考証 : 法政大学 発祥の地
著者 宮永 孝
出版者 法政大学社会学部学会
雑誌名 社会志林
巻 67
号 1
ページ 1‑34
発行年 2020‑07
URL http://doi.org/10.15002/00023389
はじめに
いまの法政大学の前身
―
「東京法学社」が、神田駿河台北甲賀町十九番地(新しく再建した日本大学附属歯科病院があるあたり―
旧日大病院があった所
―
現・神田駿河台一丁目)にここの声をあげたのは、明治十三年(一八八〇)九月のことであった。江戸時代もいまも町の地割りは変わらず、方 ほう形 けい(四角形)をなしている。甲賀町は、駿河台のほぼ中央に位置し、東西に二 ふた筋 すじあった。北のほうは裏 うら甲賀町、南のほうは表 おもて甲賀
町とよばれた。甲賀町とよばれた由来は、寛永のころ(十七世紀)、幕府の鉄砲隊の同心をつとめた甲賀衆の屋敷があったからである。
東京法学社は、法律をおしえる小さな学舎(塾)と弁護士事務所をかねたような所であった。が、折から治罪法(犯罪の処分についての手続お
よびその裁判所の構成などを定めた法律)の公布がおこなわれたときであったため、塾生が急増し、たちまち百名をこえた。そのため教室はてぜ
まになり、開塾三ヵ月後の十二月
―
神田錦町二丁目三番地に移った。宮 永 孝 考証 法政大学 発祥の地
はじめに一 江戸の建設 駿河台の町割り一 東京法学社 開講の地
―
神田駿河台北甲賀町 十九番地―
の先住者はだれか一 明治中期以後の北甲賀町十九番地の居住者 一 第一回目の移転先―
神田錦町二丁目三番地―
江戸の両替商・田中武兵衞の持家一 お雇フランス人
―
ボアソナードとアッペルのフランス法講義一 第一回卒業生のそのご むすび民法編纂局勤務、のち第三高等中学校教授)の「履歴書」、「 私立
法律専門学校設置願」(明治
15・ 10 ~人言代三、四九一五二)、八一(鉄丸金を まがね
へて大阪府議会議員)の「金丸家略系」(鉄の自筆のもの)、新聞にのせた「学舎設立広告」(『東京日々新聞』明治
13・4・
10、『郵便報知新聞』
明治
13・8・
30)、専門雑誌(『法律雑誌』明治
13薩)の回顧談、主幹・埵かの演説(東京法学らて・錦9)、卒業生(神田町っ二丁目三番に移校
第一回卒業式でおこなったもの)の筆記(『法律雑誌』第四八〇号)。
学舎の沿革にかかわる間接資料などは、もっとあったであろうが、法学社との関係やつながりを断っていった者がいたし、校舎は何度も移転し、
震災やこんどの戦争で富士見地区は焼けているから、その間のどさくさに散逸したものもあったであろう。
こんにちの法政大学は、東京の中心と近郊に広大な土地と建物をもつ日本有数の私立大学であり、卒業生は四十五万人を超え、毎年各界に有為
の若者を送りだしている。が、約一四〇年にならんとする本学の沿革をたどると、かならずしも順風に帆をあげて出帆したわけではない。多くの
大手私大とおなじく、いまの盛栄をうるまで苦難の道をあゆんで来たことがわかる。
ささやかな学塾として利用した神田駿河台や錦町の建物は、いずれも旧幕臣(旗本)が人手にわたした茅 ぼう屋 おく(あばらや)であった。もとの持主
はいかなる人であったのか。またいつだれに売り渡したのか、いろいろ興味をひかれる。 以後明治二十三年(一八九〇)九段坂上の麹 こうじ町 まち富士見町六丁目
に移転するまで、草創期の約十年間、学舎は神田地区にあった。
目下の筆者の関心は、東京法学社が法律の塾教育をはじめた明治
十三年当時の教育環境
―
いかなる建物を用い、どのような教育をおこない、どんな成果をあげたかという点である。
東京法学社の創始期の資料は、ひじょうにすくなく、わずかしか
現存しない。たとえば、つぎのようなものがそれである。主幹(中
心となって仕事をする人)・薩 さっ埵 た正 まさ邦 くに(一八五六~九七、司法省雇 やとい、
東京法学社の学舎の想像図
(神田駿河台北甲賀町19番地―もと旗本屋敷)
現存する唯一の旗本屋敷の長屋門(飯田町)
という。が,いまはない。
『千代田区史 上巻』(昭和35・3)より。
いまの東京は、日本の政治・経済・文化の一大中心地として繁栄の一途をたどっている。が、徳川家康が入国した約四百数十年まえの江戸は、 荒 こう草 そう断 だん煙 えんの (1)地であった。しかし、日をかさね、月を追い、ますます繁栄し、元禄年間には人口百万の大都会となった。だが、ひとの有為転変はま
ぬがれず、栄えた者はやがて落ちぶれ、草もうの志士の世となり、やがてかれらは維新革命によって、新政府の高い官職についた。
一 江戸の建設 駿河台の町割り 天正十八年(一五九〇)八月朔 つい日 たち
―
徳川家康は関東二四〇万石の領主として江戸城にはいった(〝関東御入国〟)。かれが関東に移封されることは、小田原の北条氏がほろびた七月以前に、秀吉とのあいだで決められていた。当時の江戸城は、北条氏の一支城であり、遠山左衛門左景が城
代であった。城のつくりは、本丸・二の丸・三の丸からなり、そのあいだに空 から堤 つつみがあった。城のまわりを、土をかきあげた土手 (2)が囲んでいた。
江戸城は、長禄元年(一四五七)太田道 どう灌 かん(一四三二~八六、室町後期の武将)が築城したのを起源としている。が、そのころの江戸城は、城と
いっても形ばかりのものであったようだ。城内の建物は、こけらぶき(ヒノキ、スギなどを薄くはいた板で屋根をふいたもの)の古い建造物であ
り、遠山氏の家臣の家もそのまゝ残っていた。町家といっても百軒ほどしかな
かった。江戸城は海にのぞみ、その南に日 ひ比 び谷 やの入江があった。海岸に漁夫の家が点 在していた。麹 こうじ町 まち・市ヶ谷・四 よつ谷 や・牛込・小石川は台地をなし、さらに駿河
台から本郷にかけて、神田山の台地を形成していた。一方、西南の台地のほう
に目をむけると、広漠とした茅 かや原 はら( (3)チガやススキなどが生えた平地)であり、
武蔵野につらなっていた。
家康は江戸城にはいって半月後、関東各地に諸将の分封をおこない、同時に
知行割り(土地支給)を急ピッチで進めた。また江戸城のちかくに旗本のため
に宅地をあたえ、そこに屋敷を割りあてた。
「東京法学社」が開講した駿 する河 が台 だいは、駿河(静岡県中・東部をしめる旧国
慶長12年(1607)ごろの江戸城図。
『同方会誌』第21号所載。
名)づめの旗本を、家康の没後(元和二年=一六一六)四月)この地に移したことにちなんでいる。それ以前は、
神田台神田山
とよばれていた (4)。「駿 するが河台 だい 昔 むかしハ神 かん田 だの台 だいと云 いふ」(谷壮太郎著『掌 しょう中 ちゅう東京名所図絵』旭昇堂版、明治
14・4)。家康が駿河台の開拓に着手した
のは、慶長元年(一五九六)のことであった。
当時そこは深林がうっそうと茂り (5)、さみしい所であった(「駿河台の開拓」)。駿河台と呼ばれるようになったのは、元 げん和 な二年(一六一六)ごろ からという (6)。そのような所でも、お茶の水にまで足をのばすと、断崖があり、神田川が流れており、そこは風景絶景なるところであった。もとも と駿河台の崖下のあたりは、川幅がせまく、舟のゆききが困難であった。そのため明暦・万 まん治 じのころ(十七世紀)、仙台侯は幕命により、両岸を
掘りひろげ、川底をふかくし、舟が通りやすいようにした(「府内備考」)。
お茶の水とは、湯島・本郷と駿河台とのあいだを流れる神田川の堀 ほり割 わり(地面を掘ってつくった水路)一帯の地名である。が、江戸の景勝地のひ
幕末の御茶の水風景
御茶の水の水道橋(神田上水のう けとい)の風景。
谷壮太郎著『掌中 東京名所図絵』
(明治14・4)より。
とつであり、四季の花 か卉 き(くさばな)や樹木をたのしむことができた。当地は夏になると、〝ホタル狩り〟の名所となり、秋がくると、月白く、
すずしい風がふき、冬になり雪がふると、人影はまばらになるが、駿河台の崖 がい腹 ふくと炊煙をあげる小舟の景は、一幅の絵になる風情があった(「御
茶水の勝景」)。
一 東京法学社 開講の地
―
神田駿河台北甲賀町十九番地―
の先住者はだれか東京法学社が開講した地
―
神田駿河台北甲賀町十九番地―
は、『東京日々新聞』(明治13・4・
10)『郵便報知新聞』(明治
13・8・
30)や
「東京法学社開校広告」(『法律雑誌』第一三一号所収)にのった設立および開校の広告からみて、ゆるぎないものであろう。そこはもと旗本屋敷
であり、維新後、そこに入居したのは公家・大原重 しげ徳 とみ(一八〇一~七九、従 じゅ三 さん位 み右 う近 こん権 ごん中 ちゅう納 な言 ごん、のち刑法官知事)である。この華族が、なぜ屋
敷の一部を「東京法学社」に賃貸したのか。
また江戸から昭和期まで、いかなる人々がこの番地で暮らしたのか。筆者の興味はつきることがない。
いま家康の入府から約九〇年後の延 えん宝 ぽう八年(一六八〇)より
―
寛政四年(一七九二)―
天保十四年(一八四三)―
嘉 か永 えい二年(一八四九)―
文久元年(一八六一)―
明治四年(一八七一)―
明治十二年(一八七九)―
明治十五年(一八八二)―
明治十六年(一八八三)―
明治十八年(一八八五)
―
明治四〇年(一九〇七)―
昭和十八年(一九四三)―
までの約二六〇年間の居住者の氏名、建物名などのあらましを図式的にしめすと、つぎのようになる。
延宝八年(一六八〇)庚 かのえ申 さるの製版による江戸図に、つぎのようにある。
〝シマ角左〟は、旗本であろうがいかなる人物か不明。御腰物奉行・嶋角左衛門のことか。右どなりの〝イケタ〟とあるのは、旗本・池田氏の こと。屋敷は駿河台より小川町に通じる坂道にあった。この坂を通称〝池田坂〟という(『東京名所図絵 神田区之部』)。
「文 ぶん鳳 ほう堂雑纂 地誌部 二十五」(内閣文庫)にみられる寛 かん政 せい四年(一七九二)の地図には、つぎのようにある。
イケタ坂
寛政4年(1792)の地図より。
池田石野
戸田
五介 渡辺
主水
美ノ部 山本
大セン
「文鳳堂雑纂 地誌部 二十五」(内閣文庫)より。
戸田五介 イケタ ヒタ 半兵
延宝8年(1680)の江戸図より。
シマ 角左
杉田 山本
四兵 シマ 角左
「延宝8年(1680)庚申製版:江戸図」
(内閣文庫)より。
戸 と田 だ五 ご介 すけとは、禄一五〇〇石の旗本、戸田五助 00勝 かつ英 てるのことである。天明三年(一七八三)両番頭鷹 たか
匠 じょう頭 がしら見 (7)習、寛政三年(一七九一)鷹匠頭、布 ふ衣 い(官位のない人)、文化十四年(一八一七)死去
(小川恭一編『寛政譜以降 旗本家百科事典[第三巻]』東洋書林、平9・
12)。
天保十四年(一八四三)の「御江戸大絵図」には、単に〝戸田〟とある。
戸田とは、旗本戸田五助のせがれ久 きゅう助 すけのことであろう。文化三年(一八〇六)部屋住より鷹匠頭 見習、同十四年(一八一七)本役、天保六年(一八三五)先手弓 ゆみ頭 がしら兼 けん帯 たい(かけもち)となり、安政
五年(一八五八)死去(前掲辞典による)。
屋敷は、駿河台小袋町(五九二坪あまり)という。
なお小 お栗 ぐりとあるのは、旗本・小栗忠高
(新潟奉行、禄二五〇〇石、のち二七〇〇
石)のことである。幕末の勘定奉行、外国
奉行、海軍・陸軍奉行を歴任した小栗忠 ただ順 まさ
(一八二七~六八、又市とも称す。通称・
上野介)は、そのせがれである。
嘉 か永 えい二年(一八四九)再版の「駿河台 小川町絵図」(内閣文庫)には、戸田五助
とある。文久元年(一八六一)の地図には、先代の戸田五助の名がそのまま使われている。同人はすでに文化十四年(一八一七)に亡くなっているから、
これは誤りである。
雁木坂 小袋町
カンバラ中ムラ
「天保14年(1843):御江戸大絵図」
より。
戸 田タキ川 永 田小 栗
小栗上野介忠順
「駿河台 小川町絵図」
(嘉永2[1849]再版,内閣文庫)より。
注・東京市役所編纂『御府内沿革図書』より。
激動の幕末
―
約二六〇年つづいた徳川幕府の瓦解は、あっけない幕切れであった。慶応三年(一八六七)十月、十五代将軍慶喜は、土佐藩からの建策をいれて、大政奉還(朝廷への政権返上)を乞 こい、翌日それがすぐ許可されるにおよんで、幕府はあっけない終えんをむかえた。
それに追い討ちをかけるように、十一月、小御所会議で将軍の辞官納地がきまり、翌年には王政復古の大号令が発せられた。その内容は、摂政
―
関白―
将軍を廃して、代って総裁(有栖川)―
議 ぎ定 じょう(皇族・公卿・諸侯)―
参与(下級武士―
西郷・大久保・後藤ら)など三職をおくものであった。
慶応四年(一八六八)は、鳥羽伏見の砲声によって明けた。幕軍はこの戦いにやぶれ、天下の大勢は定まった。が、旧幕府に臣従し、官軍に抵
抗する勢力との戦争は、明治二年(一八六九)五月までつづいた(戊辰戦争の終結)。
三月ごろより大名や旗本などの中から、領地や知行所(武士に支給された土地)へおもむく者が多くなった(斎藤月 げつ岑 しん著『増訂 武江年表 2』平凡社、昭和
43・7)。 四月、江戸城は官軍に明けわたされた。七月、江戸は「東 とう京 きょう」と改称された。が、旧江戸の市民は、この改称をよろこばなかった。一部の市 民は〝東京〟をやゆし、〝トウケイ〟と発音し、それが明治三十年代ごろまでつづいた (8)。
五月
―
徳川亀之助(一八六三~一九四〇、徳川[田安]慶 よし頼 のりの三男、のちの家 いえ達 さと)は、宗家をつぎ、駿河七〇万石をあたえられた。同年八月、 神田川五助は誤り(当主名は戸田久次郎か)文久元年(1861)の地図より。
府内(江戸の区域内)にある諸大名の屋敷は、新政府にあいついで没収された (9)。また旗本以下旧幕臣が拝領した地所や家屋も、十月まで新政府に 引きわたさねばならなかった )(1
(。しかし、新政府による接収は、かならずしも実行されず、番町、小川町あたりでは、持主が屋敷をみずからこわし、
あき地として売却する者が多かったという(「武江年表 2」)。
九月、慶応の年号が改まり明治となった。この年の夏ごろから、大名らはことごとく国もとに引込んでしまった。そのため丸の内かいわいは、
草が生い茂るところとなり、辻 つじ番 ばん所 しょ(武家屋敷町の番人の詰所)は、非人(ものごい)の寝場所となった )((
(。
「所 ところ々 どころ武 ぶ家 け方 かた持 もち 辻番所 空 あき家 やと成 なる」(「武江年表 2」)。
明治二年(一八六九)正月
―
新政府は諸大名を東京に召しよせた。七月、版籍奉還(諸藩主が土地と人民を朝廷に返上し、藩主はそのまゝ知藩事に任じられた)が実施された。
わが国の民衆は、あずかりしらない所でどんどん進められてゆく政治改革に、とまどったことであろう。庶民からすれば、どんな世の中になる
のか不安であったはずである。一方、武士からすると、わが国の政治が、天皇政治から武家政治に変ったのち、またもとの王制にもどる一大政変
に対処のしかたがわからなかったことであろう。
ともあれ多くの大名は、家族や家臣らをともない江戸屋敷を引き払うと、国元に帰った。その跡地は、御用地となり、官庁や兵営、病院(和泉
橋の藤堂侯屋敷跡)になった。また大名のかっての中屋敷、下屋敷の樹木は切りたおされ、庭石は取りのぞかれ、野菜畑、茶畑、クワ畑となった。
大名屋敷にかぎらず、旗本や御家人の邸宅もおなじである。建物はくずれ、いたみ、ちりがつもり、廃屋(あばらや)と化し、またその敷地は
雑草がおい茂り、つる草がまといからまっていた。そういった家屋敷は、明治二年(一八六九)ごろ、荒廃しきって )(1
(、住むひともないほどさびれ
ていたらしい。
没収された旧幕臣の邸宅の多くは、大小の官吏に貸したり、払いさげたりした )(1
(。
駿府藩の頭痛のタネは、三万二〇〇〇名をこえる旗本・御家人の処分問題であった。徳川家としては、旧臣をすべてやしなうことができないか
ら、新政府に仕えることをすすめるが、それをいさぎよしとはしない者が多かった。けれど家禄をうしなったいま、生業をえて働かざるをえず、
多くのもと幕臣は、下級官吏・教師・巡 じゅん邏 ら(警官)になった。
高禄をはんでいた旗本の多くは、知行地にもどってくらしたが、低禄の御家人は、いちはやく商売人(食物のあきないその他)に転身した。か
れらは貧乏ぐらしになれており、身すぎ、世すぎが大して苦にならなかったようだ。かれらは人を雇って、つぎのような商売をはじめた。
食べ物屋………だんご屋 しるこ屋 すし屋 そば屋 茶づけ屋 天ぷら屋その他のあきない……髪 かみ結 ゆい床 どこ(床屋) 寄 よ席 せ(演芸館) 湯屋(ふろ屋)
炭 すみ問屋 古本屋 )(1
( 漬物屋 紙屋 タバコ屋 ローソク屋 干物屋(「武江年表 2」)。
明治二年(一八六九)三月新 しん刻 こくの「江戸絵図」(吉田屋文三郎製、内閣文庫)から、戸田氏の名は消え 00000000、代って〝ヤシキ〟(屋敷)とだけある。
同四年(一八七一)の地図も、中味はおなじである。
神田駿河台北甲賀町十九番地の住人
―
旗本・戸田氏は、代々鷹 たか匠 じょう(将軍のタカを飼い、鷹狩りに従事した)の頭として禄をはみ、維新をむヤシキ
用地
「明治2年(1869)3月新刻:江戸絵図」
(内閣文庫)より。
神山五位
ノセ小ナゴン 土方四位
かえた。が、武鑑(旗本の氏名、禄高、定紋などをしるした書物。毎年改訂し、刊行)をみると、戸田家の家運
―
栄枯盛衰をかいまみるようだ。いま幕末期
―
安政三年(一八五六)―
元 げん治 じ二年(一八六五)―
慶応二年(一八六六)―
慶応四年(一八六八)の武鑑の記載をみてゆく と、慶応三年 0000(一八六七)から 00もう戸田氏 )(1(の名前はみられない(「大成武鑑」出雲寺万次郎版、慶応3年刊)。将軍が鷹狩りをする時代はおわり、
鷹匠頭といった職務も閑職(重要でない職)となったからであろう。
〝用地〟とあるのは、屋敷を取りこわし、御用地としたからである。〝ノセ小ナゴン〟は公家華族であろう(不詳)。少納言は参議の下、侍従職
である。〝神山五 ご位 い〟とは、神山郡 くに廉 ひろ(一八二九~一九〇九、もと土佐藩士)、〝土 ひじ方 かた四 し位 い〟とは、土方久 ひさ元 もと(一八三三~一九一八、もと土佐藩 士)のことである。かれらは草もうの臣、維新後、新政府に登用され、官位をもらった。土方は官軍として江戸入りをしたとき、小栗上 こうずけのすけ野介の 邸宅を本陣(本営)とした )(1
(。
注・〝五位〟は、宮中における位階の第五位。『 公武 有 ゆう司 し集覧 全』(出雲寺万次郎版、明治元年刊)に、
「従五位下 土方五位 上 ママ州」とある。〝四位〟は、位階の第四位。 明治八年(一八七五)六月刻 こく成 せいの「東京区分地図」(内閣文庫)から、屋敷の住人名が消えている。代わって番地〝十九〟が記入されている。
明治十一年(一八七八)の「実測東京全図」(吉田 晋赤松範静製図、内閣文庫)にも、北甲賀町十九番地の住民名がみられない。単に町名(「北甲賀 神田川 旧戸田邸(公家・大原重徳のもちいえとなる)
明治13年(1880)
「東京 切絵図 神田区」
より。
旧戸田邸 神田川
明治8年(1875)当時の 東京区分地図より。
である。公家にもいろいろあって、いちばん上が五摂 せっけ家
―
近 このえ衛・九条・二条・一条・鷹 たか司 つかさの順である。つぎにくるのは、九清 せい華 か(大臣になれ るが関白になれぬ家柄)―
徳大寺・大 おお炊 い御 み門 かど・醍 だいご醐・西 さい園 おん寺 じ・中 ちゅう院 いんなどである。九清華のなかで、三条実 さね美 とみがいちばん枢要の地にあった。岩 倉具 ともみ視は、平 ひら公家であった。御所の御 お賄 まかないは、十万石。近衛家で三二〇〇石ぐらい、九条家で一八〇〇石。五摂家で八〇〇~一〇〇〇石ぐらい。平公家の岩倉は七〇石であ
った。しかし、禄高の半分ほどしか手もとに入らないから、暮らしはらくではなかった。公家のなかには、役得により内福にくらした者もいた。
とくに〝伝 でん奏 そう〟(貴人への取りつぎ役)は、賄 まいない(ワイロ)が入ったから、金持であった。将軍家や諸大名の御所への取りつぎは、この者を通す しかなかった。東 ひがし坊 ぼう城 じょう家 けは伝奏であった。
平公家は、みんな内職をやり、
うたガルタ(カルタの一種。小倉百人一首を各一首ずつかいた読み札と、下の句のみを書いた取り札、二百枚一組であそぶカルタ)楊 よう子 じ(つまようじ)
をつくることに精をだした。
大原家は中級の公家であった。重徳は権 ごんの中 ちゅう納 な言 ごん(定員外の中納言)重 しげ尹 のぶの五子として生まれ、長じて尊攘派の公家として活躍した。慶応四年
四月、
―
ミカドの旗を五人がかりで立てて江戸城に乗り込んだのは、大原三位であった。明治三年(一八七〇)参与となり、のち刑法官知事、 町」)だけが、記入されている。「東京法学社」が設立された明治十三年(一八八〇)―
この年の二月に出版された「東京 切絵図 神田区」(小林安信編纂、内閣文庫)からも屋敷の住人名が 消えている。代わって新しい番地(十二番地)がみられるだけである。十九番 000
地 0から十二番地 0000に変わった時期は不明である。
神田北甲賀町十二番地の家 や主 ぬし
―
大原重 しげ徳 とみは公家(朝廷に仕える人)の出身大原重徳
『回顧80年史』東洋文化協 会,昭和9・1より。
議定上局議長、集議院長官などを歴任した。
明治四年(一八七一)十一月、多年国事につくした功により、特旨をもって東京本所横綱町一丁目十七番地に邸地をたまわった(「大原重徳旧
事記録」、内閣文庫)。同五年八月
―
「京都ノ邸 やしきヲ奉還シ 更ニ小川町綿町ノ邸ヲ賜」わった。大原は明治十年の暮(一八七七)本所横綱町の邸宅を引き払い、駿河台北甲賀町十九番地に転居した旨届けをだしている(宮内卿・徳大寺実則宛、明治
11・1・
18付)。
この駿河台の屋敷は、下賜されたものではなく、じぶんの金で購求したものであり、明治十一年(一八七八)一月に入居した。しかし、だれか
ら手に入れたものか不明である。明治十、十一年(一八七七~八)ごろ(?)、小野 梓 あずさ(一八五二~八六、もと土佐藩士・明治前期の政治家・
法学者。米英に留学後、官途につき司法少丞・元老院会議書記官・会計検査官などを歴任。のち東京専門学校(早大)の創設に参画)が、いっと
き同番地に住んでいたらしい(『法政大学百年史』、一八頁)。しかし、確証はない。山本忠兵衛編輯『区分町鑑 東京地主案内』(明治
11・6)には、
番地・坪数(七五一坪)・地主名が、つぎのようにある。
重徳は、こんどの邸宅で一年数ヵ月くらしたのち、老衰と慢性の気管支炎により、明治十二年(一八七九)四月一日亡くなった。死亡届を主治
医の診断書をそえて神田区長・沢簡 ふみ徳 とくに宛てて出したのは大原重 しげ朝 とも(一八四八~一九一八、重徳の三男、伯爵)である。
東京府中において、売り立てに出た旗本、御家人の屋敷は、何百軒とあり、いずれも捨て値でごろごろしていた。芝 しば佐久間町の長屋門、土蔵つ きの堂々たる構えの家屋敷(六〇〇坪)が、わずか二十五両で手に入ったという。また芝 しばからすもり烏森の草ぼうぼうの母家のない、長屋門と池だけがつ
いた千坪ほどの敷地が、入札により三百円で入手できた時代である(篠田鉱造「大きな旗本屋敷の門」『明治百話』所収、角川書店、昭和
44・8)。
『区町分鑑 東京地主案内』
(明治11・6)にみられ る番地・坪数・地主名。
注・〝丁〟は町の略字。
同年十二月に刊行された竹原鼎編輯「東京 神田区全図」(内閣文庫)には、〝北甲賀町〟とだけある。
明治十六年(一八八二)製の絵地図が、正 まさ井 い泰 やす夫 お監修『江戸東京大地図』(平凡社、平5・9)に収められている。この中に北甲賀町の町割り
を鳥瞰的にみたものがあり(参謀本部の製作によるもの)、これは敷地内の建物の構造などがわかるひじょうに貴重なものである。 重徳の屋敷の敷地は、かなり広く七五一坪もある。そこにどんな建物が立っていたのであろうか。それは長屋門のついた邸宅であったにせよ、
建物は荒廃していたであろう。家族は重徳が亡きあと、すこしでも家計の足しにとおもって、家屋の一部を貸すことを思いついたものであろう。
維新後すでに十数年たっているが、北甲賀町十九番地のさいごの住民は、おそらく旗本の戸田氏か、士族・小野 梓であり、大原はおそらく後者
から屋敷を手に入れたものかも知れない。
明治十五年(一八八二)十月の児玉又七編輯『改正東京区分絵図 全』(内閣文庫)にも、屋敷の住民名はなく、町名(「北 きた甲 こうが丁 ちょう」)だけがみ
られる。
北甲が丁 神田川
「改正 東京区分絵図 全」(明治 15・10)より。
この絵図によると、大原邸は長屋門のついた広壮な邸宅であったことがわかる。建家坪数は四〇〇坪はあろうか。「東京法学社」は、どの部分
を借りたものか明らかでない。
おそらく、かっての家臣や召使いが使った長屋門(棟 むね割 わり長 なが屋 や)と母屋(すまいとしている主なる建物)の一部を借りたものであろう。
東京法学社の「開学広告」は、『郵便報知新聞』(明治
13・8)や『法律雑誌』一九一号に掲載された。それによると、法学教師四名(橋本胖三 ひろさぶ
郎 ろう、亀山貞義、堀田正忠、森順 よし正 まさか?)を招き、九月十三日から毎日
―
午後三時から五時まで―
一日一課目、約二時間教授するという。教科は
―
日本新刑法 同治罪法 フランスの国民法 イギリス憲法(予告にもかゝわらず、じっさい開講されなかった)イギリス証拠法
「東京 神田区全図」(明治15・12)より。
長屋門のついた 旧戸田邸
(のちの大原邸)
母屋
正井泰夫監修『江戸東京大地図』
(平凡社,平5・9)より。
願者)の育成にあたった。しかし法律を教える部局が独立すると、法律塾経営が本格化した。金丸と伊藤は、東京法学社の発起人として名をつら
ねたが、両人は創立後ほどなくして法学社との関係を絶ち、代言人としての道をあゆんだ。
明治十年代は自由民権運動が高まりをみせた時期である。民衆の権利意識が高揚し、法律の知識を言論の武器とする気運が高まったときでもあ
る。民権派による演説会に代言人(弁護士の旧称)や書生が参集し、国会論、憲法論などが世論の焦点となった。
志を同じくする者があつまり、相談して東京法学社を設立したのであるが、その目的は、同胞に権利や義務とはなにかをおしえ、また日本の法
律を熟知させるにあった。
東京法学社の開塾は、明治十三年九月のことだが、その一ヵ月ほどまえに、同社は〝法律〟についての考えを、機関誌『法律雑誌』(第一二七
号、明治
13・8・7)に発表した。当時、東京法学社は法律をどのように捉えていたのか。それを意訳
―
抄訳したものをつぎにかかげてみよう。こんにち〝法律〟という語の一般的定義は、国会の可決をへて成立、公布される規則のことである。政府はなんのためにつくられたのか。人民のためである。法律はなんのために制定されるのか。人民のためである。政府も法律も人民のためにつくられたものなのである。
国会を開設する目的はどこにあるのか。人民が国家の法律や財政のことに関与するためである。法律は権利の伸縮、人民の幸、不幸の大もとである。刑法とか治罪法は、悪人をこらしめるためのものであるから、善良なる国民は必ずしもそれを必要としない、というのは妄言である。人民たる者は、法 などという(「東京法学社開校広告」『法律雑誌』一九一号所収)。
東京法学社は、杵 き築 つき藩士族の金丸 鉄 まがね(一八五二~一九〇九、出版業 者)と伊藤 修(一八五五~一九二〇)によって創設されたものであるが、
法律をおしえる部局と弁護士業の二つから成り立っていた。法律をおしえ
る部局(講法局)では、日本の新法やフランスの法律をおしえ、弁護士業
の部局(代言局)では、訴訟や法律事務の代行をやり、代 だい言 げん生 せい(弁護士志
東京法学社の開校広告(明治13・
8)『法律雑誌』第131号より。
律の利害を知っておくべきである(「法律ハ人民ノ法律ナリ 政府ノ法律ニ非 あらス」『法律雑誌』第一二七号所収、明治
13・8・7)。
東京法学社では、開校して日が浅いのにもかゝわらず、入塾を希望する者があとをたたず、たちまち百有余名に達した。そこで十月一日から従
来の学科をふやし、別科[予科](本科の予備の課程。フランス語の原書を用いて法律をまなぶ。授業は、土、日をのぞき、毎日午後一時から二
時半まである)
―
昼 ちゅう学 がく(専門科目を教授する)―
夜学(専門科目を教授する)をもうけた。昼学の課程は、つぎのようになっていた。
[曜日] [科目](輪講) [担当者]月曜日(午後3・
30~5・
30 )……日本治罪法講義(薩埵正邦) *さった
火曜日(同右)………日本刑法講義 (同右)水曜日(同右)………日本治罪法 ( **堀田正 まさ忠 ただ)
木曜日(午後3・
30~600)……イギリス民事犯法、契約法講義
( ***
大原鎌三郎)金曜日(午後3・
30~5・
30 )……フランス民法(財産篇)講義(岩野新平) ****
土曜日(午後100~300)……日本刑法講義
夜学の課程(毎晩、午後700~9時まで)は、つぎのようになっていた。
月曜日………フランス国民法輪講 ( *****橋本胖三郎?)火曜日………日本治罪法輪講
水曜日………フランス商法講義木曜日………日本刑法輪講
金曜日………法律格言講義
土曜日………法律討論会注・「東京法学社広告」明治
13・ 10・ 21付。『法律雑誌』第一三八号所収。
*一八五六~九七、京都仏学校で二ヵ年フランス語を学んだのち、東京に出て仏人レオン・デュリーに二ヵ年フランス語を修業。のちボアソナードにつき六ヵ年法律学を修業(「履歴書」より)。 **一八五八~一九三八、司法省顧問ボアソナードの住み込み書生となり、法典の翻訳や編さんのしごとを手伝い、法律の知識を身につけた。のち大阪控訴院検事となり、また関西法律学校の創立にかかわった。
***(生没年不明)。東大法学部を出たのち司法省に入る。東京控訴裁判所判事となる。のち秋田で弁護士を開業。
****一八五五~一九二九。大審院検事をへて弁護士。
*****一八五五~一九三二、明法寮学校(「法学校」)を出たのち、治罪法の翻訳にしたがった。東京控訴裁判所の検事となる。明治十七年(一八八四)二月
―
裁判事件に関し、ワイロをうけとった件で内務省へ転職中、解職となり、同時にどこかに逃走した(『読売新聞』明治
18・ 11・3付)。のち日本郵船釜山支店長となる。
塾生は、昼学・夜学・学年・クラスの区別なく、みなおなじ教場において、雑然と入りまじって受講した )(1
(。これがまたこの学塾のよいところで
あった。また夜学においておこなわれた輪講は、昼学の復習もしくは補完(おぎない)であった。輪講は一種の共同研究であった。すなわち、数人でテ
キストを分担し、調べたことを順々に発表し、批判、討議しあうものであった。法律討論会や法廷実地演習には、全教員が出席した。
入学資格は、とくに問わず、ふつうの日本文のよみかきができれば、だれでも入塾できた。月謝はどうであったのか。他の似たような法律学校
のそれと比べてみても、けっして高くはないようだ。
東京法学社………月謝六〇銭。入学金一円。塾費二五銭(「設置願」)。専修学校…………月謝一円(「開業上申」)。
明治法律学校……「国 こく恩 おんニ報 むくわンガ為 たメ、謝 しゃ義 ぎ(謝礼)ヲ受 うケズ」(「設立届」)とあるように無月謝であった。が、じっさいは校費の名目でとったようだ。
東京大学…………(年三学期制)一学期四円。ただし貧困者は授業料免除。
当時の物価は、米一升が五銭。牛なべ(三銭~五銭)。銭湯がおとな五厘 りんといった時代であった )(1
(。
塾生の年齢も経歴もまちまちであったようだ。授業は昼夜兼行でおこなわれていたから、昼間はたらき、夜学に通うこともできた。司法省学校
と東京法学社の双方に通っている者、銀行や役所(逓 てい信 しん省)につとめながら、通学した者などがいた。とくに勤労学生の苦労は察してあまりある。
門(出入り口)は、雁 かん木 ぎ坂 ざか(いまの〝小桜通り〟)に面したところにあった。右手の隣家(北甲賀町十一番地)は、明治九年(一八七六)蠣 かき殻 がら
町から移ってきた佐々木東洋(一八三九~一九一八、幕末から明治期の医家、佐倉の順天堂で西洋医学をまなんだのち、長崎に遊学。幕府の医学
所、大学東校の医師をへて病院を設立)の住居兼病舎であった。かれは明治十四年(一八八一)敷地内に二階建約二〇室の病棟をつくったが、こ
れはこんにちの杏 きょう雲 うん堂 どう病院のはじまりである )(1
(。なお、佐々木は大原重徳の主治医でもあった。
かくして東京法学社は、フランス色のこい法学教育を開始した。その後の北甲賀町十九番地の変遷史は、左記のとおりである。
一 明治中期以後の北甲賀町十九番地の居住者
坂内熊治著『駿河台史』(サイキ写真工芸社、昭和
40・2)に、明治十八年(一八八五)ごろの駿河台の地図がそえられている。それによると、
大原邸(番地がかわり、北甲賀町十二番地)とその左隣り(北甲賀町十三番地)は、「ニコライ神学校」に変わっている。
ロシアの僧侶ニコライ(一八三六~一九一二)が、函館のロシア領事館付司祭として来日したのは一八六一年(文久元)のことである。函館で
ギリシャ正教を布教したのち、一八七二年(明治5)九月
―
駿河台東紅梅町六番地―
(もとは幕府の火消し役の屋敷(「火消屋敷」 )11()と望火
楼(見張り塔)があった。当時は、戸田伯爵の屋敷で、土地二、三〇〇坪と数戸の廃屋からなる)
―
を〝ロシア公使館付属地〟という形式で、一四〇〇円で購入した(牛丸康夫著『日本正教史』日本ハリストス正教会教団、昭和
53・5、五二頁)。
「ニコライ神学校」の創立は、明治十四、五年(一八八一~八二)ごろのことのようだ。大原家ではこのころ屋敷を日本ハリストス正教会に売
りわたしたものであろう。
明治四十年(一九〇七)一月製の「東京
市神田区全図」には、「神学校」と「女子
神学校」の名称のみがみられる。
日本大学病院が、「ニコライ神学校」が
あった所
―
北甲賀町十二番地に、鉄筋コンクリート四階建の病院を新築開院したの
は、大正十五年(一九二六)十月のことで
あった(『日本大学医学部五〇年史』)。同
院は前年の大正十四年に、同大学歯科の校
舎を併用して医科を置いていた。昭和十二
年(一九三七)に板橋区に新校舎をつくり、
医科はそこに移転した。板橋本町の病院は、
そのまゝ存続し、昭和三十八年(一九六 注・坂内熊治著『駿河台史』より。 神田川 旧戸田邸(大原邸)跡
地図は明治18年ごろのもの。
明治25年(1892)ごろの住民。
神田川旧戸田邸(大原邸)跡
坂内熊治著『駿河台史』(昭 和40・2)より。
旧日本大学駿河台病院
(北甲賀町12番地=駿河台1丁目)『日本大学医学部50年史』
昭和52・6より。
昭和18年(1943)当時の北甲賀町付近。
坂内熊治著『駿河台史』(昭和40・2)より。
三)北甲賀町にモダンな病院が建設された。
やがてこの病院も老朽化により取りこわされ、平成二十九年(二〇一七)駿河台一丁目に新しい日大病院が誕生した。日大病院の跡地には、平
成三十年(二〇一八)十月
―
「日本大学歯学部付属歯科病院」が開業した。一 第一回目の移転先
―
神田錦町二丁目三番地―
江戸の両替商・田中武兵衛の持家
さて東京法学社は、開校後、わずか数ヵ月で北甲賀町から神田錦町二丁目三番地に移転した。入塾生がふえ、手ぜまになったからである。こん
どの学舎の家主については、山本忠兵衛編輯『区分町鑑 東京地主案内』(明治
11・2)に
―
同二丁目
三 千六百八十 田中武兵エ ママ
とある。そこは一六八〇坪もあるかなり大きな旗本屋敷の廃屋であった。家主は、江戸の両替商・田中武 たけ兵 べ衛 え(平河町四丁目十番地在住)と考え られる。屋号は「伊 い勢 せ武 たけ」。
武兵衛はのちに「田中銀行」(神田区今川小路二丁目)を創設し、その頭取となった。この銀行は明治二十七年(一八九四)から大正九年(一
九二〇)まで存在した。
この錦町二丁目の学舎は、馬 ば場 ば辰 たつ猪 い(一八五〇~八八、明治前期の自由民権家。のちア
メリカで客死)の「明治義塾」(明治
18年廃校、三菱商業学校「明治
11年創設」の後身) ととなりあっていた。さらにこの学塾のうしろにあったのが、「英 イギリス吉利法律学校」(のちの
中央大学)である。
「東京法学社」のこんどの建物は、通りから路地(人家のあいだの狭い通路)を入った、
“田中武兵エ”の名がみ られる『区分町鑑 東京地主 案内』(明治11・2)。
日本造りの古い建物(むかしは旗本か何かの邸 やしきであった
―
上林敬二郎談)。校舎として使用したのは、
―
敷地…………一二〇坪
木造平屋……八二坪
同二階一〇坪 同三階三坪
ほどの規模のものであった。
富井政 まさ章 あき(一八五八~一九三五、明治・大正期の民法学者。東大教授のかたわら梅謙次郎と和仏法律学校[のちの法大]の経営にあたった)の 回想によると )11
(、建物はくさり 000、いたんだ木造家屋 00000000であったという。
建物の図面がないので、具体的にイメージできないが、明治十九年(一八八六)
―
第二回の卒業生・上林敬次郎の追憶談によると、学舎として使ったのは
―
教室………奥のほう半分。
「東京法学校」(神田錦町2 丁目3番地)の建物をしめ す地図。『法政大学80年史』
より。
「東京 法学社」の移転 広 告( 明 治13・12・
13)。『法律雑誌』第 145号所収。
寄宿舎、食堂、教務室……前のほう半分。
という。
寄宿舎(学生のための共同宿舎)……北側と南側に十室ほどあり、各部屋に三人ほど入った。
校舎として使った建物(旗本屋敷)は、なにぶんにも古い家であり、入塾生は薄ぐらい部屋で、むかしの寺子屋とおなじように、畳に机をなら
べて )11
(勉強した。
寄宿生は、きびしい規則にしばられ、門限があり、外泊は厳禁。碁や将棋も禁じられ、規則に違反する者は、ようしゃなく退塾させられた。ど
この学校でも食事への不満から、まかない征伐やストライキがよく起ったが、東京法学社では、そのようなことは一度もなかった(第二回卒業
生・上林敬次郎談)。
塾生は、学業に精をだすことはもちろん、品行を正し、信義をおもんじ、懇切をモットーとすることを求められた。門限は午後十時。ただし休
暇日は、午後十一時。起床は午前七時。
テストは一年にいちど、七月にペーパー試験や口頭試問をおこなった。一学科一〇点満点とし、
六点以上をとらないと及第しなかった(明治
17年塾規則)。
東京法学社の設立者兼主幹薩埵正邦は、構内でくらし、輪講・討論などを日夜熱心に指導し、学
校経営に精魂をかたむけた。が、明治二十三年(一八九〇)多年育生した東京法学社とわかれ、学
卒(大学を出たひと)ではなかったが、第三高等中学校(のちの三高)の教授とし、京都に赴任し
た。東京法学社とのかゝわりは十ヵ年であった。
薩埵は、背のひくい、頭デッカチの人であった。酒が好きであり、さっぱりした人であったらし
い。かれは折にふれ、塾生によくいっていたことがある。それは外観をかざらず、地のまま生きる 東京法学社(のち東京法学校と改称)
明治40年代(1907~1912)の神田錦町2丁 目3番地の地図。
実力の涵養 00000につとめることを求めた。「卒業の虚 きよ称 しようヲ衒 てらハズ 専 もつぱラ実 じつ力 りよくヲ養 やしなハ」 )11
(んとすることこそ、和仏法律学校時代にいたるまで、東京法学
社の一貫したモットーであった。
明治十四年(一八八一)五月
―
司法省法律学校の雇 やといボワソナード(一八二五~一九一〇、フランスの法学者)や東大教授兼明治政府の法律顧問アッペル(一八五〇~一九三四、フランスの法学者)が、員外講師として週に一回出講した。前者はフランスの民法契約篇を、後者はフランス
の行政法を講じた。同十六年(一八八三)校則が改まり、中学四年の課程をおえた者を入学者とし、三ヵ年修学することを義務ずけた。翌十七年
(一八八四)東京法学校は、小川町一番地の勧 かん工 こう場 ば(百貨店の前身)の跡
―
レンガ造りの建物へと移転した。一 お雇フランス人
―
ボアソナードとアッペルのフランス法講義 司法省(八代洲町二丁目 )11()のお雇 やといボアソナードは、何曜日に出講したものか明らかでない。かれは公務の合いまに、東京法学校と明治法律学校
に出講した。おそらく日曜日の午後三時半から五時まで教えたものか(明治
19~ 20 仏訳通を」篇約契法民国回「年一週)。定推らか割間時の付
で講義した。かれは当初どのような講義をおこなったものか不明だが、いうまでもなく、それはフランスの民法典の諸規定に基礎をおくものであ
り、それに評釈をくわえたものであろう。かれは明治十一年(一八七八)二月から翌十二年四月までの間
―
八十六回―
契約、準契約について講じたが、それをまた東京法学校でくり返したものか。
講義の大要は、契約より生ずる義務とその種類、義務の消散と証拠、契約なくして生ずる義務などに関するものであったと想像される(司法省
蔵版『仏国
民法 契約編第二回 講義』明治
13・4を参照)。 よういましめたものである。人間の学歴
―
肩書きなどは、じつはうすっぺらなもの、虚飾なのである。浅学な者こそ、じぶんを飾りたて、人目を引こうとする。「……を
出ました」といってみても、学識の証明にならない。むしろ学歴がなくても、大した
碩学をみいだすことがある。
薩埵からみれば、卒業証書(いまでいう学位記)は虚称 00(うわべだけのもの)なの
である。かれは塾生にそんな紙きれをもらったことをひけらかすことなく、ひたすら
司法省お雇 ジョルジュ・アッペル
「人を害するなかれ」(N ヌe l レゼéser p ペルソンヌersonne)を座右銘としていたボワソナードによると、社会全体にたいする職 ドゥヴォワール分(義務)を道 モラール義というとい う。道義上の義務は、社会全般にたいする義務なのである。一方、特定の少数の人びとにたいする義務をとりしまり、履行しうる権利を人 ドロワペルソネル権
という。約束(合意)とはなにか。これは二人もしくは数人の意志の合同(いっしょになること)をいうと。約束から生ずるものは
―
なすところの義務
―
なさざるの義務がこれであると。フランス語の d ドネonner(あたえる意)は、所有権を移すの意であり、それはいい換えると、なすことの義務であるという。
ボアソナードは、明治十八年(一八八五)~同二十五年(一八九二)にかけて、「期満効法」「物上権法」「物上担保法」「民法原理」などを講義
した。東京法学校への出講は一時中断したことがあったが、無報酬による出講は、十二年間におよんだ(『法政大学百年史』、四九頁)。
おなじく司法省のお雇ジョルジュ・アッペルは、毎週火曜日の午後三時半から五時まで、まず手はじめにフランス公法・行政法(国家と個人と
の関係を規定する法律)
―
日本にとってもっとも適切なる部分―
中央政治、地方政治の職制、司法・行政の分権などを講じた(「東京法学社行政法講義会広告」明治
14 ・5・8)。ついで民法(相続・遺贈)や経済学なども講じた(「東京法学社行政法講義会広告」)。が、本務校(司
法省法学校)のしごとが忙しくなると、一時出講を中断したことがあった。
アッペルのフランス行政法の第一回目の講義は、明治十四年(一八八一)三月八日
―
宇川盛三郎の通訳によっておこなわれた。アッペルは、じぶんの浅学が受講生を満足させるに足るものかどうか不安であった。行政法は民法(国民個人の権利について規定した法律)とちがい、おもし
ろいものでなく、倦怠感を覚えるのではないか、と懸念した。しかし、行政法はさし迫って大事なものであり、日本でこの法律についていまだ講
義されたことを聞かなかった。
―
法律には、私法と公法の区別がある。私法は人民相互の関係を規定するもの。公法は国の組織、国家間の関係、政府と人民との関係を規定するものである。公法は、内部と外部の二つにわけられる。内部の公法は、刑法・憲法・行政法の三つの別がある。外部の公法は、国と国との関係を規定するものであり、行政法とは無関係である。以上を図式的にしめすと、つぎのようになる。
注・「明治十四年三月印行 仏国行政法 講義筆記 東京法学社蔵版」より。
なお、口訳を筆記したのは、薩埵正邦である。
アッペルが東京法学校と教育上のかかわりをもったのは、正味数年のことであった。が、この学校に出講を請われたことは、本人にとって名誉
なことであった。東京法学校が官学に入ることができぬ若者のために、科学の門戸をひらき、高等教育をさずけ、判事や弁護士の養成をくわだて
たことは美挙であり、かれはよろこんでその招聘に応じた。一つには、フランスの学風や思想を学生に伝えたかったからである(ジョールジュ・
アッペール「私立法政大学ノ講師及ヒ学生ニ贈ル書」)。
一 第一回卒業生のそのご
明治十八年(一八八五)九月
―
第一回の卒業生八名は、学舎(「東京法学校」と改称)の考査をへて、社会に巣立った。卒業生がすくなかったのは、試験をきびしくし、学力のある者だけを有資格者としたからである。
卒業証書を安易に乱発し、それによって外観を飾ることは、世人をあざむくことに他ならないと考えたのは主幹・薩埵であった(同人の卒業式
における祝辞を参照)。当時の在校生は三五〇名である。学生は昨日入学したかと思ったら、きょうは退学するといったぐあいであり、三ヵ年間
まじめに勉強する者はすくなかった。たまに生まじめな就学者がいても、学問が身につかず、けっきょく卒業要件をみたすことができぬまま、廃
学する者があとを絶たなかったようだ。ともかく学生の出入りが多かったということである。
ひるがえって当時の日本の法学をみるに、まだこんにちのごとく進歩発達せず、学習者の知識も浅かった。去 きよ就 しゆう(退学すること、ふみとどま
ること)つねなき状態が、そのころの東京法学校の校風であった。それが明治十六年(一八八三)九月
―
学習環境の整備・充実に着手し、新た 法律公法 私法 外部 内部
行政法 憲法 刑法
に校則をもうけ、教員を十三名(創立時の約三倍)にふやすといった大改革に乗りだした。翌十七年(一八八四)三月、同校は神田小川町一番地
に移転していくのである。
第一回目の卒業生は、明治十六年に出るはずであったが、未熟者を社会に送りだすことにためらいがあり、同十八年(一八八五)まで伸ばした
もののようだ。
ともあれ、つぎの八名が、六月におこなわれた定期試験の結果、晴れて卒業することになった。
一 奥村梅次郎(岐阜 士族) 二 戸田敬一郎(岡山 士族)
三 杉山誠一郎(東京 平民) 四 高木貞太郎(三重 平民)五 芥川 忠蔵(熊本 士族) 六 山田 東次(神奈川 士族)
七 蘆 あし沢 ざわ 大蔵(愛媛 士族) 八 山崎 知章(高知 士族)注・番号は卒業のときの成績順位をしめす。『法律雑誌』第四七一号、明治
18・7・
28より。
首席の奥村(司法省法学校速成科第三期生)は、行政法・会社法・経済学の科目に
おいて満点をとり、卒論も特選であった。戸田は行政法において満点をえ、杉山(東
大医学部より、明治十三年東京法学社に入学)・高木は訴訟法において満点をえた(『法律雑誌』第四七一号)。奥村は優等生であったが、卒業した翌年心臓病により夭
折した )11
(。杉山は明治十九年(一八八六)に代言人になった。
戸田は深川佐賀町より通学し、三ヵ年無欠席であった。雨の日も雪の日も学校に通
った。校舎が小川町に移ってから、薩埵や教頭ボアソナードは、その勤勉ぶりを賞賛
し、講堂に全生徒をあつめ、仏文の記載のある写真(ボアソナードの肖像)を贈って
表彰した )11
(。
東京法学校の卒業生8名の氏名。
『法律雑誌』第474号所収,明治18・8・13。
これら八名の卒業生は、在校生三五〇名ちゅうのほんのひとにぎりの学生にすぎなかった。が、かれらは東京法学校を出たのちどうなったのか。
まず奥村は活躍の場をうることなく、惜しいことに病いにより夭折した。戸田は卒業する明治十八年八月に実施された判事登用試験に合格した。
このときの及第者は三名であった。のち岡山、盛岡の地方裁判所に判事や所長として勤務した。杉山は東京神田の商人の子にうまれた。明治十九
年(一八八六)代言人の免許をえ、おもに民事訴訟で活躍した。高木は小学校教員を振りだしに、法律書に目ざめ、東京法学校に入学した )11
(。卒業
する年の一月に、代言人の免許を取得し、のち宇治山田で弁護士を営んだ。
芥川は典 てん獄 ごく(刑務所長の旧称)となり、明治三十七年(一九〇四)福井監獄につとめた。山田は在学中より自由党員として活躍し、明治二十三
年(一八九〇)神奈川県から衆議院選に出馬し当選した。以来連続当選したが、肺病にかかり、四十一歳で亡くなった。
蘆沢はちょっと変った路をあゆみ、明治三十年代熊本郵便局長をしていた。山崎については不明。
こうして第一回卒業生の経歴をみると、八名ちゅう
―
判事…………一名 代言人…………二名典獄…………一名 衆議院議員……一名
郵便局長……一名
などが誕生し、それぞれの分野で活躍した。
卒業式は、明治十八年(一八八五)九月九日の午後三時より、神田区神保町八番地の「神保園」でおこなわれた。そこは庭園、貸席、フロ、舞
台まである遊園施設であった。見世物(曲芸、奇術など)がおこなわれたし、集会用の会場を提供した。
なんでもかんでも
集会貸席
神田北神保町八番地 神保園
といった広告が、『読売新聞』(明治
18・1・6付)にみられる。
当日、玉 たま乃 の世 せい履 り大審院長や渡辺洪 こう基 き東京府知事をはじめ、政府と民間の紳士ら三〇名が出席した。式典は幹事の開場のことばにつづき、主幹・
薩埵の祝辞があった。そのあと卒業生代表・戸田敬一郎の答辞があった。つぎに卒業証書の授与があり、それがおわると、教頭ボアソナードの祝
辞があり、それを教員の森順正が通訳した。
ついで教員・山田喜之助、玉乃大審院長の祝辞があった。式がおわると、来賓に西洋料理がふるまわれたが、これは仕出屋から取りよせたもの
であろう。
明治十八年までに卒業にいたらなかった初期の在校生のすべてが、学力が未熟だったわけではない。かれらの多くは私学の卒業証書といった紙 0
っきれ 000を必要としていなかった。多くの学生の眼中にあったのは、判事や代言人の登用試験に通ることであった。東京法学校では、在学中に代言
人の試験にパスする者もすくなくなかった。つぎにかかげる氏名は、代言人試験の合格者である。
明治十五年(一八八二)……世古祐次郎、後藤文一郎
〃十六年(一八八三)……守屋此助 〃十七年(一八八四)……小川三千三 〃十八年(一八八五)……(府下の春期合格者)戸田敬一郎 高木貞太郎 小口友江 伊藤松男 片一源一郎 神尾 珍 よし 與田 定(『法律雑誌』第四七三号)。
(各地方における春期合格者)