のインタビュー(1993年) : 憲法24条の成立と,民法
・戸籍法の「家」制度の改廃過程
著者 和田 幹彦
出版者 法学志林協会
雑誌名 法学志林
巻 94
号 2
ページ 133‑158
発行年 1997‑01‑30
URL http://doi.org/10.15002/00007406
資料②オプラーの赴伍について四「家」制度と天皇制の連関に関するGHQ内部の理解にっ③民政局の「家」制度廃止の公式〃針のh鰍・オプラーの役割いて
元GⅡQ民政同次腫故C・し・ケイディス氏へのインタビュー二九九三年三和Ⅲ)一一一一一一一 二民法改正に①「家」制度改廃結果利川のh無 ③ハッシー又撫巾の一淑法草案の平等原川・家族に関わる条文
について ②二四条をめぐるⅢ本政府との交渉 一憲法二四条の成立過程について①二四条以外のシロタによる条文案廃棄の縄紳 はじめに
元GHQ民政局次長 故チャールズ.L・ケイディス氏へのインタビュー(一九九一一一年)
l悲迭一四条の成立と、琴戸徽の「家」鯏腫の改脆過腿I民法改正について」制度改廃に側する馴前調炎とGMQ氏政局による調代 三戸箱法改正について①戸鯏補公Ⅲ原則の是非について②三世代戸締徹底排除の力針・戸獅の個人別編製について③法改正のGⅡQ側の手続について④その他l囚鯛法
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戦後占領期の前半、GHQ民政局(の。ぐの3日目【の⑮。〔一・コ)の課長、のち次長であったチャールズ.L・ケイディス氏(1) (og1の⑰伊・尻目のの)は、一九九六年六月一八日に九○歳で亡くなられた。同氏は、周知のごとく民政局でホイットーーー(○○日目の]ヨ冨日&)局長についで文字通り「ナンバー2」の実力者の地位にあり、日本国憲法の成立過程に、場面によっては局長以上に深く関わっていたといえよう。’九九三年四月末から五月初旬にかけ、筆者はケイディス氏に四度に亙るインタビューを行う機会を得た。ケイディス氏に、ご存命中にこの記録の発表を報告できなかったことを悔いつつ、遅きに失するが本稿の公表の機をとらえ、インタビューに全面的にご協力下さったケイディス氏に、ここにおいて哀悼とともに心からの感謝の意を表すこととしたい。(2) 叫ゴ時筆者の研究上の関心は、憲法二四条の成立過程、及び同条の下での民法・戸籍法中の「家」制度改廃にあり、インタビューはこのテーマを中心に行われた。筆者のその後の研究.(3) 調査範囲4℃、また本インタビューや本稿の重点も、あくまで民 はじめに 法学志林第九十四巻第二号’三四
法・戸籍法中の「家」制度の改廃過程にある。従って、占領政策や憲法制定過程の全体像の解明は全く意図しておらず、そもそも筆者の能力を超えているため、本稿にも誤りが多々あることをおそれる。各分野の専門家の方々のご教示を乞う次第であ(4) る。
インタビューの日時(すべて一九九三年)・機会・場所は次(5) の通りである。*四月二六日主として研究者を集めての憲法制定に関わる研究会にて(ベァテ・シロタ・ゴードン(国の貝の四8日(6) ○・吋ロ○口)が同席)場所-1束京都文京区本郷学士会館別(7) 館*四月二九日筆者のみによるインタビュー場所11束
京・ホテルオークラ*五月六日陪審制度推進を目的とする会主催の会合にて場所11束京・ホテルニューオータニ*五月七日筆者のみによる電話インタビュー
(8) 本記録については、以下をお断りしておく。*ケイディス氏には、予め研究目的と断り、公表を前提としてインタビューをお願いした。
(9) *質問背は筆者である。質問には「W」を、ケイディス氏の一憲法二四条の成立過程について発一一両には「K」を、各々H頭に付した。特に画間はせず、ヶ(本項、Ⅱ|の本文中の月・日はすべて一九四六年である。)イディス氏に自由に発言していただいた箇所もある。①二四条以外のシロタによる条文案廃棄の経緯*インタビューは、質疑・応答とも英語で行なった。本記録K二月上旬のいわゆるマッカーサー草案起草過程で、シロタ作成にあたっての事後的な和訳は筆者による。が起草した主として家族と女性に関する条項を含む「人権*本記録は、すべて各回のインタビューの際に作成した、瓠(Qく】」幻碕貸⑭)」の部分は極めて長かった。千八百語はあった(Ⅶ) 者の手書きメモ(すべて現存)から書き起こした。なお、イと思う。これを運営委員会が短くしたのだ。ンタピューの録音記録はない。(Ⅲ) *日本語の叙述内容は、可能な限りケイディス氏の英語の表②二四条をめぐるⅢ水政府との交渉(旧)現を再現した。ケィディス氏の発一一一一凹巾、()に英語が挿入K三川川Ⅱの夜、正確には三月五日早朝二時頃に、二川条をされているのは、氏が直接使用した表現である。審議する順が回ってきた。この時のGⅡQ民政局側の在席者に*英文和文を問わず、ケイディス氏の校閲は受けていない。は、私と、通訳としてゴードン[〕。⑫のgooaop]、シロタ、(旧)*叙述の順序は、複数日にわたってインタビューした内容をハーシー[四の厨どの]]がいた。ホイットニーは別案の自察にお筆者が整理した。即ちケィディス氏が述べたとおりの順序でり、ワィルズ[国口『q向日の厨○口三旨の⑪]、ルースト[回国の『【・(M) はない。”oの異]も同席していなかった。日本側の在席者は佐藤達夫は*見出し(一、二や①②③……を付したもの)は筆者によるいたとして、通訳として白洲[次郎]、[内閣〕法制局(いの的】い』口‐表現である。はくの国日の目)からもう二、三人、英語の上手な者がいた。こ*本文のブラケット([])内は、筆者による注記・補足での二、三人が、松本蒸治大臣の部下だったのか、佐藤の部下ある。だったのかはわからない。通訳にはイギリスのオクスフォード*従って、文武はすべて兼者にある。かケンブリッジで学んだらしい英語のうまい「オ・・…・云々」と(旧)いう名の人8℃いた。
元GHQ民政局次長故C・L・ケイディス氏へのインタビュー(一九九三年)(和田)一三五
③ハッシー文書中の一憲法草案の平等原則・家族に関わる条文(別)についてWこの「|草案」は、三月六Ⅱと四月八Hの間に起草されたと見られる。[現行]一四条一項に追加された但書、また二四条を代替する「二五条」、双刀とも問題を多く含んでいるが、 法紫志林節九十四巻卵二号 この二四条審議の際、Ⅱ本側は、この条文案の内容が「広範にわたりすぎる(【○○ヶ8日)」と言い、また「日本の歴史・法に全くそぐわない(【○且ごご8コい】⑫【の。【且岳]:§の⑭の曰⑪‐(旧)〔oqoH]、君)」として強く反対した。そう言ったのが誰かは全く覚えていない。個人的意見なのか、[この日の川本側メンバーでは股も高い地位にいた]佐藤の意見なのか、Ⅱ本政府の愈兇なのか、厳密には分からない。ちなみに、佐藤の[主たる]Ⅲ心は火皿制にあった。この砧、私は日本側に、川Ⅲの朝十時頃から検討を始めていて皆眠いことであるし、「あまり細かく検討するのはやめよう」と言った。そして、同席して通訳していたシロタに言及して、(、)(肥)侭曰国⑫シ『二○」の』②。」。⑪の(○すのH汀の口『F》こすく○○コ.{垂「のロロいぃ芹や》.(四)と一司ったところ、Ⅱ水側はこの条醐を受け入れたのである。シⅢタが水条項の起蛾上nである』川を、Ⅱ本側はこの時知らなかつ(m) たし、その後』b知らないままであった。 二民法改正について①「家」制度改廃に関する事前調査とGHQ民政局による調査結果利川の有無W比法・戸鯏扶改服に面接側わった故川脇武穴教授に拠れば、アメリカは戦前や戦中に既にⅡ本社会についての洲代を行っており(例としてルース・ベネディクトの『菊と刀」等)、阯法・戸繍法中の「家」制度についてもそうした調炎成果が、氏政局での法改正に際し利川され、それに腿づいて、氏政局の「家」制度廃止の方針が早い時期(具体的には一九四六年三-六月を念頭に趣いていたであろう)に既に決定していた、とい(路)う。こうした調査結果利川の何無、またそれに蕊づく民政局の方針決定の有無について聞きたい。 一一一読ハ(泥)(以上二つの条文草案を読み上げて)この草案・条項について
記憶があるか?ファ引蛎ロ切目]・勺冒則]はその作成者は
「日本の役人」「日本の当局」とのコンテクストで叙述しているが、これはⅢ本政府の対案だったのか?その内容についてどう思うか?Kそもそも三月六H以後、日本政府側が[これらの条文の関述で]史なる修正を巾し入れたことなどあっただろうか。私は(別)これらの修正案については覚えていない。K私の知る限り、第一の点についても、従って第二の点も、民政川のホイットニー、ハッシー[シ}坤の。”・函仁朋旦・]『・]、答は否つまり「無し」である。そうしたことはない。そうしたラウェル、ヘイズ[司日鼻面・田口くい]、私は軍人出身で、他の人(釦)事前の調査が戦前・戦中・戦後画後のいつ(またはそもそも)は民間人出身であるが、局内に大陸法(Qく一一百三)・ローマ行われていたか、についても私は知らない。また民政同もそう法をよく知っている者は誰もいなかった。そこで私はワシント(妬)した調査の結果を利用してもいない。仮にもそうした調査結果ンDCの陸軍省(ミロ『ロのbPH【日のロー)に電報を書いて、民間を利川したとすればオプラー[ど{『aop1⑫[旨pobb-⑮『]であ人の人馴部局(○日]】§ロの『い・ゴロの}□8口灘ョの貝)で、大陸法ろうし、またひょっとしてラウェル[g』一・回・幻・君の巳もそうに造詣の深い民間人をMってGⅡQに赴圧させて欲しいと要謝した利川は可能だったかもしれない。その他の人はあり得ないした。(幻)だろう。しかしラウェルによるこうした洲在結果の利川についW時期は、一九川n年一二川頃か?ても、私は何もⅢいたこともないし、知らない。Kそこまで明確には覚えていない。その帖采、オプラーニ(羽)『菊と刀』も、当時まだ公刊もされていなかったと思うし、九W六年二月米川)とプレィクモァ[曰可・ョ仰晩い・四口丙の日ONの]比政局では誰も秘んでいない。この点は、Ⅱ水のパ航史を研究(さらに後に問征)が選ばれ、米Ⅲしたのだ。オプラーは感状していたハタという入城行のⅡ水人から、二○年ほど前にも同蛾案起峨作業が終わる前に米Ⅲしたのだが、けがで十川ほど人(”) じ質問を受け、私は同じ答えをしている。院していたので、起草作業そのものには間に合わず、参画して(別)いない。大陸法専門家の赴任を要諦し、結果としてオプラーを②オプラーの赴任について州脚したことになるのが私であることは、オプラー本人はn群(蛇)K私は、日本の法制はヨーロッパ大陸法系なのであるから、に垂曰いていないし、亡くなるまで知らなかったかもしれない。n本の法制改革のためにGⅡQには大陸法の専門家が必要だとオプラーは大変な碩学で、良い人柄(日8℃の厨○コ)で、親早い時期から意識していた。実際に大陸法の専門家を民政局に切な人(②三の貝ロの『⑪。。)であった。Ⅲ本人もアメリカ人も、沼鴫するべきだ、と要請したのは私である。もっとも、[以下皆オプラーが好きだった(向くのミワOS房8○ロローの『一)。に見るとおり]私がオプラーという人選をしたのではない。
元GⅡQ民政局次長故C・し・ケイディス氏へのインタビュー(一九九三年)(和Ⅲ)一三七
法学志林第几十Ⅲ巻第二賠
③氏政局の「家」制度廃止の公式刀針の有無・オプラーの役割W民政局に「家」制度廃止の公式方針はあったか?(鋼×鈍)Kわからない。あったかもしれない。l民法改正を主導した一人である当時の司法省鶴鞭局撞、奥野健一は、オプラーから「『家』は問題だ」という発言が(鯛)あったと述べている。このオプラーと奥野の会談はどの時点(師)か?.GⅢQ側に記録はあると思うか?また、主として司法省の役人とGHQ民政局(プレイクモァなど)の間の民法・戸繍法改正に関わる会談三九四七年Ⅱ’七Ⅱ)は、H水川には(師)かなり詳細な記録が残っているが、GⅡQ側には紀録が作られていると思うか?K〔どの時点かは判らない。典休的祁録があるかどうかは判らないが、一般論として]腿水仙に記録はいちいち残していない。プレイクモァも、会談に出席したGⅡQ側がn分一人の場合、自分で詳細な発高氾録は残してはいないだろう。Ⅸ政局で、我々は時に応じて富の日・日日ロ日帛○N宛の8aを作ることは(銘)あったが。W川脇教授に拠れば、オプラーは「家」の全伽的廃止につい(鋤)ては「ゆずれない」と一一一mっていたというが、この点についてどう思うか?K懲法二四条が〔邪災上]成立した後で、なおかつ「家 一三八
(時)」を残すことはそもそも不可能だから、GⅢQとしては「家」については廃止云々を言う必要はない。つまり、戸主権の具体的内容を二四条は箇条書的に否定しているのだから、「家」は実質的に廃止される以外選択肢はないであろう。Wしかし、戸主権は否定しているが、実質にせよ形式にせよ「家」を残そう、という動きはあり、民法・戸職法改正過樫で象徴的な「家」存侃案は突際にあったが。また図会で意法改正担当の国務大臣金森徳次郎も、遼法二四条の下でも「家」は存佃可能、と一一㎡い統けていた。[時Ⅲ不足であったこともあり、以上の点ケイディス氏からはコメント無し。]金森は迦法の三川六川案にはベースとしてGⅡQ案マッカーサー耽案]があるとは前えなかったし、これを政府案としてか識しなければならなかった。箪傘《を弁趣するためにも、この懲法が成立しても家制度は存置できる旨を並狼していたのだと思うが。K遜法敵,案をGⅡQ案だと(門えなかったのは、吉川〔茂〕が二月一三日の会談で、そのことは秘密にしてくれ、と我々GⅡQ側に言ったからだ。秘密にするのは吉田の考えであった(胃三m⑭三日ロの魁)。ホイットニーはこれに対して、秘密にしてよ(側)い、と一言ったのだ。W民法・戸籍法改正について、オプラーから逐一説明を受けていたのか?オプラーに脂示(。】Hの8.口い)を川したことは
あったか?それともこの二法の改正作業は、ほとんどオブなくて結蛎できなかったことがあったので、戸主権の廃止にはラーに任されていたのか?私も個人的に賛成であった。K私は、民法・戸籍法改正は[他の多くの法改正と同様]オW民法・戸籍法改正はオプラーに一任していたならば、オププラーに一任していた。民政局ではホイットーーーはそもそも一ラー自身の[職務遂行に際しての]方針が、GHQの公式方針般的に、私に対してあまり細かいことは言わず、多くを任せてとしての実質的機能を果たしたといえるのではないか?いた。そしてその私は、[日本法は大陸法系だが、その]大陸Kそれはそのとおりであろう。法については無知であるので、[民法・戸繍法改正も]大陸法に詳しく、じきに川本法もよく知るようになったオプラーに一④氏法改正におけるウィードの役割について任した、というわけである。ホイットニー局長も、自身大陸法W川島教授は『ある法学者の軌跡』に、「民法の『親族編』、については無知だったこともあり、この改正作業はオプラーに「相続編』の改正には[……]ミス・ウィード[向日の]ヨの日.任せていた。加えて、一般的にオプラーが[改正作業を一任さQく一目ロ[・『日g-oppB図口8(』・ロのの2.口(Cl&E、民問れているにも拘わらず]私に相談に来たときも、常に私は彼の情報教育局)所属][……]がイエスと言わないことは絶対パ意見には賛成できたし、自分と彼との間に意見の相違があったスさせないという、マッカーサーじきじきの指令がオプラーのことはない。組織上は、[頭要蛎項については]彼は上司であところにきていたということを、オプラーが私に言ったことが(枢)る私の同録叫を得る必要があったし、彼は口紙委価を受けていたありました」と、明白に述べているが、この点についてどう忠わけではなかったが。例外的に、オプラーと私の意見が別れたうか?のが、日本での裁判官の公選制導入是非論争(賛成が自分ほかKまったくばかげている(胃冨具Sg』②g]・口の昌一)。あり民政局ほぼ全員、反対が唯一オプラー)であるが、ここでも私えない。(机)は最終的にオプラーの意見に従った。[第一に、オプラーとウィードの関係について]私はウィーただ、私の日本人の友人でプリンストン大学に留学していたドを個人的には全く知らなかった。ウィードはとても低いラン男性が、Ⅲ本人女性と同居し、子供までいるのに戸主の同意がクの人だ。オプラーの刀がランクも高い。[従ってオプラーが
元GⅡQ民政同次艮故C・し・ケイディス氏へのインタビュー(一九九三年)(和川)一三九
⑤片山内閣と民法改正W片山内側下、ややリベラルな民法改正案を国会で通すのは楽になったか?K司法大胆の鈴木義男[社会党]がリベラルだったのも法案の図会通過にプラスに働いた(芹ロの」□且)であろう。私は片 法学志林第九十四巻第二号 ウィードの言うことに従う、などということはあり得ない、とい》フニュアンス。][第二に、オプラーとマッカーサーの関係について]また、オプラー、身もマッカーサーに会ったこともないだろう。もし、マッカーサーからオプラーヘの脂示が普斌によったならば、私を通したであろうから、私自身も知っていたはずだ。GHQの人間がマッカーサーと実際どの程度会うことがあったか、出政局を例にとると、ホイットニー局長はむろんよく会っていたが、[民政局のナンバ12であった]私自身もあまり会ったことはない。スウォウプ[の目]・の三・円][マッカーサー草案起草に参加当時海箙中佐〕などは、本国帰国の際になってやっと一度会ったことがあるだけだ。[以上二点に拠り]従って、マッカーサー自身からオプラーに、[ウィードなどという低いランクの人間の具体名を準げて](綱)そうした指一水がありようがない。 ⑥遜法・民法・戸廠法改正全般に関わる占伽政策についてKマッカーサーの政簸〃針(□呂旦)は、懸法・民法、そして他の法も、日本国民の自川に表示せられたる意思(旬のの辱の〆‐(縄)bHの脇の口乏筥○帛岳の〕ロロ目の⑭のロの○つ]の)に基づかねばならない、というものであった。つまり、四六年一月三○日(即ち憲法起草作業前)の極東諮問委員会(岳の句日向ロ⑫庁のgレロぐ】の。q○○日目閉一○口》司同』○)に対する発言録に救っていることだが、マッカーサー曰く、GⅡQが戒告(8貝5口)によって行うことはすべて、日本側の反動を拙くのみで、永続しない、という(柵)ものだ。例えば、マッカーサーは議会については一院制案だった。つまり、賀族の制度は廃止されるのだから、二院は必要ない、という点を彼は強く言っていた。しかし、結局彼は、Ⅲ本人が二院制を望むのならばそうさせろ、とした。なぜならば、それが「H水岡氏の、川に表示せられたる意思」であるからだ。[その後も、マッカーサーの力針は]マッカーサーuく、四六年一一Ⅱ三日に遜法が公布され、翌年四七年五月三川に施行されるまでの間の法改正はすべて、日本国民の意に添うべし、 一四○
山も個人的に知っているし、その後片山もアメリカに私をわざわざ訪ねてくれたりもした。当時片山は、氏法改正は鈴木に征(帆)せていたと忠・っ。
(伯)ということであった。たか?オプラーも、[法制改革の]イニシャティブは日本国民からK覚えていない。戸籍の公開の是非については、オプラーとくるべきであって、彼の著述中の表現を使えば、日本の改革は話したことがある。オプラーは公開に反対で、私も彼と同意見(奴)(印)「説き勧め・勧誘による革命(屡甘go8Hのご・一員】・ロ薑)」であるであった。その理由は、私自身も水平社(⑫員冨時盲)の存在べき、つまり「指令・命令による革命(属白目・日8吋のぐ・旨「は知っていたし、戸籍簿の公開は離洛出身者に対する差別にっは目葛)」であってはならない、と考えていた。ながるからである。しかし国会で非公開原則が、公開原則へと覆されたのは全く⑦日本側の民法・戸籍法改正関係者との面識記憶にない。W日本側の民法・戸籍法改正関係者、我妻[榮]、川島[武一般原則(b1.9℃]の)として、〔法案提出前に、法案に対し宜]、牧野[英二などには、面識があったか?・て]GHQが何を言っても、国会にあとは任せた(やりたいよ(皿)K私は我妻も、川脇も個人的には全く知らない.牧野は私のうにやらせた)ので、[法案の内容をlこの場合具体的にオフィスに来たことがあると思うが、私が美濃部[達吉]を牧は戸籍簿の非公開原則を]覆すのは当然可能だった。覆ってま野と勘違いして覚えているかもしれない。(なお、高木[八尺た公開原則に戻ったのは残念(8.9口)ではあるが。であろう]教授と長いこと話をしたことはある。)②三世代戸籍徹底排除の方針・戸籍の個人別編製について(畑〉三一P籍法改正についてW一九四六年七’九月の段階での、日本側の法改正関係者に①戸籍簿公開原則の是非についてよる三世代以上の戸籍を(例外はあるが)原則的に排除する刀W戸籍簿公開原則が司法省とGHQ民政局との間の会談で削針の成立に際しては、GHQは何も意見・指示などはしなかつ除され、非公開が原則とされてのち、参議院で公開原則が全面たのか?その後、翌四七年八’九月にGHQの強い意向の下(記)的に復活している(その後衆議院でも復活が議決、成立)が、に、三世代一P籍徹底排除の方針が確立しているが、それについこの公開原則復活の過程で、民政局は何か日本側から聞いていて何か記憶にないか?また、同四七年一○月の司法省とGH
元GHQ民政局次長故c・L・ケイディス氏へのインタビュー(’九九三年)(和田)一四一
③法改正のGⅢQ側の手続についてW日本側の当時の戸繍法改正の担当者が、GⅡQ民政局は戸蜥法案を「ワシントンに送って、ワシントンの了解もとらな(別)きゃいかんのだぞと」『葛った、と回航しているが、本当にそうした手続が必要だったのか?Kありえない。一般的に、川本の法改正案について一々アメリカ水囚から了承を取ることなど、全く必泌なかった。戸獅法のみ例外的にワシントンに問い合わせ、他の法案についてはⅢ
い合わせないということもありえない。(錨)こうした手続の例外は殆どない。例えば、一九四六年三’四(鉛)月の選挙について、ロシアが占傾した四局の問題があった。[民政局の]リゾー[司日口穴囚蔑。〕が、ワシントンDCに電報(8亘○)を送るべく下桝を惑いた・これはマッカーサーの名で書かれ、国務省(の日(の、8口耳目の日)の]。】日○三。{宛だったと思う。その下書が私のところに回されてきた。私はリゾーに対し、この下書の承認・電報発信を拒否した。問題自体は函 法学志林第九十四巻第二号
Qの会談では、本来は完全に個人別編製のいわば「カード式」戸籍の実現がGHQの強い意向だったようにも見受けられた(卿)が?K[三点につきいずれも〕覚えていない。
四「家」制度と天皇制の連関に関するGHC内部の理解に
ついてW戦後直後の日本の議会でも、天皇制と「家」制度が国体の(訂)二つの柱である、といった論調が少なからず見られた。その一万で、GⅡQの内部文替を含む史料を凡ても、民法・戸締法上の「家」改廃に際して、氏政局には「家」制度と天皇制の巡閲の認識が極めて希薄だったと見受けられるが、そうだったの
か? ④その他1回繍法W民法・戸籍法改正について、他に特に覚えていることはないか?K特にない。[瓜法はともかく、戸脇法に間接的に関わる話として]以下の話なら覚えている。Ⅲ本人の提案で、淑法に、Ⅱ水囚聯については法で決める旨規定した[第一○条]が、この提案についても私は〔Ⅲ水川の方針を蝉晒し]異議なし(ロ○○口の、酋○。)であった。 一四二
要事項であったが、結局電報は出さず、GHQの我々だけで決めたのである。我々はGHQで、このくらい頭要なことでも自分たちのみで決めていたのだ。
K時期は正確に記憶しないが占領の早い時期、恵法草案を書んだが、フジイの水の考え方は、それにかなり類似した考え方(閑)いた後、しかし[民法含む]諸法を作る[改正する]一別の時期だった。美しい装丁の本だったが。〈Tでも私は自宅にあの本をだが、フジイという題法学者が、日本の遜法に関する、分厚い持っている。(的)大きな英誠叩の日粋を私に献口王してくれた。GⅡQの私のオフィ日本の[旧来の]国体が終隠したかどうかについては、金森スまでフジイが来たかどうかまでは覚えていないが、有斐閣か国務大臣が脚会で議論していたのだが、彼はこの点暖昧にしたどこか、高名な出版社刊行の本で、直筆で「ケイディス大佐へままだった。彼の図会での議論は、英語の官報で逐一私も読んlこの本を楽しんで読まれますように(㈲。o・貝鰹:1胃でいた。(英諮の官報は;C〔総來委員会]にも送られていず○℃の】・巨君・巳口の巳・望円の且】ロ【三⑫。)」といったような文言のた。)金森は「[旧来の]国体は新憲法でも維持される」と言献辞を書いてくれた。天皇制と「家」制度の連関についても言うので、私はFECがこれを読んだら何と言い出すか心配で及のある本であった。私はこれを通して読んで、それからオブあった。そこで、私は金森と会っ[て、彼の発言を問題視して(帥×印〉ラーを含め、当時の民政局の色々な人に回覧した。(オプラーいる】口伝え]た。には確かに貸した。彼以外の誠に貸したかは明確には覚えていこうしたコンテクストで、天皇制と「家」制度の関係の問題ない。)彼らが本当に読んだかどうかは分からないが、貸したは、私は知っていた。日本人の間では、天皇制と「家」制度ののは確かである。従って、私は〔日本人の意識における]天皇関係につき、大議論が行われていたし、そのことも知っていた。制と「家」制度の結合(8ヨワヨ農○コ)はよく知っていた。ましかし、GHQではそうした大議論はなかった。この関係は、た、民政局でこの木を読んだ者は少なくとも、この結合には慣オプラーにとっては自分の担当問題であったから、彼は当然閉れ親しんでいた([ロ且一同同)はずである。この本は余り学問的心があり、これについて発言したこともあるかもしれない。Gな本(円ロ・一周ごdo・【)ではなかった。美漉部[達吉]、牧野ⅡQ内で天馳制と「家」制度の関係を、以上のような「四体」[英二、ササキ[佐々木惣一であろう〕ならばああいった本はに絡んだコンテクストで議論したこともあったかもしれないが、轡かないだろう。氏政局ではフジイのことを「天皇崇拝者メモランダムでそうした記録を見たことはない。(向日ロの吋○nコ・厨冨ロロ円)」と呼んでいた。私は武士道の本も読比政局のメモランダムで、天皇制・国体に関するもので、一
元OHQ民政局次長故C・L・ケイディス氏へのインタビュー二九九三年×和川)一四三
法筆志休第九十四巻第二号
っだけ私が思い出せるのは、簡沢[俊義]教授からオプラーに宛てた評簡についてのものだ。諜耐は、「我々はN体について、心配している(言。、くの三○『ュの。§・貝ぎぎ目・)」という内容であったが、これに対し、「国体について心配する必要はない。なぜなら、川本がポツダム直言を受諾したときに、旧体はもう終鴻をみたのだから。」という内容で、メモランダムを残して(舵)いる。
(1)当時大佐(○・]○コの])。課艮は勺ロワニ、シ日日ロ】⑫[3斤』。pローぐ国。□Oご・[で一九W大作二Ⅱ-八Ⅱ、次腿は胃旨□直q○亘の[・[sのmの2.口で一九四六年几Ⅱl四八年の期側である。(2)この条文は、起噸過腿で数肛条文の耐ザが変化しているが、木脇では他流上、新忠雄の条文冊リ「二N」条として前及する。(3)同テーマの研究の詳細は近々発表の予定であるが、さしあたり、本紀録のインタビュー内容も蹄まえてその後発表した、以下の何テーマの川脇二柵を全般的に参川。寓言三六・三“8...司迂の]目目のいの句口日身匠肴幻の{・『ョ81口、[ロの己。⑫ごP『○85呂○貝三口⑩岳の.国。P⑫の》(愚)シワ○房ロ8勺..の□、弓函回冨、くろ・ご局PR恩巨貸恩&已忍』§§(貢甸R‐計駁苅図8月苫(ごヨミ』§§②Ca・』。□&行g・苛苛ヨロミヨ’。』②CqCS風8(』園。。§ごHざごの風②円蔦ヨミ周辱循堕穴 一四四
の巳【の。q」:§C・ヨョ旨・の【。【sの幻○のい⑪⑰.】9m〔全巻の皿し画満弓はないが、仙稿限りでのg・芦-局の□悉号あり](右の論旨をやはり英文で詳述したものが近々屑§苛冒旨菖・『。]・圏に掲載予定)、及び「戦後占領期の民法・戸繍法政脈l「家』の礎止とその限界」『法社会学」鋪四八咄(一九九六年三Ⅱ)、二○九’二一川Ⅱ。(4)そのためにも、水隅の注の英文文献引川も、法学者が川いる」&蔓可司の湯§罰aQB斡目(いわゆる・ず」月頁5冠)には従っていない。なお、飛呑の効扮する法政大挙法学部の仙艸体1郎枚役には、本概執派巾に数度に亙り砒肛なご示唆を賜った。磁謝巾し上げる。(5)インタビューの概会を与えて下さった方々、殊に川Ⅱ二六Ⅲについて樋口剛一教授、瓦Ⅱ大川については利谷偏義敬授に、この側をかりて畷謝巾し上げたい。また、ケイディス氏.シ⑪夕Ⅱゴードンさん(次注参照)をこの時に川珊され、歌者のインタビューにも協力的であられた鈴木剛典氏にもお礼巾し上げる。(6)同人の激法改旺への関与、その他につき、詳細はシロタⅡゴードンノ平岡(後注9②)を見よ。本稿ではフルネーム表記をしない場合、一九四六年時の同人を「シロタ」、結婚後(主に一九九三年時以後)の同人を「シロタⅡゴードン」と表記する。また、飛行はシロタⅡゴードンにも、ケイディスと同時期の一九九三年四Ⅱ二六川(ケイディスと同じ機
会)、二九日(私的懇談会)、五月四日(公開講滅会)、五Ⅱチャールズ.L・ケーディスワマ、但し以下では便宜上(筆者による電話インタビュー)に、同じテーマでインタ「ケイディス」箸として引用する]、竹前栄治・岡部史信訳ビューを行っており、殊に後注9②の文献中にない内容は、「日本国憲法制定におけるアメリカの役割(上)(下と「法律早期に公表したいと考えている。(本稿の注に必要な範囲で時報」六五巻六号(一九九三年五月)二七-三九頁、同巻七簡単に言及はしておいた。)号(同年六月)一三’二○頁。)(7)この日の研究会は、後掲「ベァテの日本国憲法中」(後②ベァテ・シロタ・ゴードンによる6の注9②)に価単に言及がある。*ベアテ・シロタ・ゴードン「私はこうして女性の権利条項(8)いうまでもなく、この極のインタビュー及びその記録のを起草した」(インタピューベァテ・シロタ・ゴードン愈義は、当酬宥(水記録ではケイディス)の記憶の正確さや側き手枇川啓子)『世界』一九九三年六Ⅱ号(第五八三号)それによる「窓楓的」馴火の把握(はあるにせよそれのみ)[以下、シロタⅡゴードンノ臓川、として引川]六一’七○にではなく、当時の経緯の当事背による班解、及び「皿解」画、特に六五-七○頁。としてインタビュー時に提示されるものにある。従って本記*「ベァテの日本国恵法上・中・下」(順に、朝日新聞一録の内容も、関連文献と併せて批判的検討が必要となるが、九九三年四月二六Ⅱ夕刊一○面、同Ⅱ二七冊夕刊一○面、同本稿では最低限を注にて述べるにとどめ、詳細は拙稿・別稿月二八日夕刊一四面)[主としてこの時来日中であったシロ(注3参照)に譲ることとしたい。(なお、後注妬、皿も参照。)夕Ⅱゴードンヘのインタビューに基づいた記事であろう](9)本項日につき、本稿との関連で、GⅢQの直接関係者に*ベァテ・シロタ・ゴードン箸、平岡膳紀子構成・文『lよるもの及び彼らへのインタビューに基づくものとして、特945年のクリスマス日本国憲法に「男女平等」を書いたに近時(概ね一九九三年以後)発表された次の文献のみを指女性の自伝』柏響房、一九九近年[以下、シロタⅡゴードン摘しておきたい。/平岡、として引川]、「VⅡ本国迩法に『男女平等」を轡①ケイディスによる6のく」(一二八’二一九画)。但し、同梯は史料としては粁干側*og1の⑰伊・尻且の⑰.鰻閂ロのショの風8口”o」の】口幻のく国目題がある。同掛巻頭のシロタⅡゴードンの「謝辞」(画瀞号〕ロロ:.、冒図臥巳○・国⑳口E口・ロ...Ⅳ冒日』②a§89日且;なし)、及び三一三’三一四頁の平岡氏の記述にあるとおり、②.ご・].S一・Z。.、.⑪ロョョの『]圏Pロロ・巴⑫IR『。(和訳が、同書は、シロタⅡゴードン吹き込みのテープを平岡氏が書き 元GHQ民政局次長故C・L・ケイディス氏へのインタビュー(一九九三年×和川)一四五
法学志林第九十四巻第二号 起こし、それをシロタⅡゴードンに読み間かせ訂正させたものである。そのプロセスで誤謬は免れなかったであろうか?一例を挙げれば、筆者によるインタビューでは、シロタⅡゴードンは、〈私は、二四条などの起草時に明治民法ないしその関連文献は全く参照しておらず、仮にも参照した関係者がいたとすれば人権の章の起草を共に担当したQぐ澤田普厨○・日旨の①のワイルズ(四・回・ゴ旨のの)であろう〉と言明している。さらに筆者は、「読んだことはないので、読みたい」というシロタⅡゴードンに乞われて、明治民法の英訳を送っている二九九三年)。ところが、シロタⅡゴードンノ平岡は一五六頁で、当時のシロタが「分〃い民法にも目を通した。〔……]辞繊と大桁剛を減じつつ、女性の樅利の条項は繰り返し読んだ。[……改行……]Ⅲ民法[いわゆる「明治民法」を指す]の第一四条には〈〔……条文原文略・…・・]〉とあって、妻は準禁治藤者と同じ扱いを受けている。」とある。兼者の妃憂に過ぎないことを瓢むが、シロタⅡゴードンの聯後調査と、新憲法起草当時のシロタの知識や作業が混同されてはいないだろうか?(なお、後注加も参照。)*関口千恵「特別インタビュー憲法の男女平等条項を起草したベァテ・シロタ・ゴードン氏」「法学セミナー」五○一号二九九六年九月)一○八’一○九頁も全般的に参照。(校正中に接したため、本稿には十分に引用できていないが、後注加参照。) 一四六
③ケイディス、シロタⅡゴードンを含むGⅢQ関係者へのインタビューを基にしたもの*鈴木昭典『日本国憲法を生んだ密室の九日間一創元社、一九九五年。同書にもしかし、史料的に問題が散見される。一例としては、同書四五頁が「エラマンメモのオリジナル」として褐戦する、「ハッシー文書」の頁悉号「旧lCl2l5」及び同末尾番号「6」「7」「8」の写真、伺曹六五頁の「三種類のエラマン・メモ」のうち「[…]手書きの内容」とされる「⑱ICl2l5」及び同末足番畷「6」の写真はすべて、アッシー文掛」の原典マイクロフィルム版S肩②Q胃忌引・ロ日剣の2q○m冒○鳥目の:ご日の口:q・シい}:回す日q・】@コ(旨9。〔】』日)釦以下この版を「ハッシー文瞥」として川川)を卿検討しても明らかにハッシー(ど(『且幻・胃協の]・」『・)の飛跡と見られ、エラマン(冒旨国一円目目)の飛跡ではない。(ハシシ1文譜の縦理・引川刀法は詳述しないが、例として旧lcl2の様に数字IアルファベットI数字までで一つの文齊を表し、この後更に数字が付く場合は、同一文書中の頁数を表す。)同「メモ」は、村川一郎・初谷良彦『Ⅲ本国憲法制定秘史ICⅡQ秘籍作業「エラマン・ノート開封」』第一法規、’九九四年により既に、ヨラマン・ノート」として全部の写真が八九’一六二頁に掲載(その全文和訳が二二’八八頁に紹介)されている。同書掲載のエラマンの筆跡と、鈴木、同前に掲載の筆跡との差異は
明らかである。(エラマンによる「メモ」の詳細は、さしあシロタ起蕊条項の削除の確認は’二二二’二二ⅢⅡ。右刊のたり右の村川・初谷を参照。)-}》○N’二○七口の褥識録の元となるメモは、ハッシー又(Ⅵ)この経緯は、GⅡQ内部又符にある。言の⑫三目8口罰口‐街(注9③)脚lCl4l四から同I別まで及び同1個、同はOB]幻の8ao8旨『・0国Cヘの○シで幻C8a醜(幻の8日l兜[ホイットニーのいわば〈餌の一両〉で決満した胃]にo85圏〕)[宵『C}:「【の『隆二Z幻○(川本の国会例打航作成兄られる。これは、近時さらに村川・初谷、前掲(注9③)のマイクロフィッシュ版、以下層のロ用【託○・Jはフィッシュ耐に、Mに一三六’一三九、一N八、一K三頁に阿録、またそ暇)]・囚〉〆zo・岸遣い・句・巨円目のへ:日冨同(瞳)勺『の鹿目‐の和訳〔部分的には疑問なしとしない]が六七’七○、七六:qooぐのヨョの。[の①8。。Q)。『の『の。8⑩○.可8口3回○口l七七、八一’八二、に、災にそれを「解説を加えて文嗽。『口呉[ロ。。の庁冒[一○口・可の]ロ切目○m[い】。]可のヶ2回q乞念.化」(一六三口)したものが、一九四、二○○-二○一頁命両○m向弓冨のg・『:目曰「R幻③8a.:一日』mDo8日房『[右の〈餌の一流〉に言及がないのはやや不十分か]にある。乞合[②局]・の:]⑦C〔、(シ)勺而呂目目昌○○くC9日目戸mc8op同経緯につき、シロタⅡゴードンノ平岡(注9②)一七四○○口【①円のp8い。p印8口日〔一目・{C『鼻○・コ昌庁目○口・すの]口’一八六頁も参照。同書[特に一一○四-一一○五頁]にはないup且①[如一O]句82色『『ごa3の8・目的の:ヨワの『8局。詳細な経緯として、筆者のシロタⅡゴードンヘのインク②可の円Z○・局1画食囹。(見出しにも拘わらず、ここには二月ビューに拠り、以下述べておく。ケイディス自身が削除すべ七Ⅲ以後の記録もあり、□觜の局は七・八日の記録)。このき醐川として、こうした内汽は懸法に規定すべきものではな川の繩紳の詳細は、既に商抑斑三/大友一郎/川巾英夫編將く、後で民法に規定させればよい、と繰り返し主眼したため、『Ⅲ水川懸法制定の過膿I迎合川総司令部側の記録によるI改雌を確災にするため民法よりも間位の懸法に脱腿しておく-.Ⅱ』(Iが「脱文と馴訳」、Ⅱが「解説」)、斐川、一九べきと瀞えていたシロタも、上司のこの愈几には綱歩せざる七二年[いわゆる「ラウェル文杏」の細介]によりおおむねを得ず、シロタ起賊の、ハッシー文掛(派9③)別1012判明している。(稀談の経過は’二○四-二○七頁〔水性別-7から同18の「川」唖(非嫡出子の鑑別廃止)、「m」項頭のGⅡQ文掛は、ラウェル文習の打掛のこの箇所の酢き込(養子の扱い、長子柑統廃止)は削除された、という(各条み通り訂正されたと見られる文僻]、「第二次試案」全体及び項の詳細は、大丸秀雄監修『川本N趨法制定の経紳--迎合その解説は’二一六-二一一一五口、就中現行二四条の脈狐と、囚総司令部の逝法文併による‐-L第一法規、一九八几年
元CⅡQ民政周次反故C・し・ケイディス氏へのインタビュー(一九几三年×和Ⅲ)一四七
法学志林第九十Ⅳ巻第二号
[ハッシー文書の部分的紹介・和訳・解説]一二四、一二六頁にも再録)。なお、シロタⅡゴードンノ平岡(注9②)一七三頁〔股終行]、一七八頁〔岐終行]、一八四’一八五頁によれば、二月八川の審議にシロタが全時間粥同席したかのような印象を得るが、筆者によるインタビューでシロタⅡゴードンは、コホイットニー不在の)ケイディスとの会議に二回のみ出席した。一時間程度であろうか」と述べている。(Ⅲ)水坑日中、二四条案の瀞議の際の同席者など一見些末に思える点も、審議の状況の再構成のため、殊に案を了承した日本側が果たして誰だったのか、加えて日本側からの更なる対案提出などはなかったのか、等を確定するためには、看過できない。(旧)四Ⅲ夜半から血川にかけての交渉の川席背は、佐藤遠火務・佐藤功補訂『川本阿懲法成立史第三巻」、斐側、一九九四年(初出は『ジュリスト」一九五五年’五六年)に拠れば、松本〔蒸治]大臣、佐藤達夫自身、白洲次郎に加え、外務省の嘱託、長谷川元吉・小畑薫良(「両氏は外務省での翻訳のベテランとして紹介された」)(以上一○五頁)、更に午後八時半過ぎに来た、岩愈規火謝記官二○七頁)であり、GⅢQ側は、通訳は「大体」シロタで、「白洲氏にもときどき発言をたのんだ」(二○頁)という。(シロターゴードンノ平岡(注9②)二一二頁、鈴木、前掲(注9③)一一一○九頁は四 一四八
日午前の会議のメンバーのみ掲げるが、前者一二二、二一七頁に拠れば、ジョゼフ・ゴードンロ。⑫SpoCa8)巾‐肘はこの夜の会議から翌川遅くまで川席。)(旧)出の『⑪す『は、宛○斤耐瓜ロゴ「四日口回○句日ロ【」(温のロゴの盲』日:(史]の。).d馬込芦§C3sB3ヨミ冑も§』墳中-尾岡恥§§認・旨穂&囚冨(侭烈sごく尋伺②5劃ト・菖固層紺豈冒符乱口時・ショの18口ロ耳目・『シいい。。国は○口○三8mP】&《[句8『ご【の□ず『菖汀○口『○のゴ○○の貝の『・曰○百○・$g]の巻末のGⅡQスタッフのご烏Hに●も記峨がなく、[園(ロ自国の及び綴り未確認・不明(国の別ロ]の綴りはケイディスに拠る)。シロタⅡゴードンヘの談著によるインタビューに拠れば、GⅢQ側の在席者は、二四条の審議時、このほかにも民政局の通訳として、へ1スコヴィッッロ国の副六○三]口]、そのほか二、一一一人日系二世がいた。交泌総果については、佐瀧、前掲(注皿)一二二瓦参照。(側し伺漕同画川にも、シロタⅡゴードンノ平岡(注9②)二一五’二一六頁、鈴木、前掲(注9③)三一一’三一二頁にも、この時の在席者のリストは、GⅡQ側・日本側を問わず、無い。)(M)司旨のいの名は「ワイルヅ」と表記すべきかもしれないが、他の多くの和文文献の表記に従った。他力ぺ勾只輿の名前は、和文文献では多く「ロウスト」と記戟されている。シロタⅡゴードンノ平岡(注9②)、鈴木(注9③)、ウィリァムズ和訳書(後注卯)など。しかし、ケイディス、シロタⅡ
ゴードン双方への飛行のインタビューに拠れば、GⅢQ内でイディスは本圃文中の文一百と、シロタⅡゴードンの記憶と、いは「ルースト」と発音されていたので、本稿ではこれに従う。ずれが正しいかはっきりと記憶にはないものの、前者であっシロタⅡゴードンノ横田(注9②)、前掲「ベァテの日本国たと思う、とのことである。憲法上・中・下」(同性9②)も「ルースト」と表記。(肥)ケイディスに拠れば、または.、○戸目】[【・『言一段(旧)多分これが注屹の小畑(おばた?)であろうか。また、の埒○区。であったかもしれない、とのこと。シロタⅡゴードンヘの飛背によるインタビューに拠れば、(川)荻者によるシ回夕Ⅱゴードンヘのインタビューに拠れば、「この条項の交渉の時に征胴していたⅢ本川は通訳を含めて「私はこの日の交渉には、純粋に通訳として在顎・同附して三名で、佐麟はⅢ迎いなくいた。他の人の渦は此えていない。いたので、ケイディスがこの一訂を一司ったときに、Ⅱ水仙は、洲が在席していたかどうかはわからない(白洲は全般的に、私がこの条頂の錨‐案を出いたことは全く知らなかった。しか部屋に出たり入ったりしていた)。」佐藤、前掲(注⑫)一二し、私は、川本側の通訳を手伝っていて、その仕耶ぶりに二頁の記録からしても、佐藤梁千人は在席していたと思われる。よって川本側によく思われていた。ケイディスはその様子も(なお、他の文献に関し、注咀、注旧も参照。)知っていたし、そのために彼のこの一言が効果があったので(肥)三P8.忽s目。。【の四・℃.《・【○○曰。[C]]には§曰互い晩○cmあろう。つまり、この二四条の検討で雰囲気が緊張した際に、8且]『②恩ごめ[[。の」::囚冷汀厨BqgQい:CQ.(ワ朋巴ケィディスが私の仕耶ぶりを引き〈Ⅱいに出し、〈あなた方の8【且凧、君・a曰己、の8臣円は。□)‐としていたが、インクためにこんなによく皿訳の仕馴をしてくれているシU夕ざんピューの飛行の下叫きメモの祁皮の検訓の結果、ケイディスが、この条軌に人きなⅢいを込めているのだから、皿してやも本紀鍬の文言の刀が正確としていたので、こちらを採る。れぱいいじゃないですか〉という趣斤を伝えることにより、(Ⅳ)瓠者によるインタビューに拠れば、シロタⅡゴードンは、その場の函溢扱を解いて(:日日の一〔』蒟冨..)日本側を川愈さ「この時、ケイディスが私を指して.菖爾の-8[凹日の汀の『せた。ケイディスの心理作戦が実にうまく功を奏したと思可困耳のの〔。。-戸三コ]。。。.芹弓の日の⑫一$薑と言ったところ、う。」ということである。(鈴木、前掲(注9③)一一一一一’一一一Ⅲ本側はこの条項を受け入れた。この第一の文の文一言は明白一二頁、及びシロタⅡゴードンノ平岡(注9②)二一六頁、に記憶している。(その意味は私自身の剛解では、;の面の厨の〆‐双刀の彼女の回顧も、次注で述べる点以外はほぼ同趣』副)月、§洞ヨロn画(日日一F.・である。)」と言明する。他附ペケまたインタビューでは、ケイディス、身もシu夕Ⅱゴードン
元OⅡQ民政川次及故C・し・ケイディス氏へのインタビュー(一几几三年)(和川)一川九
法竺志林第九十四巻第二号 のこうした理解に反論を唱えていない。佐藤も「私の通訳は、大体ミス・シロタという司令部側の若い婦人がやってくれた。[……]このシロタ嬢で十分であった。この人は[…・・・]日本語もよくわかるし、頭も鋭敏で私の意のあるところは、そのままに伝えてくれたと思っている。」と述べており、彼女の仕事ぶりへの評価を裏付けしている(佐藤、前掲(注⑫)二○頁)。(卯)注9②③に挙げた文献の検討(の一例下--注9②後半も参照)を、シロタが二四条の起草者である旨をケーディスは日本側に話してはいない点について、簡単に行っておく。シロタⅡゴードンノ横田(注9②)六八頁下段、前掲「ベアテの日本国憲法中」(注9②)、シロタⅡゴードンノ平岡(注9②)二一六頁、鈴木、一剛燭(注9③)三一一頁はいずれも、シロタが本条項の起草者、とケイディスが説明したとしている。しかし筆者によるインタビューでは、シロタⅡゴードン、ケイディスとも、〈シロタが本条項の起草者である旨を、日本側はこの時もその後も知らないままであった〉旨を言明している(②R言且P圏も日口○斤の②.b,←・命○・日・肩巨)。右の四文献の直接の執筆者が、シロタの(事実以上の?)多大な功績への愉僚をこのコンテクストに読み込んでいるとも必ずしも思われないが、この点の疑問は残る。(仮に〈シロタが起草者である旨をケイディスが説明したからこそ、日本側がこの条項に同意した〉としても、それにより必ずしもシロタ ’五○
の功績の多寡が論じられるわけでもない。)関口、前掲(注9②)一○九頁は、本注、を付したケイディスの発言を裏付けるかと思われる。(別)起草者は特定できないこの。草案」について、詳しくは拙稿アッシー文書に見る日本国憲法の一草案’一九四六年三月六日と四月八日の間I(上)(下)」『ジュリスト』順に一○五八号(一九九四年一二月一五n号)四六’五四頁、’○六○号(一九九五年二月一日号)八一’八七頁、に譲る。但し、本記録のインタビュー時には、右拙稿の内容の一部は未調査であったため、この.草案」全文及びそれに関するハッシーによる「メモランダム」とをケイディス氏に見せることはできなかった。その後も同草案の起草者や出自について同氏にコメントを求めることを一日延ばしとし、永久にその機会を失ってしまった。断腸の思いである。(犯)mP8p]・恩②貝倉曰彦の勺○言】o②。【司○日のロ.②四mご豚...”○ずのH局・ヨ、a口且鴇。⑫嵐百目の禺肖・庁。(のQの。)も§g‐日鳥獣、胃、§卵白訂』愚図○86貝§・ロ曰くの風q・帛國⑤葛農勺同の脇・四目・]巳巨・巳貫ごロ・眉」1m目・ののロ・目・厨』l回呂(同論文の批判、和訳など詳細は拙稿、前掲(注別)「上」八三頁、及び関連注加)に拠り、読み上げてケイディスに直接意見を聞くことのできた二つの条文は次の通り[拙訳]・現行一四条一項相当条項は、主文の一部、「およそ自然人は法の下に平等であって[・・・]差別を受けることはない」
は原案通りだが、「但し、肉体的、梢神的能力及び社会的授へのインタビューに拠る。川脇教授の校閲を(金剛的にで[に果たす]機能の兼異が適正に弧画されなければならなはないが)受けた文瀬を引川しておくと、「アメリカ側はⅢい。」という但冴が追加。更に現行二川条に代替する「二丘本の家制度のこと、民法のこと、学界の状況など総て調べて条」は「[①項]国は、社会の第一次単位として、社会秩序知っておりました。その後知られるようになったとおり、占の必緬の腿綴として、また川の福祉に不可欠なものとして、航政策のために、わざわざ研究機関を作っていたのですね。家族の柵成と権威を保識することを保障する。〔②項〕峨姻『菊と刀』のルース・ベネディクトなどもそのメンバーだっは両配偶打の日川な合意に腋づく。配偶行の選択、川廠椛、た訳です。[……〕そうした研究を元に、民主化政簸の爪班柵統、化届の選択、雛鰯北びに蛾期に側するその他の耶項に壮一風として「家制庇廃止」はとっくにGⅢQの方針として側しては、蛎期の制度を擁護するよう、また個人の岬厳と両決まっていたようです。」性の水面的平等を保障するよう、法によって規制されなけれ元)「はじめに」で述べたとおり、占航政簸の全体像の解明ばならない。[③項]家族内での婦人の生活によって婦人は、は全く意図していない。ここではこの後すぐケイディスが名それなしには公益が達成されることのできない支援を国に与を挙げる、彼の信頼する部下で日本の法制改革を主導したオえるが故に、国は、母親が経済的必要によって労働に従事すプラーが述べているオプラー自身の理解を指摘のみしておきることを強いられ家族内での母親の義務を怠るに至ることがたい。オプラーを来京の凪政局に配属するにあたって、オブないよう、努めねばならない。」となっている。出典などのラーの日本に関する無知を本国陸軍省の人馴狐当の大佐が誹川は、仙稿、前川(性別)特に「下」の川八、参肌。「かまわない」としたこと、そして「川本の過去や伝統に柵(鯛)翌口則・臼..□・厨].なお、この点への批判につき、本紀通し、えてしてそれを愛好する川木皿は、内在的に保守的」録のケイディスの発言に加え、拙稿、前側(性別)「上」八なので占航当川の改革に不適、というのが〔一九W六年頃三画、「下」五○-Ⅱ一口参照。の〕占倣政策上の方針であった、というのがそれである(別)ケイディスに対するのと同撤の方法で本条項についてイ(シ](『の。○・○℃ロ・『卜凋口勗&ご司苛Cn2亘日百日葛塵囚下ソタビューしたシロタⅡゴードンも、覚えていない、とのこ蔦銚目貫ト8F口目万・勺1コ88口ロ日『の例一目勺、の脇・㈲臥口8‐とであった。8コ・Zの三」の別の]・]@『の.□ロ・局1局・[引川は仙訳]和訓慨は(妬)縦折による一九九一年ⅡⅡ二二Ⅱ・六Ⅱ二二Ⅲの川脇敬アルフレッドⅡオプラー、内職頼博監訓『川本占伽と法制改
元GⅢQ比政川次反故C,L・ケイディス氏へのインタビュー二九九三年×和川)一八一
法学志林第九十四巻第二恐 砿lCⅡQ担当打の回噸』川本評論社、一九九○年、一○画)。(〃)なぜラウェルにあり御て、他の荷にはあり得ないか、についてケイディスの言及はなかった。(羽)爪粋幻PS国の口の。】○戸曰鳶g:§335。且骨のg○Aは一九円六年公刊であるが、公刊川までは不明○従って、脚法制定作難には川に合わなかったとしても、一九四七年の民法・戸箙法改正作業時には閲読は可能であったろう(にも拘わらず民政局内で読まれていなかったとすれば、そのこと自体が興味深い)。(”)桑郁彦のことであろうと思われるが、業の占恢史の主普である大蔵省財政史室編(本巻は秦郁彦著)『昭和財政史l終戦から講和までl鋪3巻アメリカの対日占繊政筑』東洋経済新報社、一九七六年には、ケイディスヘのインタビュー・『菊と刀』、いずれにも(行凡の限り)試及はない。(釦)「Ⅲ人川身」か稗かは個別には微妙な折もあるが、ここでは各人の経雌の緋細は、]pの【ヨョヨーー同日の・の『:荷日斡吋印Y鳶§幻8・旨愚§s旦珂員月煙きミ叱邑勾弓骨甘§牙』。‐8§『・ロロ】ぐの『⑭】q・命曰。ごo勺門の脇・己『④.□ロ・鴎-召(和訓はジャスティン・ウィリァムズ、巾雄Hほか訳『マッカーサーの政治改革』柳Ⅱ新附社、一九八九年、五○-一N九頁)、に全而的に譲る。(シロタⅡゴードンノ平岡(注9②) 一五二
一一一一六-一ⅢHnも、同一一一一六、に拠れば、ゴ杵周回日⑫.s蔵・に依ったと惟測される。)(帥)詳しくは、○℃□]q・固巳日口・【の息・ロ・巴印和訳はオプラー前掲(妬注)一,’一六頁にある。本文巾この倣後の「自祥」も本土回である。(犯)詞兆爪司令趣叩がペンタゴンに対して、大陸法、もし可能ならドイツ法の法務経験のある人材を典謝した」とあるが、ケィディスの名は確かに川てこない(宜・・ロ・国・[咄川祇]和訓汁は同前K一○口であるが、.。月日:)P臥日、巳の墳届1-88..を「ドイツの栽判経験のある人物」と解する必要は必ずしもなかろう)。なお、国・・ワニ(和訳同前、九頁)に拠っても、「要請」時期の詳細は不明だが、当然ながら一九四五年八月l翌年一月上旬の間となろう。(羽)ここでケイディスは、このインタビューの際に同席していたシロタⅡゴードンに「あったか?」とⅢくが、シ⑪夕Ⅱゴードンは「私は民法・一県鮒法改正には一切関わっていないので、知らない」との応えであった。シu夕は、一九川六年几Ⅱ以後(同年一一Ⅱまで)、同じ比政局のF1街38日q四目祠・再威、巴ロaい】○コに配風されている。②円司騨aBaの百一ョ目・罰s日ロ。〔の己[巻末GⅡQスタッフ曰。の潟]・(狐)これは、後述のケイディスの発一高、「私は、民法’戸爾法改正はオプラーに一任していた」ことのコロラリーであろう。即ちケイディス脚身が欄樋吟的に是非を考血し、刀針を立
てていたわけではないので、不明瞭ば溶とならざるを御壮作災3家族法の脇本榊造』三川什川、一几八N年、一NⅢlかつ土ものと証考は考える。二○○口(こちらは原典の丁数と照合できる)。戸細波は、(調)川孝一『家族法特作選災節1巻戦後改疏と家族法l家.「現行戸獅法立法関係圃料Ⅲ」ヨ脚珊』凹肛八号(一九八二年氏・戸繍』日本評論社、一九九二年、五一頁(一九五七年の一二Ⅱ)三五’五五頁に再録がある。収孝一ノ竹下史郎共杵としての同論文初川時には奥野は胱名。(卵)その後の調査で、GⅡQ側には、会談と同時並行作成と災潴につき帆、同凹七八、参照)。この発訂は、「調代会宮川見られるメモと、耶後作成の会談を要約した比較的蝋い記録公布以前」(伺榔何画)、即ち一九川六年七Ⅱ二Ⅲ以前というを発凡した。(従って、ケィディスの〈一般論〉は概ね妥当ことは判明している(堀内節『家邪稀判制度の研究」中央大している。)学川版部、一九七○年、一○三ⅡH所引の「臨時法制調査会①民法に側する会談は、プレイクモァによる一九川七年のも官制」(川典は同七Ⅱ三日官報))。の(以下同)が多い。ⅡⅡ一二Mに側するメモ、ヨプヨ○(犯)その後の調査でも、このオプラー発言に該当する記録は輯oxZ。.]お←・司・一月『【三のへ目ヨワの司(犯)(の目)Qぐ】]未発見、未見であり、時期も特定はできない。(②cc弓且P○・口のlU5]一Cご》Z・ぐ・一の念I。[四。]・の可の①(z・・坤尻I目ご日ロ。(のいも。←.また、拙稿、後掲(後注⑬)も参照。)巨のs》六月四日に関する記録、三三幻pmC〆zC・』、g・(”)民法は、原典が、東京大学法学部附属近代日本法政史料句。一旦の『【Eのへ目日房日(←)op8po一○巳8』国の.房置『・倉『・センター原H料部所蔵の「我妻架関係文升」の分頗項目「氏】@slシ色的.ご負⑪。①の[Z。、炉の-閉9mスタイナー所引及法・瓜法改正.l・戦後民法改正商科(二)」にある、司法びロ)〆Z・・固◎《・同。]□の円[Eのへ目日房neQ色Q邑の(J)・大腿宵〃終戦述絡部作成「民法巾改正法休案に関する総司令]:。$sl嵩どちs・mpg(zRFのISB】1吋・←]目の部政沿部係憎との会談〃」である。その円蹄が以下三点あり、]@s菖○3.3コ目ョ『。「牙。○三の『・○の.のロ、]同○『汕幻のぐ}‐水稲でⅥ川する「民法巾改正法休業に側する総司令部政治部い】○口○mgの]:§の⑫のQ『】]OoQのエハⅡ一○川に関する(何係腐との会談録(一・二・三・髭)」「民事Ⅱ細』節三四巻一一Ⅲ付)記録、ヨヱ幻pmCxzp田9.句。]。q貝]のへ(順に)節三・円・五・六暇(一九七九年三・四・五・六Ⅱ)、目ョ月『卯(←)○胃。。。]◎ぬ『8]国】の.$負シR’し月・亀.及び堀内節『続家馴瀞判制度の研究』中央大学出版部、一九、可の①[Z・聰屈1画B①、.(及び思〆z・・扇◎《・句・]ロの『目のへ七六年、一○五六’一一○七頁、さらに、州正山「州正也將2日月『四(』)Q目、8の(い)・]目・己亀l冨口邑濃⑩.⑪ロ。。[
元GⅢQ凪政励次災故C・し・ケイディス氏へのインタビュー二九九三年×和川)一瓦三
法学志林第九十四巻第二号 zC・叩5-】9℃]にも同文慨)屋]目。】し合・菖の日・3.8日(○N房の幻の8aのロ巴、○円”幻のく国○コ。[]日ロ日。。⑬CQa』○○○の『・伊・囚具のョ。『のユハⅡ一四nに関する記録、ミヱ幻○国。×Z。.』←⑪一・句。一旦の『忌二のへコロヨワの『卯(孕む)(のゴロ)○口いの加ロ昌]○○口目8W-円・伊・国鳥のBonの.〕目の己SIDの8日o閂】①s・ロ呉の“]目のごsl尹月・】むち〔②この画のの斤潔RFml賎gP8国トン【ロ三○刀”』qロく]『K幻口勺○幻月辰島〕ロロの3.さらに同日に関するメモ、ヨヱ幻○口Cxzp】g《・可・]:Hは二のへ口巨Hロケの吋叩(』)o)く粋】。。。の(、)・〕仁口の戸①炉ヨーーご【凹豈骨①←Pのロ8【Z。咄Fm-]Cg]・瞳Z・【の⑪:。②ロ関の②唾。。の才◎曰バン,ヨシの閏冨少珈辰〕目。己酋エハⅡ一九’二○Ⅱに側するメモ、ニョヱ”pmoXzp]いつ一・句。-口の『【一二のへ。■ヨワの討亜(」)○コ『]○○口の(⑰)・]目の己sIご【且』や$・いぼのの〔zR伊のl」g巴・さらに一点のみ」8コ○○目の別による、しⅡ一Ⅲに側する(川七Ⅱ付)記録、弓巍勾○m。xz・・扇さ・可oER〔ECヘロロョワの、叩(『)三のgon口ロQPBmo【[ずの○豆の[。。の口○○床ごHooZ司已団ヱゴンr②。①の【zo・”5-四s⑪]・腹8コ段の口回巴劉(カウンターサインあhrIIIなお国oxZo・田9.句○江の門爲このヘ目日ヶの制(←)○耳opo-o値】8』国}の.ご合・シロ『.ごslシロm・]@台のご①の庁zo・僧のl砲の9mは同一文替だが、サインがなく、頁も抜けている)・『]ロー『ご合冨の日。3コ・ロョ命。【(ずの○三の〔・の⑭のロロ〕、o『“○○口〔qのpoのC固い】四⑰]傍画くの勺『。‐ぬ『回ヨロロロ而臥○回目ロ⑰[。【口昌⑭Sd①⑭Pワロ目耳のCs[ロの 一五四
口のけ〕の:。のCO。。の別・8月厨:。■b宮口ぐ】8P②戸鯖法はい円三目回・国も日ゴ・汀四・℃.】P{8s。〔の金・また、仙稿、後掲(後注⑩)も参照。(釦)「オップラー氏から『家をどうするか』ときかれたので『全面的に廃止する」というと、彼は「災は僕もそう思っている。これだけはゆずれない。[……]』といっていた。」(川船の発言、川、前側(注粥)五一、、川脇の災名につき七八頁)。なお、この収、同書同箇所に加え、一九七七年一○月二三日に独日に行った川鳥へのインタビューにも腋づくスタイナーは、オプラーが川脇の「家」全廃の主扱に川なしたと述べるが、これはオプラーの個人的意兇、との(川、Ⅲ刊同簡二川とは若干異なる)ニュアンスである。【口風⑪〔の曰の『・慶曰ロのoC8HpC口:QSの幻の〔。n日。[Sc]§目研のQ己Q江の・3幻・房風向・司臼aP且邑8汀涛目巨の四百日・8(且い)・ロ§:且時計頃」貝百ミヨ意』(博且o85Pミヨ・ロロ】ぐの『“ごo【国騨乏巳弓列厨⑭・国○口・EFら、『・ロロ・巴②-こむ.Pロ:』⑦.(。。,日。忘恩。(和訳はカート・スタイナー、川巾英夫訳「占傾と氏法典の改正」坂木義和/R・腿・ウォード編『Ⅲ水占剛の研癖筥志器凧大学川版会、一九八七年、川三○口水‐又、川五二Ⅱ沈加。)他力で、川脇武両『ある法学者の軌跡』汀斐川、一九七八年、二一二-二一三頁は、川島の「家族制度の廃止」の主張に対しオプラーが「〔……]88P3碩曰殖だ」と述べたというものの、オプラーの自身の愈几を明白には記し