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章の「親ぼくの⾷事 180 」では、神学論争に対するハーバートの態度がよく分 かる。聖餐式の跪拝についてハーバートの態度は明確に⾒えるが、聖餐式に「祝宴」とい

う語を使うことにより、必ずしも聖餐を受ける者に跪拝を強制していないようにも解釈で きるのである。論争、議論が最⼤の

scandal

であるとすれば、それを避けるのは司祭であ る。Cooley はこの引⽤箇所を論じて、ハーバートが聖餐式の跪拝について⾔うことは、単 に⾃分の主張や形式主義の奴隷として述べているのではなく、想定し得る定式化の範囲内 の複雑な交渉であるとしており、その意味でハーバートを「ヴィア・メディアの擁護者」

と呼んでよいであろうと⾔う

181

聖餐台の論争に関しては『⽥舎司祭の』の記述はロード派の政策に従っているように読 むことができる。前出の第

13

章「牧師の教会」においては、「教会堂にあるすべてのもの が下品ではなく、その名前に相応しく配慮がなされるように特別な注意を払うべきだ」 (52)

と書いて、説教壇、聖書台、聖職台、洗礼盤を最⾼の状態に保つようにと⾔い、お⾹、聖 餐台掛け、テーブル・クロス、⻑持等細々と指⽰をしている。ロード派は祭服や儀式の決 まりに関して厳密な遵守を求め、教会内部の装飾を重視して、聖餐台も教会の東端に置か れレールによって囲われるべきと決められたが、それも論争となった(the Altar Controversy)。

ピューリタンは秩序と品位を確⽴するための統⼀を求める⽅針に、カトリシズムへの回帰 を疑い反発を強めていったが、 「牧師の教会」の章はロード派の⽅針と⽭盾なく書かれてい るという意味でむしろ論争的である。

13.ヴィア・メディア

ハーバートの⾮国教徒政策に対する基本的姿勢は、おそらく寛容主義(toleration)では なく、包容(包括)主義(comprehension)的であった

182

。包容とは国教会の教義や儀式を 緩めて⾮国教徒を国教会内部に取り込むことであり、寛容とは国教会外部での⾮国教徒の 礼拝を認めることであった。現実の包容政策が持つ国外カトリック勢⼒への対抗策という 意味合いを別として、ハーバートの教会が、⾮国教徒も含めすべての⼈々が⼀致する国教 会であったことは想像できる。それは前に触れた、アングリカニズムを創出した神学者リ チャード・フッカー

183

が理論的に明確にした、 「イングランドという社会においては政治共 同体(国家)と信仰共同体(教会)は地理的に同延である」という考えと同じであろう。

これは必ずしも絶対王政や王権神授説など強制による統⼀を意味するわけではない。哲学

的にいえば、⼈間は無限に対⽴と分裂を繰り返す相対的存在ではありえず、共通する善き ものによって互いに繋がりうるという考え⽅である。フッカーは⾃然理性を重視していた が、その⼈間本性観は思想史的にトマス・アクィナスの⾃然法論の影響下にあり

184

、当然 アリストテレス哲学を源流としている。ハーバートは⼀種の性善説に基づき、意⾒の異な るすべての教区⺠を包括しようとする思想を持っていたと考えてよいであろう。

包括への意思の表現がヴィア・メディアであり、『⽥舎牧師』は中道思想の表現として解 釈することができる。ハーバートのヴィア・メディア思想は、フッカーや友⼈の詩⼈ジョ ン・ダンと同様、「可視教会は不完全である

185

」という認識に基づいている。ダンは説教で

「どの教会も厳密な完全さからは何かが⽋けているかもしれません」と⾔い、 「天使たち⾃

⾝は、極端から極端へ、東から⻄へ、間の真ん中の道を通ってくる以外には、やってくる ことができないのです

186

」と主張して「中道」国教会への信頼を表明している。ダンと同 様に

187

、ハーバートのヴィア・メディア思想は、国教会が単にローマとジュネーヴの⽔平 間の中間的な存在という意味だけではなく、現世の不完全な教会と天の永遠の教会の中間 にあり、理想を⽬指し不断に垂直に運動し続ける教会であることを⽰している。

ハーバートは牧師になる以前からジェイムズ⼀世の包括的なヴィア・メディア政策に忠 実に従っていたように⾒える。ハーバート(1593-1633)と、ジェイムズ⼀世(治世

1603-25)との関係は深く、国王の引き⽴てを受けて宮廷での出世を考えていたといわれている。

ジェイムズ⼀世は「無関⼼ごと」の範囲を広げコンセンサスを拡⼤する政策を⾏ったが、

ハーバートがその寛容なヴィア・メディア政策に影響を受けていたとしても不思議ではな い。

Lee

は、 「すべてのことを考え合わせると、ジェイムズの教会政策は⾮常な成功であり、

エリザベスの政策よりはるかに成功し、教会にとっては⼤変有益であった。盲点があり、

……間違いを犯したが、彼の後継者[チャールズ⼀世]はその失敗を凌駕した。彼[ジェ

イムズ]が国教会内部に⽣み出した広範なコンセンサスと、神学の問題で公的な論争を避 ける限りは、異なる意⾒を持つ者たちであろうとも後押しし昇進させようとしたことは、

実質的に、⻑⽼派的⼼情と分離主義的⼼情を抑制することになった。それは

1603

年以前に 存在していたものより、はるかに効果的なヴィア・メディアであった

188

」と書いている。

既に⾒てきた通り『⽥舎牧師』は様々にヴィア・メディア思想を説いている。第

24

「議論する牧師」の中で、教区内の「奇妙な教義を抱く者」の考えを改めさせるために、

祈り優しく待遇し観察し、彼らの主義・主張を⾒極めるようにと⾔うが、論争を避けるよ うにと諭している。「教皇主義者」(‘Papist’)の拠り所は教会であり、「教会分離主義者」

(‘Schismatic’)(88)の要はつまずきの⽯であるという。かつては「無関⼼ごとであったも

のが、教会の権威ある命によりさらにそれ以上のもの」となったと⾔い、ローマ・カトリ

ックとピューリタンに対峙する際、教区牧師に最も⼤切なことは、 「厳格な信仰⽣活」と「謙

Cooley

は第

6

章「祈りを捧げる牧師」を論じ、「ハーバートは、ロード派前衛の儀式主義の 修辞を借⽤していても、その修辞を⾔葉の秘跡と整合するように調整している」と⾔い、

ハーバートが、聖餐に関するプロテスタントのディレンマを解決するためにカルヴィンと トマス・クランマーに従っていると主張している

179

確かに第

22

章の「親ぼくの⾷事

180

」では、神学論争に対するハーバートの態度がよく分 かる。聖餐式の跪拝についてハーバートの態度は明確に⾒えるが、聖餐式に「祝宴」とい う語を使うことにより、必ずしも聖餐を受ける者に跪拝を強制していないようにも解釈で きるのである。論争、議論が最⼤の

scandal

であるとすれば、それを避けるのは司祭であ る。Cooley はこの引⽤箇所を論じて、ハーバートが聖餐式の跪拝について⾔うことは、単 に⾃分の主張や形式主義の奴隷として述べているのではなく、想定し得る定式化の範囲内 の複雑な交渉であるとしており、その意味でハーバートを「ヴィア・メディアの擁護者」

と呼んでよいであろうと⾔う

181

聖餐台の論争に関しては『⽥舎司祭の』の記述はロード派の政策に従っているように読 むことができる。前出の第

13

章「牧師の教会」においては、「教会堂にあるすべてのもの が下品ではなく、その名前に相応しく配慮がなされるように特別な注意を払うべきだ」 (52)

と書いて、説教壇、聖書台、聖職台、洗礼盤を最⾼の状態に保つようにと⾔い、お⾹、聖 餐台掛け、テーブル・クロス、⻑持等細々と指⽰をしている。ロード派は祭服や儀式の決 まりに関して厳密な遵守を求め、教会内部の装飾を重視して、聖餐台も教会の東端に置か れレールによって囲われるべきと決められたが、それも論争となった(the Altar Controversy)。

ピューリタンは秩序と品位を確⽴するための統⼀を求める⽅針に、カトリシズムへの回帰 を疑い反発を強めていったが、 「牧師の教会」の章はロード派の⽅針と⽭盾なく書かれてい るという意味でむしろ論争的である。

13.ヴィア・メディア

ハーバートの⾮国教徒政策に対する基本的姿勢は、おそらく寛容主義(toleration)では なく、包容(包括)主義(comprehension)的であった

182

。包容とは国教会の教義や儀式を 緩めて⾮国教徒を国教会内部に取り込むことであり、寛容とは国教会外部での⾮国教徒の 礼拝を認めることであった。現実の包容政策が持つ国外カトリック勢⼒への対抗策という 意味合いを別として、ハーバートの教会が、⾮国教徒も含めすべての⼈々が⼀致する国教 会であったことは想像できる。それは前に触れた、アングリカニズムを創出した神学者リ チャード・フッカー

183

が理論的に明確にした、 「イングランドという社会においては政治共 同体(国家)と信仰共同体(教会)は地理的に同延である」という考えと同じであろう。

これは必ずしも絶対王政や王権神授説など強制による統⼀を意味するわけではない。哲学

的にいえば、⼈間は無限に対⽴と分裂を繰り返す相対的存在ではありえず、共通する善き ものによって互いに繋がりうるという考え⽅である。フッカーは⾃然理性を重視していた が、その⼈間本性観は思想史的にトマス・アクィナスの⾃然法論の影響下にあり

184

、当然 アリストテレス哲学を源流としている。ハーバートは⼀種の性善説に基づき、意⾒の異な るすべての教区⺠を包括しようとする思想を持っていたと考えてよいであろう。

包括への意思の表現がヴィア・メディアであり、『⽥舎牧師』は中道思想の表現として解 釈することができる。ハーバートのヴィア・メディア思想は、フッカーや友⼈の詩⼈ジョ ン・ダンと同様、「可視教会は不完全である

185

」という認識に基づいている。ダンは説教で

「どの教会も厳密な完全さからは何かが⽋けているかもしれません」と⾔い、 「天使たち⾃

⾝は、極端から極端へ、東から⻄へ、間の真ん中の道を通ってくる以外には、やってくる ことができないのです

186

」と主張して「中道」国教会への信頼を表明している。ダンと同 様に

187

、ハーバートのヴィア・メディア思想は、国教会が単にローマとジュネーヴの⽔平 間の中間的な存在という意味だけではなく、現世の不完全な教会と天の永遠の教会の中間 にあり、理想を⽬指し不断に垂直に運動し続ける教会であることを⽰している。

ハーバートは牧師になる以前からジェイムズ⼀世の包括的なヴィア・メディア政策に忠 実に従っていたように⾒える。ハーバート(1593-1633)と、ジェイムズ⼀世(治世

1603-25)との関係は深く、国王の引き⽴てを受けて宮廷での出世を考えていたといわれている。

ジェイムズ⼀世は「無関⼼ごと」の範囲を広げコンセンサスを拡⼤する政策を⾏ったが、

ハーバートがその寛容なヴィア・メディア政策に影響を受けていたとしても不思議ではな い。

Lee

は、 「すべてのことを考え合わせると、ジェイムズの教会政策は⾮常な成功であり、

エリザベスの政策よりはるかに成功し、教会にとっては⼤変有益であった。盲点があり、

……間違いを犯したが、彼の後継者[チャールズ⼀世]はその失敗を凌駕した。彼[ジェ

イムズ]が国教会内部に⽣み出した広範なコンセンサスと、神学の問題で公的な論争を避 ける限りは、異なる意⾒を持つ者たちであろうとも後押しし昇進させようとしたことは、

実質的に、⻑⽼派的⼼情と分離主義的⼼情を抑制することになった。それは

1603

年以前に 存在していたものより、はるかに効果的なヴィア・メディアであった

188

」と書いている。

既に⾒てきた通り『⽥舎牧師』は様々にヴィア・メディア思想を説いている。第

24

「議論する牧師」の中で、教区内の「奇妙な教義を抱く者」の考えを改めさせるために、

祈り優しく待遇し観察し、彼らの主義・主張を⾒極めるようにと⾔うが、論争を避けるよ うにと諭している。「教皇主義者」(‘Papist’)の拠り所は教会であり、「教会分離主義者」

(‘Schismatic’)(88)の要はつまずきの⽯であるという。かつては「無関⼼ごとであったも

のが、教会の権威ある命によりさらにそれ以上のもの」となったと⾔い、ローマ・カトリ

ックとピューリタンに対峙する際、教区牧師に最も⼤切なことは、 「厳格な信仰⽣活」と「謙