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丹波・周山1号墳出土埴輪について

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(1)

著者 辻川 哲朗

雑誌名 同志社大学歴史資料館館報

号 16

ページ 1‑20

発行年 2013‑10‑30

権利 同志社大学歴史資料館

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000013691

(2)

1.はじめに

本稿の目的 同志社大学歴史資料館には、京都市(旧北桑田郡京北町)周山1号墳出土の埴輪が収蔵 されている。この資料は、1974年度に実施された同志社大学考古学研究室による発掘調査で出土した ものである。当該調査については、諸般の事情により正式な報告書が刊行されず、ながらく実態が不 明なままとなっていた。辻川は大学院在籍中に本資料の存在をしり、森浩一先生の許可をえて実測を おこなっていたものの、公表にはいたらなかった。

周山1号墳は、南丹波地域―なかでも周山盆地における主要古墳の一つであり、当該地域の地域史 資料として重要であることはいうまでもない。このような本資料の重要性をかんがみて、近年では龍 谷大学考古学実習室・同考古学研究室によって周山古墳群の墳丘測量調査が実施されている(國下他 2013)。そこで、今回あらためて埴輪資料の補足調査をおこない、おくればせながらも資料の公開を はかることによって、当該地域の地域史研究に資することが本稿の主たる目的である。

以下においては、まず周山古墳群の概要をのべたうえで(2章)、埴輪が出土した1974年度の調査 内容を復元し(3章)、出土埴輪の内容を報告する(4章)。

2.周山古墳群について

(図1、表1)(1)

遺跡の位置 周山古墳群は、現在の行政区画上では京都市右京区京北下町折谷に所在する。京北町は、

京都市の市街地から北西方向約20㎞に位置する山間小盆地である。この小盆地は山間部を流下する桂 川と弓削川によって形成されたもので、周山古墳群は両河川の合流点北側付近に立地することになる。

この付近は標高270 〜 280mで、丘陵上は南にゆるやかに傾斜する平坦面となっている。

周辺の遺跡 山間部の小盆地にもかかわらず、遺跡数は比較的おおく、現在のところ135 ヶ所の遺跡 が周知されている(京都市文化市民局2006)。当該地域において、最古の人類活動の痕跡は、周山瓦 窯の調査で出土した旧石器時代後期頃のチャート製剥片である。縄文時代には、いまのところ確実な 遺構は検出されていないものの、散布地は周知されている。弥生時代には遺跡数が増加傾向をみせる。

とくに弓削川左岸丘陵部からは銅鐸の出土をみており、南丹波地域における唯一の銅鐸出土例となっ ている。古墳時代になると、多くの古墳の築造がみられる。その大半は後期群集墳であって、確実に 中期に遡上するのは、愛宕山古墳と本稿であつかう周山1号墳である。前期古墳はいまのところ確認 されていない。古代の主要遺跡としては、周山廃寺と周山瓦窯がある。また、平安時代以降、当該地 域は都城や諸寺院造営にかかわる木材供給地として位置づけられ、中世には山国荘や弓削荘といった 荘園が形成された。とりわけ、山国荘は禁裏御料地であり、皇室との密接な関係をもっていた。また、

光厳天皇陵をはじめとする天皇陵の存在も特徴的である。さらに、地域内には、上中城等の城館・城 郭が築かれている。なかでも、天正7年(1579)に明智光秀によって築城された周山城は良好に遺存

丹波・周山1号墳出土埴輪について

辻川哲朗

(3)

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図 1 周山古墳群の位置

(4)

する織豊系城郭としてしられている。幕末には、禁裏御料地との関係を背景に義勇軍として山国隊が 官軍にくわわり、戊辰戦争で活躍した。

古墳群構成 『京都府遺跡地図第3分冊〔第2版〕』(京都府教育庁指導部文化財保護課編1986)には、

方墳11基から構成される古墳群として登載されている(表1)。ただし、現在はそのうちの2基の古 墳の位置が不明であって、確実にとらえられるのは9基であり、分布状況から以下の3つのグループ に大別できるという(國下他2013、p9)。①周山中学校北側に分布する1〜4号墳のグループ。②そ の北側約100m付近に分布する6〜9号墳のグループ。③9号墳の西側にある5号墳のグループ。

遺跡の発見と既往の調査 『京北町誌』には「昭和四十八年の秋、周山中学校の後山から縄野坂峠に至 る尾根に、京都府下でもめずらしい方形古墳が四基発見された」(京北町誌編さん委員会編1975、p.20)

としるされており、前項での①のグループは1973年に発見されたことがわかる。

その後、1974年7月に同志社大学考古学研究室によって発掘調査がなされた(2)。今回おもにあつ かうのはこの調査である。その後、ながらく本格的な調査は実施されていなかったけれども、2012年 度に龍谷大学考古学実習室と同考古学研究室が共同で墳丘測量調査を実施している(國下他2013)。

3.周山1号墳の調査について

(図2・3、表2、史料1〜3)

1974年度調査復元の手がかり 先述したように、1974年度の発掘調査に関しては、正式報告書が未 刊行である。以前に資料調査をおこなったさい、当時の遺構原図を探索したけれども、発見にはいた らなかった。それゆえ、調査の状況については『京北町誌』の記述(京北町誌編さん委員会編1975、史 料1)や『日本考古学協会年報』の記載(森1976、史料2)からうかがうほかなかったのである。

ところが、今回の補足調査のさいに、やはり遺構原図の所在は不明ではあったものの、調査参加者 による調査日誌・遺構写真・「周山古墳群調査概要」と記された原稿(以下、「概要原稿」)が同志社大学 歴史資料館に収蔵されていることを若林邦彦先生より御教示いただいた。これらは調査の具体的な状

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表1 『京都府遺跡地図第3分冊〔第2版〕』(京都府教育庁指導部文化財保護課編 1986)による周山古墳群

(5)

況をしるうえで、いまのところほぼ唯一といってよい手がかりである。よって、未刊行の原稿ではあ るけれども、基本史料として「概要原稿」の全文を掲載することにした(史料3)。なお、史料1〜3 は本稿末に付したので、適宜参照されたい。

一方、調査日誌は「≪総括≫」と記入された大野左千夫氏による日誌(以下、総括日誌)と、各参加 者による個別の日誌(以下、個別日誌)の2種類からなる。両者の内容を比較検討したところ、各参 加者による個別日誌を大野氏が取りまとめ、総括日誌を作成したとかんがえられた。これも調査の過 程をうかがううえで重要な史料である。よって、総括日誌の主たる内容と個別日誌の一部を抜粋し、

あわせて掲載することにした(表2)。

以下、「概要原稿」に依拠しつつ、調査日誌についても適宜参照することによって、1974年度の発掘 調査の内容の復元をこころみたい。

調査の期間と体制 調査は1974年7月21日から28日までの8日間実施された。ただし、7月25日は降 雨のために現地作業を休止しており、実際の現地調査日数は7日間となる。

調査は測量班と発掘班の二班体制で実施された(3)。測量班の作業内容は1〜3号墳周辺の地形測 量であり、発掘班の作業内容は1号墳の西側斜面に露呈していた葺石の検出を主とする。

地形測量調査 測量班によって、1〜3号墳とその周辺部を対象とした地形測量が7月21日〜 26日 の間に実施されたことが調査日誌から判明する。ただし、作成された測量図の所在は、残念ながら現 時点で不明である。

1号墳の調査内容の復元 まず、調査区の配置を復元したのち、各調査区の状況・埴輪の出土状況を

確認する。さらに、その結果をふまえて当該調査の結果をまとめる。

調査区の配置 「概要原稿」には調査区の配置に関する詳細な記述はない。本来ならば、これは挿図 によってしめされていたはずである。しかし、挿図の所在が不明な現状では、記述から推測する以外 に方法がない。そこで「概要原稿」に調査区の配置に関する記述をもとめると、以下の2箇所をあげ ることができる。

①「西側の墳丘斜面の腐食土を除去していったところ、…[引用者註:…は省略、以下同]」。

②「西側にある2号墳との間のやや凹んだ部分に幅約1mのトレンチを入れたところ、…」。

以上からは、1号墳墳丘の西側斜面の腐植土が除去されたこと、2号墳との間にトレンチが設定さ れたことがわかる。以下の記述では、①を墳丘西側斜面トレンチ、②を1・2号墳間トレンチと仮称 しておきたい。墳丘西側斜面トレンチに関して、調査日誌を参照して付言しておくと、1号墳墳丘北西・

南西隅部から腐植土の除去に着手し、日をおって腐植土除去作業がすすめられたことがわかる。そし て、最終的には西側斜面のほぼ全面にわたって葺石が検出されるにいたっている。

さらに、調査日誌からは、これら「概要原稿」にしめされた調査区以外にも、つぎのようなトレンチ が設定されていたことが判明する。

③7月22日には、墳頂に50㎝四方の「test-pit」が設定されている(以下、墳頂部テストピット)。

④ 7月24日には、「西北隅墳丘下にトレンチを入れ…」や、「西北隅は付近に東西の細長いトレンチを 入れる」という調査日誌の記述から、墳丘西北隅付近にトレンチが設定されていることがわかる

(6)

表2 調査日誌抄

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(7)

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図 2 調査日誌にしめされた調査状況図

(8)

(以下、北西隅トレンチ)。

⑤ 7月26日には、1号墳墳丘東側基底部に2本のトレンチが設定されている(以下、東側1・2ト レンチ)。

調査区の状況 つぎに、各調査区の状況を「概要原稿」と調査日誌から読みといていきたい。典拠を 明示する必要性から、引用が長文にわたる場合もあるけれども、どうかご寛容いただきたい。

【墳丘西側斜面トレンチ】主たる調査対象となった調査区である。まず「概要原稿」を確認する。

「西側の墳丘斜面の腐食土を除去していったところ、上方では腐植土下直ちに径10 〜 20㎝程度の 角礫があらわれたが、下方では黄灰色粘質土が厚さ20 〜 30㎝にわたって堆積していた。墳頂の平坦 面に近い部分では、礫はみられず、黄灰色の盛土があらわれ、これらの礫が葺石であることが確認さ れた。墳丘基底部では厚く堆積した黄灰色土を除去すると、上からの転石がかなり散石していたが、

これらの遊離した礫を取除くと、30 〜 50㎝の角の大きな石材が基底部に一列にならべられているこ とが確認された。葺石はそのほとんどが角礫を用いているが、若干の川原石を混じえている。なお、

白礫は1点検出されただけである。

原状を良く保っている部分では、礫が重なって盛土を完全に覆っているが、檜の植林によって部分 的な撹乱があり、とくに西北・西南の稜の部分では葺石が落失し、盛土が露出していた。全体に上方 の葺石は径10㎝程度と小さいようであるが、転石の中にはかなり大きな礫がみられ、大きな礫がはや く転落したためと考えられる。

西北隅の基底部は、やや区形[引用者註:矩形ヵ]に突出しているようにも思えるが、これらの石 材が元の位置を動いていることも考えられ、なお検討の余地がある」。

【調査区の拡張】以上の記述は簡潔かつ要をえたもので、あらためてくわえるべき点はない。ただし、

調査日誌の記述から調査区の一部が拡張されたことがわかるので、その点を付記しておきたい。7 月23日の総括日誌には記載されていないものの、同日の個別日誌のなかに「昨日に引き続き北西コー ナーすそ部の腐植土を除去し、更に幅2m×長さ3mの拡張を行った」(表2、下村日誌)、「…北西コー ナーにおいては、この西斜面から北西へ幅2m長4〜5mの表面調査を行った」(表2、森井日誌)と いう記述があるとともに、各日誌に略図がしめされており(図2―②・③)、状況をある程度うかがう ことができる。それによると、北西隅部から西側へ腐植土除去範囲が拡張され、若干の礫が「盛土流 出?」とされる層上で検出されており(図2―②)、この層や礫は墳丘盛土の流出土と葺石の転石と解 釈されたようである。

【葺石の状況】葺石に関しては、墳丘基底部で「30 〜 50㎝の角の大きな石材が基底部に一列にならべ られている」状況を検出している点に注目しておきたい。墳丘西側の基底部で明確な葺石の根石列が みとめられ、すくなくとも墳丘西側の基底部が明確に把握されていたことが判明するからである。

【墳頂部テストピット】この調査区は「概要原稿」に記述がなく、7月22日の大野氏による個別日誌に のみ記載されている。それによると「表土−7㎝が腐植土、−20㎝が黄灰色粘質土(やや薄い)、それ 以下は黄灰色粘質土がみられ」、「石塊及び礫は全くみられない」とする。

なにぶん、上記以上の手がかりがないので、調査区設定の意図や設定場所等の詳細をしりがたい。

(9)

【1・2号墳間トレンチ】この調査区については「概要原稿」・調査日誌ともに記述がある。まず、前 者の内容を確認しておく。

「西側にある2号墳との間のやや凹んだ部分に幅約1mのトレンチを入れたところ、表土下10 〜 20㎝に川原石を混えた径15 〜 25㎝のへん平な礫が約2.7mの幅で敷かれていることが確認された。こ の石敷は中央がやや凹んでいる。東側は1号墳の基底部から約1.6m離れており、この間は平坦面と なっている。西側は2号墳の基底部との関連を確認していないが、このまま2号墳の葺石となるもの ではないように思える。ボーリング棒で確認したところでは、この石敷はかなり南北に長く続くよう で、1号墳と2号墳の間の空濠状の浅い溝に敷設されたものとも考えられる」。

また、7月26日の総括日誌には「2号墳裾部から幅約50㎝のトレンチを入れたところ、浅いU字状 に30㎝程度の礫を一面に敷いていることを確認。2号墳に付属するものかと思われるが、不明」とあ る。大野氏によるこの総括日誌にはトレンチの断面略図がしめされている(図2―⑥)。略図からは、

1号墳の西側斜面裾部の西側には平坦面がつづき、その西に礫敷がのびていくこと、また礫敷の断面 形状が「浅いU字状」を呈していたことをよく理解できる。

さらに、同日の個別日誌にも「1号墳西側と2号墳東側との間に東西方向に任意の幅でトレンチを 入れる。1号墳基底部の葺石が終わる線から約1m西へいった所から空濠の基底面を示す状況で割礫 を主とし河原石をも含む石組みが発見された。この石組は、地山の上に組まれたもので、2号墳の墳 丘につながっていくものである。この石組は2号墳の空濠の基底面を示すものであろうと思われる」

(表2、渡瀬日誌)という記述がある。

以上の記述から、この礫敷の特徴はつぎの5点にまとめることができる。

①川原石を混えた径15 〜 25㎝の扁平礫を約2.7mの幅で地山上に敷いていること。

② 東側が1号墳西斜面の葺石裾部より約1.6m(ただし、渡瀬日誌には約1mとある)離れており、

その間は平坦面となっていること。

③西側については、2号墳の葺石との関係が未確定であること。

④ 礫敷のレベルは一定でなく、東西方向の断面が「浅いU字状」を呈すると表現されるように、中 央がやや凹むこと。

⑤ 南北方向のひろがりについては、ボーリングステッキによる触診によって、南北方向にながくつ づくことが予想されること。

①・②からみて、1号墳の葺石が転落して集積したとはかんがえられず、やはり人為的な施行を想 定せざるをえない。そうなると、その性格が問題となる。しかしながら、管見ではこうした周濠底面 の礫敷の類例を見いだせておらず、現時点では性格を確定しがたい。

【北西隅トレンチ】7月24日の大野氏による総括日誌・個別日誌のみに記載された調査区である。

まず、総括日誌には「西北隅墳丘下にトレンチを入れ、地山かと思われる黄灰色混礫土の上に礫群 を検出」とある。また、個別日誌では、墳丘北西隅に「東西に細長いトレンチ」を設定し、「地山と思わ れる土の上に石塊群がみられる。転石でない可能性があるが、すぐに埋める」とする。個別日誌にし めされた略図からは、トレンチの規模が東西3m・南北0.5mであったことがわかる(図2―④)。

(10)

このトレンチで検出された「礫群」の性格については、「概要原稿」・調査日誌のいずれにも解釈がし めされていない。それゆえ、現状では確定しがたいものの、先述した1・2号墳間トレンチで検出さ れた礫敷の一部であった可能性がある。

【東側1・2トレンチ】「概要原稿」には直接的な記述はなく、調査日誌のみにしめされている。

7月26日の総括日誌には「東側基底部に2本のトレンチを入れるも、葺石はみられず、地山を検出」

とある。また、同日の個別日誌には「1号墳の東側に前記のトレンチ[引用者註:1・2号墳間トレンチ]

と同じ位置に2本のトレンチを入れてみたが、先のような石組みは発見できなかった」(表2、渡瀬日 誌)と記述されている。この日誌には略図があり、東側1・2トレンチがしめされている(図2―⑤)。

 このトレンチの規模や具体的な状況については、上記以外に情報がなく、判然としない。調査区の 規模が限定されたことに起因するという可能性もあるものの、葺石や埴輪の出土をみなかった点は西 側の状況と対照的である。この点には留意しておきたい。

 なお、「概要報告」には、さきにふれた1・2号墳間トレンチの周濠底面の礫敷に関する記述のなか に「1号墳東側の墳丘裾部にはこのような施設[引用者註:礫敷]はみられない」という記載がある。

これは東側1・2トレンチの成果をふまえた記述であろう。

埴輪の出土状況 最初に、埴輪の出土状況に関する「概要原稿」の記述を確認しておきたい。

 「墳丘基底部の葺石の上で円筒埴輪の破片がまとまって検出されたが、いずれも口部の破片を主と し、元の位置ではない。また、西側斜面際の墳丘上平坦面で、腐植土直下に円筒埴輪の基底部の破片 がみられたが、これも厳密な意味で元の位置を示すものではない。しかし、このことからみて、円筒 埴輪が本来平坦面に立て並べられていたものであると考えられる」。

【第1地点・第2地点】つぎに、調査日誌の記述とあわせて、埴輪の出土地点や出土状況を読みとい ていこう。調査日誌によると、最初に埴輪の出土をみたのは7月23日のことであった。墳丘西側斜面 の葺石検出のさいに「墳頂−150㎝の地点で、表土下20㎝の葺石直上で2箇所にわたって円筒埴輪片 を検出」しており、2ヶ所の出土地点について「北側を第1地点、南側を第2地点」(表2、7月23日 大野氏個別日誌)と呼びわけている。なお、同日誌には「他にやや厚手の土師質土器片を若干検出」と あるけれども、今回の補足調査では確認できなかった。

 調査日誌における第1地点・第2地点での出土は「概要原稿」の「墳丘基底部の葺石の上で円筒埴輪 の破片がまとまって検出された」という記述に対応するとみてよい。両地点の平面的な位置について も、個別日誌の記述と略図からある程度推測が可能である(図2―②・③)。日誌の記述によると、西 側斜面中央部付近に位置し、第1地点と第2地点の距離は約4mであった(表2、7月23日下村日誌)。

また、具体的な出土状況については「第2地点付近からは、かなりの細片が出土しているが、第1地 点では大破片が集合していた」(表2、7月23日森井日誌、図2―②)という。一方、埴輪出土地点の 垂直位置については、「墳頂−150㎝の地点」(表2、7月23日大野個別日誌)という記述と、「西斜面頂 上平坦面より1.7m下部の地点」(表2、7月23日森井日誌)・「墳頂から、1m70㎝下位」(表2、7月 23日下村日誌)という記述を見いだせる。前者と後二者には0.2mの齟齬がある。略測時の誤差ともか んがえられるけれども、現状では当否を決しがたい。

(11)

むしろ、ここで注目すべきは「墳丘基底部の葺石の上で円筒埴輪の破片がまとまって検出された」、

あるいは「墳丘基底部は、昨日[引用者註:7月23日]埴輪片を検出した部分であることを確認」と記 述されているように、第1地点・第2地点の埴輪の出土地点付近が「墳丘基底部」として把握されて いた点である。さきにのべたように若干の誤差がある可能性は否定できないものの、墳頂部平坦面を 基準とした垂直位置を加味すれば、墳丘裾部を推測する手がかりになるからである。

【第3地点】翌24日の調査日誌には、「墳頂西側斜面際の腐植土を一部除去」したところ、「埴輪片を若 干検出し」、この破片は「基底部片」であるという記述がある(表2、7月24日大野個別日誌)。この 記述は「西側斜面際の墳丘上平坦面で、腐植土直下に円筒埴輪の基底部の破片がみられた」という「概 要原稿」の記述に対応するものであろう。出土埴輪の注記をみると、「第1地点」・「第2地点」と記入 された破片とともに、「第3地点」と記入した例があった。前二者は、先述した7月23日における二ヶ 所の出土地点に対応する。また、「第3地点」と注記された破片2点は、いずれも底部片であることか らみて、7月24日に出土した埴輪片であるとみて大過ない。

【埴輪配置の想定】埴輪の注記から地点ごとの器種をまとめると、つぎのとおりである。

第1地点出土:普通円筒埴輪口縁部片(図4―1)。第2地点出土:円筒埴輪体部片(図4―3・4)・ 朝顔形埴輪片(図4―6)・蓋形埴輪笠部片(図4―8)。第3地点出土:円筒埴輪底部片(図4―5・7)。

葺石直上での出土という状況から、これらの埴輪は原位置をとどめていないと判断されている。これ は、しめされた情報からみて首肯できる解釈である。墳丘西側斜面のほぼ全体に調査の手がおよんだ にしては、埴輪の出土量がすくない印象をうけること、底部片が墳頂部付近で出土している(第3地 点)ことなども勘案すると、本古墳の埴輪の配置状況は、墳頂部平坦面上に少量の円筒埴輪と蓋形埴 輪等が樹立されていた、と想定しておくのが穏当であろう。

1974年度調査の結果のまとめ 以上から、1974年度調査の成果をまとめておきたい。

【墳形と規模】「概要原稿」では、調査結果から「1号墳の西側基底部での南北長は16.4m、現在の高さ は1.7m」と結論づけた。なお、「南北16.4m×東西15.5m、高さ1.7m」の方墳とする史料2はこの調査 結果にもとづくものであろう。

【外表施設】すくなくとも墳丘西側斜面には、ほぼ全面に葺石が葺かれていた可能性がたかい。葺石 は10 〜 20㎝の石材を基調とし、基底部には大型(30 〜 50㎝)の石材が根石として一列に並べられて いた。葺石の石材は大半が角礫であり、若干の河原石を併用していた。

【1号墳・2号墳間の礫敷】1号墳・2号墳間には、川原石を混えた径15 〜 25㎝の扁平礫を約2.7mの 幅で地山上に敷いている状況が確認された。この石敷は、1号墳西斜面の葺石裾部より約1.6m離れ ており、その間は平坦面をなし、礫敷の底面は断面が浅いU字状を呈していた。

【埴輪配置】出土状況等を勘案すると、墳頂部平坦面上に少量の円筒埴輪と蓋形埴輪等が樹立されて いたことが想定できた。

龍谷大学考古学実習室による墳丘測量調査成果との整合性―墳丘規模の想定に関して 前項までにお いて、諸史料から1974年度調査の内容の復元をこころみてきた。つぎに、周山1号墳の現状の記録化 をはかった龍谷大学考古学実習室による墳丘測量調査成果(國下他2013、以下龍大報告)と、1974年

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図3 周山1号墳墳丘実測図

(13)

度調査結果との整合性をみておきたい。というのは、龍大報告には、墳丘測量調査結果等にもとづい て、つぎのような墳丘規模に関するあらたな指摘がしめされているからである。

「今回の調査で作成した測量図から、1号墳は従来推定されていた方墳であることが追認できた。し かし、ピンポールによる調査から規模が従来のものより大きくなる可能性が出てきた。葺石基底石列 の推定ラインは、墳丘の南・西側と北側の一部で検出できたが、その結果から墳丘の規模を推定して みると南北約20m×東西約17mのやや南北に長い方墳と復元することができる」(國下他2013、p.10)

(4)。

詳細な墳丘測量図が提示されるとともに、そこにはあらたに想定された「基底石推定ライン」も図 示されており、きわめて重要かつ有益な成果である。ただ、1974年度調査の成果をふまえると、上述 の指摘にはいますこし検討の余地があるようにおもう。それは、あらたに提示された西側の墳丘基底 石ラインに関する点についてである。以下、この点について検討をすすめたい。

もとより、遺構原図の所在が不明な現状では、1974年度の調査区の正確な位置、ならびに検出され た墳丘西辺葺石裾部ラインの正確な位置を確定できないことはいうまでもない。とはいえ、まったく 手がかりがないわけでもない。手がかりとなるのは、①埴輪が出土した第1地点・第2地点付近が墳 丘基底部として把握されていたこと、②両地点は墳頂部平坦面から約−1.5 〜 1.7mの地点であったこ と、以上2点である。これら2点にくわえて、墳頂部平坦面の状態が1974年当時からいちじるしく変 化したとはかんがえがたいことを前提とすれば、現状の墳頂部から約1.5 〜 1.7m下位付近が墳丘裾部 に相当するとみなしてもよいことになる。

そこで、龍大報告に提示された断面図を利用して、墳丘裾部を想定することにした。墳頂部平坦面 を0mと仮定し、そこから−1.7m下の地点を現地表面上にもとめた。−1.5mでなく−1.7mをもちい たのは、龍大報告での想定ラインによりちかい位置になるとかんがえたからである。ただし、本来の 基底石は現地表面下に位置することになるから、現地表面上でもとめた位置よりもさらに墳丘よりに あるはずである。しかし、この点を確定することは、基底石の検出高が不明である現状では困難であ る。とはいえ、それでもおおよその位置を想定することはゆるされよう。

以上をふまえたうえで、1974年度調査における墳丘裾部の検出位置の想定をこころみた(図3)。

その結果、想定される墳丘裾部は277.5m等高線付近に相当し、龍大報告における想定ラインよりも 東側にもとめられることになった。なお、この想定位置は、先述したように龍大報告での想定ライン によりちかくなるように条件設定をおこなった結果であるから、墳丘西辺想定幅のおおむね西限をし めすとみてよいだろう。そうかんがえたうえで、ほぼ方形にめぐる278.0m等高線付近を墳丘裾とし て図上計測すると、南北約16.5m・東西約15mという「概要原稿」や史料2の数値にほぼひとしい数値 をえることができる。以上から、龍大報告のあらたな指摘にはしたがいがたく、現時点では1974年度 の調査結果から結論づけられた数値に妥当性をみとめるものである。

4.出土埴輪

(図4)

概 要 同志社大学歴史資料館に所蔵されている遺物は埴輪片にかぎられる。その量は収蔵コンテナ

(14)

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図4 周山1号墳出土埴輪実測図

(15)

0.5箱程度である。そのなかから、図化にたえる主要破片を抽出して実測した。

確認しえた器種は、円筒埴輪(普通円筒埴輪[以下、普通円筒]・朝顔形埴輪)と形象埴輪(蓋形埴輪・

不明形象)である。以下、胎土・色調・焼成といった器種をこえて共通する点について記述したのち、

器種ごとに個々の破片について記述をすすめていく。

胎 土 径3〜1㎜程度の亜角礫を比較的おおく包含する。亜角礫は石英・長石等を基調とする。

色調・焼成 外面の器面・断面・内面の器面によって色調が変化する場合がある(図4)。遺存部分 に明確な黒斑がみとめられない例はすくなくない。しかし、①一部に黒斑が確認できること、②内外 面が明色系であっても、断面芯部が暗色〜黒色系の色調を呈する「サンドイッチ状」の個体がみとめ られること、以上の点から、窖窯焼成品ではなく、野焼き焼成品である可能性がたかいと判断した。

円筒埴輪 口縁部片からみて、普通円筒が確実に存在する。また、朝顔形埴輪に相当する破片も見い だすことができた。ただし、破片資料では、普通円筒と朝顔形埴輪とを区別しがたいので、以下にお いては、確実に識別しえた事例以外は両者を区別せずに記述する。

1は普通円筒の口縁部・体部片である。口縁部とその下位1段中途までが遺存する。復元口径は約 26㎝、口縁部高は約9.2㎝である。口縁部は端部を外方に折りまげ、外端部に面を作りだしている。突 帯の断面形状は先端部を欠失するために不明であるものの、他例からみて断面台形である可能性がた かい。突帯下段には円形スカシの一部を確認できた。外面調整は、一次調整としてタテハケ(原体条 線密度8〜9本/㎝)をほどこす。内面は突帯部付近をヨコナデによって、口縁部付近を左傾ナナメ ハケ(原体条線密度8〜9本/㎝)によって調整する。内面に「周山1号墳 第1地点」の注記がある。

2も普通円筒の口縁部片である。細片のために口径を復元しえない。口縁部は、1と同様に端部を 外方に折りまげ、外端面に面を作りだしている。内面は、器面の遺存状態が不良であるため、調整 の詳細をしりがたい。一方、外面にはタテハケメ(原体条線密度6〜7本/㎝)がわずかに遺存する。

内面に「周山1号墳(以下、判読不明)」の注記がある。

3は体部片である。突帯をはさんで上下2段分が遺存する。突帯の下段には円形スカシを確認でき る。突帯の根もと付近での体部外径は約19㎝に復元できる。突帯間隔は上段が7.5㎝以上、下段が4

㎝以上である。突帯の断面形状は台形を呈する。外面調整は上下段ともにタテハケ(原体条線密度6

〜8本/㎝)をくわえている。内面は、ナデ調整の後に左傾ナナメハケ(原体条線密度6〜8本/㎝)

で調整する。内面には「周山1号墳 第2地点」の注記がある。

4は体部片である。突帯をはさんで上下2段分が遺存する。突帯の根もと付近での体部外径は約16

㎝に復元できる。突帯間隔は上段が6㎝以上、下段が1.5㎝以上である。突帯は、先端を欠失してい るために断面形状は不明であるけれども、他例とおなじく台形であった可能性が高い。外面調整はタ テハケ(原体条線密度8〜9本/㎝)である。内面はナデ調整を基調とし、突帯裏面はヨコナデをく わえている。内面には「周山1号墳 第2地点 740724」の注記がある。

5は底部片である。上端を欠失しているため、底部高はしりえない。ただし、残存高は約9.2㎝以 上である。底径は約18㎝に復元できる。外面はタテハケ(原体条線密度8本/㎝)で、内面はナデで それぞれ調整する。破片上部に黒斑がみとめられる。内面に「周山1号墳 第3地点」の注記がある。

(16)

6は朝顔形埴輪の1次もしくは2次口縁部と目される破片である。外面はタテハケ(原体条線密度 7本/㎝)により調整する。内面はナデ調整である。内面に「周山1号墳 第2地点」の注記がある。

7は底部片である。細片のために底径を復元しがたい。外面はタテハケ(原体条線密度8本/㎝)

により調整する。内面はタテナデ調整である。内面に「周山1号墳 3地点」の注記がある。

形象埴輪 蓋形埴輪片2点、不明形象片1点を確認した。史料2で「へらがきのある円筒埴輪片数片」

とされるものに相当しよう。8・9は蓋形埴輪笠部先端付近の破片である。いずれも外面に2条一対 の沈線がみとめられた。内外面ともにナデ調整による。8の外面には、わずかに赤色顔料が遺存して いる。10は外面に2条の沈線をくわえた不明形象片である。器面の遺存状態が不良のため、調整につ いてはしりがたい。8の内面には「周山1号墳 第2地点 740724」の注記が、9・10の内面には「周 山1号」の注記がある。

円筒埴輪の特徴 以上にしめした周山1号墳出土埴輪―なかでも円筒埴輪の諸属性はつぎの諸点にま とめることができる。

①普通円筒と朝顔形埴輪から構成される。

②円筒埴輪の口径は約26㎝、底径は約18㎝に復元でき、小型品である。

③黒斑を有する野焼き焼成品である。

④スカシは円形であり、1段に2孔配置される。

⑤外面調整は一次タテハケ調整を基調とする。

⑥内面調整はナデ・ハケ調整による。

⑦普通円筒の口縁部は端部を外方に折りまげた形態を呈する。

⑧突帯は、突出度の比較的たかい断面台形を呈する。

円筒埴輪の編年上の位置づけ これらの諸点にもとづき、円筒埴輪の編年上の位置づけを検討する。

そのさいは既往の編年案(川西1988、埴輪検討会編2003a・b)を参考とした。

まず、③は窖窯導入以前の所産であることをしめす。それとあわせて、④を考慮すると、川西編年

Ⅱ・Ⅲ期に相当することになる。川西編年Ⅱ期とⅢ期は、おもにB種ヨコハケ調整の有無によって区 別される。しかし、一次タテハケ調整のみの例はⅡ・Ⅲ期をとおして確認できることから、外面調整 から所属時期を確定することは本例の場合むずかしい。ただし、本例のような寸胴形の小型品がⅢ期 以降に顕著となる形態であることに着目すると、川西編年Ⅲ期(埴輪検討会編年Ⅲ期:中期前葉頃)

まで下降する可能性も否定できないとかんがえる。

従来の周山1号墳の編年的位置づけは、前期後半(奥村1988)、前方後円墳集成編年(広瀬1992、以 下集成編年)4期(平良1992、細川2011)とされることがおおかった。しかし、以上の検討をふまえる と、集成編年5期に位置づけうる余地が生じることになる。

5.おわりに

以上、周山1号墳について、1974年度に同志社大学考古学研究室によって実施された発掘調査の内 容を関連史料から復原するとともに、その調査で出土した埴輪資料にたいする資料調査の結果をのべ

参照

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