P.ウィリスの三つの再生産論(上) : 反学校文化論・文化的生産論・消費文化論
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(2) . 北海道教育大学紀要 (第1部C) 第4 3巻 第2号 Sec i i i lof Hokkaido Univers ty ofEducat t Jouma on( onIC) Vol .43 .2 , No. 平成 5年3月 March ,1993. P‐ ウ ィ リ ス の ニ つ の 再 生 産 論 (上). --反学校文化論・文化的生産論・消費文化論--. 小. 内. 透. 序 章 問題の所在 第1章 反学校文化論としての再生産論 第2章 文化的生産論としての再生産論 第1節 文化概念の再定式化 第2節 再生産論に関する諸概念の整理と従来の再生産論の批判 以下, 次号 第3節 新しい概念の提示 第3章 消費文化論としての再生産論 終 章 三つの再生産論の関連と問題点. 序. 章. 問題の所在. 1 ( }の 著 者 と し て 広 く 研 究 者 に 知 ら れ て い る そ れ ポー ル・ウ ィ リ ス は 『ノ・マ ー タ ウ ン の 野 郎 ども』 .. は, 『 ノ・マータウンの野郎 ども』 が社会学や教育社会学の分野 で高い評価を受けているからである‐ たとえば, シャープは 「ウィ リスの研究の独創性は, 学校教育に対する……明らかに敵対的・反 対的な態度が階級構造を正統化し, 長期にわたっ て維持させていく上でいかに重要な要素となっ て いるかを分析している 朝こある」とし, 「何年間にもわたっ て出版されてきた学校教育に関する研究 2 } ま た バリ ス も 第一 に 労 に 対 して 最 も 重 要 な 貢 献 を し て い る こ と は 疑 い が な い」と して い る( ‐ , , ,. 働者階級の文化に着目して, その文化の相対的な自律性を認め, 硬直した再生産論に変革の契機を みようとしたこと, 第二に, 学校内の生徒の実態, とくに反学校文化を学校の枠をこえたより広い 3 ) 文脈に結び付けて論じていることを高く評価 している{ . わが国においても, 宮島喬のように 「労働者階級の少年たちは, その与えられた環境と文化の中 で, 反学校的価値……を身につけ, マニュ アルな労働のうちにむしろ自由をみい だし, 学校的な選 4 ( )ウィ リスの対抗の論理や主体的な選択の論理の入 た 別過程からの離脱をすすん で行うという」 っ 再生産論としてその独自性を理解 し, この点を評価する者が多い. 同時に, 杉山光信のように従来 の社会学にない視点から教育 の問題を扱っ ている 戴こ注目し, 『 ノ・マータウンの野郎ども』を社会学 5 )や生徒文化研究にウィ リスの提示した反学校文化の積極 的側面と の名著の一つにあげている者{ 6 }も存在している いう新しい視点を取り入れよう としている研究者( .. こ の よう に, ポー ル ・ ウィ リ ス の 研 究, とく に 『ノ・マ ー タ ウ ン の 野 郎 ども』 は そ れ ま で 学 校 教 ,. 育における問題現象として捉えられていた反学校文化をまっ たく異なる視角から捉え直し その積 , 極的な側面を明らかにしたこと, 同時に従来の再生産論と異なり対抗の論理や主体的な選択の論理 57.
(3) . 小 内. 透. の入っ た再生産の過程を浮き彫りにしたことに対して積極的な評価が与えられてきた. しかし, そ の後の彼の理論的な営みを見ると, 彼の基本的な問題意識は反学校文化その ものの意味の解明とい うよりもむしろ, 文化のあり方全体, そしてそれを通した資本 主義社会における再生産のメカニ ズ ムの解明にあること が明らかになる. 『ハマータウンの野郎ども』において反学校文化 が取り上げら れたのも, 資本主義社会における再生産のメカニ ズムを支える一つの社会的現実と して, それが重 要な位置を占めていると考えられたからに他ならなかっ た. 事実, ウィ リスは 『ハマータウンの野 郎 ども』 以後, 自らの再生産論を文化的生産論として再構築しようとし, さらにそれを消費文化論 へと再編しつつある‐ その意 味で, ウィ リスは反学校文化論として着手した再生産論を文化的生産 論としての再生産論, さらに消費文化論としての再生産論へ再編してきたといっ てよい. したがっ て, ウィ リスの研究の全体像を把握するためには, 『ハマータウンの野郎 ども』にとどま らず, 彼の研究過程全体を再生産論の探究・再編の過程という視点から検討することが不可欠に必 要になる. にもかかわらず, こうした視点からの検討は, ほとん ど行なわれてい ないのが現状であ ノ・マータウンの野郎ども』が多くの研究者に注目されたのと 比べると, それ以後の彼の研究は る. 『 十分 に検討されているとはいいがたい. そこで, 本稿 では, ウィ リスの研究の展開過程をふまえて, 反学校文化論→文化的生産論→消費 文化論へという彼独 自の再生産論の探究・再編過程を明らかにし, 彼の再生産論の意義と課題を検 8 ) ボー 7 } ブ ルデューのハビトゥ ス論( 討する. それは, いいかえれば, バー ンステインのコー ド理論( , , 9 )な どの再生産論とは異 なるウィ リスの再生産論の特質を 浮き彫りに ル ズとギンタ スの対応理論{ することを意味する. その意味で, 本稿は様々なタイ プの再生産理論の内在的検討の一環をなすも のとして, 位置づけることができる.. 〔注〕 tmead e i l l i { 1 )Wi rk ngC1ass Kidsget Working C1assJobs s ,Saxon Hous ,(Wes . ,Leamigto Labour:How Wo ,P 『 8 1 9 5年 筑摩書房 i l l ・ l l i M 熊沢誠・山田潤訳 ) ノ マータウンの野郎ども don C )1 ( 9 7 7/ orLon a c m a n o e r 』 , . , l l )1980 / (新 l i l i i t edge & KeganPau csofSchoo ng ogyandthePo ( 2 )Sharp edge ,Rout ,(London ,Knowl ,ldeol ,R.. 1頁. 9 84年, 190~19 井秀明‐岩橋法雄・植田健男‐細井克彦共訳) 『知識・ィデオロギー・教育政治』 杉山書店, 1 ’ “ 9 8 0 i IR i 5 01 E l r H d d t fL i b V R i t w B i a o n a e v e a r v a r u c ( ) urrs 3 , , , , evew o eam ng o a ou , 0頁. 99 1年6月号, 6 4 ( )宮島喬 「選別とハビトゥスの社会学」 『思想』1 9 89年. )杉山光信綱 『現代社会学の名著』 中公新書, 1 ( 5 87年. 6 ( )竹内常一 『子どもの自分くずしと自分つくり』 東京大学出版会, 19 『 1 9 明治図書 バー ) 言語社会化論 ( 萩原元昭編訳 ( 7 )B ンステイン .バーンステイン (萩原元昭編訳) 『教 』 . , 81年, B 「 5年, および拙稿 B 育伝達の社会学』明治図書, 198 .バーンスティンのコード理論の展開過程と問題点(上)(下)」 『北海道教育大学紀要』 (第1部C) 9 90年参照. 1巻・第1号, 1 0巻・第2号, 第4 , 第4 『 ) 『ディ スタンクシオン ( 石井洋次郎訳 1 新評論 9 8 9年 P デ 8 ( ) .ブルデュー (石井洋次郎訳) ィ スタンクシオン1』 , , 『 C パ 藤原書店 1 9 1年, および拙稿 「P P 再生産 ) ブルデ ー・ J ( 宮島喬訳 スロン 9 0年 1 藤原書店 1 9 1』 ‐ ュ 』 .. , 9 , . , 91年, 「社 第4 1巻 ・ 第2号, 19 ブルデューの文化的再生産論の到達点と課題」『北海道教育大学紀要』 (第1部C) , 2巻・第 会空間としての階級構造--ブルデューの階級論の理論的考察」 『北海道教育大学紀要』 (第1部C) , 第4 91年参照. 1号, 19 『 9 86~19 87年, お 1 9 ( )S 』 岩波現代選書, 1 ‐ボールズ・日.ギンタス (宇沢弘文訳) アメリカ資本主義と学校教育1・1 『 「 第1部C ) ( 下 ) 北海道教育大学紀要 よび拙稿 ボールズとギンタスの対応理論の発展過程 (上) ( 」 』 , 第42巻・ 9 2年参照‐ 第2号, 第43巻・第1号, 19. 58.
(4) . P .ウィ リスの三つの再生産論 (上). 第1章 第1節. 反学校文化論としての再生産論. 『 ノ・マータウンの野郎 ども』 の 課題. ウ ィ リ ス の 再 生 産 論 は 『ノ・マ ー タ ウ ン の 野 郎 ども』 (1977 年) を 出 発 点 に し て い る. そ れ は, こ の. 1 }ということだけではなく 本書の冒頭に再生産論 著作が彼の研究生活のほぼ出発 点になっ ている( , に関する問題意識が初めて明確に述べられているからである‐ す な わ ち, ウィ リ ス は 次 の よ う に 述 べ て い る.. 「中産階級の子どもたちは 総じて その階級にふさわしい職業を獲得する そのとき不可解な , , . のは, 他の階級の人びとがなぜそれを容認するのかということだ. 一方, 労働者階級の子 どもたち は, 総じて, 労働者階級の職務におもむいてゆく. この場合に不可解なのは, なぜみずから進んで そうするのかということである. ……私たちの社会のこの驚く べ き機構の一端を解き明かすこと, 2 ( ) それが以下の論述の中心課題である」 . 『 ここに, ノ・マータウンの野郎ども』の中心課題は, 反学校文化の特質を明らかにすることそれ自 体というよりも, むしろ反学校文化を担う労働者階級の子どもたちの実態の中から, 職業的地位の 世代間再生産とその容認のメカニ ズムを明らかにする点にあることが提示されている‐ もちろん, そのためには, 労働者階級の子どもたちがやがて獲得することになる 「労働者階級の文化がもつ重 3 ) いいかえれば 労働者階 要な特性を検証するという」 ことも, 「この本の副次的な課題」 となる( , . 級の子どもたちの担う反学校文化と労働者文化の関連を明らかにすることを通して, 主体的な選択 の過程として進展する再生産のメカニ ズムを明らかにしようとしているのである. しかし, ここで注意する必要があるのは, こう した課題はマルクス主義者としての彼の場合, よ り根本的な意味を持っ ていることである‐ つまり, こう した課題の背後には, 従来の経済一元論的 マルクス主義の克服のために, 階級対立の問題を経済や体制のレベ ルだけではなく, 文化のレベ ル, 4 } もちろ 諸階級の自己表現のレベ ルにまで広げて解明しようという問題意識が存在するの である( . ん, 文化のレベ ルで階級対立の問題を明らかにするという場合にも, 様々 な立場が存在することは いうま でもない‐ したがっ て, そこでは, ウィ リスがどのような立場で文化をとらえようとしてい る の か が 問 題 と な る‐ こ の 点 に 関 し て も, ウ ィ リ ス の 立 場 は 明 快 で あ る‐. 「およそ文化というものは 社会化の理論が言うように 単純に外的世界が人格に内面化された , , 体系などではないし, また, ある種のマルクス 主義が主張するように, 支配的なイ デオロギーを受 動的に押しつけられた結果であると片づけることもできない‐ 文化はそれらでもあると同時に, 少 5 { } なくとも部分 的には, 集団的な人間 主体の実践的な行為から生み出されるものなのである」 . ここには, 人間の主体を軽視する社会化理論や支配的イ デオロギーを重視するマルクス主義理論 を, 文化のレベ ルを主体的な営みとして捉えることによっ て克服しようとしていることが明確に示 さ れて い る.. 以上のように, ウィ リスは 『 ノ・マータウンの野郎 ども』 を, ①労働者文化と反学校文化の関連性 を通して, 主体的な選択過程としての再生産のメカニ ズムを明らかにし, ②それを通して, 主体的 な実践の結果としての文化を重視 した新しいマルクス主義的立場を構築 しよう としているといえ る.. このうち第一の課題には, 再生産の過程を主体の意図とは関わりなくやむを得 ざる結果として客 観的に把握するバーンステイン, ブルデュ ー, ボールズとギンタスなどの再生産論への批判という 6 ) 一方 第二 意味が込められている. 事実, この 点については後の論文において明確にされている( , ‐ 59.
(5) . 小 内. 透. の課題については, 後期マルクスに注目し主体 ではなく構造や支配イ デオロ ギーを重視 したアル 7 ) チュ セールを, 理論的な批判の対象として想定していた( . したがっ て, 『 ノ・マータウンの野郎ども』は, 実証的な著作であると同時に, 理論的で論争的な著 ノ・マータウンの野郎ども』の内容を検討する場合には, 少なくともこれらの点 書であるといえる. 『 をふまえておく必要がある.. 〔注〕 ” l l i ronCage” ( 1 )『 ノ・マータ ウ ンの野郎ども』 以前の ウィ リ ス の 業績 と して は, Wi nthel s ,P. The Mani ,in Working ”The c P i C l i l V V i l l i l PaPer l I Stud C f C I S d 9 7 6 t tura t t t と n Cu es 9 e n e r o e m o r a r a e s s as s si r o n u u u u l y P . , , “ f lcountercu l ing l l i igni ) ture,in Hammer s canceofschoo ssofSchoo s ey eds . , , The Proce , M. & Woods ,P.( land open Un l iver i ty Book)1976 がある程度である なお 後者の論文は (London s edge & Kegan Pau , Rout. , . 『 ノ・マータウンの野郎ども』 と同じ資料に基づきながら, 反泌校文化の階級的特徴を明らかにしたものであり, そ ′・マータウンの野郎ども』 と連続したものとして把握できる‐ の意味で, 『 { 2 )P ウ (熊沢誠・山田潤訳) 『 85年, 3~4頁‐ リス ノ・マータウンの野郎ども』 筑摩書房, 19 . ィ 3 ( )同上, 5頁‐ { 4 )同上, 5 ~ 6頁. { 5 )同上, 9頁‐. ” l l l i lproduc i f f l ioni i f ferentf ia lreproduc ion t t turalreproduc t tura { 6 )Wi rom soc s oni sdi rom cu sd erentf ,P. Cu ’ ” f f l l l i i i i d i d h 1 21 9 8 1 W i l l i P C d dt h d t t t t tf お よ s び s eoresof eren rom r epro uc o , ner c ange , , . u ura pro uc on an R 1 i L d i W l k C dE d C i B d L & S t ( H l t t ) )1 ( sa n u n n n r o 98 n a r reproduc n r a c e a s c a o o o om m 3参 on” e s o a e e ., , , , , , . ,. 紹. ( )なお, ウィ リスは, 具体的には, 後にアルチュセールの再生産論の検討という文脈でこの課題にア プローチしてい 7 る. 同上論文, 参照‐. 第2節 反学校文化の背後にある労働者文化 『 ノ・マータウンの野郎 ども』 における再生産論を検討するにあたっ て, まず, 確認しておく 必要 があるのは, いうまでもなく, ウィ リスが労働者文化と反学校文化の特質をいかなる形で把握して いるのかという点である. なぜなら, 彼は労働者階級の子弟が労働者文化を主体的に選択すること 1 ) を通して再生産の過程が展開されると主張しているからである{ . 『 ノ・マータウンの野郎ども』 では第一部 で反学校文化を担う労働 者階級の子弟たちの実態が明ら かにされ, 反学校文化の具体的な姿がエスノグラフィ ッ クに描かれている. そこには, 男らしさの 重視, 理論の軽視と実践の重視, 公的権威への反抗, 抵抗の拠点としてのインフォ ーマル集団, 特 有のジョークなどといった反学校文化にみられる特徴が示されている. しかし, ここで問題になるのは, こう した諸特徴をもつ反学校文化がなぜ生まれるのか, あるい はその社会的な性格はいかなるものかということである. ウィ リスによれば, こうした特徴をもつ 反学校文化について, 教職員はそこにみられるよからぬ行動は個々 人の人格的な病理が第一の原因 で, 性格上の欠陥と 「影響しやすい生徒たち」 との組合せから生じるものと誤っ てとらえる場合が 多い. 一方, 子どもたちも横道にそれた真の原因には気づかないとし, 社会的な文脈に位置づけた 2 } 反学校文化の理解をする必要があるとする( . その場合, それは, 反学校文化の成立根拠を労働者文化に求めるということを意味する. すでに 述べた反学校文化の特徴は労働者文化にも多かれ少なかれ共通して見いだせるものであるし,実際, 『 1 976年) では, 反学 ノ・マータウンの野郎ども』 の前年に執筆された 「反学校文化の階級的特徴」 ( 60.
(6) . P ‐ウィ リスの三つの再生産論 (上). 3 } しかも 『 校文化と労働者文化の共通した特徴が明らかにされている{ , ノ・マータウンの野郎 ども』 . の第一部においても,反学校文化が労働者文化を準拠枠として成 立していることが指摘されている. つまり, 労働者文化を背後にもつ 〈野郎ども〉 は, まず, 学校のもつ公的な文化や価値観に違和感 を抱く. それは, 労働者文化を準拠枠として, 公的な学校文化における 「制度の理念的枠組みにも とづいて公認された特定の交換関係 が, 労働者階級の利害や感情や価値観にひきよせて解釈し直さ 4 { )すなわち異化の過程の出発点に他ならない れ, 公認のものとは別の関係に読みかえられる過程」 ‐ 異化の過程を歩む 〈野郎 ども〉 は, やがて, 共通の感情を基礎にして集団を構成し, そこに反学校 文化が成立することになる‐ その意味で, 反学校文化は労働者文化を根拠にして成立しているとい える. しかし, 「社会的な文脈に位置づけた反学校文化の理解」とは, 反学校文化と労働者文化の表層的 な共通性や反学校文化の背後に労働者文化が存在することを指摘するにとどまらず, 反学校文化が 生み出す社会的な作用を把握するということに他ならない. いいかえれば, それは, 反学校文化そ れ自体がもつ社会的な意味を明らかにするということを意味している. 当然, これを達成するため には, より深い考察が必要となる. いう ま でも なく, こ の 課 題 に こ た え て い る の が 『ノ・マ ー タ ウ ン の 野 郎 ども』 の 第 二 部 であ る.. 〔注〕 ( 1に こで注意する必要があるのは, 第一に, ウィ リスが問題にする反学校文化はあくまでも労働者階級の子弟によっ て担われているものであり, 第二に, 反学校文化を担う者は労働者階級の子弟の中でも少数派であるということで ある‐ したがって, 中産階級の子弟の担う反学校文化もあれば学校に順応的な く耳穴っ子〉 と呼ばれる労働者階級 の子弟も存在している. にもかかわらず, ウィ リスはあえて労働者階級の中でも少数派である 〈野郎ども〉 と彼ら が担う反学校文化を対象にしているのである‐ それは, そうすることによって労働者階級の再生産を考える際に忘 れられがちなメカニ ズムが, 鋭く浮かび上がると考えたからであると思われる‐ 28~130頁. 98 ・マータウンの野郎ども』 筑摩書房, 1 5年, 1 2 ノ ( )P .ウィ リス (熊沢誠・山 競闘訳) 『 “Thec i H l i f i f h l l ざ l l i P l i t ) t )Wi n e rc r n amm e r s e { 3 a s ss n c a n c eo s c o o c o u u u eds s y g .( . ,P , M. & Woods , ,The , , iver i 189~190 l land OPen Un proces l i ty Book)1976PP s edge & Kegan Pau sofSchoo ng . . ,(London ,Rout. ( 4 )前掲, ウィ リス『 ノ・マータウンの野郎ども』 , 131頁. なお, ウィ リスは異化の対極に同化の過程を位置づける. そ の場合, 同化とは「制度が明示的に合法とする交換関係の枠内に階級の対立を調整し, 収数させ, 定着させる過程」 であり, 「インフォーマルなものを順次公式の枠組みに制度化する過程」 である (同上, 同頁) . つまり, 同化とは 制度的な枠組みが無媒介に受け入れられる過程を指すのではなく, 異化と同様に, 準拠枠としての労働者文化と制 度の関連の中で, 労働者文化のフィ ルターを通して生じる過程であるといえる‐. 第3節 再生産のメカニ ズム--洞察と制約 『 ノ・マータウンの野郎 ども』 の第二部では, 「社会的な文脈に位置づけた反学校文化の理解」 のた めに, 独自の分析概念が提示される. それは洞察と制約の概念である. これらの概念は反学校文化 の社会的意味を理解するにとどまらず, 社会や文化のあり方を把握する上においても重要な意味を ノ・マータウンの野郎ども』 持つ一般的な概念として提起されている‐ その意味で, これらの概念は『 におけるもっ とも重要な基礎概念であるといえる‐ このうち, 洞察とは 「全体社会とのかかわりで自分たちの生存の位相や条件を 見ぬこうとすると 1 { )である したがっ て 洞察は全体社会や自らのおかれた条 き, その文化の内部 で働く衝迫的な力」 , ‐ 件とは独立に自由に生み出されるということになる. しかし, 現実にはまっ たく純粋な洞察は存在 しえないのも事実である‐ どんな洞察も, 社会構造につなぎとめられるし, さま ざまな障害物など によっ て歪んだものにならざるをえないからである. そう した 「街迫力の全面的な展開を阻害した 61.
(7) . 小 内. 透. り混乱させるたりする方向に働く, さま ざまな障害物や牽制やイ デオロギーからの影響」の が制約 という概念で把握されるものである. したがっ て, 制約は洞察と反対の位置を占める概念であると いっ てもよい. こう して, 現実には どんな洞察も 「二つの動因が文化の具体的な形成過程で相互に 3 )部分的な洞察と して存在する ことになるの であ ( 影響し合うとき, そこで埋もれてしまいがちな一 る.. しかも, 洞察と制約という概念は, 自由主義, 民主主義という諸制度のもとで階級社会が存続す ることを保証しているメカニズムを解きあかす上 で大きな意義を持つことになる. 社会的諸関係の 再生産を説明する原理になるといっ てもよい. すなわち, 自由主義, 民主主義の諸制度のもとでは, 人々は社会構造から自由であるはずである‐ その意味で, 純粋な洞察が成立しうるはずである. だ が, 実際には人々は社会構造につなぎとめられ, 社会構造との相補的な関係を運命づけ られる. そ れがまさに制約の存在を意味している. そこでは, 制約が存在するため不安 ではあるが, 自らの自 由な洞察に基づいて自信たっ ぷりに自らの進路を選び取る行動が展開される. いわば, 部分的な洞 察に基づく行動といっ てよい‐ しかし, それは結局, 個々 人を囚われの境遇に導くことも事実であ る. いいかえれば, 自由でない境遇を自由意志 で選択する過程が展開されているという こと であ 4 ) る( .. さらに, これらの概念は文化そのもののあり方を把握する上においても重要な意義をもつ. たと えば, 労働者文化であるうと反学校文化であるうと, 文化そのものにはその背景としての歴史的現 実と創造性が存在する. つまり,「文化なるものは, それを担う新しい世代がつ ぎつ ぎにくり広げる 5 ( )が 創造性といえ ども無限になにもの でも生み出す特異 主体的な働きかけや闘争の所産 である」 , な性能ではない. 「自律的・創造的な営みは現実に存在するなにものかを発見する方向に集中してゆ くのであっ て, 懇意的な空想として分散しはしない. 発見されるべき現実の拘束性や内的構造はす 6 ( }のである その意味で 歴史的現実という制約を持ちながら文化の創造 でに与えられて存在する」 . , 性という洞察の側面が, 部分的な洞察として の現実の文化の生産・再生産過程を形作るといえる. こうして, 洞察と制約という概念は, 文化や社会諸関係の再生産を明らかにする上で重要な意義 をもつ概念として把握できる‐ それは, いいかえれば, 新しい文化や新しい関係を生 み出す創造や 生産の行為それ自体が, 結果としては文化や社会関係の再生産をもたらすという 弁証法的なメカニ ズムを解きあかす上で重要な意義をもっ ているということになる. それでは, こう した意義をもつ概念にもとづいて反学校文化の社会的意味を分析するとどうなる の で あ ろう か.. ウィ リスは, この点に関して, まず, 反学校文化がもつ洞察の4つのモメントを指摘している. 第一に, 反学校文化は学校への順応と服従の見返りとしての成績証明の幻想に対する洞察を内包 しているとする. すなわち, 〈野郎ども〉は「よりよい機会が教育によっ て創出されるということも, 社会的上昇移動は基本的に当人の努力しだい であるということも, また, 学校時代の成績がよけれ 7 { )であ ばそれだけ将来の可能性が開けるということも, もとを正せ ば根拠のない一片の教育神話」 『 ることを知っ ているということである‐ なぜなら, 〈野郎ども〉 にとっ て 学業優秀』 とは, 労多く して得るものの少ない徒弟訓練か事務職への進路しか意味しないからである. そのため, 成績とい う見返りによっ て反学校文化を封じ込めようとする教員の試みは意味を持たなくなる. 第二に, 反学校文化には現代の労働が無意味化しているという点で同質のものであることを見抜 8 ) したがっ て 「労働者階級の落ちこぼれ少年たちの入職を特定の職 く洞察が存在するとしている( . , 業選択の結果と見ることは, 事実を混乱させ神秘化するだけである‐ …… 〈野郎 ども〉 は特定の職 務や特定の職歴を選択しているのではない‐ どのみち抽象的な労働一般が自分たちの将来であると 62.
(8) . P ‐ウィ リスの三つの再生産論 (上). 覚悟を定めるのである. ……そもそも労働それ自体が愉快であろうはずがない‐ ほんとうに重要な のはむしろ職場の独特の雰囲気であっ て, それは反学校の文化のなかで習い覚えた男性的な自意識 9 ( }と やその表現法, 仲間で打ち興じる 『憂さ晴らし』 などが許容される雰囲気でなければならない」 いう こ と に な る. こ こ に は, 明 ら か に ウ ィ リ ス 自 身 の 労 働.観 が 横 た わ っ て い る‐. 第三に, 個人原理と集団原理との相違に 関する洞察が反学校文化には含まれている. たとえば, 「教育の理念的な枠組みに縛られた轡校は 少数者だけが個人的に成功できる条件を全員が従うべ , き条件として提示する. それで全員 が成功するわけではないという矛盾はけっ して明らかにされな いし, 優等生のための処方箸を劣等生が懸命にこなそうとしても無効であるかもしれないことにつ いては, 学校はおし黙っ ている. ひたむきな学習, 辛抱強さ, 順応, そしてそれらの立派な等価物 l o ( ) しかし〈野郎ども〉 は 「階級や集 として知識を受容すること, これが全員に要求されつづける」 ‐ 「 努力する者はすべてその努力に応じて報いられる 団の利害が個人の利害とは異なるということ」 」 , 洞察の核心があるとい この点に少年たちの という学校 で教え込まれる虚偽意識を「見透している」 . 1 1 ) う の であ る( .. 第四に, 反学校文化は学校文化が育てる 労働力観とは異なる労働力観を形成する‐ ウィ リスは学 校文化が育てる労働力観について次のように述べる‐「学校に順応してその課業にコミッ トするとい うことは, 一定範囲の明確な基準を満たすということではすまない. ……学校は生徒の能力をまる ごと要求し, 学習の質量についての生徒自身の判 断を排除しようとし, しかも能力の生かしかたに 2 1 ( ) これに対し 反学校文化をになう「少年たちは 一字も書かないで 一定の枠を設けようとする」 , , ‐ まるまる 一学期をやりすごそうとしたり, すきあらば教師の監督の目をかいく ぐり, 教室や廊下で 学校秩序を相手にゲリラ戦をくりひろげる. そうすることで, 個人の内面にま で立ち入ろうとする 学校の要求をある程度まで制限しようとするのである‐ そして, こう したかけひきの過程で,〈野郎 1 3 ( )の で あ る ども〉 は ひ と り ひ と り 労 働 力 に つ い て の 独 特 の 考 え 方 を 身 に つ け る」 ‐. 反学校文化は, こうした洞察を含んでいる‐ これらは, 現実の学校や教育そして社会の仕組みの 本質を見抜く重要なモメントとなる. したがっ て, ウィ リスの立場からいえば, これらの認識が全 面的に発展していくならば, 現代資本主義社会の基本的な矛盾を把握することができ, そう した矛 盾を克服することができるということになる‐ しかし, 現実には, 同時にいくつかの制約が存在することも事実である. それは, ウィ リスによ 1 4 ) れば, 対抗文化の洞察の全面的な展開を押え込んでいるいくつかの分断の状況である{ ‐ 第一に, 精神労働と肉体労働の分断が対抗文化の洞察の全面的な展開を押え込む制約としてあげ られる‐ つまり, 反学校文化は, 学校を拒み, 学校の勧める個人主義を拒むが, 学校は精神的な学 習能力が一方的な権威を帯びており, 個人主義のみを退けるつもり でも, 同時に精神的行為 一般の 価値をも退けてしまう. こうして 〈野郎 ども〉 は集団の論理をかち取るが, 精神的活動を追いやっ てしまう. そして, 「手で稼 ぐ」 住人となっ た 〈野郎 ども〉 は, すべての手の仕事は同質であるとい う 限定的な観念をもち, 精神労働と肉体労働の分断の意識を生み出す. 第二に, 男性と女性の分断である. す でに述べたように, 反学校文化には男らしさを重んじる価 値観が存在している. そう した反学校文化の性意識に, 広く労働者階級一般に通有の性別分業と男 性の優位という性意識が投影されていることはいうまでもない‐ 彼らは, 自分たちをばらばらに分 断する制度としての学校の個人主義を見抜く が, その反面で, 性差別による両性間の分断を自ら深 くするのである‐ 第三に, 人種差別による分断がある‐ 「労働者階級のなかでもとくに〈野郎 ども〉のような階層に とっ ては, 自分の労働力を用いるべき機会についての感性的な判断基準が, 人種差別の介在によっ 63.
(9) . 小. 内. 透. てある程度は制 約さ れるように なる‐ ・…・ ・言い換えれ ば, 男 ら しさ の領分にも下 限が設け られ 1 5 ( ) その結果 「不快な汚れ仕事 は男らしさの領分ではなく 移民労働者の領分として把握さ る」 」 , . , れ る の であ る.. もちろん, こう した分断は反学校文化に固有のものではなく, むしろ労働者文化に特徴的にみら れるものである‐ その意味では, ここ であげられている反学校文化の制約とは, 労働者文化の制約 に他ならない. だが, ここで問題となるのは, なぜこれらの分断が反学校文化における制約として 把握されるのかということである. それは, 一言 でいうならば, それ自体として積極的な意味をも つ洞察がこれらの分断によっ てその積極的な意味をそらされ歪められてしまうからである. この点 に関して, ウィ リスはとくに精神労働と肉体労働の分断と男性と女性の分断の絡み合いを重視し, それが再生産の過程を生み出しているとしている. ここに反学校文化論としての再生産論の核心が ある. ①すなわち, ウィ リスによれば,「この社会の支配イ デオロギーは, 精神労働の物心両面における 優遇を当然のこととみなしている‐ より厳しい働きぶりを要請されるのは精神労働 のほう であり, それにたいするよりよい報酬も当然のこと」 である. しかも, この 「支配イ デオロギーそのもの, あるいは学校などで幅をきかす能力主義の考えかたは, 万人がほぼ同質の目標を目指して人生を歩 「 むと決めてかかっ ている」 . したがっ て, 階級社会の底辺から抜け出せない人びとは, まさに万人 共通の目標を成就する能力において劣る人びとであり, みずからもそう認めている」 ということに 1 6 ) な る( .. ②しかし,「報酬においても労働そのものの満足感においてもより条件の良い精神労働がかならず しもすべての求職者の共通の志望とはならない事実」がある. 「ほんとうに解明を要するのはこの事 実であるJ ‐ その背後に, 公認の能力主義とは異なっ て労働者階級の文化では肉体労働の方が精神労 働よりも優越しているという価値意識の逆転が存在する. その逆転が生じるのは, 男が女よりも優 越した立場にあるという男尊女卑の思想を内包する労働者階級の文化が, 分断された精神労働と肉 1 7 ) 体労働に, 精神労働=女性, 肉体労働=男性という図式を与えるからである( . ③この事実は, 資本主義社会を支える重要な基礎になる‐ なぜなら,「かりに最下層の労働需要を 満たす人びとにおいてイ デオロギー的な上下序列の どん でん返しが行なわれなかっ たとしたら, 今 日の社会制度はけっ して安定を保つことができないの である. 国家制度の側 でいかに配慮をつくそ うと, 階級構成の底辺に位置する人びとに, そのことを是とする意識を外から与えることはできな い. 進ん で最下層に甘んじる人びとが存在しなければ, 物理的強制力と絶え間ない闘争だけが社会 1 8 ( ) 秩序を維持する手段になるだろう」 . こうして, 労働者文化と反学校文化に存在する精神労働と肉体労働 の分断, 男性と女性の分断と いう制約は, 〈野郎 ども〉たちが自らの意志ですすんで肉体労働の世界へ入っ ていくとい ,うメカニ ズ ムを生み出し, それを通して資本主義社会の社会的諸関係を維持し再生産することに寄与している のである. すでにみた, 制約が洞察の全面的な展開を妨げ歪めるというのは, こう したメカニズム が生まれることを指しているといえる. いいかえれば, 現実の社会の仕組みを見抜き, 資本主義社 会の根本的な矛盾を把握するという点にま で全面的に発展する可能性のある, さま ざまな洞察の芽 を妨げてしまう要因として制約が存在するということであろう‐ ここに, この段階のウィ リスの再 生産論の論理が示されているといえよう.. 64.
(10) . P ‐ウィ リスの三つの再生産論 (上). 〔注〕 ( 1 )P .ウィ リス (熊沢誠‐山田潤訳) 2 ( )同上, 同頁‐ ( 3 )同上, 同頁. 4 ( )同上, 24 3頁- ( )同上, 24 5頁‐ 5. ・マータウンの野郎ども』 筑摩書房, 1 98 2頁. 5年, 24. ( 6 )同 上, 246 頁‐. ( )同上, 2 58頁. 7 8 ( )同 上, 259~260 頁.. 9 ( )同上, 2 0 5頁‐ 回同上, 26 3頁‐ I Q )同 上, 262 頁‐. 回同上, 26 5頁‐ 回同上, 同頁‐ 1 { 軒同 上, 287~307頁.. 5 ( 1 )同上, 30 4頁. ( 1 ◎同 上, 292~293 頁. 師 同 上, 292~295 頁. ( 1 め同上, 294頁‐. 『 ノ・マータウンの野郎 ども』 への批判と問題点 ところが, 『 ノ・マータウンの野郎 ども』に対しては, す でに述べたように, 高い評価が与えられて いると同時に, 多くの研究者から様々な批判力湧ロえられたことも事実である. それを大きく分ける 第4節. と二つの側面からの批判になる. 第一に, 『 ノ・マータウンの野郎ども』の対象が量的質的にきわめて限られたものであるという批判 があ る・. ①まず対象者の数が量的にいっ て少なす ぎるという批判がある. たとえば, ゴー ドンは「1 2人の “野郎 ども” はより広い地域社会に一般化されうる学校に対する反応を考察するためには 適切な , サン プルを構成して」 おらず, 「これに関連して, いわゆる “一般化の可能性の問題” がある」 と指 1 ) しかし これは一方で エスノ グラフィ ッ クな調査方法と深く結びついており 他方 摘している( , , . , で, そこでえた調査結果をいかなる形で解釈するのかという問題と関連している. その意味では, 対象者が少ないことそれ自体がただちに問題にはならないといえる. だが, それは同時に, 単なる 量の問題にと どまらず, 労働者階級の再生産のメカニ ズムを労働者階級の中でも少数派である 〈野 郎 ども〉 の実態にもとづいて明らかにしようとしたウィ リスの方法論そのものに対する懐疑にま で 発展する問題性をはらんでいる. その意味で, 対象者の数の少なさの問題は, 労働者階級の再生産 のメカニズムを明らかにする上 でふさわしい対象を選んでいるのか どうかという問題と深く結びつ い て い る と い え る‐. 2 } とく ②また, 対象者が男子に限られているという問題も少なからぬ論者から指摘されている( . に, この問題は, フェ ミニズム論の立場にたつ研究者から強く主張されている. これは, ウィ リス が反学校文化や労働者文化の 特質の一つとして 「男らしさ」 をあげ, 反学校文化や労働者文化の制 約として男尊女卑の考え方に通じる男性と女性の分断を示しているため, 必然的な批判 であると考 えられる. なぜなら 『 ノ・マータウンの野郎 ども』 で示された再生産の論理は, 一貫 して男性の文化 に基づいて説明されており, 女性にはあてはまらないからである. その意味で, 女性が考察の対象. 65.
(11) . 小 内. 透. になっ ていないという問題は, たんに対象を限定したとか, 「片手落ち」といっ た問題ではなく, ま さに理論的な性格をはらんだ問題であるといえる‐ ③さらに, シャー プやスタフォ ー ドのように, 失業した若者が取り上げられていないことを指摘 3 } これは 『 する論者も存在している( , ノ・マータウンの野郎ども』 が反学校文化を取り上げた研究で . あることを考えれば, 的はずれな指摘 であるとみなすこともできる. しかし, こう した指摘は女性 が調査の対象者からはずされていたのと同様に, 理論的な問題に関わる側面をもっ ている.『ハマー タウンの野郎ども』 で展開された, 労働者文化と反学校文化の関連を媒介にする, 労働者階級の子 弟の主体的な選択の結果としての再生産という考え方は, 少なくとも, 当時のイ ギリスにおいて顕 著にみられた若者の大量失業という現象を含めた理解にはなっていないからであり, 若者が大量に 失業するという事態が続けば, 労働者文化を受容することによっ て, 労働の世界に入るという再生 産のメカニ ズムは, 変わら ざるをえないからである. 第二に, 『 ノ・マータウンの野郎 ども』 における理論的な考察に関する批判がある. ①そのうち, 第一部における実証の部分と第二部における理論的考察の間のギャッ プを指摘する 者がもっ とも多い‐ 端的にいえば, それは実証の行きす ぎた解釈に対する批判である. たとえば, ウ ォ ー カ ー は, こ の 点 に つ い て, 次 の よ う に 述 べ て い る‐. 「私はウィ リスの教育学的な望みを共有しているものの 『ハマータウンの野郎ども』 がそれに対 , する本質的な基礎を与えているとは考えていない. 第一に, この理論は経験的な証拠……をはるか に越えた, 非常に精密な構築物である‐ もちろん, 証拠を越えることは理論を偽りのものにはしな ノ・マータウンの野郎ど いが, より抽象的な理論的主張……により大きな重荷になっ ている. …… 『 も』 における予定された矛盾の側面ではない他の側面が純粋に理論 的な用語の客観的でない概念的 枠組みにおいて明らかにされる一方で, 予定された矛盾の-側面が, データの中で明瞭であるとい うことである」にL このように, ウォ ーカーは実証と理論が結びついていないこと, そして, それは実証で把握でき た事実と理論で展開している内容が異なっ た側面について述べ られていることによっ ていると指摘 している. いいかえれば, 事実が明らかにしているのはウィ リスがいいたいことの一側面だけを正 5 ) このような指摘は すでに述べたように 第一部 確に例証しているにす ぎないということである{ , , . の実証が量的質的に限定された対象に 基づいて明らかにされたものであるのに比べ, 第二部の理論 的な考察の部分 がきわめて繊密で一般的なものであることによって, 必然的に生まれざるをえない と思われる‐ したがっ て, 山本雄二のように, 第一部の実証部分 をまっ たく別の形で解釈できると 6 ) ただし 実証と理論の関係はつねにむずかし し, 実際にそれを試みる者さえ現れてくるのである( , . い問題をはらん でいるのが実状である. 同じ結果を別の形で解釈できるということ自体は, 多かれ 少なかれどの研究にもあてはまる可能性があることも否定できない‐ ②したがっ て, こう した理論と実証の関連以上に重要な問題は, 理論の内容そのものである. こ 7 }や の点では, ウィ リスの文化研究の視点に対するアルチュ セール学派と呼ばれるカウア ドの批判( 8 ( ) 国家の軽視や実践的な展望の問題に関するシャープの批判 といっ たマ ルクス主義の 立場からの 批判が目につく. 前者は, 厳密にいえば, ウィ リスが属していた バー ミン ガム大学現代文化研究セ ンターの文化研究に対する批判 であり, それは主観・客観の問題枠組みからしかとらえられておら ず, その土台も唯物論的でなく観念論的で, その意味でブルジョ ア的であるという批判 である. 後 者は, 第一に, ウィ リスが学校社会から労働社会への青年の移行を管理する際における国家の役割, たとえば, 国家による危機のイ デオロギー的解決, 学校教育への国家による介入様式を無視してい ること, 第二に, 革新的な教師をマルクス主義的な教育方法の実践に導くための分析 が不十分であ 66.
(12) . P ‐ウィ リスの三つの再生産論 (上). ることを指摘している. しかし, これらの批判は, どちらかというと外在的な批判という傾向が強い. 実際, カウア ドの 批判については, シャープが他の研究者に対する批判よりも, まずアルチュ セー ル学派の文化概念 9 }し シ ー プのウィ リスに対する批判も 今後拡大していく を 提 示 す べ き であ る と 批 判 して い る{ , ャ , べき研究領域として受けとめることも可能である. その意味で, より重要な意味をもつのは, ウィ リスの理論における論理の一貫性の問題であろう‐ なぜなら, それを検討することが内在的な批判につながるからである‐ そこで, ウィ リスの理論に おける論理の一貫性を独 敷こ吟味してみると,そこには重要な問題が存在することが明らかになる. まず, 第一に, 精神労働と肉体労働の分断と男女の分断の関連について一つの問題が指摘できる‐ つまり, ウィ リスは労働者文化においては男尊女卑の考え方に通じる 「男らしさ」 が重視され, そ れが精神労働よりも肉体労働を優位と見る考え方を生み出しているとしている‐ その考え方は, 精 神労働を肉体労働よりも優位におく支配イ デオロギーとは逆の理解 である‐ それゆえ, 資本主義社 会における分業の再生産がスムーズに行くとしていた‐ しかし, 考えてみると, 労働者文化のよう に 「男らしさ」 を重視するか どうかは別にして, 男尊女卑という考え方は支配階級 (の男性) にお いても少なからず共通していると思われる. にもかかわらず, 支配階級は労働者階級とは反対に精 神労働を肉体労働よりも優位におく考え方をとる. したがっ て, それはなぜかという 点を明示しな ければ, 説明が不十分であるといわ ざるをえない. なぜなら, この点は労働者階級の特質を描くと きに支配階級と対比させながら展開しているからであり, 労働者階級と支配階級が異なる文化のゆ えに, 再生産が貫徹されるという彼の再生産論のポイントをなす論理であるからである. その意味 で, 労働者階級と支配階級が共通して男尊女卑の考え方をもつにもかかわらず, 精神労働と肉体労 働に対する評価がなぜ逆になるのかが説明されなければ, 論理が一貫しないといえる. さらに, 第二に, これと同様に, ウィ リスの再生産論において重要な位置を占める, 労働者階級 とその子弟の学歴に対するアスピレーショ ンの取扱いが一貫していないという点を指摘する必要が ある. いうまでもなく, ウィ リスの場合, 反学校文化の担い手である労働者階級の子弟は高い学歴 を望まず自ら進んで労働者の道を選択し, その結果社会関係の再生産が貫徹されるとしている. こ の点で, 皆が同じ目標をめ ざしながら様々な条件の違いにより, 結果として再生産の過程が展開さ れるとする他の再生産論とはまっ たく異なっ ている. いわば, ここにかれの再生産論の一つの大き な特質があるといっ てよい‐ にもかかわらず, ウィ リスは同時に, 次のように, 〈野郎ども〉が職場 に入っ てしばらくすると, みずからの価値判断が間違いであっ たことに気づくという指摘を行っ て い る.. 「ひとたび選択し終えた労働者の人生はいかなる意味でもやり直しはきかない 職場文化の見習 ‐ 工時代がひととおり終わるころ, すなわち, 不快な環境で他者の利益のために骨身を削る生産労働 の実状がよりくっ きりと見えてくるころ, かつて学校がそう見えたように, 職場は牢獄の観を呈し はじめる. ……皮肉なことに, 職場が牢獄のように見えてくればそれだけ, 教育こそがそこからま l o ( ) ぬがれうる唯一の脱出口であっ たという事情が了解される‐ だが, もはや手おく れなのである」 . この論述からいえば, 成績証明や教育制度に対する 〈野郎 ども〉 の価値判断も誤っ たものである ということになるはず である. しかし, 実際にはウィ リスは 〈野郎 ども〉 の価値判断を洞察のモメ ントとしている. それは, なぜか‐ この点が説明されなければ, 論理が一貫しない‐ また, ここで の指摘からいえば, 〈野郎 ども〉の主体的な選択としての生産的労働 への従事は, 現実の世界を十分 に理解しない行動の結果だっ たということになる. いわば 「若気のいたり」 ということである. そ れならば, これを学校のなかで理解させれば,〈野郎 ども〉の行動は変わることになるのではないか‐ 67.
(13) . 小 内. 透. また, そう でなくとも彼らが親になっ たときには, 子どもには自分の失敗を繰り返させないような 戦略を取るようになるのでは ないか. 自発的に労働者になるが, やがて後悔するというのなら, 親 はなぜそう示唆しないのか. ……こうした疑問が次々と浮かび上がっ てくる. ここでの論述が, 労 働者の子弟が主体的に肉体労働を選択することによっ て貫徹される再生産の過程をくつがえし, 自 らの選択による再生産という論理の破綻につながる可能性がある だけに大きな問題になる‐ 第三に, ウィ リスの理論的立場と理論の間にある 断絶を指摘しなければならない. 彼は自他とも に認めるマルクス主義者であり, 再生産論を通して新しいマルクス主義的な立場を構築しようとし ている. したがっ て, 再生産の過程やメカニ ズムを明らかにすることは, 彼にとって再生産という 事実を肯定するためではなく, むしろそうした事態を克服するために不 可欠の理論的実践であると ノ・マータウンの野郎ども』の中で展開されている再生産論は, 他の いっ てよい. にもかかわらず, 『 1 1 ) たし 再生産という事態を克服する展望が見いだしにくいものとな 再生産論と同様に, っ ている{ . かに, すでにみたように, ウィ リスは反学校文化のもつ洞察のモメン トに再生産を克服する可能性 を見出そうとしている. しかし, 洞察の全面的発展は制約によっ て阻まれ, あくまでも可能性にと どまっ たままである. したがっ て, そこでは可能性としての洞察の全面 的な発展に期待する以外に, 展望は開かれなくなる. 再生産の過程やメカニ ズムを首尾よく 説明しようとすればするほど, 再生 産は鉄の法則になってしまうのである. このままでは, アルチュセールなどの 「純粋構造主義者の 好む不動の還元論的トートロジーに膝を屈しなければならない (し) ……基本的な社会構造が変わ らないか ぎりなにごともなしえ ないのに, 構造はいかなる変化も受けつけようとしない, というこ とになっ てしまう. そこで, 一 見矛盾するよう でも, 実践者たちは 二正面作戦をかまえなければな らない. 実践者は, 一方 で日々の問題を見すえながら生徒たちにとっ ての 『最善』 ……をはかりな がらも, その一方では良かれと思う働き かけのひとつひとつが日々の問題を生み出す既存の構造の 1 2 ( )としている この指摘からいみじ 再生産に寄与するかもしれないことを知 っておく べきなのだ」 . くも浮き彫りになるように, 自ら否定しようとしている 「不動の還元論的トートロジー」 を克服す る展望は, 再生産の論理とは比べ ものにならないほど貧弱であり, 期待の論理に基づいて再生産論 の中に組み込まれる以外には方法がないといわざる をえない‐ ノ・マータウンの野郎ども』 において, 反学校文化と労働者文化を基 以上のように, ウィ リスは 『 底にしたユニークな再生産論を展開したが, それには同時に様々 な批判が加えられた. そのうえ, なによりも彼のもっ ともユニークであると思われるい わば主体的な再生産論の考え方の根幹に関わ る論理の一貫性に少なからぬ疑問が残された. もちろん, ウィ リスがそれらの批判やここで指摘し た問題点に対して, その後の研究のなかでどのようにこたえていっ たのかという点を吟味する 必要 がある. それは, いいかえれば, ウィ リスが再生産論をどのよう な形で作り上げようとしていっ た の か と いう 問 題 と 結 びつ い て い る と い え る.. 〔注〕 ” I Wi lf, Br i i l of i i ion l I Produc ion and Soc t t l l i t tura o sh Jouma 1 aI ReProduc ( )Gordon s-Educat . Pau , Cu ,L V 1 5 N 21 9 8 4 1 1 0 ion Soc i logy ofEducat o p. . ‐ , O‐ , o ” t i i l ing Account th Sub-cul tur ng l980 t 2 lヤ, R. on { )McRobbi s wi E 餐雲 Screen Educat e .34 . Sha , , No , Spr , A. Se P l 9 8 0 R l & K 1 h P l i i fS h l i L d d ) 井 秀明 ・ 岩橋 l dt t ( 新 Knowl d d l ( t e a n a o n o n o u e e u o so o o n a n e c c g e ge g g l g y , , , eoo. don 984年) 4頁‐ Go r 法雄・植田健男・細井克彦共訳 『知識・イデオロギー・教育政治』 杉山書店, 1 . ,L , , 訳書, 19. i t op ‐110 . .c ‐ ,p ” i t ford talandC1as abour,Capi s ( 3 )Staf .c .(『知 識 ・イ デオロ ギー・ .Sharp ,R. ,op ,151981 ,A. Leamingnottol. 68.
(14) . P ‐ウィ リスの三つの再生産論 (上) ) 教育政治』 ‐ lproduc ioが,Br i i lof l igstheoryofcu l i i i l l t t tura lke tur shJouma 4 )Wa c s ng Cu e:probl emin Wi ( rJ.G.”Romant Soc i ion l ol ogy ofEducat .7 .11986 .67~68 . , No ,pp ,Vo. ( 5 )ゴー ドンも 「ウィ リスの前提的な分析的立場が結果を決定していた…… (ので) たとえば, もし主体性を捜し求め i don t ているなら, 主体を見いだし, 客観性を求めているなら客観のみが明らかになるであろう」 (Gor . .c . ,L ,op , 10~1 11 ) とし, 同様な指摘を行なっている‐ pp .1 88年‐ ノ・マータウンの野郎ども』 を読む--」 『教育社会学研究』 第4 3集, 19 ( 6 )山本雄二 「自己訓育と教育関係--『 ウ こうした山本の試みの背後には, ィ リスはエスノグラフィ ーを作者の作品ではなく, 読者にその解釈が委ねられ るべき 「テキスト」 として提供するという方針をたてながら, 実際にはそれに反し, 資本家階級と労働者階級によ 2頁) る合作論という自らの作品として記述してしまっ た毅こ問題があるとする山本の批判がある(同上,7 ‐ この批 判 の 前提 に は ウィ リス がロ ラン・バ ル トの いう 「テ キ ス ト」 と して, ・マータウンの野郎ども』 を書いた (意識的 であ る か どう か別 に して) と いう 山本 の 認識 があ る‐ しか し, こ の よう なこ と は, ウィ リ ス は ま っ たく 言 及 して い. ないし, 彼のエスノグラフィ ー的手法はもともと多分に彼自身の解釈に重きをおいたものとして利用されている. “ i lappend i×” l l l l i l ture )1978pp et ca (Wi edge & KeganPau s .189~203 の Theor ‐ ,(London ,Rout ,P ,ProfaneCu. 『 参照) ‐ その意味で, ノ・マータウンの野郎ども』 の第一部の再解釈の可能性は認められるにしても, その前提にあ る 山本 の ウィ リス 批判 は 当 た っ て い な い と いわ ざる を 得 ない‐ 1 ia lformat i )1977 1 tureandthesoc ( 7 }Coward oが,Screen as scul . ,18 ,( ,RPC. )前掲, R 5頁. ( 8 .シャープ 『知識・イデオロギー・教育政治』 , 19 9 ( )同上, 196~197頁‐. ノ ・マータウンの野郎ども』 筑摩書房, 1 9 85年, 221頁. ( I D )P .ウィ リス (熊沢誠・山田潤訳) 『 ( 1 1に の点は, 再生産論が機能主義的な性格をおびやすいということと表裏の関係にあると 思わ れる‐ ち なみ に, ウィ リスは 「階級文化の営みにたいするあまりに機能主義的なとらえかたもまた排されねばならない (が) ……再生産 9~3 50頁)と指摘している. なお, リストンは, ウィ の理論にはいつでも機能主義的な説明がつきまとう」(同上,34 リスの立場をマルクス主義者の中における階級形成アプローチとして分類した上で,「階級形成アプローチのすべて の提案者は機能主義的な断定に批判的である一方, いまだに安易な機能主義的 聴説明″ の誘惑から逃れられていな い‐ ……理由づけは何であろうとも, 階級形成アプローチの内部においてさえ, 機能主義的説明についての混乱は l i i l tal tSchoo )1988p ) と して いる‐ ウィ s s 存在 して い る」 (Liston,D‐ ‐ .71 ,Chapman & Hal ,lnc ,Cap ,(London リスも機能主義的説明から免れてはいないとしているのである‐ ◎ 前掲, P‐ウィ リ ス 『ノ・マー タ ウ ンの 野 郎 ども』 , 370 頁‐. 第2章. 文化的生産論としての再生産論. 第1節 文化概念の再定式化 ウィ リスは 『 ノ・マータウンの野郎 ども』 以後, 一方で, 文化研究の一環として文化概念や文化の 捉え方をさらに明確にし, 他方で, 従来の再生産論を吟味しながら自らの再生産論の独自性を浮き 彫りにする試みを行なっ ている. もちろん, これらの試みは現象的には異なる研究であるにもかか わらず, 本質的には共通した側面を有している. なぜなら, この二つの方向での試みは, 文化を媒 介にした再生産論の構築という 点に焦点づけられていくものであるからである. このうち, 文化概念や文化の捉え方に関しては, ヒッ ピーや バイ ク少年の実態を描いた 『世俗的 1 ( )( 文化』 1 978年) の 「世俗性と創造性」 と題する序章の中で明確にされている. そこでは, 第一に, ウィ リスは文化を主観的なものとしてのみ捉える考え方を排除している. つ まり, 特定の芸術的な音楽や絵画に対する好みといっ た主観的な意識だけから文化を捉えるの では なく, 客観的で物質的な生活のあり方からも把握しなければならないとしている. なぜなら,「文化 2 { }ん でいるか は意識されたものだけ でなく, 無意識の意図されていない物質的生活のあり方を含」 らである. 69.
(15) . 小 内. 透. 第二に, 物質的生活のあり方を含めた文化の内実は, 社会構造における人々の客観的位置に関連 づけられているという見方を提示している. たとえば,「文化の領域において考えられ表現されてい るものは, 社会構造における社会集団の位置に関連している」と述べ, 「社会における支配的な階級 3 } これ がある絶大な優位性を持っ ていることは, こう した文化の見方から明瞭である」としている( . 4 ) は文化の客観的階級的規定性を軽視してはならないという考え方である{ . ノ・マータウンの野郎 ども』における文化の捉え方とは, 微妙に異なっ ている. この二つの見方は,『 『 なぜなら, ノ・マータウンの野郎ども』では 主体的な営みとしての文化という見方を強調していたの に対し, ここではむしろ文化の客観的な側面や客観的な規 定性を論じているからである. しかし, このことは, ウィ リスの文化概念が大きく変化したことを意味するものではない‐ なぜ なら, 彼の文化概念の力点が主体的な営みとしての文化という側面にあることに変わりはないと考 えられるからである. そこでは, むしろ文化の捉え方として 主体性ないし主観性のみが強調される ことを注意しながら, 主体的な営みとしての文化の特徴を重視するという考え方が明示されて いる と理解する必要があろう. いいかえれば, それは, ウィ リスが客観的な日常生活における 主体的な 営みとして文化を捉えて行こうとしていることの表われに他ならない. 事実, この 点に つ い て は, 以下の論述が明確に示している. 「文化は 革命的な文化変動が意識の再解釈 再形成 最も些細な毎日の平凡な事柄の下部から , , , の発酵に基づいているということをわれわれに教えている. そんな変化は上からあるいは観念だけ から供給されることはありえない‐ ……大きな変化といえるものも, もし小さなもの, たとえばわ れわれの常識になっていること, 平凡な習慣, 日々の受容されたものの使用を変化させ ないなら, 5 ( } 変化とはいえない. 文化変動は世界に挑む世俗性をもっ ていなければならない」 . ここには, いわば日常の生活文化の中から, 変革の契機を探るという問題意識が明らかに示され ている. 文化は客観的な側面をもち, 客観的階級的な規定性を帯びている が, 同時に主体的な営み であるという弁証法的な文化の捉え方が, 客観的な社会構造に規定された 日常の生活文化それ自体 の中に, 社会構造を変革する主体的な営みの契機を見出していこうという 視点に結実しているとい える. その意味で, ここで明らかにされた文化の捉え方は, 『ハマータウンの野郎ども』の中で提起 されていた文化の概念を, 文化の客観的側面や客観的階級的規定性をも考慮した形でより精微化し 6 ) た も の と して 受 け と め る こ と が で き る( .. ただし, ここで注意しておく必要があるのは, いわば日常の生活文化への着目という視点を提示 しておきながら, 実際にこの著作で取り扱っ ている対象がヒッ ピーや バイ ク少年に限られていると いうことである. つまり, どちらかというとマイナーな人々を対象にした日常生活しか描かれてい ないのである. 本来, 客観的な社会構造に規定された日常の 生活文化それ自体の中に, 社会構造を 「 変革する主体的な営みの契機を見出していこうとするなら, なによりも 「普通の労働者」 , 平凡な 労働者」 の日常生活に注目しなければならないといえる. その意味で, この点については, 課題と して 残 さ れた と い っ て も よ い.. 〔注〕 l l l )1978 l i ture ( 1 }Wi edge & Kegan Paul s . . ,Rout ,P ,Profane Cu ,(London i d l b 4 2 () . .. ,p dつp ◎ .bi .4~5 .. 「いわゆる“若者文化“についての誤解の一つは それが非階級的な現象であるというものであった」 ( 07 l b i d ) 4 ( ) . . .2 ,P , という指摘はこうした見方の必然的な帰結である‐ 70.
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