加賀藩改作法体制の形成
小 松 和 生
目
次
はじめに
j
改作法体制の前提j I
改作法体制の構築H
改作法実施過程の小農経営と階層構成田領主的米市場の成立過程 むすびにかえて はじめに
j
改作法体制の前提j
付農業生産力の向上とその基盤の拡大
本論の視点と方法は︑農業生産力の向上と︑それにもとづく剰余をめぐる領主と農民の対立と闘争︑その一つの帰結
としての年貢の固定化あるいは減免傾向を前提にして︑上層農民および商人たちによる農民的剰余への吸着と蓄積︑階
層分化の歴史的進展と︑それにに対応する大坂・江戸廻米と統一的領内市場を含めた領主的米市場の展開とを基盤とす
(1
6 2 )
る社会編成たる改作法体制の成立・発展・崩壊過程を追究することにある︒そこで︑まず︑農業生産力について︑萌芽的
利潤の形成要因となる反あたり収量から検討していくことにしよう︒表三│一は︑加賀藩越中領各郡数カ村に対する
初期検地から反収を算出したもであるが︑三
OO
歩一反でみると︑概ねて一
O
石{
J一・二六石であることが分かる︒こ
のような一七世紀初頭の生産力も二七世紀三
0
年代に至ると︑加賀藩三国平均で一・五三石と上昇を示し(表三│二参照)
︑一
七世
紀五
0
年代の改作法実施段階では︑砺波郡と射水郡の三村の例にすぎないが︑一・二i一・九石と地域的格差をもちながらも︑反収の増加傾向を示した(表三│三参照)︒さらに二六九四(元禄七)年御所村・田井村の反収(上田)で
は︑ゴニ百六十歩一反上田内六十歩あぜ引残市三百歩此出来米二石四升︒とあって︑上田ではあるが︑二・
O
四石の高反収を示している︒このような一七世紀の動向は︑一八世紀に至っても︑一七二八(享保一三)年の能美郡了六二
石︑石川郡了七二石︑河北郡了九一石という平均反収にみられるような上昇傾向を示し︑殊に︑石川郡の生産力は︑元
禄期
の上
回二
・
O
四石よりも上まわって二・二五石を記録した(表三│四参照)︒一八世紀中期から一九世紀初頭にかけてのまとまった反収史料には恵まれていないが︑一九世紀三0年代の天保期から幕末にかけての動向は︑砺波・射水郡の二村にすぎないけれども︑一層の生産力発展の傾向を示唆しているものということができよう妻子五参院句︒
以上のような農業生産力(反収)に対して︑草高・耕地の拡大は領主の地代収得基盤の拡大であって︑必ずしも萌芽的
利潤形成の要因には直結しないが︑そこでの反収の向上による萌芽的利潤形成が見込まれるので︑併せて︑その動向を
表三│六︑表三│七︑表三│八よりみておこう︒まず︑加賀藩による搾取基盤の拡大テンポは︑例一六三九(寛永二ハ)年
の九
二・
三万
石(
富山
藩一
O
万石・大聖寺藩七万石分離して縮小)から︑例一七一一(正徳こ年の一三0・五
万石
へ拡
大︑
さら
に例一八二五(文政八)年の二三子八万石へと拡大したことが分かる︒つまりは二七世紀三
0
年代から一八世紀一0
年代にかけて四一・四パーセントの拡大
( b
/ a
u
一四一・四パーセント)であり︑表三│七の新開率一九・八パーセント(越中二四パーセント︑能登二一パーセント︑加賀二一パーセントの順)と併せた新開による拡大であることが明らかであっ
た︒ところが二八世紀一
0
年代から一九世紀二0
年代にかけては︑三パーセント以下(C/b17
五パ
ーセ
ント
)に
と
どまっで停滞的であった︒いずれにせよ︑幕藩制初期における搾取基盤の拡大に対応できる労働力と小農経営の存在
こそは︑藩政にとって必要かつ不可欠であり︑ここに︑反収の向上にもとづく農産物剰余をめぐる領主・農民の初期闘争
(161) ‑
‑ 2
表
3‑1
越中の初期検地と反収反 収 村 名
3 6 0
歩1
反3 0 0
歩1
反1 5 9 8 (
慶 長3
)年 l.3 2
石 l.1 0
石 新川郡石仏村1 6 0 4
(同9)
l.3 2
l.1 0
砺波郡安川村 ※1 6 0 5 (同 1 0 )
l.4 9
l.2 4
砺波郡城端本町分1 6 0 5 (同 1 0 )
l.5 0
l.2 5
砺波郡大滝村1 6 0 5
(同1 0 )
l.5 0
l.2 5
氷見郡中村1 6 0 5 (同 1 0 )
l.5 0
l.2 5
氷見郡園村 ※1 6 0 5 (同 1 0 )
l.3 8
l.1 5
砺波郡埴生八幡神田│1 6 1 3 (同 1 8 )
l.5 2
l.2 6
氷見郡日名田村 (注)Ir富山県史.!(史料編I I I
近世上)3 9 8 ‑ ‑ ‑ ‑ ‑ 4 0 6
頁より作成俵表示の村は1
石= 0 . 4 4
石で石高に換算 ※は回のみ それ以外は田畑屋敷を 含 む表
3‑ 2 1 6 3 4 (
寛永11)年 加賀藩領の反収平均反収 加賀国
4
郡 l.5 8
石 能登国4
郡 l.5 0
越中国4
郡 l.5 0 3
カ国合計 l.5 3
(注)Ir加賀藩史料』第1 2
編7 3 6 ‑ ‑ ‑ ‑ ‑7
頁より作成表
3‑3
改作法実施期の反収 (単位石)出 典
『富山県史
J
(史料編I I I
近世上)1 0 7 5
頁『藩法集
6J 8 9 8 ‑ ‑ ‑ ‑ ‑ 9
頁『富山県史
J
(史料編I I I
近世上)1 0 7 8
頁 (注)( 3 0 0
歩1
反に換算)3 ( 1 6 0 )
一早 稲
稲中
晩
表
3‑ 4 1 7 2 8
(享保1 3 )
年 能美・石川・河北郡の反収能美郡 石川郡 河北郡 上田 1.
6 5
石 1.9 5
石2 . 1 0
石 中田 1.2 0
1.5 0
1.6 5
下回 1.1 5
1.3 5
1.5 0
上田2 . 1 0 2 . 0 0 2 . 1 0
中田 1.8 0
1.9 5
1.9 5
下回 1.5 0
1.3 5
1.9 5
上田 1.9 5
1.9 5 2 . 2 5
中田 1.8 0
1.8 0
1.9 5
下回 1.5 0
1.6 5
1.7 5
平 均 1.6 2
1.7 2
1.9 1
(注)F加賀藩史料』第 6 編623~4頁より作成(
1
反3 0 0
歩)表
3‑5
天保 幕末期の反収 対象地域 │ 反 収l1 8 3 8 (
天 保9
)年│砺波郡古戸出村1 8 5 8
(安政5 )
年│射水郡大門村 (注)1
反3 0 0
歩に換算出 典
表
3‑ 6 1 6 3 4 (
寛永1 1 )
年 草 高 ・ 耕 地 の 状 況 草高(石) 耕 地 面 積田方(反)比率(児)畑方(反)比率(児)田畑合計(反)比率(%) 加賀国
4
郡4 4 2 5 0 0 2 2 3 2 9 6 29.6 5 7 1 8 1 20.4 280477 100.0
能登国4
郡2 1 6 8 9 1 1 1 1 5 1 3 7 7 . 1 3 3 0 8 1 2 2 . 9 144594 1 0 0 . 0
越中国4
郡5 3 3 3 6 1 3 1 6 3 0 4 8 9 . 0 39270 1
1.0 3 5 5 5 7 4 1 0 0 . 0
(単位石)
物成(石)降均反明 (石)I
1 7 4 3 7 5
1.5 8 6 6 0 0 8 1 . 5 0 I 1 4 7 5 9 5
3
国合計 四7 5 2
刷1 3I 8 3 . 4
四3 2I 1 6 . 6 I 7 8 0
印1 0 0 . 013879781
1.531
Lー
(注)F加賀藩史料』第 2 編736~7頁より作成(小数点以下四捨五入)
‑ 4 (159)‑
石) 石高 比率(%)新田
( A )
新田 (B)A+B
比率(%)石高合計 比率(%) 加賀国3
郡6 0 3
村3 5 2 7 5 3 8 8 . 4 3 1 1 1 5 1 5 3 2 3 4 6 4 3 8 1
1.6 3 9 9 1 9 1 1 0 0 . 0
能登国4
郡6 0 3
村2 1 1 4 3 3 7 8 . 9 4 5 5 0 3 1 1 1 3 8 5 6 6 4 1 2
1.1 2 6 8 0 7 4 1 0 0 . 0
越中国3
郡1 1 2 0
村4 7 9 8 8 0 7 5 . 6 1 2 7 7 4 7 2 7 5 4 5 1 5 5 2 9 2 2 4 . 4 6 3 5 1 7 2 1 0 0 . 0
近江国高嶋郡l
町2
村2 4 3 2 1 0 0 . 0 2 4 3 2 1 0 0 . 0
l口』 計
1 0 4 6 4 9 8 8 0 . 2 2 0 4 3 6 5 5 4 0 0 6 2 5 8 3 7 1 1 9 . 8 1 3 0 4 8 6 9 1 0 0 . 0
L ̲ 一
加越能三州郷村高辻帳 (単位
1 7 1 1
(正徳1
)年表
3‑7
A
は1 6 8 4 (
貞享1
)年改め・B
は1 6 8 4 (
貞享1)年以降分 (注) 0"加賀藩史料』第5
編9 1 6 " ‑ ' 2 1
頁より作成表
3‑ 8 1 8 2 5 (
文政8
)年「御取箇井御物成調理書上申帳」
高 草
1 3 3 2 8 8 0 . 5 7 4 2
石4 8 0 8 . 7 7 0 0
ホ御印高井新開本田直ひ手上高共汐ホ奉行所附八ケ所二ケ浜共グ
1 3 3 7 6 8 9 . 3 4 4 2
(注)0"加貿藩史料』第1 3
編6 4 1 " ‑ ' 8
頁より作成高 惣
が︑耕地拡大による反収問題をもまきこんで展開し︑その
後の改作法体制の構築に対する前提条件︑すなわち︑手上
高や手上免︑定免制などのあり方を主に規定していくこ
と に
な る
︒
︒剰余をめぐる領主・農民の初期闘争
庁 走
り 百
姓
4
と呼ばれる初期農民による逃散闘争に対し
て ︑ 加 賀 藩 は ︑ 早 く に は ︑ 一 五 九 一 ( 天 正 一 九 ) 年 能 登 鳳 至
郡における多数の農民逃亡に対し︑ぷ
7度在々百姓はしり
百姓共いづれもき﹀迷惑ちくでん之由候間様子相尋候
処に前年之二免四分之催促切々に付て百姓はしり候之
由候(中略)百姓に立帰かう作かん用に候将又給人並代
官・下代以下非分族申におゐては急度可注進候
4と ︑
生 々
しい弾圧政策ではなくして︑多分に宥和的な利家の還住
命 令
を 発
し て
い る
が )
︑ 二
O
ハ
一 (
慶 長
六 )
年 に
は 利
長 の
定
書を示して︑庁逃散候百姓相抱候はゾ宿主可成敗其村と
しては家別に米一石充可出之事
sと し
︑ 二
ハ O
一 一
( 慶
長 七
)
年にも利長の触出で J
此法度以前逃散之百姓は不及届
可召返右之屋別は取間舗事︒として︑年貢の確保ととも
に︑農業労働力と小農経営の確保を重視した対策を採用
し た
︒
( 1 5 8 )
一‑ 5
その後︑越中農民の逃散闘争に対しても︑一六一
O (
慶
長一五)年の走百姓に対する召還・耕作命令二六二
O (
元和六)年東保村百姓欠落の跡田支配命令などの同対策を継続
させたが︑一六二六(寛永三)年に至ると︑芦船寺農民の逃散闘争に対しては︑庁其地就退転御検地衆井我々茂罷越様子
見申候処無余儀体候就其元和九年より寛永三年迄四か年之間弐ツ八歩被成御赦免候条右相残所御算用申上何茂
走百姓等人々才覚立帰申様尤候︒(﹁新川郡芦餅寺引免ならびに百姓立帰申付状﹂)と通告していることでも明らかなよう氏︑
引免を条件とする宥和政策的な庁走り百姓4帰還命令を発しざるをえなくなる︒芦併寺農民の逃散闘争による引免の勝
利であったということができよう︒
農業労働力の喪失とは︑藩体制の搾取・収奪基盤を揺るがす根源であり︑したがって二六三七(寛永一四)年にも︑庁急
度申遺候御分国中諸百姓走リ申様ニ堅クしまり仕候若逃散申候百姓於有之ハ其跡田畠最前被仰出候如御法度之
組中として致耕作年貢諸役無滞様ニ可申付候ヘ庁等金山井日用取奉公人ニ至迄他国江罷越候者有之ニ付而ハ知御
法度其年切ニ可召返候4としているように︑庁年貢諸役︒の達成とともに︑農業労働力の庁召返︒を執劫に勧告しつづける
のである︒二ハ六六(寛文六)年には︑庁御郡中百姓井あたまふりによらず走り他国へ罷越候者有所承届申上候はゾ
御褒美可被下候有所知候はy
其所江被仰遣走り百姓可被召返候一類之者共より呼返候はヌ御赦免被成如跡々団
地可被仰付候事︒と再令しているごとく︑逃散闘争農民の密告による庁御褒美︒とP
召返
8の実現に対する宥和的庁御赦免4政策で対応していかざるをえなかったものといえよう︒
同年貢免率の固定化・低下傾向
以上のような剰余をめぐる領主・農民の対立と闘争を通じて︑年貢水準(免率)はどのような動向を示したかを問題に
する必要があるが︑同時に︑本論展開の前提ともいうべき加賀藩政期を通じての年貢免率の傾向をも展望しておきたい︒
まず︑改作法前の免率については表三l九にみられる給人知行地の氷見郡見内村免率より窺う限りでは︑第一に︑四
o
r ‑ ‑
四八・五パーセントの免率を課していたこと︑第二に︑一六三八{)四四(寛永一五
i
正保こ年の山城守知行地が検見取制を採用していたこと︑第三に︑改作法体制に向けて殆どの給人が免率上昇を内容とする定免制を採用したこと︑など
の特
徴を
示し
た︒
‑ 6 ( 1 5 7 )
ー表
3‑9
氷見郡見内村(給人知)の免率 (単位 %) 中 村 堀 富田 山城守横山(武)壕本 横山(左)1 6 3 8 (
寛永日)年4 5 . 5
1 6 3 9 (
同1 6 ) 4 7 . 8 1 6 4 0 (
同1 7 ) 4 6 . 1 1 6 4 1 (
同1 8 ) 4 8 . 5 1 6 4 2 (
同1 9 ) 4 4 . 9 1 6 4 3 (
同2 0 ) 4 0 . 8 1 6 4 4 (
正保1) 4 0 . 0 4 0 . 0 4 0 . 0 4 3 . 1
1 6 4 5 (
同2) 4 3 . 0 4 3 . 0 4 3 . 0 0 3 . 0 4 8 . 0 4 3 . 2 1 6 4 6 (
同3) 4 6 . 0 4 6 . 0 4 7 . 0 4 3 . 0 4 8 . 0 4 4 . 1 1 6 4 7 (
同4) 5 6 . 0 4 6 . 0 4 7 . 0 4 3 . 0 4 8 . 0 4 4 . 1 1 6 4 8 (
慶 安1) 4 6 . 0 4 6 . 0 4 7 . 0 4 3 . 0 4 8 . 0 4 4 . 1
一(注)w富山県史.JJ(史料編III近世上)424~5頁より作成(給人堀支配の免率は 慶 安
6
年まで4 6 . 0 % )
表
3‑10
庄 川 近 辺 村 々4
組 の 年 貢 免 率 山 見 組 庄 下 組 般 若 組 井 口 組 村数 免(%)村 数 免(%)村数 免(%)村数 免(%)1 6 4 6 (
正 保3)
年5 4 3 5 . 7 3 7 3 2 . 1 4 2 3 2 . 0 5 4 3 9 . 1 1 6 7 0 (
寛文1 0 ) 3 8 4 4 . 1 4 0 4 0 . 1 4 9 4 0 . 9 4 9 4 5 . 4 1 8 3 9 (
天保1 0 ) 3 4 4 2 . 9 4 9 3 6 . 9 5 2 4
1.0 4 0 4
1.6
」 一 一 一 一
(注)w庄川町史』上巻294~302頁より作成(免率は各年度村数の単純平均)
1 6 6 6 (
寛文6
)年1 7 6 6 (
明和3) 1 8 6 9
(明治2)
村 数 免(%) 合 計 平 均
1 8 7 3 5 . 1 1 7 6 ; ;
1 7 5
1 0 0 . 0
(注)W加賀藩史料』第13編640~8頁より作成
(注)水島茂「富山藩政史の諸問題J(坂井誠一 編『近世越中の社会経済構造~
1 2 0
頁)より 作 成一
7 ( 1 5 6 )
さらにいえば︑山城守知行地の免率動向から︑検見取制下での逃散闘争による免率の攻防を通じて︑若干ながら免率
の低下傾向を示していることが看取できるが︑この動向が︑他の給人知行地においても該当して︑改作法体制に向けた
手上高・手上免による免率上昇をもたらしたのかどうかは︑俄には判定しがたい︒ただ︑逃散闘争による引免の勝利や︑
一六三八(寛永一五)年における婦負郡八尾村の高免率七五パーセントなどにもみられるように︑改作法体制に向げて︑
免率が上昇一辺倒でなかったことだけは明らかである︒しかし︑改作法体制が手上免に代表される増徴を基本的政策
としていたことは︑表三ー一 O の庄川近辺村々(一七 01
一 八 O ケ村)四組の免率をみても明白である︒すなわち︑改作
法の﹁実施﹂をはさんだ直前直後ともいうべき一六四六
i七
O (
正 保
三 i
寛 文
一 O )
年には四組ともに免率の上昇を示
し︑全組平均では︑三五・一パーセントから四二・六パーセントへの増徴に結果した︒改作法体制による小農経営再編の
結果として︑今後︑逃散闘争に代わる越訴闘争︑さらには︑惣百姓一撲闘争などによって︑これら加賀藩増徴体制へのア
ンチテーゼが表明されていくことになるが︑一七世紀中期以降についての免率の動向は︑改作法による定免制とも相ま
って︑概して固定化・低下傾向を示した︒たとえば︑表三│一一の一八二五(文政八)年加賀藩領下の免率四三・六パーセ
ン ト
や ︑
表 三
│ 一
O
にみられる庄川近辺村々の一八三九(天保一
O )
年におげる免率四
0・四パーセントなど二九世紀
一 一
1
三
0年代に向けて︑固定化あるいは低下傾向を示しており︑この傾向は︑表一二
l一二の富山藩領下の免率において
も 同
様 で
あ っ
た ︒
改作法体制の構築
( 1 5 5 )
一‑ 8
一六五一(慶安四)年に着手して一六五六(明暦二)年に完成したとされる改作法の前提として二六
O四 (
慶 長
九 )
年 の
十村設定 ω ︑一六四二(寛永一九)年に越中砺波の十村により実施されて︑一六四四(正保一)年頃から一般化する田地割
の制度とをあげることができる︒すなわち︑十村は︑
F慶長九年能州奥郡江本保興次右衛門罷下り跡々より其所之大
百姓共御用相勤候得共向後は十村与名を改百姓共之義支配可申付旨に市相極り候︒とあるように︑か其所之大百姓︒を
起用して設定され︑その支配領域は︑当初P大方一組三拾七八ケ村より四拾四五ケ村迄十村共支配仕候sとあるように︑
旧郷村規模にまで及んだ︒一方︑田地割制度の目的は︑庁村々定免被仰付候上は百姓甲乙なき様に可有之旨申候4
とさ
れたことからみて叫︑免の一村平均化と定免化のための石当たり負担の公平化であり︑併せて給人による免の差を克服
して改作法実施の条件整備を推進することにあったものといえる︒天保年間に改作奉行を務めた河合祐之がその著
﹁河合録﹂の中で︑その目的と方法について庁田地割或ハ基盤割ト云一村之地味甲乙出来人々持高当り不同相成候ニ付
平均二割直スを云此地割ハ先年より二十年之内ニてハ不承届弐十年自己上ニて承届ルsと的確に述べているのも︑蓋
し彼が在地支配の責任者だったからにほかならない︒
改作法の契機は︑一六二八(寛永五)年に庁自今以後御蔵入・給人地共に諸百姓しまりの事郡奉行御裁許十村切に堅
可被申付若走百姓於有之者其年之儀は不及申候以来迄走百姓之田畠村中として令裁許年貢米諸役並御国役十村組
としてさた可仕候︒と通達しているように︑当初︑十村への期待にもとづく逃散リ﹁走り百姓﹂対策であり︑同時に︑庁慶
安四年の頃御家中侍中何茂不勝手に成御領国百姓も困窮して貢米も相滞り未進並借銀質物も多く田畠にも精を不入年々おとろへ仁玄々とあるよう(問︑同じく十村への期待にもとづく年貢未進による給人の経済的困窮に対する打開策で
あった︒しかし︑こうした領内の政治的・経済的な契機にとどまらず︑それとともに幕府による寛文・延宝期の総検地実
施と︑領内生産者・商人の掌握を目的とした在町の設定に表現される全国市場形成への対応という契機とを内包してい
たこ
とに
ある
︒
坂井
誠一
氏が
︑
P改作法は︑前述の如く手上高・手上免による年貢の増徴︑特に手上免を主たる目的にしていたことは
明白である4とし︑佐々木潤之介氏が︑改作法のP一貫している基本的方向は︑簡言すれば︑貢租の増徴と︑それを達成するための諸条件の設定である︒としているよう同︑改作法が︑小農生産力の再掌握による増徴の追求を重要な目的とし
ていたことは否定できない︒庁手上高は村高之内年々畦畔等切広下︑自然と村高相増候へば︑村役人より組主付井惣年
寄詮議の上手上高に為相願候也免合は村免同様の事ヘ
8手上免は手入養ひ行届き自然と地味上り物成相増候へば︑手
上免何歩と欺詮議の上為相願可申事d と説かれているよう(問︑手上高・手上免とは︑耕地の新聞による庁村免同様4の免率
( 1 5 4 )
‑ 9
賦課(増徴)政策を意味した︒すなわち︑一六五二(慶安五)年に庁在々之内新開高之儀先年者御団地に相応之御免相に
被仰付候得共近年者本高免に被仰付候故本高より地本悪敷所之新開百姓迷惑仕候者共多御座候︒と述べられている
ごとく;地本悪敷
s新開地に対する本高免の適用によって多くのか新開百姓迷惑︒すると言う状況を招いたが︑こうし
た手上高・手上免にもとづく増徴政策強行の上に︑府先年村々定免相極り申時分其村免相御給人中に高免を其村之定
免に被為仰付候に付其後に上り知御免相御給人取免に五歩七歩又者一免充も御免相上り申所数多御座候左様之百
姓共猶以退転に及申御事
︑ d u
百 姓
の 庁
退 転
︒ を
き た
す よ
う な
8
高免を其村之定免
4として設定していった︒かくして︑一
六五四(明暦二)年に︑ゴニヶ国一統手上免郡々江御奉行総多御出一手合に十村三四人宛被召連作立毛御見図り之上
類免見合上免被仰付候高免之村者歩留に被成厘のはね上免迄上り申候︒といわれるような
P類免見合
4に よ
る 庁
厘 の
はね上免迄上︒る定免制が実施つ村御印の下附︒)されて︑
8納所方の義は村々地位を相図り定免に被仰付毎年無検見︒
( ﹁ 改 作 御 法 被 仰 付 候 書 取 ) と な っ て い っ た ︒
P村々定免被仰付候上は百姓甲乙なき様に可有之︒団地割制度の設定も
その布石であった︒つまり︑改作法の目的は︑藩財政安定化のための増徴(手上免)にもとづく定免制の実施だったので
あ る
しかし︑改作法の目的は︑以上のような定免制の実施のみにとどまるものではありえなかった︒つまり︑佐々木氏の ︒
いう庁貢租の増徴と︑それを達成するための諸条件の設定︒だけではなく︑寛文・延宝期の幕府による総検地の実施と地
方知行制の廃止とに先行して︑藩体制の根幹を形成していく改作法体制ともいうべき領主・農民の単一支配体制構築に
主要な目的が設定されていた︑というべきであろう︒換言すれば︑それは︑給人(家臣)と農民の直接的支配関係を切断
して給人の地方給付から蔵米(切米)取への移行を実現し︑給人による蔵入地・知行地支配(地方知行)を廃止することに
ねらいがおかれていたのである︒すでに二六二八(寛永五)年二月に︑庁自今以後御蔵入・給人地共に諸百姓しまりの
事郡奉行衆御裁許十村切に堅被申付
4れており︑この政策は寛永期に達成されているという説もあるが︑その体制が確
定されるのは口世紀中期まで待たなければならなかったというべきであろう︒すなわち︑まず︑市慶安四年の頃(中略)
三ヶ国一統御改作の法相極り是より諸給人中の向後百姓へ催促と申義被相止惣じて御改作の百姓へ給人と取合な
き様堅く被仰渡
dさ材︑二ハ五三(承応三)年には十村に収納代官の役割命令が下関︑一六五四(承応三)年七月に庁向後改
‑10 ( 1 5 3 ) ‑
作地江下代遣之候給人有之候者百姓方より急度可申上旨被仰付候︒という通達が発せられて︑給人下代の知行地への派
遣が禁止された︒この通達が給人を対象としただけでなく︑村々に周知徹底して違反者の根絶を図ろうとする措置で
あったことも事実であろうが︑その目的が未だ達成されていなかった証左でもある︒したがって二六六一(寛文一)年
にも庁諸給人より不依何事百姓江直に申間敷候︒と再令され︑一六五九(万治二)年に庁郡中之義不依何事算用場へ相達
可指図事勺耕作情に入候様十村肝煎並小百姓中へ切々可申渡候諸給人下代在々へ不遣候間納所無滞十村肝煎裁許
仕候様に可申付候事︒と発令されて十村代官の全般的設置が実現し︑侍代官から十村代官への転換が達成された︒かく
て︑
算用
場
l郡奉行│十村・肝煎の指揮・命令系統の確定によって︑改作法体制ともいうべき土地と農民の再掌握による
領主・農民の直接的支配体制と藩による統一的年貢収納体系が確立された︒改作法の目的とは︑領主・農民の単一的支
配関係を体制的に実現していくことだったのである︒
I I
改作法実施過程の小農経営と階層構成
11 (152)一
改作法そのものは︑あくまでも政策(支配層の理念)強行の体系であり︑それがそのまま理念通りに社会的実態として
体系化されたことを意味するものではなかった︒改作法の理念と実態とは靖離・背反することがありうるし︑その方が
むしろ現実的でさえあった︒たとえば︑改作法実現の重要な成否でもある藩財政の安定化についてみると︑すでに︑庁延宝中此貯銀を出され︑大阪御借銀御返弁の事あり︒と語られているような借銀財政を託ってお的︑また︑一六七九(延宝
七)年三月御算用場より改作奉行に対して︑P殿様近々江戸御参勤に市候所道中御入用銀不足被遊候近々にも上方にて
成共御借可被成候得共俄之事に而候へば当町並御郡方より御借不被成候はでは御参勤手間申候︒とする通達によ
れば︑参勤交代の費用にも不足をきたして上方借銀に依存せざるを得ず︑凡そ安定化とは程遠い状況にあったといわな
ければならない︒一六八一一(天和二)年には︑庁当年御要脚御不足七千貫目飴御座候由御国より言上御かり銀調兼候京
大坂御当地にても随分才覚仕候様可申達︒として御用銀調達に附吟しており︑これに対応して御用銀の上納を強要され
た田井村十村より郡奉行への同年の回答では︑庁御借り銀之義京都江被仰遣候得共延々に市御銀子御手聞に候間銀
子可上者吟味仕候市上させ可申旨被仰渡私組下相尋候得共銀子可上者無御座候︒として︑上納を回避されるという失
態に終わっている︒こうした早期からの借銀と御用銀依存の体質は︑二ハ七一一(寛文二一)年および一六八
O(
延宝
八)
年
と続くP当年も寒作之外酒一切不可造之4
という酒造寒造り禁止令や二六八
O (
延宝八)年および一六八一(天和一)年
と続く庁御領国中米・雑穀他国・他領江一切出し申間敷旨当春相触候ヘという米・雑穀の移出禁止令などを不可避にさ
せた米の不作・凶作による藩財政逼迫の追打ちとともに︑改作法理念の実現からさらに疎遠にしていく作用を強めさせ
る結果を招きさえしたのである︒
だが︑改作法実施過程において最大ともいうべき難関は︑改作法に反対して抵抗する村肝煎(長百姓)を中心とした村
落上層の追出し・入替えによる村落再編成を強行することにあり︑単なる庁惰農4の追出し・入替えのみに止まる牧歌的
な過程ではなかった(本節﹁むすびにかえて﹂参照)︒このような生産力発展の下での年貢免率をめぐる領主・農民の対立
と闘争(逃散・越訴闘争)過程と改作法実施過程との重複過程における土地所有の再編と︑その後の小農経営の動向につ
いて︑以下︑若干の検討を加えておきたい︒
一六
五ア
よハ
六(
慶安
四
i
寛文六)年の砺波郡太田村を改作法実施過程とその直後における村落構造の一つの実例として考察してみよう(表三l
一ニ
(一
)参
照)
︒最
初に
︑一
六五
一
i
五四
(慶
安四
i
承応三)年の改作法実施過程をみると︑まず︑戸数が僅か三年間で二四戸から三二戸に︑しかも五
O
石以
下層
に集
中し
て(
八・
三か
ら=
=了
三パ
ーセ
ント
に)
急増
し︑
明ら
かに百姓立てが進行したことを示したが︑未だ二五石以下の農民層は存在せず︑したがって各階層が下人を支配すると
いう段階にあった(表三l三台乙)︒その内でも二一七九・八石から一二三三・九石に持高を増加させた大高持二戸(肝煎)
は下
人一
四人
を抱
え︑
一
001
三OO石層四戸も平均七人の下人を抱える大経営であり︑一五七二ニ石を維持した長百
姓と
とも
に一
OO
石以上層三戸を含めて︑これら五戸の持高だけで村高の四
O
パーセントを占める状態であった︒庁高無之もの故屋敷地は高主より其時々請る︒といわれた頭振あるいは下百姓たちが帳づけの高百姓の下でF
下人
︒記
載と
‑12 (151)一
表
3‑ 1 3 ( 1 )
砺波郡太田村の持高構成1 0
石1 0 ‑ ‑ ‑ ‑ ‑ 3 0 ‑ ‑ ‑ ‑ ‑ 5 0 ‑ ‑ ‑ ‑ ‑
未満
3 0
石5 0
石1 0 0
石戸
1 6 5 1 (
慶 安4
)年。 。 2 1 7 1 6 5 4
(承応3) 。 6 4 1 6
数1 6 6 6 (
寛文6) 。 1 3 1 2 4
月1 6 5 1 (
慶 安4) 0 . 0 0 . 0 8 . 3 7 0 . 8
比1 6 5 4 (
承応3) 0 . 0 1 9 . 4 1 2 . 9 5
1.6
率1 6 6 6 (
寛文6 ) 0 . 0 4 0 . 7 3 7 . 5 1 2 . 5
持1 6 5 1 (
慶 安4 ) 0 . 0 0 . 0 8 0 . 0 1 2 0 7 . 3 1 6 5 4
(承応3) 0 . 0 1 4 3 . 2 1 4 2 . 9 1 0 8 5 . 2
両1 6 6 6 (
寛文6) 0 . 0 2 3 8 . 1 4 3 0 . 0 2 7 8 . 1
同1 6 5 1 (
慶 安4) 0 . 0 0 . 0 3 . 8 5 8 . 3
比1 6 5 4 (
承 応3 ) 0 . 0 6 . 9 6 . 9 5 2 . 1
率1 6 6 6 (
寛文6 ) 0 . 0 1 6 . 4 2 9 . 5 1 9 . 1
」 一 一」 一 一 ‑‑‑'‑ー
(注)w金子文書J(砺波市教育委員会刊)より作成
表
3‑ 1 3 ( 2 ) 1 6 5 4
(承応3
)年 砺波郡太田村の持高別下人所有村落 下 人 戸数 男 女 ム口三口l比率(%)
3 0 0
石以上1 9 5 I 1 4 2 0 . 9 2 0 0 ‑ ‑ ‑ ‑ ‑ 3 0 0
石。。。。 0 . 0 1 5 0 ‑ ‑ ‑ ‑ ‑ 2 0 0 1 5 3 8 1 1 . 9 1 0 0 ‑ ‑ ‑ ‑ ‑ 1 5 0 3 9 6 I 1 5 2 2 . 4 5 0 ‑ ‑ ‑ ‑ ‑ 1 0 0 1 4 1 3 1 0 2 3 3 4 . 3 3 0 ‑ ‑ ‑ ‑ ‑ 5 0 6 1 1 2 3 . 0 1 0 ‑ ‑ ‑ ‑ ‑ 3 0 6 3 2 5 7 . 5 1 ‑ ‑ ‑ ‑ ‑ 1 0 。。。。 0 . 0 1
石未満。。。。 0 . 0
合計3 1 4 0 2 7 6 7 1 0 0 . 0
1 0 0 ‑ ‑ ‑ ‑ ‑ 1 5 0
石3 3 1 1 2 . 5
9 . 7 3 . 1 3 4 7 . 0 2 1 8 . 0 1 1 0 . 5 1 6 . 8 1 0 . 5 7 . 6
1 5 0 ‑ ‑ ‑ ‑ ‑ 2 0 0 ‑ ‑ ‑ ‑ ‑ 2 0 0
石3 0 0
石1 1 1 。
l
1 4 . 2 4 . 2 3 . 2 0 . 0 3 . 1 3 . 1 1 5 7 . 3 2 7 9 . 8 1 5 7 . 3 0 . 0 1 6 4 . 8 2 3 4 . 6 7 . 6 1 3 . 5 7 . 6 0 . 0 1 1 . 3 1 6 . 1
(注)
w
金子文書』より作成 (注)w金子文書』より作成‑13 ( 1 5 0 )
一(持高単位=石)
3 0 0
石以上 合計
。 2 4 1 3 1
。 3 2 0 . 0
1000 0 0 3 . 2 1 0 0 . 0 . 0 1 0 0 . 0 . 0 3 3 3 . 9 2 0 8
1.4
0 . 0 1 4 5 6 . 1
0 . 0 1 0 0 . 0
1 6 . 0 1 0 0 . 0
0 . 0 1 0 0 . 0
して存在したが︑その数は太田村高持層の家族数一四二人に対
して︑実に四七パーセントにあたる六七人もの多数にのぼり︑少
数大高持の君臨による再版的旧土豪(名主)・下人関係が村落全
般を包摂して︑依然として根強くその痕跡を存続させていたも
のといえる︒改作法体制の構築のためには︑給人による直接的
農民支配の排除とともに︑このような村落構造を編成替えして
旧土豪的上層を排除するか︑支配の末端機構に設定していくか
が不可欠の課題であった︒一六五四{)六六(承応三
i
寛文
六)
年
における改作法直後の状況より窺うと︑まず︑戸数はほとんど無
変化であったが︑村高が二
O
八一・四石から一四五六・一石に三O
パーセント引高となったのと歩調を併せ村肝煎も三三三・九石から三三四・六石へ持高を減少させたに対して︑一01五
O
石層はさらに戸数を一O
戸か
ら二
五戸
(三
二・
三
から
七八
二一
パー
セン
ト)
に︑
持高
を併
せて
二八
六・
一石
から
七六
八・
一石
(二
ニ・
八か
ら四
五・
九パ
ーセ
ント
)に
増加
させ
た︒
下人層への村高の配分は未進行であったとはいえ︑漸次︑村落には若干の変化の兆候がみえはじめたものといえる︒
改作法体制構築の成否については一六七一(寛文二)年の砺波郡内島組七一ケ村における持高構成によりさらにそ
の一端を窺ってみよう(表三ー一四参照)︒二ハ六六(寛文六)年の太田村と比較して︑まず︑一
OO
石以上層の戸数比率
では太田村の九・二パーセントに対して内島組で二・四パーセントと低率化する一方で︑太田村の場合に記載のなかっ
た二五石以下層について︑内島組では二
O
石以下層五一・七パーセントの存在を示し︑その内には︑四・五パーセントの一石以下層をも含んで一段と下人層の帳づげが進行したことを指摘できる︒同時に︑雇用労働収入に依存しなくては
経営維持を不可能とする一石以下層の庁只今迄下百姓又は頭振下に市高受居申︒した高持が四・五パーセントにせよ存
在し始めたことは︑改作法体制下における今後の村落動向を特徴づける要素の生成としての意義が少なくはない︒そ
れとともに︑今や四
O
石以下層だげでも七七・二パーセントを占め︑本百姓の一般的形態が中下層農民に転換しはじめていることを示した︒一方︑追出し・入替え政策を含めた村落再編の最大対象として戸数比率を大きく低下させた一
O
表
3‑14 1 6 7 1
(寛文11 )
年 砺波郡内島組71ケ村の持高別構成 戸数 比率(%)3 0 0
石以上1 0 . 1
100~200石2 6 2 . 4
80~100
1 3
1.2
60~80
4 7 4 . 3
40~60
1 1 5 1 0 . 4
20~40
3 3 0 3 0 . 0
1~20
5 2 0 4 7 . 2 1
石以下4 9 4 . 5
合計1 1 0 1 1 0 0 . 0
」 一 一
(注)W富山県史.J(通史編1II近世上)
3 1 6
頁第2 8
表より作成‑14 ( 1 4 9 ) ‑
O
石以上層の中で︑依然として存続している三OO
石以上層など大高持の存在は︑追出し・入替え政策を巧みに掻潜っ
て︑今や改作法推進の末端機構に包摂された協力的な上層農民として相応しく再生していく階層にほかならなかった︒
改作法の実施過程において村落の再編成が大きく進展したものといえよう︒
しかし︑改作法実施以前の村落構造においてすでに座胎していた桂槍が︑改作法の強行を通じて編成替えされた小農
経営︑殊に中下層農を根幹とした階層構成にもとづくP惣百姓︒的な村落構造の形成によって大きく浮上しはじめる︒
今や高持百姓として村落の多数を占めはじめた中下層農の経営維持に寄せる根強い執着心に対する障害物︑就中︑年貢
免率の引上げに対する強力な抵抗こそが︑領主にとっての最大の桂椅となった︒具体的には︑惣百姓的エネルギーを背
景とする代表越訴として表現されはじめるが︑その前提として︑また︑村落再編成過程を通じて︑1角を売り家財・農具
を代にかへ年貢し其にしても不足せし時は未進米とて貸米に成りし也4といわれるような経営維持と年貢納入を前提
にした土地質入が進行していた︒
一六五三(承応二)年には︑納租行政の最高責任者として位置づけた十村を通じての勧農命令としてFおおちゃくなる
百姓︒に対する指導を強化し二六五七(明暦三)年の十村(津幡江村宅助・嶋村次郎衛門)に宛てた利常の﹁青葉の御印﹂に
よっ
て︑
P女子供迄を出し成程精に入耕作いたし候様に可仕候百姓少も気つまりニ無之ゆるやかにうき立油断不仕
候様に可仕候︒などと説封︑幕府の庁朝おきを致し朝草を苅昼は田畑耕作にか﹀り晩には縄をないたはらをあみ何
にでもそれぞれの仕事無油断可仕事︒と強要して全剰余労働部分の搾取を露骨に表明した慶安御触書の︑まさしく加賀
藩版としての農民に対する薫育的威圧を企図したが二六八六(貞享四)年には︑土地質入・売買の進行に対する措置と
して︑幕府による一六四三(寛永二
O )
年の頼納質(年貢負担者と質入人の同一性N
事実
上︑
質入
人の
耕作
・小
作)
およ
び田
畑
永代売買の禁令の再令を領内布達して︑F右之趣堅可相守若於違背者可行罪科者也︒と伺喝せざるをえない状況に至
っていた︒土地質入・永代売による︒違背者︒が改作法による手上高・手上免の要求(高率の年貢負担)日年貢未進・負債帳消しを代償として続出したからである︒それに関する研究による凶︑一六四六1
九
O(
正保
三
1
元禄三)年の越中砺波郡村々を中心とした土地売買(四六通)の事例では︑改作法実施直後から︑売買・質入の方法による合法的な年季預け(六
通)
・無
年季
の置
質(
八通
)が
合計
一四
通(
うち
五箇
山四
通を
除く
と一
O
通)︑非合法的な永代売り(実質的田畑売買)が三二通‑ 1 5 ( 1 4 8 )
一( う ち 五 箇 山 二 四 通 を 除 く と 八 通 ) に の ぼ っ た ︒ ま た ︑ 土 地 質 入 は 質 取 人 に よ る 未 進 米 ・ 城 米 等 立 替 え ( 六 通 ) ︑ 年 貢 米 代 ( 四
通 )
︑ 納
所 代
( 三
通 )
︑ 家
高 銀
・ 作
食 米
( 一
通 )
な ど
を 根
拠 と
し て
お り
︑ 質
取 人
が 上
層 農
二
1三名に限定されていたが︑元禄期
に至ると質入は皆無となり︑ついには永代売が一般化する︒改作法による小農生産力の再掌握は︑当初の強硬な追出し
政策を包含した村落の再編成にもかかわらず︑その後︑必ずしも成功裡に進展したとはいいがたい︒一六五九(万治二)
年には︑ゴニヶ国在々より奉公人共数多是跡他国江罷越候間向後之儀一村切に人数を改十村井肝煎帳面に記置急度 縮可仕事︒と通達しているよう(問︑表三│一四にあられた雇用労働依存によって経営維持を図る以外に手立てのない一
石以下高持層などに対しては︑一方では年貢皆済対策として︑他方では村落離脱の防止対策として︑村落上層に対する
協力に依存せざるをえない状況に至ったのである︒
I I I 領主米市場の成立過程
‑1 6 ( 1 4 7 )
ー付統一的領内米市場の形成
改作法の実施に対応する領主米市場体制の構築については︑まず︑統一的領内米市場の整備を急務としなければなら
なかった︒その第一の課題は二六四七(正保四)年七月に能登四郡において他国米の買入が禁止され二六五一二(承応
一一)年五月には領内全域での他国米買入が禁止されたように︑改作法完遂のための米価維持を目的とする津留制度の確
立 で
あ っ
た ︒
二 ハ
六 一
二 (
寛 文
一 二
) 年
七 月
に も
P
御領国江他国他領米入候義跡々ヨリ御停止ニ候︒と布達し︑一六六七(寛文
七)年九月にも加賀藩米の他国売出裁許・他国米買入禁止の布達を繰返しており︑一六八三(天和三)年に
8御領分江他領
米入候儀前々堅御停止候今以密々他国米入候由其聞有之
4と神経を尖らしているように︑改作法完成以降においても
津留による領内米市場の統一的支配と米価政策の推進は改作法体制の維持のために不可欠であった︒
第二の課題は︑領主米収納体制の整備による年貢皆済を確定することであった︒そのために︑まず給人知行米を除い
た 藩
米 で
あ る
御 蔵
米 (
御 詰
米 )
の 収
納 蔵
( 御
蔵 )
を 領
内 数
十 ケ
所 (
加 賀
の 本
堂 形
︑ 鶴
来 ︑
宮 腰
な ど
や 越
中 の
津 沢
︑ 高
岡 ︑
氷 見
な ど
)
に設置して︑庁新年改役年々相極海道口々え皆済迄之間番所を設町屋井百姓家ヲ借用シ改之
4としているように︑改役
と番所を配置して年貢皆済を促進した︒一六四三(寛永二
O )
年には︑か皆済以前百姓新米等売申儀不相成古格也︒と勧告 して年貢皆済の確保を期した減︑一六五八(万治こ年にも;御蔵入・御給人知共皆済不仕内米売申間敷事︒とし旬︑年
貢皆済前の百姓米販売を牽制した︒いうまでもなく年貢完納こそが︑改作法の成否にかかわる根幹であり︑したがって︑
以降︑寛文・延宝期にも再令が継続されなければならなかったのである︒
次いで︑知行地農民と直接的関係を切断された給人に対する経済的措置して︑一六五八(万治一)年に給人米を大坂廻 米に包含させる御召米制を開始凶︑二ハ六二(寛文二)年に御召米規定も制定して補償制度の整備を進めた料︑翌二ハ六
三(寛文三)年には︑か御召米給人売上切手を以買上翌年正・二月米員数並蔵宿之名を帳面に記其所之御奉行へ遣しま
りいたさせ右給人売上可相返自然売上切手不相返内米相違有之候はゾ被召上直段を以代銀御納戸江可上事︒など
を内容とする御召米﹁御定書﹂を制定して米切手の使用を公式に導入した︒同﹁御定書
Lでは︑切手の発行高と蔵米在庫
高とを必ずしも一致させず︑また
F給人米売上以後自然蔵宿火事に逢候者吟味之上を以公儀可為御損事
4として切手
所持者の損害を保証するなど︑切手に単なる保管証券としての性格だけでなく物財証券としての性格を付与して︑改作
法体制を補完する御召米制度の円滑化を図ったのである︒
給人米の収納を担当する蔵宿(町蔵)に対しては︑統制と経営の安定化を通じて藩の主導性を確保し︑同時に給人の経
済的安定を保証しようとした︒給人米の販売と輸送については︑改作法実施以前から︑給人自身の自家飯米のための金
沢搬送(引米)のための切手や金沢その他における諸民の食料米確保に対する払米切手など︑所用に応じて発行されて
いたが︑二ハ六二(寛文二)年七月のつ御家中諸給人知行米預置候蔵本御定﹂の制定により蔵宿の統制と位置を明確に
して︑給人米の納入・保管・販売などを一層確実にした︒すなわち︑まず︑蔵宿の位置については︑加賀三カ所(金沢︑小松︑
鶴 来
) ︑
越 中
二 ニ
カ 所
( 今
石 動
︑ 氷
見 ︑
城 端
︑ 高
岡 ︑
福 光
︑ 戸
出 ︑
東 岩
瀬 ︑
水 橋
︑ 滑
川 ︑
赤 川
︑ 横
山 ︑
泊 ︑
魚 津
) ︑
能 登
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カ 所
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松 ︑
七 尾
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剣 地
︑ 道
下 ︑
輪 島
︑ 曽
々 木
︑ 飯
田 ︑
宇 出
津 ︑
鵜 川
︑ 中
居 ︑
富 木
︑ 子
浦 ︑
飯 山
︑ 今
浜 ︑
神 代
川 ︑
堀 松
︑ 大
島 ︑
羽 喰
( 咋
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熊 木
︑ 野
崎 )
な ど
︑ 金
沢 へ
の搬送を基軸とする領内全域にわたって三六ケ所に設置したが︑給人の依存すべき蔵宿の体質と経営については︑一方
‑ 1 7 ( 1 4 6 )
一で︑庁悪敷蔵宿者十組より遂吟味御奉行江相断候様に可被申渡候
οと厳しい姿勢で臨み︑他方では︑二ハ六三(寛文三)年
一一月にご二ヶ国町並宿共下に而米問屋を立商売いたし候儀向後堅く仕間敷候旨所々御奉行へ可被申渡候勿論へ
ぎ米商売仕義者不苦候間可被得其意候︒として給人蔵宿以外の米問屋を禁止すると同時に︒御家中之知行米預候蔵宿
石に付二升宛給人より相渡候︒とするなど︑蔵宿の経営の安定と利益の確保を図った︒高岡では二六七四(延宝二)年
に蔵宿の取締役方である蔵廻り四名を設置して統制を強化するなど︑改作法体制に照応した蔵宿制度の維持をめざし
た の
で あ
る ︒
統一的領内米市場の整備のための第三の課題は︑改作法の実施を契機とした在町と市場の設定であった︒すなわち︑
一七世紀中期の寛文・延宝期を前後とする中央市場としての大坂の地位(年貢米販売などを中心とする諸藩の大坂依存体
制)が確定したのに対応して︑領域内の中心としての城下町(金沢)を位置づけ︑その出町として︑改作法の推進によって
創出される小農経営に対して非自給部分を供給する在町がまず設定されなければならなかった︒その実現によって小
農経営の安定化にもとづく領内分業体系が再編成されて︑給人による村落と市場支配の経済的基盤は喪失することに
なる︒かくして︑改作法の一環としての町立て(在町の設立)は︑一六四九(慶安二)年砺波郡杉木新町・砺波郡城端町西
新田町・射水郡和田新町・同郡放生津新町︑二ハ五
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