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(1)

ニーチェの形而上学批判と身体の復権

仲 井 幹 也

ニーチェの思想詩『ツァラトゥストラはか

  

く語りき』第一部,序章を除く三つ目の章に は Von den Hinterweltlern という標題が 与えられている。Hinterweltlerは「背後の 世界を説く者たち」「背世界者」などと訳さ れている。我々の現実世界の背後になんらか の本質世界を措定,それを実在とし,我々の 住む世界を仮象とする考え方,つまりは形而 上学の信奉者たちを指す。西洋哲学に連綿と 受け継がれてきたこの思考形態を根本的に覆 すことが,ニーチェの思想的営為の核心的一 部を為す。白水社版ニーチェ全集の注では Hinterweltlerは「野暮な男Hinterwäaldler」 をもじったニーチェの造語とある。1 未開地 の森の奥に住む因習的な田舎者のことであ る。プラトンのイデア論に発する形而上学的 思考様式は,アリストテレスの純粋現実態,

プラトンに基礎を置くアウグスティヌスの教 父哲学によって形而上学的原理となったキリ スト教的人格神,デカルトら近代以降の理性 主義を経て,ヨーロッパ文明を貫く主導原理

ニーチェからの引用は

Friedrich Nietzsche

:

Werke in drei Bäanden, hrsg. v. Karl Schlechta, Mäunchen

1966 により,巻数と頁数を挙げた。 『ツァラトゥストラは かく語りき』 (初回以降は『ツァラトゥストラ』と略 記)は佐藤通次訳(角川文庫,1973年)を大幅に参考 にし,部分的に適宜変更した。左1コマアケ引用は

「肉体の軽侮者」と明示した最後のものを除いて,す べて「背世界者」の章からの引用である。

1 ニーチェ全集第一巻(第Ⅱ期)『ツァラトゥスト ラはこう語った』白水社,1982年,

P

492

として働いてきた。だがニーチェにとって,

こうした現実の背後に想定された本質世界と は,人間の願望の投影でしかなく実際には存 在するはずもないものであるから,それを追 い求めるのは「野暮な」連中のやることであ り,徒労でしかない。ニーチェの言うニヒリ ズムとは個人のある心的状態を言うのではな く,この本来存在しないもの,「無」を追い 求めるヨーロッパの歴史的動きの総体を指 す。

かつて,われツァラトゥストラも,すべ ての背世界者らに似て,人間の彼岸へとか れの妄想を投げた。その時,世界は,苦悩 し呵責せらるる神の作品としてわが眼に映 った。

その時,世界は,夢として,ある神の詩 作として,神々しくも不満なるものの眼前 に現わるる多彩なる煙として,わが眼に映 った。

善と悪と,快と苦と,我と汝と−それ らは,創造的なる眼の前に立つ多彩なる煙 のごとくに思われた。創造者はおのれから 眼をそむけようと欲した,−そこで,か れは世界を創った。

苦悩する者にとり,おのが悩みから眼を 背け,自己を喪失することは,陶酔の悦楽 である。かつて世界は,このわれに,陶酔 の悦楽,また自己喪失と思われた。

永遠に不完全なるこの世界,ある永遠の 矛盾の写像,しかも不完全なる写像−さ

(2)

らにその不完全なる創造者にとっての陶酔 の悦楽。−かつては世界が,かくのごと くわれに思われた。

かくして,われもかつては,すべての背 世界者らに似て,わが妄想を人間の彼岸へ と投げた。そは,まことに人間の彼岸であ ったか?

ああ,なんじら,わが兄弟たちよ,わが 造りしこの神は,すべての神々とひとしく,

人間の作為,人間の妄想であったのだK

(Ⅱ/297)

初期の著作『悲劇の誕生』において,未だ 悲劇的なものを苦悩と生との対立・矛盾の見 地から捉え,ディオニュゾス的とアポロン的 との対立というひとつのイデーが形而上学的 なものに翻訳され,悲劇の中でその対立が統 一へと止揚される弁証法的な展開が見られた が,このことを,後年ニーチェは『この人を 見よ』Ⅳ「悲劇の誕生」1で自己批判してい る。(Ⅱ/1108)ただし『悲劇の誕生』におい てすでに,生を受苦的に捉えるのではなく苦 悩を何者かの享楽に変える肯定する神として のディオニュゾス像が描かれ,ディオニュゾ ス対アポロンからディオニュゾス対ソクラテ スへ,さらにディオニュゾス対キリストの構 図へと変容していく。生を観念に対立させ生 を理知によって断罪し,自然から離反するこ とをよしとする反自然的思索者ソクラテスを 悲劇的美の敵対者とするが,「音楽を奏でる ソクラテス」(Ⅰ/82)にディオニュゾス的要 素を認め(学問の楽観的論理主義の瓦解),

ニーチェはディオニュゾス対キリストの対立 に最終的に行きつく。(Ⅱ/1109)キリスト教 もまた彼岸に神の国の存在を説く点で形而上 学の一形態であるが,とりわけニーチェにと り問題なのは,それが生における苦悩を存在 が罪あるものとする根拠とし,生が神や道徳

によって裁かれるべきもの,苦によって贖わ れるべきものとする点にある。ちなみに彼が 多大な影響を受けたショーペンハウアーが存 在の本質を暗黒の衝動に他ならぬ盲目的意志 とし,芸術を生の苦悩からの逃避的手段とし たことも,若きニーチェにとって「世界は,

苦悩し呵責せらるる神の作品としてわが眼に 映った」ことだろう。小村のプロテスタント の牧師の家系で生まれ育ったニーチェがせせ こましい小市民的道徳に反発し,とりわけ生 はそれ自体不正であって苦悩・苦痛によって はじめて救済されるものとするキリスト教教 義による苦の内面化は,倒錯以外の何もので もなく思えたことだろう。苦すなわち罰とい う図式。罰とはすなわち罪を前提とする概念 である。この罪を捏造するメカニズムは,生 を肯定する力のない衰弱した劣悪な者の思惟 から発するとニーチェは考える。たとえばマ リアの処女懐胎をニーチェ流に解釈してみよ う。「父なる神」という呼称,信仰者から賦 与されるマリアの母性性に鑑みて,神と人と の間に親と子との相似関係を想起することは 容易である。子供にとって両親の性行為を考 えることは禁忌として作用すると同様,未成 熟な自我にとってイエスの誕生に生物学的前 提を想像することは禁忌となる。「想像した くないこと」が「あってはならないこと」に,

さらには「あるはずがないこと」にされ,つ いには「なかったこと」にされてしまう。

「無原罪のお宿り」という言い方は,マリア の懐妊を清い罪なきものと聖別する一方で,

われわれ人間の出生すべてに罪の烙印を押 す。脆弱な自我とその歪みに起因するこの虚 構が,全キリスト教徒に罪と穢れの自覚を強 要する抑圧の機構を生み出す。「自分は悪い 子」とする罪と穢れの「自己喪失」が「陶酔 の悦楽」へと倒錯的に結びつく。対自から対 他への抑圧の機構を生み出すこの種の類型の

(3)

特徴をあえて例えれば,彼らは踊りの輪に入 らない,いや,入れない。鬱屈した自我が天 真爛漫への道を阻むからである。陽気に輪に なって踊る者たちを謹厳な面持ちで遠目に眺 めながら,楽しげな彼らを,楽しげであるが ゆえに憎悪する。自分を保つために常に憎悪 の発露が必要であり,この者自身おのれの憎 悪の由来を知らぬ場合もあるが,−あまり にみっともなくて正視するにたえない憎悪の 本当の理由を自分自身に隠匿するからであ る。−まず恣意的に憎悪の対象を選び出し,

しかるのちに自他を納得させるべく後付けの 理由を考え出す。これと並行してさらに自他 を納得させるために,別の対象を選び出して 愛を発現する場合もある。生や美を自然なも のとして受け入れることのできない弱さやい じましさを隠蔽するアリバイとしての愛,憎 悪と同じ根を持ち,憎悪と同様に打倒と征服 を目指す愛である。歪んだ人間の卑俗な力の 意識が道徳と癒着することで,自他への残虐 性を発揮する。ニーチェはこうした隠蔽され 偽装された暗い情念をルサンチマンと呼ん だ。劣悪なる者たちの病み衰えた肉体と精神 から発する生の否定,生を苦とする存在への 呪詛,自然からの離反,怨恨,復讐が蜘蛛の 糸のように形而上学と「民衆のプラトニズム」

(Ⅱ/566)であるキリスト教に通底し,ヨー ロッパ文明の歴史を貫流するニヒリズムを形 成してきたとニーチェは見る。

イデアへの到達を目指す合理的認識の方法 とされる弁証法においては,ある力ともう一 つの力との対立関係が,本質における否定的 要素として把握される。自分と他者との差異 を肯定し享受するのではなく,ことさら敵意 をもって過大視し自己以外のものを一切否定 し(体系性の本質),この否定を存在原理と する。この立場において力は優越性の表象で あり,自己の力を確認させることが意志され

ている。ニーチェにとって,これは復讐と怨 恨に満ちた人間が力について描く幻影・幻想 でしかなく,奴隷の考え方であるとする。2 批判・否定はニーチェにおいては,諸力に対 する単なる反応(反作用したがって反動)で はなく,諸力に働きかける肯定的攻撃性であ って,反動的復讐ではなく能動的実存様式の 現われのひとつである。『悲劇の誕生』への 自己批判ではヘーゲルの名が挙げられている が,ニーチェが弁証法と言うとき,多くの場 合ソクラテスが念頭におかれている。弁証法 とは対話のことであり,プラトンの対話篇で ソクラテスが用いる問答法に由来する。ニー チェにとって弁証法が問題となるのは,その 品性である。ソクラテスの問答法は,自分は 無知だから賢明なるあなたにこれこれを説明 してもらいたいとして,自分は常に無限後退 し安全なところにいながら,相手が馬鹿では ないことの証明を相手自身にさせる。それを 続けることで最終的に衆人環視の中で相手が 馬鹿であることを露呈させるという手法であ る。衆愚政治化しつつある当時の社会状況と ソクラテスの敵が堕落した貴族たちやソフィ ストたちであったことは勘案すべきである。3

2 奴隷・賤民と貴族・支配者という対立項は,『善 悪の彼岸』の「高貴とは何か」(Ⅱ/727‑756)であ きらかなように,歴史的起源は階級に由来するもの の,現代文明批判として読む限り,あくまで精神性 の問題であって,現実の社会的位階序列そのものを 指すものではない。高い地位につき権力を握る者が ニーチェの言う奴隷や賤民である例は事欠かない。

貴族・強者とはつまり,ルサンチマンから遠い人間 の謂である。

3 ニーチェは『善悪の彼岸』の中で,人間の「偉大」

の概念が時代の変遷とともにその姿を変えることを 語り,ルネサンス期と現代とでは自ずとその概念の 様相が異なること,ソクラテスの時代,虚飾と欺瞞 に明け暮れるアテナイ人の間にあっては,皮肉

イロニー

が魂 の偉大の属性であっただろうとソクラテスの「エイ ローネイアー」に一定の評価を与えている。(Ⅱ/

678)

(4)

ただ,その弁証法的手法の本質的特性は強い 者に対する防御的武器,つまりは怨恨を内に 秘めた奴隷が手にする武器である。(Ⅱ/954)

ちなみにソクラテスは醜男だったと伝えられ ている。

論拠と反対論拠を闘わせ,因果律的に一定 の結論へと導こうとするこの態度は,合理性 によってこの世のすべてを認識するばかりか 改良することができるとするオプティミズム であり,ニーチェは理性=徳=幸福の同一視 はソクラテスの特異体質から出た,およそこ の世で最も奇怪

ビザール

なものであると見ている。

(Ⅱ/953)この合理的知の方向性はデカルト において近代的完成を見ることになる。プラ トンを下敷きとし信仰の世界と現実界とを截 然と分かつアウグスティヌス的キリスト教教 義から,教会の世俗支配を正当化すべく神の 国と世俗の世界との連続性を論理づけるため アリストテレスに依拠したトマス・アキナス 的教義への転換を,再度プラトン的世界観か ら再考することがデカルト哲学の端緒にあっ た。その方向性はまた,人工的制作物に最も 適する「形相と質料」というプラトンの存在 論から,自然的存在者にも適応可能な「可能 態と現実態」というアリストテレスによる動 的かつ生物主義的存在論への改変が,再度プ ラトンの無機的世界観へと揺り戻されたこと を意味する。観測・実験等による感覚的経験 の所与に数学的表現を与えることが近代の数 学的自然科学の方法論的基礎を確立していく のであるが,他方この方向性は自然をもっぱ ら数量的・物質的に見る傾向を強める。マ テーリア(物質)はギリシャ語ヒュレー(質 料)のラテン語訳であるが,この物質的自然 観は形而上学と不可分の関係にある。存在の 本質はあくまでイデアの側にあり,自然はそ れ自体では悪しきものとされるからである。

三角形など感覚的世界には存在しない二次元

の幾何学的観念を人間はなぜ感覚的世界に存 在する事象に適応可能なのか,その存在論的 基礎付けに,神の摂理(ratio)が神の似姿 である人間の理性(ratio)に分有されてい るとする考え方が用いられてきた。肉体的存 在は偶有的なものであり感覚諸器官が捉える 感覚的性質は真の実在とはみなされない。三 角形など空間的量(延長)は精神によっては じめて洞察可能であるがゆえに自然の真の姿 とされる。デカルトのコギトの発見によって,

人間理性の認識対象となるものだけがその実 在が保証される。逆に言うと,この世のあら ゆる存在者の実在を保証するものは人間理性 に他ならないこととなる。ということはつま り,人間理性は他の存在者とは別格の,この 世界を超越した形で存在する原理,すなわち 形而上学的原理となる。他の存在者の存在を 基礎づける超越論的原理をアリストテレスは

「基体」(ヒュポケイメノン)と呼んだが,

そのラテン語訳がズブイェクトゥムである。

かくして人間理性の認識主観が超越論的原理 の座を占めることとなる。4 デカルト的世界 観が客体として扱われる存在者を不当に貶 め,存在者の素材化

マテリアル

を促すものであるとする 問題意識は,科学が発展し,同時に科学の負 の側面が露見するにしたがい,より強いもの となっている。科学的体系は技術の体系であ り,思考は往々にして技術に隷属し技術に貢 献する範囲内でのみ,その役割を果たすこと になる。技術はおのれが目指しているものを 反省的に問い直すことを怠るものだ。神を追 い払い玉座についたはずの理性が,いつのま にか道具化していく。道具化した理性が最終 的にいきつくアウシュビッツやヒロシマ・ナ

4 形而上学の歴史的展開については主に以下を参照 した。

木田 元『反哲学史』講談社,2012年

(5)

ガサキという事象が意味するのは,人間の究 極的な素材化

マテリアル

である。

この神は人間であった。しかも人間と自 我との貧しき一片にすぎなかった。この幽 霊は,われみずからの灰と熱火とよりして われにいたったのだ,まぎれもなくKそは 彼岸からわれにいたったのではないK

何が起こったか,わが兄弟たちよ?われ は,悩める者,このわれにうち克った。そ して,みずからの灰を山へ運び,より明る き焔を創始した。すると,見よKその時,

幽霊はわがもとを退散したK

快癒するわれにとり,かかる幽霊を信じ ることは,いまは苦悩であり,呵責であろ う。今のわれには,苦悩であり,屈辱であ ろう。かくわれは背世界者たちに語る。

(Ⅱ/297‑298)

「灰」とはショーペンハウアーの厭世思想 やワーグナーに傾倒した青年期の情熱をニー チェみずから葬った過去を指す。ニーチェ自 身かつての偶像に背を向け,その後孤独の年 月を経てスイス南部の高地に逗留し,『ツァ ラトゥストラ』の想を得ることになる。

一跳もて(mit einem Sprung),死の一 跳もて究極に迫らんと欲

ねが

う疲憊,もはや意 欲することを欲わぬ,憐れにして無知なる 疲憊,そのものが,すべての神々と背世界 とを造ったのだ。(Ⅱ/298)

『ツァラトゥストラ』で跳躍(Sprung) という言葉は通常否定的な意味で用いられ る。知的誠実さを無視し,不可知な状態のも のを何の根拠もないまま強引な論理や解釈で 一挙に理解したものと結論づけることの比喩 である。すでに序章の六で,「跳躍」の含意

を規定する場面が現われる。ツァラトゥスト ラがある町に足を踏み入れると群衆が集まる 広場で綱渡りの芸が披露されるところに遭遇 する。綱を渡る芸人の背後から迫る道化師 が,もたもたせずにさっさと進めと毒づいた 後に,芸人の頭上を飛び越し,それに動揺し た芸人が綱から落下し,絶命する。(Ⅱ/285‑

286)序章の四で「人間は,禽獣と超人との 間に懸けられし一条の綱,−深淵の上に張 り渡されし一条の綱である。越え行くも危う く,途上にあるも危うく,振り返るも危う く,戦慄するも,佇立するも危うい。」(Ⅱ/

281)とあり,人間を超人への過渡的存在と して繰り返し用いられる「橋」の比喩と同じ 意味で「綱」が用いられている。その過渡的 存在の一つのありようとして,綱渡り芸人の 形姿は,困難な課題に取り組む誠実な学究の 徒と見ることもあながち的外れとは言えない だろう。不可知なものは不可知なものとした まま,遅々として進まぬ果てしなく長い苦し い考究の道を辛抱強く辿る知的誠実さの象徴 である。他方それを飛び越し知的誠実さを死 に追いやる道化師は,困難な手続きを放棄 し,神やイデアなどという超感性的存在を動 員してまでも一挙に答えを求めようとする形 而上学的立場を象徴している。人間が超感性 界へ「跳躍」してしまう理由に挙げられた

「疲憊」という言葉は,これ以降続く箇所 とともにニーチェ哲学の身体論的地平を開 く。

われを信ぜよ,わが兄弟たちよKそは,

肉体に絶望せる肉体であったのだ。−そ のものが,昏迷せる精神の指もて,究極の 壁を模索したのだ。

われを信ぜよ,わが兄弟たちよKそは,

肉体に絶望せる肉体であったのだ。−そ のものが,おのれに向かって語る存在の

(6)

はらわた

の声を聞いたのだ。

そして,その肉体は,頭を以て究極の壁 を貫き,しかも,ただ頭を以てするのみな らず,−身を以て「かなたの世界」へい たらんと欲したのだ。

しかし,「かなたの世界」,天上の空無と いうべき,脱人間的,かつ非人間的なるか の世界は,人間に巧みに匿されている。そ して存在の腹は,人間としてでなければ,

人間に向かって語ることがない。(Ⅱ/298)

時間的にも空間的にも有限で非力なヒトと いう存在が,広大無辺な謎や神秘を前にして おのれの無能・無力に身もだえし,果てしな き疲労感に屈服したのち,「存在の腹

はらわた

」すな わちすべてを説明可能にする絶対的原理をか なたの背世界に想定するのである。ヒトは自 分のみじめさをその虚構に損失補填させるだ けではなく,あつかましくも分不相応な債権 まで手にしようとする。いわく「人間は神の 似姿である」。5 存在の腹である神は,人間が 書いた聖書を通してでなければ,人間に向か って語ることがない。人間の口を通らずに聞 こえてきた神の声はいまだかつてなかった。

まことに,いっさいの存在は,これを実 証するに難く,これをして語らしむに難い。

言え,なんじら兄弟たちよ,すべての事物 のうちいと奇異なるものは,なお最もよく 実証せられるものではないか?

さなり,この自己と,その自己の矛盾と 混乱とは,なお,おのが存在について最も 誠実に語っている。−事物の尺度であり,

価値であるところの,この,創造し,意欲 し,評価する自己は。

そして,最も誠実なる存在,この自己な

5 旧約聖書創世記第1章27節

るもの−そは,肉体について語る。しか もそは,詩作し,熱狂し,破れたる翼もて 羽ばたく時にすら,なお肉体を欲する。

この自己は,いよいよ誠実に語ることを 学ぶ。そして学ぶこと多きにつれ,肉体と 大地とに対し,いよいよ多くの言葉と尊敬 とを見い出す。

一つの新しき矜持

ほ こ り

を,わが自己がわれに 教えた。そを,われは人間に教える。−

もはや首を天上の事物の砂の中へ突き入れ るな。6 大地に意義を造り与うる「大地の 首」を,むしろ昂然ともたげよK(Ⅱ/298)

「肉体と大地」は『ツァラトゥストラ』で 繰り返し現われるニーチェ哲学のキーワード の一つであるが,「大地」は観念的に捉えら れた形而上学的彼岸の世界との反対物,しか も自分の足でしっかりと踏みしめる身体感覚 を伴って捉えられる対蹠概念である。

肉体と大地とを軽侮し,天上的なるもの と,救済の血の滴とを創始せる者は,病む 者と死滅し行く者とであった。しかし,こ の甘美かつ陰鬱なる毒をも,かれらは肉体 と大地とから取りきたったのだK

かれらは,みずからの悲惨から遁れよう と欲した。しかし星はかれらにとり遠きに すぎた。そこで,かれらは嘆息した,「お お,他の存在と他の幸福へと忍び入るべき,

天の路もがなK」−ここに,かれらは,

みずからのために,かれらの抜け路と血な

6 俗説では,駝鳥は危機が身に迫ると砂の中に首を

突っ込み,危機を見ないことで危機をないものとし

てしまう動物と言われている。見たくないものはな

かったことにしてしまう,あるいは逆に見たいもの

を勝手に見たと思ってしまう類型は,駝鳥に近しい

ということか。

(7)

ま ぐさ き飲物7と を創始 したの だK( Ⅱ/

299)

イエスの救済の血をもって彼岸へと一挙に

「跳躍」するごとき虚妄も,生の苦悩に疲憊 し病み衰えた劣悪なる者たち自身の生の諸条 件,彼らの「肉体と大地」に起因していると ニーチェは見る。背世界者とは,自分の内な る自然と折り合いがつかず,自分の肉体と屈 折した関係しか持てない類型ということであ る。前出の「肉体に絶望せる肉体」もこの消 息を物語っている。主観と客観,精神と肉体 という二元論は,前者を本質的世界への回路,

後者をそれへの阻害要因とし,前者の後者に 対する優位性を伝統的に強調してきた。後者 は前者によって認識・分析されるべき対象,

神学的には克服し滅却すべき対象と捉えられ てきた。ニーチェはこの見方を180度転回さ せる。「背世界者」に続く第四章は「肉体の 軽侮者」と題されているが,第三章後半以降 の身体論的議論がそのまま続く形で展開され ており,この二章は緊密な関係にある。彼は 精神に先んじて肉体が人間存在を規定してい ると見る。精神(主観)に超越論的視座を与 えないどころか,形而上学では客体として認 識対象になるだけの肉体が,肉体を超越して いるはずの人間の認識主観とその認識行為を 根底的に条件づけているとする。

詩作し,神を求むる者の中には,常に病 弱の輩があった。かれらは,認識する者を,

また「誠実」と呼ばるるところの,諸徳の うちのいと若きものを,狂暴に憎悪する。

7 「みな,この杯から飲め。これは,罪のゆるしを 得させるようにと,多くの人のために流すわたしの 契約の血である。」新約聖書マタイによる福音書第 26章27・28節

かれらは常に幽暗なる時代を回顧する。

その時代には,もちろん,迷妄も信仰も今 日とは別のものであった。理性の狂乱は神 との相似,疑惑は罪悪であった。

われは,これら神に似たる人々を,あま りにもよく知っている,かれらは,おのれ らの信ぜらるることを,また懐疑の罪悪な ることを,欲する。われはまた,かれら自 身の最も信じたりし事どもを,あまりにも よく知っている。

まことにこの人々も,背世界,また救済 の血の滴をではなく,むしろ肉体を,最も よく信じている。そして,かれら自身の肉 体は,かれらにとり,おのが「物自体」で ある。

しかるに,背世界者たちにとり,肉体は 病的なる事物である。されば,かれらは,

いかにしてかおのが皮膚より脱がれいでば やと願う。そのゆえに,かれらは,死の説 教者に耳を傾け,みずからも背世界を説教 する。(Ⅱ/299)

「誠実」という徳とは,すでに上述した近 代的学問における「知的誠実」のことである。

綱渡り芸人を死に至らしめた道化師は,葬る ために芸人の遺体を背負うツァラトゥストラ に向かって,正しき信仰の徒がなんじを憎 み,なんじを民衆の危険と呼んでいる,すぐ に町を去れ,さもなくば,明日はなんじの頭 上を飛び越し,なんじは死ぬことになると恫 喝する。(Ⅱ/287)賤民・弱者は自分の弱さ を白日にさらされることを最も恐れる。不都 合な声はどのような非道な手段を使おうと封 殺を目指す。さまざまな変奏を帯びて,いた るところに現われる「むらびと」的類型であ る。旧来の佐藤通次訳,竹山道雄訳8では段

8 『ツァラトゥストラ かく語りき』新潮社,1957

(8)

落○の「かれら」を背世界者たち,段落

の「これら神に似たる人々」を,懐疑的知 性の具現者ソクラテス登場以前,疑うことを 知らぬ無垢なる生を謳歌した古代ギリシャ人 とし,二つの相異なる類型の記述と捉えてき た。氷上英廣訳9,白水社版全集の薗田宗人 訳では段落○は一貫して背世界者に関 する記述と捉えられている。同じ代名詞の繰 り返しが急に別のものを指すとは考えにく く,氷上・薗田訳が妥当と考える。「これら 神に似たる人々」には佐藤・竹山解釈のよう な肯定的意味はなく,「人間は(とりわけ自 分は)神の似姿」として神の代理人を僭称し,

教えを受ける民衆の側が神とその代弁者であ る自分とを同一視することを望んでいる,そ の種の背世界者と考えるべきだろう。「幽暗 なる時代」とは近代以前,「理性の狂乱は神 との相似」とは,神がかり的な宗教的法悦や 宗教的ヒステリーによって生じる特殊現象を 理由に人が聖者や聖女に祭り上げられる事例 などを想起すればよかろう。「この人々も,

背世界,また救済の血の滴をではなく,むし ろ肉体を,最もよく信じている。」というの は,背世界者がおのれの肉体の声に実際には 従っていること,彼らの聖性を示すとされる 現象が彼らの肉体的諸条件に起因するもので あることの自覚がない純・

粋・ な・

ケースばかりで はなく,彼ら自身肉体の声をよく知り,その 真実なることを自覚しながらも,表面を偽装 している確信犯的ケースがあり,そのことを ツァラトゥストラははっきりと見抜いている という意味になる。また,引用の終わりでカ ントの用語である「物自体」が使われている。

世界が我々の認識と無関係に自存しているの ではなく,我々の感覚器官を通して我々の意

9 『ツァラトゥストラはこう言った』岩波書店,

2004年

識に立ち現われる現象界のみが我々に取って 存在し認識の対象になりうるとする逆転の発 想によって,経験的世界の自存性を無反省に 前提とし論理的推論により世界の存在構造を 解明できるとした学問の楽観的論理主義をカ ントが打破した点をニーチェは評価するのだ が,真の世界と仮象とを分かつ以上カントも またニーチェにとって形而上学の延長上にい ることになり,「物自体」という概念も最終 的には否定される。ただし上の引用では,認 識論上の文脈ではなく,人間の好悪,悲喜,

欲求,恐怖など,「現象界」に現われるさま ざまな心的事象を内奥で決定づけているもの が肉体であるという程度の意味で比喩的に用 いていると考えるべきだろう。

自我は自己に向かって言う,「ここに苦 痛を覚えよK」すると,自己は苦悩し,い かにせば苦しみを去るべきかを思いめぐら す。−自己はそのためにこそ思考という ことをなすべ・

き・

なのだ。

自我は自己に向かって言う,「ここに快 楽を覚えよK」すると,自己は喜悦し,い かにせばなお喜悦をしばしばすべきかを思 いめぐらす。−自己はそのためにこそ思 考すべ・

き・

ものなのだ。(「肉体の軽侮者」Ⅱ /301)

ニーチェは,ヨーロッパの歴史において常 に日蔭者に追いやられてきた身体論的思考を 浮上させ,原因(本質)が先にあって結果

(現象)が後に来るという目的論的構図に対 して,生の無根拠な衝動を直截的に肯定する ことで理性概念の転倒を行う。それはまた,

近代市民社会の道徳・法・政治・学問とそれ を取り巻く諸制度等すべてが存立しうる前提 であるところの理性的かつ自律した個人とい う観念を揺るがすことでもある。犯罪者を死

(9)

刑にできると考えるのは,人間は本来だれも が理性的で自律的存在であるという前提に基 づいている。ニーチェにとってこの自律した 個人という観念は虚構でしかない。理性的主 体としての人間の自律性という観念は,ズブ イェクトゥムとしての人間の認識主観性を打 ち出す形而上学的伝統と結びつく。形而上学 的に捉えられた主体は,自己と外の世界との 関係を自己同一性を通して保持しようとす る。つまりもっぱら支配を意志するベクトル が客体に働く。このことがすでに見てきた多 様性の否定・排除の誘因ともなりうる「本質

‑仮象」や「原因‑結果」の二元論につながる。

単一性・同一性の原理ではなく,無数に発現 する「力への意志」の複数性とそこに生じる 差異の多様性を対置することで,ニーチェは 伝統的主体概念の解体を目指す。さらに言え ば「肉体は一の大いなる理性である。そは,

一の意味を持つ多,戦争にして平和,畜群に して牧者たるものである。」(Ⅱ/300)とある ように,身体自体もまた,さまざまな力への 意志が展開する多層的な場所なのだ。仮象と 本質という形而上学的二元性や原因と結果と いう科学的関係性ではなく,ニーチェは現象 と意味との相関関係を見る。ドゥルーズによ れば,ある事象の推移は,その事象を占有し

ようとする諸力の連続的継起であり,それを 占有するために争う諸力の共存関係である。

占有する力が変われば同じ事象もその意味を 変える。事象の意味とはそれ自体複合概念で ある。したがってニーチェが哲学する上で最 も重視する技術は多元論的解釈であるとい う。「或る事象は,その事象を占有する力の 数と同じだけの意味を持つ。しかし,事象そ のものは中立的ではなく,実際にその事象を 占有している力と多少とも親近的である。或 る事象に限定的意味と否定的価値とを与える ことによって,はじめてその事象を占有する ことができるような力がある。反対に,一つ の事象のあらゆる意味のうちで,その事象に 最も親近的な力が,その事象に与えるような 意味は,本質と呼ばれるであろう。」10

形而上学が人間にもたらす虚弱,貧困,鈍 重,反動的攻撃性ではなく,喜びと軽やかさ

(舞踏),みずからを乗り越えんとする生の 過剰と充溢,苦悩に対する否定と倒錯ではな く「然り」,多様性を肯定と享楽の対象とす ることこそが,ニーチェの求める実践的境位 である。

10 ジル・ドゥルーズ『ニーチェと哲学』国文社,

1984年,

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Nietzsches Metaphysikkritik und die Rehabilitation des K äo rpers

Mikiya Nakai

Von den Hinterweltlern hießt das dritte Kapitel des ersten Teils von Nietzsches Denkgedicht Also sprach Zarathustra .Hinterweltler ist ein von Nietzsche neu- geschaffenes Wort, das sich von Hinterwäaldler herleitet. Nietzsche bezeichet damit Anhäan- ger der Metaphysik, die hinter unserer realen Welt eine wahre wesentliche Welt setzen. Die Denkform der Metaphysik hat ihren Ursprung in Platons Ideenlehre und etablierte sich auf- grund ihrer modernen Vollendung durch Descartes als Leitprinzip der abendläandischen Zivilisa- tion. Fäur Nietzsche jedoch ist das wahre Sein der jenseitigen Welt nur ein geworfener Schatten der Menschenwäunsche. Nihilismus bezeichnet fäur Nietzsche nicht den psychischen Zustand ei- ner Person, sondern das Ganze der historischen Bewegung Europas, die begehrt, was es eigent- lich nicht gibt, näamlich das Nichts. Auch das Christentum ist eine Art Metaphysik, denn es nimmt das Gottesreich im Jenseits an. Nietzsche häalt es fäur besonders problematisch, dass das Christentum die Lebensqual als Strafe und das Leben als urspräunglich schuldig ansieht. Das be- wirkt die Verinnerlichung der Qual und die Erdichtung der Säunden. Fäur Nietzsche aber ist das Leben immer unschuldig. So betont er: Trunkne Lust ist's dem Leidenden, wegzusehen von seinem Leiden und sich zu verlieren .Es ist das Denken der schwachen, krankhaften Men- schen, das diesen Mechanismus der Unterdräuckung erzeugt. Die Hinterweltler zwingen nicht nur sich selbst, sondern auch die anderen zum Bewußtsein von Säunde und Schande. Dieses Be- wußtsein wird durch sie zur trunkenen Lust pervertiert. Fäur Nietzsche ist dieser mindere Typ der Ursprung des Nihilismus, der die Verneinung des Lebens, den Fluch äuber das Dasein, die Widernatäurlichkeit und das Ressentiment mit sich bringt.

In der Dialektik, die seit Sokrates als eine rationale Erkenntnismethode zur Idee angesehen wird, wird der Antagonismus zwischen einer Kraft und einer anderen als negative Beziehung verstanden, denn sie bejaht und genießt keinen Unterschied. Kraft ist hier eine Vorstellung von ÄUberlegenheit. Fäur Nietzsche aber ist das eine falsche Auffassung von Kraft und eine von Sklaven geschaffenen Illusion äuber den Kraftbegriff. Die Gräunde dafäur sieht er im Ressenti- ment der Sklaven. Die Haltung, die durch die Polemik zwischen Argument und Gegenargument kausal zu einem Schlußkommt, zeigt den Optimismus, der durch Rationalitäat alles erkennen und verbessern kann. Die Gleichsetzung von Vernunft mit Tugend und Gläuck ist nach Nietzsche die bizarrste, aus der sokratischen Idiosynkrasie stammende Auffassung.

Am Ausgangspunkt der Philosophie von Descartes steht die Absicht, die auf Aristoteles basierende und die Kontinuitäat zwischen Diesseits und Jenseits betonende Theologie Thomas von Aquinos, mit Hilfe von Augustinus' Theologie, der die platonische Weltanschauung zugrunde liegt und die das Gottesreich scharf von der irdischen Welt unterscheidet, noch

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einmal zu äuberdenken. Materie ist die lateinische ÄUbersetzung des griechischen Wortes Hyle .Es legt die methodische Grundlage der modernen mathematischen Naturwissenschaft fest, mit Beobachtungen und Experimenten den sinnlichen Gegebenheiten eine mathematische Darstellung zu geben. Aber diese Denkrichtung verstäarkt die Neigung, die Natur ausschließlich als Quantitäat und Material zu behandeln. Die moderne materielle Naturanschauung wurzelt tief in der metaphysischen Tradition. Die durch die Sinnesorgane wahrgenommen sinnlichen Eigen- schaften der Natur, werden näamlich nicht fäur das wahre Sein gehalten, sondern nur etwas, das der Geist erkennen kann, wie z.B. ein zweidimensionales Dreieck, gilt als das wahre Wesen.

Auf diese Weise besteigt die Vernunft den Thron, wo sie das Sein aller Seienden in der Welt versichert. Damit wird das Subjekt der erkennenden Menschenvernunft zum ontologischen Prinzip, das alle Seienden transzendiert. Aber historisch gesehen, wird, je weiter Wissenschaft und Technologie fortschreiten, auch seine Schattenseite immer deutlicher. Mit der Weltan- schauung von Descartes werden die Seienden ungerechtfertigterweise einfach als Objekt gering- geschäatzt und materialisiert. Die ohne Reflexion instrumentierte Vernunft fäuhrt zu Gescheh- nissen wie Auschwitz, Hiroshima und Nagasaki, d.h. zum ÄAußersten der materialisierten Men- schen.

Der Dualismus zwischen Subjekt und Objekt bzw. Geist und Käorper hat traditionell betont, dass jenes diesem äuberlegen ist. Nietzsche stäurzt diese Ansicht gräundlich um. Er verfocht die Auffassung, dass gerade der Käorper das Subjekt und dessen Erkenntnisvermäogen bestimmt. In der zweiten Häalfte des Kapitels Von den Hinterweltlern und im näachsten Kapitel Von den Veräachtern des Leibes wird äuber den Käorper disputiert. Nietzsches Blick in den Käorper bezieht sich auf seinen Pluralismus. Nietzsche zielt auf die Zerlegung des traditionellen Subjekt- begriffs, indem er dem Prinzip der Einheitlichkeit und der Identitäat im metaphysischen Dualis- mus die Pluralitäat des unzäahligen Willens zur Macht und die darin entstehende Vielfalt der Differenz gegenäuberstellt. Der Käorper selbst ist der mehrschichtige Ort, wo sich die verschie- denen Willen zur Macht entfalten.

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