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大和における前期古墳の竪穴式石室

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奈良教育大学学術リポジトリNEAR

大和における前期古墳の竪穴式石室

著者 伊達 宗泰

雑誌名 高円史学

巻 10

ページ 1‑19

発行年 1994‑10‑01

その他のタイトル Studies of Burial Stone Chambers in the Yamato Early Kohun Period

URL http://hdl.handle.net/10105/8714

(2)

大和における前期古墳の竪穴式石室

は   じ   め   に

伊     達     宗     泰

一九九三年に第四次調査が実施された中山大塚古墳︵天理市中山町所在︶は︑最古の竪穴式石室ということで大きく報道

され︑研究者以外にも注目を集めた古墳であった︒

考古学の発達は︑戦後の開発に伴って実施された発掘調査成果の蓄積によるといっても過言でない︒従って開発=調査の

推移は︑換言すると日本の高度成長政策の変遷を辿るものであって日本の戦後史そのものであるといってもよい︒

文化財の保存運動をとおして保存を訴えなければならなかった一九五〇年段階では︑視覚的にはっきりと捉えられる古墳

でさえ開発の対象として破壊される状態であった︑それが可視的な文化財はもちろん︑地下の集落遺跡のような不可視的な

遺跡まで事前調査が実施される現況に至るまでには︑それなりの曲折はあったとはいえ︑文化財への認識に大きい変化をも

たらせたといえよう︒

本稿でとりあげようとしている︑桜井茶臼山古墳が一九四九・五〇年に︑小泉大塚古墳は一九六二年︑天神山古墳が一九六〇

(3)

年︑メスリ山古墳は一九五九〜六三年に調査されていて︑すべて戦後の前半期段階の調査といえる︒

これらの古墳が調査されてから中山大塚古墳の調査が実施されるまで︑前期古墳の調査が無かったということは︑古墳に

とっては受難の時期から平穏な時代を迎えていたといえるのかも知れない︒このような情勢下前期古墳の竪穴式石室の問題

を見直し再検討することも必要ではないかと考え本稿を起こした︒

一調査された奈良県の前期古墳の竪穴式石室

最初に奈良県で現在まで調査された︑前期古墳の竪穴式石室を概観しておこう︒

︵ 1

○ 最も古く調査されたのが桜井茶臼山古墳で︑桜井市外山に所在する前方後円墳である︒古式前方後円墳墳形の一標識と

される柄鏡式の典型的な墳丘で︑後円部は直径一一〇m︑高さ八mの三段築成で︑前方部は幅六十一m︑高さ十三mの二

段築成︑全長二〇七mで烏見山山麓に派生する尾根端を修飾して築造された丘尾切断型の古墳である︒周濠といい得る状

況のものは存在しないが︑前方部正面で幅十三m︑墳丘東西両側に幅約二十mの墳丘を巡る台形区画痕跡が認められる︒

竪穴式石室は墳丘主軸に平行に割石を小口積みで狭長に構築されており︑その規模は全長六・七五m︑幅北側一・三m︑

南側一・〇m︑高さ一・六mで︑天井石は十二枚で石室を架構していた︒

基底部の構造は地山をU字型に掘り下げ︑三十cm内外の薄手で偏平な割石を敷き詰め木棺を安置したもので粘土床のよ

うなものは無かった︒側壁は地山の上に偏平割石を敷いたその上に︑直接割石の小口積みでほぼ垂直に積み上げている︒

小口にあたる側壁には棚が設けられていた︒

(4)

石材は安山岩と花崗岩で︑石室中央部の状況では安山岩割石で一・一m程積み上げその上は比較的大きい花崗岩を三段

程積むという手法が観察される︒

石室内は全部朱彩がみられ︑天井石上面まで施されていたと報告されている︒

2 ︶

○ メスリ山古墳は桜井市高田・上の宮に所在する全長二五〇mの前方後円墳で︑後円部の径一六五m︑高さ二十三mで三

段築成︑前方部の幅二〇m︑高さ十二mで二段築成了の規模の古墳である︒竪穴式石室は墳丘の主軸に直交する形で築

造されており︑副室も平行して存在した︒

主室である石室の規模は︑全長八・〇六m︑幅北側で一・三五m︑南側では一・一四mで高さが二mもある大規模なも

ので天井石は八枚で架構されていた︒

基底部は粘土でU字床を形成し側壁は割石を小口積みにして積み上げる手法で構築している︒天井石の上面も厚い粘土

層で被覆されていた︒盗掘により側壁は崩壊していたが︑茶臼山古墳同様石室内部は朱彩が施されていたようである︒

側壁は遺存度のよい小口側の状況からみてほぼ垂直状に積み上げられていたと推定できる︒

主室の東側で主室底面より一・一m上方に基底面をもつ副室が構築されていた︒その規模は全長六m︑幅は北側で〇・

七m︑南側〇・七二m︑高さ〇・六五mで︑側壁は基底部から三十cm程垂直に積み上げ︑そこから持ち送って合掌形に天

井部を仕上げ偏平な大石で架構する構造はとっていない︒その上面を東西二m︑南北八mの範囲に偏平な板石で被覆して

いる︒この石室は遺物収納用に設営されたものである︒

︵ 1

○ 天神山古墳は筆者がメスリ山古墳を調査している時に︑緊急に入ってきた古墳であったが鏡二十三面出土するという貴

重な古墳で︑発掘調査はメスリ山古墳と同時期である︒天理市柳本町伊射那岐神社境内に所在し︑行灯山古墳︵崇神天皇

(5)

陵︶の西側で南アンド山・

アンド山古墳などと同じ性

格 ︵ 陪 塚 ︶   の も の と 考 え ら

れる︒全長一一三mの前方

後円墳で︑後円部の径が五

十五m︑高さ七m︑前方部

の幅は五十m︑高さ四mの

規模で主軸を南北方向に築

成している︒段集はなく周

濠痕跡もなく︑埴輪・茸石

の類は検出されなかった︒

竪穴式石室は墳丘主軸に

平行に構築されており︑規

模は全長六・一m︑幅は北

側で一・四m︑高さは一・

四mで巨大な天井石は存在

せ ず

合 掌

形 の

石 室

構 造

で あ

【小泉大塚古墳】

(6)

た︒粘土で基底面を構成し︑

側壁の割石を小口積みに積

み上げ︑その後ろに控え積

みをして補強する手法で構

築している︒壁面は隙間の

多い積み方である︒

石室上面には薄く偏平な

割石を被覆するように置か

れていたようである︒

︵ 1

○ 小泉大塚古墳は大和郡山

【桜井茶臼山古墳】

市小泉町の丘陵上に立地する東に前方部をむけた前方後円墳で︑墳丘は2段築成で茸石︑埴輪の存在は認められなかった︒

その規模は全長八十八m︑後門部の径五十m︑高さ七m︑前方部の幅四十m︑高さ二mの規模を有している︒

竪穴式石室は墳丘主軸に直交して営まれ全長五・八m︑幅北側で一・二m︑南側で〇・七m︑高さは〇・七m〜〇・九

mで︑基底部に粘土のU字床をつくり側壁を六十cm程垂直に積み上げ︑それから天井まで持送り︑合掌形の石室構造をとっ

ている︒石室上面には全長八・五m︑北側で幅四・五m︑南側で四・〇mの隅丸長方形状に割石で被覆している︒

︵ 5

○ 中山大塚古墳は一九八五年︵後円部北側︶一九九〇年︵西側くびれ部︶と一九九三年に主体部の調査が行われた︒所在

地は天理市中山町で︑南西方向に前方部をむけた前長一二〇mの前方後円墳である︒後円部に長さ十二m︑幅二十九mの

(7)
(8)
(9)

張り出し状突出部を付属さ

せ︑後円部は径六十四m︑

高さ十一mで二段に築成さ

れ︑前方部幅五十六mで西

側には地割に周濠痕跡を残

している︒中世山城に利用

され段築部分に濠が掘削さ

れ て

い る

竪 穴 式 石 室 は 南 北 十 七 m ︑

【天神山古墳】

勿 功 り 易 瑠 勿 吠 4 4 オ 豹 1 3

東西十二・一mの墓塙を掘

削し︑墳丘主軸に平行して南北七・五m︑高さ一・八m︑幅北側一・四m︑南側一・三五mの規模で︑粘土でU字床面を

形作り︑割石小口積みで四隅は隅丸の形をとり側壁石を積み上げ︑大きい偏平な天井石を用いるのではなく合掌型に持ち

送られた側壁に小型の石材を使用して天井としている︒石室上面は板石群で︑南北長十一・二m︑東西幅北側三・九m︑

南側四・八mの規模で被覆している︒

以上主体部の構造のみを鴫述したが︑その築造時期については中山大塚古墳からは宮山型特殊器台・特殊埴輪・特殊壷・

二重口緑壷が採集されており︑茶臼山古墳は底部窄孔二重口縁壷が︑小泉大塚古墳・天神山古墳・メスリ山古墳からは古式

の布留式土器の出土をみている︒他の副葬品からみても三世紀末から四世紀中葉までに築造をみる古墳と考え論を進めたい︒

(10)

二 竪穴式石室の研究史

b

竪穴式石室研究については︑一九四一年の小林行雄氏﹁竪穴式石室構造考﹂に始まり︑石部正志氏の﹁古式古墳内部構造

︵ 7

︶  

   

   

   

   

   

   

   

   

   

   

   

   

   

   

   

  ︵

8 ︶

の型式変遷について﹂︑続いて一九六四年に北野耕平氏の﹁前期古墳における内部構造の問題﹂・堅田直氏﹁池田市茶臼山古

g

1 0

1 2

墳の研究﹂で石室基底部の構造に着目された研究が行われるようになり︑以後︑田中勝弘︑山本三郎︑都出比呂志各氏の構

造分類と変遷推移の分析が行われるなど研究の深化がみられた︒

小林氏は石室平面形で竪穴式石室を三分類され構造の特色をあげ︑石部氏はそれを踏襲されて竪穴式石室分類と同様に粘

土郁も分類された︒

石室構造の分類では北野氏が基底面粘土棺床の基礎構造を五型式に分類し︑粘土柳との関係で論じ︑堅田氏は三類に︑田

中氏も三種類に︑山本氏は四型式に分けて︑堅田・田中・山本各氏は変遷も論じている︒

都田氏は粘土棺床を墓場底部に直接設置するもの︑板石を介在させるものをSAI型式︑礫敷式をSB型式に分け︑基台

式をSA2型式とし︑墓場の底をU字形にくぼめそのくぼみに沿って粘土を張り付けたのをSC型式として︑SA2型式を

古く︑SC型式を新しく考える編年的序列を考えた︒

以上のように石室基底面構造の比較検討が多かったようであるが︑最初はこれらの碑石・満などを機能的な排水・耐湿と

り︑ いった観点で考え︑さらに宗教的加鮪といった意味も加えられるようになり︑一九六七年春成秀爾氏の﹁古墳祭式の系譜﹂

の発表で首長霊継承儀礼の場という斬新な発想が登場して︑それに誘発された考えが且られるようになった︒

(11)

このような埋葬主体部を中心とした研究は大きい深化︑発展をとげたが︑その構造をみた場合︑構造形式の相違は明らか

にされるが︑初期竪穴式石室の編年をなし得るような発展段階的な構造の差異や︑発展段階での特性などが明瞭に指摘し得

るものであるのかという問題には疑問を感じざるをえない︒

竪穴式石室構造を検討する場合︑基底部構造のみで決せられるべきものでもなく平面形態︑壁休部・控え積みの手法・石

室横断面形態︑天井部の構造︑石室石材などの総合的考察が必要であろう︒

三 築造時期の整理

本稿で問題としている大和前期古墳の竪穴式石室も︑その築造時期を明らかにして問題の整理をしてみたい︒

︑ ‖

最近全国的に資料を網羅して出版された﹁前方後円墳集成﹂は︑全国的に統一化を図り共通した視点のマニュアルを作成

し十期の編年基準を設けている︒

そのl期としてあげている条件は﹁円筒埴輪はまだみられず︑都月式すなわち特殊器台形埴輪や特殊壷形埴輪をともなう

場合がある︒倣製鏡はなく︑中国鏡のみが副葬されるバチ形の前方部をもつ﹂として︑模式的な古墳に箸墓古墳・中山大塚

古墳をあげている︒そして桜井茶臼山古墳を二期に︑メスリ山古墳を三期に考えている︒これは墳形・埴輪・副葬品の組合

せなどを総合して考え︑最近急速に進んだ円筒埴輪の研究成果も多く勘案されて設定されている︒

筆者はメスリ山古墳の調査報告で︑特殊円筒埴輪の名称で報告したように口緑部がラッパ状に広がった型や︑また受口状

を呈するものがあるところからそれらを特殊器台土器の系統を引くものとして考えたが︑近年西殿塚古墳墳丘外部の調査で

ー10一

(12)

メスリ山古墳出土埴輪と類似の埴輪の出土をみ︑先に特殊器台型埴輪破片の出土をみているところからその二つの共存が認

められた︒さらに中山大塚古墳︑箸墓古墳においても特殊器台型の埴輪片出土が報告されている︒箸墓古墳出土のものは都

月型に属するものであり︑中山大塚古墳のは官山型に属するものと考えられている︒さらに橿原市の弁天塚においても一九

八八年周満都から宮山型に属する特殊器台形土器が出土し︑大和の古墳にも吉備型の特殊器台土器の流入が明確になってき

た︒その流入の時期が問題になるが︑それぞれの型が形成された順序で伝播したと考えるのが妥当な事であろう︒

特殊器台埴輪は伴わなかったが土器の出土をみている古墳は小泉大塚古墳︑天神山古墳である︒小泉大塚古墳出土土器は

竪穴式石室内南壁郡寄りに検出されたもので口径十五聖胴径三十㌢底径五cmの短頸直口壷である︒胴より上半部を据え

たように遺存して︑長宜子孫銘内行花文鏡・内行花文鏡・二仙四獣帯鏡が三方から寄り添うような状態で出土した︒壷は大

︼ 胆 爪

型厚手で口縁b手法で平底という特徴から寺沢薫氏のいう布留0式期段階と考えたいが︑置田雅昭氏も石室が元稲荷古墳に

1 6

共通するところが多いので布留式早葉1という見解を出している︒その他︑短冊型鉄斧も出土している︒天神山古墳では前

方部に試掘溝を墳丘主軸に沿って入れたところ数片の土師器片が検出された︒二重口縁壷の頸部のみであるので全容は不明

であるが︑直口の頸部で外側に屈折し︑外に開く口縁部が欠失している︒外面はへラ磨きされている︑置田氏は布留式早葉

1︑2のいずれかに含めてもよいのではとしている︒

二重口縁式土器の中で︑茶臼山式壷とも言われる前期古墳供献用超大型壷で底部窄孔を施し埴輪の分類にも入れられたり

しているものが︑箸墓古墳と桜井茶臼山古墳から出土をみている︒これの土器としての形式的編年は寺沢氏は箸墓古墳出土

例を様相5︵布留0︶に茶臼山古墳出土例を一形式新しく様相6︵布留1︶の段階に考え︑置田氏は両者の時期差はつけに

くいとし庄内式晩葉としている︒これらを勘案しても

ー11−1

(13)

中山大塚古墳−

︹ 大 王 墓 系 ︺

箸墓古墳−茶臼山古墳−メスリ山古墳 −︵陪 塚︶ 天神山古墳 ︹ 地 方 首 長 墓 系 ︺   小 泉 大 塚 古 墳

といった順序で︑これらの古墳は庄内式期の末葉から布留式古段階の築造と考えたい︒

四 前段階の様相

弥生墳墓に墳丘墓という用語が一般化してきたように︑弥生終末期にやや大型の墳丘規模をもつ長方形・不整方形︑不整

円形また四隅に突出部をもつもの ︵四隅突出型墳丘墓︶や一つ〜二つの突出部をもつものも現れる︒それらの墳丘墓や発生

期古墳の内部施設の殆どは︑土墳墓であり︑組合せ箱式木棺が主流であるが︑緩いカーブをもつ割竹形式のものや組合せ式

箱式石棺もみられる︒

︵ 1

7

こういった趨勢の中で竪穴式石室をもつものも出現している︒岡山県黒宮大塚の場合は床面内法で長さ二・二m︑東側幅

〇・九m︑西側幅〇・八m︑深さ〇・七mで側壁は床面とほぼ同じレベルから積み上げており︑床面には川砂利を断面緩い

U字型に敷き詰められている︒天井石は木蓋と考えられている︑西条五十二号墓も同様木蓋とみられている︒その他︑都月

1 8

坂二号墓は内法長さ二・六五m︑幅〇・九m︑深さ〇・六八mで︑側壁は板石の小口積みで床面には円礫が敷かれ板石四枚

︼ 限 ︻

を立てて棺の押えにしている︒棺蓋は逆U字形の木蓋で石室は四枚の蓋石が架構されていた︒また金敷寺裏山墳丘墓も長さ

二・六m︑幅〇・九m︑深さ〇・七mの規模で蓋石六枚のものであるが︑いずれも長さが二m程度の規模のもので︑前期古

墳時代にみる五mを越える規模の石室とは格段の差異をみせる︒

ー12一一

(14)

朝鮮半島の状況を概観してみても日本で古墳の発生をみる三世紀代は原三国時代後期にあたる︒この時期の半島にみる葬

2 0

制は木棺土墳墓が継続して続いているが︑木榔墓も形式として定着化してきている︒竪穴式石室の出現は四世紀代中葉頃で︑

後妻に石榔墓とみられている金海七山洞十四・二十七・三十五号増などの例をみると︑長さ二・四m︑幅一・四m︵十四号︶

や︑長さ四・一mに幅二・五m ︵三十五号︶と幅が広い平面形で石榔墓になっても木榔墓に共通する平面形がみられる︒こ

のような石榔墓が五世紀初頭まで続く木榔墓の中に浸透して︑五世紀代の大形の竪穴式石榔墓に発展するという状況で︑日

本の前期古墳時代竪穴式石室が半島の影響を直接受けて成立したという見解は無理なように考えられる︒

以上のように弥生墓からの伝統的︑自然発生的な流れの中では︑規模の面での突出した変化や被覆施設構造の相違があげ

られ︑朝鮮半島からの直接的影響等が考えられない現段階は︑かって箸墓古墳や桜井茶臼山古墳などの巨大古墳が︑突然変

異的な形で前期古墳に現れるということで︑そのあり方に疑問が投げかけられたのと同様の状況と考えらえる︒

…13−

五 前期古墳竪穴式石室の諸例

各地域前期古墳の諸例を基底部構造︑壁体構造︑平面形態の三点から比較してみたい︒竪穴式石室構造については前述し

た通り多くの分析が行われているが︑石室壁休部の裏側や墓境まで調査され出したのは最近のことで︑苦の調査事例は石室

側壁内の状況が多いと恩うのでそれを中心に分類したいと思う︒基底部については都出氏のいう粘土棺床を墓墟底部に直接

設置するものと︑複雑になるものの二つが基本的な分類になると考えている︒前者︵Aとした︶について次のような︑a

基底部を直接固めるか粘土を敷いて固める︑b.底部に板石を敷く︑C.底部に礫または河原石を敷く︑d.基底部に緩い

(15)

窪みを造作し︑礫または板石を敷く︑e.a〜dの上に粘土で棺床を作る︑の五タイプ分類を行い︑Aよりは複雑なタイプ

としてBとして墓墳底に礫を敷くタイプで︑都出氏のいうSB型式に属するものを考えた︒前期の石室にはAタイプと考え

られるものが殆どであるのでこの形式が最も古いタイプと考える︒

次に壁体構造であるが︑使用石材に板石︵割石︶と栗石︵河原石︶の区別ができ︑そして天井石を架構するタイプ︵A︶

と合掌形のタイプ︵B︶に大別できる︒Aでは石室横断面の形状でa∵長方形状︵石室高の高いもの︶とb.方形状︵石室

高の低いもの︶︑C.台形状︵上半部に緩い持送りが見られるもの︶︑Bタイプではa.棺高まで垂直で上面持送りで石室高

の高いもの︑b.a同様で石室高の低いもの︑に区分される︒

平面形態では石室角の部分が角に組まれる場合︵A︶と︑隅丸状に組まれる場合︵B︶︑一方が角で︑他方が隅丸という

形 状

︵ C

︶  

に 分

か れ

る ︒

石室上面に板石が被覆されるものと︑されないものの相違も見られる︒

以下表にして一覧して見よう︒

この表で︑それぞれの特性を概観すれば︑I期の特性としてはまとまりが無く石室構造の定型化される以前という様相を

呈している︒しかし弥生終末期にみられた粘土や礫敷の底部に共通する基底部から粘土棺床を形成していく動向は看取され

るのではないかと患う︒壁体構造でも天井石架横と合掌形式は相半ばし︑石室平面形態でも四隅が直角なものと隅丸形式が

相半ばする傾向が見られる︒このように固定化しない種々の様式が混在する姿というか時期がI期の特徴ともいえよう︒Ⅱ・

Ⅲ期になると基底部構造も木棺が安置される粘土床の下部構造にいろいろ設備のみられるものにまとまっていくようで︑壁

体構造も天井石架橋の形態にまとまっていくようである︒平面形態も殆ど直角のものが多くなる傾向が見受けられる︒

14

(16)

時期 古   墳   名 基底部構造 壁 体 構 造 平 面 形 態

a b C d e A a b C B a b A  B  C

I 京都 椿井大 塚山 A        ● ● ●

I 元稲荷 B ● ●

I 香川鶴尾神社 1 A        ● ● ●

I 奥   3 号 A ● ● ●

I 長野弘法山 B    ● k                ? ●

1 岡山岩 島 A ● ? ● ?

I 福岡神蔵 A      ● ? ●

I

I

愛嬢妙見山後円 A        ● k    ● ●

前方 A ● ●

愛知新豊院 2 号 ● k        ?

I 徳島丹 田 B      ● ● ●

Ⅱ 京都寺戸大塚 A      ● ● ●

Ⅱ 長野森将軍塚 ● ● ●

Ⅱ 島根神原神社 B        ● ● ●

Ⅱ 香川爺 ケ松 A ● ● ●

Ⅱ 岐阜 円満寺 A ● ● ●

Ⅱ 大阪 紫金山 A        ● ● ●

Ⅱ 大阪池 田茶 臼山 B        ● ● ●

Ⅱ 滋賀雪野山 A        ● ● ●

Ⅱ 高松 茶臼山 A ● ● ●

Ⅲ 兵庫 萬嶺 山 A        ● ● ●

Ⅲ 大阪忍 ケ岡 A ● ● ●

滋賀瓢箪山中央 A        ● ● ●

西北 A        ● ● ●

大 阪弁 天山 C l A  ● ? ●

Ⅲ 京郡 長法寺南原 A        ● ● ●

Ⅲ 島根造山 3 号 B        ● ● ●

奈良中山大塚 奈良小泉大塚 奈良桜井茶臼山 奈良メスリ山主 副 奈良天神山

A    ● A    ● A  ● A    ●

B●

B●

一15−

(17)

これらの傾向を大和の前期古墳石室に照合してみるとI期にみられたa基底面を直接固めるとか粘土を敷いて固めるとい

う手法は︑Ⅲ期になっても副室︵メスリ山古墳︶或は陪塚主体部︵天神山古墳︶には採用されており︑I〜Ⅲ期の主体郡石

室は板石を敷いて棺床とする桜井茶臼山古墳のような例もあるが︑粘土で固め粘土棺床を上面に設営する手法がとられてい

るようである︒合掌形の壁体構造はI期では主体部石室に採用されているが︑Ⅲ期では副室・陪塚主体部にみられる構造で︑

主石室構造は天井石架構で横断面長方形状をなすのが主流となっているようである︒平面形態も隅丸状と角状の混在︵I・

Ⅱ期︶から角状︵Ⅲ期︶に変化していっているようである︒

ま   と   め

大和の古墳時代前期竪穴式石室構造も種々バラエティに富んでいるように見えたが︑全国に存在する前期石室構造の趨勢

を要約するような形で存在している︒

弥生墳丘墓からの段階的︑継続的な姿というよりは飛躍的な石室構造への発展という姿が伺えるので︑その契機といった

ものが何であったのか問題であろう︒

政治・社会・経済の発展や支配構造の変化などに大きい原因の存在することは言うまでもないが︑本稿で問題としたのは︑

埋葬主体部が形態的にこの段階で︑長大化した竪穴式石櫛という形で顕現されていることである︒

最近竪穴式石榔といわれるように石室から石榔への呼称の変化が見受けられる︑過去の棺榔論争ではないが︑この用語の

使用は棺を基本にした機能を元としている︑石室最大化の問題も︑棺を基本的に考えなければならない問題であると考える︒

(18)

棺の問題では前期古墳にあっては割竹形木棺が従来の認識である︑しかし木棺の完全な遺存例はなく︑棺床或は粘土床の横

断面がU字床になっているところから大木を半裁した割竹形木棺という判断がなされていた︒

権力の増大化︑副葬品の増加︑葬喪儀礼の政治化といったような要素が重なって古墳時代に入って長大化した木棺が使用

されるようになったのであろう︒五mを越す木棺を製作する技術は︑判舟をつくる技術に共通するものがある︒縄文時代に

すでに出土例も見られ︑弥生時代には複材到船の可能性が考えられており︑大阪平野での出土例に見る規模でも五m前後の

︵ 2

1 ︶

ものから十一mのものまで存在している事実︑それらの基本形に割竹型が考えられるから︑前代からすでにその技術的なも

のは存在していたと考えられ︑新技術の導入をみなくても木棺製作は容易に可能であった状況である︒そしてその長大な木

棺を被覆する施設としての石櫛が生み出されたと考えるのが自然である︒櫛の構造についてはI期の石柳にみられる多様性

が初期様相であり︑試行錯誤を経て定型化の方向に進んだものと考える︒その築成過程において寿陵の問題も勘案しなけれ

ばならない︒墳丘及び埋葬主体部のどの段階までを構築したかが問題で︑木棺を安置してから壁面を構築するとする考えと︑

木棺高まで壁面を構築しておき︑木棺安置後持送りながら石榔上面を構築するという段階が考えられる︒

メスリ山古墳では副室の設備︑天神山古墳は陪塚と言う問題も提示している︒古墳副葬品の副葬位置は︑最初は被葬者の

身につけるものとその周辺に副葬されたものであろうが︑副葬品の増加︑棺構造の変化︵最大化︶などで︑盗掘の厄に会っ

2 2

ていなかった滋賀県雪野山古墳例などでみれば︑身辺以外に木棺内の仕切り板で区切られた遺体前後の空間と︑棺外の蓋上

及び棺側の位置が副葬位置となっている︒石榔内に埋納し尽くされない場合︑或いは性格を異にする副葬品の場合︑遺体埋

納施設である主榔以外の所に設置しなければならず︑それらが主室の周辺部に︑次段階になると恩うが墳丘内の別位置︵く

びれ部・前方部︶に設営されることになる︒さらに拡大化して別の墳丘を構築して陪塚として群構成をとる姿がメスリ山・

〜17−

(19)

天神山古墳段階で現れているものと考えたい︒数少ない調査事例ではあるが大王墓クラス︵茶臼山・メスリ山・天神山古墳

︵陪塚︶︶の推移と︑それに平行する時期の地域首長クラス例︵小泉大塚古墳︶︑大王墓に連なると考えられる︵中山大塚

古墳︶初期の構造など︑古墳時代を形成していく初段階の埋葬主体部研究の好資料といえる︒大和の古墳時代特に初期の段

階では︑古墳祭式が定着化する段階までは各地域の様相︑独創的な企画など錯綜した姿で︑葬喪祭式が形成される状況を物

語っているものと考える︒

︹ 註 ︺

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﹁桜井茶臼山古墳﹂﹃奈良県史跡名勝天然記念物調査報告書﹄笥二九冊奈良県教育委員会一九六一年

﹁メスリ山古墳﹂﹃奈良県史跡名勝天然記念物調査報告﹄第三五冊奈良県橿原考古学研究所編一九七七年

﹁大和天神山古墳﹂﹃奈良県史跡名勝天然記念物調査報告﹄第二二冊橿原考古学研究所編一九六三年

﹃奈良県史跡名勝天然記念物調査報告﹄第二三冊﹁小泉狐塚・大塚古墳﹂奈良県教育委員会一九六六年

﹁中山大塚古墳﹂﹃大和を掘るー一九九三年度発掘調査速報展﹄奈良県立橿原考古学研究所付属博物館一九九四年

小林行雄﹁竪穴式石室構造考﹂﹃紀元二千六百年記念史学論文集﹄京都帝国大学文学部一九四一年

石部正志﹁古式墳内部構造の形式変遷について﹂﹃古代学研究﹄第一〇号一九五四年

北野耕平﹁前期古墳における内部構造の問題﹂﹃河内における古墳の調査﹄大阪大学文学部国史研究室研究報告第一冊一九六四年

堅田 直﹃池田市茶臼山古墳の研究﹄大阪古文化研究会一九六四年

田中勝弘﹁前期古墳の竪穴式石室構造について﹂﹃史想﹄第一六号一九七三年

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(20)

︵11︶ 山本三郎﹁畿内における古墳時代の政治動向についての一視点1埋葬施設の構造を中心として−﹂﹃ヒストリア﹄第八七号

一 九 八 〇 年

︵12︶ 都出比呂志﹁埴輪編年と前期古墳の新音﹂﹃小野山節編・王陵の比較研究∈京都大学文学部考古学研究室一九八一年

都出比呂志﹃竪穴式石室の地域性の研究﹄大阪大学文学部国史研究室一九八六年

︵13︶ 春成秀爾﹁古墳祭式の系譜﹂﹃歴史手帳﹄四巻七号一九七六年

︵14︶ 近藤義郎編﹃前方後円墳集成﹄全五巻一九九一年〜一九九四年

︵15︶ 寺沢 薫﹁畿内古式土師器の編年と二・三の問題﹂﹃矢部遺跡﹄奈良県史跡名勝天然記念物調査報告第四九冊一九八六年

︵16︶ 置田雅昭﹁古式土師器研究−最初の布留式土器﹂﹃天理大学学報﹄第一五七号

︵17︶ ﹁岡山県真備町黒宮大塚古墳﹂﹃倉敷考古館研究集報﹄第一三号一九七七年

︵18︶ ﹁都月坂二号弥生墳丘墓﹂﹃岡山県史−考古資料﹄第一八巻一九八六年

︵19︶ ﹁岡山県井原市金敷寺裏山古墳﹂﹃倉敷考古館研究集報﹄第五号一九六八年

︵20︶ 金 元龍﹁考古学より見た伽耶﹂﹃伽耶文化展﹄一九九二年

︵21︶ 辻尾栄市﹁古代なにわ 舟の考察﹂﹃郵政考古紀要﹄Ⅳ一九八一年

︵22︶ ﹃雪野山古墳﹄雪野山古墳発掘調査団一九九〇年

表に記載した古墳の報告書類は紙数の都合上割愛させていただきます︒

※挿図トレースについては村杜仁史氏の手をわずらわせた︒記して謝したい︒

︵花園大学文学部︶

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参照

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