NII-Electronic Library Service
玄
賓
法
師
の
生
涯
嵯
峨
天
皇
よ り の殊
遇
を
申
心
にN工工一Eleotronlo Llbrary Servloe
小
林
崇
仁
玄賓 法 師の生涯 (小林 )は
じ
め
に
奈
良 か ら 平 安 初期
に か け て の宗
教 ・ 仏 教 の あ り 方 を 研究
の 対象
と し 、 当 代 の 修 行者
に 焦 点 を当
て た 人 物 研 究 を 重 ね て い る 。特
に 法相
学 僧 であ
り
な が ら 斗薮
し て京
を 離 れ た 徳 一 、 下 野 日 光 補陀
洛 山 に 登 攀 し た 勝 道 、 あ る い は各
地 に神
宮
寺 を 建 立 し た 満 願 な ど の 研 究 を 通 じ 、 当 時 の 僧 尼 や 優 婆 塞 ・ 優婆
夷 等 に 顕著
で あ る 山林
修
行 や 雑 密 的 信 仰 、神
祇
信
仰 の 問 題 、 さ ら に は為
政 者 と求
道 者 と の 関係
な ど に 注 目 し て い る 。 最 近 で は 、 吉 野 山 の報
恩 法 師 ( 七 一 八 頃 〜 七 九 五 ) を 取 り 上げ
た 。 報 恩 は 三 十 歳 で 吉 野 山 に 入 っ て か ら約
五 十年
の 間 、 観 音 陀羅
尼 を 持 誦 し て 山林
を 斗 薮 し た修
行 僧 で あ っ た 。 晩 年 に は そ の 験 力 を認
め ら れ、 桓 武 天 皇 ら の 当 病 平 癒 を 祈 願 し 、 内供
奉
十 禅 師 に 補任
さ れ た 。 坂 上 氏 の外
護 を背
景
に 、 子嶋
寺
に 寄 進 を受
け る な ど 、桓
武 天 皇 か ら殊
遇 を 蒙 っ た 人 物 で あ っ た 。為
政 者 と 僧 侶 の 関 係 と し て は 、 元 正 ・ 聖 武前
期 に内
裏
に 供奉
し た義
淵 、 聖 武 後期
に 内道
場
に 置 か れ た 玄 肪 、 さ ら に は 孝 謙 期 の良
弁
、 称 徳 期 の 道 鏡 な ど 、 天 皇 より
特 に寵
用 さ れ た 看病
僧 が あ り 、 政 権争
い の 中 で そ れ ぞ れ 失 脚 し た421
一NII-Electronic Library Service 智 山学報 第五十四輯
り
左 遷 さ れ た と いう
。 こう
し た 政 権 と 僧 侶 と の 癒着
を 改 革 す る 意 図 で あ っ た と さ れ る 政 策 が 、 続 く光
仁 期 に お け る 十 禅 師 の 設 置 と 、 山 林 修 行 の解
禁 で あ る 。 こ れ に よ り 、 僧 尼 の清
浄 性 が より
重 視 さ れ 、 吉 野 や 熊 野 を は じ め 、 各 地 の 山 林 に 踏 み 入 っ て 修 行 す る僧
尼 が 大幅
に 増 え た と 見 ら れ る 。彼
ら は 特 に 陀羅
尼 を 持 誦 し 、 時 に は 土 地 の 民衆
に請
わ れ て 呪 を 以 て看
病 し た り 、 あ る い は 在 地 の 荒 ぶ る 神 々 を 仏法
に よ っ て 鎮 め て神
宮 寺 を 建 立す
る な ど 、各
地 に て様
々 な 活 動 を 行 い 、 山 林 や 衢巷
に 仏 教 が 浸 透 し て い く契
機 と な っ て い た 。当
時
の 為 政 者 や 民 衆 は、 山 林 修 行 に よ っ て清
浄 性 を 保 ち 、 神 力 を備
え る 有行
有 徳 の 僧 尼 に 、 国 家 や 日 々 の 安寧
を大
い に 期 待 し て い た こ と が 窺 え る が 、報
恩
は そう
し た 期待
に 応 え た僧
尼 の 典 型 で あ っ た 。 さ ら に 報 恩 に 至 っ て 顕著
と な っ た 僧 尼 の あ り 方 ( 山 林 修 行 の 重 視 、 為 政 者 と 僧 尼 の 不 即 不 離 の 関 係、 密 教 信 仰 へ の 傾 倒 ) は、伝
教大
師最
澄 や 弘法
丁 )大
師
空海
に 代表
さ れ る 平 安 初 期 の 仏 教 に も 引 き 継 が れ て ゆ く も の と推
測 し た 。 そ こ で 今 回 は 、 報 恩 の事
績 と 類 似 す る点
が 多 く 見 ら れ る 、 玄 賓 法師
( 七 三 四 頃 〜 八 一 八 ) を 取 り 上げ
た い 。 玄 賓 は 〔 2 ) 興福
寺
宣 教 の 弟 子 で 、 の ち に 法 相宗
北 寺 六 祖 の 一 人 に 数 え ら れ る 人物
で あ る 。 伯耆
国 の 山 に 入 っ て 修 道 し 、晩
年 に は 桓武
天 皇 の 要 請 を受
け て 御 病 平 癒 を 祈 願 し た 。 そ の 功 績 に よ り 大僧
都 に 補任
さ れ る が、 再 び 遁 去 し て備
中 国 に 移 り 住 ん だ と さ れ る 。 即 位 し て ま も な い 若 き嵯
峨 天 皇 は 、 す で に 七 十歳
を 超 え て な お 山 林 修 行 を 続 け る 玄賓
に 対 し て 篤 い尊
崇
の 念 を 抱 き 、 そ の処
遇 は 当時
の 他 の 僧 に 比 べ て 特 別 の も の で あ っ た 。 玄賓
は 、 後 世 の 鎌倉
初 期 に説
話 文 学 に お い て 、 か た く な に 世 間 を 厭 い 、 ひ た す ら に そ の 身 を 隠 す 遁 世僧
の 理 想像
と し て 登 場 し 、 そ の 信 仰 の機
運 が 高 ま っ た と さ れ る 。 こ れ に よ り 特 に 中 世 文 学 の 分 野 に て 玄 賓 が 取 り 上 げ ら れ て い 〔 3 ) ( 4 ) る が 、 仏 教 学 あ る い は 歴 史学
に お い て、 史 実 と し て の 玄 賓 は ほ と ん ど 注 目 さ れ て い な い 。 同 時 期 の 最 澄 や 空 海 の活
躍 に 関 心 が 注 が れ 、 そ の 蔭 に 隠 れ て し ま っ て い る 感 が あ る 。 し か し な が ら 玄 賓 は 、 空 海 が 唐 か ら 帰 朝 し た若
か り し 時、 仏 教 界 の 重鎮
と し て 嵯 峨 天 皇 か ら絶
大 な殊
遇 を 受け
る 老 僧 で あ っ た 。 そ の 玄 賓 と 嵯 峨 天 皇 と の 関 係 を 引 き 継 ぐ 一422
一 N工工一Eleotronlo LlbraryNII-Electronic Library Service の が 、 ま さ に 空 海 で あ る こ と か ら も 、 当 時 の 仏 教 を 論
ず
る 上 で 、 玄賓
は看
過 し得
な い 人物
の 一 人 で あ る 。 そ こ で 今 回 は 、 玄 賓 研 究 の導
入 と し て 、 まず
は 玄 賓 の 生 涯 を 整 理 し た 上 で 、 嵯 峨 天 皇 か ら の 処 遇 が い か に 特 別 な も の で あ っ た か を確
認 し て お き た い 。N工工一Eleotronlo Llbrary Servloe
一 、
玄
賓
の生
涯
玄賓法 師の生 涯 (小林)玄
賓
に 関 す る史
料 と し て 、 まず
玄 賓 自 身 の著
作
は 知 ら れ て い な い 。 『法
相
宗
章 疏 』 や 『注
進 法 相 宗 章 疏 』 あ る い は 『東
域 伝 灯 目録
』 と い っ た 仏教
書
籍 の 目 録 に も 、 玄賓
の 著作
は 見 ら れ な い 。 た だ し 、 同時
代 の 国 史 で あ る 『 日 本 後 紀 』 、 あ る い は 九世
紀 末 に菅
原 道 真 が 編纂
し た 『 類聚
国 史 』 に 、 玄賓
に 関 す る 記事
と 嵯 峨 天 皇 が玄
賓
に宛
て た 親 書 が 見 ら れ る 。 ま た 、 嵯 峨 天皇
の勅
選 漢 詩 集 で あ る 『凌
雲 集 』 と 『 文 華 秀 麗 集 』 に は 、嵯
峨 天皇
が 詠 じ た 玄賓
に 関す
る詩
が収
録
さ れ て い る 。 さ ら に 、後
世
に 編 ま れ た 僧伝
と し て は 、 虎 関 師 練 が 元 亨 二 年 〔 = 三 = こ に 編纂
し た 『 元亨
釈書
」 と 、 十 三 世 紀 中 頃 に 成 立 し た と さ れ る編
者
不 明 の 『 南 都 高 僧伝
』 な ど に玄
賓
伝
が 見 ら れ る 。 一方
、 鎌倉
初 期 以 降 の 「古
事
談 』 、 『 発 心集
』 、 『 閑 居 集 』 、 『 撰 集抄
』 な ど の 説 話 文 学 で は 、 玄 賓 が 遁 世 僧 の 理 想 像 と し て 描 写 さ れ て い る 。 本論
文
で は、 史 実 と し て の 玄 賓 像 を 問 題 にす
る た め、 ひ と ま ず 『 元亨
釈 書 』 の 玄賓
伝
に 従 い 、 時代
状 況 と 照 ら し な が ら そ の 生 涯 を 整 理 し て み た い 。 ( 一 ) 誕 生 〜 出家
−
天平
六年
( 七 三 四 ・ 一 歳 ) 頃 以 降1
『 元 亨 釈 書 』 の 「 感 進 」 の 項 に は、 多 武 山 を 開 い た定
慧 、東
大寺
修
二 会 の創
始者
と さ れ る実
忠、 の僧
伝 と と も に 、 「 湯 川寺
玄賓
」 の 項 が収
録 さ れ て い る 。 そ の伝
に は ま ず 、 吉 野 山 の報
恩 ら 一423
一NII-Electronic Library Service 智山学報第五 十 四輯 ( 5 )
釈
の 玄 賓 、姓
は 弓削
氏 、 内 州 の 人 な り 。 唯 識 を 興 福寺
宣 教 に 稟く
。 性 、 囂 塵 を厭
い 、行
を 鋭 く し 業 を 勤 む 。 と あ り 、 玄賓
は 河 内 国 ( 大 阪 府 東 部 ) の 弓削
氏 に 生 ま れ 、 長 じ て 興 福 寺 の 宣 教 に 唯 識 を学
ん だ と さ れ る 。 そ の 人 と な り は 、 も と よ り 世 俗 を 厭 い 、 つ と め て修
行
に 励 ん だ と いう
。 ま た 、 『 元 亨 釈 書 』 以 前 に 東 大 寺 戒壇
院 凝 然 ( 一 二 四 〇 〜 一 三 二 一 ) が著
し た 『 五 教 章 通 路 記 』 に も 、 ( 6 )宣
教 の 下 に、賢
環 大 僧 都、 玄 懐 僧 都 、 玄賓
僧 都等
有 り 。 と 記 さ れ 、 賢 環 や 玄 懐 と と も に 、 玄 賓 は宣
教
の 弟 子 と 見 な さ れ て い た こ と が 知 ら れ る 。 ( 7 ) 宣教
( 生 没 年 不 詳 ) に つ い て は 、 同 じ く 『 五 教 章 通 路 記 』 に て 、 「 日 本法
相
の 第 一 祖 師 智 鳳 法 師 、第
二義
淵 、第
三 宣 教 、第
四賢
環、 第 五 明 福 、 〈 以 下 略 〉 」 と 伝 え ら れ て い る 。 つ ま り 宣 教 は 、 中 国 法 相宗
の 第 三 祖 智 周 ( 六 六 八 〜 七 二 三 ) に 学 ん で 来朝
し た 新 羅 の 智鳳
に よ る、 い わ ゆ る 日 本 へ の 法 相第
三 伝 の嫡
流 に 連 な る学
僧 と 位 置 づ け ら れ て い ( 8 ) た 。 し か し そ の詳
し い 僧 伝 は 伝 え ら れ て い な い 。 た だ し 『 興 福寺
官 務牒
疏 』 に よ れ ば 、 特 に 河 内 国 に 宣 教 開 基 と さ ( £ れ る寺
院 が い く つ か 見 ら れ 、 宣 教 は 河 内 国 と何
ら か の 関 わり
が あ っ た も の と 推 測 さ れ る 。 さ ら に 「 宣 教 」 の 自 署 が 面 ) 記 さ れ た 『 優 婆 塞貢
進 文 』 が 伝 え ら れ 、 こ れ に よ れ ば 宣 教 は、 天 平 十 五年
( 七 四 三 ) に河
内 国 の 八 戸 史 挨 大 国 と い う 十 八 歳 の 優婆
塞 を 推 挙 し 、 そ の 得 度 を求
め た こ と が 知 ら れ る 。 こ こ に も 、 宣 教 と 河 内 国 と の 関 係 が 推 測 さ れ よう
。 宣教
と 玄 賓 の師
弟 関 係 に つ い て 、 他 に傍
証
は 見 ら れ な い の で あ る が 、 と も に 河 内 国 と 関 係 が 深 い こ と か ら 、 現 時 点 で は ひ と ま ず伝
承
の 通 り 、 玄 賓 は 興 福寺
宣 教 に 法相
唯 識 を 学 ん だ も の と 考 え て お き た い 。 と こ ろ で 、 先 に 触 れ た 宣 教 の 弟 子 で あ る 河 内 国 の 大 国 は 、 『貢
進 文 』 に よ れ ば 、 当 時 優 婆 塞 に 課 せ ら れ て い た 『最
勝
干 経 』 及 び 「法
華 経 』 の 他 に 、 『 寿命
涅
槃
経 』 三 十巻
を 読 み 、 さ ら に は 『薬
師 経 』 「 最 勝 王経
序 品 』 『観
世 音 経 』 『 心 経 』 『 三 宝 義 』 の 経 論 と 、 千 手 、 仏頂
、 金 勝 地 の 陀羅
尼 を 誦 し て 、 六 年 間 の 浄 行 を 積 ん だ と さ れ る 。若
か り し 玄賓
の素
養 を 類 推 す る 上 で、 貴 重 な 史料
で あ る 。 一424
一 N工工一Eleotronlo LlbraryNII-Electronic Library Service 玄 賓法 師の 生涯 (小林 ) ま た 、 同 じ く
宣
教
の 弟 子 で 、 凝 然 に よ れ ば 日 本 法 相 第 四 祖 と さ れ る 賢 環 ( 七 〇 五 〜 七 九 三 ) は 、 天平
勝 宝 七年
( 七 五 五 ) に 鑑 真 よ り具
足 戒 を受
け 、 そ の 時 が 日 本 で の 登壇
受 戒 の 初 め と さ れ る 人 物 で あ る 。賢
環 も玄
賓
と 同様
、 も と より
苦 行 し て 修道
に 励 ん だ と さ れ 、 大 和室
生寺
の 経 営 、伊
勢多
度神
宮寺
へ の 三 重塔
建 立、 平安
遷 都 の 勝 地 占定
な ど ( 11 > で知
ら れ る 。 山 林修
行 、 神 祇信
仰 と い っ た観
点 か ら も 、賢
環 の事
績
は 興 味 深 い 問題
で あ り 、今
後 の 課 題 と し て お き た い 。 な お 、 玄賓
の 生年
に つ い て は 、 諸 史料
に 「 弘仁
九年
卒
。 八十
余
。 」 とあ
り 、 確 定 は し な い が 、 こ こ で は仮
に 『 僧 ( 瓰 )綱
補
任
』の
「 八
十
五 」 と いう
朱
書 の 説 を採
用 し 、 天 平 六年
( 七 三 四 ) 頃 の 生 ま れ と し て お く 。 以 下 に 記載
す る 玄賓
の年
齢 に つ い て は 、 前 後 四 歳 程 の 幅 を考
慮
さ れ た い 。 ( 二 ) 伯耆
国 の 山 へ 入 る1
宝 亀 元年
( 七 七 〇 ・ 三 七 歳 ) 以 降ー
『 元 亨釈
書
』 の 「 玄賓
伝
」 は さ ら に 続 け て 、 奮 )嘗
て 緇 侶 の 僧官
を 営 む を 患 ひ 、 ま た 族 人 道 鏡 の 称 徳帝
に 媚 る を 疾 み て、潜
か に 伯 州 の 山 へ 入 る 。 と伝
え る 。 つ ま り玄
賓
は 、僧
侶
が 僧 官 に 就 く こ と 、 さ ら に は 同 族 の 道鏡
が 称徳
天 皇 に 媚 び た こ と を 憂 え て 、 伯耆
国 ( 鳥 取 県 西 部 ) の 山 へ 入 っ た と す る 。 弓削
の 道 鏡 ( ? 〜 七 七 二 ) は 、 宣 教 の師
でも
あ る義
淵 ( ? ー 七 二 八 ) に法
相
を 学 び 、葛
木
山 に て 如 意 輪 法 な ど を 修行
し た と さ れ る 。 天 平 宝 字 六年
( 七 六 二 ) に 近 江保
良
宮
に て 孝謙
上 皇 の 御 病 を 看 病 し 、 上 皇 の 信任
を得
る と 、 翌 七年
( 七 六 三 ) に は 少僧
都 、 さ ら に は 大臣
禅 師、 太 政 大 臣 禅師
、 そ し て 天平
神
護 二年
( 七 六 六 ) に は法
王 に 任 ぜ ら れ た 。 さ ら に 重 祚 し た称
徳 天 皇 の寵
を背
景
に 勢力
を伸
ば し 、 神 護 景 雲 三年
( 七 六 九 ) に は宇
佐
八 幡 宮 の 神 託 に より
皇 位 を 狙う
ほ ど で あ っ た 。 た だ し そ れ は藤
原 氏 や和
気
氏 に よ っ て 阻止
さ れ 、 宝 亀 元年
( 七 七 〇 ) に 称 徳 天 皇 が 崩御
す る と 、 一425
一 N工工一Eleotronlo LlbraryNII-Electronic Library Service 智山学報 第五十四輯 ( 邑 道 鏡 は 下 野 の
薬
師 寺 に 左 遷 さ れ 、 翌 々 宝 亀 三 年 ( 七 七 二 ) に 同寺
で 没 し た 。 称 徳 天 皇 が崩
御
し 光 仁 天 皇 ( 七 〇 九 〜 七 八 一 ・ 在 位 七 七 〇 〜 七 八 一 ) が 即 位 す る と 、 僧 綱 はす
ぐ さ ま 上 表 し 、 一 時 禁 〔 芭 ( 16 ) じ ら れ て い た 山 林 修行
が 解禁
さ れ る 。 ま た 、 光 仁 天 皇 は持
戒 や看
病
に 秀 で た修
行
者 に 供 養 を与
え て 十 禅 師 と し 、 僧 尼 の浄
行 性 を よ り 重 視 し て い る 。 こ れ ら 光仁
期 の 山 林 修行
の 解禁
、 山 林 浄 行僧
の 奨 励 は 、 政権
と 僧 尼 と の 癒 着 を 改 ( 17 ) め る 政策
と さ れ る が 、 こ れ を背
景 に 山 林 修行
は 再 び 盛 ん と な る 。 玄 賓 が 伯 耆 国 の 山 へ 入 っ た の は 、 ま さ に こ の 時 と 伝 承 さ れ る の で あ る 。 な お 、 こ こ に い う 「伯
耆 国 の 山 」 と は 、 中 国 地方
最 大 の 霊 山 で、 役 行者
、 金 連 、 円仁
な ど の 開 山 伝 承 が あ る 大 山 ( 一 七 二 九M
) が 最 も 有 力 な 候 補 と な る だ ろう
。 後 に 述 べ る が 、弘
仁年
間 の 末 、 玄 賓 は 伯耆
大 山 の 西 方 に位
置 す る伯
耆 国会
見
郡 に 阿 弥 陀寺
を建
立 し て い る か ら で あ る 。 さ て 、 玄賓
が 道鏡
と 同 じ 弓削
氏 の 出 身 で あ り 、 そ れ を憂
え て伯
耆 の 山 へ 入 っ た と の 伝 承 は 、他
に 確 証 が な く 、 現 〔 18 ) 時点
で は 不詳
と せざ
る を 得 な い 。 た だ し 、 栄 原永
遠 男 氏 の 研 究 に 、 一 つ の 検討
の 糸 口 を 見 い だす
こ と が で き る 。 つ ま り 、 天 平 宝 字 六年
( 七 六 二 ) とも
に 保良
宮 に あ っ た 淳 仁 天 皇 と孝
謙
太 上 天 皇 と の 関係
は 、 道鏡
問 題 を き っ か け に 決裂
す
る の で あ る が、 栄 原 氏 に よ れ ば 、 そ の 政 治 的 対 立 を 反 映 し て 、奉
写 大般
若
経所
に お い て も 、 仲 麻 呂派
と 孝謙
派 が拮
抗 し て い た と い う 。 つ ま り こ の 時 、 仲 麻 呂 派 は 少僧
都 慈 訓 の 宣 に よ り 『 大 般若
経
』 二部
千
二 百 巻 の 写 経 事 業 を進
め 、 一 方 の孝
謙
派 は 道 鏡 や 法勤
尼 の 宣 に よ り 『 仁 王 経 疏 』 十部
五 十 巻 と 、 『 灌頂
経
』 十 二部
百 四 十 四 巻 の 写 経 を行
っ て い た と いう
の で あ る 。 こ こ で孝
謙−
道
鏡
一 派 に お い て 、 『灌
頂 経 』 が 写 経 さ れ て い た こ と に 注 目 し た い 。 と いう
の も 、後
述 す る よ う に、 延暦
二 十 四 年 ( 八 〇 五 ) 桓 武 天 皇 の御
病
に 際 し 、 玄賓
が 招請
を受
け た 四 日 後 、 殿 上 に て 「 灌 頂 法 」 が 行 ぜ ら れ て い る か ら で あ る 。 こ の 「 灌 頂 法 」 と は 、密
教 で 言う
い わ ゆ る灌
頂
と は 異 な り 、 『 灌 頂経
』 に 基 づく
何 か し ら の 修 法 と ( P )見
ら れ て い る 。 写経
が 完 成 し た 『 灌 頂経
』 十 二 部 は 、内
裏
に 八部
、 興 福 寺 と 元興
寺
に 一 部 ず つ奉
請 さ れ 、 残 る 二 部 一426
一 N工工一Eleotronlo LlbraryNII-Electronic Library Service 玄賓法 師の生涯 (小林 ) は 香 山
薬
寺
と 東 大寺
に 一部
ず つ奉
請
さ れ た と いう
こ と か ら 、 『 灌 頂 経 』 は孝
謙
上 皇−
道鏡
一派
、 と り わ け法
相
宗
の 僧 尼 周 辺 に て 重視
さ れ た こ と が窺
え る 。 果 た し て 延 暦 二 十 四年
の 「 灌 頂法
」 が 玄賓
に よ っ て行
わ れ た の か 不 明 で は あ る が 、 玄 賓 と 道 鏡 に 関す
る 伝承
、 道 鏡 と 『灌
頂
経 』 と の 関係
を 考 慮 す れ ば 、 興福
寺
僧
で あ る 玄賓
が 「 灌 頂法
」 を 行 じ た 可 能 性 は 十 分 に あ り 得 る こ と で あ る 。 逆 に 玄賓
が 「 灌 頂 法 」 を行
じ た こ と が事
実 で あ る とす
れ ば 、 玄賓
と 道 鏡 の 関 係 も より
深
い こ と が 想 定 さ れ 、 玄賓
が 伯耆
国 の 山 へ 入 っ た 理 由 も 、 や はり
伝
承 通 り に 道 鏡 の 左 遷 が契
機 と な っ て い る こ と は 、 十分
に 想 像 し得
る と こ ろ で あ る 。 玄賓
の 出 自 、 さ ら に伯
耆 の 山 へ の 入 峰 の 理 由 に つ い て 、 そ の 真相
は 不詳
で あ る 。 た だ し い ず れ に し て も 、 宝 亀 年 ( 20 ) 間 以 降 、 十 禅師
広 達 や永
興 の事
例 に 見 ら れ る ご とく
、 特 に 陀羅
尼 を 持誦
し て 、 熊野
や吉
野 を は じ め 深 山 に 踏 み 入 り 、 時 に は 民 衆 に請
わ れ て 呪 を 以 て 看 病 し 、 あ る い は檀
越 を得
て 堂 宇 を 建 立 す る な ど 、各
地 に て様
々 な 活 動 を行
っ た 僧 尼 が 増 え て い く こ と は 明 ら か で あ り 、 一方
で は法
相
宗 の徳
一 や 報 恩 が 、 若 く し て京
を 離 れ て斗
薮 し 、 そ の後
の 数 十 ( 21 )年
に わ た っ て 地 方 の 山 林 を 拠 点 と し て 修 道 し て い る こ と か ら し て、 三 十 代 後 半 の 玄 賓 も 彼 ら と 同 様 に 、 伯耆
の 山 へ斗
薮 し 、 以 後 少 なく
と も 三 十年
近 く 山 林 に て 修行
に 励 ん だ こ と は 史 実 と 見 て 良 い だ ろう
。 な お 、 そ の 間 の行
状 に つ い て は 、 『 発 心 集 』 や 『 閑 居 友 』 な ど の説
話 集 に て、 ひ たす
ら に 世 間 か ら身
を 隠 す 隠 遁僧
と し て の 玄 賓 が描
写
さ れ て い る 。 特 に 三 輪 川 ( 大 神 神 社 で 知 ら れ る 桜 井 市 三 輪 あ た り ) の ほ と り に 草 庵 を結
ん だ と の伝
承 は 、 当 時 の 神 仏 交 渉史
を 考え
る 上 で 興 味 深 い が 、史
実
と し て は 他 に確
証 が な い 。 同 時 期 に各
地 を 遍 歴 し て神
宮 ( 盥 )寺
を 建 立 し た 満 願 な ど と の 比 較検
討 が 可 能 であ
ろ う が 、今
後 の 課 題 と し て お き た い 。 ( 三 )桓
武 天皇
の 御 病 平 癒 を 祈 るー
延 暦 二 十 四年
( 八 〇 五 ・ 七 二 歳 ) 三 月1
お そ ら く は 伯耆
国 の 山 を 中心
に修
道 を 積 ん で い た で あ ろう
玄 賓 が 、 再 び 史料
上 に て 語 ら れ る の は 、 す で に 老 齢 の 一 427 一 N工工一Eleotronlo LlbraryNII-Electronic Library Service 智山学報第五 十 四輯 域 に
達
し た 晩年
の こ と で あ る 。 つ ま り 『 日本
後 紀 』 に 、 ( お ) 延 暦 二 十 四年
三 月 壬 辰 。 使 を伯
耆 国 に 遣 わ し、 玄 賓法
師 を 請 ふ 。丙
申 。 殿 上 に 於 て 灌頂
法 を 行ず
。 と あ り 、 延 暦 二 十 四 年 ( 八 〇 五 ) 、 七 十 二 歳 の 玄 賓 が 伯 耆 よ り 招請
さ れ た こ と が知
ら れ る 。 こ の 時 の様
子 を 『 元 亨 釈 書 』 は 、 桓 武 帝 病 有 り 、 遠 く 山 中 に 詔 し て 冥 助 を 乞 は せ た ま ふ 。 至 化 遁 れ 難 く 乃 ち鉢
嚢
を 負 う て都
に 入 る 。 上 の 疾 愈 ゆ 。 藪 ) 辞 し て 山 へ 帰 る 。 と 伝 え 、 桓 武 天 皇 の 御 病 を 平 癒 す る た め に 、 遠 く 山 中 に い る 玄賓
を 召 し て、 そ の 冥 加 を 乞 う た と さ れ る 。 そ し て 要請
を 受 け た 玄 賓 は や む な く 上京
し 、 平 癒 を 果 た し て 再 び 山 林 に 帰 っ た と いう
。 当時
は 光 仁 天皇
を継
い だ 桓 武 天 皇 ( 七 三 七 〜 八 〇 六 ・ 在 位 七 八 一 〜 八 〇 六 ) の晩
年 に あ た り 、 翌 年 大 同 元 年 ( 八 〇 六 ) 三 月 に 崩 御 さ れ る ま で の 約 一年
余 り 、 天 皇 は 大 い に 患 っ た 様 子 で あ る 。 特 に 延 暦 四年
( 七 八 五 ) の藤
原 種 継 暗 殺事
件 を き っ か け に 廃 し た 早良
親
王 へ の 想 い は 尋 常 で な く 、 そ の怨
霊 に 悩 ま さ れ た こ と を 窺 う こ と が で き る 。 こ の 問 に 、 病 気 を 平 癒 す る た め 、 さ ら に は そ の 因 縁 と さ れ た 早 良 親 王 の 怨 霊 を 鎮 め る た め 、 読経
や修
法
な ど の 仏 事 、 あ 躬 ) る い は 奉 幣 な ど の 神事
が 頻 繁 に行
わ れ て い た 。 『 元 亨 釈 書 』 が伝
え る ご とく
、 延 暦 二 十 四年
三 月 の 玄 賓 の 招 請 も、 そ れ ら 一 連 の 御 病 平 癒 に 関 わ るも
の で あ っ た と 見 て 差 し 支 え な い だ ろう
。 一428
一N工工一Eleotronlo Llbrary Servloe
( 四 ) 度 人 を 賜 る
1
延暦
二 十 四 年 ( 八 〇 五 ・ 七 二 歳 ) 七 月1
こ の 玄 賓 の 修 法 に は 、何
か し ら の 効 験 が あ っ た と 見 え る 。 つ ま り 『 日本
後 紀 』 に は 、 延 暦 二 十 四年
七 月 壬午
。伝
灯
大 法 師 位常
騰 、 安 曁 、 玄 賓等
三 十 七 人 、 井 び に 三 品 美 努 摩 内親
王 に 度 五 十 九 人 を ( 册 ) 賜う
。 人毎
に 三 人 已 下、 一 人 已 上 な り 。NII-Electronic Library Service 玄賓法師の生涯 (小林) と 記 さ れ 、 玄
賓
の 修 法 か ら 四 ヶ 月 後 の 七 月 に は 、 え ら れ て い る か ら で あ る 。 玄賓
ら 三 十 八 人 に 、 一 人 あ た り 三 人 か ら 一 人 の範
囲 で 、 度 人 が与
( 五 )大
僧 都 に 補 任 さ れ る1
大 同 元 年 ( 八 〇 六 ・ 七 三 歳 ) 四 月ー
さ ら に 『 日 本 後 紀 』 に は 、 ( 勿 ) 大 同 元 年 四 月 丙 辰 。大
法
師 玄 賓 を 大 僧都
と す 。 と あ り 、桓
武 天 皇 が 崩御
し 、 次 い で 平 城 天 皇 ( 七 七 四 〜 入 二 四 ・ 在 位 入 〇 六 〜 八 〇 九 ) が 即位
し た直
後
の 四 月 に 、 玄賓
が 大 僧都
に 補 任 さ れ た こ と を 記録
す
る ・ さ ら に 『僧
綱
補
任
』 に よ れ噸
以 後 八 年 の間
弘 仁 五 年 ( 八西
) ま で ・ 大 僧 都 と し て 僧 綱 に 名 を連
ね て い る 。僧
綱 は 仏 教 を統
轄 す る僧
官
で あ り 、推
古 三 十 二年
( 六 二 四 ) 、 僧 尼 を 検校
す
る た め に 、観
勒 を 僧 正 、鞍
部
徳
積 を 僧 都 に 任 じ た の が始
ま り と さ れ る 。 天 武 十 二年
( 六 八 三 ) に は律
師 も 置 か れ 、奈
良
期 に は治
部 省 玄 蕃 寮 の 下 、 京 内 の 寺 院 や僧
尼 の行
政 と 教 学振
興 に あ た っ た 。僧
綱 の 位 と し て は 、 お よ そ 僧 正 ・ 僧都
・ 律 師 の 三 位 が あ っ た が 、 僧 正 位 は 欠 員 の場
合 が多
か っ た 。桓
武 ・ 平 城 ・ 嵯 峨 天 皇 の治
世 で あ る 延 暦 ・ 大 同 ・ 弘仁
年 間 に あ っ て も、 延 暦 元年
( 七 入 二 ) か ら 同 十 六年
( 七 九 七 ) ま で 秋 篠僧
正 と称
さ れ た 善 珠 ( 七 二 三 〜 七 九 七 ) が そ の 位 に 就 い た 以外
は 、 常 に 欠 員 で あ る 。 玄賓
が 大 僧都
に 補任
さ れ た 時、事
実
上 の 上 首 は 、帰
朝 し て 梵釈
寺 に住
し た永
忠 大 僧都
( 七 四 三 〜 八 一 六 ) で あ り 、 玄 賓 は 異 例 で は あ る が律
師
を 経ず
し て そ の 次 席 に 就 い た の で あ っ た 。 ( 六 )僧
綱
を 辞 し 備 中 国 に 遁 去 す るー
大 同年
間
〔 八 〇 六 〜 八 一 〇 ∀ ま た は 弘 仁 五年
( 八 一 四 ・ 八 一 歳 )1
大 僧都
に 補 任 さ れ た 玄 賓 で あ っ た が 、 どう
も そ の当
初 よ り 、 僧 綱 所 ( 当 時 は 西 寺 ) を離
れ て い た よ う で あ る 。 れ に 関 し て 『 元亨
釈 書 』 は 、 , 」429
一 N工工一Eleotronlo LlbraryNII-Electronic Library Service 智山学報第五十四輯 ( 29 ) 大 同
帝
詔 し て 輦 下 に 返 ら し む 。 僧官
の 勅 下 る と 聞 き て 、 潜 か に 遁 れ 去 り て 備 中州
の 湯 川 寺 に往
く 。 と伝
え 、僧
綱
に 任 ず る と の 平 城 天 皇 よ り の 詔 勅 が 下 る と 聞 き 及 ん で 、 ひ そ か に 遁 去 し て 備 中 国 ( 岡 山 県 ) の 湯 川 寺 ( 製 に住
し た とす
る 。 一 方 『 僧 綱 補 任 』 に は 、 同 ( 弘 仁 ) 五年
押 大 僧 都永
忠玄 賓
髄 斌 雑 橢 肋 鬮 腸 馴 汕 寺。 少 僧 都 常 騰
如 宝 律 師
護
命
灘 駈 覗 轍長 恵 修 円
修
哲 勤 操 と あ り、 弘仁
五年
( 八 一 四 ) に備
中
国 の 湯 川 寺 へ遁
去
し た と 伝 え る 。 後 述 す る よう
に 、 嵯 峨 天 皇 は 大 同 四年
( 八 〇 九 ) に 玄 賓 へ 親書
を 送 っ て い る が、 そ の時
点 で す で に 数年
は 京洛
を 離 れ て い る旨
が 読 み取
れ る こ と か ら 、 大 同 元年
( 八 〇 六 ) か ら 弘 仁 五年
( 八 一 四 ) の 八年
間 、 僧 綱 の 職 位 に就
い て い は い た も の の 、 実 際 は そ の 当 初 か ら 僧 綱 所 を 離 れ、 備 中 国湯
川 寺 に 住 し て い た の で は な い か と 推測
さ れ る 。 ( 31 ) な お 「備
中
国 湯 川寺
」 と は 、 原 田 信 之 氏 に よ れ ば 、 岡 山 県 新 見 市 土橋
寺内
に 位 置す
る 法 皇 山湯
川寺
で あ る と いう
。 原 田 氏 は湯
川 寺 周 辺 に 今 な お 伝 承 さ れ て い る 玄賓
伝
説 を 調 査 し た 上 で 、 玄賓
は 周 辺 の 人 々 か ら 、 呪力
に す ぐ れ 、 強 い 慈悲
心 を持
ち、 精力
的 に 活 動 し た 高 僧 と し て と ら え ら れ て き た と 結 論 づ け て い る 。特
に 、 玄賓
が秘
坂 鍾 乳穴
の 石 鍾 乳 を 薬 石 と し て 採集
し 、 桓 武 天 皇 に献
上 し た と い う 伝 承 は 興 味 深 い 。 確 か に 当 地 は多
数 の 鍾 乳 洞 が 存 在 す る カ ル ス ト 台 地 が広
が り 、良
質 の 石 鍾 乳 を 採 取 し や す い場
所 で あ る 。 よ り 詳 し く検
討
す る余
地 が あ る が 、 玄 賓 が 斗薮
の 地 と し て 当地
を 選 定 し た 理 由 を 議 論 す る 上 で 、参
考
と す べ き 伝 承 と 言 え る 。 一430
N工工一Eleotronlo LlbraryNII-Electronic Library Service ( 七 )
嵯
峨 天 皇 よ り の 殊 遇−
大
同 四 年 ( 八 〇 九 ・ 七 六 歳 ) か ら 弘 仁 九 年 ( 八 一 八 ・ 八 五 歳 )i
す で に 平 城 期 に 、玄
賓
が 律 師 を 経 ず し て 大僧
都 に 補 任 さ れ た こ と か ら し て 、 当 時 の 為 政 者 が 玄賓
を 重 ん じ て い た で あ ろう
こ と は 想 像 に難
く
な い 。 そ し て 平 城 天 皇 に 次 い で 即位
し た 嵯峨
天皇
( 七 八 六 〜 八 四 二 ・ 在 位 八 〇 九 〜 八 二 三 ) も 、僧
綱 所 を 離 れ 遠く
備
中
に 住 す る 玄賓
を 尊崇
し 、 玄 賓 が 示寂
す る ま で 並 々 な ら ぬ 処 遇 を与
え て い る 。 こ の こ と に つ い て ま ず 『 元 亨 釈書
』 は 、 ( 記 ) 弘仁
帝 、其
の 操履
を貴
び 、 詔 問 絶 え ず 。毎
年
布 を 贈 り た ま ふ 。 と し 、 嵯 峨 天 皇 が 玄賓
の品
行
を尊
敬 し 、 修 行 の無
事
を尋
ね て毎
年
の よう
に布
を 贈 っ た と 伝 え て い る 。 嵯 峨 天 皇 は 、 体 調 が 思 わ し く な い 平 城 天 皇 の 譲 位 に よ り 、 大 同 四年
( 八 〇 九 ) 四 月 一 日 に 即 位 す る の で あ る が 、 そ の 二 十 日 後 、 平 城 上皇
の御
病 平 癒 を 理 由 に 玄賓
へ 親書
を 送 り 、 再 見 を 願 っ て い る 。 そ れ 以 後 、夏
と冬
の 年 二 回 、書
や 御 製 詩 、 布 や法
衣等
を贈
っ て 存 問 を続
け て お り 、 『 日 本 後 紀 』 や 『 類 聚国
史
』 に そ の 記事
が散
見
さ れ る 。 こ の件
に 関 し て は 、 後 ほ ど詳
しく
検 討 し た い 。 一431
一N工工一Eleotronlo Llbrary Servloe
玄 賓法 師の 生涯 (小林〉 ( 八 ) 玄
賓
が 住 し た 郷 の 租 庸 の 軽減
−
弘
仁 七年
( 八 一 六 ・ 八 三 歳 ) 、貞
観
七 年 ( 八 六 五 ・ 滅 後 四 + 七 年 )1
さ ら に 、 九 世 紀末
に 菅 原道
真
に よ り 編纂
さ れ た 『 類 聚 国 史 』 は 、 当 時 の 国 史 で あ る 『 日 本 後 紀 』 の 欠 佚 部 を 補 う な ど 貴 重 な 史料
で あ る が 、 そ の 「 仏 道 部 ・ 高 僧 」 の 項 に 、 弘 仁 七年
八 月 癸 丑 。 勅 し た ま わ く 、 玄 賓 法 師 、 備 中 国 哲多
郡 に 住 し 、 苦 行 す る に 日 久 し 。 利 益称
す
べ し 。 宜 し ( お ) く 法 師 の住
し存
生 の 時 間 、彼
の 郡 の 庸 は米
を停
め て 鉄 を 進 む べ し 。 以 て 民 費 を 省 か ん 。 と 記 さ れ て い る 。 玄賓
が 備 中 国哲
多 郡 に 住 し、 日 々 に 苦行
を 積 ん で い る 利 益 を称
讃 し 、 玄 賓 の 存命
中 、 当 郡 の 庸 に つ い て は 米 で な く 鉄 を 納 め る よう
に と あ る 。 岡 山 県 の 北 西 端、 高梁
川 の 上 流 域 に あ た る 当 地 は 、 古 く か ら 砂 鉄 の 産NII-Electronic Library Service 智山学 報第五十 四輯 地 と し て
知
ら れ 、 現在
で も 鉄 鉱業
が 盛 ん な 地 域 で あ る 。 玄賓
の 偉 業 を 称 え て 実質
的 に 庸 が 軽 減 さ れ た と 見 え 、 周 辺 の 民 衆 も そ の 恩 恵 を蒙
っ た こ と が 推 測 さ れ る 。 加 え て 、 藤 原 時 平 ・ 大蔵
善 行 ら に よ り 延喜
元年
( 九 〇 一 ) に 撰 上 さ れ た、 六 国 史 最 後 の 書 で あ る 『 三 代 実録
』 に は 、 貞観
七 年 八 月 廿 四 壬申
。 〈 … 中 略 … 〉昔
弘
仁
の末
、 沙 門 玄賓
は 伯 耆 国 会 見 郡 に 於 て 、 阿 弥 陀寺
を 建 立 し 、 是 に ( 鈎 ) 至 る 。 勅 し た ま わ く、 永 く寺
田 十 二 町 九 段 四 十 歩 の 租 を免
ず
。 本 国内
の 百姓
の 施 入 す る 所 な り 。 と あ り 、 か つ て 玄賓
が 建 立 し た 伯 耆 国会
見 郡 の 阿 弥 陀寺
に つ い て 、 そ の寺
田 十 二 町 九 段 四 十 歩 の租
が 永 く 免 ぜ ら れ た と 伝 え る 。 「 阿 弥 陀 寺 」 の 所 在 地 に つ い て は 、 大 山 の 阿 弥 陀 堂 と す る 説 、 現 西 伯 町 下 中 谷 の賀
祥 に 比 定 す る 説 な 露 ) ど あ り 、確
定
し て い な い 。 当 時 す で に 嵯 峨 上 皇 も崩
御
し 、 曾 孫 にあ
た る 清 和 天皇
( 八 五 〇 〜 八 八 〇 ・ 在 位 八 五 八 ー 八 七 六 ) の 治 世 で あ っ た が 、 玄賓
の 遷化
か ら 四 十 七年
を 経 て も な お 、 そ の遺
徳
が偲
ば れ て お り 、朝
廷
に お け る 玄 賓 へ の 尊崇
が 、 極 め て篤
か っ た こ と が 推 測 さ れ る 。 一432
一N工工一Eleotronlo Llbrary Servloe
( 九 ) 遷 化
ー
弘 仁 九 年 ( 八 一 八 ・ 八 五 歳 )1
玄賓
の 遷化
に 関 し て は 、 六 国 史 の抄
出 と し て 十 一 世 紀 後 半 か ら 十 二 世紀
頃成
立 し た と さ れ る 『 日 本 紀 略 』 に 、 ( 謁 ) 弘 仁 九年
⊥ ハ 月 己 巳 。 伝灯
大 法師
玄
賓
卒 す 。 春秋
八 卜 有余
な り 。 と あ る 。 示寂
地 に つ い て 諸史
料 に 記載
は な い が 、 原 田 信 之 氏 は備
中
国 の 玄賓
庵
跡 ( 岡 山 県 小 田 郡 矢 掛 町 小 林 ) 周 辺 に 伝 わ る 終焉
地 伝 承 を 紹 介 し て い る 。当
地 付 近 に は奈
良 期 に 東 大寺
三 綱 で あ っ た 承 天 大 和尚
の 開 基 と さ れ る 大通
寺
が あ る な ど 、 南都
と の 間 に 深 い 関 係 が あ り、 そ れ が 当 地 の 玄 賓 伝 説 に何
か し ら の 影 響 を与
え た も の と 推定
さ れ て い ( 訂 ) る 。NII-Electronic Library Service 玄 賓 遷 化 の 知 ら せ は 天 皇 の も と に 届 け ら れ 、 の 詩 が 『 文 華 秀 麗
集
』 に収
録 さ れ て い る 。 こ の 時 、嵯
峨 天 皇 は 自 ら 哀 悼 の 詩 を詠
ん で おり
、後
述 す る よう
に そ 二 、嵯
峨
天
皇
よ
り
の殊
遇
の状
況
N工工一Eleotronlo Llbrary Servloe
以 上 、 玄 賓 の 生
涯
を 概 観 し た が 、 そ の 生 涯 の ほ と ん ど を 伯 耆 や 備前
の 山 林 に て 修 道 を 積 ん だ 修行
僧 で あ っ た と 推 察 さ れ る 。 朝 廷 は 玄賓
を 重 用 し 、 天 皇 の 御病
平 癒 に し ば し ば 招 請 し 、 つ い に は 大 僧 都 に 補 任 し て い る 。 し か し 、 も と より
世俗
を 厭 い 、 つ と め て 修 道 に 励 ん だ 玄賓
は 、 僧 綱所
を 離 れ て 再 び 山 林 に そ の 身 を 置 い た 。 そう
し た 玄賓
の 清 風 に 、嵯
峨 天 皇 は 篤 い尊
崇 の 念 を 抱 き 、 殊 遇 を 与 え て い る の で あ る 。 そ の 生 涯 に は 、 興 味 深 い 問 題 も 多 々 あ る が 別 稿 に譲
り
、 今 回 は 玄賓
研
究 の 準 備 作 業 と し て 、 まず
は そ の 処 遇 に 焦 点 を 当 て 、 そ れ が 当 時 に お い て 、 い か に 特別
な も の で あ っ た の か 、 さ ら に は 天 皇 が い か に玄
賓
を尊
崇
し て い た の か を確
認 し て お き た い 。 一433
一 玄賓法 師の 生涯 (小 林) ( こ嵯
峨 天 皇 よ り の 施 物 嵯 峨 天皇
は 、 二 十 四歳
に し て 即位
し た 。 そ の直
後
の 大 同 四 年 ( 八 〇 九 ) 四 月 二 十 一 日 、 天 皇 は 玄 賓 の も と へ 、 再 会 を 願う
熱
烈
な 親 書 を 送 っ て い る 。 そ の 再 会 が実
現 し た か 知 る 由 は な い が 、 お そ ら く は 再 会 が果
た さ れ 、 天皇
は 玄賓
へ の尊
崇
の 念 を い っ そう
深 め た の で は な か ろう
か 。 な ぜ な ら 、 そ の 後玄
賓
が 八 十余
歳
で 遷化
す る 弘 仁 九年
( 八 一 八 ) ま で の約
十年
間 、 天皇
は 遠 く 備 中 に遁
去 し て い る 玄 賓 に対
し 、 夏 と冬
の年
二 回 、布
や 法 衣 、 さ ら に は書
や御
製 詩 を 贈 っ て存
問 を 続 け て い る か ら で あ る 。 こ の こ と を 示 す 記事
は、 『 日 本 後 紀 』 や 『 類聚
国
史
』 に散
見 さ れ る が 、 そ れ を 整 理 す れ ば 次 の ご と く であ
る 。NII-Electronic Library Service 智 山学 報第五十四輯 年 月 日 西 暦 玄 賓 へ 贈 ら れ た 書 や 施 物 典 拠 大 同 四 年 四 月 二 一 日 八 〇 九 書 『 類 聚 国 史 』 一 入 五 『 日 本 逸 史 』 一 七 弘 仁 二 年 五 月 十 六 日 八 = 書 ・ 法 服 一 具 『 日 本 後 紀 』 二 一 『 類 聚 国 史 』 一 入 六 弘 仁 二 年 十 一 月 十 三 日 八 二 書 ・ 綿 百 屯 ・ 布 三 十 端 ( 法 師 、 上 表 し 謝 恩 す ) 『 類 聚 国 史 』 一 八 六 弘 仁 三 年 五 月 二 十 日 八 一 二 使 ・ 法 服 ・ 布 三 十 端 『 類 聚 国 史 』 一 八 六 弘 仁 三 年 十 二 月 四 日 八 一 二 書・ 綿 布 等 物 『 類 聚 国 史 』 一 八 六 弘 仁 四 年 五 月 十 七 日 八 =一、 書・ 布 『 類 聚 国 史 』 一 八 六 弘 仁 五 年 五 月 二一 二 日 八 一 四 使・ 御 作 詩 ・ 物 三 十 段 『 凌 雲 集 』 『 類 聚 国 史 』 一 八 六 弘 仁 七 年 五 月 五 日 八 一 六 書・ 白 布 三 十 端 ( 頭 陀 の 資 を 助 く ) 『 類 聚 国 史 』 一 八 六 弘 仁 七 年 八 月 二 十 日 八 一 六 勅 ( 備 中 国 哲 多 郡 の 庸 軽 減 ) 『 類 聚 国 史 』 一 八 五 弘 仁 七 年 十 月 十 二 日 八 一 六 綿 百 屯 『 類 聚 国 史 』 一 八 六 弘 仁 八 年 十 月 九 日 八 一 七 綿 一 百 屯 『 類 聚 国 史 』 一 八 六 弘 仁 九 年 六 月 十 七 日 八 一 八 哀 悼 の 御 製 詩 『 文 華 秀 麗 集 』 中 ( 不 詳 ) 勅 書 ・ 綿 五 十 屯 ・ 布 三 十 端 『 性 霊 集 』 九 一
434
一N工工一Eleotronlo Llbrary Servloe
ま ず 、
は 即 位 し た 天
皇
が 玄賓
に 再会
を 願う
親
書 を 送 っ た事
項 、〜
及 び
は 夏 と
冬
に 玄賓
へ書
や 綿 等 を 贈 っ た事
項 で あ る 。 ま たは、 玄 賓 が 修 行 し て い る 備 中 国
哲
多
郡 の 庸 が軽
減 さ れ た事
項 で あ り 、は 玄
賓
が 遷化
しNII-Electronic Library Service 玄賓法師の生涯 (小林) ( 認 ) た
時
に 天 皇 が 詠 ん だ 哀 悼 の詩
で あ る 。 な おは 空 海 代
筆
と し て 『性
霊 集 』 に 収 録 さ れ て い る 玄 賓 宛 て の勅
書
で あ る 。 こう
し た 天 皇 より
玄 賓 へ の施
物
が 、 当時
と し て ど の程
度
の 待 遇 で あ っ た の か を検
討す
る た め 、 試 み に 嵯 峨 天 皇 の前
後
の 時 代 で あ る 聖 武 期 か ら仁
明 期 ( 七 二 四 〜 八 五9
に お い て 、 天 皇 よ り 僧 尼 へ 下 賜 さ れ た施
物
の 事 例 を ま と め た の が次
の 表1
で あ る 。 な お 、典
拠
と し て は当
時
の 国 史 で あ る 『 続 日 本紀
』 と 『 日 本 後 紀 』 、 さ ら に は 『 類聚
国 史 』 を用
い た 。 表 − 聖 武 期 か ら 仁 明 期 ( 七 二 四 ー 入 五 〇 ) に て 、 天 皇 よ り 僧 尼 へ 下 賜 さ れ た 施 物 年 月 日 西 暦 天 皇 対 象 施 物 備 考 ( 理 由 ・ そ の 他 ) 天 平 元 年 八 月 五 日 七 二 九 聖 武 唐 僧 道 栄 緋 色 袈 裟 ・ 物 瑞 亀 を 献 ぜ し め た 功 。 天 平 八 年 二 月 七 日 七 三 六 聖 武 入 唐 学 問 僧 玄 肪 法 師 封 一 百 戸 ・ 田 十 町 ・ 扶 翼 の 童 子 八 人 律 師 道 慈 法 師 扶 翼 の 童 子 六 人 天 平 八 年 十 月 二 日 七 三 六 聖 武 唐 僧 道 瑁 ・ 婆 羅 門 僧 菩 提 等 時 服 天 平 九 年 九 月 二 十 八 日 七 三 七 聖 武 両 京 四 畿 二 監 の 僧 正 已 下 沙 弥 尼 已 上 ・ 二 千 三 百 七 十 六 人 綿 ・ 鹽 各 々 差 あ り 。 干 魃 ↓ 天 下 太 平 の 読 経 ↓ そ の 報 奨 。 天 平 九 年 十 二 月 二 十 七 日 七 三 七 聖 武 玄 肪 法 師 絶 一 千 疋 ・ 綿 一 千 屯 ・ 絲 一 千 絢 ・ 布 一 千 端 皇 太 夫 人 ( 文 武 天 皇 の 夫 人 。 聖 武 天 皇 の 生 母 ) の 看 病。 天 平 勝 宝 元 年 十 月 十 五 日 七 四 九 孝 謙 河 内 国 寺 六 十 六 区 の 見 住 の 僧 尼 沙 弥 沙 弥 尼 絶 ・ 綿 各 々 差 あ り 。 一435
一 N工工一Eleotronlo LlbraryNII-Electronic Library Service 智 山学報第五十四輯 天 平 宝 字 四 年 八 月 二 十 二 目 七 六 〇 淳 仁 新 京 の 諸 大 小 寺 ・ 僧 綱 ・ 大 尼 ・ 諸 神 主 ・ 百 官 主 典 已 上 新 銭 各 々 差 あ り 。 天 平 宝 字 四 年 八 月 二 十 六 日 七 ⊥ ハ ○ 淳 仁 新 京 の 高 年 僧 尼 ・ 曜 蔵、 延 秀 等 三 十 四 人 施 ・ 綿 天 平 神 護 二 年 九 月 六 日 七 六 六 称 徳 近 江 国 僧 沙 弥 ・ 錦 部 藁 園 二 寺 檀 越 ・ 諸 寺 奴 等 物 官 車 ( 押 勝 追 討 軍 ) を 助 け る 。 各 々 差 あ り 。 延 暦 十 一 年 四 月 三 十 日 七 九 二 桓 武 善 珠 法 師 絶 綿 類 辞 し て 受 け ず 。 延 暦 十 六 年 正 月 二 十 二 日 七 九 七 桓 武 僧 正 善 珠 法 師 弟 子 僧 慈 厚 大 和 国 稲 三 百 束 倦 怠 な く 師 事 す る 。 同 じ 時 、 善 珠 は 早 良 親 王 の 怨 霊 に 煩 う 桓 武 天 皇 の 病 を 祈 り 僧 正 と な る 。 延 暦 十 六 年 四 月 七 日 七 九 七 桓 武 僧 延 尊 ・ 聖 基 ・ 善 行 ・ 文 延 大 和 国 稲 四 百 束 山 中 に て 苦 行 し 修 道 す 。 延 暦 二 十 一 年 二 月 二 日 八 〇 二 桓 武 智 行 二 科 僧 四 十 三 人 伽 藍 に 住 し 、 聖 教 を 研 す 。 元 興 薬 師 二 寺 僧 二 十 九 入 各 布 二 十 五 端 弘 福 寺 五 人 各 布 八 端 東 大 寺 九 人 各 絶 一 疋 ・ 綿 十 屯 延 暦 二 十 四 年 九 月 六 日 八 〇 五 桓 武 禅 師 等 衣 弘 仁 二 年 五 月 卜 六 日 八 〇 一 嵯 峨 玄 賓 法 師 書 ・ 法 服 一 具 一
436
一 N工工一Eleotronlo LlbraryNII-Electronic Library Service 玄賓法 師の生涯 (小林 ) 弘 仁 二 年 六 月 十 九 日 八 一 一 嵯 峨 十 三 大 寺 僧 尼 年 八 十 已 上 者 各 絶 二 疋 ・ 布 四 端 弘 仁 二 年 十 ] 月 十 三 日 八
=
嵯 峨 玄 賓 法 師 書 ・ 綿 百 屯 ・ 布 三 十 端 法 師、 上 表 し 謝 恩 す 。 弘 仁 二 年 十 一 月 二 十 一 日 八 一 一 嵯 峨 聴 福 法 師 書 ・ 綿 百 屯 ・ 布 三 十 端 桓 武 天 皇 の 御 病 平 癒 の た め 、 三 重 塔 建 立 。 頭 陀 の 資 に 充 て る 。 弘 仁 三 年 五 月 二 十 日 八 一 二 嵯 峨 玄 賓 法 師 使 ・ 法 服 ・ 布 三 十 端 弘 仁 三 年 十 二 月 二 日 八 一 二 嵯 峨 七 大 寺 常 住 僧 并 内 供 奉 十 禅 師 調 綿 一 万 五 百 屯 弘 仁 三 年 十 二 月 四 日 八 一 二 嵯 峨 玄 賓 法 師 書 ・ 綿 布 等 物 弘 仁 四 年 五 月 十 七 日 八 = 二 嵯 峨 玄 賓 法 師 書 ・ 布 弘 仁 四 年 十 一 月 二 十 入 日 八 一 三 嵯 峨 故 伝 灯 大 法 師 位 慈 賢 弟 子 僧 達 布 一 百 四 十 段 ・ 銭 一 十 一 貫 ・ 米 七 斛 師 の 遺 言 に よ り 辞 し て 受 け ず 。 勅 に よ り 強 い て 賜 う 。 弘 仁 五 年 五 月 二 十 三 日 八 一 四 嵯 峨 玄 賓 法 師 御 作 詩 ・ 施 物 三 十 段 弘 仁 五 年 六 月 十 九 日 八 一 四 嵯 峨 僧 最 澄 近 江 国 稲 四 百 束 比 叡 山 に 久 し く 住 し、 学 行 共 に 勤 む 。 山 資 に 充 て る 。 弘 仁 五 年 九 月 十 一 日 八 一 四 嵯 峨 京 畿 七 道 諸 国 国 分 二 寺 僧 尼 年 八 十 已 上 毎 人 錦 二 十 屯 弘 仁 七 年 五 月 五 日 八 一 六 嵯 峨 玄 賓 法 師 書 ・ 白 布 三 十 端 頭 陀 の 資 を 助 く 。 弘 仁 七 年 十 月 十 二 日 八 一 六 嵯 峨 玄 賓 法 師 綿 百 屯 一437
一 N工工一Eleotronlo LlbraryNII-Electronic Library Service 智 山学 報第五 十四輯 弘 仁 八 年 十 月 一 目 八 一 七 嵯 峨 七 大 寺 常 住 僧 調 綿 一 万 三 百 屯 各 々 差 あ り 。 弘 仁 八 年 十 月 九 日 八 一 七 嵯 峨 玄 賓 法 師 綿 一 百 屯 弘 仁 八 年 十 月 二 十 一 日 八 一 七 嵯 峨 七 大 寺 常 住 僧 綿 一 万 屯 弘 仁 十 一 年 十 月 二 十 日 八 二 〇 嵯 峨 内 供 奉 十 禅 師 并 七 大 寺 僧 錦 一 万 五 百 屯 弘 仁 十 二 年 七 月 二 十 三 日 八 二 一 嵯 峨 空 海 法 師 新 銭 二 万 弘 仁 十 四 年 五 月 二 卜 日 八 二一 「 淳 和 僧 綱 ・ 畿 内 諸 寺 僧 尼 智 行 有 聞 ・ 年 入 十 已 上 物 外 国 僧 尼 百 歳 巳 上 毎 人 四 斛 〃 九 十 已 上 三 斛 ク 八 十 已 上 二 斛 天 長 元 年 九 月 二 卜 七 日 八 二 四 淳 和 東 西 両 寺 ・ 口 大 寺 ・ 五 畿 内 諸 寺 常 住 僧 尼 綿 一 万 屯 天 長 六 年 十 一 月 八 日 八 二 九 淳 和 諸 大 寺 衆 僧 綿 一 万 五 百 屯 承 和 二 年 十 月 二 十 八 円 八 三 五 仁 明 京 城 及 び 平 城 の 有 名 寺 仏 僧 新 銭 四 百 万 文 寺 ご と に 内 舎 人 を 使 わ す 。 こ の
表
1
に よ れ ば、 天 皇 か ら僧
尼
〔 含 む 沙 弥 ) へ の 施物
は 、 歴 代 天 皇 の 中 で も 嵯 峨 天 皇期
が 最 も多
く 、 さ ら に 嵯 峨 期 の 中 で も 、玄
賓
へ の 件 数 が最
も多
い こ と が 知 ら れ る 。 つ ま り 嵯 峨 期 に 限 っ て み れ ば 、 僧 一 人 が 施物
を 賜 っ た事
例 と し て 、 玄 賓 法 師 が 九 回 と 抜 き ん 出 て お り 、 概 ね 年 二 回、 斗 薮 ( 頭 陀 ) の 資 糧 と し て 綿 百 屯 と布
三 十端
ほ ど を 、 親 書 と 共 に 賜 っ て い る 。 以 下 、 聴 福 法 師 ・ 僧最
澄
・ 空 海 一438
一 N工工一Eleotronlo LlbraryNII-Electronic Library Service
法
師 ・慈
賢
の 弟 子僧
達 が そ れ ぞ れ 一 回 の 施 物 を 受 け て い る が 、聴
福法
師 は 玄賓
と 同様
の 求道
者 で あ っ た と 見 え 、 桓 武 天 皇 の御
病 平 癒 の た め に 三 重 塔 を 建 立 し た功
績
に より
、 斗 薮 ( 頭 陀 ) の資
と し て綿
百 屯 ・ 布 三 十端
が施
与 さ れ た 。 ま た 僧 最 澄 は 、 比 叡 山 に 久 し く 住 し 学 行 共 に勤
ん だ と し て 、 近 江 国 の 稲 四 百束
が そ の 山資
に 充 て ら れ 、 空海
法
師 は 理 由 は 不 明 で あ る が 、 新 銭 二 万 を 賜 っ て い る 。 さ ら に ま た 故伝
灯 大 法 師 位 慈賢
の弟
子 僧 達 に は 、 布 一 百 四 十 段 ・ 銭 一 十 一貫
・ 米 七斛
が 贈 ら れ た が 、 師 の 遺 言 に よ り 辞 し て 受 けず
、勅
に よ り 強 い て 下 賜 さ れ た と い う 。 一方
、 七 大寺
常 住僧
や 内 供奉
十 禅 師 に 施 物 が 下 賜 さ れ た事
例 が 、 合計
四 回 見 え 、 そ の 度毎
に綿
一 万 屯 以 上 が 施 与 さ れ て い る 。 さ ら に特
に は老
齢
の 僧 尼 へ の 配慮
が 窺 え 、 十 三 大 寺 の僧
尼 で 八 十 歳 以 上 の 者、 諸 国 国 分寺
の 僧 尼 で 八 十歳
以 上 の 者 に も 、 そ れ ぞ れ 一 回 の 施与
が な さ れ て い る 。 こ の 表 に より
、 嵯 峨 天 皇 が 厚 遇 し た僧
尼 の 具 体 例 が 知 ら れ る の で あ る が 、玄
賓
に対
し て は 格 別 と 見 て 良 い 。 ま た 、 賜 っ た 施物
の 価 値 に つ い て 言 え ば 、 た と え ば 弘 仁 二年
( 八 一 一 ) 十 一 月 の 例 を 挙 げ れ ば 、 玄賓
は 「親
書
・綿
百 屯 ・ 布 三 十 端 」 を 賜 っ て い る が 、 こ れ を 当 時 の官
人 の季
禄 と 比 較 す る と 、 一 439 一N工工一Eleotronlo Llbrary Servloe
表 2 当 時 の 官 人 の 秋 冬 ( 八 月 ) の 季 禄 ( 『 国 史 大 事 典 』 『 日 本 後 紀 』 を も と に 作 成 ) 玄賓法師の生涯 (小林) 官 位 代 表 的 な 役 職 当 時 の 人 物 の 例 季 禄 の 内 容 正 一 位 太 政 大 臣 通 常 欠 員 絶 三 十 疋 ・ 綿 三 十 屯 ・ 布 一 百 端 ・ 鉄 五 十 六 廷 正 三 位 大 納 言 坂 上 田 村 麻 呂 絶 十 四 疋 ・ 綿 十 四 屯 ・ 布 四 十 二 端 ・ 鉄 三 十 二 廷 従 五 位 下 玄 蕃 寮 頭 藤 原 文 山 絶 四 疋 ・ 綿 四 屯 ・ 布 十 端 ・ 鉄 八 廷
NII-Electronic Library Service 智山学報第五十四輯