Ⅸ 横穴式石室設計論
1.はじめに
古墳およびその内部構造の一種である横穴式石室は,ともに厳密な設計にもとづくであろう構築物 として,多くの研究者によって企画性の把握が試みられてきた。すでに多年の研究史を有し,それぞ れ古墳研究の一分野を形成しているといえる。しかし,周濠を含む古墳の外形を主な対象とする古墳 の築造企画論と,横穴式石室の構築企画・尺度論とは別個の研究分野として,たがいに関連して論じ られることは少なかったように思われる。特に横穴式石室の型式研究は,石室を墳丘から完全に切り 離し,石室内部の輪郭線の変異や石積みの状態などから形態的特質を抽出しようとする姿勢に終始し てきた感がある。
筆者は,円墳の築造企画の検討から出発して,あらゆる墳形において墳丘主丘部の直径または一辺 の24等分値を基準単位とする築造企画が存在したことを明らかにしてきた。墳丘各部はその基準単位 によって割りつけられるが,埋葬主体部(以下「主体部」という)についても,設置位置や規模など が同じ基準単位によって決定され,古墳全体の築造企画の中に組みこまれていた可能性は高いと考え ている。竪穴系主体部についても墳丘企画との関連性のうかがわれる事例が認められるが,横穴式石 室については,総じて長い室内空間をもつことから,一層深い関連性が存在したと推測される。
玄室を墳丘内のどこに置き,羨道を墳丘斜面のどこに開口させるかという問題は,古墳の設計に当 たって考慮すべき重要な要素といえる。少なくとも横穴式石室の長さは,墳丘と同じ基準単位によっ て計画されなければ,両者の整合性は保てないように思われる。同じ基準単位が,石室の幅や高さの 決定に用いられた可能性も十分考えられる。横穴式石室の構築企画や使用尺度については,墳丘との 関連性を考慮した研究姿勢が必要と考え,このような観点から,古墳の設計計画において横穴式石室 の企画がどのように位置づけられているか検証してみることとする。
石室構築企画においては,羨道の幅を基準単位としてその単位数で石室各部の構成が決定されたと みて論を進めるので,羨道の幅をもって「石室規格」とみなすこととしたい。本稿は石室の細かい型 式編年を目的とするものではないので,石室の年代的位置づけについては大筋で白石太一郎の編年と 暦年代比定(白石1995,1999)にしたがい,同氏編年の石舞台式の時期までを対象とする。
2.物集女車塚古墳の墳丘と石室
墳丘と石室相互の基準単位および企画性を知るためには,墳丘,石室とも良好に遺存し,それぞれ 当初の状態をとどめる古墳を求める必要がある。そのような好条件を残す古墳として,墳丘の基準単 位を正確に捉えることができ,石室の規模や墳丘内における設置位置などについて検討するきっかけ となったのが京都府向日市の物集女車塚古墳(6世紀中葉)である(秋山ほか1988)。
墳丘規格 墳丘の損壊などで規模の把握が困難な古墳については,測量による計測値に近い規格を 規格表の中から幾つか選んで円周図を作成し,墳丘各部と円周との一致度の最も高いものが当初規格 とみなされる。報告書の推定は後円部径31mで,これは古墳尺の径24歩(32.9m)と径21歩(28.8m)
の中間に位置するが,円周図によって後者の規格と判定された。1単位は7/8歩,1.20mである。
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図Ⅸ-1 物集女車塚古墳後円部円周図(1/500)および石室方格図(1/100)
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墳丘の企画図(図Ⅸ-1)によれば,石室は玄室中央を後円部中心に置き,南7単位目の第2段裾に開 口するよう全長9単位に企画されているようである。石室の長さが,墳丘と同じ基準単位によって企 画されている可能性は高いが,石室の実測図ではどのように観察されるであろうか。
方格図による石室プランの把握 図Ⅸ-1の下は石室実測図に,墳丘設計の基準単位(1.20m)の方格(
太実線)を重ねたものである。石室の長さは,奥壁から羨門部までちょうど9単位である。奥壁から 2単位目の玄室中央を墳丘中軸線が通るので,羨門は中軸線から7単位目の第2段裾の位置にくる。
玄室は長さ4単位,中央が軽く胴張りするが,奥壁と玄門部ではちょうど2単位の幅となる。羨道 の長さは5単位で,床面の中ほどに置かれた仕切石の奥側の縁は,玄門部から2単位目の方格線に一 致する。羨道の幅は,仕切石より奥ではちょうど1単位で,羨門へ向かい多少幅を広げる。羨道天井 石のうち前3石は前方にせり出しているが,本来は天井石の先端も奥壁から9単位目に一致していた ものと思われる。玄室高2単位半,羨道高は天井石奥4石がほぼ1単位半,手前3石はそれより1/4 単位高くなっていた可能性があり,羨門から2単位目に天井の段差があったとみられる。玄室側壁は,
両側とも床面から天井部までほぼ半単位持ち送られ,天井部の幅は1単位となる。
このように,石室の幅や高さが1単位やその1/2,1/4の方格線によく一致するのを見ると,これを 偶然の一致とすることは到底できない。この古墳では,墳丘築造に際して用いられたのと同じ基準単 位によって,石室の長さだけでなく,その室内空間の主要な構成が決定されていることを認めてよい であろう。
近隣の古墳の事例 これとよく似た石室をもつのが,同じ淀川右岸のやや下流部に位置するほぼ同時 期の大阪府茨木市南塚古墳(川端ほか1955)である。同じく1単位1.20mの方格図(図Ⅸ-2)では,
羨道幅1単位,玄室長4単位,幅2単位という同じ平面プランとなる(高さは2単位1/4とわずかに 低い)。羨道の長さは破壊のため不明であるが,閉塞石の内側裾が玄門から半単位目の線に一致する ことから,物集女車塚古墳より短いものだったとみられる。採土工事前の地形図から後円部の径30m ほどの前方後円墳と推定されており,石室規格の共通性からみても,後円部は物集女車塚古墳と同じ 規格であった可能性が高い。
南塚古墳の至近に位置する海北塚古墳(梅原1937)も片袖式石室をもつ。墳形,規格とも不明であ るが,羨道幅を測ると1.4mほどで,1歩(1.37m)の長さに近い。1単位1.37mの方格図(図Ⅸ-2)
では,玄室長3単位,幅1単位半,高さ2単位1/4,羨道長4単位ないし4単位半,高さ1単位半と 方格線によく一致する。玄室の幅が物集女車塚古墳などより単位数で半単位少ないのは,時期が多少 新しいとみられる(中村1993)ためか,1単位長が若干長いため単位数を抑えたものか,少ない事例 からは判断できない。1単位1歩の場合の墳丘規格は24歩(32.9m)で,主丘部規格がこの値であっ た可能性もあるが現状では何ともいえない。
このように見てくると,海北塚古墳を含む3基の古墳に,羨道の幅を基準とする石室構築企画が存 在したことはまちがいないと考えられる。その基準単位長は,歩数調整された墳丘の1単位規格値の 中から選択されているらしいことも確認された。物集女車塚古墳と南塚古墳については,墳丘と石室 の規格に同一の基準単位長が用いられていることも確実である。これは,この3基あるいはこの地域 かぎりの特殊な事例なのか,以下同様の企画性の確認される古墳の有無について検証していく。墳丘 と石室との関係を検討するための好条件を備えた古墳として,以下の検討では大和(奈良県)の巨石 使用の大型横穴式石室1)を主な検討材料とし,適宜中小規格の古墳や,畿内のその他の地域の古墳を
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図Ⅸ-2 南塚古墳,海北塚古墳石室方格図(1/150)
取りあげる。
物集女車塚古墳などで確認された石室の設計法は,これから見ていくように畿内型石室で広範に確 認されることから,「畿内型企画法」ということにする。すでに述べたように,その基準単位長すな わち羨道の計画幅が「石室規格」である。物集女車塚古墳のように,「墳丘1単位」と「石室規格」
が同一の長さであるとき,それぞれの基準単位は「共通の規格」であるといい,共通の規格を用いた 古墳全体の築造企画を「共通企画法」ということとする。
以下の記述で,石室の左右は,羨門部から玄室を見た状態での左右とする。
3.石室規格の判定法
これから畿内型企画法の実態について見ていくが,石室個々の検討に際し最も重要な作業は,石室 規格(羨道の幅)として,墳丘1単位の規格値のうちどの数値が使用されているかを判定することに あると思われるので,その判定方法についてあらかじめ注記しておきたい。歩数調整された24等分値 1単位長は,径30歩以上の大型規格においては1/4歩(1.5尺,34.3㎝)の差があるが,30歩以下の中 小規格では1/8歩(0.75尺,17.1㎝)の差しかない。したがって,羨道の幅だけでは,どの基準単位 によって企画されているのか判断に苦しむ場合があり,大方の納得も得られないと思われる。そこで,
次のような判定基準を設け,石室各部との全体的一致度を確認することにより,客観的な判定に努め た。
① 基準単位長は,羨道の最も狭い部分の幅を超えないこと。
石室によって,開口部に向かって羨道の幅が広がるもの,逆に狭まるものなどがあり,一定の幅を もつ方が珍しい。羨道の幅をどこで測るかによって大きな差が出るが,今回の検討では最も幅の狭い 部分を基準にする。
羨道には通路としての機能があり,葬列の通過や各種の棺の搬入のために一定の幅が確保されてい なければならない。石室構築の基準単位長は,造営に関わる関係者に周知され,その長さに応じて石
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表Ⅸ-1 墳丘(主丘部)・石室規格対比表
材の調達や棺の製作が行われたと推測される。したがって,羨道幅を基準単位とする構築企画にあっ ては,羨道の幅が部分的にでも1単位以下であっては何かと不都合が生じる。最も狭い部分が1単位 の長さを示していると考える所以である。1単位ちょうどより心持ち広く(遊びをもたせて)施工さ れている例も多いが,通路として指定された幅を確実に確保しようとした結果とみれば,施工者の心 理として理解できるものといえる。また,玄室ほどではないが,羨道も側壁が内側へ傾けられて上部 が多少狭くなるものが多いので,そのような場合は羨道上部の幅が基準単位以下にならないよう,床 面では基準単位より幅広く施工されたことが考えられる。また,石室の構築技法(後述)によっても,
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基準単位長より広くなる場合があったと考えている。
② 玄室の長さは,原則として基準単位長の整数倍であること。
玄室の幅は,天井石の大きさとの関係があり,側壁を持ち送りするにしてもむやみに広くすること はできないが,長さの方は比較的自由に設定することができたと思われる。羨道の長さとの兼ね合い もあるが,基準単位の何分の一といった微調整をする必要はなかったと考え,3単位,4単位のよう に整数倍にならないときは,基準単位長の推定に誤りがあるとみる。ただし,片袖式の玄室において は,半単位の端数の出る場合が多く,一つの計画性と捉えることができる。両袖式の中にも半単位の 端数の出るものが若干あり,それ以外に適当な基準単位が考えられず,他の計測部位の一致状況がよ いものについては適合例にくわえた。
羨道については,長さの捉え方は二通りある。一つは玄門部の袖石コーナーから開口部までの側壁 の長さで,本稿では羨道側壁長と呼ぶ。もう一つは袖石コーナーから羨道天井石の先端までの長さで,
これを羨道室内長とする。
③ 羨道側壁長は,基準単位長の整数倍であること。
玄室長に関する見方と同じ理由による。ただし,羨門部は後世,人為的に損壊されたものが多く,
また流土で埋まっている場合もあり,本来の先端位置の判定の難しい場合が多い。
④ 羨道室内長は,半単位までの端数で調整されていること。
羨道室内長すなわち羨道天井部の長さは,墳丘斜面部の開口位置との関係,また奥から並べてきた ほかの天井石との関係などから,必ずしも整数倍にならないものが多い。
玄室の幅については,次のように考える。
⑤ 片袖式の場合は,羨道からの拡幅が1単位またはその整数倍もしくは端数が出ても半単位まで であること。
⑥ 両袖式の場合は,左右へ半単位または1/4単位ずつ広げられていること。
基準単位は1/2,1/4と半分ずつに分割され,基本的に1/3,1/6のような分割は行われていないと考 えるが,これは基準単位長の歩数調整が同じようにして1/8歩まで分割されていることと対応した事 象とみている。ただし,石舞台式石室の中には,1/3単位ずつ拡幅されているように観察されるもの がある。玄室の幅には,羨道で認められたような「遊び」は少なく,推定される単位数ぎりぎりの幅 であることも多い。わずかに達しない場合もあるが,天井石の大きさとの兼ね合いで,できるだけ幅 は小さくしておきたいという施工上の配慮と解される。
なお,両袖式の中に,片側1/2単位に対しもう一方は1/4単位と,左右への拡幅が不均等なものが認 められる。全体の施工状況からみて単なる施工誤差とは認め難く,計画的に行われたものとみて企画 性の判定根拠に加え,仮に「半両袖式」と呼んでおきたい。
⑦ 玄室および羨道の高さは,1/4単位の方格線との一致も企画性の根拠とすること。
高さについて,無理に1単位の整数倍または半単位までの端数で収めた場合,基準長によっては不 必要に高くなったり,逆に低くなったりする。羨道には通路としての,玄室には埋葬にともなう儀礼 を行うためなどに必要な適正な高さが求められたであろう。したがって1/4単位程度の微調整が行わ れた可能性は高く,実際,方格図を作成すると1/4単位の方格線に一致するものが多い。発掘をとも なわない測量調査の場合は床面の把握が不確実であること,敷石のある場合はその上面を基準にする か,下にするかなどで把握が異なってくるが,玄室の幅の決定同様,石室の他部位の一致状況がよい 場合は1/4単位の方格線との一致も企画性の根拠とする。
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図Ⅸ-3 初期大型石室方格図(1/150)
以上の条件をすべて満たしたとき石室規格の推定が正しいと確信されるが,遺存度のよい大型石室 の場合すべての要件を満たすものがほとんどであり,規格の推定に誤りないことと,畿内型企画法に よる厳密な設計,施工が行われていることが立証される。
4.片袖式石室の規格と企画法
物集女車塚古墳より古い6世紀中葉以前の片袖式石室について検討する。結論を先にいうと,大和 の最古期の石室ですでに畿内型企画法が確認される。中小古墳が多いため墳丘規格を確認できないも のが多く,石室規格(羨道幅)と墳丘1単位を同じ長さとする共通企画法の確実な事例は認められな い。比較のため6世紀後葉の片袖式についてもいくつか検討する。
1)大型古墳の事例
市尾墓山古墳(高市郡高取町。河上ほか1984) 6世紀初頭。この時期としては大型の前方後円墳である。
後円部径38mという捉え方(石部ほか1984)もあるが,筆者の検討では径24歩(32.9m),1単位(
1歩,1.37m)の規格であることが確実である(図Ⅸ-3)。石室は,後円部第2段の封土内,後円部 中心点から完全にずれた位置にある。
墳丘1単位の石室方格図では,石室全長7単位,玄室高2単位と基準単位の整数倍になるが,羨道 幅は1単位より大きくほぼ1単位1/4の幅,玄室の長さ,幅とも1/4単位の端数がでる(図Ⅸ-3)。羨 道幅の1単位1/4すなわち1歩1/4(1.71m)は,墳丘規格30歩(41.1m)の24等分値1単位に等しい。
この値の石室方格図では,玄室長3単位半,幅は1単位半となる(図Ⅸ-3)。長さ,幅とも半単位の 端数は出るが,平面プランについてはこちらの方にやや高い企画性が認められる。この古墳では,実 際の墳丘1単位より1ランク上の規格値が,石室規格として採用されているとみてよいと思われる。
この古墳では共通企画法は採用されていないが,これは刳抜式家形石棺を搬入するための措置であ った可能性が高い。石室規格を1/4単位分大きくすることによって,最大幅130㎝前後の棺身部を羨道 から搬入することが可能となった。ただ,棺蓋は羨道から搬入されず,奥壁に搬入口を設けて石室内 1 9 5
に納められた。なぜこのような措置をとったのか,その解釈については後述する。いずれにしても,
この古墳の石室規格は墳丘1単位より1ランク大きい値とされたが,石室全長は墳丘1単位規格の7 単位分とされ,墳丘築造企画との整合性が図られたものとみられる。
墳丘企画図を見ると,奥壁の前方1単位ほどの位置に墳丘中軸線が通るので,羨道の天井石前縁は 中軸線から4単位目,側石先端は6単位目の円周上に位置することになる。第2段裾は8単位目であ るから,そこまで2単位分が封土を壁面とする墓道となるが,閉塞石で石室を閉鎖した後は墓道も埋 め戻されたことが確認されている。
市尾墓山古墳では共通企画法は確認されないものの,羨道幅を基準として石室各部を割りつける畿 内型企画法は認められるといってよいであろう。
石上大塚古墳(天理市。伊達1976) 6世紀前半代に比定される大型石室墳。後円部径67mともいわれ るが,ウワナリ塚古墳(後述)と同規格の径42歩(57.5m)の可能性が高い。その1単位は1歩3/4
(2.40m)であるが,羨道幅は明らかにそれより小さく,2ランク下の1歩1/4(1.71m)とみられ る。玄室は右へ半単位広がり合わせて1単位半の幅,長さは3単位半である(図Ⅸ-3)。石室規格は 市尾墓山古墳と同じで,玄室の平面プランも同じことが注意される(袖の位置は左右逆)。ただし,
市尾墓山古墳とは逆に,墳丘(後円部)1単位より石室規格の方が小さい事例となる。
天理市東乗鞍古墳の石室もおそらく同規格で,千賀久の指摘(千賀1997)のとおり,玄室の平面プ ランは市尾墓山古墳と同一であり,墳丘内における設置位置にも共通性が認められる。6世紀前半ま での片袖式大型石室の基本形と捉えてよいだろう。
2)中小規格の古墳
初期石室 椿井宮山塚古墳(生駒郡平群町。辰巳ほか1993)はドーム状の玄室をもち,大和では最 古期に属す。羨道幅3/4歩(1.03m)とみると玄室長4単位,幅3単位,高さ3単位となり,畿内型 企画法で企画されていることはまちがいない(図Ⅸ-4)。四壁は床面から1単位までほぼ垂直に立ち 上がり,そこから急激に持ち送られる。羨道幅1に対し玄室幅は3,また玄室幅を1としたときの玄 室の長さは1.33となる(以下この数値を玄室の「長幅指数」とし,表Ⅸ‐2,3にまとめて記載。数値 が大きくなるほど主軸方向に細長い長方形となる)。
同じ平群町の柿塚古墳(辰巳ほか1993)は,流入土のため羨道床面での幅は不明だが,方格図の検 討から1歩(1.37m)の規格と推定される(図Ⅸ-5)。玄室長4単位,幅2単位半,高さ3単位,側 壁は上2単位で持ち送られ,天井部の長さ2単位半に仕上げられる。
畿内で最古期の石室と目される大阪府柏原市高井田山古墳(安村ほか1996)は,玄門部での羨道幅 1m強で,3/4歩(1.03m)の方格図では玄室長3単位半,幅2単位となる(図Ⅸ-4)。四壁は1単 位の高さまで遺存し,それ以上は崩壊していることから,1単位の高さまで垂直に積み上げ,そこか ら急激に持ち送られてドーム状に仕上げられていたと推定される。
天理市タキハラ5号墳(河上ほか1976)は,1/2歩(0.69m)と規格は異なるが,玄室長3単位半,
幅2単位と高井田山古墳と同じ平面プランをもつ(図Ⅸ-4)。
桜井児童公園2号墳は,羨道幅89㎝との報告(網干ほか1959)から5/8歩(0.86m)の規格とみる と,玄室長3単位,幅2単位とみられるが,実際の側壁輪郭は方格線よりかなり大きく,一致度はや や低い(図面省略)。同じ桜井市のカタハラ1号墳はやや時期が下降するとみられている(橋本2000)が,
同じ0.86mの方格図では玄室長4単位,幅2単位,高さ3単位半となる(図Ⅸ-4)。ただし,幅は2 単位よりかなり広く,やはり一致度は多少低い。
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図Ⅸ-4 片袖式石室方格図(1)(1/100)
勢野茶臼山古墳(生駒郡三郷村。伊達1966)は7/8歩(1.20m)の規格で,玄室平面プランは多少 歪むが長さ4単位,幅2単位,高さ3単位,羨道側壁長4単位,高さは1単位半となる(図Ⅸ-5)。
玄室四壁は上2単位で急激に持ち送られる。円周図による検討に耐える墳丘測量図は作成されていな 1 9 7
図Ⅸ-5 片袖式石室方格図(2)(1/150)
いが,後円部径28mと報告されているように径21歩(28.8m)の規格に近く,共通規格の可能性があ る。
寺口忍海古墳群D-27号墳(北葛城郡新庄町。千賀ほか1988)2) は直径16.5mと報告され,径12 歩(16.4m)の円周図を作成すると,墳裾の埴輪列は12単位目の円周に一致し,この規格にまちがい ないことがわかる(図Ⅸ-4)。西側に直線的に張り出す埴輪列は半径16単位目で終わり,長さ4単位 の小方部をもつ帆立貝古墳の可能性が高い。墳丘の1単位は半歩(0.69m)であるが,羨道幅は袖部 で95㎝という報告のとおりこれよりかなり広い。半ランク上の5/8歩(0.86m)の方格図では玄室長 1 9 8
4単位,幅2単位,高さ2単位となり,石室規格はこの値でまちがいない(図Ⅸ-4)。この古墳でも 共通企画法は採用されていない。
やや時期の下る橿原市沼山古墳(伊藤1985)は羨道幅1歩(1.37m)とすると玄室長3単位半,幅 2単位,高さ3単位,羨道側壁長3単位となる(図Ⅸ-5)。玄室四壁は2単位の高さまでほぼ垂直に 立ち上がり,上1単位で急激に持ち送られ,天井部の幅1単位,長さ2単位に仕上げられる。直径20 mほどの円墳で,共通規格の墳丘規模(32.9m)には遠く及ばない。
6世紀後葉の石室 桜井市珠城山3号墳(伊達1960)の前方部石室は7/8歩(1.20m)の規格で,
玄室長3単位半,幅1単位半,高さ2単位,羨道高1単位半である(図Ⅸ-5)。後円部石室(両袖式
・後述)の規格より大きいが,全長,玄室幅とも単位数では小さく設定されており,従属性は示され ているといえる。高市郡明日香村八釣マキト1号墳(花谷ほか2001)も同じ玄室平面プランをもち,
羨道高も1単位半と共通する(規格は3/4歩,1.03m。図Ⅸ-5)。早く市尾墓山古墳で認められた玄 室長3単位半,幅1単位半という平面プランは,その後,群集墳中の中小規格の石室でも定式化され たプランとして広く採用されたとみられ,一々例示しないが類例は多い。
5.両袖式石室の規格と企画法(1) -前方後円墳の石室-
大和では6世紀前葉に両袖式の石室が登場し,以後大型古墳の石室としては両袖式が主流となる。
両袖式石室においても成立当初から畿内型企画法が認められ,一部には共通企画法も確認される。以 下,6世紀代の前方後円墳の主体部として設置された両袖式石室について,その企画法および墳丘設 計との関連について見ていく。
これ以降の記述では,規格値をメートルだけで表記し,歩数を省略することがある。
1)3/4歩(1.03m)の規格
前方後円墳の石室としては最も小さい規格で,1基だけ確認された。
珠城山3号墳(桜井市) 円周図による検討可能なほどの測量図を欠くが,報告書(伊達1960)の計 測は後円部径25mで,径18歩(24.7m)の規格とみられる。その1単位方格図(図Ⅸ-6)では羨道幅 1単位,玄室は左右に半単位ずつ広がり幅2単位,長さ5単位,羨道は玄室主軸に対し斜めに取りつ くが長さ7単位,全長は12単位となる。羨道途中の仕切石の内側縁は玄門から3単位目の方格線に一 致する。報告書の計測値を信頼すれば,墳丘1単位と石室規格が等しい共通企画法の事例に含まれる。
後円部中心を玄室中央付近に置き,石室全長が12単位なので羨道先端は10単位目付近に開口し,その 先2単位は封土切通しとなって,そこに閉塞石が置かれていたと推測される。前方後円墳の事例では ないが,八釣マキト5号墳(高市郡明日香村。花谷ほか2001)の石室は珠城山3号墳と同規格で,羨 道途中の仕切石が玄門部から2単位半と切りのよい位置にくる例として参考図を掲げておく(図Ⅸ-6)。
2)1歩1/8(1.54m)の規格
前方後円墳の両袖式石室として7/8歩(1.20m),1歩(1.37m)の規格は確認できず,その上の 1.54mの規格が5基確認された。
市尾宮塚古墳(高市郡高取町。河上1984) 市尾墓山古墳にすぐ後続する首長墳で,前方後円墳に設置 された両袖式石室としては最古期に属す。後円部径23m(木場1998)といわれ,筆者の検討でも径18 歩(24.7m)の規格の可能性が高いが,羨道幅はその1単位(1.03m)よりかなり広い。1.54mの方 格図では玄室長4単位,幅は左右に1/4単位ずつ広がって都合1単位半,羨道は室内長2単位半,側
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図Ⅸ-6 両袖式石室方格図(1)(1/150)
壁長3単位と短い(図Ⅸ-7)。既発表の図面では墳丘内における石室の位置は明らかでないが,石室 全長は墳丘1単位の10.5単位分になるので,奥壁を後円部中心に置き,1単位半の封土の切通しを経 て第1段裾に開口したものと思われる。
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図Ⅸ-7 両袖式石室方格図(2)(1/150)―方格はすべて1.54m―
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新宮山古墳(御所市。奈良県教委1980) 径25mの円墳とされるが,柄鏡状の地形が見られ,後円部隆起 斜道(近藤2000の用語)も認められるので北東面する前方後円墳の可能性が高い。径21歩(28.8m)
の円周図では,12単位目の円周が墳裾部の比較的密な等高線と外側の疎らな等高線の境界に一致し,
この規格の可能性が高い(図Ⅸ-8)。羨道幅はその1単位(1.20m)より広い。1.54m方格図では玄 室長,幅,高さとも市尾宮塚古墳と同じ単位数となり,同プランとわかる(図Ⅸ-7)。羨道は室内長 4単位,側壁長5単位と長い。家形石棺は追葬されたものであり,市尾宮塚古墳の玄室プランとの共 通性から6世紀前葉近くまで遡る可能性が高い。
二塚古墳(北葛城郡新庄町。上田ほか1962) 後円部径36mという報告のように径27歩(37.0m)の規格 の可能性が高い。墳丘1単位は1.54mで,羨道は最も狭いところで1単位の幅があり共通規格とわか る(図Ⅸ-7)。両袖式石室で共通企画法が採用された初期の事例といえる。玄室は左右へ半単位ずつ 広がり2単位の幅,長さ4単位,高さ2単位半となる。4枚の天井石は各1単位の長さがあり,断面 図で見ると前後の石の接する面は方格線にほぼ一致する。羨道側壁は6単位,玄室の長さを加えた側 壁全長は10単位とみておく。円周図の検討では,後円部中心は奥壁部にあり,羨道の先端は10単位目 の墳丘第1段肩のあたりにくるので,墳裾までの2単位は封土を壁面とする切通しになっていたこと がわかる。
平林古墳(奈良県北葛城郡當麻町。坂1994) 後円部径33mと推定され,径24歩(32.9m)の可能性が 高い。玄室ほぼ中央(奥壁から2単位目)に後円部の中心を置いて円周図を作成すると,墳丘第2段 裾の列石は7単位目の円周に,墳裾は12単位目にほぼ一致し,規格の推定に誤りないことが確認され る(図Ⅸ-8)。墳丘1単位は1.37m,羨道幅は1.71mほどであるが,どちらの方格図も適合せず,
1.54mの方格図(図Ⅸ‐7)の適合度が比較的高い。玄室長3単位半,幅2単位,羨道途中の仕切石 列の外側線は玄門部から4単位半の方格線に一致する。仕切石を境に羨道側石の大きさや積み方が変 わり,報告者によればここまでが羨道部であるから石室全長は8単位となる。前庭部末端の仕切石列 は奥壁から13単位の方格線に一致する。後円部中心から羨道仕切石まで6単位,歩数ではほぼ7歩(
6.75歩)である。墳丘企画の1単位は1歩であるから,羨道仕切石は第2段裾(7単位目)にほぼ一 致することになる。前庭先端までは11単位,歩数では12歩強で,墳裾に沿って仕切石列が置かれてい ることになり,墳丘と石室の規格は共通ではないが,墳丘築造企画との整合性が綿密に計算されてい ることがわかる。
烏土塚古墳(生駒郡平群町。伊達ほか1972) 後円部径35.3mという報告のように径27歩(37.0m)の 規格とみられ,羨道は玄門近くの最も狭まったところで1単位の幅があり,共通規格であることが確 実である(図Ⅸ-7)。玄室長4単位,玄門から左右への拡幅は不均等で,半両袖式のように見える3)。 玄室高3単位,奥壁,前壁は垂直に立ち上がり,玄室側壁面は3×4単位の長方形となる。羨道側 壁長は現状5単位であるが,排水溝がいったん途切れる部位からみて本来は6単位の長さがあったと 思われる。円周図の検討によれば後円部中心は奥壁部にあり,二塚古墳と同様の位置取りが行われて いたことがわかる。
3)1歩1/4(1.71m)の規格
ウワナリ塚古墳(天理市。伊藤1976,藤井1980) 後円部径について諸説あるが,筆者の検討では42歩(
57.5m)の規格である(図Ⅸ-9)。墳丘1単位は2.40mであるが,羨道幅はこれよりかなり狭い。流 入土上面の実測図では2mほどあるが,この古墳の場合,羨道の側壁は上部の方が広がっており,床
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図Ⅸ-8 新宮山古墳および平林古墳後円部円周図(1/500)
面で測ればもう少し狭くなると思われ1.71mの規格とみておく。玄室長4単位,左右への拡幅が不均 等な半両袖式とみられ,右にほぼ1/4単位,左に半単位広がる(図Ⅸ-6)。さきに見た石上大塚古墳 同様,後円部の1単位より2ランク下の石室規格をもつことが明らかである。
4)1歩3/4(2.40m)の規格
蛇塚古墳(京都市。梅原1938b,京大考古学研究会1971) 大和の石室では,後述する石舞台古墳などの 2.06mという規格が最大であるが,これを上回る2.40mという規格をもつ唯一の石室である。全長7
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図Ⅸ-9 ウワナリ塚古墳企画図(1/1500),牧野古墳ほか円周図および方格図(1/800)
単位,玄室は長さ3単位,左右に1/4単位ずつ広がり1単位半の幅,羨道長は4単位である(図Ⅸ-6)。
早く封土を失い後円部規格は確認できないが,古墳周辺の1/2000現況図(京都市埋文研1989)に見ら れる前方後円形の宅地境界線から,後円部直径は50mほどとみられ,径36歩(49.3m)の規格であっ
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図Ⅸ-10 両袖式石室方格図(3)(1/150)
た可能性がある。その1単位は2.06mなので,石室規格の方が1ランク大きい例となる。
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6.両袖式石室の規格と企画法(2)―天王山・石舞台式―
7世紀初頭から前葉に位置づけられる白石編年の天王山式および石舞台式の大型石室においても構 築企画の基本は変わらず,前代までと同様の畿内型企画法が認められる。大和でも支配者層墓として 前方後円墳が築造されることはなくなり,方墳または円墳が営まれ,大型のものでも墳丘規格は30歩
(41.1m)を中心にその前後1ランク程度の範囲に限定される。その1単位は羨道幅として適度な長 さであり,共通企画法の採用された古墳が多くなる。
1)天王山式
牧野古墳(北葛城郡広陵町。河上1987) 直径60mほどの三段築成の円墳ともいわれるが,最下段は丘 陵先端の自然地形4)と捉え,「二段に築成され,第一段(下段)の上面に横穴式石室の床面がくるよ う企画されたものであろう」とする見解(白石1974:P63)にしたがいたい。径30歩(41.1m)の規 格とみられ,墳丘中心を玄室中央に置く円周図を作成すると,12単位目の円周は,墳丘南半では比較 的密にめぐる墳裾の等高線とその外側のまばらな部分との境界線に一致する(図Ⅸ-9)。第1段肩は 10単位目,第2段裾は8単位目の円周に一致する。石室方格図(1単位1.71m)によれば奥壁から羨 門部まで10単位,天井石先端まで9単位,閉塞石の内側線までは8単位である(図Ⅸ-10)。玄室長 4単位,幅2単位,高さ2単位半,側壁は左右とも半単位持ち送られ,天井部の幅1単位となる。奥 壁は初め垂直に立ちあがり,途中から半単位分内傾する。前壁の傾斜も半単位なので,天井部の長さ は3単位となる。羨道側壁長6単位,室内長5単位,高さは1単位1/4である。石室各部は方格線と よく一致し,持ち送りも左右,前後相称に施工され,高度の企画性と構築技術の存在がうかがわれる。
墳丘中心は玄室中央にあり,そこから羨道側石先端まで8単位,天井石先端まで7単位となり,墳丘 第2段裾に石室が開口し,斜面の途中に天井石先端がくるよう,墳丘築造企画の中で位置づけられて いることがわかる。
天王山古墳(桜井市。梅原1938a) 牧野古墳の石室と同企画といわれる(白石1974:P114)。同じ基 準単位の石室方格図を作成すると,羨道は玄門部の最も狭いところで1単位の幅,石室各部の単位数 は平面,立面とも牧野古墳と同一で,玄室側壁の持送り,奥壁および前壁の傾斜幅も同じである(図
Ⅸ-10)。墳丘も,墳形の違いはあるが同規格の可能性が高い。牧野古墳と同じく墳丘中心を玄室中 央に置いて方30歩の方格図(図Ⅸ-9)を作成すると,墳裾は12単位目の方格線に一致する。
鉢塚古墳(大阪府池田市。富田1997) 円墳で,墳丘規格の正確な判定は難しいが,牧野古墳などと同 じ径30歩の可能性が最も高い。石室規格はその1単位より半ランク下の1.54mであるが,玄室長4単 位,幅2単位,羨道室内長5単位,側壁長はおそらく当初6単位と,平面プランは牧野古墳などと同 一である(図Ⅸ-10)。玄室高は3単位1/4ときわめて高い。
越塚古墳(桜井市。伊達1960) 径40mの二段築成の円墳という報告のとおり径30歩(41.1m)の規格 とみられる。円の中心を玄室中央に置く円周図では,第2段裾は8単位目,第1段肩は10単位目ない し11単位目,裾は12単位目の円周に一致する(図Ⅸ-9)。共通規格の方格図によれば,玄室は左右に 1/4単位ずつ広がり1単位半の幅,長さ3単位,羨道側石長6単位半,室内長5単位半となる(図Ⅸ- 11)。玄室中央(奥壁の手前1単位半)に墳丘中心を置くと,側石先端は8単位目の墳丘第2段裾の 位置にくる。羨道天井石の先端は7単位目なので,1単位内側の斜面途中に顔を出し,石室が第2段 裾部に開口するよう企画されていることがわかる。
都塚古墳(高市郡明日香村。網干ほか1967) 墳丘の遺存が悪く,30m規模の円墳ないし方墳ともいわ 2 0 6
図Ⅸ-11 両袖式石室方格図(4)(1/150)
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図Ⅸ-12 両袖式石室方格図(5)(1/150)
れるが,石室規格は1.71mなので,墳丘規格30歩の古墳であった可能性も考えられる。玄室は左右に 1/4単位ずつ広がり1単位半の幅,長さ3単位,高さ2単位である。奥壁上半と前壁は半単位傾斜し,
天井部の長さは2単位になる(図Ⅸ-11)。越塚古墳と同規格で,奥壁,前壁の傾斜の有無で玄室側 壁の立面プランは全く相違するが,玄室の平面プランも共通する。
水泥塚穴・南古墳(御所市) ともに時期判定に議論の分かれる古墳であるが,どちらも袖石は立柱 状の一石で,その上に直接見上石が載る型式であり,天王山式の範疇に入るとみてよいと思われる。
塚穴古墳(河上1978)の規格は1.71mで,玄室長3単位,高さ2単位,羨道は室内長3単位半,側壁 長4単位半,高さ1単位である(図Ⅸ-11)。問題は玄室の幅で,現況の確認でも左右への拡幅が不 均等な半両袖式とみられる。施工上のミスとも考えられるが,右1/4 単位,左半単位の拡幅で都合 1単位3/4の幅と捉えておきたい。
南(蓮華文)古墳(網干1961)は1.54mの規格で,玄室長3単位,羨道側壁長4単位とみられる。
この玄室も半両袖式のように見えるが,床面に堆積した土砂の面で実測されており,当初の床面で見 れば左右とも1/4単位ずつ均等に広がっていた可能性が高い(図Ⅸ-11)。両古墳とも直径20m以下の 円墳で,既発表の図では正確な規格判定はできないが,墳丘1単位は石室規格より大幅に小さく,こ の時期の大型石室墳としては異例である。
ツボリ山古墳(生駒郡平群町。久野1972) 1.71mの規格で,玄室長は越塚古墳などの3単位より短い 2単位半,高さは1単位半,幅は袖部で1/4 単位ずつ広がるが,奥壁部ではその半分ほどしか広が らない(図Ⅸ-12)。越塚古墳などよりさらに小型化した玄室をもち,家形石棺を納めれば何らかの 儀式を行うスペースは全くない。天井も低く,玄室内での石棺蓋の開閉は困難であろう。玄室の小型
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図Ⅸ-13 石舞台古墳方格図および塚穴山古墳円周図(1/1000)
化が葬法の変化に対応したものであれば,時期はかなり下降することになり,天王山式の範疇に収ま るものか不明であるが,比較のためこの項で扱った。
金山古墳(大阪府南河内郡河南町。小林ほか1953) 小円部の石室は1.54mの規格で,玄室の平面プラン はツボリ山古墳と同一である(図Ⅸ-12)。天井は若干高いが,家形石棺を納めれば棺前のスペース 2 0 9
図Ⅸ-14 両袖式石室方格図(6)(1/150)
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は全くない。ともに玄室と羨道に各1基の家形石棺を収めるなど,共通性の多い古墳といえる。金山 古墳の大円部は径36歩(49.3m),小円部は24歩(32.9m)の規格であり,墳丘の1単位はともに石 室と共通規格とはならない。
2)石舞台式
石舞台古墳(高市郡明日香村。浜田1937) 一辺約170尺(約51.5m)と報告され,方36歩(49.3m)の 規格とみられる5) 。玄室中央に方格図の中心を置くと,墳裾の葺石列は12単位目の方格線に一致し,
空掘の幅はほぼ4単位,その外周線は16単位目の方格線に一致する(図Ⅸ-13)。外堤の幅も4単位 で,外周線は北側での一致度がやや低いものの,ほぼ20単位目の方格線に一致し,規格の推定に誤り ないことを示す。墳丘1単位は2.06mで,その方格図では玄室長4単位,高さは2単位半となるが,
左右への拡幅は1/4単位よりは大きく1/2単位よりは小さくて,1/3単位ずつ広げられているように見 える(図Ⅸ-14)。1歩半は9尺で,1/3単位は3尺と割り切れるので,このような拡幅が行われた可 能性が考えられる。羨道高1単位1/4,側壁長6単位,石室全長は10単位とみられる。
塚穴山古墳(天理市。竹谷1990) 石舞台古墳より1ランク上の径42歩(57.5m)の規格の大型円墳で ある(図Ⅸ-13)。玄室のほぼ中央に墳丘中心があり,羨門部は6単位目の円周にほぼ一致し,その 先は12単位目の墳裾まで封土の切通しが続く。墳丘1単位は2.40mで,その値の石室方格図では玄室 長3単位,羨道長4単位,石室全長7単位となるが,羨道の幅は1単位よりかなり狭い。1ランク下 の2.06mの方格図(図Ⅸ-14)では長さだけでなく幅,高さとも適合する。玄室長3単位半,幅1単 位半,羨道長4単位半となり,茅原狐塚古墳と同一の平面プランを示す。玄室高は敷石の下面を基準 にすると2単位となる。羨道高は羨門部で1単位半であるが,玄門から3単位の間は一段低く1単位 1/4の高さになっていたと思われる(白石1999:P7)。この古墳では,石室全長は共通企画法で押さ え,幅,高さについては1ランク下の基準値で割りつけられた可能性が考えられる。石舞台古墳とは 墳形を異にするが,石室は同規格,墳丘規格は1ランク大きいことが確認された。被葬者の推定など に当たり考慮すべき重要な要素と思われる。
茅原狐塚古墳(桜井市。網干1959) 畑の境界線から一辺40mほどの方墳であったことは明らかで,方 30歩(41.1m)の規格とみられる(図Ⅸ-9)。共通規格(1.71m)の方格図(図Ⅸ-14)によれば,
玄室長3単位半,幅1単位半,高さ1単位3/4である。羨道側壁は4単位半まで遺存し,奥3単位半 の側壁は巨石3石で構成され,高さは見上石で1単位である。
谷首古墳(桜井市。清水1989) 墳丘の遺存度は悪く,一辺40mとも,東西35m,南北38mの方墳(小 島1958)ともいわれるが,筆者の検討では方27歩(37.0m)の可能性が最も高い。共通規格(1.54m)
の石室方格図では,玄室長4単位,高さ2単位半,左右への拡幅は不均等で左1/2,右1/4単位の半両 袖式のようにも見えるが,石舞台古墳と同様に左右1/3単位ずつの拡幅とみておきたい(図Ⅸ-14)。
羨道側壁は天井石の落石などから,本来は5単位の長さがあったと思われる。
7.単位数で見た石室の企画性
前節まで,片袖式,両袖式石室の企画性および墳丘1単位と石室規格との関係を見てきた。後者に ついては後で触れることとし,ここでは単位数で把握した石室各部の構成について簡単にまとめてお きたい。今回の検討によって,羨道の幅を1として石室各部の構成を単位数に置き換えて把握できる ことが明らかになった。この方法によって,今後横穴式石室の形態的特徴を客観的に捉え,型式分類
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表Ⅸ-2 片袖式石室各部構成表
や編年研究の推進に寄与できるものと考える。ただし,その面での検討は十分でなく,今回はその可 能性を指摘し,畿内型企画法の存在を検証する過程で二,三気がついた点を略記するにとどめる。
1)片袖式石室
片袖式石室の構成を単位数で示すと表Ⅸ‐2のようになる。時期別に配列すると,例外はあるもの の6世紀中葉までは玄室の長幅指数が減じ,時間の経過とともに次第に縦長のプランになっていく傾 向が見てとれる。6世紀中葉には指数2.00のものが多くなり,一つの定式の成立が認められる。この プランは1.20m(7/8歩)~1.37m(1歩)程度の中規模規格の石室に多く認められる。玄室長3単位 半,幅1単位半,長幅指数2.33という一層縦長のプランは,早く6世紀初頭の市尾墓山古墳に認めら れるが,中小古墳でも6世紀後半まで広く採用され,これも定式化した平面プランといえる。
この表で羨道の幅は必ず1であるから,玄室幅の単位数はそのまま羨道からの拡幅度合いを示す指 数となる。初期には指数3と2.5のものが認められるが,6世紀前葉の段階で指数2が一般的となり,
中葉は基本的に2,後葉には1.5となる。石室規格にかかわらず,平面プランについては時間を追っ て縦長化と拡幅率の減少が進んでいる。
羨道の高さを1としたときの玄室高を示す「高さ指数」も,基本的に時間の経過とともに減少し,
相対的に玄室高が減少していく傾向が指摘できる。羨道高は,比較的早い段階から1単位半にほぼ統 2 1 2
一されている。羨道の長さは不確実なものが多いが,物集女車塚の5単位が最長で,両袖式にくらべ 総じて短い。
長幅指数2.33という縦長プランをもつ市尾墓山の石室については,ほぼ同時期とみられる中小古墳 の石室の平面,立面プランとの相違が際だち,漸移的変化というには落差があり過ぎる。刳抜式家形 石棺と結びついた埋葬儀礼を執行するために大きなスペースが必要とされ,そのために創出されたプ ランなのであろう。ドーム状の壁体構造をとらないかぎり,天井石の大きさとの関係でむやみに横幅 を広げることは困難であり,大きな室内容量を確保するためには縦方向に大きくするのが,技術的に は最も容易な解決策であったものと思われる6)。
2)両袖式石室
表Ⅸ‐3に両袖式石室のプランを時期別にまとめた。羨道からの拡幅度合いを示す玄室幅の単位数 は,すべて1.5から2の範囲に収まり,これは片袖式との大きな相違点といえる。
玄室 玄室の長幅指数は,市尾宮塚・新宮山古墳の2.67,半両袖式のウワナリ塚の2.29など早い段 階に縦長の例が見られる。市尾宮塚・新宮山古墳の幅1単位半は,市尾墓山古墳など初期の片袖式石 室の拡幅率に見合うもので,片袖,両袖式に共通する初期型式の特徴といえる。6世紀中葉には長幅 指数2.00のものが登場して定着する。片袖式でも6世紀前葉から中葉に2.00という数値が定着してお り,これも片袖式,両袖式に共通の傾向といえる。
二塚古墳後円部石室で両袖式としては初めて現れる玄室長4単位,幅2単位,長幅指数2.00という プランは,天王山式まで比較的多く認められる。牧野・天王山古墳などその時点での第一級の古墳に 採用されており,格式のある平面プランの標準とみなされていたものと思われる。同じ長幅指数2.00 でも,越塚・都塚・塚本古墳(後述)・水泥南古墳は長さ3単位,幅1単位半と小型化しており,被 葬者の生前の政治的力量などに対応した企画性と捉えることも可能であろう。ただし,石舞台式では 玄室幅がすべて2単位以下となっており,羨道からの拡幅率の減少は構築時期が下降することを示す 可能性がある。ツボリ山古墳などを含め,時間を追って全体に玄室の小型化が進行していくようであ り,天王山式でも越塚古墳などは後出的なタイプと捉えるべきかもしれない。
石舞台式の茅原狐塚・塚穴山古墳の玄室も,長さ3単位半,幅1単位半と小型化の傾向が認められ るが,石舞台・谷首古墳は玄室長4単位を維持しており,全般的な小型化傾向に背反する。ただし,
羨道からの拡幅率は減じられ,その結果長幅指数が大きく(縦長に)なっている。石舞台・谷首古墳 は,単位数では左右に1/3ずつ広がり,石舞台の場合は1単位が9尺なので3尺ずつの拡幅と考えた
(谷首では1/3 単位は完尺にならず,玄室幅の判定にはやや問題が残る)。石舞台式になると,一 部に切石加工が導入されるとの指摘(白石1999b:P4-7)があり,より厳密な施工法の一環として尺 単位の割つけが部分的に導入されたものとみれば,設計方式の面でも次代の岩屋山式への過渡期の状 態を示していると捉えてよいかもしれない。いずれにしても,天王山式から石舞台式にかけて,初期 の市尾宮塚古墳などと同じ幅1単位半のものが再び現れ,縦長化または全体に小型化したものが主流 となることはまちがいない事実といえよう。
羨道 天井が最も低くなる見上石部分での高さ1単位1/4または1単位半の2種にほぼ限定される。
1.54m(1歩1/8)以上の規格では高さ1単位1/4のものがほとんどで,1.37m(1歩)以下の規格では 1単位半とされることが多い。大型石室の場合,羨道の横断面は幅1に対し高さ1.25というプランが 定式化していたとみられる。1.54mの規格の1.25倍は1.93m,1.71m(1歩1/4)の場合は2.14m,
1.37mの1.5 倍は2.06mで,メートルに換算して2m前後という数値が,羨道の高さとして適正な 2 1 3
表Ⅸ-3 両袖式石室各部構成表
ものと認識され定格化していたとみてよい。家形石棺の搬入のため,また当時の平均身長からみて,
冠帽を着けた貴人が歩み入るために支障ない高さが確保されているといえよう。玄室と羨道の高さの 比は,天王山・石舞台式の大型規格の石室を中心に指数2.00のものがやや多く,市尾宮塚・新宮山古 墳など古い時期,また都塚・ツボリ山・金山古墳など玄室平面の小型化した後出的タイプは,相対的 に玄室高がかなり低いことがわかる。
羨道側壁は,1.54m以上の規格の石室に長さ6単位のものが多い。石室規格1.54m以上で,玄室長 4単位と合わせて全長10単位という構成が,最も格式あるプランと認識されていた可能性がある。羨 道が5~6単位と長くなるのは6世紀中葉以降で,それ以前の市尾宮塚は3単位,市尾墓山は2単位 2 1 4
と短い。東乗鞍古墳の羨道も短いようであり,6世紀前葉ころまでの石室が墳丘内の比較的高いレベ ルに設置されていることと関係する企画性とみられる。
羨道の長さは,石室が墳丘内のどのレベルに設置されているかという立面的位置取り,主丘部中心 点が石室のどのあたり(玄室奥壁部か,玄室中央か,玄室から離れた位置か)に置かれているかとい う平面的位置取りによって異なってくる。石室の墳丘内における立面的,平面的位置取りは,主棺の 形式や,その石室への搬入時期,方法など,葬送儀礼全般の執行方式に応じて決定されたものと思わ れる。その位置づけの原則については今回検討できなかったが,このような点に考慮せず単純に玄室 と羨道の長さを比較してもあまり意味はないと思われる。
両袖式石室の場合は,6世紀中葉までの片袖式のようには長幅指数の漸減傾向は認められず,両袖 式成立とほぼ同時に,おそらく片袖式における平面プラン定型化の流れを受けて,いくつかの定型的 プランが確立した。石舞台式には長幅指数の増大(縦長化)傾向も認められるが,一方でツボリ山・
金山古墳のように玄室長も短く,玄室が全体的に小型化して,次の岩屋山式への移行期のプランを示 すかとみられるものもあり,これらの編年的位置や階層性については今少し検討が必要である。一定 以上の規格(羨道幅)をもち,玄室長4単位,幅2単位,長幅指数2.00,側壁全長10単位というプラ ンが6世紀中葉から7世紀初頭にかけての第一級の古墳に相応した平面企画であるとの認識に立てば,
この企画を一つの標準とし,これとの対比によって構築時期または被葬者の階層性など,個々の古墳 の歴史的評価を行うことにはそれなりの意味と有効性があると思われる。
8.横穴式石室の構築技法
方格図によって石室プランを検討してきたところ,石室各部は平面,立面とも羨道幅を基準とする 方格線によく一致し,設計意図どおり正確に施工されていることが確認され,技術水準の高さがうか がわれた。
石積みの1段目については,石室基底面の輪郭線に沿って浅い掘り方7)を掘り,そこに最下段の 石を据え置くことで,設計どおりの施工は容易である。問題は2段目以上の石積みであって,側石を 持送りさせながら何段も積み重ね,設計どおりに2単位,3単位の高さに積み上げるのは簡単なこと ではなかったと思われる。それにもかかわらず,玄室側石の持送りによって天井幅がほぼ正確に1単 位に仕上げられた例は多く,牧野古墳などでは奥壁上部や前壁の前傾も正確に仕上げられていた。こ のような設計計画どおりの厳密な施工を可能にした石室の構築技術について検討しておきたい。
1)枠型工法の存在
正確な仕上がりを可能にする工法として,設計図にもとづき,玄室や羨道の立面形態に合わせて頑 丈な丸太枠を組み,その枠に沿わせて石を積んでいく工法の存在を想定する。
石舞台古墳の調査報告で高橋逸夫は,2万貫(75トン)とも推定される巨大な天井石がどのように 架構されたのかという自問に対し,「玄室,羨道の壁をたがいに梁を以て支へ,また支柱を以て梁を 受けしめ,更に石室内部に一旦土を填め」「その上を轉子を以て石を移動せしめ」「天井石を石室全 部に覆うた後に,室内の土,木材を運び出し」たとの解答案を示した(高橋1937)。関川尚弘は,こ の推定を一歩前進させ「こうした作業(梁や支柱の構築-引用者)は天井石の架構時ばかりではなく,
すでに側壁設置の段階から行なわれなければならない」と述べている(関川1994)。
筆者も,横穴式石室構築に当たり,梁や支柱で枠型(フレーム)を組む工法が一般的に行われたと 考える。枠型は,天井石架構時に加わる圧力を支えるだけでなく,各種作業の足場ともなり,側石積
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上げ過程での各種の事故を予防し,安全を確保する工法であった。また,関川がアーチ架構を例に出 して説明したように,設計どおりの立面構成を実現するためにも不可欠の手法といえる。以下この工 法を石室構築における枠型工法と呼びたい。
ただ,高橋,関川両氏が,石材の荷重を支えるには支柱だけでは不足とみて,石室内に土を充填す る工法を想定する点には賛同できない。側石の転落や歪みを防止する力をもたせるためには,充填さ れた土はかなり固くてん圧されなければならないが,天井部までそのように締め固められた土を,天 井石の架構後,狭く長い羨道から排出する作業は相当の労力を要し,常識的に考えて,そのような工 法は採用されなかったと思われる。北葛城郡斑鳩町藤ノ木古墳の家形石棺は,その大きさから石室構 築後の搬入は困難で,搬入できたとしても玄室内で90度回転させることは不可能なことから,石室構 築前に据え置かれた可能性が高い8)。このようなケースでは石棺も土で埋め,その後掘り出された ことになるが,土木技法としてあまりにも洗練されていないといえる。後述のように,刳抜式家形石 棺を石室構築前に据え置いておく方式は必ずしも例外的なものではないと推察され,石室内への土の 充填という工法が行われることはなかったと考える。
2)枠型の構造と機能
枠型工法の存在を裏づける資料として高市郡明日香村の塚本古墳の調査例(東ほか1983)をあげる ことができる。天井石と羨道側石のすべてを失っているが,玄室側石は3段積み,見上石は袖石の上 に直接載る型式であったことが古記録から知られる。近くにある都塚古墳の石室に似ているが,玄室 側石の積み方がより洗練され袖石も大型化しており,塚本古墳の方がやや後出とみられる。
この古墳で最も注目されるのが,羨道床面で検出された6個の柱穴である。両側壁に沿って2列に 3個ずつ並び,柱間は2間×1間となる。心心は1.6~1.8mの間隔と報告されているが,報告書の 図面で計測すると1.5~1.6mほどであり,これは歩数調整による1歩1/8(1.54m)の規格に相当する9) 。 1.54m間隔の方格図を作成すると,方格線(太線)の交点は6つの掘り方によく一致する。玄室の奥 壁は,最奥の柱穴心心から4単位半,前壁は1単位半の方格線に一致し,玄室の長さは3単位になる。
玄室は左右に1/4単位ずつ広がり1単位半の幅,高さ2単位,羨道の高さは1単位1/4とみられ,石室 規格1歩1/8として構築されていることは明らかである(図Ⅸ-15)。
羨道の幅は袖石部で1.95mと広く,右壁側石の据付け痕からみて中間部ではこれよりやや狭くなっ ていたとみられるが,それにしても1単位長よりかなり大きい。枠型は,本来支持柱の外法間が基準 単位と同じ長さになるよう組まれなければならないが,この古墳では支持柱の心心を基準単位の長さ に合わせており,羨道の仕上がり幅は基準単位長より大きくならざるをえない。さきに企画性を検討 してきた古墳の中で,想定される基準単位長より羨道の幅がかなり広いものがいくつか見られたが,
同じように羨道部の枠型支持柱の心心を基準単位に合わせたために幅広くなった事例とみてよいであ ろう。枠型の組み方によって生じた誤差ということになるが,通路としての羨道の機能を考えれば,
企画された幅を確実に確保するためには容認される誤差であり,意図的に行われた可能性も高い。
実測図には示されていないが,同様の柱穴は「西袖石の下部」「玄室の東南隅」「棺台の南端の両 側」でも検出されたという。玄室東南隅のものをのぞいて,すべて1単位方格線の交点に位置するも のと思われる。掘り方の径は50~60㎝,柱痕の径は20㎝ないし23㎝と報告されている。柱穴から想定 される構造物について報告者は,「羨道の天井石や側壁を支えるにしては脆弱であり,おそらく築造 企画にかかわる,たとえば丁張りのためであっただろう」(東ほか1983)と推定している。
根元で径20㎝という丸太は,塚本古墳程度の石室の枠型として決して脆弱なものではないと思われる。
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図Ⅸ-15 塚本古墳石室方格図(方格1.54m)(1/100)
1本だけでなく,多数の柱が横材でたがいに緊結され,荷重を分散して支えたはずであるから,天井 架構の際の重圧にも十分耐えられたのではあるまいか。逆に「丁張り」だけのためとすれば,あまり に大掛かりだといえる。塚本古墳検出の柱穴から想定される構築物は,側壁を設計どおり正確に積み 上げるための丁張りとしてだけでなく,工事に際する足場を確保するため,側石や作業員の転落を防 止するため,天井架構の際に側壁の崩壊や歪みを防止するためなど,多様な役割をもつ構造物(=枠 型)として組み上げられたものと思われる。
石室構築に際して仮設される枠型は,現在行われている建築物の地下工事において,地山の崩壊や 過大な変形を防止するために設置される仮設の設備である「土止め支保工」に類似した機能と構造を もつものといえる。塚本古墳で検出された柱穴から想定される枠型を図化すると図Ⅸ-16のようにな る。方格線交点には主たる支持柱が立てられ,玄室の6本は2単位の高さ,羨道では1単位1/4の高 さに切り揃えられ,縦横の横材(=梁)で緊結された。壁際の支持柱は,側石の内側への転倒を予防 する役割をもち,土止め支保工でいう「土どめ壁」(現在は鋼矢板が使われる)に当たる。主軸方向 の横材は「腹おこし」,主軸に直交する横材は「切りばり」に当たり,ともに土止め壁だけでは土圧 を支え切れないときに設置されるものである。前後,左右の支持柱をつないで安定させるためにも,
縦横の横材は当然設置されたはずである。腹おこしは,羨道部では少なくとも柱頂部と中間の2段程 度は設置されたと思われる。
玄室には高さ2単位の6本の中間支持柱のほか,側壁を受け止める支持柱が,室の四隅と中間に2 本程度,奥壁際では中央に最低1本は立てられた。側壁沿いの支持柱には側壁の持ち送りに合わせた 傾斜がつけられ,四隅のものは,奥壁,前壁の屈曲に合わせて,途中で柱を継ぎ足し,傾斜が変えら
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図Ⅸ-16 枠型模式図(1/100)
れていたであろう。それぞれ頂部は,中間支持柱上に渡された縦横材と緊結された。玄室側壁沿いの 腹おこしは,奥壁の屈曲部のレベルに1段と,その上下,天井と床面との各中間レベルにも設置され たと思われる(図Ⅸ-16 )。
藤ノ木古墳のように,石室構築前に石棺が据え置かれた条件下で施工する場合,誤って側石を落下 させ石棺を損傷するようなことは絶対に起きてはならないことである。それでも石室構築前に石棺を 置く手法がとられているのは,そのような事故が起こらないという技術的な裏づけがあったからであ ろう。安全な施工を保証したのが枠型工法であった。したがって,玄室については特に念入りに養生 が施されたにちがいない。枠型の要所には,栗石や裏こめの土砂の落下を防ぐため,板やその他の素 材が張られていたと思われる。
このように,横穴式石室構築に当たって枠型工法が広く採用された可能性は高いと考えるが,塚本 古墳のほかに石室床面で掘り方が検出された事例はほとんど知られないようである。しかし,そのこ とで枠型工法の存在は否定されないと考える。横材によって玄室から羨道まで一体に緊結され,それ 自体頑丈に組み上げられた枠型は,柱穴を特に掘らないで石室構築面上に単に置かれたような状態で も,枠型の外側に沿って奥壁や側壁の1段目の石が置かれれば,その石列によって十分固定されたと 思われる。2段,3段と積み上がれば,石積み自体が押さえとなり,揺るぎない安定性をもつことと なる。最終的に枠型は解体しなければならないので,その作業を考えれば,据置き方式の方が多く選 ばれたかもしれない。
解体された部材は再利用されることがあった。牧野古墳と天王山古墳,岩屋山古墳とムネサカ1号 墳(白石1967)のようにほぼ同形同大の石室が存在することは,それぞれどちらか一方で使用された 枠型材がそのまま再利用されることのあったことを物語る。
枠型撤去の時期については一考を要する。藤ノ木古墳では石室構築前に石棺が設置されたが,その 時点で遺骸や副葬品が埋納されていたとは常識的に考えられない。石室完成後に遺骸などの埋納が行 われたはずであるが,石棺蓋の開閉をどのように行うかという重大な問題がある。調査を担当した前 園実知雄は滑車によって吊り上げる方法を想定(前園1995)しているが,石棺蓋開閉のための何らか
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