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論文審査の結果の要旨
氏名:楊 国 棟
博士の専攻分野の名称:博士(文学)
論文題名:日露戦争期における清国の中立政策の研究
審査委員:(主 査) 日本大学教授 博士(文学) 加 藤 直 人
(副 査) 日本大学教授 松 重 充 浩
(副 査) 首都大学東京名誉教授 奥 村 哲
自国領土が主戦場となった日露戦争に対して清国のとった中立政策は、いわゆる「革命史観」の影 響下で「清朝の無能」や「腐敗」による対外従属的で「屈辱的な中立」とされてきた経緯もあったが、
日露戦争勃発100周年の2004年頃から中国と日本における新たな実証的研究の登場により、再評価が スタートした。しかし、これらの新たな実証研究は、分析対象を個別事象に限定するものや、当時の 史料的制約もあり、その全体像の解明にはなお不十分な段階にあると言わざるを得ない。
本論文は、以上の研究状況を踏まえつつ、清国の中立政策に対して、明確な問題意識と方法、そし て先行研究が利用できなかった新史料も用い、同政策の成立から具体化・執行・終焉までの過程とそ の歴史的意義や限界について、初めて全体的に明らかにしたものである。
各章の概要と到達点は、以下の通りである。
序章では、先行研究の整理、本論文における問題の所在と課題の設定および主な使用史料の提示・
確認がなされている。そこでは、「革命史観」の影響の下で中立政策研究が事実上等閑視された事実 と、2004年あたりから本格化する新たな実証研究成果(鈴木智夫、川島真、崔志海、王剛)の到達点 と残された課題の確認がされている。
第一章では、清国が中立政策に確定していく過程を、国内的・国際的状況の中で明らかにしている。
まず、中立施策が、日露調停論、対露主戦論、中立論という、三つの主張の角逐過程の分析を通じて 明らかにされている。これにより、従来の研究において不明瞭だった中立政策確定の時期を、1904年 2月と確定することができた。また、中立政策の確定過程において日本が大きな影響を及ぼしたこと、
ロシア以外の列強も清国の中立に好意的だったことも示された。加えて、清国にとって中立政策の選 択は、自身の実力と列強の思惑以外に、直前の義和団事件のような「国民の激昂及び暴動」を惹起し、
それがさらなる「列国の干渉を招く」恐れを考慮しつつ、主権と主体性を保持しようとしたのである とした。
第二章では、「中立声明」と「局外中立条規」の具体的な立案過程が初めて明らかにされると共に、
その意義と問題点が明示されている。「中立声明」については、坂西利八郎に書かせたとの通説を実 証的に否定し、清国外務部が内田康哉駐清日本公使に原案を示し、彼の意見をもとに修正したものだ ったことを明らかにした。更に、清国では支配民族の名称であって、公式には地名用語としては使わ れない「満洲」という語を、東三省という語と巧妙に使い分けることによって、中立の対象地域は清 国の東三省を含む全領域だとも(清国の立場)、東三省は除外しているとも(日露を含む列強の立場。
「満洲」あるいは Manchuria は清国以外では東三省を示す地名用語)、両様に解釈できるように、文 言を意図的に調整していることを明らかにしている。これによって、東三省における自らの主権を示 すとともに、ロシアを含む列強の承認を得られるからで、そのような「外交技術」を用いていること を示した意義は大きい。
また、「局外中立条規」に関しても、1860年代に出版された『万国公法』を参考・準拠して制定さ れたとの従来の認識を正し、それが袁世凱の「奏摺附片」をもとに、外務部が原案を作り、袁との意 見交換の後に発表されたという過程を、初めて明らかにしている。加えて、その内容についても、小 村寿太郎外相による批判的意見の分析を通じて、同条規が、問題点を孕みつつも、清国政府が主体的 な試行錯誤を通じて作成した成果であり、中国における国際法の受容の本格的な実践経験となったと いう、緻密な実証に基づいた説得力のある議論を展開しており、学界に大きく寄与するものとなって いる。
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第三章では、「局外中立条規」の執行過程を明らかにすると共に、その問題点を明らかにしている。
まず、中立港である上海と芝罘の事例が具体的に分析され、中立港での中立政策はほぼ実施された ことが明らかにされている。これらの事例については、既に崔志海氏と王剛氏の研究があるが、史料 的な限界もあり、「局外中立条規」との連関性に基づく分析はなされておらず、明らかにされた事実 が清国政府中立政策に如何なる歴史的意義を与えるものだったのかの解明が不十分に終わっていた。
本章の内容は、この解題を解明するものともなっている。
次いで、東三省(「満洲」)の事例が検討され、「中立声明」で想定されていた通り、同地域での 中立政策実行には大きな限界のあったことが明らかにされている。清国政府は、日露戦争開戦直後に 遼西(遼河の西側)に再侵攻してきたロシア軍を戦局の推移と粘り強い交渉により再度撤退させ、清 国軍の駐屯に成功する。しかし、それは日本軍の新民府進出を招き、中立政策それ自体の維持には繋 がらなかった。ロシアの後退が日本の進出拡大という状況を生み出していたのである。東三省での中 立実施については、既に川島真氏が論点を絞り同様の結論を出しているが、本論文ではより広範な考 察を展開し、「馬抜」理解の修正をふくむ個別実証にも厚みを加えつつ、奉天地方官僚の中立保持を 目指した活動にも言及し、同地域の中立政策執行が、国際法に従った中国の近代外交の有益な試みの 蓄積だったともしている。
第四章では、戦争終結に向かう中での清国官僚の議論内容を、従来の研究では日本側の史料に大き く依拠していたものを中国側の新出史料を駆使することで、より正確かつ全面的に解明している。戦 争初期、清国官僚たちは、中立政策を前提に戦局の清国への影響や東三省の将来に対する憂慮などの 意見を述べていたが、戦闘が本格化する中、清国の調停による早期終結を図るという考えを提起する 官僚も登場する。それは戦前の調停論が形を変えたものであるが、このような提案は日本が断固拒否 し、英独も反対という情況では、実現は望みがたいものだった。更に、日本の勝利が予想される戦局 終盤に至ると、日本の東三省での権益拡大が予想され、それに対して清国の主権を如何に保持するの かが、清国官僚たちの共通した問題関心となっていた。そこで考案されたのが、東三省を列強全体に 開放し、利益を均霑することで、日本を牽制しようとするものだった。中立政策は、日露戦争の終結 と共に終結するが、日清の間では、「ポーツマス条約」の中の日本の在清利益を承認する、「中日会 議東三省事宜正約」が新たに締結され、20世紀前半の日中紛争の原点となった。
結論では、以上の内容を改めて要約すると共に、中立政策の歴史的意義について、新政との関連か ら次の点が強調されている。清国の中立政策は、国内で「新政」改革を実施しようとした時に形成・
執行された外交政策だった。新政改革の成功と失敗は、清の統治の存続にかかわっており、曲がりな りにも中立政策が清国内の安定回復に寄与することとなったことは、新政を進めていく上での環境整 備に繋がったと考えられる。事実、日露戦後まず東三省で新政改革が行われた。行政制度上の内地化、
つまり「行省化」の改革は、日露戦争や中立政策の影響を受けただけではなく、清末以来の東北に対 するロシア・日本の侵攻を防ごうとする政策の帰結でもあり、「国民国家」建設の極めて重要な課題 の一つである、対外主権の確立に向けての貴重な一歩となるものだったと結論づけている。
本論文は、楊国棟自身が結論の末尾に列挙しているように、ロシア側公文書の利用をはじめとした マルチアーカイブズの活用をはじめとした課題があり、改めての追究を望みたいところである。しか し、本論文は、冒頭で記したように、清国の中立政策について、当時の国内的・国際的状況を踏まえ ながら、その成立から具体化・実施・終焉までの過程とその歴史的意義や限界について、初めて全体 的に明らかにしたものとして、高く評価できる。特に、第一章と第二章は、これまでの研究水準を実 証的に大きく引き上げ、いくつかの従来の定説や認識を正すことに成功し、当該研究の新たな研究水 準を提示した成果となっている。また、第三章や第四章も、中立政策の展開を軸に個々の施策を整理
・分析するという視角を堅持しつつ、中立施策の全過程を、新出史料を駆使して、その歴史的意義と 共に明らかにすることに成功している。そして、それらを中国における国際法の受容と、国内の新政 改革と関連させて歴史的に位置づける方法も、優れた着眼点と言え、その学問的意義は大きい。
よって本論文は,博士(文学)の学位を授与されるに値するものと認められる。
以 上 令 和 元 年 7 月 3 日