冲永宜司著
﹃ 始原と根拠の形而上学 ﹄
北樹出版 二〇一九年三月刊A5判 四二三+二九頁 四六〇〇円+税
芦 名 定 道
意識は物質からいかにして生じるのか︒脳科学をめぐって現在改めて問われている︑脳と心との関係をめぐる諸問題も︑この物質と意識の問題系に属している︒本書﹃始原と根拠の形而上学﹄の著者は︑これまでこの難問をめぐる哲学思想を追求してきたが︑本書においては︑この意識の物質的な始原と根拠の問いを︑その問い自体に対する問いへとさらに掘り下げることを試みている︒意識の始原と根拠の問題自体を問う思索は︑根拠への問いを消滅させ︑その先にある物質と意識の未分化の次元へと通じている︒本書はこの思索の全過程について多くの議論を参照しながら丁寧に描き出しており︑読者は︑本書を通して著者の豊かな思索の世界に触れることができるであろう︒ 書評と紹介 一 本書の構成と構想
本書は︑まえがき︑序論︑あとがきを除き︑次のような三部構成になっている︒
第一部 心の根拠に向かって第一章 ﹁生命﹂はどこにあるのか第二章 創発と生命概念第三章 心はなぜ形而上学の問題となるか ││ベルクソンの議論を踏まえて第四章 経験の根拠はどこにあるか ││脳科学の知見を踏まえて第五章 概念枠としての物質と心 ││物質の決定性と自由意志をめぐって第六章 物心をめぐる諸概念の極限 ││ 思考不可能な場所から照射された ﹁私﹂﹁知識﹂﹁形而上学﹂第二部 形而上学の問いはなぜ生じるか第一章 プラグマティズムと形而上学 ││ W・ジェイムズとフェルディナンド・C・ S・シラーを中心に第二章 なぜ汎心論が帰結するのか ││ジェイムズおよび西田の純粋経験への新視角第三章 私の消滅による自由第四章 無の成立条件││そして無が無意味化する次元第五章 問いの消滅
二 アポリアの根拠としての概念枠︵第一部を中心に︶ 第一部では︑心の根拠をめぐる形而上学的議論が取り上げられるが︑導入︵第一章と第二章︶は﹁生命﹂の問題である││心と生命︑そして存在の根拠をめぐる問いは論理構造としては相互に並行している││︒生命と物質との関係については︑唯物論︵現代の進化論も︶と唯心論︵あるいは観念論︶という対照的な哲学的議論が存在しているが︑まず︑第一部第一章ではこれら二つの議論のいずれにおいても︑生命は捉え得ないことが確認される︒﹁﹃生命﹄は︑客観的にとらえようとすると向こう側に逃げて行く仕方で垣間見られる何か﹂であり︑﹁精神や主観性といった︑生命の本質と思われる何かをこちら側の支点として確保しようとすると︑その支点の中心部には何もない︑という仕方で内側へとすり抜けて行く﹂︵三六頁︶︒このすり抜けていく何かとしての﹁生命﹂を捉える試みとして参照されるのが︑ベルクソン︵﹃物質と記憶﹄﹃創造的進化﹄︶である︒ベルクソンのテキストから取り出されるのは︑﹁唯物論的実在論でも︑反対に観念論でも︑知覚と外界とを分けたからこそ︑物質が精神をいかに生み出し︑いかに両者が関係するかが問題化した﹂︵四三頁︶という洞察である︒すなわち︑﹁物質﹂︑﹁精神﹂を実体化する論理的な枠組みが︑生命をめぐる諸理論が陥ったアポリアの原因であり︑そのような概念枠以前に戻ったところで直接的に経験されるのが﹁生命﹂なのである││直接的な﹁純粋持続﹂││︵五五頁︶︒これが第一章の結論である︒なお︑著者はベルクソンについての議論がさらなる探求を要求することを忘れていない︒それは西田に比べてベルクソンでは二元論 第三部 根拠と場所││形而上学をめぐる西田哲学との対話第一章 形而上学の問いと西田場所論第二章 場所論から見たニヒリズムの問題第三章 創発主義的生命論と場所論的生命論第四章 規則が立ち現れる場所 ││ ウィトゲンシュタインと西田における 根拠なき根源についての考察第五章 矛盾と偶然││始原と秩序についての考察終 章 存在の驚きとその消滅
本書は︑三部構成の全体を通して︑物質と生命︑物質と心という概念枠を前提とした根拠の問いがアポリアに陥らざるを得ないことを示し︵主に第一部︶︑その上でこの概念枠の消滅が問いの消滅となること︵主に第二部︶︑さらにその先に未分化の次元として場所論が拓かれることが論じられる︵主に第三部︶︒また第一部ではベルクソン︵と脳科学︶が︑第二部ではジェイムズ︵とニーチェ︶が︑第三部では西田︵とウィトゲンシュタインや九鬼︶が対論の主な相手となる︒しかし︑本書は全体においてこのように議論が進められつつも︑実は各部の中に︑全体の議論︵全体構想︶が織り込まれており︑この反復が︑難解な本書の内容理解を助けるものとなっている︒そこで︑以下においては︑この全体構想を辿る仕方で︑本書における主要な議論を紹介することにしたい︒なお︑アポリアや擬似問題などの用語は︑評者が使用するものである︒
先に述べたように︑第二部で目立つのはジェイムズであり︑ここでも︑アポリアが概念枠によって生み出されることが︑次のように確認される︒私たちが本当に知っているのは直接の経験︵純粋経験︶のみであるというプラグマティズムの立場からすれば︑﹁﹃脳がクオリアを作る﹄も﹃クオリアが脳︵という概念︶を作る﹄も同等に可能な主張として成り立つはず﹂であり︑クオリアは﹁﹃物理主義を前提として︑そこに組み込まれない何か﹄︑という論理的構図の中で初めて問題化する︒その前提がないところでは︑クオリアは問題化せず︑クオリアという概念さえ生じない﹂︵一七一頁︶︒こうして︑さまざまな哲学上の難問は実は人為的な概念枠が生み出したもの︵擬似問題︶であって︑概念枠からの脱却こそが︑哲学的問い︵形而上学の問題︶の消滅になるはずだとの見通しが可能になる︒本書が視野に入れる議論は多岐にわたっているが︑ここでは︑第二部第四章におけるニーチェ論を取り上げておきたい︒ニーチェは︑私たちが合理的と考える世界︵合理的世界︶は概念枠という隠された前提をもっていることを︑知識の前提の無根拠性として曝露した哲学者として知られるが︵二二六頁︶︑本章では︑まず︑ニーチェによる原子論批判が取り上げられる︒﹁原子も私たちの︑﹃原因﹄を探し求める意図から導き出された﹂︑﹁主体とは︑変化の中でも変わらないものを求める私たちの精神的傾向に起因するとニーチェは考える︒その根本にあるのは︑馴れない変化を受け入れたくない恐怖だと︑ここでは指摘される﹂︵二三三頁︶︒ニヒリズムとは︑﹁あるべきものがないという思念の中に生じる﹂︑﹁あるべきものが特定されないならば︑ニヒリズムは が残っているという論点であるが︑こうしたことから︑著者が慎重かつ用意周到に論を進めていることがわかる︒
以上のように︑第一部第一章には︑本書の全体構想がすでに顕わに示されているが︑著者は︑続く第一部の第二章から第六章で︵そして︑第二部と第三部で︶︑さらに多くの思想家や事例を取りあげつつ︑この全体構想のヴァリエーションを展開していく︒その中には︑さまざまな哲学者の論考だけでなく︑現代の脳科学の議論が登場する︵自由意志論との関連で︑リベットの実験︑エーデルマン︑ヒックなど︶︒特に︑評者が興味深く思うのは︑創発理論が繰り返し取りあげられている点である︒創発理論は︑第一部第二章のテーマであるが︑本書の中で創発理論がもっともまとまって論じられるのは︑第三部第三章であり︵ポール・デイビス︑フィリップ・クレイトンらが論究される︶︑そこでは︑ベルクソンをはさんで︑創発主義と西田の場所論との対比が行われている︒創発主義と場所論についての著者の論述は︑双方の問題点を指摘しつつ慎重に進められているが︑﹁存在一般の問題をも消去し得る可能性を開く﹂︵三四五頁︶という点で︑著者は西田の場所論的生命論により共感していると言えよう︒
三 問いの消滅︵第二部を中心︶ 本書の全体構想のうち︑物質と生命︑物質と心という概念枠を前提とした根拠の問いがアポリアに陥らざるを得ないことについては︑第一部を中心に以上紹介した通りであるが︑次に第二部を中心に︑根拠の問いの消滅について取り上げて見よう︒
以前の次元︵未分化の次元︶について︑西田哲学の場所論との対話を通して考察することを目指している︒これが第三部のテーマにほかならない︒本書における西田解釈の目標は︑﹁合理性と形而上学的問題との両方の根源として︑西田の場所論の意義を考え直すことができる﹂︵二八一頁︶との主張に示されている︒その鍵は︑場所が術語による限定以前という性質をもつことであり︑著者は︑西田の論文の中でも難解なものの一つに数えられる論文﹁場所﹂における﹁我と非我との対立を内に包み︑いわゆる意識現象を内に成立せしめるもの﹂という場所の説明に注目する︒主客の対立を包むということは︑形而上学的問い︵根拠への問い︶の超越︑有無からの超越となるが︑この根拠への問いに生の意味や世界の意味への問いが含まれることを考えれば︑場所とはそれらの問いが生じる手前に位置し︑そこでは形而上学的問いが解消し︑﹁問題自身の根拠不在﹂が顕わになる︒先に見たニヒリズムとの関わりで言えば︑生の意味への問いが無限遡及に陥り最終的には﹁無意味無根拠﹂というニヒリズムに突き当たるのに対して︑場所は︑生の意味の根拠の問いを無化することによって︑ニヒリズム自体を解消するものとなる︒第三部では︑西田の場所論において︑概念枠の彼方としての未分化の次元が示されていることが論じられた上で︵第三部第一章と第二章︶︑先に言及した創発主義との対論︵第三章︶を経て︑ウィトゲンシュタイン︑九鬼周造らと西田との比較へ論が進められていく︒終章における︑九鬼の存在の驚きと二元的緊張の宇宙と︑それに対する西田の驚きの消滅と一元論的自然の宇宙という対比は︑本書でこれまでに扱ってきたベ 最初から成立しないことになる︒そして実はこのニヒリズム不成立の世界が︑実在の姿ではないのか︑というのが私たちの提案である﹂︵二三四頁︶︒自我存在も︑論理学的な根本原則も︑同様に私たちが生み出した仮説︑虚構であって︑それらはすべて言語構造によって発生した形而上学的問題なのである︒もちろん︑言語構造によって構築された世界にも一定の妥当性が認められる︒しかし︑﹁自らの前提と︑限られた妥当領域がありながら︑それを超えて︑それぞれの見方で宇宙の全体を説明﹂︵二四五頁︶しようとするとき︑形而上学的問題という虚構が生まれるのである︒ここでも著者は︑﹁あらゆる思想の根拠を否定して行くニーチェのような立場でさえ︑その時代から何らかの影響を受けており︑その足元には隠された前提が潜んでいる﹂︵二五五頁︶と指摘することを忘れない︒ニーチェを参照することで︑概念枠の消滅が形而上学的問いの消滅を可能にすることが明らかになったわけであるが︑思索はニーチェを超えてさらに進められねばならない︒問題なのは︑ある立場を前提にして︑別の特定の立場︵理想︶が破壊されるというニヒリズムの相対構造であり︑本書の目標は︑﹁言わば絶対的な次元での︑ニヒリズムをその内側から超越する﹂︵二五六頁︶という可能性の探究となる︒こうして議論は︑第三部の西田の場所論の検討に進むことになる︒
四 概念枠の彼方としての未分化の次元へ︵第三部を中心に︶ 本書は︑生命︑中立一元論︑純粋経験などを手がかりに︑形而上学的問いを生み出す概念枠が消滅する地点︑つまり概念化
てくる︒もし︑本書の透徹した思索を了解したとして︑これは現にニヒリズムを超えることを可能にするのだろうか︒もし可能であるとすれば︑宗教哲学は実定的な宗教の代わりをすることができるということになるだろうか︒もし反対に︑形而上学的問いやニヒリズムの解消という議論が形而上学的問いやニヒリズムの現実的な解消にそのままでは至らないとすれば︑本書の議論は形而上学的問いやニヒリズムの解明についてまだ問題を残していることになるのではないだろうか︒では︑何が残されているのか︒著者は︑こうした問いに対して︑問題は原理的には論じ尽くされたと回答するのだろうか︒
次に︑本書では︑概念枠をめぐり説得的な議論がなされているが︑特に注目された︑ベルクソン︑ジェイムズ︑西田といった系譜以外に︑議論の範囲を広げることはできないだろうか︒本書の第二部第四章の﹁四 言語構造による形而上学的問題の発生﹂︵二四三︱二五〇頁︶においては︑ニーチェの議論を掘りさげる手がかりとして︑カントの﹃純粋理性批判﹄のアンチノミーをめぐる議論が参照されている︒実際︑評者が本書を読み進める中で感じたのはカントとの類似性であった︒﹁基本的に私たちの認識の形式にすぎないものを︑世界そのものの姿だと思ってしまうこと﹂が︑相反する体系の同時成立︵根本的に対立する複数の世界像︶のアンチノミーを帰結するというカントの見立ては︑本書の全体構想の最初のステップである︑概念枠がアポリアを生じるという論点に合致している︒ドイツの古典哲学は︑このカントの思索をドイツ観念論が批判的に受け継ぐという仕方で展開したが︑ドイツ観念論の思想家たちにおい ルクソンと西田︑創発主義的生命論と場所論的生命論︵中立一元論︶といった対論の極点に位置すると言える︒示された思索の豊穣さは驚くべきものであるが︑終章で浮かび上がってきたのは︑﹁自然﹂という地平である︒﹁九鬼のように︑哲学的な﹃驚き﹄が︑存在の偶然への﹃驚き﹄だとすれば︑西田の構図は﹃驚き﹄の消滅であった︒これが﹃絶対無﹄であり︑それはまた﹃自然﹄とも言い換えられよう﹂︑﹁この﹃自然﹄の特徴は︑所謂﹃あるがまま﹄の姿をとりながら︑そこにおいて始原以前への問いや︑果ての向こうについての問いさえもが︑無効化されている﹂︵四一三頁︶︒この西田解釈の妥当性の判断は︑評者の及ぶところではないものの︑著者の思索がさらにいかなる地平を引き開くかについて期待をもって注目してゆきたい︒
五 結び︑若干のコメント 以上で︑本書の全体構想の骨子に沿ったその内容紹介は終了したが︑最後に︑若干のやや素朴なコメントをもって︑本稿を結びたい︒
まず︑本書の中心的な主張とも言える︑概念枠が形而上学的な問いというアポリア︑そしてニヒリズムを生み出すという議論は︑評者としても基本的に同意することができる︒しかし︑その上で︑特に宗教という視点から問いたいのは︑このような議論とアポリアあるいはニヒリズムの解消との関わりである︒形而上学的な問題やニヒリズムの根源が理解できることと︑それを現に乗り越えることとの間には決定的な距離があるのではないか︒これは︑宗教哲学という知的な営みの意義にも関わっ
て︑本書とは異なる仕方ではあるが︑主客の未分化の次元への眼差しを見ることはできないだろうか︒このように考えるとき︑本書が注目するベルクソン︑ジェイムズ︑西田の思索の系譜の独自性がどこにあるのか︑という点については︑さらなる議論が可能なように思われる︒
最後に問いたいのは︑本書における︑始原や根拠の問いを無効化するものとして場所論が提示できるとの主張はよく理解できるとして︑しかし︑場所が未分化の次元を指示していると言えるその理由は十分に解明されたか︑という点である︒第三部第一章は︑﹁場所に支えられずに思考は不可能だが︑場所自体は思考の対象とはならない︒そして場所は思考の前提を司る﹂︵二七六頁︶との書き出しで始まる︒この主張は明瞭であり︑第三部全体が︑そしてそもそも本書全体が︑この断言の解明を目指していると言うことができるかもしれない︒しかし︑形而上学的問いとニヒリズムを根底から解消するものは場所なのか︑という問いは︑評者にとっては︑最後まで残ることになった︒西田哲学の言説世界においては︑このような議論ができる︒これは了解できたとして︑どうして場所なのか︒こうした問いの立て方自体が︑そもそも形而上学的思索に規定されたものなのかもしれないが︑形而上学の問いはまだ議論すべき論点を残しているというのが︑評者の印象である︒形而上学は︑学としてではないとしても︑人間の自然的素質として存在しているというカントの議論はまだ閉じられていないのではないだろうか︒ 金子 昭著
﹃ シュヴァイツァー その著作活動の研究
││ 哲学・神学関係遺稿集を中心に ││﹄
白馬社 二〇一八年一月刊A5判 四五四頁 三八八九円+税 久 保 田 浩 本書は︑一九九五年から二〇〇五年までに刊行されたアルベルト・シュヴァイツァー︵一八七五︱一九六五︶の遺稿著作集︵刊行著作に基づいたシュヴァイツァー研究が盛んに行われた六〇代から八〇年代を経て︑編纂され上梓されるに至った未刊行原稿類の一部︶に基づき︑彼の﹁著作活動﹂を解明することを目的としている︒
本邦ではシュヴァイツァーといえば︑アフリカでの医療活動が評価されたノーベル平和賞受賞者︑生命への畏敬を説いた思想家︑平和運動家︑オルガン奏者として著名である一方︑学問的には文化哲学︑宗教哲学︑比較宗教学︑新約聖書学︑比較思想史︑精神病理学︑音楽学等々︑諸分野で研究を進めてきた人物として認知されてはいるものの︑まさにこの学問的多面性故にその全貌を捉えることは今日に至るまで困難であり続けている︒その中でも彼の宗教哲学に着目してきた著者は︑九五年刊行の﹃シュヴァイツァー その倫理的神秘主義の構造と展開﹄において︑彼の宗教思想を﹁倫理的神秘主義﹂概念を軸に論じ