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      社会原理としての能力主義  (2)イデオロギーとしての能力主義

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坂 本

      目 次 はじめに 一学校の機能と能力主義一

1.能力主義教育政策と教育学の課題 2.いくつかの「能力主義」批判  (1)教育における能力主義と

      社会原理としての能力主義  (2)イデオロギーとしての能力主義

3.能力の物象化と「教育的価値」法則  (1)社会原理としての能力主義の問題       一マルクス経済学の視座一  (2)労働力価値の再生産と教育  (3)教育社会における能力主義

      一学校教育と「教育的価値」の生産一

(4)労働力の市場への投下とその形態 4.能力主義の二重構造

はじめに 一学校の機能と能力主義一

 教育政策を分析する場合、まず教育政策と学校の社会 的機能がどのような関係にあるのかを問題にする必要が あるだろう。はたして、国家の教育政策は学校の社会的 な機能をどの程度規定するのだろうか。例えば国家の教 育政策としての「能力主義教育政策」は、「教育の自由 化」とどのような関係があるのだろうか。国家による教 育統制がなくなれば、また教育における「能力主義」も なくなるといえるのかどうか。

 さらに、次のような問題も提起できよう。学校は本来、

人間の能力の発達の不平等を、教育の完全な機会均等の 実現によって克服するものであり、国家の教育政策がこ のような精神一すなわち憲法・教育基本法の精神一に基 づけば、今日の教育制度のもとでも「能力主義」は克服

されるといえるのであろうか。

 このような問題の提起は、これまで十分検討されてき たことはなかったように思われる。日本の教育政策をめ ぐる問題は、もっぱら「国家」の教育統制とそれを土台 にした能力主義教育政策に焦点化されていたからである。

 しかし、一方でボウルズとギンタス(Bowles&Gin−

tis, Schooling in Capitalist America,1976)やジェンク スら(Jencks, et. aL,1nequality,AReassessment oノ

the Effect O/Famity and Schooling in America,

1972)のアメリカの研究がもたらした結論は、教育の場 をいかに平等にしても社会的な不平等は解消しないとい

うものであった。つまり、経済的階級や社会的階層は、

教育政策に掲げられる理念に関わりなく学校を通じて再 生産されているというのである。これらの見解は特定の 教育政策の結果として出されたのではなく、資本主義社 会における学校の機能として語られている点に注目する 必要があろう。

 これらの研究から学ぶ点は、教育政策・制度研究を社 会的・経済的諸範疇から再度とらえ直す必要性があると いうことである。社会的不平等の克服をめざす新しい教 育政策・教育制度論の構築は、社会と教育との関係をも

う一度とらえ直す試みから始めるべきであろう。

1.能力主義教育政策と教育学の課題

 日本の高度経済成長をその労働力供給という立場から 支えていたものは、いうまでもなく能力主義教育政策で あり、その政策を押し進めた中教審路線であった。この 能力主義教育政策に対して、反体制的な教育運動は、憲 法・教育基本法理念を中軸にした国民の教育権利理論と 教育実践における人間的・教育的価値の実現を志向した。

しかし一方で能力主義そのものは、80年代以降の低経済 成長時代に入っても一向に衰えを見せず、むしろますま す社会全体に浸透しつつあるように思われる。その典型 は、前期中等教育における偏差値による「輪切り」教育 であろう。つまり、後期中等教育への進学率の増大とと もに、能力主義は一部の選ばれたものたちによる競争原 理としてだけではなく、学校教育全体を包括する選別原 理として機能するようになったのである。

 以上のような状況に対して、それまでの反体制的教育 学には、次のような理論的・実践的課題が生じたと考え

られる。

 まず第一に、理論上「国民教育運動」を一つの理念の もとに統合したために、その背景にある国民諸階層の多 様な教育要求のあらわれ方を分析することを困難にして

しまったことである。つまり、「教育要求」という概念を

ある種の価値的理念と結び付けて理解することによって、

(2)

そのような「しんの教育要求」と皮相的にあらわれる

(たとえば進学競争にあらわれるような)「ゆがんだ教 育要求」という二項対立図式を作り上げてしまった。こ のような観点からは、「現実の教育要求」がどのような 社会的メカニズムによって形成されるのかという分析は 十分なされてこなかったといえるだろう。

 第二に、その結果、高度経済成長以降の日本の教育政 策分析のための理論は十分には発達しなかった。このこ とは、世界的不況と円高による日本経済の停滞・不況の なかで進められた行政改革・民営化の推進に象徴される

「新自由主義」と、その教育政策への影響としての臨教 審の中等教育における「教育の自由化」の主張という局 面に際して明瞭なものとなった。つまり、日本の経済界 にとっては、労働力の再生産は国家が教育に介入しない 教育制度のもとでも可能である、あるいはこれからはむ しろそのような制度のもとでこそ労働力を作り出さねば ならないということを表明したことを意味するからであ る。このような経済界の教育要求の質的変化を十分には 見通すことができなかった。

 第三に、国民の多様な教育要求と経済や社会の変化に よって生み出される資本の教育要求との合致・矛盾を十 分構造的に分析できないことから、教育実践・運動の方 向性もまた明確に指し示しにくくなった。能力主義があ たかも自然法則であるかのように学校や社会全体に浸透 した結果、学校教育に焦点化された教育実践だけでは社 会変革への見通しがつけられないのである。その結果、

たとえば、子どもに確かな学力を身につけさせるという 地道な教育実践が能力主義そのものに対するラジカルな 批判にはならないとさえ感じられるようになった。(た

とえば、「到達度教育評価」運動の不振・不人気)

 ここで挙げたいくつかの教育学上の課題は、今日の教 育社会の分析が社会全体の中に位置づけながらなされな ければならないことを物語っていると考えられる。より 学校教育の教育諸実践に即していうならば、子どもの能 力の発達の保障という実践上の課題は、能力とその内実 が社会の変貌によってたえず変化しつつあるということ を前提に追求されなければならない。しかし、そのよう な能力およびその内実が規定されるのは、社会全体の構 造の中においてである。国民諸階層・諸階級とその教育 要求とも関係においても同様のことが指摘できるであろ う。つまり、国民の教育要求や発達保障の理念を自明の 前提とするのではなく、その前提としてそれを規定して いる背後の社会構造を分析の視野にいれることが必要で あると考える。

 臨教審以後の、生涯教育政策を新たな軸とする国家の

能力主義教育政策は、どのような論理に基づいてどのよ うに変化しつつあるのか、また、それに対抗する教育運 動・教育実践はどのような教育学理論を土台とし、どの

ような方向にむかうべきなのか、これらの理論的課題を マルクス主義の立場からトータルにとらえるための理論 上の基礎作業が本小論の課題である。

2.いくっかの「能力主義」批判

(1)教育における能力主義と

        社会原理としての能力主義  戦後の国家の教育統制に対立する国民教育学による

「能力主義」批判の論理は、次の堀尾輝久の言葉に代表 されるであろう。

   総じて、憲法二六条の、国民の教育を受ける権利   と教育の機会均等の精神を、国家の教育権と社会の   「能力主義」再編に抗し、社会正義を実現するため   の教育原則〔教育における正義の原則〕としてとら   え直し、その原理にもとついて、教育実践と教育制   度、教育行財政の質が問い直されねばならない。1  つまり、教育の私事性原則のもとで国家の教育統制や 社会の能力主義を排除し、学校教育を「教育正義」を実 現していく場としていくということである。堀尾はこの 論理の筋道の源泉を憲法に体現された近代的理念に求め

た。

 しかし、このような能力主義批判の論理に対して、例 えば後藤道夫は「結局のところ教育の領域内部の論理に よっておこなわれ、社会的処遇原則としての能力主義・

競争主義にたいする原則的な批判と接合されていない」2 と批判する。このような批判がなされるのは、社会原理 としての能力主義は、国民諸階層の教育要求を介して学 校全体をおおっているという現実に対して、堀尾流の理 念的能力主義批判は何も説明できないか、あるいは論理 の接合性を保つために説明を放棄せざるを得ないからで ある。また、教育における能力主義批判としては一定の 批判原理にはなりえても、社会原理としての能力主義批 判としては、社会構造全体の科学的な分析視点を欠いて いるために、あまりにも抽象的・観念的であるという批 判は免れないという問題を含んでいるからである。

 後藤は、能力主義=経済の論理に対抗する「人間」の 論理は、「教育」に固有な論理として主張されるべきで はなく、「社会のすべての領域での新たな文化と生き方 をもった人間像の集約として構成されるべき」3である という。筆老は、この立場に基本的に賛成する。しかし、

後藤の議論では、彼のいう「社会的処遇原則としての能

力主義・競争主義」とは何か、その分析をどのように行

(3)

うか、またそのような能力主義・競争主義が「教育の領 域内部」とどのように関係するかという問題は残された

ままである。

 つまり、後藤はあくまでも「能力主義批判」の論理と して堀尾理論をその不十分さゆえに批判するのであって、

「能力主義」の一般理論を科学的に明らかにしないなら ば、その批判の根拠も科学的なものとはいえなくなって しまうだろう。この理論の構築は、社会原理としての能 力主義がいかなるメカニズムで社会全体に浸透するのか、

学校教育にはいかなる形でその独自な「能力主義」を形 成するのか、そして能力主義それじたいがいかにして社 会構成体の中で再生産されるのかということが、社会科 学の問題として検討される必要があるだろう。

(2)イデオロギーとしての能力主義

 能力主義を社会の側から経済制度の秩序維持のための 特殊なイデオロギーとしてとらえる論者の中にボウルズ とギンタスの理論をあげることができる。次に彼らの

「能力主義」理解を検討してみよう。

 彼らはrアメリカ資本主義と学校教育』という著作の 中で、能力主義を「専門技術主義」と呼び、それは「経 済は技術的な制度としてとらえられ、労働の成果は、技 術的な能力によって決定される」4という考え方として 説明される。

 この専門技術主義=能力主義の考え方によると、経済 的な不平等は、基本的に知的、身体的能力やその他技能 が不平等に配分された結果だということになる。一方、

学校は労働者に教育の機会均等を保障することによって、

能力の不平等を是正するものとして認識されることにな

る。

 しかし、彼らは次のようにいう。

   一見客観的で、能力主義的なアメリカにおける教   育の選抜・評価制度は、効率性や合理性、公平性と   いう抽象的概念に対応したものではなく、経済的不   平等の正当化と不平等な労働役割への人員配置の円   滑化とに対応したものである。5

 彼らによれば、学校教育の結果としての専門技術的な 能力によって経済的な不平等が生まれるのではなく、逆 に経済的な不平等を正当化する機能を学校教育が担って いるということになる。経済的不平等を再生産するため に、学校が行うことは能力(特に認識能力)の形成では なく、生産における社会関係に対応した人格特性を形成 することである。彼らは「認識能力は決して重要な要件 ではなく、じじつ、認識能力によっては教育と経済的成 功との関係をほとんど説明できない…・能力主義学派が、

生産の技術的関係ではなく、その社会的関係に注目して いたならば、社会的統合、平等化、人格的発達という教 育の機能の斉合性を主張するさいにもっと慎重だったは ずである」6という。つまり、彼らは学校を経済制度にお ける「社会的関係」の再生産の場であるととらえた。そ して能力主義は、学校の平等主義と対になって、学校が 経済制度における不平等と社会的関係を再生産している 事実を隠蔽するイデオロギーとみなされているのである。

 ボウルズとギンタスのいう専門技術主義=能力主義理 解とその批判の仕方には、次のような疑問がある。

 彼らは専門技術主義=能力主義を特定能力(特に認識 能力と知能)しか視野にいれておらず、社会関係の形成 という側面を脱落させていると主張するが、逆に彼らは 社会関係の形成という側面のみを強調し、能力形成の側 面を故意に軽視する。彼らの能力主義批判の手法は、認 知テストの成績やIQが経済的な成功となんらの相関関 係も持たないことを統計的に示すというものである。7  しかし、この証明によって専門技術主義=能力主義そ

のものを批判したことにはならないであろう。なぜなら 彼らがここで証明に用いている認知テストや知能テスト それ自体が、「教育社会」の価値体系の基準として存在 するのであって、専門技術主義=能力主義のいう専門技 術的能力とは異なるからである。この点について彼らは 次のように述べる。

   仕事にともなう知能需要はきわめて限られていて、

  しかも教育制度が生みだす技能は十分変化に富んだ   ものであり、職場で新たな技能を身につける可能性   もまた十分大きいため、人種〜性、性格、資格など、他   の基準にもとついて一定の職場に採用される人々に   とって、技能の差は経済的にほとんど意味がない。S  ここで彼らは、教育制度が「十分変化に富んだ」技能 を生み出すことを認めながら、技能の差は経済的に意味 がないと述べている。しかし、この言い分には統計的・

理論的な根拠が何も示されていない。

 つまり、ボウルズとギンタスは、社会原理としての能 力主義を批判するために「教育社会」における能力主義 のイデオロギー性を証明するという筋違いの方法を用い ているのである。ここで証明されるのは、教育における 知能テストや認知テストの成績が経済合理性を持たない

という事実にすぎない。もし、社会原理としての専門技 術主義=能力主義を、経済的不平等を隠蔽するイデオロ ギーとして批判するならば、まず教育制度が作り出す

「十分変化に富んだ」技能や職場で身につける「新た

な」技能と労働者が手にする賃金との間に何の相関関係

もないことを証明しなければならなかった。

(4)

 彼らの理論の問題点は、能力主義を資本主義社会に貫 徹する物質的基礎を持った法則の意識的反映として見る のではなく、事実を隠蔽する特殊イデオロギーとしてと らえた点にある。社会原理としての能力主義は、労働力 商品の需給を支配する価値法則を物質的な基礎としてい る。この能力主義イデオロギーを批判するためには、資 本主義社会の原理・法則が人間の諸能力・人格を物象化 し、商品として再生産させているという物質的基礎を明 らかにしなければならない。

 また、教育制度について彼らは「教育制度が、経済制 度のなかに若い人々が統合されてゆくのをたすけること ができるのは、教育の社会的関係が生産の社会的関係と 構造的に対応しているから」9だと主張する。この「対応 原理」によれば、学校で再生産されるものは、被教育者 の人格特性形成を通じた「社会的関係」である。ここで も能力形成という観点は、背後に押しやられているとい

える。

3.能力の物象化と「教育的価値」法則

(1)社会原理としての能力主義の問題         一マルクス経済学の視座一  能力主義は、それが一つの経済政策として採用された

場合は「人材開発政策(マンパワーポリシー)」とよばれ る。それを支える経済学が「人的資本論」である。この 人的資本論を思想的な方法によって外在的に批判するも のは数多くあらわれた。しかし、不思議に経済学自身

(とくにマルクス経済学)によって内在的に批判すると いうことはほとんどなかった。

 労働力の商品化を資本主義の本質と見ると同時に、そ のこと自体に資本主義の危機があらわれる要素が含まれ ると強く主張したのはマルクス経済学の中でも宇野派と 呼ばれる人たちであった。たとえば、伊藤誠は恐慌論に おける「労賃上昇説」は「資本主義的生産の矛盾の根源 を、商品生産物の需給の不一致にではなく、労働力の商 品化の無理にあるとみている」1°という。

 つまり、こういうことである。資本主義は、人間の諸 能力を実体とする労働力を商品とすることによって、労 働力を唯一の商品としてそれを売らざるをえない労働者 階級とその労働力を購入して剰余価値を搾取する資本家 階級を作り出した。労働力は、価値を生産するという使 用価値を持った唯一の商品である。しかし、一方で労働 力商品は他の商品のように足りないからといってすぐに 市場原理によって供給されるわけではない。資本主義の 発展に伴って必要労働力は加速度的に増大するが、資本 蓄積の結果、たとえ労賃が上昇したとしてもそれに伴っ

て労働力の供給は他の商品と同じように増加させるわけ にはいかない。そこに資本主義社会の潜在的な危機の構 造があり、恐慌の一因があるというわけである。

 しかしながら、資本主義社会はこのような矛盾を本質 的に内在させつつも発展してきたのも事実である。とり わけ戦後日本では、西欧先進諸国が慢性的な経済不況に 苦しめるさなかも数々の不況を乗りきり、経済発展を続 けてきたという事実がある。この事実はどのように説明 されるのだろうか。この点はマルクス経済学でも十分検 討されているとはいいがたい。

 この場合、資本主義がその発達の高度化とともに学校 をつうじてより良質な労働力供給を求めるようになった

ということが決定的に重要であると考えるべきであろう。

それが戦後日本においては「人材開発」という経済界の 教育要求を背景にした中教審路線であり、それに続く臨 教審路線であった。資本主義社会が潜在的に内包する危 機を管理し、乗り越えるためには、国家的規模による良 質な労働力形成ということが不可欠となる。国家政策と しての「人材開発政策」は、教育制度を統制することに よって「労働力市場」の教育要求に応えたのである。

 資本主義社会における学校教育制度は、労働力の使用 価値を管理するシステムである。また、資本主義社会に おいては、人間の諸能力が労働力価値の実体であるとい うことから、社会原理としての能力主義とは、労働市場 を前提とした労働力商品に内在する価値法則そのもので はないかといいうるであろう。ここでいう能力、具体的 には「学力」やその他の実際的能力およびその統制能力 を含んだ労働者全体としての人格は、労働力商品の「使 用価値」であり、賃金はその「商品価値」である。この 具体的な諸能力およびその統一体としての人格は、現実 の生産現場においてのみ「有能」であるか、「有能」にな りうるかどうかが「測定」されねばならない。しかし、

現実にはこれらの能力そのものを客観的に測定する唯一 の尺度は存在しない。そのかわりに「企業の査定」や

「学歴・学校歴」、「職歴」、「資格」、あるいは「家柄」に いたるまでがその能力そのもの、あるいは能力の「訓練 可能性」(レスター・サロウ)の尺度として機能する。特 に「学歴」と「職歴」は、もっとも社会的に流通してい る尺度である。

 このように、交換価値を持った商品として人間の諸能 力および人格があらわれ(人格の物象化)、生産の効率 化原則にもとついて人間が(一元的あるいは多元的に)

序列化されるということが、資本主義社会における能力

主義の物質的基礎である。社会原理としての能力主義と

は、これらの物質的基礎を土台とした人間の諸能力の序

(5)

列に関するイデオロギーである。

 以上のように考えるならば、他の諸商品に対する労働 力商品に固有な価値法則とは何かということが検討され

る必要があるであろう。

(2)労働力価値の再生産と教育

 価値法則が労働力商品にも貫徹するのだとしたら、そ の価値はいったいどのように形成されるのだろうか。ま た、その価値はいかにして労働力商品の価格へ転化する のだろうか。マルクスは労働力の価値を次のように定義

している。

   労働力の価値は、他のどの商品の価値とも同じに、

  この独自な商品の生産に、したがってまた再生産に   必要な労働時間によって規定されている。それが価   値であるかぎりは、労働力そのものは、ただそれに   対象化されている一定量の社会的平均労働を表わし   ているだけである。労働力は、ただ生きている個人   の素質として存在するだけである。したがって、労   働力の生産はこの個人の存在を前提する。この個人   の存在が与えられていれば、労働力の生産は彼自身   の再生産または維持である。自分を維持するために   は、この生きている個人はいくらかの量の生活手段   を必要とする。だから、労働力の生産に必要な労働時   間は、この生活手段の生産に必要な労働時間に帰着   する。言い換えれば、労働力の価値は、労働力の所持   者の維持のために必要な生活手段の価値である。11  つまり、労働力の価値はその維持のために必要な生活 手段の価値に等しいというわけであるが、これだけでは あまりにも漠然としている。確かに、労働力は「ただ生 きている個人の素質として存在するだけ」であるだろう。

しかし、現在の急速に発展する資本主義社会では、一般 的にただ単に「労働力の生産は彼自身の再生産または維 持である」とも、「労働力の価値は、労働力の所持者の維 持のために必要な生活手段の価値」であるともいえない であろう。

 実際には、労働力の形成には前述のように教育が大き く関与している。だから、労働力の価値には単なる労働 力の所持者の維持によって形成される部分と、教育に よって形成される部分とに分けることができる。では、

マルクス自身は、後者の労働力価値形成における教育の 役割についてどのように述べているのだろうか。

   一般的な人間の天性を変化させて、一定の労働部   門で技能と熟練とを体得して発達した独自な労働力   になるようにするためには、一定の養成または教育   が必要であり、これにはまた大なり小なりの額の商

 品等価物が費やされる。労働力がどの程度に媒介さ  れた性質のものであるかによって、その養育費も  違ってくる。だから、この修業費はふつうの労働力に  ついてはほんのわずかだとはいえ、労働力の生産の  ために支出される価値のなかにはいるのである。12 マルクスのこの文章から分かることは、「技能と熟練」

を体得するためには「一定の養成または教育」が必要で あること、そして、そこに費やされる「養育費」や「修 業費」などの「教育費」は「ほんのわずかだとはいえ、

労働力の生産のために支出される価値」の中にはいると いうことである。

 そこで、労働力を作り出すために使われる価値のうち、

この教育(養育・修業)へ投下され、被教育者の「技能 や熟練」(実際には価値観や人間性などの人格特性も含 む)の価値に転化する価値部分をとくに「教育資本」と 呼ぶことにする。こうすると、社会的には、「教育資本」

は「教育費」として現れる価値であるということになる。

 労働力の価値(労働力資本)は「必要生活手段」に投 ぜられる価値と教育資本によって形成される価値によっ て有機的に構成される。後者の価値の割合が大ききほど その労働力の有機的構成が高いということにしょう。つ まり、訓練や教育をあまり必要としない肉体労働や単純 労働では、労働力の有機的構成は低く、訓練や教育に多 くの教育資本の投資がなされれば、労働力の有機的構成 は高くなるわけである。一般に社会的生産力が高まって、

労働力の生産性が重視されるようになると、労働力の有 機的構成が高くなるといえるだろう。つまり、資本の有 機的構成が高くなればなるほど相対的剰余価値増大の手 段として、労働力の生産性・流動性を高めるための教育 が重視されるようになる。その結果労働力資本の有機的 構成も向上することになる。

 公教育制度を前提しないならば、労働者は「教育費」

を「必要生活手段」の価値から補愼しなければならない。

この段階では「教育費」は、労働者にとって「生産的消 費」ではなく、自己の労働力の再生産のための「個人的 消費」の中にはいる。資本からみれば、賃金の一部の

「教育費」が労働者の「個人的消費」として現れたとし ても労働力の再生産にとっては「生産的消費」である。

ところが、労働力養成が資本全体にとって不可欠となる ような進んだ資本主義社会では、学校が「教育資本」を 主要に投下する場となる。このような局面では、人間の 諸能力・人格はあたかも工場によって生産されるような

「もの」として現われる。資本は商品だけではなく、人

間の人格をも生産する。しかし、資本家は、商品の生産

と同じように人間人格の生産をコントロールすることは

(6)

できない。次に、このような生産としての教育の特殊性 について検討してみよう。

(3)教育社会における能力主義

    一学校教育と「教育的価値」の生産一  サラップによれば、学校は「教育的生産様式」という 特殊な生産様式を有したひとつの生産の場である13。資 本主義社会の学校の機能は、学校に投下された価値を教 育資本として具体的な生きた人間の諸能力および人格を 生産・再生産することである。

 教育資本は、商品一般の生産と同じように生産手段

(教育手段)と労働力に分割される。これらは労働力の 使用価値の実体である諸能力・人格を作り出す特殊な生 産活動=教育活動(労働主体からみれば教育労働)を構 成する。学校の教育活動が作り出すものは、人間能力の 特殊な一形態である学力ばかりではなく、態度や価値観 も含んだ人間人格の総体である。「諸能力」と「価値観」

が分離して形成されるということはありえないのであっ て、たとえ、学力だけを重視する教育であっても、それ は同時にある特定の価値観を形成させるという機能を有 する。つまり学校は、資本主義社会総体からみれば、「人 格形成」という特殊機能によって労働力を生産し、社会 的な資本の再生産に寄与するのである。

 しかし、教育は「もの」と人間の関係の中で行われる のではなく、人間と人間との関係の中で行われる。この 点が他の商品一般の生産と労働力商品の生産としての教 育とを分け隔てる質的な差異である。資本の再生産過程 からみれば、学校は「労働力工場」であるが、「加工」す べき当の対象が「加工」に対してしばしば抵抗する人間 であるために、その固有な社会関係=教育関係(教育社 会)を土台にして、学校の「労働力工場」としての機能 を隠蔽し、抵抗を未然に防ぐ働きを持つ「学校イデオロ ギー」を形成する。学校を中心にした「教育社会」は、

こうしてあたかも社会的資本の再生産過程から切り離さ れたかに見える、社会的に自律したシステムとして現わ れる。この結果、社会原理としての能力主義は、そのま まの形態で「教育社会」に貫徹するのではなく、教育社 会に固有な能力主義の形態として形を変えて現われるこ とになる。この固有なイデオロギー領域を持ったシステ ムの中で作り出される「労働力価値」の存在様式は、労 働力市場でのそれとは同じではない。なぜならばこのシ ステムは、それに固有な価値基準と価値交換体系を持っ ているからである。例えば、「偏差値」は教育社会の中で 一元的なヒエラルキーを作り出しているが、ある特定の

「偏差値」がそのまま労働力市場における労働力価値=

賃金を示すのではない。教育社会にとどまるかぎりでは、

「偏差値」の持っている「経済的価値」は「可能性」の 形態で存在しうるにすぎない。

 そこで、教育社会に独自な形態にある価値を特に「教 育的価値」と呼ぶことにする。この「教育的価値」は、

価値一般と同様に教育社会に独自な形態で「交換価値」

と「使用価値」という二つの側面を持っている。

 ここでいう「教育的価値」の実体とは、教育によって 作り出される人間の諸能力、およびその総体である。そ して、「使用価値」としての「教育的価値」とは、この人 間の諸能力の「使用価値」に他ならない。人間の能力を 抽象的にとらえるならば、それは何かをなし得ることで あり、具体的な対象との関係の中で働く力である。例え ば、プラモデルを作るという能力は、プラモデルという 対象とそれに働きかける主体との関係の中ではじめて成 立する。同様に、英語を話すという能力はそれに固有な 関係の中で、話すという実践を前提として存在する。こ れら二つの能力は、質的に異なった二つの「使用価値」

を持っている。学校で子どもたちに身につけさせる能力 も一つ一つを取り上げれば同じことがいえる。一つの方 程式が解けるということと、絵がうまく描けるというこ とは質の違った二つの能力を指しているのである。能力 の「使用価値」という側面から見れば、どちらの能力の 方に価値があるかという問題は成立しない。それは、そ れぞれの人間によって判断基準は異なるからであり、ま たその能力の存在形態自体も多様であるからである。つ まり、人間の諸能力が具体的対象とむすびついて現われ る局面では、人間のすべての能力が文化的多様性の内実 として存在する。そういう意味では、「使用価値」として の「教育的価値」とは「文化的価値」の人間的側面その ものである。

 一方、「教育的価値」は労働力市場に投下されて「労働 力商品」に転化すれば、その交換価値としての「教育的 価値」は「労働力価値」=「労賃」に転化するが、教育 社会にある間は学校教育制度に固有な価値評価システム によって、その「交換価値」が規定される。この「教育 的価値」の「交換価値」を成立させるための尺度とは、

教育評価のシステムである。学校制度内の価値の評価尺 度は、「テストの点数」であり、「偏差値」であり、「内申 書」であり、「卒業証書」である。人間の諸能力はこのよ

うな尺度を当てられるやいなや、その具体的な対象から 引離されて一つの抽象となるのである。

 「教育社会」における能力主義とは、教育評価・尺度

の体系によって、人間諸能力・人格が物象化され、序列

化される事態を正当化するイデオロギーである。ここで

(7)

は教育評価・尺度が「教育的価値」を測る「絶対者」と して人間に対立して現れる。「教育社会」の能力主義は、

それ自身としては「生産の効率性」とは何の関係もない。

 教育の評価基準は、現実の労働力価値基準の「象徴」

である。偏差値が高いということが同時に将来の賃金の 高さや社会的地位の高さを意味するわけではないが、学 校の成績と親の収入や地位が相関するように、教育の評 価基準が作り出す諸階層は、学校制度内部で、人間社会 の諸階層を反映する「象徴」としてあらわれる。逆に、

この社会的に制度化され、象徴化された体系は、あたか もそれがひとつの「身分」であるかのように社会的に機 能する。学歴や学校歴があたかも個人の属性として、個 人の価値を規定するものとしてみえるのはそのことを示 している。これは学歴や学校歴が「教育的価値」として

「経済的価値」に転化しうるということが(意識される されないに関わらず)共通に了解されているということ が背景になっているからである。

 以上のように、交換価値としての「教育的価値」は、

教育制度内で象徴化され、制度化された価値であり、

「教育社会」の能力主義とはそのような価値体系によっ て人間が序列化されることである。14

(4)労働力の市場への投下とその形態

 では、「教育的価値」はいかにして市場に投下され、

「経済的価値」に転化するのだろうか。この問題を考え るためには、「教育的価値」の出発点が「経済的価値」に あったことを思い出す必要があろう。ここで学校教育の 問題を個々の人間の問題ではなく、資本家階級と労働者 階級とに目を向けて、資本主義的生産過程をその社会的 な流れと広がりの中で見ることが必要である。

 教育費は、第一義的には労働者の個人的消費として現 れることは先に述べた。教育費を含んだ労賃は将来資本 家の手に還元されることが保証された資本の一部である。

資本家は賃金の支払によって、労働力を買い入れると同 時に自己の資本の一部を労働力の再生産に投資する。労 働者にとって賃金の増大は教育要求の増大である。彼ら はたえず自己の経済的価値を向上させる手段として教育 を用いることを余儀なくされる。自らの労賃の一部を教 育に振向けることによって、労働力商品としての自己を 形成する。教育による労働者の諸能力・人格の不断の再 生産は、資本全体の再生産の前提条件である。以上のよ うな観点からは、教育過程は「経済的価値」形成過程で あるといえる。

 一方、教育過程は、教育社会固有の領域から見れば、

「教育労働」による「教育的価値」形成過程である。「使

用価値」としての「教育的価値」は、前節で述べたよう に教育によって生み出される人間の文化的諸能力の総体 である。この「教育的価値」が「経済的価値」へと再び 転化するためには、諸能力の所有者自身が労働力市場に 投下されるという質的な「飛躍」が必要である。交換価 値としての「教育的価値(=学歴・資格など)」は、使用 価値としての「教育的価値」が「経済的価値」に転化す るための価値尺度の指標である。これらの価値尺度はつ ねに一致するとは限らない。(民主的な)教育の場で高 く評価された人間が、(統制的な)生産の場で低く評価 されることがありうるように、ここには教育制度と経済 制度の矛盾の基礎となるズレが存在する。

 このように一般商品の生産が「労働過程」と「価値形 成過程」の統一として見ることができるのに対して、教 育は「二重の価値形成過程」と「教育過程」の統一とし てみることができる。いわゆる「人的資本論」は、人間 の能力を社会的・自然的諸関係から切離して抽象化し、

経済的価値に還元してその経済的価値基準を唯一の能力 尺度と仮定する。そのため、教育制度と経済制度との間 に矛盾を見ることができないのである。

 労働力の市場への投下の仕方は、労働力市場における 市場原理が相対的に強く働く場合と、国家による労働力 供給政策が強く作用する場合という二つの典型に分ける

ことができる。

 前者の場合は、基本的に教育は国家の干渉を受けず自 由であり、労働者は多様な教育を受けて、労働力商品と

して労働市場に投下される。このため、教育は労働力市 場の需要に大きな影響を受ける。労働者は学校教育や職 業訓練、職歴によって身につけた労働能力を資本家に売 買して、その報酬としての賃金を手に入れるが、能力の 評価基準は多様である。資本主義社会では基本的にこの ような労働力市場を前提とするが、労働力の供給を市場 原理に委ねると均等な品質の労働力を供給することはで

きないし、失業者も多くなる。

 一方、後者の場合は、後進資本主義国や社会主義国に 多く見られる形態である。学校教育は国家によって統制 され、資本が必要とする労働力を計画的に生産する。こ の結果、労働力市場の役割は比較的小さい(社会主義国 家では原則として存在しない)。このような社会は、学 歴・学校歴が労働能力の評価基準として絶対的な価値を 持つようになる「学歴社会」となる。国家独占資本主義 段階に達した資本主義国では、工場制大工業を生産の基 礎とするかぎり、多かれ少なかれ労働力の供給を国家政 策=人材開発政策によって行うようになる。

 基本的に、社会的生産力が低く、資本の有機的構成も

(8)

低い場合、必要労働力資本の有機的構成も低い。この段 階では、教育の主要な役割は最低限の労働能力と従順な 人格特性の形成である。そのためには画一的・統制的教 育を国家によって行うことになる。戦後日本の経済成長 を支えたのは、このような国家による統制的教育政策で

あった。

 しかし、社会的生産力が高くなり、必要労働力資本の 有機的構成も上昇してくると、資本が支払う労働力の交 換価値(賃金)に、その価値生産としての労働力の使用 価値が見合わなくなってくる。労働力の使用価値は、技 術の発展とともに相対的に低下するのに、それにとも なって賃金は自然には低下しないからである。このよう な状況を社会的に見れば、生産技術の発展にともなって、

社会原理としての能力主義の内容が変化し、労働能力評 価基準としての学歴・学校歴の価値が相対的に低下して いることになる。ここでとられる国家の教育政策は、社 会原理としての能力主義の変化に教育社会の能力主義が 一致するように、教育内容や教育方法を変えることと、

社会の経済的土台の変化に教育がフレキシブルに対応で きるような教育制度に改革することである。この結果、

労働力市場の需給原理が教育に密接に反映するように、

学校教育の自由化と生涯教育の継続化が教育改革の主要 な眼目として採られることとなる。

4.能力主義の二重構造

 能力主義は二つの価値法則を物質的基礎としたイデオ ロギーである。その意味で能力主義は二重の構造をもっ

ている。

 一般に、能力主義の問題を学歴主義の問題としてとら える場合は、学校教育が教育の場ではなく「学歴授け、

単なる証明書発行一最近のアメリカの社会学者が使い始 めた用語によればcredentialiing一の手続に過ぎない」15 場となっている点が注目される。学校は教育の場ではな くて競争と選別の場なのである。その結果、教育の大衆 化にともなって学歴インフレが生じ、学歴の価値が低下 する。そして、学歴よりもどの学校にいったかという学 校歴が社会的に重視されるようになる。しかし、このよ うな観点からの学歴主義批判は、能力主義への直接的な 批判ではない。直接的には、形式化・形骸化した学校教 育制度を批判しているにすぎない。

 学歴のような制度化された教育社会の価値基準が社会 的なイデオロギーとして、社会原理としての能力主義に 大きな影響をもたらしていることは疑いない。しかし、

そのような視点からのみ学歴主義や能力主義の問題をと らえるとすれば、それは誤りであろう。社会の土台にあ

るのは、むしろ労働力商品に貫かれる資本主義の原理で あり、すなわち経済合理性の追求である。

 能力主義は単一の原理としてあるのではなく、制度化 された教育社会と急速に変化する産業社会の間に存在す る二重構造の原理である。それゆえに能力主義批判は、

学歴主義や偏差値主義などの制度化した教育社会のイデ オロギーに向られるだけではなく、近代社会における経 済合理主義自体への批判を含んでいなければならない。

この批判を行うためには、制度化されない多様な文化的 諸能力(その総体としての人格)を「教育的価値」とし て社会的に認知させうる物質的基礎(生産組織)をいか にして可能にし得るかという問題設定が必要であろう。

      語 注

1 堀尾輝久、「教育の「能力主義」的再編批判一教育的 価値の観点から一」、『現代教育の教育思想一学習権の 思想と「能力主義」批判の視座一』、1979年、213〜214 頁、青木書店

2 後藤道夫、「臨教審批判と国民の教育権論」、『競争 の教育から共同の教育へ』、1988年、224頁、青木書店 3 同上、p.226

4 Bowles&Gintis, Schooting in Capitatist Ameri−

ca,1976.邦訳、 rアメリカ資本主義と学校教育1』、

宇沢弘文訳、岩波書店、1986年、38頁

5678910

同上、186頁 同上、83頁 同上、187〜211頁 同上、195頁 同上、223頁

伊藤誠、『現代のマルクス経済学』、1988年、

 203〜204頁、社会評論社

11 マルクス、『資本論1 マルクス・エンゲルス全集  23a』、223頁、大月書店

12 同上、225頁

13M・サラップは、アルチ=セールやイーグルトンら  の生産様式一般の理論を基に、「教育的生産様式  Educational Modes of Production」という概念をもち  いて学校における再生産過程を検討している。彼によ  ると、教育的生産様式における「生産者」は教師であ  り、「生産手段」は一般的な知識や技術や子どもが学 校で教わる文化であり、「生産技術」は教師の持つさ  まざまな教育技術や用具、そして「生産物」は社会化  された個人として考えられるという。この教育的生産  様式は「一般的生産様式General Modes of Productio−

n」によって大きく規定され、影響を受けている。その

(9)

 主要な機能は「一般的再生産様式の社会的諸関係の再  生産であり、この一般的再生産様式は最終審級で主要  な決定要因を担う」ことである。学校教育がその教育  的生産様式によって一般的生産様式における社会的諸  関係を再生産するのは「一般的イデオロギーGeneral  Ideology」によると彼は考える。一般的イデオロギー  は、教師自身のイデオロギーや教育学のイデオロギー  を介して、さまざまな階層や階級に属する生徒を、一  方で労働力の担い手に、他方で支配階級に属するエ  リートにと振り分けるのである。

  また彼は、教育的生産様式によって社会化された個  人が「生産」されるとはいえ、個人は決して受動的な  存在ではないとも述べている。(Madan Sarup,

 Marxism/Structuralism/Education, The Falmer

 Press,1983, pp,38−41.)

14 ピェール・ブルデューは、「文化資本」の存在形式  として「身体化された様態」、「客体化された様態」、

 「制度化された様態」という三つの形式を示している。

 そのうちの「制度化された様態」にある「文化資本」

 は、私のいう教育制度内の「教育的価値」に近いもの  である。彼は「ある行為主体が所有している文化資本  に、制度的承認をさずけることによって、学歴資格は  さらに資格保持者相互の比較や、保持者どうしの「交  換」をすら可能にする」という。(ピエール・ブル  デュー、「文化資本の三つの姿」、福井憲彦訳、『act−

 es』、 Nα1、日本エディタースクール、1986年、28頁)

 ただ、彼はここでは「文化資本」の「実体」について  何も語っていない。また彼は文化に「資本」という用  語使うことによって「文化資本」と「経済資本」を対  等の位置においてしまう。しかし、資本概念を実体的  に分離するのは誤りである。「資本」は「一つの運動で  あり、いろいろな段階を通る循環過程」(マルクスrマ  ルクス・エンゲルス全集第24巻 資本論1』、130頁)

 であって、「制度化された文化資本」もその一つの段  階にすぎない。それゆえに、資本主義社会では、資本  の価値実体はただ一つであり、「文化資本」から「経済  資本」への転化という言い方は、「資本価値」の文化形  態から貨幣形態への転化と言い直されなくてはならな

 い。

15 R・P・ドーア、『学歴社会 新しい文明病』、松居

 弘道訳、岩波書店、1978年

参照

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