大林宗嗣の厚生文化政策
―同志社厚生学における教育活動をめぐって―
梅 木 真寿郎
はじめに
大林宗嗣(1884−1944;以下 「大林」)は、わが国において、はじめてセツル メントを体系的に研究した社会事業の論客として知られる人物であり、その著書
『セッツルメントの研究』は、セツルメントや労働者教育を研究する上で、現在 でもなお色褪せることなく、代表的な古典としての位置を占めるものである。
大林は、北米シアトルの地において、メソジスト系である日本人美以教会にお いて、牧師として邦人に対するキリスト教伝道者として働いた。その後、大原社 会問題研究所(以下、「大原社研」)の研究所員に転じ、社会事業や民衆娯楽と いった多様な研究を行い、その晩年において、同志社大学文学部に所属し、教育 活動に従事するといった経歴を持つ。そういう意味では、多彩な経歴の持ち主で あったといえる(1)。同志社における大林を研究する意義についてであるが、永岡正 己(2004)は、この点について次のように指摘している。
同志社社会福祉にとって、とくにその専攻開設から敗戦に至る時期にあっ て、大林の存在は欠かせないものであった。第一に、開設初期、竹中勝男を 中心として、牧野虎次、海野幸徳、濱田光雄、大林宗嗣が補い合いながら教 育を進めた。その中で大林の社会調査、社会運動、社会主義、社会教育、思 想史の交差する研究は、それを欠いては同志社社会事業の教育・研究の全体
像が揺らいでしまうような重要な領域を占めていた。第二に、大林が専任教 員となったのは戦時体制下であり、大林を含めて同志社大学は厚生学確立の 全国の先頭に立って研究を進めた(2)。
このことからもわかるように、大林が同志社社会福祉の黎明期に位置する人物 であり、「神学科ノ内容ヲ充実セシムル」(3)にあたり、キリスト教と社会理想主義 の思想的交差によって結実したセツルメントの第一人者であったという研究実績 は、同志社の神学科の拡充策として社会事業学を追求する上での適格者の一人で あった。なお、「神学科社会事業」を以て、同志社教育の真髄とさえする言説も 散見される(4)。そしてその社会事業学専攻創設の趣旨(5)に鑑みた場合、これまで殆ん ど論じられることのなかった大林についても、同志社社会福祉の教育そして研究 について考察をするにあたり、どのような位置を占めていたのかについて検討す る意義は少なくない。
そこで、まず先行研究について、確認しておきたい。大林についての研究とし ては、セツルメントや娯楽研究そして女給研究といった文脈で語られることが多 く、年代としては、主に1920年代から1930年代前半を扱ったものということがで きる。また、戦時下の厚生事業については、通史的な研究における吉田久一や池 田敬正(6)などによる労作がみられ、特定の人物に絞ったかたちでの研究も存在する。
しかし、その多くが厚生事業における開拓的な人物として知られる山口正や竹中 勝男(7)についての論述が主なものであり、後塵を拝した観の否めない大林の厚生事 業については、これまであまり研究されてこなかったというのが実態である。
1930年代後半から1940年代前半の大林を扱った研究は、石川弘義(1979、
1982(8))や永岡(2004(9))による研究に留まる。石川は、論文「ナチス独逸民族厚生 の構造」と著書『共栄圏民族の厚生文化政策』について言及している。まず、前 者についてであるが、「そのタイトルの示すとおりナチスの『厚生』政策につい て種々の文献を引用してその歴史と現状を紹介したものである。(中略)論文が
全体的にはナチスの民族と国家の理念をアプリオリに肯定する立場から書かれて いることは疑いない。昭和19年という時代的背景の反映でもあろうが、ここでの 大林の表情に大きなとまどいを覚えるのは筆者だけではあるまい」(10)と述べている。
石川は、教化としての『民衆娯楽の実際研究』や『セッツルメントの研究』にみ る「大衆的社会事業論」を展開していた当時と対照させ、研究の視点の大幅な変 容を指摘している(11)。また、後者については、大林が序において同書の執筆経過に ついて、「同志社大学厚生学専攻科での講義をもとに、三回ほど改稿し、さらに それを『論説風に』書き直したものである」と言及している点をふまえて、講義 向けの「概論ふうの記述」と、「時局」を意識して書かれた文章が混在しており、
結果的に「講義向けの部分だけが浮き上がってしまっている(12)」と述べている。そ して、「『厚生』、とくに日本の『厚生』とは何か。この点についてまとめた仕事 が大林の遺著となった『共栄圏民族の厚生文化政策』なのであった(13)」とした上で、
「本書で最も興味あるのは大林の厚生概念との格闘ぶりである(14)」と述べ、次の点 を評価している。
「厚生」の訳語を検討するために大林があげているドイツ語、イタリア語、
英語の数々は、大林の意図とは別に興味深いものを持っている。と言うのも、
「KDF」、「ドポラヴォーロ」、そして「厚生会議」―これらはいずれも昭和 10年代の娯楽と余暇の研究者たちが非常な熱意をもってとり組んだ、ドイツ とイタリアのファシズム体制下における娯楽統制のモデルと結びつきを持つ ものだったからである(15)。
そうして大林は結論的にこう言う。「厚生事業から一律の厚生運動を加え て、非常時局に於ける新体制の一角にまで参加するに至った処の広義に於け る厚生運動は新事態に即応して、国民生活の革新教化の予備的段階としての 心身の陶冶錬成を其の内容とする処の全国的な厚生運動となって来た」。大
林の研究のたどって来た歴史は、日本の娯楽・レクリエーションがたどらさ0 0 0 0 れてきた0 0 0 0日本的な歴史そのものでもあった。そうしてこれは権田保之助にも 共通していたことでもあったのである(16)。(傍点は原文)
このように、石川の研究においては、「厚生」という言葉を手がかりに、娯楽 研究や余暇研究の側面からも大林を捉えることが可能であり、権田との共通性が 存在することを指摘するものとなっているが、この点については首肯できる部分 である。しかし、石川が、「同志社大学に勤務してからの大林は、『厚生』問題に ついて関心を持っていたようで…」と述べているわけであるが、この説明からで は、「厚生」 問題又は厚生事業にのみ大林が邁進していったようにも読み取れて しまう。しかし、実際はニュアンスが異なるように思われる。同志社大学での大 林を理解するにあたっては、大林が取り組んだ諸側面についても考慮に入れると ともに、時局下に許容される出版物に依拠した分析だけではなく『大林宗嗣日記』
等を踏まえ、その心情面まで掘り下げた上で、相対化させたときにはじめて理解 し得るものではないだろうか。この点についての実証は、後述することとしたい。
次に永岡による論考であるが、石川とは異なり、『大林宗嗣日記(17)』についても 一定の考察を加えており、また、『基督教研究(18)』や「同志社大学社会事業教育後 援会報(19)」から当時の同志社の状況把握も行い緻密なものとなっている。具体的に は、先ず同志社大学社会事業学会(20)や同志社大学社会事業教育後援会の設立趣旨や 事業を押えた上で、大林が同志社大学神学部の嘱託講師となった経過について「関 西の社会事業研究者の中心の一人として、キリスト教社会事業思想史の面で重要 なセツルメント研究者として、その元牧師の社会派キリスト者として、とくに専 攻の研究上で大林への期待があったと思われる(21)」と分析している。この点につい ては、妥当なものと考えるが、但し「思われる」部分について、十分な実証が必 ずしも行われているわけではない。この点についても、後述したい。次に、大林 の厚生事業の研究について、「1939年12月の『生産的意義に於ける社会事業の再
検討』あたりから生産、文化、教育の視点を媒介として変化を見せていたが、専 任教授となってからは、時代の要請と厚生学専攻の新たな重い役割を負って、(中 略)厚生事業論を加速させた。(中略)大林は国民厚生への拡大を、厚生の普遍 性と文化の視点から論じようとした(22)」、「セツルメント研究における社会教育的で 文化的な視点を経路として、彼の思想的基盤であった民主的で自治的運動的な視 点を弱め、国民教化的な視点、さらには『民族厚生』の方向へと転換させ、戦争 政策への接近を見せていった(23)」と分析している。論文等を通じた分析としては、
この指摘に間違いはないのであるが、先にも述べたとおり、時局という厳しい出 版統制と言論統制が敷かれている状況下での出版物であることを鑑みた場合、仮 に従来からの論調で展開を試みたとしても、どのような帰結が待っているかにつ いては、想像に難くない。したがって、日記などの個人的な文書を手がかりとす ることで、よりその人物の真相に迫ることが可能であると考える。
そこで、本論稿においては、「大林宗嗣日記」の記述を通して、大林は本心で はどのようなことを考え、同志社大学の教壇に立ち、何を伝えようとしていたの かについて、考察していくことにしたい。そして、同志社時代の大林を考察する にあたって、①大林の同志社着任に至る経緯について、同志社が期待したことに ついての背景と大林への処遇、その処遇に対する大林の心情について明らかにす る。②同志社大学厚生学専攻の設置までの経緯と、大林の学内的な位置について 考察する。③社会事業思想から厚生文化政策への変遷と、同志社における大林の 学究について考察する。以上の枠組みを通して、大林の厚生文化政策とは何だっ たのか。そして、同志社において行われた教育は何であったのかについて検討し ていくこととしたい。
なお、大林が意図した「厚生」という言葉についてであるが、既に石川による 先行研究のレビューにおいて述べたが、改めて確認しておきたい。時局に伴う新 体制下の「事態に即応する為めに厚生事業の内容は尚ほ更に進展して単なる社会 救済事業たるに止まらず、尚ほ社会娯楽や余暇利用をも包括し、尚ほ大東亜の端
緒となった支那事変に依って喚起せられたる新事態に順応する国民主義的民族運 動に迄進展した(24)」との言説を石川は引用しているが、ここでは 「厚生事業の文化 学的意義」 の中での言及を採用したい。
文化は動物から人間を特殊づける人間独自の生活要素である。(中略)厚 生の概念は、人間としての吾等の生活を常に問題とする事に於てその特色を 有する。(中略)此の意味に於て厚生事業は又一つの文化事業である。それ は人間の動物的生活よりの解放であり、人間の人間的生活への内的更正であ り更にその更正に依って一層高き精神文化への向上と発展の為に道を備ふる 文化政策の使命を荷ふものである(25)
大林は、最後まで完成を見ることはなかったものと推察されるが、『日本厚生 生活史(26)』を構想していた。大林は厚生の対象を 「生活」 と捉え、その生活の要素 である 「文化」 というものを通して、人間的生活(人間らしい生活)たらしめる ために行うものを厚生事業の意義として考えていたということを確認しておきた い。
Ⅰ 大林の同志社着任に至る経緯
大林は、1933年4月に同志社大学文学部神学科社会事業学専攻の嘱託講師とし て教育活動に従事するようになった(27)。但し、1936年8月までは、大原社研の研究 所員であったことから、その軸足は同志社にはなく、大阪の大原社研にあった。
大林が同志社に研究及び生活の拠点を移行するきっかけとなったことは、大原社 研の東京移転による事業規模の整理・縮小に伴い退職を余儀なくされたことにあ る(28)。なお、人事処遇の動きが活発化することになったのは、1936年7月28日に、
高野岩三郎所長が東京移転を発表し、大阪毎日、大阪朝日、聯合通信などへのプ
レスリリースが行われたことによる。大林の獲得に向けて、迅速な動きを見せた のが、竹中勝男であった。間接的には、1936年7月5日に開催された同志社大学 社会事業学懇親会に出席した大林と竹中、大塚らの接触が確認できることもあ り(29)、何らかの折衝があったものと推察される。なぜならば、8月6日から12日ま での交渉が矢継ぎ早に行われているからである。この点は、『大林宗嗣日記』(1936 年)の中で次のように確認することができる。
1936年8月6日 木曜日「午後二時大毎三階社会事業団室にて西村博士、竹中 氏と会見す。予は研究所の東京移転問題に就て竹中氏と懇談す。研究所の敷地建 物の問題―直に辞して帰る。竹中氏は予に同志社教授たらん事を約す。予より何 も願ひたるに非ず」。
1936年8月8日 土曜日「同志社竹中教授より手紙来りて総長予と研究所にて 会見を求めらる。予は直に来る十二日を指定して返事を書き大津郵便局迄到て投 函」。
1936年8月12日「九時研究所行き、小使中島に各室を開けしめ十時過ぎ同志社 総長湯浅八郎氏単独自動車にて来る。二階会議室に案内して涼風を容れ研究所の 内容予算決算等に就き説明猶ほ東京移転の転末を説明す終りて建物を一應案内し て室に帰れば十二時過ぎにて予個人の就職に就いても総長の御考慮を煩はして 十二時半分れて自動車にて去らる」。
1936年9月2日 水曜日 「快晴 酷暑つゞく。十二時竹中氏と朝日地階にて 食事して予が同志社に教授として己に教授会に推選ある旨を聞き一時分れて帰 る」。
1936年10月1日 木曜日「午前九時出勤、醤油屋に寄る研究所にて昼食森戸君 予の室に来りて予を松澤君に推選せりと関西学院の講師として、予は既に同志社 に内約ありと答ふ。森戸君『それは両立せざる事なし』予謝す」。
1936年10月20日 火曜日 「高野氏に昼食後逢ひ同志社の事を報告す」。
1936年11月17日 火曜日 「折柄森戸君ありて予に来る十二月一日中之島公会 堂の話を依頼す、原稿書き又履歴書を書き森戸氏へ渡し関西学院へ就職運動の為 めにす」。
ここまでの経過を整理すると、8月6日に竹中勝男より、同志社大学への教授 での人事の提示があり、8日には同志社の湯浅八郎総長が面会に訪れ、人事の案 件について話し合いが持たれる。9月2日には、再度竹中より教授での人事の用 意があることが確認され、10月1日には、森戸辰男より関西学院の松澤兼人への 推挙の打診に対して、同志社への内定のもと関西学院への推挙を辞退し、10月20 日にも、高野岩三郎所長にも同様の報告を行っている。なお、永岡は 「1936年12 月、大原社研の東京移転に際して退職した大林は、大阪府泉北郡の海沿いの地か ら京都府の向日町に居を移し、1933年から非常勤講師(教授待遇)をしていた同 志社大学に勤めながら研究を続けた(30)」 と述べているが、この根拠と考えられるの は、『大林宗嗣日記』1936年10月27日にある「昼食後竹中氏来訪予の室にて三十 分間位ひ雑談し二時高野氏出勤せるより両氏会見予を教授待遇講師として四月よ り招く事に決定す」によるものと推察される。日記においては、これ以上のこと はわからないが、しかし、11月17日には、森戸に履歴書を手交し、関西学院への 人事を依頼するといった流れに鑑みると、11月の上旬から中旬の間に、同志社へ の教授としての人事が困難になったことが推察される(仮に教授待遇であったと しても、教授ではなくあくまで嘱託講師である)。なお、当時の大林の月給は25円、
年額300円(31)にすぎず、専任教授の時の年額2,000円(32)とは、大きな隔たりがある。そ の後、大林は失業したと認識しており、日記の中の俳句(33)にもそのことを伺うこと ができる。このように、大林は、現状に対して満足しておらず、何とかして活躍 の場を得たいという強い思いを抱いていたということができる。
Ⅱ 同志社大学セツルメント構想と同志社大学厚生学専攻の設置
同志社大学の社会福祉の萌芽をどこに求めるのかというのは、極めて難しい 問題となる(34)。ここでは、1931年4月の神学部社会事業学専攻開設(35)を前提とした 上で、以下述べていくことにする。1920年代後半から1930年代の初めは、同志 社の内部的にみても中島重の社会的基督教を主導とするSCM(Social Christian Movement)の流れがあり(36)、全国的にも全国基督教社会事業協会(37)の結成などが見 られる。竹内愛二によると、「同志社と関係浅からぬ日本組合基督教会」 の中に、
1928年来「社会部を特設し約十名の委員を年々選任して調査研究、講演会及協議 会の開催、各教会の社会奉仕委員委嘱等」が行われるようになり、その中で 「基 督教的社会事業家の養成問題について協議」 が継続的になされてきた。そして、
1939年の春 「同委員中の安東長義、濱田光雄及竹内愛二の三名に同志社大学竹中 勝男教授を加へて種々具体的に画策を進め、遂に同志社大学社会事業教育後援会 設立の計画を樹立(38)」 したと述べている。1939年11月12日に、同志社アーモスト館 にて同志社大学社会事業教育後援会(以下、「後援会」)の発会式(39)が挙行に至って いるが、本後援会は侯爵大久保利武の後援を得ると共に、大澤徳太郎を理事長に 迎え、また同氏がキリスト教徒の社会的実践の場として、神学科社会事業専攻科 の実習機関としての隣保館設立に必要な資金を供するといった具体的な財源的な 裏付けも伴うものであった。
なお、これまで同志社大学セツルメントについては、あまり語られてこなかっ たところであるが、この時、同志社大学セツルメント(同志社大学西陣隣保館)
構想として存在していたことが確認できる。『同志社新報』41号において、同後 援会の事業内容として 「学生のセツトルメントを京都に建設する事と、社会事業 講座を充実する事(40)」 を通して、同志社教育の特色を発揮しようと大いに期待され ると紹介されているが、『同志社教育の伝統』の中で、その具体的な動きを確認 できる。そこでは、「一、日本組合西陣教会の土地及び建物を借り受け、之に大
澤理事長その他の寄附金を以て、大改造を施し『同志社大学西陣隣保館』を設立 する計画を立て、教会側との合同委員会を設け折衝協議をなす。二、右資金とし て三井報恩会及び原田積善会へ助成金の申請をなす(41)。」として、その後交渉を重ね、
計画の進捗も見たが、「同教会と組合教会本部との間に問題ありて容易に解決す るの曙光見えず、遂に此の計画は中止するの止むなきに至った(42)。」 と述べられて いる。しかしながら、大澤理事長より故大澤善助(同氏の父)の邸宅を後援会に 寄附されることが実現し、「『西陣隣保館』とは多少趣きを異にするが、同志社構 内に右建物を移転し、大改造を施し、学内外の保健事業及厚生学専攻科の教授及 学生の研究と実習とに当てる『厚生館』の開設(43)」に至っている。要するに、関西 学院の暁明館のような、学生セツルメントの拠点といったものとして、「同志社 大学西陣セツルメント(44)」は実現を見なかった。その結果、同志社には学生セツル メントは歴史的には存在しなかった。勿論1941年5月30日に竣工を迎えた「厚生 館(45)」をもって同志社セツルメントとすることも可能ではあるが、一般的な学生セ ツルメントとは、あくまで「趣きを異にする0 0 0 0 0 0 0」ものであったと解釈できそうである。
また、時代は前後するが、1933年5月には、同志社大学社会事業学会(46)が設立さ れ、同年4月に嘱託講師となった大林も顧問の一人として名を連ねている。当時 の大林は、セツルメント研究の代表格であり、また自身5冊目の単著となる『女 給生活の新研究』を上梓し、年齢も48歳と研究者として最も脂の乗った時期であっ た。同年に嘱託講師としての関わりを通じて、研究・教育の両面から同志社社会 事業学を支えることになった。
これまで見てきたように、セツルメントにおける実践を同志社社会事業が追求 しようとしてきた経過を確認することができる(47)。であるからこそ、その中にあっ て、同志社が大林に期待していたであろうことは、「セツルメント」に関する理 論的な指導そして教育であって、また実際に、大林は担当した社会事業特講の中 で、「セツルメント」の講義を展開した。しかし、1941年4月には、文学部学制 改正が行われ、同志社社会事業学も時局的要請に応じて、厚生学を軸とした文化
学科を立ち上げ、英文学科と哲学科を吸収再編するといった改組が行われている。
これはそれまでの三科体制を二科体制(神学科と文化学科)に縮小することによっ て財務の健全化を図る意味もあった(48)。そういった厳しい財務状況の中、この文化 学科の立ち上げによって、大林は晴れて専任教授(49)として迎えられており、このこ とは、学内はもとより朝日新聞(50)でも報じられた。「講座の強化」 は、「後援会」 の 事業活動における設立当初からの懸案事項であったが、竹中によると、「三菱会 社寄附の二千円を基本として本年四月より講師大林宗嗣、竹内愛二両氏をそれぞ れ教授及専ら力を入れらるゝ講師として招聘(51)」 することができたものであった。
しかし、念願であった教授入りを果たした大林にとって、その後の研究そして教 育は、決して順風満帆というわけにはいかなかった。大林にとって本当の意味で の苦悩の始りはここからであって、この段階までは、ほんの序曲に過ぎなかった ということができるだろう。
Ⅲ 社会事業思想から厚生文化政策への変遷
大林が同志社大学を研究・教育の拠点としたのは、1937年3月28日(52)であり、京 都の乙訓郡向日町圓山町に新居を構え、大阪府泉北郡大津町助松より転居してく る。大林にとって同志社社会事業における端緒となった研究活動は、『同志社大 学社会事業学会報』第2号所収の 「社会救済異説(53)」 である。大林は、その中で社 会救済について「全体社会の協同生活者としては貧困者に対して貧困ならざる 人々は重大なる責任を有してゐる(54)」と社会的連帯は責務であると述べる。そして、
マルクス主義ではないシドニー・ウェッブのフェビアン主義の立場を取り、次の ように言及する。
貧困なる社会事業は弱者の掠奪に依る罪悪の被害であると考へられた。そ んな風の考へ方は後のマルキシズムの貧困に対する解釈の先駆をなすもので
さへもある。そうした考へ方からは社会連帯協力の説は出て来ない。斯る罪 悪的制度の根本的再組織が之れを解決する唯一の道であると考へらるゝ、で あるが故に其処にも亦現代的な社会救済の方策は成り立たない(中略)與ふ べきは物質でなくして自力更正の能力であり、(中略)吾等が現在の社会に 於て社会救済を力説する所以は斯る財貨の社会的分配が人間の正統なる勤労 の報酬を贖ふに足る事を標準として適切に分配せられねばならない事を信念 とする処にあると云ってよい(55)。
大林の論文の中では、1928年から1930年代前半までのものに、マルクス主義(56)の 立場から書かれたものが少なからず存在するが、同志社に拠点を移す1937年の段 階では、社会民主的な立場性をみてとれる。例えば、「社会事業に関する断想」
の中で、「私は社会事業を律法化する事を勧説推奨したい(中略)社会事業は律 法化する事に依って一層深く社会政策化する(57)」 と社会事業の社会政策化の必要性 の言及が見られる。そしてその点について具体的に展開したものが、同志社大学 社会事業学会で講演した 「社会政策と社会事業との交渉(58)」 となっている。大林は、
「法制化された事は、後天的である善意の自由の発動を助ける為である」とした 上で、社会事業の目的を「社会の貧困なるものゝ個人的救済」であるとし、一方 の社会政策の目的を「貧そのものに向っての政治的政策が根本」であるとする。
そして「我々は当然両者は相提携して行かねばならぬし、行きつゝあると云ふ事 を申し、簡単ではあるが私の話を了る事とする(59)」と結んでいる。
ここまでを簡単にまとめてみると、大林の社会事業思想は、隣人愛の発露とし ての善意の自由なる発動を社会事業の根底に置き、セツルメントに代表されるよ うな 「自治的社会事業」 の実現に向けた社会教育的な展開を通じて世論の喚起を 図ると共に、社会事業の律法化を図っていくといった 「社会事業の社会政策化」
が求められるとするものであった。大林にとって、このあたりまでの社会事業を 論じることは、以前からの延長線上にあり、苦悩するまでもなかったと考えられ
る。また、同志社での置かれた身分もあくまで嘱託講師であったため、時局下と いった状況からの逃避が可能であった(60)。実際、『大林宗嗣日記』を見ると、1937 年は雲のデッサンをしたり、1938年から1940年については、『芭蕉史蹟考』の執 筆のための視察旅行(「旅」)やラスキンの雲の研究をしたりと生活の大半を趣味 の時間に費やしている。論文としても雑誌『上方』への投稿が増加してくるのも、
この頃であった。『大林宗嗣日記』1938年8月17日の中より、一つだけ紹介して おくと、「此の頃の興味鐘の音の研究に集る」とあるように、ラヂオで鐘の音を 聴いたり、頻繁に鐘を見にいくといった行動が確認できる。しかし、そのような 生活は長くは続かなかった。
「皇紀二千六百年」(1940年)の前夜あたりから、明らかにその論調に変化が見 受けられるようになる。そのことは、1941年4月に厚生学専攻の専任教授となっ たことで、決定的になり 「時局」 という状況に正面から向き合うことを強いられ ることになった(61)。「社会事業漫談」 の中でも見られるように、大林は社会事業は 特定の社会理論に結び付くのではなく、その時代思潮として、最適な社会理論と 結び付くといった持論を以前より展開しており(62)、この部分こそが時局下の「全体 主義」を受容する呼び水の一つとなったと考えられる。
今後の社会事業には新たなる使命が課せられてゐる。それは社会事業が新 しき社会理論に結び付いて所謂極左社会理論の実践的誤謬を精算し、更に他 方に於て封建的慈善事業が罪亡ぼし的な或は自己陶酔的な仮面の下に乱立不 統一を暴露したる欠陥を是正して、社会事業自体の拠って立つ社会事業理論 の新建設に向って猛進しつゝある(中略)今後の社会事業は(中略)全体社 会を基礎として体系づけられたる全体社会事業の各分野を科学的に研究した る人々の全体的組織に依って運営されねばならない(63)
つまり、社会事業というものは、特定の社会思想や社会理論を本質的に具有す
るものではない、だからこそ、「全体主義」が時局下における最適な思想であれば、
特段の問題はないということに帰結することになる。この部分こそが、大林の社 会事業理論の特徴であるとともに、最も脆弱な部分であったということができる。
それでは、どのような厚生文化政策として帰結したのだろうか。おそらく出版さ れた中で、最後(64)に執筆したものと考えられる論文が、「共栄圏民族の厚生文化政 策の要請」 であるが、以下のとおり、その中では以前と比べ大きく変貌した言説 が散見され、すでに学説としての理論という体裁で語られるものではなく、翼賛 的なプロパガンダの印象さえ受けるものである。
精神的にも体力的にも 「力」 ある頑健なる民族となる事が各民族の自立独 立―他力的独立に非ず―を完ふする所以のものである。かの狡猾なる米英の 魔手に依って宛ら飼犬の如く馴らされて、全く去勢されたる個人主義の群集 を以て成れる従来の属領民族をして其の飼主に反抗して断乎として起ち得し めん為めには、民族全体主義、共栄圏全体主義の中に徹底的に錬成さるゝ事 に依って、自力を完全に獲得せしめねばならない。而してそれは実に民族厚 生文化政策の体系に属する事業である。(中略)そして民族の自主独立とそ の共栄圏的発展が当然に期待される(65)。
しかし、「時局益々切迫を加えたり 対米関係流言あり予は飽く迄平和的解決 であるべしと確信す(66)」とあるように、日米開戦前のことではあるものの、出版さ れたものとは裏腹に、日記の中では、率直な本音を語る大林に出逢うことができ る。もちろん、そのことによって、所謂 「戦争責任」 なるものが軽減されるとは 思わないが、本心では平和を望んでいたのではないかと思われて仕方がない。ま た、「考えて見るに斯うした課題を私の如き者が取扱ふ事が既に過重の負担であっ た(67)」との言葉は、そのことを端的に物語っているのではないだろうか。これら大 林の内面を鑑みた時、先にみた言説は、小倉の言葉で言うところの 「抵抗への挫
折」 を契機とした 「自己解体(68)」 を強いられたものであると言うことができるので はないだろうか。特に大林にとっては、第Ⅰ章で述べたとおり、活躍の場を得た いとの強い思いの中で、漸く得ることのできた専任教授のポストである。まさに 文字通り、日々苦悩(69)しながら、必死になって取り組んだ結末であったいえるだろ う。
Ⅳ 同志社における大林の教育活動と学究
同志社における大林の教育活動についてであるが、まず担当科目の推移につい て確認しておきたい。1933年度の担当科目は、三課程への「社会事業特講」であり、
内容的にはセツルメントの講義であった。1935年度からは 「社会事業特講」 に加 えて、「社会調査」 も担当する。1937年度は水曜日に社会調査、社会教育を講義。
加えて卒業論文の審査も行った。以下、1938年度は木曜日に社会教育、社会事業 特講(セツルメント)。1939年度は社会調査、社会教育の講義と卒業論文審査。
1940年度は社会調査、社会事業特講(セツルメント)、卒業論文審査。1941年度 は厚生事業史(1単位)、社会調査(1単位)、文化政策(1単位)の講義へ変更 される(70)。1942年度は文化政策、社会事業特講、独書講読を行い、1943年度は社会 調査(一・二課程)、厚生事業史(二課程)、厚生学特講としてKDF(一・二課程)、
文化政策(一課程)、独逸語(一・二課程)、厚生学特講 ナチス独逸研究(三課程)
の講義を行った(71)。
次に、大林の教え子たちについてであるが、この点については、これまでほと んど言及されてこなかった。わずかに、西内潔が著書『日本セツツルメント研究 序説』(初版)のはしがきに 「特に、恩師大林宗嗣博士の著書(中略)におうと ころが大であった(72)」 との記載に対する指摘がある程度である。そこで、大林の指 導を受けた学生がどのような人物でどのような進路を辿ったのか、大林宗嗣日記 に名前が複数回登場する人物を中心に紹介しておくこととしたい。
大河内弘介氏は、1939年度神学科の卒業生であり、卒業論文のテーマが「社会 教化としてのセツツルメントの意義(73)」であった。日記の中には次のような記載が ある。「本月末の論文の為め午後東京より帰りたりとて大河内弘介君来訪。東京 にて予の紹介せし高野博士後藤君に逢ひ又高野先生の紹介にて三好豊太郎、笠 位信太郎君に逢ひたりと約一時間談じて去る(74)」、また卒業後も「午前九時半頃東 京社会事業協会学生大河内弘介君来る。徴兵にて朝鮮に帰る途上二三日滞在する と(75)」や 「大河内弘介君よりのハガキ便りに返事をかく(76)」 とのやり取りがみられる。
大河内氏については、大林が最も手をかけた学生の一人と思われ日記の中でも散 見することができる。卒業論文のテーマやその後の就職斡旋などから考えても、
大林の研究スタイルを最も吸収した学生の一人だったと言えそうである。なお、
大河内氏と友人関係であったと思われる学生に脇田悦三氏がいるが、卒業論文の テーマは「児童保護事業法にいふ心神耗弱児童を対象として」であり、知的障が い児施設である白川学園に就職している(77)。
西脇勉氏は、1940年度神学科の卒業生であり、卒業論文のテーマは、「京都市 に於ける要保護世帯の研究(78)」 であり、淀川善隣館にセツラーとして就職してい る(79)。大林が卒業論文の審査(80)をおこなっており、講義においても特に目をかけてい たように思われる(81)。なお、西脇氏は、戦後、四国学院大学にて教鞭を取っており、
また同大学の研究紀要に 「我が国セッツルメントの現代的課題−隣保事業の現状 分析とその発展方向への指針(82)」 として論文にまとめている。大林のセツルメント 論の系譜の一端として捉えることができる。
高橋才登氏は、1941年度に渡米し、「エール大学にあって社会事業の研究に従 事(83)」 していた人物である。大林の日記によると、「予は今朝アメリカのエール大 学に在学中の高橋才登君より手紙を受け取り(予を高橋君の担当教授なりとニ ユーヨーク社会学校に入学の為報告せし由)本年度より予は教授となりし旨高橋 君に返事を午後の便にて出す(84)。」、「ニユーヨーク社会事業学校より現在エール大 学在学中の高橋才登君に関して問合せ来る手紙書き(高橋君の為にニユーヨーク
社会事業学校秘書エリザベス・スピヤーに書く(85))」と記されてあるように、留学 を全面的にバックアップしていることが理解できる。
藤井利夫氏は、1941年に同志社高商を卒業後、厚生学専攻に進学している。「伏 見の社会調査を了へて(86)」の中にあるように、「伏見カード階級職業調査」 をおこ なっているが、その時の現場指導を担当したのが、社会調査の担当をしていた大 林であった(87)。なお、その時の 「修練団厚生学専攻学術班」 のメンバー(88)は、藤井利夫、
大石長二郎、岡崎和子、小林栄次郎、大木健、小田清次、上栗頼登、平岩治の8 人であって、彼・彼女等によって社会調査研究会が組織された。またその翌年に も藤井利夫(総務)、大木健(企画)、相川(財務)、山口(調達)、上栗頼登(文 書)、小林栄次郎(教化)、岡崎和子(婦人)、体育―金原以作(体育)、大石長二 郎といった二課程のメンバーを中心にした 「修練団調査隊」 を結成し、伊豆諸島
(伊豆七島)の内の 「式根島」、「新島」、「大島」の三島を巡っての視察調査を行っ ている(89)。ちなみに、この厚生学専攻の一期生たちに対しては、大林は特別な思い 入れがあったようであり、学生からの大林のイラスト画入りの「寄せ書き」をア ルバムに閉じ込んで終生手放すことがなかった。以上のように、大林が「社会調 査」を切り口とした実際的な教育実践を行ったことと共に、研究そして実践の福 祉の第一線へ巣立っていったことがわかる。
また、日記の中に記載のある彼等が取り組んだであろう試験問題を紹介してお きたい。
1942年3月10日10時10分より一課程試験問題、「社会調査五問中より三問選び 回答せしむ 一、推計法を説明せよ 二、アンケート法とサーストン法を比較せ よ 三、図表の種類を挙げてその得失を示せ 四、本業副業内職の差違を挙げて その相互関係を示せ 五、家計調査の完全なる方法を示して説明せよ」。1942年3 月13日より文化政策の試験問題「左記五問中より三問を選び回答 一、文化の価 値概念の三要素 二、文化の社会性 三、技術を文化的見地より究明 四、文化 政策の対象 五、シュパンの批評」。1943年9月7日より「社会調査 一、大量
観察の意義並に内容を述べよ 二、大量観察代用法とは何ぞや 三、○○○法 を説明せよ 四、アンケート法を批評せよ 五、本業別業及び内職の差違如何 六、家計調査の意義目的並に労法に就て述べよ 右の中四問に回答すべし」。
1943年9月8日より「厚生事業史 一、托鉢数回の救済方法を批評せよ 二、ギ ルドの相互扶助に就て 三、寺院制度の救済の得失如何 四、新労働貧此対策を 論究せよ 五、救貧対策としての1823年法を批判すべし 六、オウエンの社 会救済事業如何 右の中四問に回答すべし」とある。
これらを概観した感想としては、第Ⅲ章で示したように社会へ発信する出版物 としての翼賛的なプロパガンダではなく、学問としての正当な問いの内容である。
そう考えた場合、同志社厚生学において行われた教育は、学外向けの外の顔(仮 面としての第一線のファシズム研究)と、実際に学生へ教授する内容としての本 来の素顔(本質的な社会事業の思想と調査技術)には、ズレがあったのではない だろうかとさえ思えるのである。
最後に、大林の同志社での学究の最大の成果物であろう、1942年12月6日の14 時より開催された同志社大学文学部厚生学研究室主催の厚生問題研究発表会にま つわるエピソードを紹介して本論稿を閉じたいと思う。大林は同志社本部広間に て小泉親彦厚生大臣の臨席のもと、「ナチス厚生の理論と厚生制度」を研究報告 したことで知られているが、学生たちの反応は次のようなものであった。「九時 登校 文学部職員室にて火に当り十時二十分より一課程に文化政策講義に教室に 入るや全学生起立拍手にて迎ふ。『昨日の会の感激のお礼なりと』国枝君態々弁 明に教壇下に来る。大に面目を施こす(90)」とある。大林の学究に対しての最大の賛 辞であり、苦悩の連続の中でかすかに報われた瞬間であったのかもしれない。い ずれにしても、学生からも厚い信任を受けた教授であったといえるだろう。
おわりに
大林は、以上のように、セツルメントの有力な研究者としての期待の下、招聘 された。しかし、時代に翻弄され、「自己解体」 を迫られる研究環境に身を置いた。
しかしながら、学内における、教育活動においては、ファナティックな国家主義 者ではなく、よき教育者であり続けたそんな人物であったように思われる。
本論を結ぶにあたり、今後の課題を述べることで、結語に代えたい。まず、大 林にとって、同志社生活のそして人生最後の年となった1944年の状況についてで あるが、日記も1943年12月までで途絶えていること、その後に執筆した論文等も 渉猟できていないといった史料上の制約もあり、充分な精査ができていない状況 にある。今後は牧野虎次総長、竹中勝男そして竹内愛二、嶋田啓一郎、河田敏子 等の関連人物を通じた資料蒐集等を行い、その点を掘り下げていきたい。なお、
今回は紙幅の都合上、厚生文化政策の理論的な考察は、十分に行えていない。同 時代人であった山口正、竹中勝男、大河内一男などとの比較検討を通した大林厚 生文化政策の理論的な位置づけなどについても、今後深めていきたい。
謝辞
本論稿の執筆にあたり、同志社大学社史資料センターより戦時下の貴重な史料 の閲覧等、格別のご厚情を頂戴致しました。記して、感謝の意を表したいと思い ます。なお、本論文は、同志社大学人文科学研究所第18期第3研究による研究成 果の一部となっています。
注
(1) 大林の略歴等は、本論稿では割愛した。詳細は、永岡正己「川上貫一と大林宗嗣」
(『日本福祉大学研究紀要』第58号、日本福祉大学、1984年1月) 243−296頁。永 岡正己「川上貫一、大林宗嗣年譜および著者目録」(『日本福祉大学研究紀要』第 62号、日本福祉大学、1984年12月) 104−126頁。永岡正己 「大林宗嗣の生涯と『セッ ツルメントの研究』―キリスト教・社会事業・社会問題の交差―」(『戦前社会事 業基本文献集30・大林宗嗣 「セッツルメントの研究」』日本図書センター、1996年、
所収)1−32頁。西村みはる「女給生活の新研究 大林宗嗣著 解説」(五味百合 子監修『近代婦人問題名著選集社会問題編第三巻』日本図書センター、1983年、
所収) 3−12頁。拙論 「大林宗嗣の思想変遷における布石と『セツルメントの研 究』への胎動」(『同志社社会福祉学』第20号、同志社大学社会福祉学会、2006年)
59−69頁。拙論 「大林宗嗣研究の動向と課題」(『福祉と人間科学』第19号、花園 大学社会福祉学会、2009年) 71−91頁を参照のこと。
(2) 永岡正己 「大林宗嗣―その歩みと同志社」(井垣章二、小倉襄二、加藤博史ほか、
同志社大学社会福祉学会編『社会福祉の先駆者たち』筒井書房、2004年、所収)
169−181頁。
(3) 同志社大学人文科学研究所編『同志社理事会記録1904 〜 1937年摘録(1)』(同志 社大学人文科学研究所、2006年)95頁。
(4) 学校法人同志社ホームページ(http://www.doshisha.ed.jp/history/niijima.html)
の「同志社のあゆみ」の中の「新島襄と同志社」にも次の一節が紹介されている。
新島は、「キリスト教人格主義を通して、キリスト教の伝道者を育成するとともに、
近代科学を教授し、デモクラシーを体得した人間の育成に精励した。新島が学生 たちに『世の中のため』に生きることの大切さや『社会事業は神の委託事業であ る』と口癖のように言っていた」とある。また、中條毅 「社会学部の設立構想と その経緯−想い出すことなど」(『評論・社会科学』第100号、同志社大学社会学 会、2012年)11頁。中條は回顧録の中で、戦後の大学理事会の席上において、「安 藤理事長は開口一番、『キリスト教をバックボーンとした社会事業の推進が同志 社の真髄であり、輝かしいその伝統を継承することが肝要である(以下略)』」と あり、同志社の良心教育において、キリスト教と社会事業が重要な位置を占めて いたことがわかる。
(5) 「社会事業学専攻新設」(『同志社校友同窓会報』第49号、1931年1月15日)の中でも、
「わが神学科に社会事業専攻を置くは蓋し、基督教信仰によりて立つ人物にして、
同時に社会改造の専門的技術家を養成せんためである」とある、また竹内愛二は、
「神学科内に一専攻として置いた理由は、基督教的教養を豊ならしむることを目 的としたと共に、教授力に制限あるがために少数学生主義をとらなければならな
かったことによるのである」と、そして「同志社教育の伝統としての社会と人道 への関心」について述べている。竹内愛二編『同志社教育の伝統』(同志社大学 厚生学教育後援会、1942年)4頁。
(6) 吉田久一『日本社会福祉思想史』(川島書店、1989年)、池田敬正『日本社会福祉史』
(法律文化社、1986年)。
(7) 山口正については、柴田善守 「山口正と志賀志那人」(『社会福祉古典叢書八 山 口正・志賀志那人集』鳳書店、1981年、所収)398−429頁など。竹中勝男につい ては、小倉襄二「キリスト者社会的実践と戦時厚生事業―抵抗の挫折について」
(『キリスト教社会問題研究』第10号、同志社大学人文科学研究所、1966年)、小 倉襄二「キリスト教社会事業の論理―厚生事業体制と『抵抗』の問題」(同志社 大学人文科学研究所編『戦時下抵抗の研究Ⅱ』みすず書房、1969年所収) 101−
133頁。小倉襄二「『戦時厚生事業』の論理―ファッショ化と社会事業の変質」(『評 論・社会科学』第1号、同志社大学人文学会、1971年) 16−33頁など多数の先行 研究が存在する。
(8) 石川弘義(1979)「『娯楽』から『厚生』へ―大林宗嗣研究ノート」(佐藤毅、石川弘義、
折橋徹彦編著『現代の社会心理』誠信書房、1979年、所収)51−58頁。石川弘義
「民衆教化思想の変容」(生活研究同人会編『近代日本の生活研究−庶民生活を刻 みとめた人々』光生館、1982年、所収)203−219頁。
(9) 前掲「大林宗嗣―その歩みと同志社」。
(10) 前掲「民衆教化思想の変容 大林宗嗣」214−215頁。
(11) 同論文 219頁。
(12) 前掲「『娯楽』から『厚生』へ―大林宗嗣研究ノート」57頁。
(13) 前掲「民衆教化思想の変容 大林宗嗣」215頁。
(14) 同論文 217頁。
(15) 同論文 218頁。
(16) 前掲「『娯楽』から『厚生』へ―大林宗嗣研究ノート」57−58頁。
(17) 大林宗嗣日記については、前掲「川上貫一と大林宗嗣」293−294頁の中で、「大 林嗣生氏所蔵日記より。大林日記は1916年と帰国後の1920年から42年にかけて断 続的に書き続けられている」との記載がある。なお、大林嗣生氏は既にご逝去さ れており、その後は嗣生氏の妻の璚以子氏が所蔵されていたが2009年12月に向日 町の大林宗嗣旧邸の取壊しに伴い、梅木にて関連資料等と共に引き取り、現在は 岐阜経済大学梅木研究室に所蔵している。なお、大林宗嗣日記の執筆年としては、
1916年、1917年並びに1935年から1943年までのものを所蔵している。したがって、
永岡が渉猟したと推察される1931年については、手元にはなく未読である。また、
永岡によっては指摘がなされていない1943年については、現存している。
(18) 『基督教研究』は、1923年に第1巻第1号が京都同志社大学神学科内基督教研究会
より刊行されたものであり、わが国で最も古いキリスト教関係の学術雑誌の一つ として知られ、当該雑誌の 「彙報」 の中で同志社の学内情報の一部を確認するこ とができる。
(19) 「同志社大学社会事業教育後援会報」は、後の同志社大学厚生学教育後援会の前 身であり、同会報の2、3、4号が同志社大学社史資料センターに所蔵されている。
(20) 「同志社大学社会事業学会報」は、1937年1月29日発行の第2号と1938年3月5日発 行の第3号が同志社大学社史資料センターにて所蔵されている。
(21) 前掲「大林宗嗣―その歩みと同志社」173頁。
(22) 前掲「大林宗嗣―その歩みと同志社」174−175頁。
(23) 前掲 「大林宗嗣の生涯と『セッツルメントの研究』―キリスト教・社会事業・社 会問題の交差―」 7頁。
(24) 大林宗嗣『共栄圏民族の厚生文化政策』(東洋経済新報社、1944年10月) 35頁。
(25) 大林宗嗣 「厚生事業の文化学的意義」(『同志社大学社会事業教育後援会報』第3号、
1941年5月)3頁。
(26) 『大林宗嗣日記』1943年。12月14日、16日、23 〜 27日、29日に「厚生生活史」の 緒論の執筆や資料蒐集等の記載がある。しかし、残念ながら1944年の日記がない ためにその後の経過は不明である。
(27) 「大林宗嗣履歴書」1937年5月、同志社大学社史資料センター所蔵。
(28) 法政大学大原社会問題研究所編『大原社会問題研究所五十年史』(法政大学出版局、
1971年)99−103頁。
(29) 『大林宗嗣日記』1936年、7月5日。
(30) 前掲「川上貫一と大林宗嗣」269頁。
(31) 『大林宗嗣講師嘱託依嘱状』1935年4月1日、同志社大学社史資料センター所蔵。
また、『大林宗嗣日記』1936年、11月30日の中で、「同志社へ二時間講義しSal- ary25受取り」とあり月額25円であった。教授待遇としての確定的な史料が現在 のところ確認できないため、断定的に取り扱うことは困難と思われる。1937年よ り担当科目の1コマ増、卒業論文審査等が加わったが、教授会への出席は見られ ない。当時の大学がおかれた財政事情と密接に関係していることを勘案すると、
報酬のみを教授待遇にするとは考え難い状況にある。いずれにしてもこの点につ いては、今後の課題としたい。
(32) 『大林宗嗣日記』1943年、4月27日の中で、「本日俸給受取 辞令を部長より受取 る俸給二千円也」とある。
(33) 『大林宗嗣日記』1937年、1月28日より、「失業の 吾れ家にあり みぞれ降る草芝」。
また、『大林宗嗣日記』1938年、7月10日より「つゆ晴れに 急ぎ行く先 何もな し 草芝」。同年7月12日「暑くとも 何か仕事を 思ふ成 草芝」。同年7月13日 には、「失業三年目」と記された後に、「仕事ある 如し浴衣の 古びかな 草芝」
と詠んでいる。
(34) 社会福祉の本質を実践に求めた場合、留岡幸助や山室軍平、八濱徳三郎、清水安 三など、枚挙にいとまがないほどの実践家を輩出しており、1880年代まで遡るこ とになる。また、更にそれらの実践家を輩出した礎としての思想や教育となると、
「右手にバイブル、左手に経済学」として知られるラーネッドらの宣教師に辿り つき、まさに創成期としての同志社英学校の時代となる。このあたりについては、
室田保夫『キリスト教社会福祉思想史の研究−「一国の良心」に生きた人々』(不 二出版、1994年)が詳しい。
(35) 神学科社会事業専攻の設置については、注(5)を参照。
(36) 上野直蔵『同志社百年史 通史編二』(学校法人同志社、1979年)1069−1093頁。
他にも倉橋克人 「中島重と『学生キリスト教運動(SCM)』(一)」(『キリスト教 社会問題研究』第61号、同志社大学人文科学研究所、2013年)91−126頁ほかを参照。
(37) 前掲「キリスト者社会的実践と戦時厚生事業−抵抗の挫折について」113−116頁。
(38) 前掲書『同志社教育の伝統』9−10頁。
(39) 『大林宗嗣日記』1939年11月12日。発会式については、「同志社社会事業教育後援 会−生る」(『同志社新報』第41号、同志社新報社、1939年11月20日)3頁では「十 月十二日」、「同志社社会事業教育後援会に大澤氏一萬圓の寄附」(『同志社新報』
第42号、同志社新報社、1939年12月20日)4頁並びに、同志社大学人文科学研究 所編『同志社理事会記録1938 〜 1955年摘録(2)』(同志社大学人文科学研究所、
2006年)204頁では、「十一月十二日」、前掲書『同志社教育の伝統』10頁では「十一 月十五日」と三者三様となっているが、ここでは実際に本会に参加した大林の日 記の日付けとも合致する11月12日とした。なお、本後援会は、1942年に「同志社 大学厚生事業教育後援会」に名称が改称されている。
(40) 前掲 「同志社社会事業教育後援会−生る」 3頁。
(41) 前掲書『同志社教育の伝統』11頁。
(42) (43) 同書 12頁。
(44) 濱田光雄 「教会の社会的活動に就て」(『同志社大学社会事業教育後援会報』第2号、
1940年6月)2頁、同志社大学社史資料センター所蔵。この中で、「同志社大学西 陣セツルメント計画図」が紹介されている。
(45) 竹中勝男「大学厚生館の新設に際して」(『同志社新報』第59号、同志社新報社、
1941年6月20日) 5頁の中で、「厚生館の事業は、(中略)同志社の北西部に拡がる 西陣地区住宅に対し、社会施設としての事業を始めやうとして居る、同地区はかゝ る施設を欠如して居るので、府社会課当局からは大いに歓迎され熱心な声援を受 けて居る次第である」と述べている。なお、厚生館の配置職員であるが、「館長 には牧野総長、主事には竹内氏及小生、医員としては安藤唯一博士、保健婦とし ては泉田政子氏」であった。
(46) 同志社大学社会事業学会の設立年については、前掲書『社会福祉の先駆者たち』
357頁の「近代日本社会福祉史と同志社」関係年表の記述では、1932年4月15日と なっているが、一方で永岡は、前掲「大林宗嗣−その歩みと同志社」180頁にお いて1933年5月と指摘している。「彙報」(『基督教研究』第10巻第4号、京都同志 社神学科内基督教研究会、1933年7月)439−440頁の中に、1933年5月末日付けの
「同志社大学社会事業学会設立趣意書」が掲載されてある。その冒頭には、「本学 に社会事業専攻科が設けられて既にその第三年目を迎え、学生も増加し、学科目 も漸次整ってゆきつゝあります」との記述がある。開設が1931年であることから、
3年目にあたる年は、永岡が指摘した1933年の方が妥当であると思われる。
(47) 竹中も厚生館の建設に向けて、時局下であまり論じられなくなってきていたセツ ルメントの研究を行っている。竹中勝男 「セットルメントの起源について」(『基 督教研究』第17巻第3・4号、基督教研究会、1940年7月)217−240頁。
(48) 前掲書『同志社理事会記録1938 〜 1955年摘録(2)』 215頁。この学制改正により「経 費年間三千円の減少」と試算されている。
(49) 『大林宗嗣日記』1941年1月30日。「午後四時頃竹中教授突如来訪。同志社教授会 にて満場一致予を教授に推選せし由を語る。而して四月より文化政策に関する講 座依頼又教授の子供の同志社に於ける月謝の半額等を伝ふ。(中略)夕食スキ焼」
とある。
(50) 「同大講談の陣容強化 田村、大林両氏を教授に」(『朝日新聞京都版』1941年4月 29日)6面の中で、「教授陣容の強化をめざす同志社大学では今回法学部講師田村 徳治博士、文学部大林宗嗣講師の両氏を正式に教授に迎へ」と報じられている。
(51) 前掲「大学厚生館の新設に際して」5頁。なお、同様の内容は、前掲書『同志社 教育の伝統』14頁。「学内の近状」(『同志社大学社会事業教育後援会報』第3号、
1941年5月30日)3頁にもあり、三つ目の史料をもとに永岡もこの点を指摘してい る。
(52) 『大林宗嗣日記』1937年3月28日。永岡は、前掲論文 「大林宗嗣の生涯と『セッ ツルメントの研究』―キリスト教・社会事業・社会問題の交差―」 22頁の中で、
「一九三七年一月 京都府乙訓郡向日町に転居」としているが、ここでは大林の 日記に従った。
(53) 大林宗嗣「社会救済異説」(『同志社大学社会事業学会報』第2号、同志社大学社 会事業学会、1937年1月29日)2−3頁、同志社大学社史資料センター所蔵。なお、『大 林宗嗣日記』1937年1月16日の中に、「午前中同志社社会事業学会会報原稿を書き 午後2時書き上げて大阪へ行く難波にて投函」との記載が確認できる。
(54) 同論文 2頁。
(55) 同論文 2−3頁。
(56) 大林とマルクス主義との連関については、拙論「大林宗嗣の社会事業理論の構想
−『大衆の知的覚醒』を介したマルクス思想の受容」(『同志社社会福祉学』第23号、
同志社社会福祉学会、2009年)47−61頁を参照のこと。
(57) 大林宗嗣 「社会事業に関する断想」(『社会事業の友』23号、台湾社会事業協会、
1930年)5頁。
(58) 『大林宗嗣日記』1937年5月17日の中に、「予は二時過ぎに同志社へ出発す。三時 五分前に到着神学館二階講堂にて同志社社会事業学会主催公開講演会。予『社会 事業と社会政策の交渉』、約一時間」とある。
(59) 大林宗嗣 「社会政策と社会事業の交渉−下」(『同志社新報』第19号、同志社新報社、
1937年11月15日)3頁。
(60) 『大林宗嗣日記』1937年6月30日。「昼食の時間に大塚文学部長と右傾化する時局 や筧光顕の態度その他大学教授などのエピソードを語る。(中略) 筧光顕博士の 日本神代と神道の講演あり(中略)古事記にある神々の名を連ねて本体とその現 はれとの関係を細々と黒板に三種のチョークを用ゐて上手に説明す五時予は中座 して帰る。」とあり、右傾化する社会に眉をひそめている。なお、ファシズムに 関して嫌悪感をあらわにした論文として、「社会事業に於ける全体主義と自由主 義」(『社会事業研究』第25巻第9号、大阪府社会事業連盟、1937年)1−7頁がある。
(61) 『大林宗嗣日記』1941年5月30日の中には、「十二時より文学部教授会冨森部長報告、
何某大佐出席、水田学生主事出席。」とある。文学部教授会に恐らく配属将校と 考えられる軍の将校である大佐が出席しており、現代では考えられないある種の 異様さを感じる教授会である。大学自治への軍部の干渉が恒常的にあったことが うかがえ、極めて厳しい環境下にさらされていたことがわかる。
(62) 大林宗嗣「社会事業の技術性に就て―牧賢一氏へ―」(『社会事業』第15巻第2号、
中央社会事業協会、1931年) 124−128頁。 大林宗嗣「社会事業の理念と其の技術 性に就て」(『社会事業』第19巻第7号、中央社会事業協会、1936年)2−6頁。
(63) 大林宗嗣 「社会事業漫談」『同志社大学社会事業学会報』第3号、同志社大学社会 事業学会、1938年3月5日)2頁。
(64) 大林宗嗣 「ナチス独逸民族厚生の構造」(竹中勝男編『厚生研究』東洋経済新報社、
1944年11月)129−200頁が、死後に出版されている。執筆自体は、『大林宗嗣日記』
の1943年3月8日あたりまでに執筆している。なお、当該論文は、『厚生学年報(第 二輯)』の中で、「ナチス厚生行政の原理」として上梓される予定のものであった。
(65) 大林宗嗣「共栄圏民族の厚生文化政策の要請」(『厚生事業研究』第31巻第12号、
大阪府厚生事業協会、1943年12月) 15−17頁。
(66) 『大林宗嗣日記』1941年10月16日。
(67) 大林宗嗣『共栄圏民族の厚生文化政策』東洋経済新報社、1944年10月25日。
(68) 前掲「キリスト者社会的実践と戦時厚生事業−抵抗の挫折について」127頁。
(69)『大林宗嗣日記』1943年7月10日の中で、「帰来『週報』をよみて時勢の急テムポ
にて統制強化されてゆく状勢を見る。最早凡て舊式の物の考へ方ではいけなく なった。」と熾烈な国家統制に対する 「挫折」 にも似た言説が見られる。
(70) 当然のことながら、この担当科目の変更は、文学部学制改正と文化学科としての 改組によって、大学より迫られたものであった。『大林宗嗣日記』1941年1月11 日によると「図書室にて竹中氏に逢ひ学校の文学部組織変更予等の科を厚生学科 と(文化学科中の一科)なし、予に文化政策、社会調査、セツツルメント、映画 等を担当し呉れとの依頼ありて二人にて文学部長園教授に逢ひ三人にて談合す」。
1941年4月2日では、「十時同志社大学へ神谷書記予の為に竹中氏へ電話をかく。
十時半会見。予の担当などの話 厚生学史、社会調査、文化政策、社会教育」と あり、専任教授として推挙されたことから、躊躇していた文化政策を担当せざる を得ない状況になり、この後死を迎えるまで 「自己解体」 を前提に、日々 「文化 政策」 と格闘することとなった。
(71) 『大林宗嗣日記』1935 〜 1943年および同志社社史資料センターの所蔵資料『昭和 九年同志社職員録』『昭和拾七年同志社職員録』、「同志社大学文学部文化学科厚 生学専攻」(パンフレット)、『同志社大学社会事業学会報 第2号』により確認した。
(72) 西内潔『日本セッツルメント研究序説』(宗高書房、1959年) はしがき。
(73) 「神学科卒業論文」(『同志社新報』第45号、同志社新報社、1940年3月)3頁。
(74) 『大林宗嗣日記』1940年2月10日。
(75) 同書、1940年12月12日。
(76) 『大林宗嗣日記』1943年7月12日。
(77) 『大林宗嗣日記』1941年4月6日「妻と歳子は二時教会の子供の会に行く白川学園 の脇田君(予の学生、昨年卒業)来りてお話せし」とある。
(78) 「卒業論文題目」(『同志社新報』第56号、同志社新報社、1941年3月)6頁。
(79) 西脇勉「卒業後の感想」(『同志社大学社会事業教育後援会』第3号、1941年5月)
1頁の中で、「淀川善隣館に勤務する様になった(中略)勿論勉強も大切であるが、
不断に積むべきは人格完成への努力と修養である。こゝに信仰と云ふ事が強く私 の胸に響く。この点同志社の社会事業学専攻科に学んだ私にとっては感謝すべき 多くのものを感ずる」 と述べている。
(80) 『大林宗嗣日記』1941年2月17日「今朝歳子に西脇勉君の卒業論文を社会事業科に 届けさす」とある。
(81) 同書、1941年2月1日「図書室にて西脇君のみに講義を筆記せしむ。十一時半迄社 会教育とセッツルメントの二講を講ず」とある。
(82) 西脇勉「我が国セッツルメントの現代的課題--隣保事業の現状分析とその発展方 向への指針」(『四国学院大学論集』第7巻、四国学院文化学会、1963年)21−41頁。
(83) 「学内の近況」(『同志社大学社会事業教育後援会』第3号、1941年5月)3頁。
(84) 『大林宗嗣日記』1941年2月5日。
(85) 同書、1941年2月24日。
(86) 藤井利夫 「伏見の社会調査を了へて」(『同志社大学厚生学教育後援会報』1942年 7月25日)4頁。
(87) 『大林宗嗣日記』1941年12月25日「午後三時頃藤井学生来訪。来春学生有志十餘 名職業調査の希望を申出づ。予概要を談ず」とある。
(88) 『大林宗嗣日記』1942年1月16日。
(89) 『大林宗嗣日記』1942年7月21日から8月2日まで。なお、前掲「大林宗嗣―その歩 みと同志社」174頁の中で永岡は 「八丈島調査」 としているが、日記からはその 形跡が確認できない。ここでは大林の日記に従い 「式根島」、「新島」、「大島」 の 三島とした。
(90) 『大林宗嗣日記』1942年12月7日。