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加 賀 藩 改 作 法 体 制 の 転 換

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(1)

加賀藩改作法体制の転換

小 松 和 生

目 次

はじめに

I

切高仕法の実施と藩財政の逼迫

日上層農民の土地集積と小農の階層分化 皿領主的米市場の確立と弛緩

W

惣百姓一授の展開

むすび

はじめに

改作法は逃散対策や給人救済︑全国市場の形成を契機として定免制実施による増徴を図ることに当面の目的がおか

れたが︑その究極的な目標とは領主による農民の単一的支配体制の確定にあり︑そのための年貢収納・換金体系の確

立にあった︒だが︑改作法の理念と現実とは︑当初からの借銀や御用銀への依存などに表れた藩財政の赤字や米の凶・

不作︑村落上層による改作法への抵抗などによって︑必ずしも一致するとは限らなかった︒また︑改作法実施過程の

‑ 1 ( 6 9 4 ) 一

(2)

砺波郡太田村の事例では二五石未満の高持が未だ皆無であり︑大高持をはじめとする各階層によって多くの下人が未

解放のままに支配されつづける段階にとどまっていた︒'しかし︑一六七

0

年代(寛文期)に至ると︑砺波郡内島組七

一ケ村の事例では二

Q

石未満層が村落の過半を占め︑その内には一石未満層を五パーセント弱含んだように下人層の

帳づけが進行するなど︑本百姓の一般的形態が中下層農民に急速に転換していった︒したがって︑経営維持と年貢完

納の責務がこれら零細農民たちにも至上義務となり︑その達成のための土地の質入︑在々からの奉公人の輩出︑さら

には改作法の理念から議離する永代売が早くも進行しはじめた︒土地と農民に対する改作法体制の確立は当初から矛

盾を苧んでいたのである︒

改作法体制を支える藩財政の確立は︑全国市場の形成と改作法の実施に対応して︑第一に他国米の入津規制︑第二

に御蔵の設置や給人の土地・農民からの切断に対応した御召米制度の措置︑領内三六ケ所の蔵宿の設置と米問屋の禁

止による蔵宿経営の安定保証︑第三に在町の設定による城下町金沢を中軸とした領内分業体系の再編︑第四に蔵宿

4

仲買

4

枇屋の小売米販売ル}トの確定や領内一

O

ケ所に米小売所の設置など︑まずは年貢換金体系の一環としての統

一的領内市場を整備することによって実現されうることであった︒それと同時に収納米の大坂廻米を実現し本格化す

ることこそが年貢換金体系と藩財政の確立にとっては至上課題であったが︑一七世紀初頭(元和期)の試行的段階か

ら一七世紀中期(明暦期)にかけて廻米体制の整備とともに廻米が急速に増加していった︒

こうした改作法体制と年貢収納体系の強行的な構築過程において︑当初は抵抗する村落上層などを排除・追放する

ことに成果をあげてはいたが︑改作法によって再編成された中下層を中心とする村落の惣百姓的エネルギーを背景と

した越訴闘争に対しては年貢減免など宥和政策の採用を不可避とせざるをえず︑その結果︑生産力発展の成果を増徴

によって収納しようとする改作法の意図を実現することは至難とならざるをえなかった︒逆に生産力発展の成果を確

保した上層農民たちと再生産不足の零細農とを両極とした村落におげる一層の階層分化によって質入・永代売などが

進行し︑改作法体制の転換ともいえる元禄切高仕法の前提が漸次形成されてくるのであるが︑本論では︑その改作法

体制の転換ともいうべきその進展過程を具体的に追究じでいぐ乙とに目的がおかれている︒

‑ 2 (693)

(3)

切高仕法の実施と藩財政の逼迫

一六九三(元禄一ニ)年一二月に布告された切高仕法(﹁御国一統ニ百姓中切高与申儀被仰渡候覚

L)

は全五項目の構

成からなり︑第一項年貢未納による田畑売却の百姓の取戻し権の否定︑第二項年貢納入・持高維持困難な百姓の

限界経営以上の持高売却

1

庁切高︒許可︑第三項切高登録の義務︑第四項目畑の嫡子単独相続制(次三男への分 高禁止)︑第五項嫡子相続困難についての届出制な辺︑幕府法令にも抵触しかねない内容となっていたが︑天保年間

に改作奉行を務めた河合祐之がォ河合録﹂でか切高ハ我持高之内を何程と切出して人ニ譲る事を云︒とし︑

P

人之売候 高を求て我持高ニするを取高と云︒ぃ︑庁切高有ル故ニ取高ある也︒としているよう民︑要するに切高仕法以前の年季

預け形態などによる事実上の土地売買状況を改めて公認したことにある︒その背景には年貢完納のための必要悪とせ

ざるをえない深刻な藩財政逼迫の状況が進行していた(表一

i

ー一参照)︒したがって︑その克服と年貢の安定的確保と

を目的として︑当初︑十村などの土地集積に関して︑一六九五(元禄八)年一月に

P

十村並改作支配仕候御扶持人其

身は不及申別家に有之候而もせがれ・兄弟・聾之分は切高請取候儀遠慮可申事︒と牽制していたのを︑一六九五(元

禄八)年一一月には︑か当年より右之人々勿論御扶持人山廻等に至迄切高買請可申旨私方より可触旨御意に御座

候︒と変更し︑十村らによる切高をも是認した︒富山藩においても︑一七

O

八(宝永五)年に庁田畑策配成り難き百

姓の儀は奉行所へことわりに及ぶべく候その上にてたしかなる百姓詮議をとげ入替申し付くべき事︒として耕作可 能な百姓への土地売渡しを公認目︑

P

団 地 売 候 て 不 叶 百 姓 手 前 者 方 々 間 合 高 直 成 方 江 売 可 申 候 若 十 村 村 肝 煎

長百姓等諸方を防手前江買取族於有之者急度可申付候事︒と十村や肝煎︑長百姓など富農や村落上層の買たたきに

よる土地買占めに対する牽制を示し乍らも︑庁田地売候百姓ニ其村之請下シ作並ニ為作候儀各別之事︒として地主・小 作関係の展開を奨励したのも加賀藩と同じ状況下だったからであ封︒

以上のごとく切高仕法の財政的根拠となった加賀藩財政の逼迫状況について表一

l

一により窺うと︑まず︑歳入で

(692)

‑ 3  

(4)

は︑大坂廻米の四六・三パーセント︑江戸廻米の一七・五パーセント︑併せて両廻米で六三・八パーセントを占めて

おり︑すでに中央都市︑殊に大坂への依存を基軸とする藩運営が定着していたことを物語っている︒また︑廻米と並

んで諸方上納銀(御蔵米ほか領内御用銀など)三四・八パーセントが二大歳入源となっており︑上納銀の一部として

の御用銀の強要という側面からも︑村落上層や町方の富商との矛盾関係を深めでいたものといえる︒一方︑歳出では︑

参勤交代費用などを含む金沢・江戸・京・大坂費用が七三・四パーセントを占めたが︑金沢・江戸・京借銀年賦返済

に一一・八パーセントを割いて︑上納銀の三分の一を元利返済するという︑まさに自転車操業的財政運営であること

が明白であった︒同時に︑大坂を含めた江戸・京都借銀や廻米の中央依存︑参勤交代費用の重圧などともに︑加賀藩

財政に表現された改作法体制がいかに幕藩体制の編成原理に深く組みこまれるに至ったかを物語っていたものといえ

ト ﹂ で フ

こうして︑同年の借銀累積残高一九︑ ︒

00

貫目︑京都からの一二︑一六六貫目︑併せて二二︑六四六貫目となり︑早くも前年より三︑三八五貫目増

O

︑四八

O 0

貫目余が︑翌一七

O

六(宝永三)年には借銀元利高で︑領内からの一

加となったように︑その後も︑節約令や倹約令などを発しながらも御用銀と借銀依存の財政体質からの脱却は至難で

あることを示していた︒その一つの到達点が︑一七五回(宝暦五)年の藩財政窮乏による銀札発行であり︑翌一七五

五(宝暦六)年に始まる借知(知行米貸上)だったのである︒

I I  

上層農民の土地集積と小農の階層分化

切高仕法の実施を契機として土地移動の進行には一段と拍車がかかった︒その一例として︑一六九七

j

一 七

三 五

( 元

禄 一

01

享保二

O )

年の砺波郡村々を中心とした土地売買証文(願)五三例についの報告による目︑売買の方法で

は︑質置

1

九通(一七パーセント)︑返上高

1

二 通 ( 四 パ ー セ ン ト ) ︑ 年 賦

1

四通(八パーセント)︑永代売

1

三 八

通 (

一パーセント)となっており︑すでに土地の永代売が広汎化した状況を伝えている︒一七二二(享保七)年四月の︒自

(691) ‑

‑ 4  

(5)

1‑ 1  1705 (宝永2) 年 藩 財 政 収 支 表

歳入項目 銀(貫匁)

比率(%)

歳出項目(貫匁) 銀(貫匁)

比率(%)

江戸廻米 1935.050  17.5  金沢・江戸・京・大坂費用 8106.800  73

. 4  

大阪廻米 5114.725  46.3  為替敷銀(200貫目)利息 19.200  0;2  廻米改代残 28.215  0.3  金沢・江戸・京借銀年賦返済

1284.054  11.6  諸方上納銀 384

1 .

212  34.8  不時入用払銀 1632.669  14.8  江戸上納銀 46.550  0.4 

京都上納銀 76.971  0.7 

合 計 11042.723  100.0  合 計 11042.723  100.0  (注)w加賀藩史料』第5688"'91頁より作成 ※年賦返済の累積元銀高は19260814

1‑2(1)  砺波郡太田村の持高構成

1 1"'  10"'  30"'  50"'  100"'  150"'  未満 10 30 50 100 150 200 1666(寛文 6)

。 。

13  12 

170l(元禄14) 16  21  14 

1722 (享保 7) 11  22  21  14 

1759(宝暦 9) 52  33  17 

1666(寛文 6) 0.0  0.0  40.7  37.5  12.5  3.1  3.1  1701(元禄14) 12.5  25.0  32.8  2

1 .

8  4.7 

1 .

6  0.0 

1722 (享保 7) 14.9  29.7  28.3  18.9  4.1  2.7  0.0  1759(宝暦 9) 47.7  30.3  15.6  2.8  2.8  0.9  0.0  1666(寛文 6) 0.0  0.0  238.1  430.0  278.1  110.5  164.8  1701(元禄14) 4.0  83.4  365.3  477.6  207.6  12

1 .

4  0.0  1722 (享保 7) 5.3  92.8  356.4  526.7  177.1  236.5  0.0  1759(宝 暦 9) 14.7  128.8  328.0  105.0  223.3  114.0  0.0  1666(寛文 6) 0.0  0.0  16.4  29.5  19.1  7.6  11.3  1701(元 禄14) 0.3  5.6  24.7  32.3  14.0  8.2  0.0 

1722 (享保 7) 0.3  5.7  2

1 .

9  32.5  10.9  14.6  0.0  1759(宝暦 9)

1 .

6  14.1  35.9  11.5  24.4  12.5  0.0  (注)w金子文書Jl (砺波市教育委員会刊)より作成

1‑ 2 (2)  1722 (享保7) 年 砺 波 郡 太 田 村 の 階 層 別 入 百 姓

戸数

入 百 姓 b  A+B  a+b  100石以上

。 。 。 。 。 。

50"'100

。 。

30"'50  14  10"'30  20  10  1"'10  23  11  10  15  14  1石未満 11 

合 計 74  18  14  15  33  23  (注)w金子文書』より作成

A =元禄 宝永期の入百姓 a=Aの血縁関係(弟)による入百姓 B=慶安 貞享期の入百姓 b=Bの血縁関係(弟)による入百姓

‑ 5 (690)

(持高単位=石) 2以上00 合 計

32  64  74 

109  3.1  100.0 

1 .

6  100.0 

1 .

4  100.0  0.0  100.0  234.6  1456.1  223.5  1478.8  228.6  1622.4  0.0  913.0  16.1  100.0  15.1  100.0  14.1  100.0 

0.0  100.

(6)

今ハ質団地一切流地ニ不成候

d

とする幕府の質流し禁令は同年七月に加賀藩にも伝達されていたが(﹁御大名方御登城

之上相渡る御書出之写﹂)︑一七二三(享保八)年八月のか相対を以質流しに致し候共勝手次第之事

4

とする質流し

禁令の全面的撤回(質流し公認)が布達され︑それとともに町人の請負新田開発に対する期待を寄せた江戸日本橋に

おける高札の掲示や︑一七四

O(

元文五)年の寸質地小作取捌之事﹂で

P

小作之儀ハ年貢同様一一御座候

4

と す

る 宣

告 ︑

一七四四(延享こ年の田畑永代売の罪軽減︑つまりは︑事実上の永代売買禁令の撤回と同年の大岡忠相らによる禁

令撤廃上申書など︑一連の地主制を促進させる措置が推進されたことにより︑加賀藩領においても︑切高仕法の実施

と相まって土地移動が一層活発化する契機となったことは否めない︒

土地移動の具体的状況については︑表一

l l

二 付

0

の砺波郡太田村の例により窺ってみよう︒まず︑同表付による

と︑寛文期から元禄期にかけて戸数が急増して︑かつては存在しなかった一

1

O

石層や一石未満層など下層・貧農

層が帳づけの百姓として姿を表し︑持高構成においても一

Or

よ ニ

O

石層や三

O f

)

O

石層など上・中農層の比重が中

心を占めはじめるなど︑一七世紀から一八世紀初頭にかけての時期が一つの画期であることを示した︒この傾向は以

降の享保・宝暦期に至る一八世紀中期にかけて一層強まったが︑一六九五(元禄八)年に御所村の十村たちが庁只今 迄下百姓又は頭振下に市高受取居申候百姓並に書上可申哉︒と改作奉行に伺いを立てているの的︑この状況の一

端を示している︒元禄()享保期の太田村では︑戸数とともに村高も増加し︑持高構成においては中農層の比重が上昇

したのに対して戸数の点では中下層および貧農層の比重が高まって持高規模の零細化が進行した︒一七二二(享保七)

年では同村の懸作百姓は他村よりの二戸のみであったが︑一七

O

一(元禄一四)年からの戸数増加(一

O

戸)につい

て︑同表︒の階層別入百姓 H H 分出農民(下人・下百姓などからの帳づげによる高持化の下百姓)より窺うと︑まず︑

元 禄

( )

宝 永

ω

の入百姓が村戸数の七四パーセントにものぼる一八戸で︑消滅や来住は不明であるが︑戸数増加のほ

とんどが入百姓で占められていたことが分かる︒しかも︑そのうちの七八パーセントにあたる一四戸までが血縁(弟)

関係であり︑同じく慶安

i

貞享期倒の入百姓一五戸のうち九戸が血縁(兄弟)関係であった︒したがって︑一七二二

(享保七)年に至るまでの入百姓総数三三戸は︑同時点での村戸数七四戸の四五パーセントにのぼり︑そのうちの七

O

パーセントまでが血縁分家などを通じて入百姓として帳づけされたことになる︒また︑一七

O

一(元禄一四)年の高

(689)

‑ 6  

(7)

持六四戸のうち︑下百姓よりの帳づけ

l

入百姓による高持百姓が一 01 五

O

石 層

一 戸

( 二

ニ ・

八 石

) ︑

i

O

石層五

戸︑一石未満層二戸の計七戸含まれていることや︑一七二二(享保七)年に一四・二石の二局持で

P

寛文年中入百姓

久泉寺村より懸作︒だった安兵衛が︑一七五九(宝暦九)年には村第二位の八四・五石にまで土地集積していること

を含めて︑切高仕法以降の元禄()享保期に肝煎(半兵衛

l

宗右衛門)の二二三・五石から二二八・六石︑与合頭(次

郎左衛門)の二二・四石から二三一・七石︑同与合頭(孫兵衛)の九四・九石から一

O

三・八石への︑いずれも大

高持による土地集積が進行しているなど(元禄一四・享保七両年﹁草高免付百姓数品々帳﹂)︑この期の太田村では︑

切高仕法の実施を起因とした土地売冒(・土地集積や血縁分家(田分けによる新宅設定)による土地移動か︑あるいは

下百姓の入百姓立てによる土地移動かを通じて階層分化が一層促進したことは明白であった︒

こうした血縁分家による高持増加容認の根拠としては︑一七

O

三(元禄二ハ)年に改作奉行連署による作成のつ改

作方格帳﹂の中で︑か惣て百姓跡高之儀仮令親願置候ても高分不仕惣領一人に申付候

s

としながらも︑庁弟共之儀

は惣領ら介抱仕下にて少々高分仕下百姓等に仕候様に申付候事︒として︑血縁分割方式による次三男の弟などに高

分 け

・ 庁

面 出

Ld

させ︑実質的には離村を防止して長男の耕作を庁下百姓等に仕候様に申付︒けて庁介抱︒させること

にねらいを設定しているように︑危機に直面した小農経営をあくまでも維持することにあった︒このような施策を通

じて︑何よりも藩財政の安定化を図らなげればならなかったからである︒したがって︑一七三八(元文三)年にも庁向

後は高五十石余致所持候百姓者勝手次第二男等へ高わけ面出し之百姓に仕候儀承届可申候

4

と布告して血縁分割

を奨励し︑一七四

O(

元文五)年にも再令している点からみても︑中農層以上の階層に対しても︑この百姓

P

面 出

し 占

化の傾向に一層拍車がかけられたといえる︒つまり︑切高仕法とは︑社会情勢に対応して改作法政策を転換し︑改作

法体制の維持を企図する政策体系だったのである︒

さらに︑太田村持高構成の今一つの特徴は︑宝暦期が寛文()元禄期という大きな画期に匹敵する以上により大きな

段階を画する時期だったことにある︒それは︑まず戸数の飛躍的な増加に対して村高の激減(四四パーセント)をみ

たことに求められる︒したがって︑戸数増加による階層構成は︑一

1

O

石層および一石未満層の下層・貧農層併せ

て七八パーセントを占め︑持高構成においても一五

O

石以上層の大高持も姿を消したのに対して︑五

O

石以下の上層

‑ 7 ( 6 8 8 ) 一

(8)

1‑3 砺波郡内島組 (69カ村)持高構成 1671 

(寛文1

1)

1759 (宝暦9

)年

B/A 

百姓数(A) 比率(%) 百姓数(B) 比率(%)

50石以上 134  12  102  48  0.8  10"'50 740  67  484  23  0.6  1"'10  170  15  798  37  4.4  1石以下 49  768  36  15.7  合 計 1101  100  2139  100 

1 .

(注)

D"富山県史.JJ (通史編I

II近世上)348"'935表より作成

1‑4(1)  砺波郡国吉組 (44ケ村)の持高構成 1701 (元禄14) 1759 (宝暦9)年

D/C 

百姓数

( C )

比率(%) 百姓数

( D )

比率(%)

100石以上 16  2.3  15 

1 .

0.9  50"'100 47  6.7  40  3.4  0.9  30"'50  70  9.9  55  4.7  0.8  10"'30  267  37.9  241  20.5  0.9  1"'10  220  3

1 .

449  3

1 .

2.0  1石以下 84  11.9  374  3

1 .

4.5  合 計 704  100.0  1174  100.0 

1 .

(注)

D"富山県史.JJ (通史編V

I近世下)96632表・96833頁より作成

1‑4(2)  砺波郡国吉組 (44ケ村)の懸作百姓と持高 1701 (元禄14) 1759 (宝暦9)年

G/E H/F 

持高

E

同比率百姓数

F

同比率 持高

G

同比率百姓数

H

同比率

村高 16746 84.5  704  8

1 .

4  16696  8

1 .

4  1174  82.0 

1 .

1 .

懸作 3069  15.5  161  18.6  3814  18.6  258  18.0 

1 .

合計 19815  100.0  865  100.0  25010  100.0  1432  100.0 

1 .

1 .

(注)

D"富山県史.JJ (通史編I

V近世下)96632表・96833表より作成

‑ 8 (687)

(9)

や中下層の持高比率が六

O

パーセントを占めるに至るなど︑村落の様相も大きく変貌した︒表一ーー二付の元禄・享保

期から宝暦期に至るまで一石未満層の持高平均も

0

・ 五

O

石から

0

・四八石︑さらに

0

・二八石へと縮小の一途をた

ど っ

て い

る ︒

寛文期から宝暦期の長期間にわたる砺波郡内島組(六九ケ村)の趨勢をみても(表一ーー三参照て一

O

石 以

上 の

中 ・

上層農が減少したのに対して︑下百姓などの百姓立てによる戸数が約二倍増加し︑そのうち一

1

O

石層など下層農

の増加が四倍︑一石未満貧農層が一六倍など︑下層・貧農層の比重が高まって太田村とほぼ同じ動向を示した︒また︑

切高仕法実施以降でも︑元禄

i

宝暦期における砺波郡国吉組(四四ケ村)の趨勢をみると(表一ーー四参照)︑中・上農

層の比率低下に対し下層・貧農層が激増して村々での比重が高まり︑太田村や内島組村々と同じ傾向を示すようにな

っ た

このように多くの村々に共通した下層・貧農層の増加は︑太田村で確認された血縁分割などによる百姓立てととも ︒

に ︑

8

耕作方不勝手に付懸作村江引越其村の人別に相成居村の持高を懸作に相願候義も有之︒といわれるよう

な︑他村から来村の下層・貧農による懸作の増加にも要因があったものと思われる︒その一例として︑表一ーー四同の

元禄

1

宝暦期におげる国吉組の懸作百姓についてみると︑村高に占める懸作高が一五・五パーセントから一八・六パ

ーセントに拡大し︑懸作戸数も一・六倍と増加して国吉組の戸数増加を促進した︒切高仕法以降における加賀藩領村々

における下層・貧農層の増加は︑土地の永代売りなどとともに︑血縁分割や下百姓の

P

面出し︒による入百姓の増加︑

あるいは他村よりの懸作などによる若干の入百姓化などに基本的な要因を求めることができよう︒

これら下層・貧農層にとって不可欠の家計補充的出稼ぎに対する加賀藩領域における需要については︑一七三四(享

保一九)年の日雇賃金(一日)六分八厘から一七三九(元文四)年の家大工一匁八分︑木挽一匁五分︑檎物屋一匁二

分︑壁塗一匁︑船大工三匁︑桶師・屋根葺一匁五分︑めしゃ一匁二分︑石切二匁二分など概ね賃金が高騰しているこ

とからみて︑少なくとも拡大傾向にあったといえる︒こうした切高仕法以降に創出された主に高持長男を庁介抱︒す

P

下百姓︒的な零細持高の入百姓に対する労働力需要の増大は︑一方では零細農業経営と出稼ぎとによる二股的生

活を基盤とする極貧農層をさらに増加させ︑他方では︑こうした村落の非自給的農民による再生産を多少ともに可能

( 6 8 6 )

‑ 9  

(10)

とさせて商品の購買力市場を拡大していく一因ともなっていったものといえよう︒

I I I  

領主的米市場の確立と弛緩

付 大 坂 廻 米 の 展 開

一八世紀前半期における全国的領主米の流通については︑まず︑元禄・享保期前後の大阪登米一

OO

万石以上の恒

常的登米がみられるように全国市場としての大阪の地位は確定したといえるが︑享保()寛延期の越年(在庫)米急増

によって米価は圧迫されはじめ︑大坂町人人口増加による米需給の不均衡からか諸色高直の米価安

4

状況を呈するな か筒︑一七一三ハ(元文二年に金一両上米一・二石以上︑下米一・五石以上︑下々米一・七石以上という米価が公定

された︒この時点での加賀藩内の米価二八・三匁に対して加賀米公定価格は二四匁前後とされ︑しかも︑諸国米のラ

ンク付において︑上米に播磨・備前・備後・淡路・中国・豊前米︑中米に肥後・筑前・筑後・讃岐・広島米などが設

定されたのに対し︑下米として出雲・北国・土佐・豊後・肥前・薩摩米などとともに加賀米も含められるなど︑大坂

廻米による収入が藩財政歳入の中で六三・八パーセントを占める加賀藩にとっては大きな打撃となったものといえる

( 表 一

l

一 参

照 )

︒ 一

七 一

五 (

正 徳

五 )

年 に

加 賀

藩 算

用 場

が ︑

P

御領国諸色近年高直罷成候此儀も諸国共同事之鉢に候

へ共御領国之儀者惣而米直段他国より者下直筈之処近年諸物之様子結局諸国よりも高直に候︒と述べて︑諸藩

米価との比較で加賀米の低廉性と物価高とを嘆いており︑また︑一七二四(享保九)年にも︑か於大坂に御払米直段過

分下直に罷成井御切米被下候者共下行渡米直段右同様に市及難儀に候

4

として︑大坂米市場での低廉な加賀米価

のために

8

難儀︒と表現しているのも︑こうした加賀米廉価設定の状況を示している︒他方︑領内でも︑城下町金沢

の人口が︑一六九七(元禄一

O )

年の六八︑六三六人から一七一

O(

宝永七)年には六四︑九八七人の五パーセント

減少となり︑ーむじろ停滞的でさえあったのに対し︑一七四三(寛保三)年に算用場が庁近年者諸色事之外高直に罷成

御家中之人々も及難渋申鉢に候

4

と述べているようの)︑幕府による元文の貨幣改鋳(貨幣増発)にも起因する

P

‑10 (685)

(11)

高直の米価安︒という藩財政にとっては打撃的ともなる手痛い財政環境が継続したのである︒

かくて︑改作法体制の基礎である藩財政の逼迫状況を打開する手立てとして︑大坂市場における加賀米価の廉価克

服を目標とする品質管理や流通統制を含めた算用場を基軸とする廻米体制の本格的な確立とその維持とが図られるこ

とになるが︑その検討の前提として︑一八世紀前半期における諸藩領主米と大坂市場との相互関連について把握して おこ%︒まず︑地域別登米からみると︑大坂市場とは西日本・北陸諸藩の領主市場であり︑また︑北陸・東北諸藩の

01

二七パーセントにのぼる登米率は大阪市場の商圏の広域性を示すものであったが︑近畿・関東・中部の登米率

は郷・地払いを主力とするために低率であった︒地域別諸藩の蔵屋敷については︑九州・四国・中国諸藩による蔵屋

敷方式と近畿・中部・関東・東北諸藩による蔵元・用聞き方式とが登米高の多寡と関連して採用され︑加賀藩の御蔵 は上中之島に蔵屋敷︑南堀江・釜屋町に借蔵が設置されてい問︒また︑石高別登米については︑三

O

万石以上九大藩

で総登米高の四六{)五六パーセントに達し︑建物米(筑前米・福岡藩︑肥後米・熊本藩︑中国米・萩藩︑広島米・広

島藩の﹁四蔵物﹂と加賀米・金沢藩)として相場を左右したといわれている︒次に︑諸藩と大坂市場との関連を登米

率(依存度)分布からみると︑登米率一五

i

一六パーセントの諸藩では責租収入三

01

四五パーセントにも相当して

大坂市場依存度が高かったが︑地域別登米率と登米高の関連からみると九州・中国・北陸の諸藩は登米高が大きいに

もかかわらず登米率が低率でありつ四蔵﹂

l

福岡・熊本・広島・萩の四藩と加賀藩)︑大坂市場に対して相対的に強

い立場にあった︒これに対して近畿・東北の諸藩では登米高小量・登米率が高率のために大坂市場に対して弱い立場

にあり︑また四国の諸藩は登米高大・登米率高率という中間的立場に位置していた︒さらに︑石高別登米率では︑大

藩が登米率を低下させ︑小藩は逆に登米率を上昇させる傾向にあって︑登米率と諸藩石高の関係は負の相関関係を示

した︒以上のような諸藩と大坂市場との関連における全国的動向に関する研究成果をふまえて︑加賀藩の具体的な大

坂廻米(登米)状況についての検討に移ろう︒

すでに︑改作法実施直後(明暦

' e t ‑ ‑ J

寛文期)には︑石川郡米の大坂廻米や越中米の大坂廻米などの例からみる限り加

賀藩の廻米率がかなりの高率に達し︑一六九一(元禄四)年には︑庁木や・升や裁許庁の上方船による二ニ六︑五八二

石と地船による六八︑二九一石︑併せて二

O

四︑八七三石の大坂廻米が記録されたが︑表一

Il l

五の元禄

1

享保期にお

‑11 (684)‑

(12)

ける加賀藩の大坂廻米高では一五万石台が上限となって停滞していることから考えて︑一七世紀中期から一八世紀初

頭への改作法体制の完成から転換にかげての時期に大坂廻米高もピ

l

クを記し︑以降は漸次︑減退していったものと

考 え

ら れ

る ︒

かくて︑藩財政収入の根幹たる廻米高の停滞・減退傾向に直面した算用場では廻米体制に対する一層の規律強化を

図っていくのである︒すなわち︑一六九三(元禄六)年に大坂廻米高の計量をさらに厳格化するために升取人を設置

し︑同時に廻米のための雇用船について一︑

000

石以上の大船使用を禁止したが︑その根拠は︑

P

近年地舟西国船共

破損並痛船多大分御損有之に付今般吟味仕地舟年数七ヶ年相極米高も千石より多船者一履不申候︒とし︑か御国

船積米高千石迄候

4

としているように積高上限を規制して難破による大損を回避し︑廻米減退傾向による藩財政に対

する重なる打撃を最小限に食いとめることにあった︒しかし︑一六九六(元禄九)年の越中より大坂・江戸廻米船数・

積高をみると︑船数二一隻のうち︑一八隻は一︑

000

石以下の積高を厳守していたが︑二隻が依然として一︑

00

0

石以上の積高規制に違反していた︒したがって︑一六九八(元禄一一)年にも︑府大坂井江戸御廻米積請申地舟打続

破損多様ニ相聞候ニ付格之通大坂御登米上方舟者三ケ二地舟三ケ一江戸御廻米上方舟六歩地舟四歩之図を以 拾四五年以来之破損三ヶ年宛三四度茂於御算用場しらへ有之所ニ地舟上方舟同御米高ニ平均候而茂地舟之破損

上方舟より抜群多有之

4

と述べているように︑地船による大坂・江戸廻米の難破頻発のため︑上方船三分二︑地船三

分一の大坂廻米と上方船六割︑地船四割の江戸廻米にしても︑尚︑地船の難破が

8

抜群︒として積高の過剰規制を強

化しなげればならなかったのである︒藩財政収入の枢要たる大坂廻米の安定的積送のためには︑まず︑計量・品質管

理︑積高規制︑船主選定などの廻米体制が急務とされたのであった︒

表一ーー五により元禄{)享保期の廻米状況について窺うと︑まず︑凶・不作年を除いて収納米高は二三

i

二九万石の

水準にあり︑そのうちの大坂廻米高が七

i

一 六 万 石 前 後 で あ っ て ︑ し た が っ て 廻 米 率 は 三 一 一 プ 1 五七パーセント程度だ

ったことが分かる︒こうした廻米実績の下で︑諸藩の大坂廻米高の中で占める加賀藩米比率(大坂相場規定率)を計

算してみると︑一七

O

三(元禄二ハ)年の諸藩大坂廻米高一一八・二

i

一四一・一万石に対して加賀藩廻米高二五・

五万石であるから六・五

i

五・五パーセントであったが︑この段階ではすでに筑前米・肥後米・長州米・広島米など

‑12 (683)

(13)

加賀藩の大坂廻米高

収納米 (A) 大阪廻米 (B) B/A(%)  1701 (元禄14) 24.8万石 10.3万石 4

1 .

江戸廻米3万石 1702 (元禄15) 2

1 .

2.0  9.4  近年米穀不足"

1703 ( 16) 25.5  7.7  30.2  1704 (宝永 1) 26.6  13.3  50.0 

1705 ( 2)  25.2  10.8  42.9  江戸廻米3.4万石 1706 ( 3)  23.2  7.6  32.8 

1707 ( 4)  18.7 

1 .

7.0  凶作・風水損毛56万石 1708 ( 5)  26.1  1

1 .

43.7  米価下直"

1709 ( 6)  25.8  9.6  37.2  1710 ( 7)  24.7  1

1 .

44.5  1711 (正徳 1) 27.7  15.8  57.0  1712 ( 2)  20.3 

1 .

4.9  凶作 1713 ( 3)  27.5  9.9  36.0  1714 ( 4)  26.2  1

1 .

42.4  1715 ( 5)  29.0  15.3  52.8 

1716 (享保 1) 7.3  大坂の貯蔵米6.5万石焼失 1‑5 

(注)土屋喬雄『封建社会崩壊過程の研究』・『加賀藩史料』・『改作所奮記』・『近世後期におけ る主要物価の動態』より作成

府四蔵物︒の相場規定性や幕府の貨幣改鋳・米価政策

などもあって︑加賀藩単独では建物米として大坂米

価を左右するだげの力量を発揮することは至難とな

っており︑したがって算用場役人が

8

於大坂ニ御払

米直段過分下直ニ罷成︒と常々嘆かざるをえなかっ

たことからみて

M

︑大坂(加賀米)相場はむしろ他

律的変動に規定されざるをえなかったものといえる︒

しかも︑凶・不作年の廻米を含めると︑増減の振幅

が極めて大であり︑廻米船の難破や米価変動などの

要因とともに︑藩財政にとって必ずしも安定的収入

を約束するものとはいえなかった︒それだけに領内

米の生産・収納体制への厳しい統制が一層促進され

るとともに︑たとえば一七

O

二(元禄一五)年に︑

府於御領国所々諸給人当収納払米其外不依何米御

支配所之者井他国他領者買置米重而申触候迄此場

へ無断他国他領江積廻申間敷候︒として︑米の領内

外への流通に対して厳しい規制が加えられた︒一七

七四(安永四)年の金沢商人木屋孫太郎が試算した

大坂廻米(七万石

l

三 ︑

00

る財政支出で眠︑浜方・内町御改法御渡高八

0

貫目計算)収入によ

OO

目(二六・七パーセント)︑去暮御調達銀井辰巳屋等

ヘ 御

返 済

銀 一

︑ 一

OO

貫 目

( 三

六 ・

七 パ

ー セ

ン ト

) ︑

‑13 (682)‑

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