﹁ 修 学 旅 行 記 ﹂ に み る
渋 沢 敬 三 の 学 問 的 基 礎 過 程
井 上
潤
「修 学 旅行 記 」 にみ る渋 沢 敬 三 の 学 問 的 基 礎 過 程
はじめに
渋沢史料館は︑日本の近代社会の基礎を築いた渋沢栄一を主テーマとする博物館ではあるが︑孫の代までの同族も
対象範囲としており︑なかでも渋沢敬三は︑栄一の継承者という位置づけで扱っている︒常設展示のほか︑﹁九八二
年(昭和五七)の開館以降︑二〇〇↓年(平成一三)までの間に三回の敬三関係特別展・企画展を催してきてい観︒
さて︑その渋沢史料館に所蔵する敬三関係資料はというと︑仮目録化までの整理状況にあって︑これまで︑﹁雁信
恰術集﹂と名づけられた敬三宛書簡ならびに﹃柏葉拾遺﹄に収載された写真が主に利用に供されてきた︒仮目録化ま
で進められた敬三関係資料は︑当館の各特別展・企画展時の検討に加え︑二〇〇〇年から現在も行なわれている国立
民族学博物館の﹁アチック.ミューゼアム・コレクションの形成過程に関する﹂共同研究における再検討や︑二〇〇
一年にはいり︑神奈川大学日本常民文化研究所と横浜市歴史博物館の共催にて計画が進められている渋沢敬三とアチ
ック.ミューゼアムに関する展示準備の一環で確認調査が行なわれ︑仮目録収載資料の照合確認︑写真アルバムの内
容確認等がなされてきた︒その過程の中でいくつかの資料に注目がむけられるようになったが︑今回は︑その中でも
特に︑東京高等師範学校附属中学校二学年時の﹁修学旅行記﹂を取り上げ︑その内容を紹介すると同時に︑その﹁修
学旅行記﹂が持つ意味︑背景といったところを述べることとしたい︒
少年期の渋沢敬三
ハユね
改めて紹介するまでもないのだが︑今一度︑渋沢敬三の生涯を簡単に振り返ってみよう︒一八九六年(明治二九)
八月二五日︑父・篤二︑母・敦子の長男として東京・深川に生まれる︒東京高等師範学校附属小学校︑同中学校から
仙台の旧制第二高等学校を経て︑一九二一年(大正一〇)︑東京帝国大学経済学部を卒業後︑横浜正金銀行(現東京
三菱銀行)に入行する︒一九二五年(大正一四)には︑㈱第一銀行に入り︑取締役.副頭取を歴任後︑一九四二年
(昭和一七)に︑日本銀行副総裁に転出し︑一九四四年(昭和一九)には総裁となる︒一九四五年(昭和二〇)一〇
月︑幣原喜重郎内閣の大蔵大臣となり︑戦後の経済的混乱の収拾にあたる︒しばらく公職を追放されるが︑一九五三
年(昭和二八)︑国際電信電話㈱の初代社長に就任し︑その後も金融制度調査会会長︑国際商業会議所国内委員会会
長などを務めた︒
経済界で活躍する一方で︑学問・文化の発展にも大きく寄与している︒アチック.ミューゼアム(後の日本常民文
化研究所)を主宰し︑民具等の蒐集とともに︑民俗学・民族学および日本の水産史の研究を行ない︑多くの成果を︑
数多く残している︒また︑研究活動や博物館設立などの文化事業に対して多大な賊政的支援を行なっている︒一九六
三年(昭和三八)一〇月二五日︑六七歳で死去した︒
とりわけ本稿で取り扱う対象時期である少年期はというと︑小学校時代はまだ平穏な時期であったが︑中学時代に
なり︑家庭内の問題に巻き込まれ︑その影響を受け︑落第の憂き目をみるといういやな思いをした時期であった︒
「修 学旅 行 記 」 にみ る渋 沢 敬 三 の学 問的 基 礎 過 程
敬三の学問的基礎
そのような生涯を生きた敬三であったが︑のちに︑アチックこミューゼアムを中心とした学問・文化面での活動の原点を遡っていくと︑幼.少年期にたどり着く︒例えば︑原点の一つとして︑東京・深川福住町邸内にあった﹁潮入
りの池﹂との出会いとする指禦あ都.敬三が生まれ藻川の邸内には・東京内湾につながっていた潮入りの池L
というのがあったが︑潮の干満があり︑それによって様々な魚や小動物が生息していた︒敬三は︑幼年から少年期にかけてよくこの池の傍らにしゃがんでじっと眺めていた︒そんなことから蛭をいじりだしたと本人もいっているように︑敬三にとっては︑まさにそこは自邸内の水族館であり︑研究活動の原点であるとする指摘である︒
また︑一九〇七年(明治四〇)︑敬三が=歳の時︑友人たちと﹁腕白倶楽部﹂を組織し︑﹃腕白雑誌﹄﹃腕白世界﹄
という同人誌を発行している︒内容は︑お伽ぱなし︑旅行記︑俳句︑漫画等を銘々が思い思いに書き綴っているが・
その中に﹁学問﹂と称して︑歴史︑地理の分野で調べた自由研究の発表の場が設けてあった︒観察し︑興味●関心度
を高めていくという意味での研究活動の原点が﹁潮入りの池﹂にあるとすれば︑調査し︑まとめ︑発表するという意味での研究活動の原点は︑この﹃腕白雑誌﹄に見出せるのではないだろうか︒
ところで︑敬三は︑アチック.ミューゼアムに対して﹁ティームワークのハーモニアスデヴェロープメント﹂を見
出さんとすることを望んでいた︒﹁人格的に平等にして而も職業に専攻に性格に相異つた人々の力が仲良き一群とし
て働く時その総和が数学的以上の価値を示す喜びを皆で共に味ひ度匪とい・つのである・仲の良い仲間が;になっ
て仕事をすれば︑数学的な総和以上の価値を見出せる︒その考えの代表的な試みがアシナカの共同研究や﹃民具問答
集﹄の編集等に現れており︑アチック・ミューゼアムの活動全体につながっていく︒ただ︑この考えは・アチック.ミューゼアム草創期に芽生えたものではなく︑すでに﹁腕白倶楽部﹂にそれをみることができる︒つまり・本論から
少しはずれる錨︑違った立日心味でのアチック.︑︑︑ユーゼアムの根一兀となる考えも︑幼い時よりスタートしていたと指摘m
できるのである︒
敬三の学問的原点を見定めたところで︑次に︑学問的基礎が築かれてい疸程の一端をみていくこと(邸しよ.つ.
敬三の学問的基礎は附属中学︑二高時代にまず形成され︑それは動物学的指向であった茎口われている︒ただ︑基
礎を築くという意味では︑附属中学時代の方に比重があったようである︒
その附属中学校にあって敬三に強い影響を与えた二人の教師がいた︒一人は︑生物(植物)担当の稲葉彦六で︑同
中学校にあって名教師といわれた人物である︒そして他の一人は︑地理担当の大関久五郎で︑絶大な影響を敬三に与
えたと当時の級友も語る教師である︒例えば︑人文では産業の分布とか︑村や町がどうして出来たか︑さらに諏訪湖
ならば地学から地質の成り立ちを実に詳しく教えたという︒大関は︑指導上で様々なアイデアを出している︒例えば︑
自分の住んでいる区の地誌を調べさせて報告させるなどである︒その大関のアイデアの一つに︑ここに紹介する修学
旅行記の作成があった︒
修学旅行に出かける前に︑すでに旅行先の資料集めをさせ︑出発後は︑車中の見聞︑旅行先での教師の説明︑途中
集めた様々な資料等を整理して︑帰京後まとめて提出するというものである︒地図を買って来て折りこんだり︑絵葉
書を貼って厚くすることも考えられている︒敬三の級友・宮本璋は︑論文を書くことはその時分から教えられたよう
ヘアリなものだったと言っているという︒
このような良き教師の指導に恵まれた附属中学時代の敬三は︑四年時に箱根双子山や武州雲取山で蛭を採集したり︑
諏訪湖でプランクトンを採集している︒水泳部のあった富浦で採集した猫鮫に寄生する海蛭に関しては︑丘浅次郎博
士に贈って珍らしいと褒められたりもしている︒また︑そのような採集・調査活動をもとに︑中学時代か︑b﹁蛭四種
について﹂・﹁金魚の音に関する知覚の一観察﹂︑﹁ダフネ﹂(みじんこの一種)︑﹁日本における自然保護と記念物﹂︑
﹁諏訪湖について﹂︑﹁蟻の社会性﹂といった論文を執筆し︑動物学に対する指向を明確にし︑自分自身の中で核とし
ていったようである︒その中にあって五年時にまとめた﹁我が尊敬するエーベリー卿の蜂蟻に関する研究の一部につ
いて﹂は力作であった︒同論文中にある蜜蜂の実験に際しては︑先に紹介した稲葉彦六の指導を受けている︒また︑
敬三は︑この中で︑銀行家であり︑一流の学者であったジョン・ラボック(後にエーベリー卿と称する)の略伝も執
筆しているが︑そこには︑自分の生くべき将来とだぶらせてラボックを意識していた観が窺えるものとなっている︒
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旅行家・渋沢敬三
敬三は︑ある種﹁旅行家﹂でもあった︒﹁アフリカと南極をのぞく全大陸にまたがる世界旅行の経歴は相当のもの
ねで︑国内でも行ったことのない県はなかった﹂ともいわれている︒一九一〇年(明治四三)には︑年上の従兄たちに
伴われて北海道旅行をしたり︑一九一二年(明治四五)には附属中学校の山岳会に入会し︑手始めに上高地に入り︑
前穂高︑焼岳などに登ったりしている︒
敬三の旅の記録としては︑﹃柏葉拾遺﹄や﹃犬歩当棒録﹄に掲載された﹁旅譜﹂がある︒ここに記載されているも
のだけを数えても︑一九〇九年(明治四二)︑中学一年の時︑銚子に修学旅行に行ったのを始め︑一九六〇年(昭和
三五)八月まで五二年間に四八〇回の記事が見える︹その間の一九二﹁年(大正一〇)はノートが紛失して記載もれ
になっている︺︒銀行の視察など︑役務を負ってのものも多かったが︑大半は︑アチックここユーゼアムでの調査等︑
自身の学問的興味を満たすための旅行が多かったようである(役務を負っての旅行の際も学問的興味を満たす行動を
覗かせている)︒いずれにしても﹁旅譜﹂からは︑単なる旅行の記録だけにとどまらず︑敬三の旺盛な向学心を感じ
させるものとなっている︒
そういった意味からも﹁旅譜﹂の最初に登場する附属中学校での修学旅行が︑旅行家・敬三の出発点であり︑のち
の旅行のあり方をある程度規定するものとなったと言ってもよいのではないだろうか︒
附属中学校の修学旅行記
敬三が通った東京高等師範学校附属中学校では︑毎学年時に一〜三泊の修学旅行を挙行している︒因みに︑敬三の
修学旅行先をみてみると︑一年時は︑佐原︑銚子方面(一泊)︑二年時は︑今回﹁修学旅行記﹂にて紹介する筑波山
から水戸方面(二泊)︑三年時(落第のため同学年を二回経験する)は︑箱根︑修善寺︑熱海方面(三泊)︑四年時は︑
甲府︑諏訪湖︑長野︑新潟︑川中島方面(三泊)︑五年時は︑助川から仙台︑磐梯山︑白河方面(三泊)の修学旅行
を経験している︒
同校での修学旅行では︑先述のとおり︑地理の大関久五郎教諭の発案により生徒に課せられるようになった﹁修学
旅行記﹂の作成︑提出があり︑﹁修学﹂の意を明確に打ち出したものであった︒
渋沢史料館では︑現在のところ︑敬三がまとめた﹁修学旅行記﹂を二冊確認している︒一冊は︑一年時のもので︑
後半には購入したと思われる絵葉書が貼り込まれている︒そして︑他の一冊が︑今回︑ここに紹介する二年時のもの
である︒
以下では︑内容を簡単に紹介しよう(最後に︑写真を一括して掲載している︒二二八‑三八頁)︒
表紙には︑﹁明治四十三年度修學旅行記第二学年澁澤敬三﹂と表記され︑﹁祭魚洞文庫﹂の蔵書架票が貼られ
ている(後掲写真①"以下︑写真番号のみを記す)︒タテニ四センチメートル・ヨコ一六.七センチメートルで︑和
紙四七丁を厚紙による表紙とともに紐によって綴じられているものである︒途中数カ所に白紙の厚紙が綴じ込まれた
りする(後掲の写真では︑省略している)︒何を目的にしたものかは︑定かではないが︑恐らく︑後で絵葉書の貼り
込みを想定していたのではと推察される︒
「修 学 旅 行 記 」 に み る渋 沢 敬 三 の学 問 的 基 礎 過 程
五丁白紙が続いた後︑書き始められる︒最初は︑﹁はしがき﹂として︑東京高等師範学校附属中学校第二学年が三
日間にわたる修学旅行に出発する様子を報じる新聞記事の写しからである(③)︒
続いて﹁旅行記﹂として第一日より第三日の行程を自らの感想を交えながら︑天候︑景色︑友達の様子など細かな
記載がみられる(④〜⑮)︒
第一日目〜朝三時頃家を出て︑徒歩にて五時一〇分頃上野に到着し︑汽車にて出発である︒八時一四分頃土浦に到
着する︒真鍋公園に登り︑霞ヶ浦を眺め︑一時頃藤沢村に着き︑藤原藤房卿の遺蹟を弔いながらの昼食をとる︒これ
より小田城趾を訪れ︑北條を過ぎて臼井にて約二〇分の休憩をとり︑筑波町の旅館・江戸屋に入ったのは四時一〇分
であった︒宿のアセチレン瓦斯灯のにおいに閉口し︑散歩にでる︒夕飯後︑七時頃より神保先生の﹁最後の一いき﹂︑
稲葉先生の﹁筑波事件﹂の話を聞くという一日であった︒
第二日目〜三時半にめざめ︑朝食後︑五時に出発︒筑波神社前から急な道を登る︒頂上にて植物・鉱物の採取をし
て女体山を下り︑男体山に向かう︒途中︑故山階宮の気象観測所にて諸機械を拝観する︒一〇時頃︑男体すなわち筑
波山を下る︒麓の羽鳥村にて昼食を取った後︑真壁に向かう︒休憩後︑岩瀬停車場から汽車に乗り︑水戸に向かう︒
水戸の旅館.芝田屋では︑食後︑茶話会を催し︑午後一〇時過ぎ床に着いている︒
第三日目〜朝食後︑楷楽園へ向かい︑常磐神社を参詣する︒崖下の蔵(孔子廟の模型︑地球儀︑大日本史︑その原
稿.参考書︑外の書等を蔵す)吐玉泉へ行った後︑弘道館を訪問し︑所々見物した後︑師範学校の講堂にて昼食︒午
後三時の汽車で水戸を去り︑上野駅前に一同整列して万歳三唱して解散という行程であった︒
次は︑﹁地理歴史注意地点見聞録﹂として︑事前に学校で設定されたと思われる注意地点の見聞記録が書かれてい
る︒因みに︑注意地点は︑上野台地から水戸周辺までの三五カ所であった(⑯〜⑳)︒
続いて︑﹁地理﹂という旅行地の地理をまとめた記載が見られる︒行政上の区分に始まり︑﹁地理の見聞﹂として︑
関東平野を東京近傍と常総地方に分けて説明している(⑳〜⑳)︒
次に・大関先生の地理講話の記録が記されている(⑳〜⑳)︒内容は岩石と地質時代であり︑学校での事前学習の
記録であろう︒
以下・筑波山の項が立てられ︑山のでき方︑気象観測所で見聞した記録︑筑波事件の起源︑経過︑結末がまとめら
れており(⑳〜⑳)︑さらに︑弘道館の項では︑その起源沿革︑構造が書かれたあとで︑藤田東湖の略歴と東湖詩草
等として詩歌が付されている(⑭〜⑰)︒
そして最後に︑途中各地点の温度表が掲げられ︑英語での旅行内容を略記をもって結ばれている(⑱〜⑳)︒
おわりに
以上のような内容となっているが︑ここに紹介した﹁修学旅行記﹂自体は︑附属中学時代に課せられた課題の一つ
であり・旅行先の地理・歴史等を調べ︑各自冊子を作成することは︑その後も受け継がれていると聞く︒ただ︑内容
をみていくと︑単なる課題として受けとめるのではなく︑より強い意欲をもって生き生きとして調べ︑まとめる敬三
の姿が窺えるものであった︒
先にも触れたが︑敬三は中学入学以前から︑﹁腕白倶楽部﹂なるグループを組織し︑研究の走りとも言うべき活動
をし︑それを同人誌の形態としてまとめることをしている︒観察・調査・研究といった行動がすでに試みられており︑
素地ができつつあるところに︑中学時代に︑良き指導者たちに出会い︑高度な調査方法を身につけることができ︑潜
在する能力をより引き出し︑より高めることができたのである︒やや強引な結び付けになるかもしれないが︑のちの
アチック・ミューゼアムを中心とした︑調査・研究活動の基礎が築かれた一端をこの﹁修学旅行記﹂が物語っている
と言っても過言ではないであろう︒
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(6)前掲︑河岡﹁敬三の人間形成﹂を参照︒
(7)同右︒
(8)渋沢雅英﹃父.渋沢敬一.に(実業之日本社︑}九六六年)
(いQつえ.じゅん日本村落果渋沢史料與禦川大学呆常民文化研究所客員研究員)
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