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智山學報 第54 - 029小林 崇仁「玄賓法師の生涯 : 嵯峨天皇よりの殊遇を中心に」

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(1)

NII-Electronic Library Service

よ り の

N工工一Eleotronlo  Llbrary  Servloe

 

 

 

玄賓 法 師の生涯 (小林 )

 

良 か ら 平 安 初

に か け て の

教 ・ 仏 教 の あ り 方 を 研

の 対

と し 、 当 代 の 修 行

に 焦 点 を

て た 人 物 研 究 を 重 ね て い る 。

に 法

学 僧 で

な が ら 斗

し て

を 離 れ た 徳 一 、 下 野 日 光 補

洛 山 に 登 攀 し た 勝 道 、 あ る い は

地 に

寺 を 建 立 し た 満 願 な ど の 研 究 を 通 じ 、 当 時 の 僧 尼 や 優 婆 塞 ・ 優

夷 等 に 顕

で あ る 山

行 や 雑 密 的 信 仰 、

仰 の 問 題 、 さ ら に は

政 者 と

道 者 と の 関

な ど に 注 目 し て い る 。 最 近 で は 、 吉 野 山 の

恩 法 師 ( 七 一 八 頃 〜 七 九 五 ) を 取 り 上

た 。 報 恩 は 三 十 歳 で 吉 野 山 に 入 っ て か ら

五 十

の 間 、 観 音 陀

尼 を 持 誦 し て 山

を 斗 薮 し た

行 僧 で あ っ た 。 晩 年 に は そ の 験 力 を

め ら れ 桓 武 天 皇 ら の 当 病 平 癒 を 祈 願 し 、 内

十 禅 師 に 補

さ れ た 。 坂 上 氏 の

護 を

に 、 子

に 寄 進 を

け る な ど 、

武 天 皇 か ら

遇 を 蒙 っ た 人 物 で あ っ た 。

 

政 者 と 僧 侶 の 関 係 と し て は 、 元 正 ・ 聖 武

期 に

に 供

し た

淵 、 聖 武 後

に 内

に 置 か れ た 玄 肪 、 さ ら に は 孝 謙 期 の

、 称 徳 期 の 道 鏡 な ど 、 天 皇 よ

特 に

用 さ れ た 看

僧 が あ り 、 政 権

い の 中 で そ れ ぞ れ 失 脚 し た

421

(2)

NII-Electronic Library Service 智 山学報 第五十四輯

左 遷 さ れ た と い

。 こ

し た 政 権 と 僧 侶 と の 癒

を 改 革 す る 意 図 で あ っ た と さ れ る 政 策 が 、 続 く

仁 期 に お け る 十 禅 師 の 設 置 と 、 山 林 修 行 の

禁 で あ る 。 こ れ に よ り 、 僧 尼 の

浄 性 が よ

重 視 さ れ 、 吉 野 や 熊 野 を は じ め 、 各 地 の 山 林 に 踏 み 入 っ て 修 行 す る

尼 が 大

に 増 え た と 見 ら れ る 。

ら は 特 に 陀

尼 を 持 誦 し 、 時 に は 土 地 の 民

わ れ て 呪 を 以 て

病 し た り 、 あ る い は 在 地 の 荒 ぶ る 神 々 を 仏

に よ っ て 鎮 め て

宮 寺 を 建 立

る な ど 、

地 に て

々 な 活 動 を 行 い 、 山 林 や 衢

に 仏 教 が 浸 透 し て い く

機 と な っ て い た 。  

の 為 政 者 や 民 衆 は 山 林 修 行 に よ っ て

浄 性 を 保 ち 、 神 力 を

え る 有

有 徳 の 僧 尼 に 、 国 家 や 日 々 の 安

い に 期 待 し て い た こ と が 窺 え る が 、

は そ

し た 期

に 応 え た

尼 の 典 型 で あ っ た 。 さ ら に 報 恩 に 至 っ て 顕

と な っ た 僧 尼 の あ り 方 ( 山 林 修 行 の 重 視 、 為 政 者 と 僧 尼 の 不 即 不 離 の 関 係、 密 教 信 仰 へ の 傾 倒 ) は

澄 や 弘

                                                                丁 )

に 代

さ れ る 平 安 初 期 の 仏 教 に も 引 き 継 が れ て ゆ く も の と

測 し た 。   そ こ で 今 回 は 、 報 恩 の

績 と 類 似 す る

が 多 く 見 ら れ る 、 玄 賓 法

( 七 三 四 頃 〜 八 一 八 ) を 取 り 上

た い 。 玄 賓 は                                                                 〔 2 ) 興

宣 教 の 弟 子 で 、 の ち に 法 相

北 寺 六 祖 の 一 人 に 数 え ら れ る 人

で あ る 。 伯

国 の 山 に 入 っ て 修 道 し 、

年 に は 桓

天 皇 の 要 請 を

け て 御 病 平 癒 を 祈 願 し た 。 そ の 功 績 に よ り 大

都 に 補

さ れ る が 再 び 遁 去 し て

中 国 に 移 り 住 ん だ と さ れ る 。 即 位 し て ま も な い 若 き

峨 天 皇 は 、 す で に 七 十

を 超 え て な お 山 林 修 行 を 続 け る 玄

に 対 し て 篤 い

の 念 を 抱 き 、 そ の

遇 は 当

の 他 の 僧 に 比 べ て 特 別 の も の で あ っ た 。   玄

は 、 後 世 の 鎌

初 期 に

話 文 学 に お い て 、 か た く な に 世 間 を 厭 い 、 ひ た す ら に そ の 身 を 隠 す 遁 世

の 理 想

と し て 登 場 し 、 そ の 信 仰 の

運 が 高 ま っ た と さ れ る 。 こ れ に よ り 特 に 中 世 文 学 の 分 野 に て 玄 賓 が 取 り 上 げ ら れ て い 〔 3 )                                                                                       ( 4 ) る が 、 仏 教 学 あ る い は 歴 史

に お い て 史 実 と し て の 玄 賓 は ほ と ん ど 注 目 さ れ て い な い 。 同 時 期 の 最 澄 や 空 海 の

躍 に 関 心 が 注 が れ 、 そ の 蔭 に 隠 れ て し ま っ て い る 感 が あ る 。 し か し な が ら 玄 賓 は 、 空 海 が 唐 か ら 帰 朝 し た

か り し 時 仏 教 界 の 重

と し て 嵯 峨 天 皇 か ら

大 な

遇 を 受

る 老 僧 で あ っ た 。 そ の 玄 賓 と 嵯 峨 天 皇 と の 関 係 を 引 き 継 ぐ 一

422

一 N工工一Eleotronlo  Llbrary  

(3)

NII-Electronic Library Service の が 、 ま さ に 空 海 で あ る こ と か ら も 、 当 時 の 仏 教 を 論

る 上 で 、 玄

過 し

な い 人

の 一 人 で あ る 。 そ こ で 今 回 は 、 玄 賓 研 究 の

入 と し て 、 ま

は 玄 賓 の 生 涯 を 整 理 し た 上 で 、 嵯 峨 天 皇 か ら の 処 遇 が い か に 特 別 な も の で あ っ た か を

認 し て お き た い 。

N工工一Eleotronlo  Llbrary  Servloe

一 、

賓法 師の生 涯 小林)  

に 関 す る

料 と し て 、 ま

玄 賓 自 身 の

は 知 ら れ て い な い 。 『

章 疏 』 や 『

進 法 相 宗 章 疏 』 あ る い は 『

域 伝 灯 目

』 と い っ た 仏

籍 の 目 録 に も 、 玄

の 著

は 見 ら れ な い 。 た だ し 、 同

代 の 国 史 で あ る 『 日 本 後 紀 』 、 あ る い は 九

紀 末 に

原 道 真 が 編

し た 『 類

国 史 』 に 、 玄

に 関 す る 記

と 嵯 峨 天 皇 が

て た 親 書 が 見 ら れ る 。 ま た 、 嵯 峨 天

選 漢 詩 集 で あ る 『

雲 集 』 と 『 文 華 秀 麗 集 』 に は 、

峨 天

が 詠 じ た 玄

に 関

さ れ て い る 。 さ ら に 、

に 編 ま れ た 僧

と し て は 、 虎 関 師 練 が 元 亨 二 年 〔 = 三 = こ に 編

し た 『 元

」 と 、 十 三 世 紀 中 頃 に 成 立 し た と さ れ る

不 明 の 『 南 都 高 僧

』 な ど に

が 見 ら れ る 。 一

、 鎌

初 期 以 降 の 「

談 』 、 『 発 心

』 、 『 閑 居 集 』 、 『 撰 集

』 な ど の 説 話 文 学 で は 、 玄 賓 が 遁 世 僧 の 理 想 像 と し て 描 写 さ れ て い る 。 本

で は 史 実 と し て の 玄 賓 像 を 問 題 に

る た め ひ と ま ず 『 元

釈 書 』 の 玄

に 従 い 、 時

状 況 と 照 ら し な が ら そ の 生 涯 を 整 理 し て み た い 。   一 ) 誕 生 〜 出

( 七 三 四 ・ 一 歳 ) 頃 以 降

1

  『 元 亨 釈 書 』 の 「 感 進 」 の 項 に は 多 武 山 を 開 い た

慧 、

二 会 の

と さ れ る

伝 と と も に 、 「 湯 川

」 の 項 が

録 さ れ て い る 。 そ の

に は ま ず 、 吉 野 山 の

恩 ら 一

423

(4)

NII-Electronic Library Service 智山学報第五 十 四輯                                                                                               ( 5 )    

の 玄 賓 、

は 弓

氏 、 内 州 の 人 な り 。 唯 識 を 興 福

宣 教 に 稟

。 性 、 囂 塵 を

い 、

を 鋭 く し 業 を 勤 む 。 と あ り 、 玄

は 河 内 国 ( 大 阪 府 東 部 ) の 弓

氏 に 生 ま れ 、 長 じ て 興 福 寺 の 宣 教 に 唯 識 を

ん だ と さ れ る 。 そ の 人 と な り は 、 も と よ り 世 俗 を 厭 い 、 つ と め て

に 励 ん だ と い

。   ま た 、 『 元 亨 釈 書 』 以 前 に 東 大 寺 戒

院 凝 然 ( 一 二 四 〇 〜 一 三 二 一 ) が

し た 『 五 教 章 通 路 記 』 に も 、                                                 ( 6 )    

教 の 下 に

環 大 僧 都 玄 懐 僧 都 、 玄

僧 都

有 り 。 と 記 さ れ 、 賢 環 や 玄 懐 と と も に 、 玄 賓 は

の 弟 子 と 見 な さ れ て い た こ と が 知 ら れ る 。                                                     ( 7 )   宣

( 生 没 年 不 詳 ) に つ い て は 、 同 じ く 『 五 教 章 通 路 記 』 に て 、 「 日 本

の 第 一 祖 師 智 鳳 法 師 、

淵 、

三 宣 教 、

第 五 明 福 、 〈 以 下 略 〉 」 と 伝 え ら れ て い る 。 つ ま り 宣 教 は 、 中 国 法 相

の 第 三 祖 智 周 ( 六 六 八 〜 七 二 三 ) に 学 ん で 来

し た 新 羅 の 智

に よ る い わ ゆ る 日 本 へ の 法 相

三 伝 の

流 に 連 な る

僧 と 位 置 づ け ら れ て い                                                                         ( 8 ) た 。 し か し そ の

し い 僧 伝 は 伝 え ら れ て い な い 。 た だ し 『 興 福

官 務

疏 』 に よ れ ば 、 特 に 河 内 国 に 宣 教 開 基 と さ                     ( £ れ る

院 が い く つ か 見 ら れ 、 宣 教 は 河 内 国 と

ら か の 関 わ

が あ っ た も の と 推 測 さ れ る 。 さ ら に 「 宣 教 」 の 自 署 が                               面 ) 記 さ れ た 『 優 婆 塞

進 文 』 が 伝 え ら れ 、 こ れ に よ れ ば 宣 教 は 天 平 十 五

( 七 四 三 ) に

内 国 の 八 戸 史 挨 大 国 と い う 十 八 歳 の 優

塞 を 推 挙 し 、 そ の 得 度 を

め た こ と が 知 ら れ る 。 こ こ に も 、 宣 教 と 河 内 国 と の 関 係 が 推 測 さ れ よ

。   宣

と 玄 賓 の

弟 関 係 に つ い て 、 他 に

は 見 ら れ な い の で あ る が 、 と も に 河 内 国 と 関 係 が 深 い こ と か ら 、 現 時 点 で は ひ と ま ず

の 通 り 、 玄 賓 は 興 福

宣 教 に 法

唯 識 を 学 ん だ も の と 考 え て お き た い 。   と こ ろ で 、 先 に 触 れ た 宣 教 の 弟 子 で あ る 河 内 国 の 大 国 は 、 『

進 文 』 に よ れ ば 、 当 時 優 婆 塞 に 課 せ ら れ て い た 『

干 経 』 及 び 「

華 経 』 の 他 に 、 『 寿

経 』 三 十

を 読 み 、 さ ら に は 『

師 経 』 「 最 勝 王

序 品 』 『

世 音 経 』 『 心 経 』 『 三 宝 義 』 の 経 論 と 、 千 手 、 仏

、 金 勝 地 の 陀

尼 を 誦 し て 、 六 年 間 の 浄 行 を 積 ん だ と さ れ る 。

か り し 玄

養 を 類 推 す る 上 で 貴 重 な 史

で あ る 。 一

424

一 N工工一Eleotronlo  Llbrary  

(5)

NII-Electronic Library Service 玄 賓法 師の 生涯 (小林 )   ま た 、 同 じ く

の 弟 子 で 、 凝 然 に よ れ ば 日 本 法 相 第 四 祖 と さ れ る 賢 環 ( 七 〇 五 〜 七 九 三 ) は 、 天

勝 宝 七

( 七 五 五 ) に 鑑 真 よ り

足 戒 を

け 、 そ の 時 が 日 本 で の 登

受 戒 の 初 め と さ れ る 人 物 で あ る 。

環 も

と 同

、 も と よ

苦 行 し て 修

に 励 ん だ と さ れ 、 大 和

の 経 営 、

へ の 三 重

建 立

遷 都 の 勝 地 占

な ど         11 > で

ら れ る 。 山 林

行 、 神 祇

仰 と い っ た

点 か ら も 、

環 の

は 興 味 深 い 問

で あ り 、

後 の 課 題 と し て お き た い 。   な お 、 玄

の 生

に つ い て は 、 諸 史

に 「 弘

。 八

。 」 と

り 、 確 定 は し な い が 、 こ こ で は

に 『 僧         ( 瓰 )

 

 

「 八

五 」 と い

書 の 説 を

用 し 、 天 平 六

( 七 三 四 ) 頃 の 生 ま れ と し て お く 。 以 下 に 記

す る 玄

齢 に つ い て は 、 前 後 四 歳 程 の 幅 を

さ れ た い 。   ( 二 ) 伯

国 の 山 へ 入 る

 

1

宝 亀 元

( 七 七 〇 ・ 三 七 歳 ) 以 降

  『 元 亨

』 の 「 玄

」 は さ ら に 続 け て 、                                                                                     奮 )    

て 緇 侶 の 僧

を 営 む を 患 ひ 、 ま た 族 人 道 鏡 の 称 徳

に 媚 る を 疾 み て

か に 伯 州 の 山 へ 入 る 。 と

え る 。 つ ま り

は 、

が 僧 官 に 就 く こ と 、 さ ら に は 同 族 の 道

が 称

天 皇 に 媚 び た こ と を 憂 え て 、 伯

国 ( 鳥 取 県 西 部 ) の 山 へ 入 っ た と す る 。   弓

の 道 鏡 ( ? 〜 七 七 二 ) は 、 宣 教 の

あ る

淵 ( ? ー 七 二 八 ) に

を 学 び 、

山 に て 如 意 輪 法 な ど を 修

し た と さ れ る 。 天 平 宝 字 六

( 七 六 二 ) に 近 江

に て 孝

上 皇 の 御 病 を 看 病 し 、 上 皇 の 信

る と 、 翌 七

( 七 六 三 ) に は 少

都 、 さ ら に は 大

禅 師 太 政 大 臣 禅

、 そ し て 天

護 二

( 七 六 六 ) に は

王 に 任 ぜ ら れ た 。 さ ら に 重 祚 し た

徳 天 皇 の

に 勢

ば し 、 神 護 景 雲 三

( 七 六 九 ) に は

八 幡 宮 の 神 託 に よ

皇 位 を 狙

ほ ど で あ っ た 。 た だ し そ れ は

原 氏 や

氏 に よ っ て 阻

さ れ 、 宝 亀 元

( 七 七 〇 ) に 称 徳 天 皇 が 崩

す る と 、 一 

425

一 N工工一Eleotronlo  Llbrary  

(6)

NII-Electronic Library Service 智山学報 第五十四輯                                                               ( 邑 道 鏡 は 下 野 の

師 寺 に 左 遷 さ れ 、 翌 々 宝 亀 三 年 ( 七 七 二 ) に 同

で 没 し た 。   称 徳 天 皇 が

し 光 仁 天 皇 ( 七 〇 九 〜 七 八 一 ・ 在 位 七 七 〇 〜 七 八 一 ) が 即 位 す る と 、 僧 綱 は

ぐ さ ま 上 表 し 、 一 時 禁                             〔 芭                                                                               ( 16 ) じ ら れ て い た 山 林 修

が 解

さ れ る 。 ま た 、 光 仁 天 皇 は

戒 や

に 秀 で た

者 に 供 養 を

え て 十 禅 師 と し 、 僧 尼 の

行 性 を よ り 重 視 し て い る 。 こ れ ら 光

期 の 山 林 修

の 解

、 山 林 浄 行

の 奨 励 は 、 政

と 僧 尼 と の 癒 着 を 改               ( 17 ) め る 政

と さ れ る が 、 こ れ を

景 に 山 林 修

は 再 び 盛 ん と な る 。 玄 賓 が 伯 耆 国 の 山 へ 入 っ た の は 、 ま さ に こ の 時 と 伝 承 さ れ る の で あ る 。 な お 、 こ こ に い う 「

耆 国 の 山 」 と は 、 中 国 地

最 大 の 霊 山 で 役 行

、 金 連 、 円

な ど の 開 山 伝 承 が あ る 大 山 ( 一 七 二 九

M

) が 最 も 有 力 な 候 補 と な る だ ろ

。 後 に 述 べ る が 、

間 の 末 、 玄 賓 は 伯

大 山 の 西 方 に

置 す る

耆 国

郡 に 阿 弥 陀

立 し て い る か ら で あ る 。   さ て 、 玄

が 道

と 同 じ 弓

氏 の 出 身 で あ り 、 そ れ を

え て

耆 の 山 へ 入 っ た と の 伝 承 は 、

に 確 証 が な く 、 現                                                       〔 18 ) 時

で は 不

と せ

る を 得 な い 。 た だ し 、 栄 原

遠 男 氏 の 研 究 に 、 一 つ の 検

の 糸 口 を 見 い だ

こ と が で き る 。 つ ま り 、 天 平 宝 字 六

( 七 六 二 ) と

に 保

宮 に あ っ た 淳 仁 天 皇 と

太 上 天 皇 と の 関

は 、 道

問 題 を き っ か け に 決

る の で あ る が 栄 原 氏 に よ れ ば 、 そ の 政 治 的 対 立 を 反 映 し て 、

写 大

に お い て も 、 仲 麻 呂

と 孝

派 が

抗 し て い た と い う 。 つ ま り こ の 時 、 仲 麻 呂 派 は 少

都 慈 訓 の 宣 に よ り 『 大 般

』 二

二 百 巻 の 写 経 事 業 を

め 、 一 方 の

派 は 道 鏡 や 法

尼 の 宣 に よ り 『 仁 王 経 疏 』 十

五 十 巻 と 、 『 灌

』 十 二

百 四 十 四 巻 の 写 経 を

っ て い た と い

の で あ る 。   こ こ で

一 派 に お い て 、 『

頂 経 』 が 写 経 さ れ て い た こ と に 注 目 し た い 。 と い

の も 、

述 す る よ う に

二 十 四 年 ( 八 〇 五 ) 桓 武 天 皇 の

に 際 し 、 玄

が 招

け た 四 日 後 、 殿 上 に て 「 灌 頂 法 」 が 行 ぜ ら れ て い る か ら で あ る 。 こ の 「 灌 頂 法 」 と は 、

教 で 言

い わ ゆ る

と は 異 な り 、 『 灌 頂

』 に 基 づ

何 か し ら の 修 法 と           ( P )

ら れ て い る 。 写

が 完 成 し た 『 灌 頂

』 十 二 部 は 、

に 八

、 興 福 寺 と 元

に 一 部 ず つ

請 さ れ 、 残 る 二 部 一

426

一 N工工一Eleotronlo  Llbrary  

(7)

NII-Electronic Library Service 玄賓法 師の生涯 (小林 ) は 香 山

と 東 大

に 一

ず つ

さ れ た と い

こ と か ら 、 『 灌 頂 経 』 は

上 皇

、 と り わ け

の 僧 尼 周 辺 に て 重

さ れ た こ と が

え る 。 果 た し て 延 暦 二 十 四

の 「 灌 頂

」 が 玄

に よ っ て

わ れ た の か 不 明 で は あ る が 、 玄 賓 と 道 鏡 に 関

る 伝

、 道 鏡 と 『

経 』 と の 関

を 考 慮 す れ ば 、 興

で あ る 玄

が 「 灌 頂

」 を 行 じ た 可 能 性 は 十 分 に あ り 得 る こ と で あ る 。 逆 に 玄

が 「 灌 頂 法 」 を

じ た こ と が

実 で あ る と

れ ば 、 玄

と 道 鏡 の 関 係 も よ

い こ と が 想 定 さ れ 、 玄

が 伯

国 の 山 へ 入 っ た 理 由 も 、 や は

承 通 り に 道 鏡 の 左 遷 が

機 と な っ て い る こ と は 、 十

に 想 像 し

る と こ ろ で あ る 。   玄

の 出 自 、 さ ら に

耆 の 山 へ の 入 峰 の 理 由 に つ い て 、 そ の 真

は 不

で あ る 。 た だ し い ず れ に し て も 、 宝 亀 年                                           ( 20 ) 間 以 降 、 十 禅

広 達 や

興 の

例 に 見 ら れ る ご と

、 特 に 陀

尼 を 持

し て 、 熊

野 を は じ め 深 山 に 踏 み 入 り 、 時 に は 民 衆 に

わ れ て 呪 を 以 て 看 病 し 、 あ る い は

越 を

て 堂 宇 を 建 立 す る な ど 、

地 に て

々 な 活 動 を

っ た 僧 尼 が 増 え て い く こ と は 明 ら か で あ り 、 一

で は

宗 の

一 や 報 恩 が 、 若 く し て

を 離 れ て

薮 し 、 そ の

の 数 十                                           ( 21 )

に わ た っ て 地 方 の 山 林 を 拠 点 と し て 修 道 し て い る こ と か ら し て 三 十 代 後 半 の 玄 賓 も 彼 ら と 同 様 に 、 伯

の 山 へ

薮 し 、 以 後 少 な

と も 三 十

近 く 山 林 に て 修

に 励 ん だ こ と は 史 実 と 見 て 良 い だ ろ

。   な お 、 そ の 間 の

状 に つ い て は 、 『 発 心 集 』 や 『 閑 居 友 』 な ど の

話 集 に て ひ た

ら に 世 間 か ら

を 隠 す 隠 遁

と し て の 玄 賓 が

さ れ て い る 。 特 に 三 輪 川 ( 大 神 神 社 で 知 ら れ る 桜 井 市 三 輪 あ た り ) の ほ と り に 草 庵 を

ん だ と の

承 は 、 当 時 の 神 仏 交 渉

を 考

る 上 で 興 味 深 い が 、

と し て は 他 に

証 が な い 。 同 時 期 に

地 を 遍 歴 し て

宮               ( 盥 )

を 建 立 し た 満 願 な ど と の 比 較

討 が 可 能 で

ろ う が 、

後 の 課 題 と し て お き た い 。 ( 三 )

武 天

の 御 病 平 癒 を 祈 る

 

延 暦 二 十 四

( 八 〇 五 ・ 七 二 歳 ) 三 月

1

お そ ら く は 伯

国 の 山 を 中

道 を 積 ん で い た で あ ろ

玄 賓 が 、 再 び 史

上 に て 語 ら れ る の は 、 す で に 老 齢 の 一 427 一 N工工一Eleotronlo  Llbrary  

(8)

NII-Electronic Library Service 智山学報五 十 四 域 に

し た 晩

の こ と で あ る 。 つ ま り 『 日

後 紀 』 に 、                                                                                       ( お )     延 暦 二 十 四

三 月 壬 辰 。 使 を

耆 国 に 遣 わ し 玄 賓

師 を 請 ふ 。

申 。 殿 上 に 於 て 灌

法 を 行

。 と あ り 、 延 暦 二 十 四 年 ( 八 〇 五 ) 、 七 十 二 歳 の 玄 賓 が 伯 耆 よ り 招

さ れ た こ と が

ら れ る 。 こ の 時 の

子 を 『 元 亨 釈 書 』 は 、     桓 武 帝 病 有 り 、 遠 く 山 中 に 詔 し て 冥 助 を 乞 は せ た ま ふ 。 至 化 遁 れ 難 く 乃 ち

を 負 う て

に 入 る 。 上 の 疾 愈 ゆ 。                 藪 )     辞 し て 山 へ 帰 る 。 と 伝 え 、 桓 武 天 皇 の 御 病 を 平 癒 す る た め に 、 遠 く 山 中 に い る 玄

を 召 し て そ の 冥 加 を 乞 う た と さ れ る 。 そ し て 要

を 受 け た 玄 賓 は や む な く 上

し 、 平 癒 を 果 た し て 再 び 山 林 に 帰 っ た と い

。   当

は 光 仁 天

い だ 桓 武 天 皇 ( 七 三 七 〜 八 〇 六 ・ 在 位 七 八 一 〜 八 〇 六 ) の

年 に あ た り 、 翌 年 大 同 元 年 ( 八 〇 六 ) 三 月 に 崩 御 さ れ る ま で の 約 一

余 り 、 天 皇 は 大 い に 患 っ た 様 子 で あ る 。 特 に 延 暦 四

( 七 八 五 ) の

原 種 継 暗 殺

件 を き っ か け に 廃 し た 早

王 へ の 想 い は 尋 常 で な く 、 そ の

霊 に 悩 ま さ れ た こ と を 窺 う こ と が で き る 。 こ の 問 に 、 病 気 を 平 癒 す る た め 、 さ ら に は そ の 因 縁 と さ れ た 早 良 親 王 の 怨 霊 を 鎮 め る た め 、 読

な ど の 仏 事 、 あ                                     躬 ) る い は 奉 幣 な ど の 神

が 頻 繁 に

わ れ て い た 。 『 元 亨 釈 書 』 が

え る ご と

、 延 暦 二 十 四

三 月 の 玄 賓 の 招 請 も そ れ ら 一 連 の 御 病 平 癒 に 関 わ る

の で あ っ た と 見 て 差 し 支 え な い だ ろ

。 一

428

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( 四 ) 度 人 を 賜 る

 

1

二 十 四 年 ( 八 〇 五 ・ 七 二 歳 ) 七 月

1

こ の 玄 賓 の 修 法 に は 、

か し ら の 効 験 が あ っ た と 見 え る 。 つ ま り 『 日

後 紀 』 に は 、   延 暦 二 十 四

七 月 壬

大 法 師 位

騰 、 安 曁 、 玄 賓

三 十 七 人 、 井 び に 三 品 美 努 摩 内

王 に 度 五 十 九 人 を                                 ( 册 )   賜

。 人

に 三 人 已 下 一 人 已 上 な り 。

(9)

NII-Electronic Library Service 玄賓法師の生涯 (小林) と 記 さ れ 、 玄

の 修 法 か ら 四 ヶ 月 後 の 七 月 に は 、 え ら れ て い る か ら で あ る 。 玄

ら 三 十 八 人 に 、 一 人 あ た り 三 人 か ら 一 人 の

囲 で 、 度 人 が

  ( 五 )

僧 都 に 補 任 さ れ る  

1

大 同 元 年 ( 八 〇 六 ・ 七 三 歳 ) 四 月

  さ ら に 『 日 本 後 紀 』 に は 、                                         ( 勿 )     大 同 元 年 四 月 丙 辰 。

師 玄 賓 を 大 僧

と す 。 と あ り 、

武 天 皇 が 崩

し 、 次 い で 平 城 天 皇 ( 七 七 四 〜 入 二 四 ・ 在 位 入 〇 六 〜 八 〇 九 ) が 即

し た

の 四 月 に 、 玄

が 大 僧

に 補 任 さ れ た こ と を 記

る ・ さ ら に 『

』 に よ れ

以 後 八 年 の

弘 仁 五 年 ( 八

西

) ま で ・ 大 僧 都 と し て 僧 綱 に 名 を

ね て い る 。

綱 は 仏 教 を

轄 す る

で あ り 、

古 三 十 二

( 六 二 四 ) 、 僧 尼 を 検

る た め に 、

勒 を 僧 正 、

積 を 僧 都 に 任 じ た の が

ま り と さ れ る 。 天 武 十 二

( 六 八 三 ) に は

師 も 置 か れ 、

期 に は

部 省 玄 蕃 寮 の 下 、 京 内 の 寺 院 や

尼 の

政 と 教 学

興 に あ た っ た 。

綱 の 位 と し て は 、 お よ そ 僧 正 ・ 僧

・ 律 師 の 三 位 が あ っ た が 、 僧 正 位 は 欠 員 の

合 が

か っ た 。

武 ・ 平 城 ・ 嵯 峨 天 皇 の

世 で あ る 延 暦 ・ 大 同 ・ 弘

年 間 に あ っ て も 延 暦 元

( 七 入 二 ) か ら 同 十 六

( 七 九 七 ) ま で 秋 篠

正 と

さ れ た 善 珠 ( 七 二 三 〜 七 九 七 ) が そ の 位 に 就 い た 以

は 、 常 に 欠 員 で あ る 。 玄

が 大 僧

に 補

さ れ た 時

上 の 上 首 は 、

朝 し て 梵

寺 に

し た

忠 大 僧

( 七 四 三 〜 八 一 六 ) で あ り 、 玄 賓 は 異 例 で は あ る が

を 経

し て そ の 次 席 に 就 い た の で あ っ た 。   六 )

を 辞 し 備 中 国 に 遁 去 す る

大 同

〔 八 〇 六 〜 八 一 〇 ∀ ま た は 弘 仁 五

( 八 一 四 ・ 八 一 歳 )

1

  大 僧

に 補 任 さ れ た 玄 賓 で あ っ た が 、 ど

も そ の

初 よ り 、 僧 綱 所 ( 当 時 は 西 寺 ) を

れ て い た よ う で あ る 。 れ に 関 し て 『 元

釈 書 』 は 、 , 」

429

一 N工工一Eleotronlo  Llbrary  

(10)

NII-Electronic Library Service 智山学報第五十四輯                                                                                       ( 29 )     大 同

詔 し て 輦 下 に 返 ら し む 。 僧

の 勅 下 る と 聞 き て 、 潜 か に 遁 れ 去 り て 備 中

の 湯 川 寺 に

く 。 と

え 、

に 任 ず る と の 平 城 天 皇 よ り の 詔 勅 が 下 る と 聞 き 及 ん で 、 ひ そ か に 遁 去 し て 備 中 国 ( 岡 山 県 ) の 湯 川 寺                                 ( 製 に

し た と

る 。 一 方 『 僧 綱 補 任 』 に は 、     同 ( 弘 仁 ) 五

押   大 僧 都

 

 

 

 

  玄 賓

 

髄 斌 雑 橢 肋 鬮 腸 馴 汕 寺                     少 僧 都 常 騰

 

 

 

 

如 宝                     律 師

 

灘 駈 覗 轍

 

 

長 恵                           修 円

 

 

 

 

哲                           勤 操 と あ り

( 八 一 四 ) に

国 の 湯 川 寺 へ

し た と 伝 え る 。 後 述 す る よ

に 、 嵯 峨 天 皇 は 大 同 四

( 八 〇 九 ) に 玄 賓 へ 親

を 送 っ て い る が そ の

点 で す で に 数

は 京

を 離 れ て い る

が 読 み

れ る こ と か ら 、 大 同 元

( 八 〇 六 ) か ら 弘 仁 五

( 八 一 四 ) の 八

間 、 僧 綱 の 職 位 に

い て い は い た も の の 、 実 際 は そ の 当 初 か ら 僧 綱 所 を 離 れ 備 中 国

川 寺 に 住 し て い た の で は な い か と 推

さ れ る 。                                           ( 31 )   な お 「

国 湯 川

」 と は 、 原 田 信 之 氏 に よ れ ば 、 岡 山 県 新 見 市 土

に 位 置

る 法 皇 山

で あ る と い

。 原 田 氏 は

川 寺 周 辺 に 今 な お 伝 承 さ れ て い る 玄

説 を 調 査 し た 上 で 、 玄

は 周 辺 の 人 々 か ら 、 呪

に す ぐ れ 、 強 い 慈

心 を

的 に 活 動 し た 高 僧 と し て と ら え ら れ て き た と 結 論 づ け て い る 。

に 、 玄

坂 鍾 乳

の 石 鍾 乳 を 薬 石 と し て 採

し 、 桓 武 天 皇 に

上 し た と い う 伝 承 は 興 味 深 い 。 確 か に 当 地 は

数 の 鍾 乳 洞 が 存 在 す る カ ル ス ト 台 地 が

が り 、

質 の 石 鍾 乳 を 採 取 し や す い

所 で あ る 。 よ り 詳 し く

す る

地 が あ る が 、 玄 賓 が 斗

の 地 と し て 当

を 選 定 し た 理 由 を 議 論 す る 上 で 、

と す べ き 伝 承 と 言 え る 。 一

430

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(11)

NII-Electronic Library Service   ( 七 )

峨 天 皇 よ り の 殊 遇

 

同 四 年 ( 八 〇 九 ・ 七 六 歳 ) か ら 弘 仁 九 年 ( 八 一 八 ・ 八 五 歳 )

i

  す で に 平 城 期 に 、

が 律 師 を 経 ず し て 大

都 に 補 任 さ れ た こ と か ら し て 、 当 時 の 為 政 者 が 玄

を 重 ん じ て い た で あ ろ

こ と は 想 像 に

な い 。 そ し て 平 城 天 皇 に 次 い で 即

し た 嵯

( 七 八 六 〜 八 四 二 ・ 在 位 八 〇 九 〜 八 二 三 ) も 、

綱 所 を 離 れ 遠

に 住 す る 玄

を 尊

し 、 玄 賓 が 示

す る ま で 並 々 な ら ぬ 処 遇 を

え て い る 。 こ の こ と に つ い て ま ず 『 元 亨 釈

』 は 、                                                       ( 記 )     弘

帝 、

の 操

び 、 詔 問 絶 え ず 。

布 を 贈 り た ま ふ 。 と し 、 嵯 峨 天 皇 が 玄

敬 し 、 修 行 の

ね て

の よ

を 贈 っ た と 伝 え て い る 。   嵯 峨 天 皇 は 、 体 調 が 思 わ し く な い 平 城 天 皇 の 譲 位 に よ り 、 大 同 四

( 八 〇 九 ) 四 月 一 日 に 即 位 す る の で あ る が 、 そ の 二 十 日 後 、 平 城 上

病 平 癒 を 理 由 に 玄

へ 親

を 送 り 、 再 見 を 願 っ て い る 。 そ れ 以 後 、

の 年 二 回 、

や 御 製 詩 、 布 や

っ て 存 問 を

け て お り 、 『 日 本 後 紀 』 や 『 類 聚

』 に そ の 記

さ れ る 。 こ の

に 関 し て は 、 後 ほ ど

検 討 し た い 。 一

431

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玄 賓法 師の 生涯 (小林〉   ( 八 ) 玄

が 住 し た 郷 の 租 庸 の 軽

仁 七

( 八 一 六 ・ 八 三 歳 ) 、

七 年 ( 八 六 五 ・ 滅 後 四 + 七 年 )

1

  さ ら に 、 九 世 紀

に 菅 原

に よ り 編

さ れ た 『 類 聚 国 史 』 は 、 当 時 の 国 史 で あ る 『 日 本 後 紀 』 の 欠 佚 部 を 補 う な ど 貴 重 な 史

で あ る が 、 そ の 「 仏 道 部 ・ 高 僧 」 の 項 に 、     弘 仁 七

八 月 癸 丑 。 勅 し た ま わ く 、 玄 賓 法 師 、 備 中 国 哲

郡 に 住 し 、 苦 行 す る に 日 久 し 。 利 益

べ し 。 宜 し                                                                             ( お )     く 法 師 の

生 の 時 間 、

の 郡 の 庸 は

め て 鉄 を 進 む べ し 。 以 て 民 費 を 省 か ん 。 と 記 さ れ て い る 。 玄

が 備 中 国

多 郡 に 住 し 日 々 に 苦

を 積 ん で い る 利 益 を

讃 し 、 玄 賓 の 存

中 、 当 郡 の 庸 に つ い て は 米 で な く 鉄 を 納 め る よ

に と あ る 。 岡 山 県 の 北 西 端

川 の 上 流 域 に あ た る 当 地 は 、 古 く か ら 砂 鉄 の 産

(12)

NII-Electronic Library Service 智山学 報第五十 四輯 地 と し て

ら れ 、 現

で も 鉄 鉱

が 盛 ん な 地 域 で あ る 。 玄

の 偉 業 を 称 え て 実

的 に 庸 が 軽 減 さ れ た と 見 え 、 周 辺 の 民 衆 も そ の 恩 恵 を

っ た こ と が 推 測 さ れ る 。   加 え て 、 藤 原 時 平 ・ 大

善 行 ら に よ り 延

( 九 〇 一 ) に 撰 上 さ れ た 六 国 史 最 後 の 書 で あ る 『 三 代 実

』 に は 、     貞

七 年 八 月 廿 四 壬

。 〈 … 中 略 … 〉

、 沙 門 玄

は 伯 耆 国 会 見 郡 に 於 て 、 阿 弥 陀

を 建 立 し 、 是 に                                                                                     ( 鈎 )     至 る 。 勅 し た ま わ く 永 く

田 十 二 町 九 段 四 十 歩 の 租 を

。 本 国

の 百

の 施 入 す る 所 な り 。 と あ り 、 か つ て 玄

が 建 立 し た 伯 耆 国

見 郡 の 阿 弥 陀

に つ い て 、 そ の

田 十 二 町 九 段 四 十 歩 の

が 永 く 免 ぜ ら れ た と 伝 え る 。 「 阿 弥 陀 寺 」 の 所 在 地 に つ い て は 、 大 山 の 阿 弥 陀 堂 と す る 説 、 現 西 伯 町 下 中 谷 の

祥 に 比 定 す る 説 な                     露 ) ど あ り 、

し て い な い 。 当 時 す で に 嵯 峨 上 皇 も

し 、 曾 孫 に

た る 清 和 天

( 八 五 〇 〜 八 八 〇 ・ 在 位 八 五 八 ー 八 七 六 ) の 治 世 で あ っ た が 、 玄

の 遷

か ら 四 十 七

を 経 て も な お 、 そ の

ば れ て お り 、

に お け る 玄 賓 へ の 尊

が 、 極 め て

か っ た こ と が 推 測 さ れ る 。 一

432

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  ( 九 ) 遷 化  

弘 仁 九 年 ( 八 一 八 ・ 八 五 歳 )

1

  玄

の 遷

に 関 し て は 、 六 国 史 の

出 と し て 十 一 世 紀 後 半 か ら 十 二 世

立 し た と さ れ る 『 日 本 紀 略 』 に 、                                                       ( 謁 )     弘 仁 九

⊥ ハ 月 己 巳 。 伝

大 法

卒 す 。 春

八 卜 有

な り 。 と あ る 。 示

地 に つ い て 諸

料 に 記

は な い が 、 原 田 信 之 氏 は

国 の 玄

跡 ( 岡 山 県 小 田 郡 矢 掛 町 小 林 ) 周 辺 に 伝 わ る 終

地 伝 承 を 紹 介 し て い る 。

地 付 近 に は

良 期 に 東 大

三 綱 で あ っ た 承 天 大 和

の 開 基 と さ れ る 大

が あ る な ど 、 南

と の 間 に 深 い 関 係 が あ り そ れ が 当 地 の 玄 賓 伝 説 に

か し ら の 影 響 を

え た も の と 推

さ れ て い   ( 訂 ) る 。

(13)

NII-Electronic Library Service   玄 賓 遷 化 の 知 ら せ は 天 皇 の も と に 届 け ら れ 、 の 詩 が 『 文 華 秀 麗

』 に

録 さ れ て い る 。 こ の 時 、

峨 天 皇 は 自 ら 哀 悼 の 詩 を

ん で お

述 す る よ

に そ 二 、

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  以 上 、 玄 賓 の 生

を 概 観 し た が 、 そ の 生 涯 の ほ と ん ど を 伯 耆 や 備

の 山 林 に て 修 道 を 積 ん だ 修

僧 で あ っ た と 推 察 さ れ る 。 朝 廷 は 玄

を 重 用 し 、 天 皇 の 御

平 癒 に し ば し ば 招 請 し 、 つ い に は 大 僧 都 に 補 任 し て い る 。 し か し 、 も と よ

を 厭 い 、 つ と め て 修 道 に 励 ん だ 玄

は 、 僧 綱

を 離 れ て 再 び 山 林 に そ の 身 を 置 い た 。 そ

し た 玄

の 清 風 に 、

峨 天 皇 は 篤 い

崇 の 念 を 抱 き 、 殊 遇 を 与 え て い る の で あ る 。 そ の 生 涯 に は 、 興 味 深 い 問 題 も 多 々 あ る が 別 稿 に

、 今 回 は 玄

究 の 準 備 作 業 と し て 、 ま

は そ の 処 遇 に 焦 点 を 当 て 、 そ れ が 当 時 に お い て 、 い か に 特

な も の で あ っ た の か 、 さ ら に は 天 皇 が い か に

し て い た の か を

認 し て お き た い 。 一

433

一 玄賓法 師の 生涯 (小 林)   ( こ

峨 天 皇 よ り の 施 物   嵯 峨 天

は 、 二 十 四

に し て 即

し た 。 そ の

の 大 同 四 年 ( 八 〇 九 ) 四 月 二 十 一 日 、 天 皇 は 玄 賓 の も と へ 、 再 会 を 願

な 親 書 を 送 っ て い る 。 そ の 再 会 が

現 し た か 知 る 由 は な い が 、 お そ ら く は 再 会 が

た さ れ 、 天

は 玄

へ の

の 念 を い っ そ

深 め た の で は な か ろ

か 。 な ぜ な ら 、 そ の 後

が 八 十

で 遷

す る 弘 仁 九

( 八 一 八 ) ま で の

間 、 天

は 遠 く 備 中 に

去 し て い る 玄 賓 に

し 、 夏 と

二 回 、

や 法 衣 、 さ ら に は

製 詩 を 贈 っ て

問 を 続 け て い る か ら で あ る 。 こ の こ と を 示 す 記

『 日 本 後 紀 』 や 『 類

』 に

見 さ れ る が 、 そ れ を 整 理 す れ ば 次 の ご と く で

る 。

(14)

NII-Electronic Library Service 智 山学 報第五十四輯 年 月 日 西 暦 玄 賓 へ 贈 ら れ た 書 や 施 物 典 拠   大 同 四 年   四 月 二 一 日 八 〇 九 書 『 類 聚 国 史 』 一 入 五 『 日 本 逸 史 』 一 七   弘 仁 二 年   五 月 十 六 日 八 = 書 ・ 法 服 一 具 『 日 本 後 紀 』 二 一 『 類 聚 国 史 』 一 入 六   弘 仁 二 年 十 一 月 十 三 日 八 二 書 ・ 綿 百 屯 ・ 布 三 十 端 ( 法 師 、 上 表 し 謝 恩 す ) 『 類 聚 国 史 』 一 八 六   弘 仁 三 年   五 月 二 十 日 八 一 二 使 ・ 法 服 ・ 布 三 十 端 『 類 聚 国 史 』 一 八 六   弘 仁 三 年 十 二 月   四 日 八 一 二 書 綿 布 等 物 『 類 聚 国 史 』 一 八 六   弘 仁 四 年   五 月 十 七 日 八 =一、 布 『 類 聚 国 史 』 一 八 六   弘 仁 五 年   五 月 二 二 日 八 一 四 使 御 作 詩 ・ 物 三 十 段 『 凌 雲 集 』 『 類 聚 国 史 』 一 八 六   弘 仁 七 年   五 月   五 日 八 一 六 書 白 布 三 十 端 ( 頭 陀 の 資 を 助 く ) 『 類 聚 国 史 』 一 八 六   弘 仁 七 年   八 月 二 十 日 八 一 六 勅 ( 備 中 国 哲 多 郡 の 庸 軽 減 ) 『 類 聚 国 史 』 一 八 五   弘 仁 七 年   十 月 十 二 日 八 一 六 綿 百 屯 『 類 聚 国 史 』 一 八 六   弘 仁 八 年 十 月   九 日 八 一 七 綿 一 百 屯 『 類 聚 国 史 』 一 八 六   弘 仁 九 年   六 月 十 七 日 八 一 八 哀 悼 の 御 製 詩 『 文 華 秀 麗 集 』 中   ( 不 詳 ) 勅 書 ・ 綿 五 十 屯 ・ 布 三 十 端 『 性 霊 集 』 九 一

434

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  ま ず 、

 

は 即 位 し た 天

が 玄

に 再

を 願

書 を 送 っ た

項 、

 

 

及 び

 

 

は 夏 と

に 玄

や 綿 等 を 贈 っ た

項 で あ る 。 ま た

 

玄 賓 が 修 行 し て い る 備 中 国

郡 の 庸 が

減 さ れ た

項 で あ り 、

 

は 玄

が 遷

(15)

NII-Electronic Library Service 玄賓法師の生涯 (小林)                                                                                                           ( 認 ) た

に 天 皇 が 詠 ん だ 哀 悼 の

で あ る 。 な お

 

は 空 海 代

と し て 『

霊 集 』 に 収 録 さ れ て い る 玄 賓 宛 て の

で あ る 。   こ

し た 天 皇 よ

玄 賓 へ の

が 、 当

と し て ど の

の 待 遇 で あ っ た の か を

る た め 、 試 み に 嵯 峨 天 皇 の

の 時 代 で あ る 聖 武 期 か ら

明 期 ( 七 二 四 〜 八 五

9

に お い て 、 天 皇 よ り 僧 尼 へ 下 賜 さ れ た

の 事 例 を ま と め た の が

の 表

1

で あ る 。 な お 、

と し て は

の 国 史 で あ る 『 続 日 本

』 と 『 日 本 後 紀 』 、 さ ら に は 『 類

国 史 』 を

い た 。   表 −   聖 武 期 か ら 仁 明 期 ( 七 二 四 ー 入 五 〇 ) に て 、 天 皇 よ り 僧 尼 へ 下 賜 さ れ た 施 物 年 月 日 西 暦 天 皇 対 象 施 物 備 考 ( 理 由 ・ そ の 他 ) 天 平 元 年 八 月 五 日 七 二 九 聖 武 唐 僧 道 栄 緋 色 袈 裟 ・ 物 瑞 亀 を 献 ぜ し め た 功 。 天 平 八 年 二 月 七 日 七 三 六 聖 武 入 唐 学 問 僧 玄 肪 法 師 封 一 百 戸 ・ 田 十 町 ・ 扶 翼 の 童 子 八 人 律 師 道 慈 法 師 扶 翼 の 童 子 六 人 天 平 八 年 十 月 二 日 七 三 六 聖 武 唐 僧 道 瑁 ・ 婆 羅 門 僧 菩 提 等 時 服 天 平 九 年 九 月 二 十 八 日 七 三 七 聖 武 両 京 四 畿 二 監 の 僧 正 已 下 沙 弥 尼 已 上 ・ 二 千 三 百 七 十 六 人 綿 ・ 鹽 各 々 差 あ り 。 干 魃 ↓ 天 下 太 平 の 読 経 ↓ そ の 報 奨 。 天 平 九 年 十 二 月 二 十 七 日 七 三 七 聖 武 玄 肪 法 師 絶 一 千 疋 ・ 綿 一 千 屯 ・ 絲 一 千 絢 ・ 布 一 千 端 皇 太 夫 人 ( 文 武 天 皇 の 夫 人 。 聖 武 天 皇 の 生 母 ) の 看 病。 天 平 勝 宝 元 年 十 月 十 五 日 七 四 九 孝 謙 河 内 国 寺 六 十 六 区 の 見 住 の 僧 尼 沙 弥 沙 弥 尼 絶 ・ 綿 各 々 差 あ り 。 一

435

一 N工工一Eleotronlo  Llbrary  

(16)

NII-Electronic Library Service 智 山学報第五 天 平 宝 字 四 年 八 月 二 十 二 目 七 六 〇 淳 仁 新 京 の 諸 大 小 寺 ・ 僧 綱 ・ 大 尼 ・ 諸 神 主 ・ 百 官 主 典 已 上 新 銭 各 々 差 あ り 。 天 平 宝 字 四 年 八 月 二 十 六 日 七 ⊥ ハ ○ 淳 仁 新 京 の 高 年 僧 尼 ・ 曜 蔵、 延 秀 等 三 十 四 人 施 ・ 綿 天 平 神 護 二 年 九 月 六 日 七 六 六 称 徳 近 江 国 僧 沙 弥 ・ 錦 部 藁 園 二 寺 檀 越 ・ 諸 寺 奴 等 物 官 車 ( 押 勝 追 討 軍 ) を 助 け る 。 各 々 差 あ り 。 延 暦 十 一 年 四 月 三 十 日 七 九 二 桓 武 善 珠 法 師 絶 綿 類 辞 し て 受 け ず 。 延 暦 十 六 年 正 月 二 十 二 日 七 九 七 桓 武 僧 正 善 珠 法 師 弟 子 僧 慈 厚 大 和 国 稲 三 百 束 倦 怠 な く 師 事 す る 。 同 じ 時 、 善 珠 は 早 良 親 王 の 怨 霊 に 煩 う 桓 武 天 皇 の 病 を 祈 り 僧 正 と な る 。 延 暦 十 六 年 四 月 七 日 七 九 七 桓 武 僧 延 尊 ・ 聖 基 ・ 善 行 ・ 文 延 大 和 国 稲 四 百 束 山 中 に て 苦 行 し 修 道 す 。 延 暦 二 十 一 年 二 月 二 日 八 〇 二 桓 武 智 行 二 科 僧 四 十 三 人 伽 藍 に 住 し 、 聖 教 を 研 す 。 元 興 薬 師 二 寺 僧 二 十 九 入 各 布 二 十 五 端 弘 福 寺 五 人 各 布 八 端 東 大 寺 九 人 各 絶 一 疋 ・ 綿 十 屯 延 暦 二 十 四 年 九 月 六 日 八 〇 五 桓 武 禅 師 等 衣 弘 仁 二 年 五 月 卜 六 日 八 〇 一 嵯 峨 玄 賓 法 師 書 ・ 法 服 一 具 一

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一 N工工一Eleotronlo  Llbrary  

(17)

NII-Electronic Library Service 玄賓法 師の生涯 (小林 ) 弘 仁 二 年 六 月 十 九 日 八 一 一 嵯 峨 十 三 大 寺 僧 尼 年 八 十 已 上 者 各 絶 二 疋 ・ 布 四 端 弘 仁 二 年 十 ] 月 十 三 日 八

嵯 峨 玄 賓 法 師 書 ・ 綿 百 屯 ・ 布 三 十 端 法 師、 上 表 し 謝 恩 す 。 弘 仁 二 年 十 一 月 二 十 一 日 八 一 一 嵯 峨 聴 福 法 師 書 ・ 綿 百 屯 ・ 布 三 十 端 桓 武 天 皇 の 御 病 平 癒 の た め 、 三 重 塔 建 立 。 頭 陀 の 資 に 充 て る 。 弘 仁 三 年 五 月 二 十 日 八 一 二 嵯 峨 玄 賓 法 師 使 ・ 法 服 ・ 布 三 十 端 弘 仁 三 年 十 二 月 二 日 八 一 二 嵯 峨 七 大 寺 常 住 僧 并 内 供 奉 十 禅 師 調 綿 一 万 五 百 屯 弘 仁 三 年 十 二 月 四 日 八 一 二 嵯 峨 玄 賓 法 師 書 ・ 綿 布 等 物 弘 仁 四 年 五 月 十 七 日 八 = 二 嵯 峨 玄 賓 法 師 書 ・ 布 弘 仁 四 年 十 一 月 二 十 入 日 八 一 三 嵯 峨 故 伝 灯 大 法 師 位 慈 賢 弟 子 僧 達 布 一 百 四 十 段 ・ 銭 一 十 一 貫 ・ 米 七 斛 師 の 遺 言 に よ り 辞 し て 受 け ず 。 勅 に よ り 強 い て 賜 う 。 弘 仁 五 年 五 月 二 十 三 日 八 一 四 嵯 峨 玄 賓 法 師 御 作 詩 ・ 施 物 三 十 段 弘 仁 五 年 六 月 十 九 日 八 一 四 嵯 峨 僧 最 澄 近 江 国 稲 四 百 束 比 叡 山 に 久 し く 住 し 学 行 共 に 勤 む 。 山 資 に 充 て る 。 弘 仁 五 年 九 月 十 一 日 八 一 四 嵯 峨 京 畿 七 道 諸 国 国 分 二 寺 僧 尼 年 八 十 已 上 毎 人 錦 二 十 屯 弘 仁 七 年 五 月 五 日 八 一 六 嵯 峨 玄 賓 法 師 書 ・ 白 布 三 十 端 頭 陀 の 資 を 助 く 。 弘 仁 七 年 十 月 十 二 日 八 一 六 嵯 峨 玄 賓 法 師 綿 百 屯 一

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NII-Electronic Library Service 智 山学 報第五 十四輯 弘 仁 八 年 十 月 一 目 八 一 七 嵯 峨 七 大 寺 常 住 僧 調 綿 一 万 三 百 屯 各 々 差 あ り 。 弘 仁 八 年 十 月 九 日 八 一 七 嵯 峨 玄 賓 法 師 綿 一 百 屯 弘 仁 八 年 十 月 二 十 一 日 八 一 七 嵯 峨 七 大 寺 常 住 僧 綿 一 万 屯 弘 仁 十 一 年 十 月 二 十 日 八 二 〇 嵯 峨 内 供 奉 十 禅 師 并 七 大 寺 僧 錦 一 万 五 百 屯 弘 仁 十 二 年 七 月 二 十 三 日 八 二 一 嵯 峨 空 海 法 師 新 銭 二 万 弘 仁 十 四 年 五 月 二 卜 日 八 二 「 淳 和 僧 綱 ・ 畿 内 諸 寺 僧 尼 智 行 有 聞 ・ 年 入 十 已 上 物 外 国 僧 尼 百 歳 巳 上 毎 人 四 斛 〃 九 十 已 上 三 斛 ク 八 十 已 上 二 斛 天 長 元 年 九 月 二 卜 七 日 八 二 四 淳 和 東 西 両 寺 ・ 口 大 寺 ・ 五 畿 内 諸 寺 常 住 僧 尼 綿 一 万 屯 天 長 六 年 十 一 月 八 日 八 二 九 淳 和 諸 大 寺 衆 僧 綿 一 万 五 百 屯 承 和 二 年 十 月 二 十 八 円 八 三 五 仁 明 京 城 及 び 平 城 の 有 名 寺 仏 僧 新 銭 四 百 万 文 寺 ご と に 内 舎 人 を 使 わ す 。   こ の

1

に よ れ ば 天 皇 か ら

〔 含 む 沙 弥 ) へ の 施

は 、 歴 代 天 皇 の 中 で も 嵯 峨 天 皇

が 最 も

く 、 さ ら に 嵯 峨 期 の 中 で も 、

へ の 件 数 が

い こ と が 知 ら れ る 。   つ ま り 嵯 峨 期 に 限 っ て み れ ば 、 僧 一 人 が 施

を 賜 っ た

例 と し て 、 玄 賓 法 師 が 九 回 と 抜 き ん 出 て お り 、 概 ね 年 二 回 斗 薮 ( 頭 陀 ) の 資 糧 と し て 綿 百 屯 と

三 十

ほ ど を 、 親 書 と 共 に 賜 っ て い る 。 以 下 、 聴 福 法 師 ・ 僧

・ 空 海 一 

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師 ・

の 弟 子

達 が そ れ ぞ れ 一 回 の 施 物 を 受 け て い る が 、

師 は 玄

と 同

の 求

者 で あ っ た と 見 え 、 桓 武 天 皇 の

病 平 癒 の た め に 三 重 塔 を 建 立 し た

に よ

、 斗 薮 ( 頭 陀 ) の

と し て

綿

百 屯 ・ 布 三 十

与 さ れ た 。 ま た 僧 最 澄 は 、 比 叡 山 に 久 し く 住 し 学 行 共 に

ん だ と し て 、 近 江 国 の 稲 四 百

が そ の 山

に 充 て ら れ 、 空

師 は 理 由 は 不 明 で あ る が 、 新 銭 二 万 を 賜 っ て い る 。 さ ら に ま た 故

灯 大 法 師 位 慈

子 僧 達 に は 、 布 一 百 四 十 段 ・ 銭 一 十 一

・ 米 七

が 贈 ら れ た が 、 師 の 遺 言 に よ り 辞 し て 受 け

に よ り 強 い て 下 賜 さ れ た と い う 。 一

、 七 大

常 住

や 内 供

十 禅 師 に 施 物 が 下 賜 さ れ た

例 が 、 合

四 回 見 え 、 そ の 度

綿

一 万 屯 以 上 が 施 与 さ れ て い る 。 さ ら に

に は

の 僧 尼 へ の 配

が 窺 え 、 十 三 大 寺 の

尼 で 八 十 歳 以 上 の 者 諸 国 国 分

の 僧 尼 で 八 十

以 上 の 者 に も 、 そ れ ぞ れ 一 回 の 施

が な さ れ て い る 。 こ の 表 に よ

、 嵯 峨 天 皇 が 厚 遇 し た

尼 の 具 体 例 が 知 ら れ る の で あ る が 、

し て は 格 別 と 見 て 良 い 。   ま た 、 賜 っ た 施

の 価 値 に つ い て 言 え ば 、 た と え ば 弘 仁 二

( 八 一 一 ) 十 一 月 の 例 を 挙 げ れ ば 、 玄

は 「

綿

百 屯 ・ 布 三 十 端 」 を 賜 っ て い る が 、 こ れ を 当 時 の

人 の

禄 と 比 較 す る と 、 一 439 一

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表 2   当 時 の 官 人 の 秋 冬 ( 八 月 ) の 季 禄 ( 『 国 史 大 事 典 』 『 日 本 後 紀 』 を も と に 作 成 ) 玄賓法師の生涯 (小林) 官 位 代 表 的 な 役 職 当 時 の 人 物 の 例 季 禄 の 内 容 正 一 位 太 政 大 臣 通 常 欠 員 絶 三 十 疋 ・ 綿 三 十 屯 ・ 布   一 百 端 ・ 鉄 五 十 六 廷 正 三 位 大 納 言 坂 上 田 村 麻 呂 絶 十 四 疋 ・ 綿 十 四 屯 ・ 布 四 十 二 端 ・ 鉄 三 十 二 廷 従 五 位 下 玄 蕃 寮 頭 藤 原 文 山 絶   四 疋 ・ 綿   四 屯 ・ 布     十 端 ・ 鉄     八 廷

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NII-Electronic Library Service 智山学報第五

時 の 実 力 者 の 一 人 で あ っ た 、 正 三 位 大 納 言

上 田 村 麻 呂 の

禄 に 匹 敵 、 あ る い は そ れ 以 上 と 言

る の で あ り 、 嵯

天 皇 の 玄 賓 に 対 す る 処 遇 が 、 極 め て 厚 い も の で あ っ た と 見

け ら れ る の で あ る 。   も っ と も 、

に 挙 げ た

1

は 、

に 記 録 と し て

さ れ て い る

例 を 列

し た だ け の こ と で あ

、 こ れ が ど の

度                                           ( 鐙 )

を 反 映 し た も の で あ る か 検

せ ね ば な ら な い 。 ま た 、 天 皇 が

え た 施 物 ( 綿 ・ 銭 な ど ) 、 そ の

( 一 人 の 僧 ・ 僧 の 集 団 ・ 官 大 寺 の 僧 尼 ・ 内 供 奉 十 禅 師 ・ 諸 寺 の 老 僧 な ど ) 、 そ の 理 由 ( 学 行 共 に 勤 む ・ 老 齢 な ど )

に つ い て の

細 な 分

、 さ ら に は 歴 代 天 皇 の 政

を 考

し た 上 で の 施

に つ い て の 総 合 的 な

証 が 不 可 欠 で あ り 、

め て 別 の 機 会 に

じ た い 。   た だ し 傾 向 と し て は 、 や は り 奈

か ら 平 安 初 期 に か け て の 天 皇 の 中 で も 、 嵯 峨 天 皇 は 僧 尼 へ の

物 を 比 較 的 よ

い 、 特 に 玄 賓 に 対 し て の 処 遇 は 特

さ れ る べ き も の で あ っ た と 、 概 ね の と こ ろ 認 め て 良 い の で は な い か と 考

る 。   ( 二 )

天 皇 の 玄 賓 へ の

敬 の 念  

峨 天 皇 か ら 玄 賓 へ の 待 遇 は そ の 量 と 質 の 面 か ら し て 、

峨 期 に お い て も 、 さ ら に は そ の 前 後 の 時

と 比 較 し て も

と し て 特 筆 す べ き も の で あ っ た こ と を 見 た が 、 最

に 嵯 峨 天 皇 が 玄 賓 へ 贈 っ た

書 を 挙

て 、 玄 賓 へ の

の 念 を

認 し て お き た い 。   ま ず 、 天 皇 が 即 位 し た

後 の 大 同 四

( 八 〇 九 ) 、 伯 耆 の 山

に い た 玄 賓 に 対 し て 再

っ た 親

に は 、     太 上 天 皇 ( 平 城 上 皇 ) 、

を 心 と

し 、

熙 に 慮 在 り 。 庶 績 に 憂 勤 し 、 旦 に 達 し て 寝 を 忘 る 。 旧 疾 相 い 仍

て 、     聖 体 不 予 た り 。 遂 に 乃 ち 、 裳 を 黄 屋 に 裹 げ て 、 履 を 紫 宸 に 脱 ぎ 、 神 を 玄

に 谷 ひ て 、

を 白 雲 に 託 す 。 疇

の     愛 翫 、 平 生 の 近

一 夕 に し て 、 皆 俗 穢 た り 。 仍 り て

有 り て 延

す 。 公 老 を

け て 輿 に

き 、 允 に 聖 望 に 当 た る べ し 。 朕 、

に 即 し て 、 清 風 を 耽 賞 す 。 一

の 後 、 忽 焉 と し て 数 年 た り 。

中 に 路 無 く

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表 2   当 時 の 官 人 の 秋 冬 ( 八 ) 月 の 季 禄 ( 『 国 史 大 事 典 』 『 日 本 後 紀 』 を も と に 作 )成玄賓法師の生涯(小林)官位代表的な役職当時の人物の例季禄の内容正一位太政大臣通常欠員絶三十疋・綿三十屯・布 一百 端 ・ 鉄 五 十 六 廷正三位大納言坂上田村麻呂絶十四疋・綿十四屯・布四十二端・鉄三十二廷従五位下玄蕃寮頭藤原文山絶 四疋・綿 四屯・布  十端・鉄  八廷

参照

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