日本書紀の成りたちを考える
i仏教関係の記述をめぐって、
そのこl
ネ
夏
本
福
寿
一 、 は じ め にi
i
前 稿 か ら の ひ き つ ぎll
二 、 E 群 の 仏 教 儀 礼 に つ い て 三 、 E 群 の 仏 教 儀 礼 に つ い て 四 、 両 群 の 仏 教 儀 礼 に つ い て の ま と め 五 、 食 封 や 布 施 等 に つ い て 六 、 お わ り に 1 1 2 続 稿 へ の は し わ た し一
、
はじめに||前稿からのひきつぎl
l
l
日本書紀が伝える仏教関係の所伝l
l
それをあらわす記述にそくして、以下には、これを仏教関係記述 と仮称するーーーを通して、群ごとに、そのあらわれの特徴を探ることをねらいとする。同じねらいを基に、すでに 稿を成した前稿につづく第二稿である。 前稿では、仏教関係記述のなかでも、仏教儀礼に焦点をあて、群ごとに、おもにそのありかたや内容などについ 小 稿 は 、 て検討を加えたが、 その結論のあらましは、 おおよそ次のとおりである。すなわち、 E 群では、仏教儀礼のあらわ 日 本 書 紀 の 成 り た ち を 考 え る悌 教 大 島 十 大 皐 院 研 究 紀 要 第 十 四 競 れそのものが低調である。儀礼の種類が限られている上に、
一
一
そ の あ り か た も 、 おおむね地味な性格が強い。それと は 対 照 的 に 、 田群では、種類も多く、 それがまた多様なあらわれをみせる。儀礼のあり方においては、 それらはい ちように盛儀といった観を呈してもいる。 E 群 とE
群とは、仏教儀礼のそのあり方や内容などに関して、 おのおの独自な特徴をもっ。さまざまな仏教儀礼 があるにもかかわらず、 そうして群相互に独自な特徴をもっということから、 それら仏教儀礼を行う目的にも、各 群それぞれに特徴があるのではないかといった見通しが、 おのずから立つ。儀礼の目的は、 それを行う者︵天皇な いし国家︶が、儀礼はもとより、 よりひろくは仏教それ自体をどのように位置づけていたかといったことと分ちが たい関係にあるはずで、 その意味でも、とりわけ注目に値する。 小 稿 で は 、 さしあたって仏教儀礼の目的について検討し、 な お 、 その儀礼とそれを行う者とのかかわりを見きわ めようとする。その上で、関連して、天皇と寺院や僧侶とのかかわりについても検討を試みる。一
一
、
E
群の仏教儀礼について
さて、まずは儀礼の目的について検討するが、 その対象となる用例は、 そうとうな数にのぼる。逐一それらを取 りあげるのが本来ではあるけれども、徒らに煩雑になる懸念があるほか、紙幅もそれを許さない。用例の数は、各 群の特徴を見きわめうる程度あれば、 それで充分であろう。そこで、あらかじめ取りあげる用例を振いわけしてお そこですでに若干の検討を加えた読経・諸経・説経・講経などの、いず れも経典の利用にかかわる儀礼に限る。同じ基準にあてはまる用例としても、儀礼のなかでは、それらの数が最も く。すなわち、前稿との関連を考慮して、 多い。儀礼の大半を占めるという点では、 それらに限っても、結論その他に影響は無いはずである。なお、 それらの検討にあたっては、 目的別に、同じ儀礼はもちろん、ほぼ同じ範鷹に属する儀礼なども一括して扱うことにする。 はじめに
E
群の用例をみるに、次にあげるのは、儀礼を行う目的を明らかにした例である。ω
伺 討 対 到 、 請 v借而設 v 策、の親読 v 経之日︵二二−m J
ω
矯 一 一 天 皇 樫 不 橡 一 之 、 三 日 請 一 一 経 於 大 官 大 寺 ・ 川 原 寺 ・ 飛 鳥 寺 一 。 ︵ 二 九 −m
︶ω
天 皇 韓 不 安 、 因 以 於 二 川 原 寺 ↓ 読 ニ 薬 師 経 一 。 ︵ 二 九 −m
︶ω
是 月 、 諸 王 臣 等 、 矯 一 一 天 皇 一 、 造 ニ 観 世 音 像 ↓ 則 説 ニ 観 世 音 経 於 大 宮 大 寺 吋 ︵ 二 九 −m
︶ 右の説経・請経の目的は、ω
が亡き聖徳太子の供養のため、ω
以下はいずれも天武天皇の病気平癒のためである。 それでも、次の諸例は、ω
以下と一連の、すなわち天 これら目的を明示した例以外は、推測の限りでしかないが、 武天皇の病気平癒をその目的とするとみることができる。 川 w 是 月 、 読 ニ 金 剛 般 若 経 於 宮 中 一 。 ︵ 二 九 ・ 制 ︶ 川 W 請二百倍二讃ニ金光明経於宮中−。︵二九・狐︶ 的 度 一 一 僧 尼 弁 一 百 一 。 因 以 坐 一 一 百 菩 薩 於 宮 中 一 、 讃 一 一 観 世 音 経 二 百 巻 一 。 ︵ 二 九 −m
︶ 少しく説明を加えれば、川仰の﹁是月﹂とは十月であって、それに先立つ九月二十四日の記述がω
である。しかもω
と紛の問、つまり十月四日に、百済僧法蔵と優婆塞金鍾とを美濃に遣し、﹁令 v煎ニ白本一﹂と伝える。さらに紛の記 述 の 直 後 に は 、 そ の 両 名 が ﹁ 献 一 勺 自 主 前 ⋮ 一 。 ﹂ と あ り 、 ま た そ の 当 日 に ﹁ 為 一 一 天 皇 二 招 魂 之 。 ﹂ と い う 。 紛 の 記 述 は 、ω
の直前にある一方、また﹁近者、朕身不 v 和 。 願 、 頼 一 一 コ 一 貫 之 威 一 、 以 身 僅 欲 v 得 二 安 和 一 。 是 以 、 僧 正 借 都 及 衆 借 、 催 地 一 一 哲 一 一 願 一 。 ﹂ と い う 、 僧正以下に病気平癒の﹁誓願﹂を要請した天皇の勅を伝える記述の直後にある。 その勅に関 日 本 書 紀 の 成 り た ち を 考 え る偶数大事大皐院研究紀要第十四競 四 連した読経であることは疑いを容れない。例は
ω
と、観世音経による儀礼という点で共通するばかりでなく、約の その読経を行なった八月二日のまえ、 一 日 に ﹁ 一 一 局 天 皇 一 、 度 ニ 八 十 倍 一 ﹂ と い い 、 またそれの直後、すなわち九日に ﹁ 角 一 一 天 皇 瞳 不 橡 一 、 析 一 一 子 紳 紙 一 。 ﹂ と伝える記述などと一連のものであろう。 乙のあと九月九日に天皇の崩御を伝 える。こうしてω
から約まで、時間的にはほぼ十ヶ月足らずの短い聞の、 いずれも天皇の病気平癒を目的とした儀 礼 で あ る 。 また一方、病気平癒の祈願ではないが、 そ の 性 格 上 、 それらと類縁をもっ用例がある。その説経の用例は、次の ように﹁誓願﹂によると明記する。 説経が﹁誓願﹂をもとに行われている以上、 制 皇 后 、 誓 願 之 大 粛 以 説 一 一 経 於 京 内 諮 寺 一 。 ︵ 二 九 −m
︶ その目的は、さかのぼって﹁誓願﹂そのものに求めなければならない。 そ こ で 、 ﹁誓願﹂の用例|lE
群にしかない 1 1 を み る に 、 右例と同じ巻二九所載のものがほかに三例あるが、 そ のいずれもが病気平癒にかかわりをもっ。 o 皇后纏不議。則潟ニ皇后二誓願之初興ニ薬師寺一。何度二百借一。由 ν 是 得 一 一 安 平 一 。 ︵ 制 ︶ o 近者、朕身不和。願、頼ニ三賀之威一以身鰭欲 v得 ニ 安 和 一 。 是 以 僧 正 僧 都 及 衆 借 、 臆 一 一 誓 願 − 。 ︵ 制 ﹀ o 親 王 以 下 、 逮 ニ 子 諸 臣 ↓ 悉 集 一 一 川 原 寺 一 、 震 一 一 天 皇 病 一 、 誓 願 云 云 。 ︵ 制 ﹀ω
はこうした﹁誓一願﹂の内容には触れていない。けれども、 それが病気平癒のためか、もしくはそれに類する現実 的な目的をもつことは疑いない。病気平癒の祈願であれば、 その旨を明示するのが通例であり、ω
は 、 その例から 外れる。ほかに可能性を求めるとして、その目的は、思うに、天武天皇九年十一月条に伝える天皇と皇后の病にか かわるのではないか。紛の記述が十年間七月条であるから、そのわずか九ヶ月前のことであるが、︵十一月十二日︶皇后謹不橡。︵以下、前掲﹁誓願﹂に関する用例のうちの第一例の文が続く。﹀ ︵同二十八日﹀天皇病之。図以度二百借一。俄市愈之。︵山川︶ 右のようにまず皇后の病が薬師寺の興立と度僧とによって回復し、天皇の病もまた度僧によって癒えたと伝える。 三宝の威のしからしむるところ、したがってまた、それへの期待も大きかったに相違ない。病いえて後、皇后が改 めて天皇とみずからの平安息災を祈願するために行った法会が、すなわち紛の例であろう。 以 上 、
ω
J
紛 の 用 例 を 、 追善供養ーーω
病気平癒l
l
ω
J
的 ここにそれぞれの目的ごとに整理して示すと次のようになる。 平安息災l l
ω
おおよそ右の三項に分類できるが、 し か し 、 そのいずれもが特定の人物を対象とし、 その者のために営む法会とい まさに一つに括りうる。 さてそうした一の用例のほかに、E
群には、また別の目的をもっ一連の用例がある。その目的は、 興隆にある。論述の便宜にしたがい、以下には、その個々の用例にそくして検討を加える。一 一
ω
︵十四年︶秋七月、天皇請二皇太子一、令 ν講 二 勝 髪 経 一 。 三 日 読 寛 之 。 う 点 で は 、 いわば仏教の 是 歳 、 天 皇 大 喜 之 、 播 磨 園 水 田 百 町 施 − 一 子 皇 太 子 一 。 因 以 納 一 一 子 斑 鳩 寺 一 。 つ ゴ 了 間 ︶ 推古天皇十三年・十四年と続く記述は、内容的にほとんどが仏教になんらかのかかわりをもっ。そのなかでも、鞍 皇 太 子 亦 講 ニ 法 華 経 於 岡 本 宮 一 。 作鳥の造仏をめぐる記述は、発端となった十三年四月の﹁天皇詔一一皇太子大臣及諸王諸臣一、共同議ニ誓願一、以始造ニ 日 本 書 紀 の 成 り た ち を 考 え る 五彼の名工ぶりを伝える十四年四月の記述、 に同五月のその功績をたたえる天皇の勅に至るまで一連のものとして続く。その天皇の勅のはじめには﹁朕欲 v 興 ニ 隆内典一、方特 v 建二悌利一、肇求ニ舎利一。﹂︵二二・叩﹀といい、鞍作鳥の一連の功績が、そうした天皇の仏教興隆に 悌教大皐大皐院研究紀要第十四競 銅 縛 丈 六 悌 像 、 各 一 躯 一 。 乃 命 ︸ 一 鞍 作 烏 一 、 局 一 一 造 ν 併 之 工 一 。 ﹂ か ら 、 さ ら ょせる意欲にもとづくその具現化のはたらきであったことを明らかにする。勝章一経・法華経の講説に関する右掲の 記述は、烏の造仏以下の一連の記述の直後にある。内容的にはおのおの別ではあるけれども、その意図ないし趣旨 は、彼此あきらかに共通する。烏に相当するのが皇太子︵聖徳太子︶であり、太子が天皇の仏教興隆の意をうけ、ま たみずからその意を体して行ったのが両経の講説であったとみるべきであろう。ちなみに、推古二年二月の条には ﹁ 詔 一 一 皇 太 子 及 大 臣 一 、 令 v 興 ニ 隆 三 賓 一 。 ﹂ と い う 天 皇 の 詔 を 伝 え る 。
ω
︵十二年五月︶大設 v粛 。 因 以 講 一 一 恵 隠 借 一 、 令 v説ニ無量毒経一。合三了間︶ 右は野明天皇十二年の記述であるが、この前年の十一年には、十二月に﹁是月、於二百済川側一、建一一九重塔一。﹂、ま た七月に﹁詔日、今年、造二作大宮及大寺一。則以二百済川側一、震ニ宮慮一。是以西民造 v宮、東民作 v 寺。﹂などと伝 える。並記する大寺はもとより、九重の塔にしても、大宮と並ぶ大規模な造営であったに相違ない。その造営の翌 年に無量寿経を説くというのであるから、両者は一連の事業・行事であったはずであり、 その関係は、乙れに先立 つ推古天皇の発願による造寺造仏と講説との関係に一致する。推古天皇の意図は、前述のとおり仏教興隆にある。 右掲の説経が同様の意図によることは疑いを容れない。ω
︵六年八月︶大設ニ粛飛鳥寺一以讃二切経一。便天皇御ニ寺南門一而捷二三貫一。是時、詔ニ親王諸王及群卿一、毎 ν 人賜ニ出家一人一。其出家者、不 v 間 一 一 男 女 長 幼 一 、 皆 随 ν 願 度 之 。 因 以 曾 ニ 子 大 菊 一 。 ︵ 二 九 ・ 叩 ︶ 右は、天武天皇六年八月に行った法会である。その読経に用いた一切経は、これに先立つ天武天皇二年三月の﹁莱ニ書 生 一 、 始 寓 二 切 経 於 川 原 寺 一 。 ﹂ ︵ 問 ﹀ や 、 さ ら に 同 四 年 十 月 の ﹁ 遣 一 一 使 於 四 方 一 、 覚 一 一 一 切 経 一 。 ﹂ ︵ 別 ︶ な ど と あ き ら いく年にも及ぶそうした努力を重ねて準備した一切経の読経であるということもさることながら、 親王以下群卿の一人一人に出家を賜うということは、それがどれほどの数に及ぶかはかり知れないにしても、わざ かに関連をもっ。 わざ乙の法会にさいして﹁皆随 v 願度之﹂というように出家を許された者であるだけに、天皇のこの法会によせる並 々ならぬ意欲を示唆するであろう。それは、天皇がみずから﹁躍ニ三貫一﹂という姿勢を明らかにしたことに象徴さ れる、すなわち仏教の興隆をねらいとするとみて恐らく誤りない。 な お 、 ﹁ 謹 二 三 賀 L は、聖徳太子が作成した十七条憲法の第二にいうところの﹁篤敬二三賀こに通じる。 憲法の 条 文 と し て 、 それは、臣下のあるべき心構えを示したものではあるけれども、 そうして三宝の尊崇を勧めるという そ の こ と 自 体 は 、 推古天皇が推しすすめたさまざまな仏教興隆の事業と無縁ではない。 それらの事業は、﹁令 v 興 ニ 隆三賀 L ︵ 二 年 二 月 ︶ ﹁ 欲 v 興ニ隆内典一﹂︵十四年四月︶という天皇の意志による。
ω
の法会に﹁謹二三賀こという の は 、 それとあきらかに共通する意欲のあらわれにほかならない。 と こ ろ で 、 そうして仏教の興隆に意を用いる一方で、仏教を政治的に利用する傾向を強めてゆくといった特色を、 この天武天皇の時代はもっ。次の例がそのことを端的に物語る。一
一
一
ω
︵ 五 年 十 一 月 ﹀ 遣 ニ 使 於 四 方 園 一 、 読 ニ 金 光 明 経 ・ 仁 王 経 一 。 ︵ 二 九 ・ 叩 ︶ω
︵ 九 年 五 月 ︶ 勅 、 結 綿 総 布 以 施 ニ エ J 京内廿四寺ニ、各有 v 差 。 是 目 、 始 設 一 一 金 光 明 経 子 宮 中 及 諸 寺 一 。 ︵ 二 九 −m
︶ω
については、説経に用いた金光明経・仁王経ともに、いわゆる護国の経典であり、それを、使いを四方の国々へ 遣して説かせるというのであるから、その目的は、国家の鎮護・安寧の祈願にある。またω
でも、説経に用いたの 日 本 書 紀 の 成 り た ち を 考 え る 七悌教大皐大皐院研究紀要第十四競 八 は金光明経である。したがってその説経も、 ひととおり
ω
と同じ目的を想定すべきかもしれないが、また一方、京 内の寺々に対する布施の当日それを行っているだけに、 その布施との関連も否みがたい。 もっとも、布施と説経とを結びつけて﹁この施物は金光明経講説のための料﹂ ︵日本古典文学大系書紀・下山頁 の当該条の頭注︶とする解釈は当らない。講経、さらには広く仏教儀礼とその布施との関係は、 o 語一一経於大官大寺・川原寺・飛鳥寺一。因以稲納ニ三寺一、各有 v差。︵二九−m
︶ o 請二三綱律師及大官大寺知事佐官弁九借一、以ニ俗供養一々之。的施二結綿布一、各有 v 差 。 ︵ 二 九 −m
︶ 右のように儀礼の後に布施をあらわし、 これまた当然のことながら、儀礼に従事した当の主体が布施の受け手とな る。記述にそくして言えば、儀礼を主として述べ、布施は、 それの補足でしかない。ω
の 場 合 に は 、 そのいずれに もあてはまらない。しかも、布施と説経との間に﹁是日﹂を置き、 そうして改めて説経を記述しているのであるか ら、その両者は、 ひとまず切り離して捉えなければならない。 そこで、改めて布施と説経とを同日に行ったということに着目してみるに、同日とは、すなわち五月一日である。 この直前には、 四 月 の 、 いく日かは明らかにしないながら﹁是月﹂の記述として、次のような寺々の食封に関する 勅を伝える。 是 月 、 勅 、 凡諸寺者、自 ν今以後、除下矯一一園大寺二三一上以外、官司莫 v 治 。 唯 其 有 一 一 食 封 一 者 、 先 後 限 一 一 品 川 年 一 。 若 敷 ν年満 v品川則除之。旦以潟、飛鳥寺不 ν 可 ν 関 一 一 子 司 治 一 。 然 元 矯 一 一 大 寺 一 市 宮 司 恒 治 、 復 嘗 有 v 功。是以、猶入ニ官 治 之 例 一 。 ︵ 二 九 −m
︶ 右の勅の内容をかいつまんでいえば、二三の国大寺と、 また国との特別な関係にあった飛鳥寺とを除く自余の寺々 に対する国の経営・援助をうち切りないし制限するということである。すでに、 そうした手だてを構じても動揺がない程に各寺院の経営が安定していたことによる然るべき措置か、あるいは教界の反発を見越した上の強硬措置で あ っ た の か 、 いずれであるにしても、国家が寺院に対する関与を抑制してゆく方向をうちだしたということには変 りない。その抑制が勅にいう財政的な側面に限ったものか否かは、各寺院はもとより、教界にとっても大きな関心 事であったろう。恐らく、 そのこととのかかわりで、布施や読経を捉えるべきではないか。 その抑制が財政に限定的であること、それ以外では仏教に対する国家の基本政策に変更 のないことなどを、あきらかに物語る。実際、布施を受ける﹁京内廿四寺﹂は、有力寺院の大多数を占めるであろ すなわち布施や読経は、 そうした寺々への布施は、現実的な援助といった意味もさることながら、勅によることを考えあわせるなら ば、むしろ寺院がなお国家の庇護の下にあることを示す象徴的な意味あいが強い。読経にしても、それに護国の経 う し 、 典である金光明経を用い、 また宮中や諸寺でそれを行ったという。いわば国が率先して、 また教界をあげて、国家 鎮護の祈願を行ったという乙とであるから、 この読経のもつ意味は、 は な は だ 重 い 。 す国家鎮護の役割を、 さきの食封に関する勅とのかかわりでいえば、寺の経営への関与を一たん清算ないし抑制した上で、仏教の果た その説経を通してあらゆる寺院に認識させると同時に、国家と各寺院との関係も、そうした 国家鎮護を機軸とすることを宣明することにそのねらいがあったとみるべきであろう。仏教に対して、国家仏教の わくをはめることにつながるとはいえ、観点をかえれば、国をあげて仏教へ帰依することの宣明でもあった。それ は、前掲
ω
の一切経の読経にさいして、天皇が表明した﹁躍三賀﹂にも通じるはずである。 以 上 で 、E
群が伝える仏教儀礼の用例は尽きる。儀礼自体は区々ではあるけれども、各用例を通して、その目的は、 右のように三類に大別できる。そうしてそのいずれにあっても、仏教への帰依の姿勢が著しい。特定の個人のため の祈願を目的とする一はもとより、二の仏教の興隆を目的とした各用例にしても、仏教への帰依がなくしてはあり 日 本 書 紀 の 成 り た ち を 考 え る 九悌 教 大 阜 大 皐 院 研 究 紀 要 第 十 四 競 一
O
えない。国家鎮護といった政治色の強い三の用例でも、その背景には、やはり同じ仏教への帰依がある。かくてそ のいずれにも共通する仏教への帰依を、E
群の仏教儀礼に著しい特徴とみなすことができる。一
一
、
皿群の仏教儀礼について
一 方 、E
群の儀礼であるが、前稿に指摘したとおり、E
群のそれに較べ、 そうじて規模・威儀ともに盛大な点に 特徴がある。なおまた、E
群では、儀礼が別のことがらに付随的にあらわれる場合が少なくない。そうした儀礼の 特徴的なあらわれは、E
群の儀礼がその目的に独自な特徴をもっ乙とに深くかかわる。 きて、まず取りあげるのは、天候の異変にともなう次の読経や講経などの例である。用例の全てがE
群 に あ り 、E
群には、これに類する例が一切ないo
E
群に特徴となるという点でも、とりわけ注目に値する。 ︵ 二 十 五 日 ﹀ω
︿元年六月︶是月、大早。︵七月︶戊寅、群臣相語之目、随一一村々祝部所 v 敬、或殺ニ牛馬一、祭二諸吐紳一。或 頻移 v市。或穣ニ河伯一。既無 v所 v致。蘇我大臣報日、可 τ於 ニ 寺 々 一 、 轄 一 一 讃 大 乗 経 典 一 、 悔 過 如 ニ 悌 所 v説、敬而 ︵ 二 十 七 日 ︶ 析 長 雨 。 庚 辰 、 於 ニ 大 寺 南 庭 一 、 巌 = 梯 菩 薩 像 輿 一 一 四 天 王 像 一 、 屈 一 一 請 衆 借 二 讃 一 一 大 雲 経 等 一 。 子 v時、蘇我大臣、手 ︵ 二 十 八 日 ︶ ︵ 二 十 九 日 ﹀ 執ニ香鐘二焼 v香護 v願。辛巳、微雨。壬午、不 v能 v 析 v雨。故停 v讃 v 経 。 ︵ 二 四 −m
︶ ︵ 五 月 十 八 日 ﹀ω
︵五年﹀六月、京師及郡園畑、雨水。戊子、詔日、此夏、陰雨過 v節。懐必傷 ν稼。タ傷迄 v朝憂懐。思ニ念阪 慾 一 。 其 令 下 公 卿 百 寮 人 等 、 禁 一 一 断 酒 出 ハ 一 、 嬬 v心悔過上。京及畿内諾寺党衆、亦嘗ニ五日謂 v経。庶有 v補 駕 。 自 ニ 至 二 子 是 月 一 。 ︵ 三0
・ 山 ︶ω
︵六年間五月︶丁酉、大水。遣 v使循ニ行郡園−、菓下貸実害不 v能 ニ 自 存 一 者 ヘ 四 月 一 雨 、 令 v得 ν漁 ニ 採 山 林 池 津 一 。 詔令京 師 及 四 畿 内 、 講 ニ 説 金 光 明 経 一 。 ︵ 三
0
・ 出 ﹀ω
とω
は 、 その終息を祈願するのが目的である。ω
は﹁大水﹂のあと、恐 らくその擢災者の救済、さらには国家鎮護のための祈願であろう。個別的には、それぞれに固有の目的をもつけれ それぞれ﹁大早﹂﹁雨水﹂にさいして、 それも、天候の異変に対処するためという大枠では一つに括りうる。天候の異変に対処するということは、 まさに政治的行為にほかならない。そうして仏教儀礼をまつりごとに利用する上でも、国家鎮護という一般的、包 括的な祈願ではなく、現実の個々の事態にそくして祈願を行っている点に、それら儀礼に共通した特徴がある。 ど も 、 ところで、個々の事態への対応においては、仏教儀礼を行うだけがその全てではない。儒教の考えを基にそれに そくして行う対応とだきあわせに、しかもいくぶん補足的なかたちで、仏教儀礼を利用した対応を行うというのが 例であるo
E
群に特徴的なその両者のあり方を、 いま便宜例の例からみるに、儒教的な立場にそくした対応を物語 る部分︵漁採するを得さしむまで﹀は、後漢書の一節︵巻四・和帝紀﹀をそのまま借用して成り立っている。その 後漢書はもとより、漢書にしても、天候の異変とそれによる被害とその救済を伝える記述は、 ほとんど枚挙にいと ま な い 。ω
の 一 節 も 、 その一例にすぎないが、 そうして救済のてだてを構じるのも、 そもそも異変︵天候ばかりで なく、兵火や犯罪の発生なども含む︶を、人君の失政に対する天の警告とみなす、すなわち儒教の伝統的な思想に よる。漢書の例を示せば、次のとおりである。 寛寧三年冬十二月戊申朔、日有 v蝕 之 。 夜 地 − 一 震 未 央 宮 殿 中 一 。 詔 目 、 蓋 問 、 天 生 ニ 衆 民 一 、 不 v能 ニ 相 治 一 。 篤 v 之立 v 君、以統理之。君道得 v 則、草木見轟、成得ニ其所一。人君不 v徳 、 請 見 ニ 天 地 一 、 災 異 婁 畿 、 以 告 一 一 不 治 一 。 験 、 渉 道日寡、奉錯不 v中。乃戊申日蝕地震、朕甚懐走。公卿其各、思一一朕過失一明白陳之。︵以下略、巻十、成帝紀︶ω
の記述が、全般にこうした儒教の考えを背景にもち、しかもげんにその具体例でもある後漢書の一節を借用して 日 本 書 紀 の 成 り た ち を 考 え る悌教大皐大皐院研究紀要第十四琉 成り立つ以上、だきあわせの関係にある全光明経の講説を、 それと一連のものとして位置づけている乙とは論を倹 た な い 。
ω
もω
と同じように後漢書の一節を借用して成る。それを次に示すが、儒教の考えと仏教儀礼との相関は、ω
以上に著しい。H
郡圏三十七雨水。己末、詔日、自 v夏以来、陰雨過 v節。煤気不 v致、持 v有 ニ 阪 径 一 。 宿 泊 森 憂 憧 、 末 v知 v所 v 由 。 甲 乙 | ︵ 昔 夏 后 、 悪 ニ 衣 服 一 。 弄 ニ 飲 食 一 。 孔 子 日 ﹁ 吾 無 一 一 間 然 一 。 ﹂ 今 新 遭 二 大 憂 一 、 且 歳 節 未 ν和 。 ︶ ︵ 徹 v膳損 v服 、 ﹀ 庶 有 v補正局。︵以下略、後漢書、巻四・孝蕩帝紀︶ 同京師及郡園十雨水。詔日、今年、秋稼茂好、垂 ν可 ニ 収 穫 一 、 而 連 雨 未 v雰 、 懐 必 滝 傷 。 タ 傷 惟 憂 、 思 一 一 念 欧 各 一 。 甲 乙 ︵ 夫 一 森 雨 者 、 人 怨 之 所 ν致。其武吏以威ニ暴下一、文吏妄行二苛刻一、郷吏因 ν公 生 ν姦 。 ︶ ︵ 矯 一 ニ 百 姓 所 一 一 患 苦 一 者 、 甲 有 司 額 二 明 其 罰 一 。 ︶ ︵ 又 月 令 ﹁ 仲 秋 養 ニ 衰 老 一 、 授 ニ 九 杖 一 、 行 ニ 腿 粥 一 。 ﹂ 方 今 案 ニ 此 之 時 一 、 郡 勝 多 v不 二 奉 行 一 。 雄 v 乙 有二擦粥一、糖祇相半、長吏怠 v事、莫 v有 ニ 賜 親 一 、 甚 違 一 一 詔 書 養 老 之 意 一 。 ︶ ︵ 其 務 一 一 崇 仁 恕 二 賑 一 一 護 寡 濁 一 。 ︶ 稽 ニ 朕意ニ詩。︵問、巻五・孝安帝紀︶ω
は、右の什同のいずれも傍線を付した部分と対応する、その借用である。それ以外の甲乙のカッコで括った部分 の 、 そ の 乙 と 、ω
における借用部以外とは、これまた内容のうえで対応的な関係にある。すなわちω
の借用によら ない部分は、﹁思一一念阪悠一﹂の直後から﹁庶有 v 補正局﹂の直前までの間で、内容的には災害とその責を人々の不行配 ︵阪慾︶に帰したあとの、臣下に対しては浄行を、また僧侶に対しては仏事をそれぞれ指示した天皇の命を伝える が、それらは、後漢書の、什では、乙における天子みずからの倹約を述べた部分、また一方同では、同じ乙の直下 に対して仁政に務める乙とを勧めた部分に相当する。甲は、 それら乙にさきだって、 その根拠や由縁などを説く。の
ζ ま 、 , , s , 、 、 、 , E t − − , , 、 乙れに対応する部分がない。﹁思ニ念厩慾一﹂といいながら、主眼は、どこまでも浄行や仏事を命じることにあったからであろう。さて、 その浄行・仏事と後漢書のそれに対応する部分とを改めて示すと次のとおりである。 災害にさいしての、 例 思 一 一 念 願 悠 一 。 ︹ 其 令 下 公 卿 百 寮 人 等 、 禁 ニ 断 酒 生 ハ 一 、 掻 v心悔過上。京及畿内党衆、亦首一二立日調 u経。︺庶有 v補 駕 。 乙 什将 v 有 一 一 欧 各 一 。 ︹ 徹 v 膳損 v 服︺庶有 v補 正 局 。 乙 同 思 一 一 念 厩 径 一 。 ︹ 矯 一 一 一 百 姓 所 一 一 患 苦 一 者 、 有 司 穎 ニ 明 其 罰 一
o
J
其 務 ニ 崇 仁 恕 一 、 賑 一 一 護 寡 濁 一 。 ︺ 稽 二 族 意 一 罵 。 その捉え方とその後の措置について、右三者の問にほとんど違いはない。ω
にいう浄行や仏事 その必然的な結果として、儒教思想の理想とする善 は、かくて天候の異変を儒教思想によって捉えたことに伴う、 行とまさしく対応する。ω
もまた、基本的にはその同じ対応をもっ。結局、 国群では、仏教儀礼を儒教思想のわく 組のなかで捉え、そうしてそれをまつりごとの一環として利用するといった点に著しい特徴がある。 しかし天候の異変にかかわる儀礼にとどまらない。仏教儀礼をまつりごとに利用するというように、そ 皿群の仏教儀礼のほとんど全てが、なんらかのあり方において同じ特徴をもっ。次に取 そ れ は 、 の特徴を集約して言えば、 りあげるいくつかの仏教儀礼も、もちろん例外ではない。はじめに孝徳紀に伝えるこつの読経の例。ω
︵白矯二年﹀冬十二月晦、於二味経宮一、請一三千一百鈴僧尼一、使 v讃二切経一。是夕、燃一二千七百鈴燈於朝庭 内 一 、 使 レ 讃 一 一 安 宅 ・ 土 側 等 経 一 。 於 レ 是 、 天 皇 従 ニ 於 大 郡 一 、 遷 居 ニ 新 宮 一 。 競 日 一 一 難 波 長 柄 豊 碕 宮 一 。 ︵ 二 五 −m
﹀ 右の一切経の読経と安宅経・土側経などの読経とについては、 山頁︶の頭注で は、それぞれ﹁乙の仏事、後の追備に当るか。﹂、﹁この仏事、難波宮の安鎮か。﹂という注解を付す。後者のばあい、 たとえば日本古典文学大系書紀︵下、 読経に用いた経典のその名義のほか、﹁於是﹂ を介して新宮への遷居に続くその文の展開などにかんがみて、 読 経 の目的は、宮都の安鎮以外には考え難い。しかしながら、前者について、 その一切経の読経を注解どおり追慨にあ 日 本 書 紀 の 成 り た ち を 考 え る悌 教 大 望 大 事 院 研 究 紀 要 第 十 四 競 四 たるとみて果たして妥当であろうか。 延喜式では傑祭を十二月末日に行うと定めているけれども、 それの初見は、続日本紀の慶雲三年条に﹁是年、天 下諸園疫疾、百姓多死。始作二土牛一、大慨。﹂とあり、もとより十二月末日が定日であったとは伝えていない。 一 方 、 大備のほかにも、疫の調伏という同じ目的をもっ大破がある。続紀では、大備を伝えた翌年の慶雲四年二月条に ﹁ 日 ニ 諸 園 疫 一 、 遺 ν使大獄。﹂などと伝えるが、 し か し な が ら 、 そうした臨時の場合のほか、慣例として行う大放が ある。それもかなり古くから定まっていたことを推測させる記述が続紀にはある。続紀・大宝二年十二月三十日条 に﹁藤−一大毅一。但東西文部、解除如レ常。﹂と伝えるのがそれで、大殺の廃止は、 この直前、すなわち十二月二十二 日に太上︵持統︶天皇が崩御したことによる非常措置であったろう。 に大殺が行われていたはずである。こうしてみると、さきの一切経の読経には、追憐よりは、むしろ大殺の方がは 崩御がなければ、 恐らく﹁如 v常﹂十二月末 るかにふさわしい。 かくて一切経の読経には、 ひととおり大教をひきあてることができるが、確定するまでには至らない。ただ、同 日に行った安宅・土側両経の読経については、 その目的が宮都の安鎮であり、 恐 ら く は 、 たとえば持統紀に﹁遺 使 者 一 、 鎮 一 一 祭 新 盆 京 一 。 ﹂ ︵ 一 ニ
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・M
︶ ﹁ 遣 一 一 津 貰 隷 難 波 王 等 一 、 鎮 ニ 祭 藤 原 宮 地 一 。 ﹂ ︵ 同 ・ 山 ﹀ な ど と 伝 え る よ う に 、 神 事としてとり行うのが慣例であったはずの俸制を仏教儀礼に代替したと考えられるので、それから類推しても、な んらかのーーー大紋・追傑のいずれに相当するにせよl
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神事儀礼として行う慣例を破り、 それに替えて一切経の読 経を行ったとみて誤りないであろう。そうして神事儀礼がまつりごとの一環であったように、 その一切経の読経も ま た 、 まつりごとの重要な意味をになう儀礼であったに相違ない。翌白矯三年の十二月晦にも、 ひきつづいて同じ 仏教儀礼を行ったと伝える︵﹁請ニ天下僧尼於内裏一、設 ν 粛大捨燃燈﹂二五−m
﹀。このことも、すでに仏教儀礼がまつりごとのなかに組みこまれた乙とを示唆するであろう。 孝 徳 天 皇 に 対 す る ﹁ 等 二 梯 法 一 、 軽 ニ 紳 道 一 ﹂ ︵ 二 五 −
m
︶ という評価も、天皇が為政者として仏教をまつりごとに利用することにとりわけ意を用いたことに深くかかわるの で は な い か 。 孟蘭盆経は、﹁父母の死後の救済だけではなく、ω
詔、群臣、於二京内諸寺一、勧 ν 講 二 孟 蘭 盆 経 一 、 使 ν 報 ニ 七 世 父 母 一 。 合 一 六 −m
︶ 過去七世の父母に及ぶ孝﹂︵道端良秀﹃仏教と儒教倫理﹄山頁︶を 説 く 。 中国では、すでに南北朝の初めごろから孟蘭盆の仏事がさかんに行われていたという︵同書﹀。 そうした中国における孟蘭盆会や孟蘭盆経の講説などの盛行と無縁ではないはずであるが、その意図するところ 右 の 詔 も 、 は、父母の孝を説くその経典の内容にそくしたものであろう。詔の対象は、群臣である。群臣に対して父母への孝 を 説 く 経 典 の 、 わざわざその講経を勧めさせているのであるから、 ひ っ き ょ う 、 それは、孝のすすめにほかならな い。書紀に伝える孝のなかには、 詔日﹁我皇組之重也、自レ天降壁、光ニ助族民一。今諸虜己卒、海内無 v事 。 可 下 以 郊 ニ 把 天 一 紳 一 、 用 申 申 大 孝 上 者 也 。 ﹂ 乃立二霊時於鳥見山中\ j 用 祭 二 皇 租 天 神 ニ 持 。 会 一 −m
︶ そのまま孝につながるといった例がある。その天神を七世父母に、また郊一杷を 講経にそれぞれひきあてれば、孝をめぐって、両者は重なり合う。祖先の祭杷を行う背景に、すでにそれを孝とし 右のように皇祖天神を祭ることが、 て捉える見方がある以上、孟蘭盆経の講経を、同様に孝の実践とみなしても、 なんらあやしむに足らない。天皇に よるその孝のすすめは、 まつりごとのなかに仏事をくみいれた、 いわば政治的意図によるはずである。その意図は、 翌斉明天皇六年五月条に﹁有司奉 v勅 、 造 二 百 一 口 同 座 ・ 一 百 納 袈 裟 一 、 設 ニ 仁 王 般 若 之 曾 一 。 ﹂ ︵ 一 工 ハ −m
︶という仁王 般 若 会 の 、 それが目的とする国家鎮護とあい通じる。そ乙に﹁有司奉勅﹂というとおり、 これまた、官僚がその主 日 本 書 紀 の 成 り た ち を 考 え る 一 五悌 教 大 出 向 子 大 事 院 研 究 紀 要 第 十 四 競 一 六 役 で あ っ た 。 E 群のうちでも、巻三
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には、そうした仏教儀礼をまつりごとのなかにくみ入れたという顕著な例が少なくない。 さきに取りあげた一のω
ω
もその例であったが、ほかに、中央の命によってほとんど全国規模で行う次の講経や読 経などもその例にもれない。使用する経典は、国家鎮護を祈願する仁王経や金光明経である。 制︵持統天皇七年十月︶始講ニ仁王経於百圏一。四日而畢。︵三0
・ω
︶ω
︵同八年五月︶以一一金光明経一百部一、必取ニ毎年正月上玄一、讃之。 迭 ニ 置 諸 園 一 、 其 布 施 、 以 二 嘗 園 官 物 一 、 充 之 。 ︵ 同 −m
︶ 地方での仏教儀礼は、 これ以前に、天武天皇五年十一月条に﹁遺ニ使於四方図一、説ニ金光明経・仁王経一。﹂︵二九・ 制︶とあり、同一の経典を使っているという点で、 これが先例であるかのように見受けられる。 その天武紀に伝える説経と右のω
ω
とでは、大きな隔りがある。なによりもまず、規模が違う。ω
に仁王経を百園で講じたというのは、百の講座を設ける仁王会にちなむ文飾︵古典文学大系の書紀の当該箇所の 頭注︶に過ぎず、その点を多少割り引いたにしても、全国規模のきわめて広汎な地域でその講経を行った乙とは、 し か し な が ら 、 疑いを容れない。しかもそれは四日間にも及ぷ。法隆寺・大安寺の資財帳︵ともに天平十九年作成。﹃寧築遺文﹄中 巻 所 収 ︶ に は 、 その講経の最終日、すなわち二十六日に布施を行ったこと、 それにともなうおびただしい数にのぼ る仏具類の記録を伝える。それらの記録からも、くだんの講経に寄せる並々ならぬ思い入れを窺うことができるし、 またそれが国家鎮護を祈願する目的の下にとくに厳修されたであろう乙とも推測に難くない。 ま た 一 方 、ω
の金光明経の読経に関しては、 それを行う日を毎年正月上玄と指定した上で、 その布施に当該国の 官物を充てることまで定めてもいる。同じ金光明経の読経にしても、天武紀に伝えるそれよりも、国家鎮護の祈願をはるかに大規模かつ組織的に行おうとする意図がそこに著しい。加えて、持統天皇十年十二月条には、 その金光 明経の読経に関連して、次のような勅旨を伝える。 十二月己己朔、勅旨、縁 ν讃 一 一 金 光 明 経 一 、 毎 年 十 二 月 晦 日 、 度 ニ 浮 行 者 一 十 人 一 。 ︵ 三
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・
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︶ 十二月晦日に浄行者十人を出家させるというのも、 さきに金光明経の読経を正月上玄と定めたことにともない、 そ の読経に先だって、あらかじめ読経の任にあたる僧侶を確保しておくための措置であろう。毎年のことであるから、 その措置によって仏教界の禅益すると乙ろも大きかったはずである。と同時に、 さきの経済面での援助とあわせて、 国が金光明経の読経をいかに重視していたかを如実に物語る。国家鎮護の祈願というそのねらいとあわせて、国が 全て主導して行わせるという点で、すでにそれは、まつりごとの一翼をになうすぐれて政治的な意味をもっ。 こうしてこの用例全てが、さきに検討を加えた一の用例に共通する特徴をひとしくもつ。その特徴をここに概括 していえば、すなわち、仏教儀礼をまつりごとにくみ入れ、そうしてまつりごとのために利用しているということ にほかならない。僧侶がそれを行うとはいえ、仏教儀礼は、もはや為政者の手中にあるといっても過言ではない。 な お 国 群 に は 、 該当するあと二つの用例がある。 講経と読経とのそれぞれ一例ずつである。 これらを最後に 残 し た の は 、 その儀礼自体に不審な点があるほか、関連する若干の問題があることなどによる。不明のまま残すべ しかし、直群にある以上、それらが、これまでに明らかとなった直群の特徴と無縁であるとは 考え難い。いまそれらを三として一括し、以下に検討を試みる。まずは、無量寿経の講経に関する次の例。一
一
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︵ 十 五 日 ︶ω
︵白矯三年四月﹀壬寅、請ニ沙門恵隠於内裏一、使 ν講 ニ 無 量 書 経 一 。 以 二 沙 門 恵 資 一 、 篤 二 論 議 一 者 、 以 一 一 沙 門 一 千 一 、 ︵ 二 十 日 ﹀ 停 一 作 聴 衆 一 。 丁 未 、 罷 レ 講 。 きかもしれないが、 自 ニ 於 此 日 一 、 初 連 雨 水 、 至 ニ 子 九 日 一 、 損 一 一 壌 宅 屋 一 、 傷 二 害 田 苗 一 。 人及牛馬、溺 日 本 書 紀 の 成 り た ち を 考 え る 一 七悌教大皐大皐院研究紀要第十四競 死 者 衆 。 ︵ 二 五 −
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︶ 八 右の記述のうち、講経に限っては、疑問の余地はほとんどない。すなわち、 この無量寿経の講経は、 そ れ り と さ ー き 連 に の〔二〕 関 の係(
2) で取りあげた白矯二年十二月晦の一切経の読経と翌白雑三年十二月晦の法会との間にあって、 にあることがまず考えられる。儀礼のあり方においても、 二つの法会とは、内裏で、 しかも多数の僧侶を参加させ て行うという点で共通する。その講経に使用した無量寿経が﹁法蔵菩薩の衆生救済の誓願と実践とをもって大乗利 他行を強調するものであるよ ︵二葉憲香著﹃古代悌教思想史研究﹄m
頁︶という内容をもっとすれば、その講経を 行 う ね ら い も 、 ︵天皇もしくは国家の︶衆生救済にあったとみて大過ないであろう。 鎮護国家に通じるという点で も、これに前後するこつの法会と同様、仏教儀礼をまつりごとに利用したその著しい例にほかならない。 ところで、問題は、右に掲出した文中に﹁罷 v 講。自ニ於此日一、初連雨水、﹂という講経と雨水とのかかわりにある。 五日間にも及ぶ講経の終了と日を同じくして雨水が始まったというのは、 偶然に過ぎないのであろうか。 天候の 異変に関した記述は、巻二五をとおして他に一切ない。それがまさに唯一の例であるというそのこととはまた別 に、無量寿経が衆生救済の誓願︵法蔵菩薩の四十八願︶をその主な内容としているだけに、雨水の発生は、あまり にも皮肉な結果というほかない。しかも、 その被害をあらわす記述︵損二壊宅屋一、傷二害田苗−。人及牛馬、溺死者 衆 。 ﹀ は 、 その程度の甚大さとはうらはらに、 いささか抽象的に過ぎる。 いずれにしても、講経に雨水の発生をこと さ ら 関 連 さ せ 、 そうしてそこになにがしかの寓意をこめていることを強く思わせる。願主が孝徳天皇である乙と、 そしてこの講経の翌年に、天皇は、倭京へ遷ろうとする皇太子の要請を蹴って、 そのために皇太子を始めとする皇 族・群臣たちに見捨てられるという、すでに天皇としての実質的な権威を失っていたことと、あるいは関係がある の で は な い か 。たとえば一の
ω
ω
は、﹁雨水﹂や﹁大水﹂ たが、仏教儀礼を人君の行う善政とみなすといった考えがその背景にある。この考えによれば、無量寿経の講経も に さ い し て 、 その終息や人々の救済などを祈願するための読経であっ また善政の一環であったはずで、 その善政を行いながら、 なお天災にみまわれたということは、天がその命を革め たからという考えをおのずから導くであろう。孝徳天皇は、 この講経の翌年に、 はやくも天皇としての実権を失う に至る。その予兆の意味を、講経につづく天災がもっていたという解釈の成りたつ余地は、 で あ る 。 かくて小さくないはず さて、最後に残った読経の例であるが、 それを伝える記述は、次のように余りにもそっけない。ほとんど捉えど ころがないというのが実情である。ω
、詔、譲ニ経於京畿諮寺一。︵三0
・m
︶ 詔による以上、 乙の読経にしでもなんらかの目的をもつはずであるが、 さ て 、 その目的を探る上で、 乙乙ろみにこ の前後︵持統天皇十一年五・六月︶の記述をみるに、 五 月 八 日 、 遺 一 一 大 夫 謁 者 一 、 詣 二 諸 壮 一 請 ν 雨 。 六 月 二 日 、 赦 二 罪 人 一 。 ︵ 六 月 六 日 、 読 経 ︶ 六 月 十 六 日 、 遣 二 五 位 以 上 一 、 掃 ニ 漉 京 寺 一 。 六月十九日、班こ幣於神祇一。 六月二十六日、公卿百寮、始造下局二天皇病一所 v願 梯 像 上 。 五月八日に行ったと同じ請雨か、もしくは、六月二十六日に伝える造仏が天皇の病気平癒祈 関連があるとすれば、 日 本 書 紀 の 成 り た ち を 考 え る 一 九悌教大事大皐院研究紀要第十四競 願のためであるから、それと同じ病気平癒の祈願かの二つのうちのいずれかであった蓋然性が高い。しかしながら、 後者では恐らくない。というのも、病気平癒の祈願であれば、天武天皇の場合がそうであったように、度僧を行う か、読経にしても、内裏ないし京内の寺など、より狭い範囲で行うのが通例だからである。 二
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そこで改めて儀礼を行う場について考えてみるに、くだんの読経は、京畿諸寺がその対象である。地域的に同様 の広がりで行う仏教儀礼としては、さきに取りあげた一の二例が該当する。それらは、しかも同じ持統紀にある。 o 詔 目 、 J 京及畿内諸党衆、亦嘗二五日調 σ 経 。 o 詔 、 令 一 ニ 京 師 及 四 畿 内 講 ニ 説 金 光 明 経 一 。 右の二例ともに、上述のとおり﹁雨水﹂ ﹁大水﹂に際して行った仏教儀礼である。 京畿内という同じ地域的な広が りをもつが、偶然の一致ではもちろんない。すなわち、持統紀の各用例を通じて、仏教儀礼の目的とそれを行う場 ないし地域的な広がりとの聞には、相関的な関係がある。たとえば、天武天皇追善の無遮大会の場合では、 それを 行う場が内裏︵三0
・仰︶春宮︵同−m
︶もしくは京師の特定寺院︵同−m
−m
︶など、比較的狭い範囲に限られ ている。国忌斎を京師諸寺︵同・湖︶で行うのも、それと同じ性格の儀礼であったからに相違ない。一方、仁王経 の講経︵同・削︶と金光明経の読経︵悶−m
︶とは、全国規模にまで広がりをもっ。双方とも護国の経典にもとづ く国家鎮護の祈願という、すぐれて政治的な意味をもっ儀礼であり、それゆえに、まつりごとの一環として広く全 国各地で行うに至ったのであろう。 さ き の ﹁ 雨 水 ﹂ ﹁ 大 水 ﹂ に 際 し て 、 仏教儀礼を京畿諸寺で行うというのは、儀礼の場ないし対象区域︵寺院﹀と いう点では、右の、 いわば京師にとどまる一群と、全国規模におよぶ一群との中間にあたる。くだんの読経は、自 然災害との関連について明記していない。けれども、右のように、儀礼の目的と、 それを行う場などとがたがいに相関的なかかわりをもっ以上、読経もまた、そのかかわりにそくして捉えるのがもっとも自然であろう。自然災害で はないとして、それに類縁をもっ事象で最も蓋然性の高いものといえば、早をおいて他にない。くだんの読経が六月 六日、これに先立つ一月前に、請雨記事があり、また同じ六月の最後の記事がこれまた請雨を伝える。﹁雨水﹂や ﹁大水﹂にしても、その被害を受けた地域を対象に、所在の各寺院で仏教儀礼を行ったはずであるから、その意味 でも、日干に際しての祈雨のための儀礼であったとみて、 恐らく誤りない。 四 両 群 の 仏 教 儀 礼 に つ い て の ま と め 読経や講経といった同じ仏教儀礼でも、 それを行う目的や性格に、 E 群 と E 群とでは、右のように著しい相違が ある。しかもそれが、儀礼を行う上での、 いわば群ごとの統一的な基調の違いによることも、右の検討をとおして ほぼ確めえたように思う。そこでその成果をもとに、 これまで取りあげた用例を改めて分類してみると、 おおよそ 上の表のようにまとめる乙とができる。 II 〔三〕〔二〉〔一〕 (1) (1) (1) (2) (2) (2) (3) (3) (4) 表中に立てた項目は、便宜的なものに過ぎず、統 を欠いているけれども、 こうして分類してみると、各 群の特徴は一見して明らかであろう。 す な わ ち 、 班 群 の 用 例 は 、 その全てがまつりごとに 合 4山 つ り ど 利用の項目にあてはまる。個別的には、 目的その他か と に 利 用 ならずしも同じではないが、まつりどとの一環として の位置を占め、政治的な意義をそれがもっという点で 日 本 書 紀 の 成 り た ち を 考 え る
悌 教 大 町 内 子 大 皐 院 研 究 紀 要 第 十 四 披 は、例外はない。 E 群では、かくて仏教儀礼をいちようにまつりごとに利用していたのであり、 そこにあきらかな 特 徴 が あ る 。 一 方 の
E
群 で は 、 と に あ る 。 その仏教の興隆へのねがいは、 まつりごとに利用するということだけにその目的を特定できる用例は、ごく一部にとどまる。 まつりごとの一環としての意味をあわせもつ例二にしても、その目的は、仏教の興隆そのこ もとより仏教への帰依なくしてはありえない。一のいくぶん多岐にわ E 群の特徴を求めるとすれば、仏教への帰依、 天皇の発意により、 た る 用 例 か ﹀ り し て 、 その仏教への帰依にもとづくはずであるから、 さらにはそれにもとづく仏教の興隆を措いて他にない。 たがいに著しく異なるE
群 と E 群 と の 、 それぞれその内部を貫く基調は、経典の使用を直接いわない仏会にも、 ほぼあてはまる。用例を逐一取りあげるまでもないと思うので、 乙 こ で は 便 宜 、 E 群 と E 群との双方が伝える濯仏 会・孟蘭盆会についてだけ検討を加えてみる。 まず皿群のそれは、孝徳紀に、冠の作製について定めた条項にわずかに付随して見える。 是歳︵大化三年﹀、制一一七色一十三階之冠一。︵以下、冠の作製について具体的に規定した後︶此冠者、大命日、饗 客、四月七月粛時、所レ着駕。︵二五−m
︶ 右のように、大会︵日本古典文学大系書紀の頭注には、即位・元日の儀などをいうか、 と説く︶や饗客︵同じく、 外国使節の接待と説く︶などと並ぶ、 いわば晴の儀礼としての性格が著しい。なおまた、臣下百官がおのおのの官 位に応じた冠を着けて列席するというのであるから、 そこに政治的なねらいがあったことは疑いない。 斉明紀に伝える次の孟蘭盆会も、右の規定と無縁ではない。 ︵ 三 日 ︶ ︵ 三 年 七 月 ︶ 己 丑 、 観 貨 遜 闘 男 二 人 女 四 人 、 漂 一 一 泊 手 筑 紫 一 。 ︵ 十 五 日 ︶ ︵ 中 略 ﹀ 乃 以 ν騨召。辛丑、作一一須蒲山像於飛鳥寺西 一 。 且 設 ニ 孟 蘭 金 舎 一 。 暮 饗 一 一 観 貨 遜 人 一 。 蛾 齢 相
︵ 一 ヱ
ハ −
m
︶ 飛 鳥 寺 の 西 は 、 乙れに先立つ大化改新のおり、孝徳天皇・皇祖母尊・皇太子が群臣を召集して盟いを行った場所で そ の 場 所 で 、 しかもさきの規定にいう饗客と前後して孟蘭盆会を設けるという以上、それぞれ さきの用例も同様であろうが、そうした儀 ある︵二五−m
︶ 。 着冠して威儀をただした群臣の参加があったはずである。というより、 礼を行うに際しては、彼ら群臣の参加が不可欠であったろう。したがって、純粋の仏教儀礼としてそれを行ったと は到底考えがたい。むしろまつりごとに利用することに、 その儀礼を行う重要な意義があったはずである。 右の孟蘭盆会が斉明天皇三年、 この二年後の五年︵七月十五日︶にも、 孟蘭盆経の講経を群臣に勧めさせてい る。ただに孟蘭盆会を営むというのではない。前述のとおり︵日頁︶、 そのねらいは孝の勧めにある。 あきらかに 政治的な意義をもっ。この講経といい、 乙れにさきだっ斉明天皇三年の孟蘭盆会にしても、 まさに大化三年の規定 の延長上にある。その意味では、 こと孟蘭盆会に限れば、 その政治的な利用の道を大化の規定が公式に開いたとい つでも過言ではないであろう。 翻ってE
群の用例をみるに、濯仏会・孟蘭盆会という同じ儀礼でありながら、 E 群のそれとは大きく異なる。次 にあげるのは、両仏会をわが国で行うその始源を説く推古天皇十四年条の記述である。 自 ニ 是 年 一 初 、 毎 レ 寺 、 四月八日・七月十五日設 v 薦 。 ︵ 二 二 ・ 山 ︶ E 群にはとれ以外に両仏会に関する記述がない。そのことも、 理由を求めれば、両仏会を寺ごとに、 いわば純粋の 仏教儀礼として行っていたために、 ことさら史書に取りあげるまでもなかったからであろう。両仏会とも、 まつり ごとに利用されるというような性格を、 そもそも持たなかったはずである。もとより、臣下百官がそれに参加する 必 然 性 も な い 。 日 本 書 紀 の 成 り た ち を 考 え る悌 教 大 皐 大 出 向 子 院 研 究 紀 要 第 十 四 競 と こ ろ で 、 四 両仏会の始源を説く右の記述は、 推古天皇十四年条にあって、 乙の年の四月八日の﹁銅繍丈六悌像 並造寛﹂︵二二・川﹀﹁即日設 ν粛﹂︵同・叩﹀という記述の直後に位置し、内容の上ではそれらと不可分の関係にある。 すなわち、両仏会は、仏像の完成とそれにともなう仏会にちなんで設けられている。両仏会を設けるに至る契機が 仏像の完成にある以上、両仏会とのかかわりは、 さ ら に は 、 その造仏にまで遡るとみなければならない。造仏につ いては、前年の推古天皇十三年四月条に﹁天皇詔ニ皇太子大臣及諸王諸臣一、 共 同 委 二 誓 願 一 、 以 造 一 一 銅 繍 丈 六 悌 像 、 各 一 躯 一 。 ﹂ ︵ 二 二 ・ 川 ︶ と 伝 え る 。 この詔が推古天皇二年二月条の﹁詔一一皇太子及大臣一、令 ν興 二 隆 三 貫 一 。 ﹂ ︵ 二 二 ・ 問︶という詔の趣旨と同じ、 いわば仏教の興隆をねらいとしていることは論を倹たない。造仏の発願がかくして仏 教の興隆をそのねらいとするならば、 それらの完成を契機に創始した両仏会の、 そのねらいもまた、同じ仏教興隆 にあるとみるのが自然であろう。 なお両仏会を寺ごとに行うということであるが、 その任にあたるのは、もちろん僧侶である。僧侶が、 みずから の所属する寺で、両仏会の修営をとおして仏教の興隆に務めるというそのあり方は、彼らの日常の務めについて規 凡 諸 僧 尼 者 、 常 住 一 一 寺 内 一 以 護 二 三 賓 一 。 ﹂ ︵ 二 九 −
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︶という天武天皇八年十月条に伝える勅と、仏教 擁護という点で若干意味あいを異にするとはいえ、彼此あい通う。かくて両仏会の、そのそもそもの創始とそのあ 定 し た ﹁ 勅 日 、 り方とにおいて、仏教の興隆に著しい特徴がある。それはまた、 さきの経典を使用した儀礼にも通じる、あきらか にE
群の特徴でもあった。 右のように、法会については、 わずかに濯仏会・孟蘭盆会を代表例として検討を試みたに過ぎないが、 そ れ で も 、 それらにH
群 と E 群とのそれぞれの特徴は著しい。法会の全ての用例を逐一検討した上での結論ではないし、他に 設斎などを残してもいるので、 その点を多少割引くにしても、大勢はもはや動かない。すなわち、 一連の仏教儀礼を 通 し て 、 E 群は、仏教への帰依、 また仏教の興隆などをその儀礼を行う目的ないし基調としている。儀礼を一義 的にまつりごとに利用したとみるべき例は、 ほんの一部に過ぎない。 一 方 、 E 群 で は 、 さまざまな目的の下に儀礼 を 行 う が 、 そのいずれもが政治的な意味を強くもつ。儀礼をいわばまつりごとに利用するといった点が、 国群の用 例に共通した特徴である。 E 群と
E
群とが右のようにそれぞれ独自に行う儀礼の、 その違いは、前稿に検討を加えた儀礼のあり方と、もと より別ではない。たとえば阻群の儀礼の、規模、威儀ともにいちように盛大であるといったそのあり方は、政治的 にそれを利用することを主眼とし、 このため、多くの場合に臣下百官をそれに列席させたことにともなう必然的な 結果とみることができる。 一 方 、 E 群の儀礼は、相対的におおむね地味で、盛大な規模を強調した例がほとんどな い。そうした儀礼にあっては、もとより臣下は主役ではない。特定寺院で行う場合が多いというとともあるが、宮 中での儀礼にしても、臣下を当為者とはしていない。それは、言い換えれば、僧侶を中心に儀礼を行ったというこ と つまり儀礼の本来のあり方を貫いていたということにほかならない。儀礼を政治的に利用するといった乙とさ らな意図がなければ、 そうした本来のあり方がおのずからあらわれるはずであったろう。 E 群では、儀礼を本来の あり方にそくして行っていたために、結果として、 E 群とは対照的に地味なあらわれを呈するに至ったというのが、 恐らく実情ではないか。玉 、
食封や布施等について 右 の よ う に 、 H 群と直群との双方ともに、仏教儀礼を行う目的は、 その儀礼のあり方と別ちがたい関係にある。 いわば、仏教儀礼をめぐって、 その目的とあり方とは相即の関係にあるといっても過言ではない。 E 群 とE
群 と が 、 日 本 書 紀 の 成 り た ち を 考 え る 二 五悌教大早大皐院研究紀要第十四競 ニ ム ハ そうしてそれぞれ独自に仏教儀礼を成り立たせている以上、 ここに一つの推測が可能であろう。すなわち、双方の 群のその独自な特徴は、仏教儀礼に限らないのではないか。 そうした推測をもとに、補足的に、 いま一度各群それぞれの特徴について検討を加える。取りあげる用例は、同 じ仏教関係の記述のうちの、 ことには寺や僧侶に対して行う封戸および布施、 さらに賜与などである。天皇あるい は国家の仏教に対する対応を見きわめる上にも、恰格の例である。ただ、各群ともに用例が特定の巻に偏在する傾 向がある。その点にやや難があるけれども、もはやそれをことさら配慮するには及、ばないであろう。 まず注目すべきは、封戸の有無である。
E
群にはそれがあって、E
群 に は な い 。E
群にその例が皆無であるとい う の は 、 いささか蹄におちない。天武天皇八年二月条に、 詔 日 、 商 下 量 諸 有 ニ 食 封 一 寺 所 長 由 而 、 可 ν加 々 之 、 可 ν除 々 之 。 ハ 二 九 ・ 削 ﹀ 右のように食封をもっ寺の、 その所由をはかった上で、加除いずれかの措置を構ずべき旨の詔がある。なおまた天 武天皇九年四月条には、 勅 、 ︵ 凡 諸 寺 者 、 白 v今以後、除下矯ニ園大寺二二ニム以外、宮司莫 v治 。 ︶ 唯 其 有 二 食 封 一 者 、 先 後 限 一 一 品 川 年 一 。 若 教 v年 満 v品 川 則 除 之 。 ︵ 同 −m
﹀ 三十年を過ぎた食封の除去を命じた勅を伝える。その勅のうちに﹁若数 v年 満 レ 品 川 則 除 之 ﹂ と い う 文 言 は 、 それに先 立つ括弧で括った官営寺院を制限した部分と対応し、天武九年当時、すでに勅の対象となった食封を所有する寺があ った乙とをうかがわせる。大化以降には、 たとえば孝徳天皇即位前紀に伝える、中臣鎌子連に対する﹁以二大錦冠一、 授 ニ 中 臣 鎌 子 連 一 、 矯 一 一 内 匡 一 。 増 v封 若 干 戸 。 ﹂ ︵ 二 五 −m
﹀をはじめとして食封を給付した例が確かにある。それにも かかわらず、天智紀以前の皿群に所属するいずれの巻にも、該当する例を伝えていない。そうして持統紀を含め、国群には、寺や僧などに対して食封を給付したという例が一切ない。右掲の詔・勅の、食封に言及したその内容に かんがみて、結局、田群ではそれを取りあげなかったとみなすほかない。 一 方 、 E 群であるが、右の詔や勅が示唆するとおり、げんに食封を給付したという実例がいくつかある。それに は、僧個人に対する給付と寺に対する給付とのこ通りある。僧個人への給付は、 o 百 済 借 常 輝 、 封 二 品 川 戸 一 。 是 借 害 時 百 歳 。 ︵ 二 九 −
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︶ o 法忍倍、義照借、矯 v 養 v 老 、 各 封 二 品 川 戸 一 。 ︵ 同 ・ 別 ﹀ 右の二例、いずれも老僧がその受け手である。寺に給付した例は次の三例である。 o 勅 之 、 大 官 大 寺 、 封 一 一 七 百 戸 一 、 乃 納 ニ 税 品 川 寓 束 一 。 ︵ 二 九 −m
︶ o 槍 隈 寺 ・ 軽 寺 ・ 大 窪 寺 、 各 封 二 百 戸 一 。 限 二 舟 年 一 。 ︵ 同 ・ 揃 ︶ o 巨 勢 寺 、 封 一 三 百 戸 一 。 ︵ 同 ・ 制 ︶ 件数は少ないとはいえ、 こ う し た 用 例 、 とりわけ第二例などは、 さきの詔や勅と照応し、 それが空文ではなかった ことを裏づける。とくに寺に対して給付した食封は、寺の維持・経営に大きな援け、あるいはささえとなったはず で 、 そ の 点 で は 、 それらの一つ一つの例は、仏教の興隆に寄せる天武天皇の強い意欲のあらわれであったとみるこ と が で き る 。 また一方、食封ではないが、 それに相当する経済的な援助を推古朝でも行ったという次の記述がある。 o 勅ニ鞍作烏−日︵鳥の祖父・父・撲の功績をたたえ、鳥自身の造仏およびその安置にかかる一連の所為を﹁此皆 汝之功也﹂と称えた上で︶、師賜二大仁位一、因以給ニ近江園坂田郡水田廿町一駕。︵二二・川︶。
︵天皇の要請によって勝重経を講じたという記述のあと︶是歳、皇太子、亦講ニ法華経於岡本宮一。天皇大喜之、 日 本 書 紀 の 成 り た ち を 考 え る 二 七悌教大事大皐院研究紀要第十四競 二 八 この水田の施与にともなう、 播 磨 園 水 田 百 町 施 二 子 皇 太 子 一 。 ︵ 同 ・ 凶 ︶ それぞれの後日談を付記する。すなわち、烏は、 その水田をもって金剛寺を作り、 ま た 皇 太 子 は 、 その水田を斑鳩寺に納めたという。乙とに後者の場合、水田から収穫された稲をもって寺の維持、経 営にあてたであろう。間接的ながら、 それは、天武天皇が勅をもって大宮大寺に食封を給付し、 乙れにともない稲 を 納 め た と い う 例 ︵ ﹁ 封 二 七 百 戸 一 、 乃 納 二 校 ︵ 稲 ︶ 品 川 寓 束 一 。 ﹂ 二 九 −
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︶にも通じる。 いわば現実的な性格の強い援助とみなしうる。これらのほか、E
群 の とりわけ巻二九には、布施およびそれに類する例が散見する。いずれも、食封などと同じように援助の意味あいが かくて食封や水田などの給付は、 一 連 の 、 強 い 。 o 貧 乏 僧 尼 、 施 ニ 結 綿 布 一 。 ︵ 二 九 ・ 削 ︶ o 岨 一 一 京 内 諸 寺 貧 乏 僧 尼 及 百 姓 一 市 賑 給 之 。 屯 ・ 布 四 端 。 ︵ 同 −m
︶ 一二毎僧尼一、各施四匹・綿四屯・布六端。沙調及白衣、各組二匹・綿二 これは貧乏の救済を目的とするが、 ま か に 、 o 幸 一 一 千 川 原 寺 一 、 施 ニ 稲 於 衆 借 一 。 ︵ 同 −m
﹀ o 結 綿 布 以 施 ニ 大 官 大 寺 僧 等 一 。 ︵ 同 −m
︶ 右の例のように、布施を行う動機あるいは理由についての記述を欠くもの、 ま た あ る い は 、 それについて明記のあ る、つまりは儀礼奉仕にともなう布施といった次のような例がある。 0 矯二天皇韓不珠一之、三日諦一一経於大宮大寺・川原寺・飛鳥寺一。因以 ν稲 納 二 三 寺 一 、 各 有 v 差 。 ︵ 同 −m
︶ o 請ニ三綱律師及大官大寺知事・佐官井九借一、以ニ俗供養一々之。の施ニ結綿布一、各有レ差。︵同−m
︶こうした布施にしても、 こ ろ の 、 たんなる報賞であったとはとうてい考え難い。儀礼を行うというそのこと自体が基づくと いわば仏教への帰依の念とそれに対する期待なくしてはありえなかったはずである。そのことは、 たとえ ば次の勅に著しい。 遣ニ伊勢王及宮人等於飛鳥寺一、勅一一衆借一目、﹁近者、股身不 v 和。願、頼二三貫之威一以身龍欲 v得 二 安 和 一 。 是 以 、 僧 正 借 都 及 衆 借 、 臆 一 一 哲 一 一 願 一 。 ﹂ 則 奉 ニ 珍 賓 於 三 貫 一 。 是目、三綱律師及四寺和上・知事弁現有一一師位一借等、施一一御 衣 御 被 各 一 具 一 。 ︵ 同 ・ 制 ﹀ 衆僧への勅のなかに、天皇が仏教の威力にすがろうとするあきらかな意志をみる乙とができる。珍宝を三宝に奉る こ と も 、 また日を同じくして上位の僧に布施を行うことも、 その意志のあらわれにほかならない。その仏教への強 ︵十四年五月条、二九−