• 検索結果がありません。

駒澤大學佛教學部研究紀要 68 - 001石井 修道「徹通義介の「身心脱落の話」について」

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "駒澤大學佛教學部研究紀要 68 - 001石井 修道「徹通義介の「身心脱落の話」について」"

Copied!
44
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

徹通義介の﹁身心脱落の話﹂について

石 

井 

修 

一 

はじめに

︱ 

﹁身心脱落﹂の話を問題にする理由

  道元伝の「大悟」 を 記 述 す るもの と し て 、 伝記資料 と し て 最 古に属 す る 『越州吉祥山永平開闢道元和尚大禅師行状記』 ( 『永平寺三祖行業記』所収の『初祖道元禅師』は異本。以下『行状記』 と 略 称 す る)がある。その内容は次のように周 知のもの で ある。 将に両歳に及ばん と す る に 、天童五更に坐禅 す。堂に入り て 巡 堂し 、衲子の坐睡 す る を 責 め て 曰く 、 「参禅は必ず 身心脱落なり 。祗管に打睡し て 什 麽 をか 作 なさ ん」 。師聞い て 豁 然 と し て 大悟 す。早晨に方丈に上り 、焼香礼拝 す。天 童問う て 云く 、 「焼香の事作 麽 生」 。師云く 、 「身心脱落し来る」 。天童云く 、 「身心脱落 、脱落身心」 。師云く 、 「 這 箇は是 れ 暫時の伎倆なり。和尚、乱りに某甲 を 印 す る こと 莫 れ 」 。童云く、 「吾 れ 乱りに儞 を 印 せず」 。 師云く、 「如 何なるか是 れ 乱りに印せざる底」 。童云く 、 「脱落脱落」 。時に福州の広平侍者侍立し て 曰 く 、 「細事にあらざるな り。外国の人の恁 麽 地の大事 を 得たり」 。師珍重し て 去る。童曰く、 「幾回か這裡に拳頭 を 喫 す 、脱落雍容 と し て 霹 靂に還 す 」 。遂 かく て 洞上の宗旨 を 以 て 付嘱し、曩祖の仏戒 を 授く。遺嘱し て 曰く、 「汝早く本国に帰り、祖道 を 弘 通 す べし」 。 時に師問う て 云く、 「師已に洞山の嫡孫 と 為る。何ぞ嗣法 を 露 わ さざる」 。童曰く、 「雲衆、嗣法香 を 請 すと 雖も、且く涅槃堂裡に在り て 焉 これ を焼 た かん。汝は覆蔵 す べからず。本国に て 山谷に隠居し、聖胎 を 長 養せよ」 。 将及両歳、天童五更坐禅。入堂巡堂、責衲子座 坐 睡曰、参禅者必身心脱落也。祗管打睡作什 麽 。師聞豁然大悟。早晨 上方丈、焼香礼拝。天童問云、焼香事作 麽 生。師云、身心脱落来。天童云、身心脱落、脱落身心。師云、這箇是暫 時伎倆。和尚莫乱印某甲。童云、 吾不乱印儞。師云、 如何是不乱印底。童云、 脱落身 脱 落 心。于時福州広平侍者侍立曰、 駒澤大學佛敎學部 硏 究紀 第六十八號   平 成二十二年三月

(2)

徹通義介の「身心脱落の話」につい て (石井) 二 非細事也。外国人得恁 麽 地大事矣。師珍重去。童曰、幾回這裡喫拳頭、脱落甕 雍 容還霹靂。遂以洞上宗旨付嘱、授曩 祖仏戒。遺嘱曰、汝早帰本国、弘通祖道。于時師問云、師已為洞山嫡孫。何不露嗣法。童曰、雲衆雖請嗣法香、且 在涅槃堂裡焼焉 。汝不可覆蔵 。本国而隠居山谷 、長養聖胎 。 ( 『 曹全   史伝上』一三頁 。以下同書 。 『行業記』 を 参 照し一部語句 を 補 正 す 。以下同)   こ の話に対し て、杉尾玄有氏は 「叱咜時脱落」 と 命名さ れ、 「伝記作者の誤解ないし虚構」 と 主張さ れ た )1 ( 。鏡島元隆 氏も同様の話 を 伝 える 『如浄続語録』所収の道元の 「跋」 を 偽 撰 と さ れ た )2 ( 。筆者も 「道元禅の核心 を 誤 らせるものだ」 と し て 、論文発表後に再録し て 「叱咤時脱落の虚構―身心脱落の誤解」 ( 『道元禅の成立史的研究』所収、一九九一年八 月) を 公刊した )3 ( 。   ところ で 、 『行状記』の作者につい て は 、その著の中 で 「門人集記」 と あり、 「その撰者 を 瑩山紹瑾 とす る東隆真氏の 説があり 、最近 、伊藤秀憲氏は 、新たに義介撰述説の可能性 を 主張し て いる」 と 紹介しながらも 、 「撰者 を 誰 に す るか につい て は 、筆者は結論 を 得 て いない」 と し 、瑩山紹瑾の伝承 を 確認し て おいた 。 こ こ に改め て、伊藤秀憲氏の 「 『 三 大尊行状記』の成立」 ( 『道元禅研究』所収、一九九八年一二月) を 読 み直し )4 ( 、今論文 で 取り上げる『御遺言記録』 を 含 め て 、新たな資料 を 持 ち 合 わ せ て いないの で 、 ここで は 道元伝は義介撰述説、懐奘伝・義介伝は瑩山紹瑾撰述説 とす る 伊藤秀憲氏の説 を 踏襲したい と 考 え て いる(懐奘の表記は文献によっ て は 懐弉もあるが、 こ こで は懐奘に統一 す る ) 。   「叱咤時脱落」説の最古の出現が 『行状記』 で あ り 、その撰者が義介 で ある とす る と 、 これらを 巡 っ て 新たな問題が 生じ て くるの で は ないか。その問題 を 提示し て 、懐奘伝 や 義 介伝 を 検討し、更に『御遺言記録』 を 検 討した結果 を ここ にま と め たもの で ある。   その時に常につ き ま と っ て くるのが、懐奘・義介が日本達磨宗に出身 で あ る こ とで ある。その系譜 を 天 童如浄の法系 と 併 記 す れば、次のようになろう。 (イ)   曹洞宗 一一六二―一一二七 一二〇〇―一二五三 一一九八―一二八〇 一二一九―一三〇九 一二六四―一三二五 天童如浄 永平道元 孤雲懐奘 徹通義介 瑩山紹瑾

(3)

徹通義介の「身心脱落の話」につい て (石井) 三 (ロ)   臨済宗大慧派(日本達磨宗) 一〇八九―一一六三 一一二一―一二〇三 摂津三宝寺 大和多武峰   近年、いくつかの道元研究 を 発表し続け て いるが、道元の対機に日本達磨宗出身者がい て 、 極言 すれば、道元のかか え て いた最大の悩み とは 、 「日本達磨宗の残滓 を 完全に解消し 、いかに正法に導くか」 で は なかったか 、 と さえ思 わ れ て くるの で ある。

二﹁永平二代懐奘和尚行状記﹂

  『行状記』の義介伝 を 検討 す るに当たっ て 、その師の『行状記』の懐奘伝 を 九段に分け て 紹介し て お こ う 。   ①   禅師 、姓は藤氏 。 諱は懐奘 。洛陽の人なり 。九條相国為 伊 通の曾孫にし て 、鳥 とりかい 養中納言為 伊 実の孫なり 。 建久九稔 戊午 (一一九八)に生下 す 。延暦寺の横 よ か わ 川の円能法印 を 礼 し て 剃髪 す 。 同じく本寺の戒壇院に於い て 、 建保六年戊寅 (一二一八) 、菩薩戒 を 受 け て 比丘 と為る。山家の止観 を学び、文字解 学を 捨つ。倶舎・成実・三論・法相は、皆な有為 と 知る。尚お浄土一門に入る。其の奧源 を 極 むと 雖も、又た出世の舟航にあらずと 知り、多 と う の み ね 武峰の達磨宗の覚晏上人に 参じ 、見性成仏の旨 を 聞 く 。 『首楞 厳 』の頻伽瓶喩に至り 、空の去来無 きを 知り 、識の生滅無 きを 明 き らむ )5 ( 。晏即 ち 印 記し て 曰 く 、 「汝 、無始曠劫の無明 、即 ち 解脱し了 れ り 」 と 。晏公の会裏の 学 徒の半百中 、独り抜群にし て 、人に仰讃 せら る。   禅師姓藤氏。諱懐奘。洛陽人也。九條相国為通曾孫、鳥 トリカヒ 養中納言為実孫也。建久九稔戊午生下。礼延暦寺横川円能法 印剃髪 。同於本寺戒壇院 、建保六年戊寅 、受菩薩戒 、為比丘 。 学 山家之止観 、捨文字解 学 、倶舎 ・成実 ・三論 ・法相 、 皆知有為、尚入浄土一門。雖極其奧源、又知非出世之舟航、参多 タ ウ 武峰達磨宗覚晏上人、聞見性成仏之旨。至首楞 厳 之頻 伽瓶喩、知無空之去来、明無識生滅。晏即印記曰、汝無始曠劫之無明即解脱了也。晏公会裏 学 徒半百中、独抜群、人所 大慧宗杲 仏照徳光 大日房能忍 覚晏 懐奘 越前波著寺 懐鑑 (覚禅) 義介 (義鑑) 紹瑾

(4)

徹通義介の「身心脱落の話」につい て (石井) 四 仰讃矣。   ②   師、 元公の伝法し て 帰朝し て 建 仁寺に寓止 す る と 聞 き 、 往 きて 論談法戦し、 長処有る を 知り、 心 を 帰し て 信 伏 す 。 遂 て 元公の住菴 す る を 聞 き 、 文暦元年甲午(一二三四)の冬、 深 草に参じ て 衣 を 改う。次年(一二三五)の八月十五日、 仏祖正伝戒法 を 伝 授せらる。達磨の二祖に授くるの儀なり。有る時、元公、一毫、衆穴 を 穿 うが つの因縁 )6 ( を挙示 す 。師、言 下に大悟し て 礼 拝 す 。元問う、 「礼拝の事作 麽 生」 。師曰く、 「一毫 を 問 わ ず 、 如 何なるか是 れ 衆穴」 。元微笑し て 曰く、 「穿 ち 了 れ り 」 。 師即 ち 礼拝し て 退く。元公大いに悦び て 真の法嗣 と為す 。   師聞元公伝法帰朝而寓止建仁寺、 往而論談法戦、 知有長処、 帰心信伏。遂聞元公住菴、 文暦元年甲午冬、 参 深 草改衣。 次年八月十五日、伝授仏祖正伝戒法。達磨授二祖儀也。有時元公挙示一毫穿衆穴之因縁。師於言下大悟礼拝。元問、礼 拝事作 麽 生。師曰、不問一毫、如何是衆穴。元微笑曰、穿了也。師即礼拝退。元公大悦而為真法嗣。   ③   典座 と為る時、 元公、 鼓 を 唱 ち 衆に報 つ げしめ て 陞堂し、 立僧し て 入 室せし む 。元公即 ち 入 室 す 。師下座し て 低頭し、 叉手し て 問 う て 云く、 「二祖三拝し て 位に依り て 立つ。 未審、 什 麽 の法 を 伝 うや 」 。 元曰く、 「老僧の答話、 且く露柱に寄 す 」 。 爾 そ れ より一衆皆な師 と為す 。元和尚の会裡、諸の頭首に秉払 を 許 さず。師、第一座初任は、結夏十四日なり。即 ち 秉 払 説法せし む )7 ( 。義信首座は才有り言有り、一会に肩 を 斉 うす るもの無し。秉払 を 望 むと 雖も、元師許さず。師職に充つる 時、衆の為に説法 す るのみ。僧海・詮恵等の 深 草の諸衆、尽く師 を 以 て 教授闍梨 と 為す 。一会の上足なり。 〈引用者注。 頭首:宋代は六頭首、首座・書記・蔵主・知客・浴主・庫頭〉   為典座時、 元公唱鼓報衆陞堂、 令立僧入室。元公即入室。師下座低頭、 叉手問云、 二祖三拝依位而立。未審伝什 麽 法。 元曰、老僧答話、且寄露柱。自爾一衆皆為師。元和尚会裡、諸頭首不許秉払。師第一座初任、結夏十四日也。即令秉払 説法。義信首座有才有言、一会無斉肩。雖望秉払、元師不許。師充職時、為衆説法耳。僧海・詮恵等 深 草諸衆、尽以師 為教授闍梨、一会上足也。   ④   師は 知 し か 客・典座及び頭首、多年の間に勤 むも、侍瓶侍巾 を 兼ぬ。是の如く二十年中、師命に依り て 、 病暇十箇月 の際、師の顔 を 看ざるのみ。先師在生の際、及び住後十五秋の内、生身 を 望 むが如く、真像に向かい て 晨 朝夜間に和南 珍重 す 。 師に事うる法は未だ曾 て 懈 怠せず。古今未だ聞かざるの行持なり。元和尚以 て 師 を 重 んじ、室中に在り て 其 の 礼は宛も師範の如くなる こと 、衆皆な知る所なり。

(5)

徹通義介の「身心脱落の話」につい て (石井) 五   師知客・典座及頭首、多年之間勤、兼侍瓶侍巾。如是二十年中、依師命、病暇十箇月際、不看師顔而耳。先師在生之 際、及住後十五秋内、如望生身、向真像晨朝夜間和南珍重。事師法未曾懈怠。古今未聞行持也。元和尚以重師、在室中 其礼宛如師範、衆皆所知。   ⑤   元和尚 、永平寺に移り 、衆の行法 を 始 む る の時 、必ず師 を 以 て 行 を 始めし む。師有る時問う て 曰 く 、 「和尚は什 麽 の為にか一切の事 を 行ずるに、必ず某甲 を 以 て 行 を 始めしめ、和尚自ら行ぜざる や 」 。元曰く、 「当山は仏法の勝地な り。法 を し て 久 住ならし む 。 是 れ 望 む 所なり。吾 れ 公より年少 と 雖 も、必ず短命なるべし。公は吾より年老 と 雖 も、必 ず長寿なるべし。我が仏法は必ず公に至り て 、来際に弘通し、流転 す る こと 窮まる こと 無し。即 ち 公の児孫のみ、山門 を 鎮めん 。故に公 を し て 行 事 を 始めし むなり」 。蓋し是 れ 法 を し て 久 住ならしめんが為なり 。師資勝強の有徳は 、永平 門下に只だ師独りのみ。   元和尚移永平寺、 始衆行法時、 必以師令始行。師有時問曰、 和尚為什 麽 行一切事、 必以某甲令始行、 和尚不自行乎。元曰、 当山者仏法勝地也。令法久住。是所望也。吾従公雖年少、必可短命。公従吾雖年老、必可長寿。我仏法必至公、弘通来 際、流転無窮、即公児孫耳、鎮山門。故令公始行事。蓋是為令法久住也。師資勝強之有徳、永平門下只師独而耳。   ⑥   建長五年癸丑 (一二五三)七月十四日 、即 ち 住持の位に著く 。夜間の小参 、早朝の上堂 、元和尚は病床 と 雖 も 、 輿に乗り来り て 聴聞し て 証 明 す 。然り と 雖 も師に事 え て 礼 を 捨 て ず。元公上洛の八月五日、随従し て 上る。元和尚の没 後、 遺骨 を 荷 担し、 本山に還帰 す 。 骨 を 以 て 如法に喪礼 す 。 遂 て 遺跡 を 継 ぎ、 一切異ならず。一衆帰伏し、 四衆群集 す 。 道価聞く こと 高く 、柔和衆 を 懐 う 。 身 を 納めるに節簡 、衆に臨 む に寛放たり 。人に於 て は 礼 深 く 、己に於 て は 儀正し 。 十五年の間、衆は半百 を 下らず、梵宮漸く調い、百色現成 す 。   建長五年癸丑七月十四日、即著住持位。夜間小参、早朝上堂、元和尚雖病床、乗輿来聴聞証明。雖然事師不捨礼。元 公上洛八月五日、随従而上。元和尚没後、荷担遺骨、還帰本山。以骨如法喪礼。遂継遺跡、一切不異。一衆帰伏、四衆 群集。道価聞高、 柔和懐衆。納身節簡、 臨衆寛放。於人礼 深 、 於己儀正。十五年間、 衆不下半百、 梵宮漸調、 百色現成。   ⑦   文永四年丁卯(一二六七)病有り、付法の弟子義介 を 立 てて 、住持の位 を 継 がしめん と 欲 おも う。大檀那波多野出雲 守次郎金吾、自ら来り て 介公 を 請 う。及び花山院宰相禅門釈円、状 を 下し て 介 公 を 請う て 、住持せし む 。 病気未だ平癒 せず、東堂位に居 すと 雖も、 学 徒群集し、受戒 す る者多し。付法の弟子は、義介・義尹・義準・仏僧・寂円なり、伝戒

(6)

徹通義介の「身心脱落の話」につい て (石井) 六 の弟子は、義演・義荐なり。皆な此の七人は、開山元和尚の小師にし て 、 学 徒、参 学を 紹続し、各おの伝法・伝戒の本 師 と 為る 。或は本寺に住持し 、或は諸方 を 接化し 、其の外の得法密証 す る もの 、悉く記 すこと 能 わ ず 。 〈引用者注:波 多野出雲守次郎金吾は、義重の孫、時光の子の重通の こと 。花山院宰相禅門釈円は、右大臣藤原定雅か。 〉   文永四年丁卯有病、立目 ( 衍 字 ) 所付法弟子義介、欲継住持位。大檀那波多野出雲守次郎金吾、自来請介公。及花山院宰相禅 門釈円下状請介公 、而令住持 。病気未平癒 、 雖居東堂位 、 学 徒 群集 、受戒者多 。付法弟子 、義介 ・ 義尹 ・義準 ・仏僧 ・ 寂円。伝戒弟子、義演・義荐。皆此七人、開山元和尚小師、 学 徒紹続参 学 、 各為伝法伝戒之本師。或住持本寺、或接化 諸方、其外得法密証、不能悉記。   ⑧   弘安三年庚辰(一二八〇)夏四月示疾し、六月中に必ず円寂有るべし。都鄙陰陽之 れを 勘 す 。大檀越は六波羅よ り、三十日請暇し て 国に下り、師顔 を 拝 す る ことを 奉る。師は衆徒 を 集め、檀那 を 顧 み て 語り て 曰く、 「予は生 々 世 々 、 乃至先師の成道度生の時節に至るま で 、一日も先師 を 離 れ ず、影の形に随うが如く給仕 す る こと 致 す 有り。是の故に死 期も又た願くは八月下旬 を 期 す べし。此の願は差 たが うべからず。今度檀那の三十日の暇の下向、芳恩謝し難し。急ぎ還り 上るべし。其の身は私無し、 国法恐るべし。慇懃に垂示 す 」 。檀那仰歎啼涙し て 即 ち 帰洛 す 。又た門人に示し て 曰く、 「吾 が没後、遺骨 を 以 て 先 師の塔の傍の侍者位に安 お き 、 別に塔 を 立つる こと 莫 れ 。今現存の居所も、又た先師の塔の傍に構 えよ。昔し六祖の塔主令韜は、住持 を 慕古し て 、退後に東堂に居 す と 雖 も塔主 と 号 す 。介公も又た退院 す るに、一寺に 両東堂あり て 、名字迷うべし 。 吾は塔主 と 号 す。蓋し令韜の跡も 、是の如くの遺誡ならん」 。果し て 八月二十四日沐浴 す る こと 常の如し。夜に入り て 示 し て 曰く、 「先師半夜に円寂せり。予も又た焉 これ を慕 う。 丑 うし の剋に至り て 往 くべし」 。師 日 々 夜 々 の記事、 其の日に至り て 曰く、 「今日予既に死せり云 々 。世の奇異 とす る所なり」 。 時至り鍾 を 鳴 らし衆 を 集 む 。 笔 ふで を 求 め て 偈 を 書し て 云 く 、 「八十三年 、夢幻の如し 、一生の罪犯 、弥天 を 覆う 。而今足下 、 無絲にし去り 、虚空 を 踏 飜し て 地泉に没 す 」 。筆 を 擲 っ て 大衆 を 顧 視し、 珍 重し て 逝 く。俗寿八十有三、 僧﨟六十有三なり。霊前祭礼一七日の間、 顔貌生けるが如し、胸間尚お暖かし。霊骨は遺命に任じ て 、焉 を 納 め塔無し。   弘安三年庚辰夏四月示疾、 六月中必可有円寂。 都鄙陰陽勘之。 大檀越自六波羅、 三十日請暇而下国、 奉拝師顔。 師 集衆徒、 顧檀那、 語曰、 予者生 々 世 々 乃至先師至成道度生時節、 一日不離先師。有致如影随形給仕。是故死期又願可期八月下旬。 此願不可差 。今度檀那三十日之暇下向 、芳恩難謝 。急可還上 。其身無私 。国法可恐 。慇懃垂示 。檀那仰歎啼涙即帰洛 。

(7)

徹通義介の「身心脱落の話」につい て (石井) 七 又示門人曰、 吾没後以遺骨、 安先師塔傍侍者位、 別莫立塔。今現存居所、 又構先師塔傍。昔六祖塔主令韜、 慕古之住持、 退後雖居東堂、号塔主。介公又退院、一寺両東堂、名字可迷。吾号塔主。蓋令韜跡、如是遺誡。果而八月二十四日沐浴 如常。入夜示曰、先師半夜円寂。予又慕焉。至丑剋可往。師日 々 夜 々 記 事、至其日曰、今日予既死云 々 。所世奇異。時 至鳴鍾集衆。求笔書偈云、八十三年如夢幻、一生罪犯覆弥天。而今足下無絲去、踏飜虚空没地泉。擲筆而顧視大衆、珍 重逝。俗寿八十有三、僧﨟六十有三。霊前祭礼一七日間、顔貌如生、胸間尚暖。霊骨任遺命、納焉無塔。   ⑨   介公は本寺の第三祖の位 を 継 ぎ、晩年に賀州大乗寺 を 開闢 す 。尹公は鎮西の聖福寺に住し、肥州の三日・大慈の 両寺 を 開 闢 す 。準公は永徳・歓喜の両寺に住 す と 雖 も、晩年に宗旨 を 軽蔑し、故に師の没後に龍天に治罰せらるる所 と 為り、最後に魔擾 を 蒙 む り て 死 す 。演公は本寺に住 す 。荐公は西願・衆林の両寺に住 す 。僧首座は、師の逝後の未だ三 回に満たざるに本寺に在り て 逝 く。円公は越州の妙法寺・宝慶寺の両所の開闢なり。師は美味山に住菴 す る と 雖 も、師 の没後に其の菴は焼却せり。師も又た末世の規矩 を為 つく る。越前の中浜に在り て 、 半夏、頭陀の化 を 行 ず。    永平二代懐奘和尚行状記   終   介公継本寺第三祖位、晩年開闢賀州大乗寺。尹公住鎮西聖福寺、開闢肥州三日 ・ 大慈両寺。準公雖住永徳 ・ 歓喜両寺、 晩年軽蔑宗旨。故師没後為龍天所治罰。最後蒙魔擾死。演公住本寺。荐公住西願・衆林両寺。僧首座、師逝後未満三回 在本寺逝。円公越州妙法寺・宝慶寺両所開闢。師雖美味山住菴、師没後其菴焼却。師又為末世規矩。在越前中浜、半夏 行頭陀化。    永平二代懐奘和尚行状記   終

三 

徹通義介伝

  義介の伝 をここ に 問題 とす る時、最近の研究 と し て 伊藤秀憲氏の「義介禅師伝における諸問題」 (東隆真編著『 〈大乗 寺開山徹通義介禅師七百回遠忌記念〉徹通義介禅師研究』所収、二〇〇六年一二月)が最も参考になろう。   伊藤秀憲氏も重視さ れ る 「 抄 しようさつしき 箚 式 」(瑩山紹瑾編 『徹通義介禅師喪記』 所収、 ) を 第一に伝記資料 と し て 掲 げ て お こ う。     新円寂当寺開山和尚〈諱は義介〉 右、本貫は越州稲津保の人事なり。姓は藤原。俗寿九十一、僧臘七十八なり。越州波著寺鑑和尚に就 て 、十三にし

(8)

徹通義介の「身心脱落の話」につい て (石井) 八 て 出 家 す 。貞永元年四月八日、十四にし て 比叡山に掛搭し て 受 戒 す 。仁治三年四月十二日、廿四にし て 洛 陽興聖寺 に掛搭 す 。 建長元年〈己酉〉 、 三十一にし て 臨 済派流 を 稟く。建長七年〈乙卯〉 、 三十七にし て 永平奘和尚に嗣法 す 。 後に正元元年〈己未〉 、四十一にし て 渡 海入宋 す 。在宋五 ママ 年にし て 、弘長二年〈壬戌〉 、四十五 ママ にし て 帰 朝 す 。文永 四年 〈丁卯〉 、 則 ち 永平三代の法席 を 主る。文永九年に退 を 告 げ て 、 正応五年に至る こと 廿一年、 永平寺の麓に隠居 す 。 永仁元年〈己亥〉 、 当寺の開山なり。永仁六年〈戊戌〉 、 退 を 告げ て 、 菴居 す る こと 十二年なり。今忽 ち 延 慶二年〈己 酉〉九月十四日〈亥の剋〉坐化 す 。般び て 跡に就く。   新円寂当寺開山和尚〈諱義介〉 右本貫越州稲津保人事。姓藤原。俗寿九十一、 僧臘七十八。就越州波著寺鑑和尚、 十三而出家。貞永元年四月八日、 十四而掛搭於比叡山受戒 。仁治三年四月十二日 、廿四而掛搭於洛陽興聖寺 。 建長元年 〈己酉〉 、三十一而稟臨済派 流。建長七年〈乙卯〉 、三十七而嗣法於永平奘和尚。後正元元年〈己未〉 、四十一而渡海入宋。在宋五 ママ 年、弘長二年 〈壬戌〉 、 四十五而帰朝。文永四年〈丁卯〉 、 則主永平三代法席。文永九年告退、 而至正応五年廿一年、 隠居永平寺麓。 永仁元年〈己亥〉 、 当寺開山。永仁六年〈戊戌〉 、告退、菴居十二年。今忽延慶二年〈己酉〉九月十四日〈亥剋〉坐 化。般就跡。 (以下略) ( 『 続曹洞宗全書』清規講式、六頁)   こ の資料 を 基本に同じく瑩山紹瑾の撰 と さ れ る「大乗開山義介和尚行状記」 を 十段に分け て 掲げ て お こ う 。   ①   禅師名は義介、藤氏に生まる。利 としひと 仁将 軍 の 遠孫 なり。越州丹 に う 生北足 あ す は 羽郷の人なり。承久元年己卯(一二一九)二 月二日に生まる。十三歳にし て 同国の波着寺懐鑑和尚 を 礼 す 。寛喜三年辛卯 (一二三一) の秋剃髪 す 。同四年 (一二三二) 十四歳に て 叡山に上り受戒し比丘 と為る。 学を 山上の四教の大綱に留め、器世間の相性 を 習 学す 。本寺の鑑公の勧めに 依り て 、浄土三部、首楞 厳 の見性の義を 聞 き 、鑑公に従う。 禅師名義介。生于藤氏。利 トシヒト 仁将 軍 遠 孫也。越州丹 ニ ウ 生北足 ア ス ハ 羽郷人也。承久元年己卯二月二日生。十三歳而礼同国波着寺 懐鑑和尚。寛喜三年辛卯秋剃髪。同四年十四歳而上叡山受戒、為比丘。留 学 山上四教大綱、器世間相性習 学 之 。依本寺 鑑公勧、浄土三部、首楞 厳 見性義聞之、従鑑公。   ②   仁治二 ママ 年辛丑(一二四一)の春、 深 草に参じ て 衣 を 改 む 。時に二十三歳なり。元師有る時、 衆 に示し て 云く、 「古 人云く 、 『是の法は法位に住し て 、世間の相は常に住せり 。春色百花紅にし て 、 鷓鴣柳上に鳴く』 と 」 。 師聞 きて 省有

(9)

徹通義介の「身心脱落の話」につい て (石井) 九 り )8 ( 。 爾 れ より法の為に身 を 捨つるの志あり、 日 を 逐う て 増 進 す 。 僧 海首座の悟道省偈 を 聞 きて 、 讃歎し弥 いよ いよ志 を 励 ま す 。   仁治二年辛丑春 、 参 深 草改衣 。于時二十三歳也 。元師有時示衆云 、古人云 、是法住法位 、世間相常住 。春色百花紅 、 鷓鴣柳上鳴。師聞有省。自爾為法捨身之志、逐日増進。聞僧海首座悟道省偈、讃歎弥励志。   ③   元和尚に従っ て 越 州に下る。且く吉祥古精舎に止宿し冬安居 す 。師、典座 と 為り、歓喜し て 給 仕 を 奉ず。寛元 々 年(一二四三)の冬、殊に雪 深 し。八町の曲坂 を 料 桶 を 担い、二時の粥飯 を 供 す 。次年(一二四四)の秋、永平寺 を 草 創 す 。人力一人なり。師、典座 と 為り、百事照管 す 。宝治元年(一二四七) 、監寺に充 て られ 勤労し、昼夜に作務し て 、 夜に参 学 す 。衆務 を 闕かさずと 雖も、打坐工夫 す る こと 已に群ならず。元和尚は真の道人 と 知る。   従元和尚、下越州。且止宿吉祥古精舎冬安居。師為典座、歓喜奉給仕。寛元 々 年冬、殊雪 深 。八町曲坂担料桶、供二 時粥飯。次年秋草創永平寺。人力一人。師為典座、 百 事照管。宝治元年、 充監寺勤労、 昼夜作務、 夜参 学 。 雖不闕衆務、 打坐工夫已不群。元和尚知真道人。   ④   建長三 ママ 年辛亥(一二五一)の春、鑑公、覚晏上人の得る所の仏照禅師下の嗣書 を 以 て 付授し、菩提勝浄明心の人 より旨 を 得るにあらざる こ とを 知り 、並びに元和尚の伝うる所の菩薩戒儀式 を 授 け 、 即 ち 嘱し て 云 く 、 「吾 れ 聞 く 、 元 和尚の会裡に洞下の嗣書有る ことを 。年来、拝看の志有り。先年、此の旨 を 和 尚に報じ、聴許せらる と 雖も、閑人多 き に依り て 、且く時節 を 待つに、一生已に空し。汝若し道熟さば、必ず須く継承 すべし。拝看の時、最初の功徳、吾が為 に回向 すべし」 。師、遺嘱 を 聞 き て 、 蓄念是 れ 深 し。有る時、元和尚、師に問う て 云く、 「鑑公の遺物、悉く相い伝うる 也 や 否」 。答え て 曰く、 「 悉く伝え て 之 れを 領 す 。仏照禅師の嗣書、並びに洞下の伝戒作法、尽く之 れを 相い伝う。但だ遺 嘱に曰く 、 『 和尚の会裡の嗣書は 、請拝の志は已に空し 。生涯の恨 む る 所なり 。汝若し拝看せば 、最初の功徳 、之 れを 回向 すべし』 と 、云云」 。元和尚感歎し て 曰く、 「先年、此の望み有り、閑人の繁に依り て 拝 看せしめず。予も又た之 れ を 悔 む のみ。汝、師命 を 受 け て 、以後に必ず拝看し伝授 すべし。鑑公は人 を 見る眼有り、人 を 知る智 を 具 す 。 汝は彼の 長嫡為り。吾が法は必ず汝に証通せん。以後に必ず門徒の先達 と 為り、吾が山 を 護 り て 他に遊ぶ こと 勿 れ 。況ん や 今 度 の上洛の間、留守は一大事なるにおい て をや 。吾が山 を 思 う て 護惜 すべし。縦 たと い予が逝去 す るも、寺門 を 守り て 廃 壊せ し む る こ と 勿 れ 。 故鑑公は当国の名人、汝も又た長嫡なり、人多く知 れ り。当山 を 擁 護し て 、須く興隆 を 致 す べし。山 中の何 れ の処の菴に居 す る も妨げ無し 。若し存命に て 万 一に帰山 すれば 、 必ず須く紹嗣 すべし 。 但だ汝は老婆心無し 。

(10)

徹通義介の「身心脱落の話」につい て (石井) 一〇 是 れ 又た自然に調うべし。汝、遺忘 す る こと 勿 れ 」 。是の如く慇懃に遺命せり。奘公同じく之 れ を 聴 けり。   建長三年辛亥春、鑑公以覚晏上人所得之仏照禅師下嗣書付授。知菩提勝浄明心、不従人得旨、並授元和尚所伝菩薩戒 儀式、即嘱云、吾聞元和尚会裡有洞下嗣書、年来有拝看志。先年報此旨於和尚、雖聴許、依閑人多、且待時節、一生已 空。汝若道熟、 必須継承。拝看時、 最初功徳為吾可回向。師聞遺嘱、 蓄念是 深 。有時元和尚問師云、 鑑公遺物悉相伝也否。 答曰、悉伝領之。仏照禅師嗣書、並洞下伝戒作法、尽相伝之。但遺嘱曰、和尚会裡嗣書、請拝志已空。生涯所恨也。汝 若拝看、最初功徳、可回向之云云。元和尚感歎曰、先年有此望、閑人依繁不令拝看。予又悔之耳。汝受師命、以後必可 拝看伝授。鑑公有見人之眼、具知人之智。汝為彼長嫡。吾法必汝証通。以後必為門徒先達、護吾山而勿他遊。況今度上 洛之間、留守一大事也。思吾山而可護惜。縦予逝去、守寺門而勿令廃壊。故鑑公当国名人、汝又長嫡、人多知。擁護当 山、須致興隆。山中何処之菴居無妨。若存命而万一之帰山者、必須紹嗣。但汝無老婆心。是又自然可調。汝勿遺忘。如 是慇懃遺命。奘公同聴之。   ⑤   元和尚の没後 、奘公之 れを 重んじ 、衆に首ならし む 。有る時 、 師 、奘和尚に問う て 云 く 、 「師兄 、 先師尋常垂示 す る諸法実相の宗旨の外、異なる秘説有る也 や 否」 。奘曰く、 「先師示衆の外に、別に異法無し。見ずや 、先師有る時、示 し て 曰く 、 『 吾 れ 尋常垂示為人の外 、更に覆蔵の法無し 。仏祖の 冥 鑑 は其 れ 私 無 き 者なり』 と 」 。師復た曰く 、 「 先師の 得る所の身心脱落の話 を 会 せり」 。奘曰く、 「好 々 。 作 麽 生が会 す や 」 。師云く、 「赤鬚胡 と 将 も 謂えるに、 更に胡鬚赤有り」 。 奘曰く 、 「許多の身心の中に是の如 き 身有り 。先師の屋裏 、仏祖の室中に 、紹嗣の事有り 、住持の用心有り 。先師の門 人の中に 、只だ吾 れ 一人のみ之 れ を 伝 う 。今ま汝に之 れを 与授せん と 欲 す。先師尋 よのつね 常予に話し て 曰 く 、 『介弟 、道に耽 ける こと 抜群にし て 、 是 れ 真の法器なり。吾が法は必ず弘通 す べし』 と 。今ま先師の得る所に於い て 又た省有り。先師 の 冥 証は疑うべからず。宗家の大事は一物 を 遺 さず、即 ち 儞に付授し了 れ り。吾も也た仏種 を 断 ずるの罪 を 免かる。縦 い先聖の付嘱 を 受 ける とも、若し其の器 を 得 ざれば、仏種 を 断 ずるの罪は免か れ 難し。先聖皆な病 む 所にし て 、西天東 土は人 を 求 む るに急なり。吾 れ 今 ま汝 を 得たり、已に此の罪 を 免かる。感涙抑 おさ え難し。大事已に畢る。今日死 す る も恨 むべき に あらず。縦い存命 す る も什 麽 を か 度せん。汝は是 れ 長 嫡なり」 。   元和尚没後 、奘公重之 、令首於衆 。有時師問奘和尚云 、師兄先師尋常垂示諸法実相之宗旨外 、有異秘説也否 。奘曰 、 先師示衆之外、別無異法。不見、先師有時示曰、吾尋常垂示為人外、更無覆蔵底法。仏祖 冥 鑑其無私者也。師復曰、先

(11)

徹通義介の「身心脱落の話」につい て (石井) 一一 師会所得之身心脱落話。奘曰、 好 々 。作 麽 生会。師云、 将謂赤鬚胡、 更有胡鬚赤。奘曰、 許多身心中有如是身。先師屋裏、 仏祖室中、有紹嗣底事。有住持用心。先師門人中、只吾一人伝之。今欲与授汝之。先師尋常話予曰、介弟耽道抜群、是 真法器也。吾法必可弘通。今於先師所得又有省。先師 冥 証不可疑。宗家大事不遺一物、 即付授儞了。吾也免断仏種之罪。 継受先聖之付嘱、若不得其器、断仏種之罪難免。先聖皆所病、西天東土求人急。吾今得汝、已免此罪。感涙難抑。大事 已畢。今日死非可恨。縦存命度什 麽 。汝是長嫡也。   ⑥   有る時 、奘公嘱し て 云 く 、 「先師の宗旨の建立は公に憑る 。諸方の叢林 、宋朝の風俗 、就 なかんず 中く先師の伝道の天童 山の規矩及び大刹の叢林規矩、記録し来り て 当山の叢席 を 一 興 す べし。宛 も是 れ 先 師の報恩者なるがごと し。所以は何 いか ん。 元和尚先師は浄長老先師の勅命 を 受 け て 、 本国に帰朝し、 叢席 を 一 興せん と 欲 す 。 加 しかのみ 之 なら ず祖翁栄西僧正の素意なり。 然るにおい て 叢林の微細の清規、禅家諸師の語録、以下一切聖教、皆な先年の興聖寺焼失の時 を 以 て 、或は紛失し、或 は焼失し、 才かに本清規の之 れ 有 り と 雖も、 時 に随う風俗は、 折中の現規尤も大用なり )9 ( 。諸方 を 徧参し、 大国 を 歴観し て 、 以 て 永平寺の宗旨 を 建 立 す べし」 。 師 、 師命 を 受 け て 、洛陽の建仁 ・東福 、関東の寿福 ・ 建長 、遍歴処観 す 。正元 々 年 己未 (一二五九) 、航海し て 入 宋 す 。先ず入宋せん と 欲 す る時 、願 を 発 し て 如意輪 ・虚空蔵の二菩薩像 を 刻彫 す。願書 の誓文に曰く、 「吾 れ 先 師の唯だ願 を 果たさんが為にし て 、 永平の宗風 を 日本国裡に一興せん と 欲 す 。又た奘師の命有り。 身 を 波涛に任せ、命 を 師勅より軽んじ、菩薩力 を 会 わ せ 、叢席 を 興 行 す 。若し海中にし て 命 を 没 せんも、再来し て 願 を 果たさん とす 。誓約 を 記し奉んが為に 、白檀にし て 荘 おごそ かにせず 、帰朝し て 之 れを 荘かに す 。若し没 す る も再来し て 荘 厳せん と す 」 。難無く帰朝し、 本寺に山門 を 建 て 、 両廊 を 造り、 三尊を 安 置 す 。祖師の三尊、 土 ど ぢ 地の五躯、 悉く焉 を 作る。 四節の礼儀、初後の更点、粥罷諷経、掛搭儀式等の礼法、悉く師の調え行ぜし所なり ) 10 ( 。   有時奘公嘱云、先師宗旨建立憑公。諸方叢林、宋朝風俗、就中先師伝道、天童山規矩及大刹叢林規矩、記録来而可一 興当山叢席。宛是先師報恩者。所以者何。元和尚先師受浄長老先師勅命、帰朝本国、欲一興叢席。加之祖翁栄西僧正素 意也 。于然叢林微細清規 、禅家諸師語録 、以下一切聖教 、皆以先年興聖寺焼失時 、或紛失 、或焼失 、才本清規雖有之 、 随時風俗、折中現規尤大用也。徧参諸方、歴観大国、以可建立永平寺宗旨。師受師命、洛陽建仁・東福、関東寿福・建 長、遍歴処観。正元 々 年己未、航海入宋。先欲入宋時、発願刻彫如意輪・虚空蔵二菩薩像。願書誓文曰、吾為果先師唯 願、欲一興永平宗風於日本国裡。又奘師有命。任身於波涛、軽命於師勅、菩薩合力、興行叢席。若海中而没命、再来而

(12)

徹通義介の「身心脱落の話」につい て (石井) 一二 果願。為奉記誓約、白檀而不荘、帰朝而荘之。若没再来而荘 厳 。無難帰朝、於本寺建山門、造両廊、安置三尊。祖師三 尊、土地五躯、悉作焉。四節礼儀、初後更点、粥罷諷経、掛搭儀式等礼法、悉師所調行也。   ⑦   奘師病 と 称し て 法 席 を 継がし む 。奘師の命に随い、 檀那迎請 す 。文永四年丁卯(一二六七)の四月初八日入院 す 。 供衆起造し、 説法具足し、 鍾鼓分明にし て 、 香燈断たず、 叢席一興し、 諸縁具足 す 。緇白皆な言う、 永平中興 と 謂っつべし。   奘師称病令継法席。随奘師命、 檀那迎請。文永四年丁卯四月初八日入院。供衆起造、 説法具足、 鍾鼓分明、 香燈不断、 叢席一興、諸縁具足。緇白皆言、可謂永平中興。   ⑧   文永九年壬申(一二七二)二月退院。養母堂 を 建 て て 母 を養う。恰も睦州陳尊宿の如し。美濃州に人有り て 、 為 に寺 を 造り供養せん と し、懇に師 を 請う。已 むを 得ずし て 明旦将に往かん とす るに、其の夜夢 を 感 ず。師已に行かん と 欲し て 、山門 を 出 で ん とす る時、石堦 を 望 む に 葛藤有り。遙かに西北の塔頭より下り来たり、両茎の両脚 を 纏 う。之 れ を 引 くも截断 す る ことを 得 ず。夢覚 さ め て 先師未だ許さざる を 知り、去 ゆ く こ とを 得ず。庵居隠遁 す 。二十一年 を 送 り、奘 公円寂 す 。師 、喪主 と為り 、一切照管 す 。 奘師 、最後の八月十五日に 、師に嘱し て 曰 く 、 「公は余の長嫡なり 。先師は 開闢和尚なり。住持職 を 与 え、付与 す るに袈裟有り。滅後二十八年頂戴し、一日も身より離さず、一生已に護持 す 。今 ま公に付与 す、衣 と 法 と 同 とも に伝え 、来際に弘通し 、断絶せしめる こと 勿 れ 。乃至後事も又た照顧 す べし」 。 師 、 遺命 を 受く 。于 一十 七年に至り 、報恩慇重し 、緇白重ね て 帰伏 す 。雲水の間 、円公に参随 す るは鋒 を 争うが如し 。衆中稍 や や関 隔 し 、自然に党 を 成 し 、 師 を 追遂 す ) 11 ( 。檀那理 ただ し て 云く 、 「 師は開山の遺弟にし て、二代の法嗣なり 。即 ち 二 代 、 道 を 遺嘱 し、 誉め て 曰く、 『介公東堂老は吾が法嫡なり。又た当山におい て 大 功有り。況ん や 当 寺の前住なり。徳は山よりも重く、 道は天よりも高し 。 寔 まこと に是 れ 人 天の導師なり 。 又た乃 ち 当山の至尊なり 。縦い当住にあらずと 雖 も 、須く尊重恭敬 を 奉るべし』 と 。乃 ち 文永九年四月、結夏小参に之 れ を 示 す 。其の会の衆徒皆な之 れを 聞く。当住持は首座為り、豈に遺 忘 す べけん や 。若し此の長老の寺門 を 出づるは 、山門の衰微 、門徒の不幸なり 。須く山に還さし むべし」 。子息四郎金 吾重通、庄内の郎徒の入寺 を 送り奉る。常住の米穀以下一切分与供養す 、是 れ 当 寺の前住に依るなり。全く理に背くべ からず。師の道徳弥いよ顕 われ 、道価遠く聞ゆ。   文永九年壬申二月退院。建養母堂養母。恰如睦州陳尊宿。美濃州有人、為造寺供養、懇請師。不得已明旦将往、其夜 感夢。師已欲行、 出山門時、 望石堦有葛藤。遙自西北塔頭下来。両茎纏両脚。引之不得截断。夢覚知先師未許、 不得去。

(13)

徹通義介の「身心脱落の話」につい て (石井) 一三 庵居隠遁。送二十一年、奘公円寂。師為喪主、一切照管。奘師最後八月十五日、嘱師曰、公者余長嫡也。先師開闢和尚 也。与住持職、付与有袈裟。滅後二十八年頂戴、一日之不離身、一生已護持。今付与公、衣法同伝、来際弘通、勿令断 絶。乃至後事又可照顧。師受遺命。至 于 一十カ 七年、 報恩慇重、 緇白重帰伏。雲水間参随円公如争鋒。衆中稍関隔、 自然成党、 追遂師。檀那理云、師者開山遺弟、二代法嗣也。即二代遺嘱道、誉曰、介公東堂老者吾法嫡也。又於当山有大功。況当 寺前住也。徳重於山、道高於天。寔是人天導師。又乃当山至尊也。縦雖非当住、須奉尊重恭敬。乃文永九年四月、結夏 小参示之。其会衆徒皆聞之。当住持為首座、豈可遺忘乎。若此長老出寺門者、山門衰微、門徒不幸也。須令還山。子息 四郎金吾重通、 庄内郎徒奉送入寺。常住米穀以下一切分与供養、 是依当寺前住也。全不可背理矣。師道徳弥顕、 道価遠聞。   ⑨   賀州押野大乗寺本願澄海阿闍梨は、参見し心 を 廻し、真言院 を 改 め て 禅院 と為す 。大檀越藤原家 いえ 尚 ひさ と 、召請し て 大乗寺第一祖 と為す。即 ち 法堂 を 建 立 す 。大檀越諸来雲集 す。十方の施主拝請し て 開 堂説法せし む 。道価増ま す 高く 、 江湖より遠く来たり、四衆群来 す 。 得法得戒の者多し。付法弟子は紹瑾、宗円、懐 暉 な り。老衰し て 接化に堪えず、紹 瑾 を し て 住持 を 継 がし む 。隠居独菴 す る こと 十年 を 経たり。   賀州押野大乗寺本願澄海阿闍梨、 参見廻心、 改真言院為禅院。与大檀越藤原家尚、 召請為大乗寺第一祖。即建立法堂。 大檀越諸来雲集。十方施主拝請令開堂説法。道価増高、江湖遠来、四衆群来。得法得戒者多。付法弟子紹瑾、宗円、懐 暉 。老衰而不堪接化、使紹瑾継住持。隠居独菴経十年。   ⑩   延慶二年己酉(一三〇九)八月二十四日示疾 す 。九月二日、沙弥童行悉く剃髪受具せし む 。同十二日、諸門弟 を 集め 、委悉し て 発 心已来行脚し法の為に身 を 捨 て し事 を 説 く 。 学 者 を 教 誘 す るに 、遺誡し て 曰 く 、 「各おの宗風 を 地 に 墜 お と さ し む る こ と 勿 れ 」 。十四日に至り、筆 を 索 め て 両字 を 書 し、当住紹瑾に課し て 曰く、 「我が為に之 れを 書け。老病 逼切し て 自 ら書 す る を 得 ず」 。即 ち 曰 く 、 「七顛八倒 、九十一年 。蘆花雪 を 覆 い 、 午夜月円かなり」 。暫く在り て 逝 く 。 閲世九十有一、坐夏七十有八なり。塔 を 寺 の西北隅に建 て 、定光院 と 称 す 。    大乗開山行状記   終   延慶二年己酉八月二十四日示疾。九月二日、沙弥童行悉令剃髪受具。同十二日、集諸門弟、委悉説発心已来行脚為法 捨身事 。教誘 学 者 、遺誡曰 、 各勿令宗風墜地 。至十四日 、索筆書両字 、課当住紹瑾曰 、 為我書之 。老病逼切不得自書 。 即曰、七顛八倒、九十一年。蘆花覆雪、午夜月円。暫在而逝。閲世九十有一、坐夏七十有八。建塔於寺之西北隅。称定

(14)

徹通義介の「身心脱落の話」につい て (石井) 一四 光院。    大乗開山行状記   終   後の問題 とも関連 す る の で 、 「 于時元亨三年癸亥 (一三二三)九月十三日 、釈迦牟尼仏五十四世法孫洞谷紹瑾記」 と す る『洞谷伝燈院五老悟則並行業略記』の「永平懐奘章」の義介の「悟則」のみは確認し て お こ う 。 大乗介和尚、 参随し て 道化 を 助く。有る時、 師(懐奘)に問う て 曰く、 「師兄よ、 先師衆に示 す の外、 異説有り や 」 。 師曰く 、 「先師衆に示 す の 外 、別に異説無し 。見ずや、先師有る時 、衆に示し て 曰 く 、 吾 れ 平常為人の外に 、更に 覆蔵の法無し。仏祖の 冥 覧 は私無し、 と 」 。介曰く、 「近日、先師の脱落の話 を 会 す 」 。師曰く、 「好好、作麼生が会 すや 」 。介曰く、 「赤鬚胡 と 将 謂えるに、更に胡鬚赤有り」 。師曰く、 「許多の身中に、是の如くの身有り。先師常に 予に告げ て 曰く、介弟、道に耽る こと 抜群なり、是 れ 真の法器なり。吾が法は必ず弘通 す べし、 と 。今ま先師の得 所に於 て 、悟所有り。先師の 冥 証 は疑うべからず。宗家の大事、一事も遺さず付授し了る。吾 れ 已に仏種 を 断 ずる の罪 を 免 れ 畢る。公は是 れ 先 師の嫡孫なり。和漢に徧歴し て 見聞し、博約折中し て 、 先師の宗旨 を 建 立せよ」 。 大乗价 ママ 和尚、 参 随而助道化。有時問師曰、 師 兄先師示衆之外、 有異説也否。師曰、 先 師示衆之外、 別無異説。不見、 先師有時示衆曰、 吾平常為人之外、 更無覆蔵底法。仏祖 冥 覧無私。介曰、 近日会先師之脱落話。師曰、 好好、 作麼生会。 介曰、将謂赤鬚胡、更有胡鬚赤。師曰、許多身中、有如是身。先師常告子 予 曰、介弟、耽道抜群、是真法器。吾法必 可弘通。今於先師得所、 有悟所。先師 冥 証不可疑。宗家大事、 不遺一事付授了。吾已免断仏種罪畢。公是先師嫡孫。 徧歴和漢見聞、博約折中、建立先師宗旨。 ( 『常済大師全集』所収の『洞谷記』四一四頁)

四 

﹃御遺言記録﹄の第一段の問題

  ここで 使 用 す る 『 御遺言記録』は 、石川力山氏が担当した 『道元禅師全集   第七巻』 (春秋社 、一九九〇年二月)に 基づく こ ととす る。石川力山氏の「解題」によ れば、加賀大乗寺本 を 底 本 と し て 、その構成は三段に分けられ 、 第一段 は「建長五年四月二十七日の霊山院の庵室 で の道元 と義介 と の間 で 交 わ さ れ た質疑応答から、 脇 本の宿 で の別 れ ま で の 、 道元 と義介の会話 を 中 心 と した記録」 で あ り、第二段は「建長六年正月から同七年二月十四日の粥了に至る間に行 われ

(15)

徹通義介の「身心脱落の話」につい て (石井) 一五 た、 懐奘から義介への付法相承の儀礼 や 問答の記録が加えられ た もの で 、 ここ ま で が義介自身の記録 と 見 なさ れ る部分」 で あ り 、更に第三段は浄住寺無涯智洪の書 写 か ら構成さ れて いる 。第一 ・ 二段よりなる永平寺所蔵本 を 底本にした大久 保道舟編『道元禅師全集下巻』 (筑摩書房、一九七〇年五月) で は 、 『永平室中聞書』 と 命名さ れ 、他の諸本の命名の伝 承 を 含め て 三段の構成の重点 をどこ に置くかによっ て 命 名が異なる こ とが示さ れて いる。   第一段 で 特に問題 となる こ とは、 二つあり、 一つは義介の日本達磨宗の嗣書の問題 で あり、 一つは、 道元が義介に「老 婆心」が欠如し て い る こ とを 忠告した ことで ある。   第一の問題は 、既に石川力山氏が 「道元禅師滅後の永平寺教団― 『御遺言記録』の資料価値」 (祖山傘松会刊 『懐奘 禅師研究』所収 、一九八一年一〇月) で 指 摘 す るように 、義介撰 『示紹瑾長老』 (大乗寺所蔵)が 『 御遺言記録』 と 密 接に関係 す る ことで ある。     紹瑾長老に示 す 夫 れ 仏法は、必ず嗣法有り。嗣法は定ん で 嗣書 を 帯 ぶ。七仏相い嗣ぎ、四七二三、青原・南嶽の両流の門下、五家 七宗の諸師の宗匠、皆な嗣書 を 帯ぶ。先師永平元和尚、在宋の日、遍く諸師に参じ、五家の嗣書 を 拝 見 す 。此の事 委しく先師の所作の一巻の書に在り、嗣書 と 名 づく。然るに予、両師に之 れ に見え、両家の書 を 帯 ぶ。所謂る臨済 家 と 洞山家 となり。臨済 とは大恵の上足仏照禅師、仏在世の生主法寿の例 ) 12 ( を 引 き 、 面 を 見ずと 雖 も、遥かに日本能 忍上人に嗣 す 。 忍は覚晏に嗣し、晏は吾が師懐鑑に嗣し、鑑は予に嗣 す 。予、師命 を 稟 け て 重ね て 当家に嗣 す 。 其 の由は、 建長五年(一二五三)の夏、 鑑公の嗣書相伝の事、 先師御尋ねの時、 当家の嗣書の事、 委しく之 れを 示 す 。 其の時二代和尚同座し て 証 知 す 。①別紙に委し。又た同秋、最後上洛の剋、永平寺の留守 を 仰 せ付け、時に種種の 契約 を 蒙る。 ②別紙に具さに す 。 先師円寂の後、 予、 永平二代和尚に参ず、 即 ち 当家の書 を 嗣 ぐ。 建長乙卯 (一二五五) より嘉元丙午(一三〇六)に至るま で 、五十二年、之 れを 保持 す 。先年既に予、汝に嗣し畢 れ り 。宜しく善く保護 し、来際に弘通 すべし。抑も二代の相承は、師の嗣書 を 以 て 付 せられ し 事は、先蹤に引く所の口伝在り。相承し て 法 を 作し、付属 を 受 くは、先師の門人中、独り二代のみ。③別紙に見ゆ。然し て 或 る家、二代におい て 疑謗 を 致 す こと 有っ て 之 れを 聞かば、努力し て 之 れを 信ずべからず。仏祖伝来の古法、豈に謀計今案 を 構 うべけん や 。 聖眼照 覧し て 、 古今に私無し。相伝の事におい て 、 疑謗 を 致 す 者 は、 必ず罪業 を 招く。怖るべし、 怖 るべし。嘉元四年〈丙

(16)

徹通義介の「身心脱落の話」につい て (石井) 一六 午〉 (一三〇六)八月二十八日   前住大乗寺義鑑之 れを 示 す 。 (華押)     示紹瑾長老 夫仏法必有嗣法。嗣法者定帯嗣書。七仏相嗣、四七二三、青原・南嶽両流門下、五家七宗諸師宗匠、皆帯嗣書。先 師永平元和尚 、在宋日遍参諸師 、拝見五家嗣書 。此事委在先師所作之一巻書 、名嗣書 。然予両師見之 、帯両家書 。 所謂臨済家与洞山家也。臨済者大恵上足仏照禅師、引仏在世之生主法寿例、雖不見面、遥嗣日本能忍上人。忍嗣覚 晏、 晏嗣吾師懐鑑、 鑑嗣予。予稟師命、 重嗣当家。其由者建長五年夏、 鑑公嗣書相伝事、 先師御尋時、 当家嗣書事、 委示之。其時二代和尚同座証知。別紙委。又同秋、最後上洛之剋、仰付永平寺之留守、時蒙種種契約。具別紙。先 師円寂後、 予参永平二代和尚、 即嗣当家書。自建長乙卯至嘉元丙午、 五十二年保持之。先年既嗣予嗣汝畢。宜善保護、 弘通来際。抑二代相承、 以師嗣書被付事、 先蹤所引在口伝。相承作法、 受付属、 先師門人中、 独二代而已。見別紙。 然或家、於二代有致疑謗聞之、努力不可信之。仏祖伝来之古法、豈可構謀計今案乎。聖眼照覧、古今無私。於相伝 事、致疑謗者、必招罪業。可怖之、可怖之。嘉元四年〈丙午〉八月二十八日   前住大乗寺義鑑示之。 (華押) (大本 山総持寺刊『瑩山禅師御遺墨集解説』 、一九七四年四月)   こ の文書は義介の八十八歳の時 で あり、自著に「義鑑」の名がいまだに示さ れて いる ところに驚かさ れ る。そ れは同 時に義介によっ て 撰述さ れ た周知の 『嗣書の助証』 (重文、 玉名市広福寺所蔵) と 称 し て いる文書 と 関 わ っ て いるの で ある。 大宋の淳煕十六年、日本の文治五年(一一八九) 、育王仏照禅師徳光和尚、仏在世の生主法寿の例 を 引 い て 、遙か に(練)中・ (勝)弁の二使に付 す るに、臨済家の嗣書、祖師相伝の血脈、六祖普賢舎利等 を 以 て 、遠く摂州三宝 寺能忍和尚 、敕諡 深 法 禅師に授け て 、釈尊五十一世の祖 と為す 。此の印信 ・心印の文有るに依り て 、速かに官裁 を 請 う 。 師命即 ち 里居に在り て 之 れを 開く 。八宗の講者為り と 雖も 、進ん で 以 て 達磨正宗の初祖 と為す の宣下 を 蒙 む る 。 爾 れ より日本国裏に初め て 達 磨宗 と 仰 ぐ 。其の法は東山覚晏上人に授け 、 晏は越州波着寺の覚禅和尚に 附し 、禅は義介に附 す 。此の書并びに六祖普賢の舍利 〈一粒 ) 13 ( 〉 、 同じく紹瑾長老に寄せ 、 以 て 当家洞下嗣書の助 証 と 為すべし 。能忍和尚の信牒 、仏照禅師の返牒は 、練中 ・勝弁の 『在唐記』に委しく之 れ 在 り 。嘉元四年丙午 (一三〇六)仲冬 三日、加州大乗 寺開闢義 介之れを 授く (華押) 大宋淳煕十六年 、日本文治五年 、育王仏照禅師徳光和尚 、引仏在世生主法寿例 、遙付中 ・弁二使 、以臨済家嗣書 、

(17)

徹通義介の「身心脱落の話」につい て (石井) 一七 祖師相伝血脈、六祖普賢舎利等、遠授摂州三宝寺能忍和尚、敕諡 深 法 禅師、為釈尊五十一世祖。此印信・心印文依 有、速請官裁。師命即在里居開之。雖為八宗講者、進以為達磨正宗初祖蒙宣下。自爾日本国裏初仰達磨宗。其法授 東山覚晏上人 、晏附越州波着寺覚禅和尚 、禅附義介 。此書并六祖普賢の舍利 〈一粒〉 、同寄紹瑾長老 、以可為当家 洞下嗣書之助証。能忍和尚信牒、仏照禅師返牒、練中・勝弁在唐記委在之。嘉元四年丙午仲冬三日、加州大乗寺開 闢義介授之(華押) (同『瑩山禅師御遺墨集』 )   さ て 、 「示紹瑾長老」の文中の①②③の「別紙」 とは、 『 御遺言記録』 と 密 接に関連し て いる。①に相当 す る部分の関 連の文は次のようにある。 ①   (建長五年(一二五三)四月二十七日)又た(道元)御尋ねに云く、 「林際下の仏照禅師の嗣書、故鑑師、之 れ を 伝 授せる や 。又た你之 れを 見し や 」 。義介白 す 、「此に相伝せるは嗣書 と 名づけず、 祖 師相伝の血脈 と い う、 云云。 義介之 れ を 拝 見 す 」 。 仰せに云く 、 「 其 れ をば嗣書 と 云 うなり 。使者に付せし事髣髴たり 。又た 輒 たやす くは 見聞す べ か らず 。然るに汝は之 れを 見るは 、 旁 かたが た好 運 な り 。末世の澆 運 の 中 、僅かに仏法に値遇 すと 雖も 、此 れ 等 を 保 任せ るは、尤も器量なるが為なり、云云。作法の書 き 様 は聊か青原 と 南 岳 と は各おの別なり。其の後又た雲門 ・ 法眼等、 世に異る と 雖 も 、 同 とも に是 れ 嗣 書なり」 。義介白し て 言 く 、 「故鑑師 、其の次 おり に申さるるに言く 、 『 我は堂頭和尚に嗣 書有る と 聞 く 〈 深 草 に於 て 僧 海首座円寂の因みに此の事 を 聞けり 。 〉先年之 れを 拝見し奉らん とせし時 、堂頭和尚 示し て 云く、尤も然るべし。但だ閑人の障 はば むこと 有 らん、自然に便宜 を 期 すべし、云云。之 れ に依り て 心中に其の 事 を 相い待つ と 雖 も、虚しくし て 一生終らん とす 、生涯の恨み只だ之 れ 有るのみ。若し汝、仏祖の 冥 助有り て 嗣 書 を 拝 見 す るの時は、 彼 の功徳 を 以 て 必ず先ず我に回向 すべし。我、 当初、 東山の辺に此の血脈 を 伝 うる こと 有るも、 未だ堂頭和尚の嗣書 を 拝 見せざる を 尤 も恨み と 為す 。我、今、伝うる所の血脈は、唐の阿育王山住持の仏照禅師よ り、 (摂)津の国三宝寺能忍和尚の相伝の末なり。云云』 と 」 。堂頭和尚示し て 曰く、 「 誠に先年に此の請有り と 雖 も、 便宜 を 得 ざるに依り て 徒 らに黙止せり 。其の後 、 驚 さわぎたて せざるが故に 、我に て も 又た忘却せり 。然るに志し 深 く し て 後に至るま で も 忘 れ ざるか、虚しく終りし事尤も本意にあらず。汝、自然に便宜 を 以 て 此の嗣書 を 拝見し、彼の 功徳 を 以 て 先 師に回向せば、尤も遺言の如くなるべし、便宜 を 相い待つべし。但だ曹洞の嗣書の書 き 様 は聊か彼に 異なれば、之 れを 拝見せし時に知るべし、云云」 。佗来り参ずるの間、義介且く如法に問訊し退 き ぬ 。

(18)

徹通義介の「身心脱落の話」につい て (石井) 一八 又御尋云 、林際下仏照禅師嗣書 、故鑑師伝授之否 。又你見之乎 。義介白 、此相伝不名嗣書 、祖師相伝血脈 、云云 。 義介拝見之。仰云、 其云嗣書也。付使者事髣髴。又輙非可見聞。然汝見之、 旁好 運 也。末世澆 運 中 、 僅 雖値遇仏法、 保任此等 、尤為器量 、云云 。作法書様聊青原与南岳各別也 。其後又雲門法眼等 、世雖異 、同是嗣書也 。義介白言 、 故鑑師其次被申言、我聞堂頭和尚有嗣書。 〈於 深 草 僧海首座円寂之因聞此事。 〉先年奉拝見之時、堂頭和尚示云、尤 可然。但閑人有障、自然可期便宜、云云。依之心中雖相待其事、虚而欲一生終、生涯之恨只有之。若汝有仏祖 冥 助 拝見嗣書之時、以彼功徳必先可回向于我。我当初有東山辺伝此血脈、未拝見堂頭和尚嗣書、尤為恨。我今所伝血脈 者、唐阿育王山住持自仏照禅師、津国三宝寺能忍和尚相伝之末也、云云。堂頭和尚示曰、誠先年雖有此請、依不得 便宜徒黙止。其後不驚故、我而又忘却。然志 深 至後不忘歟、虚終事尤非本意。汝自然以便宜拝見此嗣書、以彼功徳 回向于先師、尤可如遺言、可相待便宜。但曹洞嗣書 々 様聊異于彼、拝見之時可知、云云。佗来参之間、義介且如法 問訊退矣。 (春秋社本(七)一八二~四頁。訓読は引用者により一部改 む )   一方 で 、 曹洞宗の嗣法も当然ながら継承さ れて い て 、第二段に相当 す る③の強調も大いに関 わ る と い えよう。 ③ ( 建長七年正月六日)堂頭和尚 (懐奘)示し て 云 く 、 「 (前略)某甲 ( 懐奘) 、旧見 を 改め て 先 師の会に参じ 、已 に廿余年に及ぶ。堂奥 を 許 さ れ 、咨問参 学は他人に勝りし こと 、皆な之 れを 知る。然り と 雖 も性は元より愚鈍にし て 失 落 す る所尤も多し。誠に佗の聞かざる所 を 聞く と 雖 も、佗の聞 き し 所 を 聞かざる こと 無し。然し て 仏法に於 て は 、 大意は同じく全く内外無 き こと、衆中に於 て 開 示せるが如し 。先師 (道元)常に示し て 云く 、 『 若し仏法に於 て 内 外 を 存せば、諸天聖衆定ず聞 こ し食 め し、必ず又た虚妄の罪に堕せんか。唯だ秘事口决有り て 、 未だ佗の為にせ ざりし説は、所謂る住持の心術、寺院の作法、乃至嗣書相伝の次第、授菩薩戒作法、是の如 き 等 の事のみなり。是 れ 等 は伝法の人にあらざれば輙くは伝えず、云云』 と 。然し て 是の如 き 等 の事、 〈懐奘〉某甲一人のみ之 れ を 伝 う。 此 れ 等の条、又た先師曰い て 示せるが如く、仏法に於 て 一 切私無 きなり。内外の有無も、只だ大小の両乗伝持の祖 師に合府 す るのみ。若し仏の教えに違 わ ば、全く仏祖の教えにあら ず。此 れ 等の趣は、先師の訓訣なり、只だ汝の み見聞せり」 。 堂頭和尚示云 、 (前略)某甲改旧見参先師会 、已及廿余年 。被許堂奥 、咨問参 学 勝于他人 、 皆知之 。雖然性元愚鈍 而所失落尤多矣。誠雖所不聞佗之聞、 無所聞佗之不聞。然於仏法者、 大意同全無内外、 如於衆中開示。先師常示云、

(19)

徹通義介の「身心脱落の話」につい て (石井) 一九 若於仏法存内外者 、諸天聖衆定聞食 、必又堕虚妄罪歟 。唯有秘事口决 、 未為佗之説者 、所謂住持心術 、寺院作法 、 乃至嗣書相伝次第、授菩薩戒作法、如是等事也。是等非伝法人輙不伝、云云。然如是等事、 〈懐―〉某甲一人伝之。 此等条 、又先師曰如示 、於仏法一切無私也 。内外之有無 、只合府大小両乗伝持祖師 。若如違仏教者 、全非仏祖教 。 此等趣、先師訓訣也、只汝見聞。 (同一九六頁)   道元が最晩年に病気療養の為に上洛 す るに当たっ て 、②の問題は、義介が留守役 を 仰 せつかった ことは伝記上 で よ く 知られて いるが、 ここで は 建長五年の八月六日の条 を 紹介し、七月八日の時の示誨の「老婆心」欠如の ことは第二の問 題 と し て 取り上げよう。 ②   (建長五年七月八日)堂頭和尚 (道元)示し て 曰 く 、 「 (前略)縦い我が滅後 と 雖も 、寺院 を 有 たも ち、僧家 、合力 し て 我が仏法 を 守 るべし。 (以下略) 」 同八月六日 、義介 、 脇 わきもと 本の御旅宿に於 て 暇 を 賜りし因みに 、拝問し て 云 く 、 「今度の御 お と も 供 、 尤も 本望と 雖 も、仰せ に随い て 寺に帰らん 。若し御延引有るの時は 、拝見の為に洛に参らん と 欲 す 、御許し を 蒙 るべきや 」 。 和尚示し て 云く 、 「応諾 、尤も然るべし 、 左 う 右 す るに及ばず 。但だし我 れ は寺院 を 思うが故に留め置く 、你相い構え て 寺院の こと 能 々 照顧 すべきなり。汝は当国の人なるが 故に、故鑑師の弟子なるが故に、国中多く之 れを 知る。内外に付い て 子 細 を 存ずる こ と 有 らん 、故に留め置く 、云云」 。義介 畏 かしこ みて 之れ を 承 うけたまわ る 、 是 れ 則 ち 最後の拝顔なり 、最後 の 厳 命なり。尋常肝に銘じ て 忘 れ ざるなり。 堂頭和尚示曰、 (前略)縦雖我滅後、有寺院、僧家合力可守我仏法。 (以下略) 同八月六日、 義介於脇本御旅宿賜暇之因、 拝問云、 今度御供尤雖本望、 随仰帰寺。若有御延引之時、 為拝見欲参洛、 可蒙御許哉 。 和尚示云 、応諾 、尤可然 、不及左右 。但我思寺院故留置 、你相構寺院能 々 可照顧也 。汝当国人也故 、 故鑑師弟子故、国中多知之。付内外有存子細、故留置、云云。義介畏承之、是則最後拝顔、最後 厳 命也。尋常銘肝 不忘也。 (同一八六~一九〇頁)   次に第一段 で 誰しも印象的なものに、道元が義介 を 評価し て 「老婆心」が欠如し て い る と いう示誨が存在し て い る こ とで ある。 これが第二の問題 で ある。 これは正に道元の遺誡 と 言 っ て よい内容 で あ る。二箇所より引用し て お こ う 。 (イ)   同 ( 建長五年、 一二五三) 七月八日、 御病重ね て 増 発 す 。義 介驚 きて 参拝 す 。 堂頭和尚 (道元) 示し て 曰く、 「 (中略)

(20)

徹通義介の「身心脱落の話」につい て (石井) 二〇 然 れ ば当寺は勝地為るに依り て 、 執し思う処なり と 雖 も、 其 れ 又た世に随い時に随うべし。 仏 法は何 いず れ の地に於 て も 、 之 れ を 行 ずる所の勝地為り。但だ国土安穏の間、旦那 定 かなら ず安穏なるべく、旦那安穏なら ば、寺中必ず安穏ならん。 然し て 汝 は寓住 す る こ と 已に多年に及ぶ、又た院門の先達為り。縦い我が滅後 と 雖も、寺院 を 有 たも ち 、僧家、合力し て 我 が仏法 を 守るべし 。若し他遊より本寺に帰り来らば 、菴居寓住 す る は汝が意に任 すべし 、云云」 。義介落涙し 悲泣し 、恐惶し て 白 し て 言く 、 「 寺に付 き 自らに付 きて は先途の如く 、殊に子細候らわ ずとも 、一切御命に背くべ からず」 。時に和尚落涙し合掌し て 云く、 「尤も本意なり。我 れ 先年より汝 を 見しに、世間に於 て は 不覚あらず、又 た仏法に於 て は 随分に道念有り、 皆な其の 情 こころ を 知 れ り 。 唯 だ未だ老婆心有らざるのみ。 其 れ 自然に歳 を 重ぬる程に、 必ず之 れ 有るべし、 云云」 。義介、 涙 を 押え て 畏 かしこま るのみ。 〈時に懐奘首座は御前に侍し、 同 とも に之 れを 承らる。 〉義介、 其の後に未だ老婆心有らざるの 諫 いましめ 、意に於 て 忘 れず。然 れども未だ其の所以 を 知 らず。先年還り て 参 ぜし時、参 拝の次、密談の因みにも、此の諫有り。此の条、已に両度に及べり。 同 ( 建長五年)七月八日 、御病重増発 。義介驚而参拝 。堂頭和尚示曰 、 (中略)然当寺依為勝地 、 雖執思処 、其又 可随世随時。仏法於何地而為所行之勝地也。但国土安穏之間、旦那定可安穏、旦那安穏者、寺中必安穏焉。然汝寓 住已及多年、 又為院門先達。縦雖我滅後、 有寺院、 僧家合力可守我仏法。若自他遊而帰来于本寺、 菴居寓住可任汝意、 云云。義介落涙悲泣、恐惶白言、付寺付自如先途、殊子細不候、一切不可背御命矣。于時和尚落涙合掌云、尤本意 也。我先年見汝、 於世間非不覚、 又於仏法随分有道念、 皆知其情。唯未有老婆心。其自然重歳之程必可有之、 云云。 義介押涙畏而已。 〈于時懐奘首座侍御前、同被承之。 〉義介其後未有老婆心之諫、於意不忘。然而未知其所以矣。先 年還参之時、参拝之次、密談之因、有此諫。此条已及両度也。 (同一八四~一八六頁) (ロ)   同 ( 建長五年七月) 廿八日、 義介寺に帰り参拝 す 。 堂頭和尚示し て 云く、 「去る比 ころ 、 決 定命終 と 思いし様なる処、 今に存命せり。然るに六波羅より度 々 上 洛 す べき の由、申し下さる。之 れ に依り て 、縦い命終せんも申し置くべき 事等多般なる上に、兼 て 又た医療の為に、来る八月五日、上洛 す べきなり。路次の間、及び京中に て 、 随身 す る こ と 之 れ 然 るべし と 雖も、寺院は一向に然るべき の人無 き に依り、今度の留守 を為すべし。寺院の事等は、心 を 入 れ て 照 顧 す べし 。 (中略)当時は忩 々 たるに依り て 委 細せず 、追っ て 京より重ね て 申し付くべき 事多からん 。若し又 た今度、存命にし て 下向の時は、我が秘蔵の事等、必ず你に教うべし。但だし人の始め て 事 を 執 行 す るの時は、小

(21)

徹通義介の「身心脱落の話」につい て (石井) 二一 人は 之れを 妬 ねた まん。故に是の如 き 等 の事由は、他人に知らし むべからず。你は世間 と 出 世 と に於 て 其の志気有る こ とを 知るも、 唯だ未だ老婆心有らざるのみ」 。今度の帰参早 々 の 由は 、 此 れ 等の条なり。条 々 の 事は委しくは注せず。 此 れ 等の条は、懐義師姑、障子 を 隔 つ と 雖も、同に之 れを 承 れ り。 同(建長五年七月)廿八日、義介帰寺参拝。堂頭和尚示云、去比決定命終思様処、于今存命矣。然自六波羅度 々 可 上洛之由被申下。依之縦命終而可申置事等多般上、兼又為医療、来八月五日可上洛也。路次之間及京中、雖随身之 可然 、寺院一向依無可然之人 、可為今度留守 。寺院事等入心可照顧 。 (中略)当時者依忩 々 不委細 、追自京重可申 付事多。若又今度存命下向之時、我秘蔵事等必可教你。但人之始執行事之時、小人妬之。故如是等事由不可令知他 人。你於世間出世知有其志気、唯未有老婆心。今度帰参早 々 之由、此等之条也。条 々 事 委不注。此等条懐義師姑雖 隔障子、同承之矣。 (同一八六~一八八頁)   こ の ように道元が義介に「老婆心」の欠如 を 再三に示誨した ことが、義介自身 で 記録さ れて いる ことは、その性格は 自覚さ れて いたに違いない。義介が越前の出身 で 、土地の人に尊崇さ れ 、寺院の 運 営 に力量 を 発揮し、また、将来にお い て も期待さ れて いる一方 で 、 「老婆心」の欠如の問題はその後にも引 き 継 がれて い た と 思 わ れ る の で ある 。そ れは強 引な修行者への指導に対し て は 、中には不満 を 持つ者がいた こ とが想像さ れ る 。また 、 『正法眼蔵』等の書 写 や 『永平 広録』の編集に関 わらなかった事実は、道元の思想理解が十分に完遂さ れない一面 を 予 想さ れ る の で はあるまいか。

五 

﹃御遺言記録﹄の第二段の問題

  『御遺言記録』の第二段の義介 と 懐 奘 と の問答の部分も 、 大 き くは二つの問題 を 抱 え て いた と 思 われ る 。 既に指摘 す るように、義介が日本達磨宗の嗣法 を 捨 てきれずに瑩山紹瑾に伝承し て い る事実があり、当然の ことながら、日本達磨 宗 と 道元禅の間には思想的には全く相容 れない重要な課題がふ く ま れ て い る と 思 わ れ る 。 こ れが第一の問題 で ある。第 二はそ れ と 密 接に関連 す る と 考える「身心脱落」の話の問題の ことで ある。   第一の日本達磨宗の思想の こと に関し て は 、既に筆者のいくつかの論文 で 取り上げた こともあるの で ) 14 ( 、こ こ で は 簡 単 にま と め て お こ う 。なお、日本達磨宗関連の論文につい て は 、その後の発表論文等もあるが、 『道元禅の成立史的研究』 七六五頁以下に五二箇の論文 を 掲 げ て おいた。

(22)

徹通義介の「身心脱落の話」につい て (石井) 二二   筆者が金沢文庫保管『成等正覚論』が日本達磨宗の文献だと 断定したのは、 「仏照徳光 と 日 本達磨宗(上) (下 ) 」 ( 『 金 沢文庫研究』第二二二 ・ 二二三号、一九七四年一一 ・ 一二月) で あり、主に次のような六つの記事がみられ る こと から判 明 す るの で ある。 ( 1)  三意の構成。一は、 こ の法の縁起 を 述 ぶ。二は、自心即仏なる ことを 談 ず。三は、所求即成 を 明か す 。 ( 2)  晨旦国に仏法弘まり て 後、四百八十四年に達磨の教法、初め て 来たり き 。日本国には、上宮太子、世に出 で て 法 を 崇 い て 後、六百十八年の大宋の淳煕十六年己酉、皇朝の文治五年の八月十五日に初め て 此の法渡 れ り 。 ( 3)  夫 れ 此の宗は、達磨大師の伝うる ところの法の故に達磨宗 と 名づくるなり。 ( 4)  総じ て は 十方刹塵の中の見性成仏せし者、別し て は 仏祖の法王より仏照大師に至り て の五十代の列祖、知見 も て 証明したまえ。 ( 5)  貴賎の求 む る と ころは是 れ 万 多なり と 雖も 、皆な苦 を 離 れ る を 以 て 志 と為す。言下の苦 を 離 れ 楽 を 得るに 、 全く方便 を 仮 らず。是 れ 則 ち 息災召福は甚だ速疾なり。地獄の重苦 すら言下に離 れ る を 得 、 況 ん や 諸余の息災 をや 。 仏果の最極なるもの すら言下に証 を 得、況ん や 諸余の悉地 をや 。 ( ここで い う一言 と は、 『華 厳 経』の「もし人、三 世の一切仏 を 了 知せん と 欲せば、応に法界の性 を 観 ずべし、一切唯だ心のみの造なり」 を 指 す ) ( 6)  達磨大師答えて 曰 く 、 「道は心に在り て 事 には在らず 、文字 をも立 て ず 、 方便 をも仮らず 、人心 を 直指し 、 見性しつ れば成仏なり」 と 。 ( 『金沢文庫資料全書   仏典第一巻   禅籍篇』一九七四年。参照、拙著『道元禅の成立 史的研究』所収)   また、経豪の『正法眼蔵抄、画餅』によ れば、日本達磨宗の所依の論が、 『達磨三論』 (破相論・悟性論・血脈論) で あった と 次のように言っ て いる。 達磨宗には、破相論〈日本書歟〉 、悟性論〈唐書〉 、血脈論〈同上〉 と た て て 、 まづ世間の法 を 破 し て 、正(性) を さ と る と 云はば、 すで に測度なるべし。教には分別は迷の前の事也。悟 と 談 ずる時は、 仏 ならぬ物なし。一仏成道、 観見法界 と 云フゆへに。 「諸物 こ れ 証 なり。しか れども、 一性にあらず、 一心にあらず。証の とき 、 証証さまたげず」 な む と 云 ふ 。 ( 『 曹 全   注解一』五二三~五二四頁)   更に新発見の日本達磨宗資料 と し て 名古屋真福寺所蔵『伝心法要』が知られ るようになった。その奧書は次のように

参照

関連したドキュメント

鋼板接着コンクリート床版の劣化に対する非破壊検査法の研究開発 橘肇*,中本啓介*,島田義則**,廣瀬壮一***,八ツ元仁****

これらの協働型のモビリティサービスの事例に関して は大井 1)

 本篇ハ騙徽ノ目的二「サルヅルサソ剃翻脈内注射,翌々日,水銀劃磐筋骨注射ヲ受ケシニ至身二半疹現

      核面積及ピ細胞鵠核指数    第4目 染色度C淋巴球細胞鶴面鼠        核面積及ビ細胞饅核指数

 KMK式微量赤血球沈降蓮度測定器ハ吾が病 理學自室二於テ杉山教授指導ノ下二新案サレタ

専攻の枠を越えて自由な教育と研究を行える よう,教官は自然科学研究科棟に居住して学

モノニシテ,此電流ノ彊サバ刷子が 整流子ノー方ヨリ他方へ移ラントス

 第二節 運動速度ノ温度ニコル影響  第三節 名菌松ノ平均逃度