夏目漱石におけるナショナルなもの
一その文学観・文明観を中心として一
木
村
時
夫
一︑明治の知識人一漱石
夏目漱石におけるナショナルなもの
私はここしぼらく︑日本の近代文学に現われたナショナリズムというテーマを追って︑明治以降の主な文学作品に
眼を通しているが︑最初の感想では︑そのような作品の中に︑ナショナルな表現が意外に少ないということであっ
た︒しかしそれはナショナルの意味を︑日本の発展︑なかんづく大陸政策の遂行と考え︑戦争の謳歌とそれへの協力
と解した場合であって︑それはいわゆる戦争文学といわれるものの一︑二を除いてはきわめて少ない︒しかし読み進
むにしたがって︑ナショナリズムをそのような対外進出の思想行動とのみ考えず︑その国に独自な政治︑社会︑文化
の伝統を認識し︑異質の文明の影響からそれらを擁護し︑維持しようとする一面のあることを考えると︑そのような
表現もまた意外に多いことに気がついた︒ここに取上げた夏目漱石にしても︑日露戦争中からその後にかけ﹁吾輩は猫
である﹂をはじめ︑﹁草枕﹂﹁二百十日﹂﹁野分﹂等の主要作品を発表しているのであるが︑それらはすべて戦争そのも
のを謳歌するようなところはなく︑その推移を冷静に眺めている︒しかし戦争そのものによる日本の種々な変貌に対
しては︑絶えず批判し︑日本の将来に対する深い憂慮の情を示している︒かりに対外進出の主張や行動を積極的ナシ
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ヨナリズム︑伝統維持の主張を消極的ナショナリズムとでもいうならば︑日本の近代文学︑ことに明治の文学作品に
は後者の色彩がきわめて濃厚である︒かつて江藤淳氏は︑明治︑大正︑昭和各時代の文学者の姿勢の特色に言及した
中で︑明治の作家について﹁つねに日本人としての文化的自覚を失わず一種強烈な使命感によって生きていた人びと ︵1︶であった⁝⁝実際何を書くにせよ︑彼らは一様に﹃国のために﹄書いた﹂といっているが︑首肯されるべき見解であ
る︒ この明治の作家に特有な国家意識と︑それへの使命感が︑何に由来するかを明らかにすることは容易である︒すな
わちそれは幕末における日本の開国の事情の由来を明らかにすれぽよいのである︒日本が世界から孤立した鎖国政策
を一意して開国に転じたのは︑圧倒的優位をしめる西欧文明の進攻の前に︑そうせざるを得なかったのである︒すな
わち国を開いて西欧文明を摂取し︑日本自らが西欧諸国と比肩するに足る国力をもたぬ以上︑国家そのものの独立を
維持し得ないことを自覚したからである︒西欧文明の摂取は国家の存立をかけた︑国民的使命として受容されたので
ある︒しかし明治人の宿命は単なる西欧文明の摂取に留まらなかった︒なぜならぽ近代国家として国際社会に仲間入
りするために必要な西欧文明は︑固有な日本文明の変質をもたらすからである︒日本文明が異質文明の影響の下に変
質し等質化することが︑日本の将来にとってどのような意味をもつか︒日本の伝統をふまえての西欧文明摂取の方法
はないものか︒これらが明治知識人に共通の課題となったからである︒その点︑明治の知識人が西欧文明に接して抱
いた緊張感は︑かつての日本人が中国文明に接した場合の態度とはいちじるしく異なるものであった︒それはもはや
新奇なるものに対する︑単なる憧れや好奇心ですむものではなかった︒それは政治経済の機構制度を根底から変革さ
せ︑国民の日々の実生活の変革をももたらしかねないものであったからである︒そうしてそれは同時に日本的伝統の
存立にもかかわる事態であったからである︒
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夏目漱石におけるナショナルなもの
このことは明治の日本人のヨーロッパへの留学という事実にも見られる︒というのは文学者でいえば漱石も鴎外
も︑ひとしくヨーロッパに留学しているが︑彼らの留学は決してその知識や思想の酉欧化をもたらさなかった︒その
留学は日本的なものと西欧的なものとの対決︑すなわち摂取しなけれぽならぬ西欧文明の影響下において︑日本の将
来をどのような方向に位置づけ︑日本的なものをいかに保持しなけれぽならぬかという︑苦悩にみちた一時期であっ
た︒鴎外は医学研究のため︑陸軍省留学生として明治十七年八月に渡欧するが︑その﹁航西日記﹂の冒頭に﹁喜ぶな
からんと欲して得べからざる也﹂︵原漢文︶と記し︑ヨーロッパ留学を歓喜している︒そうしてその後の記述も︑そ
の行くところどころで学ぶべきものを学び︑医学を通じて国家に稗益しようという抱負に燃えている︒しかしドイツ
滞在中の面外はやがてそのノートに﹁文明は歴史的基底の上に存する⁝⁝たんにうまく考へられただけの理想などは
実現し得るものではない﹂と記し︑日本の西欧化に疑問をいだくようになる︒そうしてドイツ滞在中の著作である
﹁日本兵食論﹂や﹁日本家屋論﹂︵ともに明治十八年の著作︶等においては︑いたずらな西欧化論を排し︑日本の伝 の統に基づくべきことを主張し︑﹁忘れられてならないことは︑数百年来よしとされてきた風俗習慣にはなにかよい内
実があるにちがひないといふことだ︒さもなければそれ程永く続いてくることはなかったであらう﹂ともいってい
る︒その小説﹁妄想﹂︵明治四十四年︶の中で︑彼が自らを﹁洋行帰りの保守主義者﹂と言っていることも周知のこ
とであろう︒鴎外はひと度は日本の将来のモデルとし︑その摂取に意欲をもやしていた西欧に住み︑その文明の実体
に接するにおよんで︑文明そのものに深く思いをいたすとともに︑異質文明相互の関係についても考えるところがあ
ったのである︒
このことは漱石についても同様である︒そもそも漱石が江戸時代の名残りの濃厚な環境の中にあって英文学に志し
たのも︑種々な理由はあったであろうが︑この新しい学問を通じて国家に稗益したいという意欲にかられたものであ
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ることはいうまでもない︒少なくとも︑文部省留学生としてロンドンの土を踏むまではそうであった︒しかしロンド
ン滞在中︑漱石は英文学を研究することの意義に疑問を感じ︑むしろ後悔しこれを放拙している︒そうしてイギリス
の自然的民族的風土の中にあって︑東洋的なるもの︑日本的なるものへの回帰を自覚し︑西欧文明そのものに対して
も批判的となっている︒帰国後の漱石はそのような文明批判の立場に立って︑日本の現状ならびに将来についてその
憂慮を口にし筆にもしているのである︒漱石の留学期間はかつて西欧を志向した者が︑その西欧に対して日本をもっ
て尉決しようとして戦った︑懊悩の月日であったといえよう︒そうしてそれは鵬外や漱石に限らず︑明治の知識人に
共通の懊悩であったといってもよいであろう︒
私は本稿において︑漱石が西欧との対比において日本をいかに考え︑その将来をどのようにあるべきであると考え
たか︑ということ︑言いかえれば日本の伝統をどのように考え︑蕩々たる西欧文明の影響において︑それをどのよう
だ維持し︑それを日本の将来の発展にどのように資そうとしたのかを考えてみたいと思うのである︒
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二︑旧き道義性
漱石は慶応三年︵一八六七︶︑当時牛込馬場下の名主であった︒夏目小兵衛直克の五男として︑今の新宿区喜久井
町一番地に生まれた︒喜久井町という地名も︑また今も残る夏目坂の名も︑彼の父が維新後名づけたもので︑ことに
喜久井町というのは︑夏目家の定紋が井桁に菊であったところに由来するという︒漱石自身﹁硝・子戸の中﹂で︑
父は名主がなくなってから︑一時戸長といふ役を勤めてみたので︑或はそんな自由も利いたかも知れないが︑それ
を誇りにした彼の虚栄心を︑今になって考へて見ると︑厭な心持は疾くに消え去って︑只微笑したくなるだけであ
る︒
夏目漱石におけるナショナルなもの
父はまだその上に自宅の前から南へ行く時にぜひ共登らなけれぽならない長い坂に︑自分の姓の夏目といふ名を
付けた︒
といっている︒このようにかなり大幅な権限をもち︑社会的地位も高かった︑名主戸長の家に生れながら︑漱石には
後々までその家柄を背景にしたような権威ぶったようなところはない︒その漱石が二歳の時に里子に出され︑十歳
︵明治九年︶の時︑実家に戻るまで︑養家ですごし︑父母兄弟との関係のうすかったことによろう︒里子に出された
のは︑これも漱石が﹁硝子戸の中﹂で︑
私は両親の晩年になって出来た所謂末っ子である︒私を生んだ時︑母はこんな年歯をして懐妊するのは面目ないと
言ったとかいふ話が︑今でも折々は繰り返されてみる︒
単に其事ぽかりでもあるまいが︑私の両親は私が生れ落ちると間もなく︑私を里に遣ってしまった︒
といっているが︑理由の大半は経済的事情ではなく︑むしろここにあったのであろう︒この時の養父塩原昌之助との
関係が後々までも尾を引き︑﹁道草﹂ 一篇となったことは人のよく知るところであるが︑漱石がその全作品にわたっ
て示した︑冷厳な人生観照と︑それと表裏をなす対人関係における深い愛情とは︑この幼時の環境と無関係ではない
であろう︒
しかし漱石の思想を中心として考える場合︑漱石の経歴中︑最も重要なものは︑彼が慶応三年すなわち明治の前
年︑牛込に︑しかも名主の子として生れたことである︒その理由はまず第一に︑明治の前年︑すなわちまだ江戸時代
の名残りの濃かった時代に人となったということであり︑第二には明治とともに生きたということで︑それだけ明治
という時代の風潮の影響を︑よきにつけあしきにつけ︑強くうけたということである︒第三に牛込に名主の子として
生れたということは︑江戸時代のいわゆる江戸趣味というものを︑武士の家においてでなく︑名主という庶民の上層
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に属し︑恐らく特定の職業をもたなかったであろう遊民的生活の中で︑それだけいわゆる江戸的な雰囲気の中で人と
なったということである︒漱石は
﹁もうしもうし花魁へ︑と言はれて八ッ橋なんざますえと振返る︑途端に切り込む烈の光﹂といふ変な文句は︑私
がその時分南麟︵田辺一筆者︶から教わったのか︑夫とも後になって落語家の遣る講釈師の真似から覚えたのか︑
今では混雑してよく分らない︒︵﹁硝子戸の中﹂︶
といっているが︑よくこの言葉が口をついて出たらしく︑幼時からそういう場所に行きなれていたことを示す︒漱石
の姉たちもよく芝居見に行ったらしく︑当時馬場下から飯田橋まで︑朝早く提灯をつけて歩き︑そこから船にのって
浅草の猿若町まで出かける様子を回顧している︒なお﹁硝子戸の中﹂では早偏した長兄を回顧して
彼は能く古渡唐淺の着物に角帯などを締めて︑夕方から宅を外にし始めた︒時々は紫色で亀甲型を一面に摺った亀
清の団扇などが茶の間に放り出される様になった︒それだけならまだ好いが︑彼は長火鉢の前へ坐った儘︑しきり
に仮声を遣ひ出した︒しかし宅のものは別段それに頓着する様子も見えなかった︒私は無論平気であった︒仮色と
同時に藤出挙も始まった︒一私は真面目な顔をしてた黛傍観してみるに過ぎなかった︒︵﹁硝子戸の中﹂︶
と記している︒
この一節は漱石が養家から戻って︑再び生活し始めた実家の雰囲気をよく伝えている︒それは濃厚な江戸趣味と︑
少し頽廃と遊蕩の気配を感じさせるものであるが︑﹁それを頓着する様子も見えなかった﹂ 一家の様子をである︒事
実漱石も学生時代︑娘義太夫をはじめ︑講談や落語の席に足しげく通っている︒漱石自身そのような江戸趣味を愛し
たぽかりでなく︑そういう趣味の中に生きる︑いわゆる江戸っ子の気質をも愛し︑彼自身江戸っ子らしく生きもした
のである︒そのような漱石の江戸っ子らしい口調なり気質なりは︑彼が親しい友人や目下の者に送った書簡の中で︑
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墨夏目漱石におけるナショナルなもの
随所に見ることができる︒﹁坊っちゃん﹂一篇は︑そのような漱石の江戸っ子気質を最もよく示したものであると思
う︒﹁坊っちゃん﹂ の内容は松山中学における対同僚︑対生徒の物語が中心をなしているようであるが︑なるほど主
人公の人物観や怒りや正義感︑向う見ずな行動等は︑漱石の江戸っ子らしさを十分に示している︒しかし﹁坊っちゃ
ん﹂一篇を通ずる主たるモチーフは︑坊っちゃんと女中の清との交情︑さらにいえぽ封建的ともいえる主従間の美し
い交情である︒﹁坊っちゃん﹂一篇は︑その幼時における女中清のやさしい保護の回想﹁十年来召し使って居る清と
いふ下女が︑泣きながらおやぢに詫まって︑漸くおやちの怒りが解けた︒それにも関らずあまりおやじが怖いとは思
はなかった︒⁝⁝母が死んでから清は︑おれを可愛がつた︒時々は子供心になぜあんなに可愛がるのかと不審に思っ
た︒つまらない︑廃せばいΣのにと思った︒気の毒だと思った︒夫でも清は可愛がる﹂に始まり︑清が越後の笹飴を
笹ごと食べた夢についての手紙を中にはさみ︑松山中学を辞して︑
おれが東京へ着いて下宿へも行かず︑革鞄を提げた儘︑清や帰ったよと飛び込んだら︑あら坊っちゃん︑よくま
あ︑早く帰って来て下さったと涙をぽたぽたと落した︒おれも余り嬉しかったから︑もう田含へは行かない︑東京
でうちを持つんだと言った︒
⁝⁝清は玄関付きの家でなくっても至極満足の様子であったが気の愚な事に今年の二月肺炎に罹って死んで仕舞っ
た︒死ぬ前におれを呼んで坊っちゃん後生だから清が死んだら︑坊っちゃんの御寺へ埋めて下さい︒御墓のなかで
坊っちゃんの来るのを楽しみに待って居りますと言った︒だから清の墓は小日向の養護寺にある︒
という記述をもって終っている︒先に﹁坊っちゃん﹂一篇の主たるモチーフが︑女中清との交情にあると言った理由
である︒恐らく女中清は実在の人ではなく︑特定のモデルもなかったであろう︒しかし漱石がこのような人間関係を
愛し︑義理人情︑律義︑正義といった︑旧いともいうべき道徳に生きることを半面の理想としていた︑とはいいうる
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であろう︒次に掲げるのは彼の書簡集からの抜すいである︒
ブリタニカヲ見レパアルダラウ
拝啓僕は或人からたのまれてモロッコ国の歴史の概略をしらべる事を受合ったが多忙でそんな事が出来ない君二三
時間を潰して図書館に入り五六ページ書いてくれ給へ御願ひだから古来からの政体等の変選が一寸分ればよい右至
急入るから其積りで御願申す左様なら 是非やってくれなくてはいけない︑いやだ杯といふと卒業論文に零点をつける︒
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今日はなぜ上らずに帰った︒伝四が来て雑煮を食はせうといふから一所に晩飯を食った︒君も雑煮を食ひに来給 ヨ へ可成晩食の時が落着いてよい︒
︵前略︶ 人のところへ手紙をよこすに名宛人の名前丈をかいて自分は宇戸かくなんてえのは失敬だよ︒自分の事 ママは大抵の場合には︵真平︶とぽかりかいて姓もかかないのが礼義である︒先方を尊敬し様とする場合には向ふの姓
だけかいて名を略す或は其人の号をかく︒自分の号を書くのは矢張失礼になる︒ る 是が昔しの礼義であります
第一号
尊敬の場合
一月四日 夏目様
真 綱夏目漱石におけるナショナルなもの
同等の場合 極懇意の場合
又は目下へやる 場合
第二号
一月四日
夏目金之助様 野間真綱
一月四日
金之助様
真綱
明後二十五日土曜日食牛会を催ふす︑鍋一っ︑食ふもの旧く伝四日く奇瓢曰く真析曰く寅彦曰く虚子曰く四方即日 ︵5︶く漱石︑午後五時半迄に御来会を乞ふ牛の他に何の食ふものなし
御 届
一パナマ製夏帽一 ︵6︶右者本日本郷唐物店にて相求め爾後カブツテあるき候間御驚きにならぬ様致度右御釜及候也
伝四先生︑僕は今週休んで来週から開講と致す積りだから此旨を一寸聴講の諸君子に報知してくれたまへ︒むだ
9
︵7︶足をさせるのも気の毒と思ふ︒
10
三重吉さん︒
︵8︶
る
先生様はよさうじやありませんか︑もう少しぞんざいに手紙を御書きなさい︒あれはあまり町檸過ぎ︵9︶啓上来る九日頃愈書斎の畳替を仕るにつき手伝に御出掛願候右用事迄早々頓首
これらはいずれも漱石が︑東大における教え子たる青年に与えたものであるが︑これによって彼の江戸っ子らしい
口調や気質のいくぶんかにふれることができるばかりでなく︑その温い交情の様子は︑﹁坊っちゃん﹂一篇における︑
坊っちゃんと清との交情に似たものがある︒その他この期における漱石の書簡には︑教え子の性格に対する温い思い
やりや︑その日常の生活から就職の世話にいたるまで︑すべて美わしい師弟間の交情をよく示している︒そうしてそ
の間にあっても︑教え子に対する先生︑弟子に対する師の姿勢を密なわないところに︑封建的ともいうべき道義の強
く貫かれていることを感ずる︒
漱石がいかに古い道義を生活の信条としていたかは︑﹁虞美人草﹂の小夜子の父をして︑小野の不徳を責め︑その
代理人の浅井に対し
人の娘は玩具ぢやないぜ︒博士の称号と小夜と引き替にされて堪るものか︒考へて見るがいエ︒如何な貧乏人の
娘でも活物だよ︒私から云へぽ大事な娘だ︒人一人殺しても博士になる気かと小野に聞いてくれ︒それから︑さう
云ってくれ︒井上孤堂は法律上の契約よりも徳義上の契約を重んずる人間だつて︒⁝⁝
夏目漱石におけるナショナルなもの
といわせ︑さらに小宮豊隆にあてた書簡の中では︑この作品のヒロインについて︑
虞美人草は毎日かいてるる︒藤尾といふ女にそんなに同情をもってはいけない︒あれは嫌な女だ︒詩的であるが
大人しくない︒徳義心大欠亡した女である︒あいつを仕舞に殺すのが一篇の主意である︒うまく殺せなければ助け ︵10︶ てやる︒然し助かれば猶々藤尾なるものは駄目な人間になる︒
ともいっている︒
私が漱石の出生年代から発し︑彼の中に色濃く残っている江戸趣昧と封建的な道義を冗長なまでに強調したのは︑
一つには︑それが英文学という新しい学問への志向の契機になったのではないかと思うからであり︑さらに二つに
は︑それが漱石の文明批判の基底となり︑﹂ナショナルの匂いのこい思考となったと考えるからである︒第一について
は後に詳説するが︑ここでは先に引用した︑幼年時代の漱石の︑頽廃の色こい江戸趣味にあふれる家庭の雰囲気に対
する︑﹁私は真面目な顔をしてた父傍観してみるに過ぎなかった﹂という一語だけを指摘しておく︒漱石は江戸趣味
を江戸趣味として愛することはあっても︑それが頽廃と遊蕩の色をおびた時︑それを嫌悪し︑忌避したのではなかろ
うか︒それは後の漱石の潔癖な日常から推察されるからである︒もしそうであるとすれば︑江戸趣味のそういう一面
に対する忌避の感が︑むしろ幼時から親しんでいた︑中国や日本の文学を捨てて英文学に向わしめたのではないかと
思う︒勿論︑いわゆる文明開化の名でよばれる︑西欧的なものへの憧憬と傾斜という事情を考慮しなけれぽならない
が︑︑これについては後にふれよう︒
第二の封建的ともいうべき漱石の古い道義性については︑唐木順三氏のように︑﹁猫﹂や﹁坊っちゃん﹂から﹁虞
美人草﹂にいたる系列を︑それ以後の﹁三四郎﹂や﹁それから﹂﹁門﹂﹁心﹂等にいたる系列と区別し︑後者において
は﹁道徳そのもの︑個人と社会︑道徳と社会の問題を再脅せざるを得なくなった﹂といい︑あたかもそれ以後の漱石
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が旧道徳の轟を脱して自我の確立のために蔑するかの考にのべてい菊作品の内容から見て両逆明瞭霜違
のあることはいうまでもないが︑第二の系列の主人公は︑はたして自我の確立に成功し︑これを謳歌したであろうか︒
三四郎も︑代助も︑宗助も﹁先生﹂も︑すべて古い道徳と習慣の前に敗れて孤立していったではないか︒漱石は自我
の確立を叫びながらも︑決して古い道徳を切捨てることはできなかった︒それはやはり漱石自身の古さに由来するも
のではなかったろうか︒このことは﹁心﹂の主人公である﹁先生﹂の死に最もよく表わされている︒
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三︑明治人の論理
私は先に漱石の明治の前年という出生にふれ︑第一に江戸時代の名残りを指摘するとともに︑第二には明治の時代
風潮の影響を指摘しておいた︒
漱石自身﹁維新の革命と同時に生れた余から見ると︑明治の歴史は即ち余の歴史である﹂︵﹁マードック先生の日本
歴史﹂︶といっているが︑﹁心﹂の最後の部分においても︑﹁最も強く明治の影響を受けた私どもが﹂といっている︒
いまここに少し長文になるがその部分を引用してみよう︒
すると夏の暑い盛りに明治天皇が崩御になりました︒其時私は明治の精神が天皇に始まって天皇に終ったやうな
気がしました︒最も強く明治の影響を受けた私どもが︑其時に生き残ってみるのは必寛時勢遅れだといふ感じが烈
しく私の胸を打ちました︒私は明白さまに妻に云ひました︒妻は笑って取り合ひませんでしたが︑何を思ったもの
か︑突然私に︑では殉死でもしたら可からうと調戯ひました︒︵中略︶
私は妻に向ってもし自分が殉死するならば︑明治の精神に殉死する積だと答へました︒私の答も無論笑談に過ぎ
なかったのですが︑私は其時何だか古い不要な言葉に新しい意義を盛り得たやうな心持がしたのです︒
夏目漱石におけるナショナルなもの
それから約一ヶ月経ちました︒御大葬の思草は何時もの通り書斎に坐って︑相図の号砲を聞きました︒後で考へ
ると︑それが乃木大将の永久に去った報知にもなってみたのです︒︵中略︶
それから二︑三日して︑私はとうとう自殺する決心をしたのです︒︵﹁心﹂︶
私はこの文章を読んで分らないことが二つある︒一つは﹁心﹂の作中の主人公たる﹁先生﹂が死を決意するにいた
る原因である︒そうしてまた何故その死が︑明治の精神への殉死という形をとらなけれぽならなかったかということ
である︒第二には漱石が最も強く影響を受げたという︑明治の精神とは︑具体的にはどのようなものを指すのであろ
うかということである︒
﹁心﹂の梗概はいまさら説明するまでもないが︑要するに作中の先生がかつて学生時代︑下宿を共にしていた友人
が愛していた︑その下宿の娘と︑友人をあざむくという結果において結婚してしまうのである︒友人はそれが直接の
原因でありながら︑そのことについては遺言にも一言もふれずに自殺してしまう︒そのことが﹁先生﹂の一生の負い
目となり︑やがて死を決意するのである︒良心の苛責や自己嫌悪の累積が死の決意に連なることは一応理解できて
も︑人を愛するという自己の選択に︑自我の確立が伴なわぬことに疑問は残る︒しかしそれも漱石の場合は︑旧い道
義への屈伏として理解されなければならないのであろう︒しかしそれにしても︑﹁先生﹂の死はあくまでも一個人の
個人的な理由である︒それなのにその個人的死の理由を︑明治天皇の崩御や乃木大将の殉死という︑自己以外の契機
と結びつけ︑しかも明治の精神への殉死という形をとらなければ︑なぜ死の決意に連ならないのか︒理解しがたいと
ころである︒
漱石自身も作中でこのことにふれ︑遺書の宛名人である学生に対し
私に乃木さんの死んだ理由が能く解らないやうに︑貴方にも私の自殺する訳が明らかに呑み込めないかも知れま
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せんが︑もし左右だとすると︑それは時勢の推移から来る人聞の相違だから仕方がありません︒或は箇人の有って
生れた性格の相違といった方が確かも知れません︒︵﹁心﹂︶
といっている︒
漱石もこの作品の中で︑乃木大将の殉死の原因を︑西南戦争で軍旗を奪われ︑その時死を覚悟しながら︑三十五年
の間その機会を待ち︑明治天皇の崩御によってそれを果したという風に理解しているようである︒それはおそらく
乃木大将の理解者であり擁護者でもあった︑天皇に殉ずることによって︑かねての覚悟を実行したということになろ
う︒﹁心﹂の先生も︑かねての憂悶を︑天皇および乃木大将の死によってもたらされた明治の終焉に結びつけて自殺
したのである︒
漱石が乃木大将の殉死を肯定し︑その至誠に感じていたことは︑第=局等学校における講演の中で︑つぎのように
言っているのでも知られる︒すなわち
乃木さんが死にましたらう︒あの乃木さんの死といふものは至誠より出でたものである︒けれども一部には悪い
結果が出た︒夫を真似して死ぬ奴が出た︒乃木さんの死んだ精神などは分らんで︑唯形式の死だけを真似する人が
多いと思ふ︒そういふ奴が出たのは仮に悪いとしても︑乃木さんは決して不成功ではない︒結果には多少悪いと
ころがあっても︑乃木さんの行動の至誠であると云ふことはあなた方を感動せしめる︒夫が私には成功だと認めら
︵12︶ れる︒
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ともかく自己の死を︑たとえそれが個人的理由にもとつくものであっても︑それを自己以上の何かと結びつけるこ
とによって意義づけるか︑または正当化するという思考の様式は︑漱石のいう﹁時勢の推移から来る人間の相違﹂と
夏目漱石におけるナショナルなもの
考えるより他にないものであって︑それは儒教倫理によって培われ︑明治人にまでもちこされた特異な思考様式であ
ったといえよう︒自己を越える何ものかは︑時に親であり主君であり︑また己れを抱手する国家社会であり︑時には
無形の倫理規範でもある︒しかしその間を一貫するものは︑親子︑君臣︑個と集団等の関係を律する︑かくあらねば
ならないとするいわぽ縦の規範である︒この規範に則り︑規範に拘束されて己れの在り方を律することが︑いわゆる
封建的倫理である︒乃木大将も臣として︑君に対してあるべぎ規範に従って自からの生命を断ったのである︒﹁心﹂
の﹁先生﹂も︑自からを育くんできた明治の精神に殉じたのである︒﹁先生﹂の場合︑あれ以上生きのびることは明
治の精神から逸脱し︑.﹁時勢遅れ﹂になるのである︒われおれは明治人のこのような態度を他律的な規範に拘束され
て自己を律する︑主体性の無さと見るのであるが︑明治人においてはこの他律的なものを自己の主体性において選択
し︑その選択によって自己の行動を律するところに自我を見出し︑自我の満足をも感じたのである︒後に述べるよう
に漱石は自我の確立を主張しはするが︑その自我は右のような自我である︒すなわち己れの欲する選択に従って行動
する自由な自我ではなく︑既成の倫理規範のワク内にあって︑その倫理規範によって自己を律することを選択すると
いう自我なのである︒
四︑漱石における明治の精神
1︑使命感と文学観
つぎに﹁心﹂の先生が殉じようとした明治の精神とは︑漱石にあっては具体的にいかなるものであ︷.たか︒まず第
一にあげなけれぽならないのは︑国家への奉仕をもって国民たるものの第一の使命とする精神である︒このような精
神は最初にも記したように︑開国前後において置かれた日本の立場から︑当然予想されることである︒すなわち日本
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の開国がその独立維持に欠くことのでぎない唯一の選択であってみれば︑開国後の日本を欧米列強に比肩し得るよう︑
それぞれの分において努力することが要請されたのである︒漱石が日常の儀礼的言葉の端々にも︑国家もしくは邦家
のためという文字を好んで記しているのでもそれは知られる︒たとえぽ︑友人斎藤阿具の第二高等学校就任を祝っては ︵13︶ 仙台へ御就任の事大慶の至に存候 随分国家の為め学校の勧め御奮励御指導の程奉希望候
といい︑同じく先輩の狩野亨吉の第一高等学校への就任を祝しては
大兄御栄転後憂かし御多忙の事と奉遙察候何事も邦家の為め御奮励御成功の程江湖の遠方より拝見の期を楽しみ居
︵14︶ 候
といっている︒また留学中のロンドンから弟子の寺田寅彦にあてた書簡の中では︑自からを騙りみて ︵15︶ 小生不相変緑々別段国家の為にこれと申す御奉公を出来かねる様で実に申訳がない
ともいっている︒また﹁思ひ出す事など﹂の中に記す︑つぎの五言絶句の内容も︑いわゆる修善寺大患後の特殊な精
神状態や︑詩という形式上からくる誇張を考慮に入れても︑やはり漱石の国家意識の現われと解してよいであろう︒
馬上青年老︒鏡中白髪新︒
幸生天子国︒願作太平民︒
16
漱石のこのような国家への奉仕という使命感はその文学観にも現われている︒彼は文学をもって世道人心に御益す
べきものと考えていた︒真の文学が世道人心に御益するものであることは言をまたないが︑漱石においては少なくと
も当初︑もう少し低い次元における稗益を考えていたようである︒すなわち馬琴のような勧善懲悪主義とまではいか
なくても︑少なくとも人心を矯正し善導するという︑儒教的な考えはもっていたようである︒彼の文学観については
夏目漱石におけるナショナルなもの
いずれ後にふれることとし︑まず彼が英文学に志すそもそもの動機にも︑彼特有のナショナルな文学観がはたらいて
いたことを指摘したい︒漱石がなぜ英文学に志したかについては漱石自身ふれていないが︑先にも記したように︑漱
石の幼年時代はかなり色こい江戸趣味に取巻かれていた︒そうしてその読書も漢文学︑国文学に集中していたようで
ある︒二十三歳の時には︑漢詩文から成る﹁木屑録﹂の述作がある︒ほぼ同じ時代︑かなりの数の漢詩も作られてお
り︑この作詩は晩年にまで及んでいる︒その詩は同時代の職業的漢詩家のそれよりすぐれ︑中国人の中にも本格的な ︵16︶ものとして推賞する者があったことは︑この方面の専門家たる吉川幸次郎氏がこれを記している︒これは漱石の漢文
学の素養が一朝一夕のものでなかったことを物語るものである︒にもかかわらず漱石が当時の新しい学問である︑英
文学に志したのはなぜか︒一つには前にも記したように︑江戸趣味に強い愛着を感じつつも︑それがもつ遊蕩的ない
し頽廃的な一面との侠別を狙ったのではないかということである︒第二には明治十年から二十年代にかけての︑蕩々
たる西欧文明の影響下にあって︑青年漱石が西欧的なもの︑すなわち当時の新奇な学問に憧れ︑それによって国家に
稗益しようとしたことである︒後にも記すように︑国家への貢献︑世道人心への御益を主眼とする漢文学の特質を︑
西欧の文学にもこれを求めたのである︒漱石の作る英文や︑英文の読解力はすでに定評のあるところである︒したが
って漱石の能力をもってすれぽ︑その好悪をこえて︑これを消化し︑ものにし得る自信があったのであろう︒すなわ
ち新しい西欧的なものへの憧れと︑それによって国家に何らかの貢献をしなければならぬという使命感と︑それをな
し得る自信とが︑相まって漱石をして英文学に向わせたのではなかろうか︒しかし所詮漱石が育った環境と︑持って
生れた素質とは︑英文学に対する愛好を生むにはいたらなかった︒そうしてすでに大学卒業を前にして︑英文学を学
んだことに対する後悔の念を生じたようである︒漱石の東大英文科卒業は明治二十六年であるが︑その前々年の二十
四年には︑友人正岡子規にあてて
17
ママ 日本人が自国の文学の価値を知らぬと申すも日本好きの君に面目なきのみならず日本が︵にか?︶夫程好き者のあ
るを打ち棄て二わざわざ洋書にうつ鼠をぬかし候事馬鹿国々敷限りに候のみならず我等が洋文学の隊長とならん事 ︵17︶ 思ひも寄らぬ事と先頃中より己れと己れの貫目が分り候得ぽ以後は可成大兄の御勧めにまかせて邦文学研究可仕候
と記している︒
後にその著﹁文学論﹂の序の中で﹁卒業する余の脳裏には何となく英文学に欺かれたの如き不安の念あり﹂といっ
ているが︑これは右の子規あての書簡の中に記すところと関係があろう︒
漱石は明治三十三年九月︑英語研究のため︑文部省派遣の留学生として︑ニカ年の予定でイギリスに出発するが︑
英文学の母胎というべき︑イギリスの風土およびイギリス人そのものにふれることより︑右の疑念や後悔の念はいよ
いよ強められたようで︑友人や門弟に対しつぎのように記している︒すなわち
近頃は英文学者なんてものになるのは馬鹿らしい様な気がする何か人のためや国のために出来そうなものだとボン ︵18︶ やり考へて居るコンナ人間は外に沢山アルダラウ
と︑いい︑また
学問をやるならコスモポリタンのものに限り候英文学なんかは縁の下の力持日本へ帰っても英吉利に居ってもあた ︵19︶ まの上がる瀬は無之候小生の様な一寸生意気になりたがるもの玉見せしめにはよい修業に候
ともいっている︒右の文中︑﹁小生の様な一寸生意気になりたがるもの玉見せしめには云々﹂の一節は︑やればそれ
なりにこなすことのできる英文学に志し︑それをもって何事か国家の役に立たうとした︑漱石のかつての野心を自嘲
的に表現したとも考えられ︑先にのべた私の推測を裏付けるものであろう︒
それはともかく︑このような英文学をやることに対する懐疑から︑漱石はロンドンの下宿において﹁文学論﹂の執
18
夏目漱石におけるナショナルなもの
筆に取りかかるのである︒それは単なる英文学をこえた︑より広義の文学の世界において︑国家に奉仕し得る一つの
方法として思い立ったものである︒その事情は同じくロンドンから舅の中根重一にあてた書簡の中で明らかである︒
すなわち
私も当地着後︵去年八九月頃より︶一著述を思ひ立ち目下日夜読書とノートをとると自己の考を少し宛かくのとを
商売に致候同じ書を著はすなら西洋人の糟粕では詰らない人に見せても一通ははずかしからぬ老をと存じ励精致居
候︵中略︶
小生の考にては﹁世界を如何に観るべきやといふ論より始め夫より人生を如何に解釈すべきやの問題に移り夫よ
り人生の意義目的及其活力の変化を論じ︑次に開化の如何なるやを論じ開化を構造する諸原素を解剖し其聯合して ︵20︶ 発展する方向よりして文芸の開化に及す影響及其何物なるかを論ず﹂る積りに候
とある︒
これによれば︑漱石は世界観なみびに人生観の問題から出発し︑文明の発達および文明の諸要素を考察し︑この文明と文芸との関連を明らかにしょうとしたのであり︑その中心テーマはいわゆる文明論ともいうべきものであった︒
漱石はすでに留学以前において︑英文学と中国系文学との本質的差異に気付いたのであるが︑ヨーロッパの民族と風
土に実際に接触するに及んで︑それぞれの文明の異質性を痛感するとともに︑日本がその開化のために摂取してき
た︑西欧の文明と日本特有の文明とを比較せざるを得なくなったし︑ひいては西欧文明の影響の下において︑日本の
伝統的文明をどのように維持すべきか︑また今後の西欧文明摂取は︑いかにあるべきかについて思索を続けるように
なるのである︒
ロンドンの旅宿における著述は︑後に﹁文学論﹂として一書をなすが︵明治四十年五月︶︑その序において漱石は
19
倫敦に住み暮したる二年は尤も不愉快の二年なり︒⁝⁝五百万粒の油のなかに一滴の水となって辛うじて露命を繋
げるは余が当時の状態なりといふ事を断言して揮らず︒
といい︑また
帰朝後の三年有半も亦不愉快の三年半なり︒されど余は日本の臣氏なり︒不愉快なるが故に日本を去るの理由を認
め得ず︒
といっている︒この苦悩と不愉快とが︑文部省留学生として英語を研究し︑帰国後も義務として英文学を講じなけれ
ぽならなかったことにあることはいうまでもない︒﹁帰朝後の三年有半﹂というのは︑漱石の帰国が明治三十六年一
月で︑朝日新聞への入社が四十年σ四月であるから︑恐らく﹁吾輩は猫である﹂や﹁草枕﹂等の発表によって︑文壇
における地歩を確立するにいたる︑明治三十九年代の中頃までをさすのであろう︒それはさておき︑再び﹁文学論﹂
の序にもどるなら︑漱石はこの中で︑先にもふれた英文学との挟別をはっきりとのべている︒すなわち
余は少時好んで漢籍を学びたり︒之を学ぶ事短かきにも関らず文学は斯くの如きものなりとの定義を漠然と冥々裏
に左国史漢より得たり︒ひそかに思ふに英文学も又かくの如きものなるべし︑斯くの如きものならぽ生涯を挙げて
之を学ぶも︑あながちに悔ゆることなるかべしと︒⁝⁝醗って思ふに余は漢籍に於て左程根底ある学力あるにあら
ず︑然も余は充分之を味ひ得るものと自信す︒余が英語における知識は無論深しと言ふ可らざるも漢籍に於けるそ
れに劣れりとは思はず︒学力は同程度として好悪のかく迄に量る玉は両者の性質の其程に異なるが為ならずんぽあ
らず︒換言すれば漢学に所謂文学と英語に所謂文学とは到底同定義の下に一括し得べからざる異種類のものたらざ
る可らず︒・
大学を卒業して数年の後︑遠き倫敦の孤灯の下に︑余が思想は始めて此局所に出会せり︒人は余を目して幼稚な
20
りと云ふやも計りがたし︒余自身も幼稚なりと思ふ︒
学生の恥辱なるやも知れず︒去れど事実は事実なり︒
と︒ 斯程見易き事を遙々倫敦の果に行きて考へ得たりと云ふは留余が此此始めてここに気付きたるは恥辱なり︒
つぎには英文学の研究にかねてから懐疑と後悔の念とをいだいていた漱石が︑ヨーロッパの実体にふれるにおよん
で︑これと襖別を決心するにいたる経緯をたどってみたい︒漱石はしぼしぼロンドンから妻の鏡子に書簡を送ってい
るが︑その中でつぎのようにいっている︒
当地二来テ観レパ男女共色白ク服装モ立派ニテ日本人ハ成程黄色出血工三女杯バクダラヌ下女ノ如キ者デモ中々別 ︵21︶ 墳有之小生如キアバタ面ハ一人モ無之候
夏目漱石におけるナショナルなもの
日本に居る内はかく迄黄色とは思はざりしが当地にきて見ると自ら己れの黄色なるに愛想をつかし申位置上背が低
く見られた物に無爵非常に肩身が狭く候向ふから妙な奴が来たと思ふと自分の影が大きな鏡に写って居ったり杯す
る事毎々有之候顔の造作は致し方なしとして背丈は大きくなり度小児は可成椅子に腰をかけて坐らせぬがよからん
と存候︵中略︶往来にて自分より背の低き西洋人に逢った時は余程愉快に候然し大抵の女は小生より高く候恐縮の
︵22︶
外無之候これらは開国後三十数年をへたにすぎぬ日本人が︑ ロンドンを訪れた時の劣等感として︑止むを得なかったと思
う︒漱石はこの他イギリスの交通機関の整備︑街路の壮観︑照明の完備等︑ヨーロッパ文明の外観をおどろきの念を
もって報じている︒またイギリス人の道徳にもふれ︑ ママ 当地のもの一般に公徳に富み候は感心の至り漁減価にても席なくて停立して居れば下等な人足の様なものでも席を
21
分って譲り申候日本では一人で二人前の席を極じて大得意なる愚物も有之候又種々の買物でも盗んで出様とすれば
いくらでも盗める愚なもの有之古本の如きは窓外に陳列して番人も何もなき処有之候鉄道の荷物杯も﹁プラットフ
オーム﹂に抱り出してあるを各自勝手に持って参り候日本で小利口な者どもが五車を只乗ったとか一銭だして二区
乗ったとか縁日で植木をごまかしたとか不徳な事をして得意がる馬鹿老沢山有之候是等の輩を少々連れて来て見せ
︵23︶
てやり度候と記している︒また舅の中根重一に対しては
是等凡庸なる金持共も利己一篇に流れず他の澱め人の為に尽力致候形跡有之候は今日失敗の社会の寿命を幾分か長 ︵24︶くする事と存候
といって︑社会福祉の拡充による貧富の懸隔解消の努力をも評価している︒
しかし後年の漱石は︑小宮豊隆への書簡の中で
僕は英国が大嫌ひあんな不心得な国民は世界にない︒英語でめしを食ってみるうちは残念でたまらなかったが昨今 ︵52︶ の職業は漸く英語を離れて晴々した︒
といっている︒
日本の開化の模範としてその文物の摂取に専心した︑当のヨーロッパの実体にふれ︑彼我の比較を通じ︑劣等感も
いだき︑長所として捉えるべきものを捉えながら︑しかもこの後年の評価は︑これをどのように理解すべきか︒漱石
のこのイギリス嫌いの原因を具体的に記したところはないが︑ニカ年に及ぶイギリス滞在の間に︑その観察が外面か
ら内面に及び︑イギリス人の実体に接するに及んで︑次第に醸成された感想と考える以外にはないであろう︒しかし
又一面近代ヨーロッパの文明の実体にふれるに及んで︑近代がもたらす︑個の喪失や自然の荒廃というようなマイナ
22
夏目漱石におけるナショナルなもの
ス面の評価が︑このような感想を生んだとも考えられる︒この点については後に彼の文明観と関連させて説くであろ
う︒
ただ数ヵ月後の帰国を前にして︑彼がイギリスの春をつぎのように報じているのは面白い︒当地には梅といふものなく春になっても物足らぬ心地に候且つ大抵は無風流なる事物と人間のみにて雅と申す趣も
無之文明がかくの如きものならば野蛮の方が却って面白く候︵中略︶
日本に帰りての第一の楽しみは蕎麦を食ひ日本米を食ひ日本服をきて日のあたる縁側に寝ころんで庭でも見る是が ︵26︶ 願に候夫から野原へ出て蝶やげんくを見るのが楽に候
後半における日本の風土への憧れは︑異郷にあっての当然のものとしても︑前半の︑イギリスを評して﹁無風流な
る事物と人間のみにて雅と申す趣も無之﹂といい︑﹁文明がかくの如きものならぽ野蛮の方が却って面白く候﹂とい
っているところは︑すでに日本固有の文明との比較において︑ヨーロッパ文明を批判しているところが見られる︒
また漱石は帰国後二年ばかりしての一書簡の中で ︵27︶ 僕は翻訳は嫌だ︒骨が折れる許りで思ふ様にうまく行かない者じゃないですか︒
といっているが︑これは重要な点である︒つまり漱石が翻訳をもって︑労多くして効少なきものといっているのは︑
文学というものはそれが書かれた言語以外の言語を以てしては移植しがたいもの︑さらにいえぽ文学というものは︑
それを作り出した国民以外には︑完全には鑑賞できないものである︑という考えを根底にしていると考えられるから
である︒この点彼は後年︑坪内道遙の翻訳になるシェークスピア劇を見ての感想を
あの一週間の公演の間に来た何千かの観客に向って︑自分が舞台の裡に吸収せられる悪心を忘れて面白く見物して
来たかと聞いたら︑左様と断言し得るものは恐らく一人もなからうと思ふ︒
23
といい︑その理由を
余は英国が劇と我等の問に挾まってみると答へたい︒三百年の月日が挾まってみると答へたい︒⁝⁝要するに沙翁
と云ふ一人の男が間へ立って︑凡て鑑賞の邪魔をしてみるのだと暉なく云ひ切りたい︒
といい︑また︑
沙翁劇は其劇の根本性質として︑日本語の翻訳を許さぬものである︒
︵%︶
ともいっている︒これは外国文学︑なかんづく古典の鑑賞および外国戯曲の公演とい・う︑大きな問題を含んでいるものであるが︑漱
石は忠実なる翻訳を通じ︑我々は批判者にはなれても鑑賞者にはなれない︑といっているのであって︑迫遙に対して
も︑
博士はただ忠実なる沙翁の翻訳者として任ずる代りに︑公演を断念するか︑又は公演を遂行するために︑不忠実な ︵29︶ 沙翁の翻訳者となるか︑二つのうち一つを選ぶべきであった︒といっているのである︒
この外国語の障壁が︑文学老を志す漱石をして︑英文学と音別させたのではないか︑というのが私の推測である︒
漱石はこのようにしてイギリス留学を契機として英文学と音別した︒しかしそれは決して文学そのものと襖戯した
のではない︒むしろ英文学という制約を脱し︑自己の創作をもってかねての念願であった︑国家に対する使命を果そ
うとするのである︒明治三十九年夏すでに世評を得た﹁吾輩は猫である﹂を書き継ぎ︑﹁書壇集﹂︵五月︶﹁草枕﹂︵九
月︶﹁二百十日﹂︵十月︶﹁鶉籠﹂︵十二月︶等の小品集や創作をつぎつぎと発表し︑英語教師たることを止め︑文学者
として自立しようとする決意の年であるが︑その抱負を若い門弟への書簡の中で語っている︒すなわち︑その十月に
24
夏目漱石におけるナショナルなもの
は若杉三郎にあて
明治の文学は是からである︒今迄は眼も鼻もない時機である︒僕も幸に此愉快な時機に生れたのだからして死ぬ迄
後進諸君の為めに路を切り開いて︑幾多の天才の為めに大いなる舞台の下こしらへをして働きたい︒さうかうして
みるうちに日は暮れる︒急がなけれぽならん︒一生懸命にならなけれぽならん︒さうして文学といふものは国務大
臣のやってみる事務杯よりも高尚にして有益な者だと云ふ事を日本人に知らせなけれぽならん︒かのグータラの金
持ち杯が大臣に下げる頭を文学者の方へ下げる様にしなければならん︒ ︵30︶ 皇太子や宮様が文学を御読みになって其主意がわかる様に書いて上げなけれぽならん︒
と記し︑その直後には鈴木三重吉にあてて︑
只きれいにうつくしく暮らす即ち詩人的にくらすといふ事は生活の意義の何分の一か知らぬが︑矢張り極めて僅少
な部分かと思ふ︒で草枕の様な主人公ではいけない︒あれもいxが︑矢張り今の世界に生存して自分のよい所を通
さうとするにはどうしてもイプセン流に出なくてはいけない︒⁝⁝僕は一面に於て俳譜的文学に出入すると同時に
一面に於て死ぬか生きるか︑命のやりとりをする様な維新の志士の如き烈しい精神で文学をやって見たい︒それで ︵31︶ ないと何だか難をすてエ易ににつき劇を厭ふて閑に走る所謂腰抜文学者の様な気がしてならん︒
と記している︒
要するに漱石は社会における文学の地位を向上させなければならないと意気ごんでいるのである︒真の文学は戯作
老のそれであってはならないし︑またヨーロッパ文学の亜流であってもならない︒単なる閑文字を並べる遊びであっ
てもならない︒そうして今こそ真の文学を作り出し︑その地位を高めなければならないとするのである︒しかも﹁皇
太子や宮様﹂にも分る文学を一つの理想としているところが漱石らしい︒また︑ロンドンにおいてはるかに夢みた日
25
本的風土の中に︑悠々自適するような閑雅な態度や︑自からが理想的な生き方の一つとして描いた︑﹁草枕﹂の世界
をも否定し︑﹁死ぬか生きるか︑生命のやりとりをする様な維新の志士の如き烈しい精神﹂をもって文学に取組もう
とする漱石の根底に︑かつて文学に志して以来の使命感を見ることができるのである︒
私は漱石のいう明治の精神とは何であるかを明らかにしょうとして︑漱石の英文学への志向および︑その放棄の経
緯を説ぎ︑その間漱石の特異な文学観︑すなわち国家社会への奉仕という︑その使命感ともいうべきものを明らかに
したのである︒
2自我の確立
漱石のいう明治の精神を構成する第二の要素はこれを自由と独立の気概といってもよいであろう︒
私は先に漱石における自我にふれた時︑それは﹁既成の倫理規範のワク内にあって︑その倫理規範によって自己を
律することを選択する自我﹂であるといっておいた︒漱石がロソドソから妻にあてた書簡の中で
真の大丈夫とは自分の事ぽかり考へないで人の為世の勉めに働くといふ大きな志のある人をいふ然し志許あっても
何が人の為になるか日本の現在ではどんな事が急務か夫々熟考して深思せねば容易にわからない是が知識の必要な ︵32︶ る点である︒
といっているのは︑それを裏付けていると思う︒すなわち﹁人の為世の畳め﹂という前提︑もしくは規範のワク内に
あって︑具体的な方法を選択するという自我である︒しかもその選択に当って﹁熟考﹂もし﹁深思﹂もし︑﹁知識﹂
を必要ともするのである︒したがって漱石において︑無批判や盲目的に前提や規範に随従するのではない︒しかし︑
ひとたび熟考と深思の後にその方向を決定したとなると︑その所信に対してはいかなる容啄をも許さない︒孤高の精
神ともいうべき強烈な自我の精神をもって生きるのである︒現実や現在の世評を超越し︑後世に期待し︑自我が後世
26
夏目漱石におけるナショナルなもの
の評価と合致するであろうと信ずるところに︑自己の偉大性を感ずるのである︒森田草平への書簡の中で の 余は吾人を以て百代の後に伝へんと欲するの野心家なり︒近所合壁と喧嘩をするは彼等を眼中に置かねぽなり︒彼
等を眼中に置けばもっと慎んで評判をよくする事を工夫すべし︒⁝⁝只一年二年若くは十年二十年の評判や桑名や
悪評は毫も厭はざるなり︒如何となれぽ余は尤も光輝ある未来を想像しつxあれぽなり︒彼等を眼中に置く程の小
心者にあらざるなり︒⁝⁝余は隣近所の賞賛を求めず︒天下の信仰を求む︒天下の信仰を求めず︒後世の崇拝を期 ︵33︶ す︑此希望あるとき︑余は始めて余の偉大なるを感ず︒
といっている︒しかし漱石が人の為世の為めに自我の道を行く時︑現実の国家や社会の権威と衝突背離する場合はど
うするのか︒右の書簡を書き続けて
人若し向上の信を抱いて事をなす時無キ事神人ヲ超越シテ蓋天蓋地二自我ヲ観ズ天子様ノ御威光デモ是許リハドウ
︵34︶
モ出来ンと︑あくまで自我の確立を叫ぶ︒何人もその志を奪うことができない︒この神人を超越した自我を近代的自我と呼ん
でも︑それは近代ヨーロッパの思想の洗礼をうけて成ったというのではない︒むしろ漱石の生得の︑そしてその環境
と時代の中で培おれた︑武士的な精神であり︑江戸っ子の心意気ともいうべきもので︑明治の精神がそれである︒
この精神は門弟に対する
人間は他が何といっても自分丈安心してエライといふ所を把持して行かなければ安心も宗教も哲学も文学もあった
ものではない︒
という訓戒にもなり︑また
あんまり僕をたよりにすべからず自分の考を自分で書いて漱石何かあらんと思ふべし︒⁝⁝余裕あるが為に万事僕
27
︵35︶ に見せてからの何のと思案するは独立心なき事なり︒是でよいと自己で自己を極める分別ありたきものなり
という激励ともなる︒
かつて漱石は人から自己の創作である﹁吾輩は猫である﹂を英訳したものを送られた時︑高浜虚子に書簡を送り︑
その感想をつぎのように記しているが︑自我との関連において︑その著述の態度を示すものとして興味がある︒すな
わち 有難い事であります︒然し人間と生れた以上は猫杯を翻訳するよりも自分のものを一頁でもかいた方が人間と生れ ︵36︶ た価値があるかと思ひます︒
と︒
それはともあれ︑自我確立への道は絶えざる戦いのそれである︒現実社会における無批判︑無定見︑凡俗に対し︑自己の所信を自由にし︑これを貫くための戦いである︒
漱石が
文壇に立つものはあらゆる競争老誇に伴ふ堕落的行動に対して従容事を弁ぜざるべからず︒もし清きを以て自ら居 ︵37︶ り高きを以て自から処せんとせぽ一日も留まるべからず︒
というのはこの戦いを指してである︒しかしそれはまた単に自己を取巻く他との戦いであるぽかりでなく︑自我の確
立を目指す自分自身との戦いでもある︒自我の確立を目指す︑当の自己が︑一面において弱き人間でもあるからであ
る︒時に凡俗との戦いに傷つき︑妥協することがあるぽかりでなく︑論理をこえた私情に負ける場合もあるからであ
る︒﹁心﹂の先生も︑現実に対して自由であり︑自我確立の道を歩みつつも︑恋愛にからんでは︑唯一の親友を裏切
ったという過去をいかんともしがたい︒﹁それから﹂の代助も︑﹁門﹂の宗助も︑自からの所信に生きながら︑世の批
28
夏目漱石におけるナショナルなもの
判の前には世間と交渉を断って籠居の生活に入り︑なおかつ心中の道徳的苦輪のために︑心の平穏を禅に求めなけれ
ばならない︒自我の確立に伴なう無明の戦いである︒漱石も草平に訪てて
天下に己れ以外のものを信頼するより果敢なきはあらず︒而もこれ程頼みにならぬものはない︒どうするのがよい
︵認︶ か︒
と自我の確立に伴なう二律背反的悩みを︑解決のない表白として記しているのである︒
﹁吾輩は猫である﹂のつぎの一節は︑このような悩みをふまえ︑時には傍観者のように︑そして心中︑限りない怒
りをもって凡俗をへいげいする︑自我の人漱石の一面を︑﹁猫﹂の口を通して描いている︒
先刻から此体たらく︵子供たちの無法な食事の様子一筆出面︶を目撃してみた主人は一言も云はずに専心自分の
飯を食ひ︑自分の汁を飲んで此前は既に楊枝を使って居る最中であった︒主人は娘の教育に関して絶対的放任主義
を執る積りと見︑兄る︒今に三人が海老茶式部か鼠式部かになって︑三人とも申し合せたやうに情夫をこしらへて出
齢しても︑矢張り自分の飯を食って︑自分の汁を飲んで澄して見て居るだらう︒働きのない事だ︒然し今の世の働
きのあるといふ人を拝見すると︑嘘をついて人を釣る事と先へ廻って馬の眼玉を抜く事と︑虚勢を張って人をおど
かす事と︑鎌をかけて人を陥れる事より外に何も知らない様だ︒中学杯の少年輩迄が見様見真似に︑かうしなくて
は幅が利かないと心得違ひをして︑本来なら赤面して然る可きのを得々と履行して未来の紳士だと思って居る︒是
は働ぎ手と云ふのではない︒ごろつき手と云ふのである︒吾輩も日本の猫だから多少の愛国心はある︒こんな働き
手を見る度に撲ってやりたくなる︒こんなものが一人でも殖えれば国家はそれ丈け衰へる訳である︒こんな生徒の
居る学校は学校の恥辱である︒恥辱であるにも関はらず︑ごろ一世間にごろついて居るのは心得がたいと思ふ︒
⁝⁝情ない事だ︒こんなごろつき手に比べると主人杯は遙かに上等な人間と云はなくてはならん︒意気地のない所
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が上等なのである︒無能な所が上等なのである︒猪学才でない所が上等なのである︒
30
この焼土は食わねど高楊枝式な︑やせ我慢ともいうべき精神は︑猫の口を借りてのやや譜講的な表現となっている
が︑それが生活者としての漱石の精神であったことは︑﹁猫﹂の執筆中︑日を同じくして門弟二人に与えた書簡によ
っても明らかである︒すなわち
近頃は世の中に住んで居るのが夢の中に住んでみる様な気がする︒どこを見ても真面目なものが一つもない︒悉く
幻影と一般タワイないものである︒こんな世界に住んで真面目に苦しい思ひをして暮すのは馬鹿気てるる︒真面目に ︵39︶ なり得る為めには他人があまり滑稽である︒⁝⁝世の中は泣くには余りに滑稽である︒笑ふにはあまり醜悪である︒
といい︑ほぼ同じ趣旨のことを
近頃世の中に住んで居るのが小便壺のなかに浮いて居る直な気がする︒周囲が小便だから自分も嚥臭い事だらうと
思ふ︒ 高等学校杯へ出ても尤も簡単で︑尤も純潔なるべき書生が大分アートフルである︒真正に書生らしいものは十分
の一位だらう︒こんなものに教へるのだからどうでも構はないと云ふ気で居る︒1未来の日本を作る青年が自己 ︵⑩︶ もエライ事も何も知らずにワーワーしてみるのは天子様の為にも御気の毒である︒
ともいっている︒﹁猫﹂の場合でもそうであったが︑自己を尺度としての批判の対象が︑主として中学生や高等学校
の生徒という︑若い世代にあったことは注意を要する︒常に国家のために未来のためにと思い︑ギリギリの精神で生
きている漱石にとって︑若い世代の在り方がどうにもならなく感じられるのである︒今日の言葉でいう深い断絶感を
抱いているのである︒この断絶感が﹁最も強く明治の影響を受けた私どもが︑その後に生き残ってみるのは必寛時勢
遅れだといふ感じ﹂に連なるのではないか︒そうしてそれが﹁心﹂一篇の構成としては﹁明治の精神に殉死する﹂と
なるのではないか︒いわぽ漱石は自己をより大きな価値に結びつけ︑その使命感に生き︑現在よりはむしろ未来に生
きることに自我の確立を見出し︑ついに放恣な自我に同調することのできない宿命をもっていたのであり︑それを明
治人の限界としたのである︒したがって明治人を典型的に生きた乃木大将の死によって︑明治の時代との精神の終焉
と考え︑それ以上生き残ることをいさぎよしとせず︑明治の精神というより︑むしろ自己の宿命に殉ずるという形式
をとったのであろう︒
五︑西欧文明批判
夏目漱石におけるナショナルなもの
私は先に漱石の英文学との快別について記した時に︑その理由の一つとして︑イギリス人ないしイギリスをもふく
めたヨーロッパ文明に対する︑彼の特殊な批判があったのではないか︑ということを指摘しておいた︒ここでは二十
世紀初頭のヨーロッパ文明を漱石がどのように見たか︒またそれとの比較において日本文明の特質をいかに見たか︒
そうしてヨーロッパ文明の圧倒的影響下にある当時の日本文明をどのように見︑将来の日本文明をいかにあるべしと
したかという︑いわぽ漱石の文明観についてふれてみたい︒
漱石はまず第一にヨーロッパ文明の現段階を物質面における異常な進歩とみ︑それが自然の破壊と人間性の喪失を
もたらしていると考えたようである︒特に後者については︑物質面の進歩が人間の物質欲の増大︑貧富の懸隔の増大
ならびに個人の喪失をもたらし︑それらを矯正すべき精神面の進歩が︑これに伴っていないと見たようである︒第二
にはヨーロッパ文明の基調である︑自我の主張が他とのバランスを失し︑索漠とした人間関係および総体として個の
喪失をもたらしていると考えたようである︒
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