らかにされて作品は終わるのである。 だか ら主人 公の悩め る自我に共感 をもってつ き合 って きた読者は何か しら釈然 としない気持 ちのまま取 り 残 され ることになる。これはベ ローの作品によ くあるパ ター ンと言えるだろう。だが く知〉は その ようにたやす く,〈倫理〉 とい う外佃1からの圧力によって追放 され うるものだろうか。寧 ろ く知〉は人間存在の奥深 くに根づ き (何故な ら人は 自分な りに世 界を解釈 して生 きているの であ り,そしてこの解釈 こそ く知〉の基本的任務 なのである),その人間の く性格〉 と分離不可 能になっているのではなか ろうか。 とすれば く知〉 を く人間愛〉 という一種抽象的な く倫理〉
だけで否定す ることには,本来的に無理があると言わな くてはな らない。そ してこの無理がベ ローの初期の作品には目立つのである。
く知〉は 〈自我〉の内側に深々 と喰いこみ,両者 を容易に分離す ることはできない。ベ ロー は
Jo Bransと
のインタビューの中で,「私 は私の受けた近代の,大学教育 と私が 自分の魂 で最 も深 く感 じていることの間に,衝突っ矛盾があることに気がついた」⑦ と述べている。 ここで 考慮すべ きは,矛盾はベ ロァ とい う一 人の人間の内部で起 こっているとし`う点である。従 って く知〉に何 らかの欠陥がある として も,それは内側か ら克服 されるべ きであって,決して く倫 理〉 とい う外的因子の導入によって一気に解決 されるべ きものではない。それは作家が一番 し てはな らないことの筈である。作家は説教者ではない。彼は何 よりも先に人間性の全体的な探 究者でな くてはならない。 とすればベ ローのすべ きことは, く知 〉の矛盾 を内側か ら捉 えるこ と以外ではあ り得ない。恐 らくこのことに 自覚的になってい くにつれて,ベローは主人公を知 識人に設定 し,更に く知〉の欠陥 を衝 く役割 を,〈倫理〉にではな く主人公 自身の く魂〉に振 り当てる必要性 を感 じていったのではなかろ うか。そしてこう考 えて くれば,『ハー ゾグ』 を生 み出 していったベ ローの心情 を思い描 くことは容易である。彼はこの作品で初めて知識人を本 格的に取 り上げたのであって,この作品以後最新作 鶴c Deαηし,cccπιθグに到 るまで,そ
の姿 勢 は変わっていない。 また当然のことなが ら,こ
れ らの作 品に於 いては く倫理〉 とい う他所者 が悩め る く知〉 を一方的に裁断す ることはない。そ うではな くて,goodnessを
求 め る 自らの く魂〉が,gOodnessの
実現 をさまざまな形で妨害 し,抑止す る く知〉 と,必死の生々 しい闘い を演 じてい くのである。それは徹頭徹尾,内面の ドラマであ り続け,
しか も最後の審判は已れ の手によってなされるのである。1975年の作品,『フンボル トの贈 り物』 を以上のような文脈で捉えるならば,ベローに とっ
て く知〉の問‐題が,いよいよ深い意味合いを帯びて きたことが理解できる。主人公は言わば折 り紙付 きの知識人であ り,彼は 自身の く知〉の処遇に苦 しんでいるように見える。勿論,く知〉
が問題になるのは 〈魂〉が或 る種の ノンを叫ぶか らであって, く知〉が く知‐〉 自体 として安定 しているなら, く知〉の意味は間われ ることさえないに違 いない。例 えば自分の知性に優越感 を覚 え,そこに 自身のidentityを 求め る知的スノッブ は,ベローが感 じ取 った矛盾に気附 くこ とさえないだろう。だがベ ローの場合は, く知〉の問題はそのまま く魂〉の問題なのである。
その意味で
Aldridgeが
『ハー ゾグ』の中に知識人の優越感 (屈折 していることを認めてはいるが)を 見てとったのはρやはり多少意地の悪い見解のように思われる。ベローにとっては
く 知〉は優劣のレベルで考えられるものではない。もっと切実なっ作家の自己探究に関わる間
題の筈である。換言すれば
,く 知〉と く 魂〉の融合はベローの生涯のテーマなのである。だか
らこそ彼は次々 と く知〉の問題 を取 り上げてきたのであ り,そして『フンボル トの贈 り物』は その中でも,ベローの意気ごみが最 も強 く感じられるとは言えないだろうか。
『フンボル トの贈 り物』はエピソー ドの多い作品である。このエピツー ドの多さは必ずしも プロットの複雑さを意味しない。 というより,プロットと普通呼ばれるようなものはこの作品 には存在 しない。先に述べたように く知〉 と く魂〉の相克がライ トモチーフであるとするなら,
主人公の自我は分裂せ ざるを得ず,結果的にconventionalな小説の文法に則ったプロットが 欠落するのは寧ろ当然のことなのである。ベ ローは20世紀の偉大な作家達,ヴテレリー
,ロ
レ ス,ジ ョイス等について次のように述べている。.ぅ 。all together have made us aware that the sOveFeign individual, 11lt tight 91tity WhOSe fOrtunes,passiOns,and moral problems illed the page,of novels(and of histOrical studies as we11),was simply a fabrication,the product Of a multitude of interests and in■ uences, and of Our ignoFanCe Of physics,psychology, and our sOcial class divlslons.
古典的小説に於 いて主人公が如何に「つ くりもの」であったか を指摘す る一方で
,20世
紀に入 つてそ うい う仮構の 自我は解体 したのだ とベ ローは主張 したいようだが,注目したいのは「主 権者 としての個 人」或 いは「緊密な全体性」 とい う表現 である。物語性 を支 えて きたのがその ような確 固たる自我 をもつ主人公であったことを考慮す るなら, く知〉 と く魂〉の間で引 き裂 かれた人物 を主人公 とす るベ ローの作品に於 いて,通常 のstOry‐lineが成立 し得ないの も無理 か らぬ ことだ と言えるだろう。ところで この点に関 して
,Tonny Tannerは
次の ように論 じている。...his books lack the spine of p10t. They have little dプ nalniC dra‐
matic necessity. This leads to a split: the internal emotional and intellectual development can be mOving and convincing,the external chain of events is often rather randonl,Ineager,and uncompelling.⑩
確かに entity"を もたない主人公は作品を分裂 させ る危険性 を手んでいる。事実,旧来の小 説の主人公のように外的事象 と密接な関係 を保ちつつ変貌 してい くことがないために,ベロー
の作品の主人公は,二見,story‐ lineと 無関係に浮遊 しているように思われないこともない。① だが,分析的な眼で小説を見るのではな く,虚心にベ ローの作品を読んでい く時,読者は必ず
しも上に述べたような く分裂〉を意識 しないのではなかろうか。とすれば
,主
人公の entity"の代わ りに, く分裂〉を統合する何 ものかがベローの作品に於いて機能 しているとは考えられ ないだろうか。この点で示唆的なのは
E.L.Rodriguesが
『ハーゾグ』について示 した,「大 人のBildungsrOman」 ⑫という見解である。通常の BildungSrOmanが 主人公の魂の成長を外的 事件 との関係で描 き出すのに対 し,『ハーゾグ』に於いては,主人公の知識人が く知〉的忘想 に捉われつつ如何に く心〉を発見 してい くかが明らかにされてい く。つまり『ハーゾグ』は,精神の分裂の危機に遭過 した大人 (決して若者ではない)の く知〉 と く魂〉が出合 うまでの物 語 と言ってよいか もしれない。そしてこのことは他の作品についても言えるのではなしヽだろう か。特にこれか ら論 じようとしている『 フンボル トの贈 り物』の場合は, く知〉 と く魂〉の分
〈知〉の余剰性を超えて:ソール 。ベロー『フンボル トの贈 り物』の研究
裂が際立ってお り,そのうえ,主人公の精神的成熟を妨げるようなエピソー ドに温れている。
その意味では寧ろ,《解体 されたBildungsroman》 の観が強いが
,し
かしその故に逆に,く合一〉に向かおうとするエネルギーが高まり,精神形成のプロセスがはっきり読み とれるようにも思 われる。そして実は
,こ
の く合一〉に向か うエネルギーこそ,story̲lineの 代替物なのである。く知〉 と く魂〉の分裂から融合へ と発展する 《解体 されたBildungsFOman》 としての │『フン ボル トの贈 り物』は,古典的な教養小説 と違って,story‐lineは解体 されてお り,更に幻惑的 な現代風俗の衣装 を何重にも身にまとっているため,その本体は非常に掴みに くくなっている。
従って我々は核心的テーマに近づ くために,我々自身の想像力と理解力でこの作品を再編成 し な くてはならないだろう。そして く知〉 と く魂〉の合一に到る過程 を辿る1時,気―をつけるべ き は,ベローが入念に書き込んだエピソー ドに充分 日配 りしなくてはならないという点である。
言ってみれば,我々の方で く知〉を先行 させ, く説明〉に固執 してはならない。それは作者が 最 も忌み嫌 うことなのだか ら。ベローは小説家について次のような見解 を表明している。詩人 と比べて,「小説家は純粋な結末に到達する前に,泥だらけの騒々しい領域 を横切 らな くては ならない。彼は人生の些末事により多くさらされている」⑬ とすれば,我々もまた,泥に足を 取 られ,周囲の騒々しさに本当の調べ を聞きそこないそうにな りながら,一歩一歩進んで,ベ
ロー との く合一〉を目指さなくてはならない。
『フンボル トの贈 り物』の主人公,チャールス・ シ トリンは現在55オで:シカゴに住んでい
る。彼は若い頃プロー ドウェイの芝居 を書いて成功 し,その後は伝記作者 としてピュー リツァ 賞 を受け,フランス政府か ら勲章 まで授与 された輝か しい経歴 をもつ知識人である。だが今 の 彼は
,
自身及び世 界の知的危機に思い を巡 らし,何とかそれに関す る書物 を著わ したい と願い なが ら,
しか し何の成果 も得 られないまま空 しく時 を過 ごしている。物語 は現在のシ トリンが さまざまな現実に四苦八苦 しつつ,過去 を回想 し,知的分析 を試みなが ら,
自らの精神的危機 を克服す る結末に向かって進行す る形で構成 されている。だ力ち 先に述べ たように,我々の理 解のためにはシ トリンの精神史を順 を追 って見てい くことが必要 であろう。シ トリンはシカゴで,決して裕福 とは言 えないユ ダヤ人の家庭に,二人息子の一人 として生 まれた。彼は幼 い頃の 自分や,貧しいが しか し確かに「生 きてJいたユ ダヤ人達 に囲 まれたゲ ッ トーでの暮 らしをなつか しく思 い出す。現在か ら返 り見ると,当時の 自分 はgoodnessを 疑 うことを知 らぬ,アメ リカ的無垢 の体現者 であったヽように シ トリンは考 える。そ してこの延長 線上に思春期のネイオ ミとの恋愛があった。55オとなった今 でさえ,時折 シ トリンは もしネイ オ ミと結婚 し,彼女 と毎晩抱 き合 っていたら,現在の自分の精神的混乱はなかっただろ うと夢 想す る。、だが シ トリンはネイオ ミとの中産階級的安定に組す るには余 りに も多感で,ネイオ ミ の言葉 を借 りれば,余りに知的であった。シ トリン自身回想す るように
,幼
い頃から彼は,lovefever(p.75)⑭
にかか ってお り,必要以上 に人を愛 して しまう傾 向があった。だがそれは社 会的枠組に彼がおさま りきれないこ とを意味 していた し,事実彼はネイオ ミと結婚 し,ネイオ ミの父が信奉す るアメ リカの く成功の夢〉 (無論,ユダヤ人的ヴァ リユー ションを受けている が)を
共有す ることが どうして もで きなか ったのである。成長 し,文学専攻の大学院生 となったシ トリンは,彼の lovefeverと 知的欲求に応 える人物,
フォン・ フンボル ト・ フレイシャーに出会 うべ く,ネイオ ミと別れて,シカゴか らニュー ヨー
クヘ と赴 く。当時フンボル トは新進気鋭の前衛詩人であり,処女詩集 ″αr厖郷jη BαJJaJsがヒ ットしたばか りの,意気盛んなグリニ ッヂ・ヴィレッジの住人であった。ランボル トとシトリ ンは親 しくなり,言わばシ トリンは「芸術的洗ネL」 を受けることになる。シ トリンにとってフ ンボル トの魅力は,その く魂〉の純粋性にあ り,彼はこの文学上の師に強 く魅 きつけられる。
だが一方で,フンボル トは俗 っぽさも身につけていた。例えば彼は大変なお喋 りで,話題は金,
女,車,野球,フットボールか ら,ショーペンハウエル,マルクス,ニーチェ,ジョイス等ヘ と目まぐるしく移っていき
,
しかもその淀みなさはまるで「会話のモーツアル ト」のようであ つたとシ トリンは回想する。こうした詩人の姿は,くアメリカにあって詩人であることの困難〉というこの作品の'一つのモチーフを表 している。別の言い方をすれば,「手に入れられるもの」
(thingS attainable)(p.334)に 温れた く物質文明〉の申にあって,なお確かな く魂〉をもつ ことのむずかしさを,フンボル トは身をもって体験 していたのである。成功がもたらした金や 名声が如何に自分の く詩人の魂〉を汚し,影を薄れさせてい くかを充分承知 しなが ら,同時に
「手に入れられるもの」への欲望 も断ちがたいために,彼の心はその両者の間で揺れざるを得 ない。そして奇妙なことに,〈魂〉に対する不実に悩めば悩むほど,フンボル トは知的会話に 専心 したのである。
この意味でフンボル トは,後年のシ トリンの矛盾, く知〉 と く魂〉の分裂の問題を先取 りし ていたと言えるだろう。後に詳 しく述べるように,シ トリンの場合 も, く知〉 と く魂〉の分離 が く知〉を肥大化 させていくのだが,フンボル トも同様の軌跡を描いて,〈アメリカの詩人の 運命〉を生 きることになる。事実 く魂〉の欲求 と く現実〉の誘惑 との間を振 り子のように揺れ,
緊張感か ら不I民症にかかったフンボル トは薬を浴びるように飲む一方で,相手かまわず知的会 話に熱中する。更に精神の荒廃がすすんでい く過程で,フンボル トは知的権威にたよろうと,
常識を外れた行動に,出る (プリンス トン大学の教職 を得ようと策を弄 したり,或いは,政権に 参加 して「アメリカのゲーテ」になることを夢見さえする
)の
だが,これ らのエピソー ドに表 れた 〈知〉は明らかに く魂〉の不安の裏返 しに過 ぎない。 というのも く魂〉の欲求に従わず,成功のもたらした甘美な現実に幻惑されている自分に対する罪の意識や不安 を,一般化,つま り く知〉のレベルに変えることによって詩人は己れの 〈魂〉 との直面を回避 しようとしたのだ と考えられるのである。その意味で, く知〉は己れの内奥の声を遮断する「 防音壁」の機能 を 果たしていた と言ってよいか も知れない。そして更に不安が増大 してい くと, く知〉 を外側か
ら権威づ けて もらう必要が生 じ,フンボル トは大学に職 を求めたのだ と解釈 できないだろうか。
だが当時のシ トリンにはそのような く知〉のか らくりは見えていなか った。彼はただ愛す る フンボル トの正気の崩壊過程 に心 を痛めただけであった。その意味では彼は依然 として無垢だ ったのであ り,love■
lverに
促 され, く純粋な魂〉 を求め続けたのである。そ して奇妙 といえ ば奇妙,当然 といえば当然のことだが,その頃のシ トリンに とって重要 な もう一人の人物,デミー・ フォングル もまた,フンボル ト同様,〈純粋な魂〉 とアメ リカの く現実〉 (物質文明や respectability)と の間で引き裂 かれた存在であつた。彼女は地方の裕福な家に生 まれ,〈魂〉
の十奥底 まで宗教教育 をされて育 つたが,シ トリンと知 り合 つた当時はニュー ヨマ クでラテン語 の教師 をしていた。 シ トリンの分析 によれば,彼女にはcountry giFlと SOCiety girlが共存 し てお り
,よ
き古 きア メ リカを思わせ る表情 をしているのに,パーティーな どでは必死にニュー ヨー ク訛 りを真似 るのだった。だが,「善が奇跡的に生 き残 るこ とが生涯 のテーマ」(p.163)
であるような彼女が,完全に現在のアメ リカ文明 と折 り合 うことがで きる筈はな く,彼女は夜く知〉の余剰性 を超えて:ソール・ベ ロー『フンボル トの贈 り物』の研究
になれば,己れの偽購性 に耐 えきれないかの ように地獄の夢 を見て うなされて しまう。だか ら 彼女は 〈眠 り〉 を恐れ,(〈眠 り〉のモチーフは作品全体 を貫いている),フンボル ト同様,薬に
頼 り,悪夢 よりは深夜テレビの恐怖映画 を好んだのである。そ うい うデ ミーにシ トリンはやは り 〈純粋 な魂〉 を見て魅かれ
,55オ
になった現在で も,彼女 を生涯 で最 も愛 した女性 と考 えざ るを得 ない。この ように考 えて くるとフンボル トやデ ミー と関わったのは,シ トリンの中に く魂〉 を求め る強い気持 ちがあった証左の ように思われる。 しか しなが らシ トリンの芝居がプロー ドウェー で ヒッ トした頃か ら,シ トリン と く純粋 な魂〉 との蜜月に暗い影が さし始め る。例 えば,既に
徐々に狂気の兆候 の表れてしヽたフンボル トは,そんな事実は一切 ないに も拘 らず,妻キャス リ ー ンの不実 を疑い,彼女 を蝶 き殺 そ うとした り,彼女が逃 げ出す と密通 の相手 と信 じ込んだ若 、 い文芸評論家 をピス トルで脅 した りして,アメ リカに於 いて く魂〉 をもちこたえることのむず か しさをシ トリンに思い知 らせ ることになる。 また当のシ トリンに対 しては,彼の成功作 を上 演す る劇場の前で「裏切 り者」 と書 いたプラカー ドを持 って ピケを張った り,兄第の契 りの証 しとして交換 した小切手 を多額に現金化す るとい う行為に出たのだった。 こうしてフンボル ト の狂気は決定的な もの とな り,彼は精神病院に送 られて しまう。つ ま リシ トリンは 自らの成功 を契機 に, く魂〉 と繁が る糸 を一本失 ったのである。
そして もう一本の糸,デミー との関係 も,デミーが シ トリンとの結婚 を南米にいる父に承諾 して もらうために出た旅の途申,飛行機 による事故死 を遂 げて しまったことで,あえな く切 れ て しまう。 このことはその後のシ トリンの誤 ちにはずみ をつけることになった。というのもく魂〉
につなが る二人を失 ったシ トリンは,自力で く魂〉 を支 えることがで きず,儲けを先行 させ る プロニ ドウェーのビジネスの世 界にず るず るとのめ り込んでい くことになるのである。
ところで,〈魂〉 との接触 を失 ったシ トリンがその代替物 として求めたのは,フンボル ト同 様 く知〉の世 界だった。デ ミー とフンボル トの不在の淋 しさを彼は知的会話に よって埋め よう と,デニー ズ とい うインテ リ女性 に近づ いてい く。要す るに彼は,己れの く魂〉の不安 を く説 明〉す る相手が欲 しか ったのである。やがてシ トリンはデニー ズと結婚す るに到 るが,しか し
彼女 は 〈魂〉 と切 り離 された く知〉 を持 ってはいて も,デミーのような く純粋 な魂〉 とは無縁 な女性だった。彼女に とっては く知〉は一種のファッションであ り,それ以上に権威であった。
だか らデニー ズはシ トリンが インテ リの仲間 と附 き合 うの を好み,そのためには如オ ないホス テスぶ りを披露す るが,シ トリンの幼 な友達,教養 のない肉体派 ともい うべ きジ ョー ジ・スウ ィーベ ルには,明らさまに嫌悪 を示すのである。そ うい うデニー ズに多少馴 じめない感 じは抱 いたに して も,シ トリン自身,成功 の甘 い夢の申で うたた寝 したい とい う気持 ちもあって,彼
は最初は彼女 と歩調 を合わせ く知 の権威〉 を求めてい く。事実,ホワイ トハ ウスでケネデ ィー 大統領に会見 した り,勲章 をもらった りして,Wbb Wみοに名前の載,る,押しも押 され もしな い知識人 となっていったのである。だが,シ トリンの心にはいつ も置 き忘れて きた く魂〉への 懸念があって,それは彼が完全な知的スノップ にな りきることを妨 げ,そのためにデニー ズと
の仲 は少 しずつ悪化 してい くことに なる。
く知 の権威〉に完全には充足す ることので きないシ トリンはやがてシカゴに移 り住む ことを 決意す る。 く知〉の ヒエラル ヒーの上層部 まで上 りつめ るとすれば,ニュー ヨー クに住む方が 有利だ と信 じるデニー ズはそのことに反対 したが,現在の自分に何かが欠けていることを漠然 と感ず るシ トリンに とっては,彼の く魂〉のふ るさと,彼の無垢 の出発点,シカ ゴに戻 って
住むことが是非 とも必要だったのだ。だが無論,単にシカゴに居を移すだけでは何 も変わ りは しない。実際彼は,病院を出て落晩の身の上 とならたフンボル トを偶然ニュー ヨー クの路上で 見かけた時,声をかけることさえできず,一直線にシカゴベ逃げ帰つてしまう。皮肉にもこの 時,シ トリンはロバー ト・ケネディー上院議員等 とともに,ニュー ヨー クの下町の視察中であ り,言わば く知の権威〉の頂点にあったもそのような,権威づけられた く知〉の代表 としての シトリンには
,
自分が捨て去った く魂〉の行 きつ く先を絵にしたような,浮浪者同然のフンボ ル トの姿を直視することはできなかった。その意味ではシトリンは,〈魂〉を三度捨てたと言つてもよいかも知れなぃ。いずれにせよ,こ の後彼はフンボルトの死を『タイムス』の死亡記
事 に よって知 るこ とにな るのだが,声をか け るこ とさえ しなか った とい う罪の意識 はそれか ら
/10年
以上過 ぎた現在 で も,彼の心か ら消 え去 って いない。結局 く 知の権威〉のみ求めるデニーズと離婚 し
,今シトリンはシカゴに一人で暮らしている。
〈 知〉の落ちつきの悪さは相変わらずで
,何とかしたいとは思っているが
,彼はそういう自
1分を 真正面から見据えることはせずっ寧ろますます く 知〉に頼ることによって問題を解決しようと する。というのもシトリンの武器は く 知〉
,即ち く 頭〉しかないのである。彼は自分が「頭文化」
(head‐culture)に
毒ざれていることを自嘲的に語 り
,更に自分自身を次のように分析する。
I was by inclination the sort of persOn whO needed lmicrocOsmic‐ IInac‐
rocosmic ideas,or the belief that everything that takes place in man has wOrld significanceo Such a belief warmed the environment for , me,and brought out the sweet glossy leaves,the hanging OFangeS of the grOves where the unpolluted self was virginal and gratefully with its Maker,and so on。 (p.251)
ここに表れているのは,どの ようなことが起 きようと出来事 を く知〉の枠組の中に押 しこめ,
世 界 と自分が裸で向 き合 うことを回避 しようとす るシ トリンの姿勢である。 (これは先に述べ たフンボル トの場合 と全 く同 じと言って よい。)事実,シ トリンは 自分の精神の不安定 を く人類 の倦怠〉 とい う知的一般論にす り変 えて しまい,それに取 り組む ことで自身の最 も切実なく魂〉
の問題か ら目を外 らそうとす るのである。 (従って上の引用の「汚されていない自我」 とは幻 想に過 ぎない と言えるだろう。)だが勿論,その ような自己逃避か ら何が生 まれる筈 もな く,く俗 怠〉の知的考察 を扱った書物の第一部は出版 された ものの,評判は悪 く,第二部が書けないま ま思考ばか りが空転 しているのが実状 なのである。
ここでシ トリンの く知〉の空転ぶ りを見るために,彼の く倦怠〉論 を眺めてみ るこ とに しよ う。彼は次の ように考察す る。現代の人々が俗怠 を感 じるのはテ クノロジーの異常な発達によ り,く気 を散 らす もの〉(distractions)①が温れてお り,そうい う仮 りそめの幸福の中で く死〉
の冷厳な事実が昔 よ りもおぞましく見えるか らであ り,言ってみれば 〈甘 い現実〉 と く死〉の 落差が人々に く俗怠〉 を覚 えさせ るのである。そして更に,「外的世 界 との個 人的関係の欠落」
(p.199)が,世界 と人間 との生 き生 きした関係の喪失につなが り,結果 として人々は何 もか も つ まらない と感 じるのだ とシ トリンは考 えてゆ く。例 えば風景を見る時も
,人
々はconventiOnal な く美〉の枠組,換言すれば学校な どで教 えられた く美〉の1観念を通 して,風景 に感動 しようとす る。それは現代の教養文化の中で蔓延 している一種の く知〉の病 い といって もよいか も知 れないが
,
ともあれ,その ように世 界を く知〉のフィル ター越 しに見ることは生 きている実感 を失 うことであ り,〈俗怠〉感 を引 き起 こす原因なのである。 こうしてシ トリンは く知〉 を先行く知〉の余剰性を超えて:ソール・ベロー『フンポル トの贈 り物』の研究
させ る ものの見方 に強 い不信 の念 を表 明す るこ とにな る。 そ して彼 は一例 として,『荒地 』的世 界観 を槍玉 にあげ る。幻減 してい るのは私 の頭 であって,世界 では な い。 それ なの に世 界 自体 が色褪せ たか の よ うな言 い方 は よ くないのだ
,
と。 しか し翻 って,シ トリン 自身 の頭 につ いて い えば, the seliconscious ego is the seat of boredom"(p.199)と 認 め ざる を得 ない。彼 は考 える。...to be fully conscious Of oneself as an individual is also to be sep・
arated from all else. This is Hamlet's kingdom of infinite space in
a nut・shell,of̀words,woFdS,WOFdS',Of̀Denmark's prison'。 (p.199)
ここで明 らかなのは, く知〉の余剰性 である。考 えれば考 えるほ ど世 界か ら遠去か る く知〉の か らくり,それ こそがハム レッ トの「言葉,言葉,言葉」 とい う有名なフレー ズが表す もの と 言えるだろう。それ をシ トリンは痛感す る。だがそこか ら逃れることは決 してできない。 とい うの もそれは一種の く知〉の蟻地獄,或いは「 牢獄」なのである。シ トリンは く知〉のシステ ムに組み込 まれる危険性 を察知 し, く知〉の欠陥 を明 らかに しようともが きなが らも,一方で それ を く知〉的に分析す る自らの く知〉に金縛 りになつてしまうのである。 ところでこのよう な袋小路に追いこむだけの く知〉 を人は余剰性以外の どうい う言葉 で呼べ るだろうか。
この ように く知〉の閉塞状況に苦 しみ抜いたシ トリンは,やがてそれ を打開すべ く,「女性 の 形 をした救済」
(p.200)を
求め るよ‐うにな り,そこに現在の恋 人レナー タが現れる。 レナー タ はシ トリンの年令の半分に もいかないっ離婚経験のある,息子一 人 をもつ美女だが,シ トリン を翻弄す る点で,ベローの作品に繰 り返 し登場す る悪女の一 人 と言 えるだろう。だが彼女 を自 分の「運命」 と思 い決めたシ トリンは彼女の肉体 に溺れていつて しまう::そ して彼女の世俗的 な要求に合 わせ て,ベンツを買い,若造 りの洋服 を着 こみ,知識人 らしく本 を並べ,フランス 政府か らもらった勲章 を部屋に飾 ることに さえ同意す る。更には,年令差 をカバーす るため,ハ ゲを直す ことや 目の下のたるみを取 る手術 を受けてみようか とまで考 えるのだが,この よう
なシ トリンの姿勢は
,
自分の本当の問題, く知〉 と く魂〉の間の亀裂 を肉体や世俗性 で覆 いか くそ うとす るもの と解釈 で きるように思 われる。勿論 それは無意識の うちであって,シ トリンの精神活動が レナー タの出現によって停止 した わけではない。彼の く知〉は相変わ らず活発な
,
しか し不毛 な運動 を繰 り返 している。その一 つの表れが,友人サ クスター と共に企画 した 鶴 θ4rん という雑誌である。彼はこの雑誌で,旧来の思想の行 き詰 まりを打破 して新 たな地平 を開 き,世界の知 的危機 を救 うこ とを狙 っている。
既 にシ トリンはその手がか りとして,ル ドル フ・ シュタイナーの人知学 に関す る論文 をカ リフ ォルニアのサ クスターの もとへ書 き送 っている。 この論文 で彼は,今までの コー ロッ′ド的昼考 形式,合理主義の発想は誤 りであって,シュタイナーの主張す る く魂〉の解放,〈眠 りの時の 死者 との交感〉に一つの突破 口があるのではないか と提唱 したのだが,実はこの こと自体,先
に述べ たシ トリンの く知 〉の空転状況 を証 してい ると言わな くてはな らない。無論 シュタイナ ー とい う一種 の神秘主義者 をもち出 したか らといって,シ トリンの姿勢が逃避的 とい うのでは ない。寧ろシ トリンの熱意には並々な らぬ ものがあ り
,
また ヨー ロッパの思想の系譜 を再検討 す るとい うの も正 しい発想であろ う。 だが,依然 として く知〉の行 き詰 ま りを く知〉的に分析 し,それに関す る論文 を く知〉的オピニオン誌に掲載 しようと考 えている点に於いて,シ トリンの く知〉の 自家中毒症状 は明らかだ と言わねばならない。
作品全体か ら考 えて も,サクスター とい う人物は,シ トリンの く知〉に対す る偏愛 を助長す
る役割 を呆たしていると考えられる。彼にはジャーナ リス トとしてのオ覚があり,シ トリンの く知〉を売ろうという魂胆があるのだが,〈知〉を否定する く知〉という自家撞着に陥っているシ ト
リンはそれを見抜 くことができない。寧ろ既に遠去けたアヵデ ミックな く知〉とは別 ものの,
一見柔軟なサ クスターの知的姿勢にシ トリンは甘えようとする。しかしこれは或る意味で「同 病相l14れむ」態度 と言えるだろう。 というのも,シ トリンが指摘する,「サル トルやヴィトゲ ンシュタインのような」
MaioF Statement"(p.263)を
述べたいというサ クスターの願望は,実はそのままシトリンのものなのである。従って,サクスターと関わることはシトリンの中毒
症状の悪化 を招 くことはあって も,そこか ら回復す る可能性はゼ ロに等 しい と考 えた方が よい だろう。 しか も現実に於 いて も,サタスターの生活無能者ぶ りにようて,肝腎の雑誌はただシ
トリンのお金 を浪費 させ ただけで,今の ところ発刊の見通 しさえたっていないのである。
以上のこ とか ら
,55オ
の現在のシ トリンが く知〉の余剰性 に苦 しみなが らも,如何に精神的 に 〈眠って〉いるか理解 できるだろう。彼は く知〉 と く魂〉の不連続性か らくる不安 を,肉体 と世俗性 とジャーナ リステ ィックな く説明〉のレベルの 〈知〉に没入す ることで忘れようとし ているのである。勿論彼が暫 く前か らシュタイナーに関心 を持 っていること,〈死〉や フンボ ル トのことが念頭か ら離れないことを考慮すれば,こ
の くI民 り〉は決 して熟睡 とは言えないだ ろう。 しか しなが ら,シ トリンが レナー タの腕の中で見る夢 といえば,シュタイナーが言 うよ うな く天使 との語 らいゝでは さらさらな く, ラケ ッ トボールが強 くなった 自分の姿 という,最も世俗 的な ものである以上,彼が 〈惰眠〉 をむ さぼっていたことは否定すべ くもない。 ところ が,そこへ 突然, Watte up!"と 叫ぶ人物が現れたのである。
登場 人物中,最も魅力がある と思われるカンター ビレはこの作品の滑稽な面 を生み出すのに 大 き く寄与 している。だがそれ以上 に重要 なのはシ トリンを 〈魂の眠 り〉か ら覚 まさせ る役割 である。シ トリンはこの物語の始 まる数 日前に,幼な友達 スウィーベルの勧めに従 って,シヵ ゴの裏の世界を知 るため (何とい うインテ リ的発想だろう),いかがわ しい連中 とポー カー をや り
,450ド
ルほ ど負けてしまった。彼はその場で勝 ち方のカンタービレに小切手 を書いたのだが,相手のいか さまを見抜いたスウィーベルの指示通 り,支払 いをス トップす ることに した。それ に怒つたカンター ビレは,報復処置 として,現在のシ トリンの精神状態の象徴 ともい うべ き,
レナー タにせが まれて買ったベ ンツを野球のバ ヽントで滅 多打 ちしたのであるも しか もカンター ビレの怒 りはそれでおさまることな く,シ トリンをロシア風 呂に呼びつけ
,
自分の汚名 (彼は 彼な りに小者のヤ クザ,カ
ンター ビレ家の名誉 を重ん じているのである)を
挽回すべ く,新聞 のゴシップ欄 の担当者の前でシ トリンに450ドル払わせ た り,最後には建築中の高層 ビルの上か ら,新しい50ドル札で紙飛行機 を折 って飛ば した りす る。これ らのいずれの場合 も,シ トリン の 〈知〉は全 く無力で,肉体的に怯 える無様 なインテ リぶ りを露呈す る結果 となる。更にカン ター ビレは,「お前は πttb l磁οにのってはいるが,何に もわか っちゃいない」(p.91)と嘲弄 し,知識人の く現実〉遊離 をシ トリンに思 い知 らせ る。こうしてヵンタービレはシ トリンを the moronic inferno"に 投げこんだわけだが,重 要なのはこの「地獄」は く知〉による説明を拒み,従 って く知〉しか頼 るもののないシトリンはただ呆然 と立ちす くむだけだった という事実である。
ところが く知〉の無力を思 い知 りつつ,なお シ トリンは く知〉か ら離れることがで きない。
″1えば