日本中世における裁判手続の理解に関する補考
著者 西村 安博
雑誌名 經濟學論叢
巻 64
号 4
ページ 1356‑1313
発行年 2013‑03‑20
権利 同志社大學經濟學會
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000013776
日本中世における裁判手続の理解に関する補考︵西村安博︶ ︻論 説︼
日本中世における裁判手続の理解に関する補考
西 村 安 博
はじめに
一 日本中世における裁判手続に関する理解の現状
二 明治〜大正期における﹁弾劾主義﹂等に関する理解の一端
むすびにかえて
は じ め に 筆者は最近︑日本中世の裁判手続に関する﹁理解の現状﹂を確認することを主たる課題として︑わが国の戦前〜戦
後における法制史研究および歴史学研究の中で︑裁判手続に関して詳論する諸研究を採り上げることにより︑これら
の中で与えられている理解について仔細に確認を行うという機会を得た ︵
︒この作業の主たる目的は︑裁判手続の﹁構 1︶
造﹂あるいは﹁原則﹂に関するこんにちの大方の理解は如何なる経緯を辿ることによって定着するに至ったのか︑と
いう問いに対して応答することにあるが︑また同時に︑裁判手続の中に見出される特徴として﹁当事者主義﹂︑ある
五九 ︵一三五六︶
第六十四巻 第四号
いは﹁職権主義﹂が強調される際に︑その評価の対象および内容が如何なるものであったのかについて明らかにする
ことをも意図するものである︒しかしながら︑﹁別稿﹂においてはかような課題に取り組むことにその大部分を費や
してしまったことから︑予定していた課題の一部については︑遺憾ながら取り残すに至っている︒
そこで︑本稿においてはその残された課題に取り組むべく︑あらためて次のような課題を設定することにしたい︒
第一に︑﹁別稿﹂の成果を踏まえた上で︑あらためて日本中世における裁判手続に関する﹁理解の現状﹂について確
認を行う︒第二に︑﹁別稿﹂および本稿が起点とするところの︑中田薫博士の説かれた﹁弾劾主義﹂ ︵
の問題に立ち返り︑ 2︶
博士の理解の背景にあったことが推測される法律学上の理解︑すなわち︑明治〜大正期の﹁刑事訴訟法﹂研究︑ある
いは﹁民事訴訟法﹂研究において論じられていた﹁弾劾主義﹂に関する理解について︑少しく確認を試みたいと思う︒
このことにより︑中田博士が﹁弾劾主義﹂を如何なる意味において理解しておられたのかを推測することが可能にな
るからである︒そして︑日本中世における裁判手続の﹁構造﹂あるいは﹁原則﹂の問題に論及したこれまでの研究が︑
博士の論じられた﹁弾劾主義﹂の問題に対して如何なる意味において応答して来たのかを点検することが可能になる
からである︒その上で︑第三に︑今後に残された課題について少しく述べることにしたい︒
一 日本中世における裁判手続に関する理解の現状 日本中世における裁判手続に関する﹁理解の現状﹂を確認する際に重要となるのが︑﹁別稿﹂および本稿が起点と
する﹁獄前の死人︑訴え無くば︑検断無し﹂という﹁法諺﹂の理解についてである︒これに関していえば︑こんにち
における理解の到達点を示しているものとして︑石井進氏による研究を挙げなければならないであろう︒一九六〇年 六〇 ︵一三五五︶
日本中世における裁判手続の理解に関する補考︵西村安博︶ 代以降の日本中世史研究をリードされた石井氏は早く︑中世法における基本的かつ重要な問題として﹁当事者主義﹂
の問題を採り上げ︑これに関する本格的な理解を示された論者の一人であるといえよう︒氏がこの問題に関する論考
を公けにされた時期においては︑笠松宏至氏あるいは羽下徳彦氏をはじめとする当時の気鋭の中世史家によって中
世法の特質の解明が意図される研究が次々に発表されており︑かような研究動向の中にあって︑石井氏は中世法の理
解に関して本格的に論及する著書を執筆されたのであった︒氏の示された中世法に関する理解においては︑関連する
研究の成果が漏れなく参照されていることは勿論のことであるが︑なかでも︑法と裁判に関する斬新な論考を著して
おられた笠松︑羽下両氏に拠る研究成果については︑とくに強く意識されているように思われる︒そして︑その後の
学界においては︑中世法に関する基本的な理解について石井氏の所論を参照するというあり方が次第に定着していく
ことになったものと思われる︒本稿では︑日本中世の裁判手続に関する﹁理解の現状﹂を確認するという︑当初設定
した課題への取り組みを果たすためにも︑中世法に関する基本的かつ包括的な理解を提供するとともに︑こんにちの
学界においてもなお大きな影響を与え続けていると思われる石井氏の理解を採り上げることによって︑﹁理解の現状﹂
に関する確認を行っておきたいと思う︒
1﹁中世の裁判の特徴﹂
第一に︑石井氏は一九六五年に刊行された著書﹃日本の歴史7 鎌倉幕府﹄︵中央公論社︶において︑﹁中世の裁判 の特徴﹂に関して論じておられる︒引用が長文にわたるが︑その内容を次に記すことにしたい ︵
︒ 3︶
このように中世の裁判では︑証文も証人もない場合は︑ともかく神によってでもどちらか一方を勝たせなけれ
六一 ︵一三五四︶
第六十四巻 第四号
ばならなかった︒厳密にいえば︑相争う両当事者以外の第三者こそが正しく︑当事者がともに正しくない場合は
当然ありえたにもかかわらず︑裁判所はともかくも原告・被告のどちらかに勝訴を宣告しなければならなかった
のである︒
ここには中世の裁判の特色があざやかに示されている︒今日の学者は︑このころの裁判手続きの特徴を﹁当事
者主義﹂ということばでよんでいるが︑それは裁判の進行が︑もっぱら原告・被告の手にまかされていたからで
ある︒裁判所の役割はむしろ受動的なものであり︑被告への出頭命令などさえ︑原告が自分で被告のもとに届け
ることになっていた︒提出された証拠書類に対しても︑一方が偽文書であると主張しなければ︑裁判所が独自に
それを調査することはない︒またかりに一方の側にきわめて有利な先例や個別法令があったとしても︑当事者が
それを指摘したり︑自分で証拠として提出しなければ︑裁判所がそれを無視する恐れはきわめて大きいのである︒
以上述べてきた裁判は︑いわゆる民事事件のばあいであったが︑刑事事件についてもまたその特色があらわれ
ていた︒中世のドイツでは︑﹁訴えなければ裁判なし﹂という法格言があったというが︑この時代の日本でもま
た﹁獄前に死人ありとも︑訴えなければ検断︵犯人の捜索・逮捕・処断︶なし﹂というまるでそっくりのことわざ
があったように︑﹁殺人がおこなわれても訴人がなければ刑事事件にならぬ﹂との社会通念があったのである︒
むろんそれは幕府などの政治権力に直接関係のない一般の刑事事件のみについてのことであって︑ひとたび幕
府に反抗したり︑要人を襲ったりすれば︑きわめてきびしい処分をうけたことはもちろんである︒だが直接それ
にふれないかぎり︑殺人でさえ﹁訴人なければ刑事事件にはならぬ﹂の原則に支配されていたのが︑この時代の
裁判なのであった︒
それはちょうどこの時代の戦闘様式が︑騎馬による個人戦の﹁一騎打ち﹂を基本としたのと一脈通ずる点があ 六二 ︵一三五三︶
日本中世における裁判手続の理解に関する補考︵西村安博︶ るが︑こうした﹁当事者主義﹂は︑いったいどのような背景のもとにあらわれたのであろうか︒結局のところ︑
幕府のもとに結集し︑その裁判をうけた主体である御家人武士たちが︑それぞれ一個の独立した支配領域をもち︑
幕府の権力が完全にかれらをおさえ切っていない状況にあったからである︒︵中略︶
このような御家人たちのありかたを背景としておればこそ︑右にのべたような﹁当事者主義﹂の特色は︑つよ
くこの時代の裁判をつらぬいていたのであった︒集団指導制・合議政治をうち出した︑いやより正確にはうち出
さざるをえなかった泰時の政治も︑これと同じ背景のものもとに成立したものであった︒
ここに現れている石井氏の理解にあっては︑まず︑鎌倉幕府の﹁所務沙汰﹂︵所領・年貢等をめぐる争いに関する裁判手続︶
において﹁当事者主義﹂の﹁原則﹂が貫かれているということが︑﹁訴訟追行﹂あるいは﹁証拠﹂方法に関する裁判
手続の実態の中に見出されている︒その上で︑この﹁当事者主義﹂は﹁検断沙汰﹂︵刑事事案に関する裁判手続︶におい
ても同様に見出され得る﹁原則﹂であるとされる一方︑﹁当事者主義﹂が裁判手続上の﹁原則﹂とされるに至った理
由については︑訴訟当事者となった御家人が本来有する﹁自立性﹂︵石井氏のいわれる﹁イエ﹂権力の自立性︶を幕府が
完全に否定することが出来なかったからであると論じておられる︒
石井氏はこのように︑﹁所務沙汰﹂という裁判手続を一つの事例として採り上げることにより︑この中に﹁当事者
主義﹂という﹁原則﹂が存在することを論じておられるのである︒しかしながら︑氏はこのことを以て直ちに︑﹁当
事者主義﹂が裁判手続の中においてのみ自己完結的に妥当する﹁原則﹂であったと断じておられるわけではない︒氏
が戦闘様式としての﹁一騎打ち﹂を参照しておられることから分かるように︑﹁当事者主義﹂は広く︑中世の社会全
体において妥当する考え方であったとする理解が前提にされていることを推測することが可能であるように思われ
六三 ︵一三五二︶
第六十四巻 第四号
る︒そして︑﹁当事者主義﹂が存在する理由として︑御家人︵あるいは後述の﹁在地領主﹂︶の有する﹁自立性﹂が強調
されているということについては︑いま一度確認しておく必要があるように思われる︒
2﹁中世法の考え方﹂
第二に︑石井氏は一九七四年に刊行された著書﹃日本の歴史
12 中世武士団﹄︵小学館︶において︑﹁中世法の考え方﹂
に関して次のように論じておられる ︵
︒ 4︶
ところでわれわれは日本の中世が︑幕府をはじめとする裁判制度のかなりの発達をみた社会であると知ってい
る︒一方︑上に述べてきたような推論が正しければ︑敵討・妻敵討のような私的復讐もまた︑当時の一般的慣習
であったと考えなければならない︒
では両者はいったいどのような関係に立つのであろうか︒両者は矛盾し︑裁判制度の発達という事実自体が︑
ただちに私的復讐の慣行の一般化という推論をくつがえすのであろうか︒敵討・妻敵討の公認は近世社会ではじ
まったという学説の正しさが︑これによっても裏付けられるとすべきであろうか︒
だがそのまえに︑中世における裁判とはいったい何であったかが︑いま一度あらためて問われなくてはならな
い︒刑事裁判のばあいから検討しよう︒
南北朝時代に﹁世間の話﹂として﹁獄前の死人︑訴なくんば検断なし﹂ということわざがあった︒牢獄の前で
殺人事件がおこっても︑訴人がいなければ刑事事件にはならない︑という意味である︒たとえ警察権・刑事裁判
権をもつ主人の家の直前で殺人行為があっても︑訴訟が提起されないかぎり刑事裁判は行われない︑ということ 六四 ︵一三五一︶
日本中世における裁判手続の理解に関する補考︵西村安博︶ であり︑事実多くの例証は︑このことわざが真実を伝えていることを証明している︒しかも訴訟の提起はだれが
犯人であるかを名ざさなければならず︑単なる被害事実の申告のみでは裁判所が受理しなかったのである︒
すでに︑日本法制史学の開拓者として著名な中田薫︵中略︶によって明らかにされたこの事実は︑当時の裁判
制度が︑いかにわれわれの想像から遠いものであったかを十分に物語っている︒
しかもこうした特色は︑なにも中世の日本だけのものではなかった︒中田のいうように︑中世のドイツでもほ
とんど同様な︑﹁訴人なければ裁判官なし﹂というたぐいの法的ことわざが数多くあり︑ある意味でこれは︑東
西の中世社会の基本的性格に深く根ざした特色と考えられるのである︒
ある面で発達をみせた裁判制度も︑その基本的特質が以上のようなものであったとすれば︑敵討・妻敵討のよ
うな血の復讐の慣行となんら矛盾するものではない︒公的裁判に解決をゆだねるか︑みずからの実力による復讐
をえらぶかは当事者の意志にまかされていた︑と考えればよいからである︒
石井氏に拠れば︑鎌倉幕府の成立以前には既に︑敵討・妻敵討のような﹁復讐﹂の慣行が成立していたが︑これは︑
新たに発達をみる﹁裁判制度﹂と矛盾するものではなかったという︒石井氏によるこの理解は︑おおよそ次のような
理解が前提にされているといえるであろう︒すなわち︑紛争の解決が図られる際には︑鎌倉幕府の裁判制度を利用す
るか︑あるいは︑自力救済によって解決するかの﹁選択﹂が行われることになるが︑この﹁選択﹂はあくまで紛争当
事者の﹁意思﹂に委ねられていたという理解である︒従って︑氏の理解にあっては︑﹁選択﹂がこのような形において
行われ得たということが︑正に﹁当事者主義﹂の﹁原則﹂が存在することを証明するものであったということになる
のであろう︒
六五 ︵一三五〇︶
第六十四巻 第四号
その一方で︑中田博士が﹁検断﹂事案︵刑事事案︶に関する裁判手続の実態を示すものとして論及された﹁獄前の死人︑
訴え無くば︑検断無し﹂という﹁法諺﹂に関して︑石井氏は如何なる理解を示しておられるのであろうか︒中田博士は︑
この﹁法諺﹂を以て﹁弾劾主義﹂︵弾劾裁判︶の存在を強調されたのに対して︑石井氏にあっては︑右に述べたように
﹁自力救済﹂あるいは﹁裁判﹂に関する﹁選択﹂の問題として強調されていることが理解される︒このことからすれば︑
日本中世の裁判手続︵とくに﹁検断﹂事案に関する裁判手続︶においては︑その﹁原則﹂として﹁不告不理﹂の原則
︵ ﹁ 弾
劾主義﹂による裁判手続︶が存在するとされた中田博士の理解は︑石井氏の理解にあっては必ずしも十分な形において
理解がなされていないということが明らかになる︒つまり︑﹁糺問裁判﹂とは対照的に︑裁判権者以外の者が訴えを
提起するという方式を採る﹁弾劾裁判﹂においては︑裁判権者に対して訴えが提起されない限り審判を開始しないと
する﹁不告不理﹂がその﹁原則﹂とされているが︑このことを前提として裁判手続の﹁構造﹂と﹁原則﹂の問題につ
いて論じられた中田博士の理解は︑石井氏の理解においては異なる意味において捉えられるに至っているように思わ
れるのである︒
筆者の誤解を恐れる一方で︑かりに右のように考えることが許されるならば︑この﹁法諺﹂について石井氏は︑お
およそ次のような意味において理解されていたということになるであろう︒すなわち︑紛争解決のための方法とし
て﹁裁判手続﹂を﹁選択﹂するのか︑あるいは﹁自力救済﹂を﹁選択﹂するのかは︑偏に当事者の意思︵判断︶に拠
るものであり︑これは︑中世社会における基本的な考え方として共有されていた﹁当事者主義﹂が具体的な形を取っ
て現れる局面の一つである︑と︒そして︑この﹁法諺﹂が示している内容とは︑あくまで﹁裁判手続﹂が﹁選択﹂さ
れる局面においてのことである︑と︒そうすると︑この﹁当事者主義﹂は︑如何なる理由により︑中世社会における
基本的な考え方の一つとして共有されるに至ったのかという問いが立てられることになるが︑これについては既に前 六六 ︵一三四九︶
日本中世における裁判手続の理解に関する補考︵西村安博︶ 掲﹃鎌倉幕府﹄の中で述べられているように︑御家人︵あるいは︑広く﹁在地領主﹂︶の有した﹁自立性﹂を幕府︵﹁高権力﹂︶
が完全に否定することが出来なかったからである︑とする説明が与えられることになるであろう︒
その一方で︑石井氏は︑御家人あるいは在地の武士の有した﹁自立性﹂というこれまでの表現について︑本書にお
いては︑在地の武士︵=在地領主︶の﹁イエ支配権﹂の独立性という表現にあらためておられるのである︒これ以降︑
学界においては︑﹁イエ﹂支配という理解が中世史研究におけるいわば﹁常識﹂の一つとして定着していくことにな
ったものといえよう︒
3﹁弾劾主義と当事者主義﹂
第三に︑石井氏は同著書において︑﹁弾劾主義と当事者主義﹂と題する項目の中で︑さらに次のように述べておら
れる ︵
︒ 5︶
つぎに当時の社会ではもっとも重要視された不動産関係の訴訟︑武士団にとってはその権力の基盤であった所
領の支配をめぐる訴訟事件についてみよう︒その制度的完備とモットーとしての﹁道理﹂にもとづく公正な解決︑
また御家人たちの権利意識の発達・高揚によって中世における裁判所の典型と考えられている︑鎌倉幕府の裁判
を材料として考えてみよう︒
幕府の不動産訴訟の進行の手続きをみるとき︑もっとも注意されるのは当事者である原告・被告双方の果たす
役割がひじょうに大きいことである︒まず原告から訴状がだされ︑裁判所がこれを受理すれば︑﹁誰々が︑何々
のことについて訴え出ている︒その訴状を送るから陳弁せよ﹂との命令が文書でだされる︒これを問状とよぶが︑
六七 ︵一三四八︶
第六十四巻 第四号
それを被告のもとにとどけるのは裁判所ではなくて︑原告の任務である︒これに対して被告が回答書を提出すれ
ば︑原告はまたそれに応戦して再度の訴状をだし︑被告もまた再度の陳弁を行う︒文書による問答は往復三回ま
でくりかえされるが︑これを三問三答とよぶ︒書面審理の段階である︒このさい書類を往復させるのは原告・被
告双方の任務であった︒裁判所はこれを仲介するだけだといってもよい︒
つぎの段階が裁判所での両者の対決︑口頭弁論であり︑そのあと判決がくだされるのだが︑そのさい裁判所は
当事者の申し立てた事項についてのみ判断をくだし︑それ以外の問題をとりあげることはなかった︒また当事者
の提出した証拠のみにもとづいて判決をくだすのであって︑裁判所が職権を利用して独自の証拠を集めること
も︑原則的には行われなかった︒
提出された証拠に対しても︑相手方がそれを偽文書だと主張しないかぎり︑裁判所はこれはあやしい︑これは
にせものだと独自に調査することはなかった︑まして一方の側にきわめて有利な法令がすでにだされていたとし
ても︑当事者がそれを指摘し︑法令の写しをそえて提出しなければ︑裁判所がその法令を無視するおそれは︑き
わめて大きいというのが︑当時の裁判の実態なのであった︒
このような原告・被告中心の訴訟の進行の手続きを︑法制史学者はふつう当事者主義とよんでいる︒さきに刑
事裁判に関してみた﹁獄前の死人︑訴なくんば検断なし﹂ということわざに象徴される基本的態度を︑かつて中
田は弾劾主義と名づけたのであるが︑この弾劾主義も当事者主義もともに本質は同一であり︑両者は同じ根から
生いたったものであることはいまや明らかであろう︒
石井氏は前掲﹃鎌倉幕府﹄の論述内容を前提にされた上で︑あらためて右のように述べておられる︒その中で︑﹁当 六八 ︵一三四七︶
日本中世における裁判手続の理解に関する補考︵西村安博︶ 事者主義﹂が意味する具体的な内容についても︑﹃鎌倉幕府﹄において論じられた内容を踏襲しておられることが分
かる︒すなわち︑訴陳状の伝達および応酬に関しては訴訟両当事者が責任を有していたとする考え方︵﹁当事者主義﹂
における﹁当事者追行主義﹂︶︑あるいは﹁証拠﹂方法︵﹁当事者主義﹂における﹁弁論主義﹂︶に関して述べておられる︒そ
の一方で︑﹁当事者主義﹂の定義の問題については︑当該著書﹃中世武士団﹄において︑さらに一歩踏み込んだ理解
を示されるに至っているといえよう︒すなわち︑﹁所務沙汰﹂における﹁原則﹂として強調される﹁当事者主義﹂と︑
かつて中田博士によって論じられた﹁検断﹂事案に関する裁判手続︵﹁検断沙汰﹂を含む︶ ︵
において見出される﹁弾劾主義﹂ 6︶
の関係について︑石井氏は︑﹁両者は同じ根から生い立ったもの﹂であると断じておられるのである︒このように︑﹁当
事者主義﹂と﹁弾劾主義﹂について︑その本質が同一のものであるとの理解が可能であると結論された石井氏の理解 ︵
は︑ 7︶
その後の中世史研究においては極めて大きな影響を与えることになったと考えられるのである︒そして︑現状をみれ
ば了解されるように︑日本中世の裁判手続に関する基本的かつ常識的な理解を与えるものとして定着していくことに
なったのである︒﹁弾劾主義﹂=﹁当事者主義﹂とする理解は︑同時にまた︑﹁弾劾主義﹂=﹁検断沙汰﹂︑あるいは︑
﹁検断沙汰﹂・﹁所務沙汰﹂=﹁当事者主義﹂という理解を導くことになったが︑この理解は中世の裁判手続を考える
上で当然の前提とされるに至っているといえよう︒
4﹁裁判における当事者主義﹂
第四に︑石井氏の﹁中世法﹂に関する考え方が最終的に結論されたものと考えられるのが︑一九七六年に公表され
た論文﹁中世社会論﹂であろう︒氏はこの論文の中で︑﹁裁判における当事者主義﹂と題する項目の中で︑次のよう
に論じておられる ︵
︒ 8︶
六九 ︵一三四六︶
第六十四巻 第四号
かつて三浦周行が﹁日本人に法治国民の素質ありや﹂を論じて︑﹁専制的なる警察国家﹂の江戸時代と比較し
て︑御成敗式目や追加などの幕府法にみられる鎌倉時代の権利思想の発達︑訴訟制度の整備に注目し︑これに高
い評価を与えたことがあった︒ここにその典型を見出すような鎌倉幕府法や裁判制度を中心とする中世的な法・
裁判への高い評価は︑とくに古典学説の立場から重要視されていたものである︒ではこうした中世法・中世の裁
判制度とは一体何だったのか︒多少なりとも検討してみる必要がある︒
まず刑事訴訟の場合である︒南北朝期︑﹁世間の話﹂として﹁獄前の死人︑訴なくんば検断なし﹂という法諺
が行われていた︒かりに牢獄のすぐ前で殺人事件が起こっても︑訴人がいなければ刑事事件にならぬ︑という意
味であり︑訴が提起されぬ限り刑事裁判は行われぬ︑ということである︒そして事実︑多くの例証はこの法諺が
真実を伝えていることを示している︒しかも訴の提起者は誰がその犯人かを名ざさねばならず︑単なる被害の届
け出だけでは裁判所は受理しなかった︒すでに中田薫によって明らかにされたこの事実は︑中世の裁判制度が現
代のわれわれの想像からいかに遠いものであるかを十分に物語っているのである︒︵後略︶
石井氏はこの中で︑﹁中世法・中世の裁判制度とは一体何だったのか﹂という問いを立て︑これに対する応答を行
っておられる︒そして︑応答の内容は概ね前掲﹃中世武士団﹄における論述内容が前提にされており︑右引用に続く
後半部分︵後略部分︶の論述においても︑﹃中世武士団﹄における論述内容がほぼそのままの形で踏襲されていること
が分かるのである︒
さて︑﹁当事者主義﹂に関する理解については︑基本的には前掲著書二点における論述内容が踏襲されているとい
えるが︑﹁イエ支配権﹂の﹁自立性﹂の問題が強調されている﹃中世武士団﹄の論述内容がとりわけ強く意識される 七〇 ︵一三四五︶
日本中世における裁判手続の理解に関する補考︵西村安博︶ 形で︑あらためて右のような理解が示されるに至ったものと受け止められるのである︒この論文が学界の注目を夙に
集めることになったのは︑石井氏が﹁中世社会﹂を理解するために考慮されるべき重要な考え方の一つとして︑新た
に﹁イエ支配権﹂の問題を取り上げられたことに拠るものであることはいうまでもなかろう︒しかしながら︑これ以
上に学界に対して大きな影響を与えることになったのは︑当時の歴史学界における主潮が中世社会の﹁集権的・求心
的側面﹂を強調するというものであった中で︑石井氏が中世史学を規定しているそのような﹁パラダイム﹂の転換を
促すべく︑氏独自の観点から︑新たに﹁中世社会の多元的・分裂的側面を強調する﹂という考え方を提示されるに至
ったことである︒この時に氏の強調されたのが︑正に﹁イエ支配権﹂の﹁自立性﹂という問題なのであり︑同時に氏
は︑中世から近世へと移行する歴史的過程において﹁自立性﹂︵=﹁独立・不可侵性﹂︶が﹁喪失﹂されていくという見
通しを得ておられたことが分かるのである︒当該論文はこのように︑当時停滞していた中世社会をめぐる議論の中に︑
新たな理解の可能性を投入し︑中世社会を幅広い視点から明解に捉え直すことに成功した研究成果として高い評価が
与えられることになったのである ︵
︒ 9︶
その一方で︑当該論文においては︑﹁当事者主義﹂に関して如何なる理解が与えられているのかについて︑少しく
確認しておこう︒前掲﹃中世武士団﹄において論じられている内容とほぼ同様の内容が論述される中で︑中世の裁判
手続においては﹁当事者主義﹂が﹁原則﹂とされていたことがあらためて強調されることになっているが︑この﹁原
則﹂が存在するに至った理由については︑石井氏の強調されるところの︑﹁イエ支配権﹂が﹁自立的﹂な性格を有す
るものであるということ︑また︑それが強固なものとして存在していたこと︑そして︑それは中世社会の構造上の特
色に拠るものであること︑等の点に求められているものと考えられる︒
また︑﹁獄前の死人︑訴え無くば︑検断無し﹂という﹁法諺﹂の意義について︑石井氏は︑﹁刑事訴訟手続﹂においては﹁訴
七一 ︵一三四四︶
第六十四巻 第四号
えが提起されなければ審判は開始されない﹂というこれまでの通説的理解を前提にされた上で︑次のように評価して
おられる︒すなわち︑﹁裁判権者﹂に対して﹁訴え﹂が提起されるのは︑あくまで当事者が﹁裁判﹂という方法を﹁選
択﹂して︑これによる紛争の解決を図ろうと﹁判断﹂したことに拠るという意味において︑﹁当事者主義﹂の﹁原則﹂
が貫かれていたことが理解され得るのだという︒これは︑前掲﹃中世武士団﹄において論じられたところの︑﹁弾劾
主義﹂=﹁当事者主義﹂とする理解が前提にされたものとして受け止められることになるであろう︒
5﹁当事者主義﹂と﹁職権主義﹂に関する前提的理解 その一方で︑本稿が関心を寄せる﹁当事者主義﹂あるいは﹁職権主義﹂という用語は︑裁判手続にみられる手続の特徴︑
あるいは︑その運用の方針を示す際に用いられることが一般的である︒しかしながら︑歴史学研究あるいは法制史研
究の上で︑実際には如何なる意味において用いられ始めたのかについては︑あらためて確認を要することがらである
ように思われる︒
周知の通り︑鎌倉幕府の裁判手続に関して︑法制史研究の立場から実証研究を展開されたのは石井良助博士であり︑
他方で︑鎌倉幕府の裁判制度に関して︑歴史学研究の立場から実証研究を展開されたのは佐藤進一博士であった︒佐
藤博士の重厚な研究の根幹部分には︑幕府の﹁政治﹂の形態と﹁裁判﹂の形態とが密接に関連するものであったとす
る独自の見解が打ち立てられているが︑これにより︑精緻な実証研究はより際立つものとなっていることについては
あらためていうまでもない︒そして︑博士の研究において︑﹁政治﹂と﹁裁判﹂が具体的にどのような形で関連して
いたのかが本格的に論じられる中で︑裁判手続の特徴が示される際にこの二つの対立する意味を有する用語が用いら
れているのである︒佐藤博士によって示された裁判手続に関する理解の一端については︑﹁別稿﹂において既に述べ 七二 ︵一三四三︶
日本中世における裁判手続の理解に関する補考︵西村安博︶ ているところであるが︑本稿においては︑博士の強調された﹁政治﹂と﹁裁判﹂の問題について︑いまあらためて確 認しておきたいと思う︒博士は次のように論じておられるのである ︵
︒ 儗︶
︵執権政治の変質とその結果としての得宗専制の成立︑筆者註︶にかかわる﹁政治理念の変化に関しては︑例えば訴
訟制度︑とくに所務沙汰の手続において︑あたかもこの執権政治より得宗専制への転換期とほぼ時期を同じくし
て︑訴訟手続進行上の原則が当事者主義から職権主義へ︑なかんずく訴訟審理の原則が正確第一の直接主義から
迅速第一の間接主義に切りかえられていると考えられること︑および幾種類かの訴訟が所務沙汰から検断沙汰に
管轄権が移されるという形で︑検断沙汰の強化が見られることなどを指摘することができる︒これら手続の変化
や管轄権の移転などは︑恐らく個々それぞれに即してこれを促した直接的事情があり︑当局者の主観的意図や理
由づけもそこから発しているであろうが︑なおかつかかる具体的な手続や管轄権の変動の奧にひそむ裁判理念の
変化が︑政治体制の転換と照応する点を無視し得ないであろう︒︵後略︶
佐藤博士によって示されたこのような考え方は︑こんにちにおける中世史研究においてもなお大きな影響をもたら
しているものといえよう︒しかしながら︑近時の研究においては︑博士によって導かれた緻密な実証的理解に学びな
がらも︑これと同時に与えられることになった政治史的理解に関しては︑新たな理解を見出そうと試みる研究も着々
と進められており︑このような研究動向の中では︑裁判の形態をどのように理解すべきかという問題についても新た
な知見の得られることが期待されているといって良いであろう︒幕府政治史に関する研究︑あるいは︑幕府訴訟制度
史に関する研究が新たな発展を遂げつつあることを︑まずは了解しておかなければならない︒
七三 ︵一三四二︶
第六十四巻 第四号
いま︑佐藤博士の示された考え方について︑これが無批判のまま継承される場合にあっても︑あるいは︑批判的な
検討が試みられる場合にあっても︑日本中世の裁判制度・裁判手続の実態の究明を目指して来た歴史学研究︑あるい
は法制史研究の成果を振り返ってみるならば︑例えば︑博士は﹁当事者主義﹂・﹁職権主義﹂の用語について︑基本的
にどのような意味において定義しておられたのか︑あるいは︑用語の適用対象となることがらについて︑博士はどの
ような意味において適用可能と判断されたのかという問題については︑こんにちに至るまで直接には検討の対象とさ
れることがなかったのではあるまいか︒博士の理解がそのままの形で踏襲されて来ているように思われるのである︒
﹁別稿﹂においても述べているように︑佐藤博士の研究を受けて︑﹁執権政治﹂期における﹁当事者主義﹂的な裁判 手続︑あるいは﹁得宗専制政治﹂期における﹁職権主義﹂的な裁判手続 ︵
︑という理解が︑学界における通説的な理 儘︶
解として共有されるようになったことはあらためていうまでもない︒しかしながら︑この理解にあっても︑﹁当事者
主義﹂あるいは﹁職権主義﹂がそもそも何を意味し得るものであるのかという根本的な問題については︑依然として
曖昧な理解のままに止まっているように思われるのである︒かりに︑右のような佐藤博士の理解に対して批判的な検
討が試みられる場合においても︑それは幕府法下における裁判手続の特質の究明を期した上での批判であり得ること
を想うならば︑例えば︑裁判手続の﹁構造﹂とは如何なるものとして理解され得るのか︑あるいは︑裁判手続の﹁原則﹂
︵運用基準・方針︶とは何であったのか︑などの根本的な問題は︑たとえ批判が行われる中にあっても︑解明されるべ
き対象として自ずと位置付けられ得るはずのものであるといえよう︒しかしながら︑﹁当事者主義﹂︑あるいは﹁職権
主義﹂という用語を単純に当てはめさえすれば良いとする態度が依然として採られ続けるならば︑裁判手続の実態を
正確に把握した上で新たな知見を得ようとする期待からは︑一層横道へ逸れていくことになるであろうと思われる︒
そこで︑石井博士︑あるいは佐藤博士によって導かれた理解を起点にすることにより︑﹁所務沙汰﹂︑あるいは﹁検 七四 ︵一三四一︶
日本中世における裁判手続の理解に関する補考︵西村安博︶ 断沙汰﹂に関して︑これまでには如何なる理解が得られているのかについて︑あらためて確認を行っておきたいと思う︒
これまでのところ︑判決手続過程における﹁当事者追行主義﹂︑﹁証拠﹂方法における﹁弁論主義﹂︑あるいは︑と
りわけ﹁和与﹂に関する裁判手続において顕著に見出される﹁処分権主義﹂の存在などが指摘され︑おおよそこのよ
うな要素が﹁所務沙汰﹂にみられる裁判手続の特徴として強調されるに至っていることが確認される︒そして︑﹁所
務沙汰﹂においては全般的に﹁当事者主義﹂の﹁原則﹂が貫かれていた︑とする理解が得られているように思われる︒
他方で︑﹁検断﹂事案に関する裁判手続︵﹁検断﹂に関する裁判手続および﹁検断沙汰﹂︶に関しては︑﹁検断﹂権者が当
事者として﹁職権﹂を発動することにより︑犯人の追捕・処罰を行うという﹁検断﹂手続が存在するとされる一方︑
被害者である訴人が加害者である論人を訴えるという裁判手続︵﹁相論﹂︶の方式を採る﹁検断沙汰﹂が存在するとの
理解が与えられて来た︒そして︑この﹁検断沙汰﹂に関していえば︑﹁所務沙汰﹂において採られていた﹁当事者主義﹂
の﹁原則﹂が前提にされていたが︑次第に︑﹁職権主義﹂を前提とする﹁検断﹂手続の中に吸収されていくことにな
ったとの理解が示されるに至っている︒
しかしながら︑近時の研究の成果に拠れば︑当事者が犯人を被告として訴える﹁検断沙汰﹂に関して︑その裁判手
続過程の全体をみれば︑守護を媒介とする裁判手続として捉え直すことが可能であり︑ここには一貫して﹁当事者主
義﹂が存在していたとする理解が導かれるに至っている ︵
︒この理解は︑今後の実証的な研究の成果によって補足的 儙︶
な理解が与えられていくことにより︑﹁検断﹂=﹁職権主義﹂︑あるいは﹁検断沙汰﹂=﹁当事者主義﹂とするこれまで
の通説的な理解に対して︑一定の修正を迫る可能性を十分に有するものといって良いであろう︒
その一方で︑広く﹁検断沙汰﹂あるいは﹁検断﹂に関する裁判手続の中に見出される裁判手続の特徴とは何かという
問題に関して︑こんにちにおける研究の進展状況をみるならば︑全容解明へ向けた検討作業はなお途上にあるといわざ
七五 ︵一三四〇︶
第六十四巻 第四号
るを得ない︒しかしながら︑﹁所務沙汰﹂に関する研究に対して期待されるのと同様に︑﹁証拠﹂方法に関する実証研
究がさらに積み重ねられていくことによって︑裁判手続過程の全体の中で未解明のままとされて来た部分とは何である
のかが明らかにされるとともに︑これにより︑新たな知見の得られることが強く期待されるであろう︒
6小括 以上︑本稿の前半においては︑﹁別稿﹂において果たすことの出来なかった日本中世の裁判手続に関する﹁理解の
現状﹂を把握するに際して︑こんにちにおける理解の到達点として評価され得る石井進氏の理解について確認するこ
とを試みた︒﹁別稿﹂および本稿においては総じて︑﹁所務沙汰﹂あるいは﹁検断沙汰﹂に関して︑それぞれの特徴が﹁当
事者主義﹂あるいは﹁職権主義﹂として強調されて来たという既知のことがらに関して︑これをあらためて確認する
という作業にのみ費やされるに至っていることを︑遺憾ながら認めなくてはならない︒
その一方では︑裁判手続の特徴を示す用語としての﹁当事者主義﹂︑あるいは﹁職権主義﹂は︑これまでの歴史学研究︑
あるいは法制史研究においては︑おおよそ右に述べたような意味において用いられて来たといえるものの︑この二つ
の用語を適用することにより︑﹁所務沙汰﹂あるいは﹁検断沙汰﹂の実態︑さらにはそれぞれが想定していた裁判手
続の前提となる考え方については︑果たしてどの程度までその解明に成功しているといえるのであろうか︒
そして同時に︑﹁当事者主義﹂︑あるいは﹁職権主義﹂という言葉を単純に右のような意味において用いるという態
度は︑かつて中田博士が日本中世の刑事訴訟手続における﹁弾劾主義﹂︑あるいは﹁不告不理﹂の原則の存在を強調
されたことに対して︑どれほどまで正確に応答しているものと評価し得るであろうか︒敢えていま一度述べるならば︑
中田博士が﹁弾劾主義﹂を論じられた前提には︑日本中世における刑事裁判手続の﹁構造﹂が﹁弾劾主義﹂を採るも 七六 ︵一三三九︶
日本中世における裁判手続の理解に関する補考︵西村安博︶ のであったこと︑そしてまた︑﹁弾劾主義﹂の下では︑必然的に﹁不告不理﹂の原則に従った裁判手続の運用が行わ
れていたとする理解があったことは十分に推測出来るところであろう︒博士が比較法制史研究の立場からかような理
解を示されたことについては言を俟たないが︑法律学的な理解や関心を研究の基盤に据えておられた博士がかような
理解を示されたことの背景には︑筆者の推測するに︑当時の﹁刑事訴訟法﹂研究︑あるいは﹁民事訴訟法﹂研究にお
ける﹁弾劾主義﹂に関する理解があったものと考えられるのである︒
かような次第で︑本稿の後半においては︑中田博士が前掲論文﹁弾劾主義﹂︵前掲﹁古法制雑筆﹂所収︶を公けにさ
れた大正九︵一九二〇︶年以前において進められていた﹁刑事訴訟法﹂研究︑あるいは﹁民事訴訟法﹂研究における﹁弾
劾主義﹂等に関する理解の一端について確認を試みることにしたいと思う︒
二 明治〜大正期における﹁弾劾主義﹂等に関する理解の一端
1﹁刑事訴訟法﹂研究における基本的理解 右に述べた理由により︑以下では明治〜大正期における﹁刑事訴訟法﹂研究の中で得られていた﹁弾劾主義﹂に
関する基本的理解について確認を試みることにしたい︒そこで︑まず︑中田博士が論文﹁弾劾主義﹂︵一九二〇年初出︶
を公けにされる以前の法の制定をめぐる状況について確認しておこう︒すなわち︑明治十三︵一八八〇︶年制定の﹁治
罪法﹂を経て︑明治二十三︵一八九〇︶年に制定された﹁旧々刑事訴訟法﹂が運用されており︑当該論文が公けにさ
れた後の大正十一︵一九二二︶年には法改正が行われ︑新たに﹁旧刑事訴訟法﹂が制定されるに至ったという状況に
あったことをまず押さえておきたい︒この法改正においてとりわけ大きな注目を集めることになったのは︑周知の
七七 ︵一三三八︶
第六十四巻 第四号
通り﹁起訴法定主義﹂から﹁起訴便宜主義﹂へと変更された点にあったが︑﹁旧法﹂を支える裁判手続の﹁構造﹂お
よび﹁原則﹂として法が前提としたのは引き続き﹁弾劾主義﹂であった︒この理解を前提にして︑われわれは﹁旧々
刑事訴訟法﹂に関して詳論した著名な書物の一つである冨田山壽﹃刑事訴訟法講義 全﹄︵有斐閣書房︑一九一一年再版︑
四〇頁以下︑一九一〇年初版︶を参照することにより︑中田博士が当該論文を執筆された当時において︑﹁刑事訴訟法﹂
研究の中で得られていた﹁弾劾主義﹂に関する基本的理解の一端について確認することにしたい︒なお︑いうまでも
なく︑本稿は︑当時の関連する著作を通覧した上で︑これによって得られる理解の全般を確認するという方法を採り
得ておらず︑僅かに限られた著作の中から得られた理解の一部を指摘するに止まるものであることを予めお断り申し
上げておきたい︒
a ﹁弾劾訴訟﹂ ︵
儚︶
本稿が関心を寄せる﹁弾劾主義﹂については︑冨田﹃前掲書﹄において﹁弾劾訴訟﹂に関する論述が行われる中で
﹁弾劾式主義﹂と表記されている︒そして︑その﹁弾劾訴訟﹂については次のように述べられている︒すなわち︑﹁一
彈劾訴訟トハ原被相對立シ權利闘爭ノ形式ニ於テ︑訴訟ヲ實行スルヲ云フ﹂とされるとともに︑﹁彈劾訴訟ノ對照
ヲ爲スモノハ糾問訴訟ナリ︒糾問訴訟トハ裁判所自ラ犯罪ヲ追求シ職權的追求ノ形式ニ於テ訴訟ヲ實行スルヲ云フ﹂
と述べられている︒すなわち︑﹁弾劾訴訟﹂は﹁糺問訴訟﹂と対照されるものであること︑そして︑﹁弾劾訴訟﹂は原告・
被告両者を当事者とする争いであるのに対して︑﹁糺問訴訟﹂は裁判所が当事者となって犯人を追及し﹁職権的﹂に
訴訟を遂行すること︑が説かれている︒
さらに︑﹁弾劾訴訟﹂においては﹁裁判所ノ外權利ヲ爭フ可キ當事者ナルモノアリ︑訴訟主體ハ裁判所︑原告及被 七八 ︵一三三七︶
日本中世における裁判手続の理解に関する補考︵西村安博︶ 告ノ三體ト爲ル﹂が︑これに対して︑﹁糺問訴訟﹂においては﹁當事者ナルモノナク裁判所獨リ訴訟ノ主體ト爲ル﹂
と述べられている︒このように︑﹁弾劾訴訟﹂あるいは﹁糺問訴訟﹂のそれぞれにおいて︑最終的に訴訟当事者とし
ての地位を有する主体は何処にあるのかが問われており︑裁判手続を規定する基本的な﹁構造﹂のあり方について説
かれていることが分かる︒すなわち︑﹁弾劾訴訟﹂については︑裁判所︑原告および被告の三者が独立した訴訟主体
として位置付けられる﹁構造﹂を有するものとして理解される一方︑﹁糺問訴訟﹂については︑裁判所が単独で訴訟
主体となり自らが犯人の捜査を行うとともに︑自らが判決を下すという﹁構造﹂を有するものとして理解されている
のである︒
以上を前提にして︑﹁彈劾訴訟ノ形式ハ之ヲ彈劾式主義ト称シ︑糾問訴訟ノ形式ハ之ヲ糾問主義ト称ス﹂とされて
いる ︵
︒その上で︑﹁弾劾訴訟﹂を採用するわが国においては︑﹁国家訴追﹂制度の下で﹁検事﹂が﹁訴追﹂の役割を 儛︶
担っていることについて︑﹁佛國ノ大革命先頭第一ニ糾問訴訟ヲ打破シテ所謂檢事制度ナルモノヲ設ケテ︑此制度ハ
十九世紀ノ中葉ニ至リテ獨逸其他ノ文明諸國に繼受セラレ︑今日ニ於テハ各國大約此制度ヲ採用シ︑國家追及ノ下ニ
彈劾訴訟ヲ實行スルニ至レリ﹂と述べられる一方︑﹁検事﹂による﹁公訴﹂︑あるいは﹁検事﹂の請求によって行われ
る﹁裁判所﹂による﹁予審﹂・﹁公判﹂は﹁二︑三の例外﹂を除き︑﹁原告ナキ所ニ裁判官ナシトノ原則卽所謂不吿不理
ノ原則﹂に拠るものであり︑これは﹁彈劾訴訟ノ一大要求﹂であるとされる︒その一方で︑﹁糺問訴訟﹂に比して﹁弾
劾訴訟﹂が優れている点として︑﹁㈠裁判ノ公平ヲ維持シ㈡裁判所ノ負担ヲ輕カラシメ㈢被告人ノ地位ヲ强固ナラシ
ムル点﹂が挙げられている︒
次には︑﹁糾問訴訟ト國家追及︵職權訴追︶トヲ同一視シ﹂︑﹁彈劾訴訟ト私人追及︵彈劾︶トヲ同一視ス﹂という問
題点が指摘され︑かような﹁誤解﹂は正されるべきであるとして︑次のような論述が行われている︒
七九 ︵一三三六︶
第六十四巻 第四号
歷史上ノ事實ニ照セハ往時羅馬ギリシャ︑ゼルマン等ニ行ハレタル私人追及ハ凡テ彈劾ノ訴訟ニ依リテ實行セ
ラレ︑往時ノ國家追及モ亦多ク糾問ノ訴訟ニ依リテ實行セラレタリ︒然レトモ理論ノ問題トシテハ︑糾問訴訟ナ
ルヤ將タ彈劾訴訟ナルヤハ訴訟ハ一個ノ主體ニ依リテ行ハルルヤ將タ三個ノ主體ニ依リテ行ハルルヤノ區別ニ
シテ︑要スルニ訴訟ノ形式ニ關スル區別ナレトモ國家追及ナルヤ將タ私人追及ナルヤハ︑犯罪ヲ追及スル者ハ國
家ナルヤ將タ私人ナルヤノ區別ニシテ︑要スルニ犯罪追及者ノ如何ニ關スル區別ナリ︒故ニ糾問訴訟ハ之ヲ國家
追及ト區別シ︑彈劾訴訟ハ之ヲ私人追及ト區別セサル可カラス︒而シテ當今ノ檢事制度ハ國家追及ヲ彈劾訴訟ニ
依リテ實行スルモノト解ス可キモノナリ︒
歴史上の事実を確認するならば︑﹁私人訴追﹂が﹁弾劾訴訟﹂において行われ︑あるいは﹁国家訴追﹂が﹁糺問訴訟﹂
において行われていたことは疑いのないことであるとされている︒しかしながら︑理論上の問題として︑﹁訴訟の形
式﹂ ︵
に関しては﹁弾劾訴訟﹂と﹁糺問訴訟﹂の区別が存在する一方で︑﹁犯罪追及者の主体が何であるか﹂に関しては﹁私 儜︶
人訴追﹂と﹁国家訴追﹂の区別が存在するのだとされている︒従って︑著者に拠れば︑﹁糺問訴訟﹂という形式には﹁国
家訴追﹂のみが唯一対応する一方で︑﹁弾劾訴訟﹂という形式には﹁私人訴追﹂のみが唯一対応するなどというように︑
単純に理解してしまうならば︑正確な理解を得ることにはならないのだという︒
b ﹁職権主義﹂ ︵
儝︶
他方で︑﹁職権主義﹂とは如何なる意味において理解されていたのかについて確認しておきたい︒この問題につい
て冨田﹃前掲書﹄においては︑﹁職權主義及實體的眞實發見﹂と題した項目の中で論じられているが︑以下ではこの 八〇 ︵一三三五︶
日本中世における裁判手続の理解に関する補考︵西村安博︶ 中に記される内容に即して確認していくことにしよう︒ 第一に︑﹁職権主義﹂とは︑﹁裁判所自ラ訴訟ノ進行ト訴訟材料ノ處分トヲ掌リ︑裁判所ハ當事者ノ提出スル事實及
證拠方法ニ制限セラルルコトナク︑自ラ進ンテ事實ノ眞相ヲ發見スルノ權義ヲ有スルヲ云フ﹂とされている︒裁判所
には訴訟追行における指揮権および証拠蒐集を行う権限が与えられているというものである︒
第二に︑﹁職権主義﹂に対する考え方として﹁処分権主義﹂が位置付けられている︒すなわち︑﹁職權主義ノ對照ヲ
爲スモノハ處分權主義ナリ﹂とされ︑﹁処分権主義﹂とは﹁訴訟ノ開始及進行ヲ當事者ノ處分ニ一任シ從テ又訴訟材
料ニ關スル處分モ之ヲ當事者ノ手ニ一任シ﹂︑﹁裁判所ハ當事者ノ提出セサル事實及證拠方法ヲ斟酌スル能ハサルヲ云
フ﹂とある︒当事者には訴訟の提起および追行に関する権限が与えられる一方︑裁判所に対しては当事者の提出した
﹁事実﹂および﹁証拠﹂以外の︑﹁証拠﹂方法を採用することを認めないとするものである︒
第三に︑﹁処分権主義﹂においては﹁形式的真実発見主義﹂が採用され得るのに対して︑﹁職権主義﹂においては﹁実
体的真実発見主義﹂が採用され得るという︒そして︑﹁處分權主義ハ民事訴訟ノ採用スル處ナリ﹂とし︑刑事訴訟法が﹁処
分権主義﹂を採用しない理由は︑﹁処分権主義﹂が採られることによって﹁罪アルモノ罰セラレス︑罪ナキモノ罰セ
ラルルノ結果ヲ生ス﹂のであるから︑﹁刑事訴訟﹂においては﹁處分權主義ヲ排斥シ職權主義ヲ採用スルヲ通常トス﹂
と述べられている︒
このことから︑当時の﹁職権主義﹂に対する考え方を示す用語とされていたのは︑こんにちの歴史学研究あるいは
法制史研究において用いられることの多い抽象的な意味における﹁当事者主義﹂という用語ではなくて︑より一層具
体的な意味を持たせた﹁処分権主義﹂という用語であったことを知ることになる︒
第四に︑﹁旧々刑事訴訟法﹂は﹁一般ニ職權主義ヲ採用シタルコトヲ明言﹂していないが︑﹁裁判所ハ當事者ノ申立
八一 ︵一三三四︶
第六十四巻 第四号
ニ覊束セラレス其職權ヲ以テ種々ノ訴訟行爲ヲ爲シ得コトヲ明言シタルニ依レハ﹂︑﹁我現行刑事訴訟法モ亦職權主義
及實體的眞實發見主義ヲ採用シタルモノナルコト明ナリ﹂とされている︒
第五に︑﹁學者中ニハ職權訴追主義︑勵行主義及ヒ不變更主義ヲ合シタルモノヲ職權主義ト爲ス者アリ﹂と批判さ
れる︒例えば︑﹁訴訟材料ヲ提出スル者ハ國家ナルヤ將タ私人ナルヤノ問題﹂に関わる﹁職権訴追主義﹂の理解につ
いて︑﹁旣ニ提出セラレタル訴訟材料ノ處分ヲ爲ス者ハ裁判所ナルカ將タ當事者ナルカノ問題﹂に関わる﹁職権主義﹂
の﹁構成分子﹂として論じることは出来ないとされている︒
2﹁民事訴訟法﹂研究における基本的理解 次に︑明治〜大正期における﹁民事訴訟法﹂研究の中で得られていた﹁弾劾主義﹂等に関する基本的理解について
の確認を試みたい︒まず︑法の制定状況に関する確認を行っておこう︒明治二三︵一八九〇︶年にはドイツ法の強い
影響を受けた﹁旧々民事訴訟法﹂が制定されたが︑後の大正一五︵一九二六︶年には︑蔓延する訴訟遅延の状況等に
対処することを目的として︑﹁職権主義﹂の強化を既に図っていたオーストリア法の強い影響の下に﹁旧民事訴訟法﹂
が制定されるに至ったのである ︵
︒従って︑中田博士の当該論文が公けにされる以前においては︑﹁旧々民事訴訟法﹂ 儞︶
が運用される一方で︑折しも法改正の機運が高まりつつあったことが推測される︒そこで︑民事訴訟法に関する当時
の著名な書物の一つである板倉松太郎﹃民事訴訟法綱要﹄︵巖松堂書店︑一九一三年初版︑九五頁以下︶を参照すること
により︑﹁弾劾主義﹂等に関する当時の法律家の見解を聞くことにしたい︒なお︑本稿においては︑﹁民事訴訴訟法﹂
に関わる当時の全ての著作を通覧した上で︑理解の全般を得るという方法は採られず︑一部の限られた著書を参照す
るに止まっていることを予めお断り申し上げておきたい︒ 八二 ︵一三三三︶
日本中世における裁判手続の理解に関する補考︵西村安博︶ a ﹁不告不理﹂
板倉﹃前掲書﹄に拠れば︑まず﹁訴訟主義﹂については︑﹁訴訟ノ審理裁判ニ關シテ適用スヘキ原則ヲ謂フ
0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0
︵傍点マゝ︶﹂ 0
と定義されている︒この上で︑﹁不吿不理ハ訴訟上ノ大原則ニシテ民事訴訟ハ時代ノ新古ヲ問ハス國土ノ東西ヲ論セ
ス此原則ノ支配スル所タリ﹂と述べられている︒﹁民事訴訟﹂において﹁不告不理﹂の原則が前提にされていること
が強調されていることが了解されるのである︒
b ﹁糺問訴訟﹂および﹁弾劾訴訟﹂
﹁糺問︑彈劾ノ兩制﹂の沿革について︑﹁刑事ニ於テハ古キ没革ヲ有シ彈劾ニ始マリ糾問ニ變シ折衷ノ制度︵訴追ノ
權ヲ一般人民ニ有セシメスシテ法定ノ機關ニ委ヌル制度︶ニ進化シタルモノ﹂とされる一方で︑﹁民事訴訟ニ於テハ右ノ如
キ沿革ナシ﹂と断じておられる︒そして︑﹁私權ノ保護ヲ裁判所ニ求ムル﹂ことと︑﹁犯罪ノ被害者カ犯人ノ處罰ヲ裁
判所ニ求ムル﹂ことは当時の裁判手続において﹁劃然タル區分アルモノ﹂であったという︒しかしながら︑﹁古代ニ
於テハ此兩思想ハ混同﹂されていたので︑﹁犯罪ノ被害者ノ訴ニ依リテ刑事ノ審判ヲ開始スルヲ以テ彈劾制ノ一形體
ナリトセハ﹂︑﹁古來民事訴訟法ハ彈劾制ヲ以テ現實シ且發達シタリト謂フ﹂理解が得られているとされる︒その一方
で︑﹁彈劾ハ糾問ト同シク之ヲ訴訟主義トシテ觀察スル﹂ことが出来るが︑﹁從來民事訴訟法學者ハ民事訴訟ニ於テハ
彈劾ナル觀念ヲ認メサルモノナリ﹂と断じておられる ︵
︒その理由は︑﹁彈劾トハ權利ノ保護ヲ求ムルノ義ニ非スシテ﹂︑ 償︶
﹁罪惡ノ處罰ヲ求ムルノ觀念﹂であり︑従って﹁弾劾﹂という﹁訴訟主義﹂は﹁民事訴訟ニ於テハ想像スヘカラサル﹂
ものであるからだという︒あるいはまた︑﹁糾問トハ訴ヲ俟タスシテ罪ヲ治ムルヲ謂フモノナレハ﹂︑﹁民事訴訟ニハ
糾問ナルモノアルコトナシ﹂なのであって︑﹁國家機關カ訴ヲ待タスシテ進ンテ私權ノ保護ヲ與フルカ如キコトハ古
八三 ︵一三三二︶
第六十四巻 第四号
來各國其例ナキモノ﹂であるから︑﹁糾問ニ類似スル主義モ亦民事訴訟ニハ存﹂しないのだという︒
以上の内容において明らかなように︑﹁私權ノ保護ヲ裁判所ニ求ムル﹂ことを目的とする﹁民事訴訟﹂においては︑﹁罪
惡ノ處罰ヲ求ムルノ觀念﹂であるところの﹁弾劾主義﹂︑あるいは﹁訴ヲ俟タスシテ罪ヲ治ムル﹂ところの﹁糺問主義﹂
は存在し得ないという理解の与えられていることが判明するのである︒
c ﹁当事者主義﹂と﹁職権主義﹂
次に︑﹁当事者主義﹂と﹁職権主義﹂に関しては︑如何なる理解が与えられていたのかについて確認しておきたい︒
例えば︑中野峯夫﹁新民事訴訟法に於ける當事者主義と職権主義︵一︶﹂ ︵
において述べられていることが大いに参考 儠︶
になるであろう︒もとより︑当該論文は﹁旧々民事訴訟法﹂が改正された後の﹁旧民事訴訟法﹂を検討の対象として
いることから︑本稿が対象とする﹁旧々法﹂下における右の問題に関する論文として適当なものか否か︑吟味が必要
とされるところだろうと思われる︒しかしながら︑大正期﹁旧々法﹂が改正された後の﹁旧法﹂においては︑﹁訴訟
の開始は當事者の行動に俟つ﹂という﹁当事者主義﹂の原則に関わる重要な考え方の一つは﹁旧々法﹂から継承され
る一方︑﹁一旦開始せられたる訴訟は國家が職權を以て發展せしめ終了せしむると爲す﹂という﹁職権主義﹂の原則が︑
この﹁旧法﹂において新たに強化されるに至ったという事情を考え合わせるならば︑﹁当事者主義﹂の原則に関する
基本的な考え方じたいは︑﹁旧々法﹂におけるそれがなお維持されているものと考えることが可能であると思われる︒
かような次第で︑本稿では当該論文を参照することが妥当であると判断した上で︑その中で論じられている﹁当事者
主義﹂の問題に関する理解を聞くことにしたいと思う︒
例えば︑﹁訴訟追行﹂の問題に関しては次のように論じられている︒すなわち︑﹁民事訴訟は此點に於て職權主義と 八四 ︵一三三一︶
日本中世における裁判手続の理解に関する補考︵西村安博︶ 當事者主義とを併用して居る﹂が︑﹁民事訴訟の開始は原則として常に私人の要求に俟つ︒上訴の提起も亦然り﹂で
あるとしながらも︑﹁此れは刑事訴訟と著しく異なる點で﹂あり︑﹁民事訴訟は私權保護の任に當って居る︑といふこ
とを根據にする外説明し難い﹂のだという︒このように︑﹁私権保護﹂を目的とする﹁民事訴訟﹂は︑﹁私人の要求﹂
により開始されるという点で﹁刑事訴訟﹂とは大きく異なっているということが強調されているといえよう︒
その上で︑﹁不吿不理の原則が確立して居る﹂とされ︑これは﹁刑事訴訟に於ける不吿不理の原則とは全然異な﹂り︑
﹁之が民事訴訟の最も著しい特色である﹂のだという︒その理由は︑﹁訴へなければ裁判しない︒如何に權利の侵害を
受けて苦しみ悩んでいやうとも︑救ひを求めて來なければ何等の扶けも出さない﹂というのが﹁民事訴訟の立て前で
ある﹂からなのだという︒
﹁民事訴訟﹂においてはこのように︑﹁國家は當事者の權利保護に深入りして干渉することを要せず且つ干渉するを 得﹂ないのであり︑﹁訴訟の運命﹂は﹁當事者の支配に委ね﹂るという考え方︑すなわち︑﹁當事者處分主義﹂ ︵
儡︶
︵ ﹁ 不
干渉主義﹂︶が前提にされているという︒これは言い換えれば︑﹁私權保護を任務とする民事訴訟をして︑保護の要求
を爲さざる者に︑又はその要求以上に︑權利保護を與へざらしめんとするものである﹂ということになる ︵
︒ 儢︶
以上の内容から︑少なくとも﹁旧々民事訴訟法﹂においては︑﹁訴訟の方式﹂として﹁弾劾︵式︶主義﹂あるいは﹁糺
問主義﹂は発想されていなかったこと︑﹁訴訟︵の︶主義﹂の前提として﹁不告不理﹂の原則が強く意識されていた
ことを確認するに至るのである︒﹁民事訴訟﹂においては同時にまた︑﹁刑事訴訟﹂において理解されていたところの﹁職
権主義﹂と﹁当事者処分主義﹂との関係 ︵
がそのまま当てはまるわけではないが︑﹁職権主義﹂は狭義の﹁当事者処分 儣︶
主義﹂との関係において理解されるべきものとされていたことが確認されるに至るのである︒
八五 ︵一三三〇︶