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H.WallonのLa vie mentaleについて(その3)

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H.WallonのLa vie mentaleについて(その3)

坂 元 忠 芳

略記

L enfant turbulent,1925,(QUADRIGE/PUF)=

 ET

『多動児』=略記なし

psychologie pathologique,1926,

『精神病理心理学』=『精神病理』(『精神病理の心  理学』滝沢武久、大月書店、1965年

Les origines du caractξire chez I enfant,1934,

 (PUF)=OCE

『子どもにおける性格の諸起源』=『性格』(『児童  の性格における起源』久保田正人訳、明治図書、

 1965年)

L 6volution psychologique de I enfant,1941,(AR−

 MAND COLIN)=EPE

『子どもの精神的発達』=『精神発達』(『子どもの  精神的発達』竹内良知訳、人文書院、1982年 De I acte a la pens6e,1942,(FRAMMARION)=

 AP

『活動から思考へ』=『認識過程』(『認識過程の心  理学』滝沢武久訳、大月書店、1962年

         目   次

序 章  『フランス大百科』とワロンの『精神生活』

第1章 精神生活研究の内容と方法

      ワロンの「全体的序論」(前半)にお       ける考察

 第1節 心理学の固有の対象と方法に関して  第2節ワロンの心理学における弁証法的方法を     めぐって

  〈以上『教育科学研究』第9号(1990、7月)〉

第2章心理学の方法論について一自然科学か人間    科学か

 第1節 精神生活の心理学的研究の方法について  第2節 心理学と人間諸科学との関係

  〈以上『教育科学研究』第11号(1992、7月)〉

第3節 鏡像段階をめぐるワロンとメルロ=ポン    ティとラカン

       〈以上本号〉

第2章 心理学の方法論について 自然科学か人間科学か (続)

第3節 鏡像段階をめぐるワロンとメル      ロ=ポンティとラカン

(1)鏡像段階についてのワ回ンの見解にた   いするメルロ=ポンティの批判

 「H.WallonのLa vie mentaleについて(その 2)」(『教育科学研究』第11号1992年7月)の最後 で示唆しておいたのは、「鏡像段階」の問題であっ

た。

 さてこの問題について、メルロ=ポンテイは、自 己の身体の認識と他者の認識とが同じシステムで結 びついていることを確認しつつ、論じていく。

 まずメルロ=ポンテイの行うのは、自己の鏡にた

いする動物と人間の行動の対照である。

 彼はワロンの『性格』にも出ているプライエルの 著書の同じ個所を引用しながら、メスである相手の アヒルを失い、自分の姿の写っている鏡の前にうず くまるのを習わしとするオスのアヒルの行動は、幼 児が鏡に写った像を自分の像とみなすのとはまった

く違うと言う(OCE, p.314、『性格』190−191)。つ いで、メルロ=ポンテイは、『性格』でワロンが挙 げた二匹の犬の例を引用する。この場合、一匹は自 分の鏡の像に驚いて逃げていき、もう一匹は主人に なでられて、そのほうを向くが、それは自己の鏡像 が「自分自身の視覚像」ではなくて、その犬にとっ ては、視覚条件が一種の状況補語(complement)

となっていることを表していると言う。メルロ=ポ

(2)

ンテイはこれらの例を幼児の例と対照する。幼児は はじめ、鏡のなかにある像を幼児自身の像ではな く、他者の身体の像として考える。特徴的なこと は、メルロニポンテイが、幼児が他者の身体の像を 早くから認識し、鏡にうつる他者の身体像とその実 際の身体の区別を、自分自身の身体の場合より早く おこなうことができることに注目している点であ る。これは、自己の身体認識をまずは他者の身体認 識を介して考えようとするメルロ=ポンテイの考察

の特質が明らかになっているところである

(Merleau−Ponty a la Sorbonne, r6sum6 de cours 1949−1952,6ditions cynara,1988, pp.314−315,以 下r6sum6という、 Merleau−Ponty, Les relations avec autrui chez l enfant, Centre de Documenta−

tion Universitaire, pp.42−44,以下relationsとい う、『眼と精神』滝浦静雄・木田元訳、みすず書房、

1966、148−150ページ)。

 メルロ=ポンテイは、ワロンの見解をもとにし て、子どもは3か月の終わり以前には、鏡像にたい

する明確な反応はないと言う(resume, p. 315, rela−

tions, p. 315,同上、150ページ)。そしてつぎのよう に述べている。4か月ないし5か月頃から、子ども は鏡像を見つめることをはじめ、次に、同じその像 にたいして、興味をもつことをはじめる。6か月以 後になって初めて、自分の行動をイメージと結びっ ける、本来の意味での鏡像認識の行為がはじまる

(r6sum6, p.315, relations, p.44f,同上、150ページ 以下)。

 メルロ=ポンテイによれば、子どもはそれまで は、鏡のうえの像を認めるといっても、純粋にその イメージを見ているのではなく、「準実在性」

(quasi−realit6)をもって、それを見ている

(r6sum6, p,315, relations. p.45,同上、151ページ)。

例えば子どもは、鏡のなかの父親のしゃべる像を見 て、実際の父親を振りかえる。その時、彼は鏡の像 のなかに父親を認めてはいても、それはまったく実 践的な認め方である(ibid., ibid.,同上)。つまり、

彼が父親のほうを向くのは、父親のほうから声が聞 こえるからなのであるが、子どもは父親の像をまだ 実在に近いものとして見ているというわけである

(ibid., ibid.,同上)。

 この段階で、子どもの自己の身体像はどのように 形成されるのだろうか。メルロ=ポンテイの言うと

ころによれば、鏡のなかの自分の像にたいする驚き 反応が現われるのは、ほぼ生後8か月からである

(ibid., ibid., p.46,同上)。これは他者の像にたいす

る反応よりもやや遅い。35週目には、子どもは鏡の なかの像に手をのばし、手が鏡と接触すると驚くよ うに見える(ibid., ibid, p.315,、同上、151ペー ジ)。また子どもは同じ頃人に呼ばれると、鏡のな かのその人の像にむかって、振り向くことがある

(ibid., ibid.,同上)。

 なぜこのように自分の像を認めることが、他者の 像を認めることよりも、遅れるのだろうか。

 メルロ=ポンテイは、ここでもワロンの『性格』

にしたがって、論を展開する。結論から先に言え ば、自己自身の身体の場合には、解決されるべき問

題がはるかに難しいからである(ibid., ibid., p.46,

同上、152ページ)。子どもは、鏡に映った父親にた いしては、実際の父親の像を対置して、うまく処理 することができる(ibid., ibid.,同上)。だが、自分 の像にたいしては、それほどうまく処理することが できない。というのは、自分の像を実際の自己とし て見てしまい、すくなくとも自己の補体として、い つまでも考えてしまうことがおこるからである。こ のメカニズムの難iしさを、ワロンは、つぎのように

『性格』のなかで述べている。重要なところなので、

少し長くなるが引用してみよう。

 「こうして子どもは、自分の前に外部知覚的な自 分を知覚して、それを一種の補体のごとく、外的で 活動的な自分の自然な形象(フィギュラシオン)の ごとく見なして、少しも困惑も不統一も感じていな いかのように見えるである。が、これは一向に驚く に当たらない。自分のそばの人が鏡の中に見えるの と直接見えるのとのいずれの場合も同じように、二 つのの視覚像には何の葛藤もないのである。どちら かを選ぶこともしなければ、一方を他方に還元する こともしないのである。しかも他方で、自分自身の 外部知覚的なイメージといったところで、自分に見 える体の部分、つまり、知覚する主体に対して必然 的に外在的であるもの以外には、自分だけでは得ら れようはずがないではないか。たしかに子どもは自 分自身の体を直接に見ることはできる。しかし、そ れはたんなる体の断片であって、けっして全体を見

ることはできない。でこの部分的な視覚像が子ども の動作や活動にむすびつき、それら動作や活動に、

外界に属しているもののすべてがが運動の領域に組 み入れられてあるように、手がかりの視点やないし 目標を提供することができるのである。この部分的 視覚像はさらに子どもの内部感覚と自己受容性感覚

(3)

に結びつき、見も知らないものからの印象では得ら れないような、より恒常的で習慣的な印象の複合体 を形成することもできる。しかしその視覚像が外物 と混同されてまだ区別されていないあいだは、その 視覚から身体器官の一貫した均一なイメージをつく

ることは出来ず、体全体の表象像などはいよいよも ってできはしない。」(OCE., P.227,『性格』198−

199ページ)。

 子どもが、自分の鏡像を自分のものと判断するた めには、自分が自分であることを感じる直接的体験

と自己の表象との問に、明らかに分離が起らなけれ ばならないと、いうのである。

 このような分離がどのようにしてできるかについ て、メルロ=ポンテイはワロンの記述にそいながら 考察していく。ここのところのワロンの文章は、い

うまでもなく、さきの文章に続く部分である。とこ ろが、この部分の紹介で、メルロ=ポンテイは、周 知のように、重要なワロン批判を行なうのである。

そこで、この点について、ワロンの所論とメルロ=

ポンテイの批判的考察とを対照しながら、つぎに明 らかにしてみよう。

 まずワロンの所論からはじめる。

 ワロンは子どもが自分の像を自分のものであると 判別できるためには、直接経験と表象との間に「必 然的な分離」がなければならないという(ibid., pp.

227−228,同上、199ページ)。そのためには子ども が、物に固有の質と存在とを、はじめはそれらが未 分化であった印象や活動からひきはなし、しかも、

それが外界からのものであることを認める外部感覚 の存在を感じることができなければならない

(ibid., p.228,同上)。これは一般に表象が成立する ための必要条件であるが、ワロンによれば、同じこ

とが自分の体にっいてもおこることになる。

 子どもが自己自身の像を自己のものとして判断で きるのは、自己と自己の付属物とを、外界物として とらえる一連の営みのなかに、そのような判断を位 置づけることをとおしてである。それは自己以外の

ものを、すべて自己の外にあるものとして位置づけ ることである。そして、自己の身体もまたそのよう な一連の外なる物の一つとしてとらえることができ るようになるのである(ibid.,同上)。そのために は、子どもは一つひとつの自分の像を、その都度自 分の像として認めなければならない(ibid.,同上)。

そのためには、子どもは一つひとつの場合に、自分 の像を客観的に外なる物の像と比較できなければな

らない(ibid.,同上)。このことについて、ワロンは 次のように説明する。

 「無数の点をとおして、子どもが自分自身につい ての表象を持てるような異なった視点を見分けるこ

とができるようになり、また、自分を個別化するよ うになるのは、類推をつかって、また、すでに子ど もが知覚し得ていることとの、また、はっきりと表 象していることとの同化によってである。このよう な仕事はすべて、したがって、子どもが自身につい て、外部で形成することのできる、また、おまけに 子どもがこのようにする以外には形成しようのない 諸イメージと似たイメージを自分自身に与えること

にある。」(ibid., p,228,『性格』、199ページ)

 このワロンの説明は、『性格』の段階では、重要 な問題点を含んでいる。ワロンは、子どもが自分を 個別化し、また自分についての表象を作り出す多様 な視点をもつことができるのは、子どもが外部の事 物について形成するイメージと似通った一種のイメ ージをとおしてであるという。このことは、異なる 自分についての、その時々のイメージー一例えば、

走っている時のイメージ、手を振っている時のイメ ージ、食物を食べているときのイメージが、ばらば

らのイメージではなく、自分という、ひとまとまり の身体をもったイメージの一つであることが、それ ぞれのイメージの比較をとおして、またもとからの イメージにたいする新しいイメージの同化をとおし て認識されていなければ不可能である。イメージの こうした同一性の獲得こそが、自己のイメージが 様々な様相をとりながらも、一個の共通した自己の

それであることを確認する源泉(オリジン)であ り、このことを可能にするものこそ、一種の身体の 同一性、すなわち、ワロンがその後の著作『認識過 程』で「造形的姿勢」(postures plastiques)と述 べたことがらである(DAP. p.147『認識過程』169 ページ)。このことは『性格』ではまだ十分ではな いが、表象以前の一種の身体的イメージに似たもの の形成が、自己の異なるイメージにたいして、比較 や類推をおこなうことのできる根拠であることを、

ワロンは強調したものと思われる。

 ワロンは続いて、「それは自分と自分に固有の身 体の認識においてさけることのできない最初の段 階」である。ここでワロンが「最初の段階」といっ ているところがきわめて興味深い(OCE. ibid.,『性 格』同上)。というのは、このような状態は、私た

ち大人でも予想できる状態だからである。それは、

(4)

自己のイメージの獲得にとってきわめて原初的な状 態であると考えられる。ワロンによれば、このよう な状態は、大人でも次のような場合に経験すること ができる。私たちが夢を見ているとき、夢を見てい る私たち自身から、私たち自身の視覚的な姿がはな れてしまうことがある。夢のなかで自分が誰かの

「犠牲」になる、といった予想外の出来事が、自分 の視覚的な姿で現前することである(ibid.,同上、

200ページ)。

 これは自己の表象が自己の周囲に空間的に現われ る現象である。自己の身体的同一性が、はっきりと 自己の像として確認できるためには、まずはそれが 自己自身の意識とはややはなれた表象として、つま り、自己の外にあるものの表象として現前する必要 があることをそれは示している。その場合空間は自 己の意識とまだ一致して表象化されているわけでは ない。空間は自己の外にある空間として、例えば、

子どもにとって、おいしいお菓子がのっている机の 上とか、きれいな花が咲いている花園とか、また、

自分のかわいがっている犬がいる犬小屋などのそれ として、自己の表象のなかの或る部分として存在す る。自己という存在の表象空間と、それ以外の、外 的存在の表象とは、子どものなかではまだ区別がっ いていない。このことをワロンはつぎのように述べ

ている。

 「空間は他の多かれ少なかれ偶然的な諸性質と必 然的につながった一つの性質として存在する。」

(ibid.,同上)

 ここでは空間が自己の表象の存在する空間と他の 空間とを区別していない。ところでこのワロンの所 論は、のちにメルロ=ポンティが批判した方法を思 わずとっているといってよい。というのは、この所 論は、こうした空間の一般的認識の不足が、自己の 表象の空間を、まさに一般的に認めることができな いという仮説へと、ワロンを導いく根拠を示してい るからである。例えば、空間が、自己のそれも、お 菓子のそれも、またその他のそれも、一緒になって

しまっていて、自己のそれが、浮きだって認識され ていない。それらが区別されるためには、より発達

した段階の認識作用が必要なのだが、そのことを、

ワロンはつぎのように表現している。

 「空間は、表象の問にあって、知的活動のすでに 進化した水準を予想するような、一種の精神的転換 による以外には、並列、一致、または排除、の秩序 として存在することはできないのである。」(ibid.,

同上)。

 空間認識が完全に発達した知的構成によってなさ れないかぎり、すなわち空間の並列、一致、排除と いった空間認識が成立しないかぎり、鏡像段階の成 立を説明することはできないというのである。ワロ ンはこのことを、同じ人が同時に違った場所に存在 するとができないといった認識の成立として例示し ている。こうした認識の後にはじめて鏡像段階が成 立するということは、要するに、いわば一種の論理 的認識が前提になって、鏡像段階が成立するという

ことの表明にほかならない。そのために、同じよう な事実が、レヴィ・ブリュールが示した原始人の観 念のなかにも多く存在することを、ワロンはつけ加

えている。

 このような鏡像段階にたいするワロンのいわば

「知的理解」にたいして、メルロ=ポンテイは、疑 問をなげかけるのである。彼は結論的に次のように 述べている。

 「ワロンを読んでおりますと、往々にして鏡像の 習得は認識作業の問題であり、視覚的知覚と内受容 的知覚の総合の問題であるかのような印象を受けま す。しかし、視覚的なものは、精神分析学者にとっ ては、単に他のさまざまの知覚中枢機能と並んだ一 つの知覚中枢機能にすぎないといったものではな く、主体の生活にとって、他の型の知覚中枢機能と 全く異なった意味をもつものなのです。」(rela−

tions, p.58, M・メルローポンテイ、『眼と精神』滝 浦静雄・木田元訳、1966、みすず書房、165ページ)

 ここで、メルロ=ポンテイは、明かに精神分析学 者の立場にたって発言している。この立場から、視 覚はたんに知覚の中枢機能のひとつではなくて、他 の知覚機能とは違った機能を持つものとして位置づ けられている。これこそ、メルロ=ポンテイが『知 覚の現象学』で問題にしたことがらであり、ワロン

との重要な相違点となすものである。

 メルロ=ポンテイは、知覚がたんにものの知覚と いう外部的作用ではなく、ものを知覚している主体 の実存的状況を反映していることを、彼の現象学的 方法をとおして強調する。それは、知覚している対 象と知覚している主体との関係にかんすることがら である。彼はそれを「知覚的実存」と呼んでいるが

(『知覚の現象学』中島盛夫訳、法政大学出版部、

1982年、612ページ)、この性質は、視覚の場合、と くに際だっている。

 メルロ=ポンテイは、視覚を「見ることの思惟」

(5)

と呼び、次のように述べている。

 「… 私の視覚作用が消化作用や呼吸作用のよう に単に一つの機能にとどまるものではないというこ と、むしろそれ自身この全体でありこの意味であ り、未来の現在に対する、全体の部分にたいする先 在性であるということが、いわれているのであれ

ば、確かにその通りである。予料と志向を通じてし か視覚作用はありえない。そして、いかなる志向

も、もしそれが向う対象が全く出来合いの姿で、動 機づけなしに与えられていたとしたら、眞に志向で

あることはできないだろうから、いかなる視覚作用 も、結局主体性の核心において世界の全体的な見取 り図(projet企投)ないし世界の論理を予想するも のであって、経験的知覚はこれを規定することはで

きるが、産出することはできないということも、確 かに真実である。」(同上、668ページ)

 ここで彼が「予料」と呼んでいるものは、周知の ように、フッサールの現象学からくる概念である。

或る主体がなにかを見ようとする時、その対象に視 覚を寄せるのは、その他の対象を見ないということ であり、そのような主体の選択は、その対象にのみ 原因があるのではなくて、見る主体のなかで対象を 主体的に見ることが、その対象をその他の対象にた いして、区別しているというのである。同じよう に、ここで彼が「志向」と呼んでいるものは、フッ サールの現象学からくる周知の概念で、或る主体が なにかを見ようとする時、その対象に視覚を寄せる のは、その対象を志向している主体の実存的状況が あるのであって、それは、けっして視覚の中枢の一 つの機能ではないということである。

 ところで、メルロ=ポンテイにあって、視覚がと りわけこのような主体的実存性をもっているのは、

視覚が対象にたいする支配的な存在権をもっている からにほかならない(relations, p.58、『眼と精神』

165ページ)。彼が視覚によって自己の鏡像と現実の 像との間に主体的な関係ができると考えるのは、こ の支配的な存在権からくる。彼はこのことを、視覚 経験が両者に及ぼす分裂と考えて、つぎのように言

う。

 「視覚経験によって、直接的な自己と、鏡の中に 見える自己との問の一種の分裂が可能になるので

す。」(ibid.,同上)と。

 この発言を展開すると、メルロ=ポンテイとワロ ンの見解の相違を明らかにするうえで、きわめて重 要なポイントを示すことになるので、もうすこし、

メルロ=ポンテイのいうところを聞こう。

 「いったい視覚とは、視像の感覚器官であり、ま た想像的なものの感覚器官でもあるといったもので しょうが、われわれに与えられた像は、圧倒的に視 覚的ですが、それは偶然ではありません。われわれ が対象に対する存分の支配権をふるうことができる のは視覚によってだからです。したがって、自己自 身に関する視覚的経験とともに、新しい様式の自己

にたいする関係が出現することになります。視覚的 経験にとって、直接的な自己と、鏡の中に見える自 己との間の一種の分裂が可能になるのです。このよ

うにして、感覚的な諸機能でさえ、主体の実存に対 してどんな寄与をなしうるかにより、また主体の実 存の発展をうながすどんな構造を提供しうるかによ って、その規定がかわってくるわけです。」(ibid.,

同上、165ページ)

 ここには、人間の視覚の発達における特殊な意味 についてのメルローポンテイの見解が示されてい る。繰り返すことになるが、人間の視覚の発達は、

自己に関して直接感じている自己と、自己自身を外 にみている自己との問に、するどい「分裂」をつく らざるを得ないという考察である。ここで、すこし 先回りするかも知れないが、鏡像についてのワロン

の所見とメルロ=ポンティとの所見との相違につい ての私自身の考察を行う前に、鏡像についてのワn

ンと精神分析学者の所見の相違を参照することにし よう。というのはこの点についてまず触れてから、

再度、この論議に帰ることによって両者の相違の本 質がいっそう明かになると思うからである。

(2)ラカンの鏡像段階についての見解        (その1)

 ここで問題にしたいのは、ワロン自身がのちに百 科事典第8巻『精神生活』(La vie mentale)で登 場させている、鏡像段階にかんするジャック・ラカ

ンの見解である。

 周知のようにラカンは、「私機能の形成者として 鏡が作用する段階」(Le stade du miroire comme formateur de la fonction du Je telle qu eUe nous est revel6e dans I experience psychanalytique,

communication faite au 16e congres international de psycanalyse, a Zurich, 1e 17 juillet 1949,

ECRITS, pp.93−100, EDITIONS DU SEUIL,

1966)(Ruvue Francaise de psychologie, octobre−

d6cembre,1449 『フランス精神分析学雑誌』1949

(6)

年、10−11月号)および、「想像的状況の心的効果」

(Les effets psychiques du mode imaginaire)( L 6volution psychiatrique janvier−mars,1947,『精 神医学の発展』1947年、1−3月号)で幼児の鏡像問 題についての、独創的な見解を発表した。これらの 論文で、ラカンは、幼児が鏡像を自己の像として見 ることができた時、すなわち、鏡像を引き受けたと き、彼のなかに、なによりも一種の「変容」が起こ ると述べた(relations, p.55,『眼と精神』162ペー

ジ)。

 この「鏡像段階」の概念は、最初ラカンによっ て、1936年、マリエンバードで行われた第14回国際 精神分析学会で報告された。ワロンとの関係でいえ ば、それは百科事典第8巻『精神生活』のなかの

Le complexe, facteur concret de la psychologie familliale,8 40−5−16に掲載されたラカンの論文の なかでおそらくはじめて扱われたものである。そこ でまず、メルu=ポンテイが引用している先の2論 文に先立って、この、いわば初発の論文でラカンが 問題にしている「鏡像段階」について触れておこ

う。それはなによりも、「鏡像段階」についての、

いわば「ワロンーラカンーメルロ=ポンテイ問題」

の本質を解くためにぜひ必要なものである。

 ラカンは、この初発の論文のなかで、まず、子ど もの「感情的同一化」(1 identification affective)

という概念について触れている。そしてこの概念 が、精神分析におけるエディプス期の問題と関係し ていることを述べ、このような「感情的同一化」の 本質を解くためには、これまであまり研究されてこ なかった「鏡像段階」について問題にしなければな らないという観点を提起している。 ラカンは、鏡 像段階が、離乳期の終わり頃、すなわち、生後6か 月の頃に当たると述べている。だがこの時期こそ、

彼が強調しているように、人間における離乳の特異 的基礎である「出生の早期性」がもっともよく表れ

る時期である(La vie metale., ibid,8 40−9−10,『家

族結合』宮本忠雄・関忠盛理訳、哲学書房、1986年、

57−8ページ)。人間の子どもは、その他の哺乳動物 よりも、いっそう早く出生してきているので、離乳 が他の哺乳動物よりも、ずっとおくれるという性質 をもっている。

 ラカンによれば、この時期に人間は、それまでと はまったく異なる知覚現象をあらわす。それは、

「啓発的な直感」、すなわち「注意ぶかい抑制に基づ く直感」が現われることで、これが人間における

「適応行動の突然の発現」であるとされる。もうす こし具体的に言うと、子どもが鏡をみながら、自分 の身体のどこかの部分を参照する身振が起るのであ るが、ラカンは、それと同時に、子どものなかに、

その勝利を客観的に告げるかのような「喜びのエネ ルギー浪費」が起ると述べている。この二重の反応 は、ことばでは表現できない感情表現である。しか しここで子どもは、するどい矛盾と分裂に見舞われ

ることになる(ibid.,8 40−10,同上、59−60ページ)。

ラカンによれば、これは「動物の世界をその生得性 によって規定している環境へのあの直接的適応の急 変」そして「動物では知覚を衝動的に隷属させてい る生体の働きのあの統一性の急変」である(ibid.,

同上、60ページ)。

 ラカンは、鏡像段階を「身体を寸断されたものと して与える自己受容性に基づいて感情的かつ精神的 に構成されている一つの段階」だと言う(ibid.,同 上)。ここで、ラカンが「身体の寸断」と表現して いるのは、つづいて、ラカンがつぎのように説明し ている事柄を指している。「一方では、心的関心は 自己身体のなんらかの接合を目ざす諸動向に合わせ て動いているが、他方、まず知覚的な寸断に屈して いる現実は、そのカオスがたとえば《空間》のよう な範疇にまで及んでいて、子供のとる静止の体勢と おなじほどちぐはぐな状態にあり、つまり、身体の 諸形態をそのまま反映しているわけで、これらの形 態はいわばすべての対象の手本を(モデル)をあた

える。」(ibid.,同上)。

 この論文では、ラカンは「身体の寸断」の状態に ついて、まだ後の論文に見られるような科学的説明 を行なってはいない。がすくなくとも、以上の行論 から読み取れるように、このような「身体の寸断」

が、人間の子どもの「早生」から生じる身体の感覚 の不統一性をあらわしていることが主張されてい る。つまり、このような身体感覚の不統一性が、ま だ色濃く存在するのにもかかわらず、そこからくる 身体的衝動によって支配されてきた子どものなか に、すでに新しい分裂が発生していること、すなわ ち、そのような衝動さえも変えられざるを得ないと いう、人間の子どもに固有の心理機能の分裂と矛盾 が発生していることである。

 ところでここまでのところは、おそらく、ワロン 自身も認めるところであろう。問題はラカンの言う ように、このような機能の変化についての説明が、

精神分析に固有の無意識的状態と結びつけられて行

(7)

われていることである。

 ラカンは、このような身体感覚の寸断状態を、奥 深い無意識と結びついた「人間世界の太古的構造」

だととらえた(ibid.,同上、60ページ)。このような 構造は、普通精神分析で行われるように、「身体の 分割、分解」という「幻想」(ファンタスム)によ

って説明される。それは本質的には、後になってあ らわれる一種の「去勢幻想」としての、エディプ ス・コンプレックスと同種のものである。精神分析 では、この種のコンプレックスは、母子の一体性に みられる身体的合一性が、父親との関係で切り裂か れる結果生じる、という解釈がとられる。だがラカ

ンの考察は、たんに一般的な精神分析のそれではな い。こうしたファンタスムが、すでに生後6か月の 時期に現われ、それを、なによりも人間の自己意識 の疎外とその感情的あらわれとして位置づけたこと

である。

 ラカンは、「鏡像段階」におけるこの動きを、そ うした心理機能の「分断」のなかにあって、なおも その統一性を取り戻そうとする傾向としてとらえて いる。ラカンは、このような傾向(タンダンス)が はじめから子どもの意識の中心に場所を占めること について述べている(ibid.,同上)。それはラカンに よって明かに人間にとっての「進歩の構造」を作り 上げるものとされている。

 ラカンは言う。「それ(注:自分の失われた統一 を主体が修復する動向のこと)は主体の精神的進歩 のエネルギー源であり、この進歩の構造は視覚機能 の優位によって規定される。」と(ibid.,同上)。

 ラカンは人問の視覚機能が、人格形成にたいする 他の諸機能への優位性をもっていることについて述 べている。その優位性の起源は、なによりも、子ど もが鏡像を見ることをとおして、自己の存在を意識 するところにある。しかも、精神分析の知見をとお

してラカンは、そこにエロティークな身体統合的・

情動的動きを認めている。これは、ワロンの身体論 とまさに対照的である。こうしたエロテイークな情 動が実在するかどうかについては、あらためて検討

しなければならない。だが、先に検討をはじめたメ ルロ=ポンテイの考え方とラカンのこの所論との共 通性がもし認められるとするならば、そこに、この ような精神分析的認識が横たわっていることが指摘 できるであろう。そのことについては後であらため て問題にしよう。

 いずれにしても、このような身体情動の切り裂き

と、それを修復し心理的機能の統一性を作り上げよ うとする動きを、健康な人間的な行為であるとした ラカンの次のことばは、記憶に止めてよい。

 「自己の感情的統一の努力が、主体がみずからの 同一性をそこに思い描くような諸形態を促進すると すれば、そのもっとも直感的な形態は、この段階で は、鏡像によって与えられる。主体が鏡像のなかで あいさつすること、それは彼に内属する精神的統一 体である。彼がそこで認めるもの、それは分身のイ マーゴの理念である。彼がそこで歓呼して迎えるも の、それは健康な動向の勝利である。」(ibid.,同上、

61ページ)

 ここで、ラカンが「分身のイマーゴ」と述べてい るものは、鏡像によって子どものなかに新しく生ま れ、それまでの母親を中心とする、他者へのエロテ ィークな関係による自己像と一体化した他者像では なく、視覚的に存在する自己像をまさに見ることに よって、他者の把握の無意識的原型が、自己の分身 のかたちで生まれるということであろう。それは子 どもにとって、自己の「分身」ではあっても、その 分身が視覚的に存在するという点で、それまでの母 親や父親にたいするイマーゴとは質的に異なるもの

である。

 もともと、「イマーゴ」の概念は、ユングによる ものであり、それは一・般に「主体が他人を把握する 仕方を方向づける無意識的人物原型」とされてきた

(ラプランシュ/ポンタリス『精神分析用語辞典』村 上仁監修訳、みすず書房、1977年、20ページ)。も ちろん、このようなイマーゴとコンプレックスとは 深い関係にある。しかし、コンプレックスが、対人 関係の全体が主体に及ぼす影響を示すのに対して、

イマーゴは、そうした状況にある特定の人物の想像 的残映を示している(同上)。

 重要なのは、イマーゴが像として存在しているに もかかわらず、それがたんなるイメージというより も、むしろ、それをとおして主体が他者を見定める 固着したネガといったものをさしているということ である(同上)。それは、イメージとしてだけでな

く、感情や行動として客観化されている(同上)。

この意味で、鏡像がもたらす効果は、それまでの母 親に対するエロティークな感情とは、やや違った感 情と行動とに結びついている。これをラカンは特別 な構造をもった「自己愛的世界(ナルシシズム)的 世界」というのである(La vie mentale,8 40−10、

ラカン『家族複合』宮本忠雄、関忠盛訳、1986年、

(8)

62ページ)。ラカンがここで、たんにフロイトやア ブラハムによって主張された、自己の身体へのリビ

ドー備給という、「エネルギー的意味」を、この概 念に付しているだけでなく、なによりも、その「精 神的構造」を問題にしているのを問題にしたい

(ibid。,同上)。つまり、それまでの母親を中心とす るイマーゴが、自己と他者との未分化な身体的・情 動的状態を示しているのに対して、分身のイマーゴ

は、自己を他者と錯覚するイメージをともないなが らも、特殊な自己愛的世界を形づくっているという ことである。ラカンによれば、それまでに存在する 愛の関係においても、自己愛は母親のそれと未分化 の状態で存在するにもかかわらず、分身のイマーゴ は、他者を含まない像のそれとして、自己愛の世界 が存在しているということである。その意味でそれ

は、一種の自立した自己像なのである。

 ここで、いささかメルロ=ポンティの所論にかえ ると、このような自己意識の変容は、メルロ=ポン テイによれば、精神分析学ではじつに重要な変化を 意味する。すなわち、それまでは、自己を「漠然と 感じられる衝動の全体」であったものが、自己につ

いての反省を可能にする状態、つまり、その後に大 きな問題となる、自己自身の理想像  精神分析学 でいう「超自我」の可能性が生まれることを意味す

る。だから、メルロ=ポンテイにとっては、鏡像の 出現は、たんに、認識上の変化ではなく、人格上の 飛躍なのである。

 ここで、ラカンの考察について、さらに論じてお くと、このような心理的機能の分裂は、自己の身体 について、まだ十分な全体性を感じることのできな い状態におかれている幼児が、視覚だけは自己を見 つめなければならない、という驚異にも似た状況が 起るという特質をもっている。

 この世界は、自己愛の世界であるから、いうまで もなく、主体の情動や運動性の一定の状態と、自己 のイメージとの無差別な関係を示している。それは まだ、情動と運動性のなかに、イメージがいわば挿 入された状態にすぎない(cf., ibid.,同上、63ペー ジ参照)。しかしこのことは、自己のイメージがつ くりだす情動や運動性が、すくなくとも、それまで の鏡像的段階以前の情動や運動性とは違った性質を もちはじめていることを示している。それは自己の なかの、いわば即自的な情動や運動性をまだ示して いるのに、それが自己の像と結びついているため に、すでに対自的な側面をもちはじめている。ここ

で対自的という意味は、自己のある表象と、未分化 な情動や運動性が対立しはじめている、ということ である。このことを、ラカンは先の論文のなかで明 瞭に論じている。

 ラカンによれば、自己のイメージにたいする外的 知覚と情動とはここで「不協和」(discordance)を おこし、そのような「不協和」のなかで、イメージ は「未知の動向の一時的な侵入をつけくわえるにす ぎな」くなる。これをラカンは「自己愛的侵入」と 呼んでいる(ibid.,同上)。ラカンによれば、このよ

うな「侵入」が「諸動向のなかに導入する統一」

は、「自我の形成に寄与をする」のである(ibid.,同 上)。しかしラカンは、このような「統一」を、イ メージと情動や運動性との一種の「融合」としなが らも、すくなくともこの最初の論文では、イメージ が「この融合を疎外する」と述べている(傍点筆 者)。ここでラカンが「融合を疎外する」といった

ことこそ、この時期に、ラカンが、鏡像段階におけ る自我の形成における弁証法を示したものとして、

特筆すべきことがらであろう。

 ラカンは、精神分析の立場からではあるが、イメ ージと情動や運動性との対立点を、従来の情動や運 動性の、いったんは切断の様相をもったものとし て、描こうとしていると考えられるのである。そし て、このような考え方は、ラカンの後の論文におい ては、いっそう明瞭にあらわれる。そして、『百科 全書』第8巻の編集者であるワロンが、執筆者であ るラカンのこのような意見にある意味で賛同してい ることは、この論文の掲載にあたって、ワロン自身 の同意をえなかったとは考えられないことからも想 像できるだろう。

 ところで問題は、後にメルロ=ポンテイがワロン にたいして、精神分析的知見を加味したとみられる 現象学の立場から、ワロンの自我の発達について疑 問を提出したことにかかわる内実が、ワロンとラカ

ンの自我のとらえ方の相違として、すでにこの時期 に存在したかどうかということである。そして、そ のこととメルロ=ポンテイの自我形成についての、

とりわけ、鏡像段階についての考え方とがどう関係 していたたかということである。

 この点については、私の手元にある第1次資料で は明らかにすることができない。しかし、フランス の精神分析の歴史を豊富な資料にあたって追求して いるエリザベス・ルーディネスコによれば、ラカン は、ワロンの鏡像という述語をかりて、それにまっ

(9)

たく新しい意味を付与し、彼自身の思想を提出した としている(Elizabeth Roudinesco, Histoire de la psychanarise en France.2, p.148)。

 そして両者は、1928年から1934年にかけて、彼ら が精神分析学会で出会ったことが事実として挙げら れている(ibid., p.157)。ここではルーディネスコ のいうように、ワロンが、鏡像の発展を、憶測的な

(speculaire)ものから想像的な(imaginaire)も の、そしてシンボリック(symbolique)なものへ

の弁証法的発展として位置づけ(ibid., p.266)、一 口にいえば、へ一ゲル的弁証法の方法をかりている のにたいして、ラカンがワロンの考えを、「人間主 体の想像的体制化の理論」(theorie de l organisa−

tion imaginaire du sujet humaine)として、いわ ば精神分析的変形を行ったことを重視しなければな

らないだろう(ibid., p.157)。

 しかし、そのことがメルロ=ポンティのワロン批 判につながる関係を考察する前に、ラカンの考えの その後の発展、すなわち、先の論文で、彼がその端 緒を切り開いたイメージと情動や運動性との「疎 外」の所論が、どのように発展させられているかに ついて見てみよう。

(3)ラカンの鏡像段階についての見解        (その2)

 ラカンは、1949年7月17日、チューリッヒにおけ る第16回国際精神分析学会の報告のなかで、彼自身 がそれより13年前、すなわち、1936年に、同じ学会 で紹介した「鏡像段階」の概念をいっそうくわしく 展開した。ラカンのアンシクロペデイの論文が、す

くなくとも、1938年までに書かれたことを思うと、

ラカンが先の論文で述べたことが、この10数年の間 に発展させられて、先にあげた49年の報告に結実し たものと考えてさしつかえないであろう。しかも、

さきのメルロ=ポンテイの見解が、1951年にすくな くとも出版されていることを考えると、この際、ラ カンの1949年論文を検討することが、とりわけ必要 であることが示唆される。

 そこで、読者にとって主題から一見遠ざかる感が ないわけではないが、このラカン論文の内容を検討 しておこう。

 ラカンは、鏡像にたいする子どもの喜びに満ちた 関心を、一方で精神分析でいわれる、あのリビドー の力動と結びつけている。他方でラカンは、その博 士論文『パラノイア性精神病』(Jacques Lacan, De

la psychose paranoiaque dans ses rapPorts avec la personalit6, Le Francois, Paris,1932)以来問題に

してきた「パラノイア性の認識」に関する彼自身の 見解と結びつけて、この問題を考察している

(Ecrits, Editions du Seui1,1966, p。94,『エクリ』

1、宮本忠雄、竹内適也、高橋徹、佐々木孝次訳、

みすず書房、1972年、126ページ)。ここでラカンが 問題にしているのは、パラノイア性の認識の考察に 関係して、彼が「人間世界の存在論的構造」(une structure ontologique du monde humain)と述べ ているものである(ibid.,同上)。

 ラカンによれば、鏡像段階の意味するものは、精 神分析においては「理想我」(je−idea1)とでも 呼べるものである。それは、このような形態が「二 次的同一化」の起源でもあることを意味している。

つまり、それは子どもと母親とのような未分化な同 一化ではなく、新しい自我の起源にかかわる同一化 であることを意味している。それは、ラカンによれ ば、「リビドー正常化の機能」(Les fonctions de normarisation libidinale)を認識することでもあ

る(ibid.,同上)。

 だが重要なことは、このような「リビドーの正常 化」が、主体の「自己疎外」を引き起こすことにな るという点である。ここではラカンは、十数年前に 彼が述べた見解の核心を、より精緻に展開している

といってよいだろう。

 ラカンは次のように述べている。

「… 重要な点は、この形態が自我・・(moi)と いう審級を、社会的に決定される以前から、単なる 個人にとってはいつまでも還元できないような虚像

の系列のなかへ位置づけるということであり、

あるいはむしろそれは、主体がわたしとして自分自 身の現実との不調和を解消しなければならないため の弁証法的総合がうまく成功していようとも、主体 の生成に漸進的にしか合致しないのです。」(ibid.,

同上、126−7ページ)

 ラカンの意味するところは、鏡像が示す全体像 が、たしかに子どもにとって自己を統合的に感じ る、勝れたきっかけになるとはいえ、それは一種の

「先どり」であることを示している、ということで ある。つまりそこでは、主体は一種の「幻想」

(mirage)として現われるのである(ibid,同上、

127ページ)。主体は、自己を全体として、或る統合 体として感じている。しかしそれは、いわば同時に 外的形として、つまり、鏡像として現われているか

(10)

ぎりでの  ラカンのことばを借りれば  一種の ゲシュタルトとして、「外在性」(exteriorit6)とし て存在している(ibid.,95,同上、127)。

 こうした状況をラカンは、つぎのように述べてい

る。

 「そこではたしかにこの形態は構成されるものと いうより構成するものではありながら、とりわけこ の形態は、主体が自分でそれを生気づけていると体 験するところの騒々しい動きとは反対に、それを凝 固させるような等身の浮彫りとしてまたそれを逆転 させる対称性のもとであらわれるのです。」(ibid.,

同上)

 ここで言われていることは、すこぶる明瞭であ る。すなわち、鏡像は、子どものなかに、生き生き とはしゃぎの反応をもたらすが、そのような反応と はまるで反対に、像としては自己自身のそれとは対 称的な形で現われる。ラカンがこの身体的形態をゲ シュタルトとのべていることについては、後にメル ロ=ポンテイとワロンとの所論との比較において検 討することになろう。さしあたってここで言えるの は、このようなゲシュタルトが、ヴェルトハイマー のいう一種の「プレグナンス」(pregnance一知覚 された像などからもっとも単純で安定した形にまと まろうとする傾向)を示しており、きわめて単純に 自己の身体の全体性を感じている、ということであ る。ラカンは、この種の運動様式が、他のものと見 分けがつかないにもかかわらず、それが人間の種に

とって必然的であるとしている(ibid,同上)。ラカ ンは、以上のような二重の局面を提示することによ って、この身体的ゲシュタルトを、自己の精神的恒 常性を象徴するとともに、それがのちに自己疎外す る運命にあることを指摘したのであった(ibid.,同

上)。

 ラカンにとってこのゲシュタルトの運動様態が、

猿やその他の哺乳動物のそれと違う点は、後にいく つかの実験をとおしていっそう明らかになるもので ある。だが、さしあたって重要なのは、このゲシュ タルトが人間に固有のものとして存在しているとい われる際のラカンの説明である。

 ラカンは、この種のゲシュタルトが、一般に生物 体において、一種の成熟をひき起こすことについ て、いくつかの例をあげて説明している。例えば、

ハトの生殖腺の成熟には、ハトの同類を見ることが 必要条件になっていること、また、トビイナゴの孤 棲型から群棲型への移行は、或る段階で、その類似

の像を視覚的に動くのを見せるだけで可能であるこ と、などを示している(Ecrits, ibid., p.95−96、

『エクリ1』宮本忠雄・竹内迫也・高橋徹・佐々木孝 次訳、弘文堂、1972年、128ページ)。これらの事実 は、ラカンによれば、「同種形態的同一化」(identi−

fication heterimorphique)と言われるものである が、それは、彼が言うように、美的感覚が「形成的 な」(formative)ものとして、また「性刺激的な」

(6rog6ne)ものとして成り立つとされる問題であ る。この種の同一化は、おそらく、ローレンツのい うインプリンティングに近いものかもしれない。つ まり、同種類の生物の姿を見ることが、或る種の生 物学的成熟を動機づけるということである。だが、

人間の場合、それはどのような人間的性質を引き出 してくるのだろうか。この点についてのラカンの説 明こそ、もっとも興味深いところである。

 ラカンは、鏡像段階の機能を、人間の認識とその 生体としての存在との問の深い「切断」の問題とし て、展開しようとしているように思える。ラカンに よれば、イマーゴの機能は、生体と現実との関係、

すなわち、内界(lnnenwelt)と環界(Unwelt)と の関係を示している。この場合、環界とは、まさし く人間の認識にかかわるものである。ラカンによれ ば、認識はいうまでもなく、人間においては、他の 動物には見られないように、欲望の力の場から自律 的な存在である(ibid., p.96,同上、128ページ)、

しかしラカンは、自我のこのような鏡像段階にみら れるありかたのなかに、すなわち、自己の統一性を 他者に似た像としか認識できないことのなかに、人 間における進歩と同時に、「現実性の少なさ」(peu de realit6)をも見るのである(ibid.,同上)。人間

の認識のこうした一種の制限性ともいうべきもの は、ラカンのはやくからの研究テーマであった。彼 はそれをパラノイアの研究において深めていったの である。ラカンがさきに「人間世界の存在論的構 造」と呼んだものは、人間がこうした自己の統一性 にまつわる一種の「制限性」にたいして、ある全体 的な回復をその後の人間関係においてくりかえし求 める傾向をもつことを述べたものにほかない。つま り、彼のいう人間のもつ「パラノイア的認識」の構 造である。

 パラノイア認識については、ラカンはつとに、人 間の「攻撃的動向」と関係させて問題にしていた。

すこし遠回りするようだが、このことを説明してお こう。ラカンは「精神分析における攻撃性」(L

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