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社 会 主 義 国 際 経 済 法 の 新 展 開 ロ ー 上

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(1)

ー 序

コメコン•EC接近過程

日社会主義理論と実践における経済統合

口コメコン•EC交渉

コメコン•EC協力協定に対するコメコン内少数派加盟国、周辺国、拡大新加盟国の立場

ルーマニア

︐ .

口モンゴル・キューバ・ベトナム︵以上本号︶

コメコンと

E

の法的構造の相違︵以下次号︶C

日国際組織の主体性をめぐる社会主義国際法理論の変化

E

Cの条約締結権

会 主 義 国 際 経 済 法 の 新 展 開 ロ ー 上

コメコン•EC

協力協定交渉の問題点

4‑1‑1  (香法'84)

(2)

コメコンと

E

C

の一九七

0

年代中頃からの接近過程はヨーロッパにおける東西関係の新らたな歴史的局面である︒

ャルタ体制と冷戦論理の枠組によって構成される第二次世界大戦後のヨーロッパにおける東西関係は一九五

0

年代 後半の平和共存と一九七

0

年代のデタント外交によって再編成への動きを示し︑それが対立する両体制の最も基本的

部分である経済協力を通じて伝統的な全ヨーロッパっ相互依存関係を再認識して協力しえる領域を拡大する試みは一

九七五年のヘルシンキ会議最終文書で一応の実現の可能性が展望された︒

コメコン•EC交渉はまさにそのための第ニラウンドに相当する東西関係をめぐる歴史的な外交交渉という意義を

もつ︒だがヘルシンキ会議と異なり東西陣営を代表する米ソ間交渉ではなく︑基本的にはヨーロッパにおける地域的 経済協力をめぐる東西の経済統合機構間の話し合いであり︑国際政治的インパクトは軍事政治問題が除かれているだ けに比較的低いきわめて実務的内容に限定される交渉との評価もあり︑今日まで国際経済の新動向として伝えられる

以外は国際政治学・国際関係論ばかりでなく国際法学からも注目されずにいた問題でもある︒

しかし両者の接近とその過程で両者によって提起された諸問題は単に国際政治と社会主義国際関係の研究対象とし てだけではなく︑両経済統合機構をめぐる基本的原則に関する法と政策︑特に社会主義国際法理論をめぐる重要な諸

点が外交交渉のなかに重層的に包含されているユニークなケースでもある︒

コメコン•ECは一九七三年に予備的接渉を始めている。それはいずれの統合機構においても創設当時の冷戦論理

にもとづく政治的︑軍事的対決姿勢を転換し︑平和共存による経済協力の必要性を相互に認識した上での接近であっ

4‑1‑ (香法'84)

(3)

コメコンは一九六四年のユーゴスラビアに始まり︑一九七三年にはフィンランド︑一九七五年にはメキシコとイラ

であ

る︒

コメコンは

E

C

と統合の原理をまったく異にしているが︑ 過程は交渉前史として理論的に重要な意味をもつ︒

ローマ条約による

EEC

の創設が一九五

特に社会主義国側においては西欧統合について主権侵害をもたらす超国家機構は大国による小国支配だとするレー ニンの帝国主義論以来の基本的認識があり︑いっさいの国家統合を否定する立場にあったのでその政策変更にいたる

コメコン統合と

E

C

のそれを比較するとコメコンの創設が﹁九四九年で︑

八年︑それに先だつ石炭鉄鋼共同体︑ユーラトムの経験を加えても統合機構の歴史としてはコメコンが長いにもかか

わらずコメコンは

EEC

創設にいたってそれに刺激されてようやく社会主義統合として理論的に整備され︑実践をつ

みかさねてきているのが特色である︒

降は

EEC

との対抗よりはむしろ競争を意識する関係にあり︑政策の上でもさまざまな影響をうけた節がみられるの

一九

0

年代以降︑コメコンと

E

C

両機構はともに

E

C

が西欧先進諸国統合︑コメコンが東欧社会主義統合という従

来の地理的排他性の原則を越えて領域の拡大をはじめる︒つまり

E

C

はフランス・イギリスの対抗関係を解消して全

ヨーロッパ的統合を実現し︑またコメコンも中ソ論争という社会主義国際関係を二分するイデオロギー論争を背景に してモンゴル︑

キュ

ーバ

一九

0

年代後半以

ベトナムという非東欧諸国を加盟させる︒

さらに一九七

0

年代の特徴は両統合機構が加盟国以外にも経済協力領域の拡大をはかり多面的な経済協力を体制や

地理的条件の異なる諸国と締結して経済協力領域と協力形態を多様化したことである︒

クと協力協定を締結し︑さらに一九七八年からはエチオピアをオブザーバーとして総会に参加させている︒

こ ︒

4‑1‑3  (香法'84)

(4)

題"は当時では一種のコメコン内の南北問題であったが︑それでも今日の加盟国間の経済格差と比較すれば緊張の程

度は問題にならない程小さい︒それにルーマニアは経済協力問題を除いて社会主義路線に関して他の加盟国との間に 事態ではなくなっている︒ 拡大コメコンはこのような参加国をめぐる国際関係の多様な要因がもちこまれることで加盟国がイデオロギーを同一とする社会主義国であるという原理的特色があるとはいえ︑すべての政策に関して常に一枚岩の一致が期待できる る ︒ 慮しなければならない︒ 現在この種の協力協定が検討されている発展途上国にはアフガニスタン︑アンゴラ︑コロンビア︑ギアナ︑インド︑ジャマイカ︑ペルー︑シリア︑イエーメンなどが含まれているという︒

しかし両機構の地域的拡大を比較すると

E

の対外関係の拡大が石油ショック後の西欧の世界経済における後退を

C

背景に

E

C

加盟国の新規市場︑資源獲得をめざす経済的目的をもつ進出であるのに対して︑拡大コメコンのそれは多

様な国際経済協力体制の確立をめざすと同時に︑新加盟国および協力協定国の多くがコメコン諸国とは経済補完性が

成立しにくい国︵フィンランドは除く︶であり地理的にも非東欧にある国であることから拡大した領内での国際分業

体制は当初から期待がもてないという点に特徴がある︒

それに加えてコメコン新加盟国であるキューバ︑

をもつことからコメコンは政治的には全体としてそれらの国際緊張要因に左右されざるをえない状況にあることも考

これはコメコンの創設当初の政治原則優先主義が再生されて︑対

E

C

接近のモチーフであった経済原則の活性化︑

全欧州的国際分業の具体化あるいは政治的な東西間の緊張緩和の方向には逆行しかねない要因を内包したことにな

一九

0

年代中頃のルーマニアがコメコンヘの不満を表明してあきらかとなった民族問 ベトナムがそれぞれの固有の緊張した対米︑対中国との国際関係

4‑1‑ (香法'84)

(5)

しかし現在︑中ソ対立は依然続いており︑その中国と厳しく対立するベトナムに対して同じ加盟国であるルーマニ アは経済援助を打ち切っているし︑他の加盟国の内部にもあまりにも政治的なベトナム︑キューバに対するコメコン

( 5 )  

の経済的コミットメントに対する批判は公式にも︑また非公式にも反政府的なグループの声として少くない︒

だが︑現在のベトナム︑キューバ︑それにモンゴルはコメコン加盟国からの圧倒的な経済援助なしには自立できな い発展途上社会主義国である︒拡大コメコンはこのように一方で政治的緊張のからむ南北問題に直面しながら︑他方 でヨーロッパでの緊張緩和を前提とする

E

C

協力を実現しようとしているのである︒

(6 ) 

かつて東西関係の国際法をゲーム理論で解明する説があった︒

これは東西関係を二極的構造としてとらえ共存のめぐる東西関係のルールをインターブロックの国際法だと理解す るものである︒しかしそれが有効であるためにはそれぞれのブロック内での集権的ルールの存在︑つまり米ソそれぞ れのブロック内での覇権的地位にもとづく圧倒的な軍事︑政治︑経済的影響力の存在が前提となっていた︒

確しかに一九六二年のキューバ危機のケースでは最終的な危機を回避するプロセスは米ソの首脳︑ケネディ・フル シチョフ間で設定されたもので当事国キューバの指導者カストロは問題解決の事後にそれを知るだけであってそれに

限ってみればブロック間ゲーム理論は有効であるようにみうけられた︒

しかしフルシチョフのキューバ政策が社会主義国際関係に残した痛手は大きかった︒

くソ連への協力を拒否続け︑社会主義国際関係に重大な事態を招いたからである︒ 厳しい対立があったわけではなかった︒

キューバはそれ以後︑十年近 しかも社会主義国はキューバ問題に続いて一九六四年にはルーマニアによるコメコン不参加問題を経験している︒

大国の覇権主義的行動︑超国家性は社会主義国際関係においては最も厳格に否定されるべき原理であった︒

4‑1‑5  (香法'84)

(6)

(7 ) 

ゲーム理論の成立する前提条件は今日の社会主義国際関係には存在しないのが現実である︒しかしコメコンの発展

のためには加盟国間の主権平等主義と高度な国際協力︵統合︶という原理的矛盾の解明と調和が必要である︒それを

実現したのが一九七一年の総合プログラムで規定された任意原則であろう︒

これは加盟国が各政策決定事項について利害の有無を表明することで主権平等主義のコロラリーとしての全会一致

原則を回避して実質的には多数派による政策決定を可能とする方式である︒コメコンは一九七

0

年代に独特な社会主

義国際経済法の発展をもたらしている︒

二極構造を前提とするゲーム理論が有効でない事情は西欧側においても同様である︒

冷戦期︑西欧諸国はコメコン諸国との二国間関係を一定の伝統的通商関係として国交末回復期においても維持して

いたが︑米国の圧倒的な影響下で米国内法とそれに関連する国際協定によって構成される反共通商体制に同調せざる

をえず︑米国を中心とする西欧の対社会主義国の経済制裁措置は恒久化していた︒米国の一九四九年の輸出統制法と

一九五一年の相互防衛援助法︵いわゆるバトル法︶により通商は西欧の安全保障とリンクして共産圏に対する経済制

(9 ) 

裁体制が形成されていたのである︒

これは法的には米国の国内法が条約と一体となって同盟国に対しても域外法効力をもたらし︑米国の西欧諸国に対

する軍事︑政治︑経済的覇権体制のための核心的制度となっていた︒しかし一九六

0

年代の西欧では東西の緊張緩和

に平行してまず二国間関係で通商の正常化がはかられ︑それぞれの国内法上の差別規定が廃止された︒対米関係にお

バトル法の有効性が失なわれていた︒西欧が東欧コメコン諸国に対していても政治︑経済的自立が回復しつつあり︑

固有な通商上の関心を積極的に発展させることが可能となったのである︒

他方︑米国は西欧と異なり︑東欧諸国との歴史的な通商関係をそれ程強くもっていない︒アメリカの一連の通商法

'  

4‑1‑ (香法'84)

(7)

ム理論が有効でないのはいうまでもない︒ っ

た ︒

( 1 0 )  

はそれを背景にした過度に政治的な米国の対共産圏通商体制である︒

米国と西欧の対立が外交上の緊張開係にまで発展するのは一九八

0

年以降のソ連に対する経済制裁措置問題に関し

( 1 1 )  

てである︒米国はアフガニスタン問題を契機として国内法で対ソ連経済制裁を決定し︑西欧の同盟国に同調を求めた

が︑ソ連とはすでに長期の経済協力を締結している西欧諸国はそれら国際法上の義務を法的・政治的に無視できなか

これに対し米国は国内法上の域外効力を発動させて同盟国関係者にも制裁を課したことで米・西欧の外交関係は一

九八一年には緊張状態に達し︑そのための大使級会談が開らかれて調整がはかられた程である︒

コメコンと

E

C

の交渉はこのようにコメコン体制の質的変化と

E

C

の西側における経済・政治的自立性が拡大し︑

それをとりまく国際関係が複層化した時点で本格化した東西外交交渉である︒

もはや米国が西側の指導国として単独で覇権的影孵力を行使しえる東西関係ではなく︑二極構造を前提とするゲー

ところで

E

C

・コメコン交渉ではその予備的段階から

E

C

側ではコメコンの条約締結権をめぐる社会主義国際法に

対する疑念が提起され︑コメコンの交渉当事者能力についても疑問視された︒つまり社会主義国際法は従来︑国際組織

に国際法主体性を認めず︑コメコンといえども本来加盟国の主権にのみ帰属する条約締結権を行使しえないのではな

いかという社会主義国際法原理とコメコン法の解釈をめぐる問題提起である︒

他方コメコン側は一九五七年のローマ条約にもとづく

E

C

の条約締結権は特定された共通政策に限って

E C

諸機関

に付与されるものでコメコン•EC交渉の対象となるフレーム協定の法的特質からみてEC諸機関に付与される条約

締結権には含まれないとの立場をとり︑交渉当事者としての

E

C

委員会の権限に疑問をもち︑

E

C

側の交渉当事者を

4‑1‑7  (香法'84)

(8)

加盟国の国家代表によって構成される

E

C

閣僚理事会とする立場に固執した︒

コメコン•EC交渉はこの種の法理論と法解釈をめぐる当事者間の見解の相違が交渉の争点となったという点で今

社会主義国際法がブルジョア国際法理論を否定して排他的な社会主義共同体のみを前提にする社会主義国際法を理

( 1 2 )  

論化したのはスターリン時代の一国社会主義政策を正当化するためのものであった︒

一九

年代以降︑社会主義国際法理論は平和共存のための国際法として一般国際法の存在を承認し︑実践的にも五

0

( 1 3 )  

その承認されるべき法領域の拡大を共存政策に対応して認めてきている︒社会主義国際法の特色は法と政策の一致で

ある︒ソ連および社会主義国家群の国際社会における行動規範としてその変化の過程はプラグマテックであるとの評

( 1 4 )  

価もあるが︑その国際法理論の変化のなかで国際組織の国際法主体性も一九六

0

年代には確立した国際法理論として

大半の社会主義国際法理論によって支持されてきている︒

コメコン法の一九七

0

年代の発展はこのような理論的背景のもとに実現したものである︒

コメコン•EC交渉の分析にあたっては東西関係の総合的分析の一環として社会主義国際法理論問題も重要な部分

をなすように思われる。したがってそれを含めた総合的な視点でコメコン•EC交渉とそれによって予見される両機

構の協力体制についての検討が必要であるのは云うまでもないであろう︒

( 1 )

wa rd M c w h i n n y ,   T he   In t e r n a t i o n a l   L aw   of   D e t e n t e ,   Al p h e n   a a n   d e n   R i j n ,  

19 78 , p p 

157

15 9,

pp

164 

16 6.

V .   G a n t m a n ,   T he   Im p a c t f     o D e t e n t e   o

n  t h e   S y s t e m f     o I n t e r n a t i o n a l   R e l a t i o n s , P   r o b l e m s   o f   t h e   C o n t e m p o r a r y   W o r l d ,   M o s c o w ,  

19 79 , p p 

1155

12 8.

日ではきわめて異例な外交交渉といえよう︒

}¥ 

4‑1‑ (香法'84)

(9)

(N) _,Q茶囲足均芯心JQ巨函UlliRヤ心以睡竺初兵全や令~_:;゜社誤ば浜2ゃ~\\旦←以じ唸竺要ゆ+控「tJ:JUtn"l<.̲ n~」要ゆ拒暉『話

~~ く匡~(tJ:JU)Q圭叙』l<O記涵如翌1110兵ロ益}L‑Q,{; や~(',~

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(Ln)嵌話漉囲は沿芯i‑0;兵全i-0~社再盆へ全ート凶竺,~ぐ屈屯憐ギぐ叩谷~i-0~冬拭匂令~~蝙訳如艇沓ヤ心・全’噂社忌旦竺濫氾:1£;~111111

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8~~ ~i-0密ぐ謀唸二゜

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(00)菰忙嚢1'u::;8~.c,::8珊擬孟症酪呈

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ぼ)Harold 

J. 

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Export, and Credit Controls," Vanderbilt Law Review, Vol. 20, 1967, pp 279‑302. 

(コ)溢任透11「米囲S編壬弼吾社再心嵌tfllffR~

~tflii! 淀森兵刈坦O」『囲匪裡詈坦恕』

(~) A.J. Wyszyfiski, Zagadnienia Prawa i Polityki Miedzynarodowej, Warszawa, 1951, s 656‑671. 

ぼ)GJ. Tunkin, Theory of International Law (Teoriia Mezhdunarodnogo Prava, Moskva 1970) (translated) W.E. Butler, 

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^坦蜘︶ (Voo

6 I

V

(10)

た否定論が大勢を占めた︒変化があるとすれば︑ っ

た ︒

が︑当時のヨーロッパにおける社会主義革命に対する警戒的傾向のなかで実践的テーゼとして採択されることはなか しかし社会主義運動の初期におけるヨーロッパ合衆国あるいは連邦制をめぐる前史的議論は今日でも理論的影響を

持続しているように思えるのである︒例えば

EEC

が設立された当初︑社会主義国における批判的論調においては西 欧における統合は国家独占組織が市場︑資源︑資本輸出をめぐる世界的な再分配の独占を目的とする基本的には反社

会主義・反植民地解放︑西欧内部での社会運動と対決する反動的なものとするかつてのレーニン・テーゼを前提とし か

った

社会主義理論は国家が主権的存在を越えて政治・経済的に統合する国家統合論について消極的であったことはない︒

むしろ十月革命前の一九一五年前後におけるレーニンらの綱領討議において国家統合は重要な議題となり﹁ヨーロッ

パ合衆国﹂構想がとりあげられていたのである︒

だが

しかしその場合︑資本主義体制のもとで国家間の帝国主義利害対立は超克しえるものではないとするレーニンの帝

(2 ) 

国主義論を前提に社会王義体制においてのみ統合は可能だとする考えから﹁社会主義ヨーロッパ合衆国﹂案であった︒

ヨーロッパ合衆国構想はその後の党内討議で意見の一致がみられず革命後においても具体化されることはな

一)

コ メ コ ン

E C 接近過程

社会主義理論と実践における﹁統合﹂

レーニンの死後︑

たとえばトロッキーなどが社会主義ヨーロッパ合衆国構想をコミンテルンに提起している

かつてのように西欧統合は資本主義国間の帝国主義的利害対立だけ

1 0

 

4‑1‑10 (香法'84)

(11)

(3 ) 

ではなく︑西欧での統合が社会主義︑植民地解放を封じ込める冷戦体制であるとする点であろう︒

(4 ) 

EEC

と時を同じくして一九五七年に設立されたソ連の世界経済・国際関係研究所

( I

M E

M O

)

の創刊誌号は﹁共同

市場とユトラム﹂と題して社会主義理論からの資本主義経済統合に関する総合的な分析を試みている︒当時の研究所

の役割からみてソ連の公式見解を代表するものと思われる︒同誌において一七項目のテーゼとして指摘された問題点

は古典的なヨーロッパ合衆国構想の理論上の系譜のなかで展開されている点が多い︒

EEC

は西ドイツ・フランスの

欧州市場における覇権をめぐる抗争による短命説︑農業・産業資本の集中と集権化による国際競争の激化︑小資本・

小農の没落による大量の失業の発生︑アフリカ植民地を資源供給地とするヨーロッパ・アフリカ協力の虚構︑超国家

機関の創設は大国︵西ドイツ・フランス︶の利害と小国のそれの対立を生み︑大国の小国支配の手段となり︑民族主

権を危うくするなどが指摘されている︒

これは帝国主義国の連合の可能性を全面的に否定するレーニンの評価とは異なるものの︑批判の論拠は同根である︒

だが︑資本主義経済統合が対立と矛盾をかかえながら形成された理由として社会主義諸国に対抗するために西側の

結束を強化する一環としての政治・軍事的意味をもつ経済統合だとする認識はレーニン・テーゼにはない新しい視点

である︒当然ながら第二次大戦後の国際関係が冷戦体制によって構成されていることからすれば当然な現実認識とす

べきであるが︑これに関連して一七項目のテーゼは︑

お り

を指

摘し

EEC

設立が﹁反面教師﹂としての役割をもつことも指摘して

EEC

の創設により西側が対外的冒険主義をやめて域内の経済・政治・通商上の秩序の合理化に集中すること

そのことが一九四九年の創設されて以来︑機能を不十分にしかはたしていないコメコンの再生に注意を喚

気させる契機となっている︒具体的には一九五七年六月に開催されたコメコン加盟国・党政府代表者会議がそれに対

(5 ) 

する反応であろう︒

4‑1‑11  (香法'84)

(12)

一九五六年のソ連第二

0

回党大会が打ち出した平和共存路線にもとづく

西欧統合についての評価というより︑むしろ一九四九年のスターリン・テーゼにもとづく冷戦理論につらぬかれてい

(6 ) 

る︒スターリンは単一の市場が崩壊して対立し平行的な世界市場に分断されたとする︒その前提にはマーシャル計画

以降のアメリカの反共経済封鎖政策があった︒スターリンによれば両ブロックはそれぞれ排他的なアウタルキー的要

素を必然的にもつ経済同盟と理解されていたのである︒

しかしフルシチョフは一九五六年以降の冷戦体制の妥解を平和共存路線を通じて実現しようとした︒

ソ連が当時注目したのは国連欧州経済委員会

( E

c o

n o

n i

C c

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s s

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n   f

o r   E

u r

o p

e   , E

CE

)

であ

る︒

一九五九年以降︑ソ連は

ECE

に全欧州的協力事業として通商拡大のための多数国間通商条約︑決算協定︑資源開

(8 ) 

発協定︑科学技術協定を毎年のように提案している︒確かにソ連の提案する平和共存外交は西側においては政治的に

過ぎるとする警戒論が一般的であったが︑東側が

ECE

を中心にして提起する問題点は欧州の通商拡大に必要な実務

的事項が中心であって︑その後の作業結果は今日でも高く評価されるものが含まれている︒

さて︑周知のとおり︑西欧統合に対するソ連の立場は一九六二年の﹁帝国主義的統合﹂に関するフルシチョフの一

( 1 0 )  

連の論文によって一転する︒

すなわちフルシチョフは社会主義経済体制の優位を強調し︑帝国主義諸国間協力の矛盾を指摘しながらも︑

EEC

の積極的評価は別としてもその存在を承認し︑これとの外交関係の樹立について用意のあることを表明する︒

これに対する西側の直接的反応はなかった︒しかし一九六

0

年代の東西関係は一九五

0

年末から西欧の一部の国で

( 1 1 )  

進展している冷戦体制のなしくずし的解体がはっきりしてくる時期である︒それにともなって西側諸国の東欧市場に

対する競争的関係が発生してくる︒その例が

OECD

諸国の間で対社会主義の信用供与条件を約定した一九五八年の

だ が

一九五七年の一七項目のテーゼは︑

4‑1‑12 (香法'84)

(13)

紳士協定︵いわゆるベルン協定︶の事実上の解消である︒フランス︑英国ばかりでなく︑最後にはアメリカも東欧諸

( 1 2 )  

国に対する輸出信用の供与条件を競ったのである

他 方

EEC

においても国際経済統合体としてのコメコンの承認問題は別としても︑

間関係の協定を締結するという動きが現われた︒この種の関係の最初のものが一九六五年の

EEC

.ハンガリー協定

産物・食品貿易に関するものであるが︑

つい

EEC

・ルーマニア協定︵一九六九年︶である︒いずれも農

( 1 3 )  

EEC

の農業︑通商上の共通政策に対応する二国間取決めである

これらはコメコン加盟国が

EEC

への接近を東西経済関係の二国間協力の延長としてきわめて実践的・実利的にと

らえている例であり︑また

EEC

側もこれらを通商問題に限定して解決していることを示している︒

一九六四年にフルシチョフは公職から解任されるが︑フルシチョフの平和共存路線は一時的停頓はあったもののブ

レジネフによって継承され︑

さらに発展する︒

ブレジネフが公式に

EEC

との協力可能性に言及したのは一九七二年の全ソ労組大会の演説である(‑九七二年三

( 1 4 )  

月二

0

日︶︒当時のソ連の指導部は縣案の西ドイツとの正常化条約を調印し(‑九七

0

年八月︱二日︶︑二国間交渉と

( 1 5 )  

しては最大の課題となっていた米ソ交渉を開始していた︒

しかもニクソン米大統領のソ連訪問(‑九七二年五月︶を予定していた時でもある︒米ソを中心とするグローバルな

共存への展望が開らかれていたのである︒

東西の緊張緩和の歩みのなかで東西の欧州諸国のデタント政策の役割は大きい︒それは東西の欧州諸国が地政的に

みて共通の利害をもちうるという歴史的視点にたった現実指向から共存が再認識され︑同時に冷戦体制として東西そ

れぞれの国内体制として形成された一九五

0

年代の政策上また法的な障害を新しい緊張緩和︑デタント体制のなかで

︵一

九六

八年

︶︑

EEC

・ポーランド協定であり︑

コメコン加盟国との間に二国

4‑1‑13 (香法'84)

(14)

コメコンの

E

C

の接近はまさにこのような現点からとらえられるべき性質の問題であるように思う︒

一九七二年のブレジネフが

E

C

との協力可能性にふれた発言をめぐって西側にはコメコンの経済的行き詰り︑

EEC

側が一九七三年のオイルそショック以後︑

( 1 8 )  

係の改善に積極的になっていることはこれを裏づけている ( 1

)   ( 3

)  

その後のコメコンと

E

C

の外交的接渉を一種の外交ゲームと理解する評価があ

東西経済協力でさしあたり東側がより多く経済利益を期待できるとする点は同意できるとしても長期的展望に

対コメコン関

C .

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1914

1917,

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( 2 )  

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23 7 26 1.  

また西側においても

EE

C統合の政治的要因を東西冷戦論理に求めるという点では共通したものがあった︒西欧統合の必然性を論

じながら中心が東西冷戦を論ずるという傾向は西側学界にも強かった︒以下は一九六三年九月︑西ドイツで開催された西欧統合の 会議報告書だが︑一九六

0

年代後半のデタント以前の西側の論調を代表するもので興味深い︒特に以下の二論文参照

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1 

96 4.  

また︑当時の東側の西欧統合に対する批判的見解の国際会議の例としては以下の一九六八年のポーランド・ポズナンでの会議があ る︒東西冷戦を前提とした西欧統合の政治的・軍事的側面が強調されている︒

立てば

EEC

が得る経済的利益もはかりしれないし︑ いは社会主義理論上の変節ととり︑

( 1 7 )  

る が

6)  

再編成しようとする試みであった︒

一 四

ある

4 ‑ 1‑14 (香法'84)

(15)

( 9

)  

( 8 )  

( 7 )  

( 5 )  

I n t e g r a c j a   E k o n o m i c z n a   E u r o p y   Z a c h o d n i e j  

j e j  

A s p e k t y   P o l i t y c z n o   , マ 1 i l i t a m e , T .   G r a b o w s k i

,  

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ow ak   1 9 6 9 .   ( 4 )  

s o z d a n i i   "

o b s h c h e g o   r y n k a

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E u r a t o m a   ( T e z i s y ) ,   M i r o v a y a   e ko no mi ka

  i m

e z h d u n a r o d n y e   o t n o s h e n i y a ,   1 9 5 7 .   8 3

9 6 .

一 五

︵ 邑 ︶

P o z n a n , N r

. 1 ,   s  D a

v i d   F . P .   F o r t e ,   T he   Re s p o n s e f     o S o v i e t   F o r e i g n   P o l i c y   t o h e   t   Co mm on   Ma r k e t ,   1 9 5 7

‑ 6

S o 3 , v i e t   S t u d i e s v o ,   l .   X I X ,   N o .   3 ̀   1 9 6 8 .   p

p  3 7 4 ‑ ‑ ‑ :   L u c j a n   C i a m a g a ,   O d  w s p o l p r a c y   d o  i n t e g r a c j i ,   z a r

y s r g   o a n i z a e j i

  i d z

i a l a l n o s c i   RWPG 

L a t a c h   1 9 4

9  

̲  

1 9 6 4 ,   K iW ,  1 9 6 5 .   ( 6 )

平田重明﹁CMEAの成立と発展の史的構図﹂︑﹃コメコン

II

CM

EA

の展開ー社会主義経済統合の論理と現実﹄平田重明編︑一九

七六年︑アジア経済研究所︑一︱頁以下

ソ連のECE

における積極的活動はすでに一九五四年に始まっているが︑注目されるのは一九五九年にソ連代表によって提案さ

れた﹁欧州貿易機構﹂創設案である

( D o c E E / E C E / 3 4 8

)

このようなソ連の動きに対してユーゴスラビアが一九五九年に中立的立場から対案を出し注目された︒それはソ連案の全欧州的

貿易機構とは異なり︑ECEの加盟国間で︑各地域的機構を構成するというもので︑その地域的機構間で︑東西貿易を回復させる

という趣旨のものであった

( D o c E/ EC E/ SR .  1 4 / 2 2 ,   M ay 9 5   1

9 )

ソ連案︑ユーゴスラビア案︑いずれもECEで実現するまでにはいたらなかったが︑特にユーゴスラビアのECEに対する積極的

外交姿勢は注目に価いする︒歴代の事務総長︑G.ミルダール︵スエーデン︑一九四七\一九五七︶︑SS・トオミオヤ︵フィ

ンランド︑一九五七\一九六

O )

>

ベレビット︵ユーゴスラビア︑一九六〇\一九六八︶︑J・スタノブニック︵ユーゴスラビ

ア︑一九六八\現在︶が当初の北欧諸国出身から一九六

0

年以降ユーゴスラビア出身者によって占められていることからもその事

情が説明されよう︒

J e a n   S i o t i s , h  T e  S e c r e t a r i a t   o f   t h e   U n i t e d   N a t i o n s   E c o n o m i c   C o m m i s s i o n   f o r   E u r o p e   a nd   E u r o p e a n c   E o n o m i c   I n t e g r a t i o n

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I n t e r n a t i o n a l   O r g a n i z a t i o n   ̀  v o l .   1 9 .   1 9 6 5 ,   p

p  a l l

2 0

F r e d   P a r k i n s o n ,   T he   Ro l e   o f   t h e   U N

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n o m i c   C o m m i s s i o n   f o r   E u r o p e ,   E a s

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r o s p e c t s o r   f   t h e   1 9 8 0 s .   ( e d ) G .     S c h i a v o n e ,

 

p .   c i t ,   p

p  1 1 1 ‑ ‑ ‑ 1 3 2 .  

この当時ECE

における東側の提案で結実した成果の︱つに国際取引法での商品別標準的款の作成がある︒それまで欧州におい て東西間の取引法が社会主義国の国家貿易独占制の出現によって国際取引に新しい要因が現出したにもかかわらずそれに対する

4‑1‑15  (香法'84)

(16)

1K 

坦忌芸恒荼好令0+.! ~u~~沿ね心盗石坦Sfl-~JQ匿祉n如益〇溢-v-Q~鉛ゴ心どおや~-v-'wQ~'囲削囲匪盗示坦祢嘔

1‑1(UNCITRAL) Q~ 認釘配辺墟も応パ訊玉殴゜

Clive M. Schmitthoff (ed) The Sources of the Law of International Trade‑with special reference to East‑West Trade, 

London 1964; 捻唸三捩郵「囲藝煙濾幸~Q宙釈’嵌--l<壬堵俎(1兵早く母'

函ぷ呼︶ (Hoo

11<

や直益¥L‑‑)

(~) N.S. Khrushchev, Nasushchnye voprosy razvitiya mirovoi sotsialisticheskoi sistemy, Kommunist, 1962 Nr 12.: Ob imper‑

ialisticheskoi "integratsii" v zapadnoi Evrope (Obshchii Rynok), IMEMO, 1962. Nr. 9.: Pravda, 26. VIII, 1962: lzvestiya, 

28 VIII, 1962 : 

(:=:) Janos Szita, Perspectives for ALL‑EuropeananomicCo‑operation, Akodemiai Kiado, Budupest 1977. pp 50‑‑./"'74; Report 

on the Porty‑Eighth Conference, International Law Association, New York 1958, pp 417‑‑./"'506; 沿サもRevueGenerale de 

│I 91  V

Droit International Public, 1964 pp 310....,....312; Korovin, Kozhevnikov, Lazarev, Lissowsky, Shurshalov, Blishchenk o, 

Minossian, Menjinsky and Edward McWhinney. Q邸却攣臣゜

Edward McWhinney "Peaceful Coexistence" and Soviet‑Western International Law, Leyden, 1964 pp 127‑131. 

ぼ)Teruji Suzuki, The Legal Framework and Japan's East‑West Trade and Economic Cooperation, Co‑Existence, vol.15, No 

1, pp 83‑100. 

(臼)Ewa Butkiewicz, Krystyna Michalowska‑Gorywoda, Long‑term Agreements on Economic, Industrial, Scientific and 

Technical Cooperation between Poland and the Capitalist States of Western Europe, Polish Year book of International 

Law, VII, Warsaw 1976 pp 257‑259. 

(;::!;) Ibid ほ)Edward McWhinney, The International Law of Detente, 1978, Siythoff & Noordhoff, pp 92‑115. 

(~) >削QWU垢如臣國~~-\osi-Q憾戸~Q]兵早兵母濫瞑吋囲藝歪ぐ甘(...p.. の~)やS癖甘[I

Margarita Maximova, Prospects of Relations between the CMEA and EEC, Problems of the Contemporary World‑Soviet 

Policy of Peace, Moscow, 1979, pp 138‑151. 

(~)要ゆ+控「WUn")<.̲ 」,~ 忌寂艦

11111‑111111

兵嵐

(17)

( 1 8 ) G .     A d l e r   , K

a r l s s o n , h   T e  P o l i t i c a l   E c o n o m y f     o E a s t

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19 76

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5052 

コメ

コン

E C

交渉

コメコン•EC両機構間の交渉の発端はまずソ連を中心とするコメコン側の意図として明確にされていった。しか

しコメコン加盟国のなかには個別的にEC

と交渉するが、統合機構としてコメコン

•EC間のフレーム協定には積極

的でないという印象を与えるルーマニアの存在があった︒すくなくとも表面的にはソ連を除くコメコン側の意図が明

日︑

プラ

ハ︶

一九七三年六月に開らかれた第二七回コメコン総会(‑九七三年六月五\八

( 1 9 )  

E

C

との交渉権をフアジェーエフ・コメコン事務総長に委任する決議を採決している︒

一九七三年第二七回コメコン総会以降︑コメコンの

E

C

への具体的交渉が開始される︒

このようなコメコン側の動きに対して︑

E C

は拡大

E

への英国・デンマーク・アイルランドの加盟条約が調印さ

C

れ(‑九七二年一月二二日︶︑

E

0 C

議会はコメコン諸国とのデタントについて一九七二年一月に決議している︒また︑ 一九七三年一月からの拡大

E

C

が発足している︒

確になることは少なかったのであるが︑

一 七

E

C

の共通通商政策の進

展にともなってその対外関係においても第三国との通商条約の締結に関しては暫定期間が過ぎ加盟国の主権的権限が

E

C

諸機関に具体的に移譲される段階に近づいていた︒つまり

E

C

加盟国と東欧諸国との二国間通商協定の効力が

E

C

が認める暫定期間を経て一九七四年末までに一応失効することになっており︑

E

C

委員会は加盟国全体の代表とし

て東欧諸国と個別的にかあるいはコメコンを承認してその加盟国全体としてのコメコン代表と新協定の交渉にあたら

( 2 0 )  

ねばならぬ事情があったのである︒

両統合体間の首脳間の非公式だが直接の会談は一九七三年七月のコスイギンソ連首相とトルン・ルグセンプルグ外

4‑1‑17  (香法'84)

参照

関連したドキュメント

学位の種類 学位記番号 学位授与の日付 学位授与の要件

[r]

Strike

第?部 国際化する中国経済 第1章 中国経済の市場 化国際化.

著者 磯崎 博司.

内外 均衡 とマク ロ経済 政策... 内外 均衡 とマク

この発言の意味するところは,商工業においては個別的公私合営から業種別

Trade Liberalization”, in Bhagwati (ed.), supra note 48, pp. Parry (ed.), The Consolidated Treaty