長崎大学教養部紀要(人文科学篇) 第31巻 第1号 一‑二四(一九九〇年七月)
﹁長崎喧嘩﹂の波紋
‑武士の意識と町人の意識‑
佐 久 間 正 T h
e I m p a c t o f
"
N a g a s a k i K e n k a
"
T a d a s h i S A K U M A は じ め に
あるべき武士のあり方を熱心に求める三〇歳を少しばかり越えた一人の武士に向かって︑その彼よりは二〇歳近く齢を
重ねた山本常朝二六五九〜一七二一)は︑﹁喧嘩﹂において武士のとるべき態度について次のように語った︒﹃葉隠﹄の
よく知られた即である︒
何某喧嘩打返をせぬゆへはじに成たり︒打返の仕様は踏懸て切殺さる1事也︒是迄にて恥に不成也︒仕果すべきとお
もふ故︑間に不合︒向は大勢杯といひ候時︑時を移しへ〆り︑止に成相談に極る也︒相手何千人もあれ︑片端よりな
﹁ 長
崎 喧
嘩 ﹂
の 披
紋
佐
久
間
正
二
で切と思ひ定て向ふ迄也︒成就也︒多分仕澄すもの也︒又浅野殿浪人夜討も泉岳寺にて腹切ぬが落度也︒又︑主を討
せて敵を討こと延々也︒若其中に吉良殿病死の時は残念千万也︒上方衆は智恵かしこき故︑褒らる1仕様は上手なれ
(1)
共︑長崎喧嘩のやうに無分別にする事はなられぬ也︒
常朝は︑武士の﹁喧嘩﹂は結果が問題なのではなく︑あれこれ達巡しているうちに︑武士としての恥をとってしまうよう
なことがあってはならぬと強調し︑決意堅く直ちに相手に向かうことが肝要だと言う︒そうした点から見れば︑あの赤穂
浪士たちの吉良邸討ち入りも僚侍にすぎず︑事後の態度も武士としてふさわしいものではなかったというのであり︑﹁上方
風の打上りたる﹂赤穂浪士たちの態度が皮肉られているのである︒それに対して︑﹁長崎喧嘩﹂における﹁無分別﹂が武士
のとるべき態度として賞賛されているのは明瞭である︒それでは︑長崎喧嘩の﹁無分別﹂とは1体何であったのか︒
常朝が上述のような感慨を洩らしてからへ二〇年余り経たのち︑豪商三井家の三代八郎右衛門高房(ハ八四〜一七四
八)は︑京都を中心とする大商人の興起と没落とを自家の教誠のためにまとめ'﹃町人考見録﹄と題したその著作の政に次
の よ
う に
記 し
た ︒
先祖は家業よく勤置て︑畢竟子孫へ田野の畦筋の溝を付るがごとく︑子孫時々みぞをさらへてよく水を通しへ田畑の
草をとり︑耕にひとし︒商の掛引︑時節にしたがひ考を擬し︑時を見変をおもふべし︒其商ときどき気を入ざる時は︑
溝をさらへず︑田畑の草をとらざるがごとし︒店ぶりあしく成り︑よき家督を失ふ︒必其職にあらざる事に心を費す
ことなかれo町人の武士の真似︑神儒仏の道は︑心裏の守りたりといヘビも︑それにふかくはまる時は︑却て家を放
(2)
る︒まして其外の遊芸をや︒只暫も忘ざるものは家業なりとしるべし0
町人にとっては︑家業をよく勤めへ先祖から伝えられた家督を子孫に伝えることが第一義であるとされ︑それゆえ︑武士
の真似をしたり'心の修養となる神儒仏の道にも深くはまりこみ耽溺してしまうことは厳しく戒められる︒ここでは︑武
士とは異なった町人のあり方が︑明確に自覚されているといってよい︒蹟においてあらためて上述のような町人意識を吐
露したのちに︑高房がその反面教師として真っ先に指摘したのは︑西鶴の﹃日本永代蔵﹄(三の1)にも代表的材木屋の1
人として記されている江戸の伏見屋四郎兵衛の没落とともに︑長崎の高木彦右衛門家の滅亡という事態であった︒そして'
この高木彦右衛門家の滅亡をもたらした事件こそ︑先に指摘した常朝のいう長崎喧嘩であった︒前引の﹃町人考見録﹄の
文章は︑次の文章に続いている︒
愛に江戸伏見屋四郎兵衛というもの︑其親材木屋にて︑時節よく仕合し︑倖四郎兵衛代に成りへことの外気がさ者に
て︑花雇を好み︑京へも折々罷上り︑二代目の三井浄貞︑其子三郎左衛門と四郎兵衛娘縁組すといヘビも︑四郎兵衛
行跡を聞つたへ︑さすが其身商売にうとき浄貞なれども︑後々を考︑離縁せり︒其後四郎兵衛︑長崎にて銀高五千貫
目の代物啓の事を願ひ︑運上をさし上げ願相調候て︑長崎へ二年罷下り︑彼地の地下人又は寺社かたへ︑大分の金銀
をわけとらせ︑洛東の真如堂に稲荷社・大師堂︑並常念仏の1字を建立すo尤其身の栄耀︑人々目をおどろかす所に︑
長崎町年寄高木彦右衛門︑伏見屋の運上を相増し願ふにより︑則伏見屋は召上られて︑高木是を勤む︒夫故四郎兵衛
せんかたなく成行︑二十年を経て異は喰物もなく飢死いたし︑さて高木は︑右公用の御為よく致し候故へ帯刀をねが
ひ︑長崎の御船をあづかり︑威勢を振ふ︒然るに高木が世倖彦八が子出生して︑宮参りに路次あしき折節︑鍋島殿御
家中何某殿の軽き侍通りか1り︑其かたより彦右衛門が孫の供廻りに︑土足のけあげかゝり申とて'仲間ども詞あら
にいひちらし︑其上供より帰り候て︑傍輩をもよほし︑彼何某どの1屋敷へ大勢参り候て︑狼籍無礼して罷帰る︒彦
右衛門は此事夢にもしらず︒さて翌日未明に︑高木かたへ何某殿の家頼大勢︑其外いすはや(諌早)よりも加勢と相
見へ︑百余の人数後詰す︒時に彼侍︑高木が事に参り︑彼狼籍の中間どもを出し候やうにと申侯へども︑何かと申出
ざるうちに︑数十人切入候へども︑根は町人の事故︑或は屋ね越に逃退き︑又は犀をのりて隣へはしり︑高木が世惇
彦八も立退︑家内に相手に成もの無之︑終に彦右衛門は討れ死すO彼相手の侍1人︑高木が玄関にて腹を切︑惣勢は
引とりぬ︒さて後日に︑公儀の御沙汰として︑彦八儀は親討れ侯節︑立退申しかた不届きに付︑高木が家財は没収せ
られ︑後彦八は京の大仏にかすかに暮し居申候由︒此高木元の町人ならば︑ケ様の儀はあるまじきに︑著りの心より
入ざる武士に成︑其身綾の権を以て︑地下人をかろしめ侯故︑家来の下人までも上をまなぶと哉寛にて︑機の仲間よ
り 事 起 り へ 高 木 が 家 滅 亡 ︒
細部の事実の誤認は見られるにせよ'事件の経緯はほぼ右のごとくであったが︑ここには︑高房の事件に対する関心が並々
﹁ 長
崎 喧
嘩 ﹂
の 波
紋
佐 久 間 正
四
ならぬものであったことがよく示されていよう︒
このように︑長崎喧嘩(﹁探堀騒動﹂とも呼ばれる)という一つの事実‑事件から二人がくみとったことは︑まさしく彼
らが拠って立つ社会的位置の違いによって異なっていたのである︒山本常朝は︑そこにおける武士たちの行動のうちに︑太
平の安逸な生活のなかにおいてなお激しく示された武士の生きざまを見︑一方︑三井高房は︑町人から武士に成り上がり
比類のない権勢を極めたかにみえた者があえなく滅亡してしまった事実に︑豪商三井家の当主として︑あらためて自らが
生きている社会における町人の身の処し方のあやうさを深い畏れを以て実感したのである︒
既にして︑近世の武士道論および町人思想のそれぞれ代表人物と目される山本常朝と三井高房とに︑このような感慨を抱
かしめた長崎喧嘩は︑その二年後に勃発した赤穂浪士の吉良邸討入り事件がそうであるように︑その含意は異なるにせよ︑
徳川社会とそこに生きる人々を思想的に吟味する手がかりを供するという意味で︑確かに思想史的な事件であったといえ
よう︒しかし︑事件の投げかけた問題の深刻さの程度も影響したのであろうが'赤穂事件とは異なり︑長崎喧嘩をそのよ
(3)
うな視角から取り上げることは従来ほとんどなかったのである︒本稿では︑まず長崎喧嘩に関する史料を整理し︑次に事 件の背景︑経過︑事後処理︑後代への波紋などを追いながら︑思想が形成され'それらが対時あるいは交流する場として
の徳川社会の特質を考えてみたい︒
(1)引用は︑﹃日本思想大系26三河物語葉隠﹄所収のものに拠る︒
(2)引用は︑﹃日本思想大系59近世町人思想﹄所収のものに拠る︒
(3)以上指摘したような視点から︑赤穂事件を思想史的に考察したものには︑例えば次のようなものがある︒源了園r近世武家思想の諸相
と 赤
穂 事
件 を
め ぐ
る 問
題 ﹂
( ﹃
日 本
思 想
大 系
月 報
4 3
﹄ ︑
一 九
七 四
) ︑
石 井
紫 郎
﹁ 解
説 ﹂
( ﹃
日 本
思 想
史 大
系 2
7 近
世 武
家 思
想 ﹄
︑
一 九
七 四
︑ 石
井
紫郎﹃日本国制史研究Ⅱ日本人の国家生活﹄︑東京大学出版会︑1九八六︑に再録)︑田原嗣郎﹃赤穂四十六士論‑幕藩制の思想構造
‑ 也
( 吉
川 弘
文 館
︑ 1
九 七
八 )
︑ 小
島 康
敬 ﹁
赤 穂
浪 士
打 入
り 事
件 を
め ぐ
る 論
争 ﹂
( 今
井 淳
︑ 小
津 富
夫 籍
F 日
本 思
想 論
争 史
﹄ ︑
ぺ り
か ん
社 ︑
1
九 七
九 )
︒
一﹁長崎喧嘩﹂に関する史料
﹁ 長
崎 喧
嘩 ﹂
に 関
す る
史 料
の う
ち 管
見 に
ふ れ
た も
の は
︑ 以
下 の
ご と
く で
あ る
︒
‑事件の経過や事後処理などについて冊子にまとめたもの︒ ①﹃深堀騒動ノ件﹄
長崎県立長崎図書館蔵へ写本一冊︒安永九年二七八〇)写︒虫食いが多い︒
②﹃深堀喧嘩記﹄ 東京大学付属図書館蔵︑写本t冊O天明六年(T七八六)の後記がある.拙劣な字で︑誤字が多い︒
(1)
③ ﹃ 長 崎 喧 嘩 録 ﹄ 個 人 蔵 ︑ 写 本 一 冊
︒ 天 保 六 年 ( 一 八 三 五 ) 写
︒
(2)
④﹃高木家騒動見聞記﹄
長 崎
県 立
長 崎
図 書
館 蔵
︑ 写
本 一
冊 ︒
内 題
﹁ 長
崎 高
木 彦
右 衛
門 家
断 絶
見 聞
記 ﹂
︒
⑤﹃長崎高木彦右衛門滅亡見聞実録﹄
長崎県立長崎図書館蔵︑﹁望月庵桂岳開音﹂と合わせて写本一冊︒ ③﹃鍋島官左衛門高木彦右衛門家来御裁許﹄
長 崎
県 立
長 崎
図 書
館 蔵
︑ 写
本 一
冊 ︒
⑦﹃長崎闘詳記﹄
佐賀県立図書館には︑同名のものが次の仙〜㈲の五冊あるo
仙外題﹁長崎闘詳記完﹂ ︑内題﹁長崎闘詳記﹂ 冒頭部分は以下の通り︒また文中訂正の語がある︒
﹁是ハ元禄十三年也十二年ハあやまり也(朱筆)
一﹁長崎喧嘩﹂の波紋
五
佐 久 間 正
千時元禄十二年卯極月十九日の事なるに(以下略)﹂
末尾に︑以下の記載がある︒
﹁天保十五甲辰歳仲夏某日写之
六
執筆
持主 サ十某
相 良
平 八
﹂
②aと同文︒冒頭の朱筆による訂正はないが︑以下の本文には朱筆で訂正がある︒ 畑山と同文O訂正ずみのもの︒物︑矧は﹁鍋島家蔵﹂の罫紙を使用︒ ㈲︑㈲外題﹁長崎闘詳記完﹂ ︑内題なし︒仙〜畑とは異文である︒
(3)
㈲長崎県立長崎図書館蔵︑写本1冊︒後記に︑﹁右ハ鍋島侯爵家蔵本書写之者也/昭和七年九月﹂とあるが︑軸︑㈲
と同文であり︑その写本である︒
事件に関する記事が収録されたもの︒
: o :
① ﹃ 犯 科 帳 ﹄
寛文六年二六六六)から慶応三年二八六七)に至るまでの長崎奉行所の判決記録︒
(5)
②﹃寛宝日記﹄
寛永一〇年(1六三三)五月より宝永五年(1七〇八)一二月に至るまでの長崎の町方記録︒ただし︑元禄im年(一
七〇〇)八月1八日より同年1二月二1日までの記事は脱落している︒
(6)
③﹃唐通事会所日録﹄
ただし︑この日録には︑元禄一三年分が脱落している︒
④ ﹃
葉 隠
﹄ ﹁
聞 書
二 ︑
﹁ 開
音 五
﹂
享保元年二七一六)には編集終る︒
(7)
⑤ ﹃ 焼 残 反 古
﹄ ﹁ 洙 堀 の 者 長 崎 に て 喧 嘩 の 事
﹂
佐賀藩士小川俊方著︑享保九年成る︒佐賀県立図書館蔵︒
⑥ ﹃
町 人
考 見
録 ﹄
﹁ 践
﹂
享 保
t l
年 か
ら 一
八 年
の 間
に 成
る ︒
(‑
o)
⑦﹃翁草﹄巻五五﹁長崎高木彦右衛門の事﹂
神沢杜口著︑安永五年二七七六)に成る︒
(9)
⑧﹃長崎港草﹄巻六﹁高木貞親滅亡﹂
熊 野
正 紹
著 ︑
全 一
五 巻
︑ 寛
政 四
年 (
一 七
九 二
) に
成 る
︒
(2)
⑨ ﹃ 壌 浦 又 綴
﹄
大田南畝著︑文化二年二八〇五)に成る︒
⑩ ﹃ 綱 茂 公 御 年 譜
﹄ 巻 之 二 ( 元 禄 十 三 年 の 条 )
﹁ 深
堀 家
来 長
崎 喧
嘩 ﹂
佐賀県立図書館蔵︑写本全三冊︑文化一一年に成る︒
( )
⑪﹃甲子夜話﹄続編巻八二︒
松浦清著︑文政四年二八二1)から天保1二年(1八四1)の間執筆︒
以上の史科のうち︑事件に関して比較的詳しく述べているものは︑Iに属するものと︑Ⅱの⑤︑⑧'⑨︑⑲などであるが︑
事件関係者の名前や記事の内容などの類似から︑ほぼ事実を伝えたものと思われるIの①︑②︑③︑⑦︑Ⅱの⑤︑⑩の
グループと︑のちにふれる妖怪譜があるなど潤色の著しいIの④︑⑤︑Ⅲの⑧のグループに大別できよう︒また前者の
グループのうち②と③には︑他書には見られない︑五島に流罪となった深堀の武士たちの妻子に関する叙情的な記事が
(2)
あり︑両書はさらに近似の史料と言えよう︒
(1)中尾正美﹃郷土史深堀﹄(1九六五)に翻刻されている︒
(2)中尾正美﹃鍋島藩深堀史料集成﹄(1九七四)に﹁長崎高木彦右衛門家断絶見聞記﹂として翻刻されている︒
﹁ 長
崎 喧
嘩 ﹂
の 波
紋
七
佐 久 間 正
八
(3)前掲﹃鍋島藩深堀史料集成﹄に抄録翻刻されている︒
(4)森永種夫編により︑1九五八〜六1年に翻刻刊行︑全巻︒
(5)森永種夫・越中哲也F寛宝日記と犯科帳﹄(長崎文献社︑一九七七)に翻刻されている︒同日記は︑恵美須町の日行使(下級町役人)
が執筆したものと推定されている︒
(6)﹃大日本近世史料﹄に収録されている︒
(7)この粂のみ︑﹃日本思想大系26三河物詩葉隠﹄の補注に翻刻されている︒
(8)﹃日本随筆大成第三期﹄(古川弘文館)に収録されている︒
(9)森永種夫・丹羽漢書の両氏により翻刻されている(長崎文献社︑1九七三)︒
(2)*大田南畝全集﹄第八巻(岩波書店︑1九八六)に収録されている︒本書に収録されている長崎喧嘩に関する記事は︑南畝在崎当時後
興善町乙名であった末次忠助所蔵の﹁長崎旧記﹂から抄出したとある︒なお本記事については'東北大学大学院文学研究科学生若松正志
氏 よ り 御 教 示 を 得 た ︒
( 3 ) ﹃ 東 洋 文 庫 ﹄ ( 平 凡 社 ) に 収 録 さ れ て い る ︒
(ほ)長崎市立博物館には︑﹃高木彦右衛門滅亡見聞﹄︑﹃高木1件望月毒因果物語﹄の二冊があるが︑いずれも未見である︒
二﹁長崎喧嘩﹂事件
後に長崎喧嘩あるいは深堀騒動などと呼ばれるようになる事件の発端は︑見様によってはたわいのないことであった︒
その事件の概要は先に引用した﹃町人考見録﹄の一節からうかがうことができるが︑本稿の前提でもあるので︑あらため
て歴史的事実を確認しておきたい︒一で紹介したように事件を記録したものはいくつかあるが︑事実を記したものとして
はおそらく最も信頼しうると思われる﹃長崎闘詳記﹄などによって︑事件の概要を示せば︑次のようなものであった︒
元禄一三年(1七〇〇)1二月1九日︑長崎の町中において︑鍋島藩家老鍋島官左衛門茂久(長崎に近接する深堀六千
石の領主)の家臣である探堀三右衛門と柴原武右衛門の二人の武士と︑町年寄の出身で当時幕府から帯刀・駕龍を許され︑ 八〇俵の切米を受けていた長崎貿易実務の最高責任者であった高木彦右衝門の下人とが︑ささいなこEから口論となり︑
債激した下人らが仲間を語らい︑三右衛門と武右衛門が滞在していた鍋島官左衛門の長崎屋敷に押入ったのである︒あい
にく屋敷には当時彼らの他に家臣がいなかったため︑当の二人の武士は下人らの狼籍に抗しえず︑主君の屋敷を疎珊され
打榔されたうえ自らの大小両刀を奪われるという武士としては恥ずべき失態をさらすことになった︒三右衛門と武右衛門
は︑下人らが帰ったのち︑自らの住する探堀に変事を伝え応援を求めるや︑当日深夜から翌日未明にかけて探堀から急速
駆付けた縁者︑朋輩の武士らと共に報復のため高木彦右衛門の屋敷を襲撃し︑おそらくは事件に直接関係しなかったと思
(2)
われる彦右衛門をはじめ家人達を殺害するに至った︒事態に驚いた長崎奉行は︑殺害された高木彦右衛門が公儀の御用を
勤め幕府の禄を食むものであったため︑幕閣に裁断を仰いだのち'翌年三月二一日︑事件関係者に次のような判決を言い
渡 し
た ︒
高木彦八郎
旧臓︑鍋島官左衛門家来押入︑親彦右衛門討取候節︑其場江も不出合儀不屈至極二付︑依御下知長崎五里四方追放之︑
家 財 家 屋 敷 令 開 所 者 也 .
御 樺 の 所 々 京 江 戸 大 阪
右之所々不可令居住者也︒
松平信濃守内鍋島官左衛門家来
( 十
人 の
名 前
略 )
右拾人之者︑旧膿へ傍輩柴原武右衛門探堀三右衛門と高木彦右衛門下人及口論侯上'彦右衛門宅江押入候︒第1大勢
相催'処をもさはかし候儀不屈至極候条︑可行死罪候︒右之旨依御下知申渡之侯︒以上︒
三月二十1日
鍋島官左衛門家来
﹁ 長
崎 喧
嘩 ﹂
の 波
紋
九
佐 久 間 正
( 九
人 の
名 前
略 )
右九人之者︑旧臓︑高木彦右衛門宅江拾人之傍輩共押入候節︑跡より追々走参候儀︑大勢相催第一所をもさはがし不
屈至極候︒然共手合不仕候付︑依御下知五島江令流刑者也︒
( 中
略 )
高木彦右衛門家人
( 八
人 の
名 前
略 )
旧臓︑鍋島官左衛門家来と又助口論之上︑大勢申合官左衛門抱屋敷江押入︑狼籍候付及騒動へ主人彦右衛門為致殺害
侯之儀勇依為重科︑八人共行死罪者也︒
(3)
三月二十一日
三右衛門と武右衛門の二人は'高木彦右衛門殺害直後自害し︑彼らを支援した深堀の武士のうち10名が死罪となり︑九
(4)
名が五島へ流罪となった︒高木家側では︑当主彦右衛門らが殺害され︑事件に直接関わった下人八人が死罪になったほか︑
彦右衛門の息子彦八郎も﹁親彦右衛門討取候節︑其場江も不出合儀不屈至極﹂という理由で長崎を追放され︑高木家の家
財屋敷は関所という重い処分を受けた︒こうして三井高房の言うごとく﹁高木が家滅亡﹂したのである︒以上が長崎喧嘩
の概要である︒事件における探堀の武士たちの直情的な行動を﹁長崎喧嘩の無分別﹂という屈折した表現によって評価し
た山本常朝や︑事件のうちに自らの破滅を招いた高木彦右衛門の﹁馨りの心﹂を別挟した三井高房は︑当時の社会におい
て事件の意味するものの1班を確かに捉えていたと言ってよい︒しかし︑この事件が合意する思想史的な意味はそれのみ
にとどまるものではないように思われる.それらを明らかにしていくために︑以下三では深堀(佐賀藩)‑長崎奉行‑慕
閣の側から事件を追い︑四では事件の舞台となった元禄期の長崎とのち事件の悪役として定着するに至る高木彦右衛門の
実像に迫りながら︑町人層における長崎喧嘩の受けとめ方について考えてみよう︒
( 1
) 雪
解 け
の ぬ
か る
み 道
で あ
っ た
た め
︑ 三
右 衛
門 の
は ね
た 泥
が ︑
下 人
の 一
人 に
か か
っ た
の で
あ る
︒
(2)当時長崎警備は福岡藩と佐賀落とが交替で担当していたが︑佐賀藩のなかで探堀の負担は過重であり︑そのような探堀の不満と焦慮
が︑長崎会所貿易により日の出の勢いであった彦右衛門に向かったのではないかと︑中村質氏は推測している(﹃長崎県史対外交渉編﹄ ︑
吉川弘文館︑一九八六︑第四章第二節)︒確かに︑事件の背景には︑今をときめく彦右衛門の権勢をかさにきた下人たちの︑武士とはいえ
陪臣の下級の侍にすぎない深堀の者たちへのある対抗意識や︑また一方深堀の武士たちの︑彦右衛門をはじめとする長崎の上層町人たち
に対する屈折した不満があったであろうことは十分推測しうることである︒
(3)前掲﹃犯科帳﹄に拠る︒
(4)五島へ流罪となった九名は︑宝永六年(1七〇九)の将軍綱吉の死に際して赦免された︒
三長崎喧嘩の波紋(そのこ
事件の処理をめぐって問題になったことは二つある︒その一つは既にふれたように︑殺害された高木彦右衛門が公儀の
御用を勤め幕府の禄を食んでいる点であった︒事件処理のため1月二四日来崎した佐賀藩の鍋島左太夫のr今度高木彦
右衛門召仕と拙者家老鍋島官左衛門家来及喧嘩︑彦右衛門迄も打果侯段承付公儀御用等も承者侯処笑止二存侯︒乍然最
(1)
前町人ばら法外之致方之段も承知罷在侯﹂という言に対して︑長崎奉行林土佐守は﹁今度高木彦右衛門召仕法外之致方(中
略)召仕斗之義候得ハ我々支配申付義二候得共︑彦右衛門弟近年結構二被仰付御用をも弁者付江戸へ伺申候﹂と述べ︑彦
右衛門の下人のみならず公儀の御用を勤め幕府の禄を食んでいる彦右衛門自身を殺害したために︑長崎奉行のみでは処理
しえず幕閣に裁断を仰いだと答えているのは︑その間の事情を物語っている︒
次にいまひとつはより重要な問題であるが︑探堀の武士たちの行為が﹁徒党﹂を結ぶことを禁じ︑﹁私之評論﹂を厳しく
:e邑
戒めた武家諸法度に抵触するのではないかということである︒もしも武家諸法度にふれるとすれば︑深堀の武士のみでは
なく彼らの仕える深堀官左衛門は勿論その主君にあたる鍋島信渡守綱茂にも責任が及びかねない︒事件直後その処理のた
(3)
めに奔走した佐賀藩の長崎聞役伊香賀利右衛門の処理方針が︑その疑いを晴らすことに向けられていたのは当然であった︒
﹁ 長
崎 喧
嘩 ﹂
の 波
紋
佐
久
間
正
一
二
利右衛門は︑奉行所に届け出る彦右衛門屋敷を襲撃した者のリストに関して︑﹁此節の行懸主人口l二類傍輩共外聞を存切
入候者共必死の覚悟二而︑縦令何拾人手向候共物の数共不存︑悉切捨申所存二而罷在出たる事二侯得ハ︑此内の何其々々
と人指私差図不罷成候︒尤も駆付候遅速ハ有之候得共︑手当ハ不仕者も志は同然の事条︑書左衛門を始皆々切入候段倹使
被参候バー被相違候﹂と述べ︑事件に関与した者の人数を限定しようとしない深堀の家臣田代音左衛門に向かって︑﹁一往
尤二相聞候︒併此大勢書出候而ハ徒党を結たる様二相成︑後日公私の御不為にも相成候条︑五七人と相極名書差出侯﹂と
説得し︑それでも彼らが承知しようとしないので﹁御公私し不顧後難自分の意地を立候処不宜しと厳しく言いわたし︑よ
うやくリストを提出させたというのである︒この利右衛門の言葉からうかがわれるものこそ︑先の点に対するおそれであっ
た︒以上の問題を事件がはらんでいたために︑長崎奉行としても軽々には判決を出しえず︑幕閣の裁定を仰がざるをえな
か っ
た の
で あ
る ︒
そして︑その幕閣の議論の1端は︑翌年1月二三日︑江戸からの書簡によって佐賀には次のように伝えられた︒
御老中方御列座'今度喧嘩御裁許御詮議之節︑柳沢出羽守殿牧野備中守殿御申候者︑官左衛門家来共之仕方為強過働
之様こも侯得共︑鍋島之家風二侯へパケ様可有之章二候︒以前立花と鍋島取合之節官左衛門先祖七右衛門勇気之働聞
及当り鍋島之家柄二喧嘩仕た両と御申候得ハ︑御大老阿部豊後守殿御申:ハ︑町人はらとして官左衛門屋敷江踏懸参
剰大小を取候儀︑右之通之仕方二而は鍋島之家風中二間中事二而無之︑以前柳川有馬二而も抜群之働為仕其家之家来
共二候得ハ︑昔之強み今二相残たり︒されは主人健気なれハ其水を飲犬も能人を喰と言二哉と御中候得ハ︑御同席之
御方之御同意之挨拶有之︑犬かりんと云声二睡醍たりと御中候処︑豊後守御申二は︑彦右衛門儀公儀之侍二両無之︑
先年萩原近江守下向之節︑米六拾俵被申付刀を被免町年寄之上席と申迄二両町人二侯0倍深堀家来彦右衛門押懸参候
節︑喧嘩之相手差出候様こと申断相手不出会二付直二切入候得ハ︑事も無之切腹二可相威儀侯︒乍然めいめい切人相
手ハ切不申余の者共を切大勢押懸参候得ハ︑徒党之様二相聞御大法も有之処候︒めいめい切入候哉︑又相手を差出候
様こと申断候上二両右之仕方二候哉︑二十壱人之者必死之体二而如斯と相聞一国之外聞潔事候︒官左衛門ハ折節在佐
憲二而曾而不存儀二候︒然ハ身上二相懸可申様無之︑彦右衛門俸彦八町人とハ乍申其場二不出会臆病者二候︒
柳沢出羽守は当時御側御用人であり︑牧野備中守(備後守)は御側御用人を数年前に辞していたが︑いずれも将軍綱吉の
寵臣であった︒阿部豊後守は大老ではなく老中であり︑彼の他には稲美美濃守・大久保加賀守二戸田山城守・土屋相模守
が老中であった︒彼らの間で︑深堀の武士たちの行動は度を過ぎたもののように思えるが︑尚武に満ちた﹁鍋島の家風﹂
からすればありうべきことであるとされ︑その﹁鍋島の家風﹂をつくりあげた戦国期および島原天草一校における武勇が
憩起される︒そして︑﹁主人健気なればその水を飲む犬もよく人を喰う﹂という成句が思い合わされ︑探堀の武士の行動は
﹁鍋島の家風﹂を今に発揮したものだ︑という理解が幕閣の一致した見解であったというのである︒同じ大名としての利害
関心から︑鍋島藩の歴史と伝統の賛美をふまえたこのような理解さらにいえば予断が'深堀の武士たちの行動を裁断する
前提として︑幕閣のうちにあったことは注意すべきである︒それは裁断の方向を決定づける﹁予断﹂であった︒こうした
幕閣の動向は既に長崎奉行に伝えられていた模様である︒1月二一日長崎奉行近藤備中守の許に御進物を届けに行った伊
香賀利右衛門の前で︑備中守は同役の土佐守に﹁藻堀の者共有為者二候︒惣而御家の儀ハ古来より武勝れたる事共承及候
処御中候得ハ共通二両候︒旧冬深堀家士の致方於江戸も宜御沙汰可有之候﹂と語ったという︒
以上のような了解に立って︑三井高房が武士に成り上ったものと見なしたのとは異なり︑高木彦右衛門は武士ではなく
町年寄の上席にすぎない町人身分に属するものだと裁断された︒上述の史料によれば︑徒党に関する﹁大法﹂に抵触しな
かったかどうかには注意が払われたようである︒しかしそれについても幕閣の判断は︑鍋島家に好意的なものであった︒
佐賀藩側が︑﹁徒党を結たる道理ニハ参可申様無之︑主人の屋敷え踏込参侯法外を其健可差置子細無之と道理ハ相立居候﹂
と推測した通りであったのである︒こうして探堀の武士たちの行動は﹁一国之外聞潔事﹂であり藩の栄誉を輝かせた﹁喧
M凸
嘩﹂として受けとめられ︑﹁御大法﹂にはふれない通例の事件として処理されることになったのである︒
ところで︑事件の直接の当事者である二人の武士と結果的には彼らを支援して彦右衛門の屋敷を襲撃するに至った他の
探堀の武士たちとを区別して考えると︑両者の間には憤りといってもその内容にあるズレがあることが判明する︒﹃長崎高
木彦右衛門滅亡見聞実録﹄には'長崎の屋敷が蹟欄され家中の二人が大小両刀を奪われたことが伝えられた時の︑深堀に
おけるその対策を検討した評議でのある武士の発言として︑次のような言葉が伝えられているOこの7段は﹃長崎闘詳記﹄
﹁ 長
崎 喧
嘩 ﹂
の 波
紋
佐
久
間
正
丁
四
系列の史料には見られないから︑事実かどうかは疑わしいが︑事件に関係する武士の内面をうかがう史料として用いるこ
と は
許 さ
れ よ
う ︒
各々仰候処ハただただ喧嘩のしだひをなんいきとふりて覚へ候︒其義にはするまじく︑先ハ主人の屋敷に町人ばらふ
みかけ狼籍いたし候たん以外なる事に侯︒いつれも静譜のおぼしに候得とも︑この事右衛門におゐては︑彼二人の不
覚者を引連れ彦右衛門宅へ押よせ討候て死すへし︒左様におはし召立候へ︒
ここでは主君の屋敷が錬欄されたことこそが問題なのであり︑喧嘩の経緯は問題ではないとされている︒すなわち大小両
刀を奪われたことは︑当事者本人にとっては武士として恥ずべき事であるが︑それは当事者自身が解決すべき事であり︑
他の武士たちが共に報復すべき理由とはなりえない︒﹁彼二人の不覚者﹂という言葉は︑その間の事情をよく示していると
言ってよい︒すなわち︑この﹁不覚﹂という言葉には︑三右衛門と武右衛門の二人が町人身分にすぎない者と喧嘩をして
武士の象徴といってもよい自らの大小を下腰の者に奪われたこと︑および自らの行為が原因となって主君の屋敷が錬掬さ
れたにもかかわらずなすすべがなかったこと︑に対する憤葱がみなぎっているように思われる︒そしてまた︑三右衛門と
武右衛門の二人が主君の長崎屋敷で乱暴狼籍の仕打ちにあったのち︑彦右衛門屋敷を発撃する前に︑彼らと佐賀藩長崎聞
役伊香賀利右衛門が交わしたとされる次の言葉のうち︑二人に対する利右衛門の面罵同然の非難もそのような文脈のなか
で考えることができよう︒そして︑それは明らかに︑二人の彦右衛門屋敷襲撃の行動に拍車をかける役割を果たすもので
あ っ
た ︒
(聞役が)絶言語たる儀其ニロ両人之入何分に相決居候哉と相尋候得者︑此節之仕合せ残念至極二存侯︒併多人数押
掛参何分二働候ても不及力斯之通之仕合二侯︒我々存入ハ頓テ可相知と申候二付︑如何鉢二相決居候哉︑其場を不適
打果候江者能有之侯処遁シ為申処武士二不似合事二候︒(﹃長崎閑静記﹄)
このような屈折をうちに含みながらも︑探堀の武士たちの行動は︑高木彦右衛門の下人たちによる主君の屋敷の錬欄と
いう﹁法外の致方﹂への家臣の報復として理解され︑のち定着していくことになる︒たとえば︑事実への潤色が少なくな
い﹃長崎港草﹄巻六﹁高木貞親滅亡﹂では三右衛門と武右衛門が大小を奪われたことには全くふれられていないのであるO
一方︑探堀の武士たちの落ち着いた所作に対する幕閣の評判は既に﹃長崎閑静記﹄に次のように指摘されていたが︑それ
がのち強調されていくのである︒
彦右衛門所押懸候節︑案内の乞其上式台の兵具を取片付立具を□し1面こなし手配の致様︑借彦右衛門を打果候上家
内火の元取静︑本望達候上ハ町所を騒七不申様申合︑五島町引取切腹の覚悟二而検使相待侯︒始終其図を不抜無残所
為 落
着 事
共 ︑
こうしたなかで︑長崎喧嘩の二年後に勃発した赤穂事件(浅野内匠頭が江戸城中で吉良上野介に切り付けたのは︑長崎
喧嘩の判決が長崎奉行所で示される一週間前の三月一四日のことであった)との対比あるいは関連が想定されるようになっ
ていくのであるo佐賀藩士小川俊方の手により享保九年(7七二四)に成った﹃焼残反古﹄は︑長崎喧嘩について述べた
﹁深堀の者長崎にて喧嘩の事﹂の次に﹁浅野吉良と刃傷之事﹂を載せており︑著者の関心の所在をうかがわせるが︑両者
の関連についてふれているのは︑平戸藩主松浦清山が文政四年(1八二1)から天保1二年(一八四1)にかけて執筆し
た﹃甲子夜話﹄の続編巻八二の一節である︒清山はそこで﹁(長崎喧嘩の経過を述べたのち)是より其党皆深堀へ還り︑こ
の意趣を仲畢り︑悉く腹切て死しける︒今に深堀の寺この数輩の墳墓並び立て︑江戸泉岳寺に在る義士の墓に似たりと︒
又云伝ふO此年は赤穂義士夜討の前年にして︑義士の輩この事を伝聞して︑胸中密に復讐のことを促がせLとぞO長崎の
所伝この如しと云﹂と記した︒ここで言われている﹁長崎の所伝﹂は管見の限りでは史料的に確認しえていないが︑少な
くとも清山が﹃甲子夜話﹄を執筆していた時点までには︑長崎喧嘩と赤穂義士との関連がささやかれるようになっていた
のであるo﹃長崎港草﹄が︑三右衛門と武右衛門を支援し高木彦右衛門屋敷を襲撃した深堀の武士たちの装束を︑﹁皆々其
日ノ出立ハ白木綿三ア頭ヲ包ミ白キ衣服二白股引脚衣各々腰二札ヲ付姓名記シ﹂と描写しているのは'明らかに﹃忠臣蔵﹄
などの影響を思わせるLへ彦右衛門屋敷への襲撃は突発的なものであったのにかかわらず︑周到に準備されたものとして記
されるようになるが︑そこではもはや︑﹁御大法﹂との関連は何ら考慮されることなく︑いわば武士のあり方の理想像とで
もいうべきものが描かれているのである︒
そのような潤色には現実的な理由があった︒事件直後の一般の武士たちの反応は︑﹃長崎闘詳記﹄に記された探堀の武士
﹁ 長
崎 喧
嘩 ﹂
の 波
紋
佐
久
間
正
一
六 九人の流刑先である福江(五島)藩の武士たちの﹁各御車となたこ而も御城下二而之事二候半一廉御褒美御立身も可有御
座処へ長崎市中事二而被対公儀此方江被相越侯﹂という言葉や︑﹁各々は武士之手本たる御方にて候得ハ'格別之御取持仕
候様役人中よりも被申付候﹂という言葉︑何より端的な﹁義之為罪流二逢フ事﹂(この部分︑﹃長崎喧嘩録﹄では﹁今度の
御流刑は忠義のためにして全く御私に非ず﹂とより鮮明に記されている)にうかがわれるものであった︒こうして︑長崎 喧嘩に示された深堀の武士たちの行動は︑武士のあり方として望ましくないと思われるものは隠蔽あるいは忘却されつつ
(﹃焼残反古﹄には他書と異なり︑三右衛門と武右衛門が﹁不覚者﹂ではない有様が描かれている)︑近世の武士たちにとっ
て規範的意味合いを含むものとして受けとめられていったのである︒
( 1
) 前
掲 ﹃
長 崎
閑 静
記 ﹄
㈲ に
拠 る
︒ 以
下 に
特 に
断 ら
な い
か ぎ
り ︑
同 様
で あ
る ︒
な お
引 用
の 文
章 に
は 句
醗 点
を 付
し た
︒
( 2
) 天
和 三
年 (
ハ
八 三
) の
武 家
諸 法
度 に
は 次
の よ
う に
あ る
︒ ﹁
企 新
儀 ︑
結 徒
党 ︑
成 誓
約 (
中 略
) 制
禁 之
事 ﹂
( 第
五 条
) ︑
﹁ 喧
嘩 口
論 可
加 護
懐 ︒
私 之
評 論
制 禁
之 ﹂
( 第
七 粂
) ︒
( C
O )
六 四
七 年
︑ 幕
府 は
長 崎
警 備
の た
め ︑
九 州
・ 中
国 の
諸 藩
に 命
じ ︑
家 臣
を 長
崎 に
常 駐
さ せ
︑ 木
津 と
の 連
絡 に
当 ら
せ た
︒ こ
れ を
聞 役
( 聞
番 )
と い
い ︑
後 に
は 海
外 の
情 報
収 集
や 藩
の 交
易 に
も あ
ず か
っ た
︒
( 4
) 長
崎 喧
嘩 が
ま さ
し く
﹁ 喧
嘩 ﹂
( 喧
嘩 両
成 敗
法 が
適 用
さ れ
る )
と し
て 受
け と
め ら
れ た
こ と
︑ こ
の 点
が 赤
穂 事
件 と
は 決
定 的
に 異
な る
と こ
ろ
で あ
る ︒
四長崎喧嘩の波紋(その二)
一で紹介した長崎喧嘩に関する史料にはtのちに取り上げるように高木彦右衛門の分を超えた著りこそが彼に仕える下
人たちの増長をもたらし︑長崎喧嘩の原因となったとするものが少なくない(より直接的に彦右衛門の事件への関与を指
摘するものすらある)︒しかし'﹃長崎闘詳記﹄に述べられているように︑彦右衛門の下人たちが深堀官左衛門の長崎屋敷
で狼籍を働いたのち︑それに対する報復として︑深堀からの支援を得て深堀三右衛門と柴原武右衛門が彦右衛門の屋敷を
襲撃する以前に︑既に彦右衛門の意向を受けて︑佐賀藩の長崎屋敷に出入りしている町人であり彦右衛門とも懇意であっ
た福田伝左衛門が︑彦右衛門の﹁家長﹂小島団蔵(﹃寛宝日記﹄では﹁乙名﹂とされている)なるものを伴い佐賀藩長崎聞
役伊香賀利右衛門を訪問し︑﹁昨夜よりの一件委細申伸︑此節の儀何分二可申付哉︑兼而御懇意二被仰聞彦右衛門二御座候
得ハ︑如何様共御手前様御指図の通可申付候︒此旨乍略儀両人を以て相断﹂という彦右衛門の言葉を伝えていたのである︒
彦右衛門が事件に関係していなかったことは明瞭であろう(冒頭に引用した﹃町人考見録﹄の即も彦右衛門の関与は否
定していた)︒しかし︑この事実が隠蔽されあるいは脱落するにつれて︑福田伝左衛門は事件後彦右衛門に組する人物とし
(1)
て記され︑小島団蔵は主人彦右衛門の権勢を笠に着た人物として描かれるにいたるのである︒それは︑彦右衛門が分を超
えた奪りに増長した人物として描かれ'いわば事件において悪役として定着していく過程と軌を一にしていた︒
以上のような事件後の動向もふまえ︑長崎喧嘩の意味するもの︑そして事件において高木彦右衛門の果たした役割を正
しく捉えていくためには︑事件の舞台となった一七︑一八世紀の交の長崎とそこにおける彦右衛門の実像について理解す
(2)
る必要があろう︒当時の長崎は近世を通じて最も繁栄した時期であった︒長崎に入港した中国船の数が年間一九四隻とい
う近世を通じて最高となったのは元禄元年(一六八八)のことであったし︑それに象徴される貿易の隆盛を背景に︑元禄
九年には︑長崎の人口は近世を通じて最多の六万四千人余りとなり︑まさしく三都に次ぐ勢いを示していた︒こうしたな
か︑のち長崎貿易の中枢となり︑長崎奉行所とともに長崎町政の中心ともなる長崎会所が発足したのは元禄11年のこと
である︒ここでは︑本稿の課題との関連で必要と思われる範囲で︑元禄期の長崎と高木彦右衛門の姿について見ておこう︒
鎖国後の長崎の死命を制していたのは言うまでもなく中国・オランダとの貿易であったが︑長崎貿易では1七世紀初頭
に始まった糸割符制以来二転三転して'貞享二年二六八五)には初めて貿易総額を制限する定高仕法が採用された︒す
なわち長崎貿易の総額を年銀九千貫目(中国船は六千貫目︑オランダ船は三千貫目)に制限したのである︒しかし︑前代
の市法商法は長崎町中には多大の利益をもたらしたものの︑それによって打撃を受けた中国商人は︑舶載貨物量を増やす
ことによって利潤の減少を補おうとし︑また元禄の太平の世を目前に輸入物資に対する需要は著しく増大していたから︑
﹁ 長
崎 喧
嘩 ﹂
の 波
紋
佐
久
間
正
t
八
中国船は多数来航するようになり'それにともない密貿易も多発していた︒それへの対策を一つの理由に唐人屋敷の建設
がはかられ︑それが完成したのは元禄二年のことである︒定高仕法を緩和させる中国船の舶載貨物の残余(本来は積み戻
らざるをえない)願売りの法が既に定高仕法採用の翌年には始まった︒この願売りの法をさらに発展させたものが代物替
である︒すなわち幕府は︑運上金上納を条件に︑定高を超過した舶載貨物を銅・俵物・諸色などと物々交換することを許
したのである︒元禄七年のことである︒この法を建議したのが︑冒頭に引用した﹃町人考見録﹄の﹁攻﹂において三井高
房が言及していた江戸商人伏見屋四郎兵衛であった︒同九年からは︑代物啓は伏見屋四郎兵衛の手を離れ︑町年寄を中心
に長崎地下が担当するようになり'翌年からは町年寄を免ぜられ﹁唐船おらんた代物替之惣〆役﹂(﹃唐通事会所日録﹄)に
任ぜられた高木彦右衛門が統括することになる︒代物替は順調に進められへその功もあって︑彦右衛門は元禄二年に駕
龍が許され御切米八〇俵が与えられることになったのだと思われる︒
ところで'長崎奉行が江戸から派遣され幕府の直轄地とされた長崎の貿易実務と町政の事実上の最高責任者は︑地役人
の筆頭の町年寄であった︒寛永以降は︑高木(作右衛門)・高島・後藤・高木(彦右衛門)の四家の当主が世襲し︑天和
元年(一六八一)には一千人を超えた地役人の頂点に立って︑奉行の支配のもと彼らを管轄し︑貿易実務と実際の町政を
担当したのであるO元禄三年から同五年まで医師として出島オランダ商館に滞在したドイツ人ケンペル(1六五1‑1七
一六)は︑そのような町年寄の姿を次のように記している︒
長崎の町とその住民は︑長崎奉行の配下に置かれている四人の町長と︑その下役によって治められている︒町長は︑
1年毎に交代し︑現に町政を掌っている町長を年番という︒年番とは︑その年の当番町長という意味で'1年間同僚
町長の首座を占め︑毎日奉行所に出頭して︑その日の出来事を1伍一什洩れなく報告するとともに︑困難な問題や疑
義のある場所は︑自らこれを陳述し︑もしそれが特別に重要なことであるか︑または他の町長と意見が合わない場合
(3)
には︑与力に助力してもらって解決するか︑奉行の裁定に委ねるのである︒
この町年寄の定員は元禄一二年に二人増え六人となったが︑それは長崎の町中において従来あった内町(全二六町)と外
町(内町の後に町建てされ市街化した地域︑全五四町)の区別がこの年廃止されたのにともない︑それまで町年寄の下で
外町の町政にあずかった外町常行司二人が町年寄に昇格したからであった︒この内町と外町の区別の廃止によって︑宿町・
付町制などによる長崎貿易に関する負担および貿易利銀からの地下配分銀の配分方法などは全町同一となり︑長崎の町は
町年寄の下にほぼ均一な体制となったのである︒既に元禄九年に長崎地下が代物替を担当するようになった時︑三万五千
両を運上金として幕府に上納していたが︑内町と外町の区別が廃止された同一二年からは︑地下配分銀および長崎に投下
される銀を金11万両として︑それらを定高貿易の利益と代物啓の利益などの合計額から差し引いた額を運上金として上
納することになった︒地下配分銀は長崎貿易の利益の中から長崎町人に配分されるものであり'まさしく長崎の人々の生
活を支え長崎の繁栄を保障するものであったが︑長崎貿易と運上金・地下配分銀がこの時期にこのように緊密に結び付け
られたことは注目される︒そのことは︑幕府が幕府財政の不調という事態のなかで︑従来とは異なり'長崎貿易からの利益を
幕府財政のなかに明確に組入れようとしたことを示すとともに︑長崎の町を支える地下配分銀が幕府によって保障された
ということをも意味しているO後者の点について言えば︑宝永八年(1七11)に長崎奉行に任ぜられた大岡備前守清相
GX
が﹁惣じて配分金割方大意の事は︑長崎地下人一同の潤沢に成り候ふ様にと申し付け侯ふ儀専要たるべく候ふ﹂と述べる
とおりであった︒こうして内町と外町の廃止を可能にした地下配分銀の制度的確保は︑幕府への運上金の上納という代価
を払わねばならなかったが︑都市長崎のいわば自治的側面を支えるものとして注目すべきものであった︒この元禄一二年
に至る過程を偵導した長崎の中心人物の1人が他ならぬ高木彦右衛門であった以上︑彼の﹁薯り﹂を長崎の町中が非難し
たという事態は想定しがたいのである︒以上見てきたように︑貿易および町政のいずれの面から言っても元禄期の長崎は
その近世における歴史において一つの劃期であったのであり︑長崎における元禄文化を支えていたのは︑まさしくそこに
おいて活発に展開された町人生活であった︒その一つの思想的達成はまさしくこの時期に執筆された西川如兄の﹃町人嚢﹄
(5)
であったが︑それを生み出した長崎の町人社会の中心に︑長崎の経済的繁栄に大きく貢献し︑町年寄から幕閣に直属する
存在へと成り上がった高木彦右衛門がいたのである︒そのような中で︑長崎喧嘩は勃発した︒
既にふれたように︑高木彦右衛門は事件そのものには直接関係がなかったのにもかかわらず︑深堀の武士たちの報復の
目標とされ殺害された︒そして幕閣の裁断によって︑彦右衛門は町人身分にすぎない者とされ︑彼を殺害した深堀の武士
﹁ 長
崎 喧
嘩 ﹂
の 波
紋
佐
久
間
正
二
〇
たちは公儀の役人を理由なく殺害したという理由ではなく︑﹁大勢相催︑所をもさはかし候儀不屈至極﹂という理由で死罪
になったのである︒彦右衛門の息子彦八郎は﹁親彦右衛門討取候節︑其場江も不出合儀不屈至極﹂という町人としては苛
(6)
酷と思われる理由により長崎追放の身となり︑高木家の家財屋敷は開所となった︒こうして当時の長崎貿易の実務上の最
高責任者の家は滅亡したのであるが︑このことは︑上述の背景を考えれば︑幕閣が高木彦右衛門家を断絶せしめても︑長
崎貿易の遂行に不安を覚えなかった事を示している︒実際︑﹃寛宝日記﹄によれば︑長崎奉行は長崎喧嘩に関する判決申渡
しの後1ヶ月も経たない四月1五日に︑高木彦右衛門跡の代物替役は町年寄六人が三人ずつ一年交替で勤めるよう命じて
いるのである︒彦右衛門はこうして過去の人となっていったO否︑単に忘却の彼方に追いやられていっただけではない︒
既に述べたように︑探堀の武士たちの行動は武士の面目を発揮したものとされ︑武士にとって規範的な意味をもつものと
して受けとめられていったが︑その一方で︑高木彦右衛門には有り体に言えば長崎喧嘩における悪役としての役割が与え
られていったのである︒
そして︑長崎喧嘩が町人の目からふりかえられ︑あれほどに権勢を極めたと思われる彦右衛門が殺害され︑その家があ
えなく投落し︑その原因が彼の家の下人の武士に対する分を超えた狼籍であったと考えられたとき︑三井高房が事件の背
景にそのようなふるまいをした下人を生ぜしめた彦右衛門自身の﹁著り﹂を兄いだしたのは︑当時において自然であった
と言えよう︒豪商三井家の当主である高房にとって︑彦右衛門の没落は決して他人ごとではなかったのであり︑﹃町人考見
録﹄自体そのような事態を未然に防ぐための一族と子孫への警告の書であったのである︒冒頭にふれたように︑彼におい
ては当時の社会における自らの地位あるいは町人の身の処し方のあやうさが深く実感せられていたといってよい︒そのよ
うな状況において︑被支配身分たる町人から見て彼らをそのような存在たらしめている身分秩序そのものが︑自らの力を
超えたいかんともしがたい存在としていわば自然化されて捉えられていくのは当然であった︒そうしたなかで︑何らかの
意味において有効な処世の心得が考えられるとすれば︑先に引用した﹃町人考見録﹄にも渡厚に見られるように︑それは
身分秩序に即した生き方逆に言えば自らの分を超えない生き方の標槽以外ではないであろう︒高房のみならず当時の町人
を対象とする町人の手になる著作において︑町人道徳あるいは町人意識がそのような色彩に彩られているのは︑以上の点
から見てやむをえないことであった︒そして︑長崎喧嘩が人口に槍失され高木彦右衛門の滅亡という事態から処世のため
の心得を引き出そうとしたとき︑人々への衝迫力を強めるべく彦右衛門の町人の分を超えた馨りが潤色されるとともに︑
没落を予想せしめる因果薄が創作され︑長崎喧嘩は一種伝奇化されていったのである︒最もその特徴が著しいものの1つ
と思われる﹃長崎高木彦右衛門滅亡見聞実録﹄では︑彦右衛門の江戸からの下向の有様について﹁誠に善美を尽し目出度
帰りし事ともなり︒諺に云ごとく︑五更にはかなき燈火消んとするとき光りを増か如し︒いせい在りて道なきもののかな
らす亡ふ﹂と述べられ︑次のような妖怪譜が載せられている︒
彦八郎永重はじめて男子口産り︒是則嫡子なりとて1門他門馳集りて嘉祥する事移し︒赤子出生して一七日の夜ロニ
血の道収により殿居の女房たちみなみな数日の労れを休めんと暇なれハ休足せLに︑夜更て人静りて後︑赤子乳母の
懐より這出て燈に立懸り油を呑んて︑燈消んとする時乳母の懐に入りてまた元の赤子なりぬ︒乳母驚きたへ人らんと
したけれども心をおさめて夜を明し︑夜明けて人にかたらんとおも入たれども︑いかなる春めもあらんかと空病して
暇を得たり︒其後乳母数人かわりたれども如何なる事とかたる人なし︒局の老母不思儀におもひねるふりして伺い見
るに︑その夜またゆゆしき事ともなり︒いかさま乳母が足をとめざるを断りとおもひ息を詰て見いるに︑油を呑しま
では六根不具の事なりLに後寝をみるに首ハ曽てなし︒不思義といふも余なりLにおもひて人にもかたらす知人なし︒
永貞落去の後物がたりの割符を合せり︒滅後かつて生死の沙汰なし︒是則妖怪なるへし︒
そして︑﹃長崎高木彦右衛門滅亡見聞実録﹄と同系列の写本と推定される﹃高木家騒動見聞記﹄の末尾は︑﹁(彦右衛門は)
薯き□して不適日々に増長し︑終には家を亡す事天命とハ云なから是非もなき次第也︒後人愛を以て常二其身を慎ミて道
に背く事不可有之事なり﹂という教誠の言葉によって結ばれていた︒またそれらとは異なった系列の写本である﹃深堀喧
嘩記﹄も冒頭に﹁盛ル者ハ必衰ル之理リ有ルトハ誠ト成ル哉︒古ヨリ今二至ル迄︑君之権威ヲ仮私之勢ヲ挿フ輩︑或ハ国
ヲ亡シ家ヲ不失ト云事ナシ﹂という教訓を記したのち︑事件の記述に移っていた︒まさしく長崎喧嘩は三井高房の理解の
延長上でその教訓性を著しく強め潤色されながら︑人々に受けとめられていったのである︒
﹁ 長
崎 喧
嘩 ﹂
の 波
紋
佐
久
間
正
二
二
(1)当然のことながら︑事件後も団蔵は罪を谷められることなどなかったが︑﹃攻浦又綴﹄所引の記事では︑事件に連座して切腹を命ぜら
れたことになっている︒
(2)この時期の長崎の状況については︑最近のものでは前掲の﹃長崎県史対外交渉編﹄および中村質﹃近世長崎貿易史の研究﹄(吉川弘
文館︑1九八八)に詳しい︒
(3)ケンペル﹃日本誌‑日本の歴史と紀行‑也(今井正訳︑上下二巻︑霞ヶ関出版︑一九七三)第四巻第二葦︒
(4)大岡清相﹃崎陽群敵﹄(中田易直・中村質校訂︑近藤出版社︑1九七四)に拠る︒
(5)西川如兄の町人意識などについてはかつて検討したことがある︒拙稿﹁西川如見論‑町人意識︑天学︑水土論1﹂(﹃長崎大学教養部
紀要人文科学篇﹄第26巻第1号︑一九八五)参照︒
(6)この処罰理由は︑赤穂事件の後に書良家の当主義周が処罰された理由と同じである(﹃徳川実記﹄元禄四年二月四日の条︑参照)︒この
共通性のうちに︑親に対する子の責務という点では身分に関わりがないと見るべきであろうか︑それとも高木家の処断にあるバイアスが
かかっていると捉えるべきであろうか︒
お わ り に
本稿を終えるにあたり︑今後の課題との関連で'これまでの考察から考えられる二点について指摘しておきたい︒第
1は︑山本常朝が︑高木彦右衛門屋敷の襲撃を頂点とする深堀の武士たちの直情的な行動に現れた意識を︑r無分別﹂と
いう屈折した表現によって捉えた点に関してである︒その意識が当時の武士たちの内面において必ずしも支配的なもの
ではなかったことは︑常朝自身が﹁長崎喧嘩の無分別﹂とともに赤穂浪士の行動のうちに彼が兄いだした人に﹁褒ら1
る仕様は上手な﹂﹁上方風の打上りたる武士道﹂を取り上げていることに明瞭であるO常朝の﹁長崎喧嘩の無分別﹂とい
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