道存地割 ・地名による
平城京の復原調査
平城 京条坊 の復 原 図 と しては
,早
く嘉 永5年
(1852)に北浦定政 の考定 した 「 平戎大 内裏坪割 図」が あ り,ま
た 明治40年(1907)には関野貞が,旧
陸地沢1量部2万
分 の1地図を拡大 した1万
分の1図に復 原条坊 を記入 した「 平城京及附近斑 田古今対比図
Jが
あ る。 ともに『 平城京及大 内 裏考』 (東京帝国大学紀要工科第 3冊)に
付 図 と して収 め られてお り,そ
れ らには文献 史料 にみ え る古 い地名や,
珂ヽ字名 も記入 され てい る。 いず れ も主 として遺存す る条坊大路 の痕跡を も と に,条
坊 制 に従 って平城京全体 を推定復原 した ものである。その うち北浦定政 の ものはなお衝 略 で,外
京 も含 まれ ていないが,関
野貞 の復 原 図 はかな り精密 で,今
日に至 るまで平城京復 原 図 の基本 と認め られ,広
く利用 されてい る。しか しこの関野 の復 原図 も
,な
お縮尺 の大 きな地形 図のない時期の作業であ ったため,小
路 に至 るまでの細部 を実地 の地割 と対照 して現地 に即 した復原を行 な うな どの ことは行 なわれ て お らず,図
上 におけ る計測推定復原に とどまってい る部分が多い。 しか るに,最
近 に至つ て平 城 京域 の開発 は急速 に進み,耕
地 の宅地化が無秩序 に行 なわれ るのに対 して,京
の条坊 の保 存 は若子 の大路 の復 原を除 いて全 く顧み られず, また京 内遺跡 の調査 も主要寺院以外 はあま り行 なわれ ていない。従つ て このままの状況が進 めば,平
城 京 は国費 に よる買上げ の実現 した平城 宮 以外,街
区 につ いては何 らの調査 も行 なわれゑ まま,ほ
とん ど消滅 して しま う恐れが大 き くな って きた。そ こで この よ うな平城京 の危機 に際 して
,一
方 では近 時精密 な地 図や航空写真 が 作成 され て きてい るのを利用 して,京
内お よびそ の周辺 に遺 存 してい る古 い地 割 を明治初年 の 地籍 図 と対照 しなが ら,綿
密 に図上 にた どる ことに よって,現
地 に もっ とも密着 した平城京 の 具体 的復 原図を作成 し,併
わせ て改めて字界 と字名 を調査 し,こ
れ に よって現時点 において能 う限 り詳細正確 な平城京 を図上に復原記録 して消 え行 く平城京に対処す る とともに,ぜ
ひ条坊 の保存復 原や京 内遺跡 の調査保存 に役立 たせ たい と考えた。 このよ うな意図か ら,さ
きに奈 良 市 に よって設け られ た平城京保 存調査会 の「 平城京復 原保存計画に関す る調査」 の一つ と して この作業を分担す ることとし,昭
和44・ 45年 度 に作業を行 ない,そ
の概要 は47年 に刊行 され た『 平城 京 の復 原保 存計 画に関す る調査研究』 のなかで報告 したが
,今
次 の朱雀大路発掘調査 の 予備調査 として も,さ
らに調査考察 を補充深化 させ るとともに,復
原 図の整備 を期 した次第 で あ る。2.方 法 と経過
方法 としては
,ま
ず 最初 に奈良国立文化財研 究所 が昭和 37年12月に撮影 した航空写真か ら図 化 した1000分 の1地図,ま
たなお 当時図化 され ていなか った部分 につ いては2000分 の1に拡 大 され た同 じ航空写真 と大和郡山市作成 の1000分 の1都市計画図, この三種 を基礎 図 と し,そ
れ3孝
的 目
1
■
に奈良市役所 (一部は大和郡山市
)保
管 の旧大字地籍 図 (明治22年作成のものを基本とする)を
用 い て,一
筆 ご との地 割 を改 めて確認 しなが ら記入 し,そ
の際地籍 図 と現在 の地割が変化 している ものは地籍 図 に従 って旧に復 し,併
わせ て小学名・ 小字界 を も記入す る こととした。 この作業 を左京・ 右京 。外京 。北 辺の京域内は もちろん,周
辺 の京北・ 京東・ 京南 の各条里区について も必要 な範 囲で実施 し,そ
の結果 に基づ いて平城京条妨地割 を復 原 した ものを,ま
ず8000分 の 1縮尺 の「遺 存地割 に よる平城 京復 原図 (未定稿)そ
の 1・ 2・ 3」 (青写真図)と
して ま とめ あげ た (その 1は45年2月 作成、その2・ 3は45年10月作成)。また別 に復 原 と遺跡 の究 引に資す るため平城京域 に関す る史料 を文献・ 文書か ら広 く鬼集 し て カー ドに要頂 を記入す る作業を併行 して進め ることとした。 こ うした調査はす でに大井重二 郎 の『 平城京 と条坊 制度 の研究』 で も試み られているが
,改
め て史料 を博捜 し,そ
れ に よって大路 。小路 の判別
,河
川流 路 の変 化 とそ の時期 な どを検討 し,以
上 の結果 を「 平城京関係史料 分布図 (末定稿)」 (未刊)と して集約 した。つづ いて昭和47年 に1よ平城京保存調査会 の中間報告 を記 した奈 良市企 画部企画課編『 平城京 の復原保存計 画に関す る調査研究』 の付 図 として
,以
上 の調査 に よる条坊地割 の復 原結果 を奈 良市役所 に よって新 たに作成 された2500分 の1奈良国際文化観光都市計画図に改 めて記入 し, これを1万分 の1に
縮 小 した ものを「 遺存地割 に よる平城京 の復 原」 と題 して収 めた。今回 の調査 は以上 の よ うな平城 京保 存調査会 に よる作 業 を継 承 して
,さ
らに復 原 図を補充整 備す る とともに,そ
の成果 の上 に立 って朱雀大路調査に関 して も考察 を加え,さ
らに広 く平城 京 の条坊 制や京 内遺 跡 につ いて も保存的 見地 か ら検討 を加 え る こ とと した。 そ こで これ までの 作業段階 では未完 で あ った奈 良国立文化財研究所 に よる平城 京域 の1000分 の1地形 図が,そ
の後 ほぼ京域全体 にわ た って完成 したので
,今
回はそれを全 面的 に基本 図 と して採用す ることと し,こ
れ に既往 の調査 に基づ く条1/J街路 の遺存地割,お
よび小学界・ 小学名な どを改めて記入 す るこ とと し,そ
のため奈良市役所 。大和郡 山市銀管 の地籍 図につ いて さ らに全 面的に検証を 加 え,ま
た史料 の追 加鬼集を も併わせ行 な った。そ して本報告書 の付 図 としては,条
坊衡 路 の 遺 存地割 を基本 図 に記入 した ものを8000分 の1に縮小 して収 め る こ とと し,こ
れ に小学名 お よ び蒐集 した文献 史料 にみ える地 名の うちか ら平城京 の復 原的考察 に資す るか とみ られ るものを 抽 出 して付 記 し,ま
た朱雀大路 と二条大路の断面図を作成 して加 えた。そ して こ うした作業 の 結果 を検討 しなが ら,平
城 京 の復 原 と遺跡につ いての考察 を進 めた久第 である。3.成 果 と考察
以上のような遺存地割・ 地名による平城京の復原調査によってえ られた成果の うち
,そ
の主 要な事項について以下概要を記 し,併
わせて若千の考察を付記す ることにするが, この調査研 究はまだ基礎資料が よ うや くほぼ整 った段階であ り,以
下の記述 も中間報告の域を出ない。 し か し今後の調査・ 保存にも関係するところ大 きいと考えるので,
この機会に概要を報告す ることとす る。
1
まず遺存地割を地籍図に即 しなが ら一筆 ごとに精密な地図上に記入 し,そ
れに基づいて条 坊街区を復原す るとい う作業によって,平
城京の全域がは じめて実際の土地に即 して具体的に復 原 で きた ことは有意義 な成果 と考 え られ
,そ
れ か ら学 術研究上種 々の問題が導 き出 され る こ とは もちろん,そ
れ とともに朱 雀大 路 を は じめ とす る平城京条12 制の復 原・ 保存 に関 して も貴 重 な基礎 資料 が え られ た と思われ る。 ところで現存す る地 割 が条坊区画 の痕跡 を示す場 合 の多 い こ とは,復
原 図をみ て も明 らか で あ るが, こ とに大路・ 小路 の道路敷 に面す る とみ られ る畦 畔 の場 合 は,そ
れが築地 の遺構 と一致す る ことが多 い。 この ことは平城宮周辺や,羅
城 門・ 西 隆寺 な どの発掘調査 で もす でに確認 され た こ とであ るが,今
回 の朱雀大路 の調査 で も,築
地 その ものは検 出 されなか ったが
,同
様 の関係 は実 証 された といえ よ う。2 この よ うに して京域全体 について条坊街区の設定状況を詳 しく検討す る ことが で きたが, そ の結果 は付 図に甥示 され てい る よ うに
,丘
陵 部 の多 い右京 に も予想外 に整 然 た る条坊 街区 の 存在す る こ とが 明 らかにな った。 と くに三 条・ 四条 は西京 極 まで,ま
た二条・ 五条 もそ の近 く まで街 区の痕跡が遺存地割 に認 め られ る。 この よ うな遺存地割か ら推定 され る平城京条坊 の設 定状況 は また別 に文 献 史料 にみ え る京 内条坊坪 の表記 の分布結果 とも一致す るか ら,平
城京 に おいて実際 どの程度 の範囲に街 区が設定 されたかは, これに よってほぼ知 りえた とで きよ う。3 この よ うに遺存地割に よって京全域 を復 原 した場合
,条
坊街 区 の全 く認 め られ ない のは右 京西辺 の ご く一部 であ る ことが 明 らか とな ったが,条
坊街 区 の認 め られ る部分 につ い て も,条
坊 の大 路・ 小路 の道路敷 が地割 と して 男瞭 に遺 ってい る場 合 と
,単
に条坊坪 の区画が1本
の畦 畔 と して しか認 め られ ない場 合 とが あ り,
しか も両者はあ る程度地域的に分かれて存在 してい る よ うにみ え る。こ うした地域的な差異が ど うして生 じたかは
,河
川 の氾濫 な ど後次的 な要素を も考慮 しなが ら慎重に検討 を加えなければな らないが,
ことに朱雀大路 の両側1坊分,す
なわ ち左京・ 右京の各一坊 は宮の南か ら南京極 に至 るまで
,大
路・ 小路 の道 路敷 が非常 には っき りと 遺 っ て い て,条
坊 制 の街区をほば完全 に復 原す る こ とがで きる点 は注意 を要す る。平城 官 の正 面 に当た る この部分が他 と異な って とくに この よ うな状況 にあることを,平
城京建 設時 に消け る何 らか の特別措置 と考 うべ きか ど うかは今後 の平城京研究 の課題 の一つ であろ う。4 道 路敷 と推定 され る地割 に よって大 路・ 小路 の幅員
,
とい うよ りも両狽J濤を含 めた築地心々間の距離 を地 図上 で概測 して知 ることが で きるが, これは遺存地割に よる
,
しか も地 図上 の 概測 で あ るので,場
合 に よっては ±lmほどの偏差 は認 めなければな らないだろ うし,正
確 に は発掘調査 の結果をまたねばな らないが,そ
の概要 は うかがいえ よ う。a.朱雀大路 朱雀 門か ら羅城 門 まで道 路敷 の地割 が遺 ってい るので
,そ
れ に よってほぼ完全 に復 原で きるが
,た
だ右京 の七条一坊三坪 か ら九条一IP 一坪 にかけてだけは,大
路西 側 の線 が前後 と途切れ,そ
の間だけやや西 に張 り出 した畦畔 の線が認め られ る。そ の部分以外,地
割 の明瞭に残 る部分では,幅
は等 しく約90mで ,延
喜式 の垣 心 々間28丈 ≒84mょ
り広 い。b.東一坊坊間大路・ 西一坊坊 間大路 坊 間に大路 の通 じてい るのは
,や
は り平安京 と同 じ く東西一坊 のみで,そ
の道路敷 は ともに官南か ら南京極 まで明瞭に遺存 してい る。 そ の幅は約36mで ,延
喜式 の10丈 ≒30mょ り広 い。c,東一方大路・ 西一方大路 東一坊 大路 は八 条 の半ば までほぼ道路敷 が遺 存 してい るが, 西一坊大路は現在県道奈良大和郡 山斑鳩線 として利用 されているに拘 らず
,道
路敷 の地 割 は部 分的に しか残 っていない。 しか しともにそ の幅は一坊坊間大路 よ りやや広 く,約 42mと
概測 で3δ
き
,延
喜式 の12丈 ≒36mょ りこれ もや は り少 し広 い よ うであ る。d.西二坊大路 。西三坊大路 二 条 あ るいは三条に部分的 に しか道路敷 の地割が遺 っていな いが
,
ともに27〜28mで ,一
般 の条 の大路 と同 じ幅員であ った らしく,廷
喜式 も条大 路 と同 じく
8丈
≒24mと
してぃ る。e.西京極大 路 西京極 の線 は付 図に示す よ うに僅か しか認め られず
,大
路 の痕跡 もな い。f.東二坊 〜東六坊大路 いかな る事情 に よるのか
,い
ず れ もほ とん ど道路敷地割 が遺 って いないので,確
定 的 な ことは いえないが,東
三坊大路 に関 しては不退寺西方 に幅約22mの
道路 敷地割 が存す る。 この部分 は発掘調査が行 なわれ,東
一坊大路東狽」濤 とそ の東 の築地 が地 割通 りに検 出 されたが,道
幅19m分
を 明 らかに したに とどま り,西
側濤には発掘が及ばなか った。しか し西二坊 。三坊大路 と同 じ幅を もつ可能性はあろ う。東四坊大路 は六条以南 は凍極大路 と な るが
,幅
約20mほ
どの道路歎 か とみ られ る地割を断続的に認め うるに過 ぎない。g。 東京極 大路 現在 の道路 は拡 幅 され ているので
,そ
の西縁 と東大寺転害 門築地線 との間 の距離 は正確 にはわか らないが,約 40m前
後 であ った と推測 で きる。延 喜式 は東京極 大 路 は10 丈≒30mとす る。h。 一条北大路 西大寺 の北 に幅約
20mの
道路敷 とみ られ る地 割が遺存す るが,延
喜 式 は北 京極路 を10丈≒30mとす る。 ただ し官 の北築地線 にそ って幅約56mの
遺 存地 割 が部分 的 に認 め られ るが, この幅はつ ぎに述 べ る官南面 の二条大路 の遺存地割幅 と一致す るので,い
ち お う道路敷 として検討す る要が あろ う。
i,一
条南大路 西隆寺 の南方,お
よび法華寺東方 の遺存地割 による と,他
の条大路 と等 し く約28mと計測 され る。延喜式は北京極 路 と等 しく10丈 。工 二条条間大路 一条条 間大路 の存在 は遺存地割か らは確認 できず
,文
献 史料 で も大 路 と も小路 ともみ える。 これに対 して三条条間大路 は西京極近 くまで道路敷地割が遺存 し,ま
た法華 寺 の南辺 な どで も認 め られ る。幅 は約
24mで ,延
喜 式 の10丈≒30mょ りこれ も狭い。 ただ し 東 院南面 では約34mとな ってい るが, これ は発掘調査 の結果,官
周囲に幅約10mの
嬬地 が存するため
,地
割 として遺 る築 地心 々間 の距離 が広 くな ってい るのであろ う。k。 二条大路 宮 の南面 では幅約
56mの
地 割が認め られ るが,発
掘調査 の結果 に よ って嬬地。側濤 な どを除いた路面幅は約
35mで
ぁ る こ とが知 られた。 しか しそれ以外 の部分には他 の条 大 路 と等 しい幅約28mの
地割が存 し,興
福寺 々域 の北限で もそ の関係が指摘 で きそ 多で あ る。なお延喜式では宮城南大路 を17丈 ≒
51mと
す る。ユ.三条 〜八 条大路 いずれ も朱雀大路 の東西 に遺存す る道路敷地割 の示す ところでは幅約
28mで ,延
喜 式 は8丈≒24m。 なお外京 の南京極 に当た る部分 の五条大路 において も如上 の事 実 が遺存地 割 に よって確認 で きる。m.南京極大路 左京 の部分 に断統的 に道路敷地割が遺存す るが
,そ
れ は幅約22mで ,他
の条大路 よ り狭 い。 しか し他 の条大路 とは構造 が異 な る点 を考慮す る必要 が あろ う。延 喜 式 は南 京極大路12丈 ≒36m。
ns
小 路 10m前後 の幅 の地割 を示す場 合が多 い。市庁舎建設予定地(左京三条二坊)発 掘調 査 では路 面幅約5m,築地心 々間約9mの
小路遺構が検出 された。延喜式 は広 さ4丈
≒ 12m。5 以上 の ご とく
,築
地 と築地 の間の道路敷 を示す と推定 され る遺存地割 に よって各 条坊 の大路 を復原 し
,
これを延 喜式 に規定 され てい る平安京 の条坊大路 と比較す る と,下
記 の よ うにな る。各大路間におけ る幅員 の相違状況 な ど両京一致す る点が多いが,幅
員 の数値 は概ね平城京 の方が広 い。 なお これ らの概測値 の間にあ る関係が あるよ うに もみ られ るが,そ
れ らを通 して 平城京街 区が いか な る尺度 に よって設定 されたかを検討す るのは今後 の課題 であろ う。一 条 北 大 路 一条 条 間 大 路 一 条 南 大 路 二条 条 間 大 路 官城南二条大路 三条〜八条大路 南 京 極 大 路
平安床 10丈 約30m 10丈 約30m 17丈 約51m 8丈 約24m 12丈 約36m
朱 雀 大 路 一坊 坊 間 大 路 一 坊 大 路 他 の 坊 大 路 京 極 大 路
平城京 平安京
約
90m 28丈
約84rrF約36m lo丈 約30m 約
42m 12丈
約36n約
28m 8丈
約24m約
40m 10丈
約30m平 城 宮
三 条
四 粂
五 粂
六 粂
七 条
八 条
九 条
暴 城 Fl 瘍
町
? ︲ 約28mJ 約24m 約56m 約28m 約22m
G つ ぎに条坊大路の位置 。幅員が推定で きると
,そ
れ に従 っ て京域,お
よび各条坊 の広 さを地 図に よって概測す ることがで きる。 まず朱雀大路 に おいて各 条 の間隔を計測す る と, Fig。14‑〔 1〕 の ご とくで
,官
北限 の築地心 よ り南京極大路南辺 まで は4778m,
これに官城北大路 か と推定 され る地割 の幅を加え,また羅城門築地心 までを計測す る と4858mとな る。 この数値 は 1条が平均約531mとな る こ とを示 してい るが
,
各 条の間隔に つ いてみ ると,実
際 は1条,ま
た は半条の長 さにかな り長短が あ り,こ
とに七条, と くにそ の南半条分は長 く,ノ (条 が逆 に短 か くな っていることが注意 され る。7 同 じよ うに京 の東西幅を三 条大路 で計測す ると
,朱
雀門中 心 よ り東京極大路東縁(東大寺転害門築地心延長線)までが373914 同 じく東四坊大路 中心 までが2128m,ま
た朱雀間中心 よ り西京 極 線 までは2157mで ,左
京 。右京 の4坊
分 を比較す る と,右
京 が長 く, 1坊
の平均距離 は左京が532.Om,右
京が539,2mとな る。Fig。14‑〔 2〕 は同 じよ うに各坊 間隔を三 条大路上 で図上計 測 した数値 であるが,右
京 の三 坊・ 四坊が とくに広 く,反
対 に 左京四坊が狭 くな っていて,右
京 が左京 よ り幅広 くな る原因 と な ってい る ことが知 られ る。平城 京 の条坊計画やその寸法につ263.0 2680 263,0 269,0 268.5 2645 267.5 2755 258.5 259.5 2650 2S2.0
5 ︒ . ︒ 獅 第 3 ︲ . ︒ 3 2 . ︒ 3 3 ︐ ︒ 4 3 ︐ C 脚 4 2 . 5 6 7 . ︒
一 C4〕
東 示一 極 束 六 坊大 路 東 五 坊大 路 東
三 坊 大 路 東 二 坊 大 路 東 一坊 大 路 朱 雀・ 大 路 西
一坊 大 路
C2〕
541t5 546.0 537.5
5300 53S.0 写985 5315 526.0 53'O S16 0 523 0Fig.14
条・坊間距離 の概測値〔1〕 朱雀大路上における条間距離の概測値
〔2〕 三条大路上における坊間距離の概測rl●
いては種 々論ぜ られ
,外
京 の東西方 向の寸法が短 いのでないか とい う問題 も提起 され ていて,この計浪1値もいちお うその傾向を示 してい るが
,そ
れ らの問題 も改めて こ うした復 原結果 の上 に立 ってよ虞重 に検討す る必要が あろ う。8 また京域 の条坊街区 は正 しい方格 に従 って計画 された と思われ るが
,詳
細 に検討す れば部 分的に若干の歪みが あるよ うで,た
とえば左京 の東南隅付近 は方格 に合致せず,朱
雀大路 中心 と東京極 間の距離 が, さきに述べた朱雀門中心 と東四坊大路 中心間の距離 よ り若干長 くなって い るよ うであ る。9 つ ぎに外京 は一 条が存在せず
,二
条か ら五条 までであ った とい うのが関野貞 の復 原以後定 説 とな ってい るが,付
図に示 した ご とく,一
部 に条坊 区画の痕跡 らしい地 割 が認 め られ る。 し か し,文
献 史料 ではや は り外京一条 の存在 を示す 史料は発見 されないので, この ことか ら直ち に/1‐京一条 の存在を主張す るのは 尚早か も知れ ないが,東
京極 大路 につ いてみ る と,そ
れが一 条南大路,すなわ ち東大寺転害 門 よ りもさ らに北に延 びていた ことが,天
平勝宝8歳
(756)東大 寺 四至図に よって知 られ るほか,現
状 で も地割 に認 め られ る。 またそ の起点 と考 え られ る奈 良 坂 町の三叉路 の地点 は,ち
ょ うど平城宮北限 の東へ の延 長線上 に位置す る。 この事実 は単に東 京極大路 だけ の問題 ではな く,外
京 も本来 は一条か ら始 まっていたのではないか とい う推測 を 強 くさせ る。なお外京五坊 の六条京極大路 の南 に も
, 1町
(坪)分ほ ど条坊制地割 の延長 らしい ものが存在 し,そ
れ が京東条里 と接触 してい る状況 が知 られ る。10
これに対 して右京北辺坊 の北端 には大路 の痕跡 を示す地割がな く,す
ぐ京 】ヒ条里 に移行 し てい る。11
遺 存地割・ 地名 を検討 す る こ とに よって,平
城 京 当時,京
の内外 を流れ ていた河川 の旧流 路 を復原す ることも可能 であ る。a.平城京 の東市 は天平勝 宝八歳(756)東市庄解 や知 恩院蔵 市図 な どに よって
,
左京八条三/Jの五・ 六・ 七・ 十・ 十一・ 十二 の6坪に位置す ることが知 られ てお り
,東
堀河 はそ の西辺,す
なわ ち同 じ八条三坊 の二 〜四坪 の東寄 りを や や斜 めに流れていた。 しか し現存地割 に よる限 り
,そ
の位置には東堀河 の痕跡 を認 め難 い。東堀河 に相 当す る佐保川 は現在 は五 条大路付近 か ら斜 めに西南に流れ,
朱雀大路 と七条大路 の交点か ら まっす ぐ羅城 門に向 って 南流 してい る が,こ
の流路は中世末以後 の もの らしく,そ
れ以前 の流路につ いては,遺
存地 割・ 小字名・ 文 献 史料 な どに よって,現
在 の流路 の少 し南 を同 じよ うな方 向に流れ ていた時期 のあ った ことが 推定 で きる。つ ぎに文献 史料 に よって知 られ る佐保 川 の動 向を参考 と して記 して お く。・ 左京三条三坊十二坪 は字「 石 ケ町
Jで
あ るが,
天文2年
(1533)の文 書 には「 字石 力町」の水 田につ いて「添上郡三条佐保川西従大道北」 と記 し,四
至 の東は岸 とあ るか ら, ここを佐撮 川 が流れ ていた時期 もあ る 〔東大寺文書〕。・ 右京六条二坊十五坪 の東 は仁和
3年
(887)に は大路 であ ったが,正
暦5年
(99り には河(佐保川)が流れ
,嘉
暦3年
(1328)に も東 は河 とみえ る 〔唐招提寺文書・東大寺文書〕。・ 左京七条二坊十二坪 の西 を建久
6年
(1195)に佐保河 が流 れ ていた 〔東京大学所蔵文書〕。・ 左京九条一方十六坪 の田地 につ いて
,永
仁6年
(1298)の記録に「 字辰 市 河西 ニア リ」 とあ る 39〔西大寺田園目録〕。
・ 左京九条一坊十坪 の東 は保 元元年 (1156)9月 の文書 に よる と
,小
路 で あ るが,寿
永2年
伍183)2月 の文書には川 と変わ り
,以
後建久2年
(1191)・ 建長6年
(1254)の文 書 に も東 は河 と記 され てい る 〔久原文庫所蔵文書・東大寺文書〕。b.西堀河 の流 路 はほぼ現在 の秋篠川 に当た り
,西
二坊大路 の1坪
西 を南流 す る。 秋篠 川が い まの よ うに八坊大路 にそ って東折 し,朱
雀大路上 で佐保川 に合流す るのは,慶
長元年 (1596)の 郡 山城外廻 り惣堀普請 に よるもので,平
城 京 当時 はそ のまま南流 して いた らしい。郡 山城外濠 はそ の旧流路を一部 に利用 した もので,さ
らにそ の南 には「 古川」 の小学名 が残 ってい る。な お秋篠川 は氾濫 して官 の西南隅を流れた ことがあ り,そ
の ことは地割 の乱 れ と「 谷 田」 とい う 小字名 か ら知 られ るが,発
掘調査 で も確 認 された。 この流 れ に関係す る ものであ ろ うか,そ
の南右京三条一坊十二坪 が「 字 鴨池」 。「 字鴨池田」 とよばれていた ことが
,
建久 元年(■90)の 文 書 〔東大寺文書〕な どに よって知 られ る。C.東四坊大路が八条・ 九 条 において東京極路 となっている部分 の東側 に接 しては 「 牛池」・
「 古池」 とよばれ る南耳ヒに細 長 い池
,「
西谷」 。「 池側」 。「 瓦 田」 。「 河原 田」な どの小学 名 や河川 の流路 であ った とみ られ る地割 が遺存 してい る。 これ らの点 か ら能登川 と合流 した岩 井川 は現在 は七 条大 路 を西流 して朱雀大路上 で佐保川 と合 してい るが,平
城 京 当時 は京外 を南 流 していたので あろ う。 そ して地蔵 院川 に合流す るか,あ
るいは さ らに南 下 して広大寺 池か らの流れ と合 して西流 していた とみ られ る。地蔵院川 の南には河川 の旧流 路 であることをは っき りと示す地割 と「 古川」 の字名 が遺 ってい る。 なお こ うした流路が 自然 の ものでな く平城京設 定 に伴 な う改造 であ った こ とは
,東
か ら西にのび る字「 西 山」「城殿 出」 の微 高地 を断ち切 って流れていた らしい ことか らも知 られ よ う。
さ らに菩提川 も大森 町付近 の古 い地割や
,南
北 に長 い字「谷」や長池 の存在か ら推 して,こ
れ も同 じよ うに平城 京造 営時 に東 四坊 大路 の1坪ほ ど東を南下 して岩 井川 に合す るよ うに掘開 された のではなか ろ うか。
こ うした京造営に伴 な う河川流路 のつ け替 えは平安京 の鴨川や長 岡京 の桂川 で も行 なわれた らしいが,その先例が平城京 にあった ことが これ らの事実 に よって明 らか になった といえ よ う。
d.京の東南隅 に当た る位置 に現在五徳池 とよばれ る池があ り
,
そ のゴヒに接す る字「 池 ノ内」を 含 めてかな り大 きな池 で あ った らしい。 この池 の位置 はち ょ うど長安城 芙 蓉 園 の曲江池 の所在 地 に当た っていて,平城 京 当時 か ら存 したか否 かが問題であ るが,この池 は 日本霊異記 にみえる 越 田池ではなか ろ うか。す なわ ち西大寺 田園 日録 に「 添上郡 南一条三十二三坪 内二段写昆者Aシリ」 とみ え るのは
,い
わ ゆ る京南辺条里 の うちで,そ
の坪付 と現存す る小学名 か ら推 して,五
徳 池 に接す る西南 の地 と推定 され,ま
た「字北道代」は付近 に「 京道」 とい う小学名 の存す ること か ら,中
ツ道 に関係す る と考 え られ る。従 って 「 字 コシタシ リ」(越田尻)の
地名か ら,こ
の池 を越 田池 として よい ので なか ろ うか。 なお弘仁元年(810)平城 上皇が川 口道 を とって東国 に 向わ ん として添上郡越 田村か ら引 き還 え した とい うのも,中
ツ道 を南下せ ん と したのである 多。 ま た 日本霊異記 に よる と,越
田池 の南,蓼
原里 には薬 師如来木像 を安置 した蓼原堂が あった というが
,い
ま五徳 池の南には「 堂 ノ前」「 瓦 山」 の小学名が遺 ってい る。e.やは り京 内を流れ る菰川 はは じめ 田村川 とよばれ
,
西堀河 とほぼ対称 の位置 を南流す るの孝0
で
,
は じめ東堀河 と して堀 開 された可能性 のある川 であるが,文
献 史料 では建暦2年
(1212)に 左京四条二坊六坪 を流れ ていたのが初見 である 〔筒井寛聖氏蔵東大寺文書〕。現在は六条大路 の北 で佐保り││に合流 してい るが,以
南 もノ`条 の半ば辺 りまで南流 の地割 らしきものが認め られ る。12
そ の他遺存地割 の状況 か らみて注意 を要す る とみ られ る地点 を若千指摘 してお く。a。 まず朱雀大路上 では,七条条 間路 との交点 において
,東
西 か ら菰川 と秋篠川 の分流 が流れ て きて,南
に対 して凸字状 の地割 を形成 してい る。6に述 べ た よ 多に,条
間間隔 の乱れ ている のは ここか ら南であ る。b・ 同 じよ うに羅城 門の 前 面 に も南京極路南縁 よ り大 きく張 り出 した地 割が認め られ る。 また そ の東西
,左
京 と右京 の九 条一坊五坪 の西南隅 お よび東南隅付近 か ら,京外廓線 に向か って斜 め の畦畔が東西対称的 に延 びている。C.朱雀大路 を中心 に対称 の位 置 にあ る左京・ 右京 の各六条一坊六坪
,
お よび五坪 の地割が,同 じよ うにやや特殊 で
,あ
るいは東西対称的 な何 らかの遺跡があ るのか も知れない。 なお平安 京 では京職が三条一坊三坪,鴻
臆館が七条一坊三坪 にそれぞれ左右京対称 的 に位置す る。d.左京九 条三坊十二坪 の南,南京極 の線 に南に突出 した畦畔が あ り
,そ
こか ら京南条里 の起 線,あ
るいは地蔵 院川 まで,
幅約28mの
縦 長 の地割がつづ く。 珂ヽ字名 は北 か ら「上 ツク田」「 中 ツク田」「 下 ツク 田」 お よび「 渡戸」 であるが
,「
中 ツク 田」 の東西 には「 古,││」「 樋詰」が あ り
,こ
の地名が 旧河道 であ る可能性 を示 してい る。 しか しこの地割 はやや細 ま りなが ら,人 条三坊十坪
,す
なわ ち東市 の中まで断続的につづ いてお り, fで
述 べ る中 ツ道 との間隔が約 1里(=5町 )で
あ るので,河
道 か否 か の確認が必要 である。e.左京南京極 と京 南条里 の起線 との間には京南辺条里 とよんでい る特殊 条里区があるが
,
そ の南北長は条里制 の4坪
(4町)余
であ る。 この最南列 の坪 は維長 で, 1町
に余 る部分が横長 の地割を形成 してい る部分 もあ るが,そ
の一つに「 道代」 の小字名が あ り,ま
たその少 し東 に は「 大道 ノ上」 の小学名 があ る。 この部分にそ うした東西の大道が通 じていたか どうかは, こ の特殊条里区 と京南条里 の起線 の問題 とともに さ らに課題 として検討 を要す る。f.五徳 池 の西 南 に幅約
22mの
縦 長 の地 割を もつ宇「 京道」があ り,その南は「 ハサマ」「 橋 本」「 浮世橋」 とつづ く。 これ は中 ツ道 の遺 存地割 とみ られ
,そ
の幅員 は今回検 出 された下 ツ道 の 幅 に近 い。g.平城京 の東へ張 出 した東院地区 の北部 には,法幸寺 と内裏 を結 ぶ幅約
30mの
東西 に廷 び る道路敷 らしい地割が あ り, またその北1坪をへだ てて も東西 の道路 痕跡 らしい ものが 認 め ら れ
,こ
れ らは左京一条二坊 の条坊区画 にはぼ合致す る。 また これ らに直交す る南北の小路 らし い地割があ るが,そ
れ は少 し西 にずれ るよ うである。 いずれ もこの地域 の性格 を考える上 で検 討 を要す る。h.秋篠川 か ら西市推定地 を横断 して西 にのび る幅約
40m前
後 の地割 が あ るが,
これ も注 目さ れ る。13
つ ぎに小字名,あ
るいは文献史料 にみえ る地名か ら推定 され る遺跡 につ いて,若
千 の点 を 指摘 してお く。a.左京四条二坊九・ 十・ 十五・ 十六坪 は字 「 田村川」 であるが
,
長徳4年
(998)諸国諸庄 田 地注文定 〔東大寺要録〕 では同十二坪 と五条二坊九坪が「 田村地」 で,そ
の一域 に藤原仲麻 呂7ヱ
の田村第,消 よび田村宮のあった ことが推定 され る。また延喜
2年
(902)太政官符を勘案すれば, 五条二方九坪は園地,四
条二方十二・ 十一坪が日付官・ 田村第であった らしい。なおつぎの14 のC参照。b.左京三条四坊十一 。十四坪は字「 牛屋」で, 付近に「 宮前」「石町」「金池」な どの地名 がある。右大臣藤原是公は牛屋大臣 とよばれていたので〔公舜,補任〕
,そ
の私第址か ともみ られ るが,是
公が右大臣 となったのは延暦元年(782)で ,その翌年には田村第に住んでいたことが明らかなので
,な
お検討を要す る。c.右京二条二方の約
7坪
が字「 大臣」で,永
仁6年(1298)西大寺 田園 目録にもその十一 。十四 坪が「 字大臣院」と記 されていて,誰
かの大臣の私第があった らしい。公卿補任によると左大臣 橘諸兄は西院大臣 と号 した らしく,同
じ田園 目録によって秋篠川を「 サ イ河」(西院川・道祖)││か)とよんだ ことが知 られ るので
,あ
るいは橘諸兄の邸が付近にあったのかも知れない。d.右
京三条一坊十三坪・ 同三条二坊四坪は字「斉音寺」 とい う。 そ の うち四坪か らは古瓦が 出土す るとい うが,斉
音寺は藤原清河 の家を寺 とした済恩院の後身であろ う。 とすれば付近に 藤原清河の邸があった ことになるが,一
説は唐招提寺 の北をその遺跡 とす るので,再
考を要す る。なお大字名 として遺 る「興福院」は内大臣藤原良継の家を捨てて寺 としたものの後 とみ ら れ,そ
のことは公兜I補任が良継を弘福院大臣 とよんだ と記 していることか ら推定 される。興福 院の遺跡は左京四条二lyJ―十坪付近にあるらしい。なおつぎの14のC参
照。e,法華寺 の東,一条南大路の南 と北に「堂 ノ前」「堂 ノ後」の字名が遺 っているが
,延
暦憎録や続 日本紀に石上宅嗣が住宅を捨てて阿閥寺を建て
,そ
の東南隅に漢籍を蔵めた芸亭院を造 った とみえるその追跡を,こ
の付近に推定する説がある。f.行基年譜による と菅原寺の西の岡に長岡院があったとい う。 西大寺 田園 目録によると
,菅
原寺の西
,右
京三条四坊九坪は「字法陀寺」 とい う。なお公卿補任に左大臣藤原永手は長岡大 臣 と号 した とみえる。g.建
長3年
(1251)西大寺検注 目録に よると,
右京一条北辺四坊三坪 は「字本願 ノ池 シ リ」 と い うが,そ
こには称徳天皇山荘跡 と伝え られる庭園遺跡があ り,そ
の西方に「 宇スケノ池」の あることが西大寺 田園 目録によ り知 られるので,諜
原武智床 呂が詩宴を開いた習宜別業 もその 付近かも知れない。h.西大寺 田園 目録に よると,左京九条三坊四坪は「字辰市 ノ南ノ`鳥」
,左
京九条四坊二坪は「字ホツ ミ堂」 とい うが
,そ
れぞれ 日本霊異記にみえる服部堂 と穂積寺の所在地 と推定 されて│ヽる。
三
.左
京九条六坊五 。十一・ 十二坪にかけて字「榎葉井」が存 し,そ
の西に1坪ずれて「五 ノ 坪」がある。永承
6年
(1051)文書によると,
左京五条六坊五坪は東大寺佐伯院領であ り〔股野 家蔵東大寺文書〕,また文治2年
(1186)文書では,そ
の坪は「 字佐伯院」とある 〔大橋文劃 。この地 については天平勝宝9歳
(757)の左京職勘文 〔随′b院文書〕に絵図があって,
一般に五条六坊十 一〜十三坪 と五条七坊四坪が佐伯院領で,五
条六坊十四坪が井戸のある大安寺菌で,同
五坪に葛木寺があった とみている。 しか しその井戸を「榎葉井」 とし
,ま
た五坪が「字佐伯院」であ った とす ると, 1坪
西にず らせて五条六坊六・ 五・ 十二・ 十三坪を佐伯院領,十
一坪を大安寺 薗,四
坪を葛木寺 とした方が矛盾がない。絵図にある南北道は少道で,東
六方大路 とは記 され孝2
ていない し
,葛
木寺 を四坪 とみれば,そ
の真南に字「 葛木」が存す る ことになる。ユ 右京西南隅 の宇「 植槻筋」 は殖槻寺 の遺称地 とみ られ るが
,
寺 址 はそ の北 の宇「 北 田中」付近 と推定 され て い る。
14
そ の他 の小学名 に関 して注意 され る点 を列記 してお く。a.平城宮 の北方宇「 門外
Jの
北,下
ツ道延長線付近 に「衛 門戸」,左
京三 条三坊 五・ 六坪 に「 衛 門殿 」 の小字名 が遺 ってい る。
b.左京三 条二坊九坪 に「 大蔵」
,左
京 四条四坊十 。十五坪 に「 下蔵 町」「 上蔵 町」 の小字名 が遺 ってい る。C.唐招提寺 と薬師寺 の間に「 大納言」
,
そ の東南,右京六 条一坊 に「 大保」(右大臣か)の
小 学名があ る。d.左京三 条一坊 の字「 ニブ」 はそ の位置が平城官壬生門の南 に当た ることか ら
,「
ミブ」の転化 ではなか ろ うか。
e。 田村官推定地 の左京四条二坊十三坪 の西辺は「朱雀 田」 とよばれ,宮南門 との関係が想定 され るが 〔京都大学所蔵東大寺文書〕
,
右京 四条二坊十 四坪 に も 「 字朱 雀 タイ」 の地名が存 した〔西大寺田園目録〕。付近 に済恩院や弘福院があ った と伝 え られ るので注 目され る。
f.右京二 条四坊十三坪 は西大寺 田園 目録 に よると「 字法世寺
Jで
あ り, 一帯は字「 法専寺」とい う。付近 か ら複弁八葉蓮花文軒丸瓦 を出土す る。
g.疋田に字「 京 内」 があ るが,その地 は京域外 に属す る。
15
朱雀大路 に関 しては薬師寺 黒草紙 に左京六条一坊一坪 の地 の西 は「 朱雀」とみ え るのみ で, 朱雀大路 の称 呼 はあ ま り伝 わ らず,他
は下 ツ道 として史料 にみえ る。す なわち永仁6年
(1298) 文書に右京六条一坊 四坪南大路辻合 の地 の東 は「 下野道」 とあ り 〔東大寺文書〕,同
年 の西大寺田園 目録 に左京七条一坊三坪 の地 につ いて「 下津道 ノヒラフサ西」 とあ り
,さ
らに右京八条一坊三坪 の地 につ いて「 下津道之流」 とあ る。 なお左京五条一坊十二坪 の地 につ いての「 東 ノハ シ下津道 ノ東 カケツイチ」 とい う記載 は捨のままでは実情 に即 しない。
16
なお坪 内の地割 につ いて も,詳
細 に検討すれば,宅
地割 の資料 が え られ るであろ う。基本 的 に十字 に四分 した地 割 が比較 的多 い。 また宅地 の畠地化,さ
らに 田地化 の時期 につ いて も文 献 史料 に よってあ る程 度把握 で きる。 .17
大字界・ 小字界 は複 雑 にな るので付 図に表記 で きなか ったが, これ また条坊区画を踏襲 し てい る場合が多 く,条
坊復 原 の資料 として重要である。以上は遺存地割・ 地名による平城京の復原調査の過程において着 目された事項の うち主要な ものを略記 し
,付
図に対す る若干の説甥をも兼ねたものであるが,忽
々の間におけ る考祭であ り,資
料の蒐集検討 も不十分であるため,な
お遺漏が多 く,あ
くまで中間報告の域を出ていな い。 しか し繰 り返 え し述べたように, この作業によって平城京 の全体像がかな り細部 まで実地 に即 して具体的に明 らかになったので,今
後はこの結果を平城京の保存調査にできるだけ有効 に活用 して行 くことが要望 される。 とくに この調査は昭和37年撮影 の航空写真を図化 した地図課
′ 仕
を基本 とし
,付
図 もその地図上に平城京の遺存地割を記入 したため,そ
れはあ くまで昭和37年 現在の状況を示 した ものであることを留意 されたい。いま同 じ結果を昭和44年12月撮影の航空 写真を図化 して作成 された奈良国際文化観光都市計画図に転写 してみると,そ
の間における変貌
,つ
ま り開発 に伴な う急速 な平城京の破壊に驚かざるを得 ない。 ましてそれか らすでに5年
をへている現在では,開
発はいっそ う進み破壊 も著 しい とみ られ る。 このような現状に対 して は,ま
ず今後は平城京を無秩序な開発に委ね ることな く,
こ うした条坊「
‐llの具体的な復原結果 を
,外
京つ ま り旧奈良市衡を含めて,最
大限に都市計画の衡路計画に盛 り込む ことが必要であ り,そ
うした ことの基礎資料を得 るためにも,衡
区の状態を典型的に把えることを 目的 とした 発掘調査を,せ
めて条方 の1坪
分を単位に早急に行な うことが望 まれ る。幸い京内の調査は今 回の朱雀大路は じめ市庁舎建設予定地な どの発掘調査によってよ うや くその緒についた感があ るが,今
後そ うした調査の積み重ねによって条坊衡区 の保存,京
内遺跡の調査が進み,今
回の 調査を含めて,平
城京保存調査会以来私たちの続けてきた作業がいっそ う実 りあるものとなることを望 んでや まない。 (岸
俊男)
(付記) 今回の調査には狩野久はじめ