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﹁ナショナル・ポリシー﹂なる語は元来普通名詞の告である cカナダ白治領成立後一代目の首相アレキサンダー・
マッケンジーが執劫に主張したように ︑ どの国も独自の﹁ナショナル・ポリシー﹂を持つのであり ︑﹁ナショナル・
ポリシー﹂として如何なる政策を採用するかは千差万別であるが ︑その言葉自体が特別の政策を意味することは稀有であった ︒しかしながら ︑キ″ナダ史においては﹁ナショナル・
ポリシー﹂はその言葉の登場した直後から個有名詞として扱われ ︑カナダ史を研究する歴史家にとって連 ェ デ対 チッ成立後のカナダ史における重要なテーマとなった ︒それは広大な新国家カナダの統一・発展の要と考えられて来たので
あ る
︒
試みに現代のカナダ史学界を代表する歴史家によるポピ
カナダにおける﹁ナショナル・ポリシー﹂の決定とジョン・A丁
子
ュラーなカナダ史の概説書を結いてみよう︒
トロント大学の長老 ︑D・G・クレイトンは彼の最近の歴史書﹃カナダの最初の世紀﹄で ︑
経済的に生存可能な国家が大陸の北半分に樹立され ︑三つの主要なナショナル・ポリシーにより ︑その発展と成長が促進されることになった︱移民とその西部への定住 ︑すべてのカナダ大陸横断鉄道による輸送 ︑そして保護関税という手段による工業化によってであると書いた ︒J・M口S・ケアレスはカナダ総督賞を受けたベストセラーの歴史書﹃カナダー挑戦の物語﹄において ︑
ナショナル・ポリシーは⁝実は三つの面を持った国家建設案であった ︒それは保護関税と同様に ︑移住と鉄道
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カ ナ ダ に お け る ﹁ナ シ ョ ナ ル ・ ポ リ シ ー ﹂ の 決 定 と
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マ ク ド ナ ル ド
‑ 1 ‑
史 苑︵ 第二十三奉三号︶
W・L・モートンも ︑のちに彼がカナダ史の概説書﹃カナダ王国﹄を著わした際には ︑
︵一八九七年迄に ︑︶実際 ︑工業化 ︑東西を結ぶ鉄道による交通 ︑及び西部への移住を内容とするナショナル・ポリシーの実現にとって必要な状況は漸く存在することになった ︒マクドナルドと保守党が種を蒔いた畑を ︑ ロー
行︶ と自由克が入って来て刈り入れようとしたのであっ
たLして ︑カナダの国家形成に果した﹁ナショナル・ポリシー﹂の役割を高く評価したのであった ︒
このように﹁ナショナル・ポリシー﹂とはヨンフエデレーション成立後 ︑保守党が立案し自由党に継承されたカナダ建国の過程における基六的経済政策 ︱︱大陸横断鉄道の敦設 ︑移民の奨励 ︑一保護関税の採択 ︑の三つの政策︱
の総称である ︑と規定されるのが普通なのである ︒先にあげた二人の歴史家とは歴史観を全く異にするR・クックもこの解釈を継承している点では変りがないし ︑さらに﹁ナショナル・︒ポリンー﹂への最も厳しい批判を展開している経済史家デイルスすら ︑カナダの﹁ナショナル・ポリシー﹂の内容についてはこの三本柱をあげるのである ︒︺
カナダの ︑少くとも最近の歴史家達はこの三政策による
全国的市場の形成 ︱即ち移民の定住によって形成される西 部の市場 ︑工業振興が創設する東部の市場 ︑この両者を結ぶ大陸横断鉄道という形での︱を目的とする﹁ナショナル・ポリシー﹂をカナダの国造りの基盤とみなして来た ︒それはカナダの経済的統合・繁栄を通じてのみ ︑政治的統合は達成されるとの意識に他ならなかった ︒その成否も歴史
研究の一つの重要な課題となるわけであるが ︑私の当面の関心は ︑﹁ナショナル・ポリシー﹂と銘打って ︑カナダ建国の父祖とも云うべさ人々が他のものではなく ︑この三つの
政策を選択したところに ︑カナダという国家の歴史的発展の一つの特質が見られるのではないか ︑という点にある ︒
換言すれば ︑カナダの青写真として描かれた国家像を探り
たいといってもよいであろう︒本論の目的はこうした視点からまず ︑カナダの﹁ナショナル・ポリシー﹂がいかに決定されたのかを見たいと思う︒
一註
︹1︶ ∪oコ単毎O O︻ユ∞ゴ一9デQsヽsミs︼いヽヽおヽQヽさヽミヽビヽヽ碕SN
Iヽ崎働N︵弓qoユ9寓ヨ一 ︐すo臥●営匙FSさyヽ時り
︵2︶ 中 ヮふ ∽ 0い︐巳o∽P QsヽもふF玉∽革sヽ︼S︑Oきs︑ヽもヽいへ︵日ol
HB一9煮居呂︼言停Rの営生♪居F&︼甲ませ︼o当∞
︵3︶て︑F o中SP﹃ヽミ氏きに代GミミQsミ侑ミ食卜終ヽ尽ミヽき﹄ 革oCヽ ヽミヽミ革ヽ くヽヽ ミ6
yo ︼︐ヤc︻ oP C﹃Oの馬∽庁脚 ユ ︵ ﹃増畳毎営年9oュPてのO
︵4︶ 刃やヨ∽いくOo︵︶汗︵一市﹄∩ 刃卜一ハの︐いoヽ一﹃ のpく電旦じ﹀
Q︹ヽ ミミヽ﹂卜ヽさ・ミヘドヽ∽章ミk︵い 夕︵ ︺︻CユOヤ●J︻庁rF仲
のc︼中のモ︶一0分﹃︶︶︼や 中一Pa
︵5υ 一 ェ 0生a︼ RQ常じ脚らい ︶りZ■3︼ ご中■ユ村︻2ととP﹃き
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︶●﹀︐ ・ o句o﹁o︐オ一﹃︼のの∽︼o一0︼トト戸﹁う一て︻ ︑ ︵ 日︵︶≡ち5↓
一 一
﹁ナショナル・ポリシー﹂なる語がカナダの政界に登場し
たのは ︑一入六九年五月七日 ︑当時の保守党政府の蔵相ジョン・ローズの下院における予算演説においてであるの
が少くとも記録に残っている上では初めてのことらしい ギ ︶
カナダ自治領成立以来およそ二年間の政府の経済上の業績を述 ︑︵たあとでローズはアメリカ合衆円と力十ダとの通商関係に言及し ︑アメリカによリカ十ダがいかに不当に扱われているかを激しい調子で糾弾する中で ︑カナダが独自の十ショナル・ポリシーカキたなくてはならない ︑ということを恰かも煽るように ︑﹁このような︿力十ダにLって不当な︶状態は既に三 ︑四年も続いている⁝しかしこれは中
止されなくてはならない︵詳聴々々︶ ︒我々自身のナショナ
ル ・ポ
シ リ を ー
︵ 持挽 こ
を と 要 求 れ さ 時 る 間 が な も 来 く
で る
あ ろ う
﹂ と 述 べ た
︒ こ の 際 ロ ー ズ は す シ
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・ 容い示唆す全無唯ナの内につてるこはカダは由とくく自 ︑
貿易か保護貿易かといった経済原則に捉われることなく ︑
自身の利益のみ顧慮したナショナル・ポリシーを案出すべきである ︑と説いた ︒しかし彼の提案はアメリカ合衆国ヘの何らかの報復措置を意味しており ︑これは当時の大英帝国の論調の中にあっては取りも直さずカナダ産業の保護を
意味するものであったと云えよう︒
のちに首相をつとめた同じ保守党議員のチャールズ・タッパーは歴史家によってはナショナル・ポリシーなる語の創始者とされるこ設4 あり ︑彼自身もそう思い込んでいるらしく見られるが ︑タッパ ーによる言及はローズの提唱のいわば焼き直しであった ︒ 一八七〇年二月 ︑タッパーは下院で与党を代表して現政府の抱える諸問題を説明する一般演説を行ったが ︑その中でアメリカとの互恵通商粂約を
再び締結しようとする試みは失敗に帰したことを説明し ︑
﹁アメリカ人の制約に満ちた政策に︵カナダの︶諸州が被害を蒙つているというのに⁚我々は彼らがその産物を自由に ︑あるいは名目だけの関税で送ってくるのを許して来た ︒ ⁝我々はカナダの最大α利益を犠牲にしたままにし
ておくべきであろうか ︒あるいは︵カナダの︶すべての階層の最大の利益を促進し ︑国度を満たすことになる大胆な
ナショナル・ポリシーを鼓舞すべきではないのか﹂と述べマクドナルド︵大原︶
‑ 2 ‑
―‑ 3 ‑
史 苑︵ 第二十三巻二号︶
て喝宋を博した ︒ ローズと同じくタッパーもその政策の内
容について具体的なことは何も述べなかったが ︑カナダと
いう新国家の経済的利益を守らなくてはならないということに関して意見は一致していた ︒
先へ進む前にここで ︑子ついった発言の背景をなす当蒔 ャ
のカナダの状況について簡単に触れておいた方がよいであ
ろう︒ 一八六七年七月 ︑ノヴァスコシア ︑ ニューブランズウインク ︑オンタリオ ︑ケベノクの四州が統一カナダ自冷︐
領を形成するに至るまでには様々な障害があったが ︑その
一つにそれぞれ相反する経済利害の調整があった ︒周知の
通り当時のイギリスは自由貿易主義を奉じており ︑大英帝国内の植民地にもこの原則が適用されていた ︒事実製造工
業が未発達で天然物資の輸出に経済を俵存していたカナダ
としてはそれは得策であった筈である ︒力十ダにおいて初一
めて保護的な色彩を持つ関税が制定されたのは一八五八年
功額力商り通メ のアゲナ
一FE﹁十じ O ︼吾仰一付●︐´為ミSヽs革せヽ
︻︻4り一C︼中こ第一 卜″∽O●︻いユOp︒ 一︺■生 であったが ︑このガルト関税の建前はあくまで政府の歳入の増加を目的とすることにあり ︑カナダ産業の保護は附艦的であることが強調された ︒ 一方カナダは一八五四年以来石炭 ︑農 ︑林 ︑水産物に関する工恵通商条約をアメリカ合
衆国との間に実施しており ︑街生表に見る通り ︑アメリカとの通商額は飛躍的に増加してその効果は大きなものがあった ︒しかし南北戦争後のアメリカは一層の保護主義に転じ ︑十年の運用ののち更新する意図のないことが一八六王年には明らかとなったのである ︒実際この条約は一八六六年二月に終止符が打たれた ︒石炭・魚類・木材などの輸出に依存するノヴァスコシア等沿海諮州は打撃を蒙り ︑これを和らば ︑ひいてはコンフエデレーションヘの彼らの一妥協をとりつけるため ︑ 丁八六六年にガルト関税は手直しされて関税率は一律にひき下げられた ︒
しかしながらその危急ゆえに保護主義を主張する強力な
代弁者はノヴァスコンアから出た ︒ 一八
六八年 ︑ノヴァスコシアの弁護士 ︑R・
G・ハリバートンの出したパンフレツト
﹃植民地間の通商﹄は ︑ノヴァスコンア
の石炭産業にとっても関税の賦課が得策
であることを説いた ︒彼の主目的は保護
主義による国内市場の形成が石炭の需要
第 一 表
(単位:100万 ドル)
にとって肝要であることを説くにあったが ︑共通の利害と
経済的共感こそがカナダ中央部と沿海部の政治的関係を強化する絆であり ︑その意味そ関税は
﹁ ︲由
治領の人々を一体化する唯一のもの﹂とまで云ったのである ︒
ハリバートンのパンフレツトは ︑当時彼が中心人物の一人となって推進していた 〃カナダ第一●営社脚P︐ の済運動の一環として注目を集めた . コンフエデレーション後一年を経ずして推進されたこの運動は力十ダにとっては初のナショナリズムの展開であり ︑保護主義はその一つの強力な手段となり得ることを示唆するものであったからである ︒
ローズ ︑タッパーによるナショナル・ポリシーの言及は以上のような背景下になされたものであり ︑いかに彼らがその具体的内容に触れることを避けたとしてもそれが保護主義を暗示するであろうことは容易に察せられた告である ︒
と同時に彼らが注意深くその内容の言及を避けたのは ︑アメリカの態度をこれ以上硬化させまいとの配慮が働いていたに違いない ︒
カナダ産業の保護という命題は ︑まず当時の力すダにあっては西部のオンタリオの農民の利害を代表する ︑野党自
由党議員ヽたより議論の展開を見た ︒ 一八七〇年二月 ︑
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ャ .キ メ ロ が ン
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ル ブ ス ー
稚 の ィ
農 民
からの保護関税要求の請願を下院に提出したのをはじめと
カナダにおける﹁ナショナル・ポリシー﹂の決定とジョン・A・ して ︑ 一カ月後の三月七日 ︑同じく自由党のトマス・オリ
ヴァーは小麦 ︑小麦粉 ︑インデイアン・コーン ︑ホップ ︑
粗塩及び精製塩 ︑石炭への関莉増加を要求する動議を提出した ︒その中で彼は ︑彼の目的はカナダ人のためのカナダ
市場の形成と歳入の増加にある ︑としている ︒E・B・ウッド
︵ ブ
ラント・サウス ︑自由党︶は ︑﹁力十ダの利益と保護するという観点に立つ関税の改革以上に ︑カナダ西部 ︱
とくに農業地域 ︱に満足を与えるものはない﹂としてオリ
ヴィーを支持した ︒彼は過去二年間 ︑彼の選挙区の農民は開税の改正に深い関心を寄せて来た ︑と述べている ︵.
ォリヴァーの動議につづ/ヽ討論の内で ︑数人の議員はカナダ独目の経済的利益の追求を内容とする政策を採用しようということを﹁力すディアン・ポリシー﹂という語で衣現した ︒ケベック選出の保守党議員J・H︒ポープは ︑ ローズやタッパーと同じく自由貿易か保護貿易かといった原則荘一 触れずに ︑カナディアン・ポリシーの必要性を強調した ︒同じくケベックからの保守党議員W・H・ウエンブ
諏知待じ倍庁やい体抑﹁陣悔婦た ︵ をサ帥つ咋婢 相々知の初代首相ジョン・A・マクドナルドが ︑彼の残した膨大な量の手紙の中で初めて ︑カナディアン・ポリシーなる語に言及しているのが見られる ︒三月二八日 ︑ヤコブ・ヘス
マクドナルド︵ 大原︶
1 8 5 0 1 8 5 1
14 〔5 17 0 15 6 1 8 5 3
1 8 5 4 1 8 5 5 1 8 5 ( ; 1 8 5 7 1 8 5 8
1860
1 8 6 2 1 8 6 3 1 8 6 4 1 8 6 5 1 8 6 6
ヽ∞ぺ0こもヽヽ︵〇い召い¨●宮ヽ争︹5の0︼中 000︶︒ 晴
∞
1 8 6 8 1 8 6 9 1 8 7 0
一 島 一― ‑ 4 ‑―
史
苑
︵ 第
二十
巻三
二号
︶ ペ ラ ー
宛に
て た 手 紙
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っまり石炭・コークス ︑小麦及び小麦粉への関税はノヴァ
スコシアの石炭業者とオンタリオの農民にとって国内市場の形成を確保するために課せられるものと考えて良いであろう︒
この改正案をめぐり議会では ︑果してこれがカナダにとってナショナル・ポリシーと呼ぶに価するか否かが問われた ︒農業地域を代表する自由党議員で ︑彼自身が保護関税の提案を行なったT・オリヴァーはナショナル・ポリシーの大切な目的の一つは力十ダの両極︵当時はオンタリ
オと沿海諸州︶の間に通商を盛んにすることである ︑とし
てこの提案を支持した ︒同じくオンタリオの農村地域を代表する自由党のM・キヤメロンもカナダ産業の保護を主目
的 と
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ナ シ ナ ョ
ル ・ポ
シ リ 統 ー
耽 派
越 を て え 支 持 れ さ な
いわけにはいかない ︑と述べた ︒
しかしノヴァスコシア選出の自由党議員W・Fスが皮肉たっぷりにこの提案を﹁偉大なナショナル・ポリシー﹂と呼んだ時に洪条が沸き起こつたと議事録が伝えるように 張︶
自由党は保護貿易主義に反対する立場をとつており ︑ましてや保護関祝をカナダの十ショナル・ポリシーと呼ぶのはもっての他であった ︒例えばジェームス・ヤングは関税改正案一 生生計費と上昇させるものとして反対した ︒彼は ︑
実 巻 1ポ ン ドに付
石炭 ・ヨーク ス 1ト ンに付
塩 ホ ッ プ 酢 ・酢酸
小 友
1フ ッシェル(56ポ ン ドつにイ寸 5セ ン ト
1 ポン ドに付
1 ブッシェルに付
4 5 セ ン ト 5 0 セン ト
5 セン ト 10tう / ト 1て ン ト 4 セ ン ト 3 セ ン ト 2 5 セ ン ト 1 5 セ ン ト
ナショナル・ポリシーと称されるこの提案は ︑事実は一部の製粉業者 ︑塩商人の利益を一般大衆の犠牲のもとに増加させるだけのものである ︑と非難した ︒その上に尚危険で審分別なことには ︑この提案はアメリカに対して報復行為のような印象を与えることになり ︑カナダ人にかえって重
荷 を
課 す
こ と
に な る で あ ろ
う ︑ と
主 張 浬 し
.
野党自由党の領袖アレキサンダー・マッケンジーは十ショナル・ポリシーの語に特別な意味を附すことに強硬に反対した ︒彼はイギリスの自由貿易の伝統をカナダにおいて
継承する第一人者ではあったが ︑カナダのような若い国家にとっての保護関祝の重要性を認めないわけではなかっ
た ︒しかしながらマッケンジーにとっては ︑保護関税は歳入が目的の第一義であるべきであり︑保護はあくまで 〃附
随的〃でなくてはならなかった ︒彼は保守党政府の関祝
提案はアメリカヘの報復一措置であり ︑ これをナショナル・
ポリシーと称するのはヽろての他であるとした ︒
政府の政策はすべてすショナルなものである ︒何故なら
それは全国民の意見に合致し ︑全国民の要求に応えることを意図するものだからである ︒しかし ︑もしナショナ
ル・ポリシーが我々の隣人を苛立たせるものであり ︑双
方の通商を損い ︑国民の一方に課税することにより他方への不公平な好意を示す政策を意味するものならば ︑そ
ナカ
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おけ
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一 ︲ナ
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の政策はいわゆるナショナル・ポリシーの擁護論によっ
て正当化されることは出来ない ︒ ナショナル・ポリシーとはそれに先立ついかなる政策よりも多大に国家の繁
栄を促進する筈のものである ︒
しかしながら ︑この当時のカナダ人にとって最大の希望は依然アメリカ合衆国との互恵通商条約にかかっていたら
しい ︒すなわちこれこそカナダのナショナル・ポリシーで
はないか ︑という議論が盛んであった ︒ 例えば保守党の
M・P・ライアンはその方策は明示していないが ︑互京
一 を
も
たらす方策こそナショナル・ポリンーであると解釈し ︑ノヴァスコシア選出の保守党議員A・G・アーテボルドは ︑
すショナル・ポリシーを単なる石炭への課税などという局面ではなく ︑アメリカ市場斃 開放するような全政策力問題と十るべきであると説いた ︒同じくノヴァスコシアの利益を代表するタッパーは ︑制限付きの保護政策こそアメリカとのI恵︵ 通鞠 を得る唯一の方策である ︑との彼の持論を繰
返 し 述 べ
た ︒
J
A・
マ・
ク ド ナ
ルド
は そ の
場立
上 保 護 政 策 に つ い
言て
質 を と ら れ な い よ う 注 意 し て い
た様
見に
ら れ る が
︑ 合 衆 国 と の
恵互
通商
条 約 が 得 ら れ な
以い
上
︑ そ れ
代に
る ナ シ
ナ ョ
ル
ポ・
リ
シー
採の
用 は カ
ナダ
全 国 民
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求 で あ る と し て そ
採の
択 を 推 進 し よ う と し
た ︒
マク
ド ナ
ルド
︵ 大
原︶
小 麦 を除 く穀 物 〃
r l ヽ麦米分、ライラ莞杉〕1 バ レルに│ !
粉陰露誓淡7イ) ″
│‖Pl「:ノ,ルタ?′qメ7協θ rt9冴s2の r cθ,″初。″S9/Cα 77″冴α,
v ( , l I I l ( O t t a w a : I B T a v i O r , 1 8 7 0 ) A p 1 6 8
一 G ―
史 苑︵ 第二十三巻二号︶
我々は政策を持たなくてはならない︿予や政府は一つの
普遍的なカナディアン・ポリンーを主張している 政府は歳入委員会で作成された決議はカナディアン・ポリシーの具体化であると信じていると彼は関祝改正について述べた ︒
一方 ︑ 一八七〇年の関税提案の反対者達はそれが互恵条
約締結の可能性を増すどころかむしろ減少させるであろう
と論じた ︒代表的な議論はモントリオール出身の自由党議員 ︑トマス・ウオークマンによって示される ︑ナショナル・
ポリシーはカナダ人に互恵通商条約をもたらすどころでは
ゃい ︑ァメリカ人はこの関机を報復と考えて態度を益々硬
化 さ
せ る
違 に
い な
い ︑
い と う
の も で あ 控 っ
︒
以上のような論議を経て ︑ 一八七〇年の関税改正は議会を通過したが ︑結局これには最終的にナショナル・ポリシーなる名称を附されるには至らなかった ︒おそらくアメリ
カ合衆国に対する配慮︱︱︲カナダはアメリカによる互恵通商条約拒絶に対して報復的な保護関税を十ショナル・ポリ
シーとは銘打たないとの︱十 1が働いていたのであろう︒
註︵上︶カナダ初の中円的歴史キヤといわれるO・D・スケルトンは ︑十ショナル・ポリシーは﹁ローズが考案した語をしンクス︵ 第二代歳神︶が承認し ︑ マクドナルドが浦一
●一 ︺仰ユ命句●・しのrヽミミ持阜ヽsヽおや ヽ ︑し︑ ■︑︼マぃもや
ヽ ヽ∽
﹂ ミQS︲
ヽやミS︵rOp︑C●い Q伊りり坐r 中0岸卜︶︶や 岸印的
︵4︶も0ヽ ミヽヽ や車Sミ︵︺ミミきLざヽSヽ思ミCしもきヽSて■H
︵ぁ
さ
▼ 弓
ヽ民
︵以
卜
ヽ ざき
sヽ ミ
ヽヽ 蕊
に
もも き
ヽ う
引と
用
︒︶
︵5︶刃ュ澪二●︼営ニエ堂チFユ2デやヽきヽミGミきヽ哨ドs軋ヽ一〇ヽミ
SヽせちSやいヽSヽミもい単ヽ4﹄渉ヽヽヽきヽ︵〇一一斜O nじ●の一︶︲
F︐い二″︐ ︼∞一∞︶︼● い0
︵6︶ ﹂ゃヽミヽへヽヽもヽ革Sヽビ︑もヽ寧烏ヽもコ く巳 H︵津∞﹃0▼均 時P︼︵7︶ ︑ 章ミヽ埼 時﹃時
︵S︶Sミヽ宅N翠
︵Qツ︶ ヽけヽミヽ 母 的﹃C
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︶Sミ︼句︺曽
︵・ 1
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︵・ 2
︶ ヽやヽやミミSヽヽミぐも一き︑きP4ユ ︻︵卜∞﹃c▼●甲申淳c卜︲C押
︵・ 3
︶
ヽ いヽ ミ
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︵・ 4
︶
ヽ 章ミ
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︵・ 5
︶きミ︼埼馬馬
︹・ 6
︶きミヽ・一 遥F
︵・ 7
︶きミ▼・一 運う
︵・ 8
︶ヽ まミ︼一 ﹂ 的卜や
︵・ 9
︶Sミt句 ︼ ぷ的
︵2 ︒
︶きミせ︐均 岸 噂忌一■に ︵I
︵2 .
︶きミヽP︼ぷ∞
カナダにおける﹁ナンコナル・ポリシー﹂の決定とジョン・A 行させた﹂と述べた ︒ Oじ の汀一 0デ .命曾命︻単田81
︐o串ま●︻一一∽付C︻︼︐ 中∞0﹃︱淳C中N︶てOr︻▽内oふ ・QSヽSミS Sヽミヽキリ
杓 S き
ヽ い
ュ r
> 0 目
∽ デ 呈 一 仲
> チ E o
∪ 曾 単 ギ
︹撻く2一P弓oSpO一樹じ︶や置うこの見解は一般に受
け 入 れ ら れ て い る よ う で あ る
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︵ 例 え ば
︑ 月
>!
居 申ハ一︻住く︼一 ∽ ツふo︐︼伸串︹ ﹁︻ 漱P NO≡ていoマン いヽやヽはヽミ﹄ヽざヽセ︶ヽ6ヽ
ぶ︼ヽヽもち ヽヽ QSミ特軋ヽいヽ 卜豊∽革G〜 ∽もヽヽcヽベミ ヽヾc中ヽ豊あヽ
︵Oユ宮J︶じopぞE一 ″ヤツ ヽU9■待の9︼P︼ Oc﹃V日 ︼ 00 を参照 ︒︶一八六七年十一月六日から開会された初のカ ナダ自治領議会で ︑蔵相ローズは十二月七日に ︑又翌年 は四月二十八日に予算演説を行なっている ︒現在 ︑その 要約しか残されていないが ︑その中にはナショナル・ポ リシーの語は見出されな
い ヽP 命営&QミヽヽSS
もきミらヽヽ的6NIヽ∞6G︵日≡︼魚一呂y均将﹃う﹃が句や ︼c∞︲
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三
一八七〇年の関税改正及びそれをめぐる論議では ︑製造工業保護は殆んど重点がおかれなかった ︒しかし ︑一ヽれから一年余りを経た一八七一年の末 ︑ジョン・A・マクドナルドはナショナル・ポリシーとして新Lい提案を示峻する
手紙を書いている ︒
製造工業を保護するという問題を扱うのは微妙である ︒
しかし ︑私が思うのにこの問題は操作し得るものであり
そうすることによってグリツト反対派︵自由党のこと︱
筆者注︶に強い圧迫をかけるであろう︒
ブラウン︵ 自由党のリーダーの一人 ︑ジョージネ′︐ラウンー筆者注︶ ︑マッケンジー等は自由貿易を本じている ︒
彼らはヨブデンとその学派の信者なのだ ︒
私は ︑我国の製造工業及びその生産物に附随的な保護を与えることの出来る ︑歳入を目的とする関税改正を更求する叫びはうまく行くと思う︒
グリット達が前会期に鼻であしらい ︑次の選挙で探るであろうものが ︑すショナル・ポリシーなのだ ︒
この手紙のニカ月ぁまりのち ︑彼は同じくナショナル・ポリシーについて次のように説明した ︒
私は ︑我々の政策が保護主義と軌を一にするというパテマクドナルド︵ 大原︶
――― ヽ 一―
一‑ 0 ‑一
史 苑︵ 第三十二巻二十︶
ノン︹ジヤーナリスト︑のらの保守党の機関紙メイル紙の編集者︱筆者注︶の意見に全く同意する ︒ 保護とい・旦一 一暑ゲLのものはタブーに違いない ︒しかし我々は附
随的保護という ︑アメリカ合衆国にしっべ返しをするようなナショナル・ポリシーヘの転換を ︑響き渡らせるこ
とが出来るだろう ︵セ
マクドナルドと保護主義の問題についてはこれは又別の考察が必要なのであるが ︑ここでは少くともこの時点でマクドナルドが ︑ナショナル・ポリシー=保護関税政策を保守
党の綱領として標傍することに踏み切ったらしいとだけ云っておこう︒しかもこれは容易ならざる決定であった ︒手
紙にも述べているように当時の大英帝国の自由貿易の風湖は依然強いものであったし ︑カナダにとってはヨンフェデレーション以前からの経済的伝統と訣別するものであったからである ︒
十ショナル・ポリシーに関するマクドナルドのこの態度
は何が原因であったのであろうか ︒この頃の彼の動静を眺
めてみると ︑まず来るべき選挙対策ということが頭著な現
象として浮かびあがってくる ︒ワシントン条約が可決されてのち ︑ドミニオン成立後三度目の総選挙は時間の問題で
あり ︑ マクドナルドは西部農民を地盤とする自由党に対抗する手段を打ち出そうと腐心していた ︒ジョージ・ブラウ
︵4︶一だ ︒
マクドナルドはオンタリオ西部の農民に対抗する勢力として ︑ ハミルトンなどの工業都市の住民に目をつけたのである ︒のちにカナダのピッツバーダ ︑或はバーミンガムと
称され ︑力すダ有数の工業都市となるハミルトンは ︑既に
製造工業の揺監地とし下智りれていた ︒カナダ保護主義の父と云われ ︑早くも一八五八年カナダ産業保護協会を組織したアイザック・ブキヤナンは ︑ 一入六0年ハミルトン
選出の代議員として次のように書いた ︒
適当な保護政策が採られない限り ︑︵私は資本と人間の︶移入を進言したくない ︒現在のように ︑確固たる政策の
不在がつづく限り ︑資本がカナダに流入しないことはすでに余りにも明らかである ︵屯
興味深いことは ︑このブキャナンのパンフレットがマクドナルド文書中に発見されることである ︒ブキャナンとの文通も七 ︑八通残っており︑ マクドナルドが多少なりともブキャナンの影響を受けたことを物語っている ︒ブキャナンは同じパンフレツトの中でカナダが世界的に競合す
る 原 料 及 び 製 造 工 業 品 へ の 関 税 を 提 案 し て い る が ︑ 未 加 工
品に関しては一八七〇年の関税改正が要求を一応満したと考えられよう︒そこで一八七〇年以後は ︑製造工業者が石炭業者 ︑農民と同様の要求をするにいたり︑その声がハミ
カナダにおける﹁ナショナル・ポリンー﹂の決定とジョン・A・ ンのグローヴ紙に匹敵する保守党の機関紙の発行は彼の重
要な対策の一つであった ︒ 一八七二年三月三十日 ︑初のト
ロント・メイル紙の発刊をみたが ︑その内容を編集長パテソンと相談するにあたって ︑マクドナルドは次のように書
いている ︒
遅くも三月十五日迄に新しい新聞の発刊を見せていただきたい ︒そうすれば議会の開会までにたっポリ一カ月は
それの活動する余地があるからだ ︒
新しい新聞は関税問題に関するナショナル・ポリシー
に立ち入らなくてはならない ︒そして ︑ 〃保護〃という
言葉は避ける一方 ︑我国の製造業者 ︑工業従事者の利益を附随的に助研ち ような方法での関税調整を擁護しなく
てはならない ︒
マクドナルドが製造工業保護を選挙と結びつけて考えてい
たことは次の手紙からでも明らかである ︒
保護の問題に関して ︑貴方はハミルトンの職人 ︑製造業者達に ︑ブラウン ︑ブレイク ︑ マッケンジー︹いずれも自由党の指導者︱筆者注︶やその他の人々は過激な自
由貿易論者であり ︑彼ら︵ハミルトンの職人 ︑製造業者︱筆者注︶にとっての唯一の希望は保守党を通じてしか
実現されないことを示し ︑説かなくてはならない ︒保護問題に関するすべてのことが次の選挙にかかっているの
ルトンで最も強かったであろうことは容易に推祭出来るのである ︒マクドナルドが選挙対策としてハミルトンをはじ
めとする都市の製造業者に目を付けたのは ︑当時のカナダにおける彼らの成長を物語ると同時に ︑いわば当然であっ
たといえよう ︒ でヽ ヽルトンにおける製造工業保護の要求の声がいかに高かったかは ︑野党自由党の中でもハミルトン選出の議員は ︑丁度沿海諸州を代表する保守党議員が保護主義を積極的に支持しないのと同様に ︑自党の綱領に反して保護主義を唱えたことからも明らかである ︒例えばチャールス・マギル
︵ 自
由党 ︑ でヽ品一トン選出︶は一八七二年四月十七日 ︑﹁私の意見では ︑人々を幸せにし ︑我々の憲法がで 満足させるには ︑製造業者が保護されなくてはならない﹂という趣旨の演説を行なった ︒ マギルはこの演説でナショナル・ポリシーという言葉は使わなかった ︒しかし彼の議論は工業の振興による雇備機会の増大と移民の奨励を結びつけ ︑それがひいては全国的な規模での国内市場形成をもたらすような政策を提案している点で ︑のちの歴史家によってナショナル・ポリシーと称される政策の吟味の上で重要であると云えよう︒
マクドナルドによる保護関税の提唱はもう一つの重要な側面を持っていた ︒すなわち ︑六月になるとマクドナルド
はナショナル・・ポリシーの考祭を一段とすすめ ︑鉄道及マクドナルド︵大原︶
―‑ 10 ‑一
一‑ 1 1 ‑ 一
史 苑︵ 第二十三巻十三じ
び連河の建設などいわゆる国内交通改良から生じる国庫の
赤字がすショナル・ポリシーにより補項されることを指摘
した ︒
現政府が紅茶及びコーし︱の関税を取除いたことは ︑製
造業者にとっては附随的保護こそが我々の原則であるこ
とを示す充分な証拠となるに違いない ︒連河の拡張 ︑太
平洋鉄道建設への負担が益々増加するのに ︑紅奈とコー
ヒーからの関税免除によって歳入に生じる欠損は ︑何ら
かの方法で埋められなくてはならなやP それは製造工業
品への課税によってのみ可能であろう ︒
つまり一八六九年介ドソン湾会社から広大な北西部領土
を譲り受け ︑ 一八七一年には大陸横断鉄道敦設を最大の条
件にブリティッシュ・コロンビア州の連邦加入をとりつけ
た保守党政府にとって ︑カナダ太平洋鉄道建設問題は俄然
クローズ・アップされ ︑その資金源としての歳入増加は緊
急の条件となったのである ︒
更にこの時点で注目すべきは ︑関祝問題に関して農民と
製造業者の協力が必要なことをマクドナルドが説き始める
ことであろう︒
製造業者は農業利益を代表する人々の票なしには議会
で保護主義を遂行することは出来ない ︒
製造業者にとっての十ショナル・ポリシーを推進する ためには ︑彼らは外国からの農産物への課税に同意しな
くてはならない ︒農民と製造業者が結託して行動するな
らば ︑我々はこの先何年にもわたって恒久化する関税と
獲得することが出来る ︒
一八七二年の総選挙で保守党は過半数を得たが ︑選挙後
初の国会会期中に ︑モントリオール・ヘラルド紙がいわゅ
る﹁パシフィック・スキャンダル﹂の発端となる ︑力十ダ
太平洋鉄道会社社長ヒュー・アランの手紙を暴いた ︒この
事件は ︑ヒュー・アランが新たに発足する鉄道会社の利権
を得ることと引き替えに保守党に選挙資金を提供したこと
を示そうとしたものであったが ︑ マクドナルドが抗弁した
ように力十ダ太平洋鉄道の敦設を請負ったグループと選
挙資金の間に直接の因果関係は稀薄であったかもしれない
が ︑保守党といわゆる企業家グループの連繋は否応なしに
示された ︒ マクドナルドのひきいる保守党内閣は一人七三
年十一月に総辞職し ︑アレキサンダー・マッケンブーが日
由党内閣を組閣した ︒自由党は翌一八七四年の選挙に人勝
し ︑以後マクドナルドは五年ののち一■び政権の庄に返り咲
くまで ︑ ″ナショナル〃であると否とに拘らず政府?遂行
する政策には直接関与しないことになった ︒その上 ︑丁度
マッヶンジーが政権を掌握した頃から ︑主として世界貿易
の不振によりひき起こされた不況が力十ダをまきこみ ︑政
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︵5︶きヽミ︶P∝︵ ︺SP三︻ の呂!営F毎・3げ︺工的毎or伊︼S●C督ov︵6︶ゃやヽミミミsヽヽきじヽしきミ8一ズと 日︵岸∽﹃時yt︐卜り︲卜つ
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自由党の登場と不況によりいわゆるナショナル・ポリシーは棚上げされた ︒カナダの主要商品の需要はイギリス ︑
アメリカの経済状況の悪化により激減した ︒ 一八七六年の木材輸出は一八七三年の半分に減り ︑ 一八七四年八九〇〇万ドルであった総輸出高は一八七九年には七一〇〇万ドル
なぃ勝少 っ
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担的巧ばな ブ レ
か諦顛た的的前封録に登場するのは ︑経済不況の一層の深刻化と大陸横断鉄道建設の進行により ︑次頁第二表に見るように歳入問題が一段と悪化した一八七六年に至ってであつた ︒﹁ ︒ハンフィッ
ク・スキャンダル﹂以後沈滞を極め ︑マクドナルドも一時は引退を決意したと云われる保守党の内部事情にとっても ︑
ナショナル・ポリシーどころではなかったであろう︒この年 ︑自由党の予算教書を批判する演説の中で ︑チャールズ・タッパーはナショナル・ポリシーなる語を久々に使用したが依然その内容を明確にすることを差控えていた ︒
私は自由貿易論者でも ︑保護寅易論者でもない ︒自由貿易か ︑保護貿易かということを四〇〇万を抱える国家でマクドナルド︵ 大原︶
‑12‑―
一‑ 13 ‑―
史
苑︵第三十二巻ニロこ
抽 象 的 な 原 則 と し
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説
後の
半 に お い て 示 唆 さ れ て い
同時にそれは製造業者に前 u能な限り最低のコストで原料を提供し得るという議論であり ︑﹁これこそカナダにとって唯一Q具のナショナル・ポリシーである﹂と彼は主張した 屯
グローヴ紙の編集長を当時 一つとめていたA・H・ダイモンドは同様に ︑ナショナル・ポリシーは全自治領を一つの国家に結合する助けになるべきものであるのに ︑これ迄ナショナル・ポリシーのチャンピオンが擁護して来たものは沿海諸州の人々のパンに課税することであつた ︑と非難し︑
﹁我々は自由貿易の党である⁝我々はこの原則をこそカナダの政策として採用する﹂﹂述べた ︒
しかしながら ︑自由貿易を奉ずる与党自由党の原則に拘らず ︑ 一八七六年の製造工業保護の強い主張は同じ自由党議員の中から出た ︒ でヽ ヽルトン選出の自由党議員A・アー
ディングはタツパーの演説に不満の意を表明し ︑製造業者の救済を充分に考慮していないと非難した ︒アーヴィングの提案はナショナル・ポリシーとは ︑外国から入って来る工業製品に関しては﹁現行の関税に少くとも一〇 ︒ハーセン
ト
︵ を珊 加
す る
﹂ こ
を と 意 味 す べ で き あ る と ︑
い う
の も で あ
った ︒モントリオール中心部を代表する自由党議員B・デヴリンは ︑製造工業の保護を内容とする﹁一 具のナショナル・ポリシー﹂を支持すると言明し ︑彼の選挙民はこの意味でのナショナル・ポリシーの採用を望んでいると言った 屯
カナダにおける﹁ナショナル・ポリシー﹂の決定とジョン・A・ るように彼はこの時までには保護主
義の原則をとるに至ったとみられ
る ︒タッパーの言及につづいて幾人
かの議員がナショナル・ポリシーの
吟味を行なった ︒アメリカとの互恵
通商条約停止に代る政策としてはじ
めは模索され ︑次には保守党の選挙
向けの ″政策〃を打ち出すために使
用された岳葉が ︑この度は世界的な
不況の影響を蒙っているカナダ経済
の救済策として再考慮されるに至っ
た ︑ と云えよう ︒
自由党議員には依然ナショナル・
ポ リ シ ー を
一八
七
〇 年 の 関 祝 改 正 と 同 義 語 と み な
し ︑
不 賛 成 を 示 す も
のが多かった ︒例えばT・ウォークマンは﹁石炭一トンあた
りにつき工〇セントの課税﹂と定めたナショナル・ポリシ
ーには同意出来ない ︑と述 ︑佑︶彼らはこれに代り︑自由買
易をナショナル・ポリシーとし■っ ︑との提案を行なっ
た ︒J・ヤングは相変らず ︑カナダの製造工業を奨励す
る唯一の方法は ︑カナダを世界中で最も生活費のかからな
い国として移民を魅了することである ︑と説きっづけた ︒
野党である保守党はここにおいてマクドナルドの議論を継承し ︑製造工業と農業の双方の保護の価値を論ずるようになった ︒ 一八七六年三月七日 ︑ジョン・A・マクドナルドが下院で行なった演説は ︑時に
保守党有名すのなシ一 ︲ョ
ナル・ポリシーが議会に提示された最初の形﹂と称されることがあるが ︑不況下にある製造工業に何らかの救済策が必要であることを表明したのち ︑彼は 〃聞税の再調整声を求める動議を提出した ︒ マクドナルドによればそれは ︑企業の不振を緩和するのみならず ︑一八七〇年の関税で保護された農業生産と掬
︶ 様
に ︑製造工業を保護 ・奨励しようヤと
いうものであった ︒彼は当時の ″常識〃に抗して ︑保¨護主義は経済理論の点からみても採用されるべきである ︑と説き ︑例えばJ・S・やヽルを引用し ︑幼稚産業の奨励を目的とする保護政策をミルが正当化していると述べた ︒又一八五八年のガルト関税はすショナル・ポリシーの原則
十 1
即ちカナダはカナダの利益のみ追求すべきであるという原則︱に沿ったものであった ︑とし ︑保護政策がカナダのこれまでの経済原則からの離反でなく ︑むしろ伝統的なものであることを強調した ︒
マクドナルドの議論は ︑例えばケベックの農村地域を代表する保守党議員 ︑L・F・R・マッノン等によって支持された ︒彼は農民にとつても製造工業保護は有利であり ︑
マクドナルド︵ 大原︶
第二表 連 邦予算 内分 け (単 位 :100万 ドル〕
│ず
1 3 7 1 4 4 1 5 5 1 9 4 20 7 21 0 24 5 2■ 6 22 6 22 9 22 4 27 0 23 4
13 7 1 4 5
1 8 υ 2 5 2 3 8 6 3 3 0 3 2 3 3 1 1 3 1 6 2 9 5 2 9 6 3 2 8 3 2 6 3 3 4 4 1 6 5 6 5
輸通信 係支出
1 8 1 7 1867
1868 1869 1870 1871 1872 1873 1874 1875 1876 1877 1878 1879 1880 1881 1882 1883 1884 1885 1886
8 6 8 4 9 3 11 8 12 8 12 9 14 3 15 3 1 2 8 12 6 1 2 8 1 2 9 1 4 1
39 9 1 8 4
2 1 6 2 3 0 2 0 0 1 8 9 1 9 4 2 2 4 29 6
35 2 36 8 32 8 33 4 33 5 35 8
出lHll i M C Urquhart,ed,471sナ ο/″び′′S,αど′訪 岱 ゲ Cα″クブ。 (TOrOnt(〕 :Macmillan CO,1965), llp 198‑203
一‑ 14 ‑一
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