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(1)

聖なる実用書 ジョージ・ハーバートの『田舎牧師

』 : 教区牧師マニュアルに見られるvia media

著者 曽村 充利

出版者 Faculty of Global and Interdisciplinary Studies, Hosei University

雑誌名 GIS journal : the Hosei journal of global and interdisciplinary studies

巻 6

ページ 43‑134

発行年 2020‑03

URL http://doi.org/10.15002/00023022

(2)

聖なる実⽤書 ジョージ・ハーバートの『⽥舎牧師』

教区牧師マニュアルに⾒られる

via media ―

A Sacred Manual: George Herbert’s A Priest to the Temple, or The Country Parson His Character and Rule of Holy Life

a pastoral manual and via media

曽村 充利(Mitsutoshi Somura)

Faculty of Global and Interdisciplinary Studies, Hosei University

Summary

This study will consider the relationship between George Herbert’s pastoral manual, The Country Parson (CP) and his Anglican via media. The text will be analyzed historically in relation to religion, politics, culture and society in early seventeenth-century England. CP is not a flat textbook but a well- conceived work drawing on literary genres with various voices and attitudes for identification and differentiation. As to religion Herbert can be categorized as ‘a modest conformist’ who is following Laudian uniformity in ritual and seems to take a conservative stance on controversial issues. Though the idea of hierarchy relies on patriarchy and ‘passive obedience,’ the sociological arguments that CP is ideological and political and a governmental treatise will be critically reviewed. Compared to the Puritan preachers obsessed with an inner self, CP broadly deals with ‘the outward appearance’ of a pastor, though Herbert’s inner self is expressed in the prayers. CP is intended to teach pastors about the importance of appearances in order to establish trust with the local people. The text tries to be in the middle of extremes: between ‘Schismatic’ and ‘Papist,’ appearances and an inner self, authoritarian and egalitarian, and sacred and secular. Therefore, a pastor is required to be ‘always moving and eternally variable.’

Key words: a pastoral manual, Anglicanism, via media

(3)

「ハーバートは神学の教義上の相違については何も⾔わない。

アングリカン・チャーチはいつも厳密な教義上の定義を避けて きた、……ハーバートは、礼拝の作法と敬神の様式に関⼼があ るのだ」 W. H. オーデン

1

はじめに

『⽥舎牧師 その⼈物像と信仰⽣活の規範 その⼈物像と信仰⽣活の規範』

2

は⼗七世紀イ ギリスで教区牧師、あるいはその職を志望する者のために書かれたマニュアル本である。

ジョージ・ハーバート(1593-1633)は、ベマトンの牧師時代(1630-33)に執筆し死の前年

1632

年に仕上げている(出版は

1652

年)。教区牧師の遵守すべきことを教え、祈りと儀式 の⼤切さと美しさを⽰し、教区⺠に、信⼼深い、正しい、まじめな⽣活を送らせるための

⽅法を説いている。牧師の⽇々の⼼構え、必要な知識、処世術のアドバイスが、礼拝、説 教、神学

3

から、教区⺠、家族、召使いとの関係、妻の選び⽅にいたるまで全

37

章で簡潔 に書かれており、規則や教訓が並ぶ抹⾹臭い権威主義的な教科書というよりも実際的なマ ニュアルになっている

4

。祈りが本書の始まりと終わりに置かれており、牧師の神聖さを描 く際には時に指南書を超える表現が⾒られる。

このころ英国国教会には特別のトレーニングをする神学校がなく

5

、 「1630 年代までには、

イギリスの教会には、そこに居住する⼤学出の聖職者が⾒られる」ようになって、多くの 者は「⾼い学識を持ち、ほとんどの者が当時の宗教論争に少なくとも関⼼を持っていた

6

。」

近代初期の世俗化と合理化、専⾨化が始まる中、牧師が伝統的⾝分から職業へと移⾏して いく時代を反映し、『⽥舎牧師』は複雑なテキストとなっていて、牧師の地位の周辺化、ア イデンティティの不安定化の反映を読み取ることができる。ハーバートの伝記と詩の解釈 をめぐり批評家たちが頼りにしてきたテキストであるが、英⽂学研究だけでなく近代初期 イングランドの社会史、⽂化史、思想史、教会史の分野においてもこの⼩著の持つ意味は

⼩さくない。

本論考の⽬的は、 『⽥舎牧師』のマニュアル本としての特徴とハーバートのアングリカニ ズム思想の関係を明らかにすることにある。最初に批評史を参考にしてハーバートと教会 の関係を⾒る。ジェイムズ⼀世のヴィア・メディア政策、カルヴィニズム神学とピューリ タニズムと穏健な国教会順応主義、アルミニウス派の「神聖の美」の回復とハーバートの 教会観などである。次に『⽥舎牧師』における牧師の「外⾒」への傾倒を、説教に例をと り「内⾯」を重視するピューリタンとの違いから明らかにする。⽂学ジャンルではキャラ クタースケッチおよび「作法書」と『⽥舎牧師』の影響関係と、「外⾒」の扱いにおける類 似点を考察する。『⽥舎牧師』のヒエラルキーと秩序に関しては、家⽗⻑主義と国教会の教

義である「受動的服従」の理解が不可⽋となるが、関連して、権⼒関係から『⽥舎牧師』

をステュアート朝のイデオロギー的統治の論⽂と解釈する議論に批判的検討を加える。ま た『⽥舎牧師』がピューリタンと明確に異なる⽴場にあることを、予定説、摂理、労働倫 理、論争の対象となった『祈祷書』、安息⽇厳守主義、サープリス、聖餐式等から具体的に 把握する。さらに『⽥舎牧師』の⽂章の分析から多様な「声」の混在を⾒て、牧師と教区

⺠の複雑な関係と対応を考える。ハーバートの「内⾯」の声は最初と最後の「祈り」の中 にあり、短い「祈り」が『⽥舎牧師』の聖性を⽀えていることが分かる。最後に、『⽥舎牧 師』の伝統と習慣、『祈祷書』の重視を説明し、『⽥舎牧師』が教区⺠の⽀持と信頼を得る ための模範的牧師像を教⽰するマニュアルであると同時に、⼗七世紀前半の国教会の包括 的なヴィア・メディアの表現であることを論じる。

1.カルヴィニズムからアルミニウス主義へ

ハーバートはウェールズのモントゴメリーで

1593

年に名⾨ジェントリーの家に⽣まれ、

⺟親マグダレンはジョン・ダンなど⽂⼈のパトロンであり、兄エドワードは「イギリス理 神論の⽗」チャーベリーのハーバートとして知られている。優秀な成績でケンブリッジ⼤

学と⼤学院を卒業後、修辞学の講師となり

27

歳まで⼤学代表弁⼠(public orator)を務め た。親戚のペンブルック伯爵の⽀援で下院議員となり、宮廷での出世が約束されたと思わ れたが、ジェイムズ国王の死などによりその希望は潰えることになる。

1626

年にリンカン 聖堂管区の主教座聖堂参事会員となりレイトン教会(Leighton-Bromswold Church)の聖職 録を得ていたが、

1629

年に聖職⼊りを決意し翌年ソールズベリー近くのべマトンの教区牧 師になり

1633

年に結核で死ぬ。

⼤陸では反宗教改⾰勢⼒とプロテスタント間の最⼤の宗教戦争である三⼗年戦争(1618-

48

年)が始まっていた。ハーバートの短い⽣涯の期間は丁度、イギリス国教会の神学上の オーソドキシーが、カルヴィニズムからアルミニウス主義

7

へと移⾏する時期であった。⼗

六世紀末までは「国教会は教義において⼤部分カルヴィニズムであったと⾔っても誇張で はない

8

。」カルヴィニストは必ずしもピューリタン

9

と同じではなかったが、今まで考えら れていたほどカルヴィニズムの勢⼒は取るに⾜らぬようなものではなかった

10

。そして

J.R.

Tanner

は、「ジェイムズ⼀世の即位のときに、『祈祷書』を全て拒絶し主教制の権威を完全

に否認する狭義のピューリタニズムは、国のごく⼩数の者によって主張されているだけで あったが、広義のピューリタニズム、つまりエリザベス⼥王が許した以上に教義と儀式の 改⾰を求めるピューリタニズムは、国教会それ⾃⾝の⼤部分の構成員たちの信条であった

11

」と書いている。この時代には、「カトリックと⼤衆に広がる無宗教に直⾯してプロテス

タントの統⼀を守」り無⽤な争いを避けるため、共有するカルヴィニズム神学に依拠して、

(4)

「ハーバートは神学の教義上の相違については何も⾔わない。

アングリカン・チャーチはいつも厳密な教義上の定義を避けて きた、……ハーバートは、礼拝の作法と敬神の様式に関⼼があ るのだ」 W. H. オーデン

1

はじめに

『⽥舎牧師 その⼈物像と信仰⽣活の規範 その⼈物像と信仰⽣活の規範』

2

は⼗七世紀イ ギリスで教区牧師、あるいはその職を志望する者のために書かれたマニュアル本である。

ジョージ・ハーバート(1593-1633)は、ベマトンの牧師時代(1630-33)に執筆し死の前年

1632

年に仕上げている(出版は

1652

年)。教区牧師の遵守すべきことを教え、祈りと儀式 の⼤切さと美しさを⽰し、教区⺠に、信⼼深い、正しい、まじめな⽣活を送らせるための

⽅法を説いている。牧師の⽇々の⼼構え、必要な知識、処世術のアドバイスが、礼拝、説 教、神学

3

から、教区⺠、家族、召使いとの関係、妻の選び⽅にいたるまで全

37

章で簡潔 に書かれており、規則や教訓が並ぶ抹⾹臭い権威主義的な教科書というよりも実際的なマ ニュアルになっている

4

。祈りが本書の始まりと終わりに置かれており、牧師の神聖さを描 く際には時に指南書を超える表現が⾒られる。

このころ英国国教会には特別のトレーニングをする神学校がなく

5

、 「1630 年代までには、

イギリスの教会には、そこに居住する⼤学出の聖職者が⾒られる」ようになって、多くの 者は「⾼い学識を持ち、ほとんどの者が当時の宗教論争に少なくとも関⼼を持っていた

6

。」

近代初期の世俗化と合理化、専⾨化が始まる中、牧師が伝統的⾝分から職業へと移⾏して いく時代を反映し、『⽥舎牧師』は複雑なテキストとなっていて、牧師の地位の周辺化、ア イデンティティの不安定化の反映を読み取ることができる。ハーバートの伝記と詩の解釈 をめぐり批評家たちが頼りにしてきたテキストであるが、英⽂学研究だけでなく近代初期 イングランドの社会史、⽂化史、思想史、教会史の分野においてもこの⼩著の持つ意味は

⼩さくない。

本論考の⽬的は、 『⽥舎牧師』のマニュアル本としての特徴とハーバートのアングリカニ ズム思想の関係を明らかにすることにある。最初に批評史を参考にしてハーバートと教会 の関係を⾒る。ジェイムズ⼀世のヴィア・メディア政策、カルヴィニズム神学とピューリ タニズムと穏健な国教会順応主義、アルミニウス派の「神聖の美」の回復とハーバートの 教会観などである。次に『⽥舎牧師』における牧師の「外⾒」への傾倒を、説教に例をと り「内⾯」を重視するピューリタンとの違いから明らかにする。⽂学ジャンルではキャラ クタースケッチおよび「作法書」と『⽥舎牧師』の影響関係と、「外⾒」の扱いにおける類 似点を考察する。『⽥舎牧師』のヒエラルキーと秩序に関しては、家⽗⻑主義と国教会の教

義である「受動的服従」の理解が不可⽋となるが、関連して、権⼒関係から『⽥舎牧師』

をステュアート朝のイデオロギー的統治の論⽂と解釈する議論に批判的検討を加える。ま た『⽥舎牧師』がピューリタンと明確に異なる⽴場にあることを、予定説、摂理、労働倫 理、論争の対象となった『祈祷書』、安息⽇厳守主義、サープリス、聖餐式等から具体的に 把握する。さらに『⽥舎牧師』の⽂章の分析から多様な「声」の混在を⾒て、牧師と教区

⺠の複雑な関係と対応を考える。ハーバートの「内⾯」の声は最初と最後の「祈り」の中 にあり、短い「祈り」が『⽥舎牧師』の聖性を⽀えていることが分かる。最後に、『⽥舎牧 師』の伝統と習慣、『祈祷書』の重視を説明し、『⽥舎牧師』が教区⺠の⽀持と信頼を得る ための模範的牧師像を教⽰するマニュアルであると同時に、⼗七世紀前半の国教会の包括 的なヴィア・メディアの表現であることを論じる。

1.カルヴィニズムからアルミニウス主義へ

ハーバートはウェールズのモントゴメリーで

1593

年に名⾨ジェントリーの家に⽣まれ、

⺟親マグダレンはジョン・ダンなど⽂⼈のパトロンであり、兄エドワードは「イギリス理 神論の⽗」チャーベリーのハーバートとして知られている。優秀な成績でケンブリッジ⼤

学と⼤学院を卒業後、修辞学の講師となり

27

歳まで⼤学代表弁⼠(public orator)を務め た。親戚のペンブルック伯爵の⽀援で下院議員となり、宮廷での出世が約束されたと思わ れたが、ジェイムズ国王の死などによりその希望は潰えることになる。

1626

年にリンカン 聖堂管区の主教座聖堂参事会員となりレイトン教会(Leighton-Bromswold Church)の聖職 録を得ていたが、

1629

年に聖職⼊りを決意し翌年ソールズベリー近くのべマトンの教区牧 師になり

1633

年に結核で死ぬ。

⼤陸では反宗教改⾰勢⼒とプロテスタント間の最⼤の宗教戦争である三⼗年戦争(1618-

48

年)が始まっていた。ハーバートの短い⽣涯の期間は丁度、イギリス国教会の神学上の オーソドキシーが、カルヴィニズムからアルミニウス主義

7

へと移⾏する時期であった。⼗

六世紀末までは「国教会は教義において⼤部分カルヴィニズムであったと⾔っても誇張で はない

8

。」カルヴィニストは必ずしもピューリタン

9

と同じではなかったが、今まで考えら れていたほどカルヴィニズムの勢⼒は取るに⾜らぬようなものではなかった

10

。そして

J.R.

Tanner

は、「ジェイムズ⼀世の即位のときに、『祈祷書』を全て拒絶し主教制の権威を完全

に否認する狭義のピューリタニズムは、国のごく⼩数の者によって主張されているだけで あったが、広義のピューリタニズム、つまりエリザベス⼥王が許した以上に教義と儀式の 改⾰を求めるピューリタニズムは、国教会それ⾃⾝の⼤部分の構成員たちの信条であった

11

」と書いている。この時代には、「カトリックと⼤衆に広がる無宗教に直⾯してプロテス

タントの統⼀を守」り無⽤な争いを避けるため、共有するカルヴィニズム神学に依拠して、

(5)

教会当局と地⽅の牧師の間に、儀式等の細かい諸問題の意⾒の違いを⾒逃すという暗黙の 同意(‘a series of nudges and winks’)があったと

Lake

は⾔う

12

1603

年に王位に就いたジェイムズ⼀世は基本的に寛容な政策をとった。ジェイムズ朝

(1603-25 年)の⽐較的安定した「広い中道」政策は、図式的に⾒ればローマとジュネーヴ

(カルヴィニスト)の中道ではなく、まだローマとアムステルダム(アナバプティスト)

の中間にあった。ジェイムズ朝の中道政策下では、まだロード派(アルミニウス派)は少 数派であり、同時にカルヴィニストもほぼ教会内に包容されていたのである

13

しかしジェームズは徐々にカルヴィニズムからアルミニウス主義に軸⾜を移して⾔っ たように⾒える。1604 年に召集されたハンプトン・コ−ト会議は、体制批判者のピューリ タンにとり重要な意味を持っていたが、当初の意図とは反対に、ピュ−リタンのさまざま な要求が拒絶される結果に終わった。宗教改⾰は聖書のみ、信仰による義認、万⼈司祭説 の三原理を求め、カルヴィニストのピューリタンたちも主教制度や諸儀式、伝統的慣習な どに否定的な姿勢を取ることになるが、主教制度のもと彼らが司る儀式を中⼼に据える国 教会にとっては、アルミニウス主義がその根本教義としてより相応しいという事情があっ た。ジェイムズ国王は、スコットランド出⾝でカルヴィニズム改⾰派の教育を受けていた にもかかわらず、「主教なければ国王なし(‘No Bishop, No King’)」と宣⾔し、国教会の主 教制度⽀持を明らかにした。そして、アルミニウス主義の教義を穏健な形で⽀持し、アル ミニウス主義者の主教ランスロット・アンドルーズやリチャード・ニールなどを贔屓にし ていた

14

。これ以後カルヴィニズムに対抗するアルミニウス派の主教たちが徐々に勢⼒を 伸ばしていくことになる

15

Doerksen

の分類によれば、ジェイムズ朝の中道政策の下で国教会内部に留まっていたの

は、「ロード派」、「カルヴィニスト国教会派」、「国教会主義順応派ピューリタン」、「国教会 主義⾮順応派ピューリタン」である。「ロード派」とは後にカンタベリー⼤主教となるウィ リアム・ロードが率いる派閥であり「アルミニウス派」と同意である。ジェイムズ王時代

66

名の主教のうちロード、ニール、アンドルーズなどたった

8

名のみがアルミニウス派で あった。他⽅、「カルヴィニスト国教会派」と「国教会主義順応派ピューリタン」には影響

⼒のある説教者や⼤学の学寮⻑、その他有⼒な俗⼈などがいた。 「国教会主義⾮順応派ピュ ーリタン」は、説教重視でキリストと聖書への霊的⼀致を重視し、聖書に基づかない儀式 に反対したが、多くの者は主教制を受容し、三⼗九箇条等の基本的な教義に同意していた ので、ジェイムズ治世下でそれほど問題化されなかった。⼀⽅、相当多数の国教忌避の「ロ ーマ・カトリック教徒」が北部イングランド地⽅にいたと考えられるが、国教会内部では まったくの無⼒であった。分離主義者、アナバプティスト、異端は、国教会からは分離し ており、ジェイムズ⼀世の時代には分離派はほぼイングランドにはいなかった。ブラウン

派はアムステルダムに逃亡した。なお分離派とはトマス・カートライトの⻑⽼主義に満⾜

せず国教会からの完全分離を主張した⼈々のことで、のちに内乱の担い⼿となった

16

。 そしてチャールズ⼀世の治世(1625-49)になると、ロード派

17

(アルミニウス派)の主 教が多数派となり、旧世代のカルヴィニストは徐々に教会から排除されていき、「中道」が 狭まっていった。多くの有⼒な役職がアルミニウス派の聖職者に与えられるようになる。

1633

年に(ハーバートの死後に)ロ−ドがカンタベリー⼤主教になり、

1630

年代はカルヴ ィニストに代わりアルミニウス派主教たちが政治的ヘゲモニーを握る

18

ステュアート朝初期のピューリタンとアルミニウス派の思想の定義はともに容易でな いが単純化すれば以下のようになるであろう。「熱烈なタイプのプロテスタントはピュー リタンと呼ばれる」(“the hotter sort of protestants are called puritans”)という表現が

1581

年に

⾒られるが、ピューリタンは英国国教会からローマ・カトリック教会の誤りと堕落の残滓 を取り除くため宗教改⾰を継続しようと活動した⼈々であった。伝承や儀式を軽視して英 国国教会の『祈祷書』、三⼗九箇条、主教制度などを改⾰の不徹底として攻撃し、カルヴィ ニズムの予定説を信じていた。⼆重予定説は、選⺠と破滅者(神に⾒捨てられた者)は世 界の創造以前から決定されており、⼈知の及ぶところではなくまた個⼈の善⾏は救済には 役⽴たないという厳格な思想である

19

。ピューリタンは牧師の役割は福⾳を説く説教であ るとして聖書研究に熱⼼であった。ローマ・カトリック教会は腐敗しており真の信仰を汚 す悪であり、諸儀式を悪魔の業を⾒なし法王は反キリストであると信じている者が多くい た

20

。アウグスティヌス主義の原罪論の影響はおおきかった。

⼀⽅、エリザベス⼥王とジェイムズ⼀世が対⽴回避のために採⽤した包括的なヴィア・

メディア政策により、教会統治が弱体化し『祈祷書』が守られず儀式等が⾃由になり過ぎ

た⾯があったため、反動としてチャールズ⼀世とアルミニウス派

21

(ロード派)主教たちは

関係を強め、宗教改⾰以前に教会が保持していた秩序と権威の回復を⽬指し様々な⾯で強

制的に統⼀を求めた。彼らは教会分裂(schism)を防ぐためには主教制度が最も有効であ

ることを理解していたのである。アルミニウス派は予定説ではなく万⼈救済説と⾃由意志

を中⼼的教義に据えて、伝承と使徒継承に基づく主教制度のヒエラルキーの中で司祭は特

別な権限を持つと考えた。『祈祷書』による統⼀された儀式と祈りと教義問答、美しい教会

や法⾐そして聖餐式を重視し聖卓は教会の東端に置くことが求められた。統⼀の確⽴のた

1604

年に教会法規が公にされていたが、コモン・ロー裁判所とは別系統で国王⼤権のも

とに作られた⾼等宗務官裁判所や星室庁等は、礼拝儀式上の不法⾏為、聖職者の不品⾏な

どを取り締まる主教の強⼒な武器となり、ピューリタンの間で評判が悪かった

22

。ピュー

リタンはチャールズ⼀世とロードが英国に旧教復活を企んでいると疑い陰謀論が流布した

が、しかし英国国教会はローマ・カトリック教会を普遍教会(universal church)の⼀つの肢

(6)

教会当局と地⽅の牧師の間に、儀式等の細かい諸問題の意⾒の違いを⾒逃すという暗黙の 同意(‘a series of nudges and winks’)があったと

Lake

は⾔う

12

1603

年に王位に就いたジェイムズ⼀世は基本的に寛容な政策をとった。ジェイムズ朝

(1603-25 年)の⽐較的安定した「広い中道」政策は、図式的に⾒ればローマとジュネーヴ

(カルヴィニスト)の中道ではなく、まだローマとアムステルダム(アナバプティスト)

の中間にあった。ジェイムズ朝の中道政策下では、まだロード派(アルミニウス派)は少 数派であり、同時にカルヴィニストもほぼ教会内に包容されていたのである

13

しかしジェームズは徐々にカルヴィニズムからアルミニウス主義に軸⾜を移して⾔っ たように⾒える。1604 年に召集されたハンプトン・コ−ト会議は、体制批判者のピューリ タンにとり重要な意味を持っていたが、当初の意図とは反対に、ピュ−リタンのさまざま な要求が拒絶される結果に終わった。宗教改⾰は聖書のみ、信仰による義認、万⼈司祭説 の三原理を求め、カルヴィニストのピューリタンたちも主教制度や諸儀式、伝統的慣習な どに否定的な姿勢を取ることになるが、主教制度のもと彼らが司る儀式を中⼼に据える国 教会にとっては、アルミニウス主義がその根本教義としてより相応しいという事情があっ た。ジェイムズ国王は、スコットランド出⾝でカルヴィニズム改⾰派の教育を受けていた にもかかわらず、「主教なければ国王なし(‘No Bishop, No King’)」と宣⾔し、国教会の主 教制度⽀持を明らかにした。そして、アルミニウス主義の教義を穏健な形で⽀持し、アル ミニウス主義者の主教ランスロット・アンドルーズやリチャード・ニールなどを贔屓にし ていた

14

。これ以後カルヴィニズムに対抗するアルミニウス派の主教たちが徐々に勢⼒を 伸ばしていくことになる

15

Doerksen

の分類によれば、ジェイムズ朝の中道政策の下で国教会内部に留まっていたの

は、「ロード派」、「カルヴィニスト国教会派」、「国教会主義順応派ピューリタン」、「国教会 主義⾮順応派ピューリタン」である。「ロード派」とは後にカンタベリー⼤主教となるウィ リアム・ロードが率いる派閥であり「アルミニウス派」と同意である。ジェイムズ王時代

66

名の主教のうちロード、ニール、アンドルーズなどたった

8

名のみがアルミニウス派で あった。他⽅、「カルヴィニスト国教会派」と「国教会主義順応派ピューリタン」には影響

⼒のある説教者や⼤学の学寮⻑、その他有⼒な俗⼈などがいた。 「国教会主義⾮順応派ピュ ーリタン」は、説教重視でキリストと聖書への霊的⼀致を重視し、聖書に基づかない儀式 に反対したが、多くの者は主教制を受容し、三⼗九箇条等の基本的な教義に同意していた ので、ジェイムズ治世下でそれほど問題化されなかった。⼀⽅、相当多数の国教忌避の「ロ ーマ・カトリック教徒」が北部イングランド地⽅にいたと考えられるが、国教会内部では まったくの無⼒であった。分離主義者、アナバプティスト、異端は、国教会からは分離し ており、ジェイムズ⼀世の時代には分離派はほぼイングランドにはいなかった。ブラウン

派はアムステルダムに逃亡した。なお分離派とはトマス・カートライトの⻑⽼主義に満⾜

せず国教会からの完全分離を主張した⼈々のことで、のちに内乱の担い⼿となった

16

。 そしてチャールズ⼀世の治世(1625-49)になると、ロード派

17

(アルミニウス派)の主 教が多数派となり、旧世代のカルヴィニストは徐々に教会から排除されていき、「中道」が 狭まっていった。多くの有⼒な役職がアルミニウス派の聖職者に与えられるようになる。

1633

年に(ハーバートの死後に)ロ−ドがカンタベリー⼤主教になり、

1630

年代はカルヴ ィニストに代わりアルミニウス派主教たちが政治的ヘゲモニーを握る

18

ステュアート朝初期のピューリタンとアルミニウス派の思想の定義はともに容易でな いが単純化すれば以下のようになるであろう。「熱烈なタイプのプロテスタントはピュー リタンと呼ばれる」(“the hotter sort of protestants are called puritans”)という表現が

1581

年に

⾒られるが、ピューリタンは英国国教会からローマ・カトリック教会の誤りと堕落の残滓 を取り除くため宗教改⾰を継続しようと活動した⼈々であった。伝承や儀式を軽視して英 国国教会の『祈祷書』、三⼗九箇条、主教制度などを改⾰の不徹底として攻撃し、カルヴィ ニズムの予定説を信じていた。⼆重予定説は、選⺠と破滅者(神に⾒捨てられた者)は世 界の創造以前から決定されており、⼈知の及ぶところではなくまた個⼈の善⾏は救済には 役⽴たないという厳格な思想である

19

。ピューリタンは牧師の役割は福⾳を説く説教であ るとして聖書研究に熱⼼であった。ローマ・カトリック教会は腐敗しており真の信仰を汚 す悪であり、諸儀式を悪魔の業を⾒なし法王は反キリストであると信じている者が多くい た

20

。アウグスティヌス主義の原罪論の影響はおおきかった。

⼀⽅、エリザベス⼥王とジェイムズ⼀世が対⽴回避のために採⽤した包括的なヴィア・

メディア政策により、教会統治が弱体化し『祈祷書』が守られず儀式等が⾃由になり過ぎ

た⾯があったため、反動としてチャールズ⼀世とアルミニウス派

21

(ロード派)主教たちは

関係を強め、宗教改⾰以前に教会が保持していた秩序と権威の回復を⽬指し様々な⾯で強

制的に統⼀を求めた。彼らは教会分裂(schism)を防ぐためには主教制度が最も有効であ

ることを理解していたのである。アルミニウス派は予定説ではなく万⼈救済説と⾃由意志

を中⼼的教義に据えて、伝承と使徒継承に基づく主教制度のヒエラルキーの中で司祭は特

別な権限を持つと考えた。『祈祷書』による統⼀された儀式と祈りと教義問答、美しい教会

や法⾐そして聖餐式を重視し聖卓は教会の東端に置くことが求められた。統⼀の確⽴のた

1604

年に教会法規が公にされていたが、コモン・ロー裁判所とは別系統で国王⼤権のも

とに作られた⾼等宗務官裁判所や星室庁等は、礼拝儀式上の不法⾏為、聖職者の不品⾏な

どを取り締まる主教の強⼒な武器となり、ピューリタンの間で評判が悪かった

22

。ピュー

リタンはチャールズ⼀世とロードが英国に旧教復活を企んでいると疑い陰謀論が流布した

が、しかし英国国教会はローマ・カトリック教会を普遍教会(universal church)の⼀つの肢

(7)

と⾒なしてはいたが、改⾰教会である国教会がローマ法王の権威を受け⼊れることはあり 得なかった。

2.ハーバートの思想的・政治的⽴場

教会政治における⼤きな転換期という背景の中でハーバートの宗教的・政治的⽴場は必 ずしも明確でないために、さまざまに解釈されうる存在であった。『聖堂』は出版時からピ ューリタンとアングリカン双⽅から称賛されていた。「誰もがハーバートの詩を愛してい たように⾒えるのであり、死後は多くの者がハーバートは⾃分たちの味⽅であると⾔った

23

」のである。1652 年に『ハーバート遺稿集』を編纂出版したバーナバス・オウリーは、

ハーバートは堅固なロード派であると信じていたようであるが(『⽥舎司祭

The Country Parson』に『聖堂への司祭 A Priest to the Temple』とタイトルを付けた)24

、⼀⽅ピューリ タン神学者リチャード・バクスターはハーバートをピューリタンとして称賛している

25

。 現代批評においても、保守派から左派まで論者の間で綱引きのように、 「ハーバート批評の 宗教戦争

26

」という状態が続いている。「[アイザック・]ウォルトンが同時代の利害のため にハーバート読んでいた唯⼀の⼈間ではなかった。⾮国教徒も国教徒も、⼗七世紀後期の 教会論上の闘争にハーバートを利⽤しようとした

27

」のであり、また「ハーバートの詩は、

教会内部のイデオロギーの緊張状態を余すことなく刻印しているがゆえに、⼗七世紀にお いても現代においても、相違し⽭盾する読みを助⻑してきた

28

」のである。

基礎的な仕事を⾒ると

William Halewood29

、Joseph Summers、Barbara Lewalski

30

、Richard

Strier31

、Gene Edward Veith などはハーバートのプロテスタント的要素を強調し、あるいは

ピューリタンであるとしている。⼀⽅で、

Rosemond Tuve32

Louis L. Martz33

Stanley Stewart34

などは、 「ハーバートは、礼拝、秘跡あるいは「カトリック的な」意味での信⼼(‘devotion’

35

) から離れて理解されることはほぼあり得ない」と主張している

36

Daniel Doerksen

37

、ハ ーバートがカルヴィニストであったことを論争的に論証しているが、

1990

年前後以降の研 究は、⽂学研究外の

Anthony Milton38

、Kenneth Fincham

39

、Nicholas Tyacke

40

、Peter Lake な ど歴史修正主義の業績と並⾏したものであった

41

ハーバートはピューリタンではなかったが

42

、世代を考えると、神学的には穏健なカル ヴィニストであったと⾔えるであろう

43

。「エリザベスの宗教解決」は「⾮常にカルヴィニ ストに近い、ほとんどカルヴィニストである」と

Hodgkins

は述べ、「『⽥舎牧師』と司祭の 任務に触れた抒情詩の中で、ハーバートは、深く対⽴する「新たな国教会派」(‘New

Conformist’)と「⾮国教会派」

(‘Non-Conformist’)の間にある、古い国教会徒の「中間の道」

を歩んでいる」と⾔う

44

。「中間の道」とは前出

Doerksen

の分類では「カルヴィニスト国教 会派」と重なるであろう。「新たな国教会派」とは、聖なる主教たちのアルミニウス派(ロ

ード派)

45

であり、 「⾮国教会派」とは「⻑⽼派をモデルとした聖職階級制度のない聖職者」

を⽀持する⼈々である

46

。Malcolmson は、ハーバートは「エリザベスの宗教解決とジェイ ムズ国王」と⼀体であり、「神学的にはカルヴィニストであり、教会組織と儀式においては 国教会順応派」であったという

47

神学から離れ、教会政治の観点から⾒ると、ハーバートは儀式と祈りを⼤切し典礼主義 的であって、儀式を司る聖職者の役割を重視するアルミニウス派に属しているように⾒え るのは確かである

48

。「ハーバートの『⽥舎牧師』はピューリタンの攻撃に晒されるアング リカン聖職者の聖性を擁護していた

49

」のである。ピューリタンは、前述のとおり聖書に根 拠を持たない儀式などは中世ローマ・カトリック教会の過ちであるとして国教会から排除 するよう主張しており、同時に、ピューリタンの教会統治モデルは会衆による牧師の選挙 や主教職の廃⽌を含んでおり、様々なプロパガンダを使い⺠衆の聖職者への反感を煽って いたのである。ハーバートの執筆⽬的の⼀つは、⼈々の間の「反聖職権重視主義」

(anticlericalism)的感情を鎮静化することであるという⾒解

50

は正しいであろう。『⽥舎牧 師』に⾒られる様々な信仰上の振る舞いと意⾒は、基本的にエリザベス⼥王時代以来の礼 拝統⼀令に沿った保守的なものであった。Swartz はその議論を⼀歩進めて、「『聖堂』の詩 を⾒るとハーバートが神学的にアルミニウス主義者でないのは明らかであるが、『聖堂へ の道』は、アルミニウス派の統治プログラムを特徴づける中央集権的画⼀化へ全く歩調を 合わせている」と、『⽥舎司祭』がロード派の政治的要請に沿って執筆されたという議論を 展開する

51

『釣⿂⼤全』の著者アイザック・ウォルトンは、『⽥舎牧師』を利⽤して晩年のハーバー トを聖⼈視する伝記を書いたが⼆⼈の思想は近親性があるものと推測される。ウォルトン の保守主義的な宗教と政治の⽴場を考えることはハーバートの信仰を考えるうえで⽰唆に 富む。国教会⾼位聖職者に多くの友⼈を持っていた

52

ことから分かる通りウォルトンの⽴

場は明確であり、『ハーバート伝』執筆の⽬的は冒頭の「読者へ

53

」にあるとおり敬愛する 詩⼈聖職者の⽣涯を永遠に後世に残すことであったが、同時にウォルトンは国教会擁護と いう意図を隠していない。ハーバートはウォルトンとその伝記の対象となった他の四名、

つまりダン、フッカー、サー・ヘンリー・ウォットン、ロバート・サンダーソンと思想と 政治の⽴場で近いところにいたと考えられるのである

54

3.アルミニウス派的教会

「ハーバートの物理的な教会と備品に対する傾倒は際⽴っている

55

。」ハーバートの考え る教会の姿は

13

章「牧師の教会」に書かれており、それはアルミニウス派(ロード派)の

⽬指す教会像と⼀致しているように思われる。アルミニウス主義の主教たちは、 「初代教会

(8)

と⾒なしてはいたが、改⾰教会である国教会がローマ法王の権威を受け⼊れることはあり 得なかった。

2.ハーバートの思想的・政治的⽴場

教会政治における⼤きな転換期という背景の中でハーバートの宗教的・政治的⽴場は必 ずしも明確でないために、さまざまに解釈されうる存在であった。『聖堂』は出版時からピ ューリタンとアングリカン双⽅から称賛されていた。「誰もがハーバートの詩を愛してい たように⾒えるのであり、死後は多くの者がハーバートは⾃分たちの味⽅であると⾔った

23

」のである。1652 年に『ハーバート遺稿集』を編纂出版したバーナバス・オウリーは、

ハーバートは堅固なロード派であると信じていたようであるが(『⽥舎司祭

The Country Parson』に『聖堂への司祭 A Priest to the Temple』とタイトルを付けた)24

、⼀⽅ピューリ タン神学者リチャード・バクスターはハーバートをピューリタンとして称賛している

25

。 現代批評においても、保守派から左派まで論者の間で綱引きのように、 「ハーバート批評の 宗教戦争

26

」という状態が続いている。「[アイザック・]ウォルトンが同時代の利害のため にハーバート読んでいた唯⼀の⼈間ではなかった。⾮国教徒も国教徒も、⼗七世紀後期の 教会論上の闘争にハーバートを利⽤しようとした

27

」のであり、また「ハーバートの詩は、

教会内部のイデオロギーの緊張状態を余すことなく刻印しているがゆえに、⼗七世紀にお いても現代においても、相違し⽭盾する読みを助⻑してきた

28

」のである。

基礎的な仕事を⾒ると

William Halewood29

、Joseph Summers、Barbara Lewalski

30

、Richard

Strier31

、Gene Edward Veith などはハーバートのプロテスタント的要素を強調し、あるいは

ピューリタンであるとしている。⼀⽅で、

Rosemond Tuve32

Louis L. Martz33

Stanley Stewart34

などは、 「ハーバートは、礼拝、秘跡あるいは「カトリック的な」意味での信⼼(‘devotion’

35

) から離れて理解されることはほぼあり得ない」と主張している

36

Daniel Doerksen

37

、ハ ーバートがカルヴィニストであったことを論争的に論証しているが、

1990

年前後以降の研 究は、⽂学研究外の

Anthony Milton38

、Kenneth Fincham

39

、Nicholas Tyacke

40

、Peter Lake な ど歴史修正主義の業績と並⾏したものであった

41

ハーバートはピューリタンではなかったが

42

、世代を考えると、神学的には穏健なカル ヴィニストであったと⾔えるであろう

43

。「エリザベスの宗教解決」は「⾮常にカルヴィニ ストに近い、ほとんどカルヴィニストである」と

Hodgkins

は述べ、「『⽥舎牧師』と司祭の 任務に触れた抒情詩の中で、ハーバートは、深く対⽴する「新たな国教会派」(‘New

Conformist’)と「⾮国教会派」

(‘Non-Conformist’)の間にある、古い国教会徒の「中間の道」

を歩んでいる」と⾔う

44

。「中間の道」とは前出

Doerksen

の分類では「カルヴィニスト国教 会派」と重なるであろう。「新たな国教会派」とは、聖なる主教たちのアルミニウス派(ロ

ード派)

45

であり、 「⾮国教会派」とは「⻑⽼派をモデルとした聖職階級制度のない聖職者」

を⽀持する⼈々である

46

。Malcolmson は、ハーバートは「エリザベスの宗教解決とジェイ ムズ国王」と⼀体であり、「神学的にはカルヴィニストであり、教会組織と儀式においては 国教会順応派」であったという

47

神学から離れ、教会政治の観点から⾒ると、ハーバートは儀式と祈りを⼤切し典礼主義 的であって、儀式を司る聖職者の役割を重視するアルミニウス派に属しているように⾒え るのは確かである

48

。「ハーバートの『⽥舎牧師』はピューリタンの攻撃に晒されるアング リカン聖職者の聖性を擁護していた

49

」のである。ピューリタンは、前述のとおり聖書に根 拠を持たない儀式などは中世ローマ・カトリック教会の過ちであるとして国教会から排除 するよう主張しており、同時に、ピューリタンの教会統治モデルは会衆による牧師の選挙 や主教職の廃⽌を含んでおり、様々なプロパガンダを使い⺠衆の聖職者への反感を煽って いたのである。ハーバートの執筆⽬的の⼀つは、⼈々の間の「反聖職権重視主義」

(anticlericalism)的感情を鎮静化することであるという⾒解

50

は正しいであろう。『⽥舎牧 師』に⾒られる様々な信仰上の振る舞いと意⾒は、基本的にエリザベス⼥王時代以来の礼 拝統⼀令に沿った保守的なものであった。Swartz はその議論を⼀歩進めて、「『聖堂』の詩 を⾒るとハーバートが神学的にアルミニウス主義者でないのは明らかであるが、『聖堂へ の道』は、アルミニウス派の統治プログラムを特徴づける中央集権的画⼀化へ全く歩調を 合わせている」と、『⽥舎司祭』がロード派の政治的要請に沿って執筆されたという議論を 展開する

51

『釣⿂⼤全』の著者アイザック・ウォルトンは、『⽥舎牧師』を利⽤して晩年のハーバー トを聖⼈視する伝記を書いたが⼆⼈の思想は近親性があるものと推測される。ウォルトン の保守主義的な宗教と政治の⽴場を考えることはハーバートの信仰を考えるうえで⽰唆に 富む。国教会⾼位聖職者に多くの友⼈を持っていた

52

ことから分かる通りウォルトンの⽴

場は明確であり、『ハーバート伝』執筆の⽬的は冒頭の「読者へ

53

」にあるとおり敬愛する 詩⼈聖職者の⽣涯を永遠に後世に残すことであったが、同時にウォルトンは国教会擁護と いう意図を隠していない。ハーバートはウォルトンとその伝記の対象となった他の四名、

つまりダン、フッカー、サー・ヘンリー・ウォットン、ロバート・サンダーソンと思想と 政治の⽴場で近いところにいたと考えられるのである

54

3.アルミニウス派的教会

「ハーバートの物理的な教会と備品に対する傾倒は際⽴っている

55

。」ハーバートの考え る教会の姿は

13

章「牧師の教会」に書かれており、それはアルミニウス派(ロード派)の

⽬指す教会像と⼀致しているように思われる。アルミニウス主義の主教たちは、 「初代教会

(9)

の礼拝の歴史に関⼼を寄せた。また聖堂の外観と礼拝の質の改善を⼼がけ、教会区聖職者 の教育と道徳の⽔準を⾼めるように努⼒した。彼らは、英国教会をあるべき教会の⼀つの モデルにし、また社会に対する模範としようとした」のである。そして「この

10

年間[1630 年代]にロードと⽀持者たちが追求した政策は多様な要素を含んでいた。このうち最重要 なものは「神聖の美」の回復であり、それは⼀つの確信であった。つまり教会の建物は神 の家であり、そのように取り扱われなければならず、より⼊念な教会内の装飾と家具備品、

そして中で⾏われる教会礼拝式と諸儀式に固有の「教化する」価値を⼀層重視することに 反映されなければならない

56

。」前述のとおり、この動きは宗教改⾰以前のカトリシズム時 代への回帰と⾒えたためピューリタンを怒らせることになった。

⽥舎牧師は、教会堂にあるすべての物が下品ではなく、その名前に相応しく配慮がな されるように、特別な注意を払うべきだ。それ故に、第⼀に、あらゆるものに⼿⼊れ が⾏き届くように管理する。例えば、壁は漆喰を塗り、窓はガラスを填め込み、床は

⼩⽯を敷き詰め、座席は疵がなく据わりがよくて滑らかに、特に説教壇、聖書台、聖 餐台そして洗礼盤は、それらを⽤いて執り⾏う儀式のために、最⾼の状態に保たねば ならない。第⼆に、教会堂の掃除をして、塵や蜘蛛の巣を取り払い清潔にする。⼤き な祝⽇には、イグサを敷き詰め、⽊の枝で飾り、お⾹を焚かなければならない。第三 に、教会の⾄る所に、聖書のしかるべき聖句を描くが、それも鮮やかな⾊彩やグロテ スクな動植物画を伴ってはならず、重々しく落ち着いたものにする。第四に、教会の 権威によって指定されたすべての書物を置くが、それも破損していて汚れていてはな らず、全冊揃っていて清潔で、しかもしっかりと綴じていなくてはならない。そして、

「編み⽬の細かい⿇布製の⾒事な聖餐台掛けとともに、上質で⾼価な素材の布から作 った⾒た⽬にも素晴らしいテーブル・クロスがなくてはならず、しかもそれらを清潔 で滑らかな状態に保ち、強固で上品な⻑持ちに納めておかねばならない。それととも に、聖餐杯と聖⽫の覆い、聖⽔盤と聖⽔瓶、寄付や施し⽤の盥を備える。さらにその 他、牧師はちょうどよい時に慈善箱を据え付け、篤実な⼈から寄付を得、病⼈や貧窮

⺠のため基⾦として貯めておくとよい。」そして、これらすべてのことを⾏う際は、必 要に駆られてではなく、あるいは物事に神聖さを加えるためでもなくて、迷信と無頓 着の中道を⾏くことを願い、このような性質の事柄における使徒[パウロ]の偉⼤で 賞賛すべきふたつの掟に従う。その最初の掟は、「すべてを適切に、秩序正しく⾏いな さい」であり、⼆番⽬の掟は、 「すべてはあなた⽅を造り上げるためにすべきです」 [1]

コリ。このふたつの掟には、我々が神と隣⼈に対して果たすべき⼆重の義務が含まれ ている。最初は神の栄誉を称えるためであり、もう⼀つは、隣⼈の益のためである。

したがって、そのふたつの掟は従来の道をすっかりかき消し、どうでもよい表⾯的な 無関⼼ごとにおいてでさえ、どのような進路を取るべきかを余すところなく精確に⽰

すとともに、聖書が完全ではないと断⾔する輩に⾯⽬を失わせることになる。(52₋3)

また「迷信(‘superstition’)と無頓着(‘slovenliness’)の中道を⾏くことを願い」において、

「迷信」はローマ・カトリシズムを「無頓着」がカルヴィニズムを⽰しているのは⾃明で あり

57

、ハーバートは国教会の中道思想に触れているのである。

この美しい教会像は「迷信と無頓着の中道を⾏くことを願」う国教会の在り⽅の表現で ある。その中道教会は、ハーバートの詩「英国国教会」

“The British Church”

の簡潔な姿と 重なっている

58

I joy, deare Mother, when I view Thy perfect lineaments and hue

Both sweet and bright. Beautie in thee takes up her place, And dates her letters from thy face,

When she doth write.

A fine aspect in fit aray,

Neither too mean, nor yet too gay, Shows who is best. Outlandish looks may not compare:

For all they either painted are, Or else undrest.

She on the hills, which wantonly Allureth all in hope to be

By her preferr’d, Hath kiss’d so long her painted shrines, That ev’n her face by kissing shines,

For her reward. She in the valley is so shie

(10)

の礼拝の歴史に関⼼を寄せた。また聖堂の外観と礼拝の質の改善を⼼がけ、教会区聖職者 の教育と道徳の⽔準を⾼めるように努⼒した。彼らは、英国教会をあるべき教会の⼀つの モデルにし、また社会に対する模範としようとした」のである。そして「この

10

年間[1630 年代]にロードと⽀持者たちが追求した政策は多様な要素を含んでいた。このうち最重要 なものは「神聖の美」の回復であり、それは⼀つの確信であった。つまり教会の建物は神 の家であり、そのように取り扱われなければならず、より⼊念な教会内の装飾と家具備品、

そして中で⾏われる教会礼拝式と諸儀式に固有の「教化する」価値を⼀層重視することに 反映されなければならない

56

。」前述のとおり、この動きは宗教改⾰以前のカトリシズム時 代への回帰と⾒えたためピューリタンを怒らせることになった。

⽥舎牧師は、教会堂にあるすべての物が下品ではなく、その名前に相応しく配慮がな されるように、特別な注意を払うべきだ。それ故に、第⼀に、あらゆるものに⼿⼊れ が⾏き届くように管理する。例えば、壁は漆喰を塗り、窓はガラスを填め込み、床は

⼩⽯を敷き詰め、座席は疵がなく据わりがよくて滑らかに、特に説教壇、聖書台、聖 餐台そして洗礼盤は、それらを⽤いて執り⾏う儀式のために、最⾼の状態に保たねば ならない。第⼆に、教会堂の掃除をして、塵や蜘蛛の巣を取り払い清潔にする。⼤き な祝⽇には、イグサを敷き詰め、⽊の枝で飾り、お⾹を焚かなければならない。第三 に、教会の⾄る所に、聖書のしかるべき聖句を描くが、それも鮮やかな⾊彩やグロテ スクな動植物画を伴ってはならず、重々しく落ち着いたものにする。第四に、教会の 権威によって指定されたすべての書物を置くが、それも破損していて汚れていてはな らず、全冊揃っていて清潔で、しかもしっかりと綴じていなくてはならない。そして、

「編み⽬の細かい⿇布製の⾒事な聖餐台掛けとともに、上質で⾼価な素材の布から作 った⾒た⽬にも素晴らしいテーブル・クロスがなくてはならず、しかもそれらを清潔 で滑らかな状態に保ち、強固で上品な⻑持ちに納めておかねばならない。それととも に、聖餐杯と聖⽫の覆い、聖⽔盤と聖⽔瓶、寄付や施し⽤の盥を備える。さらにその 他、牧師はちょうどよい時に慈善箱を据え付け、篤実な⼈から寄付を得、病⼈や貧窮

⺠のため基⾦として貯めておくとよい。」そして、これらすべてのことを⾏う際は、必 要に駆られてではなく、あるいは物事に神聖さを加えるためでもなくて、迷信と無頓 着の中道を⾏くことを願い、このような性質の事柄における使徒[パウロ]の偉⼤で 賞賛すべきふたつの掟に従う。その最初の掟は、「すべてを適切に、秩序正しく⾏いな さい」であり、⼆番⽬の掟は、 「すべてはあなた⽅を造り上げるためにすべきです」 [1]

コリ。このふたつの掟には、我々が神と隣⼈に対して果たすべき⼆重の義務が含まれ ている。最初は神の栄誉を称えるためであり、もう⼀つは、隣⼈の益のためである。

したがって、そのふたつの掟は従来の道をすっかりかき消し、どうでもよい表⾯的な 無関⼼ごとにおいてでさえ、どのような進路を取るべきかを余すところなく精確に⽰

すとともに、聖書が完全ではないと断⾔する輩に⾯⽬を失わせることになる。(52₋3)

また「迷信(‘superstition’)と無頓着(‘slovenliness’)の中道を⾏くことを願い」において、

「迷信」はローマ・カトリシズムを「無頓着」がカルヴィニズムを⽰しているのは⾃明で あり

57

、ハーバートは国教会の中道思想に触れているのである。

この美しい教会像は「迷信と無頓着の中道を⾏くことを願」う国教会の在り⽅の表現で ある。その中道教会は、ハーバートの詩「英国国教会」

“The British Church”

の簡潔な姿と 重なっている

58

I joy, deare Mother, when I view Thy perfect lineaments and hue

Both sweet and bright.

Beautie in thee takes up her place, And dates her letters from thy face,

When she doth write.

A fine aspect in fit aray,

Neither too mean, nor yet too gay, Shows who is best.

Outlandish looks may not compare:

For all they either painted are, Or else undrest.

She on the hills, which wantonly Allureth all in hope to be

By her preferr’d, Hath kiss’d so long her painted shrines, That ev’n her face by kissing shines,

For her reward.

She in the valley is so shie

(11)

Of dressing, that her hair doth lie About her eares:

While she avoids her neighbours pride, She wholly goes on th’other side,

And nothing wears.

But, dearest Mother, what those misse, The mean, thy praise and glorie is,

And long may be.

Blessed be God, whose love it was To double-moat thee with his grace,

And none but thee.

いとしい⺟よ、私は嬉しい、

優しくて輝くばかりの

おんみの完璧な容貌と御気⾊とを 仰ぎ⾒るとき。

美は、おんみの内に 御座を占め

⼿紙をしたためるときも、おんみの御顔をもとに

⽇付を記す。

素晴らしい容貌は、慎ましやかな装いに⾝をつつみ、

貧粗に過ぎず、きらびやか過ぎることもなく、

いづれの⼈がいと望ましいかを ⽰してくれる。

他国の⼥たちの⾵貌など ⽐べものにもならぬ。

というのも 彼⼥らはみな 着飾りたてるか

さもなくば ⾐装も着けてはいないのだから。

丘の上に⽴つ⼥は、彼⼥に拠って 栄達を 望む輩をすべて みだらにおびき寄せるが、

⾃らの飾り⽴てた祭壇へ あまりに久しく 接吻をしていたために その顔までが、接吻で照り映えている

当然の報いとして。

⾕間の⼥は、⾝を装うのに臆病すぎ、

髪の⽑は⽿のあたりに 垂れさがる。 隣の⼥の驕慢を 遠ざけつつも

この⼥は ひたすら逆の⽅へと突っ⾛り、

⾝には 何ひとつ飾らない。

でも、こよなくいとしい⺟よ、この⼆⼈の⼥が逸したもの 中庸こそは、おんみの栄光 我らの賛嘆の的、

それは 幾久しく続きましょう。 神の 崇められませんことを、

御恵みで⼆重に濠をめぐらして 他ならずおんみをば 護り給うたのは、この神の愛でした。

‘English’ではなく‘British’を使⽤しているのは、ジェームズ⼀世の治世であり、1610

年に

スコットランドが監督制に移⾏した事実に配慮したためと考えられる。ハーバートは英国 国教会が中道であることを他で幾度も述べており、この詩の中道の説明は、ジョン・ダン の聖なる「ソネット

18

番」や「諷刺詩Ⅲ」のそれと異なり、直截であり屈折がない

59

。カ トリックの教会は、着飾って栄達を望む輩を淫らにおびき寄せる⼀⽅で、プロテスタント 教会は何も⾝に着けていない。英国国教会はこれら⼆つの極端な教会の間にあり、貧相に 過ぎず、きらびやか過ぎることもない。この詩は教会建築と内装に対する三教会の異なっ た姿勢を⽰すと同時に、儀式と思想における本質的な違いを⽰唆している。

ハーバートの教会に対する思いは強く、それはハーバート⾃⾝の礼拝重視のアングリカ ニズム思想とアルミニウス派の政治的要請双⽅に応える表現であったといえるであろう。

そこにハーバートの平等思想が⾒えることは興味深い。ウォルトンは伝記で実際にハーバ ートが荒廃した教会を再建した逸話を書いている。

1626

年にリンカン聖堂管区の主教座聖 堂参事会員となりレイトン教会の聖職録を得たとき、ハーバートは募⾦をしてニコラス・

フェラー、ジョン・フェラーとともに崩れて放置されていた教会を再建している。ウォル トンは「品位と美しさによって、わが国が持つことのできる最も素晴らしい教区教会であ ると確信している」と書いて重要な指摘をしている。

彼[ハーバート]の命令によって、聖書朗読の信徒席と説教壇は少ししか離れておら

ず、⾼さは同じであった。というのも彼は、どちらも上位にならず優先されるべきで

(12)

Of dressing, that her hair doth lie About her eares:

While she avoids her neighbours pride, She wholly goes on th’other side,

And nothing wears.

But, dearest Mother, what those misse, The mean, thy praise and glorie is,

And long may be.

Blessed be God, whose love it was To double-moat thee with his grace,

And none but thee.

いとしい⺟よ、私は嬉しい、

優しくて輝くばかりの

おんみの完璧な容貌と御気⾊とを 仰ぎ⾒るとき。

美は、おんみの内に 御座を占め

⼿紙をしたためるときも、おんみの御顔をもとに

⽇付を記す。

素晴らしい容貌は、慎ましやかな装いに⾝をつつみ、

貧粗に過ぎず、きらびやか過ぎることもなく、

いづれの⼈がいと望ましいかを ⽰してくれる。

他国の⼥たちの⾵貌など ⽐べものにもならぬ。

というのも 彼⼥らはみな 着飾りたてるか

さもなくば ⾐装も着けてはいないのだから。

丘の上に⽴つ⼥は、彼⼥に拠って 栄達を 望む輩をすべて みだらにおびき寄せるが、

⾃らの飾り⽴てた祭壇へ あまりに久しく 接吻をしていたために その顔までが、接吻で照り映えている

当然の報いとして。

⾕間の⼥は、⾝を装うのに臆病すぎ、

髪の⽑は⽿のあたりに 垂れさがる。

隣の⼥の驕慢を 遠ざけつつも

この⼥は ひたすら逆の⽅へと突っ⾛り、

⾝には 何ひとつ飾らない。

でも、こよなくいとしい⺟よ、この⼆⼈の⼥が逸したもの 中庸こそは、おんみの栄光 我らの賛嘆の的、

それは 幾久しく続きましょう。

神の 崇められませんことを、

御恵みで⼆重に濠をめぐらして 他ならずおんみをば 護り給うたのは、この神の愛でした。

‘English’ではなく‘British’を使⽤しているのは、ジェームズ⼀世の治世であり、1610

年に

スコットランドが監督制に移⾏した事実に配慮したためと考えられる。ハーバートは英国 国教会が中道であることを他で幾度も述べており、この詩の中道の説明は、ジョン・ダン の聖なる「ソネット

18

番」や「諷刺詩

Ⅲ」のそれと異なり、直截であり屈折がない59

。カ トリックの教会は、着飾って栄達を望む輩を淫らにおびき寄せる⼀⽅で、プロテスタント 教会は何も⾝に着けていない。英国国教会はこれら⼆つの極端な教会の間にあり、貧相に 過ぎず、きらびやか過ぎることもない。この詩は教会建築と内装に対する三教会の異なっ た姿勢を⽰すと同時に、儀式と思想における本質的な違いを⽰唆している。

ハーバートの教会に対する思いは強く、それはハーバート⾃⾝の礼拝重視のアングリカ ニズム思想とアルミニウス派の政治的要請双⽅に応える表現であったといえるであろう。

そこにハーバートの平等思想が⾒えることは興味深い。ウォルトンは伝記で実際にハーバ ートが荒廃した教会を再建した逸話を書いている。

1626

年にリンカン聖堂管区の主教座聖 堂参事会員となりレイトン教会の聖職録を得たとき、ハーバートは募⾦をしてニコラス・

フェラー、ジョン・フェラーとともに崩れて放置されていた教会を再建している。ウォル トンは「品位と美しさによって、わが国が持つことのできる最も素晴らしい教区教会であ ると確信している」と書いて重要な指摘をしている。

彼[ハーバート]の命令によって、聖書朗読の信徒席と説教壇は少ししか離れておら

ず、⾼さは同じであった。というのも彼は、どちらも上位にならず優先されるべきで

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