Title
法解釈方法論に関する一考察−特に労働法解釈のために
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Author(s)
伊達, 隆英
Citation
沖大法学 = Okidai Hōgaku(14): 1-20
Issue Date
1994-01-14
URL
http://hdl.handle.net/20.500.12001/6562
法解釈方法論に関する一考察
この様な難しいテーマで、○ものを書くのは、筆者のような浅学の徒のすべきことではないかもしれない。思い出して 法解釈方法論に関する一考察 一 |、 一一、 一一一、 四、 一、はじめに おわりに 労働法の分野における法解釈方法論に関する諸説 法解釈一々法論に関する第二次世界大戦後の曰本における論争 はじめにl特に労働法解釈のためにI
目次
伊達隆英
新しい憲法の下で、法制度等の改革がなされ、曰本の独立による各種の制度等の再建が始まりかけた頃、一九五三
(昭和二八)年から一九五四(昭和二九)年ごろにわが国の学界で「法解釈の科学性,rは客観性」の問題がとりあげら
れ、活発な論議が行われるようになっ池。たとえば、来栖三郎教授の『法の解釈と法律義』とか、川島武宜教授の『科
学としての法律学」(昭和一一一一一一年)等の論議が、論争の端緒となったようである。もちろん、この問題は、法というも 的な基準をはっきりとは表現していない。 に意識しながらやってきたと思う。しかし、未だに、どの解釈が「正しい」のかないしは「妥当」なのかに関する体系 際にも、又、ものを書く場合にも、解釈が別れている問題に関して、自分がどの立場に立つことが、妥当なのかを、常 になり、法律学(特に解釈学)を対象として、研究者の道に入って、すでに一一十数年を経過した。その間、講義をするれも、普通のサラリーマンになるためには、それでよかったのかもしれないが、ある事情があっロ、大学院に行くこと
みると、学部の学生のときには、まだ教科書を暗記し先生方の説明を聴き、そして試験のための勉強だったと思う。そそこで、屋上屋を重ねるような事も書くかもしれないが、筆者自身、自分の法解釈の際にどの様な考麺をもちながら
行なってきたかを文章化して整理するという自分のための作業になるのかもしれない。しかし、今、過去において色々 と頭の中で考えていたものを客観化して、諸先生方の批判の前にさらしてみたいと思う。 一一、法解釈方法論に関する第二次世界大戦後の日本における論争 沖大法学第十四号 一一次に、川島武宜教授蝿、物理学等の自然科学また他の社会科学においても、或る理論が正しいかどうかは、観察によっ
て決せられるのに対し、合法説と非合法説と対立するとき、見解のどれが正しいかを決める「客観的な」基準があるの
か、「見解の相違」であって、どちらかの見解の「正しさ」を確定するのは、結局「力」ではないのか、と述べられ
る。そうすると、法律家の従うべき正しい法の解釈里々法はどうでなければならないかというと、法規範を実定法の規定
からの論理的演鐸によってでなく、現実の社会関係の観察・分析によってその中から汲みとるべきであ駆・こうした解
①●● 釈の一々法を社会学的一々法と呼ぶ。とされる。 て一様ではない、とされる。 述べられる。そして、法の幼 ということに疑問をもち、全まず来栖三郎教授の私法学会における報告から見ていきたい。教授は、まず法の解釈において、客観的に正しい唯一
の解釈があると前提し、自分の解釈はその正しい唯一の解釈たらんとし、そういう解釈には法規の客観的認識の結果、
論理的に到達しうるものであるように意識している。しかし、理論的には、客観的に正しい法の解釈が唯一つしかない
ということに疑問をもち、実際には法の解釈について複数の解釈の可能性を認めなければならないように思われる、と ●●●述べられる。そして、法の解釈が解釈する個人の主観的価値判断によって影響されるが、そのされ方は法の領域によっ
る論争を見てみたⅦ。
において、以前から議論されてきている問題であ範・ここでは、問題解決の糸口として、まず第二次大戦後日本におけ
において、以前か雪異 のがこの世に登場して以来、議論されてきただろうと思われるが、特に、近代法治国家が成立して以来、特にドイツ等 法解釈方法論に関する一考察 一一 一そして、法律学においては非常に精綴な「理論」が展開されるが、その「理論」というのは、結局或る人に納得させ ●●●
るための説得術にすぎないのではないのか、という気持がおこる、といわれる。そして、法律学の「科学性(狭義であ
ろう)」に対する疑問は、法律学を学びはじめた多くの学生に必ず或る時期に現われるだろう、また、すでに法律学に
相当年季をいれた人々でも、時には、このような疑問や懐疑におそわれるときがあるだろう、と述べる。
それについては、つぎの二つの原因があるように思われる、として、第一に法律学の特殊な性格にもとづいている。 ●● ●●すなわち、法律学は非常に特殊な学問である。それは、十分に学問の名に値するものであるが、同時にまた、しばしば
●● ●● 学問の名に値しないものになる危険を含んでいる。われわれ法律学者自身も、法律学が科学であるためにはどのような ものでなければならないかについて、絶えず反省する必要にせまられる。第二に、法律学に対する正しい理解を、多くの学生にとって困難なものにしている、もう一つの事情は、従来の法律
学の教育方法にもあったように思われる。法律というものは、社会に対し人間が働きかける(社会学にいわゆる「社会
●● 統制」の。。旨]8ロゴ・])ための技術であるから、それぞれの社会現象に対する知識と、一定の政策的な価値判断をす る能力がなければ、法律技術は血の通いのないものになってしまうと述べる。 そこで、法律学の科学としての性格、その方法論について考える材料を与えたいが、法律学といっても種々の領域を ●● 含んでおり、それらすべての共通の要素がないわけではないが、ここでの説明は、主として川島教授の専門である私法 ●● 特に民法に重点をおき、「実用法学」に問題を限局する、とする。実用法学官禺房&のmの・耳の三mmのロm・富津とは、立法や裁判などの法律実務のために必要な技術を提供することを目
的とする学問であるが、一般に「法律学」という場合には、特に裁判所における裁判のための規範の作成を目的とする 沖大法学第十四号 四存在する。しかし、え い要素を加え、これ一 いては、市民法の価儘 ある。と述べられる。 順番としては、後ほどに述べるのがいいかもしれないが、川島教授の考え方について著書に従って述べることにする。 ●●●● 法という社会的技術の第一要素であるところの価値獅餅罰について考えてみると、政治権力が法という形態において社会 生活にはたらきかける具体的内容は、法的価値判断の結論である。法律学の第一の任務は、この価値判断の内容を明ら かにし、これを批判し、社会的技術としての法を有効適切ならしめることである、とされる。そして、まず、法律学は 価値判断の基準となるところの諸々の価値とその相互間系、すなわち、価値体系を明らかにしなければならない。たと えば、現在の市民法の基礎には、個人の法主休枇」・排他的独占的な私有財産制度・契約の自由が、基本的な価値として ●●●● 存在する。しかし、その後恐慌と、階級対立によって諸国で起こってきた「社会立法」とは、市民法の価値体系に新し い要素を加え、これを変化させた。しかし、たとえば「労働法」は、私有財産制度の基礎が否定されていない現在にお いては、市民法の価値体系を否定してはいない。労働法は、市民法の価値体系を変化させつつ、且つこれの基礎の上に 曰本やヨーロッパ大陸諸国のように包括的な基礎的法典の体系をもっているところでは、法律学は「制定法の解釈」 に重点をおく「解釈学」となっているのに反し、そのような法典体系をもたず、裁判の判断基準(裁判規範)の基本原 理が「判例法」であるとされている国lイギリスやアメリカのようなコモン・ロ-の原理が支配する国々では、実用法 学は、過去の判決の中から裁判規範を発見し、これを説明し体系づけることを目的とする学問となっている、とする。 ている。 技術学を指す場合が多い。しかし、ひとしく「裁判のための規範作成の技術」といっても、国によってその性格が異なっ 法解釈方法論に関する一考察 =
ひとまず、ここで、間をおき、川島武宜教授の論述に関する考察を行なう。 まず、物理学等の自然科学また他の社会科学においては、ある理論が正しいかどうかは、実験等によって決せられる というが、たしかに物理学では、たとえば、ニュートンの「万有引力」の法則は、ニュートンが発見し、そして、その
後、誰が実験をしても引力があることがわかる。しかし、生物学ではどうであろうか、ダーウィンの「進化諭」は、実
つぎに、法律学は立法および裁判の具体的価値判断の内容を明らかにしなければならない。そして、法的価値判断の 対象たる社会関係を一定の類型に構成し、法的価値判断にとって意味をもつ諸要素に分析しなければならない。そして、 ●●●● この分析は、一種の社会学的な分析である。と述べている。 第三に、法的価値判断に関する法律学の任務は、一定の社会関係に対してなされた法的価値判断と価値体系との関係、 および価値判断相互の関係を研究することである、とされる。そして、立法に含まれる個々の法的価値判断とそれの根 拠となった社会的価値との関係は、「立法理由」ということばで呼ばれる。立法はすぐれて政治的な行為であり、規定 を是認するかどうかは、結局は政治的、思想的立場によって異なる。しかし、立法および裁判の形で表われる法的価値 判断は、単に個人の主観的な意欲や感情を依存するものではなく、原則として当該の社会の中の或る範囲の人々の利益 の基礎の上に立つ社会的な価値を反映するものであり、そのかぎりでの客観性をもつ。そして、諸々の価値体系の中の 「正しい」かは、結局はどの価値体系の立場から判断するかということにかかってくるのであり、この意味ではその 「正しさ」は相対的な意味しかもちえない。そしてそれは実践行動の一つであるとされる。しかし、法律解釈論の有用 性や必要性について否定的な立場ではないとする。 沖大法学第十四号 〆=ペ験的に正しいであろうか。たしかに、何万年、何億年という時系列の中では、そういうことがないとはいえない。しか し、猿が人間になったということについては有史以来、猿が人になった実例があるであろうか。猿が自分で考えて衣類 を作ったり、家を造ったりしてきたであろうか。筆者はそういう例を見たことも聞いたこともない。だから、ダーウィ
ンの「進化論」はいまだに仮説であり、実証されていないといえるだろ宛。
●● また、人間の諸々の行為について研究する社会科学の中でも、経済学などは如何であろうか。数理経済学などでは、 ある条件のもとでは、ハッキリと客観的結果がでてくるかもしれない。しかし、そもそも、曰本でいわれている「近代 経済学」と「マルクス経済学」は、よって立つ基盤が違うし、根本的に資本主義経済と社会主義経済との対立があるようであ艶。それでも実験的にどちらが正しいといえるのであろうか。世界の中で一番最初にマルキシズムにもとづく革
●o● 命を行なって社会主義経済体制であったソヴィエト連邦が崩壊したのは何故であろうか。もちろん、そこには思想的な ものだけでなく、民族性とか、共産党独裁恐怖政治(特にスターリンの)の破綻があったであろう。しかし、社会主義経済はうまくいかなかったということがソ連の崩壊のみで実証されたといえるのだろう加。
ただ、誤解を受けるといけないので、若干いわせていただけば、筆者自身としては資本主義経済の営利追求至上主義 は、必ずしも好きではない面があるが、しかし、競争原理にもとづく競争も面白いとは思う。 うまくいくのであれば、社会主義経済でもよいとは思う。ただし、思想。信条の自由はいついかなる所でも守られるべ きであり、全体主義的な国家は、それが如何なる思想的基盤をもつものであれ、筆者としては受け入れることはできな い。人間の精神的自由が確保されなければならない。 また、筆者は、法律学が科学(狭義)でなければならないという命題を持っていない。すなわち、筆者の法学研究者 法解釈方法論に関する一考察 七コ●●● ●● 1としての立場は、法解釈を如何に多くの人々に説得的・妥当であるかを論証するのが任務であり、それが「法律学」の 中心であることは、過去から現在へ、そして未来に向かっても、そうであろうと思う。まさに、川島武宜教授がいわれ ●● ているように、「法律学」は「学問(広義の科学)」の一種であって、それで十分意味を△()っていると思われる。私は、 科学(狭義)至上主義者ではない。「真理」というものは「科学(狭義)」に限られないのであり、正しい「宗教」も ●●●●● ●●● 真理を含んでいる。ただし、誤解されないように一一一一口えば、西洋の科翻字(狭義)的、実証的学問は、すぐれているもので あり、例えば、医学を例にとってみても、その実証的態度は、すぐれた成果をもたらしてきた。筆者としても物事に関 して、極力、科学(狭義)的態度をもちたいと思っている。西洋の、特に自然科学はすぐれたものであり、たとえば、 最近では、エレクトロニクスを基礎とした、コンピューターの発達などは曰]を見張るべきである。しかし、「法解謙字」 は、「事実の認定」(特に刑法でいえることであろうが、しかし又、民法でもそうであろう。)においては、科学(狭 義)的方法が必要であるけれども、事実に対する法的評価においては特殊性をもっているだろう。 次に、川島武宜教授は、法が作られる際の政治権力による価値判断の内容を明らかにすべきであると述べる。 後にまとめて、私見を述べる方がいいかもしれないが、ここで若干、法解釈の方法に関する基本的なことにふれるこ とにする。法学を学び始めるとき、大体は、「法学概論」とか「法学入門」というような名称でもって、法解釈の技術 的なことも学ぶのが普通であろう。その際、まず、法条文の解釈の方法が述べられる。制定法主義の国々(いわゆるヨー ロッパ大陸法系)においてはまずここから始められるであろうが、判例法主義の国についても、制定法の解釈について
は、共通のものがあると思われる。また、判例法主義の国蝿(英米法系)では、判例法に関して、いわゆる先例拘束性
沖大法学第十四号 ノ、の原理の冨甸の」の。苗のがあるが、制定法主義の国々では、このような原理がないにしても、判例の積み重ねにより、判 例法が成立していくことがあるであろう。ところで、法条文の解釈については、いわゆる文理解釈・論理解釈等の技術 的なものがまず第一に来る。これについては異論のないところであろう。その先が考え方の分れるところであろう。 制定法主義である我が国においては、憲法を頂点として、民法、商法、刑法、労働法等の諸々の制定法が多数ある。 その中で、「市民法」の基本的な法である民法をまず見てみる。我が国は、明治以来、今日まで資本主義経済であり、 その経済的取引きの基本を定めているのが、民法であろう。民法においては、体系的、そして、かなり細部にわたって 条文が作られている。民法制定にあたっては、ドイツ等の国の民法を参考にして、作られたものである。そこにおいて
は、立法都は資本主義経済取り引きのための、「人」とは何か、「物」とは何か、「法律行為」とは何か、等々につい
て体系的に条文が作られている。したがって通常は、これらの条文にしたがって経済取り引きを行なえば、一定の法律 効果が発生する。しかし、その中でも、たとえば、民法五四一条にかかわる履行遅滞によって契約を解除する場合、 「相当な期間」とはどの位であるかとかについて、契約当事者間において争いがある場合は、裁判をする場合もあるであろう。その場合、裁判官は、「相当な期間」について判断する場合、立法者の意駆ないしは立法趣旨をまず追求すべ
きであろう。そして、具体的にその時代によるコミュニケーションにかかわる時間とか、にもとづいて是か否かを判断 することになろう。ここにおいては、裁判官が、目的妥当性を考えて、ある意味での法創造を行なうのであろうと思わ れる。 そこで、筆者として、法解釈を如何に行なうべきかの立場に関して述べてみる。 法解釈方法論に関する一考察 ナ山ところで、筆者が専攻すとるところの、「労働法」において、その法解釈は如何に行なわれるであるべきかについて I 述べてみる。 まず、たとえば民法において法解釈を行なう場合、民法は市民法の根幹として立法されたものであり、全体としては、 所有権の絶対性、契約自由の原則、過失責任の原則などが柱となって、織密な体系的な立法がなされている。そして、 我が国の法体系は、現在は、新憲法の下で、憲法第二九条を基本にして、経済取引についての基本として民法がある。 したがって、民法の解釈においては、先に述べた原則があり、個々の事例において、第何条がこの事実については適用 されるか否かが検討される。その際、見解が分かれる場合、たとえば、民法四一六条で、債務不履行によって、AがB に損害賠償をしなければならない場合、その額はどの位かに関しては、ケースごとに、その時代、場所、両者の関係等 諸々の事情を醤酌してまずその立法趣旨から妥当である解釈をするべきであろう。そして、やはり、各具体的な事情よっ て、目的的妥当性も考慮の中に入らざるを得ない。その場合、やはり、解釈者によって、そのよって立つ所の価値観が 入り込まざるを得ないであろう。ただし、民法においては、市民法の中での価値観の違いによるものであって、それほ ど差が大きく違うような解釈はそう多くはないのではなかろうか。しかし、たとえば、マルクス法学の人の場合には、 ● ●●● 資本主義経済自体を悪とするのであれば、民法の解釈学をすることはできないのではないかと思われる。そうだとすれ ば民法の原理はまちがっているとか、民法の規定が適用される結果において、その場合の価値観がよいか悪いかという ような、法解釈から離れた社会学的考察を行なうということになれば、いわゆる法社会学となるのであろう。 周知のように、「労働法」にかかわる法規は、第二次世界大戦後に作られたものが殆どである。まず、いわゆる労働 沖大法学第十四号 一つ
たとえば、筆者が書いた「部分スト。|部ストと賃金・休業手艶」においては、民法的に解決できる問題は、民法の
条文を適用している。そして、労働法上の規定が適用される場合は、労働基準法の条文を適用している。ただ、労働法 ●●●●● の分野でも、更にその中を分けていくと、労働基準法、労働安全衛生法及びその附属法令等のいわゆる労働保護法につ いては、条文の数も多く、また、規則等も細かく規定されているので、何法の何条が適用されるというのが、比較的や ●●●●● りやすいだろう。それに対して、いわゆる労働団体法、その根幹をなすものとしての「労働組合法」を見てみると、条 ●● 文の数も少ないし、たとえば労組法第一条第二項で、「労働組合の団体交渉その他の行為であって前項に掲げる正当な ものについて適用があるものとする」と規定されているが、その「正当性」については何ら条文がない。おそらく、立 法の際に、その後おきる色々な事例においては、裁判になった場合に、裁判官に「正当性」を個々具体的に判断させる きである。 らの原理の があるが。法」上の原則である「契約自由」の原則が修正されて、労・艶の人的。経済的な不平等をなくすために、各種の労働保
わからない。しかし、この「労働法」の分野といえども、憲法の基本的人権の下に行なわれているものであり、「市民 に広い労働関係に関する法の集積ができあがっている。これらは、しかし、必ずしも系統的な体系といえるかどうかは 三法ができあがり、その後、色々な法改正や、新立法ができあがり、又判例法の集積、まさに労働法実定法は現在非常 ●● 護法があり、また労働組合が法認されていて、この労組と使用者との間に関する、団体交渉・労働協約・争議行為が認 められている。ただし、各種公務員については、それぞれの立法趣旨により、特に労働団体法においては、各種の制限 があるが。したがって、基本的には、「労働法」は、資本主義社会のものであり、「市民法」を前提としながら、それ ●● らの原理の一部を修正しているものであり、憲法を頂点とする曰本の法体系の一部である。その中で法解釈を行なうべ 法解釈方法論に関する一考察 ’一まず、今筆者の手元にある、有泉亨教授の論稿から見ていきた噸・当時、昭和二十年代においては、社会の色々な部
分で大改変が行なわれた頃であろう。有泉教授も、我が国は憲法第二五条ないし第二八条を頂点とする労働組合法、労 働関係調整法、労働基準法等の労働諸立法を持っていて、資本主義国家としては一応水準に達した労働法制といえるが、 施行後間もない諸立法には不明な点が多く、判例法が確立されるところまで行っていない、と述べられる。そして、学 説も左右入りみだれている、と。 まず第一に学説のうちには解釈論を軽視し、批判する説があることを見わけておく必要があると、述べる。すなわち、 現在の労働立法が市民法の体系の中に社会主義的なものを持ち込んでいるように解釈することは、法の階級性をいんぺ 前章ですでに労働法の分野にも足を踏み入れたが、労働法の分野だけで、前章で述べたような法解釈方法論の論争 (特に民法の分野での)がおこなわれたということはないようである。しかし、労働法の分野の中での法解釈方法論に 関する見解は色々と見られるところである。本章においては、それらの学説について、まず時系列的に見ていきたいと 思う。 ことを委ねたものであろう。 三、労働法の分野における法解釈方法論に関する諸説 沖大法学第十四号 一一一時は流れて、昭和五九年になるが横井芳弘教授「労働法学の方法」を見ていきた噸・教授は、労働法の解釈もまた価
値判断であ範と、解釈者のいかんにおうじてその価値判断が異なることは今日では誰も疑うことのできない経験的事実
である。にもかかわらず、解釈者は自己の選択した解釈を唯一の正しい解釈として主張する。立法が本来政治力学的な 作業であるということは、法が現実には複数の価値観によって代表される複数の利益の妥協的所産であることを意味す そして、有泉教授自身の立場としては、法の解釈論を軽視せず、その実践的意義を重視する、と述べられる。また、 教授は、今曰のわが国の法体系が基本的には市民法体系であると考え、また、法社会学的方法が極めて重要である、と される。 も、できるだけ労働者階級にとって有利に、その階級闘争のために解釈し利用しなければならない、とする。 に力を注がれる急先鋒は杉之原氏であるとする。その杉之原氏の主張として、たとえば、それが資本主義的であろうと ルキシズム法学の旗を高くかかげて、ブルジョア国家における労働法の階級性を強調し、解釈法学のぎまん性のばく露 いし、労働者階級をまひさせるものであるという一部マルキストが解釈論を軽視ないし蔑視する、として、例えば、マ 次に、同じく労働法を資本主義社会の法秩序の一環をなすのであり、労働運動の主体である労働者階級には、むしろ 対立する立場において制定され、運営されるものと見、更に、労働法は闘争しつつある矛盾的な階級の社会的実力関係 を、現在秩序の維持のたちばから相対的に安定せしめようと固定したにすぎない。と見て、杉之原氏を根本において立 場を同じくしながらも、当面実定法秩序の解釈論を、イデオロギー批判とともに重視する沼田稲次郎氏の立場がある、 と述べられる。 法解釈方法論に関する一考察 - -  ̄  ̄たとえば、前掲拙稿「部分スト・一部ストと賃金・休業手当」では、「ノース・ウエスト航空事件(最高裁昭和六二 年七月一七日第二小法廷判決)」をキッカヶとして書いたのであるが、同最高裁判決は、労働者の部分ストの場合、賃 金請求権も、休業手当請求権もないと結論したのであるが、結論としては、筆者もその判決を支持した。 筆者は、「階級闘争」主義ではないが、自分なりに価値観をもっている。その価値観、人生観、世界観等は、人によっ ●●● て異なるものであるが、その究極的出発点は何かというと、各人が「何か」を信じるというところからくるものと思う。 それがないと、いくら理論を構築しようとしてもできないのではなかろうか。懐疑論ないしは不可知論になってしまう ●●●●●● であろう。筆者の労働法解釈に関する立場は、是々非々主義である。ケースによって、結論が使用者の側になる》」とも あるし、労働者側を正しいとすることもある。その場合、色々と論証を行なうのであるが、最終的には「決断」が必要 ●●● とされる。この「決断」という行為は、脳科学的に如何なるものかはわからないが、一種の「感覚」的なものではなか ろうか。 沖大法学第十四号 一四 ●● る。資本主義国家が階級国家であり、資本主義社会が階級社会であるかぎり、資本主義の外銅被である限り、資本主義社 の外纈被である資本主義法秩序には、おのづから一定の「枠」がある。法の解釈は、法そのもののもつ内在的性格と解釈 者のもつ価値体系ないし価値判断の多様性におうじて、必然的に複数の選択肢の出現をもたらしてくる。だとすれば法 の解釈の正しさとか真理性とは、いかなる意味でいかにして論証が可能であるのか、それは、結局、法の解釈者のおか れた現実の社会に中における地位からして、いかなる法の解釈が自己にとってもっとも有利もしくは好ましいものであ るかをその価値体系に照らしてみずから選択し判断する行為であると述べられる。
しかし、たとえば、いわゆる「リボン闘争」に関する「大成観光事件(最高裁昭和五七年四月一一一一日第三 小法廷裁決)」の事件については、最高裁の判決に対して疑問を持つ。すなわち、本件ではホテルオーラクの従業員 で組織する労働組合が、賃上げ闘争の一環として、直径五~六センチの花形に長さ六センチ幅二センチの白地で、「要 求貫徹」等の文字があった。これに対して同ホテル経営のX会社がリボン着用者にリボンを外すよう説得したりしたが、 組合側がこれを無視したので、組合三役らの幹部責任を問い減給及び諸責処分にした。組合側は諸責処分を不当労働行 為としてY労働委員会に救済を申し立て、同委員会は救済を認容した。それに対し、会社は右命分を不服としてその取 消を求める行政訴訟を提起した。|審・二審・最高裁とも救済命令を取り消した。 この程度の組合活動ないしは争議行為の手段によってどれほどの業務の阻害があるか、又は職務専念義務の違反があ るか、疑問がある。たしかに使用者に圧力を加えるものもあるかもしれないが、第三者である客達はこれを見てどう思 うか。人によって違うであろう。別に何も気にしない人もいるだろうし、そうでない人もいるだろう。厳密な科学的事 実認定をするためには、客の全員にアンケート調査でもすればいいかもしれない。職務専念義務にしても、ある労働者 が職務に専念しているかどうかは、外見上わからない。これも脳波でも検査すれば、「何か」に集中している否かはわ かるかもしれない。又「何か」他のことを考えているかもしれない。しかし、その内心のことまではわからない。結局、 裁判官の価値観で認定をしているということになるだろう。 ●●● それでは、この様に色々と法解釈が異なる場合、一体どの見解が正しいかについては、私としては前掲のようなこと ●● ●● ●● しかいえないが、大方の人々、すなわち、裁判官、法律学者、その他の人々の大方の支持を受けるような法解釈が妥当 なものだろうであろう。前に述べたように、立法趣旨を重く見るべきであるが、やはり、それだけでは立論できない場 法解釈方法論に関する一考察 一三
合には、解釈者の価値観にもとづいて、「妥当」であると思われる解釈を行なうしかなかろう。したがって、客観的に ●●● 唯一正しい結論が出てこないのは、法解釈学の宿命であろう。 以上、法解釈方法論について、労働法を主として研究対象としている者として、ある程度の素描をしてきた。筆者の 能力不足、時間的制約もあり、自分でも織密な論理を展開していないと思うし、もっと書くべきこともあるが、今回は この程度のものしか書けなかった。いずれ、また、機会があれば何らかの形で取り扱いたいテーマである。文章の表面 上は、割り切って書いてあるだろうと思うが、迷いが残っている部分もある。今後も、筆者としては、法社会学の成果、 また、立法政策学なども視野に入れながら、やはり法解釈学を中心にして研究し、教育する作業をしていくだろうと思
う。今回は、この位で筆を休めたいと思う・諸先生方の批判、教示などをえたいと思躯。
(1)人間の思想を形成するものは、生まれてから、生きている間中、本を読んだり、人と話しをしたり、また、現代社会では、そ の他テレビ等々の情報の中で暮らして、体験的に身につくものであろうと思われる。したがって、人々の生れ・育ちは厳密にい えば、|人一人全て違ったものであるか壼b、ものを見る目も全ての人間において異なるものであろう。もちろん、人間としての 共通性の部分も多いが。私の思想形成においても、私の生れ・育ちを説明して、今、この様なものを書き、ある考え方をとるか が、理解していただけると思うが、その様な記述は学術論文としては書けないので、いずれ機会があれば、別の形で書きたいと 思っている。本稿では、極力、客観的に物事をとらえ、記述していきたいと思っている。 四、おわりに 沖大法学第十四号 天(2)法解釈の際の思考のみではなく、研究者の道を目指してからは、まず、人間の思考ないしは認識、また他の人々とのコミュニ ●● ケーションのための道具としての一一一口語(人類が発生してから現在に至るまで最もよい手段とされてきたものであるが、未来につ いてはまた別のもっと便利なものが考案されるかもしれない。)のことから始まって延々と考え続けてきたのである。今、ここ では、言語学及び認識論に立ち入ってしまうと、それだけでも大変な問題になってしまうので、一応、法学研究者の間で常識的 に使われている言語を使用して書くことにする。 ●●● なお、コトパの問題に関しては、ある時期に、自分の心の救いのために読んだ、アウグスティヌスの『告白録』(日本語訳) を読んだ際に、偶然にも私がコトパに関してもっていた心理的葛藤を氷解させる部分にめぐりあった。その後、コトバを使用す ることが再び、序々に自然に行われるようになった。また、哲学の一分野である「認識論」に関しても、序々に理解が進むよう になったという記憶を持っている。さらに、その後、ないしは平行して、「価値論」についても自分なりに考え、そして、人間 として生きて行くのに必要な、広い意味での「哲学」また「宗教」についても、やっと最近になって、自分なりの立場が出来て きたと思っている。もちろん、これからも、色々なことを体験しながら、修正が加えられていくだろうと思うが。 (3)まず、用語の定義から始めたい。というのは、色々と本を読んでみて、「科学」という言葉について、それぞれの著者が広狭 色々のニュアンスで使っているようであるから、本稿においては、私なりの定義をして、「科学」という言葉を使いたい。まず、 岩波の「広辞苑」によると、「科学」とは英語ではの。』の口○の、ドイツ語では三岳、のごm・富津、であり、広い意味では、「学問」 ないし「学」すなわち、「現実の全体或いはそれの特殊な諸領域または側面に関する系統的認識」とされている。また、狭い意 味では、「世界の一部分を対象領域とする経験的に論証できる系統的な合理的認識。特に「自然科学」を指す。とされている。 次に逆に、研究社の「英知大辞典」によると、“の&のロ・の”とは「科学」ないしは「学術」とされる。また、小学館の「独和 大辞典」では、“三肘ののロm・宮津”は、「学問」または、「科学」という訳語を使っている。 また、別の観点からみると、我が国の大学での教養課程において、「人文科学」、「社会科学」、「自然科学」という系列の 中で、「法学」は、「社会科学」系列に入っている。また、津田利治訳「ヘック・利益法学」(昭和六○年三月、慶応通信社) ●● の中において、津田利治教授は“罰の・耳の菖のmのロ・・富津”を「法科学」と訳している。 そこで、私としては、「学問」という広い意味で使う「科学」を「広義」の科学(使い方としては「科学(広義)」と呼び、 「自然科学」特に物理学のような、いつ、どこで、誰でも、同じ条件の中で実験すれば、同じ法則結果としてでてくる「科学」 法解釈方法論に関する一考察 一七
を「狭義の科学」(使い方としては、「科学(狭義)」と呼ぶ。 (4)碧海純一『新版・法哲学概論(全訂第二版)』(平成元年二九八九年)、一四五~六頁参照(弘文堂) (5)『私法』第十一号・昭和二九年・六頁以下 (6)たとえば、【日]田pHの目・言の言・』のご]の盲のこの司切の・写の三mmのロ・宮津(一九八三年)》m・窪三・国己のこぎ:P5の]二x 忠]弓冨。ご》(’九六七年)》勺・おの一mの。参照。米山教授の訳本もある。 また、日本でも、たまたま筆者の手元にある、末弘巌太郎『民法雑考』(昭和七年発行)の巻頭論文として、「法律解釈に於 ける理論と政策」において、末弘教授は、いわゆる概念法学を批判して御自身の考え方を述べておられる。 (7)この、いわゆる法解釈論争について批判的再検討を行なっているものに、田中成明『法的思考とはどのようなものか』二九 八九年発行、有斐閣)、特にその七○頁以降があげられる。 (8)私はこの文章の意味がわからない。 (9)川島武宜『「科学としての法律学」とその発展二九八七年、岩波書店)』参照。かつて、私が大学院生のときに読んだ『科 学としての法律学』新版一九六四年(弘文堂)が見つからないので、本書2頁以降より引用する。まず「科学としての法律学」。 (、)ここで、ダーウィンの「進化論」が出てきたので、若干述べたことがある。私は生物学の研究者でもないし、細かいところま でわからないが、猿が人になったことの科学的(狭義)実証はされていないようである。また、ダーウィンはイギリス人であり、 キリスト教国であるので、キリスト教の「神」のことは当然知っている筈である。「生物進化論」はすぐれた部分もあるが、キ リスト教との関係でダーウィンが悩んだかどうかはわからないが、キリスト教会との軋蝶はあったであろうと推測される。これ に対し日本の進化論を肯定する生物学者の中で、唯一神とキリスト教との関係で悩んだ人はどの位いるだろうか。日本には明治 以前には「唯一神」の観念はなかったであろうから、明治以降、西洋の文物、学問等がドッと入ってきて、キリスト教も唯物論 も色々と入ってきたとき、「唯一神」との対決の上で、進化論を受け入れた人はどの位いるであろうか。かなり、安易に信じる ことができたのではないかと思う。私はカトリック系男子校でキリスト教を知っているから、そう簡単にはわりきれない。「唯 物論」に関しては、後で又出てくるであろう。 (、)ここにおいても、「唯物論」(マルクシズムの)に関し、マルクスは、キリスト教的唯一神との対決が多かれ少なかれあった (、)削除 沖大法学第十四号 一 ノヘ
(Ⅳ)ここで、あえて「資」という字を使ったのは、労働者対資本家の対立という見方があり、初期の資本主義の体制の中では、個 人の資本家が多く存在し、まさに労働者と資本家の対立は大きかったと思われる。しかし、現代の、特に日本の場合に目を向け ると、資本家というのは誰かを確定することが難しいと思われる。すなわち、いわゆる大企業においては、多くは法人株主が多 く、個人株主が少ない。株主総会をリードするのは、経営者である社長とその重役である。又、その経営者も多くは、学卒の段 階では、ふつうのサラリーマン(労働者)として入社し、労働組合に入り段々と職制を上っていって非組合員となりその一部が 重役・社長等になることが多い。資本というものは、存在するし、資本主義経済ではあるけれども、そこに「階級闘争」がある ●●● かどうかというと、一部の人々が、それを主張するけれども、多くの人々はより現実的な認識を持っていると思われる。終りに 「階級」といっても、ある時点で、「時」をとめて、その時点で、資本家が労働者かというような区別をすることは可能であろ う。しかし、時系列的に観察すると過去の「封建制」の時代においては、西洋でも貴族・僧侶・農奴といった一生涯変えること のできない身分階級があった。日本でも士農工商といった身分制度があった。しかし、現在の日本の社会では、ある時は労働者 であっても、何かのキッカヶで事業をおこし、成功すれば大きな富を得るということがあり、資本家になることも可能である。 また、特に中小企業の経営者は資本も多くもち、経営者でもあるというような人々の場合、会社が倒産して資本家ではなくなり、 力 (坊)立法者意思に重点をおく考え方にしては、 (妬)立法者といった場合、日本では一般に(特に現在)、行政機関において、色々な社会的なニーズを調査して(その場合、法社 会学的な調査は重要な意味を持つであろう)、それに対応する法律案を作り、それが内閣より国会に出されて、国会において最 終的には投票等によって、新らしい法律が作られる。そこで、立法者と言う場合、主に、国会議員ということになるのであろう 2. (Ⅲ)』・国・句□ごHpHロョレ・言・ロロ囚g]の》閂zB罰。□□○国○三日○甸因oシ伊三国弓国。□(缶迂のQ)U・霊の←の曰く等参 ろうか。 (昭)削除 照。 であろう。日本のマルクシズムを標傍する人達は、そういう対決も必要とせずにマルキシズムを受け入れている人も多いのであ 法解釈方法論に関する一考察 |月、がある。 たとえば、津田利治「法は何処に?」『法学研究」第五八巻十一号、昭和六○年十 ■■■■■■■■。■ ブ池
その他、法哲学者、労働法学者、民法学者等の色々の分野の学者の論稿が多数あるが、今は、この位にしておく。 また労働者となる、といったような互換性がある。そういった社会での階級闘争というのは、闘争の相手方が流動的であるし、 あまりないのではないだろうか。これらに関連する資料として、西山忠範「日本は資本主義ではない』(一九八一年、三笠書房) が面白い。また、米国ではどうか、英国ではどうか、独逸ではどうかというと、それぞれの国の歴史的な違いにより、同じ資本 主義国といっても、色々と違いがあるであろう。また、現在ロシア連邦では株式会社組織に移行しようとしている。中国も資本 主義化する方向にいっているようである。 (蛆)『法学政治学論究(慶応大)』第六号二五頁以下参照。 (四)有泉亨「労働法学における解釈の問題」有泉亨著『労働争議権の研究」二九五七年、御茶の水書房。) (別)日本労働法学会編、『現代労働法講座I』、労働法の基礎理論、昭和五九年発行、総合労働研究所刊、一三四頁以下。 (Ⅲ)峯村光郎教授も、法解釈学における解決は、実定法規から客観的に妥当する法規的意味を理解する価値判断作用である、と述 べられる。峯村光郎「法解釈学と法社会学」『恒藤先生古稀祝賀記念、法解釈学および法哲学の諸問題』一頁以下。 (皿)言い訳はいいたくないのですが、沖縄の中だけでは、資料収集も思い通りいかず、研究条件がよくないのが実態である。今回 もある程度の資料を参考にしながら、執筆をした。本文中、また、注の中に引用した資料以外に目を通したもの、および読むべ き資料を若干列挙しておきたい。しかし、先程のべたような事情ですので、重要な文献を見落としているかもしれないので、大 変申し訳ないのですが、御寛怒願いたいと思います。 ①渡辺洋三、『法社会学と法解釈学』一九五九年、岩波書房。 ②碧海統一「現代法解釈学の方法」『岩波講座、現代法一五、現代法学の方法』三頁以下。一九六六年、岩波書房。 ③田中吉備彦「法の解釈における相対性と科学性」『法学志林』第五二巻第三・四合併合、一九五五年。 ④舟橋尚道「労働法学の解釈についての再論『法学志林』第五二巻第三・四号、一九五五年。 ⑤平井宜雄「戦後日本における法解釈の再検討(ご「ジュリスト・川九一六』九六頁以下、および、その後の達成。 ⑥吾妻光後「法学と社会学的方法」『|橋論叢三一一巻三号、一九七頁以下、昭和二九年。 ⑦外屋健一「労働性の解釈」「秀刊・労働法六五号』昭和四二年。一三○頁以下。 ⑧星野英一「民法解釈話序記」(有斐閣) ⑨⑧⑦⑥⑤④③②① 沖大法学第十四号 外屋健一「労働性の解 星野英一「民法解釈話 加藤一郎・利益衡量論 ’’○