• 検索結果がありません。

下竪穴系横口式石室小考

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "下竪穴系横口式石室小考"

Copied!
14
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

竪穴系横 口式石室小考

 

竪束系横 口式石室小考

一筑前地方 を中心 に して一

土 井 基 司

はじめに

(1)

横 穴式石 室 の型式 学 的研 究 は尾 崎喜左 雄 と白石 太 一郎 に よって本格 的 に始 め られた 。須 恵 器 の編年 的研 究が未発達 だ った当時 において は

,古

墳 時代後期 を理解す る手段 として最 も重要 な ものの1つだ った。 しか し

,須

恵器 をは じめ とす る遺物 の研究 の進展 とともに

,そ

の比重 は

次 第 に低 下 してい き

,研

究 もしば ら く停 滞 した様相 を示 していた。 ところが近年

,横

穴式石室 へ の関心が高 まって きて

,地

域 別研究が盛 んになって きた。その中で も北部九州で は早 くか ら 横 穴式石室 の研 究 が進 んでお り

,特

に地域的特性 か らその導入 についての研究が盛 んである。

いわゆる「竪穴系横 口式石室」や初期 の横穴式石室の型式変化

,構

造及 び源流 の問題 な どがお もに論 じられてい る。 しか し

,未

だ竪穴系横 口式石室や初期横穴式石室 の定義 については

,大

まか には一致 してい る ものの完全 には定着 していない。その原因は

どの属性 を重視す るか研 究者 ご とに異 なる ことにあ る。 やは り

どの属性が最 も有効 か を総合的 に検討 して分類 しなけ ればな らない だろ う。北部九州での混乱 は

,韓

国での研 究状況 と相 まって

,そ

の源流の問題 を 複雑 に してい る。 また

日本国内での系譜問題 について も

,そ

の混乱がその まま他地域 に,反映 されてい る。問題 の解決 には

,各

々の地域での各石室形式の厳密 な定義が前提条件 となろ う。

さらに

,近

年盛 んな石室 の型式学 的検討 を行 うため に も

,形

式 の設定が重要 な問題 になる と考 える。本論で は

,そ

の基礎作業 として

,先

学 の研究 を参考 に しなが ら

,ま

ず北部九州 の竪穴系 横 口式石室 の定義 につ いて新 しい柔 を提 出 し

,横

穴式石室 の型式学 的研 究へ の第一歩 としたい。

研 究史

九州地方の横穴式石室 については早 くか ら注 目され

,樋

口隆康 や小林行雄 によってその導入 が畿 内 に先行 す る こ とが指摘 されていた 。 しか し

,当

時 の資料 的制約 もあ って

,そ

の関心 は

九限 山古墳 や横 田下古墳 な どのいわゆる「大陸系」 の石室 に向いていた。 それ に対 して 白石 は, 竪穴系横 口式石室 を含 む「特殊 な横穴式石室」 に注 目し

,こ

れ らを従来の伝統的墓制 に横穴式 石室 の アイデ アを取 り入 れた もの と して位 置づ け

, 5世

紀代 にお ける畿 内 とは異 なった古墳文 化 の変容 を表 す もの と評価 してい る。 その後

,調

査例 の増加 とともに

,特

殊 な墓制 とみ られ が ちだ った竪穴系横 口式石室 に対す るこの ような積極的評価 は定着 してい った。 また

,賀

川光

夫 と小 田富士雄 は

,こ

の種 の石室 に「竪穴系横 口式石室」 とい う語 を初 めて使用 し

,現

在 で

‑45‑

(2)

はこの名称 に統一 されている。 しか し

,歴

史的評価 と名称 の統 一 に も係 わ らず

,そ

の定義 につ いてはまだ統一 されている とはいえない。以下その状況 を概述す る。

山中央彦 は

,初

期 の横 穴式石室 を「大 陸系横 穴式石室」 と「竪穴系横 穴式石室

Jに

わけて,

大陸系 に対 して竪穴系が相違す る点 として

,明

確 な羨道 を持 たない

,天

丼石 が石 室床 面 にほぼ 平行 してい る

,側

壁 が害J石小 口積みで施朱 されることが多 い

,墳

丘 の上部 に構築 され る

,な

を挙 げてい る。前 の

2点

はその後 も継承 されてい く指摘 であ るが

,後

2点

は必ず しも両者

を分 ける基準 とはな り得 ない。尚

,大

陸系横穴式石室の標式 として丸隈山古墳 や横 田下古墳 を 挙 げてい る。つ いで柳 沢一男 は

,狭

長 なプラ ン

,羨

道が無 い

,側

壁 が害J石小 口積 みや塊石積 み を原則 とす る

,閉

塞 はすべ て横 田部で行 う

,と

形 態上 の概 念 を規定 してい る。特 に羨道 の有 無 を最 も大 きな違 い と してい る。 しか し

,条

件付 きなが ら前壁 や相石 を持つ もの も竪穴系横 口 式石室 に入 れたため

,そ

の定義が曖味 にな り

,初

期 の横 穴式石室 のほ とん どがそのなか に含 ま れ るこ とになって しまった。その結果

,竪

穴系横 口式石室 の位 置づ けがか え って不 明瞭 な もの になっている。その後柳沢 は

,竪

穴系横 口式石室 の概念上 の混乱 は

,そ

の なかの位相 の違 い を 考慮 しない こ とか ら生 じる と して

,A型

B型

2つ

の レヴェルに分類 した 。前者が大形古 墳

,後

者力Ⅵヽ形古墳 に採用 され

,そ

れぞれ別個 の変遷過程 を辿 る と考 えた。初期 の横 穴式石室 全体 を提 える上で の視 点 として は優 れた ものであ ったが

,定

義上 の曖味 さは残 され た ままで あ った。 さ らに柳 沢 は

,後

述す る蒲原の説 を受 けて

,鋤

崎古墳

,丸

隈 山古墳 の調査報告 中な ど で前説 を大幅 に修正 した 。つ ま り

, B型

石 室 のみ を竪穴系横 口式石 室 と し

,A型

石 室 を北部 九州型 とした。その結果

,老

司古墳

3号

石室 は竪穴系横 口式石室 の範躊 か らはず してい る。

一方

,小

田富士雄 は九州 の横穴式石室 について「竪穴系横 口式石室」「横 日式家形石棺 ・石 桔 式石 室」「横 穴式石 室」 の

3つ

にわ けてい る。「横 口式家形石棺・石棺式石室」 は江 田船 山 古墳 の ような横 口式家形石棺 を直接封土 に埋 めた ものや石 人 山古墳 の ような覆屋 ふ うの もの を 指 してい る。「横 穴式石室」 は さ らに「小坂 大塚 タイプ」,「 横 田下 タイプ」,「 箱 形石室」 にわ けてい る。竪穴系横 口式石室 には老司古墳

3号

石室 とそれ に後続す る丸隈 山古墳 をふ くめてい るが

,さ

らに発展 した釜塚古墳 は横穴式石室 と捉 えている。 また

,小

形古墳 に採用 され る竪穴 系横 口式石室 も同様 に横 穴式石室へ と移行 してい くと して

,竪

穴系横 口式石室 の定義 を狭義 に 行 うべ きだ とのべ てい る。蒲原宏行 も竪穴系横 口式石室 をよ り精密 に定義 した上 でその展 開 を 検討すべ きだ と主張 し

,前

壁・据石の有無 を大 きな指標 として竪穴系横 口式石室 を定義 してい る 。そ して

,前

壁 を持 たない構造 的な限界 によって玄室高が

1.4mを

こえない こと

,主

軸平行 葬 の ため玄室幅 が

1.4mを

こえない ことを基本的特徴 として指摘 してい る。 しか し

,老

司古墳

3号

石室 は例外 的 にその中 に含 めてい る。

土生 田純之 は初期 の横 穴式石室 につ いての諸説 をまとめてい る。基本的 には小 日の論 を踏

‑46‑

(3)

竪穴系横口式石室小考

襲 しているが

,九

州での横 穴式石室 の受容 のあ り方 とそのほかの地方 の受容 のあ り方 の共通性 を指摘 してお り興味深 い。つ ま り

,首

長墓系統 に初めて横穴式石室が採用 されその影響下で小 形古墳 に も採用 されてい くとい う現象が関東地方で も認 め られ る と述べ てい る。森下浩行 は, 新 た な視 点 か ら整 理 を試 みてい る。 まず

,初

期 の横 穴式 石室 を九州型 と畿 内型 に大別 し

,九

州型 をさらに北九州型 と肥後型に分類 したうえで

,北

九州型 と畿内型はそれぞれ

A類

B類

に 細分 している。北九州型

B類

(竪穴系横 口式石室及びその系譜 をひ く石室)については

,A類

二次的な影響 によって在来の小形竪穴式石室に横 口部 を取 り付 けた結果成立 したと考えている が

,そ

のほかの ものはそれぞれ朝鮮半島南部からの多元的導入 を推測 している。 しか も最初の 導入時だけでな く

,数

度にわたっての影響 を想定 している。九州以外か ら出されたこれらの論 考はいままでの研究をさらに進展 させる上で注 目すべ きものだろう。

最後に

,林

日佐子は朝鮮半島南部の「竪穴系横 回式石室」 との関連か ら日本の竪穴系横 口式 石室 を考 えようとして型式分類 しているが

,現

在の ところ二者 を積極的に結 び付 ける材料 は

な く

,小

田が言 うように類似現象 と捉 えるべ きだろぢ

)。

ただ し

,従

来混同 して用い られて き た羨道の概念 について

,明

確 に天丼石 を架構 しない ものは羨道 とすべ きでない としたのは画期 的であった。

竪穴系横穴式石室

大陸系横穴式石室 (横田下

,丸

隈山) [山]

穴 田 後

系 横 口 式 石 室  l  告 豊

t重

冨 二 戸 τ テ

'4者

磐 些 1籍 岳号

)

下 タイプ (横田下)

型石室

囁 著きぞ嘗

苦冥毒埜

老司3号石室

,鋤

,横

田下

,丸

限山

,釜

)

穴系横 口式石室 (老司3号石室

,丸

限 山)

口式家形石棺 ・石棺式石室 (江田船 山

,石

人 山)

穴式石室一

E塗

晉奈壕 弁多至覇憔争議こ下)

14J「沢 1]

[柳沢 2]

[旭ヽ田]

2, 3, 4号

石室)

丸隈 山

,釜

,相

7号

)       [蒲

]

(老司3号石室

,鋤

,横

田下

,釜

,丸

隈 山)

(竪

穴系横口式石室

,「

竪穴系横口式石室」 系横穴式石室

)

[森]

[土]

{詠 離悪矮 権融

九 州 型 {糠 正會

畿 内 型

 l̲告

l̲著

票 彊 繁

iイ

ヒ 我 窒 磐 「轟 聖 偽 垂 各 至 ゲ 吊 蒲 墨 霧 窒 雲 と

)

各研究者の石室分類

‑47‑

(4)

さて

,以

上 の先学の説 をまとめたのが図

1で

あ る。 ここで問題 になるの は第1に老 司古墳3 号石室

,丸

限 山古墳 の帰属 だろ う。柳 沢

,森

下 は2つ とも竪穴系横 口式石室 にいれず

,蒲

原 は

老司古墳

3号

石室 のみ含 み

,小

田は両者 とも竪穴系横 口式石室 と考 える。筆者 は

,柳

,森

の説 を採 る。 なぜ な ら

,両

者 と も構 築技術 か らみ て鋤 崎古墳 や横 田下古墳

,釜

塚 古墳 につ な

が ってい くが

,小

形古墳 に採用 されてい る竪穴系横 口式石室 にはつ なが っていか ないか らだ。

平面形 か らい って も

,幅

広 な老司古墳

3号

石 室 な どと狭 長 な他 の竪穴系横 口式石 室 とで は違 い が大 きす ぎる。第

2は

分類 の方法 に関す る問題 だ。小 田の「横 日式家形石棺・石棺式石室」 を のぞ けば

,分

類単位 にそれ ほ どの違 いはない。大 きな相違点 は分類単位 の間の関係 だ。柳 沢 は 北部九州型 と竪穴系横 口式石室 を合 わせ て肥後型 に対応 させ

,森

下 はそれ を さらに畿 内型 に対 応 させ てい る。小 田は北部九州型 や肥後型 を合 わせ て竪穴系横 El式 石室 に対応 させ てい る。小 田は竪穴系横 口式石室 は横穴式石室 にいたる過渡的な もの とい う点 を重視 してい るが

,構

造 的

差異

,そ

の成立 の様相 を考 えると柳 沢の分類 の方が妥 当に思 える。 しか し

,肥

後型石室 は

,羨

道 を持 ってい る

,方

形 プ ランで あ る

,な

どの点か ら

,む

しろ畿内型の一部 との類似性 の方が強 い と思われる。

以上 の考 えを図1の最後 にまとめている。以下ではこれに基づいて具体 的 な資料操作 を進 め る。尚

,資

料操作 に当た って は

,筑

前地方 をお もに取 り上 げなが ら北部九州 の初期横 穴式石室 につ いて考 えてい きたい 。

横穴式石 室の分類

竪穴系横 口式石室 を他 の横穴式石室か ら分離 して定義す る場合

,比

較す る対象 は

2つ

あ る。

1つ

はその他 の初期横 穴式石室 (北部 九州型石 室

), 

もう1つはい わ ゆ る通有 の横 穴式石 室 (両袖型石室

)で

あ る。 また研 究史か ら見て

,竪

穴系横 口式石室 の特徴 は

,狭

長 なプ ラ ン

,羨

道が無 い

,前

壁が無い

,横

口部 を板石で開塞

,な

どが あげ られる。 この うち

,狭

長 なプラ ン,

前壁 の有無 は前者 と区別す る特徴 で

,羨

道 の有無 や横 田部 の閉塞法 は後者 と区別す る特徴 で あ る。本論で は前述 した ように羨道の有無 をもって大別 し

,そ

れか ら細分す る とい う方法 を採 る。

つ ま り

,初

期横 穴式石 室 と両袖型(横穴式)石 室 に まず大別 し

,そ

れか ら北都 九州型(初期横 穴

式)石 室 と竪穴系横 口式石室 を分離す るこ とにす る。分類 の方法 として はいわゆる属性分析 を 用 い る 。

①初期横穴式石室の抽出

羨道の有無 と閉塞法を主要な属性 と考え ,そ れと他の属性

(袖

の構築法 ,墓 ,段 )と の相 関関係を求めて分類をおこなう。

‑48‑

(5)

竪穴系横口式石室小考

羨道 (図

8参

)

本論 で い う羨道 は

,林

が言 った よう溜

,前

庭側壁 とは区別 して

,天

丼 を架 した もののみ を 指す。 さ らに玄室入 口にのみ天丼石 を架 した ような ものは指 さない。例 えば

,鋤

崎古墳

,横

下古墳 のいわゆる羨道 は

,玄

室入 口にのみ天丼石 を架 してい る と考 えて

,羨

道 にはいれない。

鋤崎古墳 の石室 は

,長

大 な掘 り方のなか に石室 を構築 している点で竪穴式石室の構築法 に近 く,

玄室入 口前 に広が る石組 はむ しろ石室小 口壁 の一部 を取 り除いた結果で あ る と考 え られ

,道

はな く入 口と捉 える方が合理的だろ う。釜塚古墳 の場合 も

,玄

室入 日の天丼石が単 にタト側 には み出 しただけ と考 えて羨道 には含めない。以上の定義 に したが って

,羨

道 のあ る もの と無 い も のの

2つ

に分類す る。

閉塞 法 (図

8参

)

I類  

横 口部 に板 石 を立 てて閉塞す る もの。

1枚

の板石 を用 いる ものを

Ia類 ,複

数 の小形 の 板石 を数段 に分 けて立 てか ける もの を

Ib類

とす る。

Ib類

には板石 の背後 に塊石 を積 んで支 える もの を含 む。

Ⅲ類

 

塊石 で 閉塞す る もの。

袖 の構築法 (図

8参

)

0類  

袖部 を形成 しない もの。

1類

 

板石小 口積 み

,塊

石積 みで袖部 を形成す る もの。板 石小 日積 み を

la類 ,塊

石積 み を

1

b類

とす る。

2類  

板石 を立 てて袖都 を形成す る もの。 その上 に数段 の石 を乗せ た ものが多 い。

3類  

おおぶ りの石 を立柱状 に立 てて袖部 を形成す る もの。その上 に

2,3段

積 み上

'デ

て天丼 石 をお くもの と

,直

接天丼石 をお くものがあ る。

4類  

おおぶ りの石 を

2,3段

横積 みす る もの。

墓道 (図

8参

)

0類  

墓 道が接続 しない もの。

1類  

墓道が斜 めに上が って行 くもの。

2類  

墓道が水平 に続 き墳丘端 にいたる もの。

(図

8参

)

段 の有無で分類 す る。

上記 の各属性 の分類 について

,羨

道 は無→有

,閉

塞法 は

1→

,袖

の構築法 は0。

1→ 2→

3・

4,墓

道 は

0→ 1→ 2,段

は有→無 とい う変化 の方向 を研究史及 び石室構造 の発達の方向 か ら想定す る。以上 に基づいて相 関関係 をとったのが図

2で

あ る。 まず羨道 と閉塞法の相 関関 係 か ら見 る と

,い

くつ かの例外 をのぞいて左 上 と右下 にわかれてい る。 また

,羨

,閉

塞法 と

‑49‑

(6)

征︹ 1

1 1

0

2

征ヽ 45

1

0 2 3 4

7 49 14

0 1

1

1

0 lb 2 3 4

Ib 1

1

5

Il

1

各属性相 関表

(1)

その他 の属性 との相 関関係 を見 ると

,羨

道有 と羨道無 とで は違 った特徴 を しめ してお り

, I類

とⅡ類 とで も同様である。 この ことは羨道 と閉塞法が主要 な分類 の基準 た りうることを示す と 同時 に

,さ

きに想定 した変化 の方向の有効性 も保証 してい る。つ ま り

,筑

前地方 の横 穴式石室 は

,羨

道が な く板石 で閉塞す る古式 の もの

=初

期横 穴式石室 と

,羨

道が あ り塊石 で閉塞す る新 式 の もの こ両袖型(横穴式)石 室 の2つに分類す ることがで きるわけである。

②初期横穴式石室の分類

① のようにして初期横穴式石室が抽出されたが

,次

にそれを分類 して竪穴系横 口式石室 を取 り出 し定義する。方法は① と同様 に各属性間の相関関係 を求めてそれをもとに分類する。平面 形 と前壁の有無 を主要な属性 として取 り上げ

,そ

のほかに袖の構築法

,墓

,段

を取 り上げる。

平面形 (図

3参

)

平面形の分類 にあたっては玄室比 と玄室幅を参考 として用いた。玄室比 は(左側長十右側長)

/(奥幅十前幅)で計算 した。縦軸に玄室比

,横

軸 に玄室幅をとって点 をお としたのが図

3で

る。点の分布 を見 ると

,幅 1.9m以

上で玄室比1.0〜2.2付近の もの

,幅 1.2m必

上で玄室比1.0

2.5付近の もの

,幅 1,2m以

下で玄室比1.7以上の もの

,の 3つ

に分かれる。これを仮 に順 に

A群 , B群 , C群

と名付 ける。

A群

は大 きくて幅広なので幅広プラン

, B群

は小 さくて幅広な ので短小プラン

, C群

は小 さくて細長い と言 うことで狭長プランといいかえることがで きるだ ろう。尚

,幅

1.6〜 1,7付近で大 きく上に外れた点があるがこれは

B群

にいれてお く。

前壁 (図

8参

)

玄室入回上部に

,石

材 を積み上げて壁 を構築 したものを前壁 と呼ぶ。鋤崎古墳や横 田下古墳

‑50‑

(7)

︵玄

竪穴系横 口式石室小考

°

│.

   .

° │。

8=

平面形の分類

も僅かだが玄室入日の上に石材が積まれてお り前壁有 りと見なす。このような基楽で前壁の有 るものと無い ものに分類す る。

袖の構築法

,墓

,段

は① に同 じ。

以上の分類 にしたが って相関関係 をとったのが図

4で

ある。平面形 と前壁の相関関係 を見る と

,A群

B群

が前壁有

, C群

が前壁無にほぼ対応 している。

C群

には前壁有がかな り含 まれ ているが

,こ

の種の小形の石室で天丼石 まで残 っているのは非常に少な く

,こ

れ らがはた して 例外的なもの として捉 えられるか どうかは不明である。一応 ここでは

C群

は前壁無に対応する としてお く。次 に平面形

,前

壁 と他の属性の相関関係 を見ると

,A群 , B群 ,C群

でそれぞれ

対応の仕方が異なる。蒲原は前壁の有無 を重視 して竪穴系横 口式石室 を抽出 したが

,こ

の種の 石室で上部 まで残 っているものがほとんど無いことを考えると

,個

別の石室 をどう認識するか とい う点で問題がある。 したがって

,以

上の結果から前壁の有無 も重要な指標 として考慮する が

,平

面形 を最 も重視 して分類 を行い

,A群

を北部九州型(初期横穴式)石

A類 , B群

を北部

九州型石室

B類 =無

羨道型(横穴式)石室

, C群

を北部九州型石室

C類 =竪

穴系横 日(型横穴)式 石室 と名付 ける。

これまでの検討により筑前の横穴式石室は図

5の

ように分類 される結果 となった。 もう

1度

竪穴系横 口式石室にういてのみ説明すると

,羨

道がな く

,板

石 を用いた閉塞 を行 うもので

,幅 1.2m以

,玄

室比1,7以上の前壁の無い石室 ということになる。その特徴 としては

,段

を有 し,

︒ ︐

・ ︒ ・学 中 .一

︲ 十 キ

ヤ・

︐ ︲

● キ

m)

‑51‑

(8)

  

C B

A

1

0 1 2

C 6

B 1

A 1 4

征︻

C 7

B 44 A

lb

C 7 11

B

A 3

1

5

0

2

征ヽ

1 1

lb

征ヽ 1 1 2 6

1 3 2 7

4

螂 州 初期横 穴対 石室

{:3褻

ζき身 彗せき

(北部九州型)両 袖型(横穴式)石 室

横穴式石室の分類

円墳 の大 き さ

‑52‑

釜 塚)

︵個数︶

2 0

t…:;│『

)

(9)

竪穴系横口式石室小考

墓道 は斜 めにはい るようになっているのが一般 的で

,塊

石積 み (板石積 み

)あ

るい は板石 を立

てて内側 に突 出させて袖部 を形作 る ものが多い

,な

どが挙tデられ る。

ま とめ

上述 の ように して竪穴系横 口式石室 をは じめ とす る初期横穴式石室が分類 されたわけだが, それ らの各石室群が全体 の中で 占め る位置 について若干考 えてみたい。

柳 沢 は前述 の よ うに初期横穴式石室 を

A型

(北部九州型

)と B型

(竪穴系横 口式石室

)に

,そ

の差 を階層差 に求 めた 。つ ま り

,A型

は前方後 円墳 や大形 円墳 に

, B型

は中小古墳 に 採用 され る と考 えた。本論 で は

A型

A類 , B型

B類 , C類

にだいたい対応す る。そ こで各 石室群 とそれが採 用 され る古墳 の墳形

,墳

長 との関係 を見 る。筑前地方 の該期 の円墳 の大 きさ につ いて度数分布 をとると(図

7),約 30m以

上が大形

,20m前

後 〜

30mが

中形

,17,8m以

下が

小形 とい うふ うに大別で き

,さ

らに小形 は

10mぐ

らい をさかい に

2グ

ループにわかれる。 これ を基 に墳形・墳長 を前方後円墳

,大

形 円墳

,中

形 円墳

,小

形 円墳(大

),小

形 円墳1/1ヽ)の

5段

階 にわ け

,各

石室群 との対応 関係 を見 る と

,図 7の

ような結果 になる。 これを見 る と

,大

枠 で は 柳沢のいうような関係が成 り立つ といえる。

A類

は前方後円墳 と大形円墳

, B, C類

は中

,小

円墳 とほt餅寸応 している。大,中円墳の部分 は

B類

A類

で若千重なっているが,墳 丘の大 きさ は各地域 ごとで相対的に変わって くるので

,大

きさを単純に比較で きない面 もあるだろう。さ て

,初

期横穴式石室にみ られるこのような階層差 は

,両

袖型石室になって も基本的には存在す る。 また横穴式石室採用前 の竪穴系墓制の段階で も存在する。 このことは横穴式石室の採用 によって も古墳時代の基本的社会体制

,墓

制によって社会関係 を象徴 させる体制 というものに 大 きな変化はなかったことを表 している。この時期は古墳文化がかな り変質 していて

,各

地で

地域性が現れて くることも考慮すると

,そ

の地域性の 1つ として横穴式石室が北部九州に一般 的に採用 された と考えることもで きる。そう考えると

,北

部九州型初期横穴式石室の採用 とそ の広範囲にわたる分布が

,畿

内地方を中心 とした体制か らの離脱

=九

州連合政権的なものには 直接 にはつながっていかないように思える。 もっとも

,横

穴式石室の分析だけでその正否 を語 るこ とは不可能 なので ここで はこれ以上ふれない。

B類

C類

につ いて は

,傾

向 として は小形(大)

と小形(小)に それぞれ対応 す るが

,小

(大)と小 形 伽ヽ)が半J然 と分離 で きない こ とを考 える と

,階

層差 と考 えるには若千無理が あ るように思 う。 む しろ

,竪

穴系横 回式石室が前壁 を持つ と同時 に法 量が増大 して

,継

続す る墓制へ と変化 した と蒲原

A B C

前 方 後 円 墳 6

大 形 円 墳 1 1

中 形 円 墳 3 4

小 形 円 墳 (大)

小 形 円 墳 伽ヽ) 24

‑53‑

石室形式 と墳形

(10)

が考えたように

, B類

C類

の関係 を時間的変化 として捉 えたほうがいいだろう。墳丘の大 き さの違い も

,石

室の法量の増大の結果 と考えれば納得がい く。ただ し

, C類

か ら

B類

へ とス ムーズに変化するか どうかは明 らかではない。蒲原や森下の研究成果 を見ると

, 2つ

の石室群 の共存する期間はかな り長期間あるようだ。 しか し

,土

生 田が指摘 しているように

,古

墳 の 年代

,特

に横穴式石室の年代 を決定するに当たってはかな り慎重 な手続 きが必要怒。それを 考慮 して個々の石室の年代 を決定 し

,そ

れか ら各石室群の存在期間を推測 しなければならない だろう。今回は

,力

量不足で個々の石室の年代 について再検討 を行 うにはいたらなかったので,

B類

C類

の関係 については今後の課題 とする。

ところで

,北

部九州型石室

B類

と両袖型石室の各属性の特徴 を比べてみると

,か

な り似た状

況を示 していることが図2と

4か

らわかる。このことは

, B類

がその最終段階において

,両

袖型石室の特徴のうち羨道以外のほとんどの特徴 を備 えていることを意味 している。つ ま り,

両石室群の技術的連続性 を強 くうかがわせる。 ところが

,羨

道の付設や閉塞法の違いは

,全

く 異なった石室 との印象 を与える。これは

,羨

道 を持 った他の石室か らの影響 を絶 えず受けなが

,限

りな く両袖型石室に近づ き

,技

術的には両袖型石室の築造が可能だったにもかかわ らず, なお中

,小

古墳 に北都九州的伝統 を存続 させ る意識が残 っていたことを推測 させ る。それが後 期群集墳の形成の開始 とほぼ同時期 に両袖型石室に変化するのは

, 2つ

の事象 との間になんら かの関連性 を感 じさせ る。首長層への両袖型石室の採用の影響 を受けて

,中 ,小

古墳で も採用 されるようになると考えられるが

,そ

れが全国的に普遍的な群集墳 と関連するのであれば

,首

長層でのその採用 も

,磐

井の乱などの個別の事件 と関連 させて考 えるより

,全

国的な現象の中 で理解するのが よいだろう。例 えば

,古

墳文化の再整理 を目的 として

,石

室形式の統一が全国 的に行われたのではないか とも考えられる。

以上

,竪

穴系横 口式石室の定義 をおこない

,そ

れを基 にして北部九州の初期横穴式石室 につ いて若干の考察をおこなってきたが

,当

初の構想 に反 しどれ も中途半端で

,課

題だけが数多 く 残 った。今後

,本

論 を基礎 として研究 を進め

,そ

れらを 1つ ずつ解決 してい きたいと思 う。

 

 

羨 道 閉 塞 平 面 前 壁 墓 道

l 鋤崎古墳 A

1

1

2 丸隈山古墳

Ia

A

1

2

3 釜 塚 古 墳

Ia

A 2

1

3

4

浦谷

Cl号

C 0 0

5 浦谷

11号

C

1

浦谷

E3号

4L C 2

1

7 宇美岩長浦

4号

B 3 1 5

相原7号墳 B 2 1 6

三郎堂 の上2号墳 B 4 2

7

8‑a 

石室一覧表

‑54‑

L

(11)

期 に

竪穴系横 口式石室小考

鋤崎古墳

     2̲九

限山古墳

釜塚古墳

     4 

浦谷Cl号

浦谷11号

   6 

浦谷E3号

宇美岩長浦4号

 8 

相原7号

三郎堂の上2号

(出

典は各報告書)

o       5ぃ

嘲 醐 ︲ 悟

8‑b 

各石室実測図 鮪 尺1/150

先 唾

L

‑55‑

(12)

  

本論 は

,1987年

度修士論文 と して九州大学 に提 出 した ものの一部 を大幅 に修正 して書 き上 げ た ものである。論文作成 にあた って

,岡

崎敬

,横

山浩―

,西

谷正

,藤

尾慎 一郎 の各先生 が た を は じめ

,考

古学研 究室 の皆 さん

,な

かで も郭鍾詰

,テ

,宮

井善朗

,古

野徳久

,濤

口孝司

,中

園聡

,太

田睦の各氏 (当

),及

,柳

沢一男

,橋

口達也

,田

崎博 之

,吉

留 秀敏

,山

田元樹 の

各氏 には

日頃か ら多大 な御指導

,御

教示 をいただいた。 また

,近

藤義郎先生

,新

納泉先生 に

,本

論 をま とめ るにあた って

,諸

々の御助言 をいただいた。末筆 なが ら記 して篤 く感謝 いた します。

(1)尾

崎喜左雄

 1962 

「横穴式石室平面図形の企画」『考古学雑誌』第48巻4号

 

考古学会 1966 F横穴式古墳の研究』

 

吉川弘文館

白石太一郎

 1966 

「畿内の後期大型群集墳 に関する一試考一河内高安千塚及び平尾山千塚 を中心 とし て一」『古代学研究』第

42・

43合併号

 

古代学研究会

(2)樋

口隆康

  1955 

「九州古墳墓の性格」F史林』第38巻3号

 

史学研究会

小林行雄

  1961 

「中期古墳文化 とその伝播」『古墳時代の研究』

 

青木書店

(3)白

石太一郎

 1965 

「日本における横穴式石室の系譜→横穴式石室の受容に関する一考察一」

 

『先史 学枡究』

同志社大学先史学研究会

(4)賀

川光夫・小田富士雄

 1962 

『七双子古墳群』大分県文化財調査報告書第8集

(5)山

中央彦

  1965 

『稲童古墳群第二次調査抄報』

 

蔵内古文化研究所

(6)柳

沢一男

  1975 

「北部九州における初期横穴式石室の展 開一平面図形 と尺度 について一」『九州考 古学の詣問題』 福岡考古学研究会

(7)柳

沢一男

  1982 

「竪穴系横 口式石室再考」『森貞次郎博士古稀記念古文化論集』下巻

 

森貞次郎先

生古稀記念論文集刊行会

(8)柳

沢一男

  1984 

「福 岡市鋤崎古墳の横穴式石室」『月刊考古学 ジャーナル』No 238 ニューサ イエ ンス社

1984 

『鋤崎古墳』福岡市埋蔵文化財調査報告書第112集

 

福岡市教育委員会 1986 『九限山古墳 Ⅱ』福岡市埋蔵文化財調査報告書第146集

 

福岡市教育委員会 1989 「四.古墳の変質」『古代 を考える

 

古墳』

 

白石太一郎編

 

吉川弘文館

(9)小

日富士雄

 1980 

「横穴式石室の導入 とその源流」F東アジア世界 における日本古代史講座』第4巻 学生社

1986 「Ⅳ.古墳時代」『図説発掘が語 る日本史』6九州・沖縄編

 

横山浩一編

 

新人物 往来社

(10)蒲原宏行

  1983 

「竪穴系横 口式石室考」『古墳文化の新視角』

 

古墳文化研究会編

 

雄山閣

(11)土生田純之

 1983 

「九州の初期横穴式石室」『古文化談叢』第12集

 

九州古文化研究会

(12)森下浩行

  1986 

「 日本 における横穴式石室の出現 とその系譜一畿内型 と九州型」『古代学研究』第 111号

 

古代学研究会

1987 「九州型横穴式石室考―畿内型出現前・横穴式石室の様相一」『古代学研究』第■

5

 

古代学研究会

(13)林日佐子

  1982 

「 日本 と朝鮮 における竪穴系横 口式石室」『考古学 と古代史』同志社大学考古学 シ リーズ

森浩一編

 

同志社大学考古学シリーズ刊行会

(14)小田富士雄

 1966 

「Ⅲ

 

古墳文化 の地域的特色

 2.九

州」F日本の考古学』 Ⅳ古墳時代上

 

近藤義 郎・藤沢長治編

 

河出書房

(15)羨道の概念は後述する。

‑56‑

L

(13)

竪穴系横 口式石室小考

(16)後で述べる北部九州型石室A類 については

,筑

前地方だけでは資料数が不足するので,周辺地域のもの も含んでいる。

(17)濤口孝司はこのような方法に対 して,最初に提起 した田中良之を尊重 し「田中の方法」と名付けたが, これは田中の意図を忠実に後継 したものにのみ使用されるべ きだと考える。本論では田中の意図からか なり逸脱 しているような気がするので,あえて「田中の方法」とは呼ばない。

滞口孝司

  1987 

「土器における属性伝播の研究一凹線文の発生 と伝播一」F東アジアの考古 と歴史 岡崎敬先生退宮記念論文集」中

 

同朋社出版

田中良之

  1982 

「磨消縄文土器伝播のプロセスー中九州を中心 として一」『森貞次郎博士古稀記念 古文化論集』上

 

森貞次郎先生古稀記念論文集刊行会

13に同 じ。

註7に同 じ。

大形古墳 と小形古墳の石室 を比較すると,大きさはもちろん違 うが,初期の段階では大形古墳の ものは 極端に玄室高が高 い。 また,大形古墳 には複室

,小

形古墳 には単室が多い。

山中英彦 と児玉真―は,先行する竪穴式石室 をい くつかの階層に分類 し,それが竪穴系横 口式石室に継 承 されると指摘 している。

山中英彦

  1974 F東

宮 ノ尾古墳群』

 

北九州市教育委員会

児玉真

‑  1980 

『若宮・宮 田工業団地関連埋蔵文化財調査報告書』第3集

 

福岡県教育委員会

註10,12に同 じ。

上生田純之

 1988 

「古墳 と土器」F季刊考古学』第24号

 

雄山閣

報 告 書 一 覧

1『 鋤崎古墳』

   

福岡市埋蔵文化財調査報告書第112集 2『 丸隈山古墳 Ⅱ」

 

福岡市理蔵文化財調査報告書第146集 3『釜塚』

     

前原町文化財調査報告書第 4集 4『浦谷古墳群I』

 

宗像市文化財調査報告書第 5集 5『宇美観音浦」

6『 相原古墳群』

  

宗像町文化財調査報告書第 1集 7『 城 ヶ谷古墳群 Ⅱ』宗像市文化財調査報告書第 8集

追 記

校正段階で老司古墳の報告書を入手することができたが,

『老司古墳』

   

福岡市埋蔵文化財調査報告書第209集

福 岡市教育委員会 1984 福岡市教育委員会 1986 前原町教育委員会 1981 宗像市教育委員会 1982 宇美町教育委員会 1981 宗像町教育委員会 1979 宗像市教育委員会 1985

時間的余裕 もないので,別の機会に検討 したい。

福岡市教育委員会 1989

‑57‑

(14)

参照

関連したドキュメント

[r]

1 割見塚古墳 千葉県富津市 方墳 一辺40m 奥室中心型. 2 多功大塚山古墳 栃木県河内郡上三川町 方墳

[r]

《博士論文要旨および審査報告》 小林孝秀関東における横穴式石室の 系譜と地域社会の実相 一一学位請求論文一一 I 論文要旨 小林孝秀

The “mountain area / hilly acquisition model” proposes that stone for Wakamiya Hachiman Tumulus and No.1 Tsukegawa Tumulus was acquired from the hill located

  From the technological development perspective, this study reveals the construction sequence of these chambers and analyzes the change in measurement system in the 7

岩村 孝平. (古

[r]