学位論文
「人道的介入における武力行使と外交交渉:ソマリア、ボスニア、コソボ を事例として」
‘The Use of Force and Diplomatic Negotiations in Humanitarian Intervention: The Cases of Somalia, Bosnia and Kosovo’
小松 志朗
早稲田大学大学院 政治学研究科 研究生( 31101804-9 )
1
目次
略語一覧 -4 頁
図表一覧 -4 頁
第 1 章 序論 -5 頁 第 2 章 ソマリア:希望回復作戦 -39 頁
第1節 人道的介入とは何か -6 頁 第1節 紛争の概要 -41 頁
(1)研究テーマとしての人道的介入 第2節 介入の構図 -43 頁
(2)人道的介入の特徴 第3節 武力行使の経緯と概要 -43 頁
(a)人道性 (1)UNOSOM Iと救援提供作戦 (b)不確実な正統性 (2)アメリカの決断
(c)軍事資源の調達における制約 (3)希望回復作戦
(d)秩序と正義の調和 第4節 武力行使の正統性 -53 頁
第2節 研究の目的-18 頁 (1)安保理決議794
(2)決議採択を促した要因
(1)先行研究の検討
(3)安定的な正統性
(a)正統性への偏り
第5節 武力行使の実効性 -55 頁
(b)正統性から実効性へ:研究の重点のシフト
(2)研究の目的 (1)軍事行動の成功
(a)実効性に関する有益な一般的知見 (2)武力行使の成功
(b)実効性の評価 第6節 外交交渉 -57 頁
(c)正統性の位置づけ (1)第1回アディスアベバ会議
第3節 研究の枠組 -27 頁 (2)第2回アディスアベバ会議(国民和解会議)
第7節 武力行使と外交交渉 -60 頁
(1)複合的プロセスとしての人道的介入
(a)人道的介入の定義 (1)武力行使の限定性
(b)武力行使 (2)武力行使と外交交渉の連携の欠如 (c)外交交渉 第8節 小括 -66 頁
(d)軍事・外交関係と軍事・外交戦略:直接ア プローチと間接アプローチ
(2)事例の選択 (3)資料
2
第 3 章 ボスニア:限定空爆と周到な力作戦 -69 頁 第 4 章 コソボ:同盟の力作戦 -121 頁
第1節 紛争の概要 -71 頁 第1節 紛争の概要 -123 頁
第2節 介入の構図 -74 頁 第2節 介入の構図 -126 頁
第3節 武力行使の経緯と概要 -76 頁 第3節 武力行使の経緯と概要 -127 頁
(1)UNPROFORとNATO (1)武力の威嚇
(2)安全地域政策 (2)同盟の力作戦
(3)限定空爆 第4節 武力行使の正統性 -141 頁
(4)周到な力作戦 (1)ロシアの反対 第4節 武力行使の正統性 -94 頁 (2)ヨーロッパの迷い
第5節 武力行使の実効性 -144 頁
(1)限定空爆の正統性
(2)周到な力作戦の正統性 (1)同盟の力作戦の成功と失敗 第5節 武力行使の実効性 -98 頁 (2)ミロシェビッチが譲歩した理由
第6節 外交交渉 -147 頁
(1)限定空爆の失敗
(2)周到な力作戦の成功 (1)空爆前の外交交渉 第6節 外交交渉 -100 頁 (2)空爆中の外交交渉
第7節 武力行使と外交交渉 -157 頁
(1)ヨーロッパ・国連主導の外交交渉
(2)アメリカ主導の外交交渉 (1)武力行使と外交交渉の組み合わせ 第7節 武力行使と外交交渉 -107 頁 (2)苦戦の要因
(3)成功の要因
(1)限定空爆の軍事・外交関係
第8節 小括 -163 頁
(2)周到な力作戦の軍事・外交関係 第8節 小括 -117 頁
第 5 章 結論 -165 頁
第1節 有効な軍事・外交戦略の欠如 -166 頁
第2節 武力行使の限界 -168 頁
(1)直接/間接アプローチの選択と武力行使の限界 (2)直接アプローチにおける武力行使の限界 (3)間接アプローチにおける武力行使の限界 (4)武力行使と外交交渉のギャップ
第3節 武力行使の可能性 -173 頁
参考文献一覧 -177 頁
インタビュー相手一覧 -189 頁
3
4 略語一覧
ICFY (International Conference on the Former Yugoslavia):旧ユーゴ国際会議
ICISS (International Commission on Intervention and State Sovereignty):介入と国家主 権に関する国際委員会
IICK (Independent International Commission on Kosovo) :コソボ問題独立国際委員会 KLA (Kosovo Liberation Army):コソボ解放軍
NATO (North Atlantic Treaty Organization) :北大西洋条約機構 NGO (non-governmental organization):非政府間国際組織
OSCE (Organization for Security and Co-operation in Europe):欧州安全保障協力機構 PKO (UN Peace-Keeping Operations):国連平和維持活動
UNHCR (UN High Commissioner for Refugees):国連難民高等弁務官事務所 UNITAF (Unified Task Force):統一タスクフォース
UNOSOM I (UN Operation in Somalia I ):第1次国連ソマリア活動 UNOSOM II (UN Operation in Somalia II ):第2次国連ソマリア活動 UNPROFOR (UN Protection Force):国連保護軍
USC (United Somali Congress):統一ソマリア会議
図表一覧
図1.1. 人道的介入のイメージ
図1.2. 武力行使の種類
表2.1. ソマリア介入年表 表2.2. UNITAFの交戦規定 表2.3. ソマリア介入の効果 表3.1. ボスニア介入年表 表3.2. ボスニア介入の効果 表4.1. コソボ介入年表 表4.2. コソボ介入の効果 表5.1. 3事例の概要
地図2.1. ソマリア 地図3.1. ボスニア
地図4.1. コソボ(セルビア)
第 1 章 序論
5
第 1 章 序論
「人道的介入(humanitarian intervention)」は古くて新しい問題である。人道的介入と いう用語が定着したのは 20 世紀後半になってからだが、その用語を用いずとも古くから、
圧政に苦しむ他国の一般市民を軍事力でもって救うことの是非はしばしば問われてきた。
すでに16世紀には政治思想家のボダン(Jean Bodin)が、主著において全体としては絶対 的な主権概念を提示しながらも、「僭主の殺害を試みること、彼の死後に彼の法令を無効に すること、廃棄することは合法か否か」というタイトルの章で、人道的介入らしきものの 正当化を試みている1。ボダンといえば、近代的な主権概念を初めて体系化した思想家とし て知られる。その彼が興味深いことに、主権者たる僭主の圧政から一般市民を救うために、
主権を一時的に制限することの可能性に言及していたのである。彼の後にも、17 世紀には グロチウス(Hugo Grotius)、18世紀にはヴァッテル(Emer de Vattel)など様々な人々 が同じ問題に関心を寄せてきた2。ボダン、グロチウス、ヴァッテルと3人の名前を見ただ けでも、介入をめぐる議論に古い歴史があることは容易に想像されよう。
そして1990年代、人道的介入の事例が続けて発生する中で、それは国際社会における新 しい問題として改めて関心を集めるようになった。この時期に事例が続いた背景には、冷 戦の終結という歴史的転換がある。すなわち、一方で介入主体が対処しようとした人道的 危機は、冷戦のくびきによる抑制が消えたことで激化した内戦や地域紛争の中で発生した ものであり、他方、欧米諸国や国際連合による積極的な介入が可能になったのは、冷戦が 終わり、東西対立の論理に縛られることなく行動できる環境が生まれたからである。被介 入側と介入側のどちらについても、冷戦という特殊な時代からのいわば「解放」が大きな 意味をもっていたのである。
こうして冷戦後の国際社会において人道的介入が新しい問題として現れると、当然多く の研究がそれを追って現れた。様々なアプローチにより人道的介入の様々な側面が明らか にされ、今やこの複雑な問題に対する我々の理解も相当深まったように思われる。しかし ながら、そうした状況にあってもまだ重要な研究課題が残されていることも事実である。
それは介入の実効性に関するものである。本章では、この残された課題を明らかにし、そ れを踏まえた上で本稿の研究の目的と枠組を示すこととする。
第 1 節 人道的介入とは何か
そもそも人道的介入とは何か。研究の目的と枠組を示す前に、まずはこの点を確認して おく必要があるだろう。ここでは「研究テーマとしての人道的介入」および「人道的介入
1 Bodin (1992), book 2, chap. 5.
2 グロチウスとヴァッテルの人道的介入に対する考え方は、以下の拙論で検討した。小松 (2004a)。
6
の特徴」という2つの切り口から考えたい。
(1)研究テーマとしての人道的介入
なぜ人道的介入は多くの人の関心を集め、活発な論争を巻き起こすのか。あるいは、ど のような意味において人道的介入は研究テーマとして重要なのか。厳密な定義は後に譲る が、人道的介入とは簡単にいえば人道目的の軍事介入である。すなわち、ある国家で大規 模かつ深刻な人権侵害・人道法違反(いわゆる人道的危機)が発生して、それを止めるた めに他の国家が軍隊を送り込んだり空爆を行ったりする時、それを人道的介入と呼ぶので ある。そのような行為は我々に、秩序と正義の間でのジレンマを突きつける。というのも、
現代国際社会では、国際秩序の維持に不可欠な原則として内政不干渉原則と武力不行使原 則が確立しているが、他方で世界人権宣言、ジュネーブ諸条約、国際人権規約に代表され る国際人権法・人道法の発展が示すように、どの国の国民であろうと等しく人権は保障さ れなければならないという正義の要請も無視できないからである。我々は秩序と正義のど ちらを優先すれば良いのか。そのように国際社会の根幹に関わる問題であるという意味に おいて、人道的介入は研究テーマとして重要なのである。
しかしながら、それは長い間専ら学問上、理論上の問題にとどまり、現実の世界で切迫 した問題として浮上することはなかった。そうした状況に変化が訪れたのが1990年代であ る。ヨーロッパやアフリカの国々において、内戦の混乱の中で夥しい数の一般市民が迫害 されたり、殺されたり、住むところを追われたりする中で、人道的介入をめぐる秩序と正 義のジレンマが極めて現実的な問題として立ち現れた。そして実際に、何度か介入が行わ れた。だが、それでもジレンマが解けた――秩序よりも正義を優先させることで国際社会 が合意した――とはいえない。むしろ、そのジレンマをめぐる論争、すなわち介入の是非 をめぐる論争が一層活発になったというべきだろう3。
1990 年代のいくつかの介入事例の中で、とりわけ論争を活発にしたのが1999年のコソ ボ介入である。これは、ユーゴスラビア政府による同国内のコソボ自治州のアルバニア人 に対する弾圧を止めるために、北大西洋条約機構(North Atlantic Treaty Organization:
NATO)が空爆を行ったものである。その空爆が国連の安全保障理事会の決議を得ずに強行 されたために、世界中で物議を醸したのである。後に見るように、現代国際社会が秩序と 正義のジレンマを克服するために築き上げたのが、「安保理決議に基づく人道的介入」とい う方式である。それは、安保理決議の中で人道的危機を「平和に対する脅威」と位置づけ て、それを止めるための武力行使を認めるというものである。ところがNATOはこの方式を とらずに、独自の判断で空爆に踏み切った。明らかに秩序を揺るがす危険な行為であった。
しかしながら同時に、安保理決議が得られないということで空爆を見送っていたら、さら
3 日本では、2000年に4つの学会で人道的介入に関する報告と討論が行われた。大沼 (2001)、
3頁。
7
に多くのアルバニア人が家を追われ、命を落とすことも確実だったといわれる。後にこの 介 入 を 詳 細 に 検 証 し た コ ソ ボ 問 題 独 立 国 際 委 員 会 (Independent International Commission on Kosovo: IICK)は、「正統だが合法ではない(legitimate, but not legal)」介 入だったとの評価を下している4。分かりやすくいえば、この介入は正義の実現(アルバニ ア人の救済)のためにはやむを得なかったが、内政不干渉原則および武力不行使原則の例 外として認められた「安保理決議に基づく人道的介入」の方式に則っていないという意味 で、合法とは言い難いということである5。秩序と正義のジレンマを解くことの難しさを象 徴する評価だといえよう。
ただ過去との比較でいえば、一般論として、冷戦後の国際社会が人道的介入を以前より 許容するようになったことは事実である。ダムロシュ(Lori Fisler Damrosch)は1993年 に出版された編著において、1991年の湾岸戦争以前には国際社会が何らかの目的のために 協調して行動することなど、とりわけ内戦を抑制しようとすることなど考えもできなかっ たとした上で、以下のように述べている。
「わずか数年の間に議論の条件が劇的に変わった。国内紛争への介入は正統 性がないと推定されるという見解に代わって、今日支配的なトレンドは、
国際社会は流血を防ぐために利用できるあらゆる手段を使って介入すべき であるという主張を、真剣に考慮するというものである。法的議論が今焦 点を当てているのは、介入を原則として非難するのか正当化するのかとい うことではなく、国内の暴力を緩和するための集団的行動の動員にまつわ る実際的な問題を、どうすれば一番上手く解決できるのかということであ る6」。
東郷が指摘するように、第二次世界大戦後から一貫して国際的な人権意識が高まる流れ の中で、今や介入は「覇権主義による外交戦略から、より普遍的な国際正義と人間的良心 に根ざした普遍主義による外交行動への転換として、広く国際社会の中で受け止められ、
4 IICK (2000), p. 289.
5 篠田はこのことに関して、国際社会における法の支配という観点から次のように述べてい る。「世界政府がない状態で人権保障を国際的に行うならば、第三国あるいは国際機関など が、人権侵害が行われている国家に介入して是正策をとらなければならない。この意味に おいて、人道的介入は、国際社会の立憲的秩序を維持するための役割を持ちうる。たとえ ば1999年のNATO諸国によるユーゴスラビア空爆は、ユーゴスラビア政府によるコソボ での甚大な人権侵害を食い止めるという人道的理由にもとづいて行われた。その介入の実 定法主義的立場からの合法性は、疑わしいものでしかなかったが、しかし広義の法の支配 の観点からすれば、生命にかかわる根本的な人権を擁護するための措置をとること自体は、
正当性を持っていると考えられた。実際に多くの者が、狭義の法の支配からは認められな いNATO諸国による国際法規則からの逸脱行為を、(たとえ実定法の観点からは違法であっ ても)正当なものであるとみなした」。篠田 (2003b)、48頁。
6 Damrosch (1993), p. 364.
8
次第に容認、受容されるようになってきた7」。青井もこう述べる。「人道的介入はもはや原 則レベルの問題ではなく、むしろ政治的利害が絡む実施の問題によってその成果や評価、
さらには正統性が決定される……。事実、国家間の議論では、主権、内政不干渉、武力不 行使に則った原則的人道的介入反対論も存在するが、実施プロセスに関する問題が中心的 な論点となってきているように思われる8」。
そのような現状を象徴するのが、介入と国家主権に関する国際委員会(The International Commission on Intervention and State Sovereignty: ICISS)の提唱した「保護する責任」
論である。緒方貞子やイグナティエフ(Michael Ignatieff)など世界的な有識者12人から 構成された同委員会は、人道的介入の問題について討議する機関として2000年9月にカナ ダ政府の主導で設立され、翌年12月に『保護する責任』というタイトルの報告書を発表し た9。そこで提起したのが「保護する責任」論である。その基本的な考え方は次の通りであ る。「主権国家は自国民を、避けられる災難から――大量殺人、強姦、飢餓から――保護す る責任を負っているが、国家がそうする意志あるいは能力をもたない時には、その責任は より広い諸国家の共同体によって負われなければならない10」。報告書はそこから議論を進 めて「保護する責任」を、「予防する責任」、「反応する責任」、「再構築する責任」という 3 つの責任に分ける。このうち人道的介入に関わるのは「反応する責任」で、他の 2 つは介 入の前後に関係する。当然、武力行使の前に、出来る限り予防措置がとられなくてはなら ない。その意味で「予防する責任」は「反応する責任」に優先する。だが、しばしば予防 は失敗する。その時「予防する責任」から「反応する責任」へと段階が移り、国際社会が 武力行使に踏み切らざるを得ない局面が訪れる。「保護する責任」に基づく人道的介入が始 まるのである。
「保護する責任」論はその後の国連での議論も引き継がれただけでなく、学問やジャー ナリズムの世界でも普及しており、今や介入の問題を考える際には不可欠な理論的前提と して定着した感がある11。もちろん途上国を中心になお根強い介入反対論は残っている。し かしそれでも、冷戦期あるいはそれ以前の時代と比べた時に、今日の国際社会で介入を許 容する素地が広がっている事実は否定できない。人道的介入は、今や単なる疑惑の対象で はなく、一つの政策オプションとしての地位を認められつつあり、そのようなものとして すぐれて現代的で重要な研究テーマとなっている12。本稿の議論の背景には、こうした国際
7 東郷 (2000)、117頁。
8 青井 (2000)、120頁。
9 ICISS (2001).
10 Ibid., p. VIII.
11 例えば2005年9月に開かれた国連サミットの成果文書には、「保護する責任」の項目が ある。UN Doc., A/RES/60/1, October 24, 2005, para. 138-140. 筆者が本稿のためにインタ ビューを行った国内外の政府関係者も、介入について語る中でしばしば「保護する責任」
という言葉を口にしていた。
12 このような新しい潮流はしばしば「新介入主義」と称される。この点については以下を 参照。篠田 (2003a); 星野 (2003a)。
9
的な潮流がある。
(2)人道的介入の特徴
人道的介入の特徴は何か。ここでは、第 2 章以降の本論の前提となる人道的介入像を示 しておきたい。結論からいえば人道的介入の特徴は、人道性という本質、不確かな正統性 という限界、軍事資源の調達における制約、「秩序と正義の調和」という方向性の4つであ る。
(a)人道性
人道的介入の最も根本的な特徴、すなわち本質は文字通りその人道性にある。もちろん これは、介入する国家が純粋に人道的な動機から行動することを意味するわけではない。
ウォルツァー(Michael Walzer)が言うように、政治において純粋な善意などというもの は幻想に過ぎない13。しかしながら、現代の国際政治において、人道的な動機が決して無視 できない要素であることもまた真実だろう。純粋に人道的な動機による国家の行動などあ り得ないことは確かだが、かといって純粋に国益のみを追求する行動ばかりでもない。例 えば、1990年代前半にアメリカはソマリア介入を主導したが、ソマリアにアメリカの国益 がなかったこと、少なくとも軍隊を送りこむほどの死活的な国益がなかったことは周知の 事実である。当時のブッシュ(父)政権(George H. W. Bush)で国家安全保障問題担当大 統領補佐官を務めたスコウクロフト(Brent Scowcroft)は、大統領は人道的な動機から介 入を決断したと明言している14。イギリスは、ボスニア介入の中で国連平和維持活動に多く の兵士を派遣したが、当時の外相ハード(Douglas Hurd)は、「イギリスは、ユーゴを構 成していたクロアチア、ボスニア、あるいは他の国々に重要な経済的ないし戦略的利益を もっていなかった15」と振り返っている。コソボ介入に批判的だったアメリカの現実主義者 たちは、コソボ自体には軍事介入するほどの死活的な国益がないと見ていた16。それが唯一 の動機ではないにせよ、政策決定者が人道的な動機によって政治的決定を下す局面は、時 に見られるのである。
さらに、政策決定者に影響を及ぼす要因としての「世論」も、国家の人道的な動機を構 成する。テレビニュースで見た遠い外国の見知らぬ人々の不幸に無関心でいられず、自国 の政府に介入を求める。1990年代、欧米諸国ではしばしばそうした現象が見られた。そし て政策決定者は、世論の圧力に押されながら介入へ歩みを進めていったのである。このよ
13 Walzer (1992), p. xviii.
14 筆者によるインタビュー、2007年10月9日。
15 Hurd (2003), p. 490.
16 田中 (2000)、57-58頁。但し、一旦NATOが軍事介入を始めた以上は、「NATOの信頼 性」が死活的な国益となったのである。
10
うなことからも、国家が人道的な動機によって介入するという見方にはそれなりの妥当性 がある。要するに、政策決定者の個人的な動機という面からいっても、彼らを動かす世論 という面からいっても、国家が人道的な動機によって介入することは十分あり得るのであ る。
もちろん、介入側に政治的な動機がある場合、特にそれが極めて利己的なものである場 合、それに対する批判はあって然るべきである。しかし悩ましいことに、そうした別次元 の動機や目的がなければ恐らく介入は始まらないし、成功もしないだろう――人道的危機 にさらされている人々は救われない。すなわち、人道的な動機だけでは国家の断固たる行 動を促す要因としては弱く、一定の政治的な動機――特に安全保障上のもの――が必要と される17。そのように考えれば、人道的介入に政治的な動機や目的が混在しているからとい ってそれを切り捨てるのではなくて、そうした現実を受け入れた上でなお介入が人道的危 機の緩和・解決につながる道を探る研究にも、一定の意義が認められよう。本稿はまさに そうした研究である。ウェイス(Thomas G. Weiss)は以下のように述べる。
「人道的介入の背後にある動機はほとんどいつも雑多なものである。全ての 政治的動機が悪というわけではないのだから、動機に簡潔さを求めても議 論を実際に前進させることはできない。もし重要な利害抜きの利他主義だ けがあるべきだというなら、そもそも最初に関与しようとする、あるいは 最後までやり抜こうとするのに十分なやる気は生まれてこないだろう。そ の好例が、2003年以降のダルフールへの不十分な国際的な軍事的関与であ り、1993年 10月に18 人のレンジャー部隊が死んだ後のアメリカのソマ リアからの撤退である18」。
いずれにせよ、「人道的介入の本質が人道性にある」と述べる時、そこには、介入国の唯 一ではないが主要な動機の一つとして、人道的な動機があるという意味が含まれている19。
そして、「人道性」にはもう一つ別の意味が含まれている。それは、介入が人道的危機の 緩和・解決を目指して行われている実態が客観的に観察されることである。すなわち、介 入に様々な動機や目的が混在していようとも、それが現実に危機の緩和・解決に向かって
17 人道的介入において安全保障上の目的が重要であることを論じたものとして、以下を参 照。DiPrizio (2002).
18 Weiss (2007), p. 7.
19 そうはいっても、介入国の動機が根源的な問題をはらんでいることは疑いない。松井が 論じているように、人道的介入の要件の一つに人道的な動機の「相対的な」優越性を含め るとしても、「動機は主観的な要件であってこれを客観的に証明することは至難であるし、
お互いに性格を異にする……複数の動機の相対的比重を比較考量することもまた、きわめ て困難だと思われるのである」。松井 (2001b)、43頁。本稿はこうした問題を認めつつも、
実効性に関する研究の発展を優先させ、人道的動機の存在や優越性を議論の仮定として置 く。
11
いるのならば、その意味で人道性があると見るのである。逆にいえば、人道的危機を悪化 させたり放置したりしながら他の目的を追求している介入には、人道性が認められないと いうことになる。まとめるならば、人道的介入の本質である人道性とは、介入国の主要な 動機(の一つ)が人道的なものであること、また客観的に見て介入が人道的危機の緩和・
解決に向かっていることを意味する。本稿では、取り扱う事例がそのような意味で「人道 的」介入であったという前提に立って議論を進める。
但し、「人道性」が本質であるといっても、その認識が介入の肯定に直接つながるわけで はない。先述のように、人道的な動機以外の動機の存在を批判することは重要である。あ るいは、介入が人道的危機の緩和・解決を目指していることは否定できない場合でも、そ の過程で多くの副次的被害をもたらしているのならば、そこに批判的な目を向けなければ ならない。本稿は「人道的」介入や「人道性」といった言葉を使うが、それはあくまで、
ある政治的な行為の特徴を大まかに表したものに過ぎず、その善し悪しに関する何らかの 価値判断を含むものではないということである。実際、第2章以降の事例研究や考察では、
人道的介入のマイナス面や限界の指摘に多くのページを割くことになる。別の言い方をす れば、本稿は、ある介入が人道的であったかどうかを判断しようとするものではなく、一 般的に人道的介入と称されてきた現象の実態を詳しく見ていくものである。
ところで、ここまで述べてきたところから明らかなように、人道性という本質は、裏を 返せば国益が乏しいということでもある。介入国が人道的危機の緩和・解決に、あるいは 紛争が起きている国家との関係に何らかの国益を有していないわけではないが、決してそ れは死活的な国益、言い換えれば武力でもって死守しなければならないほどの国益ではな い。そもそもはじめから死活的な国益がからんでいれば、介入国は他国の内戦であろうと 人道的危機に発展するのを放っておかないだろう。実際、内戦が起きてすぐさま人道的危 機に至るわけではないし、あるいはまったく国際社会が気づかないうちに事態が悪化して いくわけでもない。その間には必ず一定の期間があり、度々危険を知らせる何らかのシグ ナルが発せられるのだが、後に介入することになる国家は当初それを無視するか、軽く見 てしまう。そうして、事態の悪化を食い止める有効な手だてを打たないまま、最終的に人 道的危機の発生を許すことになるのである。
(b)不確実な正統性
人道的介入の2つ目の特徴として挙げられるのは、不確実な正統性という限界である(こ こでは「正統性」を、差しあたって合法性も含む包括的な概念として考える。第 2 章以降 の本論での正統性の扱いについては次節で述べる)。「不確実な」という形容詞には 2 つの 意味がある。1つは、一般論として介入の正統性が不確実であること、もう1つは個々の具 体的な介入についてその正統性を得るのが難しいことである。第二次世界大戦後の人権 法・人道法の発達が物語るように、国際社会で人権意識が高まっている流れは否定できな
12
いが、そのことが人道的介入の正統性を保証するわけではない。今も少なくない国々が、
一部の大国による恣意的な介入に強い警戒心を抱いている20。法的観点から見ても、内政不 干渉原則と武力不行使原則が確立している現代国際社会において、人道的介入は例外中の 例外としてかろうじて認められるにすぎない。そのように正統性が不確実だからこそ介入 は活発な論争を巻き起こすわけであり、また論争に決着がついていないからこそ正統性が 不確実なままなのである。とりわけ問題となるのは、先に言及したコソボ介入のような安 保理決議を経ずに行われる人道的介入である。シャクター(Oscar Schachter)は、そのよ うな介入を原則として確立してはならないが、黙認すべき違法行為としてそのままにして おいた方が良いと、ある意味苦渋に満ちた意見を述べている21。人道的介入には、常に不確 実な正統性という限界がついて回るのである。
このことは、介入の本質である人道性に深く関わっている。というのも、人道的介入の 正統性が不確実であるということの根本には、人道や正義を武力行使と結びつけることに ついて、国際的なコンセンサスが成立していないという現実が横たわっているからである。
確かに、人道目的それ自体は否定できない。しかし、それを達成するために武力という手 段を用いることは、また別の問題である。このような意味で、不確実な正統性という限界 は「人道性」という本質に由来するといえる。逆に、秩序と武力行使を結びつけることに ついては国際的なコンセンサスが成立している。すなわち、原則論として侵略への対抗あ るいは自衛のための武力行使の正統性は確立されている。国家を守るための武力行使は許 されるが、個人を守るための武力行使は許されているわけではない。そう言い表すことも できるだろう。
ところで、コソボの事例が示すように、人道的介入の正統性にとって鍵となるのが安保 理決議である。なぜそうなるかといえば、内政不干渉原則と武力不行使原則の二大原則を 有する国際社会において、人道的介入が最も、あるいは唯一確実に、正統性を付与される のが、国連の集団安全保障体制の中で安保理決議に基づく強制措置として行われる時だか らである22。この点を少し詳しく見ておこう。
国連憲章では、第2条第4項23で武力不行使原則が、第2条第7項24で内政不干渉原則が それぞれ規定されている(後者は厳密には「国連による」干渉を禁じたもので、「国家によ る」干渉を禁じたものではないが、国家間の内政不干渉原則も慣習法として確立されてい
20 この点については以下を参照。Weiss (2007), pp. 120-122.
21 Shachter (1991), p. 126.
22 この仕組みの根本的な原理を明らかにしたものとして、以下の拙論を参照。小松 (2004a)。
23 「すべての加盟国は、その国際関係において、武力による威嚇又は武力の行使を、いか なる国の領土保全又は政治的独立に対するものも、また、国際連合の目的と両立しない他 のいかなる方法によるものも慎まなければならない」。
24 「この憲章のいかなる規定も、本質上いずれかの国の国内管轄権内にある事項に干渉す る権限を国際連合に与えるものではなく、また、その事項をこの憲章に基く解決に付託す ることを加盟国に要求するものでもない。但し、この原則は、第7章に基く強制措置の適 用を妨げるものではない」。
13
る)。この2つの原則を前提とした上で、人道的介入が例外的に認められるのは、第7章に 規定された強制措置として行われる時である。2条7項の最後には以下のように書かれてい る。「但し、この原則は、第7章に基く強制措置の適用を妨げるものではない」。
本来強制措置とは、侵略のような国際秩序を脅かすものに対してとられる国際的な対抗 措置であり、国連の集団安全保障体制の中核をなす。それは非軍事的措置(経済制裁など)
と軍事的措置(武力行使)の2つに分けられる。強制措置に至る流れとしては、まず第39 条25に基づいて安保理がその決議において「平和に対する脅威」等の存在を決定し26――実 際の決議では「平和と安全に対する脅威」という言葉が使われる――、その後必要に応じ て第41条27の非軍事的措置か第42条28の軍事的措置を決定する。軍事的措置については当 初「国連軍」が構想されていたが実現しなかったために29、それに代わるものとして国連の 枠外で結成される多国籍軍やNATOなどの地域機関、あるいは国連平和維持活動(UN
Peace-Keeping Operations: PKO)に武力行使の権限を認める方式が慣行上確立された。
憲章が想定していなかったという意味で、いわばそれは変則的な強制措置である。そうし たこともあって、実際の武力行使の授権決議については、憲章の特定の条文を示すことを せず、安保理が「憲章第7章の下で行動する(acting under Chapter VII)」という形式で 採択することが通例になっている。つまり第39条などの個々の条文が適用されるというよ り、それらを含む第 7 章(タイトルは「平和に対する脅威、平和の破壊及び侵略行為に関 する行動」)の諸規定がまとめて適用される格好である。なお、決議の中で武力行使を認め る文言は、普通、「必要なあらゆる手段(all necessary means, all measures necessary)」
を「許可する(authorize)」というものである。現代の人道的介入は基本的に以上のような ものとして行われる、あるいは行われなければならない。すなわち、安保理が人道的危機 を「平和に対する脅威」と認定した上で、それに対する強制措置として武力行使、すなわ ち人道的介入を許可することにより、それは国連の集団安全保障体制の一環として正統性
25 「安全保障理事会は、平和に対する脅威、平和の破壊又は侵略行為の存在を決定し、並 びに、国際の平和及び安全を維持し又は回復するために、勧告をし、又は第41条及び第42 条に従っていかなる措置をとるかを決定する」。
26 39条に記されている「平和の破壊」と「侵略行為」の存在が認定されることはほとんど ない。少なくとも人道的介入に関わる決議についていえば、認定されたのは全て「平和に 対する脅威」である。
27 「安全保障理事会は、その決定を実施するために、兵力の使用を伴わないいかなる措置 を使用すべきかを決定することができ、且つ、この措置を適用するように国際連合加盟国 に要請することができる。この措置は、経済関係及び鉄道、航海、航空、郵便、電信、無 線通信その他の運輸通信の手段の全部又は一部の中断並びに外交関係の断絶を含むことが できる」。
28「安全保障理事会は、第41条に定める措置では不充分であろうと認め、又は不充分なこ とが判明したと認めるときは、国際の平和及び安全の維持又は回復に必要な空軍、海軍又 は陸軍の行動をとることができる。この行動は、国際連合加盟国の空軍、海軍又は陸軍に よる示威、封鎖その他の行動を含むことができる」。
29 国連軍の構想とその挫折については以下を参照。香西 (1991)、7-36頁; 香西 (2003)、
210-212頁。
14
を得られるのである。
ここで、「平和に対する脅威」概念について少し説明が必要であろう。この概念はもとも と国家間の武力紛争を想定していたが、時代を追うごとにそれ以外の事態も場合によって は脅威として認定されるようになった30。そうした中で、人道的危機も「平和に対する脅威」
になり得るという認識が安保理において固まったのである。但し、脅威の認定が自動的に 武力行使の授権につながるわけではない。これまで多くの紛争や危機について脅威の認定 がなされてきたが、それに対処するための具体的な措置として決定されたのが経済制裁に とどまったケースも少なくない。あるいは、認定が何ら強制措置に結びつかないこともあ る31。
このような形で、今日の人道的介入は安保理決議によって正統性を付与される。しかし ながら、そうはいっても基本的に正統性が不確実であることに変わりはない。それは極限 状態に限って例外的に許される最終手段でしかない。今起きている人道的危機を止めるに は本当に武力行使が必要なのか。介入国は本当に人道的危機を解決しようとしているのか。
現実問題として、介入は危機を解決できるのか。安保理決議の有無、決議採択の前後を問 わず人道的介入に対しては、常にそうした厳しい視線が注がれる。それゆえ、人道的危機 が発生しようとも安保理が武力行使の必要性について合意できなかったり、あるいはそれ を曖昧な形でしか認められなかったりということがしばしば起きる。「安保理決議に基づく 人道的介入」は1つのモデルだが、それが実現する可能性はそれほど高くないのである。
(c)軍事資源の調達における制約
人道的介入の 3 番目の特徴は、基本的に軍事資源(兵器、装備、人員、資金など)の調 達において制約が存在するということである。これは、「人道性」と「不確実な正統性」と いう上述の 2 つの特徴に由来する。先述のように、人道性とは裏を返せば、介入国の死活 的な国益がからんでいないということである。そうだとすれば当然、介入主体が人道的危 機を緩和・解決するのに必要な軍事資源を調達することが難しくなる。そして、不確実な 正統性という限界も同じ帰結に至る。というのも、それが介入国に慎重な姿勢をとらせる ことになるからである。もし行き過ぎた介入であるとか間違ったやり方の介入であるとか 評価されれば、容易にその正統性が下がりかねない。そのような懸念が介入国の行動を制 約する。実際に正統性が下がれば、さらに介入国の行動は制約されるだろう。もちろん、
国家が正統性の有無や高低を全く気にしないのであればそのように行動が制約されること はないが、現実に介入国は必ず介入の正統性を得ようと行動するのである32。まとめていえ
30 Weiss (2007), pp. 26-28; 酒井 (2003)、243-246頁。
31 同上、242頁。
32 Seybolt (2007), p. 271. ウィーラーも、国家の行動はもっともらしい正統な理由によって 正統化(legitimize)されなければ、制約されるとしている。Wheeler (2000a), p. 4. そも そも、介入に限らず広く国際政治一般において正統性は重要なファクターである。クロー
15
ば、人道的介入の本質である人道性(その裏返しとしての国益の乏しさ)は、それ自体で 軍事資源の調達を制約すると同時に、不確実な正統性という限界を介してまたそれを制約 するのである。こう言い換えることもできるだろう。人道的介入では、正統性が高いか低 いかに関わらず、そもそも軍事資源の調達が難しい。そして、実際に正統性が不確実なた め、それはさらに難しくなる。
ところで、「軍事資源の調達における制約」という特徴からは、論理的に「不確実な実効 性」という特徴が導き出せそうではある。しかし敢えてここではそれを特徴に数えなかっ た。というのも、実は介入の実効性に関する研究は蓄積が乏しく、それが不確実であると はまだ言い切れないように思われるからである。この点は、第 2 節の中で詳しく見ていき たい。
(d)秩序と正義の調和
人道的介入の4番目の特徴は、「秩序と正義の調和」という方向性である。すなわち、介 入が「秩序と正義の調和」を目指す行為だということである。このように言うと奇妙に思 われるかもしれない。「人道的」介入である以上、それは秩序と正義を調和させるのではな く、秩序より正義を優先させる行為なのではないか、と。だが、現実の介入を正確に描写 するなら、単に正義を追求する行為というより、秩序と正義を調和させようとする行為と して捉えるべきである33。より正確にいえば、それは「秩序と正義の調和」を考慮しながら 人道的危機の緩和・解決を目指すものである。先述のように、確かに人道的介入は我々に 秩序と正義のジレンマを突きつける。ただそうはいっても、「人道的介入は正義を追求する 代償として秩序を揺るがす」という認識では不十分である。もちろん、介入が何らかの形 で秩序を揺るがすことは否定できないが、秩序の維持や回復につながる面もあることに注 意しなければならない。
秩序と正義はそれぞれ幅の広い内容をもつ概念だが、ここでは「国家間の秩序」と「人 類の正義」として理解する。国家間の秩序は、国家の安全保障が問題となる領域である。
人類の正義は、個人の人権保障や貧困、富の偏在などが問題となる領域だが、そのうち人 道的介入に直接関わる人権保障に焦点を絞って考えたい。すなわち、本稿が注目する「秩 序と正義の調和」とは、別の言葉にすれば「安全保障と人権保障の調和」でもある。
そもそも介入が秩序を揺るがすとはどういうことか。第一に、それは法秩序を揺るがす。
ド(Inis L. Claude, Jr.)はこう述べている。「政治は単に権力をめぐる闘争というだけでは なく、正統性をめぐる争い、正統性の付与・拒絶、承認・撤回が重要な問題となる競争で もある」。Claude (1966), p. 368.
33 こうした見方は、以下の拙論での議論がもとになっている。小松 (2004a)。矢口も、人 道的介入を理解する上での英国学派の有効性に関する論文において、「秩序と正義の接近」
というタイトルの節で同じ主旨のことを論じており、ここでの参考にした。矢口 (2003)、
136-140頁。
16
すなわち、介入は秩序維持のための二大原則、内政不干渉原則と武力不行使原則の規範力 を弱めてしまう。そのことは将来、別の介入の誘因になるかもしれない。もちろん安保理 決議を踏まえた介入ならばこうした危険性は少ないが、それでも二大原則を一時的に制限 することへの抵抗感を弱めるという意味では、本質的に法秩序を揺るがす効果があること に変わりはない。
第二に、介入は現実の秩序を揺るがす。何よりもまず、ある国家が他国に軍隊を送り込 んで戦うことや空爆することそれ自体が、秩序の動揺となる。それを別にしても、介入に よって紛争が激化・拡大して周辺諸国に飛び火する危険がある。あるいは、紛争の激化・
拡大によって大量の難民が発生し、それが周辺国に流出することで地域秩序を動揺させる こともあり得る。場合によっては、介入国と被介入国にとどまらず世界中で緊張関係が高 まるかもしれない。
以上のように、介入は 2 つの意味において秩序を揺るがす。しかしながら、少し角度を 変えて見ると、同じ介入が「秩序と正義の調和」を目指す行為として浮かび上がってくる。
それは、介入が始まる前から、すでに人道的危機が秩序ないし国家の安全保障に悪影響を 及ぼしているという事実に関係する。例えば、往々にして人道的危機は周辺国への大量の 難民流出や紛争の拡大(の恐れ)によって地域秩序を脅かし、ひいては国際秩序全体をも 揺るがす。少数民族の独立運動が内戦を引き起こし、そこから人道的危機が派生している 場合、それは主権国家の分裂の危険性をはらんでいるという意味で、国際秩序にとって少 なくとも潜在的には深刻な問題である。アメリカやイギリスなど主要な介入国の立場に立 ってみれば、人道的危機に効果的に対処できていないとの国際的批判が高まると、大国と しての威信や信頼性が損なわれ、長期的には安全保障上の悪影響を被ることになる。この ように、人道的危機が秩序に及ぼす悪影響は介入の所与の条件として存在する。従って、
介入主体は必然的に「秩序と正義の調和」を迫られる。つまり、正義に関わる問題と秩序 に関わる問題の両方をまとめて解決しなければならない。これに関連して 1 つ付け加える と、「平和に対する脅威」の認定では、しばしば人道的危機それ自体だけではなく、地域秩 序ないし国際秩序へのその対外的影響も含めて脅威の構成要因とされる34。すなわち、安保 理は正義に関わる問題と秩序に関わる問題が実態として不可分であると認識し、両者をセ ットで対処すべき脅威として位置づけるのである。
人道的介入が「秩序と正義の調和」を目指す行為であるという見方は、正統性の観点か らも説明できる。今日、秩序維持のための二大原則、内政不干渉原則と武力不行使原則が 確立している以上、介入国は介入の正統性を高めるために秩序にも一定の配慮をしなけれ ばならない。すなわち介入は、秩序に対する影響を最小限にとどめる形で行われるか、あ
34 松井はソマリア、ボスニア、ルワンダの3事例を検討した上でこう結論づけている。「こ れらの事例において安保理事会が、一国内の重大な人権侵害を、たとえ国境を越える影響 がなくても平和に対する脅威を構成するものと認めたのかどうかについては、まだ未確定 である」。松井 (1996b)、51-53頁。この点については以下も参照。青井 (1996)、29-34頁。
17
るいは秩序の回復にもつながることが認められるかして、初めて国際的に許容される可能 性が出てくる。そのようにして、人道的介入には正統性を得るための 1 つのアプローチと して秩序の観点が盛り込まれる。上述のような脅威認定における複眼的な視点の導入も、
その具体例として見なせよう。
もちろん、人道的介入において「秩序と正義の調和」が常に保証されているわけではな い。あくまでそれは介入の方向性である。あるいは課題といってもよい。「秩序と正義の調 和」という課題が介入主体の行動を根本で規定し、介入のあり方を大きく左右するのであ る。ここからさらに議論を進めれば、介入主体が目指す「秩序と正義の調和」の形が、介 入の具体的な目的の設定を強く条件づけるということになるだろう。一般論としていえば、
人道的介入の目的は人道的危機を緩和・解決することだが、個々の事例ごとに具体的な目 的は異なる。例えば人道援助活動を支援すること、あるいは特定の和平案を紛争当事者に 受け入れさせて、危機をもたらした紛争を政治的に解決することである。そうした目的を 設定する時に、介入国は秩序と正義をどう調和させるか、秩序への影響を最小限にとどめ ながら正義を実現できるか、秩序の回復と正義の実現を同時に追求できるのかといった問 いに思いをめぐらすのである。
但し、そうはいっても介入が法秩序と現実の秩序に悪影響を及ぼす事実は変わらない。
従って、「秩序と正義の調和」にも限界があり、その意味で人道的介入は不完全な行為であ る。しかしながら、不完全であるからという理由でそれを見限ることが、必ずしも妥当と はいえない。介入の不完全さを認めつつも、なおそれによって人道的危機を緩和・解決で きる可能性を模索する試みがあっても良いだろう。本稿はその試みの1つである。
以上のように、人道的介入は 4 つの特徴――人道性という本質、不確実な正統性という 限界、軍事資源の調達における制約、「秩序と正義の調和」という方向性――を有する行為 である。本稿の議論は、このような人道的介入像を前提として進められる。
第 2 節 研究の目的
従来、人道的介入は秩序と正義のジレンマを我々に突きつける研究テーマとして多くの 関心を集め、その是非、すなわち正統性をめぐって数多くの研究が蓄積されてきた。しか しこれとは対照的に、あまり取り上げられてこなかった論点がある。実効性である。すな わち、「どのようにしたら成功するのか」といった視点から介入が検討されることは稀だっ たのである。先述のように、人道的介入の特徴の 1 つに「軍事資源の調達における制約」
があるならば、実効性は不確実だと言えそうではある。だが、そう結論づけるにはまだ十 分な実証が、あるいは研究の蓄積が足りないように思われる。
ある意味ではそれも当然のことかもしれない。というのも、人道的介入は長らく妥当な 政策オプションというよりも疑惑の対象として見られてきたのであり35、そのようなものの
35 大沼によれば、1970、80年代頃から欧米の一部の学者が人道的干渉(彼は「介入」では 18
実効性の問題を真正面から取り上げようという気運が高まるとは考えにくいからである。
だが今や時代は変わった。1990年代以降、国際社会は人道的介入を1つの政策オプション として確立できないかと、試行錯誤を続けている。そうした状況を踏まえれば、今人道的 介入の実効性について研究することには大きな意義が認められよう。本節では、人道的介 入に関する先行研究の検討を通じて残された研究課題――実効性の問題――を明らかにし、
そこから研究の目的の提示へと議論を進めていきたい。
(1)先行研究の検討
(a)正統性への偏り
従来、人道的介入の研究の主要な論点は秩序と正義のジレンマ、主権と人権の緊張関係 であった。人権を守るために主権を制限し、介入することは是か非か。もし是とするなら ばどのような根拠や条件に拠るのか。こうした問いをめぐって多くの議論が展開されてき たのである。つまり人道的介入の正統性が主要な論点であった。本章の冒頭で引用したよ うに、ボダンが人道的介入について論じた章のタイトルは、「僭主の殺害を試みること、彼 の死後に彼の法令を無効にすること、廃棄することは合法か否か、、、、、
[傍点筆者]」となってい る。やはり問われていたのは介入の正統性である。
ボダン以降は主に国際法学者が中心となってこの議論を発展させてきた。17 世紀以降、
主権国家体制の確立に伴って国際法が発展する中で、各国家がお互いに主権を尊重すると いう内政不干渉原則が確立されたため、それに挑戦する介入という行為をどう評価するか が、国際法学者にとって避けて通れない問題となったのである。加えて、20 世紀になって 武力不行使原則が確立されたことにより、この問題の重みは一層増すこととなった。結局、
1990 年代まで人道的介入の研究をリードしてきたのは国際法学だった36。このことと、研 究が正統性の問題を中心に展開してきたことは表裏一体の関係にあったといえよう。
もちろん、国際関係論の分野でも人道的介入の研究はなされてきた。とりわけ重要な研 究成果を残してきたのが英国学派である37。英国学派は大きく多元主義(pluralism)と連 なく「干渉」を使う)を認めるべきだと主張するようになったが、大国による濫用の危険 性への懸念からそれが主流になることはなかったという。大沼 (2001)、7頁。篠田も以下 のように述べる。「冷戦時代を通じて、人道的介入は、国際法秩序の完全な外部に位置して いた。人道性を理由に介入する国家は事実上皆無であり、人道的介入を擁護する議論は、
空想的なものとみなされた」。篠田 (2003b)、47頁。
36 Wheeler (2000a), p. 2. 大沼も、国際政治学や外交史も介入の問題を扱ってきたが、主な 研究は国際法学の分野で行われてきたとしている。大沼 (2001)、4頁。国際法学の分野に おける代表的な先行研究としては、以下の文献がある。Chesterman (2001); Franck and Rodley (1973); Lillich (1973); Moore (1974); Teson (1997); 松田 (1975)。
37 人道的介入に関する英国学派の主要な業績としては、以下の文献がある(介入一般に関 する研究の中で人道的介入を扱っているものを含む)。Bull (1984); Mayall (1996); Wheeler
19
帯主義(solidarism)に立場が分かれているが38、それぞれの立場から介入の正統性をめぐ って議論が展開されてきた。簡単にいえば、多元主義は国家間社会の秩序ないし国家の安 全保障を重んじる立場であり、連帯主義は人類正義ないし個人の人権保障を重んじる立場 である。多元主義の立場に立つブル(Hedley Bull)は言う。「正義が、そのあらゆる形に おいて、秩序が背景にあってはじめて実現可能だということは間違いない。社会生活の進 歩的あるいは二次的な目標[=正義]が達成されるのは、基本的あるいは主要な目標[=
秩序]がある程度与えられる、社会活動の様式が存在している場合だけである39」。これに 対して連帯主義の立場に立つウィーラー(Nicholas J. Wheeler)は、「国益の保護、国際秩 序の促進、そして人権[保障]の強制の間にはしばしば相互に両立性が存在する40」と主張 する。当然、人道的介入については多元主義が否定的で、連帯主義が肯定的となる。確か に、1990年代の介入事例を見る限り、ウィーラーの主張は正しいように思われる。という のも、先述のように秩序と正義の緊張関係よりも両立性ないし調和こそが、人道的介入の 方向性だからである。その意味で、本稿の立場は英国学派の文脈に当てはめれば連帯主義 ということになる。多元主義・連帯主義の論争はともかく、さしあたってここで強調した いのは、人道的介入の研究における英国学派の関心が正統性の問題に集中していたという ことである。
英国学派以外でも国際関係論の分野で、介入の正統性を論じた先行研究は少なくない。
例えば、フィネモア(Martha Finnemore)はコンストラクティビズムの立場から、歴史的 に見て多国間主義が介入の正統性にとって次第に重要になってきたことを明らかにしてい る41。またウェイスは、先述の「保護する責任」論や主権、内政不干渉原則、人権法・人道 法など、介入の正統性にまつわる諸々の要素にバランスよく目配りをしながら、今日の国 際社会における介入の位置づけを示している42。
国際法学と国際関係論の両分野において、人道的介入の正統性をめぐる議論には相当な 蓄積がある。それを象徴するのが、正統性の評価基準が定まってきたという事実である。
具体的には、「安保理決議の有無」と「正戦論的条件」という2つの基準が一般的となって きた。
まず、人道的介入が武力を用いる行為である以上、今日その正統性にとって安保理決議
(1992); Wheeler (2000a). 人道的介入の研究に関しては、アメリカの国際政治学より英国学
派の方が適しているという見方もある。矢口 (2003)。なお、本稿では国際法学の研究と国 際関係論の研究を区別しているが、後者が国際法を無視しているというわけではない。特 に英国学派は(アメリカの国際関係論と比べると)、国際法に重きを置く学派として知られ ている。
38 多元主義と連帯主義については以下を参照。Mayall (1996), pp. 3-5; Wheeler and Dunne (1996).
39 Bull (2002), p. 83.
40 Wheeler (2000a), p. 309.
41 Finnemore (2003), ch. 3.
42 Weiss (2007).
20
が重要であることについてはほとんど異論がない。もちろん、どの程度重要かということ については意見の違いが残るものの43、決議の採択が望ましいことはほとんど全ての論者が 認めている点である44。そもそも、人道的介入が冷戦後の国際社会における新しい問題とし て浮上してきた背景の 1 つには、国連安保理の活性化がある。冷戦が終わったことで今や 安保理は東西対立の論理に縛られることなく、紛争や人道的危機を緩和・解決するための 最終手段として武力行使を決断できるようになった。そうして、過去に疑念の目で見られ つづけてきた人道的介入という行為が、安保理決議というお墨付きを得ることで 1 つの政 策オプションとして認められるようになったのである。
次に、安保理決議の有無とは別に、介入が具体的にどのような状況下で行われるべきか を考える際に参照されるのが正戦論的条件、すなわち正戦論の伝統を受け継ぐいくつかの 条件である。論者によって多少のばらつきはあるが、一般的に人道的介入は以下の条件を 満たせば正統性が高まると考えられている45。
・正しい理由:人道的危機46は極限レベルまで悪化しているか。
・正しい目的:介入側の主要な目的は、人道的危機を緩和・解決することか。
・最終性:考えられる限りの非軍事的手段が尽くされたか。
・均衡性:計画されている介入は必要最低限のものか。
・成功の見込み:介入が成功する十分な見込みがあるか。
このように、人道的介入の正統性をめぐる議論は、安保理決議と正戦論的条件を基準に
43 例えばウィーラーは、正統性の条件を「最低条件」と「追加条件」に分け、安保理決議 を後者に分類している。つまり安保理決議は必要不可欠とされていない。Wheeler (2000a),
pp. 33-52. 東郷 (2001)では、日米仏3ヶ国の有識者を対象に行われた「人道的介入におけ
る安保理決議の必要性」に関するアンケートの結果が見られる。結果は、日本が57.6%、
アメリカが30%、フランスが60%である。東郷 (2001)、29-30頁。
44 この点は冷戦期の論争から変わっていない。ちなみに、決議のない場合の介入も認めら れるべきと考える論者は、決議に基づく介入は非現実的であると批判していた。松井
(1996a)、46頁。なお、松井自身は決議のない介入について否定的である。
45 ICISS (2001), pp. 29-37; Report of the Secretary-General (2005), p. 33; SG High-level Panel (2004), p. 67; Murphy (1996), pp. 322-323; Wheeler (2000a), pp. 33-52.
46 人道的危機とは、一般的には大規模かつ深刻な人権侵害・人道法違反(その結果として の難民の大量発生を含む場合も多い)を意味する言葉だが、厳密な定義が与えられてきた わけではない。人権侵害・人道法違反がその残酷さや地域的広がり、犠牲者の数などの面 でどの程度のレベルに達したら人道的危機となるのかについて、明確な基準があるわけで はない。ここではさしあたって、国際社会が介入を真剣に検討せざるを得ないところまで 悪化した人権侵害・人道法違反という理解にとどめておく。ちなみに英語では
humanitarian crisis、humanitarian disaster、humanitarian catastropheといった言葉 が用いられる。
また、危機の多くが政治的・経済的要因と社会・文化的要因がからみ合うものであると ころから、「複合的な人道的非常事態(complex humanitarian emergencies: CHEs)」と呼 ばれることもある。星野 (2003a)、3頁。
21
評価するという原則を示すに至った。もちろんそれでも個々のケースに関する評価にはば らつきがでるだろう。いずれにせよ、原則的な部分で議論が成熟している点は注目してよ い。
(b)正統性から実効性へ:研究の重点のシフト
ところが、正統性と並んで重要な問題であるはずの実効性に目を向けてみると、状況は 大きく異なる。これは非常に重要なこととして強調しておきたい点だが、正統性とは対照 的に実効性をめぐる議論はあまり発展しておらず、原則的な部分において収斂する気配も まだないのである47。上記の正戦論的条件の中に実効性の項目(成功の見込み)が含まれて はいるものの、実際にそれがどのように判断できるのかということは真剣に検討されてこ なかったといってよい。人道的介入はどのようにしたら成功するのか、我々はまだ十分な 見通しを立てられずにいる。これが本研究の根本的な問題意識である。
先行研究が実効性の問題に全く言及しなかったわけではない。そもそも、これまで人道 的介入の研究の主要な論点が正統性であったとはいえ、それが全てではない。単に正統性 を問うだけではない、実に様々なアプローチによる研究がなされてきた。例えば、介入の 軍事面にスポットを当てた研究がある48。あるいは、複数の事例に共通して、一定の地域を
「安全地域」として設定する戦略が採用されていた点に注目し、そこに照準を絞った研究 もある49。また、介入に関するアメリカの政策過程を分析した研究も少なくない50。国連の 役割について考察したものもある51。当然ながら、個々の事例の経緯を細かく追った事例研 究(あるいはそれを複数まとめたもの)も数多く存在する52。その他、多岐にわたるトピッ クを含む論文集もいくつか出されてきた53。こうした諸々の研究においても、介入がなぜ、
どのようにして成功したか、しなかったかという問題は明示的あるいは暗示的にしばしば 重要な論点の 1 つになっている。それにも関わらず実効性をめぐる議論が発展してこなか ったといえるのは、個々の事例に共通する何らかの一般的知見を導き出す努力が不十分だ ったという意味においてである54。すなわち、一般的観点から実効性の問題を深く掘り下げ
47 一つ象徴的な例を挙げると、先述のIICKの報告書の中で、コソボ介入をめぐって浮上 した複数の問いが列挙されているが、実効性に関するものはそこに含まれていない。IICK (2000), p. 19.
48 Byman and Waxman (2000); Lambeth (2001); Henriksen (2007); Owen (2000).
49 Yamashita (2004).
50 Daalder (2000); Rutherford (2008).
51 Murphy (1996); Sarooshi (1999).
52 Burg and Shoup (1999); Clarke and Herbst (1997); Daalder and O’Hanlon (2000);
DiPrizio (2002); Gow (1997); von Hippel (2000); Hirsch and Oakley (1995); IICK (2000);
Lyons and Samatar (1995); Mayall (1996); Wilson (2009).
53 Holzgrefe and Keohane (2003); Moore (1998); Welsh (2004).
54 例えば一つ例を挙げると、ダムロシュは編著の序章で「法・制度の面で、我々の研究は 正統性、、、
と実効性、、、
の両方に関わる問題を問うている(p. 13)」と書きながら、結論の章で実効 22