加賀藩改作法体制の崩壊過程
はしがき第一章
はじめに第一節
第二節
第三節
第四節むすび
目 次
改作法体制の危機
藩財政の危機と寛政期の高方仕法
商人の土地集積と階層分化の進行
領主的米市場の動揺
惣百姓一撲の激化
第二章改作法体制の破綻
はじめに第一節
第二節
第三節
第四節むすび
むすびにかえて
藩財政の破局と天保期の﹁徳政L
村落上層の土地集積と小農経営の分解
領主的米市場の衰退
安政の大一授と加賀藩の破局
松 和 生
はし
がき
一七世紀初頭の加賀藩領越中三郡で反収一・三二石︵︶一・五
O
石という事例があり︑一七世紀三0
年代の加賀藩領三国︵加賀・越中・能登︶では平均一・五三石にものぼっており︑また改作法実施期の砺波郡と射水郡の三村の例でも一・四︷︶二・三石と向上したが︑さらに︑一六九四︵元禄七︶
年の加賀藩領二ケ村︵上回︶の事例では二・
O
四石でのぼり︑一七二八︵享保一三︶年には能美郡一・九四石︑石川郡二・O
六石︑河北郡二・二九石という平均反収を示した︒一九世紀三
0
年代の天保期から幕末にかけては︑砺波郡と射水郡の二村の事例では二・五四石と二・七三石と︑さらに一層の生産力発展をみたのである︒
加賀藩改作法体制の崩壊過程
こうした反収
l
生産力の発展を前提にした地代収奪の基盤である耕地の拡大状況は一七世紀から一八世紀にかけて大きな飛躍をみたが︑こうした発展状況を背景として展開をみせた逃散闘争に対して︑藩当局は年貢の確保とその基盤である小農経営の維持を目的とした宥和的政策での対処を余
儀なくされる︒このような改作法実施以前の段階では︑氷見郡の給人知行地にみられる事例では検見制から定免制への移行期にあり︑逃散闘争への
対策とともに年貢収奪体系の確定こそ︑緊急・不可避の課題として日程にのぼっていたのである︒
したがって︑改作法は︑逃散
1
﹁走
り百
姓
L対策を契機として藩財政安定化のために増徴にもとづく定免制の実施をまずは当面の目標としなけれ
ばならなかったが︑その究極的目的とは︑幕領における寛文・延宝の再検地に照応した領主・農民の単一支配体制を構築することであった︒したが
って︑加賀藩の根幹となる改作法体制とは算用場|郡奉行|十村の指揮・命令系統の確定を前提にして︑土地と農民の再掌握による領主・農民の直
接的支配体制と藩当局による統一的年貢収納体系とを構築することによって︑まずは確定されたのである︒
だが︑藩財政は改作法実施の直後より参勤交代費用にも不足して借銀に依存しなければならず︑不作・凶作が財政の逼迫に追打ちをかけたが︑改
作法実施過程での最大難関は︑改作法に抵抗する村落上層の追出し・入替えによる村落再編成を強行することであった︒この強行過程を通じて︑砺
波郡太田村では︑一方で百姓立てが進行し︑他方では高持各階層が多くの下人を支配して再版旧土豪︵名主︶・下人的関係が存続したが︑改作法の実
施後では大高持は持高を縮小し︑これに対して上層農や中農層が戸数︑持高ともにも増加・拡大するなど︑村落構造が変化しはじめた︒同じく砺波
郡内島組︵七一ケ村︶でも大高持が減少して中農層以下で過半を占め︑下人層の帳づけも進行するなど︑中下層の本百姓が村落の一般的な存在形態と
なるに至った︒このように改作法の強行によって編成替えされた村落では︑中下層農によって経営維持と年貢納入を目的とする土地の質入や永代売
りがはやくも進行しはじめる︒改作法体制は早くも転換を迫られる時期を招致するのである︒
x
X巻改作法体制のもう一方の支柱である年貢換金体系としての領主的米市場については︑まずは津留制度や御召米制の整備︑蔵宿の設置などが推進さ
れ︑さらに全国市場の形成に対応した城下町の出町として小農経営に対して非自給部分を供給し︑また年貢米の集散地としての役割を果たす在町が
設定されることによって統一的領内米市場が構築されたが︑それとともに蔵宿|仲買|枇屋の小売米流通ルlトも確定された︒さらには領内市場に
対応した大坂廻米は︑一七世紀中期︵明暦期︶には石川郡収納米のうち五八パーセントが大坂廻米として積出されことなど︑改作法の実施に対応し
て早くも本格化しはじめ︑領主的米市場の構築を前進させた︒
以上のように年貢収奪基盤としての村落の再編成が進行し︑領主米の換金体系としての領主的米市場の形成も進展したが︑こうした改作法体制の
構築に抵抗する村落上層︵肝煎層︶などに対する追放・入替政策が強行され︑一六七
0
年代︵寛文・延宝期︶に至ると越訴闘争に対する禁令が集中的に発せられるようになる︒こうして一般百姓|十村l郡・改作奉行|算用場奉行|大目付への書面による訴願手続が規定され︑また一六七九︵延宝
七︶年にも村落上層に照準を合わせて越訴に対した﹁御定書﹂が布告された︒こうした抑圧体制と併行して村落新秩序の下での生産力の向上と年貢
免の固定化にもとづく農民的剰余の成立や階層分化の進行︑土地の質入れ︑さらには永代売りなどに示されるように︑早くも切高仕法段階︵転換期︶
に到達する至ったのである︒
研究年報
本論では︑幕藩制社会にとって不可欠の一環である藩体制について︑最大の藩であった加賀藩の改作法体制の形成・発展︵転換︶過程から転
じ引︑新たな段階を迎えた具体的な崩壊過程とその論理を追究することに目的がおかれている︒既述のように︑改作法体制とは︑二ハ五一
i
五六
︵慶
安四
1
明暦二︶年の改作法実施によって構築された年貢収奪体系と年貢換金体系とを支柱とした支配・被支配の体系的構造であったが︑年貢収奪体系は︑改作法の実施と併行して再編された村落構造を基盤とし︑算用場
l
奉行|十村の系列による支配を通じて維持・存続が図られる改作法体制の根幹であり︑また︑年貢換金体系も︑改作法の実施とともに構築された統一的領内米市場と大坂廻米とを主軸とする領主的米市場を基盤とし︑算用場i蔵宿および算用場|代官の系列による支配を通じて維持・存続が図られる改作法体制にとって不可欠な支柱であった︒
以上のような改作法体制について︑以下︑第一章では︑その体制的危機の段階として具体的状況を解明し︑第二章では︑その体制的破綻の段階と
して破局の具体的局面を解明することを通じて体制の具体的な崩壊過程を追究していくが︑この場合︑各章の構成として︑第一節には︑次節以下の
規定的前提となる改作法体制成否のメルクマールでもある藩財政と土地・農民政策︑第二節には年貢換金体系の基盤である小農と村落の構造︑第三
節には年貢換金体系としての領内市場や大坂廻米などの領主的米市場︑第四節には支配・被支配の体系的構造である改作法体制との諸矛盾の集中で
あり具体的表現である小農や貧民の抵抗︑などの序列と規定関係を設定しており︑こうした方法を通じて政治と経済を含めた藩社会の総体的把握に
接近していこうとしていることを指摘しておきたい︒
︵1 ︑ 迂
︶改
作法
体制
の形
成と
転換
につ
いて
は︑
拙稿
﹁加
賀藩
改作
法体
制の
形成
し
︵﹃
富大
経済
論集
﹄第
四
O
巻第
一号
︶お
よび
﹁加
賀藩
改作
法体
制の
転換
﹂
﹃富
大経
済論
集﹄
第四
二巻
第三
号︶
参照
第一章改作法体制の危機
はじめに
加賀藩改作法体制の崩壊過程
一六九三︵元禄三︶年の切高仕法によって年貢完納のための必要悪として事実上の土地売買が公認されたが︑その背景となった逼迫する藩財政で
は︑大坂廻米と諸方上納銀とを二大歳入源としていたように︑御用銀の強要によって藩当局と村落上層や町方富商との矛盾を深めた︒他方︑歳出面
では︑年賦を上納銀によって元利返済するという自転車操業的財政運営に加えて︑藩府や三都費用などに示される参勤交代費用の重圧がのしかかっ
ており︑こうした御用銀と借銀依存の財政体質からの脱却のために︑一七五四︵宝暦五︶年の銀札発行と翌年の借知︵知行米貸上︶が強行される︒
切高仕法の実施に対応して加賀藩領でも土地移動が活発化し︑砺波郡太田村では下層・貧農層などが多く高持百姓として帳づけされ︑経営規模の
零細化が進行したが︑戸数増加のほとんどは入百姓
1
分出で占められ︑そうちの八O
パーセント近くが血縁分家などを通じて帳づげされる一方で大高持による土地集積が進行し︑他方での血縁分家による土地移動や下百姓の入百姓立てによる土地移動を通じて階層分化が一層促進した︒一七
O
三︵元禄二ハ︶年における血縁分家の容認は︑次三男の弟などに高分けして離村を防止し︑長男の耕作をP介抱︒させて危機に直面した小農経営を維持
し︑藩財政の安定化を図ることにあったように︑切高仕法とは社会情勢に対応して改作法政策を転換し︑改作法体制の維持を企図する政策体系であ
ったといえる︒砺波郡内島組︵六九ケ村︶や砺波郡国吉組︵四四ケ村︶の事例では︑切高仕法以降における下層・貧農層の増加は︑土地の永代売︑血
縁分割や下百姓の入百姓化︑さらには他村からの懸作による入百姓化などに起因していたのである︒
こうした変貌を示した村落構造とともに︑改作法体制のもう一方の支柱である大阪廻米は︑一七世紀中期から一八世紀初頭にかけての改作法体制
の完成から転換期に大坂廻米高もピ1クとなり︑以降は漸次減退したために︑計量を厳格化するための升取人の設置や積高規制︑船主選定などによ
って︑その立て直しを急務としたが︑元禄
1
享保期の廻米率は三三︷︸五七パーセント程度で凶・不作年など増減の振幅も大きく︑難破や米価変動なども加わって藩財政に安定的収入を約束するものとはいえなかった︒それだけに領内米の生産・収納体制に対する統制を強化し︑また領内外への米
流通に厳しい規制を加え︑また加賀米の廻米選定・品質管理を積極化したが︑享保期には収納米管理の怠慢から不良米の廻米混入による加賀米の大
坂相場下落という事態に至るなど︑算用場など権力中枢部と代官・手代など下層部との矛盾がはやくも露呈しはじめるに至った︒さらには︑改作法
実施過程で設定された蔵宿による給人米納入体系も弛緩と乱脈とが明白となっていた︒領内小売場所を加賀一一ケ所︑越中九ケ所︑能登二七ケ所に
設置したのも︑蔵宿依存による仲買・小売︵枇屋︶流通︑小売米取引の混乱を回避する施策であった︒
このように切高仕法以降の村落における上層農・地主と下層・貧農層との矛盾の拡大とともに︑権力内部における藩中枢部︵算用場︶と給人や下
級役人との矛盾︑算用場と特権商人との矛盾︑さらには特権商人と農民との矛盾などの副次的諸矛盾が︑年貢免率をめぐる領主と農民との基本的矛
盾を激化させっつ︑いっせいに露呈しはじめ︑ここに藩当局と蔵宿など特権商人に対する村落上層の主導と中・下層農民の連帯による全農民的闘争
がまず生起したが︑さらには特権商人や豪農に対する中農層主導と下層・貧農との連帯による闘争形態に転換した惣百姓一授が凶作と銀札発行によ
る米価と物価騰貴を直接的な起因として生起してくる根拠があった︒
第一節藩財政の逼迫と寛政期の高方仕法
一七
八
O
︵安
永九
︶年
に算
用場
は
P累年御勝手御難渋之上近年打続御領国作毛不熟莫大之御損毛有之於地・他国か彩敷御借銀高に相成候に付御勝
手方井於年寄中席も御運び之儀種々遂詮議候得ども最早可被成様も無之如此にて者御公務等も御指支大切成場に至候8とし引︑財政逼迫の上に不作
と領
内外
から
の多
額の
借銀
も加
わり
︑今
や万
策も
尽き
て公
務に
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障を
きた
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階に
至っ
たと
指摘
して
いる
が︑
表一
一一
ーー
二五
︵一
︶︵
一一
︶に
みら
れる
一
七九
O
︵寛政二︶年の﹁御入用大綱図﹂は庁最早可被成様も無之︒状況の延長線上で立案された藩財政予算であった︒一七O
五︵宝永二︶年の財政予算﹁借財弁済方法﹂と比較・検討すると︑まず︑財政規模は一一
O
四二・七貫目から一O
三四五・九貫目に六・三パーセント縮小しているが︑米価の変動︵領内米価一石四七・四匁から三四・三匁に低下︶を考慮すれば︑実質的価額は逆に三
O
パーセント程度︵石高換算では二三・三万石から三0・ 二
万石へ六・九万石︶拡大したことになる︒歳入項目では︑大坂廻米が四六・三パーセント︵一
0
・八
万石
︶か
ら四
七・
九パ
ーセ
ント
︵一
O万石︶の変化
で常に最大の比重を占め︑また︑御蔵米収入ほか御用銀や借銀などを含めたP諸方上り︒が三四・八パーセントから三六・三パーセントと大坂廻米
に次ぐ比重を占めた︒歳出項目では︵表三|二五︵二︶参照︶︑借銀が一七
O
五︵宝永二︶年の一一・六パーセント︵一︑二八四貫目︶からひきつづいて一
0
・二
パー
セン
ト︵
一︑
O
五八貫目︶の比重を占め︑また本吉など領内金沢商人とともに大坂商人からの借銀元利が高い比重を占めた︒さらには参勤・在府費用が四八パーセントにものぼって国元︵金沢︶費用は三二・三パーセントにとどめざるをえなかったのである︒結局︑収支では︑歳出の
‑ 6
二パーセントにもあたる約三︑一九三貫目の赤字となったが︑これは︑一七
O
五︵宝永二︶年の歳出項目に繰入されている8不時
入用
払銀
︒
に相当する費目として︑むしろ増大しており︑参勤交代と借銀元利返済とに振り因される旧態依然とした財政逼迫
一
、六三
三貫
目︵
一四
・八
パー
セン
ト︶
の状況から一歩も脱却できていなかったことが判明する︒
財政改善の基本的な途は年貢免率の引上げにあるが︑それが至難とすれば︑赤字補填対策も従来通りの御用金と借銀に依存するほかはない︒ま
ず︑御用銀は二七七二︵安永一︶年に
御勝手方困難の名目で一郡あたり二
加賀藩改作法体制の崩壊過程 1790 (寛政2)年「御入用大綱図」(藩財政予算)
歳入・不足項目 銀(貫匁) 比率(%) 歳出項目 銀(貫匁) 比率(%)
大坂廻米(10万石) 3430.000 47.9 在府・京大坂入用 6746.200 65.1 江戸廻米の一部代 70.000 1.0 国元(金沢)入用 3608.750 34.9 江戸在庫払 72.000 1.0
地払米 400.000 5.6 小 計 3972.000 55.5 諸方上り 2600.000 36.3 11350石代銀 350.000 4.9 8000石延払代銀 240.000 3.4 小 計 3190.000 44.5 歳入合計 7162.000 100.0 不 足 ム3192.950
歳入・不足合計 10354.950 歳出合計 10345.950 100.0 表3‑25(1)
江戸廻米は6000石地払米は12500石江戸在
(注)『加賀藩史料』第10編171〜4頁より作成 庫払は1500石
1790 (寛政2)年歳出内訳 歳出項目 銀(貫匁) 比率(%)
大坂商人借銀 735.000 7.1 同利息 65.000 0.6 金沢商人(本吉)借銀 250.000 2.4 同利息 8.750 0.1 小 計 1058.750 10.2 参勤交代入用 237.000 2.3 京・大阪入用 1000.000 9.7 在府(江戸)入用 4709.200 45.5 国元(金沢)入用 3350.000 32.3 小 計 9296.200 89.8 歳出合計 10354.950 100.0 表3‑25(2)
01
三O
貫目︑次いで一八O
二︵
享和
二︶年に領内の在・町に三︑二九三貫
目︵寛政二年藩財政の三二パーセ
ン ト ︶ ︑
一八
二九
︵文
政九
︶年
にも
領内
(注)『加賀藩史料』第10編171〜4頁より作成
に七
︑
0 0
0
貫目︵
同藩
財政
の六
八パ
l
セント︶の度重なる上納を命じたため
に ︑
8万民只あきれにあきれ果て悲み
ぬ民塗炭に苦むは言もさらなりいか
なればかく心強くも民に信を失ひ民
を欺き歎きをし給ふ事にや此仕法に
御調達銀与申は調達は名にて実は取
抜頼
母子
也︒
︵寺
島蔵
人﹁
ふぐ
汁の
咽﹂
︶
と皮肉られ︑農民︑商人をはじめ︑ま
すます庶民との離反を招いた︒事実︑
農村支配の要と頼む十村たちの聞に
さえ
P御上を蔑に仕︒る状況がすでに
拡大していたのであれ制︒財政改善の
何らの見通しのない今一つの赤字補
一八
O
三︵享和三︶年の御借銀仕法であった州︑その内容は江戸借銀三︑一二五貫目︑大坂借銀五五︑000
貫目︑併せて五八︑一二五貫目にものぼった︒庁弐百四拾五貫目斗御奮借渡三千五百石ヘつまり一石
1
七O
匁とすれば︑借銀総額五八︑二一五貫目借は石高換算して八三O
︑三
五七石となり︑金沢など領内借銀を除いても収納高のニ1三年分に匹敵した︒以上の従来からの赤字補填策に加え︑一八世紀中期に至って新しい手
口が登場した︒すなわち︑一七五六︵宝暦六︶年から開始された給人たちからの借知であり︑次いで一七七一︵明和八︶年には三年間一
OO
石につき
一七七五︵安永四︶年返済の翌年から一七八八︵天明八︶年まで同一割合による給米借上なめい︑借地のフル回転が繰り広げられるこ
填策
が︑
一五
石宛
の借
知︑
とに
なる
︒
しかし︑この段階での巧妙な新しい手法は︑藩札︵銀札︶と銀手形︵事実上の銀札︶発行の強行だったということができよう︒一六六一︵寛文二
年の福井藩による藩札の発行や一七三
O
︵享保一五︶年の幕府による再容認などを背景に︑加賀藩では︑まず一七五五︵宝暦五︶年に﹁銀札仕法﹂を布達して︑正銀通用停止︵金・銭の通用自由︶を前提にして銀札︵一
00
・ 五
0
・ 三
0
・ 二
0
・ 一
0
・五・三・二・一匁の九種類︶遣いを命じて流通紙幣としての形式を採用した︒同時に銀札党換を銀一
OO
匁の
場合
に一
O
一匁銀札などとしたが︑これが他国・他国商人・旅行者などへの支払いを目的としたものであることは︑民間からの銀吸い上げをねらって︑P男女共無用之銀道具井銀に似寄候かんざし等も用候儀可為無用候︒と命じていること
からも明白であり︑党換紙幣としての通用はきわめて限定されたものであったといえる︒しかも︑発行総額が藩財政歳入の六・五倍に相当する六
五︑
一二
OO
貫目にのぼる銀札に財政貨幣的役割を期待したことは︑総額のうち︑給人貸付︵一
OO
石に
つき
一貫
匁︶
に八
︑
000
貫目
︵発
行総
額の
一二
・
三パーセント︶︑藩財政補填に五七︑三
OO
貫目︵八七・七パーセント︶の配分となっていることからも明らかであっ加︒同年一
O
月からの通用状況では︑藩札の大量発行の上に︑米の凶作による米買占めなどを起因として︑翌一七五六︵宝暦六︶年四月下旬の地米価格が二四
O
匁から上昇しはじめ︑内U六月には六
OO
匁から八五O
匁に騰貴し︑七月には︑ついに一︑三OO
匁か
ら二
︑
000
匁にまで騰貴するに至った︒かくて︑藩︵銀︶札価格は下落し
て物
価高
騰し
︑
P只沢山に成は銀札に而米穀を初め銭等一切調物払底︵中略︶此年十月越中能州加州とも見立御領国至而困窮別而御城下井石川郡
河北郡困窮至極餓死人等移敷事也︒と伝えられる状況下で︑金沢町や宇出津︑城端などに銀札発行を契機にした﹁騒動﹂が生起したために︵本章第
四節﹁惣百姓一撲の激化﹂参照︶︑一七五六︵宝暦六︶年七月には銀札を停止して正銀を通用させるに至った︒幕府でも︑一七五九︵宝麿九︶年に新規の
藩札発行を禁止し︑一八三六︵天保七︶年にも発行禁止を再令する︒
幕府による銀札遣い禁令下の一八一九︵文政二︶年一二月に︑商人発行の形式により藩札に代わって一
01
五OO
匁までの銀預手形︵l
実質
的に
は
銀札︶八種類︵翌年三月九匁以下三匁まで小札手形七種類︶が発行され︑準備銀として頼母子類似方式による領内町・在からの借銀があてられたが︑他
方では町・在に対する年一四・四パーセントの高利貸付によって利益の吸収が図られた︒一八二
O
︵文
政三
︶年
六月
には
新預
手形
︵一
︑
0 0
0
・ 五0
0
・ 一
OO
匁の三種類︶の発行により旧預手形との引替えが行われ︑小札も廃止された︒一八二五︵文政八︶年三月にも新々預手形が発行されて︑六
月にはて
0 0
0
・五
OO
匁手形も廃止されたが︑
ので
ある
︒
一八二六︵文政九︶年三月には手形通用廃止の触書が出されて︑
一八二六︵文政九︶年六月に同じく商人の発行形式により正銀上納により通用する銀仲︵スワイ︶預手形︵﹁銀仲預り百匁宛之銀手形﹂1一O
O
匁額面のみの手形︶が六月i一一月の五ヶ月間の通用期間として発行されたが︑翌一八二七︵文政一O
︶年三月に引替え︵御用銀上納︶残を引当てにして
新銀
手形
︵百
匁宛
手形
︶が
二︑
OO
五貫目発行されるなど︑銀の吸収を基本的な目標とし︑通用力の維持と民心の一新とを企図しつつ︑新旧の引
替えによる手形発行が繰返されたのである︒一八二七︵文政一O
︶年
六月
に銀
仲預
手形
小割
札︵
一・
三・
五・
一
O匁の四種類︶が発行されたのも同じ目
標と企図にもとづいており︑一八二八︵同一ご年七月に五
O
匁札︑一八一二一︵天保二︶年五月に二匁手形︑一八三七︵同八︶年七月に五分札など︑併せ
て八
種類
・総
額八
︑
0 0
0
貫目が発行された︒しかし︑その問︑一八二八︵文政一一︶年の秋には銀・紙が希離︵銀で一石六七匁の地米が手形で七三匁に上昇︶したために︑その対策として小割手形を除く一
OO
匁札
を引
替︵
適用
総額
六︑
00
0貫
目の
うち
二︑
00
0貫目を正銀に引替︶し︑引替え準
備として町会所に米を渡して払代銀を充当するなど︑銀札発行を起因とした金沢町や宇出津︑城端の﹁騒動﹂に対してや︑庁此節銀仲手形やがてつぶ
れ候杯与申触金銀杯多く買入候者御郡俳佃いたし候︒といった不穏な動静への対策からも通用力の経済的基礎を充実しなければならかった︒そのよ
うな措置によってこそ︑一八二八︵文政一一︶年の八︑
0 0
貫目から一八四五︵弘化二︶年の九︑一
OO
貫目︑一八五八︵安政五︶年の一七︑O
五0
五貫目余の通用が維持できたのである︒ 一一月以降の通用が停止された
加賀藩改作法体制の崩壊過程
他方では︑幕府貨幣の銭貨不足による金融逼迫を回避することを目的として銭手形や銭札が発行された︒たとえば︑一八二一
町では︑同年の町大火による金融逼迫を契機に︑同町二商人︵福岡屋・石瀬屋︶を引替所に同町通用限定の銭札︵総額七O︑
00
0貫文︶が一一ヶ年を
期限として発行されたが一八二五︵文政八︶年にも︑金沢町会所を主体に銭払底による銭相場の高騰を契機として︑五
O
匁か
ら一
︑
0 0
0
匁までの価格四種類の銭手形が発行され︑銭相場の下落とともに幕府銀貨幣との引替えも増加して︑一八二七︵文政一O︶年には銭手形の廃止に至っている︒
また︑一八三七︵天保八︶年には金沢の銭屋による銭手形が飢僅と銭不足による相場騰貴を契機に一
OO
文から一貫文までの手形が発行され︑相場
下落により廃止されるなど︑藩財政窮乏の緩和・脱却を目的とした財政貨幣としての性格をもっ藩札とは明らかに異なっていた︒だが︑この時点で
の藩
の立
脚点
と言
えば
︑
8銀仲預り手形故故障有之︒という世評に対して8左様之儀は曾而無之事に候︒と一蹴し︑庁銭払底与申立相場引立不融通之
排相聞江候依之銀手形百目者十貫又五十目以下小割札も右に準じ取引いたし小指者指止可申事右之通申渡候上は諸物銭を以売買之品銀手形を以相
向候者有之候市も無滞可相渡候︒として︑あくまでも銀札の強行通用に固執することにあった︒
算用場は︑一方で藩財政の一層の逼迫から御用銀・借銀の伝統的手法とともに借知︑さらには藩札︵銀札︶発行など新規の手法を強行して直接的
解決を積極的に目論んだが︑他方の年貢の基盤たる土地・農民政策については︑一八
OO
︵寛
政二
一︶
年二
月の
﹁高
方仕
法
Lによる完全小作への転落
防止を目的にした消極的ともいえる小農維持政策を実施したにすぎなかった︒
︵文
政四
︶年
の高
岡
すなわち︑よ両方之儀者改作之根元︒との形式的前提の下に︑か村役人井五ケ村役人奥書を加高切人井請取人相同才許十村江相願其節十村於手前重々
遂詮議弥御収納不足相違無之儀ニ候者承届可申右之通十村承届候上礼米為相渡可申候︒と売買手続きを複雑にさせてはみたが︑庁無拠致切高候共名目
相残シ為願可申候︒といわれるような庁名目︒的な零細持高の維持を奨励するにとどまって︑結局は庁切出し残り高二升高限に残し置可申事︒︵﹁高
方仕法に付ケ条書﹂︶とする名目的二升高農民を増加させることになっ加︒つまり︑藩財政逼迫の激化に表現される改作法体制の危機的状況に対して
は︑すでに構造的克服策よりも一時的凌ぎの糊塗的な手法でしかなかったものといえよう︒
第二節商人の土地集積と階層分化の進行
藩財政に表現される改作法体制の危機的状況の下で土地売買は進行した︒
百姓相願是迄取高いたし候者右名目而巳に而作小屋を建不致手作皆下し作に致置候者多有之由に候︒と述べているいるように町人︵商人︶の土地集
積によってP不致手作皆下し作︒とする商人地主・小作関係がP多有之︒状況で︑かなり広汎化していたことを窺わせていたい︑同年に改作奉行の
諮問に対する十村の上申でも︑P持方有之村江罷出出作仕候者に者町人たりとも切高相渡候様先年被仰渡其村江引越不申者は極而切高相渡申間敷儀
与相関候得ども数十年来持来り候高今更押而高相離候様に取扱申儀難儀之趣に奉存旦町人高仮令村々懸作高等取放候市も諸郡御支配高多乃至今石
動・氷見・城端・高岡・松任・宮腰・本吉・湊・安宅・小松等も御座候而町人持高一向無之事には相成不申候︒と回答しているよう町︑町人︵商人︶
による土地集積が︑金沢だけでなく越中・加賀の主要な町々領内一円に拡延して︑︒数十年来︒に至っていることを指摘して︑すでに原状復帰など至
難な状態だったことを伝えている︒一八
O
一︵
享和
一︶
年の
寸仕
法﹂
で
P質入高御停止借銀方へ出入仕候高有之候ハ﹀高取揚傍可申付事︒とあり︑
また庁名代を頼高持居申者有之候ハ﹀前々条同様高取返し可申旨之事︒とあるが︑その実効性については︑一八
O
六︵文化六︶年に射水郡戸出村農m 民たちによるJ口同
方仕
法﹂
に関
する
伺書
でも
8射水郡之内高岡町人持高御座候︒として︑町人︵商人︶の土地所有がすでに一般化したことを申告し
ていることから考えても疑問であった︒一八二一︵文政四︶年の砺波郡福岡地区二五ケ村における土地移動状況をみると︑このことが一層明白とな
る︒すなわち︑二五ケ村総高一
O
︑八二三石のうち移動︵他村移出・移入︶高が三︑六一二石︵三三・四パーセント︶にものぼり︑また一八三八︵天保九︶年だけで町人︵商人︶たちによる土地集積は︑高岡商人︵一六人︶五二二・九石︑石動商人︵一二人︶九一・七石︑氷見商人ご人︶一九・
O
石 ︑
砺波その他商人七・九石︑合計六四一・八石︵二五ケ村総高の五・九パーセント︶にのぼる勢いであっ旬︒
表三!二六は一八世紀初頭から一九世紀前期にかけての同二五ケ村における階層構成の変動をみたものであるが︑いくつかの特徴を指摘すると︑
まず︑階層構成では一01三
O
石層
およ
び一
01一石層の上層および中下層︵八五パーセント︶中心の構成から一
O
石以下の中下層および貧農層︵七一 八
OO
︵寛
政一
二︶
年の
寸仕
法
L
の中
で︑
8寺社方井町居住之子弟等入
宝永(1704〜10)期 1821(文政4)年
BIA 戸数A 比率(%) 戸数B 比率(%)
100石以上 6 1.0 7 0.5 1.2 50〜100石 17 2.9 25 1.8 1.5 30〜50 59 10.0 42 2.9 0.7 10〜30 301 51.0 240 16.8 0.8 1〜10 203 34.4 583 40.8 2.9 0.1〜1 4 0.7 213 14.9 53.3 0.1石以下
。
0.0 318 22.3 C幻 合 計 590 100.0 1428 100.0 2.4 加賀藩改作法体制の崩壊過程砺波郡福岡地区25ケ村の持高構成 表3‑26
することが不可欠である︒
(注)『福岡町史』502〜3頁より作成(原典は杉野家文書「覚 帳」・福岡町文書「宮島組七拾壱ケ村村高免附品々 帳」)
砺波郡北市村の持高と経営の講離
戸数 比率(%) 持高(石) 比率(%) 戸数 比率(%) 経営規模(石) 比率(%)
50〜100石
。
0.0 0.00 0.0 2 2.9 144.00 19.2 45〜50。
0.0 0.00 0.0。
0.0 0.00 0.0 20〜45 6 8.7 193.00 37.9 14 20.3 377.45 50.3 10〜20 16 23.2 223.64 44.0 8 11.6 109.78 14.6 5〜10 6 8.7 40.75 8.0 12 17.4 75.77 10.1 3〜5 7 10.1 23.81 4.7 8 11.6 27.99 3.7 1〜3 16 23.2 23.07 4.5 9 13.0 11.48 1.5 1石未満 18 26.1 4.79 0.9 16 23.2 4.49 0.6 合 計 69 100.0 508.65 100.0 69 100.0 750.96 100.0(注)鎌田久明「宝暦七年越中城端騒動について」(『金、沢大学法文学部論集』
(法経篇)第二号)第3・4表より作成 ※1小計には村役人4戸(請 高なし)除外 ※2 2つの仮定:①百姓番号No.1、No.二、 Nu105から ぬ12(請高10石)に対する貸付高を各々4石・ 3石・ 3石とした ② 持高10石のNo.26はすでに他百姓に3.3石貸付ているので残6.7石のため Na 7、No.26からNull(請高15石)に対する貸付高を各々9石と6石と した(上記鎌田論文参照)。
七パ
ーセ
ント
︶中
心の
構成
に移
行し
︑戸
数の変動においても総戸数が二・四倍
とな
った
のに
対し
て︑
貧農層が五三倍に増加し︑かつて皆無
だった
0
・一石層以下の零細農が新たに生成して︑一石以下の零細農層と併 一10
・一
石の
せて持高のみでは再生産の不可能な
農家の比率が三七・二パーセントを占
めるにいたったことである︒土地売買
その
他を
通じ
て階
層分
化︵
所有
分解
︶が
一段と進行したことは間違いないが︑
土地所有︵持高︶分解はあくまでも農
民層
分解
︵賃
労働
形成
︶の
メル
クマ
ール
にすぎず︑経営︵耕作︶規模の分解の
程度によって寄生地主制の形成か︑そ
れとも資本|賃労働関係の形成かを
みきわめる分解の形態について検討
表三l二七の一七五七︵宝暦七︶年砺波郡北市村は︑銀札発行と凶作を契機として生起したいわゆる城端﹁騒動Lの中心的村落であるが︑村の草
高一一九
O
石のうち三七三石全二・三パーセント︶が他村百姓一八戸による懸作︵事実上︑他村地主などによる支配︶となっており︑残り三二石︵田畑喪失か︶を除く七八五石が村高であるが︑同表はこの内︑請作のない村役人四戸︵長百姓一人・組合頭二人・肝煎一人︶合計持高二七六・四石を除い
た四五石以下層六九戸の持高と経営の悉離を示している︒この表によると︑まず︑六九戸が持高合計五
O
八・六五石から経営︵耕作︶規模七五0
・九六石に二四一・一三石の請作︵請作・持高比率l四七・六パーセント︶増加しており︑持高階層構成の分化が進展する中で︑積極的に請作することに
より経営を拡大しようとしていた状況がくみとれれる︒村内での庁下し作︒︵貸付︶をしている農民は村役人四戸を除けば︑五戸︵持高一七石︑
1757 (宝暦7)年 表3‑27
一 五