明治印度留学生の行動と思索
――小泉了諦と善連法彦の体験――
奥 山 直 司
1.はじめに
本稿は,明治の印度留学生,小泉了諦(浄土真宗誠照寺派,1851–1938)と善連法 彦(浄土真宗仏光寺派,1865–1893)のトルコ・欧州旅行を取り上げ,彼らの行動と 思索の跡をたどり,その体験の意味を探ろうとするものである. 小泉と善連は共に越前出身の真宗僧侶である.小泉の自坊法林寺(現鯖江市)と 善連の自坊仏照寺(現福井市)とは,直線距離にすれば 10 キロメートルと離れて いない.2 人の関係は,善連が 14 歳年上の小泉に兄事するようなものであったと 考えられる. 小泉は 1889 年,オルコット(Henry S. Olcott, 1832–1907)とダルマパーラ(H. Dharmapāla, 1864–1933)の来日を契機に,セイロン(現スリランカ)に留学した.善 連はそれより早く 1888 年,まず生田(織田)得能(浄土真宗大谷派,1860–1911)と 共にバンコクに渡り,まもなく単身コロンボに転学した.コロンボで小泉と善連 は,神智学協会等に寄宿し,釈興然(真言宗・目白僧園,1849–1924),東温譲(浄土 真宗本願寺派,1867–1893),徳澤智恵蔵(本願寺派,1871–1908),川上貞信(本願寺派, 1864–1922),朝倉了昌(大谷派,小泉の実弟,1856–1910)と共に仏教学院ウィドヨー ダヤ・ピリウェナでパーリ語,梵語などを学んだ1). この 2 人を他の印度留学生たちから分けるのは,1890 年(明治 23)11 月から 1891 年(明治 24)3 月にかけての 5 ヵ月余の間に,1890 年 9 月に起きたエルトゥー ルル号遭難事件の生存者たちをオスマン帝国に送致する途中コロンボに寄港した 日本海軍の練習艦「比叡」と「金剛」に便乗してイスタンブル(コンスタンティノー プル)まで行き,そこからさらに,パリ,ロンドン,オックスフォードまで足を 延ばして,イスラーム圏,キリスト教圏を視察したことである.1891 年 2 月 21 日にはパリのギメ博物館(現国立ギメ東洋美術館)において真宗の報恩講を挙行し ている.3.小泉・善連のトルコ・欧州行の概略
前節に挙げた諸資料に基づいて,小泉と善連の旅行の概略をトルコ行とフラン ス・イギリス行に分けて述べる5). 3.1. トルコ行 1890 年(明治 23)11 月 16 日 「比叡」「金剛」コロンボ寄港.停泊中に軍人たち と留学生たちの交流が深まり,小泉と善連のイスタンブルまでの便乗が決まる. 11 月 20 日 「比叡」「金剛」コロンボ出港.「比叡」に小泉,「金剛」に善連が乗 船.イスタンブルまでの道中,軍隊布教に努める. 11 月 30 日 アデン着.12 月 3 日 アデン発. 12 月 10 日 スエズ着.12 月 17 日 スエズ発. 12 月 18 日 ポートサイド着.12 月 22 日 ポートサイド発. 12 月 26 日 ダーダネルス海峡口着.12 月 27 日 トルコ艦に生存者引き渡し. 12 月 28 日 スミルナ(イズミル)に回航.12 月 31 日 スミルナ発. 1891 年(明治 24)1 月 2 日 イスタンブル着.これより 1 月 15 日まで小泉・善 連,イスタンブル市内各所を探訪. 1 月 16 日 諸方に別離の連絡をし,下船の準備を整える. 3.2. 欧州行 1891 年 1 月 17 日 マルセイユ行に乗船.1 月 18 日 イスタンブル発. 1 月 28 日 善連,船中で旧知のミリウ(Alfred Millioud, 1864–1929)6)に手紙を書く. 1 月 29 日 マルセイユ着.汽車でパリに向かう. 1 月 30 日 パリ着.日本公使館を訪ね,代理公使大山綱介(1853–1912)に面会. 公使館で晩餐の饗応を受け,大山とその妻久子(1870–1955)等と懇談. 1 月 31 日 ロニー(Léon de Rosny, 1837–1914)を東洋語学校(École des languesorientales)に,ミリウと元吉清蔵7)をその寓居に訪ねるも,何れも不在.善連 は,この晩改めてミリウを訪ねて歓談し,ロンドン行の資金 60 フランを借りる. 2 月 1 日 ミリウを訪ね,善連は彼と共に翻訳.その後,ミリウと共にギメ博物 館に行き,彼の案内で諸室を巡覧.小泉は日本室を見て,報恩講を勤めるに十 分な荘厳具があることを確認.夜 7 時より公使館で談話. 2 月 2 日 善連,午前中,ミリウと約束した和歌に関する仕事をする.その後, ミリウと同宿の日本人 2 人と共にギメ博物館を見学. 2 月 3 日 ホテルをチェックアウトし,元吉と辻馬車でパリ各所を見物した後, 明治維新以降,海外に渡航した日本の仏教者がどのような体験をし,それが近 代日本仏教の展開や近代仏教学の形成にどのような影響を与えたのか.それを主 として印度留学に焦点を当てて検討するのが筆者の意図であり,小論はそうした 試みの一環である.
2.基本資料の説明
小泉・善連のトルコ・欧州行について,彼ら自身が残した記録・報告として次 の 7 点を挙げることができる.これらが,彼らの旅行体験を論ずるための基本資 料である. 小泉了諦著,中山義樹編『西游見聞記』(私家版)1893(以下『見聞記』と略す) 小泉了諦『修養逸話 六十六年夢物語』顕道書院,1916(以下『夢物語』) 小泉了海編『椰陰詩文鈔』(私家版)1938 善連法彦『土耳其行紀事』(稿本,福井市仏照寺蔵,以下『土耳其行』) 善連法彦『英仏行』(英文,稿本,福井市仏照寺蔵) 善連法彦の 1890,1891 年の日記(稿本,福井市仏照寺蔵,以下「善連日記」) 善連法彦「仏蘭西人の報恩講」『明教新誌』2897–2899,1891(以下「報恩講」) このうち『見聞記』は,小泉が在俗の弟子中山義樹に送った日録形式の手記を 中山が 1 冊に編集したものである.その前半はトルコ・欧州行の記録であるが, 後半は帰島後に朝倉と共に行ったブッダガヤー参拝とセイロン島巡遊の記録であ る2).『夢物語』は 66 歳の小泉の回想録で,トルコ・欧州行を述べた部分は,『見 聞記』に基づきながらも,『見聞記』には見られない心境や裏話等が語られてい る.『椰陰詩文鈔』は,「入竺編」に旅行中に作った漢詩文が収録されている. 『土耳其行』『英仏行』「善連日記」はいずれも善連の日記である3).『土耳其行』 は和文,『英仏行』は英文,「善連日記」は和文,英文,漢文等が混じっている. 『土耳其行』はトルコ行,『英仏行』は欧州行の記録で,「善連日記」はその両方を 含んでいるが,記述量は多くない.これら 3 種の日記には,それぞれ独自の記載 が見られるため,善連の,ひいては小泉の動向を把握するためには,これらを比 較検討することが必要である.「報恩講」は,善連が,帰国後間もない 1891 年 5 月 17 日に行った演説の記録である.なお彼の自坊であった仏照寺には,他にも彼 の学習ノート,雑記帳,写真,報恩講の招待状,書簡等が残っている4).3.小泉・善連のトルコ・欧州行の概略
前節に挙げた諸資料に基づいて,小泉と善連の旅行の概略をトルコ行とフラン ス・イギリス行に分けて述べる5). 3.1. トルコ行 1890 年(明治 23)11 月 16 日 「比叡」「金剛」コロンボ寄港.停泊中に軍人たち と留学生たちの交流が深まり,小泉と善連のイスタンブルまでの便乗が決まる. 11 月 20 日 「比叡」「金剛」コロンボ出港.「比叡」に小泉,「金剛」に善連が乗 船.イスタンブルまでの道中,軍隊布教に努める. 11 月 30 日 アデン着.12 月 3 日 アデン発. 12 月 10 日 スエズ着.12 月 17 日 スエズ発. 12 月 18 日 ポートサイド着.12 月 22 日 ポートサイド発. 12 月 26 日 ダーダネルス海峡口着.12 月 27 日 トルコ艦に生存者引き渡し. 12 月 28 日 スミルナ(イズミル)に回航.12 月 31 日 スミルナ発. 1891 年(明治 24)1 月 2 日 イスタンブル着.これより 1 月 15 日まで小泉・善 連,イスタンブル市内各所を探訪. 1 月 16 日 諸方に別離の連絡をし,下船の準備を整える. 3.2. 欧州行 1891 年 1 月 17 日 マルセイユ行に乗船.1 月 18 日 イスタンブル発. 1 月 28 日 善連,船中で旧知のミリウ(Alfred Millioud, 1864–1929)6)に手紙を書く. 1 月 29 日 マルセイユ着.汽車でパリに向かう. 1 月 30 日 パリ着.日本公使館を訪ね,代理公使大山綱介(1853–1912)に面会. 公使館で晩餐の饗応を受け,大山とその妻久子(1870–1955)等と懇談. 1 月 31 日 ロニー(Léon de Rosny, 1837–1914)を東洋語学校(École des languesorientales)に,ミリウと元吉清蔵7)をその寓居に訪ねるも,何れも不在.善連 は,この晩改めてミリウを訪ねて歓談し,ロンドン行の資金 60 フランを借りる. 2 月 1 日 ミリウを訪ね,善連は彼と共に翻訳.その後,ミリウと共にギメ博物 館に行き,彼の案内で諸室を巡覧.小泉は日本室を見て,報恩講を勤めるに十 分な荘厳具があることを確認.夜 7 時より公使館で談話. 2 月 2 日 善連,午前中,ミリウと約束した和歌に関する仕事をする.その後, ミリウと同宿の日本人 2 人と共にギメ博物館を見学. 2 月 3 日 ホテルをチェックアウトし,元吉と辻馬車でパリ各所を見物した後, 明治維新以降,海外に渡航した日本の仏教者がどのような体験をし,それが近 代日本仏教の展開や近代仏教学の形成にどのような影響を与えたのか.それを主 として印度留学に焦点を当てて検討するのが筆者の意図であり,小論はそうした 試みの一環である.
2.基本資料の説明
小泉・善連のトルコ・欧州行について,彼ら自身が残した記録・報告として次 の 7 点を挙げることができる.これらが,彼らの旅行体験を論ずるための基本資 料である. 小泉了諦著,中山義樹編『西游見聞記』(私家版)1893(以下『見聞記』と略す) 小泉了諦『修養逸話 六十六年夢物語』顕道書院,1916(以下『夢物語』) 小泉了海編『椰陰詩文鈔』(私家版)1938 善連法彦『土耳其行紀事』(稿本,福井市仏照寺蔵,以下『土耳其行』) 善連法彦『英仏行』(英文,稿本,福井市仏照寺蔵) 善連法彦の 1890,1891 年の日記(稿本,福井市仏照寺蔵,以下「善連日記」) 善連法彦「仏蘭西人の報恩講」『明教新誌』2897–2899,1891(以下「報恩講」) このうち『見聞記』は,小泉が在俗の弟子中山義樹に送った日録形式の手記を 中山が 1 冊に編集したものである.その前半はトルコ・欧州行の記録であるが, 後半は帰島後に朝倉と共に行ったブッダガヤー参拝とセイロン島巡遊の記録であ る2).『夢物語』は 66 歳の小泉の回想録で,トルコ・欧州行を述べた部分は,『見 聞記』に基づきながらも,『見聞記』には見られない心境や裏話等が語られてい る.『椰陰詩文鈔』は,「入竺編」に旅行中に作った漢詩文が収録されている. 『土耳其行』『英仏行』「善連日記」はいずれも善連の日記である3).『土耳其行』 は和文,『英仏行』は英文,「善連日記」は和文,英文,漢文等が混じっている. 『土耳其行』はトルコ行,『英仏行』は欧州行の記録で,「善連日記」はその両方を 含んでいるが,記述量は多くない.これら 3 種の日記には,それぞれ独自の記載 が見られるため,善連の,ひいては小泉の動向を把握するためには,これらを比 較検討することが必要である.「報恩講」は,善連が,帰国後間もない 1891 年 5 月 17 日に行った演説の記録である.なお彼の自坊であった仏照寺には,他にも彼 の学習ノート,雑記帳,写真,報恩講の招待状,書簡等が残っている4).影の許可を得たという. 2 月 24 日 スウェーデン公使夫妻に招待されて同公使館を訪問. 2 月 25 日 禿と高楠に報恩講の模様を手紙で知らせる.ギメ博物館で誤謬を整理 する.小泉,国立図書館の資料の写真撮影に関し,公使館の周旋を依頼して大 山公使の快諾を得る. 2 月 26 日 善連,元吉と共に「ル・フィガロ」を訪れ記者に会う. 2 月 28 日 2 人の演説会の企画が進められていたが,これを断る. 3 月 1 日 善連,元吉から説法集をもらい,彼に演説の材料を提供. 3 月 2 日 ギメ博物館に行き,ミユエ(Léon de Milloué)12)から赤松連城,島地黙 雷,大洲鉄然にフランス語訳『問対略記』13)を渡すよう依頼される.公使館に 行き,大山久子からもてなしを受ける. 3 月 3 日 ヴェルサイユで藤枝沢通(本願寺派,1861–1920)に会い,宮殿を見学. 3 月 4 日 公使館に招かれ日本食の饗応を受ける. 3 月 5 日 諸友に別れを告げ,公使館で晩餐を取る. 3 月 6 日 小泉,公使館に行き,1500 フランと贈物を受ける.ミリウと最後の食 事をし,駅まで見送られて汽車に乗る. 3 月 7 日 早朝リヨンで下車し,領事大越成徳(1856–1923)を訪問.修道士の寄 宿学校や大聖堂を視察.夜リヨン発. 3 月 8 日 マルセイユ着.善連,名誉日本領事デュリー(Léon Dury, 1822–1891)ら に会う.同日出港.26 日,コロンボ着.
4.旅行体験の諸相
以上に概観したトルコ・欧州行における小泉・善連の体験は,旅の諸段階に応 じて,次の 4 つのカテゴリーにまとめることができる. (1)艦内での軍人布教(コロンボからイスタンブルまで) (2)東西航路上の見聞(同) (3)オスマン帝国の視察(イスタンブル) (4)ジャポニスムの流行を背景にした日本学者(japonologue)・東洋学者 (oriental-iste)たちとの交流(フランス・イギリス) (1)小泉・善連は,軍艦への便乗を,イスラーム教の視察と同時に,日本の将兵 に対する試験的な布教の機会と捉えていた.小泉はこの面での活動を具体的には 記さず,ただ「日夜諸士ノ公務ノ間マヲ以テ予約ノ談話ニ充テシコトハ終始換ラ 汽車でロンドンに向かう. 2 月 4 日 ロンドン着.禿了教(1854–1937)8)を訪ね,共にオックスフォードに赴 き,高楠順次郎(1866–1945)に会う. 2 月 5 日 高楠の案内でオックスフォード大学のカレッジを巡覧.マックス・ミュ ラー(F. Max Müller, 1823–1900)を訪ねるも不在.夕方,ロンドンに帰る. 2 月 6 日 善連,ミリウに出状. 2 月 7 日 善連,領事館を訪れ,2 年前にコロンボのグランドオリエンタル・ホテ ルで会った領事吉田二郎に再会. 2 月 8 日 善連,キリスト教会と日曜学校を視察. 2 月 9 日 善連,ミリウに出状.禿と共にレッドビーター(Charles Leadbeater, 1854– 1934)の家を探すも見つからず.Theosophical Publishing Society を訪問.高楠よ り状を受ける.夜,禿と共に婦人協会の会合に招待される. 2 月 10 日 船便の情報を得るため船会社を回る. 2 月 11 日 善連,独りオックスフォードに行き高楠と快談. 2 月 12 日 善連,ロンドンに戻る.夜 10 時にホテルに帰ると,フォンデス(Charles Pfoundes, 1840–1907)9)の書き置きがあった. 2 月 13 日 午後 3 時,フォンデス来訪.夕食を挟んで日本仏教について談じる. 夜,汽車でパリに向かう. 2 月 14 日 パリ着.善連,ミリウを訪ねて食事を共にし,返金.彼と共に「真言 規」10)の翻訳を開始. 2 月 15 日 善連,ミリウにフォンデスからの手紙を見せられる.公使館で在仏日 本人会(会長:大山綱介)主催の仏教演説会が開かれ,小泉・善連等が演説. 2 月 16 日 小泉・善連,元吉・ミリウと共にギメ博物館に行き,ギメ(Émil Guimet, 1838–1925)の要請を受けて真宗の儀式の執行を諾する.東洋語学校で元吉の授 業を見学. 2 月 17 日~20 日 報恩講の準備.招待券を配り,表白文,額を書き,差定を翻訳 し,博物館で諸具を整える.18 日には河村四郎11)等と日本食の晩餐. 2 月 21 日 小泉・善連,午前 10 時から 11 時半までギメ博物館で報恩講を勤め る.出席者約 400 人.午後,レガメ(Félix Régamey, 1844–1907)が 2 人の肖像を 描く.公使館で晩餐会が開かれ,大山,報恩講を伝える新聞記事を読み上げる. 2 月 22 日 ミリウと共に写真館に行き写真を撮る. 2 月 23 日 国立図書館でチベット大蔵経と梵語仏典写本を閲覧.それらの写真撮影の許可を得たという. 2 月 24 日 スウェーデン公使夫妻に招待されて同公使館を訪問. 2 月 25 日 禿と高楠に報恩講の模様を手紙で知らせる.ギメ博物館で誤謬を整理 する.小泉,国立図書館の資料の写真撮影に関し,公使館の周旋を依頼して大 山公使の快諾を得る. 2 月 26 日 善連,元吉と共に「ル・フィガロ」を訪れ記者に会う. 2 月 28 日 2 人の演説会の企画が進められていたが,これを断る. 3 月 1 日 善連,元吉から説法集をもらい,彼に演説の材料を提供. 3 月 2 日 ギメ博物館に行き,ミユエ(Léon de Milloué)12)から赤松連城,島地黙 雷,大洲鉄然にフランス語訳『問対略記』13)を渡すよう依頼される.公使館に 行き,大山久子からもてなしを受ける. 3 月 3 日 ヴェルサイユで藤枝沢通(本願寺派,1861–1920)に会い,宮殿を見学. 3 月 4 日 公使館に招かれ日本食の饗応を受ける. 3 月 5 日 諸友に別れを告げ,公使館で晩餐を取る. 3 月 6 日 小泉,公使館に行き,1500 フランと贈物を受ける.ミリウと最後の食 事をし,駅まで見送られて汽車に乗る. 3 月 7 日 早朝リヨンで下車し,領事大越成徳(1856–1923)を訪問.修道士の寄 宿学校や大聖堂を視察.夜リヨン発. 3 月 8 日 マルセイユ着.善連,名誉日本領事デュリー(Léon Dury, 1822–1891)ら に会う.同日出港.26 日,コロンボ着.
4.旅行体験の諸相
以上に概観したトルコ・欧州行における小泉・善連の体験は,旅の諸段階に応 じて,次の 4 つのカテゴリーにまとめることができる. (1)艦内での軍人布教(コロンボからイスタンブルまで) (2)東西航路上の見聞(同) (3)オスマン帝国の視察(イスタンブル) (4)ジャポニスムの流行を背景にした日本学者(japonologue)・東洋学者 (oriental-iste)たちとの交流(フランス・イギリス) (1)小泉・善連は,軍艦への便乗を,イスラーム教の視察と同時に,日本の将兵 に対する試験的な布教の機会と捉えていた.小泉はこの面での活動を具体的には 記さず,ただ「日夜諸士ノ公務ノ間マヲ以テ予約ノ談話ニ充テシコトハ終始換ラ 汽車でロンドンに向かう. 2 月 4 日 ロンドン着.禿了教(1854–1937)8)を訪ね,共にオックスフォードに赴 き,高楠順次郎(1866–1945)に会う. 2 月 5 日 高楠の案内でオックスフォード大学のカレッジを巡覧.マックス・ミュ ラー(F. Max Müller, 1823–1900)を訪ねるも不在.夕方,ロンドンに帰る. 2 月 6 日 善連,ミリウに出状. 2 月 7 日 善連,領事館を訪れ,2 年前にコロンボのグランドオリエンタル・ホテ ルで会った領事吉田二郎に再会. 2 月 8 日 善連,キリスト教会と日曜学校を視察. 2 月 9 日 善連,ミリウに出状.禿と共にレッドビーター(Charles Leadbeater, 1854– 1934)の家を探すも見つからず.Theosophical Publishing Society を訪問.高楠よ り状を受ける.夜,禿と共に婦人協会の会合に招待される. 2 月 10 日 船便の情報を得るため船会社を回る. 2 月 11 日 善連,独りオックスフォードに行き高楠と快談. 2 月 12 日 善連,ロンドンに戻る.夜 10 時にホテルに帰ると,フォンデス(Charles Pfoundes, 1840–1907)9)の書き置きがあった. 2 月 13 日 午後 3 時,フォンデス来訪.夕食を挟んで日本仏教について談じる. 夜,汽車でパリに向かう. 2 月 14 日 パリ着.善連,ミリウを訪ねて食事を共にし,返金.彼と共に「真言 規」10)の翻訳を開始. 2 月 15 日 善連,ミリウにフォンデスからの手紙を見せられる.公使館で在仏日 本人会(会長:大山綱介)主催の仏教演説会が開かれ,小泉・善連等が演説. 2 月 16 日 小泉・善連,元吉・ミリウと共にギメ博物館に行き,ギメ(Émil Guimet, 1838–1925)の要請を受けて真宗の儀式の執行を諾する.東洋語学校で元吉の授 業を見学. 2 月 17 日~20 日 報恩講の準備.招待券を配り,表白文,額を書き,差定を翻訳 し,博物館で諸具を整える.18 日には河村四郎11)等と日本食の晩餐. 2 月 21 日 小泉・善連,午前 10 時から 11 時半までギメ博物館で報恩講を勤め る.出席者約 400 人.午後,レガメ(Félix Régamey, 1844–1907)が 2 人の肖像を 描く.公使館で晩餐会が開かれ,大山,報恩講を伝える新聞記事を読み上げる. 2 月 22 日 ミリウと共に写真館に行き写真を撮る. 2 月 23 日 国立図書館でチベット大蔵経と梵語仏典写本を閲覧.それらの写真撮て仏教的なジャポニスム体験であったと言うことができる.彼らの欧州行のハイ ライトであるギメ博物館での報恩講も,こうした状況の中で実現したものである ことは見逃すことができない.その予想外の成功によって,2 人は仏教の可能性 に自信を深めて帰途に就くことになった. 〈謝辞〉善連法彦関係資料をご提供下さった仏照寺の善連昻師と禿了教関係資料をご提供 下さった仁愛女子短期大学(福井市)に厚く御礼申し上げます. 1)これら印度留学生たちの動向については,奥山(2004, 2013, 2016)参照. 2)『見聞記』の大部分は『明教新誌』2931–2970(1891)に掲載されている.また後半 部は『伝燈』20–22(1891), 26(1892)に「仏陀伽耶参拝紀行」「印度楞伽島巡遊紀行」 として掲載されている. 3)これらの日記の研究に先鞭を着けたのは大門(1972)である.千葉(1994),石井 (2008)の研究と合わせて参考にした. 4)小泉が留学から持ち帰った資料については,小泉了慧(1986)と中川(2014)参照. 5)トルコ行の行程は奥山(2009, 2015)に詳述したので,以下では略記するに止める. 6)スイス出身の日本学者.『英仏行』「善連日記」では頻繁に Milloud と綴られ,時には Millond にも見える.善連による漢字音写は美黎宇.1890 年 8 月から 9 月にかけて,ミ リウはコロンボで善連から日本仏教を学んだ(Millioud 1892a,序文).このことは「善 連日記」からも確認できる.この時テキストに使われたのが凝然の『八宗綱要』であ り,ミリウは 2 年後にそのフランス語訳(Millioud 1892a, 1892b)を発表する. 7)『見聞記』『夢物語』「善連日記」では元吉清蔵.『英仏行』1891 年 2 月 15 日では本吉 清蔵.「報恩講」では元吉正蔵.『英仏行』のローマ字綴りは Saizo Motoyoshi である が,1 例のみ Kiyozo.この人物は当時の東洋語学校の répétiteurs indigene(現地語復習 助手)の 1 人として名前が知られるが(Labrousse 1995, 323),その他の経歴は不明. 8)小泉と同じ鯖江出身の誠照寺派僧侶.1890 年 5 月から約 2 年間,欧米諸国を視察旅 行した(仁愛女子高等学校百年史編纂委員会 1998, 16–25).その間,11 月 27 日にロン ドンで真宗の報恩講を勤めたという.これが 1890 年の出来事であるとすれば,ギメ博 物館での小泉・善連による実施よりも 3 ヵ月ほど早かったことになる. 9)アイルランド出身の仏教者,日本学者.善連の漢字音写は普恩出寿.1889 年にロン ドンで Buddhist Propagation Society を結成し,仏教伝道活動を進めていた.
10)どのような文献か不明.あるいは真言宗の「清規」か.
11) ギメ博物館の翻訳者で,1893 年から 1894 年にかけてパリに滞在した真言宗の土宜法 龍(1854–1923)と共にフランス語版『四度印図』(Toki, Kawamura, and de Milloué 1899)の制作に当たったことで知られる.詳しい経歴は不明.
12)『英仏行』は Du Mulleoud,「善連日記」は Du Millioud と綴る.ミユエはフランスの 東洋学者.彼はフランス語版『四度印図』(Toki, Kawamura, and de Milloué 1899)にギ メ博物館の conservateur として序文を書いている. 13)『英仏行』には “Montaizakki”,「善連日記」には『問対雑記』とあるが,托された状 ス情深ク愛積リ親密ヲ加ルハ日一日夜一夜層一層喜ハシキコトノ限リナキ有容ナ リシ」(『見聞記』p. 2)と述べるに止まっている.これに対して善連は,自らが一 筋縄ではゆかない軍人布教に試行錯誤を重ね,プログラム作りに腐心している様 を克明に記している.日本における従軍僧の派遣は日清戦争から本格化する.こ れはそれに先駆けた試みの一つと言うことができる. (2)コロンボからアデン,スエズと寄港し,スエズ運河(1869 年開通)を通って ポートサイドから地中海に出る航路は,洋の東西を結ぶ交通運輸の大動脈であっ た.これらの寄港地で,小泉・善連は機会ある毎にイスラーム教について知ろう と努めている.しかし,彼らの注意をより引きつけたのは,この航路に沿って東 方へと勢力を拡大して止まない西洋列強とキリスト教の動きであったようである. 殊に小泉は,かつて「耶蘇教撲滅論」で名を馳せた人物であり(小泉了海 1970, 21), こうした点には敏感であった.例えば,彼はアデンの書店で各国語に訳された聖 書が廉価に販売されていることに驚き,日本における仏徒育成にも工夫が必要だ と自戒している(『見聞記』pp. 5–6).このような体験は,帰国後の彼らの活動に影 響したと見てよいであろう. (3)イスタンブルに着くと,2 人は日本から来た軍人使節団と同様に,極めて温 かい歓迎を受けた.彼らは,使節団の正式なメンバーではなかったために,公式 日程に縛られることなく,自由に動き回ることができたようである.宮殿,モス ク,学校,役所,病院,博物館等を精力的に視察し,モスクを訪ねてイスラーム 法学者と問答を試みたりもしている.善連はその見聞を熱心に記録した.彼らは, イスタンブルにそびえる豪華な宮殿や壮大なモスクに驚く一方,この帝国の衰耗 の兆しを見逃さなかった.「唯願フ我日本ヲ亜細亜ノ土耳其ト評セラルコトナカラ ンヲ」(『見聞記』p. 38)といった思いを記している. (4)2 人のフランス・イギリス旅行は,パリとロンドンにある小さな日本人コミュ ニティーを結ぶラインをたどるものであった.彼らにとって特に大きかったのは, パリの大山綱介・久子夫婦の存在である.こうしたコミュニティーの外側には, ジャポニスムが流行する中,日本学者,東洋学者たちが集まっていた.前節で見 たフランスのミリウ,ロニー,ギメ,ミユエ,イギリスのフォンデスといった人々 である.徹頭徹尾日本の僧侶として行動する 2 人の存在が彼らに注目されないは ずがない.とりわけ,善連とミリウの交流は,前年のセイロンにおける師弟関係 を再演する14),濃密なものであった.小泉・善連は,西洋近代文明の中心地で, いわば「小さな東洋」に迎え入れられたのであり,彼らの西洋体験とは,主とし
て仏教的なジャポニスム体験であったと言うことができる.彼らの欧州行のハイ ライトであるギメ博物館での報恩講も,こうした状況の中で実現したものである ことは見逃すことができない.その予想外の成功によって,2 人は仏教の可能性 に自信を深めて帰途に就くことになった. 〈謝辞〉善連法彦関係資料をご提供下さった仏照寺の善連昻師と禿了教関係資料をご提供 下さった仁愛女子短期大学(福井市)に厚く御礼申し上げます. 1)これら印度留学生たちの動向については,奥山(2004, 2013, 2016)参照. 2)『見聞記』の大部分は『明教新誌』2931–2970(1891)に掲載されている.また後半 部は『伝燈』20–22(1891), 26(1892)に「仏陀伽耶参拝紀行」「印度楞伽島巡遊紀行」 として掲載されている. 3)これらの日記の研究に先鞭を着けたのは大門(1972)である.千葉(1994),石井 (2008)の研究と合わせて参考にした. 4)小泉が留学から持ち帰った資料については,小泉了慧(1986)と中川(2014)参照. 5)トルコ行の行程は奥山(2009, 2015)に詳述したので,以下では略記するに止める. 6)スイス出身の日本学者.『英仏行』「善連日記」では頻繁に Milloud と綴られ,時には Millond にも見える.善連による漢字音写は美黎宇.1890 年 8 月から 9 月にかけて,ミ リウはコロンボで善連から日本仏教を学んだ(Millioud 1892a,序文).このことは「善 連日記」からも確認できる.この時テキストに使われたのが凝然の『八宗綱要』であ り,ミリウは 2 年後にそのフランス語訳(Millioud 1892a, 1892b)を発表する. 7)『見聞記』『夢物語』「善連日記」では元吉清蔵.『英仏行』1891 年 2 月 15 日では本吉 清蔵.「報恩講」では元吉正蔵.『英仏行』のローマ字綴りは Saizo Motoyoshi である が,1 例のみ Kiyozo.この人物は当時の東洋語学校の répétiteurs indigene(現地語復習 助手)の 1 人として名前が知られるが(Labrousse 1995, 323),その他の経歴は不明. 8)小泉と同じ鯖江出身の誠照寺派僧侶.1890 年 5 月から約 2 年間,欧米諸国を視察旅 行した(仁愛女子高等学校百年史編纂委員会 1998, 16–25).その間,11 月 27 日にロン ドンで真宗の報恩講を勤めたという.これが 1890 年の出来事であるとすれば,ギメ博 物館での小泉・善連による実施よりも 3 ヵ月ほど早かったことになる. 9)アイルランド出身の仏教者,日本学者.善連の漢字音写は普恩出寿.1889 年にロン ドンで Buddhist Propagation Society を結成し,仏教伝道活動を進めていた.
10)どのような文献か不明.あるいは真言宗の「清規」か.
11) ギメ博物館の翻訳者で,1893 年から 1894 年にかけてパリに滞在した真言宗の土宜法 龍(1854–1923)と共にフランス語版『四度印図』(Toki, Kawamura, and de Milloué 1899)の制作に当たったことで知られる.詳しい経歴は不明.
12)『英仏行』は Du Mulleoud,「善連日記」は Du Millioud と綴る.ミユエはフランスの 東洋学者.彼はフランス語版『四度印図』(Toki, Kawamura, and de Milloué 1899)にギ メ博物館の conservateur として序文を書いている. 13)『英仏行』には “Montaizakki”,「善連日記」には『問対雑記』とあるが,托された状 ス情深ク愛積リ親密ヲ加ルハ日一日夜一夜層一層喜ハシキコトノ限リナキ有容ナ リシ」(『見聞記』p. 2)と述べるに止まっている.これに対して善連は,自らが一 筋縄ではゆかない軍人布教に試行錯誤を重ね,プログラム作りに腐心している様 を克明に記している.日本における従軍僧の派遣は日清戦争から本格化する.こ れはそれに先駆けた試みの一つと言うことができる. (2)コロンボからアデン,スエズと寄港し,スエズ運河(1869 年開通)を通って ポートサイドから地中海に出る航路は,洋の東西を結ぶ交通運輸の大動脈であっ た.これらの寄港地で,小泉・善連は機会ある毎にイスラーム教について知ろう と努めている.しかし,彼らの注意をより引きつけたのは,この航路に沿って東 方へと勢力を拡大して止まない西洋列強とキリスト教の動きであったようである. 殊に小泉は,かつて「耶蘇教撲滅論」で名を馳せた人物であり(小泉了海 1970, 21), こうした点には敏感であった.例えば,彼はアデンの書店で各国語に訳された聖 書が廉価に販売されていることに驚き,日本における仏徒育成にも工夫が必要だ と自戒している(『見聞記』pp. 5–6).このような体験は,帰国後の彼らの活動に影 響したと見てよいであろう. (3)イスタンブルに着くと,2 人は日本から来た軍人使節団と同様に,極めて温 かい歓迎を受けた.彼らは,使節団の正式なメンバーではなかったために,公式 日程に縛られることなく,自由に動き回ることができたようである.宮殿,モス ク,学校,役所,病院,博物館等を精力的に視察し,モスクを訪ねてイスラーム 法学者と問答を試みたりもしている.善連はその見聞を熱心に記録した.彼らは, イスタンブルにそびえる豪華な宮殿や壮大なモスクに驚く一方,この帝国の衰耗 の兆しを見逃さなかった.「唯願フ我日本ヲ亜細亜ノ土耳其ト評セラルコトナカラ ンヲ」(『見聞記』p. 38)といった思いを記している. (4)2 人のフランス・イギリス旅行は,パリとロンドンにある小さな日本人コミュ ニティーを結ぶラインをたどるものであった.彼らにとって特に大きかったのは, パリの大山綱介・久子夫婦の存在である.こうしたコミュニティーの外側には, ジャポニスムが流行する中,日本学者,東洋学者たちが集まっていた.前節で見 たフランスのミリウ,ロニー,ギメ,ミユエ,イギリスのフォンデスといった人々 である.徹頭徹尾日本の僧侶として行動する 2 人の存在が彼らに注目されないは ずがない.とりわけ,善連とミリウの交流は,前年のセイロンにおける師弟関係 を再演する14),濃密なものであった.小泉・善連は,西洋近代文明の中心地で, いわば「小さな東洋」に迎え入れられたのであり,彼らの西洋体験とは,主とし
栄西と『宗鏡録』
――『興禅護国論』における『宗鏡録』援用――
柳 幹 康
はじめに
本論文では,『興禅護国論』(以下『護国論』)における『宗鏡録』の援用状況を 精査し,栄西が『宗鏡録』を用いた意図・背景に分析を加える. 『宗鏡録』は五代十国時代に活躍した呉越国の禅僧永明延寿えいめいえんじゅ(904–976)の主著で あり,その内容は禅宗所伝の一心を核に唐代以前の多元的仏教を一元的に統合す るものとなっている.その成立は 961–964 年で,禅宗が仏教界を席巻する北宋に なると仏教の正統説と公認されて大蔵経に収められ,その後次第に諸宗融合の道 をたどる中国仏教にその理論的根拠を提供し珍重された1).また高麗・日本にも 早くに伝わり受容され,その影響は東アジア全体に及ぶ2).かかる『宗鏡録』の 受容状況を分析することは,各地の仏教を理解するうえでも,また東アジアの仏 教全体を展望するうえでも,ともに重要である. 栄西(1141–1215)は平安末から鎌倉にいたる動乱期に活躍した高僧であり,比 叡山の教学が細分化する時代にあって二度入宋して虚庵懐敞(生没年未詳)から臨 済宗黄竜派の禅法を承け,帰国後総合的仏教を宣揚した.日本臨済宗の祖として 今日広く知られるが,二度の入宋のいずれもが必ずしも参禅を目的としていなかっ たこと,彼が後に開いた建仁寺が真言・止観・禅の三宗を兼修する総合的道場で あったこと,その生涯を通じて密教に関する著作を多く残したことなどから分か るように,その立場は禅のみに限定されない3).近年では栄西の著作が複数新た に発見されたこともあり,その思想の見直しが多角的に進められている4). 拙論で分析対象にとりあげる『護国論』は,比叡山から禅宗批判を受けた栄西 が,禅の正当性を明かすため 1198 年 58 歳の時に編んだと目される書物である5). その 7 年前の秋,栄西は二度目の入宋より帰国して長崎の平戸葦浦に着き,翌月 同地の小院に迎えられ禅規を行うとともに,その翌年筑前香椎神宮の側に建久報 恩寺を開き菩薩大戒の布薩を行った.その経歴に鑑みてこの菩薩大戒は,栄西自 況を考えれば,これは南條文雄の同名の書(能潤会,1886)ではなく,1876 年 9 月に 西本願寺飛雲閣で行われた島地,渥美契縁,赤松とギメとの問答を記録した干河貫一 の『問対略記』(1877)である蓋然性が高い. 14)注 6 参照. 〈参考文献〉 石井公成 2008「明治期における海外渡航僧の諸相――北畠道龍,小泉了諦,織田得能, 井上秀天,A・ダルマパーラ――」『近代仏教』15: 1–24. 奥山直司 2004「ランカーの八僧――明治二十年代前半の印度留学僧の事績――」『仏教文 化学会十周年北條賢三博士古稀記念論文集 インド学諸思想とその周延』山喜房仏書林, 86–103. ――― 2009「明治インド留学生が見た『比叡』と『金剛』の航海」『アジア文化研究所研 究年報』43: 65–81. ――― 2013「明治インド留学生――興然と宗演――」田中雅一・奥山直司編『コンタク ト・ゾーンの人文学』VI:Postcolonial/ポストコロニアル,晃洋書房,229–257. ――― 2015「善連法彦と『土耳其行紀事』」『アジア文化研究所研究年報』49: (222)–(238). ――― 2016「明治印度留学生――その南アジア体験をめぐって――」『印仏研』64 (2): 1042–1035. 小泉了慧 1986『50 回忌法要記念 椰陰道人小泉了諦遺品遺墨展』私家版. 小泉了海 1970『小泉了諦小伝』法林寺親近会. 仁愛女子高等学校百年史編纂委員会編 1998『仁愛女子高等学校百年史』仁愛女子高等 学校. 大門照忍 1972「パリの報恩講」『大谷学報』51 (4): 97–99. 千葉乗隆 1994「一八九一年,パリの報恩講」『中西智海先生還暦記念論文集 親鸞の仏教』 永田文昌堂,799–817. 中川正法 2014「博多萬行寺所蔵シンハラ文字資料について――小泉了諦と七里恒順――」 中川正法・緒方知美・遠藤一編『九州真宗の源流と水脈』法蔵館,253–277.Labrousse, Pierre. 1995. Langues O’l 1795–1995, deux siècles d’histoire de l’École des Langues Orientales. Paris: INALCO-Éditions Hervas.
Millioud, Alfred, trans. 1892a. “Esquisse des huit sectes bouddhistes du japon par Gyau-nen, de la secte Kegon (1289.ap.J.-C).” Revue de l’histoire des religions 25: 219–243, 337–360. ――― . 1892b. “Esquisse des huit sectes bouddhistes du japon par Gyau-nen, de la secte Kegon
(1289.ap.J.-C).” Revue de l’histoire des religions 26: 201–219, 279–315.
Toki, Horiou, S. Kawamura, and L. de Milloué. 1899. Si-do-in-dzou: Gestes de l’officiant dans les cérémonies mystiques des sects Tendaï et Singon. Paris: E.Leroux.
〈キーワード〉 小泉了諦,善連法彦,トルコ,Alfred Millioud,ギメ博物館,報恩講 (高野山大学教授)