Ⅰ はしがき
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本稿は、我が国では馴染みの薄いスウェーデンの理論刑法学につい て、筆者の得ることのできた情報を、概括的に提供しようとするものであ(1)る
。ここで、「スウェーデン刑法」ではなく「スウェーデン理論刑法学」
としたのは、スウェーデンの刑事立法がどのようになっており、どのよう に運用されているかという実務的観点よりも、学問としてスウェーデンの 論 説
スウェーデン理論刑法学の一素描
松 澤 伸
Ⅰ はしがき
Ⅱ 北欧刑法学の中のスウェーデン刑法学
Ⅲ スウェーデンの刑法典(「犯罪法」)
Ⅳ スウェーデン刑法学における犯罪論の 2 、 3 の特徴
Ⅴ スウェーデン刑法学の方法・思想
Ⅵ スウェーデン刑法学における「犯罪化論」
Ⅶ まとめ─スウェーデン刑法学と諸外国の刑法学、日本の刑法学
( 1 ) 筆者は、2013年 8 月より2015年 8 月までの 2 年間、早稲田大学特別研究期間制 度を利用し、スウェーデンに留学した。最初の 1 年は、ストックホルム大学法学 部、次の 1 年はウプサラ大学法学部において、それぞれ、客員研究員として研究に 従事することができた。本稿は、その際の研究のダイジェストで、第85回早稲田大 学刑事法学研究会において報告した内容を再構成したものである。
刑法学に取り組んでいる人々の観点から見た学術的観点に重点をおいてい ることにもとづいている。
スウェーデン理論刑法学は、わが国と同様、ドイツ理論刑法学の強い影 響のもとで成立しており、有力な比較法対象国としてとりあげる意義があ る。筆者は、同様の観点から、デンマーク刑法学について研究を行ってき たが(2)、その過程で、デンマークとスウェーデンが、北欧の盟主を争って来 た隣国として、民族的にも文化的にも非常に近い距離にあること、法律学 の歴史においても、密接な交流が行われてきた歴史があることを、強く意 識せざるを得なかった。デンマーク刑法学を研究する者として、スウェー デン刑法学へ関心を向けるのは、自然の成り行きであったのである。
2
ところで、日本における従来のスウェーデン刑法学の研究は、坂田 仁教授による研究がもっとも広範かつ詳細と思われるが、これは、教授の 関心の中心である犯罪学からの視点が中心であり、また、刑法プロパーの 研究と呼べるものに関しても、刑事立法の紹介に重点が置かれている。い わゆる犯罪論については、長田秀樹教授によるものがいくらか存在する程 度である。筆者も、2013年に在外研究につく以前は、刑事政策の面で、飲 酒運転や裁判員制度についてスウェーデンの制度を紹介し、裁判員制度に 関わるクリスチャン・ディーセン教授の論文を翻訳した程度である。筆者は、今後、スウェーデン刑法学の研究に本格的に参入したいと考え ているわけであるが、その際には、筆者の専門である刑法学、特に、理論 刑法学の観点から、これに取り組みたいと考えている。本稿は、その端緒
( 2 ) もともと、筆者は、デンマーク刑法学の方法論について博士論文を書き、その 過程で、デンマークのコペンハーゲン大学に留学したが、その際、スウェーデン刑 法学に触れる機会がしばしばあった。北欧(デンマーク、ノルウェー、スウェーデ ン、フィンランド)の学者は、常に相互に交流しており、それぞれの国の刑法学を 研究するにあたっては、他の国の刑法学を参照しないわけにはいかない。今回の在 外研究においては、現最高裁判所判事であり、当時ストックホルム大学教授であっ たペッター・アスプ教授(Prof. Dr. Petter Asp)にお世話になったが、彼とも、デ ンマーク留学時代に知り合いになり、以後、20年にわたる付き合いがある。
となるものであるが、こうした理由から、「スウェーデン理論刑法学の一 素描」というタイトルをつけることにしたのである(3)。
Ⅱ 北欧刑法学の中のスウェーデン刑法学
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スウェーデン理論刑法学を語り始めるにあたり、まず、北欧刑法学の 中において、スウェーデン刑法学がどのような位置を占めているか、デン マーク刑法学を研究して来た者の視点から(4)、検討を加えることにしたい。2
まず、スウェーデン法の歴史的発展過程である。デンマークもスウェ ーデンも、英米法・大陸法とは異なる第三の法圏である北欧法系に属する といわれるが、その理由の 1 つとして、ローマ法の影響が少ないことがあ げられる。それゆえ、ゲルマン慣習法がそのままプラグマティックな形で 法典化され、法律家の思考方法も独特のものとなったとされている。これ は、イタリアなどでローマ法を学んだ者による、いわゆる学識法曹階級が 形成されたかどうかと関係が深いが、デンマークの場合、ついにそのよう な階級が生まれなかったところ、スウェーデンでは、限定的とはいえ、そ( 3 ) なお、今回の在外研究の個人的な目標はつぎのようなものであった。デンマー ク中心であった北欧刑法学をより広く、深く理解し、我が国の比較刑法研究の基礎 力を育てることに貢献する。そのために、スウェーデン刑法学を理解するとともに
(あわせてノルウェー刑法学も視野に入れる)、それを通じて、デンマーク刑法学の 理解を深める。また、スウェーデンを中心とした北欧の刑法学者とのこれまでの人 的交流をさらに深めて確実なものとするとともに、できうるならば、日本からも、
北欧に研究成果を発信する。さらに、ヨーロッパ滞在中に、可能な範囲で、他国の 刑法学者とも交流を深める。
以上の成果として、本稿においては、スウェーデンの理論刑法学を紹介すると同 時に、筆者がスウェーデンに滞在するうちにふれることのできたスウェーデン以外 の北欧刑法学をはじめとする諸外国の刑法学などにもふれることとする。
( 4 ) 筆者の場合は、注( 2 )に示したように、デンマーク刑法学を専門とする者で あるから、デンマーク刑法学の観点から、スウェーデン刑法を見ることになってい ると思う。その点は割り引いて読んでいただかなければならない。
うした学識法曹が1700年代にはすでに裁判所において法を適用・運用して おり、学識法曹の影響がかなりの程度あったことが認められている。スウ ェーデン法は、デンマーク法よりも、大陸法的な、理論的・体系的思考へ の傾斜が見られるが、そのひとつの源流はここにも見られるであろう。
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次に、実務の運用の相違である。デンマークに比べて、判例の、いわ ゆる先例拘束性が弱い。スカンジナヴィア法では、先例拘束性が弱いとい うことについては、以前にも、佐藤節子教授による紹介があった(5)。筆者自 身、デンマーク刑法の研究に入ったとき、その点の特殊性を意識して、研 究を進めてみたことがあったことを思い出す。しかし、実際は、これは、スカンジナヴィア法全体の特徴ではなく、スウェーデン法の特徴といえる もののようである。この点、ストックホルム大学准教授(刑法)のヤッ ク・オーグレン(Jack Ågren)によれば、スウェーデンの地方裁判所の裁 判官は、たとえ最高裁判所の判決が出た直後であっても、同様の事案につ いて、自己が正しいと信じるのであれば、果敢に最高裁に反する判決を出 すという(6)。そこに、スウェーデンのプラグマティズムの特徴があるといえ るかもしれない。
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次に、背景にあるスウェーデンの文化である。スウェーデンは、ヨー ロッパの伝統的な階級社会の側面が、デンマークよりもずっと強い。同時 に、プレゼンテーション、あるいは、立ちあらわれ方を重視する。(よく いえば、ファッショナブルである)。そのため、スウェーデンでは、表面的 に語られる理想と、現実の対応に、かなりずれを感じることがしばしばあ る。その点では、スウェーデン法には、イデアリスティックな傾向が見ら( 5 ) 佐藤節子「北欧」川島武宜編『法社会学講座第10巻・歴史文化と法 2 』(1973 年、岩波書店)102頁。松澤伸『機能主義刑法学の理論』(2001年、信山社)91頁以 下も参照。
( 6 ) Jack Ågren の口頭による教示による(2015年 6 月)。
れるということができる。それに対し、デンマークは、18世紀に活躍した グルンドヴィ(Nikolaj F. S. Grundvig)という哲学者・教育者・神学者の 思想が大きく影響している。グルンドヴィの思想は、デンマークの社会民 主主義、福祉国家主義の基礎を形成しているが、その影響で、階級社会と いう発想はほとんどなくなっている。同時に、デンマーク法は、理想と現 実の間にそれほどのギャップがなく、その分、リアリスティックに思われ る。
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最後に、北欧刑法学の全体的な流れについて、ここで若干説明してお きたい。北欧刑法学は(刑法学に限らず、北欧法は、といってよいと思われ るが)、デンマーク=ノルウェー系と、スウェーデン=フィンランド系に 大別できる。歴史的な経緯がこれに影響している。すなわち、以下のよう な事情が重要である。ノルウェーは1524年のカルマル連合崩壊から1814年 まで同君連合を組んでいた。ノルウェー憲法は、ついさきごろ改正される まで、デンマーク語で書かれていた。フィンランドは、1323年から1809年 まで、スウェーデンの支配下にあった。スウェーデンによる支配を受けた 時代の法律・考え方は、現在にもフィンランド法に強く影響を残してい る。これを北欧刑法についてみると、デンマーク=ノルウェー系とスウェ ーデン=フィンランド系のいずれの刑法学も機能主義的・プラグマティッ クであるが、デンマーク=ノルウェー系は、より一層プラグマティックな 側面に重点が置かれる一方、スウェーデン=フィンランド系では、より理 論体系重視の傾向が見られるということができる。Ⅲ スウェーデンの刑法典(「犯罪法」)
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続いて、スウェーデン刑法学がその研究対象とするスウェーデン刑法 典に移る。スウェーデンの刑法典は、1962年に全面改正されている。その 改正の過程で示された草案は、「保護法」と呼ばれ、60年代、世界的に著名であった。しかし、スウェーデン刑法典が制定された後については、実 は、余り知られていない。そこで、あれほど著名であった「保護法」が、
その後どうなったのか、刑法典改正の変遷をたどりながら、見ていくこと にしたい。
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スウェーデンの旧刑法典は、1864年に制定された。「刑法」(Strafflagen 1864:11 s.1. 略称は SL)と呼ばれた法律である。それが、全面改正を経て、「犯罪法」(Brottsbalken 1962:700. 略称は BrB)として1962年に制定され、
1964年から施行されている。
この法律が、「刑法」ではなく、「犯罪法」と名付けられているのは、非 常に目を引くところである。「犯罪法」という名称は、「刑罰」という概念 に替えて、(広義の)「制裁」という概念を用いようとしたことと関連して いる。前述したように、わが国では、この法律の草案は、「保護法」とい う名前で有名であった。「保護法」というのは、もともと、刑法審議会が 1956年に答申した草案の名前である。
刑法審議会は、1938年に、著名な刑法学者であり、当時の司法大臣であ ったカール・シュリュイタ―(Karl Schlyter)の肝いりで設置された。こ の審議会は、(設置された当時に有力であった)特別予防を基礎においた刑 法理論を前提として、新たな刑法を立法することを目標としていた。シュ リュイタ―の最終的な目標は、いわゆる応報的な意味での刑罰を全て廃止 すること(リハビリテーション思想の徹底)であったといわれている。た だ、1962年の「犯罪法」では、「刑罰」の全てが廃止されるにはいたらな かった。
すなわち、「犯罪法」は、罰金と拘禁をもって刑罰(Straff)とし、それ 以外は、(狭義の)制裁(Påföljd)としている。制定時の「犯罪法」は、近 代学派的な側面が非常に強い法案で(フェリー草案に似ているという評価が なされている)、たとえば、犯罪性の重い者に対する不定期の保護拘禁、ア ルコール中毒者や精神障害者に対する特別の措置も規定されていた。
しかし、その後の特別予防効果への疑問、リハビリテーション思想の衰 退とともに、これらの「保護法」的な規定は批判を受け続け、次第にその 種の規定は削除されていった。現在は、「保護法」の面影はほぼなくなっ ているといってよい。ただし、責任能力に関する規定(責任無能力者につ いての不処罰規定、限定責任能力者についての刑の減軽規定)がおかれていな いところには、依然として大きな特徴があるが(7)、これについては、現在、
学界からの強い批判が存在するところである(8)。
Ⅳ スウェーデン刑法学における犯罪論の 2 、 3 の特徴
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上述のような特徴をもつ現行スウェーデン刑法(犯罪法)は、ドイツ 刑法学的な理論刑法学の手法により、分析・体系化されている。すなわ ち、 わが国でいうところの犯罪論 (ドイツ語でいうところの Verbrechenslehre)が構築されている。
( 7 ) 筆者自身は、在外研究の前には、機能主義的な刑法のひとつの在り方として、
観念的・形而上学的な思考を排した実証的な考え方、特に、刑法の社会統制効果を ある意味で徹底する、こうした予防一元論的な責任論あるいは刑罰論にはかなり強 い興味(好意的な意味での興味)を抱いていた。しかし、現実の運用・スウェーデ ンで行われている議論に接し、こうした予防論的な責任論あるいは刑罰論には限界 があると認識した。つまり、実証的に考えれば、むしろ、特別予防、さらに一般予 防にも犯罪抑止効果はなく、こうした考え方は、刑罰論から排除すべきである、と いうことである。こうした予防論は、あくまで、観念的に、犯罪論あるいは犯罪化 論=立法論において考慮されるものである。そこから導かれるのは、後述する均衡 原理にもとづく刑罰理論であり、それに基づく量刑理論である。
( 8 ) それにもかかわらず、今でも、責任能力の規定は存在しない。ウプサラ大学 名誉教授のニールス・ヤーレボルィから口頭で教示されたところによれば(2015年 5 月)、これは、政治的な理由である。すなわち、責任能力の規定が復活すると、
現在、地方自治体レベルで行われている触法精神障害者の処遇が、国家レベルに移 行することになる。もし、その改編が行われるとなると、それには、相当の労力が 予想され、結局、踏み出せないでいる状況にあるということである。しかし、ヤー レボルィによれば、時間がかかっても、いずれは改正されるだろうということであ った。なお、今のところは量刑レベルでの対応がなされているということである。
スウェーデンは、人口が少ないこともあって、我が国やドイツと比較し て、法学部を設置している大学が少ない。その中でも、主要な大学と呼べ るのは、ウプサラ大学、ストックホルム大学、ルンド大学であるが、犯罪 論の体系を最も一貫した形で示したものは、ウプサラ大学の刑法学者たち によって書かれた体系書ということになろう(9)。本稿では、この本を元に、
スウェーデン刑法学における犯罪論およびその刑法学における思想を紹 介・分析していくこととする。この本は、ウプサラ大学のニールス・ヤー レボルィ(Nils Jareborg)によって書かれた刑法総論の体系書を、その弟 子であるペッター・アスプ(Petter Asp)とマグヌス・ウルヴァング
(Magnus Ulväng)が改訂・加筆したものであり(10)、現在のところ、スウェー デンにおける最も浩瀚かつハイレベルな体系書というべきものである(以 下、「ヤーレボルィの体系書」という)。
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ヤーレボルィの体系書によれば、犯罪論の体系(体系構成)は、「許 されない所為」と「個人的帰責」の 2 つの段階で構成される(11)。すなわち、(A)許されない所為の要件(違法所為)と、(B)個人的帰責の要件(責 任)の 2 段階である。そして、(A)許されない所為の要件は、その内部 において、(A 1 )構成要件と(A 2 )違法性阻却事由の不存在の 2 つに 分かれ、(B)個人的帰責の要件は、その内部において、(B 1 )一般的責 任要件と(B 2 )免責事由の不存在に分かれる。
わ が 国 で い え ば、(A 1 ) 違 法 構 成 要 件 該 当 性、(A 2 ) 違 法 阻 却、
(B 1 )責任構成要件該当性、(B 2 )責任阻却、という体系に近いという ことができるであろう。これは、西田典之(12)や、松原芳博(13)の採用する体系に
( 9 ) Petter Asp, Magnus Ulväng och Nils Jareborg, Kriminalrättens Grunder, 2 upplagan, Justus Förlag, 2013.
(10) Asp, Ulväng och Jareborg 前掲注( 9 )Förord.
(11) 以下の記述については、Asp, Ulväng och Jareborg 前掲注( 9 )s.58 ff.
(12) 西田典之『刑法総論』(第 2 版、2010年、弘文堂)73、74頁。
(13) 松原芳博『刑法総論』(第 2 版、2017年、日本評論社)51頁。
似ているが、構成要件において主観的要素が全面的に考慮される点で、彼 らの見解と違っている。すなわち、構成要件は、「犯罪の類型」であるか ら、故意・過失が含まれ、たとえば、殺人と傷害致死は、構成要件段階で 区別がなされるのである。しかし、故意・過失の実態(事実的故意含む)
は、(B)のレベルで問題とされている。その点では、スウェーデンの犯 罪論は、わが国におけるように、理論的に徹底されてはいない(よくいえ ば、プラグマティックである(14))。
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構成要件レベルでは、行為、因果関係、危険を含めた結果、不作為犯 等が論じられるが、 ここで興味深いのは、 「犯行構成的過失」 (Gärningsculpa)という概念である。以下、この概念について説明を加えることにしよう(15)。 「犯行構成的過失」概念は、機能的に見て、わが国においては、法的因 果関係、相当因果関係、あるいは、客観的帰属に相当する概念である。因 果関係論については、スウェーデンでも、以前は、条件関係の存在を前提 として(事実的因果関係、conditio sine qua non)、それを限定するものとし
(14) この点に関連して、アスプ教授と、わが国の犯罪論におけるいわゆる「ブーメ ラン現象」について議論したことがあった。日本では、スウェーデンのような体系 が、「ブーメラン現象」の回避に有益であるといわれている、と話すと、スウェー デンでは、そもそも、「ブーメラン現象」という問題が論じられていない、という ことであった。アスプ教授は、問題の趣旨はわかった、と述べて、それについてし ばらく考えを巡らし、結論としては、次のように述べていた。すなわち、過失犯と 故意犯の区別は、構成要件(A 1 )の段階で問題になるから、「ブーメラン現象」
は生ぜざるを得ないように見える。しかし、正当化事情の錯誤において問題となる 過失は、通常の過失犯における過失とは異なる過失(正当化事由の不存在について の過失)であるはずだから、結局、どのような体系をとったとしても、A 1 に戻っ ても問題はない(同じ事実を二度評価しているわけではない)のであって、実際に は「ブーメラン現象」は起こっていない、と。アスプ教授の説明は、私見と全く同 じであり(松澤伸「いわゆる『ブーメラン現象』と犯罪論体系」井田良ほか編『川 端博先生古稀祝賀論文集(上)』(2014年、成文堂)283頁以下)、大いに意を強くし たが、同時に、アスプ教授の頭の回転の速さに舌を巻いたことであった(筆者はこ の結論に至るまで数ヶ月を要したのである)。
(15) 以下の記述については、Asp, Ulväng och Jareborg 前掲注( 9 )s.134 ff.
て、相当因果関係説がとられていた。しかし、相当因果関係説に対して は、主として、①法益侵害の可能性が極めて低い行為から違法結果が発生 した場合に因果関係を否定する理論が必要になること、また、②予測可能 性という概念に担われていたことによる適用の困難性という観点から、批 判が向けられるようになる(16)。そして、結果帰属の「相当性」という言葉自 体は、引き続き使われるものの、その判断構造は、判例において、ドイツ 刑法的な、危険の創出・危険の実現という発想に、とって代わられていく ようになる。そして、こうした判例に表れてきた考え方について、スウェ ーデンでも屈指の刑法理論家であるニールス・ヤーレボルィは、ドイツ刑 法学にヒントを得ながら、この発想を、より体系的なものへと発展させて いったのである(17)。
ヤーレボルィによれば、「犯行構成的過失」があるといえるためには、
①行為経過が行為者によって支配されていること、②許されない危険が引 き受けられていること(リスクテイク、犯行が過失によることと同義)、③そ れが重要な形で構成要件的結果の原因となっていること、が必要である。
なお、ここで注意しておかなければならないのは、「犯行構成的過失」
は、「過失(culpa)」とはいうものの、故意犯にも共通する要件であると いうことである(その点で、この概念は、故意にも過失にも共通する結果帰属 の要件であるが、過失犯の議論から発展を遂げた客観的帰属になぞらえること が可能であるわけである)。すなわち、「犯行構成的過失」概念は、不可欠 条件公式(conditio sine qua non)の形で形式的に判断される因果関係(条 件関係)を実質的に制限する機能をもつものであり、客観的帰属論と同一
(16) わが国と同様の事情によることが興味深い。こうした点には、理論刑法学の普 遍性の一端が現れている。
(17) このように、「犯行構成的過失」概念は、ヤーレボルィの構成した理論である ことから、ヤーレボルィの属するウプサラ大学系の刑法学者の間では幅広く受け入 れられたが、ストックホルム大学系の刑法学者は、こうした理論構成に対して、否 定的なようである。ただし、最近、ストックホルム大学のオーグレンが出版した教 科書(Jack Ågren, Brott och straff : En grundbok i straffrätt, norstedts Juridik AB, 2018)では、この概念が導入されている。
の問題関心を持つものであるが、それが、客観的帰属論のように過失から 独立して構成されるのではなく、過失の客観面として構成されていること が、興味を引くのである(18)。
ヤーレボルィは、これについて、「過失(culpa)概念は、刑法解釈論の 最も中心たる概念である(19)」と宣言している。すなわち、過失は、危険に対 する配慮を欠いた状態であり、それは、危険を引き受けた状態である。過 失の存在は、危険が現実化することと関係するものであり、これは、故意 にも共通するものである、と理解されるのである。
これは、興味深い考え方であると思う。過失と因果関係が相互に密接な 関係にあることは、日本の議論においてもドイツの議論においても、示唆 あるいは暗示されているところである。たとえば、既に述べたように、客 観的帰属論は過失犯の因果関係論から発展したものであるし、規範的条件 説=論理的結合説にいう結果回避可能性要件は、過失犯における結果回避 可能性と区別が難しく、また類似する面がある。
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「犯行構成的過失」概念は、そのまま日本の学説として持ち込むこと は困難、あるいは無意味かもしれないが、 1 つの考え方として、過失と因 果関係をさらに(より簡明に)整理する思考実験あるいは材料として、利 用することも可能だと思われる。たとえば、「犯行構成的過失」概念を参考として、日本でいう「修正さ れた旧過失論」における「実質的で許されない危険を持った行為」を「許 されない危険の引き受け」=「危険創出」と理解して、客観的帰属論の中 に取り入れていくことが、まずもって考えられる。すなわち、客観的帰属 論においては、過失犯の実行行為は故意犯と同様であると捉えられること
(18) なお、ここでいう過失は、構成要件レベルでの「客観的な過失」であり、責任 レベルでは、「主観的な過失」が問題となる。主観的な過失の具体的な内容は、予 見可能性と予見義務である。
(19) Asp, Ulväng och Jareborg 前掲注( 9 )s.138.
になるが(この点が、客観的帰属論が目的的行為論に端を発する新過失論と決 定的に異なる点であるが、我が国では、その点がほとんど意識されていない)、 その実質的な意味を、旧過失論の構造の中で位置付けることが可能となり うる。
客観的帰属論については、結果無価値論の陣営から、所詮は行為無価値 論の考え方であるとして批判されることがあるが(20)、スウェーデンの刑法理 論は(後述するように)結果無価値論にかなり親和性があるので、結果無 価値論的に(規範的ではなく、因果的な形で)形式的因果関係の実質的絞り 込みの基準として取り入れていく方向性もあり得るのかもしれない。もと もと、我が国の判例が示している「危険の現実化」論も、ドイツの客観的 帰属論ほどの射程は持っていないうえに、規範的な考慮以上に因果的な考 慮に重点が置かれていると考えられる(「危険の現実化」という表現を用い た定式化自体が、そのことを暗示しているといえよう)。これを踏まえて、我 が国の因果関係論について、「犯行構成的過失」を作業モデルあるいは仮 説として再構成していけば、現在、広く流布しているような、「判例は客 観的帰属論である」という短絡的な理解を覆すための材料となりうるかも しれない(21)。
(20) 曽根威彦『刑法における結果帰属の理論』(2012年、成文堂)180頁は、「客観 的帰属論は、所詮二元的人的不法論の規範論的帰結であると言わざるをえないであ ろう」とする。
(21) なお、犯罪論におけるその他の問題について一言しておくと、違法阻却レベル
(A 2 )では、正当防衛・緊急避難・被害者の同意・上官の命令・職務上の行為・
社会的相当性(スポーツ、医療行為など。違法性における安全弁)が論じられる。
責任(B 1 )では、故意・過失・事実の錯誤が論じられる。責任阻却(B 2 )では、
一時的な精神障害(原因において自由な行為を処罰する規定から反対解釈して免責 事由とする理論)、過剰(防衛、避難)、法律の錯誤、中止犯(犯罪からの撤退)が 論じられる。さらに、未遂犯論においては、いわゆる客観的未遂論を前提とし、我 が国に類似した議論が展開される(長田秀樹「スウェーデンにおける未遂の刑法上 の取り扱い」創価大学比較文化研究 7 号(1990年)213頁以下)。また、共犯論にお いては、いわゆる共犯体系が採用され、制限従属性説を前提として、共犯の諸論点 が議論されるが、実際の処罰のレベルでは、デンマークやノルウェーの統一的正犯
Ⅴ スウェーデン刑法学の方法・思想
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次に、スウェーデン刑法学の基礎にある刑法学の方法論、さらにさか のぼって、刑法学に対する思想について検討してみよう。スウェーデン は、スカンジナヴィア・リアリズムと呼ばれる現実主義・機能主義法学の 方法論の源となった国である。その国の現代の刑法学において、機能主義 に対してどのようなスタンスをとるのかという点で、非常に興味深い。2
ヤーレボルィの体系書には、刑法とイデオロギーについて述べた箇所 がある。彼は、基本的に、自然科学に範をとって刑法学を構想する方法論 には懐疑的である。一言でいえば、論理実証主義による価値判断を排除し た科学という夢それ自体がイデオロギーである(22)、と述べている。機能主義をとるということそれ自体が価値判断である、ということにつ いて、筆者もその通りだと思う。我々の機能主義は、むしろ、その価値判 断を明示することが重要であって、明示しないままに、それが真実であっ て他の考え方を許さないかのように論じることが問題である、といってい るだけである。ある価値判断をとった場合に、その価値判断を前提とする と、このような客観的な事実によって法律学が形成されるのだ、というこ とをいっているのが我々の機能主義であって、ヤーレボルィの指摘は、当 然のことを述べているにすぎない。
3
また、ヤーレボルィは、法解釈学が他の科学といかに異なるかについ て、その対象が、規範的真実である点が大きく異なっている(23)、という。そ 概念に近い議論も同時に行われており、興味深い(これについては、長田秀樹「ス ウェーデンにおける共犯規定と共犯理論」創価大学比較文化研究 6 号(1989年)136頁以下、ペッター・アスプ「スウェーデンにおける共犯論」(田川靖紘訳)比較 法学49巻 1 号(2015年)155 頁以下参照。)。
(22) Asp, Ulväng och Jareborg 前掲注( 9 )s.55.
して、実務の処理は二次的な意味しか持たない、とする。
確かに、法解釈学の対象は規範的真実であるが、そのこと自体には特に 意味はないと思われる。規範的であろうと何であろうと、「真実」と呼ぶ 限り、そこでは、現実の結論が客観的な意味=科学的な意味を持ってくる といわざるを得ない。そして、ヤーレボルィ自身、実務は、法源と同様に 規範的意義を持っている、と述べているのである。
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ヤーレボルィは、犯罪と刑罰について、対立する 2 つの対立する考え 方を示している(24)。そして、左側の見解を明確に採用する、とする。そして、この考え方 は、「守備的刑法観」として、以下のように宣言される。いわく、「ヴァリ ッド・ロー(gällande rätt)が越えられない壁として障害物とならない限り は、以下のような思想に基づいて議論する。核心となる問題は、刑法の任 務(換言すれば存在理由)が、社会問題の解決にあるのかどうか、という ことである(そして、その答えは「否」である)。この点につき、我々の理 解によれば、それを支える経験的事実は 1 つもない。たとえ刑法の存在理 由が望ましくない行為を抑え込むことだとしても、より重要なのは、権力 の濫用を防止することにある。刑法は、犯罪の妨害物であると同時に、国 家機関や政治家の妨害物でもなければならない。これを、「守備的刑法観」
(23) Asp, Ulväng och Jareborg 前掲注( 9 )s.55.
(24) Asp, Ulväng och Jareborg 前掲注( 9 )s.57.
法的安定性 効率性
均衡性 予防
人道性 ロー& オーダー
進歩主義 集産主義
自己批判的刑法倫理 道徳的刑法倫理
と呼ぶ(25)」と(対立概念は、「攻撃的刑法観」)。
筆者は、守備的刑法観には、基本的に同感する。しかし、ひとつだけ、
大きな違和感を感じる部分がある。それは、刑法の任務は社会問題の解決 ではない、とする部分である。もちろん、権力の濫用を防ぐことは極めて 重要であるが、刑法の任務は社会問題の解決ではない、というのは、筆者 には、(ほとんど)理解できない。もちろん、犯罪を減らすことそれ自体 を刑法の目的とすれば、刑法の投入を拡大する方向性に傾きやすいのは事 実である。しかし、当然、それには、責任主義、法益保護主義、罪刑法定 主義の限界がある。また、経験科学的実証性がなければ、刑罰廃止、刑法 の廃止となるのが論理的である。しかし、ヤーレボルィも、そこまではい わないのである(26)。
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もちろん、以上の議論には、「ヴァリッド・ローが越えられない壁と して障害物とならない限り」という限定付けがある。この意味で、以上の 表明も、あくまでヴァリッド・ローを前提とした議論であり、そう考えれ ば、現実の中であるべき理想を模索する、という、リアリスティックな方(25) Asp, Ulväng och Jareborg 前掲注( 9 )s.58.
(26) なお、ウプサラ大学の研究室において、ヤーレボルィに直接このことについ て尋ねたときは、コペンハーゲンにおいて、戦時中、警察により取り締まりがなく なったときには犯罪が増えた、という例を挙げていた。刑法には、ある面において は、犯罪予防効果はある、という趣旨であろう。あるいは、理想を高く掲げること によって、リベラルな国家観を前提とする刑法学の方向性を強く打ち出そうとして いるのかもしれない。私見によれば、むしろ、経験科学的実証性がない点は、刑罰 論において反映すべきものと思われる。すなわち、刑罰論においては、予防的考慮 を一切排除した均衡原理に基づく量刑が行われるべきであるという考え方(いわゆ るジャスト・デザート理論)であり、これは、スウェーデンの量刑法の立場でもあ る(松澤伸「スウェーデンにおける刑罰の正当化根拠と量刑論」罪と罰51巻 3 号
(2014年)76頁以下参照)。それに対し、犯罪論においては、国民の意思に働きかけ て犯罪を予防するのが刑法であるという基本システムが譲れない以上(この点につ いては後述)、一般予防と法益侵害の両面を考慮した理論を構築する必要があると 思われる。
向性が見られるともいえる。そして、そのことは、筆者も支持するところ である(27)。
Ⅵ スウェーデン刑法学における「犯罪化論」
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スウェーデン刑法ではかなり大きなトピックとして論じられてきてい るものとして、犯罪化論がある(28)。犯罪化の理論は基本的に政治的な問題で あるが、刑罰目的論を基礎に構築することができるとするのがスウェーデ ン刑法の考え方である。すなわち、刑罰の目的は応報あるいは予防とする 見解の対立があるが、予防については刑罰が無限に拡大する危険があると の批判が、応報については無意味であるとの批判が、それぞれに向けられ ていることは周知のところであり、この両者を矛盾なく組み合わせて理論 構築するのは困難なところでもある。日本では、相対的応報刑論という形(27) ヴァリッド・ロー(valid law)とは、現に妥当する法といった程度の意味で あり、スカンジナヴィア諸国では、普通に用いられる表現である。そのまま日本語 に訳すと、「現行法」という表現になるが、実務の運用を含めた現実的な法の姿を 念頭に置いている点で、日本語でいうところの、条文の姿を示すだけの「現行法」
概念とは異なっている。なお、デンマークにおけるヴァリッド・ロー(gældende ret)の概念については、松澤・前掲注( 5 )『機能主義刑法学の理論』273頁以下 で述べた通りであり、筆者は、ヴァリッド・ローを記述することをもって刑法解釈 学の任務とすべきであると主張している。念のために述べておくと、それは、ヴァ リッド・ローを無条件で支持せよ、ということではない。ヴァリッド・ローは、国 家機関や政治家の暴走に対するさまたげとなりうる理論を政策的に構築しなければ ならない際に、現実の出発点として、役に立つものである。ただし、少なくとも日 本の場合、政策に影響を与えうる実効性のある理論を打ち立てるのは難しい(後述 する犯罪化論が日本ではいまひとつ低調なのもそのことに由来するかもしれない)。
しかし、難しいにせよ、行うのであれば、それは、ヴァリッド・ローを前提とした 議論でなければ、ほぼ無意味であるように思われる。
(28) 日本でも、いわゆる処罰の早期化にともない、関心を集めるトピックとなり つつあるが、その内容は、必ずしも明らかではない。理論のたたき台、あるいは研 究のパラダイムもまだ形成途上である。なお、アングロアメリカ法の議論を主とし た研究として、高橋直哉『刑法基礎理論の可能性』(2018年、成文堂)58頁以下等 がある。いずれにせよ、今後のさらなる研究が必要な課題である。
で、両者を同一のフェイズで行うのが通説的見解であるが、ヤーレボルィ は、これを 3 段階で把握する(29)。
すなわち、ヤーレボルィは、刑罰制度そのものの正当化についてはその 根拠を明らかにするが、個々の処罰については、それが「なぜ」正当化さ れるかについては述べず、「どのように」用いるのが正当なのかについて 論じようとする。すなわち、ヤーレボルィは、応報と予防の相互矛盾性を 指摘しつつ、これに回答を与えるにはより微妙な差異を意識する必要があ るとして、正当化についての「問い」とそれに対する「解答」を三段階に 分ける必要があることを指摘する。すなわち、立法段階、判決段階、行刑 段階である。最初に、①立法段階というのは、刑罰制度そのものの正当化 根拠が問われる段階であり、ここでは、一般予防の観点により、刑罰制度 そのものが正当化されることが示される。次に、②判決段階については、
責任相応刑からシステムが構築される。ここでは、刑罰の配分の原理を説 明するだけであって、なぜ刑罰それ自体が正当化されるのかということに ついて説明するものではない。すなわち、配分の仕方の正しさが、均衡原 理によって説明される、ということである。ヤーレボルィの言葉によれ ば、これは、「なぜ」という問いに答えるものではなく「どのように」と いう問いに答えるものなのである。そして、最後に、③行刑段階において は、特別予防的観点が重視されることが指摘される。
(29) 以下の記述について、Asp, Ulväng och Jareborg 前掲注( 9 )s.30 ff.
なぜ どのように
立法段階 一般予防 犯罪化の理論
量刑段階 条文による 正義に基づいた科刑の一般原則による=均衡原理 行刑段階 条文による 宣告された刑の執行、但し特別予防的考慮が行われるこ
とは妨げない
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以上の見解については、先に紹介したように、ヤーレボルィが、刑法 が社会問題の解決に役立つことはない、その実証的根拠もない、と述べて いることとの関係が問題となるように思われる。我が国における抑止刑論=消極的一般予防論の大家である所一彦は、こ うした事態について、人々が行為を選ぶ場合の心理機制を、心理学におけ る個人の主観の判断過程の観察、すなわち、内省(introspection)の手法 を用いて推論することを提案している(30)。内省の手法によれば、我々も、消 極的一般予防効果はある、と判断できるであろう。確かに、処罰規定が存 在すれば、それに反する行動を控える心理的メカニズムは、それが社会調 査のデータとして実証できないとしても、存在する。それを否定すれば、
刑法のメカニズム自体を否定することになってしまうであろう。刑法は、
人の心理に働きかけることで、犯罪を抑止するのである(31)。
そう考えれば、筆者自身は、犯罪化の理論は、消極的一般予防効果を考 慮して構築されるのが妥当だと考えるし、その限度で、刑法の犯罪抑止機 能を認め、必要に応じて、刑法を投入することを考えてよいと思う。
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以上の刑罰論を前提として、何を犯罪化すべきか、どのように犯罪化 すべきか、刑法の基本原則との関連等、様々なレベルで議論が展開される が、ここでは、犯罪化の理論のごく基礎になる部分と、犯罪化の実質につ いて論じている箇所を、主として紹介・検討しておく(32)。ヤーレボルィは、犯罪化は、様々な社会統制の中の一手段であるにすぎ ず、刑法の最終手段性、また、それが強力かつ相対的に原始的なものであ る点で、特殊であるだけである、とし、実務では、簡単にこれを採用する
(30) 所一彦『刑事政策の基礎理論』(大成出版、1994年)77頁参照。
(31) 西田・前掲注(12)『刑法総論』 5 頁は、「刑法とは…刑罰という制裁の予告と 実行により、犯罪という人間の行動を心理的にコントロールする法律をいうのであ る」とする。のちに述べるように、ヤーレボルィも、当然そのことは理解している のである。
(32) 以下の記述について、Asp, Ulväng och Jareborg 前掲注( 9 )s.32 ff.
傾向があることを指摘する。すなわち、行政側にとって、犯罪化は、安直 で安価な方法であり、実際に問題を解決しなくとも、この問題について行 政側が真剣に対応しているのだ、ということをアピールすることにも繋が る、というわけである。だからこそ、犯罪化には注意が必要である、とい うことが指摘される。
そこで、刑罰とは何かが問題となるが、刑罰とは、基本的に、人間の心 理に働きかけることによって行為を統制する手段である(民事法のような 問題解決や関係修復を目的とするものではない)。しかし、その内容にはいく つかのものがあり得る。つまり、威嚇があり、また、道徳形成、慣習形成 がある。これを日本的ないい方でいえば、消極的一般予防があり、積極的 一般予防の効果がある、ということになるであろう。
スウェーデンでは、積極的一般予防という考え方はあまり有力ではな い。仮に刑罰にこうした効果があるとしても、道徳形成・慣習形成は、他 の手段によっても達成できるし、他の手段によるべきであり、犯罪化によ ってその目的を果たすべきではない、と考えられているのである。刑罰の 表出機能、あるいは象徴機能、すなわち、不適切な行為を排除するために 刑法を用いることは、国家が国民に倫理的要求を行うということを意味す るのであり、規範的に正当化されえない、というのが、スウェーデンにお ける一般的な考え方ということになる。
こうしたスウェーデンにおける刑罰に対する考え方は、筆者自身、消極 的一般予防論を妥当と考えてきた観点から、まったく同意できるものであ る。犯罪化論は、保護されるべき利益の侵害に対する消極的一般予防と、
そうした行為を行ったことについての法的非難可能性の観点から構築され るべきだと思われる。
4 犯罪化論の実質
そこで、考察は、犯罪化論の実質へと進んでいくことになる(33)。犯罪化が
(33) 以下の記述について、Asp, Ulväng och Jareborg 前掲注( 9 )s.40 ff.
行われる局面においては、そこに、保護されるべき利益あるいは客体
(skyddintresse eller skyddobjekt, 古い表現では、保護法益 rättsgoda)が存在し なければならない(34)。また、特定の者や団体を狙った犯罪化は行われてはな らないことも指摘される。
しかし、保護されるべき利益が存在するだけでは、犯罪化の理由として は不十分である(犯罪化論の断片性。fragmentarisk karaktär)そこで、具体 的な刑罰価値(straffvärde(35))が認められることが必要であることが述べら れる。
刑罰価値という概念は、刑を定める基礎となる概念である(刑法29章 1
(36)条
参照)。刑罰価値の判断は、「当該行為がもたらした損害、毀損又は危 険」という違法性に関わる部分、「被告人がそれらについて認識しもしく
(34) ヤーレボルィは、保護されるべき利益については、究極的には個人的な利益や 価 値 に 還 元 す る こ と が 望 ま し い と 考 え て い る よ う で あ る(Asp, Ulväng och Jareborg 前掲注( 9 )s.53の記述参照)。また、アンドレアス・フォン・ハーシュ との共著論文である Andreas von Hirsch and Nils Jareborg, Gauging Criminal Harm: A Living─Standard Analysis, 1991, in Oxford Journal of Legal Studies Vol.
11, Issue 1, 1991, pp.1─38では、より一層その方向性が示されている。しかし、それ が可能であるかどうかについては、フォン・ハーシュ自身、それが満足いく出来に 至っていないことを認めているように(Andreas von Hirsch, Deserved Criminal Sentences, 2017, p.67 fn 5)、また、我が国におけるこの論点についての議論の経過 に鑑みるに、困難ではなかろうか。また、Asp, Ulväng och Jareborg 前掲注( 9 ) s.40では、保護されるべき利益が、個人的利益・社会的利益・公共的利益・国家的 利益に分類されることにさらりと言及されており、記述に不統一が見られる。
(35) 以前は、「処罰価値」と訳していたが、坂田仁教授・萩原金美教授にならい、
「刑罰価値」と訳すことにする。刑罰を科されるに価する、という意味では、「刑罰 価値」の方がより適切な訳と考えられるためである。
(36) 以下、条文を掲げる。「第29章 量刑と制裁の猶予 第 1 条 ①刑は、法適用の 利益を意識しつつ、当該一罪または当該数罪の刑罰価値に従って、適用しうる法定 刑の範囲内で定められなければならない。
②刑罰価値の判断にあたっては、当該行為がもたらした損害、毀損又は危険、被 告人がそれらについて認識しもしくは認識すべきであった事情、及び、被告人が有 していた意図もしくは動機を考慮しなければならない。当該行為が、他者の生命又 は健康、もしくは人の安全に重大な攻撃をもたらした場合は、特にこれを考慮しな ければならない」。
は認識すべきであった事情、及び、被告人が有していた意図もしくは動 機」という責任に関わる部分に基いて行われる。すなわち、違法・責任 が、刑罰に価するだけの重さを備えていることを確認する必要がある。
刑罰価値があるとなったうえで、次に、犯罪類型と法定刑を定める。犯 罪類型の決定においては、効率性=コストベネフィットを考慮しなければ ならない。刑罰法規をいかに規定するか、その刑罰法規がどこまでの行為 の処罰をカバーするかについて、その行為をどれだけ処罰するか、処罰す ることによる効率性を考慮することが必要となる。法定刑をどうするかも 問題である。これは、刑罰価値に見合った刑罰であることが前提となる が、その絶対量については(絶対的均衡)、明確な基準は見いだせない。た だ、他の類似の犯罪や、近隣諸国における当該行為の処罰との関係で、相 対的均衡をはかることができるであろう。
刑法は最終手段であり、犯罪化はどうしても必要でなければとってはな らない方法である。他の方法があるならそちらによるべきだ、ということ が、最後にあらためて強調される。
5 「保護されるべき利益」に関する議論
先に示した「保護されるべき利益」であるが、ドイツにおける「法益」
という概念とは、若干異なる議論が展開されているように見受けられる。
「保護されるべき利益」という概念は、デンマークでも用いられている
(beskyttelsesinteresse)。ドイツ流の保護法益という概念を用いていないの は、保護法益の概念だけでは、それが空虚となってしまうと考えられてい るからだと思われる。
そうなると、保護されるべき利益の概念の意味内容が問題となるが、ス ウェーデンの場合、デンマーク刑法学で用いられる場合とも、また少し異 なっているように思える。デンマークの場合は、立法理由といいかえても よいような内容である。基本的に、デンマークでは、主として、アングロ アメリカ法流の危害原理(harm principle)が基礎におかれているが、それ
だけでは不十分な場合があることが認識され、そこで、立法理由が何らか の形で明らかにされなければならないことが指摘されている(37)。ただ、これ は、要するに万人を納得させればよいのであって、説明方法は、プラグマ ティックな内容が様々に許されている。
スウェーデンの場合は、より理論化・体系化されていると考えられる。
まずは、危害原理が基礎におかれる。すなわち、侵害の発生(侵害の危険 も含む)が必要ということである。他人を不快にするだけの行為、自傷行 為、不道徳な行為を犯罪化してはならない。よりよい行動態様を推奨する だけの規定もおいてはならない、とされている。
ただし、危害原理だけでは、実質的に適正な範囲での犯罪化がはかれな い。そこで、危害原理をやや拡大する形で議論がなされる。たとえば、他 人を不快にする行為の犯罪化が問題としてとりあげられている。他人を不 快にする行為は、それを単独でとりあげただけでは、犯罪化することはで きないことは、すでに述べた通りである。しかし、そうした不快な行為を 放置していると、それが社会において非常に一般化するであろうことが予 測できる場合には、それをもって「侵害」と見なすことが可能であり、犯 罪化が可能である、という議論が行われている。この議論が十分であるか はあらためて検討が必要と思われるが、空虚化する法益の概念をそのまま 維持できないとすれば、内部をより精密化すると同時に外延を個別的に拡 張する方法も考えられてよく、スウェーデンの方法も参考となりうると思 われる(38)。
(37) Knud Waaben, Strafferettens almindelige del Ansvarslæren, 6. udg. ved Lars Bo Langsted, 2015, s.45ff.
(38) 犯罪化のための理論は、ジョエル・ファインバーグ(Joel Feinberg)が整理す るように、リーガルモラリズム、リーガルパターナリズム、危害原理、不快原理の 4 つが考えられうるであろう(Joel Feinberg, Harm to Others, 1984, pp.11─13.)。
このうち、危害原理が原則となることは疑いなく、また、リーガルモラリズムによ る犯罪化が許されないことも疑いない。1960年代から70年代にかけて、法益侵害説 が主張したいわゆる被害者なき犯罪の非犯罪化論は、リーガルモラリズムによる犯 罪化が許されないことを論じたものであった。仮に、法益侵害説が、犯罪化の原理
なお、ここでいう危害原理については、処罰の早期化の場面でも問題と されている。そこでは、侵害・危険は犯罪化することができるが、リス ク・脅威を犯罪化することには慎重でなければならない、との帰結が示さ れている。コストベネフィットの考慮、刑の重さ、侵害される法益の重大 性などから、リスク・脅威の犯罪化は、特に慎重に考慮されることが求め られる。そのときに、よく言われることであるが、政治が犯罪化によりそ の行為を処罰することで、問題に真剣に取り組んでいることを示す、とい ったことだけでは、犯罪化の理由とはならないことが重要である。
Ⅶ まとめ─スウェーデン刑法学と諸外国の刑法学、
日本の刑法学
1
最後に、まとめとして、ヨーロッパ諸国の、さらに世界の中でのスウ ェーデン刑法学の状況、また、それらの国の刑法学との協働による新たな 動きや、比較法研究等について、説明しておきたい。まず、ドイツ刑法学である。スウェーデン刑法学とドイツ刑法学は、従 来から密接な関係を持っており、今でも、フライブルクのマックス・プラ ンク国際刑法研究所を中心に、学術レベルでの高度な交流がある。ドイツ 刑法型の犯罪論をもち、客観的帰属論の影響が見られる等、スウェーデン 刑法学が様々な点で我々にとって親しみやすいのは、ドイツ刑法学との交
を危害原理に限定してしまうのだとすれば、それは現実性を欠くものといわざるを 得ない。近時、法益論が限界に至っているといわれる理由が、法益論を危害原理と 直結させて捉えてきたことにあったのだとすれば、当然のことともいえる。犯罪化 論、ひいては、刑法がどこまで介入すべきであるかという問題の本当の課題は、刑 法が道徳や倫理を強制すべきか否か、という使い古された表現であらわされるリー ガルモラリズムによる犯罪化の問題ではなく、リーガルパターナリズムと不快原理 に基づく犯罪化のうち、どの範囲までが可能かどうかを理論的に明らかにすること にあると思われる(別のいい方をすれば、危害原理が当然の原則となることが明ら かとなった時点で、法益侵害説の理論的役割は終わっていたといえるであろう。本 当の問題は、その先にあるのである)。
流があってこそである。
次に、イギリス刑法学である。イギリス刑法学との関係は、ドイツ以上 に密接であり、特に、ウプサラ大学には、イギリスの学者が常に来訪して いる。ウプサラ大学客員教授もつとめるアンドリュー・シメスター
(Andrew Simester)はその代表格であろう。刑罰論や、基礎理論(危害原 理、自己決定権、責任論、犯罪化論など)において、スウェーデン刑法学と イギリス刑法学との議論の蓄積は顕著であるが、犯罪論においても、活発 な議論がなされている。
2
以上の状況に鑑みると、我が国の刑法学がスウェーデン刑法学から多 くを学ぶ前提は整っていると考えられる。同時に、我が国と同様の問題意 識に基づいた議論もかなりなされているのであって、我が国の刑法学との 共同研究や、我が国からの学術的な発信にも、十分こたえてくれることが 可能であるように思われる。筆者も、こうした観点から、本稿で述べたよ うな事柄について、研究を深めていきたいと考えている。デンマーク刑法学もそうであるが、スカンジナヴィア刑法学は、言葉の 障壁が大きいと思われがちである。しかし、スカンジナヴィアの言語は、
英語とドイツ語の中間のような言語であり、我が国の刑法学者には、取り 組みやすい言語である。多くの人がこの魅力的な北欧刑法学の世界に触 れ、その研究を志してくれることに、期待したいと思う。