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制 史 稿

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(1)その二. 和二十年ま でー. 昭和法 制史稿 ー1昭. 中. ︵1︶. 村. 吉. 三. 良β. 昭和法制史稿. 一︵一四一︶. 途は尚遼遠なり︒第三国の支援を頼み長期抵抗を標榜する国民政府の徹底的潰滅のため兵力は逐次増強せられ今や我. さらに︑同年六月二十三日には政府声明を発表し︑﹁支那事変は徐州陥落にょり戦局の一大推展を見たるもその前. ︵2︶. 防目的達成ノ為国ノ全カヲ最モ有効二発揮セシムル様人的及物的資源ヲ統制運用スルヲ謂フ﹂とはなっていたボ︒. の の ︵1︶ もっとも同法第一条には︑﹁本法二於テ国家総動員トハ戦時︵戦争二準ズペキ事変ノ揚合ヲ含ム以下之二同ジ︶二際シ国. 条に基づく﹁国家総動員審議会官制﹂などが定められ︑はやくも同法発動の構えをみせている︒. 同時に︑勅令第三百十八号にょり同法第十三条に基づく﹁工場事業場管理令﹂︑勅令第三百十九号により同法第五十. 動員法﹂は︑その公布後一か月たらずで︑昭和十三年五月三日︑勅令第三百十五号で同年五月五目より施行されると. さて︑その法案審議中の近衛首相の﹁この法律は︑支那事変には適用しない﹂との言明にもかかわらず︑﹁国家総. 五.

(2) 論. 説︵中村︶. の. の. の. の. の. の. の. の. の. 二︵一四二︶. の. の. の. の. 国有史以来の大軍は陸海空に奮戦を重ねつつありこの時に当り銃後施設により作戦行動に支障なからしめ以て帝国所. の. の. の. の. の. の の の の の の の. 期の目的を達成せしめ東洋永遠の平和を確立せんためには刻下凡百の施設を戦争目的貫徹に集中し官民一体長期持久. の戦時体制を確立し以て時局に対処せざるべからず︑これがため当面の急務は物資の調整運用を最も有効適切ならし. むるにあり⁝⁝﹂とし︑鋼材・銑鉄・金・白金・銅・黄銅︵真鍮︶・亜鉛・鉛・錫・ニッケル・アソチモン・水銀・. アルミニューム・石綿・棉花・羊毛・パルプ・紙・麻類・皮革・木材・重油・揮発油・生ゴム・タンニン材料・工業. 塩・ベンゾール・トリォール・石炭酸・硝酸・苛里燐鉱石などの使用制限品目をあげているが︑﹁戦時体制確立﹂の. 優先といい︑﹁最も有効適切なる物資の調整運用﹂といい︑まさにー物に関する限りではi総動員体制そのもの. たしかに一方では戦勝ムード. 日本軍の徐州占領は︑昭和十三年五月十九目︑広東占領は同年十月二十一日︑武漢三鎮占領は同月二十七目のことで︵そ. であったといえよう︒ ︵2︶. の問︑同年七月十五日には︑張鼓峰での日ソ軍衝突事件︑同年八月十日目ソ停戦協定成立︶︑. に酔い痴れるむきもあったが︑他方一月三目の岡田嘉子・杉本良吉の恋の樺太越鏡事件︵﹁日本共産党の五十年﹂によれば︑. 杉本はコミンテルンとの連絡のためとのこと︶に明けた昭和十三年は︑二月一日に﹁労農派﹂学者グループや雑誌﹁世界文. 化﹂のグループが検挙された第二次人民戦線派事件︵第一次は昭和十二年十二月十五日︶渉あり︑昭和十一年以来毎年禁止. されてきた﹁メーデー﹂も遂に無期限禁止と決まるし︑警視庁によって二月十五日から三日間試行された盛り揚での﹁サボ. 学生狩り﹂︵三四八六名も検挙されたそうだが︑その殆どは︑﹁改俊誓約書﹂をいれさせられ﹁宮城遙拝﹂ののち釈放された︶. などまであって︑当時流行の淡谷のり子の﹁別れのブルース﹂のメロディーのように︑やりきれない時代となっていた︒. 因に︑昭和十三年十二月七日軍令陸第二十一号﹁陸軍航空総監部令﹂が制定され︑同月十二日付で︑陸軍中将東条英機か.

(3) 陸軍航空総監に補せられている︒ の の の. の. の. の. たしかに︑支那事変処理の基本路線を︑﹁第三国の支援を頼み長期抵抗を標榜する国民政府の徹底的潰滅﹂におく. 以上は︑早晩︑﹁目をつぶって清水の舞台からとびおりる﹂ことになりかねまいーもはや︑必ずしも一国とは限ら ぬ﹁第三国﹂との決戦を決意したも同然ー︒. 戦争とは︑いつも︑ぬけめなく結びついた一群の人びとによって計画されるものにはちがいないが︑それが現実の. ものとなるためには︑どうでも国民−一般民衆としてのーの協力がいるものである︒もとより︑ここにいう協力. とは︑おおかた仕込まれたもので︑あるいは︑アジテェターヘの熱狂からか︑あるいは︑身過ぎ世過ぎのためという. 世にも哀れなニヒリズムからか⁝⁝︑ともかく﹁戦争は︑ひとりひとりの心のうちにはじまる﹂ものではある︒. そこで︑戦争を策定企画する側の段取りとしては︑まず︑その手筈として戦争へ到る道を踏み均しておくこと︑つ. まり戦争への﹁体制づくり﹂であった︒一度︑戦争へ到る道が坦坦たるものとなれば︑一般民衆を駆りたてることは. 容易で︑つまり︑一度体制ができてしまえば︑一般民衆は︑否応なしに︑その体制に組み込まれ捲き込まれてしまう ものだからである︒. さて︑第一次近衛内閣の総辞職︵一月四日︶に明けた昭和十四年は︑﹁複雑怪奇﹂な欧州情勢︵八月二十三日の独. ソ不可侵条約︑九月一日のポーランドヘの独軍進撃︑同月三日の英仏の対独宣戦布告︶にひぎまわされた観もあった ︵3︶. ︵4︶. が︑総動員体制づくりも︑同年二月九日の国民精神総動員強化方策の閣議決定︵同年三月二十七日勅令第八十号﹁国. 三︵一四三︶. 民精神総動員委員会官制﹂︶︑五月二十二日﹁文ヲ修メ武ヲ練リ質実剛健ノ気風ヲ振励﹂した﹁青少年学徒二賜ハリタ 昭和法制史稿.

(4) 論. 説︵中村︶. 四︵や四四︶. ル勅語﹂の漢発などとともに︑他方︑同年一月の東京銀座の﹁鉄牛︵戦車︶大行進﹂︑同じく翌月の﹁軍馬大行進﹂. ︵四月七日﹁愛馬の目﹂︶や︑検閲の強化一元化︑製作数制限︑輸入映画上映制限︑文化・ニュース映画の強制上映. などを規定した﹁映画法﹂︵昭和十四年四月五目法律第六十六号︑同年十月一目より施行︶の制定や︑鉄製不急品の. ﹁回収﹂︑金製品の﹁買上﹂の運動開始から︑十一月二十四日には︑﹁国家総動員法﹂第八条に基づき勅令第七百八十. の. の. 九号﹁米穀揚精等制限令﹂︑翌二十五日農林省令第六十四号﹁米穀揚精制限規則﹂が制定され︑﹁玄米ノ重量二対スル. 揚上リ米ノ重量ノ割合﹂が制限され﹁白米禁止﹂となり︑いわゆる﹁七分掲﹂とか﹁代用食﹂奨励となるなど︑物心 両面からする総動員体制づくりも着着と進められていた︒. ︵3︶ 昭和十四年六月十六日︑国民精神総動員委員会は︑遊興営業時間短縮︑ネオン全廃︑中元歳暮贈答廃止︑学生の長髪禁 止︑︒ハーマネント廃止などの﹁生活刷新﹂案を決定している︒. ︵4︶ すでに大正十四年四月一日より中学・師範・高専には軍事教練ボ実施されていたが︵同年四月十一日勅令第百三十五号. ﹁陸軍現役将校学校配属令﹂︶︑昭和十四年三月三十日からは大学においても軍事教練が必修とされた︒. の. の. の. の. の. の. の. の. ところで︑この酒酒たる時流に逆らって昭和十四年一月十日東京世田谷三宿の野砲第一連隊に現役入隊した嶋兵隊恭﹁自. 分はキリスト者として︑銃器をお返しします﹂と徴兵忌避ならぬ兵役拒否を実行した事件があった︒﹁灯台社﹂の明石順三. 人の戦い﹂となった︵稲垣真美﹁兵役を拒否した日本人ー灯台社の戦時下抵抗ー﹂昭和四十七年刊︶︒なお︑その﹁治. の長男真人であって︑この事件は後︑﹁灯台社﹂の一斉検挙︵同年六月二十一日︶に発展し︑明石等のいわゆる﹁一億対五. 安維持法﹂第一条抵触事件としての司法処理は︑翌十五年八月の予審から昭和十八年九月の上告棄却まで続いた︒. すでに右﹁米穀掲精等制限令﹂が︑﹁国家総動員法﹂第八条﹁政府ハ戦時二際シ国家総動員上必要アルトキハ勅令.

(5) ノ定ムル所二依リ物資ノ生産︑修理︑配給︑譲渡其ノ他ノ処分︑使用︑消費︑所持及移動二関シ必要ナル命令ヲ為ス. コトヲ得﹂に基づくものであったことにふれたが︑このように昭和十四︑五年ともなれば︑同法に基づく勅令等も一. 斉に出揃い︑すでに総動員体制の本格的実現の構えをみせている︒前掲﹁工場事業場管理令﹂を皮切りに︑昭和十四. 年九月二十九目勅令第六百七十二号﹁国家総動員法ノ施行ノ統轄二関スル件﹂をはじめとして︑そのおもなものを列. 挙しただけでも1全貌鳥鰍のためと関連上から昭和十六︑七年にもわたるがー︑ 昭和十四年六月三十日勅令第四百二十七号﹁総動員業務事業設備令﹂ 昭和十四年七月二十五日勅令第四百九十三号﹁総動員業務事業主計画令﹂ 昭和十四年三月三十日勅令第百三十一号﹁工場事業場技能者養成令﹂. 昭和十四年三月三十目勅令第百二十七号﹁工場就業時間制限令﹂︑昭和十四年四月十九日厚生省令第七号﹁工場就 業時間制限令施行規則﹂ ︵5︶ 昭和十六年十二月六日勅令第千六十三号﹁労務調整令﹂. 昭和十七年二月二十四日勅令第百六号﹁重要事業場労務管理令﹂. 五︵一四五︶. 昭和十五年十月十六日勅令第六百七十五号﹁賃金統制令﹂︑昭和十五年十月十九日厚生省令第四十六号﹁賃金統制 令施行規則﹂. 昭和十四年三月三十日勅令第百三十号﹁学校技能者養成令﹂ ︵5︶ 昭和十三年八月二十三目勅令第五百九十九号﹁学校卒業者使用制限令﹂ 昭和法制史稿.

(6) 論. 説︵中村︶. 昭和十三年八月二十三日勅令第六百号﹁医療関係者職業能力申告令﹂ 昭和十四年二月三日勅令第二十六号﹁獣医師等職業能力申告令﹂. 六︵一四六︶. 昭和十四年一月六日勅令第五号﹁国民職業能力申告令﹂︑昭和十四年一月十八日厚生省令第一号﹁国民職業能力申 告令施行規則﹂. 昭和十四年一月二十八日勅令第二十三号﹁船員職業能力申告令﹂. 昭和十四年十一月二十日勅令第七百八十号﹁船舶運航技能者養成令﹂. 昭和十五年十一月八日勅令第七百四十九号﹁船員使用等統制令﹂ ︵5︶ 昭和十四年七月七目勅令第四百五十一号﹁国民徴用令﹂︑昭和十四年七月十一目厚生省令第十七号﹁国民徴用令施 行規則﹂. 昭和十五年十月十九日勅令第六百八十七号﹁船員徴用令﹂. 昭和十六年六月三十日陸達第四十七号﹁陸軍徴用規則﹂. 昭和十四年十月十六日勅令第七百三号﹁価格等統制令﹂︑昭和十四年十月十九目閣令第十三号﹁価格等統制令施行 規則﹂. 昭和十五年十月十六目勅令第六百七十八号﹁地代家賃統制令﹂︑昭和十五年十月十九目厚生省令第四十七号﹁地代 家賃統制令施行規則﹂. 昭和十五年十月十六目勅令第六百八十号﹁会社経理統制令﹂︑昭和十五年十月十九日閣令第十三号﹁会社経理統制.

(7) 令施行規則﹂. 昭和十六年八月二十九日勅令第八百三十四号﹁株式価格統制令﹂ 昭和十五年十月十六日勅令第六百七十六号﹁船員給与統制令﹂. 昭和十五年十月六目勅令第六百八十一号﹁銀行等資金運用令﹂︑昭和十五年十一月二十二日大蔵農林商工拓務省令 第一号﹁銀行等資金運用令施行規則﹂. 昭和十七年四月十七日勅令第四百四十号﹁金融統制団体令﹂. 昭和十七年五月十五日勅令第五百十一号﹁金融事業整備令﹂. 昭和十四年十月十六日勅令第七百八号﹁電力調整令﹂︑昭和十四年十月十八日逓信省令第四十六号﹁電力調整令施 行規則﹂. 昭和十六年八月二十九日勅令第八百三十二号﹁配電統制令﹂. 昭和十四年十二月二十八日勅令第九百一号﹁工場事業場使用収用令﹂︑昭和十五年二月一日閣令第一号﹁工場事業. 場使用収用令施行規則﹂︑昭和十五年五月二十四日陸軍海軍省令第三号﹁陸海軍工場事業場使用収用令施行規則﹂. 昭和十四年十二月二十八目勅令第九百二号﹁土地工作物管理使用収用令﹂︑昭和十五年二月一日閣令第二号﹁土地. 工作物管理使用収用令施行規則﹂︑昭和十五年六月十四日陸軍海軍省令第五号﹁陸海軍土地工作物管理使用収用. 令施行規則﹂︑昭和十六年九月一日陸達第六十四号﹁陸軍土地工作物管理使用収用規程﹂. 七︵一四七︶. 昭和十四年十二月十五目勅令第八百三十八号﹁総動員物資使用収用令﹂︑昭和十四年十二月二十日閣令第十五号﹁総 昭和法制史 稿.

(8) 論. 説︵中村︶. 八︵一四八︶. 動員物資使用収用令施行規則﹂︑昭和十五年六月八日陸軍海軍省令第四号﹁陸海軍総動員物資使用収用令施行規則﹂. 昭和十四年十二月五日勅令第八百二十三号﹁小作料統制令﹂︑昭和十四年十二月六日農林省令第六十六号﹁小作料 統制令施行規則﹂. 昭和十六年十一月十四日勅令第九百七十号﹁陸運統制令﹂ 昭和十七年五月十四日勅令第五百四号﹁海運統制令﹂. 昭和十七年三月二十四日勅令第二百三十五号﹁戦時海運管理令﹂. 昭和十六年九月十六日勅令第八百六十号﹁港湾運送業等統制令﹂ 昭和十五年八月三日勅令第五百十六号﹁農業水利臨時調整令﹂. 昭和十六年一月三十一日勅令第百十四号﹁臨時農地等管理令﹂︑昭和十六年二月一日農林省令第十一号﹁臨時農地. 等管理令施行規則﹂︑昭和十六年十月十六目農林省令第八十六号﹁農地作付統制規則﹂. 昭和十六年一月二十九日勅令第百九号﹁臨時農地価格統制令﹂. 昭和十六年十二月二十六日勅令第千二百三十三号﹁農業生産統制令﹂. 昭和十六年十二月二十三目勅令第千二百一号﹁馬事団体令﹂ ︵6︶ 昭和十五年十一月二十日勅令第七百八十一号﹁宅地建物等価格統制令﹂︑昭和十五年十一月二十一日商工省令第九 十五号﹁宅地建物等価格統制令施行規則﹂. 昭和十六年四月一日閣令第五号﹁生活必需物資指定規則﹂.

(9) 昭和十六年十二月十五日勅令第千百三十号﹁物資統制令﹂︵附則により﹁生活必需物資統制令﹂は廃止さる︶. 昭和十七年十月十五目商工省令第六十四号﹁統制物資ノ譲渡制限等二関スル件﹂ 昭和十七年五月十九日勅令第五百二十号﹁水産統制令﹂. 昭和十六年五月十三日勅令第五百八十一号﹁貿易統制令﹂. 昭和十五年七月二日勅令第四百五十五号﹁製鉄用輸入原料配給等統制令﹂. 昭和十六年八月二十九日勅令第八百三十五号﹁金属類回収令﹂︑昭和十六年九丹一日商工省令第七十七号﹁金属類 回収令施行規則﹂︑昭和十六年九月一日閣令第二十号﹁回収物件及施設指定規則﹂. 昭和十六年八月二十九日勅令第八百三十一号﹁重要産業団体令﹂︑昭和十六年九月一目閣令第十九号﹁重要産業団 体令施行規則﹂︑昭和十七年八月四目閣令第二十号﹁重要産業指定規則﹂. 昭和十六年十二月十日勅令第千八十四号﹁企業許可令﹂. 昭和十七年五月十二目勅令第五百三号﹁企業整備令﹂ ︵5︶ 昭和十六年十一月二十一日勅令第九百九十五号﹁国民勤労報国協力令﹂︑昭和十六年十二月一目厚生文部省令第三 号﹁国民勤労報国協力令施行規則﹂. 九︵麟四九︶. 昭和十六年十二月十三日勅令第千百七号﹁新聞事業令﹂︑昭和十六年十二月二十目閣令内務省令第一号﹁新聞事業 令施行規則﹂. 昭和十六年一月十目勅令第三十七号﹁新聞紙等掲載制限令﹂. 昭和法制史稿.

(10) 論. 説︵中村︶. 一〇︵一五〇︶. ﹁学校卒業者使用制限令﹂︑﹁国民徴用令﹂︑﹁労務調整令﹂︑﹁国民勤労報国協力令﹂と︑後記の昭和十九年八月二十二目勅. となるほどで︑まことにぬかりなく︑よくもゆきとどいたものと︑おどろくほかはない︒ ︵5︶. 令第五百十九号﹁女子挺身勤労令﹂の五勅令は︑昭和二十年三月五日勅令第九十四号﹁国民勤労動員令﹂に統合された︒か. くて︑これにより六百二十万人もが軍需産業などに強制動員された︒なお︑ほかに︑別途強制連行された中国人は三万︑朝. 昭和十九年十二月六日の大審院判決によれば︑土地の売買契約成立後その履行期前に︑﹁宅地建物等価格統制令﹂の施行. 鮮人は七十二万とのことである︒ ︵6︶. により売買価格につき認可を要するにいたる場合には︑事情変更に因る契約解除権の発生があるものとされている︵﹁大審 院民事判例集﹂第二三巻第一九号六一三頁︶︒. 六 ︵1︶. 昭和十五年は︑﹁紀元二千六百年﹂の一大キャンペーンの展開された年であると同時に︑﹁新体制﹂運動の生れた年. −見方にょっては︑世を挙げてドイッ礼賛︑ヒトラームードに浮かされた年︵同年九月二十七日﹁目独伊三国同. 盟﹂調印︶1でもあった︒さて︑同年七月二十二目︑近衛文麿は︑平沼駿一郎︑阿部信行︑米内光政の︑いずれも. 短命におわった内閣のあとをうけて第二次近衛内閣の首班として再登場するのであるが︑これよりさき六月二十四 日︑枢密院議長を辞任して﹁新体制﹂運動推進の決意を表明している︒. ︵1︶ いうまでもなく︑ここでいう﹁紀元﹂とは︑明治五年十一月十五目太政官布告第三百四十二号﹁今般太陽暦御頒行神武天. 皇即位ヲ以テ紀元ト被定候二付其旨ヲ被為告候為メ来ルニ十五目御祭典被行候事﹂にいう﹁紀元﹂のことで︑﹁皇紀﹂など.

(11) ともよばれていたo. さら. いわゆる﹁新体制﹂は︑当初の近衛構想では︑ナチスに範をたれた一党独裁制のもとに集結された一大政治勢力に. よって強力に推進される政治︑経済︑社会︑文化など広汎な分野にわたる﹁革新﹂であったようであるが. に︑これにょって専横を極める軍部を抑えるという狙いすら密かに秘められていたとか﹂その﹁革新﹂実現の手. 立てとなると︑ことに組織づくりの段取りとなれば︑あるいは天皇制の壁に阻まれ︑あるいは︑ややもすれば﹁幕府. 一党独裁制も骨抜きとされ︑同年十月十二日. 的存在﹂と諺りをうけかねないーすでに当時︑そういった批判が旧﹁体制﹂側の最右派からなされていたー︒そ こで︑﹁新体制﹂運動も︑次第に︑ナチス張りの﹁革新﹂色は薄らぎ︑. ﹁大政翼賛会﹂︵総裁近衛首相︶として発足する頃には︑会の性格も﹁政治結社﹂ではなく﹁公事結社﹂であるとさ. れ︑﹁八紘為宇﹂なる国家的道義的大理想顕現のためのー﹁承詔必謹︑万民翼賛﹂のための﹂いわば政府・軍. 部のための協力機関︵﹁御用﹂・﹁下請け﹂・﹁先取り﹂団体︶の観があった︒とはいえ︑その標榜する﹁臣道実践﹂︑﹁上. 意下達・下意上通﹂なる実践機構は︑政府・軍部の意図するような﹁体制づくり﹂には︑絶大な機能を発揮しえた︒. すなわち︑大政翼賛会国民生活動員本部長村松久義﹁生活戦体制ヘー国民生活の動員﹂︵昭和十六年八月十日大. 政翼賛会宣伝部発行︶によれば︑まず﹁生活における国家性と︑政治性の乏しい傾向は︑我が国︑家庭生活の一大欠. 陥である﹂として︑われわれの人生︑生活目標を﹁国家の中﹂におき︑﹁国家の中に生き抜く﹂覚悟に徹し︑﹁日常生 の. の. の. の. の. の. 活の総てを挙げて御奉公申上ぐる﹂ことこそ﹁臣民道﹂であるといい︑また︑﹁近代戦の決定的な勝敗は︑この国民生. 一一︵一五一︶. 活戦において定まる﹂もので︑今や︑﹁いよいよ生活力対生活力の戦ひといふ緊迫した態勢にまで進展して参つた﹂ 昭和法制史稿.

(12) 論. 説︵中村︶. ともいっている︒ の. の. の. の. の. の. の. 一二︵一五二︶. さらに同書は︑﹁今事変以来満四ヶ年戦ひ続けた我が国は︑更に将来に向つて長期の一大決戦が予想せられるの. で﹂︑すみやかに﹁高度国防国家建設の遂行﹂をする必要があり︑そのためには﹁現下労働力の昂揚﹂こそ肝要で︑. そのことは畢童︑﹁国民厚生の問題﹂に帰着し︑﹁各自が国家目的の中に厚生せられ︑かり新生せられる﹂ように各自. の目常生活︑人生があらためられる必要があり︑﹁国民生活戦体制の整備﹂こそ急務であるともいっているが︑﹁生活. 刷新﹂としては︑すでに﹁国民精神総動員本部﹂が手懸けており︑同年八月一目︑﹁贅沢品は敵だ!﹂︵﹁ぜいたくは ︵2︶. シヤシ. 敵だ﹂︶︑﹁目本人なら贅沢はできない筈だ﹂︑﹁指輪はこの際全廃しましょう﹂といった数千の立看板が配置されてい. たゆもっとも︑これは︑同年七月六日商工農林省令第二号の﹁奢修品等製造販売制限規則﹂︵昭和十二年九月十日法. 律第九十二号﹁輸出入品等二関スル臨時措置二関スル法律﹂第二条に基づいて制定さる︶ー商工省告示第三百四十. 号︑第三百四十一号︑第三百四十二号︑商工省農林省告示第十号により当該﹁物品﹂が指定されているーの実施に. ︵昭和十五年三月三十日勅令第二百一号﹁価格形成委員会官制﹂︶. 呼応したものであるが︵同規則は同年七月七日より施行されたので︑俗に﹁七・七禁令﹂とよばれた︶︑さらにこれ よりさき同年四月二十四目﹁価格形成中央委員会﹂. は︑米・みそ・醤油・塩・マッチ・木炭・砂糖など十品目に切符制採用を決定しており︑ついで︑同年八月二十日に. ﹁臨時米穀配給統制規則﹂が制定され︵同年九月十日より施行︶︑同年六月一目には早くも六大都市で砂糖・マッチ. の切符制が実施されている︒また一方︑同年九月十一日内務省訓令により︑﹁部落会・町内会・隣保班・市町村常会整. 備要綱﹂が︑全国府県に通達されているが︑右の隣保班構想などは︑まさに﹁大政翼賛会﹂の︑いわゆる﹁翼賛体制﹂.

(13) の末端機関としての﹁隣組﹂制ー﹁隣保共助﹂の名目の民衆相互監視機関のきらいも多分にあったーとして重視 されたところで︑翼賛会の政府協力機関化を物語るものといえよう︒. ︵3︶. いわゆる﹁翼賛体制﹂としては︑農民は︑すでに昭和十三年十一月二日結成された﹁農業報国会﹂のもとに﹁皇国. 農民﹂として︑労働者は︑新たに昭和十五年十一月二十三日創立された﹁大目本産業報国会﹂のもとに﹁産業報国﹂. の﹁産業戦士﹂としてー﹁事業一家﹂の名のもとに労働者・経営者が一つの団体に組み込まれるという変則ぶり. ー︑それぞれ組織されるほか︑婦人は︑﹁愛国婦人会﹂︵明治三十四年二月二十四日創立︶︑ならびに︑﹁大目本国防. 婦人会﹂︵昭和七年三月︑大阪にできた﹁国防婦人会﹂から発展︑同年十二月十三日結成︶に︑文学者も︑やや遅れ. て﹁日本文学報国会﹂︵昭和十七年五月二十六日創立︶にといった具合に︑一種の職能別に組織されていった︒. ︵2︶ 内務省は︑昭和十五年三月二十八日︑ミス・ワカナ︑ディック・ミネ︑藤原釜足など十六名に芸名の改訂を指示している. 溝︑ことは項末といえ︑文部省渉︑音階名ドレミファソラシドを︑ハニホヘトイロハにあらためたり︑大蔵省が︑煙草のゴ. ールデン・バットを金鶏に・チェリーを桜と改名したのと同様︑すでに米英敵視政策1﹁敵性語追放﹂ーが窺えよう︒. さらに︑同年九月十三日には︑艶笑物︑毒婦物︑白浪物︑博徒物の講談落語の口演が禁止され︑同年十月三十一目限りでダ ンスホールの閉鎖も命ぜられた︒. なお︑同年十一月一日勅令第七百二十五号﹁国民服令﹂により﹁大日本帝国男子ノ国民服ノ制式﹂炉定められ︑女性の和 服には︑モンペ着用演奨励された︒. 一三︵一五三︶. ︵3︶ ﹁報国﹂の二字は︑よく使われ︑昭和十五年五月十三目から初発売された日本勧業銀行の一枚十円の割増金一万円付の宝. くじも﹁報国債券﹂とよばれていた︒. 昭和法制史稿.

(14) 論. 説︵中村︶. 一四︵一五四︶. ところで︑﹁紀元二千六百年﹂奉祝の方は︑十一月十日皇居外苑の式典を皮切りに全国的に多彩な祝賀行事がくり. 大政翼賛会﹂. ひろげられ︑十四日までの五日間だけは︑赤飯用もち米特配︑昼酒御免︑芸者手踊り御容赦というわけで︑全国民. も︑ほっと息を抜くおもいをしたが︑十五日の朝には待構えるように﹁祝い終わった︑さあ働こう!. の立看板がでた︒しかも︑この紀元二千六百年を祝うという年に︑早稲田大学教授津田左右吉は︑同年一月十一日︑. やむなく教授を辞任したばかりでなく︑その著﹁古事記及目本書紀の研究﹂は二月十日に︑﹁神代史の研究﹂︑﹁上代. 日本の社会及思想﹂︑﹁目本上代史研究﹂も同月十二日に︑﹁出版法﹂︵明治二十六年四月十四日法律第十五号︶第十九. 条により発禁︵発売頒布禁止︶とされ︑さらに三月八目には︑発行者岩波茂雄とともに︑同法第二十六条﹁皇室ノ尊. 厳ヲ冒濱シ︑政体ヲ変壊シ又ハ国憲ヲ素乱セムトスル文書図画ヲ出版シタルトキハ⁝⁝﹂の前段に該当するものとし. て起訴されている︒もっとも︑その後の司法処理では︑昭和十七年一月二十一日に︑津田を禁鋼三か月︑岩波を禁鋼. 二か月︵いずれも二年の執行猶予︶とする第一審判決があり︑これに対し検事︑被告両側とも控訴したものの︑一年 ︵4︶. 以上も公判が開かれずに昭和十九年十一月四日︑時効完成によって免訴の判決があるといったように︑まことに﹁奇 妙な結末﹂ではあ っ た ︒. 右のような学問の自由に対する弾圧は︑すでに昭和十三年に東京帝国大学教授河合栄治郎についても起り︑その著. ﹁改訂社会政策原理﹂︑﹁ファシズム批判﹂︑﹁時局と自由主義﹂︑﹁第二学生生活﹂は昭和十三年十月三日︑同じく﹁出. 版法﹂第十九条により発禁︑昭和十四年二月二十八日︑河合は発行者鈴木利貞とともに︑﹁出版法﹂第二十七条﹁安. 寧秩序ヲ妨害シ又ハ風俗ヲ壊乱スル文書図画ヲ出版シタルトキハ⁝⁝﹂の前段に該当するものとして起訴された︒な.

(15) お︑その後の司法処理については︑第一審では昭和十五年十月七日の無罪判決だったが︑昭和十六年十月二十三臼の. 控訴院判決では︑河合も鈴木も罰金刑に処せられ︑上告審では︑一回の公判も開かれないまま︑昭和十八年六月二十 五日の上告棄却の判決となっている︒. の. の. の. の. の. の. の. ずの. 昭和十五年九月十九目﹁教育審議会﹂の答申︵諮問第一号﹁高等教育二関スル件﹂に対する︶では︑﹁大学ハ国家. 二須要ナル学術ノ理論及応用ヲ教授シ並二其ノ纏奥ヲ攻究シ常二皇国ノ道二基キテ国家思想ノ油養︑人格ノ陶冶二力. ムルヲ以テ目的トナスコト﹂︵﹁大学二関スル要綱﹂︶となっており︑さらに同年十二月二十四目文部省訓令第二十九. の. の. の. の. の. の. の. の. の. の. 号では︑﹁大学教授ノ学生ヲ教授シ其ノ研究ヲ指導スルニ当リテハ国家ノ須要ナル学術ノ薙奥ヲ攻究スルト共二常二 oQoo. ︵5︶. 国家思想ノ滴養及人格ノ陶冶二力ムベキモノニシテ大学教授ガ研究者タルト同時二教育者タルノ責務ヲ有スルモノナ. ルコトハ言ヲ侯タザル所ナリ⁝⁝大学教授ハ須ク教学一体ノ精神二徹シ⁝⁝﹂となっておる︒ ︵4︶我妻栄編﹁日本政治裁判史録﹂昭和・後︵昭和四五年刊︶三六六頁︒. オヨルマイテイヨ. ︵5︶ もとよりその趣旨は︑大正七年十二月六日勅令第三百八十八号﹁大学令﹂第一条と同じである︒. 昭和法制史稿. か. 一五︵一五五︶. を示達している︒そこにけ﹁生きて虜囚の辱を受けず︑死して罪禍の汚名を残すこと忽れ﹂︑﹁己に克つこと能はず. はずかしめ. 十六年の頃には︑﹁戦時下﹂という極めことばにかわっていた︒この年の一月八目︑陸軍大臣東条英機は﹁戦陣訓﹂. さて︑﹁満州事変﹂の頃から頻りにつかわれだした﹁非常時﹂︑﹁時局下﹂﹁この際﹂といった全能のことばも昭和. 七.

(16) 論 とら. 説︵中村︶ いか. 一六︵一五六︶. しカり. して物慾に捉はるる者︑争でか皇国に身命を捧ぐるを得ん﹂などと謳いあげているが︑巷では﹁世の中は星に錨に闇. に顔︑馬鹿者のみが行列に立つ﹂︵清沢洌︶ー星は陸軍︑錨は海軍︑﹁顔﹂は統制機関.軍需工場の幹部︑役員から. 下端や︑町村の顔役など!などと囁かれていた︒それもその筈︑同年四月一日から六大都市に米穀配給通帳制なら. びに外食券制が実施され︑成人一日の米の配給量は二合三勺とされたほか︑酒も切符制︑家庭用木炭配給通帳制から︑ ︵1︶. 青果物︑鶏卵︑大豆・大豆油︑雑穀︑鮮魚介⁝⁝まで︑すべて窮屈な配給統制となっては︑いかに﹁ほしがりません. 勝つまでは﹂といわれても︑﹁横流し﹂︑﹁闇取引き﹂が横行しないわけはなく︑同年七月十五日に﹁暴利ヲ目的トス. ル物品ノ売買ノ取締二関スル命令﹂︵昭和十二年八月三周商工省令第十号︶を改正強化し︑﹁抱合せ販売﹂︑﹁買占め﹂︑. ﹁売惜しみ﹂などを厳しく取り締ってみても到底そのあとを絶たなかったわけである︒. ︵1︶ 同年二月十一日︑朝の東京の﹁目劇﹂前で︑李香蘭︵山口淑子︶の映画と実演に殺到した群衆によってひきおこされた. ﹁大混乱騒動﹂︵警官出動︑消火用ホースで追い散らしても効き目なし︶があった溝︑例によって翌日の新聞では︑大政翼 の の の. の. の. の. 賛会国民生活指導部長の﹁国民的訓練の欠如﹂など識者の批判が挙げられたうち︑野上弥生子だけが﹁外国では戦争は戦争 として芝居も映画も平素より盛んな位です︒娯楽を奪ってはいけません﹂といっていた︒. なお︑同年一月十六日には﹁大日本青少年団﹂が結成され︵同年三月三日厚生省︑﹁産報青年隊﹂結成を通牒︑さ. らに︑同年三月二十一日﹁大巨本壮年団連盟﹂結成︶︑同年二月二十八日勅令第百四十八号により小学校を改め︑﹁皇. 国民ノ錬成ヲ主眼﹂とし﹁知徳相即心身一体ノ修練道場﹂たる﹁国民学校﹂とされ︑さらに文部省は同年八月八日各. 学校に全校組織の学校報国隊︵団︶の編成を訓令している︵同年七月二十一日文部省教学局﹁臣民の道﹂刊行︶︒ま.

(17) た︑同年八月三十日には︑大正十四年勅令第百三十五号﹁陸軍現役将校学校配属令﹂が改正され︑大学の学部にも軍. 事教練担当の現役将校が配属されるなど︵本稿五の註4参照︶︑国民の息切れなど一向にお構いなく︑老いも若きも︑ ﹁戦時体制﹂へと組み込まれていった︒. さらに︑昭和十六年三月七日法律第四十六号﹁住宅営団法﹂︑同第四十七号﹁貸家組合法﹂︑同第四十八号﹁国民労. 務手帳法﹂︑同第四十九号﹁国防保安法﹂︑同年三月八日︵官報十日︶法律第五十四号﹁治安維持法改正法律﹂︑同第. 五十五号﹁借地法中改正法律﹂︑同第五十六号﹁借家法中改正法律﹂などから︑昭和十六年十一月二十六目法律第九. 昭和十五年五月一日法律第百七号﹁国民優生法﹂は昭和十六年七. 十一号﹁防空法中改正法律﹂︑同年十二月十九日法律第九十八号﹁戦時犯罪処罰ノ特例二関スル法律﹂まで︑すべて︑. ひたすら﹁戦時体制﹂に奉仕するものであった. 月一日より施行され︑昭和十五年四月八日法律第百五号﹁国民体力法﹂は︑すでに昭和十五年九月二十六目より施行. されていたー︒. ﹁治安維持法改正法律﹂では︑大正十四年に制定され昭和三年に緊急勅令で改正された僅かに七か条の同法は︑従. 来の実体法的規定に新たに刑事手続および予防拘禁に関する規定が加わり全六十五条となって大いに整備強化され. た︒すなわち︑いわゆる思想犯については︑すでに︑昭和十一年五月二十九日法律第二十九号﹁思想犯保護観察法﹂. があうたが︑それでは︑まだ十分とはいえなかったのは︑﹁斯カル誰激分子ハ思想犯保護観察法実施ノ結果二微シマ. スルニ保護観察二付スルモ︑到底改俊ヲ期待シ得ザル者デアルコト明白デアリマスノデ︑蝕二予防拘禁ノ制度ヲ新設. 一七︵一五七︶. シタノデアリマス︒即チ誰激思想ヲ拗棄セズ︑再犯ノ虞顕著ナル者二対シ︑国家治安二関スル危険ヲ予防スルト共 昭和法制史 稿.

(18) 論 の. 説︵中村︶ の. の. の. の. の. の. の. の. の. の. 一八︵↑五八︶. 二︑危険ナル犯罪ヲ防邉スルノ効果ヲ完壁ナラシムルガ為メ︑一定ノ条件ト手続ノ下二之ヲ社会ヨリ隔離シ︑悪思想. ノ伝播ヲ防止シ︑併セテ強制ノ方法二依リ思想ノ改善ヲ図リ︑忠良ノ日本人二立返ラシムルコトヲ以テ︑予防拘禁制. 度ノ主眼ト致ス﹂︵衆議院同法委員会での政府委員の立法理由説明より︶というわけであったからである︒. なお︑宅地・建物の賃貸借を終止せしむるには︑﹁正当ノ事由﹂に基づく賃貸借終止の意思表示がなくてはならな. いとされた借地借家法の改正︵﹁借地法﹂第四条第一項︑﹁借家法﹂第一条ノニ︶などは︑一見︑﹁戦時体制﹂とは︑ ︵2︶. かかわりがないものーいな︑これに逆行するものーのようだが︑この改正の真の狙いは︑工場地に急激に集中す. る﹁産業戦士﹂に住宅を供給︑確保するためというところにあったともいえよう︒このことは︑同年三月八日勅令第. 二百一号﹁借地法︑借家法及借地借家調停法ノ施行期日及施行地区二関スル件﹂で︑それらの法が︑同年三月十日よ. りは従来と違い六大都市︵東京・京都・大阪・横浜・神戸・名古屋︶とその周辺に限られず︑﹁内地ノ内未ダ之ヲ施. 行セザル地区及樺太ノ全地区二之ヲ施行ス﹂とされた点についてもいえよう︒すなわち︑各地に建設される軍需工場 に対処し︑あるいは︑予想される軍需工場の疎開にも対応しての措置であった︒. ︵2︶ もっとも︑この改正法の社会法的本質に着目しての批判も︑なお相当強く︑法案審議中︑ 一貴族院議員は︑﹁其ノ恒心ガ の の の の の アルベキモノニ対シテノ法律的ノ制限ヲ設ケテ︑恒心アリ得ナイノガ常識デアル方面二権限ヲ与ヘルト云フコトハ﹂不当で の の の の あり︑﹁恒産アル者ハ恒心アリト云フ︑所謂東洋ノモットーヲ尊重セヨ﹂といったとか︒. さらに︑昭和十六年三月三目法律第二十一号の﹁民法中改正法律﹂もまた︑同様にみられよう︒すなわち︑﹁民法﹂. ーもとより︑昭和二十二年十二月二十二日法律第二百二十二号による全改以前の1第七百四十九条第三項中の.

(19) の. の. の. の. の. の. の. の. の. の. の. の. の. の. の. の. ﹁若シ家族力其催告二応セサルトキハ戸主ハ之ヲ離籍スルコトヲ得﹂を︑﹁若シ家族ヵ正当ノ理由ナクシテ其催告二. 応セサルトキハ戸主ハ裁判所ノ許可ヲ得テ之ヲ離籍スルコトヲ得﹂と改め︑戸主の離籍権の濫用を予防しようとのこ. の改正の狙いも︑遺族扶助料︑金鶏勲章年金︑特別賜金等の恩典が︑おおく︑﹁同一の家に在ること﹂を要件とされ. ていたことから︵大正十二年四月十四日法律第四十八号﹁恩給法﹂第七十二条など︶︑戦没者の未亡人などを離籍に よって︑その享受資格を失うことのないようにとの措置にほかならなかった︒. ﹁防空法﹂は︑すでに昭和十二年四月五日法律第四十七号を以って制定されていたが︑その後の防空訓練の経験を の の 生かし︑とくに︑﹁空襲判断に関する軍当局の見解﹂に基づぎ︑従来の﹁防空の範囲﹂とされた燈火管制︑消防︑防 の の 毒︑避難︑救護︑監視︑通信︑警報に︑さらに偽装︑防火︑防弾︑応急復旧を加えるなど一段と整備強化された︒す の. の. の. の. なわち︑同法第五条ノニによれば︑地方長官は︑﹁防空上必要アルトキハ一定ノ区域ヲ指定シ其ノ区域内二於ケル木. 造建築物ノ所有者二対シ期限ヲ付シテ其ノ建築物ノ防火改修ヲ命ズルコトヲ得﹂とされ︑また第五条ノ五によれば︑. 主務大臣は︑﹁防空上工場其ノ他ノ特殊建築物ノ分散ヲ図ル為﹂ないしは﹁防空上空地ヲ設クル為﹂に﹁一定ノ区域. ヲ指定﹂ないしは﹁一定ノ地区ヲ指定﹂し︑その区域・地区内の﹁建築物ノ建築ヲ禁止叉ハ制限スルコトヲ得﹂とさ. れ︑さらに第五条ノ六によれば︑前条の区域内・地区内においては︑地方長官は︑﹁従来存シタル建築物﹂でも﹁新. 二建築セラレタリトセパ﹂第五条ノ五の規定により﹁其ノ建築ヲ禁止又ハ制限セラルベキモノニ付テハ﹂︑これを﹁除 てい. ︵3︶. 却︑改築其ノ他防空上必要ナル措置ヲ命ズルコトヲ得﹂とされ︑いわゆる既存の建物の﹁強制疎開﹂iとはいえ︑. 一九︵一五九︶. 体のいい人家のぶちこわしーもできるようになっていた︒ことに︑﹁戦時犯罪処罰ノ特例二関スル法律﹂となると︑. 昭和法制史稿.

(20) 弧爾. 説︵中村︶. 二〇︵一六〇︶. 最早はじめから﹁戦時二際シ燈火管制中叉ハ敵襲ノ危険其ノ他人心二動揺ヲ生ゼシムベキ状態﹂を想定したうえで︑. この状況における各種犯罪の刑を加重しているが︑まことに︑用意おさおさ怠りなしというところであろう︒. ︵3︶ ところが︑現実に空襲があったのは︑昭和十七年四月十八日のことで︑太平洋上の米空母ホーネットより発進したノー. マリアナ基地︵サイ︒ハン島・ティニアン島.グアム島︶よ. 5十六機のうち︑十三機が東京︑横須賀︑二機が名古屋︑一機が神戸を爆撃し︑ソ連︑中国の日本軍非占 ス・アメリカンB2 領地に着陸している︵うち一機は占領地南昌に不時着︶︒なお︑. りの本格的空襲は︑昭和十九年十一月二十四日からであった︒. なお︑昭和十八年十一月十三日に東京都は︑﹁帝都重要地帯疎開計画﹂︵防火地帯造成︑重要工場付近の建物疎開︑駅前広. 場造成など︶を発表した溝︑東京・名古屋に防空法に基づき初の疎開命令︵指定区域内の建物の強制取壊し命令︶が具体的 に発せられたのは︑昭和十九年U月二十六日のことであった︒. それでは︑なぜに︑ここまで第二次︑第三次近衛内閣によって用意周到に段取りされてきながら︑ついに東条内閣. ︵昭和十六年十月十八目成立︶によって﹁目をつぶって清水の舞台からとびおりる﹂おもいで︑﹁いちかばちか﹂の. 開戦に踏み切らざるを得なかったか︒まさに﹁大東亜戦争の本質は︑支那問題に始り支那問題に終るべき宿命を有す. る﹂︵宇垣一成昭和二十年一月二十二目﹁日記﹂より︶といわれたとおり︑支那事変処理完遂を︑あくまで第三国の. 支援を頼む国民政府の徹底的潰滅以外にあり得ないとする限り︑さしずめ︑﹁あの旗ーユニオンジャックか星条旗か ようすけ. ーを撃て﹂となるほかはなかったかもしれない︒同年二月︑野村吉三郎海軍大将の駐米大使着任以来︑懸命にー. だが一方︑外務大臣松岡洋右は同年四月十三日︑モスクワで﹁日ソ中立条約﹂に調印︑モスクワ駅頭に見送ったスタ. ーリンに﹁これで日本は南進できるね﹂といわれたとかー進められてきた日米交渉が︑﹁日本の南方資源獲得にア.

(21) メリカは支持と協力を与える﹂なる内容までふくまれた同年四月十六日の﹁日米諒解案﹂すらほうむられ︑ついに行. き詰りとなったのも︑右諒解案にふくまれた﹁日中間の協定による日本軍の中国撤退﹂という他の一条項が︑﹁中国. 駐兵は軍の生命である﹂とする陸軍には到底容れられず︑かつ日米交渉は日独伊三国同盟の信義に反するとの松岡外 相の大義名分論からの強硬な反対にあったためであった︒. しかも同年七月二目の﹁御前会議﹂では︑﹁情勢の推移に伴う帝国国策要綱﹂が決定されーすでに同年六月二十. 二日には︑ついに独ソ戦が開始されて︑第二次世界大戦は︑あたかも自由対ファシズムの戦いとなっていた﹂そ. れに基づぎ︑一方では︑対ソ戦準備として﹁関東軍特別演習﹂と称して十六個師団六十万の兵力と六百機の航空機が. 満州に集結され︑他方︑﹁日仏共同防衛議定書﹂︵同年七月二十九目調印︶に基づぎ日本軍の南部フランス領インドシ. ナヘの﹁進駐﹂︵昭和十五年九月二十三日北部フラソス領イソドシナヘ﹁進駐﹂︶がおこなわれた︒その結果は︑アメ. リカを硬化させ︑中国への軍事顧問団の派遣︑フィリピン軍の米軍指揮下化︑対日航空機用ガソリンの禁輸などの措. 置をとらせるにいたったばかりでなく︑ついに日本は︑いわゆる﹁ABCD包囲陣﹂︵Aはアメリカ︑Bはイギリス︑ ︵4︶. Cは中国︑Dはオランダ︶に封じこめられる始末となった︒かくては︑ジリ貧で自滅するよりはと︑敢えて厳密な. ﹁国力判断﹂に目をつぶっても︵清水の舞台からとびおりるおもいで︶︑開戦に決意せざるをえなかったようである. ー﹁ジリ貧を惧れて︑ドカ貧に陥らないように﹂との米内光政などの忠告もあったようだがi︒. ︵4︶ ﹁国力判断﹂では︑鈴木貞一企画院総裁・から東条首相に報告された正式かつ最終的とおもわれるものが︑﹁現代史資料﹂. 一二︵一六一︶. 第四十三﹁国家総動員﹂第一︵昭和四五年みすず書房刊︶の一四九頁から一五三頁に収録されているが︑それにしても日本. 昭和法制史稿.

(22) 論. 説︵中村︶. ニニ︵一六二︶. にとって最大の誤算は︑日本の船舶消粍の見込みと︑アメリカの生産力拡充の速度と規模についての予想とにあったようで. 米英われらの敵だ︑進め! 一億火の玉だ﹂ともえた. ある︒すなわち︑開戦以来︑日本の船舶喪失は予想の十倍となり︑また︑アメリカでは︑開戦後わずかに十か月にして︑早 くも想像を絶する大規模な量産ボ開始されていた︒. ほふ. はたして︑日本中が︑緒戦の﹁大勝利﹂にわき︑﹁屠れ!. のも︑ほんの束の間︑翌十七年六月五目の一度に空母四隻︵﹁赤城﹂・﹁加賀﹂・﹁飛竜﹂・﹁蒼竜﹂︶も失った﹁︑・︑ッドウ. ェー沖海戦﹂︑同年八月七日のガダルカナル島への米軍上陸︑ついで翌十八年二月一目の同島よりの撤退︵とくに﹁転. 進﹂といった︶を開始したあたりを一つの転回点としてーあたかも翌二日のスターリングラードでの独軍降伏が︑. ヨ!戸ッパ戦線での一つの転回点となったように︵昭和十八年十一月︑チャーチル・ルーズベルト.蒋介石のヵイβ. 会談︑宣言︶1︑太平洋戦線での日本軍も︑次第に後退しはじめー十八年五月二十九日アッツ島︑同年十一月二. 十五目マキソ︒タラワ両島︑十九年七月七日サイパン島︑同年八月十一日グァム島と日本軍の全滅︵とくに﹁玉砕﹂と. いった︶が続く一方︑同年六月十九日の﹁マリァナ沖海戦﹂で︑空母・航空機の大半を失った連合艦隊は︑同年十月. 二十四日の﹁レイテ沖海戦﹂で︑ついにその主力︵戦艦﹁武蔵﹂ほか四隻︑空母四隻など︶を失うにいたったー︑. 国内のムードも︑おのずとそれにつれて﹁鬼畜米英﹂なる怨念で︑ただ徒に﹁何が何でも勝ち抜くぞ﹂と怒号され︑. 虚しく﹁神州不滅﹂がうそぶかれ︑やたらと﹁必勝の信念﹂のみが叫ばれるようになっていった︒ の それだけに﹁銃後﹂の構えも厳しくなり︵昭和十八年四月一日法律第八十八号﹁陪審法ノ停止二関スル法律﹂︶︑昭. 和十八年九月二十一日陸軍省令第三十七号により﹁兵役法施行規則﹂︵昭和二年十ピ月三十目陸軍省令第二十四号︑.

(23) なお昭和二年三月三十一目法律第四十七号﹁兵役法﹂︶が改正され︑﹁第二国民兵﹂も召集されることとなったほか︑. 学生の徴兵猶予制も全面的に停止され︵同年十月二日︶︑このため入隊する学生︵十二月一日第一回学徒兵入隊︶の. ための﹁出陣学徒壮行大会﹂が︑同年十月二十一目︑明治神宮外苑競技場︵同年九月二十四日文部省体育大会一切禁. 止︶で行われ︑雨中を分列行進する学生に東条首相は︑とくに﹁殉皇﹂なることばを使って激励した︒. その東条内閣も︑サイパソ島陥落につれて瓦解︵昭和十九年七月十八日︶︑代って小磯国昭内閣に引き継がれたも. のの︑所詮︑頽勢挽回のすべもないままに︑徒に︑全国各都市で建物の﹁強制疎開﹂1前記のように﹁防空法﹂に. 基づき同年一月二十六日︑東京・名古屋で実施︑逐次各都市ヘーを実施したり︑学童の﹁集団疎開﹂i昭和十八. 年十二月十日文部省﹁縁故疎開﹂促進発表︑翌十九年六月三十日﹁集団疎開﹂を閣議決定︑同年八月四目から東京区. 部の国民学校初等科三年生から六年生までの児童につき実施ーを実施したり︵その総数四十五万人と推計さる︶︑. 同年八月二十二日勅令第五百十八号﹁学徒勤労令﹂︵そのうめあわせのつもりか同年二月十七日法律第三十号﹁日本. 育英会法﹂︶︑同勅令第五百十九号﹁女子挺身勤労令﹂を制定し︑軍需産業などに学徒百九十二万七千︑女子挺身隊四. 十七万をも動員する一方︑同年十月十四日勅令第五百九十四号にょり﹁陸軍特別志願兵令﹂を改正して︑十七歳未満. の者の志願も許可できることにし︑さらに︑同年十月十八日陸軍省令第四十五号により﹁兵役法施行規則﹂を改正し. て︑十七歳以上を兵籍に編入することとしたほか︑前記﹁レイテ沖海戦﹂などでは︑ついに︑絶対生還の途のない. ﹁神風特攻機﹂ー海軍機一二九八︑陸軍機一一八五計二四八三︑五千余名の犠牲をはらったが︑成功率は一六・五. 二三︵=ハ三︶. パーセントだったとか︵犬丸義一・中村新太郎﹁物語日本近代史3﹂三八一頁︶ーまで飛びたたせるなど︑万事手 昭和法制史稿.

(24) 論. 説︵中村︶ ︵5︶. まなじり. 詰まりに︑次第に末期的症状を呈しはじめたー﹁既決してみよ!. 勝利か滅亡か﹂ー︒. 二四︵遣六四︶. ︵5︶ 昭和十九年二月二十五日の﹁決戦非常措置要綱﹂第七項︵高級享楽の停止︶に基づぎ︑東京歌舞伎座・東京劇場・大阪歌. 舞伎座・京都南座など十九劇揚は同年二月一日より休揚となり1三月四日の宝塚歌劇団の最終公演に殺到したファンの整. 理に警官が抜刀するなどのこともあったー︑同年三月五日より警視庁は︑精養軒・錦水など八百五十の高級料理店︑四千 ロ. ロ. の. の. の. 三百の待合︑八千九百の芸妓屋︑二千のカフェ!・バーなどを﹁一斉休業﹂とした︒. の. の. ロ. の. の. の. の. なお︑﹁決戦非常措置要綱﹂の前文には︑﹁決戦ノ現段階二即応シ国民即戦士ノ覚悟二徹シ国ヲ挙ゲテ精進刻苦ソノ総カヲ. 直接戦力増強ノ一点二集中シ⁝⁝﹂とあり︑第一項﹁学徒動員態勢ノ徹底﹂には﹁中等学校以上ノ学生生徒ハ⁝⁝必要二応. ジ随時活淡ナル動員ヲ実施ス﹂となっていて︑これに基づき前記の学徒動員の措置も実施されたわけである︒. ことに人びとの心を暗くしたのは︑子供たちの仲姓しだった動物園の象やライオンなどを︑わざわざ毒殺︑餓死させた. ﹁猛獣致死処分令﹂の実施であった︵昭和十八年九月四日上野動物園供養式挙行︶︒また︑昭和十九年三月内務省で﹁屍体. 処理緊急要綱﹂なるものが密かに制定され︑さらに警視庁で修正され﹁戦災死体処理要綱﹂となっていたことが知らされた. ら︑いわんや︑すでに軍当局で﹁遊撃戦教令﹂︵?︶とかいったゲリラ戦教程まで準備されていたと聞かされたとしたら︑. どんな気持がしただろうかQ. さて︑サイパン島失陥から数えて百六十目目の昭和十九年十一月一目︑はじめてマリアナ基地発進のボーイングB. が東京上空に姿を現わしてから︑さらに数えて二旬余の︑十一月二十四日には︑その七十機による本格的空襲があ. よぶ冷酷非常な無差別爆撃が続けられ︵島村喬﹁本土空襲﹂昭和四六年刊︶iこれらの爆撃を遂行︑成功さぜたも. り︑以来翌二十年八月十五日まで︑広島・長崎への﹁新型爆弾﹂すなわち原爆投下をふくめて全国百四十七都市にお. 29.

(25) のは︑爆撃下の住民が︑アジア人なら︑何らの同情もわいてこなかったという点にあったともいわれているが﹂. 一般民衆からは六十万九千余の死者と百四十四万余の罹災家屋をだすにいたったf人びとは︑さっきまで人出で賑. わっていた輪莫の美を誇った町並みが︑像んの数時間で忽然と消え去るのを目の当たり見たー︒その間︑日本軍の. 犠牲は百八十六万ともいわれているが︑アジア諸国民にあたえた犠牲は︑死者だけで実に二千万といわれている︒. 棄後に名を連ねたーの名で発表された︵七月二十六日︶︒ 昭和法制史稿. 二五︵ニハ五︶. ャーチル・スターリンの巨頭会談では︑対日ポッダム宣言が決定され︑米・英・中の三国ーソ連は日ソ中立条約廃. 頭会談で決定されていたところで︑ついで︑同年七月十七日から八月二日まで︑ポッダムで開かれたトルーマン・チ. ソ連の対日参戦のことは︑同年二月四日から十一目まで︑ヤルタでのルーズベルト・チャーチル・スターリソの巨. タリア無条件降伏︑同二十年五月七目ドイッ無条件降伏ー︒. を通じ日ソ中立条約不延長を通告してくるなど︑前途は︑ますます暗澹たるものとなったー昭和十八年九月八日イ. らって六月二十三日︑ついに日本軍壊滅ーがあり︑また︑四月五日には︑モロトシソ連外相から佐藤尚武駐ソ大使. 県本島への米軍の上陸ーその後八十四日間の死闘のすえ︑米軍一万二千︑日本軍十万︑一般民衆十数万の犠牲をは. 硬な反対にあい︑四月五日には内閣総辞職となり︑四月七日鈴木貫太郎内閣の成立となったが︑四月一日には︑沖縄. まもる 昭和二十年三月二十一日︑小磯首相は最高戦争指導会議懇談会で︑日中和平実行案を提議したが︑重光葵外相の強. 八.

(26) 論. 説︵中村︶. 二六︵一六六︶. これに対し鈴木首相は︑七月二十八日︑﹁ポッダム宣言黙殺︑戦争遭進﹂の談話を発表したが︑他方では︑七月十. 目最高戦争指導会議で︑ソ連に終戦斡旋依頼のため近衛文麿の派遣を決定し︑その申入れが拒否されるや︵七月十八. 日︶︑きらに七月三十日佐藤駐ソ大使を通じソ連に条件付和平の斡旋を依頼したが︑結局︑八月八日の﹁九日より日 本と戦闘状態に入る﹂とのソ連よりの通告により︑すべて徒労におわった︒. そこで八月十日午前零時から二時三十分まで開かれた最高戦争指導会議の結果︑日本は︑中立国スウェーデン︑ス. イスを通じて︑﹁ポッダム宣言は天皇の国家統治の大権を変更する要求を包含していないという了解のもとに受諾す. る﹂用意のあることを連合国に通告した︒これに対する八月十一目︵十二目公電到着︶の連合国の回答は︑﹁われわ. れの立場は︑つぎのようである︒降伏の時より︑天皇と日本政府の国家統治の権能は︑降伏条項の実施のためにその. 適当と認める措置をとる連合国最高司令官の下におかれるものとする﹂というもので︑日本の通告が︑国内法上にお. ける天皇の地位1﹁国体﹂1について了解を求めたのに対し︑回答は︑これには直接ふれず︑国際的関係におけ. る日本の地位について規定するのみで︑国内的関係ないしは︑国内法上︑天皇がいかなる地位を占め︑いかなる権能. を有するかといった間題!天皇制を維持するか廃止するかの問題1を︑すべてこれからの問題に譲ってしまった. 格好であった︒そこで︑日本としては︑﹁国体は護持﹂されるとの理解︑あるいは﹁国体は護持﹂されることとなろう の. の. との見込みで︑ポッダム宣言受諾を決定︵八月十四日午前十一時の御前会議で︶︑中立国を通じて連合国へ申入れた︒. かくて︑昭和二十年八月十四日﹁大東亜戦争終結二関スル詔書﹂が漢発され︑翌十五日正午ラジオ放送︵録音によ. る﹁玉音放送﹂︶で全国民に伝達された︒ついで九月二日の﹁ポッダム宣言受諾ノ詔書﹂により︑﹁朕ハ昭和二十年七.

(27) 月二十六目米英支各国政府ノ首班カポッダムニ於テ発シ後二蘇連邦力参加シタル宣言ノ掲クル諸条項ヲ受諾シ帝国政. 府及大本営二対シ連合国最高司令官力提示シタル降伏文書二朕二代リ署名シ且連合国最高司令官ノ指示二基キ陸海軍. 二対スル一般命令ヲ発スヘキコトヲ命シタリ﹂ということになった︒ ︵1︶ これよりさき八月二十八目には︑早くも︑連合軍先遣部隊が︑厚木飛行場に到着︑以後各地に﹁進駐﹂し︑また︑. 連合国最高司令官マッカーサー元帥も︑同月三十日厚木飛行場に到着︑横浜市のホテル・ニュ1グランドに滞在し︑. ついで︑九月十七日東京のアメリカ大使館に移るとともに︑日比谷の第一生命相互ビルに総司令部︵G・H・Q︶が おかれたQ. ︵1︶ 占領軍は︑当時︑進駐軍といわれ︑九月四日神奈川県は︑県下女学校の休校を措示し︑また︑九月十一日に隣組緊急回覧. 板でーところによっては特に口頭伝達でー︑﹁婦人は進駐軍に笑顔を見せるな﹂と警告したりした︒当時︑東京の銀座. に﹁戦後処理の国家的緊急施設の一端として︑進駐軍慰安の大事業に参加する新日本女性の率先協力を求む﹂なる看板が掲 げられたり︑進駐軍向け慰安婦養成所﹁特殊慰安施設協会﹂なるものまで生れたとか︒. ところで︑同年九月二十七日︑天皇はアメリカ大使館にマヅカーサー元帥を訪問したが︑その折の二人並んだ写真. を掲載した翌日の新聞は︑﹁不敬﹂とてその発売を禁止された︒天皇と対等に並ぶものの存在は︑どうでも許せなか. の. ったのかもしれないがーもっとも総司令部から﹁新聞・通信の自由に対する制限を一切取り除け﹂と命ぜられたが. ー︑すでに連合国最高司令官の地位は︑日本にとっては最高︑至上なはずで︑九月二十四日アメリカ政府が連合軍. 二七︵一六七︶. 最高司令官に与えた訓令︵最高司令官の権能を明確にしたもので︑直接︑日本にあてられたものではないが︑間接的 昭和法制史稿.

(28) 論. 説︵中村︶. 二八︵一六八︶. に拘束されよう︶によれば︑﹁天皇と目本政府の国家統治の権能は連合国最高司令官としての貴官に従属するものと. する︒︵中略︶貴官の権能は最高であるから︑貴官はその権能の範囲に関して日本が問題を提起するのを受けつける. におよばないー︵あるいは別訳すれば︶︑貴官はその権能の幅について日本が疑義を挾むことを許してはならない. ー﹂︵横田喜三郎﹁目本の法的地位﹂日本管理法令研究第一巻第一号︶となっている︒かくて︑同年九月十目から. 十月二目までロンドンで開かれた米英仏ソ中五大国外相会議により﹁極東諮問委員会﹂の設置が決定され︑さらに同. 年十二月十六日から二十六月までモスクワで開かれた米英ソ三国外相会議で︑朝鮮信託統治・極東委員会・対日理事. 会設置の合意がなり︑二十七日﹁モスクワ宣言﹂として発表された︒その結果︑ワシントンに十一か国の代表からな. る﹁極東委員会﹂がおかれ︵昭和二十一年二月二十六日第一回会議︶︑東京に米英ソ中の代表からなる﹁連合国対目. −日本管理i理事会﹂淋おかれる︵同年四月五日第一回会合︶こととなった︒日本管理の︑この方式は︑たしか. におもてむきは︑各国対等の立場にたっての共同事業のようだが︑その実︑﹁極東委員会﹂では︑アメリカは議長を. 独占し︑例えば︑その主張した天皇制保存案を︑ついに譲らなかったようにアメリヵ独走のきらいがあり︑﹁連合国 ひがしくに. なるひこ. 対日理事会﹂も︑アメリカの思うままの連合国最高司令官の単なる諮問機関に過ぎなかったようである︒. さて︑昭和二十年八月十五日鈴木内閣は総辞職し︑同月十七目東久蓮宮稔彦内閣の成立となり︑この連合国の問接. 統治︵間接管理方式︶に応じ︑同年九月二十日︵緊急︶勅令第五百四十二号﹁ポッダム宣言ノ受諾二伴ヒ発スル命令. 二関スル件﹂により︑﹁政府ハポッダム︑宣言ノ受諾二伴ヒ連合国最高司令官ノ為ス要求二係ル事項ヲ実施スル為特二. 必要アル揚合二於テハ命令ヲ以テ所要ノ定ヲ為シ及必要ナル罰則ヲ設クルコトヲ得﹂とした︵この勅令は︑昭和二十.

(29) 七年四月十一目法律第八十一号﹁ポッダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件の廃止に関する法律﹂により同年 四月二十八日より失効︶︒. ところで︑昭和二十年九月二目連合国最高司令官の﹁指令第一号﹂附属﹁一般命令第一号︑陸海軍﹂一のaによれ. ば︑﹁支那︵満州ヲ除ク︶︑台湾及北緯十六度以北ノ仏領印度支那二在ル目本国ノ先任指揮官並二一切ノ陸上︑海上︑. 航空及補助部隊ハ蒋介石総帥二降伏スベシ﹂となっていたので︑当時︑在中国の日本軍の降伏受理に最も適した立場. ︵位置・地位︶にあった筈の八路軍︑新四軍など人民解放軍にではなく︑蒋介石軍に降伏することとなり︑中国人民 さら. の側からみれば︑戦勝の果実を最終の段階で︑蒋介石に擾われてしまった観があった︒もっとも︑このようなこと. は︑東南アジアの諸地域においても︑しばしばあったようで︑南方総軍下の各地の日本軍の多くは︑現地民族の独. 立・解放運動の軍団にではなく︑いとも簡単に︑連合国の現地軍ーその多くは︑現地民族の独立・解放運動を抑圧. する側にあったーに降伏し︑これに武器を引渡し︑行政権を委譲してしまい︑いささか現地民族の期待︵?︶を裏 切ったことになったようである︒. それもさることながら︑前記﹁一般命令第一号︑陸海軍﹂の六には︑﹁責任アル日本国及日本国ノ支配下二在ル軍. 及行政当局ハ︑連合国最高司令官ヨリ追テ指示アル迄左記ヲ現状ノ儘且良好ナル状態二於テ保持スルモノトス﹂とあ. るにもかかわらず︑当時︑時価一千億円にもおよんだといわれた彪大な旧目本軍保有の物資ーもともと一般民衆か. ら強引にとりあげたものーが︑﹁現状ノ儘且良好ナル状態二於テ保持﹂されずに︑旧目本軍や軍需産業関係の幹部. 二九︵一六九︶. たちによって︑しきりと穏匿ないしは横領されつつあった︒そして︑その一部は︑やがて闇市︵﹁青空市場﹂・﹁自由 昭和法制史稿.

(30) 論. 説︵中村︶. 三〇︵一七〇︶. 市場﹂などとよばれた︶に﹁放出﹂され︑ヤミ屋たちの懐をあたためたが︑一種の虚脱状況にあった民衆には︑もと より︑この裏のからくりを知るよしもなかった︒. また︑よし幸にして穏匿︑横領をまぬがれたにしても1旧日本軍の解体は︑同年十一月頃までに︑ほぼ完了した. i︑今度は︑占領軍︵﹁進駐軍﹂とよばれた︶の﹁接収﹂︵所有権または使用権の取得︶にあう運命がまちかまえて. いた︒すなわち︑まず︑旧日本軍の既成の基地・施設の大部分は︑そのまま引続き︑占領軍によって接収されたのは. もとより︑﹁帝都東京及び貴官が日本政府に対する貴官の管理を容易ならしめるために必要と認める府県の首都を占. 領する︒貴官は更に貴官の必要と認める戦略的な場所をも占領する﹂︵同年十一月一日付連合国最高司令官への指令︶. というわけで︑一度︑旧日本軍より﹁接収解除﹂となったものの多くも︑占領軍によって﹁再接収﹂されたばかりで. なく︑あまり﹁戦略的な場所﹂とも思えぬところまで︑ただ﹁必要と認める﹂という理由だけで︑いとも簡単に︑そ. れでいて甚だ強引に︑新たに接収されたー前記の昭和二十年勅令第五百四十二号に基づく同年十一月十九日の勅令. 第六百三十五号﹁要求物資使用収用令﹂︑同勅令第六百三十六号﹁土地工作物使用令﹂に依るー︒そんな次第だっ. たので︑燈火管制解除︵同年八月二十日︶で︑いくらか明かるくなった街に︑﹁りんごのうた﹂︵同年十月十一日封切. の映画﹁そよかぜ﹂の主題歌︶が陽気に流れても︑すでに﹁段されてしまった﹂人びとのもとへは︑ついに︑何ひと. つもどってはこなかったーかえって﹁一億総繊悔﹂とかで全く筋違いの責任を転嫁されたほかはー︒. ︵昭和四十七年十一月︶.

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参照

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