学・会・近・況
テーマ別セッション I
マハーラーシュトラ州に
おけるダリトの実像
―その社会的・歴史的多様性―小川道大
「ダリト」という語は、サンスクリットでは語根dal
の過去受動分詞dalita
として、「引き裂かれた、壊された」という意味をもつ。20 世紀 前半の被差別集団の解放運動の中で、この語が「虐げられた人びと」を 意味するマラーティー語として不可触民のことを指すようになった。「ダ リト」の語は、自称であった点で英語の「不可触民(Untouchables
)」 やガンディーが用いた「ハリジャン(Harijan
)」とは異なり、被差別集 団の解放のために活動したB・R・アンベードカル等によって、インド 全土で広く用いられるにいたった。 独立後、留保政策によってダリトの多くが指定カーストに認定される と、この語は社会・文化的な意味に加えて、あたかもそれが単一の利益 集団であるかのような政治的な意味合いを獲得することになった。しか しアンベードカルの結党したインド共和党の分裂や近年の留保政策の 行き詰まりは、ダリトを政治的な単一集団とみなすことの限界を示して いる。「ダリト」と呼ばれる人々は、その信仰・慣習や、社会経済上の 位置、政治・思想の動態などにおいて非常に多様であり、単一の概念と して捉えきれるものではない。本研究は、内部に諸集団を包摂する「ダ リト」という概念を再検討して、その多様性を考察し、従来の「ダリト」 像に修正を迫ることを目的とした。そしてアンベードカルを生み、「ダリ ト」の語が被差別集団を意味する言葉として定着したマハーラーシュト ラ州に焦点をおき、同州のダリトの最大グループであるマハールに注目 して、分析を行なった。 小磯・井田は、文献学の立場から中世のマハール集団の在り方を分析 し、小川は社会経済史の立場から植民地化前後のマハールの内部構造 の解明を試み、足立は社会思想史の立場から近代のマラーティー語文献にみるマハール集団の在り方を示した。これら3報告は、アンベードカ ル以前の時代のマハールの在り方を考察しており、個人のカリスマ性が 注目されてきた従来のアンベードカル研究に対して、彼の台頭を可能に した背景を示すことを試みている。文献学・歴史学的手法では得難いマ ハール自身の語りについて、飯田が人類学的手法を用いて、マハール集 団の在り方の現状を分析した。この点において、飯田報告は、前3報告 と性格を異にする。学会報告では、ダリトのもう一つの語りの手段であ るダリト文学を専門とする大東文化大学石田英明教授をコメンテー ターに迎えた。以下に詳述する個別報告は、それが扱う時代に応じて、 通時的に行なった。 小磯千尋・井田克征「ワールカリー教団におけるマハール」は、マ ハーラーシュトラで12世紀に発展したワールカリー派におけるダリト の存在を考察した。ワールカリー派は、年に2度、聖地パンダルプール へ巡礼する集団を指し、いかなる身分でもヴィッタル神への帰依によっ て救済されるという教えによって、マハーラーシュトラで広く信仰を集 めた。同派は、13世紀のジェニャーネーシュワル、17世紀のトゥカー ラームなど数多くの優れた聖者(サント)を輩出した。小磯は、14世紀 に活躍した、マハール出身の聖者ツォーカーメーラーの宗教歌を紹介 し、彼がマハールとしての出自を意識し、前世の報いとしてその差別を 諦めながらも、マハールの立場の不条理さを訴えていたことを示した。 井田は、マヒパティが18世紀に編纂した、ワールカリー派の聖者伝 『バクタヴィジャヤ』にある、マハールに関する記述に注目した。井田は、 ツォーカーメーラーが日常的に差別の対象となっていた挿話を紹介し、 この挿話はマハール「でさえ」神への帰依によって救われるという神の 宗教に対する優越性と、神の前の普遍的平等を示していると分析した。 さらに井田は聖者ではないマハールの記述を紹介し、そこでは、マハー ルは「前世の罪の報い」として卑しい身分に生まれた者として描かれて いた。ワールカリー派はカースト差別を否定したわけではなく、マハー ルは、神の前で徹底的に卑しく、神の愛によってしか救われない個人の 在り方の極限的な姿として理念化されたと井田は主張した。ツォーカー メーラー以降、マハール自身の声は失われ、その集団の多様性ももはや 存在せず、マハール像は単純化・戯画化され、彼らは信仰世界の外へと
放逐されたと井田は結論した。 小川道大「18-19世紀のマハール集団の内部構造」は、植民地支配 下で、在地の既得権益を整理したイナーム調査委員会が、1848年にプ ネー県インダプール郡のマハールに行なった聞き取り調査から、マハー ル集団の内部構造を分析した。この調査によると、各村に複数のマハー ルが居住し、その中心にマハール頭(
Mhetra
)が存在した。村の集合 である郡(Parga
ṇā)の中心である町(Qasb
ā)には、郡の頭(Desh
Mhetra
)がおり、郡の頭が調査のインフォーマントであった。マハール も、油屋や大工などの種々のカースト集団と同じく、郡の頭・村の頭を 軸とし、郡を単位とする再生産構造を有していた。 ただし共同体内での役割は、マハールは他の社会集団よりもずっと多 様であった。上記のインダプール郡の中心地・インダプール町で、植民 地化直後の1820年に行われた世帯調査資料・地税帳簿から、イナーム (免税)地を保有するマハール、土地を耕作し、地税の取り分を払うマ ハール、村番のマハールの世帯が別々に存在していたことが判明し、彼 らがそれぞれの職務を世襲していた。ほかに同町には農業労働など各種 労働に従事したマハールがいた。イナーム(免税)地はマハール頭が保 有していたが、どの村の台帳でも、村長・村書記とともに、マハールの イナーム(免税)地が地税徴収から除外され、その面積は、職人や宗教 関連のイナーム(免税)地よりもはるかに大きかった。このことは、マ ハール頭が、在地共同体の中で、村役人並に重要な役割を果たしていた ことを示唆している。しかし一方で、罪の浄めの儀式等の文書ではマ ハールは不浄とされており、マハール頭や耕作するマハール、村番のマ ハールの区別はみられなかった。小川報告は、マハール集団内の構造を 解明し、一部のマハールの在地の行政・慣習における重要性とその人物 の経済力を部分的に解明したが、それはヒンドゥー社会におけるマハー ルの不可触性を否定するものではなかった。 足立享祐「ダリト運動史におけるフレーのカースト論」は、19世紀後 半に活躍し、ダリト運動の先駆者としてアンベードカルと並び称される、 フレーの著作に基づき、彼のカースト論とそこから読み取れるマハール 集団の在り方を分析した。足立は、フレーが1869年にマラーティー語で 発表した『シヴァ―ジー大王英雄譚』と『バラモンの術策』に注目した。 同作品で、フレーはクシャトリアをバラモン支配への抵抗者と位置づけ、伝統的な階層秩序において不可触民こそが、最も勇敢に立ち向かっ たが故に、最下層に位置づけられたのだと主張した。バラモンにとって の「大いなる敵(
mah
āar
ī)」を、マハールの語に読み替え、同一視し た結果、上記の不可触民に関する言説が導かれたと足立は分析した。 1873年に真理探究者協会の活動が始まると、フレーは、アーリヤ人た るバラモンに対置される「シュードラ・アティシュードラ」を主体とし て運動を展開していった。ここでは低カースト全体が運動の中心的役割 を担っており、不可触民、とくにマハールが運動内で示す重要性は、相 対的にそれほど大きくなかったと足立は分析した。『シュードラ・アティ シュードラ』という概念は、運動をより広範なものとする一方で、低位 カースト内部での階層差は解消されず、シュードラから不可触民への賤 民視の問題を残した。しかしフレーの思想がマハールの地位向上に貢献 していないわけではない。足立は、1931年のセンサス・データを提示し、 国政上の集団区分の形成が当時の社会運動に影響を与えたことを述べ、 それにフレーの思想の影響も加わって、1894年にワラングカルがマハー ルからの募兵継続を請願するなど、不可触民の社会運動にフレーの思想 が寄与したことを示した。 飯田玲子「『マハール』と名乗ることの現代的意味に関する考察―タ マーシャーの担い手達を事例として―」は、現代のタマーシャー集団の 語りに注目しながら、「マハール」という言葉がもつ、現代的な意味を考 察した。飯田は、農村を中心に人気を博していた民俗芸能・タマーシャー が、1990年代に都市でも注目を集め、都市中間層を中心に広く支持され るポピュラー・カルチャーとして重要な位置を占めるに至っている現在 の姿を説明した。 タマーシャーの担い手の多くは、指定カーストのマハールやマーング、 「その他後進階級(OBC
)」のコルハーティー・ドンバリであるが、マラー ターやバラモンなどの上位カーストもタマーシャーの中で活躍するなど、 担い手のジャーティは多様である。飯田は、タマーシャーを農村の分業 体制から外れた存在と位置づけ、それ故に常にパトロンを様々なところ から獲得してきたことを述べ、彼らの芸はパトロンや観客の「受け」を 取ることに主眼が置かれていたと主張する。そして飯田は、タマー シャーの担い手が援助を得るために、文脈によって様々な語りをするこ とを具体的な事例を用いて示した。例えば、アーティスト・女優として名声を獲得した担い手は、実際はコルハーティーや改宗仏教徒であって も、自分は「マハール」と名乗り、不遇のストーリーをテレビなどで語っ た。またヒンドゥー至上主義を標榜するシヴ・セーナー等が後押しして いる場合は、コルハーティーやマハールであるという「低カースト性」 が観客に訴えられる。最近では、担い手がマハールや低カーストを名 乗って、不遇を訴えたテレビ番組等が、
SNS
や動画サイトで広く海外に 拡散され、これを契機にタマーシャーの担い手の生活向上を掲げる国際 的なNGO
が、援助に入り始めている。飯田は、タマーシャーの担い手達 は、単純化された「マハール」像を自らに付与することで、新たなパト ロンを獲得していると結論付けた。 本研究は、マハーラーシュトラのマハールを事例にダリトの多様性を 考察した。小川報告は、行政・経済の面からマハール集団の多様性を部 分的に構造化したが、集団全体の構造化に至っていない。他の報告では、 後述するような史資料の性格もあり、多様性の内実を明らかにするのは 困難であった。しかし各報告を総合すると、マハールのリーダーとそれ を生み出した素地が見えてくる。井田・小磯報告が注目したツォーカー メーラーは、アンベードカル以前のマハールのカリスマであった。「郡の 頭」の地位を見出した小川報告は、ツォーカーメーラーのカリスマ性と は異なるが、各地のマハール・リーダーの存在を示した。リーダーを支 えたマハールの分業体制は、植民地支配に都合のよい部分は継続され た。ワラングカルが、継続を求めたマハールの募兵は、歴史的には前近 代の村番職の存続を意味していた。アンベードカルの父・祖父が軍人で あり、このことが彼に教育を受ける契機を与えたことを想起するならば、 アンベードカルの台頭もマハールの分業体制と無関係ではない。 本研究は、マハールが、ヒンドゥー社会でいかに単一の存在として扱 われてきたかを歴史的に明らかにすることにもなった。18世紀の聖者伝 において、既に不可触民のレッテルがマハールに画一的に貼られてい た。フレーは低カーストを包括的に扱ったが、彼が推進した社会運動の 参加者の間では、マハールは不可触民として扱われ、賤民視は残ってい た。このような状況で作成された文書を用いて、マハールを識別し、集 団内の多様性を描くことは極めて困難であった。他方で飯田は、マハー ルがレッテルを積極的に活用して後ろ盾を得ていること、そして後ろ盾を得るために非マハールがマハールを名乗り、非マハールも含む多様な 「マハール」集団が存在することを示した。タマーシャーの担い手が農 村の分業体制から乖離した、より自由な存在であることは留意すべきだ が、飯田報告は、ダリトのレッテルがもつ、インド社会における意味合 いの複雑さを示している。ダリトは、単にヒンドゥー社会の最下層の者 であるのみならず、アーリヤ以前の先住民であり、この意味ではヒン ドゥー社会の外部者でもある。フレーもこのことに言及しており、また 在地共同体では、マハールのみが地母神を鎮めることができた。こうし たダリトの非ヒンドゥー性が、ダリトのレッテルに蔑視以外の意味合い をもたせている。ヒンドゥー社会の外部者としてのダリトの性格を考察 することが、本研究の今後の課題となる。 おがわ みちひろ ●東京大学