横穴式石室の床面について
著者 合田 茂伸
雑誌名 関西大学博物館紀要
巻 10
ページ 13‑22
発行年 2004‑03‑31
URL http://hdl.handle.net/10112/12787
その際︑横穴式石室の
い遺構が検出された︒
ひとつには玄室床面の一部をおおう敷石であり︑ ﹁床面﹂に関して第二次調査では報告されていな
測と︑発掘調査による墳丘の確認をおこなった 室をうめもどして保存するため石室・墳丘の現状記録を目的とした再実 西宮市指定史跡となり︑公園化されるにおよんで︑崩落の危険のある石 られるところとなった︵武藤
︵同
遺跡
第一
0
次調
査︶
︒
存例から推すと︑組合せ式の石棺で︑底石に溝をつくり︑
また︑前後の石の下端に凸起をつくり︑溝に嵌入するよう工作し︑
乃至数枚の蓋石をのせるものであろう︒側石と思われるものの厚さ約一
三セ
ンチ
︑ とみられるものの厚さ七
S ‑
︱センチ︑溝の幅七センチである︒ 一九六七年
を目的とした調査が断続的におこなわれてきた︒武藤誠博士らにより最 初の調査︵仁川五ヶ山遺跡第二次調査︶がおこなわれて︑墳丘 実測図が作成され︑横穴式石室内の調査により組合式石棺破片をはじめ
とする遺物が出土した︒ 石室の
その成果は﹃西宮市史﹄に掲載されてひろくし
以下︑第二次報告︶︒その後︑ その保存
玄室の中央部から奥にあった︒大破していて比較的大きいものに工作の
一部がみとめられるが︑
完形乃至構造を復原し難いのは遺憾である︒後期古墳に見られる石棺遺 鉄器残欠
仁川五ヶ山古墳群第二号墳︵以下五ヶ山二号墳︶
は︑兵庫県西宮市仁 川町に所在する七世紀前半までに築造された直径二三•五
mの円墳であ
る︒横穴式石室側壁の一部と天井石はすでにうしなわれ︑羨門は墳丘南 端とともに土砂採取により削平されている︒仁川五ヶ山古墳群は一
S
四号墳で古墳群をなしており︑弥生時代の集落遺跡仁川五ヶ山遺跡上にあ
る︒五ヶ山二号墳では
以下
︑第
一
0
次報
告︶
︒ まず︑第二次調査における︑床面の状況を確認しておく︒第二次報告 では床面については遺物の出土状況とともに記述されている︒
﹁玄室床面に散乱状態で発見され︑副葬状況は全く乱されていた︒追葬や 盗掘がたびたびおこなわれたと思われる︒後述する石棺の破砕状況のは なはだしさや遺存するものがすくないこと︑羨道部にも若干の遺物が 四︑銀空玉
二五︑須恵器 ︵西宮市教育委員会
二︑台付怨 二
0
0
0
年金環︵銅芯金張り︶
それも七個にすぎず︑大半が失われているので︑
両側の側石︑
凸起の幅六センチ、高さ一•六センチ、底石(あるいは藍石)
平 瓶
一坪
一九六一年から一九九七年にかけて︑
I,
Iヽ
なお蓋
一枚
石棺
棺材
は
一︑鉄鏃
六︑馬具革帯金具・飾金具残欠
六︑鉄釘など
存したことからもそのことがいえる︒石棺棺材破片
仁川五ヶ山古墳群第二号墳の横穴式石室
横穴式石室の床面について
いまひとつは羨道の土塙一対である
合
田 茂 伸
‑- - - - ~ - - - -‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑ ‑―‑‑‑‑‑‑‑ ‑‑‑‑ ‑‑―‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑
石とみられるものに角と内部を削りととのえたものがある︒
で︑和泉砂岩のようにみえるが︑市史編集専門委員である大阪市立大学 教授藤田和夫氏の鑑定により神戸層群よりのものと判明した︒
の奥半分の床面一帯に︑
る部分があるので︑着色物の分析を大阪市立大学理学部化学科小倉哲也 がおこなった結果︑鉄であることが明らかとなり︑
検出されたこと︑
︵ 三 ︶
の奥半分の床面一帯にベニガラによる着色部分があること︑
第一
0
次調
査で
は と ︑
﹁床面﹂において石棺材破片が検出されていること︑ 石材は砂岩
なお石室
火を焚いた痕跡があるほか︑朱色に付着してい
第 一
0
次報告により︑床面の状況を記述する︒
ベニガラ朱が埋葬時
上述のように現状記録を目的として︑
︵四
︶石
室
がわ
かる
︒
石室内につ
いては当初清掃調査にとどめる予定であったが︑側壁石下端の状況を確 認するため一部をほりさげたところ玄室内に敷石があることが判明した ため︑急拠発掘調査にきりかえて︑床面の再検出をおこなうことにした︒
石室内に堆積した土層は 上層より︑腐葉土層︑砂層︵第二次調査後の保護のための客土層︶︑暗灰 褐色細砂土層︵玄室内のみ︶︑花岡岩ばいらん土層︵羨道・地山︶である︒
玄室敷石は︑暗灰褐色細砂土層下三
S
五cm
に︑玄室の奥壁側約三分の 二程度のひろがりで検出された︒玄室内で敷石が検出されたことから︑羨道床面の精査をおこない︑羨道のほぼ中央に︑あさい溝で連結された 状態で一対の土堀が検出された︒埋土は︑暗灰褐色細砂土で︑敷石上の 土層に類似する︒暗灰褐色細砂土層敷石上面からは︑神戸層群起源の
に特別な遺構や施設はみられなかったこ
る 凝灰岩質砂岩とされる石棺石材の砕片をふくめた︑須恵器馬具などの遺物はまったく検出されなかった︒第二次報告において敷石と土壊の記述がなく石室の写真にもそれらが看取できないことから︑第一
0
次報告その後︑若干の類例をえたので羨道の土壊一対および︑
床面の状況についてのべてみようとおもう︒
がえる必要がないことを指摘した︒
﹁ 床
面 ﹂
︑
石棺と石室
なお︑筆者は以前︑横穴式
二
0
0
二年 ︶
︒ 前稿では︑芦屋市八十塚古墳群第五五号墳における二面の敷石面をめぐ かんがえてみた︒敷石面をともなういくつかの横穴式石室をみてゆくな
そのなかで︑棺の種類と石室床面の 構造に一定の関連があるのではないかとかんがえるようになった︒
羨道の一対の土城
五ヶ山二号墳第一
0
次調査では︑羨道において一対の土塙があさい溝 に連結されるような状態で検出された︒埋土は暗灰褐色細砂土層で︑
おき
さは
︑
お
左側壁側が上面で長径六六•五cm短径四五cmふかさ四九
c m
︑右側壁側が︑上面で六五•五cm短径五三cmふかさ五Ocmで
ある︒遺物は検出されていない︒溝はごくあさく︑溝の上端線︵いわゆ
﹁カタ﹂︶も明瞭ではない︒土壊の位置をさかいとして︑羨道右側壁で
は基底石のおおきさがまったくことなっている︒羨道側壁の石材は︑右 かで︑第五五号墳の二面の敷石面をかならずしも二面の﹁床面﹂
とかん
︵ 二 ︶
﹁床
面﹂
って︑横穴式石室における敷石面と
﹁埋
葬面
﹂
の関係について
この
記述
から
︑
石室の﹁床面﹂に関しては︑
︵ 一 ︶
﹁床
面﹂
より遺物が に用いられたことがわかった︒﹂
石室の床面について若干の検討を行ったことがある︵合田 で
は︑
いずれを埋葬面とするかの判断を保留した︒
︱四
已 t
C
ー
••.
二子山3号墳石室および閉塞方法模式図
(福井県立若狭歴史民俗資料館 1991年)
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I I I 井ノ内稲荷塚古墳石室
(大阪大学稲荷塚古墳発掘調査団 2002年)
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梶原古墳群D-1 号墳石室•石棺
(名神高速道路内遺跡調査会)
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'I‑ ‑ ..J<‑烏土塚古墳床面の構造と石棺安置の状況
(奈良県立璽原考古学研究所 1~7~ 年)
関連横穴式石室実測図
( 1 / 2 0 0
、二子山3号墳閉塞方法模式図および鳥土塚古墳をのぞく)一 五
側壁では玄門側基底石が羨門側のそれよりもはなはだしく巨大で︑
差はいちじるしい︒左側壁ではもっとも巨大な玄門基底石以外は︑玄室 ではほぼ均等なおおきさの石材をもちいているが︑羨道側壁は基底石は 玄室のそれよりもおおきい点に特色がある︒なお︑左側壁は土砂採取に よる破壊のため︑羨道の奥側と手前側といった比較ができない︒
その
ただ
︑ 右側壁石材のもちいかたを重視するなら︑巨大な天井石の架構は︑巨石 をもちいた基底石の上部までであるとかんがえられる︒第一
0
次報告で は︑この土堀の用途︑機能の推定をさけた︒以下に類例をしめし︑本例
︵一︶キツネ塚古墳
径約一五
m
の円墳である︵綾部市教育委員会聖塚古墳・菖蒲塚古墳などの中期古墳のほか︑横穴式石室を主体部とす
る後期古墳が点在する。キツネ塚古墳の横穴式石室は、現存長七•六m 、
玄室長四・ニ
m
︑玄室幅二.o
m
の右片袖式で︑頁岩を主体とする割石を石材として用いている︒出土した須恵器からみて︑六世紀末ころ築造
され
︑
器︑鉄鏃︑鉄刀︑刀子︑鉄斧︑耳環︑
七世紀中葉までに追葬があったとみられる︒須恵器のほか︑土師
土錘などが出土している︒床面の
状況は報告書の記述によればつぎのとおりである︒﹁玄室の床には径一〇
cm
前後の拳大の河原石を敷き︑礫床としている︒礫床は玄室全面にあ るのではなく︑前方部では敷かれない部分がある︒羨道部や前庭部から は礫床に用いられたような河原石はでてきておらず追葬時に掻き出されたとは考えにくい︒羨道部玄門部寄りの両側にピットが二か所︑ を考察する参考としたい︒
ま妥
・ ・ ・ ︑ '
•• ︷
同じ大きさで並んで掘られていた︒右側壁寄りのピットは長径約五
OC
一九九八年︶︒周辺には︑
を﹁切っている﹂︒溝は︑報告書では︑﹁この溝状遺構の性格であるが︑ 体部がある 相
対位
置も
︑
五ヶ山二号墳に類似する︒
キツネ塚古墳は︑京都府綾部市多田町に所在する直
m
・短
径約
一二
五
cm
.深さ約一六
c m
で︑底面は楕円形に近い︒左側壁
寄りのピットは径約四五cm•深さ一七cmで、
は隅丸方形に近い︒いずれの埋土もしまりのない灰褐色土一層であった︒
左側壁のピット上部から古い時期の提瓶の破片と臆が出土した︒このこ とから石室構築時もしくは初葬時にはなんらかの機能を果たしていたも
のが追葬時にはその役割を終えていたものと考えられる︒なお
面には排水溝などの施設はみられなかった︒﹂土塙の位置は︑
道天井石の前端直下にあたる︒キツネ塚古墳は︑玄室の一部に敷石があ ること︑羨道に一対の土壊が検出されたこと︑土壊の埋土は一層である
ことが五ヶ山二号墳と共通する︒
︵二︶井ノ内稲荷塚古墳
また
︑ 石室全体における一対の土城の 井ノ内稲荷塚古墳は︑京都府長岡京市に所在する全長四六
m
の前方後円墳で︑後円部に全長一
0 ・
1
m
の横穴式石室︑前方部に木棺直葬の主︵大阪大学稲荷塚古墳発掘調査団
には床面に敷石があり︑
不正円形である︒底面
石室床
一石残る羨
二
00
二年︶︒横穴式石室
その上部に︑追葬のため粘土層により床面が再 構築されている︒出土遺物により︑須恵器型式
T
K
1
0
からT
K二
0
九塑式までの間に三度の追葬があるとかんがえられている︒なお︑棺は組 合式木棺で︑棺材が検出された棺をふくめて四棺とも︑釘をもちいない
組合式木棺であるとされる︒羨道床面の開口部付近で︑
る︒溝の埋土︵黒色シルト︶
ほぼ石室主軸に 直行する幅約二五
c m
深さ
一
cms
︱ 二
c m
の溝状遺構が検出されてい は︑墓堀底の置き土やその上部の堆積土層
一 六
手前側端の直下に位置する︒
︵加古川市教育委員会
一九
八
︑ ナ
︑
ヵ し
︵ というタイプの閉塞施設の痕跡を検出することができなかった点である︒ まず考慮されなければならないのは︑羨道において石や土を積み上げる中略
︶当
初か
ら︑
その種の閉塞施設が存在しなかった可能性を考えるべ
きであろう︒礫床面が溝状遺構を越えて開口部側に認められないことや
開口部付近の石積み手順がほかとは異なっていた可能性があるなどを加 味して考えれば︑溝状遺構の位置に板を立てるといった構造の閉塞施設
が存在した可能性を考慮しなければならないだろう︒﹂
とさ
れる
︒
五ヶ山
二号墳と比較したとき︑土堀が欠落している点︑溝状遺構が羨門にちか
︵三︶二子山三号墳
二子山三号墳は︑福井県大飯郡高浜町にある全長二六
m
の前方後円墳若狭歴史民俗資料館 の土塙が検出されている︒閉塞のための施設とされており︑出土遺物を
これに木板をあてて塞ぎ︑
そして墓道は埋めてしまいます︒﹂
︵四︶二子塚古墳
︵福
井県
立
更に割石を一重に積み上げています︒
とされ︑楯石のやや羨門側から丸木 をたてかけてそれに板を渡している︑具体的な閉塞方法模式図がそえら れている︒溝をともなう点で五ヶ山二号墳に共通する︒土塙は︑楯石の 二子塚古墳は︑兵庫県加古川市にある直径ニニ
m
の円墳で︑全長一ニ・ニ五
m
の横穴式石室を主体部とする 展示した展覧会図録には︑﹁埋葬後の塞ぎ方は玄門入口に二本の棒を立て 一九九一年︶︒羨道玄門よりに溝で連結された一対 で︑いわゆる﹁北
部九
州系
﹂
の横穴式石室を内部主体とする い位置にある点で相違する︒
八年
︶︒
石室の破壊ははなはだしいが︑羨道の羨門ちかくに閉塞にもちい
一枚は︑長さ一七九
c m
・幅五九
c
m.厚さ一五•Ocmある。表面には堅加工痕が残っていた。
石は半分に砕石されており、長さ九二cm.幅五九cm.厚さ一五•O
c m
であった︒この半砕された断片はどこにもなく︑
られた時点で割られたのかそれとも以前であったのか不明である︒こ
の二枚の板石を立てると︑羨道入口の扉石としては最適である︒
二子塚古墳にあっては︑羨道を閉ざすのに割石を積み上げた閉塞石を用
いず扉石により閉塞を行っていたのである︒﹂とされる︒なお羨道床
面にはそれにともなう遺構は攪乱により確認されなかったという︒
五ヶ山二号墳の羨道に検出された一対の土壊は︑福井県大飯郡二子山 古墳綾部市キツネ塚古墳において同様の遺構が確認された︒
土壊の羨道床面における相対位置が一見ことなっているようにみられる
が︑
側壁
天井との相対位置を考慮すると︑いずれも︑羨道のもっとも
外側に架構された天井石の外端直下または若干外側に検出されている︒
五ヶ山二号墳では天井石がうしなわれているため対照できないが︑側壁 石材のもちいかたからみて︑同様の位置にあるものと推定することがで
きる︒土城の機能の推定と天井石の復元を同時に考えると︑
論循環を生じるため︑これ以上の論及をさけておく︒ 凝灰岩質の板石が二個置いていた︒
一 七
つまり 石室石材が抜き取
両者
は︑
ある種の理
さらに︑長岡京市
井ノ内稲荷塚古墳加古川市二子塚古墳では溝のみ検出されている例 と︑溝は未検出ながら閉塞材とかんがえられる石材が検出されている例 を提示した︒角礫や円礫のつみあげによる閉塞とは別の方法による閉塞
一方の板 たとされる板状の石材が検出されている︒報告書では﹁羨道入口には
上から検出されていること︒︵二︶細砂層は無遺物層であること︒ 関係をしめす状況については︑ されている石室床面についてかんがえてゆきたい︒ ヽによりお
もう
︒
五ヶ山二号墳のような遺構が形成される可能性は指摘できると
組合式家形石棺と石室床面
五ヶ山二号墳では︑組合式石棺の破片七点が検出された︒石材のなか
に角と内部を整形したものがあることから︑家形石棺とみられる︒この
石棺石材は神戸層群起源の
されていることから︑
上に敷石があり︑ ﹁砂岩﹂と鑑定された最初の例となった︒
五
ヶ山二号墳では︑冒頭にしめしたように︑二度の発掘調査により︑埋葬
面としての床面があきらかでなくなってしまった︒棺として石棺が使用
それを判断材料として五ヶ山二号墳の床面を復元
することはできないものかとおもう︒近畿地方の古墳に使用された家形
石棺には︑剖抜式と組合式があり︑
の研究がある︒ここでは︑石棺の形態•石材には論及せず、
( l )
五ヶ山二号墳の石棺と﹁床面﹂ その形態•石材などを通じたおおく
それが設置
第二次報告•第一0次報告からえられる五ヶ山二号墳の石棺と床面の
つぎのとおりである︒︵一︶石棺が細砂層
(
‑
︱
‑
︶
細砂層が玄室でのみ検出されていて︑羨道では︑花岡岩ばいらん土層
︵地山︶を床面としていること︒︵四︶玄室の細砂層下に敷石があること︒
つまり︑第二次報告および第一
0
次調査所見からは︑玄室内では︑地山それをおおう細砂層上に組合式家形石棺がおかれてい
てい
る︒
﹂
石棺
は︑
﹁底石は長辺ニ・ニ七
m
︑短辺
0
.九
九
m
︑最大厚たものとみられるのであり︑敷石は埋葬面としての床面としては機能し
面がかならずしも
もちいて説明したが︑組合式家形石棺をともなう石室について︑再度検
︵二︶梶原古墳群
D'
一号
墳
梶原古墳群
D'
一号墳は︑大阪府高槻市に所在する直径約二五
m
の円墳で︑残存長一
0
・ ニ
m
の横穴式石室を内蔵する︵名神高速道路内遺跡調一九九八年︶︒玄室に組合式家形石棺が設置されていて︑床面には
ニOcm程度の河原石がほぼ全面に敷かれている。奥壁から手前0•六
om
までの床面と羨道床面の敷石は︑直径約二
Ocm
の扁平なもので構成されている。排水溝は奥壁より手前側へ0•八0mの地点から始まり、玄室羨道を抜け墳丘外へ延びるが︑末端部はそこなわれている︒残存
する長さは一四•五m、幅は0•六0m、深さは最深部で0•五四mを
測る︒基本構造は平らな石を二列に並べ︑その上に蓋石を置く暗渠状と
なるが︑部分的に側石や蓋石のない所も見られる︒
で︑石は見られない︒﹂石棺の底石と床面の関係は︑ 石棺の下は堀方のみ
つぎのとおりである︒
﹁奥壁側の底石は僅かに敷石に接するが︑玄室底面が玄門に向かって緩や
かに傾斜しているため︑底石の下には貼り床によって石棺の水平を保っ
0 .
︱九
m
を測り︑大きさの違う三枚の石材で構成されている︒三枚とも厚さは不揃いであり︑特に中央の底石は他の二枚に比較して約七
c m
敷石がある︒敷石は﹁羨道中程から奥壁にかけての床面には︑直径三
S
査会 討する
︒
﹁床面﹂として利用されていないことを若干の資料を ていなかった可能性がおおきい︒前稿︵合田二
0
0
二年︶
では︑敷石
一 八
﹁原位置を保っていた底石は全く移
一 九
一九七七年︶︒横穴式石室には石棚があり︑
さの礫をしいて︑埋葬面としている︒︵六︶脇塚︱二号墳 っ
てい
る︒
﹁棺
底
棺を有している
一九
六九
年︶
︒
﹁床面には︑玄室 程度薄くなるが︑貼り床によって床面は水平にされている︒﹂なお︑れない図があり︑さ
れて
おり
︑
石室の
たも
ので
ある
︒
︵三︶走田古墳群九号墳
︵長岡京市教育委員会
の板石を敷き詰め︑
を︑その周辺には一
Ocm
ほどの礫を敷くなど︑いることがわかりました︒﹂全面の敷石のうえに︑
を厚
さ一
O
S
二Ocm
程度
しき
︑
︵四
︶三
里古
墳
は直径二
o m
上以
の円
墳︶
︵奈良県立橿原考古学研究所
組合式家形石棺組合式箱形石棺
がえられている︒組合式家形石棺は︑
動が認められないもので︑三枚の石材から成る︒ ﹁床面﹂上のいわば粘土床上に石棺の底石を設置し
四・ニ
m
の横穴式石室がもうけられている もしれないが︑敷石を敷設した土層と石棺下の奈 良 県 烏 土 塚 古 墳 は 全 長 約 六
0
m
の前方後円墳で後円部に全長 いない︒三枚の底石の上面はほぽ水平である︒﹂石室
断面実測図をみると︑縦断面および横断面の一部に石棺下に敷石がみら
その部分は敷石がまばらであることをしめしているか
﹁貼り床﹂は明確に区別\
走田古墳群九号墳は、残存長五•三五mの横穴式石室墳で、組合式石
奥壁の直前から始まる素掘りの排水溝を施し︑その上に礫を厚く敷いて
礫床としていました︒特に︑玄室ではまず二
O
S
三Ocm
ほどの大きめその上の石棺を安置する部分には五
c m
以下の小礫
かなり丁寧に仕上げて
石棺直下部分には小礫
石棺の周囲にはそれとことなるおおき
三里古墳は奈良県平群町に所在する全長約三五
m
の前方後円墳︵またで︑全長︱二
m
の横穴式石室を主体部とする四基の箱形木棺が埋葬されたとかん
石棺は床面に黄色士を 持って張床した面に五
c m
程埋め込んだ状況であり︑床面に直接置いて
︵五︶烏土塚古墳
一九
七二
年︶
︒
石室には︑玄室および羨道に組合式家形石棺が一基ずつあ
る︒玄室の石棺は︑
底石は二枚連ねたもので地山︵白色砂層︶
間は︑黄色粘土でつき固められ﹂ ︵奈良県立橿原考古学研究所
﹁棺底石と東・西・北棺側石のみで他は欠失する︒棺
の上に五
c m
の粘土層を更に
その上で黄褐色土となり︑山砂層に棺底石を置く︒棺底石と石室両側壁
てい
た︒
また
︑
地山上に石棺を設置するための棺床をもうけ︑ ﹁石棺周辺は拳大までの
小礫を敷きつめていた︒﹂ただし︑棺と奥壁との間にはこの礫がみられな
い部分があり副葬遺物の一群が検出されている︒羨道部の棺では︑
石の西•北•南側を人頭大の自然石で取巻いていた。」烏土塚古墳では、
石棺周囲に敷石をおこな
脇塚︱二号墳は︑大阪府高槻市に所在する︑南北ニ︱
m
︑東西一七・五
m
の方墳で︑全長︱ニ・九m
の横穴式石室を主体部とする育委員会ら
れ︑
一九六五年︶︒玄室には組合式家形石棺が設置されていたとみ
そのほか︑木棺もあったらしい︒
︵高
槻市
教
石室床面の状況は︑攪乱がいち
じるしいが︑﹁石室がのっている地山の底面の上に若干の埋め土があって︑
その上に拳から人頭大の扁平な河原石の敷石がみられる︒玄室内から凝
灰岩の家形石棺の破片を検出したことを勘案すると︑玄室内奥壁寄りに︑
室と羨道梱石までの間に敷石がある
﹁埋め土﹂上に設置され︑玄室の石棺周囲および羨道
とに
なる
︒
石棺が長軸と平行に安置されていたことが推定される︒玄室中央に敷石 や遺物が見られないのは︑後世の攪乱があるとはいえ︑
石棺が安置され︑
その周囲の床面に敷石が置かれていたためではないかと推定される︒敷 石は玄室と羨道を画するような施設は認められず︑羨道部にも敷かれ
ている︒羨道中央付近から南には︑
棺は地山のうえの
以上
は︑
礫などによる間層をはさむ事例︑
室を観察したわけではないが︑
る床
面﹂
ただ
し︑
まばらな敷石が見られる︒
もし
くは
︑
それとて
も羨道閉塞の遺存とも考えられるので︑敷石は羨道中央北寄りのあた りまで敷かれていたものと推定してもよいのではないか︒﹂とされる︒
石 の一部にのみ敷石がみとめられる︒烏土塚古墳にちかい状況を想定でき
石室の敷石と組合式家形石棺底石とのあいだに粘土•砂•小
石室は敷石でおおわれるが︑
石棺底に敷石がみとめられない事例である︒すべての該当する横穴式石
近畿地方において︑横穴式石室に組合式 家形石棺を設置するおおくの古墳では︑
造となっているという傾向は看取できるとおもう︒
︵向日市教育委員会
﹁こ
とな
石棺底石が敷石に接しない床構
した
がっ
て︑
が二度検出されることになった五ヶ山二号墳は︑組合式家形石 棺を設置した床面は暗灰褐色細砂土層上面とすることが妥当であるとか んがえることができ︑同層より遺物がまったく検出されなかったことを 勘案すると︑家形石棺を第一次埋葬とすることもゆるされるとおもう︒
わずかな例外がある︒京都府向日市の物集女車塚古墳である︒
物集女車塚古墳の横穴式石室は全長︱
‑ m
前後の片袖式で︑床面には玄
一九
八八
年︶
︒
﹁床
面は
とする︒礫床は組合せ式家形石棺の下面にも及ぶが︑
に設置されるが︑
石棺底石を置くにあたって︑礫床との間の二
S
三箇所に小板石を配置し安定をはかっている︒この板石の下面にもさらに一
s
二重の円礫が挟まっているため︑
﹁石
棺は
︑ 石棺設置後に石室の礫床が施されたの
ではなく︑礫床の河原石を敷いた後に石棺が据えられたのは確実である︒﹂
組合式家形石棺を敷石上の粘土層などのうえにすえる理由として︑
おくの報告が︑棺底石の安定︑水平の維持をかかげており︑
な解釈とはなるが︑物集車塚古墳石室においても棺底を安定させるため の造作がみられるという点では︑完全な例外とはならない︑
二枚以上の底石を使用することがおおい組合式家形石棺を設置するとき︑
すべての底石を同一平面上にそろえることは︑
石棺の底ではやや
石室床面である礫床の上
石棺の側石蓋石を設計 どおりにくみあげるために必要な条件である︒敷石をおこなったうえに 棺下にのみ棺床状の粘士層•砂層などをもうける場合と、
み敷石がおこなわれる場合では︑古墳および石室構築工程全体からみる と敷石設置の時期は相違するが︑底石の安定に関しては同義であり︑
棺蓋石がかぶせられて完成した石室をみた場合ほぼ同様の景観をえるこ さらに︑憶測をかさねれば︑蓋石がのせられた石棺側石は安定すると
おもうが︑底石に側石にあわせた溝をきざむとはいえ︑蓋石のない状態 で側石を自立させることは相当程度にむずかしいであろう︒このような
る ︒
という︑詳細な観察をおこなっている︒ 希
薄で
ある
︒﹂
また
︑
石棺からみると
︵玄
室
I I 筆
者︶
ぉ
かなり強引
とも
いえ
る︒
石棺周囲にの
石
一面に長径約
0 ・
1
m
弱の河原石を敷きつめ礫床ニ O
四 ま と め
諸過程の一部として理解する必要がある︒ を射程にいれなければならない︒ 二
0
0
三年︶
に︑石室構築中の石棺搬入を想定した和田晴吾氏︵和田
のかんがえかた
ながした宮原晋一氏︵宮原
一九
九三
年︶
らがかんがえる︑石室に土砂 のが︑高橋逸夫氏︵高橋
一九
三七
年︶
さらに近年そのことに注意をう
んが
えら
れた
︒
側石を安定させるためには蓋石をのせるまで間側板が外方へたおれ てしまうことをふせぐ仮設的な造作が必要である︒物集女車塚古墳石棺 の側石にみられた突起からは︑縄類をもちいた緊縛方法がかんがえられ るが︑大多数の突起のない側石を使用する組合式石棺ではそれ以外の方
法を想定することもできる︒筆者は︑そのひとつに︑蓋石をのせるまで
石棺周囲を土砂によってかためながら側石をくみあげる方法を提示した
い︒この場合︑棺床状の遺構として検出される石棺底石下の粘土層等は
石棺の周辺につみあげられた土砂がとりのこされたものとなる︒
九九
五年
︶ 考察しようとする土生田純之氏︵土生田
を設置する工程は︑ ただし
遺構からの検証は困難である︒この方法をかんがえるとき︑想起される
を充填しながら側壁をくみあげていく横穴式石室の構築法であり︑さら
一九
八九
︑ や︑横穴式古墳構築にいくつかの段階を設定してその過程を いずれにしても敷石上に直接棺をすえる剖抜式家形石棺とは棺の設
置に関する作業あるいは工程がことなる可能性があり︑組合式家形石棺
石室および床面を構築してゆく工程その他の行為の
ことを指摘できた︒
キツネ塚古墳発掘調査概報﹂﹃綾部市文化財 五ヶ山︱︱号墳羨道における一対の土城に類似する遺構にはを具備した事例や土壊のみのもの溝のみ検出されたものがあり︑らから類推すると石室閉塞に関する工作物の遺構である可能性がたかい
また玄室における敷石と敷石上の細砂層のいずれ を組合式家形石棺を設置した床面とかんがえるかについては︑組合式家
形石棺を直接敷石上面にすえる例はとぼしく 土城と溝
それ
おおくの場合底石と敷石 の間に粘土や砂︑あるいは小礫の間層をはさむ構造となっていたことか ら︑五ヶ山二号墳においても︑当初報告どおり敷石上の細砂層を石棺設 置時の床面とすることができ︑細砂層は底石を安定させるための策とか
以上
︑
調査報告書において明言をさけたふたつのことがらについて
類例をあげながら考察してきた︒この課題は五ヶ山二号墳発掘調査に
おいて困難な状況にもかかわらず作業をともにしてくださった西川卓志
氏との現場での討議からうまれたものであり︑
号墳を発掘調査され保存につくされた武藤誠関西学院大学名誉教授と︑
現地で種々ご指導いただいた北野耕平神戸商船大学名誉教授からあたえ
られた宿題へのわたくしなりの回答である︒
︵参
考文
献︶
綾部市教育委員会一九九八年﹁三 小稿は︑最初に五ヶ山二
さらに類例をご教示いた
だいた兵庫県教育委員会山本誠氏にお礼をもうしあげむすびとしたい︒
宮原晋
一 冊 ︶
大阪大学稲荷塚古墳発掘調査団
埋蔵文化財調査集報﹄
合田茂伸
二0
0二年﹁横穴式石室の床面について﹂﹃八十塚古墳群の研究﹄︵関
西大学文学部考古学研究
高槻市教育委員会
一九三七年﹁石舞台古墳の巨石運搬法並に其の築造法﹂﹃大和島庄石舞
台の巨石古墳﹄
長岡京市教育委員会
奈良県立橿原考古学研究所
奈良県立橿原考古学研究所
記念物調査報告第三三冊︶
西宮市教育委員会
土生田純之 高橋逸夫 一九八八年﹁ニ
掘調査﹂﹃西宮市埋蔵文化財発掘調査報告書﹄︵西宮市文化財資料第四四号︶
二0
0三
年﹁
一
東大阪市教育委員会
方後円墳の時代ー﹄ 加古川市教育委員会 調査報告第二六集﹄
二0
0二年﹁四井ノ内稲荷塚古墳の調査成果﹂
一九七二年﹃烏土塚古墳﹄
一九七七年『平群•三里古墳』(奈良県史跡名勝天然
横穴式古墳構築の復元﹂﹃古墳構築の復元的研究﹄
一九七三年﹃山畑古墳群一﹄︵東大阪市文化財調査報告書第 福井県立若狭歴史民俗資料館
一九九一年﹃特別展躍動する若狭の王者たち:ー前
一九九三年﹁横穴式石室の構造﹂﹃季刊考古学﹄第四五号 二000年「仁川五ヶ山古墳群第二号墳第八次•第一0次発
跡•長岡京跡』(長岡京市文化財調査報告書第三五冊)
一九九六年「走田古墳群の調査成果」『走田古墳群•海印寺 一九六五年﹃脇塚古墳群﹄︵高槻市文化財調査報告書第一冊︶
第七
冊︶
﹃長岡京市における後期古墳の調査﹄
志方町二子塚古墳古墳の調査﹂﹃加古川市
命館大学文学﹄第五四二号 和田晴吾 武藤誠 向日市教育委員会
三集
︶
和田晴吾
一九八八年﹃物集女車塚﹄︵向日市埋蔵文化財調査報告書第二
一九六七年﹁五ヶ山古墳群第二号墳﹂﹃西宮市史﹄第七巻資料編四
名神高速道路内遺跡調査会
一九九八年﹃梶原古墳群発掘調査報告書﹄︵名神高速
道路内遺跡調査会調査報告書第四集︶
一九八九年﹁墳墓と葬送﹂﹃古墳時代の王と民衆﹄︵古代史復元六︶
一九九五年﹁棺と古墳祭祀﹃据えつける棺﹄と﹃持ちはこぶ棺﹄﹂﹃立